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title: "長阿含經 · 18 自歡喜經"
description: "長阿含經是佛教原始經典四阿含之一，由後秦時期譯師佛陀耶舍與竺佛念共同譯出。該經成書於公元前1世紀左右，屬早期佛教根本聖典，記載了佛陀與弟子們的言行教法。全經共30卷，分為四分，主要內容包括佛陀生平、教義闡述、修行方法及宇宙觀等，系統性保存了原始佛教的基本教理。作為漢傳佛教重要典籍，長阿含經被視為研究原始佛教思想的核心文獻，在佛教經典體系中具有不可替代的權威地位，對後世佛教發展影響深遠。"
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### （一八）佛說長阿含第二分自歡喜經第十四

> 長阿含経 第二分 自歓喜経 第十四

如是我聞：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛在那難陀城波波利菴婆林，與大比丘眾千二百五十人俱。

> ある時、お釈迦様はナーランダの町のパーパーリカー園にいらっしゃいました。その時、千二百五十人の大勢の比丘たちがおそばにおられました。

時，長老舍利弗於閑靜處，默自念言：「我心決定知過去、未來、現在沙門、婆羅門智慧、神足、功德、道力，無有與如來、無所著、等正覺等者。」時，舍利弗從靜室起，往至世尊所，頭面禮足，在一面坐，白佛言：「向於靜室，默自思念：過去、未來、現在沙門、婆羅門智慧、神足、功德、道力，無有與如來、無所著、等正覺等者。」

> 時に、長老舎利弗は静かな場所で、黙って自らこう考えました。 「わたしの心は確信しています。過去・未来・現在の沙門や婆羅門の智慧、神通力、功徳、道の力において、如来・無所著・等正覚と同等の者は一人もいないと」 その時、舎利弗は静室から立ち上がり、世尊のもとへ赴き、頭面礼足して、一方に座り、仏に申し上げました。 「さきほど静室で、黙って自ら考えました。過去・未来・現在の沙門や婆羅門の智慧、神通力、功徳、道の力において、如来・無所著・等正覚と同等の者は一人もいないと」

佛告舍利弗：「善哉！善哉！汝能於佛前說如是語，一向受持，正師子吼，餘沙門、婆羅門無及汝者。云何，舍利弗！汝能知過去諸佛心中所念，彼佛有如是戒、如是法、如是智慧、如是解脫、如是解脫堂不？」

> お釈迦様は舎利弗におっしゃいました。「よろしい、よろしい。あなたは私の前でこのような言葉を語り、一途に教えを守り、正しい獅子吼をあげることができました。他の修行者やバラモンたちの中で、あなたに及ぶ者はありません。さて、舎利弗よ、あなたは過去の諸仏が心の中で思われたことを知ることができるでしょうか。あの仏たちはこのような戒律を持ち、このような教えを持ち、このような智慧を持ち、このような解脱を得、このような解脱の境地に至られたかどうかを。」

對曰：「不知。」

> お答えします：「わかりません。」

「云何，舍利弗！汝能知當來諸佛心中所念，有如是戒、如是法、如是智慧、如是解脫、如是解脫堂不？」

> 舎利弗よ、どうだろう。あなたは未来の諸仏が心の中で何を考えているか、知ることができるだろうか。彼らが持つ戒律、教え、智慧、解脱、そして解脱の境地が、まさにこのようなものであると。

答曰：「不知。」

> お答えします。「知りません。」

「云何，舍利弗！如我今如來、至真、等正覺心中所念，如是戒、如是法、如是智、如是解脫、如是解脫堂，汝能知不？」

> 舎利弗よ、どうであろうか。今、私が如来・至真・等正覚として心に思っていること、すなわちこのような戒、このような法、このような智、このような解脱、このような解脱の境地を、あなたは知ることができるだろうか。

答曰：「不知。」

> お答えします。「知りません。」

又告舍利弗：「過去、未來、現在如來、至真、等正覺心中所念，汝不能知，何故決定作是念？因何事生是念？一向堅持而師子吼，餘沙門、婆羅門若聞汝言：『我決定知過去、未來、現在沙門、婆羅門智慧、神足、功德、道力，無有與如來、無所著、等正覺等者。』當不信汝言。」

> また舎利弗に告げられた：「過去・未来・現在の如来・至真・等正覚の心の中に思いめぐらされることを、あなたは知ることができない。どうして決定的にそのような思いを抱き、どのような事によってその思いが生じたのか。一方的に固執して獅子吼するならば、他の沙門や婆羅門があなたの言葉を聞けば、『私は決定的に知っている。過去・未来・現在の沙門や婆羅門の智慧・神足・功徳・道力において、如来・無所著・等正覚と同等の者は存在しないと。』と、彼らはあなたの言葉を信じないであろう。」

