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title: "長阿含經 · 10 十上經"
description: "長阿含經是佛教原始經典四阿含之一，由後秦時期譯師佛陀耶舍與竺佛念共同譯出。該經成書於公元前1世紀左右，屬早期佛教根本聖典，記載了佛陀與弟子們的言行教法。全經共30卷，分為四分，主要內容包括佛陀生平、教義闡述、修行方法及宇宙觀等，系統性保存了原始佛教的基本教理。作為漢傳佛教重要典籍，長阿含經被視為研究原始佛教思想的核心文獻，在佛教經典體系中具有不可替代的權威地位，對後世佛教發展影響深遠。"
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## 佛說長阿含經卷第九

> 仏説長阿含経 第九巻

後秦弘始年佛陀耶舍共竺佛念譯

> 後秦弘始年間、仏陀耶舎と竺仏念による共訳

### （一〇）第二分十上經第六

> （一〇）第二分十上経第六

如是我聞：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊鴦伽國，與大比丘眾千二百五十人俱。詣瞻婆城，止宿伽伽池側。

> ある時、お釈迦様はアンガ国におられ、千二百五十人の大比丘（だいびく）の僧伽（そうぎゃ）と共におられました。そして瞻婆城（せんばじょう）に赴かれ、伽伽池（ががち）のほとりに滞在されました。

以十五日月滿時，世尊在露地坐，大眾圍遶，竟夜說法，告舍利弗：「今者四方諸比丘集，皆各精勤，捐除眠睡，欲聞說法，吾患背痛，欲小止息，卿今可為諸比丘說法。」

> 満月の夜、世尊は屋外に座り、大衆に囲まれながら夜通し説法をされました。やがて舎利弗に告げられました。 「今、四方から集まった比丘たちは皆、眠気を振り払い、精進して説法を聞こうとしている。私は背中が痛むので、少し休みたい。そなたが代わりに比丘たちに説法をしなさい。」

時，舍利弗受佛教已，爾時世尊即四牒僧伽梨，偃右脅臥如師子，累足而臥。

> 舎利弗が仏の教えを受け取ったその時、世尊は袈裟を四つ折りにして、右脇を下にして獅子のように横たわり、足を揃えて臥した。

爾時，耆年舍利弗告諸比丘：「今我說法，上中下言，皆悉真正，義味具足，梵行清淨，汝等諦聽！善思念之，當為汝說。」

> その時、長老の舎利弗は比丘たちに告げました。 「今、私が説く教えは、上中下の言葉のすべてが真実であり、 意味と味わいが十分に備わり、清らかな修行の道を示しています。 あなたがたはよく聞きなさい。善く心に留めて思惟しなさい。 今からあなたがたのために説きましょう。」

時，諸比丘受教而聽。舍利弗告諸比丘：「有十上法，除眾結縛，得至泥洹，盡於苦際，又能具足五百五十法，今當分別，汝等善聽。諸比丘！有一成法、一修法、一覺法、一滅法、一退法、一增法、一難解法、一生法、一知法、一證法。云何一成法？謂於諸善法能不放逸。云何一修法？謂常自念身。云何一覺法？謂有漏觸。云何一滅法？謂是我慢。云何一退法？謂不惡露觀。云何一增法？謂惡露觀。云何一難解法？謂無間定。云何一生法？謂有漏解脫。云何一知法？謂諸眾生皆仰食存。云何一證法？謂無礙心解脫。

> その時、比丘たちは教えを受け、耳を傾けた。舎利弗は比丘たちに告げた。 「十の優れた法があります。それは人々の煩悩の縛りを断ち切り、涅槃に至り、苦しみの果てを尽くすことができます。さらに五百五十の法を具足することができます。今、それを分別してお説きしましょう。皆さん、よく聞いてください。 比丘たちよ。 一つに『成法』、 一つに『修法』、 一つに『覚法』、 一つに『滅法』、 一つに『退法』、 一つに『増法』、 一つに『難解法』、 一つに『生法』、 一つに『知法』、 一つに『証法』があります。 何が一つの『成法』かといえば、それはすべての善い法に対して放逸にならないことです。 何が一つの『修法』かといえば、それは常に自らの身を観察することです。 何が一つの『覚法』かといえば、それは煩悩を生じさせる接触です。 何が一つの『滅法』かといえば、それは『我』という思い上がりです。 何が一つの『退法』かといえば、それは不浄観を修めないことです。 何が一つの『増法』かといえば、それは不浄観を修めることです。 何が一つの『難解法』かといえば、それは間断なき禅定です。 何が一つの『生法』かといえば、それは煩悩を伴う解脱です。 何が一つの『知法』かといえば、それはすべての衆生は食によって生きているということです。 何が一つの『証法』かといえば、それは何ものにも妨げられない心の解脱です。」

「又有二成法、二修法、二覺法、二滅法、二退法、二增法、二難解法、二生法、二知法、二證法。云何二成法？謂知慙、知愧。云何二修法？謂止與觀。云何二覺法？謂名與色。云何二滅法？謂無明、愛。云何二退法？謂毀戒、破見。云何二增法？戒具、見具。云何二難解法？有因有緣，眾生生垢；有因有緣，眾生得淨。云何二生法？盡智、無生智。云何二知法？謂是處、非處。云何二證法？謂明與解脫。

> また、二つの成法、二つの修法、二つの覚法、二つの滅法、二つの退法、二つの増法、二つの難解法、二つの生法、二つの知法、二つの証法があります。 二つの成法とは何ですか。それは、慚を知ることと、愧を知ることです。 二つの修法とは何ですか。それは、止と観です。 二つの覚法とは何ですか。それは、名と色です。 二つの滅法とは何ですか。それは、無明と愛です。 二つの退法とは何ですか。それは、戒を毀つことと、見を破ることです。 二つの増法とは何ですか。それは、戒を具えることと、見を具えることです。 二つの難解法とは何ですか。それは、因と縁があって、衆生は垢を生じ、因と縁があって、衆生は浄を得るということです。 二つの生法とは何ですか。それは、尽智と無生智です。 二つの知法とは何ですか。それは、是処と非処です。 二つの証法とは何ですか。それは、明と解脱です。

「又有三成法、三修法、三覺法、三滅法、三退法、三增法、三難解法、三生法、三知法、三證法。云何三成法？一者親近善友，二者耳聞法音，三者法法成就。云何三修法？謂三三昧：空三昧、無相三昧、無作三昧。云何三覺法？謂三受：苦受、樂受、不苦不樂受。云何三滅法？謂三愛：欲愛、有愛、無有愛。云何三退法？謂三不善根：貪不善根、恚不善根、癡不善根。云何三增法？謂三善根：無貪善根、無恚善根、無癡善根。云何三難解法？謂三難解：賢聖難解、聞法難解、如來難解。云何三生法？謂三相：息止相、精進相、捨離相。云何三知法？謂三出要界：欲出要至色界，色界出要至無色界；捨離一切諸有為法，彼名為盡。云何三證法？謂三明：宿命智、天眼智、漏盡智。諸比丘！是為三十法，如實無虛，如來知已，平等說法。

> また、三つの成法、三つの修法、三つの覚法、三つの滅法、三つの退法、三つの増法、三つの難解法、三つの生法、三つの知法、三つの証法があります。 三つの成法とは何か。一つは善き友に親しむこと、二つは法の教えを耳で聞くこと、三つは法を法のままに成就することです。 三つの修法とは何か。三つの三昧、すなわち空三昧、無相三昧、無作三昧を指します。 三つの覚法とは何か。三つの受、すなわち苦受、楽受、不苦不楽受を指します。 三つの滅法とは何か。三つの愛、すなわち欲愛、有愛、無有愛を指します。 三つの退法とは何か。三つの不善の根、すなわち貪りの不善根、怒りの不善根、愚かさの不善根を指します。 三つの増法とは何か。三つの善根、すなわち貪りのない善根、怒りのない善根、愚かさのない善根を指します。 三つの難解法とは何か。三つの難解、すなわち賢聖の難解、法を聞く難解、如来の難解を指します。 三つの生法とは何か。三つの相、すなわち息止の相、精進の相、捨離の相を指します。 三つの知法とは何か。三つの出要の境、すなわち欲界を出て色界に至り、色界を出て無色界に至ること。一切の有為の法を捨て離れること、それが尽きるということです。 三つの証法とは何か。三つの明、すなわち宿命智、天眼智、漏尽智を指します。 比丘たちよ、これが三十の法である。真実であり偽りなく、如来はこれを知り、平等に説かれたのである。

