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title: "長阿含經 · 9 眾集經"
description: "長阿含經是佛教原始經典四阿含之一，由後秦時期譯師佛陀耶舍與竺佛念共同譯出。該經成書於公元前1世紀左右，屬早期佛教根本聖典，記載了佛陀與弟子們的言行教法。全經共30卷，分為四分，主要內容包括佛陀生平、教義闡述、修行方法及宇宙觀等，系統性保存了原始佛教的基本教理。作為漢傳佛教重要典籍，長阿含經被視為研究原始佛教思想的核心文獻，在佛教經典體系中具有不可替代的權威地位，對後世佛教發展影響深遠。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm95s9hnj03q4jz0ug7wtcj5m"
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### （九）佛說長阿含第二分眾集經第五

> （九）仏が説かれた長阿含経第二分・衆集経第五

如是我聞：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛於末羅遊行，與千二百五十比丘俱，漸至波婆城闍頭菴婆園。

> ある時、お釈迦さまは千二百五十人の比丘たちとともに末羅国を巡り、次第に波婆城の闍頭菴婆園に到られました。

爾時，世尊以十五日月滿時，於露地坐，諸比丘僧前後圍繞。世尊於夜多說法已，告舍利弗言：「今者四方諸比丘集，皆共精勤，捐除睡眠，吾患背痛，欲暫止息，汝今可為諸比丘說法。」

> その時、世尊は満月の夜、露地に座し、比丘たちが前後に取り囲んでいた。世尊は夜遅くまで説法をし、それから舎利弗に告げられた。「今、四方から比丘たちが集まり、皆、精進して眠気を払っている。私は背中が痛むので、しばらく休みたい。あなたが今、比丘たちに説法をしなさい。」

對曰：「唯然！當如聖教。」

> お答えします：「はい、承知いたしました。お教えの通りにいたします。」

爾時，世尊即四牒僧伽梨，偃右脇如師子，累足而臥。

> その時、世尊は衣を四つに折り、獅子のように右脇を下にして、足を揃えて横たわられた。

時，舍利弗告諸比丘：「今此波婆城有尼乾子命終未久，其後弟子分為二部，常共諍訟相求長短，迭相罵詈，各相是非：『我知此法，汝不知此；汝在邪見，我在正法。言語錯亂，無有前後。』自稱己言，以為真正。『我所言勝，汝所言負，我今能為談論之主，汝有所問，可來問我。』

> 舎利弗は比丘たちに告げた。「今、波婆城に尼乾子が亡くなって間もないが、その弟子たちは二つのグループに分かれ、常に争いを繰り返し、互いの欠点を探し合い、罵り合い、互いを否定し合っている。『私はこの法を知っているが、あなたは知らない。あなたは邪見にあり、私は正法にいる』と。言葉は乱れ、前後関係もない。自分たちの言葉を正しいと自称し、『私の言うことが勝ちで、あなたの言うことは負けだ。私は今、議論の主となることができる。あなたが質問があれば、私に尋ねてくるがよい』と言っている。」

「諸比丘！時，國人民奉尼乾者，厭患此輩鬪訟之聲，皆由其法不真正故；法不真正無由出要，譬如朽塔不可復圬，此非三耶三佛所說。諸比丘！唯我釋迦無上尊法，最為真正可得出要，譬如新塔易可嚴飾，此是三耶三佛之所說也。諸比丘！我等今者，宜集法、律，以防諍訟，使梵行久立，多所饒益，天、人獲安。諸比丘！如來說一正法，一切眾生皆仰食存。如來所說復有一法，一切眾生皆由行往，是為一法如來所說，當共集之，以防諍訟，使梵行久立，多所饒益，天、人獲安。

> 諸比丘よ、その時、国中の人々が尼乾子（ジャイナ教徒）を信奉していましたが、彼らの争いや訴訟の声にうんざりしていました。それは彼らの教えが真実でないからです。教えが真実でなければ、解脱の道は開けません。たとえば、朽ちた塔はもう塗り直せないようなものです。これは正等覚者（仏陀）が説いたものではありません。 諸比丘よ、ただ我ら釈迦の無上の尊い教えこそが、最も真実であり、解脱の道を得ることができます。たとえば、新しい塔は容易に美しく飾ることができるようなものです。これこそが正等覚者の説かれた教えなのです。 諸比丘よ、我々は今、法と律を結集し、争いを防がなければなりません。そうして清らかな行いが長く保たれ、多くの人々に利益をもたらし、天界の者も人間も安らぎを得られるようにするためです。 諸比丘よ、如来は一つの正しい法を説かれました。一切の衆生は皆、食物によって生きています。また、如来はもう一つの法を説かれました。一切の衆生は皆、行為（行）によって赴きます。これらが如来の説かれた一つの法です。我々は共にこれを結集し、争いを防ぎ、清らかな行いが長く保たれ、多くの人々に利益をもたらし、天界の者も人間も安らぎを得られるようにしましょう。

「諸比丘！如來說二正法：一名，二色。復有二法：一癡，二愛。復有二法：有見、無見。復有二法：一無慚，二無愧。復有二法：一有慚，二有愧。復有二法：一盡智，二無生智。復有二法，二因二緣生於欲愛：一者淨妙色，二者不思惟。復有二法，二因二緣生於瞋恚：一者怨憎，二者不思惟。復有二法，二因二緣生於邪見：一者從他聞，二者邪思惟。復有二法，二因二緣生於正見：一者從他聞，二者正思惟。復有二法，二因二緣：一者學解脫，二者無學解脫。復有二法，二因二緣：一者有為界，二者無為界。諸比丘！是為如來所說，當共撰集以防諍訟，使梵行久立，多所饒益，天、人獲安。