舍利弗白佛言：「我於過去、未來、現在諸佛心中所念，我不能知，佛總相法我則能知。如來為我說法，轉高轉妙，說黑、白法，緣、無緣法，照、無照法，如來所說，轉高轉妙，我聞法已，知一一法，於法究竟，信如來、至真、等正覺，信如來法善可分別，信如來眾苦滅成就，諸善法中，此為最上。世尊智慧無餘，神通無餘，諸世間所有沙門、婆羅門無有能與如來等者，況欲出其上？

> 舎利弗は仏に申し上げました。「私は過去・未来・現在の諸仏が心に思われることを知ることはできませんが、仏の総合的な法相ならば知ることができます。如来が説かれる法は、次第に高く、次第に妙なるものであり、黒い法・白い法、縁ある法・縁なき法、照らす法・照らさぬ法を説かれます。如来の説かれる法は、次第に高く、次第に妙なるものであり、私は法を聞いて、一つ一つの法を知り、法において究極に至り、如来・至真・等正覚を信じ、如来の法は善く分別され得ることを信じ、如来の僧伽は苦を滅し成就することを信じます。あらゆる善き法の中でも、これが最も優れたものです。世尊の智慧には余りがなく、神通力には余りがなく、世にあるすべての沙門・婆羅門の中で、如来と等しい者は一人もおらず、ましてやその上に出ようとする者などいません。」

「世尊說法復有上者，謂制法。制法者，謂四念處、四正勤、四神足、四禪、五根、五力、七覺意、八賢聖道，是為無上制。智慧無餘，神通無餘，諸世間所有沙門、婆羅門皆無有與如來等者，況欲出其上者？

> 世尊が説かれる教えには、さらに優れたものがあります。それは、修行の実践方法を定めたものです。 その実践方法とは、四念処・四正勤・四神足・四禅・五根・五力・七覚支・八正道のことであり、これこそが最高の実践体系です。 如来の智慧は完全無欠であり、神通力も完全無欠です。世の中のすべての沙門や婆羅門の中で、如来と同等の者は一人もいません。ましてや、如来を超える者などいるはずがありません。

「世尊說法又有上者，謂制諸入。諸入者，謂眼色、耳聲、鼻香、舌味、身觸、意法，如過去如來、至真、等正覺亦制此入，所謂眼色，——乃至意法；正使未來如來、至真、等正覺亦制此入，所謂眼色，——乃至意法；今我如來、至真、等正覺亦制此入，所謂眼色，——乃至意法。此法無上，無能過者，智慧無餘，神通無餘，諸世間沙門、婆羅門無能與如來等者，況欲出其上？

> 世尊が説かれる教えには、さらに優れたものがあります。それは、諸々の「入」を制御することです。ここで言う「入」とは、眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法のことです。 過去の如来、至真、等正覚もまた、この入を制御されました。すなわち眼と色から始まり、意と法に至るまでです。 未来に現れる如来、至真、等正覚もまた、この入を制御されるでしょう。すなわち眼と色から始まり、意と法に至るまでです。 そして今、私、如来、至真、等正覚もまた、この入を制御しています。すなわち眼と色から始まり、意と法に至るまでです。 この教えは無上であり、これを超えるものはありません。智慧も完全であり、神通も完全です。世間の沙門や婆羅門の中で、如来と等しい者は一人もおらず、ましてや如来を超えようとする者などいるはずがありません。

「世尊說法又有上者，謂識入胎。入胎者，一謂亂入胎、亂住、亂出，二者不亂入、亂住、亂出，三者不亂入、不亂住而亂出，四者不亂入、不亂住、不亂出。彼不亂入、不亂住、不亂出者，入胎之上。此法無上，智慧無餘，神通無餘，諸世間沙門、婆羅門無能與如來等者，況欲出其上？

> 世尊はさらに優れた教えを説かれました。それは、識が胎内に入るということについてです。胎内に入るとは、四つの場合があります。 第一は、乱れて入り、乱れて留まり、乱れて出ること。 第二は、乱れずに入るが、乱れて留まり、乱れて出ること。 第三は、乱れずに入り、乱れずに留まるが、乱れて出ること。 第四は、乱れずに入り、乱れずに留まり、乱れずに出ること。 この第四の、乱れずに入り、乱れずに留まり、乱れずに出るということが、胎内に入ることの中でも最も優れた境地です。この法は無上であり、智慧は余すところなく、神通力は完全です。 世の沙門や婆羅門の中で、如来と同等である者は一人もいません。ましてや、如来を超える者などありえないのです。

「如來說法復有上者，所謂道也。所謂道者，諸沙門、婆羅門以種種方便，入定慧意三昧，隨三昧心修念覺意，依欲、依離、依滅盡、依出要；法、精進、喜、猗、定、捨覺意，依欲、依離、依滅盡、依出要。此法最上，智慧無餘，神通無餘，諸世間沙門、婆羅門無能與如來等者，況欲出其上？

