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title: "長阿含經 · 21 梵動經"
description: "長阿含經是佛教原始經典四阿含之一，由後秦時期譯師佛陀耶舍與竺佛念共同譯出。該經成書於公元前1世紀左右，屬早期佛教根本聖典，記載了佛陀與弟子們的言行教法。全經共30卷，分為四分，主要內容包括佛陀生平、教義闡述、修行方法及宇宙觀等，系統性保存了原始佛教的基本教理。作為漢傳佛教重要典籍，長阿含經被視為研究原始佛教思想的核心文獻，在佛教經典體系中具有不可替代的權威地位，對後世佛教發展影響深遠。"
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## 佛說長阿含經卷第十四

> 仏説長阿含経　第十四巻

後秦弘始年佛陀耶舍共竺佛念譯

> 後秦弘始年間、仏陀耶舎と竺仏念による共訳

### （二一）第三分梵動經第二

> 第三分 梵動経 第二

如是我聞：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛遊摩竭國，與大比丘眾千二百五十人俱，遊行人間，詣竹林，止宿在王堂上。時，有梵志名曰善念，善念弟子名梵摩達，師徒常共隨佛後行，而善念梵志以無數方便毀謗佛、法及比丘僧，其弟子梵摩達以無數方便稱讚佛、法及比丘僧，師徒二人各懷異心，共相違背。所以者何？斯由異習、異見、異親近故。

> ある時、仏はマガダ国を遊行され、千二百五十人の大比丘衆と共に、人々の住む里を巡り、竹林に至り、王舎城の講堂に宿られた。その時、善念という名のバラモンがいた。善念には梵摩達という弟子がおり、師弟は常に共に仏の後を歩いて従っていた。しかし、善念バラモンは数限りない方法で仏と法と比丘僧を誹謗し、その弟子の梵摩達は数限りない方法で仏と法と比丘僧を称賛した。師と弟子の二人はそれぞれ異なる心を抱き、互いに反対のことをしていた。なぜそうなったのか？それは、異なる習慣、異なる見解、異なる親しみ方によるのである。

爾時，眾多比丘於乞食後集會講堂，作如是論：「甚奇！甚特！世尊有大神力，威德具足，盡知眾生志意所趣。而此善念梵志及其弟子梵摩達隨逐如來及比丘僧；而善念梵志以無數方便毀謗佛、法及與眾僧，弟子梵摩達以無數方便稱讚如來及法、眾僧；師徒二人各懷異心，異見、異習、異親近故。」

> その時、多くの比丘たちは托鉢の後に講堂に集まり、このように語り合いました。「実に不思議だ、実に驚くべきことだ。世尊は大いなる神通力を持ち、威徳を備え、あらゆる衆生の心の向かうところをすべて知っておられる。それなのに、この善念梵志とその弟子である梵摩達は、如来と比丘僧団に付き従っている。しかし善念梵志は数え切れないほどの方法で、仏と法と僧伽を誹謗し、弟子の梵摩達は数え切れないほどの方法で、如来と法と僧伽を称賛している。師と弟子の二人はそれぞれ異なる心を抱き、異なる見解を持ち、異なる習慣を身につけ、異なる親しみ方をしているのだから。」

爾時，世尊於靜室中以天淨耳過於人耳，聞諸比丘有如是論，世尊於淨室起詣講堂所，大眾前坐，知而故問：「諸比丘！汝等以何因緣集此講堂？何所論說？」

> その時、世尊は静かな部屋で、人間の耳を超えた清らかな天耳をもって、比丘たちがこのような議論をしているのをお聞きになりました。世尊は静かな部屋から起き上がり、講堂へと向かわれ、大勢の前にお座りになりました。そして、ご存知でありながらあえてお尋ねになりました。 「比丘たちよ、あなた方はどのような理由でこの講堂に集まり、何について論じているのですか？」

時，諸比丘白佛言：「我等於乞食後集此講堂，眾共議言：『甚奇！甚特！如來有大神力，威德具足，盡知眾生心志所趣。而今善念梵志及弟子梵摩達常隨如來及與眾僧，以無數方便毀謗如來及法、眾僧，弟子梵摩達以無數方便稱讚如來及法、眾僧。所以者何？以其異見、異習、異親近故。』向集講堂議如是事。」

> その時、比丘たちは仏に申し上げました。「私たちは托鉢の後、この講堂に集まり、一同で話し合いました。『なんと不思議なことでしょう。如来は大いなる神力と威徳を備えられ、すべての衆生の心の趣向を知り尽くしておられます。それなのに、善念梵志とその弟子の梵摩達は常に如来と僧伽に付き従い、無数の手段で如来と法、僧伽を誹謗しています。一方、弟子の梵摩達は無数の手段で如来と法、僧伽を称賛しています。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。それは、彼らが異なる見解、異なる習慣、異なる親近を持つからです。』私たちは先ほど講堂に集まり、このようなことを話し合っていたのです。」

爾時，世尊告諸比丘：「若有方便毀謗如來及法、眾僧者，汝等不得懷忿結心，害意於彼，所以者何？若誹謗我、法及比丘僧，汝等懷忿結心，起害意者，則自陷溺，是故汝等不得懷忿結心，害意於彼。比丘若稱譽佛及法、眾僧者，汝等於中亦不足以為歡喜慶幸，所以者何？若汝等生歡喜心，即為陷溺，是故汝等不應生喜。所以者何？此是小緣威儀戒行，凡夫寡聞，不達深義，直以所見如實讚嘆。

> その時、世尊は比丘たちに告げられた。「もし如来や法、僧伽を誹謗する者がいたとしても、あなた方は憤りを抱き、恨みを結び、彼らに害意を抱いてはならない。なぜなら、もし私や法、比丘僧を誹謗する者に対して、あなた方が憤りを抱き、害意を起こすならば、それは自らを陥れることになるからだ。だから、あなた方は憤りを抱き、害意を抱いてはならない。比丘よ、もし仏や法、僧伽を称賛する者がいたとしても、あなた方はそれに対して喜びや慶びを感じてはならない。なぜなら、もしあなた方が喜びの心を生じさせれば、それもまた陥ることになるからだ。だから、あなた方は喜びを生じてはならない。なぜなら、これは些細な縁による威儀や戒行に過ぎず、凡夫は聞くことが少なく、深い意味を理解せず、ただ目に見えるままをありのままに称賛しているだけだからである。」

「云何小緣威儀戒行，凡夫寡聞，直以所見如實稱讚？彼讚嘆言：『沙門瞿曇滅殺、除殺，捨於刀杖，懷慙愧心，慈愍一切。』此是小緣威儀戒行，彼寡聞凡夫以此歎佛。又嘆：『沙門瞿曇捨不與取，滅不與取，無有盜心。』又嘆：『沙門瞿曇捨於婬欲，淨修梵行，一向護戒，不習婬逸，所行清潔。』又嘆：『沙門瞿曇捨滅妄語，所言至誠，所說真實，不誑世人。沙門瞿曇捨滅兩舌，不以此言壞亂於彼，不以彼言壞亂於此；有諍訟者能令和合，已和合者增其歡喜，有所言說不離和合，誠實入心，所言知時。沙門瞿曇捨滅惡口，若有麤言傷損於人，增彼結恨長怨憎者，如此麤言盡皆不為；常以善言悅可人心，眾所愛樂，聽無厭足，但說此言。沙門瞿曇捨滅綺語，知時之語、實語、利語、法語、律語、止非之語，但說是言。

> いわゆる小さな縁起による威儀と戒律の行いとは、いかにして、見聞の狭い凡夫が、ただ自分の見たままをありのままに称賛することなのでしょうか？彼らは称賛してこう言います。「沙門瞿曇（釈尊）は殺生を滅ぼし、殺生を除き、刀や杖を捨て、慚愧の心を抱き、すべてのものに慈しみと哀れみをかけている」と。これは小さな縁起による威儀と戒律の行いであり、見聞の狭い凡夫はこれをもって仏を称えるのです。 また、彼らは称賛します。「沙門瞿曇は、与えられていないものを取ることを捨て、与えられていないものを取ることを滅ぼし、盗む心を持たない」と。 また、称賛します。「沙門瞿曇は淫欲を捨て、清らかな梵行を修め、ひたすら戒律を守り、淫逸を習わず、その行いは清浄である」と。 また、称賛します。「沙門瞿曇は妄語を捨て滅ぼし、語ることは誠実であり、説くことは真実であり、世の人を欺かない。沙門瞿曇は両舌を捨て滅ぼし、この言葉で彼を乱さず、その言葉でこれを乱さない。争いや訴訟がある者を和合させ、すでに和合した者には喜びを増し、語ることは和合から離れず、誠実が心に入り、語ることは時を知っている。沙門瞿曇は悪口を捨て滅ぼし、もし粗暴な言葉で人を傷つけ、その恨みを増し、怨み憎しみを長引かせるような、そのような粗暴な言葉は一切行わない。常に善い言葉で人の心を喜ばせ、衆に愛され楽しまれ、聞いて飽き足りることがなく、ただこの言葉を説く。沙門瞿曇は綺語を捨て滅ぼし、時を知った語、真実の語、利益ある語、法の語、律の語、非を止める語、ただこの言葉を説く」と。

「『沙門瞿曇捨離飲酒，不著香華，不觀歌舞，不坐高床，非時不食，不執金銀，不畜妻息、僮僕、婢使，不畜象馬、猪羊、鷄犬及諸鳥獸，不畜象兵、馬兵、車兵、步兵，不畜田宅種殖五穀，不以手拳與人相加，不以斗秤欺誑於人，亦不販賣券要斷當，亦不取受觝債橫生無端，亦不陰謀面背有異，非時不行；為身養壽，量腹而食，其所至處，衣鉢隨身，譬如飛鳥，羽翮身俱。』此是持戒小小因緣，彼寡聞凡夫以此歎佛。

