---
title: "長阿含經 · 25 倮形梵志經"
description: "長阿含經是佛教原始經典四阿含之一，由後秦時期譯師佛陀耶舍與竺佛念共同譯出。該經成書於公元前1世紀左右，屬早期佛教根本聖典，記載了佛陀與弟子們的言行教法。全經共30卷，分為四分，主要內容包括佛陀生平、教義闡述、修行方法及宇宙觀等，系統性保存了原始佛教的基本教理。作為漢傳佛教重要典籍，長阿含經被視為研究原始佛教思想的核心文獻，在佛教經典體系中具有不可替代的權威地位，對後世佛教發展影響深遠。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm95s9nxa04c6jz0ueuyg07m0"
---

### （二五）佛說長阿含第三分倮形梵志經第六

> 裸形梵志経第六

如是我聞：

> 私はこのように聞きました。

一時，佛在委若國金槃鹿野林中，與大比丘眾千二百五十人俱。

> ある時、お釈迦様はヴァラナシーの鹿野苑という林におられ、千二百五十人の比丘たちと共におられました。

時，有倮形梵志姓迦葉，詣世尊所，問訊已，一面坐。倮形迦葉白佛言：「我聞沙門瞿曇呵責一切諸祭祀法，罵諸苦行人以為弊穢。瞿曇！若有言：『沙門瞿曇呵責一切諸祭祀法，罵苦行人以為弊穢。』作此言者，是為法語，法法成就，不誹謗沙門瞿曇耶？」

> ある時、裸形で修行するバラモン、迦葉という者が、世尊のもとを訪れ、挨拶を交わしてから、傍らに座った。裸形の迦葉は仏に言った。 「私は聞きました。沙門瞿曇（釈尊）が、あらゆる祭祀の法を非難し、苦行を行う者たちを罵って穢れた者であるとおっしゃったと。瞿曇よ、もしも『沙門瞿曇はあらゆる祭祀の法を非難し、苦行を行う者を罵って穢れた者であると言った』と語る者がいたならば、その言葉は正しい教えにかなったもの、法に法を成就したものであり、沙門瞿曇を誹謗するものではないでしょうか？」

佛言：「迦葉！彼若言：『沙門瞿曇呵責一切諸祭祀法，罵苦行人以為弊穢。』者，彼非法言，非法法成就，為誹謗我，非誠實言。所以者何？迦葉！我見彼等苦行人，有身壞命終，墮地獄中者；又見苦行人身壞命終，生天善處者；或見苦行人樂為苦行，身壞命終，生地獄中者；或見苦行人樂為苦行，身壞命終，生天善處者。迦葉！我於此二趣所受報處，盡知盡見，我寧可呵責諸苦行者以為弊穢耶？我正說是，彼則言非，我正說非，彼則言是。迦葉！有法沙門、婆羅門同，有法沙門、婆羅門不同。迦葉！彼不同者，我則捨置，以此法不與沙門、婆羅門同故。

> 仏は言われた。「迦葉よ、もし彼らが『沙門瞿曇は一切の祭祀の法を呵責し、苦行を行う者を罵り、弊穢であるとする』と言うならば、それは正しい言葉ではなく、正しい法に背く成就であり、私を誹謗するものであって、誠実な言葉ではない。なぜならば、迦葉よ、私は苦行を行う者たちの中に、身を壊し命を終えて地獄に堕ちる者を見ることもあれば、また苦行を行う者が身を壊し命を終えて天の善き処に生まれる者を見ることもある。あるいは苦行を行う者が苦行を喜び行い、身を壊し命を終えて地獄に生まれる者を見ることもあれば、また苦行を行う者が苦行を喜び行い、身を壊し命を終えて天の善き処に生まれる者を見ることもある。迦葉よ、私はこの二つの行くべき報いを受ける処について、ことごとく知り、ことごとく見ている。どうして私は諸々の苦行を行う者を呵責して弊穢であるとすることができようか？私が正しいと言えば、彼らは間違いだと言い、私が間違いだと言えば、彼らは正しいと言う。迦葉よ、沙門と婆羅門とが同じ法もあれば、沙門と婆羅門とが同じでない法もある。迦葉よ、その同じでないものについては、私は捨て置く。この法は沙門と婆羅門とが同じではないからである。」

