---
title: "長阿含經 · 13 大緣方便經"
description: "長阿含經是佛教原始經典四阿含之一，由後秦時期譯師佛陀耶舍與竺佛念共同譯出。該經成書於公元前1世紀左右，屬早期佛教根本聖典，記載了佛陀與弟子們的言行教法。全經共30卷，分為四分，主要內容包括佛陀生平、教義闡述、修行方法及宇宙觀等，系統性保存了原始佛教的基本教理。作為漢傳佛教重要典籍，長阿含經被視為研究原始佛教思想的核心文獻，在佛教經典體系中具有不可替代的權威地位，對後世佛教發展影響深遠。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm95s9j1b03tejz0uc565w6a2"
---

### （一三）佛說長阿含第二分大緣方便經第九

> 長阿含経 第二分 大縁方便経 第九

如是我聞：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛在拘流沙國劫摩沙住處，與大比丘眾千二百五十人俱。

> ある時、お釈迦さまは拘流沙国にある劫摩沙という地におられ、千二百五十人の大比丘（修行僧）たちと共におられました。

爾時，阿難在閑靜處，作是念言：「甚奇！甚特！世尊所說十二因緣法之光明，甚深難解，如我意觀，猶如目前，以何為深？」於是，阿難即從靜室起，至世尊所，頭面禮足，在一面坐，白世尊言：「我向於靜室，默自思念：『甚奇！甚特！世尊所說十二因緣法之光明，甚深難解，如我意觀，如在目前，以何為深？』」

> その時、阿難は静かな場所で、このように思いました。 「なんと不思議なことか。なんと特別なことか。 世尊が説かれた十二因縁の法の光明は、非常に深くて理解しがたい。 しかし、私の心で観てみると、まるで目の前にあるようだ。 一体、何が深いというのだろうか」 そこで、阿難は静室から立ち上がり、世尊のもとへ行きました。 頭を地につけて礼拝し、傍らに座ると、世尊に申し上げました。 「さきほど静室で、私は黙ってこう考えておりました。 『なんと不思議なことか。なんと特別なことか。 世尊が説かれた十二因縁の法の光明は、非常に深くて理解しがたい。 しかし、私の心で観てみると、まるで目の前にあるようだ。 一体、何が深いというのだろうか』と」

爾時，世尊告阿難曰：「止！止！勿作此言：『十二因緣法之光明，甚深難解！』阿難！此十二因緣難見難知，諸天、魔、梵、沙門、婆羅門、未見緣者，若欲思量觀察分別其義者，則皆荒迷，無能見者。阿難！我今語汝老死有緣，若有問言：『何等是老死緣？』應答彼言：『生是老死緣！』若復問言：『誰是生緣？』應答彼言：『有是生緣。』若復問言：『誰是有緣？』應答彼言：『取是有緣。』若復問言：『誰是取緣？』應答彼言：『愛是取緣。』若復問言：『誰是愛緣？』應答彼言：『受是愛緣。』若復問言：『誰是受緣？』應答彼言：『觸是受緣。』若復問言：『誰為觸緣？』應答彼言：『六入是觸緣。』若復問言：『誰為六入緣？』應答彼言：『名色是六入緣。』若復問言：『誰為名色緣？』應答彼言：『識是名色緣。』若復問言：『誰為識緣？』應答彼言：『行是識緣。』若復問言：『誰為行緣？』應答彼言：『癡是行緣。』阿難！如是緣癡有行，緣行有識，緣識有名色，緣名色有六入，緣六入有觸，緣觸有受，緣受有愛，緣愛有取，緣取有有，緣有有生，緣生有老、死、憂、悲、苦惱，大患所集，是為此大苦陰緣。」