> 「沙門ゴータマは酒を断ち、香や花に執着せず、歌舞を鑑賞せず、高き寝台に座らず、時ならぬ食事をせず、金銀を執着せず、妻や子、下男、下女を養わず、象や馬、豚や羊、鶏や犬、その他鳥獣を飼わず、象兵、馬兵、車兵、歩兵を養わず、田畑や家屋を所有せず、五穀を栽培せず、拳を振るって人に危害を加えず、升や秤で人を欺かず、売買や証文で不当な利益を得ず、抵当や借金で理由なく人を苦しめず、陰で謀り表と裏で異なることをせず、時ならず行動せず。身体を養い寿命を保つために、腹の量に応じて食事をし、行くところには衣と鉢を身に帯びる。まるで飛ぶ鳥が羽と共に体を運ぶように。』これは戒律を守るほんの小さな一面に過ぎず、そのような聞きかじりの凡夫はこれをもって仏を称賛するのです。」

「如餘沙門、婆羅門受他信施，更求儲積，衣服飲食無有厭足，沙門瞿曇無有如此事。如餘沙門、婆羅門食他信施，自營生業，種殖樹木，鬼神所依，沙門瞿曇無如此事。如餘沙門、婆羅門食他信施，更作方便，求諸利養，象牙、雜寶、高廣大床、種種文繡、氍氀𣯚𣰆、綩綖被褥，沙門瞿曇無如此事。如餘沙門、婆羅門食他信施，更作方便，求自莊嚴，酥油摩身，香水洗浴，香末自塗，香澤梳頭，著好華鬘，染目紺色，拭面莊飾，鐶紐澡潔，以鏡自照，著寶革屣，上服純白，戴蓋執拂，幢麾莊飾，沙門瞿曇無如此事。

> 他の沙門やバラモンは、信者からの布施を受けながら、さらに衣服や飲食を蓄え、飽き足りることを知らない。しかし、沙門瞿曇（釈尊）にはそのようなことはない。 他の沙門やバラモンは、信者からの布施を受けながら、自ら生業を営み、樹木を植えて鬼神に依りつかせる。しかし、沙門瞿曇にはそのようなことはない。 他の沙門やバラモンは、信者からの布施を受けながら、さらに様々な手段で利養を求め、象牙や雑宝、高く広い寝台、様々な文様の刺繍、豪華な敷物や掛け布団を手に入れる。しかし、沙門瞿曇にはそのようなことはない。 他の沙門やバラモンは、信者からの布施を受けながら、さらに様々に身を飾り立て、酥油で体を塗り、香水で沐浴し、香りの粉を体に塗り、香油で髪を梳き、美しい花飾りを付け、目を紺色に染め、顔を飾り立て、腕輪や首飾りで身を清め見せ、鏡で自らを眺め、宝石をちりばめた革靴を履き、純白の上等な衣をまとい、傘を差し、払子を持ち、旗や幡で飾り立てる。しかし、沙門瞿曇にはそのようなことはない。

「如餘沙門、婆羅門專為嬉戱，碁局博奕，八道、十道，至百千道，種種戱法以自娛樂，沙門瞿曇無如是事。如餘沙門、婆羅門食他信施，但說遮道無益之言，王者、戰鬪、軍馬之事，群僚、大臣、騎乘出入、遊戱園觀，及論臥起、行步、女人之事，衣服、飲食、親里之事，又說入海採寶之事，沙門瞿曇無如此事。如餘沙門、婆羅門食他信施，無數方便，但作邪命，諂諛美辭，現相毀呰，以利求利，沙門瞿曇無如此事。如餘沙門、婆羅門食他信施，但共諍訟，或於園觀，或在浴池，或於堂上，互相是非，言：『我知經律，汝無所知；我趣正道，汝趣邪徑；以前著後，以後著前；我能忍，汝不能忍；汝所言說，皆不真正；若有所疑，當來問我，我盡能答。』沙門瞿曇無如是事。

> 他の沙門や婆羅門が、遊び事にふけり、碁盤や双六、八道盤、十道盤、百千道盤など、さまざまな遊びで自ら楽しむようなことは、沙門瞿曇にはありません。 他の沙門や婆羅門が、信者の施しを受けながら、道を妨げる無益な話ばかりするようなこと——王の話、戦争や軍馬のこと、家臣や大臣の出入り、遊園地での遊び、寝起きや歩き方、女性に関する話題、衣服や飲食、親族のこと、あるいは海へ宝を探しに行く話など——沙門瞿曇にはそのようなことはありません。 他の沙門や婆羅門が、信者の施しを受けながら、あらゆる手段で邪な生計を立て、お世辞や美辞麗句を並べ、見せかけで他人を貶め、利益を求めて利益を得ようとするようなことは、沙門瞿曇にはありません。 他の沙門や婆羅門が、信者の施しを受けながら、ただ争い合うようなこと——園林や浴場、あるいは堂上で互いに非難し合い、「私は経律を知っているが、お前は何も知らない。私は正しい道を行くが、お前は邪な道を行く。前を後ろと言い、後ろを前と言う。私は忍耐できるが、お前にはできない。お前の言うことはすべて正しくない。もし疑問があれば、私に聞きなさい、私はすべて答えられる」などと言い合うようなことは、沙門瞿曇にはありません。

「如餘沙門、婆羅門食他信施，更作方便，求為使命，若為王、王大臣、婆羅門、居士通信使，從此詣彼，從彼至此，持此信授彼，持彼信授此，或自為，或教他為，沙門瞿曇無如是事。如餘沙門、婆羅門食他信施，但習戰陣鬪諍之事，或習刀杖、弓矢之事，或鬪鷄犬、猪羊、象馬、牛駝諸獸，或鬪男女，或作眾聲，吹聲、鼓聲、歌聲、舞聲，緣幢倒絕，種種伎戱，無不翫習，沙門瞿曇無如是事。如餘沙門、婆羅門食他信施，行遮道法，邪命自活，瞻相男女，吉凶好醜，及相畜生，以求利養，沙門瞿曇無如是事。

> 他の沙門や婆羅門は、信者の施しを受けておきながら、さらに手段を講じて、使者としての役目を求めることがあります。王や大臣、婆羅門、在家信者のために手紙を届け、あちらからこちらへ、こちらからあちらへと、この手紙をあちらへ渡し、あの手紙をこちらへ渡すのです。自分で行うこともあれば、他人に行わせることもあります。しかし、沙門瞿曇（釈尊）にはそのような行いはありません。 他の沙門や婆羅門は、信者の施しを受けておきながら、戦いや争いの術ばかりを習います。刀や杖、弓矢の使い方を習い、鶏や犬、豚や羊、象や馬、牛や駱駝などの動物を戦わせ、男女を戦わせたりします。あるいはさまざまな音を立て、笛を吹き、太鼓を叩き、歌い、踊り、幢幡を立てて曲芸をし、あらゆる芸当を習い遊びます。しかし、沙門瞿曇にはそのような行いはありません。 他の沙門や婆羅門は、信者の施しを受けておきながら、邪な方法で生計を立てます。道をふさいで人相を見、男女の吉凶や美醜を占い、家畜の相まで見て、利養を求めるのです。しかし、沙門瞿曇にはそのような行いはありません。

「如餘沙門、婆羅門食他信施，行遮道法，邪命自活，召喚鬼神，或復驅遣，種種𥜒禱，無數方道，恐熱於人，能聚能散，能苦能樂，又能為人安胎出衣，亦能呪人使作驢馬，亦能使人聾盲瘖瘂，現諸技術，叉手向日月，作諸苦行以求利養，沙門瞿曇無如是事。如餘沙門、婆羅門食他信施，行遮道法，邪命自活，或為人呪病，或誦惡呪，或誦善呪，或為醫方、鍼炙、藥石，療治眾病，沙門瞿曇無如此事。如餘沙門、婆羅門食他信施，行遮道法，邪命自活，或呪水火，或為鬼呪，或誦剎利呪，或誦象呪，或支節呪，或安宅符呪，或火燒、鼠囓能為解呪，或誦知死生書，或誦夢書，或相手面，或誦天文書，或誦一切音書，沙門瞿曇無如此事。如餘沙門、婆羅門食他信施，行遮道法，邪命自活，瞻相天時，言雨不雨，穀貴穀賤，多病少病，恐怖安隱，或說地動、彗星、月蝕、日蝕，或言星蝕，或言不蝕，方面所在，皆能記之，沙門瞿曇無如此事。如餘沙門、婆羅門食他信施，行遮道法，邪命自活，或言此國當勝，彼國不如，或言彼國當勝，此國不如，瞻相吉凶，說其盛衰，沙門瞿曇無如是事。諸比丘！此是持戒小小因緣，彼寡聞凡夫以此嘆佛。」