「復有四成法、四修法、四覺法、四滅法、四退法、四增法、四難解法、四生法、四知法、四證法。云何四成法？謂四輪法：一者住中國，二者近善友，三者自謹慎，四者宿植善本。云何四修法？謂四念處：比丘內身身觀，精勤不懈，憶念不忘，捨世貪憂；外身身觀，精勤不懈，憶念不忘，捨世貪憂；內外身身觀，精勤不懈，憶念不忘，捨世貪憂。受、意、法觀，亦復如是。云何四覺法？謂四食：摶食、觸食、念食、識食。云何四滅法？謂四受：欲受、我受、戒受、見受。

> また、四つの成法、四つの修法、四つの覚法、四つの滅法、四つの退法、四つの増法、四つの難解法、四つの生法、四つの知法、四つの証法があります。 四つの成法とは何か。それは四つの輪法です。第一に、中央の国に住むこと。第二に、善き友に近づくこと。第三に、自ら慎み深くあること。第四に、過去に善き種を植えてきたこと。 四つの修法とは何か。それは四つの念処です。比丘は内なる身体について身体を観察し、精進して怠らず、心に留めて忘れず、世の貪りと憂いを捨てます。外なる身体について身体を観察し、精進して怠らず、心に留めて忘れず、世の貪りと憂いを捨てます。内外の身体について身体を観察し、精進して怠らず、心に留めて忘れず、世の貪りと憂いを捨てます。受、心、法についての観察も、同様に行います。 四つの覚法とは何か。それは四つの食です。摶食（物質的な食物）、触食（感覚的な接触）、念食（意思や願望）、識食（認識作用）です。 四つの滅法とは何か。それは四つの受です。欲受（欲望による執着）、我受（自我への執着）、戒受（戒律への執着）、見受（誤った見解への執着）です。

「云何四退法？謂四扼：欲扼、有扼、見扼、無明扼。云何四增法？謂四無扼：無欲扼、無有扼、無見扼、無無明扼。云何四難解法？謂有四聖諦：苦諦、集諦、滅諦、道諦。云何四生法？謂四智：法智、未知智、等智、知他心智。云何四知法？謂四辯才：法辯、義辯、辭辯、應辯。云何四證法？謂四沙門果：須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果。諸比丘！是為四十法，如實無虛，如來知已，平等說法。

> 四つの退く法とは何か。四つの扼（やく）である。すなわち、欲の扼、有の扼、見の扼、無明の扼である。 四つの増す法とは何か。四つの無扼である。すなわち、無欲の扼、無有の扼、無見の扼、無無明の扼である。 四つの解き難き法とは何か。四つの聖なる真理である。すなわち、苦の真理、苦の集まりの真理、苦の滅びの真理、苦の滅びに至る道の真理である。 四つの生ずる法とは何か。四つの智慧である。すなわち、法智、未知智、等智、他心智である。 四つの知る法とは何か。四つの弁才である。すなわち、法の弁才、義の弁才、辞の弁才、応の弁才である。 四つの証する法とは何か。四つの沙門の果である。すなわち、須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果である。 比丘たちよ、これが四十の法である。真実にして偽りなく、如来はこれを知り、平等に説かれたのである。

「復有五成法、五修法、五覺法、五滅法、五退法、五增法、五難解法、五生法、五知法、五證法。云何五成法？謂五滅盡枝：一者信佛、如來、至真，十號具足；二者無病，身常安隱；三者質直無有諛諂，直趣如來涅槃徑路；四者專心不亂，諷誦不忘；五者善於觀察法之起滅，以賢聖行盡於苦本。云何五修法？謂五根：信根、精進根、念根、定根、慧根。云何五覺法？謂五受陰：色受陰，受、想、行、識受陰。

> また、五つの成就法、五つの修習法、五つの覚知法、五つの滅法、五つの退法、五つの増法、五つの難解法、五つの生法、五つの知法、五つの証法があります。 五つの成就法とは何か。それは五つの滅尽支です。 第一に、仏を信じること。如来は真実に至り、十の尊称を具えている。 第二に、病がなく、身体が常に安穏であること。 第三に、質朴で偽りなく、如来の涅槃への直道に向かうこと。 第四に、心を乱さずに集中し、誦読して忘れないこと。 第五に、法の起こりと滅びをよく観察し、聖なる行いによって苦の根源を尽くすこと。 五つの修習法とは何か。それは五根です。信根、精進根、念根、定根、慧根です。 五つの覚知法とは何か。それは五つの受蘊です。色受蘊、受受蘊、想受蘊、行受蘊、識受蘊です。

「云何五滅法？謂五蓋：貪欲蓋、瞋恚蓋、眠睡蓋、掉戲蓋、疑蓋。云何五退法？謂五心礙結：一者比丘疑佛，疑佛已，則不親近，不親近已，則不恭敬，是為初心礙結；又比丘於法、於眾、於戒，有穿漏行、不真正行、為汙染行，不親近戒，亦不恭敬，是為四心礙結；又復比丘於梵行人生惡向心，心不喜樂，以麁惡言而毀罵之，是為五心礙結。云何五增法？謂五喜本：一悅、二念、三猗、四樂、五定。

> 五つの滅びる法とは何か。それは五つの覆いである。すなわち、貪欲の覆い、瞋恚の覆い、眠睡の覆い、掉戯の覆い、疑いの覆いである。 五つの退く法とは何か。それは五つの心の妨げとなる結びつきである。第一に、比丘が仏を疑うこと。仏を疑えば、親しみ近づかなくなり、親しみ近づかなければ、恭敬の心も失われる。これが最初の心の妨げとなる結びつきである。また、比丘が法に対し、僧に対し、戒に対し、欠けや漏れのある行いをし、正しくない行いをし、汚れた行いをすること。戒に親しみ近づかず、恭敬の心も持たない。これが四つの心の妨げとなる結びつきである。さらに、比丘が清らかな行いをする人に対して悪意を抱き、心から喜び楽しむことなく、粗悪な言葉で罵り誹謗すること。これが五つ目の心の妨げとなる結びつきである。 五つの増す法とは何か。それは五つの喜びの根本である。すなわち、悦び、念い、安らぎ、楽しみ、定まりである。

「云何五難解法？謂五解脫入：若比丘精勤不懈，樂閑靜處，專念一心，未解得解，未盡得盡，未安得安。何謂五？若比丘聞佛說法，或聞梵行者說，或聞師長說，思惟觀察，分別法義，心得歡喜，得歡喜已，便得法愛，得法愛已，身心安隱，身心安隱已，則得禪定，得禪定已，得如實智，是為初解脫入。於是，比丘聞法歡喜，受持諷誦，亦復歡喜，為他人說，亦復歡喜，思惟分別，亦復歡喜，於法得定，亦復如是。

> 五つの難を解く方法とは何か？それは五つの解脱への入り口である。比丘が精進して怠らず、静かな場所を好み、一心に専念するならば、未だ解けざるものは解け、未だ尽きざるものは尽き、未だ安らかならざるものは安らかとなる。五つとは何か。 第一に、比丘が仏の説法を聞き、あるいは清らかな修行者の話を聞き、あるいは師長の教えを聞いて、思惟し観察し、法の意味を分別するとき、心に歓喜が生じる。歓喜を得たならば、法への愛着が生じる。法への愛着を得たならば、身心が安らかになる。身心が安らかになったならば、禅定を得る。禅定を得たならば、真実の智慧を得る。これが最初の解脱への入り口である。 このように、比丘は法を聞いて歓喜し、受け持ち誦じてまた歓喜し、他人のために説いてまた歓喜し、思惟分別してまた歓喜し、法において定を得ることもまた同様である。

「云何五生法？謂賢聖五智定：一者修三昧現樂後樂，生內外智。二者賢聖無愛，生內外智。三者諸佛賢聖之所修行，生內外智。四者猗寂滅相，獨而無侶，而生內外智。五者於三昧一心入、一心起，生內外智。云何五知法？謂五出要界：一者比丘於欲不樂、不念，亦不親近，但念出要，樂於遠離，親近不怠，其心調柔，出要離欲，因欲起漏亦盡捨滅，而得解脫，是為欲出要，瞋恚出要、嫉妬出要、色出要、身見出要，亦復如是。云何五證法？謂五無學聚：無學戒聚、定聚、慧聚、解脫聚、解脫知見聚，是為五十法。如實無虛，如來知已，平等說法。