「迦葉！彼有智者作如是觀，沙門瞿曇於不善法、重濁、黑冥、非賢聖法，彼異眾師於不善法、重濁、黑冥、非賢聖法，誰能堪任滅此法者？迦葉！彼有智者作是觀時，如是知見，唯沙門瞿曇能滅是法。迦葉！彼有智者作如是觀，如是推求，如是論時，我於此中則有名稱。

> 迦葉よ、知恵ある者はこのように観察するのです。沙門瞿曇は、不善の法、重く濁り、暗く、聖なる者にふさわしくない法について、他の師たちとは異なる教えを説かれている。この不善の法、重く濁り、暗く、聖なる者にふさわしくない法を、いったい誰が滅することができるだろうか。迦葉よ、知恵ある者がこのように観察するとき、彼はこう知り、こう見るのです。ただ沙門瞿曇のみが、この法を滅することができるのだと。迦葉よ、知恵ある者がこのように観察し、このように推し量り、このように論じるとき、私はここに名声を得るのです。

「復次，迦葉！彼有智者作如是觀，沙門瞿曇弟子於不善法、重濁、黑冥、非賢聖法，彼異眾師弟子於不善法、重濁、黑冥、非賢聖法，誰能堪任滅此法者？迦葉！彼有智者作如是觀，如是知見，唯沙門瞿曇弟子能滅是法。迦葉！彼有智者作如是觀，如是推求，如是論時，我弟子則得名稱。

> また、迦葉よ、知恵ある者はこのように観察する。釈迦牟尼の弟子たちは、不善の法、重く濁った、暗黒の、聖なる法に属さないものを、他の教えの師の弟子たちは、不善の法、重く濁った、暗黒の、聖なる法に属さないものを、一体誰がこの法を滅ぼすことができるだろうか。迦葉よ、知恵ある者はこのように観察し、このように知見して、ただ釈迦牟尼の弟子たちのみがこの法を滅ぼすことができると悟る。迦葉よ、知恵ある者がこのように観察し、このように推し量り、このように論じるとき、わが弟子たちは真の名声を得るのである。

「復次，迦葉！彼有智者作如是觀，沙門瞿曇於諸善法、清白、微妙及賢聖法，彼異眾師於諸善法、清白、微妙及賢聖法，誰能堪任增廣修行者？迦葉！彼有智者作如是觀，如是知見，唯有沙門瞿曇堪任增長修行是法。迦葉！彼有智者作如是觀，如是推求，如是論時，我於此中則有名稱。

> さらにまた、迦葉よ。その智慧ある者はこのように観察するのです。沙門瞿曇は、あらゆる善い法、清らかで微妙な法、そして聖なる法について、他の師たちは、これらの善い法、清らかで微妙な法、聖なる法のうち、誰が増やし広め、修行することができるだろうか、と。迦葉よ。その智慧ある者はこのように観察し、このように知り見るのです。ただ沙門瞿曇だけが、この法を増やし広め、修行することができるのだ、と。迦葉よ。その智慧ある者はこのように観察し、このように推し量り、このように論じる時、私はここに名声を得ることになるのです。

「迦葉！彼有智者作如是觀，沙門瞿曇弟子於諸善法、清白、微妙及賢聖法，彼異眾師弟子於諸善法、清白、微妙及賢聖法，誰能堪任增長修行者？迦葉！彼有智者作如是觀，如是知見，唯有沙門瞿曇弟子能堪任增長修行是法。迦葉！彼有智者作如是觀，如是推求，如是論時，於我弟子則有名稱。迦葉！有道有迹，比丘於中修行，則自知自見，沙門瞿曇時說、實說、義說、法說、律說。

