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title: "長阿含經 · 17 清淨經"
description: "長阿含經是佛教原始經典四阿含之一，由後秦時期譯師佛陀耶舍與竺佛念共同譯出。該經成書於公元前1世紀左右，屬早期佛教根本聖典，記載了佛陀與弟子們的言行教法。全經共30卷，分為四分，主要內容包括佛陀生平、教義闡述、修行方法及宇宙觀等，系統性保存了原始佛教的基本教理。作為漢傳佛教重要典籍，長阿含經被視為研究原始佛教思想的核心文獻，在佛教經典體系中具有不可替代的權威地位，對後世佛教發展影響深遠。"
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## 佛說長阿含經卷第十二

> 仏説長阿含経　第十二巻

後秦弘始年佛陀耶舍共竺佛念譯

### （一七）第二分清淨經第十三

> （一七）清浄なる法の分別 第十三章

如是我聞：

一時，佛在迦維羅衛國緬祇優婆塞林中，與大比丘眾千二百五十人俱。

> ある時、お釈迦様はカピラヴァストウの国のミガダーヤの林にいらっしゃいました。千二百五十人の大勢の比丘たちと共に。

時，有沙彌周那在波波國，夏安居已，執持衣鉢，漸詣迦維羅衛緬祇園中，至阿難所，頭面禮足，於一面立，白阿難言：「波波城內有尼乾子，命終未久，其諸弟子分為二分，各共諍訟，面相毀罵，無復上下，迭相求短，競其知見：『我能知是，汝不能知；我行真正，汝為邪見。以前著後，以後著前，顛倒錯亂，無有法則。我所為妙，汝所言非，汝有所疑，當諮問我。』大德阿難！時，彼國人民事尼乾者，聞諍訟已，生厭患心。」

> その時、沙弥の周那が波波国におり、夏安居を終えて衣と鉢を持ち、次第に迦維羅衛の緬祇園に向かい、阿難のもとに至った。頭面を地に接して礼拝し、傍らに立って阿難に言った。 「波波城内に尼乾子という者がおりましたが、亡くなって間もなく、その弟子たちが二派に分かれ、互いに争い、面と向かって誹謗し合い、上下の区別もなく、互いに欠点を探し合い、知見を競い合っています。『私こそがこれを知っている、お前は知らない。私の行いは正しく、お前は邪見である』と言い、前を後ろに、後ろを前にするように物事を逆さまにし、秩序もなく混乱しています。『私の行いは優れている、お前の言うことは間違っている。お前が疑いがあるなら、私に尋ねるがよい』と。 大徳阿難よ、その国の尼乾子に帰依していた人々は、この争いを聞き、嫌悪と憂いの心を抱くようになりました。」

阿難語周那沙彌曰：「我等有言欲啟世尊，今共汝往，宣啟此事，若世尊有所戒勅，當共奉行。」

> 阿難は周那沙弥に申しました。「私たちには世尊にお伝えしたいことがございます。さあ、共に参りましょう。この件をお伝えし、もし世尊から何かご教示があれば、共に謹んで従いましょう。」

爾時，沙彌周那聞阿難語已，即共詣世尊，頭面禮足，在一面立。爾時，阿難白世尊曰：「此沙彌周那在波波國夏安居已，執持衣鉢，漸來至此，禮我足，語我言：『波波國有尼乾子，命終未久，其諸弟子分為二分，各共諍訟，面相毀罵，無復上下，迭相求短，競其知見：「我能知是，汝不能知；我行真正，汝為邪見。以前著後，以後著前，顛倒錯亂，無有法則。我所言是，汝所言非，汝有所疑，當諮問我。」時，彼國人民事尼乾者，聞諍訟已，生厭患心。』」

> その時、沙弥の周那は阿難の言葉を聞くと、共に世尊のもとへ赴き、頭面を地に接して礼拝し、一隅に立った。その時、阿難は世尊に申し上げた。「この沙弥の周那は波波国で夏安居を終え、衣と鉢を持って次第にここへ来られ、私の足を礼拝し、こう申されました。『波波国に尼乾子がいて、亡くなって間もないのですが、その弟子たちが二派に分かれ、互いに争い、面と向かって罵り合い、上下の区別もなく、互いに欠点を探し合い、それぞれの知見を競い合っています。「私こそがこれを知っている、あなたは知らない。私の行いは正しく、あなたの見解は邪である」と。前を後にし、後を前にするように、物事を逆さまにし、秩序がありません。「私の言うことが正しく、あなたの言うことは間違いだ。もし疑問があれば、私に尋ねるがよい」と言い合っています。その国で尼乾子に帰依していた人々は、この争いを聞いて、嫌悪と憂いの心を抱いています。』」

世尊告周那沙彌曰：「如是。周那！彼非法中不足聽聞，此非三耶三佛所說，猶如朽塔難可汙色。彼雖有師，盡懷邪見；雖復有法，盡不真正，不足聽採，不能出要，非是三耶三佛所說，猶如故塔不可汙也。彼諸弟子有不順其法，捨彼異見，行於正見。周那！若有人來語彼弟子：『諸賢！汝師法正，當於中行，何以捨離？』其彼弟子信其言者，則二俱失道，獲無量罪，所以者何？彼雖有法，然不真正故。周那！若師不邪見，其法真正，善可聽採，能得出要，三耶三佛所說，譬如新塔易可汙色。然諸弟子於此法中，不能勤修，不能成就，捨平等道，入於邪見，若有人來語彼弟子：『諸賢！汝師法正，當於中行，何以捨離，入於邪見？』其彼弟子信其言者，則二俱見真正，獲無量福。所以者何？其法真正。」

> 世尊は周那沙弥に告げられました。「その通りです、周那よ。あの誤った教えの中には、耳を傾ける価値はありません。これは正覚を成就された仏陀の説かれたものではなく、まるで朽ちた塔に色を塗ろうとするようなものです。たとえ師がいたとしても、皆が邪見に満ちています。たとえ法があったとしても、それは真実ではなく、聞き従うに足らず、解脱に導くことはできません。これは正覚を成就された仏陀の説かれたものではなく、まるで古びた塔に色を染められないのと同じです。しかし、その弟子たちの中には、その法に従わず、その誤った見解を捨てて、正しい見解に歩む者もいます。周那よ、もし誰かがその弟子たちにこう言ったとします。『皆さん、あなたがたの師の教えは正しいのです。その中で修行すべきです。なぜそれを捨て去ろうとするのですか』と。もしその弟子たちがその言葉を信じるならば、師も弟子も共に道を失い、計り知れない罪を得ることでしょう。なぜでしょうか。そこには法があるように見えても、それは真実ではないからです。 周那よ、もし師が邪見ではなく、その法が真実であり、よく聞き従うに値し、解脱に導くことができるならば、それは正覚を成就された仏陀の説かれたものであり、まるで新しい塔に容易に色を塗れるようなものです。しかし、その弟子たちがこの法の中で精進せず、成就することもなく、平等の道を捨てて邪見に入ってしまうことがあります。もし誰かがその弟子たちにこう言ったとします。『皆さん、あなたがたの師の教えは正しいのです。その中で修行すべきです。なぜそれを捨て去り、邪見に入ろうとするのですか』と。もしその弟子たちがその言葉を信じるならば、師も弟子も共に真実を見ることになり、計り知れない福を得ることでしょう。なぜでしょうか。その法が真実であるからです。」