> 如来が説かれる教えには、さらにすぐれたものがあります。それは「道」と呼ばれるものです。 この「道」とは、出家者やバラモンたちがさまざまな方法で、禅定と智慧の境地（三昧）に入り、その三昧の心にしたがって「念覚意」を修め、欲望に依拠せず、離れ、滅尽し、解脱を目指すことです。また、「法・精進・喜・猗・定・捨」の覚意も、同様に欲望に依拠せず、離れ、滅尽し、解脱を目指して修められます。 この教えは最もすぐれており、智慧も神通力も完全無欠です。世の出家者やバラモンたちの中で、如来と同等の者はいません。ましてや、如来を超える者などいるはずがありません。

「如來說法復有上者，所謂為滅。滅者，謂苦滅遲得，二俱卑陋；苦滅速得，唯苦卑陋；樂滅遲得，唯遲卑陋；樂滅速得，然不廣普，以不廣普，故名卑陋。如今如來樂滅速得，而復廣普，乃至天人見神變化。」

> 如来が説く法には、さらに優れたものがある。それは「滅」と呼ばれるものである。 「滅」とは次のことを指す： 苦しみの滅びを遅く得る場合、遅いことと苦しみの二つが劣っている。 苦しみの滅びを速く得る場合、苦しみだけが劣っている。 楽しみの滅びを遅く得る場合、遅いことだけが劣っている。 楽しみの滅びを速く得る場合、広く普遍的ではないので劣っている。 しかし今、如来は楽しみの滅びを速く得るとともに、広く普遍的である。そのため天や人々が神通変化を見るに至るのである。

舍利弗白佛言：「世尊所說微妙第一，下至女人，亦能受持，盡有漏成無漏，心解脫、慧解脫，於現法中自身作證：生死已盡，梵行已立，所作已辦，不受後有，是為如來說無上滅。此法無上，智慧無餘，神通無餘，諸世間沙門、婆羅門無能與如來等者，況欲出其上？

> 舎利弗は仏に申し上げました。 「世尊が説かれた教えは、極めて微妙で第一であり、女性に至るまで、それを理解し実践し、煩悩を尽くして煩悩のない境地に達し、心の解脱と智慧の解脱を得て、現世において自らそれを証することができます。 生死はすでに尽き、清らかな行いはすでに確立され、なすべきことはすでに成し遂げられ、もはや再び生を受けることはありません。 これこそが、如来が説かれる無上の涅槃です。 この法は無上であり、智慧は完全無欠であり、神通力も完全無欠です。 世間のあらゆる沙門やバラモンの中で、如来と肩を並べる者はおらず、ましてや如来を超えようとする者などいるはずがありません。」

「如來說法復有上者，謂言清淨。言清淨者，世尊於諸沙門、婆羅門，不說無益虛妄之言，言不求勝，亦不朋黨，所言柔和，不失時節，言不虛發，是為言清淨。此法無上，智慧無餘，神通無餘，諸世間沙門、婆羅門無有與如來等者，況欲出其上？

> 如来の説法には、さらに優れたものがある。それは「言葉の清らかさ」である。言葉の清らかさとは、世尊が諸々の沙門や婆羅門に対し、無益で虚しい言葉を語らず、言葉で勝とうとせず、仲間内だけで固まらず、語る言葉は柔和で、時節を失わず、無駄な発言をしないことである。これが言葉の清らかさである。この法は無上であり、智慧も神通もこれ以上なく完全である。世の沙門や婆羅門の中で如来と同等の者はおらず、ましてやそれ以上に優れた者などいない。

「如來說法復有上者，謂見定。彼見定者，謂有沙門、婆羅門種種方便，入定意三昧，隨三昧心，觀頭至足，觀足至頭，皮膚內外，但有不淨髮、毛、爪甲，肝、肺、腸、胃、脾、腎五臟，汗、肪、髓、腦、屎、尿、涕、淚，臭處不淨，無一可貪，是初見定。諸沙門、婆羅門種種方便，入定意三昧，隨三昧心，除去皮肉外諸不淨，唯觀白骨及與牙齒，是為二見定。諸沙門、婆羅門種種方便，入定意三昧，隨三昧心，除去皮肉外諸不淨及白骨，唯觀心識在何處住？為在今世？為在後世？今世不斷，後世不斷；今世不解脫，後世不解脫，是為三見定。諸沙門、婆羅門種種方便，入定意三昧，隨三昧心，除去皮肉外諸不淨及除白骨，復重觀識；識在後世，不在今世；今世斷，後世不斷；今世解脫，後世不解脫，是為四見定。諸有沙門、婆羅門種種方便，入定意三昧，隨三昧心，除去皮肉外諸不淨及除白骨，復重觀識，不在今世，不在後世；二俱斷，二俱解脫，是為五見定。此法無上，智慧無餘，神通無餘，諸世間沙門、婆羅門無與如來等者，况欲出其上？