> その時、世尊は阿難に告げられた。 「止めよ、止めよ。『十二因縁の法の光明は、とても深くて理解しがたい』などと言ってはならない。 阿難よ、この十二因縁は見難く知り難いものではあるが、天、魔、梵天、沙門、婆羅門であっても、縁起を見たことのない者が、その意味を考え、観察し、分別しようとすれば、皆迷い乱れ、見ることができないのである。 阿難よ、私は今、あなたに老死には縁があると説こう。もし『何が老死の縁なのか』と問われたら、『生が老死の縁である』と答えなさい。 もしさらに『何が生の縁なのか』と問われたら、『有が生の縁である』と答えなさい。 もしさらに『何が有の縁なのか』と問われたら、『取が有の縁である』と答えなさい。 もしさらに『何が取の縁なのか』と問われたら、『愛が取の縁である』と答えなさい。 もしさらに『何が愛の縁なのか』と問われたら、『受が愛の縁である』と答えなさい。 もしさらに『何が受の縁なのか』と問われたら、『触が受の縁である』と答えなさい。 もしさらに『何が触の縁なのか』と問われたら、『六入が触の縁である』と答えなさい。 もしさらに『何が六入の縁なのか』と問われたら、『名色が六入の縁である』と答えなさい。 もしさらに『何が名色の縁なのか』と問われたら、『識が名色の縁である』と答えなさい。 もしさらに『何が識の縁なのか』と問われたら、『行が識の縁である』と答えなさい。 もしさらに『何が行の縁なのか』と問われたら、『無明が行の縁である』と答えなさい。 阿難よ、このように、無明を縁として行があり、行を縁として識があり、識を縁として名色があり、名色を縁として六入があり、六入を縁として触があり、触を縁として受があり、受を縁として愛があり、愛を縁として取があり、取を縁として有があり、有を縁として生があり、生を縁として老・死・憂い・悲しみ・苦悩が生じる。これら大きな苦しみが集まる縁が、この大きな苦しみの集まり（苦蘊）の原因なのである。」

佛告阿難：「緣生有老死，此為何義？若使一切眾生無有生者，寧有老死不？」

> 仏は阿難に告げられた：「縁起によって老死があるとは、どういう意味か。もし一切の衆生に生まれることがなかったならば、老死などあるだろうか？」

阿難答曰：「無也。」

> 阿難は答えました。「いいえ、ありません。」

「是故，阿難！以此緣，知老死由生，緣生有老死，我所說者，義在於此。」

> それゆえ、阿難よ、この縁によって知るがよい。老死は生によって起こり、生を縁として老死がある。私が説くところの意味は、ここにあるのだ。

又告阿難：「緣有有生，此為何義？若使一切眾生無有欲有、色無色有者，寧有生不？」

> また阿難に告げられた。「『縁有って生あり』とは、どういう意味か。もしすべての生きとし生けるものに、欲有・色有・無色有がなかったならば、果たして生はあるだろうか。」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以此緣，知生由有，緣有有生，我所說者，義在於此。」

> 阿難よ、私はこの縁によって、生は有によって起こり、有を縁として生があることを知る。私が説くところの意義は、ここにある。

又告阿難：「緣取有有，此為何義？若使一切眾生無有欲取、見取、戒取、我取者，寧有有不？」

> また阿難に告げた：「縁取によって有が生じる。これはどういう意味か。もし一切の衆生に欲取、見取、戒取、我取がなかったならば、果たして有は存在するだろうか。」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以此緣，知有由取，緣取有有，我所說者，義在於此。」

> 阿難よ、私はこの縁によって、『取』によって『有』が生じることを知る。『取』を縁として『有』が生じる。私が説くところの意味は、ここにあるのです。

又告阿難：「緣愛有取，此為何義？若使一切眾生無有欲愛、有愛、無有愛者，寧有取不？」

> また阿難に告げました。「愛によって取が生じるとは、どういう意味でしょうか。もしすべての衆生に、欲愛も、有愛も、無有愛もなかったならば、取というものは生じるでしょうか？」

答曰：「無有。」

> お答えします。「ありません。」

「阿難！我以此緣，知取由愛，緣愛有取，我所說者，義在於此。」

> 阿難よ、私はこの縁によって、執着は愛欲から生じ、愛欲によって執着が起こることを知った。私が説くところの意味は、ここにあるのだ。

又告阿難：「緣受有愛，此為何義？若使一切眾生無有樂受、苦受、不苦不樂受者，寧有愛不？」

> また阿難に告げられた：「『受によって愛が生じる』とは、どういう意味か。もしすべての生きとし生けるものに、楽しい感じも、苦しい感じも、苦しくも楽しくもない感じもなかったならば、愛は生じるだろうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以此緣，知愛由受，緣受有愛，我所說者，義在於此。阿難！當知因愛有求，因求有利，因利有用，因用有欲，因欲有著，因著有嫉，因嫉有守，因守有護。阿難！由有護故，有刀杖、諍訟、作無數惡，我所說者，義在於此。阿難！此為何義，若使一切眾生無有護者，當有刀杖、諍訟，起無數惡不？」