> 諸比丘よ。如来は二つの正しい法を説く。一つは名であり、一つは色である。 さらに二つの法がある。一つは無明であり、一つは愛である。 さらに二つの法がある。有の見解と無の見解である。 さらに二つの法がある。一つは慚なく、一つは愧ないことである。 さらに二つの法がある。一つは慚あり、一つは愧あることである。 さらに二つの法がある。一つは煩悩の尽きた智であり、一つは新たな生まれのない智である。 さらに二つの法がある。二つの原因と縁によって欲愛が生じる。一つは清らかで美しい色であり、一つは正しく思惟しないことである。 さらに二つの法がある。二つの原因と縁によって瞋恚が生じる。一つは怨み憎む心であり、一つは正しく思惟しないことである。 さらに二つの法がある。二つの原因と縁によって邪見が生じる。一つは他者から誤ったことを聞くことであり、一つは邪な思惟である。 さらに二つの法がある。二つの原因と縁によって正見が生じる。一つは他者から正しいことを聞くことであり、一つは正しい思惟である。 さらに二つの法がある。二つの原因と縁がある。一つは学びつつある解脱であり、一つは学ぶことのない解脱である。 さらに二つの法がある。二つの原因と縁がある。一つは有為の世界であり、一つは無為の世界である。 諸比丘よ。これが如来の説かれたことである。共に集めて記し、諍いを防ぎ、清らかな行いを長く保ち、多くの利益をもたらし、天と人々に安らぎを得させなさい。

「諸比丘！如來說三正法，謂三不善根：一者貪欲，二者瞋恚，三者愚癡。復有三法，謂三善根：一者不貪，二者不恚，三者不癡。復有三法，謂三不善行：一者不善身行，二者不善口行，三者不善意行。復有三法，謂三不善行：身不善行、口不善行、意不善行。復有三法，謂三惡行：身惡行、口惡行、意惡行。復有三法，謂三善行：身善行、口善行、意善行。復有三法，謂三不善想：欲想、瞋想、害想。復有三法，謂三善想：無欲想、無瞋想、無害想。復有三法，謂三不善思：欲思、恚思、害思。復有三法，謂三善思：無欲思、無恚思、無害思。

> 諸比丘よ、如来は三つの正しい法を説かれます。それは三つの不善の根です。一つは貪欲、二つは瞋恚、三つは愚癡です。 また三つの法があります。それは三つの善の根です。一つは貪らないこと、二つは怒らないこと、三つは愚かでないことです。 また三つの法があります。それは三つの不善な行いです。一つは不善な身体の行い、二つは不善な言葉の行い、三つは不善な心の行いです。 また三つの法があります。それは三つの不善な行いです。身体の不善行、言葉の不善行、心の不善行です。 また三つの法があります。それは三つの悪い行いです。身体の悪行、言葉の悪行、心の悪行です。 また三つの法があります。それは三つの善い行いです。身体の善行、言葉の善行、心の善行です。 また三つの法があります。それは三つの不善な想いです。欲の想い、怒りの想い、害の想いです。 また三つの法があります。それは三つの善い想いです。欲なき想い、怒りなき想い、害なき想いです。 また三つの法があります。それは三つの不善な思いです。欲の思い、怒りの思い、害の思いです。 また三つの法があります。それは三つの善い思いです。欲なき思い、怒りなき思い、害なき思いです。

「復有三法，謂三福業：施業、平等業、思惟業。復有三法，謂三受：樂受、苦受、不苦不樂受。復有三法，謂三愛：欲愛、有愛、無有愛。復有三法，謂三有漏：欲漏、有漏、無明漏。復有三法，謂三火：欲火、恚火、愚癡火。復有三法，謂三求：欲求、有求、梵行求。復有三法，謂三增盛：我增盛、世增盛、法增盛。復有三法，謂三界：欲界、恚界、害界。復有三法，謂三界：出離界、無恚界、無害界。復有三法，謂三界：色界、無色界、盡界。復有三法，謂三聚：戒聚、定聚、慧聚。復有三法，謂三戒：增盛戒、增盛意、增盛慧。

> また三つの法がある。それは三つの福業である：施しの業、平等の業、思惟の業。 また三つの法がある。それは三つの受である：楽の受、苦の受、苦でも楽でもない受。 また三つの法がある。それは三つの愛である：欲の愛、存在への愛、無有への愛。 また三つの法がある。それは三つの有漏である：欲の漏、存在の漏、無明の漏。 また三つの法がある。それは三つの火である：欲の火、怒りの火、愚かさの火。 また三つの法がある。それは三つの求である：欲の求、存在の求、清らかな行いの求。 また三つの法がある。それは三つの増盛である：我の増盛、世の増盛、法の増盛。 また三つの法がある。それは三つの界である：欲の界、怒りの界、害の界。 また三つの法がある。それは三つの界である：出離の界、無怒りの界、無害の界。 また三つの法がある。それは三つの界である：色の界、無色の界、尽きる界。 また三つの法がある。それは三つの聚である：戒の聚、定の聚、慧の聚。 また三つの法がある。それは三つの戒である：増盛の戒、増盛の意、増盛の慧。

「復有三法，謂三三昧：空三昧、無願三昧、無相三昧。復有三法，謂三相：止息相、精勤相、捨相。復有三法，謂三明：自識宿命智明、天眼智明、漏盡智明。復有三法，謂三變化：一者神足變化，二者知他心隨意說法，三者教誡。復有三法，謂三欲生本：一者由現欲生人天，二者由化欲生化自在天，三者由他化欲生他化自在天。復有三法，謂三樂生：一者眾生自然成辦，生歡樂心，如梵光音天初始生時。二者有眾生以念為樂，自唱善哉，如光音天。三者得止息樂，如遍淨天。