> 迦葉よ、智慧ある者はこのように観察するのです。 「沙門瞿曇（釈尊）の弟子たちが、善い教え、清らかで微妙な教え、聖なる教えを実践するとき、他の師の弟子たちが同じ教えを実践するとき、いったいどちらが、その教えをより深く修行し、成長させることができるだろうか」と。 迦葉よ、智慧ある者はこのように観察し、このように知り見て、ただ沙門瞿曇の弟子たちのみが、この教えを深く修行し成長させることができると悟るのです。 迦葉よ、智慧ある者がこのように観察し、このように推し量り、このように論じるとき、私の弟子たちは真に称賛に値する者となるのです。 迦葉よ、道があり、その道を歩むべき道筋があります。比丘がその中で修行するならば、自ら知り、自ら見ることができるでしょう。沙門瞿曇（釈尊）が説く教えは、時にかなった真実の説き方であり、意義深く、正しい法に基づき、戒律に適ったものなのです。

「迦葉！何等是道？何等是迹？比丘於中修行，自知自見，沙門瞿曇時說、實說、義說、法說、律說。迦葉！於是比丘修念覺意，依止息，依無欲，依出要；修法、精進、喜、猗、定、捨覺意，依止息，依無欲，依出要。迦葉！是為道，是為迹，比丘於中修行，自知自見，沙門瞿曇時說、實說、義說、法說、律說。」

> 迦葉よ、何が道であり、何が道筋なのか。比丘がその中で修行し、自ら知り自ら見る、沙門瞿曇が時に応じて説き、真実を説き、意義を説き、法を説き、律を説くところのものとは何か。 迦葉よ、ここに比丘は念覚意を修め、止息に依り、無欲に依り、出離に依って修行する。法覚意、精進覚意、喜覚意、軽安覚意、定覚意、捨覚意を修め、止息に依り、無欲に依り、出離に依って修行する。 迦葉よ、これが道であり、これが道筋である。比丘がその中で修行し、自ら知り自ら見る、沙門瞿曇が時に応じて説き、真実を説き、意義を説き、法を説き、律を説くところのもの、それがこれである。

迦葉言：「瞿曇！唯有是道、是迹，比丘於中修行，自知自見。沙門瞿曇時說、實說、義說、法說、律說。但苦行穢污，有得婆羅門名，有得沙門名。何等是苦行穢污，有得婆羅門名，有得沙門名？瞿曇！離服倮形，以手自障蔽，不受夜食，不受朽食，不受兩壁中間食，不受二人中間食，不受兩刀中間食，不受兩杇中間食，不受共食家食，不受懷姙家食，狗在門前不食其食，不受有蠅家食，不受請食。他言先識則不受其飡，不食魚，不食肉，不飲酒，不兩器食，一飡一咽，至七飡止，受人益食，不過七益，或一日一食，或二日、三日、四日、五日、六日、七日一食。或復食果，或復食莠，或食飯汁，或食麻米，或食𥠆稻，或食牛糞，或食鹿糞，或食樹根枝葉花實，或食自落果；或披衣，或披莎衣，或衣樹皮，或草襜身，或衣鹿皮，或留髮，或被毛編，或著塚間衣；或有常舉手者，或不坐床席，或有常蹲者，或有剃髮留髭鬚者，或有臥荊棘上者，或有臥果蓏上者，或有倮形臥牛糞上者；或一日三浴，或一夜三浴，以無數苦，苦役此身。瞿曇！是為苦行穢污，或得沙門名，或得婆羅門名。」