> 阿難よ、私はこの縁によって、愛は受から生じ、受を縁として愛があることを知った。私が説くところの意味は、ここにあるのだ。 阿難よ、知るがよい。愛によって求が生じ、求によって利が生じ、利によって用が生じ、用によって欲が生じ、欲によって執着が生じ、執着によって嫉みが生じ、嫉みによって守りが生じ、守りによって護りが生じる。 阿難よ、護りがあるがゆえに、刀杖や諍い、数え切れないほどの悪行が起こるのだ。私が説くところの意味は、ここにある。 阿難よ、これはどういう意味か。もし一切の衆生に護りがなかったならば、刀杖や諍い、数え切れない悪行が起こるだろうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「是故，阿難！以此因緣，知刀杖、諍訟由護而起，緣護有刀杖、諍訟。阿難！我所說者，義在於此。」

> このゆえに、阿難よ、この因縁によって知るがよい。刀杖や諍訟は守護から起こり、守護によって刀杖や諍訟が生じることを。阿難よ、私が説くところの意味は、ここにあるのだ。

又告阿難：「因守有護，此為何義？若使一切眾生無有守者，寧有護不？」

> また阿難に告げられた：「『守るゆえに護る』とは、どういう意味か。もしすべての生きとし生けるものに守る者がいなかったならば、護ることもあるだろうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以此緣，知護由守，因守有護，我所說者，義在於此。阿難！因嫉有守，此為何義？若使一切眾生無有嫉者，寧有守不？」

> 阿難よ、私はこの縁によって、守護は守ることから生じ、守ることによって守護があることを知りました。私が説くところの意味はここにあります。 阿難よ、嫉妬によって守りが生じるとは、どういう意味でしょうか。もしすべての衆生に嫉妬がなかったならば、守りなどあるでしょうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以此緣，知守由嫉，因嫉有守，我所說者，義在於此。阿難！因著有嫉，此為何義？若使一切眾生無有著者，寧有嫉不？」

> 阿難よ、私はこの縁によって知る。執着は嫉妬から生じ、嫉妬があるから執着が生まれる。私が説くところの意味はここにある。 阿難よ、「執着によって嫉妬がある」とは、どういう意味か。もし一切の衆生に執着がなかったならば、果たして嫉妬などあるだろうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以此緣，知嫉由著，因著有嫉，我所說者，義在於此。阿難！因欲有著，此為何義？若使一切眾生無有欲者，寧有著不？」

> 阿難よ、私はこの縁によって、嫉妬は執着から生じることを知りました。執着があるからこそ嫉妬があるのです。私が説く教えの真意は、ここにあります。阿難よ、欲望によって執着が生じるとは、どういうことでしょうか。もしすべての衆生に欲望がなかったならば、果たして執着などあるでしょうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以此緣，知著由欲，因欲有著，我所說者，義在於此。阿難！因用有欲，此為何義？若使一切眾生無有用者，寧有欲不？」

> 阿難よ、私はこの縁によって、執着は欲望から生じることを知った。欲望によって執着が生じるのだ。私が説くところの意味はここにある。阿難よ、作用によって欲望が生じるとは、どういう意味か？もしすべての衆生に作用がなければ、欲望など生じるだろうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難，我以此義，知欲由用，因用有欲，我所說者，義在於此。阿難！因利有用，此為何義，若使一切眾生無有利者，寧有用不？」

> 阿難よ、私はこの道理によって、欲望は作用から生じ、作用によって欲望があることを知りました。私が説くところの意味はここにあります。阿難よ、利益によって作用があるとは、どのような意味でしょうか。もしすべての衆生に利益がなかったならば、果たして作用はあるでしょうか。

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以此義，知用由利，因利有用，我所說者，義在於此。阿難！因求有利，此為何義？若使一切眾生無有求者，寧有利不？」