> また三つの法がある。三三昧という。空三昧、無願三昧、無相三昧である。 また三つの法がある。三相という。止息相、精勤相、捨相である。 また三つの法がある。三明という。自ら宿命を識る智明、天眼智明、漏尽智明である。 また三つの法がある。三変化という。一つは神足変化、二つ目は他者の心を知り意のままに説法すること、三つ目は教え戒めることである。 また三つの法がある。三欲生本という。一つは現世の欲望によって人や天に生まれること、二つ目は変化の欲望によって化自在天に生まれること、三つ目は他者の化す欲望によって他化自在天に生まれることである。 また三つの法がある。三楽生という。一つは衆生が自然に成し遂げられ、歓楽の心を生じること。梵光音天の最初に生まれた時のようである。二つ目は、念ずることを楽しみとする衆生があり、自ら「善きかな」と唱えること。光音天のようである。三つ目は、止息の楽を得ること。遍浄天のようである。

「復有三法，謂三苦：行苦、苦苦、變易苦。復有三法，謂三根：未知欲知根、知根、知已根。復有三法，謂三堂：賢聖堂、天堂、梵堂。復有三法，謂三發：見發、聞發、疑發。復有三法，謂三論：過去有如此事，有如是論；未來有如此事，有如是論；現在有如此事，有如是論。復有三法，謂三聚：正定聚、邪定聚、不定聚。復有三法，謂三憂：身憂、口憂、意憂。復有三法，謂三長老：年耆長老、法長老、作長老。復有三法，謂三眼：肉眼、天眼、慧眼。諸比丘！是為如來所說正法，當共撰集，以防諍訟，使梵行久立，多所饒益，天、人獲安。

> また三つの法がある。三苦という：行苦、苦苦、変易苦である。 また三つの法がある。三根という：未知欲知根、知根、知已根である。 また三つの法がある。三堂という：賢聖堂、天堂、梵堂である。 また三つの法がある。三発という：見発、聞発、疑発である。 また三つの法がある。三論という：過去にはこのような事があり、このような論がある；未来にはこのような事があり、このような論がある；現在にはこのような事があり、このような論がある。 また三つの法がある。三聚という：正定聚、邪定聚、不定聚である。 また三つの法がある。三憂という：身憂、口憂、意憂である。 また三つの法がある。三長老という：年耆長老、法長老、作長老である。 また三つの法がある。三眼という：肉眼、天眼、慧眼である。 比丘たちよ、これらは如来の説かれた正しい法である。共に集めてまとめ、争いを防ぎ、清らかな行いを長く保ち、多くの利益をもたらし、天界と人間界に安らぎを得させなさい。

「諸比丘！如來說四正法，謂口四惡行：一者妄語，二者兩舌，三者惡口，四者綺語。復有四法，謂口四善行：一者實語，二者軟語，三者不綺語，四者不兩舌。

> 諸比丘よ、如来は四つの正しい法を説く。それは、口による四つの悪い行いである。第一に、嘘をつくこと。第二に、二枚舌を使うこと。第三に、乱暴な言葉を使うこと。第四に、無駄な飾り言葉を使うこと。 また、四つの法がある。それは、口による四つの善い行いである。第一に、真実を語ること。第二に、優しい言葉を使うこと。第三に、無駄な飾り言葉を使わないこと。第四に、二枚舌を使わないこと。

「復有四法，謂四不聖語：不見言見，不聞言聞，不覺言覺，不知言知。復有四法，謂四聖語：見則言見，聞則言聞，覺則言覺，知則言知。復有四法，謂四種食：摶食、觸食、念食、識食。復有四法，謂四受：有現作苦行後受苦報；有現作苦行後受樂報；有現作樂行後受苦報；有現作樂行後受樂報。復有四法，謂四受：欲受、我受、戒受、見受。復有四法，謂四縛：貪欲身縛、瞋恚身縛、戒盜身縛、我見身縛。

> また四つの法がある。それは四つの聖ならざる語である。見ていないのに見たと言い、聞いていないのに聞いたと言い、覚えていないのに覚えたと言い、知らないのに知っていると言うことである。 また四つの法がある。それは四つの聖なる語である。見たならば見たと言い、聞いたならば聞いたと言い、覚えたならば覚えたと言い、知っているならば知っていると言うことである。 また四つの法がある。それは四種の食である。摶食（物質的な食物）、触食（感覚による栄養）、念食（意思による栄養）、識食（認識による栄養）である。 また四つの法がある。それは四つの報いである。今苦行を行って後に苦の報いを受けるもの、今苦行を行って後に楽の報いを受けるもの、今楽を行って後に苦の報いを受けるもの、今楽を行って後に楽の報いを受けるものである。 また四つの法がある。それは四つの執着である。欲への執着、我への執着、戒への執着、見解への執着である。 また四つの法がある。それは四つの束縛である。貪欲による身体の束縛、瞋恚による身体の束縛、戒律への固執による身体の束縛、我見による身体の束縛である。

「復有四法，謂四刺：欲刺、恚刺、見刺、慢刺。復有四法，謂四生：卵生、胎生、濕生、化生。復有四法，謂四念處；於是，比丘內身身觀，精勤不懈，憶念不忘，捨世貪憂；外身身觀，精勤不懈，憶念不忘，捨世貪憂；內外身身觀，精勤不懈，憶念不忘，捨世貪憂。受、意、法觀，亦復如是。復有四法，謂四意斷；於是，比丘未起惡法，方便使不起；已起惡法，方便使滅；未起善法，方便使起；已起善法，方便思惟，使其增廣。

> また四つの法がある。それは四つの棘である：欲の棘、怒りの棘、見解の棘、慢心の棘である。 また四つの法がある。それは四つの生まれ方である：卵生、胎生、湿生、化生である。 また四つの法がある。それは四つの念処である。すなわち、比丘は内なる身体について身体を観察し、精進して怠らず、心に明記して忘れず、世間の貪りと憂いを捨てる。外なる身体について身体を観察し、精進して怠らず、心に明記して忘れず、世間の貪りと憂いを捨てる。内と外の身体について身体を観察し、精進して怠らず、心に明記して忘れず、世間の貪りと憂いを捨てる。感受、心、法について観察するのも、同様である。 また四つの法がある。それは四つの正勤である。すなわち、比丘はまだ起こっていない悪い法については、方便を用いて起こらないようにする。すでに起こった悪い法については、方便を用いて滅ぼす。まだ起こっていない善い法については、方便を用いて起こす。すでに起こった善い法については、方便を用いて思惟し、それを増し広げる。