> 迦葉は言いました。「ゴータマよ、ただこの道こそ、この行跡こそが、比丘がその中で修行し、自ら知り、自ら見るものなのです。沙門ゴータマは、時宜にかなった説き方、真実の説き方、意義のある説き方、法にかなった説き方、律にかなった説き方で説かれます。しかし、苦行というものは穢れであり、それによって婆羅門の名を得たり、沙門の名を得たりする者があります。一体どのような苦行が穢れでありながら、婆羅門の名を得たり、沙門の名を得たりするのでしょうか。ゴータマよ、衣服を離れ裸形となり、手で自らを覆い隠し、夜の食事を受けず、腐った食物を受けず、二つの壁の間で食事せず、二人の間で食事せず、二本の刀の間で食事せず、二つの臼の間で食事せず、共食する家の食事を受けず、妊娠している家の食事を受けず、犬が門前にいる家ではその食事を取らず、蝿のいる家の食事を受けず、招待された食事を受けません。他人が『先に知っていた』と言えばその食事を受けず、魚を食べず、肉を食べず、酒を飲まず、二つの器で食事せず、一口に一噛み、七口までで止め、人から施される食事は七度以上は受けず、あるいは一日一食、あるいは二日、三日、四日、五日、六日、七日に一食。あるいは果物だけを食べ、あるいは雑草を食べ、あるいは飯汁を食べ、あるいは麻や米を食べ、あるいは稗や粟を食べ、あるいは牛糞を食べ、あるいは鹿糞を食べ、あるいは樹の根や枝、葉、花、実を食べ、あるいは自然に落ちた果実を食べます。あるいは粗末な衣をまとい、あるいは莎草の衣をまとい、あるいは樹皮を衣とし、あるいは草で身を覆い、あるいは鹿の皮を衣とし、あるいは髪を伸ばし放し、あるいは毛皮を編んだものを身につけ、あるいは墓場の衣を着ます。ある者は常に手を挙げ続け、ある者は床や敷物に座らず、ある者は常に蹲り、ある者は髪を剃りひげを残し、ある者は荊棘の上に臥し、ある者は瓜や果物の上に臥し、ある者は裸形で牛糞の上に臥します。ある者は一日に三度浴し、ある者は一晩に三度浴し、数えきれない苦しみをもってこの身を苦しめます。ゴータマよ、これが苦行という穢れであり、それによって沙門の名を得たり、婆羅門の名を得たりするのです。」

佛言：「迦葉！離服倮形者，以無數方便苦役此身，彼戒不具足，見不具足，不能勤修，亦不廣普。」

> 仏は言われた：「迦葉よ、衣服を離れ裸形となる者は、数え切れないほどの方法でこの身を苦しめ苛む。しかし彼らは戒を具足せず、見を具足せず、精進して修行することもなく、また広く普遍的な境地にも至らない。」

迦葉白佛言：「云何為戒具足？云何為見具足？過諸苦行，微妙第一。」

> 迦葉が仏に申し上げました。「どのような行いが戒を満たすことになるのでしょうか。どのような見解が正しい見解を満たすのでしょうか。あらゆる苦行を超え、最も優れた道とは何でしょうか。」

佛告迦葉：「諦聽，善思念之，當為汝說。」

> 迦葉よ、よく聞きなさい。心をこめて思いめぐらしなさい。今、あなたのために説き明かしましょう。

迦葉言：「唯然。瞿曇！願樂欲聞。」

> 迦葉は言った。「はい、ゴータマよ。どうか、お聞かせください。」

佛告迦葉：「若如來、至真出現於世，乃至四禪，於現法中而得快樂。所以者何？斯由精勤，專念一心，樂於閑靜，不放逸故。迦葉！是為戒具足，見具足，勝諸苦行，微妙第一。」

> 仏は迦葉に告げられた： 「もし如来・至真が世に現れ、四禅に至るまで、現世において安楽を得るならば、それはなぜか。 これは精進に由り、専ら一心に念じ、閑静を楽しみ、放逸に陥らぬが故である。 迦葉よ、これこそ戒を具足し、見を具足し、あらゆる苦行に勝り、微妙にして第一なるものと為すのである。」

迦葉言：「瞿曇！雖曰戒具足，見具足，過諸苦行，微妙第一，但沙門法難，婆羅門法難。」

> 迦葉は言った。「瞿曇よ、戒を具え、見解を具え、あらゆる苦行を超えて、微妙で第一の境地にあるとは言え、沙門の道は難しく、婆羅門の道もまた難しいのです。」

佛言：「迦葉！此是世間不共法。所謂沙門法、婆羅門法難，迦葉！乃至優婆夷亦能知此法。離服倮形，乃至無數方便苦役此身，但不知其心：為有恚心、為無恚心，有恨心、無恨心，有害心、無害心？若知此心者，不名沙門、婆羅門，為已不知故，沙門、婆羅門為難。」