> 阿難よ、私はこの道理によって、利益が用いをもたらし、用いが利益を生むことを知りました。私が説くところの意味は、ここにあります。阿難よ、求めることによって利益が生じるとは、どういう意味でしょうか。もしすべての衆生に求める心がなかったならば、果たして利益はあるでしょうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以此緣，知利由求，因求有利，我所說者，義在於此。阿難！因愛有求，此為何義？若使一切眾生無有愛者，寧有求不？」

> 阿難よ、私はこの縁によって、利益は求めることから生じ、求めることによって利益があることを知りました。私が説くところの意味は、ここにあります。 阿難よ、愛があるから求めるものがある。これはどういう意味でしょうか。もしすべての生きとし生けるものに愛がなかったならば、求めるものなどあるでしょうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以此緣，知求由愛，因愛有求，我所說者，義在於此。」

> 阿難よ、私はこの縁によって、求める心は愛着から生じ、愛着があるからこそ求める心が起こることを知りました。私が説く教えの真意は、まさにここにあるのです。

又告阿難：「因愛有求，至於守護，受亦如是，因受有求，至於守護。」

> また阿難に告げた：「愛があるからこそ執着が生まれ、執着があるからこそ守ろうとする。感受もまた同じで、感受があるからこそ執着が生まれ、執着があるからこそ守ろうとするのです。」

佛告阿難：「緣觸有受，此為何義？阿難！若使無眼、無色、無眼識者，寧有觸不？」

> 仏は阿難に告げられた：「縁によって触れ、それによって受が生じる。これはどういう意味か？阿難よ、もし眼がなく、色がなく、眼識がなかったならば、触れということがあるだろうか？」

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「若無耳、聲、耳識，鼻、香、鼻識，舌、味、舌識，身、觸、身識，意、法、意識者，寧有觸不？」

> もし耳、音、耳の認識がなく、鼻、香り、鼻の認識がなく、舌、味、舌の認識がなく、身体、触れ、身体の認識がなく、心、対象、心の認識がないならば、触れるということがありましょうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！若使一切眾生無有觸者，寧有受不？」

> 阿難よ、もし一切の衆生に触れることがなかったならば、受（感受）は生じるだろうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以是義，知受由觸，緣觸有受，我所說者，義在於此。阿難！緣名色有觸，此為何義？若使一切眾生無有名色者，寧有心觸不？」

> 阿難よ、私はこの道理によって、感受は触れ合いから生じることを知りました。触れ合いがあるからこそ感受があるのです。私が説くところの意味は、ここにあります。阿難よ、名色によって触れ合いが生じるとは、どういうことでしょうか。もしすべての生きとし生けるものに名色がなかったならば、心による触れ合いなどありえるでしょうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「若使一切眾生無形色相貌者，寧有身觸不？」

> もしすべての生きとし生けるものに形や姿がなかったならば、身体を通じた触れ合いはありえるでしょうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！若無名色，寧有觸不？」

> 阿難よ、もし名色がなければ、触はあるだろうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以是緣，知觸由名色，緣名色有觸，我所說者，義在於此。阿難！緣識有名色，此為何義？若識不入母胎者，有名色不？」

> 阿難よ、私はこの縁によって、触は名色によって生じ、名色があるからこそ触があることを知りました。私が説くところの意味は、ここにあります。阿難よ、識によって名色があるというのは、どういう意味でしょうか。もし識が母の胎内に入らなければ、名色は存在するでしょうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「若識入胎不出者，有名色不？」

> もし識が母胎に入ったまま出てこないならば、名色は生じるでしょうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「若識出胎，嬰孩壞敗，名色得增長不？」

> もし識が母胎を離れ、幼子が損なわれたなら、名色は成長を得ることができるでしょうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！若無識者，有名色不？」

> 阿難よ、もし識がなければ、名色は存在するだろうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以是緣，知名色由識，緣識有名色，我所說者，義在於此。阿難！緣名色有識，此為何義？若識不住名色，則識無住處；若無住處，寧有生、老、病、死、憂、悲、苦惱不？」

> 阿難よ、私はこの縁によって、名と色が識によって生じ、識によって名と色があることを知りました。私が説くところの意味は、ここにあります。阿難よ、名と色によって識があるとは、どういう意味でしょうか。もし識が名と色にとどまらなければ、識には住むところがありません。住むところがなければ、どうして生・老・病・死・憂い・悲しみ・苦悩があるでしょうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！若無名色，寧有識不？」