> 如来が説かれる教えには、さらに優れたものがあります。それは「見定」と呼ばれるものです。 その「見定」とは、次のようなものです。 沙門や婆羅門たちが様々な方法によって、定（三昧）に入ります。その定の心に従って、頭から足まで、足から頭まで、皮膚の内と外を観察します。そこには、不浄な髪、毛、爪、肝、肺、腸、胃、脾、腎の五臓、汗、脂肪、髄、脳、糞、尿、鼻水、涙といった、臭くて不浄なものばかりで、一つとして貪るべきものはありません。これが第一の見定です。 沙門や婆羅門たちが様々な方法によって、定に入ります。その定の心に従って、皮肉以外の諸々の不浄なものを除き、ただ白骨と歯だけを観ます。これが第二の見定です。 沙門や婆羅門たちが様々な方法によって、定に入ります。その定の心に従って、皮肉以外の諸々の不浄なものと白骨を除き、ただ心の識がどこにあるのかを観ます。それは今世にあるのか、それとも後世にあるのか。今世で断たれず、後世でも断たれない。今世で解脱せず、後世でも解脱しない。これが第三の見定です。 沙門や婆羅門たちが様々な方法によって、定に入ります。その定の心に従って、皮肉以外の諸々の不浄なものと白骨を除き、さらに識を観ます。識は後世にあり、今世にはない。今世では断たれるが、後世では断たれない。今世では解脱するが、後世では解脱しない。これが第四の見定です。 沙門や婆羅門たちが様々な方法によって、定に入ります。その定の心に従って、皮肉以外の諸々の不浄なものと白骨を除き、さらに識を観ます。識は今世にもなく、後世にもない。両方とも断たれ、両方とも解脱している。これが第五の見定です。 この教えは無上であり、智慧も究極であり、神通も究極です。世間のあらゆる沙門や婆羅門の中で、如来と同等の者はおらず、ましてや如来を超える者などいるでしょうか。

「如來說法復有上者，謂說常法。常法者，諸沙門、婆羅門種種方便，入定意三昧，隨三昧心，憶識世間二十成劫敗劫，彼作是言：『世間常存，此為真實，餘者虛妄，所以者何？由我憶識，故知有此成劫敗劫，其餘過去我所不知，未來成敗我亦不知。』此人朝暮以無智說言：『世間常存，唯此為實，餘者為虛。』是為初常法。諸沙門、婆羅門種種方便，入定意三昧，隨三昧心，憶識四十成劫敗劫，彼作是言：『此世間常，此為真實，餘者虛妄。所以者何？以我憶識故知成劫敗劫，我復能過是，知過去成劫敗劫，我不知未來劫之成敗。』此說知始，不說知終，此人朝暮以無智說言：『世間常存，唯此真實，餘者虛妄。』此是二常法。諸沙門、婆羅門種種方便，入定意三昧，隨三昧心，憶識八十成劫敗劫，彼言：『此世間常，餘者虛妄。所以者何？以我憶識故知有成劫敗劫，復過是知過去成劫敗劫，未來劫之成敗我亦悉知。』此人朝暮以無智說言：『世間常存，唯此為實，餘者虛妄。』是為三常存法。此法無上，智慧無餘，神通無餘，諸世間沙門、婆羅門無有能與如來等者，況欲出其上？

> 如来が説く教えには、さらに上位のものがある。それは「常法」を説くことである。 常法とは何か。様々な沙門や婆羅門が、種々の方法で禅定に入り、その三昧の心に従って、この世の二十回の成劫（世界が成立する期間）と敗劫（世界が壊滅する期間）を記憶し、認識する。彼らはこう言う。「世界は永遠に存続する。これが真実であり、他の説は虚妄である。なぜなら、私が記憶し認識しているからである。私はこの成劫と敗劫を知っている。しかし、それより過去のことは知らない。未来の成劫や敗劫についても知らない」と。この人は朝夕、智慧なくして言う。「世界は永遠に存続する。これだけが真実であり、他は虚妄である」と。これが第一の常法である。 また、様々な沙門や婆羅門が、種々の方法で禅定に入り、その三昧の心に従って、四十回の成劫と敗劫を記憶し、認識する。彼らはこう言う。「この世界は永遠である。これが真実であり、他の説は虚妄である。なぜなら、私が記憶し認識しているからである。私はこの成劫と敗劫を知り、さらにそれを超えて、過去の成劫と敗劫も知っている。しかし、未来の劫の成敗については知らない」と。これは始まりを知ると説くが、終わりを知ると説かない。この人は朝夕、智慧なくして言う。「世界は永遠に存続する。これだけが真実であり、他は虚妄である」と。これが第二の常法である。 また、様々な沙門や婆羅門が、種々の方法で禅定に入り、その三昧の心に従って、八十回の成劫と敗劫を記憶し、認識する。彼らはこう言う。「この世界は永遠である。他の説は虚妄である。なぜなら、私が記憶し認識しているからである。私は成劫と敗劫があることを知り、さらにそれを超えて、過去の成劫と敗劫も知っている。未来の劫の成敗についても、私はすべて知っている」と。この人は朝夕、智慧なくして言う。「世界は永遠に存続する。これだけが真実であり、他は虚妄である」と。これが第三の常存の法である。 この法には上はなく、智慧にも余すところがなく、神通力にも余すところがない。世のあらゆる沙門や婆羅門の中に、如来と等しい者は一人もいない。ましてや、如来を超えようとする者があろうか。