> 仏は言われた。「迦葉よ、これは世間の共ならざる法である。いわゆる沙門の法、婆羅門の法は難しい、と。迦葉よ、優婆夷でさえもこの法を知ることができる。衣服を離れ裸形となり、あるいは数え切れないほどの様々な苦行をもってこの身を苛めても、ただその心を知らないのである：瞋りの心があるのか、瞋りの心がないのか、恨みの心があるのか、恨みの心がないのか、害の心があるのか、害の心がないのか？もしこの心を知るならば、沙門とも婆羅門とも名づけられない。まだ知らないがゆえに、沙門・婆羅門となることは難しいのである。」

爾時，迦葉白佛言：「何等是沙門、何等是婆羅門，戒具足、見具足，為上為勝，微妙第一？」

> その時、迦葉は仏に尋ねました。「いったい何が沙門であり、何が婆羅門なのでしょうか。戒を満たし、見解を満たし、最も優れ、勝れた、微妙で第一のものとは何でしょうか？」

佛告迦葉：「諦聽，諦聽，善思念之，當為汝說。」

> 迦葉よ、よく聞きなさい。心を静めて深く思いめぐらしなさい。今からあなたのために説き明かしましょう。

迦葉言：「唯然。瞿曇！願樂欲聞。」

> 迦葉は言った。「はい、ゴータマよ。どうか、お聞かせください。」

佛言：「迦葉！彼比丘以三昧心，乃至得三明，滅諸癡冥，生智慧明，所謂漏盡智生。所以者何？斯由精勤，專念不忘，樂獨閑靜，不放逸故。迦葉！此名沙門、婆羅門，戒具足、見具足，最勝最上，微妙第一。」

> 仏は言われた：「迦葉よ、その比丘は三昧の心をもって、ついに三明を得、あらゆる無知の闇を滅し、智慧の明を生じる。すなわち漏尽智が生まれるのである。なぜそうなるのか？これは精進に励み、専心して念を忘れず、独り静寂を楽しみ、放逸に陥らないからである。迦葉よ、これこそが沙門、婆羅門の戒を具え、見を具え、最も勝れ、最も上であり、微細にして第一の境地と呼ばれるものである。」

迦葉言：「瞿曇！雖言是沙門、婆羅門，見具足、戒具足，為上為勝，微妙第一。但沙門、婆羅門法，甚難！甚難！沙門亦難知，婆羅門亦難知。」

> 迦葉は言いました。「ゴータマよ、あなたは確かに沙門や婆羅門は、見解が完璧で、戒律が完璧であり、最高で優れ、微細で第一であると言われます。しかし、沙門や婆羅門の道は、とても難しいのです！とても難しいのです！沙門も理解するのが難しく、婆羅門も理解するのが難しいのです。」

佛告迦葉：「優婆塞亦能修行此法。」白言：「我從今日能離服倮形，乃至以無數方便苦役此身，不可以此行名為沙門、婆羅門，若當以此行名為沙門、婆羅門者，不得言沙門甚難！婆羅門甚難！不以此行為沙門、婆羅門故，言沙門甚難！婆羅門甚難！」

> 仏は迦葉に告げられた：「在家の信者もまたこの法を修行することができる。」 迦葉は申し上げた：「私は今日より裸形を離れ、さらには数えきれないほどの方便をもってこの身を苦しめても、この行いをもって沙門・婆羅門と名乗ることはできません。もしこの行いをもって沙門・婆羅門と名乗るならば、『沙門はまことに難しく、婆羅門はまことに難しい』とは言えません。この行いをもって沙門・婆羅門としないからこそ、『沙門はまことに難しく、婆羅門はまことに難しい』と言えるのです。」

佛告迦葉：「我昔一時在羅閱祇，於高山七葉窟中，曾為尼俱陀梵志說清淨苦行。時梵志生歡喜心，得清淨信，供養我、稱讚我，第一供養稱讚於我。」

> 仏は迦葉に告げられた。「かつて私は羅閲祇の地にて、高山の七葉窟の中にいた時、尼倶陀という梵志に清浄なる苦行について説いたことがある。その時、梵志は歓喜の心を起こし、清浄なる信仰を得て、私を供養し、私を称賛した。それは私に対する第一の供養であり、称賛であった。」