> 他の沙門や婆羅門は、人々の信心による施しを受けて生きながら、邪な方法で生計を立てています。鬼神を呼び寄せたり、あるいは追い払ったり、さまざまなまじないや祈祷、数え切れない術を使って人を脅し、集めたり散らしたり、苦しめたり楽しませたりします。また、人の安産を祈ったり、衣服を取り出したり、人を呪ってロバや馬に変えたり、人を聾や盲や唖にすることもできます。さまざまな術を現し、手を合わせて日月に向かい、苦行をして利養を求めますが、沙門瞿曇にはこのようなことはありません。 他の沙門や婆羅門は、人々の信心による施しを受けて生きながら、邪な方法で生計を立てています。病気を呪ったり、悪い呪文を唱えたり、良い呪文を唱えたり、医術や鍼灸、薬石で多くの病気を治療しますが、沙門瞿曇にはこのようなことはありません。 他の沙門や婆羅門は、人々の信心による施しを受けて生きながら、邪な方法で生計を立てています。水や火を呪ったり、鬼神の呪文を唱えたり、刹帝利の呪文、象の呪文、体の部位の呪文、家宅の守護符の呪文を唱えます。火災や鼠の害を解く呪文を唱え、死生の書を読み、夢の書を読み、手相や面相を見、天文の書を読み、あらゆる音の書を読みますが、沙門瞿曇にはこのようなことはありません。 他の沙門や婆羅門は、人々の信心による施しを受けて生きながら、邪な方法で生計を立てています。天候を占い、雨が降るか降らないか、穀物の値段が高いか安いか、病気が多いか少ないか、恐れがあるか安穏かを言い当てます。地震や彗星、月食、日食、あるいは星食があるかないか、方角や場所をすべて言い当てますが、沙門瞿曇にはこのようなことはありません。 他の沙門や婆羅門は、人々の信心による施しを受けて生きながら、邪な方法で生計を立てています。この国が勝つ、あの国は及ばないと言ったり、あの国が勝つ、この国は及ばないと言ったり、吉凶を占い、その盛衰を説きますが、沙門瞿曇にはこのようなことはありません。 比丘たちよ、これは戒を保つことのほんの小さな理由に過ぎません。しかし、聞くことの少ない凡夫は、これをもって仏を称賛するのです。

佛告諸比丘：「更有餘法，甚深微妙大法光明，唯有賢聖弟子能以此言讚嘆如來。何等是甚深微妙大光明法，賢聖弟子能以此法讚嘆如來？諸有沙門、婆羅門於本劫本見、末劫末見，種種無數，隨意所說，盡入六十二見中；本劫本見、末劫末見，種種無數，隨意所說，盡不能出過六十二見中。彼沙門、婆羅門以何等緣，於本劫本見、末劫末見，種種無數，各隨意說，盡入此六十二見中，齊是不過？諸沙門、婆羅門於本劫本見，種種無數，各隨意說，盡入十八見中；本劫本見，種種無數，各隨意說，盡不能過十八見中。彼沙門、婆羅門以何等緣，於本劫本見，種種無數，各隨意說，盡入十八見中，齊此不過？諸沙門婆羅門於本劫本見，起常論，言：『我及世間常存。』此盡入四見中；於本劫本見言：『我及世間常存。』盡入四見，齊是不過。

> 仏陀は諸比丘に告げられた。「さらに、深遠で微妙な大いなる法の光明があります。ただ聖なる弟子のみが、この言葉をもって如来を讃嘆することができるのです。いったいどのような深遠で微妙な大光明の法を、聖なる弟子が用いて如来を讃嘆するのでしょうか。すべての沙門や婆羅門が、過去の劫についての見解や未来の劫についての見解を、数限りなく様々に、思いのままに説いていますが、それらはすべて六十二の見解の中に含まれています。過去の劫についての見解や未来の劫についての見解を、数限りなく様々に、思いのままに説いても、すべてこの六十二の見解を越えることはできません。彼ら沙門や婆羅門は、どのような理由で、過去の劫についての見解や未来の劫についての見解を、数限りなく様々に、思いのままに説きながら、すべてこの六十二の見解の中に収まり、これを越えることができないのでしょうか。諸々の沙門や婆羅門が、過去の劫についての見解を、数限りなく様々に、思いのままに説いても、すべて十八の見解の中に含まれています。過去の劫についての見解を、数限りなく様々に、思いのままに説いても、すべて十八の見解を越えることはできません。彼ら沙門や婆羅門は、どのような理由で、過去の劫についての見解を、数限りなく様々に、思いのままに説きながら、すべてこの十八の見解の中に収まり、これを越えることができないのでしょうか。諸々の沙門や婆羅門が、過去の劫についての見解に基づき、常住論を唱えて、『我と世間は永遠に存在する』と言います。これはすべて四つの見解の中に含まれています。過去の劫についての見解に基づき、『我と世間は永遠に存在する』と言うことは、すべて四つの見解の中に収まり、これを越えることはありません。」

「彼沙門、婆羅門以何等緣，於本劫本見，起常論，言：『我及世間常存。』此盡入四見中，齊是不過？或有沙門、婆羅門種種方便，入定意三昧，以三昧心憶二十成劫敗劫，彼作是說：『我及世間是常，此實餘虛，所以者何？我以種種方便入定意三昧，以三昧心憶二十成劫敗劫，其中眾生不增不減，常聚不散，我以此知：我及世間是常，此實餘虛。』此是初見。沙門、婆羅門因此於本劫本見，計我及世間是常，於四見中，齊是不過。

> ある沙門やバラモンは、どのような理由で、この世の始まりについての根本的な見解に基づき、「私と世界は永遠である」という恒常論を説くのでしょうか。これらの見解はすべて四つの見解に含まれ、それ以上にはなりません。 ある沙門やバラモンは、様々な方法で禅定に入り、その三昧の心で二十の成劫と壊劫を思い起こします。彼らはこう言います。「私と世界は永遠である。これが真実で、他は虚妄である。なぜなら、私は様々な方法で禅定に入り、その三昧の心で二十の成劫と壊劫を思い起こしたが、その中の衆生は増えも減りもせず、常に集まり散じることがないからである。これによって私は知る。私と世界は永遠であると。これが真実で、他は虚妄である」と。 これが最初の見解です。沙門やバラモンはこれによって、この世の始まりについての根本的な見解に基づき、私と世界は永遠であると計り、四つの見解の中に収まり、それ以上にはなりません。

「或有沙門、婆羅門種種方便，入定意三昧，以三昧心憶四十成劫敗劫，彼作是說：『我及世間是常，此實餘虛，所以者何？我以種種方便，入定意三昧，以三昧心憶四十成劫敗劫，其中眾生不增不減，常聚不散，我以此知，我及世間是常，此實餘虛。』此是二見，諸沙門、婆羅門因此於本劫本見，計我及世間是常，於四見中，齊是不過。

> ある修行者やバラモンは、様々な方法で禅定に入り、その三昧の心で四十の成劫と敗劫を思い起こします。彼らはこう言います。「私と世界は永遠である。これが真実で、他の見解は誤りだ。なぜなら、私は様々な方法で禅定に入り、三昧の心で四十の成劫と敗劫を思い起こしたが、その中で生きとし生けるものは増えも減りもせず、常に集まり散じることがないからだ。これによって私は知った、私と世界は永遠であると。これが真実で、他の見解は誤りである。」これが二番目の見解です。多くの修行者やバラモンは、この根本の劫に関する根本の見解に基づき、私と世界は永遠であると主張し、四つの見解の中では、この範囲を超えることはありません。

「或有沙門、婆羅門以種種方便，入定意三昧，以三昧心憶八十成劫敗劫，彼作是言：『我及世間是常，此實餘虛，所以者何？我以種種方便入定意三昧，以三昧心憶八十成劫敗劫，其中眾生不增不減，常聚不散，我以此知，我及世間是常，此實餘虛。』此是三見。諸沙門、婆羅門因此於本劫本見，計我及世間是常，於四見中，齊是不過。

> あるいは、沙門やバラモンが様々な方法で禅定に入り、その三昧の心で八十の成劫と敗劫を思い起こし、こう言う者がある。『私と世界は永遠である。これが真実で、他の説は虚妄である。なぜなら、私は様々な方法で禅定に入り、その三昧の心で八十の成劫と敗劫を思い起こしたが、その中の衆生は増えも減りもせず、常に集まり散じることがない。これによって私は知った。私と世界は永遠である。これが真実で、他の説は虚妄である』と。これが三番目の見解である。諸々の沙門やバラモンはこれによって、この劫に関する根本的な見解に基づき、私と世界は永遠であると計らい、四つの見解の中で、ここを越えることはない。

「或有沙門、婆羅門有捷疾相智，善能觀察，以捷疾相智方便觀察，謂為審諦，以己所見，以己辯才作是說，言：『我及世間是常。』此是四見。沙門、婆羅門因此於本劫本見，計我及世間是常，於四見中，齊是不過。此沙門、婆羅門於本劫本見，計我及世間是常，如此一切盡入四見中，我及世間是常，於此四見中，齊是不過。唯有如來知此見處，如是持、如是執，亦知報應。如來所知又復過是，雖知不著，已不著則得寂滅，知受集、滅、味、過、出要，以平等觀無餘解脫，故名如來。是為餘甚深微妙大法光明，使賢聖弟子真實平等讚嘆如來。

> あるいは、沙門や婆羅門の中には、鋭敏な観察の智慧を持つ者がいる。彼らは巧みに観察し、鋭敏な観察の智慧を用いて考察し、それを真実であると考え、自らの見解と弁才をもってこう説くのである。「我と世間は常住である」と。これは四つの見解の一つである。沙門や婆羅門はこれによって、根本の劫、根本の見解に基づき、我と世間は常住であると主張し、四つの見解の中に留まる。この沙門や婆羅門は、根本の劫、根本の見解に基づき、我と世間は常住であると主張し、このような一切の見解はすべて四つの見解の中に含まれる。我と世間は常住であるというこの四つの見解の中に留まるのである。 ただ如来のみが、この見解の立場を知り、そのような執着、そのような固執を知り、またその報いを知っておられる。如来の知恵はさらにそれを超えており、知りながらも執着せず、すでに執着を離れているから寂滅を得るのである。感受の生起と滅尽、味わいと過ち、そして解脱を知り、平等の観点から余すところなく解脱される。それゆえに如来と呼ばれるのである。 これが、さらに深く微妙な大いなる法の光明であり、賢聖の弟子たちが真実をもって平等に如来を讃嘆する所以である。