佛告周那：「彼雖有師，然懷邪見；雖復有法，盡不真正，不足聽採，不能出要，非三耶三佛所說，猶如朽塔不可汙色。彼諸弟子法法成就，隨順其行，起諸邪見。周那！若有人來語其弟子言：『汝師法正，汝所行是，今所修行勤苦如是，應於現法成就道果。』彼諸弟子信受其言者，則二俱失道，獲無量罪。所以者何？以法不真正故。周那！若師不邪見，其法真正，善可聽採，能得出要，三耶三佛所說，譬如新塔易為汙色。又其弟子法法成就，隨順修行而生正見，若有人來語其弟子言：『汝師法正，汝所行是，今所修行勤苦如是，應於現法成就道果。』彼諸弟子信受其言，二俱正見，獲無量福。所以者何？法真正故。

> 仏陀は周那に告げられた： 「その師は、邪見を抱いている。その教えも、真実から外れており、聞き入れるに足らず、解脱へと導くことはできない。正覚を開かれた方（三耶三仏）の説かれたものではない。それは朽ちた塔が色を塗り直せないようなものだ。その弟子たちは、その教えをすべて実践し、師の行いに従い、さまざまな邪見を起こす。 周那よ、もし誰かがその弟子たちにこう言ったとしよう。『あなたの師の教えは正しく、あなたの行いは正しい。今、このように苦行を積んでいるのだから、現世で悟りの果実を得るべきだ』と。もし弟子たちがその言葉を信じ受け入れるなら、師と弟子の両方が正しい道を失い、計り知れない罪を負うことになる。なぜなら、その教えが真実ではないからだ。 周那よ、もし師が邪見でなく、その教えが真実であり、よく聞き入れるに値し、解脱へと導くことができ、正覚を開かれた方（三耶三仏）の説かれたものであるなら、それは新しい塔が容易に色を塗れるようなものだ。また、その弟子たちは、その教えをすべて実践し、それに従って修行し、正しい見解を生み出す。 もし誰かがその弟子たちにこう言ったとしよう。『あなたの師の教えは正しく、あなたの行いは正しい。今、このように苦行を積んでいるのだから、現世で悟りの果実を得るべきだ』と。もし弟子たちがその言葉を信じ受け入れるなら、師と弟子の両方が正しい見解を持ち、計り知れない福を得ることになる。なぜなら、その教えが真実だからだ。」

「周那！或有導師出世，使弟子生憂；或有導師出世，使弟子無憂。云何導師出世，使弟子生憂？周那！導師新出世間，成道未久，其法具足，梵行清淨，如實真要而不布現，然彼導師速取滅度，其諸弟子不得修行，皆愁憂言：『師初出世，成道未久，其法清淨，梵行具足，如實真要，竟不布現，而今導師便速滅度，我等弟子不得修行。』是為導師出世，弟子愁憂。云何導師出世，弟子不憂？謂導師出世，其法清淨，梵行具足，如實真要而廣流布，然後導師方取滅度，其諸弟子皆得修行，不懷憂言：『師初出世，成道未久，其法清淨，梵行具足，如實真要而不布現，而今導師便速滅度，使我弟子不得修行。』如是，周那！導師出世，弟子無憂。」

> 周那よ、世には二種類の導師が現れることがある。弟子たちに憂いを生じさせる導師と、弟子たちに憂いを生じさせない導師とだ。 どういう導師が現れると、弟子たちに憂いが生じるのか。周那よ、導師が新たに世に現れ、悟りを開いて間もない時、その教えは完璧で、清らかな修行の道が備わっており、真実の要諦が明らかであるにもかかわらず、それを広く示す前に、その導師が早くに亡くなってしまう場合だ。弟子たちは修行を積む機会を得られず、皆こう嘆いて憂うのである。「師は世に現れたばかりで、悟りを開いて間もないのに、その教えは清らかで、修行の道も完璧であり、真実の要諦が明らかであったのに、それを広く示す前に、今こうして師は早くに亡くなってしまわれた。私たち弟子は修行を積むことができない。」これが、導師が現れて弟子たちに憂いが生じる場合である。 では、どういう導師が現れると、弟子たちに憂いが生じないのか。導師が世に現れ、その教えが清らかで、修行の道が完璧であり、真実の要諦が明らかになって広く流布し、その後で導師が亡くなられる場合だ。弟子たちは皆、修行を積むことができ、こう嘆いて憂うことはない。「師は世に現れたばかりで、悟りを開いて間もないのに、その教えは清らかで、修行の道も完璧であり、真実の要諦が明らかであったのに、それを広く示す前に、今こうして師は早くに亡くなってしまわれた。私たち弟子は修行を積むことができない。」このように、周那よ、導師が現れても弟子たちに憂いが生じないのである。

佛告周那：「此支成就梵行，謂導師出世，出家未久，名聞未廣，是謂梵行支不具足。周那！導師出世，出家既久，名聞廣遠，是謂梵行支具足滿。周那！導師出世，出家既久，名聞亦廣，而諸弟子未受訓誨，未具梵行，未至安處，未獲己利，未能受法分布演說，有異論起不能如法而往滅之，未能變化成神通證，是為梵行支不具足。周那！導師出世，出家既久，名聞亦廣，而諸弟子盡受教訓，梵行具足，至安隱處，已獲己利，又能受法分別演說，有異論起能如法滅，變化具足成神通證，是為梵行支具足滿。