> 阿難よ、もし名色がなければ、識はあるだろうか？

答曰：「無也。」

> 答えました。「ありません。」

「阿難！我以此緣，知識由名色，緣名色有識，我所說者，義在於此。阿難！是故名色緣識，識緣名色，名色緣六入，六入緣觸，觸緣受，受緣愛，愛緣取，取緣有，有緣生，生緣老、死、憂、悲、苦、惱，大苦陰集。

> 阿難よ、私はこの縁によって、識は名色によって存在することを知るのです。名色によって識がある。私が説くところの意味は、ここにあります。 阿難よ、このゆえに、名色は識を縁とし、識は名色を縁とし、名色は六入を縁とし、六入は触を縁とし、触は受を縁とし、受は愛を縁とし、愛は取を縁とし、取は有を縁とし、有は生を縁とし、生は老・死・憂い・悲しみ・苦しみ・悩みを縁とし、大きな苦しみの集まりが起こるのです。

「阿難！齊是為語，齊是為應，齊是為限，齊此為演說，齊是為智觀，齊是為眾生。阿難！諸比丘於此法中，如實正觀，無漏心解脫。阿難！此比丘當名為慧解脫，如是解脫比丘如來終亦知，如來不終亦知，如來終不終亦知，如來非終非不終亦知，何以故？阿難！齊是為語，齊是為應，齊是為限，齊是為演說，齊是為智觀，齊是為眾生；如是盡知已，無漏心解脫比丘不知不見如是知見。阿難！夫計我者，齊幾名我見，名色與受，俱計以為我。有人言：『受非我，我是受。』或有言：『受非我，我非受，受法是我。』或有言：『受非我，我非受，受法非我，但愛是我。』

> 阿難よ。これが言葉の限界であり、これが応答の限界であり、これが理解の限界であり、これが説き示せることの限界であり、これが智慧によって観ることの限界であり、これが衆生について語ることの限界なのです。 阿難よ。比丘たちがこの教えのうちに、ありのままに正しく観じ、煩悩の尽きた心で解脱するならば、その比丘は慧解脱と名づけられるでしょう。 このように解脱した比丘は、如来が死後も存続することを知り、如来が死後も存続しないことを知り、如来が死後も存続し、かつ存続しないことを知り、如来が死後も存続せず、かつ存続しないのでもないことを知るのです。 なぜでしょうか。阿難よ。これが言葉の限界であり、これが応答の限界であり、これが理解の限界であり、これが説き示せることの限界であり、これが智慧によって観ることの限界であり、これが衆生について語ることの限界だからです。この限界をことごとく知り尽くした、煩悩の尽きた心で解脱した比丘は、このような知見があるとは知らず、見ないのです。 阿難よ。『我』を想定する者たちは、どれほどの範囲で『我』という見解を持つのでしょうか。名色と感受をともに『我』であると想定する者もいます。ある者は言います。『感受は我ではない。我が感受である』と。あるいはまた、『感受は我ではない。我は感受ではない。感受の作用が我である』と言う者もいます。あるいはまた、『感受は我ではない。我は感受ではない。感受の作用も我ではない。ただ貪愛こそが我である』と言う者もいます。

「阿難！彼見我者，言受是我，當語彼言：『如來說三受，樂受、苦受、不苦不樂受。當有樂受時，無有苦受、不苦不樂受；有苦受時，無有樂受、不苦不樂受；有不苦不樂受時，無有苦受、樂受。』所以然者？阿難！樂觸緣生樂受，若樂觸滅受亦滅。阿難！苦觸緣生苦受，若苦觸滅受亦滅；不苦不樂觸緣生不苦不樂受，若不苦不樂觸滅受亦滅。阿難！如兩木相攢則有火生，各置異處則無有火。此亦如是，因樂觸緣故生樂受，若樂觸滅受亦俱滅；因苦觸緣故生苦受，若苦觸滅受亦俱滅；因不苦不樂觸緣生不苦不樂受，若不苦不樂觸滅受亦俱滅。阿難！此三受有為無常，從因緣生，盡法、滅法，為朽壞法。彼非我有，我非彼有，當以正智如實觀之。阿難！彼見我者，以受為我，彼則為非。