「復有四法，謂四神足；於是，比丘思惟欲定滅行成就；精進定、意定、思惟定，亦復如是。復有四法，謂四禪；於是，比丘除欲、惡不善法，有覺、有觀，離生喜、樂，入於初禪。滅有覺、觀，內信、一心，無覺、無觀，定生喜、樂，入第二禪。離喜修捨、念、進，自知身樂，諸聖所求，憶念、捨、樂，入第三禪。離苦、樂行，先滅憂、喜、不苦不樂、捨、念、清淨，入第四禪。復有四法，謂四梵堂：一慈、二悲、三喜、四捨。復有四法，謂四無色定；於是，比丘越一切色想，先盡瞋恚想，不念異想，思惟無量空處，捨空處已入識處，捨識處已入不用處，捨不用處已入有想無想處。

> また四つの法がある。これを四神足という。すなわち、比丘は欲によって定を思い、行を完成する。精進によって定を思い、意によって定を思い、思惟によって定を思い、これらもまた同様である。 また四つの法がある。これを四禅という。すなわち、比丘は欲と悪しき不善の法を除き、覚と観を有し、離れて生じた喜と楽をもって、初禅に入る。覚と観を滅し、内に信と一心を保ち、覚なく観なく、定によって生じた喜と楽をもって、第二禅に入る。喜を離れて捨と念と進を修め、自ら身の楽を知り、諸聖の求める所となり、憶念と捨と楽をもって、第三禅に入る。苦と楽の行を離れ、先に憂と喜を滅し、苦もなく楽もなく、捨と念と清浄をもって、第四禅に入る。 また四つの法がある。これを四梵堂という。一つは慈、二つは悲、三つは喜、四つは捨である。 また四つの法がある。これを四無色定という。すなわち、比丘は一切の色想を超え、先に瞋恚の想を尽くし、異なる想を念じず、無量の空処を思惟する。空処を捨てて識処に入り、識処を捨てて不用処に入り、不用処を捨てて有想無想処に入る。

「復有四法，謂四法足：不貪法足、不瞋法足、正念法足、正定法足。復有四法，謂四賢聖族；於是，比丘衣服知足，得好不喜，遇惡不憂，不染不著，知所禁忌，知出要路，於此法中精勤不懈，成辦其事，無闕無減，亦能教人成辦此事，是為第一知足住賢聖族。從本至今，未常惱亂；諸天、魔、梵、沙門、婆羅門、天及世間人，無能毀罵；飯食、牀臥具、病瘦醫藥，皆悉知足，亦復如是。復有四法，謂四攝法：惠施、愛語、利人、等利。復有四法，謂四須陀洹支：比丘於佛得無壞信，於法、於僧、於戒得無壞信。復有四法，謂四受證：見色受證、身受滅證、念宿命證、知漏盡證。復有四法，謂四道：苦遲得、苦速得、樂遲得、樂速得。

> また四つの法がある。これを四法足という。すなわち、貪らない法足、怒らない法足、正しい気づきの法足、正しい集中の法足である。 また四つの法がある。これを四賢聖族という。すなわち、比丘は衣服について足るを知り、良いものに出会っても喜ばず、悪いものに出会っても憂えず、染まらず執着せず、慎むべきことを知り、解脱への道を知る。この法において精進して怠らず、その務めを成し遂げ、欠けることも減ることもなく、また人に教えてこのことを成し遂げさせる。これが第一の足るを知って住む賢聖の族である。昔から今まで、常に悩ませ乱すことがなく、諸天、魔、梵天、沙門、婆羅門、天および世間の人も、そしり罵ることができない。食事、寝具、病気の際の医薬についても、すべて足るを知る。これもまた同じである。 また四つの法がある。これを四摂法という。すなわち、施し、優しい言葉、人のために尽くすこと、平等の利益である。 また四つの法がある。これを四須陀洹支という。すなわち、比丘は仏に対して壊れない信を得、法に対して、僧に対して、戒に対して壊れない信を得る。 また四つの法がある。これを四受証という。すなわち、色を見る受証、身の受が滅する証、宿命を念ずる証、漏れが尽きることを知る証である。 また四つの法がある。これを四道という。すなわち、苦しくて遅く得る道、苦しくて速く得る道、楽しくて遅く得る道、楽しくて速く得る道である。

「復有四法，謂四聖諦：苦聖諦、苦集聖諦、苦滅聖諦、苦出要聖諦。復有四法，謂四沙門果：須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果。復有四法，謂四處：實處、施處、智處、止息處。復有四法，謂四智：法智、未知智、等智、知他人心智。復有四法，謂四辯才：法辯、義辯、詞辯、應辯。復有四法，謂四識住處：色識住、緣色、住色，與愛俱增長，受、想、行識中亦如是住。復有四法，謂四扼：欲扼、有扼、見扼、無明扼。復有四法，謂四無扼：無欲扼、無有扼、無見扼、無無明扼。