「復有餘甚深微妙大法光明，使賢聖弟子真實平等讚嘆如來，何等是？諸沙門、婆羅門於本劫本見起論，言：『我及世間，半常半無常。』彼沙門、婆羅門因此於本劫本見，計我及世間半常半無常，於此四見中，齊是不過或過。或有是時，此劫始成，有餘眾生福盡、命盡、行盡，從光音天命終，生空梵天中，便於彼處生愛著心，復願餘眾生共生此處。此眾生既生愛著願已，復有餘眾生命、行、福盡，於光音天命終，來生空梵天中，其先生眾生便作是念：『我於此處是梵、大梵，我自然有，無能造我者；我盡知諸義典，千世界於中自在，最為尊貴，能為變化，微妙第一。為眾生父，我獨先有，餘眾生後來，後來眾生，我所化成。』其後眾生復作是念：『彼是大梵，彼能自造，無造彼者，盡知諸義典，千世界於中自在，最為尊貴，能為變化，微妙第一，為眾生父，彼獨先有，後有我等，我等眾生，彼所化成。』彼梵眾生命、行盡已，來生世間，年漸長大，剃除鬚髮，服三法衣，出家修道，入定意三昧，隨三昧心自識本生，便作是言：『彼大梵者能自造作，無造彼者，盡知諸義典，千世界於中自在，最為尊貴，能為變化，微妙第一。為眾生父，常住不變，而彼梵化造我等，我等無常變易，不得久住，是故當知：我及世間半常半無常，此實餘虛。』是謂初見。沙門、婆羅門因此於本劫本見起論，半常半無常，於四見中，齊是不過。

> さらに、極めて深遠で微妙な、偉大なる法の光明があります。それは賢聖なる弟子たちに、如来を真実に平等に讃嘆させるものです。それは何でしょうか。 ある沙門や婆羅門が、過去の劫についての根本的な見解を立て、こう論じます。「我と世間は、半分は常住であり、半分は無常である」と。彼ら沙門・婆羅門は、この過去の劫についての根本的な見解に基づいて、我と世間は半常半無常であると考えるのです。この四つの見解の中で、これが最初のものにすぎず、あるいはそれを超えるものです。 ある時、この劫が始まったばかりの頃、福徳も寿命も行いも尽きた一部の衆生が、光音天から命終えて、空の梵天に生まれました。彼らはその場所に愛着の心を生じ、さらに他の衆生も共にこの場所に生まれることを願いました。この衆生が愛着と願いを起こした後、さらに他の衆生で、寿命と行いと福徳が尽きた者が、光音天から命終えて、空の梵天に生まれてきました。 最初に生まれた衆生は、このように考えました。「私はここにおいて梵であり、大梵である。私は自ずから存在し、私を創造した者はない。私はあらゆる義と経典を知り尽くしている。千の世界において自在であり、最も尊貴で、変化を起こすことができ、微妙で第一である。衆生の父である。私はただ独り先に存在し、他の衆生は後に来た。後に来た衆生は、私が化現したものである。」 その後から生まれた衆生も、このように考えました。「あの方は大梵である。あの方は自らを創造し、あの方を創造した者はない。あらゆる義と経典を知り尽くし、千の世界において自在であり、最も尊貴で、変化を起こすことができ、微妙で第一である。衆生の父である。あの方はただ独り先に存在し、後に私たちが存在するようになった。私たち衆生は、あの方が化現したものである。」 その梵衆生たちは、寿命と行いが尽きると、世間に生まれ変わります。年を重ねて大きくなると、髪やひげを剃り落とし、三つの法衣をまとって出家し、道を修めます。禅定の三昧に入り、三昧の心に従って自らの過去生を認識し、こう言うのです。 「あの大梵は、自らを創造し、彼を創造した者はない。あらゆる義と経典を知り尽くし、千の世界において自在であり、最も尊貴で、変化を起こすことができ、微妙で第一である。衆生の父であり、常住不変である。しかし、あの梵が私たちを化現し創造した。私たちは無常であり、変化し、久しく留まることはできない。ゆえに知るべきである。我と世間は、半分は常住であり、半分は無常である。これが真実であり、他は虚妄である。」 これが第一の見解です。沙門・婆羅門は、この過去の劫についての根本的な見解に基づいて、半常半無常を論じます。四つの見解の中で、これは最初のものにすぎません。

「或有眾生喜戲笑懈怠，數數戲笑以自娛樂，彼戲笑娛樂時，身體疲極便失意，以失意便命終，來生世間，年漸長大，剃除鬚髮，服三法衣，出家修道，彼入定意三昧，以三昧心自識本生，便作是言：『彼餘眾生不數生，不數戲笑娛樂，常在彼處，永住不變，由我數戲笑故，致此無常，為變易法，是故我知：我及世間半常半無常，此實餘虛。』是為第二見。沙門、婆羅門因此於本劫本見起論，我及世間半常半無常，於四見中，齊此不過。

> ある衆生は、戯れ笑い、怠け、たびたび戯れては自らを楽しませる。その戯れて楽しむとき、身体は疲れ果て、心を失い、心を失って命を終える。やがてこの世に生まれ、年を重ねて成長し、髪を剃り、三つの法衣をまとい、出家して道を修める。彼は禅定に入り、その定の心で前世を自ら思い知る。そしてこう言うのだ。 「あの他の衆生たちは、たびたび生まれ変わらず、たびたび戯れて楽しむこともなく、常にあの場所にいて、永遠に変わらずにいる。私がたびたび戯れたために、この無常、変わりゆく法に至ったのだ。だから私は知る。私とこの世は、半分は常であり、半分は無常である。これが真実で、他は虚妄である」と。 これが第二の見解である。沙門や婆羅門はこれによって、この劫の根本的な見解から論を起こし、「私とこの世は半分は常であり、半分は無常である」と説く。四つの見解の中でも、これ以上には及ばないのである。

「或有眾生展轉相看已，便失意，由此命終，來生世間，漸漸長大，剃除鬚髮，服三法衣，出家修道，入定意三昧，以三昧心識本所生，便作是言：『如彼眾生以不展轉相看，不失意故，常住不變；我等於彼數相看，數相看已便失意，致此無常，為變易法，我以此知：我及世間半常半無常，此實餘虛。』是第三見。諸沙門、婆羅門因此於本劫本見起論：我及世間半常半無常。於四見中，齊此不過。

> ある衆生は互いに顔を見合わせただけで、たちまち意識を失い、そのために命を終えて、この世に生まれ変わります。次第に成長すると、髪と髭を剃り、三つの法衣をまとって出家し、道を修めます。禅定の境地に入り、その三昧の心で前世の生を思い出し、こう言うのです。「あの衆生たちは互いに顔を見合わせなかったから、意識を失わず、常住不変でいられた。しかし私たちは何度も顔を見合わせ、そのために意識を失い、このような無常、変わりゆく存在となった。だから私は知る。私とこの世は、半分は常住で、半分は無常である。これが真実で、他は虚妄である」と。これが第三の見解です。 一部の沙門や婆羅門は、このような過去の出来事に基づいて、「私とこの世は半分は常住で半分は無常である」という議論を起こします。四つの見解の中でも、この点を越えるものはありません。

「或有沙門、婆羅門有捷疾相智，善能觀察，彼以捷疾觀察相智，以己智辯言：『我及世間半常半無常，此實餘虛。』是為第四見。諸沙門、婆羅門因此於本劫本見起論：我及世間半常半無常，於四見中，齊是不過。諸沙門、婆羅門於本劫本見起論，我及世間半常半無常，盡入四見中，齊是不過。唯佛能知此見處，如是持、如是執，亦知報應。如來所知又復過是，雖知不著，以不著則得寂滅，知受集、滅、味、過、出要，以平等觀無餘解脫，故名如來。是為餘甚深微妙大法光明，使賢聖弟子真實平等讚歎如來。

> ある沙門やバラモンは、素早く物事の相を捉える智慧に優れ、よく観察します。彼らはその素早い観察力で、自らの智慧と思弁をもってこう言います。「私と世間とは、半分は常住であり、半分は無常である。これが真実で、他は虚妄である」と。これが第四の見解です。 多くの沙門やバラモンは、この根本的な劫についての根本的な見解から議論を起こし、「私と世間は半常半無常である」と主張します。この四つの見解の中では、これ以上に出るものはありません。沙門やバラモンが根本劫についての根本見から論じる「我と世間は半常半無常である」という説は、すべてこの四見の中に含まれ、これを超えるものはないのです。 ただ仏のみが、この見解の立場を知り、そのように保持し、そのように執着することを知り、またその報いをも知っておられます。如来の知恵はさらにこれを超え、知りながらも執着せず、執着しないがゆえに寂滅を得られます。感受の生起と滅、味わいと過ち、そして解脱の道を平等に観じ、余すところなく解脱されたので、如来と呼ばれるのです。 これこそが、さらに深遠で微妙な大いなる法の光明であり、賢聖の弟子たちが真実をもって平等に如来を讃嘆する理由なのです。

「復有餘甚深微妙大法光明，使賢聖弟子真實平等讚歎如來。何等法是？諸沙門、婆羅門於本劫本見起論：『我及世間有邊無邊。』彼沙門、婆羅門因此於本劫本見起論：『我及世間有邊無邊。』於此四見中，齊是不過。或有沙門、婆羅門種種方便，入定意三昧，以三昧心觀世間，起邊想，彼作是說：『此世間有邊，是實餘虛，所以者何？我以種種方便入定意三昧，以三昧心觀世間有邊，是故知世間有邊，此實餘虛。』是謂初見。沙門、婆羅門因此於本劫本見起論：我及世間有邊，於四見中，齊是不過。