> 仏陀は周那に告げられた。「この条件が成就してこそ、梵行は完成する。すなわち、導師が世に現れ、出家して間もなく、名声が広まっていないときは、梵行の条件が整っていないといえる。周那よ、導師が世に現れ、出家して久しく、名声が広く遠くまで届いているときは、梵行の条件が具足し満たされているといえる。 周那よ、導師が世に現れ、出家して久しく、名声も広まっているが、弟子たちがまだ教えを受けず、梵行を具えず、安らぎの境地に至らず、自らの利益を得ず、教えを受け継いで広く説くことができず、異なる見解が起こったときに正しい法によってそれを鎮めることができず、神通力を得て変化を自在に示す境地に至っていないなら、それは梵行の条件が整っていないのである。 周那よ、導師が世に現れ、出家して久しく、名声も広まっている上に、弟子たちがことごとく教えを受け、梵行を具足し、安らぎの境地に至り、すでに自らの利益を得て、さらに教えを受け継いで分別し説くことができ、異なる見解が起こったときに正しい法によってそれを鎮めることができ、変化を自在に示す神通力を具えているなら、それは梵行の条件が具足し満たされているのである。」

「周那！導師出世，出家亦久，名聞亦廣，諸比丘尼未受訓誨，未至安處，未獲己利，未能受法分布演說，有異論起不能以法如實除滅，未能變化成神通證，是為梵行支未具足。周那！導師出世，出家亦久，名聞亦廣，諸比丘尼盡受教訓，梵行具足，至安隱處，已獲己利，復能受法分別演說，有異論起能如法滅，變化具足成神通證，是為梵行支具足滿。周那！諸優婆塞、優婆夷廣修梵行，乃至變化具足成神通證，亦復如是。

> 周那よ、導師が世に現れ、出家して久しく、名声も広く知られていても、比丘尼たちが教えを受けず、安らぎの境地に至らず、自らの利益を得ず、法を受け取って広く説くことができず、異なる論議が起こっても法に基づいて真実のままに除き滅ぼすことができず、神通力を得る変化を成し遂げられないなら、それは梵行の支えが未だ具わっていないということです。 周那よ、導師が世に現れ、出家して久しく、名声も広く知られ、比丘尼たちがすべて教えを受け、梵行が具わり、安らぎの境地に至り、自らの利益を得、さらに法を受け取って分別して説き、異なる論議が起こっても法に従って滅ぼし、変化が具わり神通力を得るなら、それは梵行の支えが具わり満たされているということです。 周那よ、優婆塞や優婆夷が広く梵行を修め、ついには変化が具わり神通力を得ることも、これと同じです。

「周那！若導師不在世，無有名聞，利養損減，則梵行支不具足滿。若導師在世，名聞利養，皆悉具足，無有損減，則梵行支為具足滿。若導師在世，名聞利養，皆悉具足，而諸比丘名聞利養，不能具足，是為梵行支不具足。若導師在世，名聞利養，具足無損，諸比丘眾亦復具足，則梵行支為具足滿，比丘尼眾亦復如是。

> 周那よ、もし導師が世を去り、名声や供養が損なわれるならば、梵行の支えは満たされず、不十分なものとなる。もし導師が世にあり、名声と供養が損なわれることなく、すべて十分にあるならば、梵行の支えは満たされ、十分なものとなる。もし導師が世にあり、名声と供養が十分にあるにもかかわらず、比丘たちの名声と供養が十分でないならば、それは梵行の支えが不十分であるということだ。もし導師が世にあり、名声と供養が損なわれることなく十分にあり、比丘たちもまた十分にあるならば、梵行の支えは満たされ、十分なものとなる。比丘尼たちについても、同じことが言えるのだ。

「周那！我出家久，名聞廣遠，我諸比丘已受教誡，到安隱處，自獲己利，復能受法為人說法，有異論起能如法滅，變化具足成神通證，諸比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷皆亦如是。周那！我以廣流布梵行，——乃至變化具足成神通證。周那！一切世間所有導師，不見有得名聞利養如我如來、至真、等正覺者也。周那！諸世間所有徒眾，不見有名聞利養如我眾也。周那！若欲正說者，當言見不可見。云何見不可見？一切梵行清淨具足，宣示布現，是名見不可見。」

> 周那よ、私は出家して久しく、名声は広く遠くに届いています。私の比丘たちはすでに教えを受け、安らかな境地に至り、自らの利益を得て、さらに法を受け、人々のために説法することができ、異なる論議が起これば法に則って鎮めることができます。神通力を具え、悟りを成就しています。比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷も皆、同じくこのようであります。周那よ、私は広く梵行を広め、──ついには神通力を具え、悟りを成就するに至りました。周那よ、すべての世間の導師の中で、私、如来・至真・等正覚者のように名声と利養を得た者は見当たりません。周那よ、世間のすべての徒衆の中で、私の教団のように名声と利養を得た者は見当たりません。周那よ、もし正しく説くならば、見えないものを見る、と言うべきでしょう。どうして見えないものを見るのでしょうか。すべての梵行が清浄に具わっており、それを示し広めること、これこそが見えないものを見る、ということなのです。

爾時，世尊告諸比丘：「欝頭藍子在大眾中而作是說：『有見不見，云何名見不見？如刀可見，刃不可見。』諸比丘！彼子乃引凡夫無識之言以為譬喻，如是，周那！若欲正說者，當言見不見。云何見不見？汝當正欲說言：『一切梵行清淨具足，宣示流布，是不可見。』周那！彼相續法不具足而可得，不相續法具足而不可得。周那！諸法中梵行，酪酥中醍醐。」

> その時、世尊は比丘たちに告げられました。 「鬱頭藍子が大衆の中でこのように説いています。 『見えるものと見えないものがある。どうして見えるのに見えないと言えるのか。例えば刀は見えるが、刃は見えないというように』と。 比丘たちよ、彼は凡夫の無知な言葉を引き合いに出して譬えとしているのです。 周那よ、もし正しく説こうとするならば、『見えるものと見えないもの』についてこう言うべきです。 『一切の清らかな行い（梵行）は完全に清浄であり、広く示され流布されているが、それは目に見えない』と。 周那よ、継続するもの（相続法）は不完全であっても得ることができますが、 継続しないもの（不相続法）は完全であっても得ることはできません。 周那よ、諸々の法の中における清らかな行いは、ちょうど牛乳の中の醍醐のようであるのです。」

爾時，世尊告諸比丘：「我於是法躬自作證，謂四念處、四神足、四意斷、四禪、五根、五力、七覺意、賢聖八道，汝等盡共和合，勿生諍訟，同一師受，同一水乳；於如來正法，當自熾然，快得安樂。得安樂已，若有比丘說法中有作是言：『彼所說句不正，義理不正。』比丘聞已，不可言是，不可言非，當語彼比丘言：『云何，諸賢！我句如是，汝句如是；我義如是，汝義如是。何者為勝？何者為負？』若彼比丘報言：『我句如是，我義如是；汝句如是，汝義如是；汝句亦勝，汝義亦勝。』彼比丘說此，亦不得非，亦不得是。當諫彼比丘，當呵當止，當共推求，如是盡共和合，勿生諍訟，同一受，同一師，同一乳；於如來正法，當自熾然，快得安樂。