> 五つの生じる法とは何か。それは聖者の五つの智慧の定めである。 一、三昧を修し、現世の安楽と来世の安楽を得て、内なる智慧と外なる智慧を生じさせること。 二、聖者は愛執なく、内なる智慧と外なる智慧を生じさせること。 三、諸仏と聖者が修行する所により、内なる智慧と外なる智慧を生じさせること。 四、寂滅の相に安らぎ、独りで伴わず、内なる智慧と外なる智慧を生じさせること。 五、三昧に一心に入り、一心に起き、内なる智慧と外なる智慧を生じさせること。 五つの知る法とは何か。それは五つの解脱の境である。 一、比丘は欲を楽しまず、心に留めず、また近づかず、ただ解脱を思い、遠離を楽しみ、怠ることなく近づき、心は調和柔軟である。解脱によって欲を離れ、欲によって起こる煩悩もすべて捨て滅し、解脱を得る。これが欲からの解脱である。瞋恚からの解脱、嫉妬からの解脱、色からの解脱、身見からの解脱もまた同様である。 五つの証する法とは何か。それは五つの無学の集まりである。無学の戒の集まり、定の集まり、慧の集まり、解脱の集まり、解脱知見の集まりである。これが五十の法である。 真実にして虚妄なく、如来はこれを知り、平等に説法する。

「復有六成法、六修法、六覺法、六滅法、六退法、六增法、六難解法、六生法、六知法、六證法。云何六成法？謂六重法：若有比丘修六重法，可敬可重，和合於眾，無有諍訟，獨行無雜。云何六？於是，比丘身常行慈，敬梵行者，住仁愛心，名曰重法，可敬可重，和合於眾，無有諍訟，獨行無雜。復次，比丘口慈、意慈，以法得養及鉢中餘，與人共之，不懷彼此。復次，比丘聖所行戒，不犯不毀，無有染汙，智者所稱，善具足持，成就定意。復次，比丘成就賢聖出要，平等盡苦，正見及諸梵行，是名重法，可敬可重，和合於眾，無有諍訟，獨行不雜。

> また、六つの成法、六つの修法、六つの覚法、六つの滅法、六つの退法、六つの増法、六つの難解法、六つの生法、六つの知法、六つの証法があります。 では、六つの成法とは何でしょうか。それは六つの重法のことです。もし比丘が六つの重法を修めるならば、尊敬され敬われ、僧伽と和合し、諍いがなく、清らかに独行することができます。 どのような六つでしょうか。まず、比丘は身をもって常に慈しみを行い、清らかな行いをする者を敬い、慈愛の心に住します。これが重法と呼ばれ、尊敬され敬われ、僧伽と和合し、諍いがなく、清らかに独行することができます。 次に、比丘は口と心でも慈しみを行い、法によって得た供養や鉢の中の余り物を他の人と分かち合い、自分と他人を区別しません。 次に、比丘は聖者が行う戒律を守り、犯すことなく壊すこともなく、汚れがなく、智者に称賛され、善く具足して保ち、定意を成就します。 次に、比丘は賢聖の出離を成就し、平等に苦を滅ぼし、正見と清らかな行いを具えます。これが重法と呼ばれ、尊敬され敬われ、僧伽と和合し、諍いがなく、清らかに独行することができます。

「云何六修法？謂六念：念佛、念法、念僧、念戒、念施、念天。云何六覺法？謂六內入，眼入、耳入、鼻入、舌入、身入、意入。云何六滅法？謂六愛：色愛、聲愛、香、味、觸、法愛。云何六退法？謂六不敬法：不敬佛、不敬法、不敬僧、不敬戒、不敬定、不敬父母。云何六增法？謂六敬法：敬佛、敬法、敬僧、敬戒、敬定、敬父母。云何六難解法？謂六無上：見無上、聞無上、利養無上、戒無上、恭敬無上、念無上。云何六生法？謂六等法：於是，比丘眼見色無憂無喜，住捨專念，耳聲、鼻香、舌味、身觸、意法，不喜不憂，住捨專念。

> 六つの修めるべき法とは何か。それは六念である。仏を念じ、法を念じ、僧を念じ、戒を念じ、施しを念じ、天を念じることである。 六つの覚るべき法とは何か。それは六つの内なる入り口である。眼の入り口、耳の入り口、鼻の入り口、舌の入り口、身の入り口、意の入り口である。 六つの滅すべき法とは何か。それは六つの愛着である。色への愛着、声への愛着、香りへの愛着、味への愛着、触れへの愛着、法への愛着である。 六つの退くべき法とは何か。それは六つの不敬の法である。仏を敬わず、法を敬わず、僧を敬わず、戒を敬わず、定を敬わず、父母を敬わないことである。 六つの増すべき法とは何か。それは六つの敬いの法である。仏を敬い、法を敬い、僧を敬い、戒を敬い、定を敬い、父母を敬うことである。 六つの理解し難い法とは何か。それは六つの無上の法である。見ることの無上、聞くことの無上、利養の無上、戒の無上、恭敬の無上、念の無上である。 六つの生じるべき法とは何か。それは六つの平等の法である。ここにおいて、比丘は眼で色を見ても憂いも喜びもなく、捨てて専ら念じ、耳で声を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を知り、身で触れを感じ、意で法を知っても、喜ばず憂えず、捨てて専ら念じることである。

「云何六知法？謂六出要界：若比丘作是言：『我修慈心，更生瞋恚。』餘比丘言：『汝勿作此言，勿謗如來，如來不作是說，欲使修慈解脫更生瞋恚者，無有是處。佛言：除瞋恚已，然後得慈。』若比丘言：『我行悲解脫，生憎嫉心；行喜解脫，生憂惱心；行捨解脫，生憎愛心；行無我行，生狐疑心；行無想行，生眾亂想。』亦復如是。云何六證法？謂六神通：一者神足通證，二者天耳通證，三者知他心通證，四者宿命通證，五者天眼通證，六者漏盡通證。是為六十法。諸比丘！如實無虛，如來知已，平等說法。

> 六つの知るべき法とは何か。それは六つの解脱の境地である。もし比丘がこう言ったとする。「私は慈しみの心を修めているが、それでもなお怒りが生じてくる」。他の比丘は言う。「そのようなことを言ってはならない。如来を誹謗してはならない。如来はそのような説き方はされない。慈しみの解脱を修めながら、なお怒りが生じるということは、ありえないことである。仏は、怒りを除いてこそ、慈しみが得られると説かれている」。もし比丘が言う。「私は悲しみの解脱を行じているが、憎しみや嫉みの心が生じる。喜びの解脱を行じているが、憂いや悩みの心が生じる。捨ておく心の解脱を行じているが、憎しみや愛着の心が生じる。無我の行を行じているが、疑いの心が生じる。無想の行を行じているが、さまざまな雑念が生じる」。これもまた同様である。 六つの証得すべき法とは何か。それは六つの神通である。第一に神足通の証得、第二に天耳通の証得、第三に他心通の証得、第四に宿命通の証得、第五に天眼通の証得、第六に漏尽通の証得である。これが六十の法である。比丘たちよ、真実にして虚妄なく、如来はこれを知り、平等に説法されたのである。

「復有七成法、七修法、七覺法、七滅法、七退法、七增法、七難解法、七生法、七知法、七證法。云何七成法？謂七財：信財、戒財、慙財、愧財、聞財、施財、慧財，為七財。云何七修法？謂七覺意。於是，比丘修念覺意，依無欲、依寂滅、依遠離；修法、修精進、修喜、修猗、修定、修捨，依無欲、依寂滅、依遠離。

> また、七つの成法、七つの修法、七つの覚法、七つの滅法、七つの退法、七つの増法、七つの難解法、七つの生法、七つの知法、七つの証法があります。 どのようなものが七つの成法かというと、七つの財のことです。すなわち、信の財、戒の財、慚の財、愧の財、聞の財、施の財、慧の財、これら七つの財です。 どのようなものが七つの修法かというと、七つの覚意のことです。ここにおいて、比丘は念覚意を修めます。それは、欲を離れ、寂滅に依り、遠離に依って行います。法を修め、精進を修め、喜を修め、軽安を修め、定を修め、捨を修めます。これらもまた、欲を離れ、寂滅に依り、遠離に依って行うのです。

「云何七覺法？謂七識住處：若有眾生，若干種身，若干種想，天及人是，是初識住。復有眾生，若干種身而一想者，梵光音天最初生時是，是二識住。復有眾生，一身若干種想，光音天是，是三識住。復有眾生，一身一想，徧淨天是，是四識住。或有眾生，空處住，是五識住，或識處住，是六識住。或不用處住，是七識住。云何七滅法？謂七使法：欲愛使、有愛使、見使、慢使、瞋恚使、無明使、疑使。