「如來說法復有上者，謂觀察。觀察者，謂有沙門、婆羅門以想觀察，他心爾趣，此心爾趣，彼心作是想時，或虛或實，是為一觀察。諸沙門、婆羅門不以想觀察，或聞諸天及非人語，而語彼言：『汝心如是，汝心如是。』此亦或實或虛，是二觀察。或有沙門、婆羅門不以想觀察，亦不聞諸天及非人語，自觀己身，又聽他言，語彼人言：『汝心如是，汝心如是。』此亦有實有虛，是為三觀察。或有沙門、婆羅門不以想觀察，亦不聞諸天及非人語，又不自觀、觀他，除覺、觀已，得定意三昧，觀察他心，而語彼言：『汝心如是，汝心如是。』如是觀察則為真實，是為四觀察。此法無上，智慧無餘，神通無餘，諸世間沙門、婆羅門無有與如來等者，況欲出其上？

> 如来の説く法には、さらに上なるものがある。それは「観察」である。 観察とは、次のようなものである。 第一の観察。ある修行者やバラモンが、思いを巡らせて他者の心を観察し、「あの心はこのようであり、この心はあのようである」と考える。その思いを巡らせる時、それは真実であることもあれば、虚妄であることもある。これが第一の観察である。 第二の観察。ある修行者やバラモンは、思いを巡らせて観察するのではなく、諸天や非人の言葉を聞き、それを他者に告げて、「あなたの心はこのようであり、このようである」と言う。これもまた、真実であることもあれば、虚妄であることもある。これが第二の観察である。 第三の観察。ある修行者やバラモンは、思いを巡らせて観察するのでもなく、諸天や非人の言葉を聞くのでもない。自らの心身を観察し、また他者の言葉を聞いて、その人に「あなたの心はこのようであり、このようである」と告げる。これもまた、真実であることもあれば、虚妄であることもある。これが第三の観察である。 第四の観察。ある修行者やバラモンは、思いを巡らせて観察するのでもなく、諸天や非人の言葉を聞くのでもなく、また自らを観察し他者を観察するのでもない。あらゆる思惟と観察を離れ、定に入り、三昧の境地を得て、他者の心を観察し、その人に「あなたの心はこのようであり、このようである」と告げる。このような観察は真実である。これが第四の観察である。 この法は無上であり、智慧は余すところなく、神通力も余すところがない。世のいかなる修行者やバラモンも、如来に等しい者はおらず、ましてや如来を超えようとする者があろうか。

「如來說法復有上者，所謂教誡。教誡者，或時有人不違教誡，盡有漏成無漏，心解脫、智慧解脫，於現法中自身作證：生死已盡，梵行已立，所作已辦，不復受有，是為初教誡。或時有人不違教誡，盡五下結，於彼滅度，不還此世，是為二教誡。或時有人不違教誡，三結盡，薄淫、怒、癡，得斯陀含，還至此世而取滅度，是為三教誡。或時有人不違教誡，三結盡，得須陀洹，極七往返，必成道果，不墮惡趣，是為四教誡。此法無上，智慧無餘，神通無餘，諸世間沙門、婆羅門無有與如來等者，況欲出其上？

> 如来の説法には、さらに上位のものがある。それは教え諭すことである。教え諭すとは、時に人がその教えに背かず、煩悩を尽くして煩悩のない境地に至り、心が解き放たれ、智慧が解き放たれる。現世において自らそれを証し、生死は尽き、清らかな行いは確立され、なすべきことは成し遂げられ、再び存在を受けることはない。これが第一の教え諭しである。 時に人がその教えに背かず、五つの下位の束縛を尽くし、あの世で涅槃に入り、この世に還ってこない。これが第二の教え諭しである。 時に人がその教えに背かず、三つの束縛を尽くし、欲望・怒り・愚かさが薄らぎ、一来の境地を得て、この世に還り涅槃に入る。これが第三の教え諭しである。 時に人がその教えに背かず、三つの束縛を尽くし、預流の境地を得る。多くても七度の往還のうちに必ず悟りの果実を成就し、悪しき世界に堕ちることはない。これが第四の教え諭しである。 この教えにはより優れたものはなく、智慧もまたこれ以上なく、神通力もまたこれ以上ない。世の沙門や婆羅門の中で、如来と等しい者は一人もいない。ましてや、その上に出ようとする者があろうか。