> さらに、極めて深遠で微妙な大いなる法の光明があり、賢聖の弟子たちが真実平等に如来を讃歎するに至らしめるものがある。それはどのような法か。諸々の沙門や婆羅門が、根本の劫、根本の見解に基づいて論を起こし、『我と世間は有辺であるか無辺であるか』と説く。彼ら沙門や婆羅門は、この根本の劫、根本の見解に基づいて論を起こし、『我と世間は有辺であるか無辺であるか』と主張するのである。この四つの見解の中にあって、彼らの説はこれを超えるものではない。ある沙門や婆羅門は、様々な方便をもって定意三昧に入り、三昧の心をもって世間を観察し、辺際の想いを起こす。彼らはこう説くのである。『この世間には限りがある。これは真実であり、他は虚妄である。なぜならば、私は様々な方便をもって定意三昧に入り、三昧の心をもって世間が有辺であると観じたからである。それゆえ、世間には限りがあると知るのである。これが真実であり、他は虚妄である』と。これが第一の見解である。沙門や婆羅門は、この根本の劫、根本の見解に基づいて論を起こし、我と世間は有辺であると説く。四つの見解の中にあって、彼らの説はこれを超えるものではない。

「或有沙門、婆羅門以種種方便，入定意三昧，以三昧心觀世間，起無邊想，彼作是言：『世間無邊，此實餘虛，所以者何？我以種種方便，入定意三昧，以三昧心觀世間無邊，是故知世間無邊，此實餘虛。』是第二見。沙門、婆羅門因此於本劫本見起論：我及世間無邊，於四見中，齊此不過。

> あるいは、沙門や婆羅門が様々な方法で禅定に入り、その三昧の心で世界を観察し、無限の想いを起こす者がいる。彼らはこう言う：『世界は無限である。これが真実で、他は虚妄である。なぜなら、私は様々な方法で禅定に入り、その三昧の心で世界が無限であることを観たからだ。それゆえ、世界は無限であると知る。これが真実で、他は虚妄である。』これが第二の見解である。沙門や婆羅門はこれによって、この劫の根本的な見解から議論を起こす：我と世界は無限である。四つの見解の中では、ここまでを超えることはない。

「或有沙門、婆羅門以種種方便，入定意三昧，以三昧心觀世間，謂上方有邊，四方無邊彼作是言：『世間有邊無邊，此實餘虛，所以者何？我以種種方便，入定意三昧，以三昧心觀上方有邊，四方無邊，是故我知世間有邊無邊，此實餘虛。』是為第三見。諸沙門、婆羅門因此於本劫本見起論：我及世間有邊無邊，於此四見中，齊是不過。

> あるいは沙門や婆羅門が、様々な方法で禅定に入り、その三昧の心で世間を観察し、上方には限界があるが四方には限界がないと見る者がいる。彼らはこう言う：『世間には限界があるともないとも言える。これが真実で、他は虚妄である。なぜなら、私は様々な方法で禅定に入り、その三昧の心で上方には限界があり、四方には限界がないと観じたからだ。それゆえ、私は世間には限界があるともないとも知る。これが真実で、他は虚妄である。』これが第三の見解である。諸々の沙門や婆羅門はこれによって、この劫の根本的な見解から議論を起こす：我と世間には限界があるともないとも。この四つの見解の中に、彼らの主張は尽きるのである。

「或有沙門、婆羅門有捷疾相智，善於觀察，彼以捷疾觀察智，以己智辯言：『我及世間非有邊非無邊，此實餘虛。』是為第四見。諸沙門、婆羅門因此於本劫本見起論：我及世間有邊無邊，此實餘虛，於四見中，齊是不過。此是諸沙門、婆羅門於本劫本見起論：我及世間有邊無邊，盡入四見中，齊是不過。唯佛能知此見處，如是持、如是執，亦知報應。如來所知又復過是，雖知不著，已不著則得寂滅，知受集、滅、味、過、出要，以平等觀無餘解脫，故名如來。是為餘甚深微妙大法光明，使賢聖弟子真實平等讚歎如來。

> あるいは、沙門やバラモンの中に、素早い観察の智慧を持つ者がいて、よく物事を見極めます。彼はその素早い観察の智慧によって、自らの知見と弁舌をもってこう言います。『私と世界は、有限でもなく無限でもない。これが真実で、他は虚妄である』と。これが第四の見解です。 このように、多くの沙門やバラモンは、この根本の劫、根本の見解に基づいて論を立てます。『私と世界は有限か無限か、これが真実で他は虚妄である』と。これら四つの見解の範囲を超えるものではありません。これが、沙門やバラモンが根本の劫、根本の見解に基づいて論じる『私と世界は有限か無限か』ということであり、すべて四つの見解の中に収まり、その範囲を超えるものではないのです。 ただ仏のみが、このような見解の立場を知り、そのように執着し、そのように固執することを知り、またその報いをも知っておられます。如来の知見はさらにこれを超えており、知りながらも執着せず、すでに執着を離れたゆえに寂滅を得ておられます。感受の生起と滅尽、味わいと過患、そして解脱の道を平等に観じ、余すところなく解脱されたゆえに、如来と称されるのです。 これが、さらに深く微妙な大いなる法の光明であり、賢く聖なる弟子たちが真実をもって平等に如来を讃嘆する所以なのです。

「復有餘甚深微妙大法光明，使賢聖弟子真實平等讚歎如來，何者是？諸沙門、婆羅門於本劫本見，異問異答，彼彼問時，異問異答，於四見中，齊是不過。沙門、婆羅門因此於本劫本見，異問異答，於四見中，齊是不過。或有沙門、婆羅門作如是論，作如是見：『我不見不知善惡有報、無報耶？我以不見不知故，作如是說：善惡有報耶？無報耶？』世間有沙門、婆羅門廣博多聞，聰明智慧，常樂閑靜，機辯精微，世所尊重，能以智慧善別諸見。設當問我諸深義者，我不能答，有愧於彼，於彼有畏，當以此答以為歸依、為洲、為舍，為究竟道。彼設問者，當如是答：『此事如是，此事實，此事異，此事不異，此事非異非不異。』是為初見。沙門、婆羅門因此問異答異，於四見中，齊是不過。

> さらに、他にも甚深微妙なる大法の光明があり、賢聖の弟子たちが真実平等に如来を讃歎することを可能にするものがある。それは何か？諸々の沙門や婆羅門が、過去の劫や過去の見解について、異なる問いに異なる答えを述べるとき、彼らが問われるたびに異なる答えを返すが、四つの見解の範囲を越えることはない。沙門や婆羅門は、このように過去の劫や見解について異なる問いに異なる答えを述べ、四つの見解の中に留まり、それを越えないのである。 ある沙門や婆羅門はこのように論じ、このような見解を持つ。「私は善悪に報いがあるのか、ないのか、見ず知らずである。見ず知らないゆえに、こう言うのだ。善悪に報いはあるのか、ないのか？」世の中には、広く多くを学び、聡明で智慧に富み、常に静寂を楽しみ、機知に富み弁舌鋭く、世に尊重される沙門や婆羅門がいる。彼らは智慧をもって諸々の見解を善く見分けることができる。もし彼らが私に深遠な意義を問うたなら、私は答えられず、彼らに恥じ、彼らを畏れることになる。だから、この答えを拠り所とし、洲とし、住処とし、究極の道とするのだ。問う者があれば、このように答えるべきである。「このことはこうである、このことは真実である、このことは異なる、このことは異ならない、このことは異でもなく異ならないでもない。」これが最初の見解である。沙門や婆羅門はこのように異なる問いに異なる答えを述べ、四つの見解の範囲を越えることはない。

「或有沙門、婆羅門作如是論，作如是見：『我不見不知為有他世耶？無他世耶？』諸世間沙門、婆羅門以天眼知、他心智，能見遠事，已雖近他，他人不見。如此人等能知有他世、無他世；我不知不見有他世、無他世。若我說者，則為妄語，我惡畏妄語，故以為歸依、為洲、為舍，為究竟道。彼設問者，當如是答：『此事如是，此事實，此事異，此事不異，此事非異非不異。』是為第二見。諸沙門、婆羅門因此問異答異，於四見中，齊是不過。

> あるいは、沙門や婆羅門の中には、このような論を立て、このような見解を持つ者がいる。 「私は、他世があるのか、他世がないのか、見ても知ってもいない」と。 世の中の沙門や婆羅門の中には、天眼や他心通によって、遠くの出来事を知り、近くにいても他人に見られない者たちがいる。 そのような人々は、他世があるかないかを知ることができる。 しかし私は、他世があるかないか、知らず、見ていない。 もし私が語れば、それは虚言となる。 私は虚言をひどく恐れているので、それを拠り所とし、島とし、住処とし、究極の道とする。 もし尋ねられたなら、このように答えるべきである。 「このことはこうであり、このことは真実であり、このことは異なり、このことは異ならず、このことは異でもなく異ならずでもない」と。 これが第二の見解である。 沙門や婆羅門たちは、この問いによって異なる答えをし、四つの見解の中にあって、これを超えることはない。

「或有沙門、婆羅門作如是見，作如是論：『我不知不見何者為善？何者不善？我不知不見如是說是善、是不善？』我則於此生愛，從愛生恚，有愛有恚，則有受生；我欲滅受，故出家修行；彼惡畏受，故以此為歸依、為洲、為舍，為究竟道。彼設問者，當如是答：『此事如是，此事實，此事異，此事不異，此事非異非不異。』是為第三見。諸沙門、婆羅門因此問異答異，於四見中，齊是不過。

