---
title: "長阿含經 · 5 龍鳥品"
description: "長阿含經是佛教原始經典四阿含之一，由後秦時期譯師佛陀耶舍與竺佛念共同譯出。該經成書於公元前1世紀左右，屬早期佛教根本聖典，記載了佛陀與弟子們的言行教法。全經共30卷，分為四分，主要內容包括佛陀生平、教義闡述、修行方法及宇宙觀等，系統性保存了原始佛教的基本教理。作為漢傳佛教重要典籍，長阿含經被視為研究原始佛教思想的核心文獻，在佛教經典體系中具有不可替代的權威地位，對後世佛教發展影響深遠。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm95s9rbi04pcjz0uo76z86s9"
---

### 佛說長阿含第四分世記經龍鳥品第五

> 龍鳥品第五

佛告比丘：「有四種龍。何等為四？一者卵生，二者胎生，三者濕生，四者化生，是為四種。有四種金翅鳥。何等為四？一者卵生，二者胎生，三者濕生，四者化生，是為四種。大海水底有娑竭龍王宮，縱廣八萬由旬，宮牆七重，七重欄楯、七重羅網、七重行樹，周匝嚴飾，皆七寶成，乃至無數眾鳥相和而鳴，亦復如是。須彌山王與佉陀羅山二山中間，有難陀、婆難陀二龍王宮，各各縱廣六千由旬，宮牆七重，七重欄楯、七重羅網、七重行樹，周匝校飾，以七寶成，乃至無數眾鳥相和而鳴，亦復如是。

> 仏が比丘たちに告げられた。 「龍には四種類がある。どの四種類か。第一は卵から生まれるもの、第二は母胎から生まれるもの、第三は湿気から生まれるもの、第四は変化によって生まれるもの。これが四種類である。 金翅鳥にも四種類がある。どの四種類か。第一は卵から生まれるもの、第二は母胎から生まれるもの、第三は湿気から生まれるもの、第四は変化によって生まれるもの。これが四種類である。 大海の底には娑竭龍王の宮殿があり、その広さは縦横八万由旬に及ぶ。宮殿の周囲には七重の城壁があり、七重の欄干、七重の網、七重の並木が巡らされ、すべて七宝で厳かに飾られている。数え切れないほどの多くの鳥が互いに調和して鳴き交わしているのも、同じようにすばらしい。 須弥山王と佉陀羅山の二つの山の間には、難陀龍王と婆難陀龍王の二つの宮殿があり、それぞれの広さは縦横六千由旬に及ぶ。宮殿の周囲には七重の城壁があり、七重の欄干、七重の網、七重の並木が巡らされ、すべて七宝で美しく飾られている。数え切れないほどの多くの鳥が互いに調和して鳴き交わしているのも、同じようにすばらしい。」

「大海北岸有一大樹，名究羅睒摩羅，龍王、金翅鳥共有此樹。其樹下圍七由旬，高百由旬，枝葉四布五十由旬。此大樹東有卵生龍王宮、卵生金翅鳥宮，其宮各各縱廣六千由旬，宮牆七重，七重欄楯、七重羅網、七重行樹，周匝校飾，以七寶成，乃至無數眾鳥相和悲鳴，亦復如是。其究羅睒摩羅樹南有胎生龍王宮、胎生金翅鳥宮，其宮各各縱廣六千由旬，宮牆七重，七重欄楯、七重羅網、七重行樹，周匝校飾，以七寶成，乃至無數眾鳥相和悲鳴，亦復如是。究羅睒摩羅樹西有濕生龍宮、濕生金翅鳥宮，其宮各各縱廣六千由旬，宮牆七重，七重欄楯、七重羅網、七重行樹，周匝校飾，以七寶成，乃至無數眾鳥相和而鳴，亦復如是。究羅睒摩羅樹北有化生龍王宮、化生金翅鳥宮，其宮各各縱廣六千由旬，宮牆七重，七重欄楯、七重羅網、七重行樹，周匝校飾，以七寶成，乃至無數眾鳥相和悲鳴，亦復如是。

> 大海の北岸に一本の大樹があり、名を究羅睒摩羅といいます。龍王と金翅鳥が共にこの樹を所有しています。この樹の根元の周囲は七由旬、高さは百由旬、枝葉が四方に広がる範囲は五十由旬です。 この大樹の東には、卵生の龍王の宮殿と卵生の金翅鳥の宮殿があります。それぞれの宮殿は縦横六千由旬で、宮殿の周囲には七重の壁、七重の欄干、七重の網、七重の並木があり、周囲を飾り立て、七宝でできています。さらに、数え切れないほどの多くの鳥が互いに呼び交わして悲しげに鳴いているのも、同じです。 究羅睒摩羅樹の南には、胎生の龍王の宮殿と胎生の金翅鳥の宮殿があります。それぞれの宮殿は縦横六千由旬で、宮殿の周囲には七重の壁、七重の欄干、七重の網、七重の並木があり、周囲を飾り立て、七宝でできています。さらに、数え切れないほどの多くの鳥が互いに呼び交わして悲しげに鳴いているのも、同じです。 究羅睒摩羅樹の西には、濕生の龍王の宮殿と濕生の金翅鳥の宮殿があります。それぞれの宮殿は縦横六千由旬で、宮殿の周囲には七重の壁、七重の欄干、七重の網、七重の並木があり、周囲を飾り立て、七宝でできています。さらに、数え切れないほどの多くの鳥が互いに呼び交わして鳴いているのも、同じです。 究羅睒摩羅樹の北には、化生の龍王の宮殿と化生の金翅鳥の宮殿があります。それぞれの宮殿は縦横六千由旬で、宮殿の周囲には七重の壁、七重の欄干、七重の網、七重の並木があり、周囲を飾り立て、七宝でできています。さらに、数え切れないほどの多くの鳥が互いに呼び交わして悲しげに鳴いているのも、同じです。