> 阿難よ。もし「感覚こそが私である」と見なす者がいるならば、その者にこう語りなさい。 「如来は三つの感覚があると説かれました。楽しい感覚、苦しい感覚、苦でも楽でもない感覚です。 楽しい感覚がある時には、苦しい感覚も、苦でも楽でもない感覚もありません。 苦しい感覚がある時には、楽しい感覚も、苦でも楽でもない感覚もありません。 苦でも楽でもない感覚がある時には、苦しい感覚も、楽しい感覚もありません」 なぜそう言えるのでしょうか。阿難よ。 楽しい接触が縁となって楽しい感覚が生じます。もし楽しい接触が滅べば、その感覚もまた滅びます。 苦しい接触が縁となって苦しい感覚が生じます。もし苦しい接触が滅べば、その感覚もまた滅びます。 苦でも楽でもない接触が縁となって、苦でも楽でもない感覚が生じます。もしその接触が滅べば、その感覚もまた滅びます。 阿難よ。まるで二本の木を擦り合わせれば火が生じ、別々に置けば火が生じないのと同じです。 これもまた同じで、楽しい接触が縁となって楽しい感覚が生じ、その接触が滅べば感覚も共に滅びます。 苦しい接触が縁となって苦しい感覚が生じ、その接触が滅べば感覚も共に滅びます。 苦でも楽でもない接触が縁となってその感覚が生じ、その接触が滅べば感覚も共に滅びます。 阿難よ。これら三つの感覚は、作られたものであり、無常なものです。 因と縁から生じ、尽きる法であり、滅する法であり、朽ち壊れる法なのです。 それらは私のものではなく、私はそれらのものでもありません。 正しい智慧をもって、ありのままに観察しなさい。 阿難よ。もし私を「感覚こそが私である」と見なすならば、その見方は誤りです。

「阿難！彼見我者，言受非我，我是受者，當語彼言：『如來說三受，苦受、樂受、不苦不樂受。若樂受是我者，樂受滅時，則有二我，此則為過。若苦受是我者，苦受滅時，則有二我，此則為過。若不苦不樂受是我者，不苦不樂受滅時，則有二我，此則為過。』阿難！彼見我者，言：『受非我，我是受。』彼則為非。阿難！彼計我者，作此說：『受非我，我非受，受法是我。』當語彼言：『一切無受。汝云何言有受法？汝是受法耶？』對曰：『非是。』是故，阿難！彼計我者，言：『受非我，我非受，受法是我。』彼則為非。

> 阿難よ。もし、私を見る者が「感受作用は私ではない。私は感受作用の主体である」と言うならば、彼にこう語りなさい。 「如来は三つの感受作用を説かれました。苦の感受、楽の感受、苦でも楽でもない感受です。 もし楽の感受が私であるならば、楽の感受が滅する時、二つの私が存在することになり、これは矛盾です。 もし苦の感受が私であるならば、苦の感受が滅する時、二つの私が存在することになり、これは矛盾です。 もし苦でも楽でもない感受が私であるならば、その感受が滅する時、二つの私が存在することになり、これは矛盾です。」 阿難よ。もし、私を見る者が「感受作用は私ではない。私は感受作用である」と言うならば、それは誤りです。 阿難よ。もし、私を想定する者が、こう主張するとします。「感受作用は私ではない。私は感受作用ではない。感受作用という法こそが私である」と。 その者にはこう語りなさい。「一切のものに、固定的な感受作用は存在しない。それなのに、どうしてあなたは『感受作用という法がある』と言うのですか。あなたは、その感受作用という法なのですか。」 彼は「そうではない」と答えるでしょう。 ですから、阿難よ。もし、私を想定する者が「感受作用は私ではない。私は感受作用ではない。感受作用という法こそが私である」と言うならば、それは誤りです。

「阿難！彼計我者，作是言：『受非我，我非受，受法非我，但愛是我。』者，當語彼言：『一切無受，云何有愛？汝是愛耶？』對曰：『非也。』是故，阿難！彼計我者，言：『受非我，我非受，受法非我，愛是我。』者，彼則為非。阿難！齊是為語，齊是為應，齊是為限，齊是為演說，齊是為智觀，齊是為眾生。阿難！諸比丘於此法中如實正觀，於無漏心解脫。阿難！此比丘當名為慧解脫，如是解脫心比丘，有我亦知，無我亦知，有我無我亦知，非有我非無我亦知。何以故？阿難！齊是為語，齊是為應，齊是為限，齊是為演說，齊是為智觀，齊是為眾生；如是盡知已，無漏心解脫比丘不知不見如是知見。」