> 七つの覚りの法とは何か。それは七つの識の住処である。 第一の識の住処は、さまざまな身体とさまざまな想いを持つ衆生、すなわち天界と人間界にいる者たちである。 第二の識の住処は、さまざまな身体でありながら一つの想いを持つ衆生、すなわち梵光音天に最初に生まれる者たちである。 第三の識の住処は、一つの身体でありながらさまざまな想いを持つ衆生、すなわち光音天にいる者たちである。 第四の識の住処は、一つの身体と一つの想いを持つ衆生、すなわち遍浄天にいる者たちである。 第五の識の住処は、空無辺処に住む衆生である。 第六の識の住処は、識無辺処に住む衆生である。 第七の識の住処は、無所有処に住む衆生である。 七つの滅びの法とは何か。それは七つの煩悩である。すなわち、欲愛の煩悩、有愛の煩悩、見の煩悩、慢の煩悩、瞋恚の煩悩、無明の煩悩、疑の煩悩である。

「云何七退法？謂七非法：是比丘無信、無慙、無愧、少聞、懈墮、多忘、無智。云何七增法？謂七正法：於是，比丘有信、有慚、有愧、多聞、不懈墮、強記、有智。云何七難解法？謂七正善法：於是，比丘好義、好法、好知時、好知足、好自攝、好集眾、好分別人。云何七生法？謂七想：不淨想、食不淨想、一切世間不可樂想、死想、無常想、無常苦想、苦無我想。

> 七つの退歩する法とは何か。それは七つの正しくない法である。すなわち、比丘が信心を持たず、恥を知らず、自省せず、学びが少なく、怠け、忘れやすく、智慧がないことである。 七つの増進する法とは何か。それは七つの正しい法である。すなわち、比丘が信心を持ち、恥を知り、自省し、多く学び、怠けず、よく覚えていて、智慧があることである。 七つの理解しにくい法とは何か。それは七つの正しく善い法である。すなわち、比丘が道理を尊び、教えを尊び、時機を知り、足ることを知り、自らを律し、人々と和合し、人々をよく導くことである。 七つの生じる法とは何か。それは七つの観想である。すなわち、不浄観、食の不浄観、一切の世間は楽しむに足らぬという観想、死の観想、無常の観想、無常は苦であるという観想、苦は無我であるという観想である。

「云何七知法？謂七勤：勤於戒行、勤滅貪欲、勤破邪見、勤於多聞、勤於精進、勤於正念、勤於禪定。云何七證法？謂七漏盡力：於是，漏盡比丘於一切諸苦、集、滅、味、過、出要，如實知見。觀欲如火坑，亦如刀劍，知欲見欲，不貪於欲，心不住欲。漏盡比丘逆順觀察，如實覺知，如實見已，世間貪嫉、惡不善法不漏不起，修四念處，多修多行，五根、五力、七覺意、賢聖八道，多修多行。諸比丘！是為七十法，如實不虛，如來知已，平等說法。

> 七つの知るべき法とは何か。それは七つの精進である。すなわち、戒律の実践に精進し、貪欲を滅ぼすことに精進し、邪見を打ち破ることに精進し、多くを学ぶことに精進し、努力に精進し、正しい気づきに精進し、禅定に精進することである。 七つの証すべき法とは何か。それは七つの漏れを尽くす力である。すなわち、漏れを尽くした比丘は、一切の苦しみ、その原因、その滅び、その味わい、その過ち、その解決について、ありのままに知り見る。欲望を火の穴のように、また刀剣のように観察し、欲望を知り、欲望を見て、欲望に貪らず、心を欲望に留めない。漏れを尽くした比丘は、順逆に観察し、ありのままに覚知し、ありのままに見た後、世間の貪りや嫉み、悪しき不善の法が漏れ出ず起こらず、四念処を修め、多く修め多く行い、五根、五力、七覚支、聖なる八正道を多く修め多く行う。 比丘たちよ、これが七十の法である。ありのままに虚妄なく、如来はこれを知り、平等に説かれたのである。

「復有八成法、八修法、八覺法、八滅法、八退法、八增法、八難解法、八生法、八知法、八證法。云何八成法？謂八因緣：不得梵行而得智，得梵行已智增多。云何為八？於是，比丘依世尊住，或依師長，或依智慧梵行者住，生慙愧心，有愛有敬，是謂初因緣，未得梵行而得智，得梵行已智增多。復次，依世尊住，隨時請問，此法云何？義何所趣？時，諸尊長即為開演甚深義理，是為二因緣。既聞法已，身心樂靜，是為三因緣。既樂靜已，不為遮道無益雜論，彼到眾中，或自說法，或請他說，猶復不捨賢聖默然，是為四因緣。多聞廣博，守持不忘，諸法深奧，上中下善，義味諦誠，梵行具足，聞已入心，見不流動，是為五因緣。修習精勤，滅惡增善，勉力堪任，不捨斯法，是為六因緣。有以智慧知起滅法，賢聖所趣，能盡苦際，是為七因緣。觀五受陰，生相、滅相，此色、色集、色滅，此受、想、行、識，識集、識滅，是為八因緣。未得梵行而有智，得梵行已智增多。

> また、八つの成法、八つの修法、八つの覚法、八つの滅法、八つの退法、八つの増法、八つの難解法、八つの生法、八つの知法、八つの証法があります。 では、八つの成法とは何でしょうか。それは八つの因縁によって、まだ清らかな行いを得ていないのに智慧を得、清らかな行いを得た後は智慧が増大するということです。その八つとは何でしょうか。 第一の因縁は、比丘が世尊に依って住み、あるいは師長に依って住み、あるいは智慧ある清らかな行いをなす者に依って住み、慚愧の心を起こし、敬愛の念を持つことです。これが最初の因縁であり、まだ清らかな行いを得ていないのに智慧を得、清らかな行いを得た後は智慧が増大します。 第二の因縁は、世尊に依って住み、時を選んで質問し、「この法はどのようなものですか？その意味はどこに向かうのですか？」と尋ねることです。すると、尊い方々が深遠な義理を説き明かしてくださいます。 第三の因縁は、法を聞いた後、心身ともに静けさを喜ぶことです。 第四の因縁は、静けさを喜んだ後、道を妨げる無益な雑論をせず、人々の中に行っても、自ら法を説くか、あるいは他の人に説いてもらいながらも、なお聖者の沈黙を捨てないことです。 第五の因縁は、多くを聞き広く学び、忘れずに保ち持ち、諸々の法の深遠な道理、上中下の善きこと、意味と味わいと真実と清らかな行いの完成を、聞いて心に納め、確固たる見解を崩さないことです。 第六の因縁は、修行に精勤し、悪を滅ぼし善を増し、努力して耐え忍び、この法を捨てないことです。 第七の因縁は、智慧をもって生起と滅尽の法を知り、聖者の向かうところ、苦の尽きる境地を悟ることです。 第八の因縁は、五つの感受の集まり（五蘊）を観察し、その生起の相と滅尽の相、すなわちこの色と色の集起と色の滅尽、この受・想・行・識と識の集起と識の滅尽を見ることです。 これが八つの因縁であり、まだ清らかな行いを得ていないのに智慧を得、清らかな行いを得た後は智慧が増大するのです。

「云何八修法？謂賢聖八道：正見、正志、正語、正業、正命、正方便、正念、正定。云何八覺法？謂世八法：利、衰、毀、譽、稱、譏、苦、樂。云何八滅法？謂八邪：邪見、邪思、邪語、邪業、邪命、邪方便、邪念、邪定。云何八退法？謂八懈怠法，何謂八懈怠？比丘乞食不得食，便作是念：『我於今日下村乞食不得，身體疲極，不能堪任坐禪、經行，今宜臥息。』懈怠比丘即便臥息，不肯精勤未得欲得、未獲欲獲、未證欲證，是為初懈怠。懈怠比丘得食既足，復作是念：『我朝入村乞食，得食過足，身體沈重，不能堪任坐禪、經行，今宜寢息。』懈怠比丘即便寢息，不能精勤未得欲得、未獲欲獲、未證欲證。懈怠比丘設少執事，便作是念：『我今日執事，身體疲極，不能堪任坐禪、經行，今宜寢息。』懈怠比丘即便寢息。懈怠比丘設欲執事，便作是念：『明當執事，必有疲極，今者不得坐禪、經行，當豫臥息。』懈怠比丘即便臥息。懈怠比丘設少行來，便作是念：『我朝行來，身體疲極，不能堪任坐禪、經行，我今宜當臥息。』懈怠比丘即便臥息。懈怠比丘設欲少行，便作是念：『我明當行，必有疲極，今者不得坐禪、經行，當豫寢息。』懈怠比丘即尋寢息，不能精勤未得欲得、未獲欲獲、未證欲證，是為六懈怠比丘。設遇小患，便作是念：『我得重病，困篤羸瘦，不能堪任坐禪、經行，當須寢息。』懈怠比丘即尋寢息，不能精勤未得欲得、未獲欲獲、未證欲證。懈怠比丘所患已差，復作是念：『我病差未久，身體羸瘦，不能堪任坐禪、經行，宜自寢息。』懈怠比丘即尋寢息，不能精勤未得欲得、未獲欲獲、未證欲證。云何八增法？謂八不怠。