> その時、世尊は比丘たちに告げられました。 「私はこの教えを自ら体得しました。四念処、四神足、四正断、四禅、五根、五力、七覚支、聖なる八正道です。あなた方は皆、仲良く和合し、諍いを起こさず、同じ師のもとで学び、同じ乳を分かち合いなさい。如来の正しい教えにおいて、自らを燃え立たせ、速やかに安楽を得なさい。 安楽を得た後、もし比丘が説法の中で、『あの人の説く言葉は正しくない、その意味も正しくない』などと言うことがあれば、それを聞いた比丘は、それが正しいとも正しくないとも言ってはなりません。その比丘にこう言いなさい。『どうですか、皆さん。私の言葉はこうです、あなたの言葉はこうです。私の意味はこうです、あなたの意味はこうです。どちらが優れ、どちらが劣っているのでしょうか。』 もしその比丘が答えて、『私の言葉はこうです、私の意味はこうです。あなたの言葉はこうです、あなたの意味はこうです。あなたの言葉も優れています、あなたの意味も優れています』と言ったならば、その比丘の言うことを、正しくないとも正しいとも決めつけてはなりません。その比丘を諫め、戒め、止めさせ、共に探求しなさい。このように皆が和合し、諍いを起こさず、同じ教えを受け、同じ師のもとで、同じ乳を分かち合いなさい。如来の正しい教えにおいて、自らを燃え立たせ、速やかに安楽を得なさい。」

「得安樂已，若有比丘說法，中有比丘作是言：『彼所說句不正，義正。』比丘聞已，不可言是，不可言非，當語彼比丘言：『云何，比丘！我句如是，汝句如是，何者為是？何者為非？』若彼比丘報言：『我句如是，汝句如是，汝句亦勝。』彼比丘說此，亦不得言是，不得言非。當諫彼比丘，當呵當止，當共推求，如是盡共和合，勿生諍訟，同一師受，同一水乳；於如來正法，當自熾然，快得安樂。

> 安らぎを得た後、もし比丘が説法する中で、ある比丘がこう言うならば：「彼の説く文句は正しくないが、その意味は正しい。」と。比丘はこれを聞いて、それが正しいとも、間違っているとも言ってはならない。その比丘にこう言いなさい：「どうですか、比丘よ。私の文句はこうであり、あなたの文句はこうです。どちらが正しく、どちらが間違っているのでしょうか？」もしその比丘が答えて言うならば：「私の文句はこうであり、あなたの文句はこうです。あなたの文句の方が優れています。」と。その比丘がこう言っても、正しいとも、間違っているとも言ってはならない。その比丘を諫め、戒め、止めさせ、共に探求しなさい。このようにして皆が和合し、諍いを起こさず、同じ師から学び、同じ水乳のように一つになるのです。如来の正しい教えにおいて、自らを燃え立たせ、速やかに安らぎを得なさい。

「得安樂已，若有比丘說法，中有比丘作是言：『彼所說句正，義不正。』比丘聞已，不可言是，不可言非，當語彼比丘言：『云何，比丘！我義如是，汝義如是，何者為是？何者為非？』若彼報言：『我義如是，汝義如是，汝義亦勝。』彼比丘說此已，亦不得言是，亦不得言非。當諫彼比丘，當呵當止，當共推求，如是比丘盡共和合，勿生諍訟，同一師受，同一水乳；於如來正法，當自熾然，快得安樂。

> 安らぎを得た後、もし比丘が説法する中で、ある比丘がこう言ったとする：『彼の説く文句は正しいが、その意味は正しくない』と。これを聞いた比丘は、それが正しいとも、間違っているとも言ってはならない。その比丘にこう尋ねるべきである：『比丘よ、どうだろう。私の解釈はこうであり、あなたの解釈はこうである。どちらが正しく、どちらが間違っているのだろうか？』もし彼が答えて、『私の解釈はこうであり、あなたの解釈はこうである。あなたの解釈の方が優れている』と言ったなら、その比丘がそう言った後も、正しいとも間違っているとも言ってはならない。その比丘を諫め、戒め、止めさせ、共に探求すべきである。このように比丘たちは皆和合し、諍いを起こさず、同じ師に従い、同じ水乳のように一つとなる。如来の正しい教えにおいて、自らを輝かせ、速やかに安らぎを得るのである。

「得安樂已，若有比丘說法，中有比丘作如是言：『彼所說句正，義正。』比丘聞已，不得言非，當稱讚彼言：『汝所言是，汝所言是。』是故，比丘！於十二部經自身作證，當廣流布，一曰《貫經》，二曰《祇夜經》，三曰《受記經》，四曰《偈經》，五曰《法句經》，六曰《相應經》，七曰《本緣經》，八曰《天本經》，九曰《廣經》，十曰《未曾有經》，十一曰《譬喻經》，十二曰《大教經》，當善受持，稱量觀察，廣演分布。

> 安らぎを得た後、もし比丘が説法するとき、中にいる比丘がこのように言うならば：『その説く句は正しく、その義も正しい。』比丘はそれを聞いて、否定してはならず、むしろその言葉を称賛すべきです：『あなたの言うことは正しい、あなたの言うことは正しい。』それゆえ、比丘よ！十二部経を自ら体得し、広く流布させなさい。第一は《貫経》、第二は《祇夜経》、第三は《受記経》、第四は《偈経》、第五は《法句経》、第六は《相応経》、第七は《本縁経》、第八は《天本経》、第九は《広経》、第十は《未曾有経》、第十一は《譬喩経》、第十二は《大教経》である。よく受け持ち、よく考え、よく観察し、広く説き広めなさい。

「諸比丘！我所制衣，若塚間衣，若長者衣、麤賤衣；此衣足障寒暑、蚊虻，足蔽四體。諸比丘！我所制食，若乞食，若居士食；此食自足，若身苦惱，眾患切已，恐遂至死，故聽此食，知足而已。諸比丘！我所制住處，若在樹下，若在露地，若在房內，若樓閣上，若在窟內，若在種種住處；此處自足，為障寒暑、風雨、蚊虻，下至閑靜懈息之處。諸比丘！我所制藥，若大小便，酥油蜜、黑石蜜；此藥自足，若身生苦惱，眾患切已，恐遂至死，故聽此藥。」