> 阿難よ、その「我」を想定する者が、このように言うならば：『感受は我ではない、我は感受ではない、感受の法は我ではない、ただ愛こそが我である』と。その者には、こう語るべきです：『一切のものに感受はない。それなのに、どうして愛があると言えるのか。あなたは愛なのか？』と。彼は『違う』と答えるでしょう。ですから、阿難よ、その「我」を想定する者が、『感受は我ではない、我は感受ではない、感受の法は我ではない、愛こそが我である』と言うならば、その主張は誤りです。 阿難よ、これが語るべき限界であり、これが応答すべき限界であり、これが論じるべき限界であり、これが説き明かすべき限界であり、これが智慧をもって観るべき限界であり、これが衆生についての限界です。阿難よ、諸比丘たちがこの法においてありのままに正しく観じ、漏れなき心の解脱を得るならば、阿難よ、この比丘は慧解脱と名づけられるべきです。このように解脱した心の比丘は、我があることも知り、我がないことも知り、我があり我がないことも知り、我があるのでもなく我がないのでもないことも知ります。なぜならば、阿難よ、これが語るべき限界であり、これが応答すべき限界であり、これが論じるべき限界であり、これが説き明かすべき限界であり、これが智慧をもって観るべき限界であり、これが衆生についての限界だからです。このようにすべてを知り尽くした後、漏れなき心の解脱を得た比丘は、このような知見を知らず、見ることもないのです。

佛語阿難：「彼計我者，齊已為定，彼計我者，或言少色是我，或言多色是我，或言少無色是我，或言多無色是我。阿難！彼言少色是我者，定少色是我，我所見是，餘者為非。多色是我者，定多色是我，我所見是，餘者為非。少無色是我者，定言少無色是我，我所見是，餘者為非。多無色是我者，定多無色是我，我所見是，餘者為非。」

> 仏は阿難に仰せになった。 「『我』というものを想定する者たちは、自分自身を基準としてそれを定めている。 『我』というものを想定する者たちの中には、『わずかな物質的な要素が我である』と言う者もいれば、『多くの物質的な要素が我である』と言う者もいる。 あるいは、『わずかな非物質的な要素が我である』と言う者もいれば、『多くの非物質的な要素が我である』と言う者もいる。 阿難よ、『わずかな物質的な要素が我である』と言う者は、『確かにわずかな物質的な要素こそが我であり、私の見解こそが正しく、他は誤りである』と固く信じている。 『多くの物質的な要素が我である』と言う者は、『確かに多くの物質的な要素こそが我であり、私の見解こそが正しく、他は誤りである』と固く信じている。 『わずかな非物質的な要素が我である』と言う者は、『確かにわずかな非物質的な要素こそが我であり、私の見解こそが正しく、他は誤りである』と固く信じている。 『多くの非物質的な要素が我である』と言う者は、『確かに多くの非物質的な要素こ

佛告阿難：「七識住，二入處，諸有沙門、婆羅門言：『此處安隱，為救、為護、為舍、為燈、為明、為歸，為不虛妄，為不煩惱。』云何為七？或有眾生，若干種身若干種想，天及人，此是初識住處。諸沙門、婆羅門言：『此處安隱，為救、為護、為舍、為燈、為明、為歸，為不虛妄，為不煩惱。』阿難！若比丘知初識住，知集、知滅、知味、知過、知出要，如實知者。阿難！彼比丘言：『彼非我，我非彼，如實知見。』或有眾生，若干種身而一想，梵光音天是；或有眾生，一身若干種想，光音天是；或有眾生一身一想，遍淨天是；或有眾生，住空處；或有眾生，住識處；或有眾生，住不用處，是為七識住處。或有沙門、婆羅門言：『此處安隱，為救、為護、為舍、為燈、為明、為歸，為不虛妄，為不煩惱。』阿難！若比丘知七識住，知集、知滅、知味、知過、知出要，如實知見，彼比丘言：『彼非我，我非彼，如實知見。』是為七識住。