> あるいは、沙門や婆羅門の中に、このような見解を持ち、このように論じる者がいる。「私は何が善で、何が不善であるかを知らず、見ていない。私は、こう言うことが善か不善かを知らず、見ていない。それゆえ、私はこれに対して愛着を生じ、愛着から怒りが生じる。愛着と怒りがあるならば、そこには受（感受）が生じる。私はこの受を滅したいから出家して修行するのだ。彼らは受を恐れ嫌うゆえに、これを依り所とし、安らぎの島とし、住処とし、究極の道とするのである。」もし彼らに尋ねられたならば、このように答えるべきである。「このことはこうである。このことは真実である。このことは異なる。このことは異ならない。このことは異でもなく、異ならないでもない。」これが第三の見解である。諸々の沙門、婆羅門はこの問いに対して異なる答えをし、四つの見解の中にあり、これを超えることはない。

「或有沙門、婆羅門愚冥闇鈍，他有問者，彼隨他言答：『此事如是，此事實，此事異，此事不異，此事非異非不異。』是為四見。諸沙門、婆羅門因此異問異答，於四見中，齊是不過。或有沙門、婆羅門於本劫本見，異問異答，盡入四見中，齊是不過。唯佛能知此見處，如是持、如是執，亦知報應。如來所知又復過是，雖知不著，已不著則得寂滅，知受集、滅、味、過、出要，以平等觀無餘解脫，故名如來。是為甚深微妙大法光明，使賢聖弟子真實平等讚歎如來。

> あるいは、沙門やバラモンの中には、愚かで暗く鈍く、他の者が質問すると、相手の言葉に従って答える者がいる。『これはこうだ、これは真実だ、これは異なる、これは異ならない、これは異でもなく異ならないでもない』と。これが四つの見解である。多くの沙門やバラモンは、このような異なる問いに異なる答えをし、四つの見解の中に留まり、それを越えることはない。あるいは、沙門やバラモンが過去の劫や過去の見解について異なる問いに異なる答えをしても、すべて四つの見解の中に収まり、それを越えることはない。 ただ仏のみが、この見解のあり方、そのような執着、そのような固執を知り、またその報いも知っておられる。如来の知恵はさらにそれを超えており、知りながらも執着せず、すでに執着を離れているから寂滅を得るのである。感受の集起と滅、味わいと過ち、そして解脱の道を平等に観じ、余すところなく解脱する。それゆえに如来と呼ばれる。 これこそが、甚深微妙なる大法の光明であり、賢聖の弟子たちが真実平等に如来を讃嘆する所以である。

「復有餘甚深微妙大法光明，使賢聖弟子真實平等讚歎如來，何等是？或有沙門、婆羅門於本劫本見，謂無因而出有此世間，彼盡入二見中，於本劫本見無因而出有此世間，於此二見中，齊是不過。彼沙門、婆羅門因何事於本劫本見，謂無因而有，於此二見中，齊是不過？或有眾生無想無知，若彼眾生起想，則便命終，來生世間，漸漸長大，剃除鬚髮，服三法衣，出家修道，入定意三昧，以三昧心識本所生，彼作是語：『我本無有，今忽然有，此世間本無、今有，此實餘虛。』是為初見。諸沙門、婆羅門因此於本劫本見，謂無因有，於二見中，齊是不過。

> さらにまた、他にも甚深微妙で大いなる法の光明があり、賢聖の弟子たちが真実平等に如来を讃嘆するものがあります。それは何でしょうか。 ある沙門や婆羅門が、過去の劫や過去の見解について、「無因によってこの世間が現れた」と説くことがあります。彼らはすべて二つの見解の中に入り、過去の劫や過去の見解について、無因によってこの世間が現れたと主張します。この二つの見解の中では、彼らの説はこれを越えません。 彼ら沙門や婆羅門は、いかなる理由で過去の劫や過去の見解について「無因によって存在する」と説き、この二つの見解の中では、それを越えることがないのでしょうか。 ある衆生は想いも知覚もありません。もしその衆生に想いが生じると、たちまち命を終え、この世に生まれ変わります。次第に成長し、髪やひげを剃り落とし、三つの法衣をまとって出家し、道を修めます。禅定の三昧に入り、三昧の心でもって本来の生まれを識ります。そして彼はこう言うのです。 「私は本来存在しなかったが、今忽然と存在するようになった。この世間も本来は無かったが、今あるようになった。これが真実であり、他は虚妄である」 これが最初の見解です。諸々の沙門や婆羅門は、これによって過去の劫や過去の見解について「無因によって存在する」と説き、二つの見解の中では、これを越えることがありません。

「或有沙門、婆羅門有捷疾相智，善能觀察，彼已捷疾觀察智觀，以己智辯能如是說：『此世間無因而有，此實餘虛。』此第二見。諸有沙門、婆羅門因此於本劫本見，無因而有，有此世間，於二見中，齊是不過。諸有沙門、婆羅門於本劫本見，無因而有，盡入二見中，齊是不過，唯佛能知，亦復如是。諸有沙門、婆羅門於本劫本見，無數種種，隨意所說，彼盡入是十八見中，本劫本見，無數種種，隨意所說；於十八見，齊是不過，唯佛能知，亦復如是。

> ある沙門や婆羅門は、鋭敏な観察の智慧を持ち、よく観察することができる。彼らはその鋭敏な観察の智慧をもって観察し、自らの智慧と弁舌によってこのように説く。「この世間は原因なくして存在する。これが真実であり、他の説は虚妄である」と。これが第二の見解である。 すべての沙門や婆羅門は、この根本の劫についての根本の見解に基づき、原因なくして存在すると考える。この世間について、二つの見解の中に収まり、これを超えることはない。 すべての沙門や婆羅門が、根本の劫についての根本の見解において、原因なくして存在すると考えるならば、すべては二つの見解の中に収まり、これを超えることはない。ただ仏のみがこれを知り、また同様である。 すべての沙門や婆羅門が、根本の劫についての根本の見解において、無数の種々の説を思いのままに語るならば、それらはすべてこの十八の見解の中に収まる。根本の劫についての根本の見解において、無数の種々の説を思いのままに語ることは、十八の見解の中に収まり、これを超えることはない。ただ仏のみがこれを知り、また同様である。

「復有餘甚深微妙大法光明，何等是？諸有沙門、婆羅門於末劫末見，無數種種，隨意所說；彼盡入四十四見中，於末劫末見，種種無數，隨意所說，於四十四見，齊是不過。彼有沙門、婆羅門因何事於末劫末見，無數種種，隨意所說，於四十四見，齊此不過？諸有沙門、婆羅門於末劫末見，生有想論，說世間有想；彼盡入十六見中，於末劫末見生想論，說世間有想，於十六見中，齊是不過。彼沙門、婆羅門因何事於末劫末見生想論，說世間有想，彼盡入十六見中，齊是不過。

> さらに、他にも非常に深遠で微妙な大いなる法の光明があります。それはどのようなものか。 多くの沙門や婆羅門たちが、世界の終末について、無数のさまざまな見解を、思いのままに説いています。それらはすべて四十四の見解に含まれます。世界の終末について、無数のさまざまな見解を思いのままに説くとしても、それは四十四の見解を越えることはありません。 なぜ、沙門や婆羅門たちは、世界の終末について、無数のさまざまな見解を思いのままに説き、それが四十四の見解を越えないのでしょうか。 多くの沙門や婆羅門たちが、世界の終末について、「世には想いがある」という見解を立て、世間に想いがあると説きます。それらはすべて十六の見解に含まれます。世界の終末について「世には想いがある」という見解を立て、世間に想いがあると説くとしても、それは十六の見解を越えることはありません。 なぜ、沙門や婆羅門たちは、世界の終末について「世には想いがある」という見解を立て、世間に想いがあると説き、それが十六の見解に含まれ、これを越えないのでしょうか。

「諸有沙門、婆羅門作如是論、如是見，言：『我此終後，生有色有想，此實餘虛。』是為初見。諸沙門、婆羅門因此於末劫末見生想論，說世間有想；於十六見中，齊是不過。有言：『我此終後，生無色有想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生有色無色有想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生非有色非無色有想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生有邊有想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生無邊有想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生有邊無邊有想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生非有邊非無邊有想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生而一向有樂有想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生而一向有苦有想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生有樂有苦有想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生不苦不樂有想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生有一想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生有若干想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生少想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生有無量想，此實餘虛。』是為十六見。諸有沙門、婆羅門於末劫末見，生想論，說世間有想；於此十六見中，齊是不過，唯佛能知，亦復如是。

> ある沙門や婆羅門は、このような説を立て、このような見解を持って言うのです。 「この私が死んだ後、色（物質的な要素）のある存在として生まれ、想い（心の働き）がある。これが真実で、他の説は虚妄である」 これが第一の見解です。 沙門や婆羅門たちは、このように未来についての見解に基づき、世間には想いがあるという説を立てます。その説は十六の見解を超えるものではありません。 ある者は言います。 「この私が死んだ後、色のない存在として生まれ、想いがある。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、色のある存在でもあり、色のない存在でもあるものとして生まれ、想いがある。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、色のある存在でもなく、色のない存在でもないものとして生まれ、想いがある。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、限りある存在として生まれ、想いがある。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、限りのない存在として生まれ、想いがある。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、限りある存在でもあり、限りのない存在でもあるものとして生まれ、想いがある。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、限りある存在でもなく、限りのない存在でもないものとして生まれ、想いがある。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、一方的に楽だけがある存在として生まれ、想いがある。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、一方的に苦だけがある存在として生まれ、想いがある。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、楽もあり苦もある存在として生まれ、想いがある。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、苦でもなく楽でもない存在として生まれ、想いがある。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、一つの想いだけがある存在として生まれる。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、いくつもの想いがある存在として生まれる。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、わずかな想いがある存在として生まれる。これが真実で、他の説は虚妄である」 ある者は言います。 「この私が死んだ後、限りない想いがある存在として生まれる。これが真実で、他の説は虚妄である」 これが十六の見解です。 沙門や婆羅門たちが、未来についての見解に基づき、世間には想いがあるという説を立てるとき、その説はこの十六の見解を超えるものではありません。このことを完全に理解できるのは、ただ仏陀だけなのです。