> 八つの修行の法とは何か。それは聖なる八つの道、すなわち正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念、正しい禅定である。 八つの覚りの法とは何か。それは世間の八つの事柄、すなわち利益、損失、そしり、称賛、賞賛、非難、苦しみ、楽しみである。 八つの滅びの法とは何か。それは八つの邪なる道、すなわち邪な見解、邪な思惟、邪な言葉、邪な行い、邪な生活、邪な努力、邪な念、邪な禅定である。 八つの退歩の法とは何か。それは八つの怠けの法である。八つの怠けとは何か。 比丘が托鉢に行き食べ物を得られなかったとき、このように考える。「私は今日、村で食べ物を得られなかった。身体が疲れ果て、座禅も経行もできない。今は横になって休もう」。怠けの比丘はすぐに横になって休み、まだ得ていないものを得よう、まだ得ていないものを得よう、まだ悟っていないものを悟ろうと、精進しようとしない。これが最初の怠けである。 怠けの比丘が食べ物を十分に得たとき、またこのように考える。「私は朝、村に托鉢に行き、食べ物を十分に得た。身体が重く、座禅も経行もできない。今は寝て休もう」。怠けの比丘はすぐに寝て休み、まだ得ていないものを得よう、まだ得ていないものを得よう、まだ悟っていないものを悟ろうと、精進しようとしない。 怠けの比丘が少し用事をしたとき、このように考える。「私は今日、用事をした。身体が疲れ果て、座禅も経行もできない。今は寝て休もう」。怠けの比丘はすぐに寝て休む。 怠けの比丘が用事をしようとするとき、このように考える。「明日は用事があるから、きっと疲れるだろう。今日は座禅も経行もできないから、あらかじめ横になって休もう」。怠けの比丘はすぐに横になって休む。 怠けの比丘が少し外出したとき、このように考える。「私は朝、外出した。身体が疲れ果て、座禅も経行もできない。今は横になって休もう」。怠けの比丘はすぐに横になって休む。 怠けの比丘が少し外出しようとするとき、このように考える。「明日は外出するから、きっと疲れるだろう。今日は座禅も経行もできないから、あらかじめ寝て休もう」。怠けの比丘はすぐに寝て休み、まだ得ていないものを得よう、まだ得ていないものを得よう、まだ悟っていないものを悟ろうと、精進しようとしない。これが六番目の怠けの比丘である。 少し病気にかかったとき、このように考える。「私は重い病気にかかった。苦しみ、やせ衰え、座禅も経行もできない。寝て休まなければならない」。怠けの比丘はすぐに寝て休み、まだ得ていないものを得よう、まだ得ていないものを得よう、まだ悟っていないものを悟ろうと、精進しようとしない。 怠けの比丘の病気が治ったとき、またこのように考える。「私は病気が治ったばかりで、身体がやせ衰え、座禅も経行もできない。自分で寝て休もう」。怠けの比丘はすぐに寝て休み、まだ得ていないものを得よう、まだ得ていないものを得よう、まだ悟っていないものを悟ろうと、精進しようとしない。 八つの増進の法とは何か。それは八つの怠けないことである。

「云何八精進？比丘入村乞食，不得食還，即作是念：『我身體輕便，少於睡眠，宜可精進坐禪、經行。』未得者得，未獲者獲，未證者證，於是，比丘即便精進，是為初精進比丘。乞食得足，便作是念：『我今入村，乞食飽滿，氣力充足，宜勤精進坐禪、經行。』未得者得，未獲者獲，未證者證，於是，比丘即尋精進。精進比丘設有執事，便作是念：『我向執事，廢我行道，今宜精進坐禪、經行。』未得者得，未獲者獲，未證者證，於是，比丘即尋精進。精進比丘設欲執事，便作是念：『明當執事，廢我行道，今宜精進坐禪、經行。』未得者得，未獲者獲，未證者證，於是，比丘即便精進。精進比丘設有行來，便作是念：『我朝行來，廢我行道，今宜精進坐禪、經行。』未得者得，未獲者獲，未證者證，於是，比丘即尋精進。精進比丘設欲行來，便作是念：『我明當行，廢我行道，今宜精進坐禪、經行。』未得者得，未獲者獲，未證者證，於是比丘即便精進。精進比丘設遇患時，便作是念：『我得重病或能命終，今宜精進。』未得者得，未獲者獲，未證者證，於是比丘即便精進。精進比丘患得小差，復作是念：『我病初差，或更增動，廢我行道，今宜精進坐禪、經行。』未得者得，未獲者獲，未證者證，於是，比丘即便精進坐禪、經行，是為八。

> 八つの精進とはどのようなものでしょうか。 比丘が村に入って托鉢をしても、食べ物を得られずに戻ってきたとき、こう思います。 「私の体は軽く、眠りも少ない。今こそ精進して坐禅や経行をするのにふさわしい時だ」 まだ得ていないものを得、まだ獲得していないものを獲得し、まだ証していないものを証するために、比丘はすぐに精進を始めます。これが第一の精進です。 比丘が托鉢で十分な食べ物を得たとき、こう思います。 「私は今、村で托鉢をして満腹になり、気力も満ちている。今こそ精進して坐禅や経行に励むべきだ」 まだ得ていないものを得、まだ獲得していないものを獲得し、まだ証していないものを証するために、比丘はすぐに精進を始めます。 精進する比丘に何か用事ができたとき、こう思います。 「私は今、用事をして修行の道を妨げてしまった。今こそ精進して坐禅や経行をするべきだ」 まだ得ていないものを得、まだ獲得していないものを獲得し、まだ証していないものを証するために、比丘はすぐに精進を始めます。 精進する比丘に用事をしようとするとき、こう思います。 「明日は用事があって修行の道が妨げられるだろう。今こそ精進して坐禅や経行をするべきだ」 まだ得ていないものを得、まだ獲得していないものを獲得し、まだ証していないものを証するために、比丘はすぐに精進を始めます。 精進する比丘がどこかへ行く用事があったとき、こう思います。 「私は今朝、行く用事があって修行の道を妨げてしまった。今こそ精進して坐禅や経行をするべきだ」 まだ得ていないものを得、まだ獲得していないものを獲得し、まだ証していないものを証するために、比丘はすぐに精進を始めます。 精進する比丘がどこかへ行く用事をしようとするとき、こう思います。 「私は明日、行く用事があって修行の道が妨げられるだろう。今こそ精進して坐禅や経行をするべきだ」 まだ得ていないものを得、まだ獲得していないものを獲得し、まだ証していないものを証するために、比丘はすぐに精進を始めます。 精進する比丘が病気にかかったとき、こう思います。 「私は重い病気にかかり、命が尽きるかもしれない。今こそ精進すべきだ」 まだ得ていないものを得、まだ獲得していないものを獲得し、まだ証していないものを証するために、比丘はすぐに精進を始めます。 精進する比丘の病気が少し良くなったとき、またこう思います。 「私の病気はようやく良くなったが、また悪化して修行の道を妨げるかもしれない。今こそ精進して坐禅や経行をするべきだ」 まだ得ていないものを得、まだ獲得していないものを獲得し、まだ証していないものを証するために、比丘はすぐに精進して坐禅や経行を始めます。これが八つです。

「云何八難解法？謂八不閑妨修梵行。云何八？如來、至真出現於世，說微妙法，寂滅無為，向菩提道，有人生地獄中，是為不閑處，不得修梵行。如來、至真出現於世，說微妙法，寂滅無為，向菩提道，而有眾生在畜生中、餓鬼中、長壽天中、邊地無識、無佛法處，是為不閑處，不得修梵行。如來、至真、等正覺出現於世，說微妙法，寂滅無為，向菩提道，或有眾生生於中國，而有邪見，懷顛倒心，惡行成就，必入地獄，是為不閑處，不得修梵行。如來、至真、等正覺出現於世，說微妙法，寂滅無為，向菩提道，或有眾生生於中國，聾、盲、瘖瘂，不得聞法、修行梵行，是為不閑。如來、至真、等正覺不出世間，無有能說微妙法，寂滅無為，向菩提道，而有眾生生於中國，彼諸根具足，堪受聖教，而不值佛，不得修行梵行，是為八不閑。