> 仏は阿難に告げられた。「七つの識の住処と、二つの入り処がある。多くの沙門や婆羅門が、『ここは安穏であり、救いであり、護りであり、宿りであり、灯であり、明かりであり、帰るべきところであり、虚妄ではなく、煩悩がない』と言っている。どのような七つかというと。 ある衆生は、さまざまな身体とさまざまな想いを持ち、天界と人間界にいる。これが第一の識の住処である。沙門や婆羅門たちは、『ここは安穏であり、救いであり、護りであり、宿りであり、灯であり、明かりであり、帰るべきところであり、虚妄ではなく、煩悩がない』と言う。 阿難よ、もし比丘が第一の識の住処を知り、その集まりを知り、その滅びを知り、その味わいを知り、その過ちを知り、その出離の要を知り、ありのままに知るならば。阿難よ、その比丘は、『それは私ではない、私はそれではない』と、ありのままに知り見るのである。 ある衆生は、さまざまな身体でありながら一つの想いを持つ。梵光音天がこれである。ある衆生は、一つの身体でありながらさまざまな想いを持つ。光音天がこれである。ある衆生は、一つの身体と一つの想いを持つ。遍浄天がこれである。ある衆生は、空無辺処に住む。ある衆生は、識無辺処に住む。ある衆生は、無所有処に住む。これが七つの識の住処である。 ある沙門や婆羅門は、『ここは安穏であり、救いであり、護りであり、宿りであり、灯であり、明かりであり、帰るべきところであり、虚妄ではなく、煩悩がない』と言う。 阿難よ、もし比丘が七つの識の住処を知り、その集まりを知り、その滅びを知り、その味わいを知り、その過ちを知り、その出離の要を知り、ありのままに知り見るならば、その比丘は、『それは私ではない、私はそれではない』と、ありのままに知り見るのである。これが七つの識の住処である。」

「云何二入處？無想入、非想非無想入。是為，阿難！此二入處，或有沙門、婆羅門言：『此處安隱，為救、為護、為舍、為燈、為明、為歸，為不虛妄，為不煩惱。』阿難！若比丘知二入處，知集、知滅、知味、知過、知出要，如實知見，彼比丘言：『彼非我，我非彼，如實知見。』是為二入。

> 二つの入処とは何か。無想処と非想非無想処である。阿難よ、これが二つの入処である。ある沙門や婆羅門は、『この境地は安らかであり、救いであり、守りであり、住処であり、灯であり、明かりであり、帰依であり、虚妄ではなく、煩わしさもない』と言う。阿難よ、もし比丘がこの二つの入処を知り、その生起を知り、その滅を知り、その味わいを知り、その過ちを知り、その離れ方を知り、ありのままに知り見るならば、その比丘は、『それは私ではなく、私はそれではない』と、ありのままに知り見る。これが二つの入処である。

「阿難！復有八解脫。云何八？色觀色，初解脫。內無色想，觀外色，二解脫。淨解脫，三解脫。度色想，滅有對想，不念雜想，住空處，四解脫。度空處，住識處，五解脫。度識處，住不用處，六解脫。度不用處，住有想無想處，七解脫。滅盡定，八解脫。阿難！諸比丘於此八解脫，逆順遊行，入出自在，如是比丘得俱解脫。」

> 阿難よ、さらに八つの解脱があります。どのような八つかというと。 第一の解脱：色（物質的な形）を観じて色（物質的な形）から離れる。 第二の解脱：内に色の想いがなく、外の色を観じて離れる。 第三の解脱：清らかな境地に至る解脱。 第四の解脱：色の想いを超え、対立する想いを滅し、雑多な想いを念わず、空無辺処に住する。 第五の解脱：空無辺処を超え、識無辺処に住する。 第六の解脱：識無辺処を超え、無所有処に住する。 第七の解脱：無所有処を超え、非想非非想処に住する。 第八の解脱：想受滅定（一切の心の働きが静まった境地）。 阿難よ、比丘たちはこの八つの解脱において、順に逆に自由に行き来し、出入り自在となります。このような比丘は、完全な解脱を得るのです。

爾時，阿難聞佛所說，歡喜奉行。

> その時、阿難は仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。