> 諸比丘よ。私が定めた衣について申し上げよう。墓場で拾った衣であれ、長者から施された衣であれ、粗末でつまらない衣であれ、その衣は寒さや暑さ、蚊や虻から身を守り、四体を覆うのに十分なものである。 諸比丘よ。私が定めた食について申し上げよう。托鉢で得た食であれ、在家の信者から施された食であれ、その食は自らを満たすに足る。もし身体に苦痛や様々な病苦が迫り、死に至る恐れがあるならば、この食を許す。足ることを知るだけでよい。 諸比丘よ。私が定めた住処について申し上げよう。樹の下であれ、露天であれ、小屋の中であれ、楼閣の上であれ、洞窟の中であれ、様々な住処であれ、その場所は自らを満たすに足る。寒暑や風雨、蚊や虻を防ぎ、少なくとも静かでくつろげる場所であればよい。 諸比丘よ。私が定めた薬について申し上げよう。大小便、酥油、蜜、黒砂糖などである。この薬は自らを満たすに足る。もし身体に苦痛が生じ、様々な病苦が迫り、死に至る恐れがあるならば、この薬を許す。

佛言：「或有外道梵志來作是語：『沙門釋子以眾樂自娛。』若有此言，當如是報：『汝等莫作此言，謂沙門釋子以眾樂自娛。所以者何？有樂自娛，如來呵責；有樂自娛，如來稱譽。』若外道梵志問言：『何樂自娛，瞿曇呵責？』設有此語，汝等當報：『五欲功德，可愛可樂，人所貪著。云何為五？眼知色，可愛可樂，人所貪著；耳聞聲、鼻知香、舌知味、身知觸，可愛可樂，人所貪著。諸賢！猶是五欲緣生喜樂，此是如來、至真、等正覺之所呵責也。猶如有人故殺眾生，自以為樂，此是如來、至真、等正覺之所呵責。猶如有人私竊偷盜，自以為樂，此為如來之所呵責。猶如有人犯於梵行，自以為樂，此是如來之所呵責。猶如有人故作妄語，自以為樂，此是如來之所呵責。猶如有人放蕩自恣，此是如來之所呵責。猶如有人行外苦行，非是如來所說正行，自以為樂，此是如來之所呵責。』

> 仏は言われた。 「ある時、外道の修行者がやって来て、こう言うかもしれない。『沙門釈子（仏弟子）たちは、さまざまな楽しみにふけっている』と。もしそのような言葉があれば、こう答えるがよい。 『あなたがたは、沙門釈子がさまざまな楽しみにふけっているなどと言ってはならない。なぜならば、楽しみには、如来が呵責されるものと、如来が称賛されるものがあるからである』と。 もし外道の修行者が尋ねてきて、『瞿曇（ゴータマ）は、どのような楽しみを呵責されるのですか』と問うならば、その時はこう答えるがよい。 『五欲の楽しみは、愛すべきものであり、楽しいものであり、人々が貪り執着するものである。五つとは何か。眼で見る色、耳で聞く音、鼻で嗅ぐ香り、舌で味わう味、身体で感じる触れ、これらは愛すべきものであり、楽しいものであり、人々が貪り執着するものである。 諸賢者よ、まさにこの五欲によって生じる喜びと楽しみこそ、如来・至真・等正覚が呵責されるものである。 それはちょうど、故意に生き物を殺して、それを楽しみとする人がいるようなものだ。これも如来・至真・等正覚が呵責されることである。 また、ひそかに盗みを働き、それを楽しみとする人がいるようなものだ。これも如来が呵責されることである。 また、清らかな行いを犯し、それを楽しみとする人がいるようなものだ。これも如来が呵責されることである。 また、故意に嘘をつき、それを楽しみとする人がいるようなものだ。これも如来が呵責されることである。 また、放蕩にふけり、自分勝手に振る舞う人がいる。これも如来が呵責されることである。 また、外道の苦行を行い、それは如来の説かれた正しい行いではないのに、それを楽しみとする人がいる。これも如来が呵責されることである』と。」

「諸比丘！呵責五欲功德，人所貪著。云何為五？眼知色，可愛可樂，人所貪著；耳聞聲、鼻知香、舌知味、身知觸，可愛可樂，人所貪著；如此諸樂，沙門釋子無如此樂。猶如有人故殺眾生，以此為樂，沙門釋子無如此樂。猶如有人公為盜賊，自以為樂，沙門釋子無如是樂。猶如有人犯於梵行，自以為樂，沙門釋子無如是樂。猶如有人故作妄語，自以為樂，沙門釋子無如是樂。猶如有人放蕩自恣，自以為樂，沙門釋子無如是樂。猶如有人行外苦行，自以為樂，沙門釋子無如是樂。

> 諸比丘よ。五つの欲望の対象は、人々が貪り執着するものであり、それを呵責すべきものです。その五つとは何か。 眼で見る色、それは愛すべきもの、楽しむべきもの、人々が貪り執着するものです。 耳で聞く声、鼻で嗅ぐ香り、舌で味わう味、身体で感じる触れ合い、これらもまた愛すべきもの、楽しむべきもの、人々が貪り執着するものです。 しかし、このような諸々の楽しみは、沙門である釈子にはありません。 あたかも、故意に生き物を殺すことを楽しみとする人がいるように。沙門である釈子には、そのような楽しみはありません。 あたかも、公然と盗賊となることを自らの楽しみとする人がいるように。沙門である釈子には、そのような楽しみはありません。 あたかも、清らかな行いを犯すことを自らの楽しみとする人がいるように。沙門である釈子には、そのような楽しみはありません。 あたかも、故意に嘘をつくことを自らの楽しみとする人がいるように。沙門である釈子には、そのような楽しみはありません。 あたかも、放蕩にふけり、わがままに振る舞うことを自らの楽しみとする人がいるように。沙門である釈子には、そのような楽しみはありません。 あたかも、無意味な苦行を行うことを自らの楽しみとする人がいるように。沙門である釈子には、そのような楽しみはありません。

「若外道梵志作如是問『何樂自娛，沙門瞿曇之所稱譽？』諸比丘！彼若有此言，汝等當答彼言：『諸賢！有五欲功德，可愛可樂，人所貪著。云何為五？眼知色，——乃至身知觸，可愛可樂，人所貪著。諸賢！五欲因緣生樂，當速除滅。猶如有人故殺眾生，自以為樂；有如此樂，應速除滅。猶如有人公為盜賊，自以為樂；有如此樂，應速除滅。猶如有人犯於梵行，自以為樂；有如此樂，應速除滅。猶如有人故為妄語，自以為樂；有如此樂，應速除滅。猶如有人放蕩自恣，自以為樂；有如此樂，應速除滅。猶如有人行外苦行，自以為樂；有如是樂，應速除滅。猶如有人去離貪欲，無復惡法，有覺、有觀，離生喜、樂，入初禪；如是樂者，佛所稱譽。猶如有人滅於覺、觀，內喜、一心，無覺、無觀，定生喜、樂，入第二禪；如是樂者，佛所稱譽。猶如有人除喜入捨，自知身樂，賢聖所求，護念一心，入第三禪；如是樂者，佛所稱譽。樂盡苦盡，憂、喜先滅，不苦不樂，護念清淨，入第四禪；如是樂者，佛所稱譽。』