> また四つの法があります。それは四聖諦と呼ばれるものです。苦の聖諦、苦の集まりの聖諦、苦の滅びの聖諦、苦からの脱出の道の聖諦です。 また四つの法があります。それは四沙門果と呼ばれるものです。須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果です。 また四つの法があります。それは四処と呼ばれるものです。真実の境地、布施の境地、智慧の境地、静寂の境地です。 また四つの法があります。それは四智と呼ばれるものです。法を悟る智、未だ知らざることを知る智、平等の智、他者の心を知る智です。 また四つの法があります。それは四弁才と呼ばれるものです。法を説く弁才、意味を明らかにする弁才、言葉を巧みに用いる弁才、状況に応じて説く弁才です。 また四つの法があります。それは四識住処と呼ばれるものです。色に執着する識が、色を縁として、色にとどまり、愛と共に増長する。受、想、行の識においても、同様にとどまるのです。 また四つの法があります。それは四軛と呼ばれるものです。欲望の軛、存在への執着の軛、誤った見解の軛、無明の軛です。 また四つの法があります。それは四無軛と呼ばれるものです。欲望の軛からの解放、存在への執着の軛からの解放、誤った見解の軛からの解放、無明の軛からの解放です。

「復有四法，謂四淨：戒淨、心淨、見淨、度疑淨。復有四法，謂四知：可受知受、可行知行、可樂知樂、可捨知捨。復有四法，謂四威儀：可行知行、可住知住、可坐知坐、可臥知臥。復有四法，謂四思惟：少思惟、廣思惟、無量思惟、無所有思惟。復有四法，謂四記論：決定記論，分別記論、詰問記論、止住記論。復有四法，謂佛四不護法；如來身行清淨，無有闕漏，可自防護；口行清淨、意行清淨、命行清淨，亦復如是。是為如來所說正法，當共撰集，以防諍訟，使梵行久立，多所饒益，天、人獲安。

> さらに四つの法がある。これを四つの清らかさという。戒めの清らかさ、心の清らかさ、見解の清らかさ、疑いを越えた清らかさである。 さらに四つの法がある。これを四つの知恵という。受け入れるべきことを受け入れると知り、行うべきことを行うと知り、楽しむべきことを楽しむと知り、捨てるべきことを捨てると知る。 さらに四つの法がある。これを四つの威儀という。歩くべき時に歩くと知り、立つべき時に立つと知り、座るべき時に座ると知り、臥すべき時に臥すと知る。 さらに四つの法がある。これを四つの思惟という。小さな思惟、広大な思惟、無量の思惟、無所有の思惟である。 さらに四つの法がある。これを四つの記論という。決定の記論、分別の記論、詰問の記論、止住の記論である。 さらに四つの法がある。これを仏の四つの護らぬ法という。如来の身の行いは清らかで、欠けや漏れがなく、自ら防ぎ護ることができる。口の行いの清らかさ、意の行いの清らかさ、命の行いの清らかさも、また同じである。 これが如来の説かれた正しい法である。共に集めてまとめ、諍いを防ぎ、清らかな行いを長く保ち、多くの利益をもたらし、天と人々に安らぎを得させるためである。

「又，諸比丘！如來說五正法，謂五入：眼色、耳聲、鼻香、舌味、身觸。復有五法，謂五受陰：色受陰，受、想、行、識受陰。復有五法，謂五蓋：貪欲蓋、瞋恚蓋、睡眠蓋、掉戲蓋、疑蓋。復有五法，謂五下結：身見結、戒盜結、疑結、貪欲結、瞋恚結。復有五法，謂五上結：色愛、無色愛、無明、慢、掉。復有五法，謂五根：信根、精進根、念根、定根、慧根。復有五法，謂五力：信力、精進力、念力、定力、慧力。

> また、比丘たちよ、如来は五つの正しい法を説く。それは五つの「入」である。眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触である。 また五つの法がある。それは五つの「受陰」である。色の受陰、受の受陰、想の受陰、行の受陰、識の受陰である。 また五つの法がある。それは五つの「蓋」である。貪欲の蓋、瞋恚の蓋、睡眠の蓋、掉戯の蓋、疑いの蓋である。 また五つの法がある。それは五つの「下結」である。身見の結、戒盗の結、疑いの結、貪欲の結、瞋恚の結である。 また五つの法がある。それは五つの「上結」である。色への愛着、無色への愛着、無明、慢心、掉挙である。 また五つの法がある。それは五つの「根」である。信の根、精進の根、念の根、定の根、慧の根である。 また五つの法がある。それは五つの「力」である。信の力、精進の力、念の力、定の力、慧の力である。

「復有五法，謂滅盡枝：一者比丘信佛、如來、至真、等正覺，十號具足。二者比丘無病，身常安隱。三者質直無有諛諂，能如是者，如來則示涅槃徑路。四者自專其心，使不錯亂，昔所諷誦，憶持不忘。五者善於觀察法之起滅，以賢聖行，盡於苦本。復有五法，謂五發：非時發、虛發、非義發、虛言發、無慈發。復有五法，謂五善發：時發、實發、義發、和言發、慈心發。復有五法，謂五憎嫉：住處憎嫉、檀越憎嫉、利養憎嫉、色憎嫉、法憎嫉。

> また五つの法がある。それは滅尽の支えである。 第一に、比丘は仏を信じる。如来、至真、等正覚であり、十の尊称を具えていると。 第二に、比丘は病なく、身は常に安穏である。 第三に、質直で諂うことなく、このようにあるならば、如来は涅槃への道を示される。 第四に、自ら心を専らにして乱れず、かつて誦したことを憶持して忘れない。 第五に、法の起こりと滅びをよく観察し、賢聖の行いによって苦の根本を尽くす。 また五つの法がある。それは五つの発言である。時ならぬ発言、虚ろな発言、義に合わぬ発言、虚言の発言、慈しみなき発言。 また五つの法がある。それは五つの善き発言である。時宜を得た発言、真実の発言、義にかなった発言、和やかな言葉の発言、慈心の発言。 また五つの法がある。それは五つの憎み嫉む心である。住処への憎み嫉み、檀越への憎み嫉み、利養への憎み嫉み、容色への憎み嫉み、法への憎み嫉み。