「復有餘甚深微妙大法光明，何等法是？諸有沙門、婆羅門於末劫末見，生無想論，說世間無想；彼盡入八見中，於末劫末見，生無想論，於此八見中，齊此不過。彼沙門、婆羅門因何事於末劫末見，生無想論，說世間無想，於八見中，齊此不過？諸有沙門、婆羅門作如是見，作如是論：『我此終後，生有色無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生無色無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生有色無色無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生非有色非無色無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生有邊無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生無邊無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生有邊無邊無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生非有邊非無邊無想，此實餘虛。』是為八見。若沙門、婆羅門因此於末劫末見，生無想論，說世間無想；彼盡入八見中，齊是不過，唯佛能知，亦復如是。

> さらに、ほかにも甚深微妙で偉大なる法の光明があります。それはどのような法でしょうか。 世の中には、沙門や婆羅門が、末劫末見において「無想論」を生じさせ、「世間は無想である」と説くことがあります。彼らの説はすべて、八つの見解の中に含まれ、末劫末見において生じた無想論は、この八見の範囲を超えることはありません。 では、沙門や婆羅門は、いかなる理由で末劫末見において無想論を生じさせ、「世間は無想である」と説き、八見の範囲を超えないのでしょうか。 世の中には、沙門や婆羅門が次のような見解を持ち、次のように論じる者がいます。 「私がこの世を終えた後、色はあるが想いのない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 ある者は言います。 「私がこの世を終えた後、色はなく想いのない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 またある者は言います。 「私がこの世を終えた後、色もあり色もない、想いのない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 ある者は言います。 「私がこの世を終えた後、色があるのでもなく、色がないのでもない、想いのない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 またある者は言います。 「私がこの世を終えた後、有限で想いのない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 ある者は言います。 「私がこの世を終えた後、無限で想いのない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 またある者は言います。 「私がこの世を終えた後、有限でもあり無限でもある、想いのない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 ある者は言います。 「私がこの世を終えた後、有限でもなく無限でもない、想いのない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 これが八つの見解です。 もし沙門や婆羅門が、このような理由で末劫末見において無想論を生じさせ、「世間は無想である」と説くならば、彼らの説はすべてこの八見の中に含まれ、その範囲を超えることはありません。このことを真に知ることができるのは、ただ仏だけなのです。

「復有餘甚深微妙大法光明，何等法是？或有沙門、婆羅門於末劫末見，生非想非非想論，說此世間非想非非想；彼盡入八見中，於末劫末見，作非想非非想論，說世間非想非非想，於八見中，齊是不過。彼沙門、婆羅門因何事於末劫末見，生非想非非想論，說世間非想非非想，於八見中，齊是不過？諸沙門、婆羅門作如是論，作如是見：『我此終後，生有色非有想非無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生無色非有想非無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生有色無色非有想非無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生非有色非無色非有想非無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生有邊非有想非無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生無邊非有想非無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生有邊無邊非有想非無想，此實餘虛。』有言：『我此終後，生非有邊非無邊非有想非無想，此實餘虛。』是為八見。若沙門、婆羅門因此於末劫末見，生非有想非無想論，說世間非有想非無想；盡入八見中，齊是不過，唯佛能知，亦復如是。

> さらに、他にも甚深微妙なる大いなる法の光明があります。それはどのような法でしょうか。 ある沙門や婆羅門は、世界の終末についての見解（末劫末見）に基づき、「世間は非想非非想である」という論を立てます。彼らはすべて八つの見解の中に含まれ、世界の終末についての見解に基づいて「世間は非想非非想である」と論じ、その主張は八つの見解の範囲を超えることはありません。 彼ら沙門や婆羅門は、いかなる理由で世界の終末についての見解に基づき、「世間は非想非非想である」という論を立て、それが八つの見解の範囲を超えないのでしょうか。 沙門や婆羅門たちはこのように論じ、このような見解を持ちます： 「私がこの世を終えた後、色（物質）はあるが、想いもなく、想いがないわけでもない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 ある者は言います： 「私がこの世を終えた後、色（物質）はなく、想いもなく、想いがないわけでもない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 ある者は言います： 「私がこの世を終えた後、色（物質）もあり、色（物質）もなく、想いもなく、想いがないわけでもない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 ある者は言います： 「私がこの世を終えた後、色（物質）もなく、色（物質）がないわけでもなく、想いもなく、想いがないわけでもない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 ある者は言います： 「私がこの世を終えた後、有限ではあるが、想いもなく、想いがないわけでもない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 ある者は言います： 「私がこの世を終えた後、無限ではあるが、想いもなく、想いがないわけでもない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 ある者は言います： 「私がこの世を終えた後、有限でもあり無限でもあるが、想いもなく、想いがないわけでもない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 ある者は言います： 「私がこの世を終えた後、有限でもなく無限でもなく、想いもなく、想いがないわけでもない存在に生まれる。これが真実で、他は虚妄である」 これが八つの見解です。 もし沙門や婆羅門が、これによって世界の終末についての見解に基づき、「世間は非有想非無想である」と論じるならば、それはすべて八つの見解の中に含まれ、その範囲を超えることはありません。このことを完全に知り得るのは、ただ仏のみであり、その通りなのです。

「復有餘甚深微妙大法光明，何等法是？諸有沙門、婆羅門於末劫末見，起斷滅論，說眾生斷滅無餘；彼盡入七見中，於末劫末見起斷滅論，說眾生斷滅無餘，於七見中，齊是不過。彼沙門、婆羅門因何事於末劫末見，起斷滅論，說眾生斷滅無餘，於七見中，齊是不過？諸有沙門、婆羅門作如是論，作如是見：『我身四大、六入，從父母生，乳餔養育，衣食成長，摩捫擁護，然是無常，必歸磨滅，齊是名為斷滅。』第一見也。或有沙門、婆羅門作是說，言：『此我不得名斷滅，我欲界天斷滅無餘，齊是為斷滅。』是為二見。或有沙門、婆羅門作是說，言：『此非斷滅，我色界化身，諸根具足，斷滅無餘，是為斷滅。』有言：『此非斷滅，我無色空處斷滅。』有言：『此非斷滅，我無色識處斷滅。』有言：『此非斷滅，我無色不用處斷滅。』有言：『此非斷滅，我無色有想無想處斷滅，是第七斷滅。』是為七見。諸有沙門、婆羅門因此於末劫末見，言此眾生類斷滅無餘；於七見中，齊此不過，唯佛能知，亦復如是。

> また、さらに深遠で微妙な大いなる法の光明があります。それはどのような法でしょうか。 ある沙門や婆羅門が、世界の終末についての見解に基づき、断滅論を唱え、衆生は断滅して何も残らないと説くことがあります。彼らはすべて七つの見解の中に入り、世界の終末についての見解に基づき、断滅論を唱え、衆生は断滅して何も残らないと説き、七つの見解の範囲を超えることはありません。 彼ら沙門や婆羅門は、いかなる理由で世界の終末についての見解に基づき、断滅論を唱え、衆生は断滅して何も残らないと説き、七つの見解の範囲を超えないのでしょうか。 ある沙門や婆羅門はこのように論じ、このような見解を持ちます： 「この我（アートマン）は、四大（地水火風）と六入（六つの感覚器官）から成り、父母から生まれ、乳で育てられ、衣食によって成長し、手当てや保護を受けるが、それは無常であり、必ず滅びに帰する。これが断滅である。」これが第一の見解です。 ある沙門や婆羅門はこう説きます： 「これは断滅とは言えない。我が欲界天において断滅し、何も残らない。これが断滅である。」これが第二の見解です。 ある沙門や婆羅門はこう説きます： 「これは断滅ではない。我が色界の化身であり、諸根が具足しているが、断滅して何も残らない。これが断滅である。」 また言います：「これは断滅ではない。我が無色界の空無辺処で断滅する。」 また言います：「これは断滅ではない。我が無色界の識無辺処で断滅する。」 また言います：「これは断滅ではない。我が無色界の無所有処で断滅する。」 また言います：「これは断滅ではない。我が無色界の非想非非想処で断滅する。これが第七の断滅である。」 これが七つの見解です。ある沙門や婆羅門はこれに基づき、世界の終末についての見解から、この衆生の類は断滅して何も残らないと言うのです。七つの見解の範囲を超えることはなく、ただ仏のみがこれを知ることができるのです。

「復有餘甚深微妙大法光明，何等法是？諸有沙門、婆羅門於末劫末見，現在生泥洹論，說眾生現在有泥洹；彼盡入五見中，於末劫末見說現在有泥洹，於五見中，齊是不過。彼沙門、婆羅門因何事於末劫末見，說眾生現有泥洹，於五見中，齊是不過？諸有沙門、婆羅門作是見，作是論，說：『我於現在五欲自恣，此是我得現在泥洹。』是第一見。復有沙門、婆羅門作是說：『此是現在泥洹，非不是，復有現在泥洹微妙第一，汝所不知，獨我知耳；如我去欲、惡不善法，有覺、有觀，離生喜、樂，入初禪，此名現在泥洹。』是第二見。