> もし外道の修行者たちがこのように尋ねたならば、 『どのような楽しみをもって自らを慰めよと、沙門ゴータマは称賛されるのですか？』 比丘たちよ、もし彼らがこのような言葉を発したならば、あなた方は彼らにこう答えなさい。 『皆さん、五つの欲の功徳があります。それは愛すべきもの、楽しむべきもので、人々が執着するものです。 それは何かといいますと、眼が色を知る、……乃至、身体が触れを知る、これらは愛すべきもの、楽しむべきもので、人々が執着するものです。 皆さん、五欲の因縁によって生じる楽しみは、速やかに除き滅ぼすべきです。 あたかも、故意に生き物を殺して、それを楽しみとする人がいるように。そのような楽しみは、速やかに除き滅ぼすべきです。 あたかも、公然と盗賊となり、それを楽しみとする人がいるように。そのような楽しみは、速やかに除き滅ぼすべきです。 あたかも、清らかな行いを犯して、それを楽しみとする人がいるように。そのような楽しみは、速やかに除き滅ぼすべきです。 あたかも、故意に嘘をついて、それを楽しみとする人がいるように。そのような楽しみは、速やかに除き滅ぼすべきです。 あたかも、放蕩にふけり気ままに振る舞って、それを楽しみとする人がいるように。そのような楽しみは、速やかに除き滅ぼすべきです。 あたかも、外道の苦行を行って、それを楽しみとする人がいるように。そのような楽しみは、速やかに除き滅ぼすべきです。 あたかも、貪欲を離れ、悪しき法をなくし、尋（粗い思考）と伺（細かい思考）があり、離生喜楽を得て、初禅に入る人がいるように。このような楽しみは、仏が称賛されるものです。 あたかも、尋と伺を滅し、内に喜びがあり、心が一つに定まり、尋も伺もなく、定生喜楽を得て、第二禅に入る人がいるように。このような楽しみは、仏が称賛されるものです。 あたかも、喜びを除いて捨に入り、自ら身の楽みを知り、聖者が求める、護念一心を得て、第三禅に入る人がいるように。このような楽しみは、仏が称賛されるものです。 楽も尽き苦も尽き、憂いと喜びが先に滅び、苦もなく楽もなく、護念清浄を得て、第四禅に入る人がいるように。このような楽しみは、仏が称賛されるものです。』

「若有外道梵志作如是問：『汝等於此樂中求幾果功德？』應答彼言：『此樂當有七果功德。云何為七？於現法中，得成道證，正使不成，臨命終時，當成道證；若臨命終復不成者，當盡五下結，中間般涅槃、生彼般涅槃、行般涅槃、無行般涅槃、上流阿迦尼吒般涅槃。諸賢！是為此樂有七功德。諸賢！若比丘在學地欲上，求安隱處，未除五蓋，云何為五？貪欲蓋、瞋恚蓋、睡眠蓋、掉戱蓋、疑蓋。彼學比丘方欲上求，求安隱處，未滅五蓋，於四念處不能精勤，於七覺意不能勤修，欲得上人法、賢聖智慧增盛，求欲知欲見者，無有是處。諸賢！學地比丘欲上求，求安隱處，能滅五蓋：貪欲蓋、瞋恚蓋、睡眠蓋、掉戱蓋、疑蓋。於四意處又能精勤，於七覺意如實修行，欲得上人法、賢聖智慧增上，求欲知欲見者，則有是處。諸賢！若有比丘漏盡阿羅漢，所作已辦，捨於重擔，自獲己利，盡諸有結使，正智解脫，不為九事。云何為九？一者不殺，二者不盜，三者不婬，四者不妄語，五者不捨道，六者不隨欲，七者不隨恚，八者不隨怖，九者不隨癡。諸賢！是為漏盡阿羅漢所作已辦，捨於重擔，自獲己利，盡諸有結，正智得解，遠離九事。』

> もし、外道の梵志がこのように尋ねたならば： 「あなた方はこの修行の楽しみにおいて、いくつの果報と功徳を求めているのですか？」 彼らにはこう答えるべきです： 「この修行の楽しみには七つの果報と功徳があります。どの七つかというと、 現世において悟りを完成し証することができる。 たとえ完成できなくても、命の終わりに臨んで悟りを完成し証することができる。 もし命の終わりにも完成できなければ、五下分結を滅尽し、 中間般涅槃、生彼般涅槃、行般涅槃、無行般涅槃、上流阿迦尼吒般涅槃を得るのです。 皆さん、これがこの修行の楽しみが持つ七つの功徳です。 皆さん、もし学びの段階にある比丘が、より高い境地を求め、安らぎの境地を望みながら、 まだ五蓋を除いていないならば、どの五つかというと、貪欲蓋、瞋恚蓋、睡眠蓋、掉戯蓋、疑蓋です。 その学びの比丘が、より高い境地を求め、安らぎの境地を望みながら、五蓋を滅ぼさず、 四念処に精進せず、七覚支を勤め修めないのに、 すぐれた人の境地や聖者の智慧が増し盛んになることを求め、 知ろうとし見ようとすることは、ありえないのです。 皆さん、学びの段階にある比丘が、より高い境地を求め、安らぎの境地を望み、 五蓋――貪欲蓋、瞋恚蓋、睡眠蓋、掉戯蓋、疑蓋――を滅ぼし、 四念処に精進し、七覚支をありのままに修行するならば、 すぐれた人の境地や聖者の智慧が増し盛んになることを求め、 知ろうとし見ようとすることは、ありえるのです。 皆さん、もし漏尽の阿羅漢たる比丘がいて、なすべきことをなし終え、 重荷を捨て、自らの利益を得、すべての有結を滅尽し、 正しい智慧によって解脱し、九つのことに従わないならば、どの九つかというと、 一に殺さず、二に盗まず、三に淫せず、四に妄語せず、 五に道を捨てず、六に欲に従わず、七に怒りに従わず、 八に恐れに従わず、九に愚痴に従わないことです。 皆さん、これが漏尽の阿羅漢がなすべきことをなし終え、 重荷を捨て、自らの利益を得、すべての有結を滅尽し、 正しい智慧によって解脱し、九つのことを遠ざけている状態です。」