> 八難の解決法とは何か。それは、八つの妨げによって清らかな行いができない状態を指す。どのような八つか。 如来・至真が世に現れ、微妙な法を説き、寂滅無為の境地を示し、菩提の道へと導くとき、地獄に生まれた者がいる。これが妨げの一つであり、清らかな行いができない。 如来・至真が世に現れ、微妙な法を説き、寂滅無為の境地を示し、菩提の道へと導くとき、畜生や餓鬼、長寿天、辺境の無知な地、あるいは仏法のないところに生まれた者がいる。これも妨げであり、清らかな行いができない。 如来・至真・等正覚が世に現れ、微妙な法を説き、寂滅無為の境地を示し、菩提の道へと導くとき、中央の地に生まれながら、邪見を持ち、心が倒錯し、悪行を重ね、必ず地獄に堕ちる者がいる。これも妨げであり、清らかな行いができない。 如来・至真・等正覚が世に現れ、微妙な法を説き、寂滅無為の境地を示し、菩提の道へと導くとき、中央の地に生まれながら、耳が聞こえず、目が見えず、口がきけず、法を聞くことも清らかな行いをすることもできない者がいる。これも妨げである。 如来・至真・等正覚が世に現れず、微妙な法を説く者もなく、寂滅無為の境地を示し、菩提の道へと導く教えがないとき、中央の地に生まれ、諸根が具わり、聖なる教えを受けられる資質を持ちながら、仏に遇うことができず、清らかな行いができない者がいる。これが八つの妨げである。

「云何八生法？謂八大人覺：道當少欲，多欲非道；道當知足，無厭非道；道當閑靜，樂眾非道；道當自守，戱笑非道；道當精進，懈怠非道；道當專念，多忘非道；道當定意，亂意非道；道當智慧，愚癡非道。云何八知法？謂八除入：內有色想，觀外色少，若好若醜，常觀常念，是為初除入。內有色想，觀外色無量，若好若醜，常觀常念，是為二除入。內無色想，外觀色少，若好若醜，常觀常念，是為三除入。內無色想，外觀色無量，若好若醜，常觀常念，是為四除入。內無色想，外觀色青，青色、青光、青見，譬如青蓮華，亦如青波羅㮈衣，純一青色、青光、青見，作如是想，常觀常念，是為五除入。內無色想，外觀色黃，黃色、黃光、黃見，譬如黃華、黃波羅㮈衣，黃色、黃光、黃見，常念常觀，作如是想，是為六除入。內無色想，觀外色赤，赤色、赤光、赤見，譬如赤華、赤波羅㮈衣，純一赤色、赤光、赤見，常觀常念，作如是想，是為七除入。內無色想，外觀色白，白色、白光、白見，譬如白華、白波羅㮈衣，純一白色、白光、白見，常觀常念，作如是想，是為八除入。

> 八つの生起する法とは何か。それは八つの大人の覚りである。道とは少欲であるべきであり、多欲は道ではない。道とは足ることを知るべきであり、飽くことを知らないのは道ではない。道とは閑静であるべきであり、大勢を楽しむのは道ではない。道とは自らを守るべきであり、戯れ笑うのは道ではない。道とは精進すべきであり、怠けるのは道ではない。道とは専ら念じるべきであり、多く忘れるのは道ではない。道とは心を定めるべきであり、心を乱すのは道ではない。道とは智慧であるべきであり、愚かであるのは道ではない。 八つの知る法とは何か。それは八つの除入である。内に色の想いあり、外の色が少ないのを観じ、それが美しくとも醜くとも、常に観じ常に念ずる。これが初めの除入である。内に色の想いあり、外の色が無量なるを観じ、それが美しくとも醜くとも、常に観じ常に念ずる。これが二番目の除入である。内に色の想いなく、外に色が少ないのを観じ、それが美しくとも醜くとも、常に観じ常に念ずる。これが三番目の除入である。内に色の想いなく、外に色が無量なるを観じ、それが美しくとも醜くとも、常に観じ常に念ずる。これが四番目の除入である。内に色の想いなく、外に青い色を観じ、青色、青光、青見、譬えば青い蓮華の如く、また青い波羅㮈衣の如く、純一の青色、青光、青見、このような想いを作し、常に観じ常に念ずる。これが五番目の除入である。内に色の想いなく、外に黄色を観じ、黄色、黄光、黄見、譬えば黄色い華、黄色い波羅㮈衣の如く、黄色、黄光、黄見、常に念じ常に観じ、このような想いを作す。これが六番目の除入である。内に色の想いなく、外に赤い色を観じ、赤色、赤光、赤見、譬えば赤い華、赤い波羅㮈衣の如く、純一の赤色、赤光、赤見、常に観じ常に念ずる、このような想いを作す。これが七番目の除入である。内に色の想いなく、外に白い色を観じ、白色、白光、白見、譬えば白い華、白い波羅㮈衣の如く、純一の白色、白光、白見、常に観じ常に念ずる、このような想いを作す。これが八番目の除入である。

「云何八證法？謂八解脫：色觀色，一解脫。內無色想，觀外色，二解脫。淨解脫，三解脫。度色想，滅瞋恚想，住空處，四解脫。度空處，住識處，五解脫。度識處，住不用處，六解脫。度不用處，住有想無想處，七解脫。度有想無想處，住想知滅，八解脫。諸比丘！是為八十法，如實無虛，如來知已，平等說法。

> 八つの証得すべき法とは何か。それは八つの解脱である。 第一の解脱：色（物質）を観じて色（物質）であると知る。 第二の解脱：内に色についての想いなく、外の色を観る。 第三の解脱：清らかな解脱。 第四の解脱：色についての想いを超え、怒りの想いを滅し、空無辺処に住する。 第五の解脱：空無辺処を超え、識無辺処に住する。 第六の解脱：識無辺処を超え、無所有処に住する。 第七の解脱：無所有処を超え、非想非非想処に住する。 第八の解脱：非想非非想処を超え、想受滅に住する。 比丘たちよ、これが八つの法である。真実にして虚妄なく、如来はこれを知り、平等に説かれたのである。

「復有九成法、九修法、九覺法、九滅法、九退法、九增法、九難解法、九生法、九知法、九證法。云何九成法？謂九淨滅枝法：戒淨滅枝、心淨滅枝、見淨滅枝、度疑淨滅枝、分別淨滅枝、道淨滅枝、除淨滅枝、無欲淨滅枝、解脫淨滅枝。云何九修法？謂九喜本：一喜，二愛，三悅，四樂，五定，六如實知，七除捨，八無欲，九解脫。

> また、九つの成法、九つの修法、九つの覚法、九つの滅法、九つの退法、九つの増法、九つの難解法、九つの生法、九つの知法、九つの証法があります。 どのようなものが九つの成法ですか。九つの浄滅支法を指します。戒浄滅支、心浄滅支、見浄滅支、度疑浄滅支、分別浄滅支、道浄滅支、除浄滅支、無欲浄滅支、解脱浄滅支です。 どのようなものが九つの修法ですか。九つの喜の根本を指します。第一に喜び、第二に愛着、第三に悦び、第四に楽しみ、第五に禅定、第六にありのままの知恵、第七に捨て去ること、第八に無欲、第九に解脱です。

「云何九覺法？謂九眾生居：或有眾生，若干種身若干種想，天及人是，是初眾生居。或有眾生，若干種身而一想者，梵光音天最初生時是，是二眾生居。或有眾生，一身若干種想，光音天是，是三眾生居。或有眾生，一身一想，遍淨天是，是四眾生居。或有眾生，無想無所覺知，無想天是，是五眾生居。復有眾生，空處住，是六眾生居。復有眾生，識處住，是七眾生居。復有眾生，不用處住，是八眾生居。復有眾生，住有想無想處，是九眾生居。

> 九つの衆生の住処とは何でしょうか。それは九種類の衆生の住処を指します。 一、さまざまな身体とさまざまな想いを持つ衆生。天界の衆生と人間がこれに当たり、これが第一の衆生の住処です。 二、さまざまな身体でありながら一つの想いを持つ衆生。梵光音天に最初に生まれた衆生がこれに当たり、これが第二の衆生の住処です。 三、一つの身体でありながらさまざまな想いを持つ衆生。光音天の衆生がこれに当たり、これが第三の衆生の住処です。 四、一つの身体と一つの想いを持つ衆生。遍浄天の衆生がこれに当たり、これが第四の衆生の住処です。 五、想いがなく、何も感じ知ることがない衆生。無想天の衆生がこれに当たり、これが第五の衆生の住処です。 六、さらに、空無辺処に住む衆生があり、これが第六の衆生の住処です。 七、識無辺処に住む衆生があり、これが第七の衆生の住処です。 八、無所有処に住む衆生があり、これが第八の衆生の住処です。 九、非想非非想処に住む衆生があり、これが第九の衆生の住処です。