「復有五法，謂五趣解脫：一者身不淨想，二者食不淨想，三者一切行無常想，四者一切世間不可樂想，五者死想。復有五法，謂五出要界：一者比丘於欲不樂、不動，亦不親近，但念出要，樂於遠離，親近不怠，其心調柔，出要離欲，彼所因欲起諸漏纏，亦盡捨滅而得解脫，是為欲出要。瞋恚出要、嫉妬出要、色出要、身見出要，亦復如是。

> また五つの法がある。これらを五つの解脱への道という。 第一に、身体は清らかでないと観想すること。 第二に、飲食は清らかでないと観想すること。 第三に、すべての現象は無常であると観想すること。 第四に、すべての世間は楽しむべきものではないと観想すること。 第五に、死を観想すること。 また五つの法がある。これらを五つの束縛からの離脱という。 第一に、比丘は欲望に対して喜ばず、動揺せず、また近づかず、ただ解脱を思い、遠離を楽しみ、怠ることなく修行に親しみ、心を調和させて束縛から離れ、欲望を離れる。欲望によって生じる煩悩の縛りもすべて捨て去り、解脱を得る。これが欲望からの離脱である。 怒りからの離脱、嫉妬からの離脱、色（物質的存在）からの離脱、身体への執着からの離脱も、同じようにある。

「復有五法，謂五喜解脫入。若比丘精勤不懈，樂閑靜處，專念一心，未解得解，未盡得盡，未安得安。何謂五？於是，比丘聞如來說法，或聞梵行者說，或聞師長說法，思惟觀察，分別法義，心得歡喜，得歡喜已，得法愛，得法愛已，身心安隱，身心安隱已，則得禪定，得禪定已，得實知見，是為初解脫入。於是，比丘聞法喜已，受持諷誦，亦復歡喜，為他人說，亦復歡喜，思惟分別，亦復歡喜，於法得定，亦復如是。復有五法，謂五人：中般涅槃、生般涅槃、無行般涅槃、有行般涅槃、上流阿迦尼吒。諸比丘！是為如來所說正法，當共撰集，以防諍訟，使梵行久立，多所饒益，天、人獲安。

> また五つの法がある。それは、五つの喜びによる解脱への入り口である。比丘が精進して怠らず、静かな場所を好み、心を一つに集中させて、未だ悟らざるを悟り、未だ尽くさざるを尽くし、未だ安らかならざるを安らかにする。その五つとは何か。 第一に、比丘が如来の説法を聞き、あるいは清らかな行いをする者の話を聞き、あるいは師長の説法を聞いて、その法の意味を思惟し観察し、分別する。すると心に歓喜が生じ、歓喜を得たなら法への愛着が生まれる。法への愛着を得たなら身心が安らかになる。身心が安らかになったなら禅定を得る。禅定を得たなら真実の知見を得る。これが最初の解脱への入り口である。 第二に、比丘が法を聞いて喜び、それを記憶し誦することもまた喜びとなる。第三に、それを他人に説くこともまた喜びとなる。第四に、思惟し分別することもまた喜びとなる。第五に、法によって禅定を得ることもまた同じく喜びとなる。 さらに五つの法がある。それは五種の人々である。すなわち、中般涅槃、生般涅槃、無行般涅槃、有行般涅槃、上流阿迦尼吒である。 比丘たちよ、これが如来の説かれた正しい法である。共にこれを集めて、諍いを防ぎ、清らかな行いを長く保ち、多くの利益をもたらし、天と人々を安らかにするようにせよ。

「又，諸比丘！如來說六正法，謂內六入：眼入、耳入、鼻入、舌入、身入、意入。復有六法，謂外六入：色入、聲入、香入、味入、觸入、法入。復有六法，謂六識身：眼識身，耳、鼻、舌、身、意識身。復有六法，謂六觸身：眼觸身，耳、鼻、舌、身、意觸身。復有六法，謂六受身：眼受身，耳、鼻、舌、身、意受身。復有六法，謂六想身：色想、聲想、香想、味想、觸想、法想。復有六法，謂六思身：色思、聲思、香思、味思、觸思、法思。復有六法，謂六愛身：色愛身，聲、香、味、觸、法愛身。復有六法，謂六諍本：若比丘好瞋不捨，不敬如來，亦不敬法，亦不敬眾，於戒穿漏，染汙不淨；好於眾中多生諍訟，人所憎惡，嬈亂淨眾，天、人不安。諸比丘！汝等當自內觀，設有瞋恨，如彼嬈亂者，當集和合眾，廣設方便，拔此諍本；汝等又當專念自觀，若結恨已滅，當更方便，遮止其心，勿復使起。諸比丘！佷戾不諦、慳恡嫉妬、巧偽虛妄、自因己見、謬受不捨、迷於邪見、與邊見俱，亦復如是。復有六法，謂六界：地界、火界、水界、風界、空界、識界。復有六法，謂六察行：眼察色，耳聲、鼻香、舌味、身觸、意察法。