「或有外道梵志作是說言：『沙門釋子有不住法。』應報彼言：『諸賢！莫作是說：沙門釋子有不住法。所以者何？沙門釋子，其法常住，不可動轉，譬如門閫常住不動，沙門釋子亦復如是，其法常住，無有移動。』或有外道梵志作是說言：『沙門瞿曇盡知過去世事，不知未來事。』『彼比丘、彼異學梵志智異，智觀亦異，所言虛妄。如來於彼過去事，若在目前，無不知見；於未來世，生於道智。過去世事虛妄不實，不足喜樂，無所利益，佛則不記；或過去事有實，無可喜樂，無所利益，佛亦不記；若過去事有實、可樂，而無利益，佛亦不記；若過去事有實、可樂，有所利益，如來盡知然後記之；未來、現在，亦復如是。如來於過去、未來、現在，應時語、實語、義語、利語、法語、律語，無有虛也。佛於初夜成最正覺，及末後夜，於其中間有所言說，盡皆如實，故名如來。復次，如來所說如事，事如所說，故名如來。以何等義，名等正覺？佛所知見、所滅、所覺，佛盡覺知，故名等正覺。』

> ある外道の梵志がこのように言うことがあります。「沙門釈子には常住しない法がある」と。その者にはこう答えるべきです。「皆さん、そのように言ってはなりません。沙門釈子には常住しない法があるなどと。なぜなら、沙門釈子の法は常住であり、動揺することがないからです。ちょうど扉の敷居が常に動かずにあるように、沙門釈子もまた同じく、その法は常住であって、少しも動くことがありません。」 またある外道の梵志がこのように言うことがあります。「沙門瞿曇は過去のことをすべて知っているが、未来のことは知らない」と。その比丘や異学の梵志の知恵は異なり、観るものも異なるので、その言葉は虚妄です。如来は過去の事柄について、それが目の前にあるかのように、知らず見ないことはありません。未来の世においても、道の智慧が生じます。過去の事柄が虚妄で実体がなく、喜び楽しむに足らず、利益がないものについては、仏は記しません。あるいは過去の事柄に実体があっても、喜び楽しむに足らず、利益がないものについても、仏は記しません。もし過去の事柄に実体があり、喜び楽しむに足りても、利益がないものについても、仏は記しません。過去の事柄に実体があり、喜び楽しむに足り、かつ利益があるものについて、如来はすべて知ったうえで記すのです。未来や現在についても同様です。如来は過去・未来・現在について、時宜にかなった言葉、真実の言葉、意義ある言葉、利益ある言葉、法にかなった言葉、律にかなった言葉を語り、虚妄なことはありません。 仏は初夜に最上の正覚を成じ、末後夜に至るまで、その間のすべての言葉はことごとく真実のままです。それゆえに如来と呼ばれます。さらに、如来の説くことは事実のままであり、事実は説かれたままです。それゆえに如来と呼ばれます。どのような意味で等正覚と呼ばれるのでしょうか。仏が知り見、滅し、覚ったことを、仏はことごとく覚知しています。それゆえに等正覚と呼ばれるのです。

「或有外道梵志作如是說：『世間常存，唯此為實，餘者虛妄。』或復說言：『此世無常，唯此為實，餘者虛妄。』或復有言：『世間有常無常，唯此為實，餘者虛妄。』或復有言：『此世間非有常非無常，唯此為實，餘者虛妄。』或復有言：『此世間有邊，唯此為實，餘者為虛妄。』或復有言：『世間無邊，唯此為實，餘者虛妄。』或復有言：『世間有邊無邊，唯此為實，餘者虛妄。』或復有言：『世間非有邊非無邊，唯此為實，餘者虛妄。』或復有言：『是命是身，此實餘虛。』或復有言：『非命非身，此實餘虛。』或復有言：『命異身異，此實餘虛。』或復有言：『非異命非異身，此實餘虛。』或復有言：『如來有終，此實餘虛。』或復有言：『如來不終，此實餘虛。』或復有言：『如來終不終，此實餘虛。』或復有言：『如來非終非不終，此實餘虛。』諸有此見，名本生本見，今為汝記，謂：『此世常存，——乃至如來非終非不終，唯此為實，餘者虛妄，是為本見本生。』為汝記之。

> ある外道の修行者たちは、このように言います。 「世界は永遠に続くものである。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と。 あるいはまた、 「世界は永遠ではない。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言います。 また、 「世界は永遠でもあり、永遠でもない。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 また、 「世界は永遠でもなく、永遠でないのでもない。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 また、 「世界には限りがある。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 また、 「世界には限りがない。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 また、 「世界には限りもあり、限りもない。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 また、 「世界には限りもなく、限りがないのでもない。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 また、 「命と身体は同じものである。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 また、 「命と身体は同じものではない。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 また、 「命と身体は別々のものである。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 また、 「命と身体は別々のものではない。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 また、 「如来には終わりがある。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 また、 「如来には終わりがない。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 また、 「如来には終わりもあり、終わりもない。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 また、 「如来には終わりもなく、終わりがないのでもない。これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と言う者もいます。 これらの見解はすべて、根本的な生まれつきの見解です。 今、あなたのために明らかにします。 すなわち、 「この世界は永遠に続くものである」という見解から、 「如来には終わりもなく、終わりがないのでもない」という見解に至るまで、 それらを「これだけが真実であり、他の説は虚妄である」と主張するものが、 根本的な生まれつきの見解なのです。 これをあなたのために明らかにします。

「所謂未見未生者，我亦記之。何者未見未生，我所記者？色是我，從想有終，此實餘虛；無色是我，從想有終；亦有色亦無色是我，從想有終；非有色非無色是我，從想有終。我有邊，我無邊，我有邊無邊，我非有邊非無邊，從想有終。我有樂，從想有終；我無樂，從想有終；我有苦樂，從想有終；我無苦樂，從想有終。一想是我，從想有終；種種想是我，從想有終；少想是我，從想有終；無量想是我，從想有終，此實餘虛。是為邪見本見本生，我之所記。

> いわゆる「未だ見ず、未だ生ぜず」というものについて、私もそれを記しておく。どのようなものが「未だ見ず、未だ生ぜず」であり、私が記すものか。 色（肉体）が我である、と想いから終わること。これは実であり、他は虚である。 無色（肉体なきもの）が我である、と想いから終わること。 また色でもあり無色でもあるものが我である、と想いから終わること。 色でもなく無色でもないものが我である、と想いから終わること。 我には限りがある、と想いから終わること。 我には限りがない、と想いから終わること。 我には限りもあり限りもない、と想いから終わること。 我には限りもなく限りがないのでもない、と想いから終わること。 我には楽がある、と想いから終わること。 我には楽がない、と想いから終わること。 我には苦楽がある、と想いから終わること。 我には苦楽がない、と想いから終わること。 一つの想いが我である、と想いから終わること。 種々の想いが我である、と想いから終わること。 少ない想いが我である、と想いから終わること。 無量の想いが我である、と想いから終わること。これは実であり、他は虚である。 これらが、邪見の根本であり、生まれつきの見解であり、私が記すところのものである。