「云何九滅法？謂九愛本：因愛有求，因求有利，因利有用，因用有欲，因欲有著，因著有嫉，因嫉有守，因守有護。云何九退法？謂九惱法：有人已侵惱我，今侵惱我，當侵惱我；我所愛者，已侵惱，今侵惱，當侵惱；我所憎者，已愛敬，今愛敬，當愛敬。云何九增法？謂無惱：彼已侵我，我惱何益？已不生惱，今不生惱，當不生惱；我所愛者，彼已侵惱，我惱何益？已不生惱，今不生惱，當不生惱；我所憎者，彼已愛敬，我惱何益？已不生惱，今不生惱，當不生惱。

> 九つの滅びる法とは何か。それは九つの愛の根本である。愛があるから求めがあり、求めるから利益があり、利益があるから用いがあり、用いがあるから欲望があり、欲望があるから執着があり、執着があるから嫉妬があり、嫉妬があるから守りがあり、守りがあるから護りがある。 九つの退く法とは何か。それは九つの悩みの法である。ある人がすでに私を侵し悩ませ、今も侵し悩ませ、これからも侵し悩ませる。私の愛する者がすでに侵され悩まされ、今も侵され悩まされ、これからも侵され悩まされる。私の憎む者がすでに愛され敬われ、今も愛され敬われ、これからも愛され敬われる。 九つの増す法とは何か。それは悩みのないことである。彼がすでに私を侵したとして、私が悩んでも何の益があろうか。すでに悩みを生じず、今も悩みを生じず、これからも悩みを生じない。私の愛する者がすでに侵され悩まされたとして、私が悩んでも何の益があろうか。すでに悩みを生じず、今も悩みを生じず、これからも悩みを生じない。私の憎む者がすでに愛され敬われたとして、私が悩んでも何の益があろうか。すでに悩みを生じず、今も悩みを生じず、これからも悩みを生じない。

「云何九難解法？謂九梵行：若比丘有信而不持戒，則梵行不具；比丘有信、有戒、則梵行具足。若比丘有信、有戒而不多聞，則梵行不具；比丘有信、有戒、有多聞，則梵行具足。若比丘有信、有戒、有多聞，不能說法，則梵行不具；比丘有信、有戒、有多聞，能說法，則梵行具足。若比丘有信、有戒、有多聞，能說法，不能養眾，則梵行不具；若比丘有信、有戒、有多聞，能說法、能養眾，則梵行具足。若比丘有信、有戒、有多聞，能說法、能養眾，不能於大眾中廣演法言，則梵行不具；若比丘有信、有戒、有多聞，能說法、能養眾，能於大眾廣演法言，則梵行具足。若比丘有信、有戒、有多聞，能說法、能養眾，能在大眾廣演法言，而不得四禪，則梵行不具；若比丘有信、有戒、有多聞，能說法、能養眾，能於大眾廣演法言，又得四禪，則梵行具足。若比丘有信、有戒、多聞，能說法、能養眾，在大眾中廣演法言，又得四禪，不於八解脫逆順遊行，則梵行不具；有比丘有信、有戒、有多聞，能說法、能養眾，於大眾中廣演法言，具足四禪，於八解脫逆順遊行，則梵行具足。若比丘有信、有戒、有多聞，能說法、能養眾，在大眾中廣演法言，得四禪，於八解脫逆順遊行，然不能盡有漏成無漏，心解脫、智慧解脫，於現法中自身作證，生死已盡，梵行已立，所作已辦，更不受有，則梵行不具；若比丘有信、有戒、有多聞，能說法、能養眾，能在大眾廣演法言，成就四禪，於八解脫逆順遊行，捨有漏成無漏，心解脫、智慧解脫，於現法中自身作證，生死已盡，梵行已立，所作已辦，更不受有，則梵行具足。

> 「九つの難を解く法とは何か。それは九つの清らかな行いである。もし比丘が信心を持っていても戒律を守らなければ、清らかな行いは完全ではない。比丘が信心を持ち、戒律を守れば、清らかな行いは完全に具わる。 もし比丘が信心を持ち、戒律を守っていても、多くを学んでいなければ、清らかな行いは完全ではない。比丘が信心を持ち、戒律を守り、多くを学べば、清らかな行いは完全に具わる。 もし比丘が信心を持ち、戒律を守り、多くを学んでいても、法を説くことができなければ、清らかな行いは完全ではない。比丘が信心を持ち、戒律を守り、多くを学び、法を説くことができれば、清らかな行いは完全に具わる。 もし比丘が信心を持ち、戒律を守り、多くを学び、法を説くことができても、多くの人々を養うことができなければ、清らかな行いは完全ではない。比丘が信心を持ち、戒律を守り、多くを学び、法を説くことができ、多くの人々を養うことができれば、清らかな行いは完全に具わる。 もし比丘が信心を持ち、戒律を守り、多くを学び、法を説くことができ、多くの人々を養うことができても、大衆の中で広く法を説くことができなければ、清らかな行いは完全ではない。比丘が信心を持ち、戒律を守り、多くを学び、法を説くことができ、多くの人々を養うことができ、大衆の中で広く法を説くことができれば、清らかな行いは完全に具わる。 もし比丘が信心を持ち、戒律を守り、多くを学び、法を説くことができ、多くの人々を養うことができ、大衆の中で広く法を説くことができても、四つの禅定を得られなければ、清らかな行いは完全ではない。比丘が信心を持ち、戒律を守り、多くを学び、法を説くことができ、多くの人々を養うことができ、大衆の中で広く法を説くことができ、さらに四つの禅定を得られれば、清らかな行いは完全に具わる。 もし比丘が信心を持ち、戒律を守り、多くを学び、法を説くことができ、多くの人々を養うことができ、大衆の中で広く法を説くことができ、四つの禅定を得られても、八つの解脱を順逆に自在に遊行することができなければ、清らかな行いは完全ではない。比丘が信心を持ち、戒律を守り、多くを学び、法を説くことができ、多くの人々を養うことができ、大衆の中で広く法を説くことができ、四つの禅定を完全に具え、八つの解脱を順逆に自在に遊行することができれば、清らかな行いは完全に具わる。 もし比丘が信心を持ち、戒律を守り、多くを学び、法を説くことができ、多くの人々を養うことができ、大衆の中で広く法を説くことができ、四つの禅定を得られ、八つの解脱を順逆に自在に遊行することができても、すべての煩悩を尽くして無漏となり、心の解脱と智慧の解脱を、現世において自ら体得し、生死が尽き、清らかな行いが確立し、なすべきことが成し遂げられ、再び存在を受けることがない境地に至らなければ、清らかな行いは完全ではない。比丘が信心を持ち、戒律を守り、多くを学び、法を説くことができ、多くの人々を養うことができ、大衆の中で広く法を説くことができ、四つの禅定を成就し、八つの解脱を順逆に自在に遊行し、煩悩を捨てて無漏となり、心の解脱と智慧の解脱を、現世において自ら体得し、生死が尽き、清らかな行いが確立し、なすべきことが成し遂げられ、再び存在を受けることがない境地に至れば、清らかな行いは完全に具わる。」

「云何九生法？謂九想：不淨想、觀食想、一切世間不可樂想、死想、無常想、無常苦想、苦無我想、盡想、無欲想。云何九知法？謂九異法：生果異、因果異。生觸異、因觸異。生受異、因受異。生想異、因想異。生集異、因集異。生欲異、因欲異。生利異、因利異。生求異、因求異。生煩惱異、因煩惱異。云何九證法？謂九盡：若入初禪，則聲刺滅。入第二禪，則覺觀刺滅。入第三禪，則喜刺滅。入第四禪，則出入息刺滅。入空處，則色想刺滅。入識處，則空想刺滅。入不用處，則識想刺滅。入有想無想處，則不用想刺滅。入滅盡定，則想受刺滅。諸比丘！是為九十法，如實不虛，如來知已，平等說法。