> さらに、他にも甚だ深遠にして微妙なる大いなる法の光明がある。それはどのような法か。 ある沙門や婆羅門が、末劫末見において、「衆生は現在、泥洹（涅槃）にある」という現在生泥洹論を説く。彼らはすべて五見の中に入り、末劫末見において現在に泥洹があると説くが、それは五見の範囲を出ないのである。 彼ら沙門や婆羅門は、いかなる理由で末劫末見において、衆生が現在泥洹にあると説き、それが五見の範囲を出ないのか。 ある沙門や婆羅門はこのような見解を持ち、このように論じて言う。 「私は現在、五欲を思いのままに楽しんでいる。これこそが私の得た現在の泥洹である」と。 これが第一の見解である。 また、別の沙門や婆羅門はこう説く。 「これが現在の泥洹であることに間違いはないが、さらに微妙で第一なる現在の泥洹がある。あなた方は知らないが、私だけが知っているのだ。すなわち、私が欲や不善な法を離れ、覚と観があり、離生の喜びと楽しみをもって初禅に入ること、これを現在の泥洹というのである」と。 これが第二の見解である。

「復有沙門、婆羅門作如是說：『此是現在泥洹，非不是，復有現在泥洹微妙第一，汝所不知，獨我知耳；如我滅有覺、觀，內喜、一心，無覺、無觀，定生喜、樂，入第二禪。』齊是名現在泥洹，是為第三見。復有沙門、婆羅門作是說，言：『此是現在泥洹，非不是，復有現在泥洹微妙第一，汝所不知，獨我知耳；如我除念、捨、喜、住樂，護念一心，自知身樂，賢聖所說，入第三禪。』齊是名現在泥洹，是為第四見。復有沙門、婆羅門作是說，言：『此是現在泥洹，非不是，現在泥洹復有微妙第一，汝所不知，獨我知耳；如我樂滅、苦滅，先除憂、喜，不苦不樂，護念清淨，入第四禪。』此名第一泥洹，是為第五見。若沙門、婆羅門於末劫末見，生現在泥洹論，於五見中，齊是不過，唯佛能知，亦復如是。

> また、ある沙門や婆羅門はこのように説きます。「これこそが現在の涅槃であり、そうでないことはない。さらに、現在の涅槃には微妙で第一の境地があり、あなた方は知らず、ただ私のみが知っているのである。たとえば私が、覚と観を滅し、内なる喜びと一心を得て、無覚・無観の状態となり、定のなかで喜びと楽しみが生じ、第二禅に入るように。」これが現在の涅槃と呼ばれるものであり、これが第三の見解です。 また、ある沙門や婆羅門はこのように説きます。「これこそが現在の涅槃であり、そうでないことはない。さらに、現在の涅槃には微妙で第一の境地があり、あなた方は知らず、ただ私のみが知っているのである。たとえば私が、念と喜びを捨てて楽に住し、心を護り念じて一心となり、自ら身の楽みを知り、賢聖の説くところの第三禅に入るように。」これが現在の涅槃と呼ばれるものであり、これが第四の見解です。 また、ある沙門や婆羅門はこのように説きます。「これこそが現在の涅槃であり、そうでないことはない。現在の涅槃にはさらに微妙で第一の境地があり、あなた方は知らず、ただ私のみが知っているのである。たとえば私が、楽も苦も滅し、先に憂いと喜びを除き、苦もなく楽もなく、護念して清浄となり、第四禅に入るように。」これが第一の涅槃と呼ばれるものであり、これが第五の見解です。 もし沙門や婆羅門が、末の劫、末の見において、現在の涅槃について論じるならば、五つの見解のうち、これらを超えるものはありません。ただ仏のみがこれを知ることができるのであり、これもまた同じです。

「諸有沙門、婆羅門於末劫末見，無數種種，隨意所說；於四十四見中，齊是不過，唯佛能知此諸見處，亦復如是。諸有沙門、婆羅門於本劫本見、末劫末見，無數種種，隨意所說，盡入此六十二見中；於本劫本見、末劫末見，無數種種，隨意所說；於六十二見中，齊此不過，唯如來知此見處，亦復如是。諸有沙門、婆羅門於本劫本見，生常論，說：『我、世間是常。』彼沙門、婆羅門於此生智，謂異信、異欲、異聞、異緣、異覺、異見、異定、異忍，因此生智，彼以希現則名為受，——乃至現在泥洹，亦復如是。諸有沙門、婆羅門生常論，言：『世間是常。』彼因受緣，起愛生愛而不自覺知，染著於愛，為愛所伏，——乃至現在泥洹，亦復如是。諸有沙門、婆羅門於本劫本見，生常論，言：『世間是常。』彼因觸緣故，若離觸緣而立論者，無有是處，——乃至現在泥洹，亦復如是。諸有沙門、婆羅門於本劫本見、末劫末見，各隨所見說，彼盡入六十二見中，各隨所見說，盡依中在中，齊是不過。猶如巧捕魚師，以細目網覆小池上，當知池中水性之類，皆入網內，無逃避處，齊是不過。諸沙門、婆羅門亦復如是，於本劫本見、末劫末見，種種所說，盡入六十二見中，齊是不過。

> 諸々の沙門・婆羅門が、未来の劫について未来の見解を立て、無数の種々の説を思いのままに説くことがあります。それらの四十四の見解は、すべてこの範囲を超えず、ただ仏のみがこれらの見解のありようを知ることができるのです。また、このようにも言えます。諸々の沙門・婆羅門が、過去の劫について過去の見解を立て、未来の劫について未来の見解を立て、無数の種々の説を思いのままに説くことは、すべてこの六十二の見解の中に含まれるのです。過去の劫について過去の見解を立て、未来の劫について未来の見解を立て、無数の種々の説を思いのままに説くことは、この六十二の見解の範囲を超えることはなく、ただ如来のみがこれらの見解のありようを知ることができるのです。 諸々の沙門・婆羅門が、過去の劫について過去の見解を立て、「常」という論を生じ、「我と世間は常住である」と説きます。彼ら沙門・婆羅門は、異なる信仰、異なる欲求、異なる聞き方、異なる縁、異なる感覚、異なる見解、異なる禅定、異なる忍従によって、この知恵を生じます。それによって生じた知恵を、彼らは希求し現前させることを「受」と呼びます。これは、現在の涅槃に至るまで、同じように言えることです。諸々の沙門・婆羅門が「常」という論を生じ、「世間は常住である」と説くとき、彼らは「受」を縁として愛を起こし、愛を生じますが、自分ではそれに気づきません。愛に染まり執着し、愛に支配されるのです。これも、現在の涅槃に至るまで、同じように言えることです。諸々の沙門・婆羅門が、過去の劫について過去の見解を立て、「常」という論を生じ、「世間は常住である」と説くとき、彼らは「触」を縁としています。「触」の縁を離れて論を立てることは、ありえないのです。これも、現在の涅槃に至るまで、同じように言えることです。 諸々の沙門・婆羅門が、過去の劫について過去の見解を立て、未来の劫について未来の見解を立て、それぞれの見解に従って説くことは、すべて六十二の見解の中に含まれます。それぞれの見解に従って説くことは、すべてこの中に依り、この中にあり、この範囲を超えることはありません。それはあたかも、巧みな漁師が細かい網を小さな池に覆いかぶせるとき、池の中のすべての生き物が網の中に入り、逃げ場がないのと同じです。この範囲を超えることはありません。諸々の沙門・婆羅門もまた同じで、過去の劫について過去の見解を立て、未来の劫について未来の見解を立て、種々に説くことは、すべて六十二の見解の中に含まれ、この範囲を超えることはないのです。

「若比丘於六觸集、滅、味、過、出要，如實而知，則為最勝，出彼諸見。如來自知生死已盡，所以有身，為欲福度諸天、人故，若其無身，則諸天、世人無所恃怙，猶如多羅樹斷其頭者，則不復生。佛亦如是，已斷生死，永不復生。」

> 比丘が六つの触れ合い（六触）の生起、消滅、味わい、過ち、そしてそこからの離脱について、ありのままに知るならば、それは最も優れた境地であり、あらゆる誤った見解を超えるものです。 如来は自ら、生死の輪廻が尽きたことを知っています。それでもなおこの身体があるのは、天界の者や人々を福徳によって救い導くためです。もし如来に身体がなければ、天界の者も人々も頼りとするものがなくなってしまうでしょう。それはちょうど、多羅樹の頭を切り落とせば、二度と生えてこないのと同じです。仏もまた同じく、生死の輪廻を断ち切ったので、永遠に再び生まれることはありません。

當佛說此法時，大千世界三返六種震動。爾時，阿難在佛後執扇扇佛，偏露右臂，長跪叉手，白佛言：「此法甚深，當以何名？云何奉持？」

> 仏がこの法を説かれた時、大千世界は三度にわたり六種の震動を起こした。その時、阿難は仏の後ろに立ち、扇を取って仏に風を送りながら、右の肩をあらわにし、ひざまずいて合掌し、仏に申し上げた。「この法はまことに深遠であります。どのような名で呼び、どのように奉持すべきでしょうか。」

佛告阿難：「當名此經為義動、法動、見動、魔動、梵動。」

> お釈迦様は阿難に仰せになりました。「この経典は、『義の動き』『法の動き』『見の動き』『魔の動き』『梵の動き』と名づけるべきである。」

爾時，阿難聞佛所說，歡喜奉行。

> その時、阿難は仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。

## 佛說長阿含經卷第十四