> また、諸比丘よ、如来は六つの正しい法を説かれます。それは内なる六つの入り口、すなわち内六処です：眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処です。 さらに六つの法があります。それは外なる六つの入り口、すなわち外六処です：色処、声処、香処、味処、触処、法処です。 さらに六つの法があります。それは六つの識の集まり、すなわち六識身です：眼識身、耳識身、鼻識身、舌識身、身識身、意識身です。 さらに六つの法があります。それは六つの触の集まり、すなわち六触身です：眼触身、耳触身、鼻触身、舌触身、身触身、意触身です。 さらに六つの法があります。それは六つの受の集まり、すなわち六受身です：眼受身、耳受身、鼻受身、舌受身、身受身、意受身です。 さらに六つの法があります。それは六つの想の集まり、すなわち六想身です：色想、声想、香想、味想、触想、法想です。 さらに六つの法があります。それは六つの思の集まり、すなわち六思身です：色思、声思、香思、味思、触思、法思です。 さらに六つの法があります。それは六つの愛の集まり、すなわち六愛身です：色愛身、声愛身、香愛身、味愛身、触愛身、法愛身です。 さらに六つの法があります。それは六つの諍いの根源です：もし比丘が怒りを好んで捨てず、如来を敬わず、法も敬わず、僧伽も敬わず、戒律に穴が開き、汚れに染まって清らかでなく、衆中で多くの諍いや訴訟を起こすことを好み、人々に憎まれ嫌われ、清らかな僧伽をかき乱し、天や人々を不安にさせるならば。諸比丘よ、あなた方は自ら内観すべきです。もしそのようなかき乱す者と同じように怒りや恨みがあるならば、和合した僧伽を集め、様々な善巧方便を用いて、この諍いの根源を抜き取らなければなりません。また、あなた方は専心して自らを観察し、もし結びついた恨みがすでに滅びているならば、さらに方便を用いて、その心を制し止め、再び起こらないようにしなければなりません。諸比丘よ、頑なで誠実でなく、物惜しみや嫉妬、巧みな偽りや虚妄、自分自身の見解に固執し、誤って受け入れて捨てず、邪見に迷い、偏った見解とともにいることも、同様です。 さらに六つの法があります。それは六界です：地界、火界、水界、風界、空界、識界です。 さらに六つの法があります。それは六つの観察行です：眼が色を観察し、耳が声を、鼻が香りを、舌が味を、身が触れを、意が法を観察します。

「復有六法，謂六出要界。若比丘作是言：『我修慈心，更生瞋恚。』餘比丘語言：『汝勿作此言，勿謗如來，如來不作是說：欲使修慈解脫，更生瞋恚想，無有是處。佛言：除瞋恚已，然後得慈。』若比丘言：『我行悲解脫，生憎嫉心；行喜解脫，生憂惱心；行捨解脫，生憎愛心；行無我行，生狐疑心；行無想行，生眾亂想。』亦復如是。復有六法，謂六無上：見無上、聞無上、利養無上、戒無上、恭敬無上、憶念無上。復有六法，謂六思念：佛念、法念、僧念、戒念、施念、天念。是為如來所說正法，當共撰集，以防諍訟，使梵行久立，多所饒益，天、人獲安。

> また六つの法がある。それは六つの解脱の境地である。もし比丘がこう言うならば、「私は慈しみの心を修めているが、それでもなお怒りの心が生じる」と。他の比丘は彼に言うべきである、「あなたはそのようなことを言ってはならない。如来を誹謗してはならない。如来はこのように説かれたことはない。慈しみの解脱を修めながら、なお怒りの想いが生じるなどということがあるはずがない、と。仏は言われた、怒りを除いて初めて慈しみを得るのだ、と」。 もし比丘が言うならば、「私は悲しみの解脱を行じているが、憎しみや嫉みの心が生じる。喜びの解脱を行じているが、憂いや悩みの心が生じる。捨てる心の解脱を行じているが、憎しみや愛着の心が生じる。無我の行を行じているが、疑いの心が生じる。無想の行を行じているが、さまざまな乱れた想いが生じる」。これもまた同様である。 また六つの法がある。それは六つの無上の境地である。見ることの無上、聞くことの無上、利養の無上、戒律の無上、恭敬の無上、憶念の無上。 また六つの法がある。それは六つの念いである。仏を念ずること、法を念ずること、僧を念ずること、戒を念ずること、施しを念ずること、天を念ずること。 これらが如来の説かれた正しい法である。共に集めてまとめ、争いを防ぎ、清らかな行いが長く続き、多くの利益をもたらし、天と人が安らぎを得られるようにしよう。

「諸比丘！如來說七正法，謂七非法：無信、無慙、無愧、少聞、懈怠、多忘、無智。復有七法，謂七正法：有信、有慚、有愧、多聞、精進、總持、多智。復有七法，謂七識住：或有眾生，若干種身，若干種想，天及人是，是初識住；或有眾生，若干種身而一想者，梵光音天最初生時是，是二識住；或有眾生，一身若干種想，光音天是，是三識住；或有眾生，一身一想，遍淨天是，是四識住；或有眾生，空處住、識處住、不用處住。

> 諸比丘よ、如来は七つの正しい法を説く。それは七つの非道な法である。すなわち、信がなく、恥を知らず、自省せず、聞くことが少なく、怠け、忘れやすく、智慧がないことである。 また、七つの法がある。それは七つの正しい法である。すなわち、信があり、恥を知り、自省し、多くを聞き、精進し、よく記憶し、智慧に富むことである。 さらに、七つの法がある。それは七つの識の住処である。 一、ある衆生は、さまざまな身体とさまざまな想いを持つ。天界と人間界の衆生がこれにあたる。これが第一の識の住処である。 二、ある衆生は、さまざまな身体を持つが、一つの想いを持つ。梵光音天が最初に生まれた時の衆生がこれにあたる。これが第二の識の住処である。 三、ある衆生は、一つの身体を持ちながら、さまざまな想いを持つ。光音天の衆生がこれにあたる。これが第三の識の住処である。 四、ある衆生は、一つの身体と一つの想いを持つ。遍浄天の衆生がこれにあたる。これが第四の識の住処である。 五、ある衆生は、空無辺処に住む。 六、ある衆生は、識無辺処に住む。 七、ある衆生は、無所有処に住む。

「復有七法，謂七勤法：一者比丘勤於戒行，二者勤滅貪欲，三者勤破邪見，四者勤於多聞，五者勤於精進，六者勤於正念，七者勤於禪定。復有七法，謂七想：不淨想、食不淨想、一切世間不可樂想，無想、無常想、無常苦想、苦無我想。復有七法，謂七三昧具：正見、正思、正語、正業、正命、正方便、正念。復有七法，謂七覺意：念覺意、法覺意、精進覺意、喜覺意、猗覺意、定覺意、護覺意。是為如來所說正法，當共撰集，以防諍訟，使梵行久立，多所饒益，天、人獲安。