「或有沙門、婆羅門有如是論、有如是見：『此世常存，此實餘虛，——乃至無量想是我，此實餘虛。』彼沙門、婆羅門復作如是說、如是見：『此實，餘者虛妄。』當報彼言：『汝實作此論，云何此世常存？此實餘虛耶？如此語者，佛所不許。所以者何？此諸見中各有結使，我以理推，諸沙門、婆羅門中，無與我等者，況欲出過？此諸邪見但有言耳，不中共論，——乃至無量想是我，亦復如是。』

> ある沙門やバラモンは、このような論、このような見解を持っていることがあります―― 「この世は永遠に存在する。これが真実であり、他の見解は虚妄である」と。 あるいは「無量の想いが我である。これが真実であり、他の見解は虚妄である」とまで言うのです。 彼ら沙門やバラモンはさらにこう言い、こう見なします―― 「これが真実であり、他のものは虚妄である」と。 そのような者には、こう答えるべきです―― 「あなたは本当にこのような論を立てているのですね。 どうして『この世は永遠に存在する。これが真実であり、他の見解は虚妄である』などと言えるのでしょうか。 このような言葉は、仏によって認められていません。 なぜなら、これらの見解にはそれぞれ煩悩が結びついているからです。 私は道理をもって推し量りますが、沙門やバラモンの中で、私たちと同等の者さえいないのです。 ましてや私たちを超えようとする者などいるでしょうか。 これらの邪見は、ただ言葉だけのものであり、共に論じるに値しません。 『無量の想いが我である』という見解についても、同様です。」

「或有沙門、婆羅門作是說：『此世間自造。』復有沙門、婆羅門言：『此世間他造。』或復有言：『自造他造。』或復有言：『非自造非他造，忽然而有。』彼沙門、婆羅門言世間自造者，是沙門、婆羅門皆因觸因緣，若離觸因而能說者，無有是處。所以者何？由六入身故生觸，由觸故生受，由受故生愛，由愛故生取，由取故生有，由有故生生，由生故有老、死、憂、悲、苦惱，大患陰集。若無六入則無觸，無觸則無受，無受則無愛，無愛則無取，無取則無有，無有則無生，無生則無老、死、憂、悲、苦惱，大患陰集。又言此世間他造，又言此世間自造他造，又言此世間非自造非他造，忽然而有，亦復如是，因觸而有，無觸則無。」

> ある沙門や婆羅門はこう説く。「この世は自ら造ったものである」と。また別の沙門や婆羅門は言う。「この世は他によって造られたものである」と。ある者はまた言う。「自らも造り、他もまた造った」と。またある者は言う。「自ら造ったのでもなく、他によって造られたのでもなく、突然に存在するようになったのだ」と。 世が自ら造ったものだと説く沙門や婆羅門は、皆、触を縁としてそう言っているのであって、触という因縁を離れて語ることは、決してありえません。なぜなら、六つの感官があるから触が生じ、触があるから感受が生じ、感受があるから愛着が生じ、愛着があるから執着が生じ、執着があるから存在が生じ、存在があるから生が生じ、生があるから老いや死、憂いや悲しみ、苦しみや悩みが生じ、大きな苦しみの集積が起こるからです。 もし六つの感官がなければ触もなく、触がなければ感受もなく、感受がなければ愛着もなく、愛着がなければ執着もなく、執着がなければ存在もなく、存在がなければ生もなく、生がなければ老いや死、憂いや悲しみ、苦しみや悩みもなく、大きな苦しみの集積も起こりません。 また、世が他によって造られたと言う者も、自らも造り他も造ったと言う者も、自らでもなく他でもなく突然に存在するようになったと言う者も、同じく触を縁としてそう語っているのであって、触がなければそのような説き方はありえません。

佛告諸比丘：「若欲滅此諸邪惡見者，於四念處當修三行。云何比丘滅此諸惡，於四念處當修三行？比丘謂內身身觀，精勤不懈，憶念不忘，除世貪憂；外身身觀，精勤不懈，憶念不忘，除世貪憂；內外身身觀，憶念不忘，除世貪憂；受、意、法觀，亦復如是。是為滅眾惡法，於四念處，三種修行。有八解脫，云何為八？色觀色，初解脫。內無色想，外觀色，二解脫。淨解脫，三解脫。度色想滅有對想，住空處，四解脫。捨空處，住識處，五解脫。捨識處，住不用處，六解脫。捨不用處，住有想無想處，七解脫。滅盡定，八解脫。」

> 仏は諸比丘に告げられた。「もしこれらの諸々の邪悪な見解を滅ぼそうとするならば、四念処において三つの行いを修めるべきである。比丘よ、どのようにしてこれらの諸悪を滅ぼし、四念処において三つの行いを修めるのか。比丘は、内なる身体について身体を観察し、精進して怠ることなく、心に留めて忘れず、世間の貪りと憂いを除く。外なる身体について身体を観察し、精進して怠ることなく、心に留めて忘れず、世間の貪りと憂いを除く。内と外の身体について身体を観察し、心に留めて忘れず、世間の貪りと憂いを除く。受、心、法についての観察も、また同じである。これが諸々の悪しき法を滅ぼし、四念処において三種類の修行を行うことである。 八つの解脱がある。どのようなものが八つか。色を色として観る、これが第一の解脱である。内に色の想いがなく、外の色を観る、これが第二の解脱である。清浄なる解脱、これが第三の解脱である。色の想いを超え、有形に対する想いを滅ぼし、空無辺処に住する、これが第四の解脱である。空無辺処を捨て、識無辺処に住する、これが第五の解脱である。識無辺処を捨て、無所有処に住する、これが第六の解脱である。無所有処を捨て、非想非非想処に住する、これが第七の解脱である。想受滅定、これが第八の解脱である。」

爾時，阿難在世尊後執扇扇佛，即偏露右肩，右膝著地，叉手白佛言：「甚奇！世尊！此法清淨，微妙第一。當云何名？云何奉持？」

> その時、阿難は世尊の後ろで扇を持ってお仕えしていましたが、衣を脱いで右肩を現し、右膝を地につけ、合掌して仏に申し上げました。 「なんと尊いことでしょう、世尊。この教えは清らかで、微妙で、最も優れたものです。どのように名づけ、どのように奉持すればよいでしょうか。」

佛告阿難：「此經名為清淨，汝當清淨持之。」

> 仏は阿難に告げた：「この経は清浄と名づく。汝は清浄に持つべし。」

爾時，阿難聞佛所說，歡喜奉行。

> その時、阿難は仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。