迦葉言：「瞿曇！誰於瞿曇不生第一歡喜、淨信、供養、稱讚者？我今於瞿曇亦生第一歡喜，得清淨信，供養、稱讚，歸依瞿曇。」

> 迦葉は言いました。「瞿曇よ、あなたに対して第一の歓喜と清らかな信頼、供養、称賛を抱かない者がいるでしょうか。今、私もあなたに対して第一の歓喜を抱き、清らかな信頼を得て、供養し、称賛し、あなたに帰依いたします。」

佛告迦葉：「諸世間諸所有戒，無有與此增上戒等者，況欲出其上？諸有三昧、智慧、解脫、見解脫慧，無有與此增上三昧、智慧、解脫、見解脫慧等者，況欲出其上？迦葉！所謂師子者，是如來、至真、等正覺，如來於大眾中廣說法時，自在無畏，故號師子。云何，迦葉！汝謂如來師子吼時不勇捍耶？勿造斯觀，如來師子吼勇捍無畏。迦葉！汝謂如來勇捍師子吼時不在大眾中耶？勿造斯觀，如來在大眾中勇捍師子吼。迦葉！汝謂如來在大眾中作師子吼不能說法耶？勿造斯觀。所以者何？如來在大眾中勇捍無畏，作師子吼，善能說法。

> 仏は迦葉に告げられた。「あらゆる世間の戒律の中で、この増上戒に比肩するものはありません。ましてやこれを超えるものがあるでしょうか。あらゆる三昧、智慧、解脱、見解脱慧の中で、この増上三昧、智慧、解脱、見解脱慧に等しいものはありません。ましてやこれを凌駕するものがあるでしょうか。迦葉よ、獅子と呼ばれるものは、如来・至真・等正覚なる方です。如来が大衆の中で広く法を説かれる時、自在で畏れるものがないゆえに、獅子と称されるのです。どうですか、迦葉よ。あなたは如来が獅子吼される時、勇猛でないとお考えですか？そのような見方をしてはなりません。如来の獅子吼は勇猛で畏れるところがないのです。迦葉よ。あなたは如来が勇猛な獅子吼をされる時、大衆の中にいられないとお考えですか？そのような見方をしてはなりません。如来は大衆の中にあって勇猛に獅子吼をされるのです。迦葉よ。あなたは如来が大衆の中で獅子吼をされても、法を説くことができないとお考えですか？そのような見方をしてはなりません。なぜでしょうか。如来は大衆の中にあって勇猛で畏れるところなく獅子吼をされ、巧みに法を説かれるからです。」

「云何，迦葉！汝謂如來於大眾中勇捍無畏，為師子吼，善能說法，眾會聽者不一心耶？勿造斯觀。所以者何？如來在大眾中勇捍無畏，為師子吼，善能說法，諸來會者皆一心聽。云何，迦葉！汝謂如來在大眾中勇捍無畏，為師子吼，善能說法，諸來會者皆一心聽，而不歡喜信受行耶？勿造斯觀。所以者何？如來在大眾中勇捍多力，能師子吼，善能說法，諸來會者皆一心聽，歡喜信受。迦葉！汝謂如來在大眾中勇捍無畏，為師子吼，善能說法，諸來會者歡喜信受，而不供養耶？勿造斯觀，如來在大眾中勇捍無畏，為師子吼，善能說法，諸來會者皆一心聽，歡喜信受，而設供養。

> 迦葉よ、どう思うか。あなたは、如来が大衆の中で勇猛果敢で畏れることなく、獅子吼のように雄弁に法を説くが、集まった人々が一心に聞かないと思うのか。そのように考えてはならない。なぜなら、如来が大衆の中で勇猛果敢で畏れることなく、獅子吼のように雄弁に法を説けば、集まったすべての人々は一心に聞くからである。 迦葉よ、どう思うか。あなたは、如来が大衆の中で勇猛果敢で畏れることなく、獅子吼のように雄弁に法を説き、集まった人々が一心に聞くが、喜んで信じ受け入れ実践しないと思うのか。そのように考えてはならない。なぜなら、如来が大衆の中で勇猛で力強く、獅子吼のように雄弁に法を説けば、集まった人々は一心に聞き、喜んで信じ受け入れるからである。 迦葉よ、あなたは、如来が大衆の中で勇猛果敢で畏れることなく、獅子吼のように雄弁に法を説き、集まった人々が喜んで信じ受け入れるが、供養をしないと思うのか。そのように考えてはならない。如来が大衆の中で勇猛果敢で畏れることなく、獅子吼のように雄弁に法を説けば、集まった人々は一心に聞き、喜んで信じ受け入れ、そして供養を捧げるのである。