> また七つの法がある。それは七つの勤めの法である。第一に、比丘は戒律の実践に励む。第二に、貪欲を滅ぼすことに励む。第三に、邪見を打ち破ることに励む。第四に、多くを学ぶことに励む。第五に、精進に励む。第六に、正しい心のあり方に励む。第七に、禅定に励む。 また七つの法がある。それは七つの想いである。不浄の想い、食の不浄の想い、一切の世間は楽しむに足らないという想い、無の想い、無常の想い、無常は苦であるという想い、苦には我がないという想い。 また七つの法がある。それは七つの三昧の資質である。正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい心のあり方。 また七つの法がある。それは七つの覚りの要素である。心のあり方の覚り、真理の覚り、精進の覚り、喜びの覚り、安らぎの覚り、集中の覚り、守りの覚り。 これらが如来の説かれた正しい法である。共に集めてまとめ、諍いを防ぎ、清らかな行いを長く保ち、多くの利益をもたらし、天と人々に安らぎを得させよう。

「諸比丘！如來說八正法，謂世八法：利、衰、毀、譽、稱、譏、苦、樂。復有八法，謂八解脫：色觀色，一解脫；內無色想觀外色，二解脫；淨解脫，三解脫；度色想滅瞋恚想住空處解脫，四解脫；度空處住識處，五解脫；度識處住不用處，六解脫；度不用處住有想無想處，七解脫；度有想無想處住想知滅，八解脫。復有八法，謂八聖道：正見、正志、正語、正業、正命、正方便、正念、正定。復有八法，謂八人：須陀洹向、須陀洹、斯陀含向、斯陀含、阿那含向、阿那含、阿羅漢向、阿羅漢。是為如來所說正法，當共撰集，以防諍訟，使梵行久立，多所饒益，天、人獲安。

> 諸比丘よ。如来は八つの正しい法を説かれます。それは世間の八つの法、すなわち、利得・損失・そしり・称賛・賞賛・非難・苦・楽です。 さらに八つの法があります。それは八つの解脱です。 第一の解脱：色（物質）を観じて色であると知ること。 第二の解脱：内に色の想いなく、外の色を観じること。 第三の解脱：清らかな解脱。 第四の解脱：色の想いを超え、怒りの想いを滅し、空の境地に安住する解脱。 第五の解脱：空の境地を超え、識（認識）の境地に安住すること。 第六の解脱：識の境地を超え、無所有の境地に安住すること。 第七の解脱：無所有の境地を超え、想いもなく想いもある境地に安住すること。 第八の解脱：想いもなく想いもある境地を超え、想いと知覚が滅した境地に安住すること。 さらに八つの法があります。それは八つの聖なる道、すなわち、正しい見解・正しい意志・正しい言葉・正しい行い・正しい生き方・正しい努力・正しい気づき・正しい禅定です。 さらに八つの法があります。それは八種類の人、すなわち、預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢です。 これらが如来の説かれた正しい法です。共にこれを集め、論争を防ぎ、清らかな行いが長く続き、多くの利益をもたらし、天と人が安らぎを得られるようにしましょう。

「諸比丘！如來說九正法，所謂九眾生居：或有眾生，若干種身，若干種想，天及人是，是初眾生居；復有眾生，若干種身而一想者，梵光音天最初生時是，是二眾生居；復有眾生，一身若干種想，光音天是，是三眾生居；復有眾生，一身一想，遍淨天是，是四眾生居；復有眾生，無想無所覺知，無想天是，是五眾生居；復有眾生，空處住，是六眾生居；復有眾生，識處住，是七眾生居；復有眾生，不用處住，是八眾生居；復有眾生，住有想無想處，是九眾生居。是為如來所說正法，當共撰集，以防諍訟，使梵行久立，多所饒益，天、人獲安。

> 諸比丘よ、如来は九つの正しい法を説かれました。いわゆる九つの衆生の住処です。 第一の衆生の住処は、さまざまな身体を持ち、さまざまな思いを持つ衆生です。天界の者と人間がこれに当たります。 第二の衆生の住処は、さまざまな身体を持ちながら、一つの思いを持つ衆生です。梵光音天が最初に生まれた時がこれに当たります。 第三の衆生の住処は、一つの身体を持ちながら、さまざまな思いを持つ衆生です。光音天がこれに当たります。 第四の衆生の住処は、一つの身体を持ち、一つの思いを持つ衆生です。遍浄天がこれに当たります。 第五の衆生の住処は、思いがなく、何も感じ知ることのない衆生です。無想天がこれに当たります。 第六の衆生の住処は、空無辺処に住む衆生です。 第七の衆生の住処は、識無辺処に住む衆生です。 第八の衆生の住処は、無所有処に住む衆生です。 第九の衆生の住処は、非想非非想処に住む衆生です。 これらが如来の説かれた正しい法です。共にこれを学び集め、争いを防ぎ、清らかな行いを長く保ち、多くの利益をもたらし、天界の者も人間も安らぎを得るようにしましょう。

「諸比丘！如來說十正法，所謂十無學法，無學正見、正思、正語、正業、正命、正念、正方便、正定、正智、正解脫。是為如來所說正法，當共撰集，以防諍訟，使梵行久立，多所饒益，天、人獲安。」

> 諸比丘よ、如来は十の正しい法を説かれました。それは、十の無学法、すなわち無学の正見、正思惟、正語、正業、正命、正念、正精進、正定、正智、正解脱です。これが如来の説かれた正法であり、共に集めてまとめ、諍いを防ぎ、清らかな行いが長く続き、多くの利益をもたらし、天と人々が安らぎを得られるようにしましょう。

爾時，世尊印可舍利弗所說。時，諸比丘聞舍利弗所說，歡喜奉行。

> その時、世尊は舎利弗の説法を認められた。比丘たちは舎利弗の説法を聞き、喜んでその教えを実践した。

## 佛說長阿含經卷第八

> 仏説長阿含経　第八巻