「如來說法復有上者，為他說法，使戒清淨。戒清淨者，有諸沙門、婆羅門所語至誠，無有兩舌，常自敬肅，捐除睡眠，不懷邪諂，口不妄言，不為世人記於吉凶，不自稱說從他所得以示於人，更求他利，坐禪修智，辯才無碍，專念不亂，精勤不怠。此法無上，智慧無餘，神通無餘，諸世間沙門、婆羅門無有與如來等者，況欲出其上？

> 如来が説かれる教えには、さらに優れたものがあります。それは人々に教えを説き、戒めを清らかにすることです。戒めが清らかになると、多くの修行者やバラモンたちは誠実な言葉を語り、二枚舌を使わず、常に自らを慎み、眠気を捨て去り、邪なごまかしを抱かず、口から妄語を吐かず、世間の人々のために吉凶を占ったりせず、自分が他から得たものを自慢して人に示したり、さらなる利益を求めることもありません。座禅して智慧を修め、弁才に滞りなく、心を一処に集中して乱れず、精進して怠ることなく努めます。 この教えは最上のものであり、智慧もまたこれ以上なく、神通力もこれ以上なく、世のすべての修行者やバラモンの中で、如来に等しい者は一人もいません。ましてや、如来を超えようとする者があるでしょうか？

「如來說法復有上者，謂解脫智。謂解脫智者，世尊由他因緣內自思惟言：『此人是須陀洹，此是斯陀含，此是阿那含，此是阿羅漢。』此法無上，智慧無餘，神通無餘，諸世間沙門、婆羅門無有與如來等者，況欲出其上？

> 如来が説く法には、さらに上がある。それは解脱の智慧である。解脱の智慧とは、世尊が他の因縁によって内に思惟し、『この人は須陀洹であり、この人は斯陀含であり、この人は阿那含であり、この人は阿羅漢である』と知ることである。この法は無上であり、智慧は余すところなく、神通は余すところなく、世の沙門や婆羅門の中で如来と等しい者はなく、ましてその上に出ようとする者があろうか。

「如來說法復有上者，謂自識宿命智證。諸沙門、婆羅門種種方便，入定意三昧，隨三昧心，自憶往昔無數世事，一生、二生，——乃至百千生成劫敗劫，如是無數我於某處生，名字如是，種、姓如是，壽命如是，飲食如是，苦樂如是；從此生彼，從彼生此，若干種相，自憶宿命無數劫事，晝夜常念本所經歷。此是色，此是無色；此是想，此是無想，此是非無想，盡憶盡知。此法無上，智慧無餘，神通無餘，諸世間沙門、婆羅門無與如來等者，況欲出其上？

> 如来の説く法には、さらに上がある。それは自ら宿命の智を証得することである。 諸々の沙門や婆羅門は、種々の方法で禅定に入り、その三昧の心に随って、自ら無数の過去世のことを思い出す。一生、二生、あるいは百千生、成劫や敗劫に至るまで、このように無数の「私はかつてある所に生まれ、名前はこうであり、種族・家柄はこうであり、寿命はこうであり、飲食はこうであり、苦楽はこうであった。この生からあの生へ、あの生からこの生へ」と、さまざまな様相を自ら思い出し、無数の劫にわたる宿命のことを、昼夜を問わず常に過去に経験したことを念じ続ける。 これは色界であり、これは無色界である。これは有想であり、これは無想であり、これは非想非非想である。ことごとく思い出し、ことごとく知る。 この法は無上であり、智慧に余るものはなく、神通に余るものはない。世の沙門や婆羅門の中で、如来と等しい者はおらず、ましてその上に出ようとする者があろうか。

「如來說法復有上者，謂天眼智。天眼智者，諸沙門、婆羅門種種方便，入定意三昧，隨三昧心，觀諸眾生，死者、生者，善色、惡色，善趣、惡趣，若好、若醜，隨其所行，盡見盡知。或有眾生，成就身惡行、口惡行、意惡行，誹謗賢聖，信邪倒見，身壞命終，墮三惡道。或有眾生，身行善、口言善、意念善，不謗賢聖，見正信行，身壞命終，生天人中，以天眼淨，觀諸眾生，如實知見。此法無上，智慧無餘，神通無餘，諸世間沙門、婆羅門無與如來等者，況欲出其上？

> 如来の説法にはさらに上なるものがある。それは天眼智である。天眼智とは、沙門や婆羅門が様々な方法で禅定に入り、その定心に随って、すべての衆生を観ることである。死ぬ者、生まれる者、善き姿、悪しき姿、善趣に赴く者、悪趣に堕ちる者、美しい者、醜い者、その行いのすべてを見通し、知り尽くすのである。 ある衆生は、身の悪行、口の悪行、意の悪行を成し、賢聖を誹謗し、邪な誤った見解を信じ、身壊れ命終わって三悪道に堕ちる。またある衆生は、身に善を行い、口に善を語り、意に善を念じ、賢聖を謗ることなく、正しい信仰の行いを見て、身壊れ命終わって天上や人間界に生まれる。天眼の清らかさをもって、すべての衆生をありのままに見、知るのである。 この法は無上であり、智慧に余りなく、神通に余りない。世の沙門や婆羅門の中で如来に等しい者はなく、ましてやその上に出ようとする者があろうか。