「迦葉！汝謂如來在大眾中勇捍無畏，為師子吼，乃至信敬供養，而不剃除鬚髮，服三法衣，出家修道耶？勿造斯觀。所以者何？如來在大眾中勇捍無畏，乃至信敬供養，剃除鬚髮，服三法衣，出家修道。迦葉！汝謂如來在大眾中勇捍無畏，乃至出家修道，而不究竟梵行，至安隱處，無餘泥洹耶？勿造斯觀。所以者何？如來於大眾中勇捍無畏，乃至出家修道，究竟梵行，至安隱處，無餘泥洹。」

> 迦葉よ、あなたは、如来が大衆の中で勇猛に恐れず獅子吼をなし、信敬と供養を受けながら、髪やひげを剃らず、三つの法衣をまとわず、出家して修行すると思っているのか。そのように見てはならない。なぜなら、如来は大衆の中で勇猛に恐れず、信敬と供養を受け、髪やひげを剃り、三つの法衣をまとって出家し修行するからである。 迦葉よ、あなたは、如来が大衆の中で勇猛に恐れず、出家して修行しながら、梵行を究めず、安らかな境地に至らず、無余の涅槃に入らないと思っているのか。そのように見てはならない。なぜなら、如来は大衆の中で勇猛に恐れず、出家して修行し、梵行を究め、安らかな境地に至り、無余の涅槃に入るからである。

時，迦葉白佛言：「云何，瞿曇！我得於此法中出家受具戒不？」

> 迦葉は仏に申し上げました。「瞿曇よ、私はこの教えの中で出家し、具足戒を受けることができるでしょうか？」

佛告迦葉：「若異學欲來入我法中出家修道者，當留四月觀察，稱可眾意，然後當得出家受戒。迦葉！雖有是法，亦觀其人耳。」

> 仏は迦葉に告げられた：「もし異なる教えを学ぶ者が、わが教えに入り出家して修行しようと望むならば、四ヶ月間留め置いて観察し、大衆の意向に適うと認められてから、初めて出家し戒を受けることができる。迦葉よ、この定めはあるが、やはりその人自身を見極めることが大切である。」

迦葉言：「若有異學欲來入佛法中修梵行者，當留四月觀察，稱可眾意，然後當得出家受戒。我今能於佛法中四歲觀察，稱可眾意，然後乃出家受戒。」

> 迦葉は言いました。「もし異なる教えを学ぶ者が仏法に入り、清らかな行いを修めようとするなら、四か月間留めて様子を見て、皆の意向にかなうと認められてから、出家し戒を受けるべきです。私は今、仏法の中で四年間様子を見られ、皆の意向にかなうと認められてから、出家し戒を受けることができます。」

佛告迦葉：「我已有言，但觀其人耳。」

> 仏は迦葉に告げた：「私はすでに言った、ただその人を見よと。」

爾時，迦葉即於佛法中出家受具足戒。時，迦葉受戒未久，以淨信心修無上梵行，現法中自身作證，生死已盡，梵行已立，所作已辦，不受後有，即成阿羅漢。

> その時、迦葉はただちに仏の教えに従い出家し、具足戒を受けました。迦葉は戒を受けて間もなく、清らかな信心をもって無上の清らかな行いを実践し、この世において自ら悟りを体得しました。生死の輪廻は尽き、清らかな行いは確立され、なすべきことは成し遂げられ、再び迷いの世界に生まれることはありません。こうして迦葉は阿羅漢となったのです。

爾時，迦葉聞佛所說，歡喜奉行。

> その時、迦葉は仏の説法を聞き、喜んで教えを実践しました。