> 九つの生起する法とは何か。それは九つの想いである。不浄想、食を観る想い、一切の世間は楽しむに足らぬという想い、死想、無常想、無常は苦であるという想い、苦は無我であるという想い、尽きるという想い、無欲の想いである。 九つの知るべき法とは何か。それは九つの異なる法である。生じる果報が異なり、その原因となる業が異なる。生じる接触が異なり、その原因となるものが異なる。生じる感受が異なり、その原因が異なる。生じる想いが異なり、その原因が異なる。生じる集起が異なり、その原因が異なる。生じる欲望が異なり、その原因が異なる。生じる利益が異なり、その原因が異なる。生じる追求が異なり、その原因が異なる。生じる煩悩が異なり、その原因が異なる。 九つの証される法とは何か。それは九つの滅尽である。初禅に入れば、音声という刺が滅する。第二禅に入れば、覚と観という刺が滅する。第三禅に入れば、喜びという刺が滅する。第四禅に入れば、出入息という刺が滅する。空無辺処に入れば、色想という刺が滅する。識無辺処に入れば、空想という刺が滅する。無所有処に入れば、識想という刺が滅する。非想非非想処に入れば、無所有想という刺が滅する。滅尽定に入れば、想と受という刺が滅する。 比丘たちよ、これが九十の法である。ありのままに、虚妄なく、如来はこれを知り、平等に説かれたのである。

「復有十成法、十修法、十覺法、十滅法、十退法、十增法、十難解法、十生法、十知法、十證法。云何十成法？謂十救法：一者比丘二百五十戒具，威儀亦具，見有小罪，生大怖畏，平等學戒，心無傾邪。二者得善知識。三者言語中正，多所含受。四者好求善法，分布不恡。五者諸梵行人有所施設，輙往佐助，不以為勞，難為能為，亦教人為。六者多聞，聞便能持，未曾有忘。七者精進，滅不善法，增長善法。八者常自專念，無有他想，憶本善行，若在目前。九者智慧成就，觀法生滅，以賢聖律而斷苦本。十者樂於閑居，專念思惟，於禪中間無有調戲。

> さらにまた、十の成就する法、十の修める法、十の覚る法、十の滅する法、十の退く法、十の増す法、十の難解な法、十の生ずる法、十の知る法、十の証する法がある。 いったい、十の成就する法とは何か。それは十の救いの法である。 第一に、比丘は二百五十の戒を具え、威儀もまた具え、小さな罪を見ても大きな怖れを生じ、平等に戒を学び、心に傾き邪なることがない。 第二に、善き知識を得ること。 第三に、言葉が中正であり、多くを受け入れること。 第四に、善き法を求め、惜しみなく人に分け与えること。 第五に、清らかな修行者たちが何かをしようとするとき、すぐに助けに行き、それを労とせず、難しいことでもできるように努め、また人にも教えること。 第六に、多くを聞き、聞けばすぐに保ち、忘れたことがないこと。 第七に、精進して不善の法を滅し、善き法を増長させること。 第八に、常に自ら専念し、他に思いがなく、本来の善き行いを、目の前にいるかのように思い出すこと。 第九に、智慧が成就し、法の生滅を観察し、聖なる戒律によって苦の根本を断つこと。 第十に、閑居を楽しみ、専念して思惟し、禅定の間に戯れることがないこと。

「云何十修法？謂十正行：正見、正思、正語、正業、正命、正方便、正念、正定、正解脫、正知。云何十覺法？謂十色入：眼入、耳入、鼻入、舌入、身入、色入、聲入、香入、味入、觸入。云何十滅法？謂十邪行：邪見、邪思、邪語、邪業、邪命、邪方便、邪念、邪定、邪解脫、邪智。云何十退法？謂十不善行迹：身殺、盜、婬，口兩舌、惡罵、妄言、綺語，意貪取、嫉妬、邪見。云何十增法？謂十善行：身不殺、盜、婬，口不兩舌、惡罵、妄言、綺語，意不貪取、嫉妬、邪見。云何十難解法？謂十賢聖居：一者比丘除滅五枝，二者成就六枝，三者捨一，四者依四，五者滅異諦，六者勝妙求，七者無濁想，八者身行已立，九者心解脫，十者慧解脫。

> 十の修める法とは何か。それは十の正しい行いである。正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい気づき、正しい集中、正しい解脱、正しい智慧である。 十の覚える法とは何か。それは十の感覚の対象である。眼による対象、耳による対象、鼻による対象、舌による対象、身による対象、形による対象、音による対象、香りによる対象、味による対象、触れる対象である。 十の滅する法とは何か。それは十の誤った行いである。誤った見解、誤った思惟、誤った言葉、誤った行い、誤った生活、誤った努力、誤った気づき、誤った集中、誤った解脱、誤った智慧である。 十の退く法とは何か。それは十の不善な行為の道筋である。身体による殺生、盗み、邪淫。口による二枚舌、悪口、嘘、無駄話。心による貪り、嫉妬、誤った見解である。 十の増す法とは何か。それは十の善い行いである。身体による殺生をしない、盗みをしない、邪淫をしない。口による二枚舌をしない、悪口を言わない、嘘をつかない、無駄話をしない。心による貪りをしない、嫉妬をしない、誤った見解を持たない。 十の理解しがたい法とは何か。それは十の聖者の境地である。第一に比丘が五つの枝を除き滅ぼすこと。第二に六つの枝を成就すること。第三に一つのものを捨てること。第四に四つに依ること。第五に異なる真理を滅すること。第六に勝れた求道をすること。第七に濁りのない想いを持つこと。第八に身体の行いがすでに確立されていること。第九に心が解脱していること。第十に智慧が解脱していることである。

「云何十生法？謂十稱譽處：若比丘自得信已，為他人說，亦復稱歎諸得信者。自持戒已，為他人說，亦復稱歎諸持戒者。自少欲已，為他人說，亦復稱歎諸少欲者。自知足已，為他人說，亦復稱歎諸知足者。自樂閑靜，為他人說，亦復稱歎樂閑靜者。自多聞已，為他人說，亦復稱歎諸多聞者。自精進已，為他人說，亦復稱歎諸精進者。自專念已，為他人說，亦復稱歎諸專念者。自得禪定，為他人說，亦復稱歎得禪定者。自得智慧，為他人說，亦復稱歎得智慧者。

> 十の生ずる法とは何か。それは十の称賛すべき処である。すなわち、比丘が自ら信心を得たならば、他の人々にそれを説き、また信心を得た者たちを称賛する。自ら戒律を保ったならば、他の人々にそれを説き、また戒律を保つ者たちを称賛する。自ら少欲であるならば、他の人々にそれを説き、また少欲である者たちを称賛する。自ら足るを知るならば、他の人々にそれを説き、また足るを知る者たちを称賛する。自ら閑静を楽しむならば、他の人々にそれを説き、また閑静を楽しむ者たちを称賛する。自ら多聞であるならば、他の人々にそれを説き、また多聞である者たちを称賛する。自ら精進するならば、他の人々にそれを説き、また精進する者たちを称賛する。自ら専念するならば、他の人々にそれを説き、また専念する者たちを称賛する。自ら禅定を得たならば、他の人々にそれを説き、また禅定を得た者たちを称賛する。自ら智慧を得たならば、他の人々にそれを説き、また智慧を得た者たちを称賛する。

「云何十知法？謂十滅法：正見之人能滅邪見，諸緣邪見，起無數惡，亦盡除滅。諸因正見，生無數善，盡得成就正思、正語、正業、正命、正方便、正念、正定、正解脫、正智。正智之人能滅邪智，諸因邪智，起無數惡，悉皆除滅；諸因正智，起無數善法，盡得成就。云何十證法？謂十無學法：無學正見、正思、正語、正業、正命、正方便、正念、正定、正解脫、正智。諸比丘！是為百法，如實無虛，如來知已，平等說法。」

> 「十の知るべき法とは何か。それは十の滅する法である。正しい見解を持つ人は、誤った見解を滅ぼすことができる。誤った見解から生じる無数の悪は、すべて除き滅ぼされる。正しい見解から生じる無数の善は、すべて成就される。正しい思惟、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい心のとどめ方、正しい禅定、正しい解脱、正しい智慧である。正しい智慧を持つ人は、誤った智慧を滅ぼすことができる。誤った智慧から生じる無数の悪は、すべて除き滅ぼされる。正しい智慧から生じる無数の善き法は、すべて成就される。 十の証すべき法とは何か。それは十の学び終えた法である。学び終えた正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい心のとどめ方、正しい禅定、正しい解脱、正しい智慧である。 比丘たちよ、これが百の法である。真実であり偽りなく、如来はこれを知り、平等に説かれたのである。」

爾時，舍利弗佛所印可，諸比丘聞舍利弗所說，歡喜奉行。

> その時、舎利弗は仏に認められ、諸比丘は舎利弗の説法を聞き、喜んでこれに従った。