「如來說法復有上者，謂神足證。神足證者，諸沙門、婆羅門以種種方便，入定意三昧，隨三昧心，作無數神力，能變一身為無數身，以無數身合為一身，石壁無礙，於虛空中結加趺坐。猶如飛鳥，出入於地；猶如在水，履水如地；身出烟火，如火積燃；以手捫日月，立至梵天。若沙門、婆羅門稱是神足者，當報彼言：『有此神足，非為不有。此神足者，卑賤下劣，凡夫所行，非是賢聖之所修習。若比丘於諸世間愛色不染，捨離此已，如所應行，斯乃名為賢聖神足。於無喜色，亦不憎惡，捨離此已，如所應行，斯乃名曰賢聖神足。於諸世間愛色、不愛色，二俱捨已，修平等護，專念不忘，斯乃名曰賢聖神足。猶如世尊精進勇猛，有大智慧，有知、有覺，得第一覺，故名等覺。世尊今亦不樂於欲，不樂卑賤凡夫所習，亦不勞勤受諸苦惱。世尊若欲除弊惡法，有覺、有觀，離生喜、樂，遊於初禪，如是便能除弊惡法，有覺、有觀，離生喜、樂，遊於初禪；二禪、三禪、四禪，亦復如是。精進勇猛，有大智慧，有知、有覺，得第一覺，故名等覺。』」

> 如来が説く法には、さらに上なるものがある。それは神通力による境地である。神通力による境地とは、沙門や婆羅門がさまざまな方法で禅定に入り、その三昧の心に随って、無数の神通力を現じ、一身を無数の身に変じ、また無数の身を一つに合わせ、石や壁を無碍に通り、虚空に結跏趺坐することである。あたかも飛ぶ鳥のごとくに地中に入り出で、水の中にいるように水の上を地のように歩み、身から煙と炎を出して燃え盛る火の積みのごとくになり、手で日月に触れ、たちまち梵天に至るのである。 もし沙門や婆羅門がこの神通力を称えるならば、彼らにこう告げるべきである。「この神通力があることは、確かに否定できない。しかし、この神通力は卑しく下劣なもので、凡夫が行うものであって、賢聖の修めるものではない。もし比丘が世間の愛する色（対象）に染まらず、これを捨て離れ、あるべきように行じるならば、これを賢聖の神通力という。喜ばしい色にも憎むべき色にも執着せず、これを捨て離れ、あるべきように行じるならば、これを賢聖の神通力という。世間の愛する色も愛さない色も、ともに捨て去り、平等に護り、専心に念じて忘れないならば、これを賢聖の神通力という。 あたかも世尊が精進勇猛で大いなる智慧を持ち、知慧と覚りを備え、第一の覚りを得られたゆえに『等覚』と呼ばれるように。世尊は今、欲を楽しまず、卑しい凡夫の習いを好まず、また苦労してさまざまな苦悩を受けることもない。世尊がもし悪しき法を除こうとされるならば、覚と観とを備え、離れて生じる喜と楽とをもって初禅に遊ばれる。このようにして悪しき法を除き、覚と観とを備え、離れて生じる喜と楽とをもって初禅に遊ばれる。第二禅、第三禅、第四禅もまた同様である。精進勇猛で大いなる智慧を持ち、知慧と覚りを備え、第一の覚りを得られたゆえに『等覚』と呼ばれるのである。」

佛告舍利弗：「若有外道異學來問汝言：『過去沙門、婆羅門與沙門瞿曇等不？』汝當云何答？彼復問言：『未來沙門、婆羅門與沙門瞿曇等不？』汝當云何答？彼復問言現在沙門、婆羅門與沙門瞿曇等不？汝當云何答？」

> 舎利弗よ、もし外道の異なる学びをした者があなたに尋ねてきて、『過去の沙門や婆羅門は、沙門瞿曇（釈尊）と同等でしょうか？』と問うたなら、あなたはどう答えるか。さらに彼らが、『未来の沙門や婆羅門は、沙門瞿曇と同等でしょうか？』と問うたなら、どう答えるか。また彼らが、『現在の沙門や婆羅門は、沙門瞿曇と同等でしょうか？』と問うたなら、どう答えるか。

時，舍利弗白佛言：「設有是問：『過去沙門、婆羅門與佛等不？』當答言：『有。』設問：『未來沙門、婆羅門與佛等不？』當答言：『有。』設問：『現在沙門、婆羅門與佛等不？』當答言：『無。』」

> その時、舎利弗は仏に申し上げました。 「もし、『過去の沙門や婆羅門は仏と等しいか』と問われたならば、『等しい』と答えるべきでしょう。 また、『未来の沙門や婆羅門は仏と等しいか』と問われたならば、『等しい』と答えるべきでしょう。 しかし、『現在の沙門や婆羅門は仏と等しいか』と問われたならば、『等しくない』と答えるべきでしょう。」

佛告舍利弗：「彼外道梵志或復問言：『汝何故或言有？或言無？』汝當云何答？」

> 仏は舎利弗に告げられた：「もし外道の修行者たちが『あなたはなぜ、ある時は『ある』と言い、ある時は『ない』と言うのか』と尋ねたなら、あなたはどう答えるだろうか？」

舍利弗言：「我當報彼：『過去三耶三佛與如來等，未來三耶三佛與如來等，我躬從佛聞，欲使現在有三耶三佛與如來等者，無有是處。』世尊！我如所聞，依法順法，作如是答，將無咎耶？」

> 舎利弗は申し上げました： 「私は彼にこう答えるつもりです： 『過去の三耶三仏は如来と等しく、 未来の三耶三仏も如来と等しい。 私は仏から直接こう聞きました。 もし現在に三耶三仏が如来と等しいということがあるならば、 それはありえないことです』と。 世尊よ、私は聞いたままに、 法に従い、法に順ってこのように答えました。 これに過ちはないでしょうか？」

佛言：「如是答，依法順法，不違也。所以然者？過去三耶三佛與我等，未來三耶三佛與我等，欲使現在有二佛出世，無有是處。」

> 仏は言われた。「そのように答えることは、法に従い、法に背かぬことである。なぜならば、過去の三耶三仏は我らと同じであり、未来の三耶三仏も我らと同じである。今、世に二仏が現れることがあるはずがない。」

爾時，尊者欝陀夷在世尊後執扇扇佛，佛告之曰：「欝陀夷！汝當觀世尊少欲知足，今我有大神力，有大威德，而少欲知足，不樂在欲。欝陀夷！若餘沙門、婆羅門於此法中能勤苦得一法者，彼便當豎幡，告四遠言：『如來今者少欲知足，今觀如來少欲知足，如來有大神力，有大威德，不用在欲。』」

> その時、尊者ウッダインは世尊の後ろに立ち、扇であおいでいました。世尊は彼に告げられました。 「ウッダインよ、汝は世尊が少欲知足であることを観るがよい。今、私は大いなる神通力と威徳を持ちながら、少欲知足であり、欲に執着することを喜ばない。ウッダインよ、もし他の沙門や婆羅門が、この法の中で一つの徳を得るために苦行したならば、彼らは旗を掲げ、四方に告げるであろう。『如来は今、少欲知足である。今、如来の少欲知足を観よ。如来は大いなる神通力と威徳を持ちながら、欲を必要としない』と。」

爾時，尊者欝陀夷正衣服，偏露右肩，右膝著地，叉手白佛言：「甚奇！世尊！少有少欲知足如世尊者，世尊有大神力，有大威德，不用在欲。若復有餘沙門、婆羅門於此法中能勤苦得一法者，便能豎幡，告四遠言：『世尊今者少欲知足。』舍利弗！當為諸比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷數說此法，彼若於佛、法、僧，於道有疑者，聞說此法，無復疑網。」

> その時、尊者ウッダーヤンは衣を整え、右肩を露わし、右膝を地につけ、合掌して仏に申し上げました。 「なんと不思議なことでしょう、世尊よ。世尊のように少欲にして足ることを知る方は、まことに稀であります。世尊は大いなる神通力と威徳をお持ちでありながら、欲に執着されることはありません。もし他の沙門や婆羅門が、この教えの中で一つの法を懸命に得たならば、すぐに旗を掲げ、四方に告げて言うでしょう、『世尊は今、少欲にして足ることを知っておられる』と。舎利弗よ、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷のために、この法を繰り返し説いてください。もし彼らが仏、法、僧、あるいは道について疑いを持つ者がいたならば、この法を聞いて、もはや疑いの網にかかることはないでしょう。」

爾時，世尊告舍利弗：「汝當為諸比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷數說此法。所以者何？彼於佛、法、僧，於道有疑者，聞汝所說，當得開解。」

> その時、世尊は舎利弗に告げられました。 「そなたは、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷たちに、この法を繰り返し説くがよい。なぜならば、仏、法、僧、そして道について疑いを持つ者が、そなたの説くことを聞けば、理解が開かれるであろうからである。」

對曰：「唯然。世尊！」

> お答えします。「はい、かしこまりました。世尊よ！」

時，舍利弗即便數數為諸比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷說法，以自清淨故，故名清淨經。

> その時、舎利弗はたびたび比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷のために説法をしました。自らが清浄であるからこそ、『清浄経』と呼ばれるのです。

爾時，舍利弗聞佛所說，歡喜奉行。

> その時、舎利弗は仏の説かれたことを聞き、喜んでそれに従った。