「若卵生金翅鳥欲搏食龍時，從究羅睒摩羅樹東枝飛下，以翅搏大海水，海水兩披二百由旬，取卵生龍食之，隨意自在，而不能取胎生、濕生、化生諸龍。

> 卵から生まれた金翅鳥が龍を捕らえて食べようとする時、究羅睒摩羅樹の東の枝から飛び降り、翼で大海の水を打つと、海水は二百由旬にわたって左右に分かれ、卵生の龍を捕らえて食べることができます。それは自由自在ですが、胎生、湿生、化生の龍を捕らえることはできません。

「若胎生金翅鳥欲搏食卵生龍時，從樹東枝飛下，以翅搏大海水，海水兩披二百由旬，取卵生龍食之，自在隨意。若胎生金翅鳥欲食胎生龍時，從樹南枝飛下，以翅搏大海水，海水兩披四百由旬，取胎生龍食之，隨意自在，而不能取濕生、化生諸龍食也。

> もし胎生の金翅鳥が卵生の龍を捕らえて食べようとする時、樹の東の枝から飛び下り、翼で大海の水を打つと、海水は両側に二百由旬も押し分けられ、卵生の龍を捕らえて食べることができ、自由自在です。もし胎生の金翅鳥が胎生の龍を食べようとする時、樹の南の枝から飛び下り、翼で大海の水を打つと、海水は両側に四百由旬も押し分けられ、胎生の龍を捕らえて食べることができ、自由自在です。しかし、湿生や化生の龍を捕らえて食べることはできません。

「濕生金翅鳥欲食卵生龍時，從樹東枝飛下，以翅搏大海水，海水兩披二百由旬，取卵生龍食之，自在隨意。濕生金翅鳥欲食胎生龍時，於樹南枝飛下，以翅搏大海水，海水兩披四百由旬，取胎生龍食之，自在隨意。濕生金翅鳥欲食濕生龍時，於樹西枝飛下，以翅搏大海水，海水兩披八百由旬，取濕生龍食之，自在隨意，而不能取化生龍食。

> 湿生の金翅鳥が卵生の龍を食べようとする時、東の枝から飛び降り、翼で大海の水を打ち払うと、海水が二方に二百由旬も押し分けられ、卵生の龍を取って食べることができ、自在に意のままにします。湿生の金翅鳥が胎生の龍を食べようとする時、南の枝から飛び降り、翼で大海の水を打ち払うと、海水が二方に四百由旬も押し分けられ、胎生の龍を取って食べることができ、自在に意のままにします。湿生の金翅鳥が湿生の龍を食べようとする時、西の枝から飛び降り、翼で大海の水を打ち払うと、海水が二方に八百由旬も押し分けられ、湿生の龍を取って食べることができ、自在に意のままにしますが、化生の龍を取って食べることはできません。

「化生金翅鳥欲食卵生龍時，從樹東枝飛下，以翅搏大海水，海水兩披二百由旬，取卵生龍食之，自在隨意。化生金翅鳥欲食胎生龍時，從樹南枝飛下，以翅搏大海水，海水兩披四百由旬，取胎生龍食之，隨意自在。化生金翅鳥欲食濕生龍時，從樹西枝飛下，以翅搏大海水，海水兩披八百由旬，取濕生龍食之。化生金翅鳥欲食化生龍時，從樹北枝飛下，以翅搏大海水，海水兩披千六百由旬，取化生龍食之，隨意自在。是為金翅鳥所食諸龍。

> 化生の金翅鳥が卵生の龍を食べようとする時、東の枝から飛び下り、翼で大海の水を打ち分けると、海水が二百由旬も両側に分かれ、卵生の龍を捕らえて食べます。自由自在です。 化生の金翅鳥が胎生の龍を食べようとする時、南の枝から飛び下り、翼で大海の水を打ち分けると、海水が四百由旬も両側に分かれ、胎生の龍を捕らえて食べます。思いのままです。 化生の金翅鳥が湿生の龍を食べようとする時、西の枝から飛び下り、翼で大海の水を打ち分けると、海水が八百由旬も両側に分かれ、湿生の龍を捕らえて食べます。 化生の金翅鳥が化生の龍を食べようとする時、北の枝から飛び下り、翼で大海の水を打ち分けると、海水が千六百由旬も両側に分かれ、化生の龍を捕らえて食べます。自由自在です。 これが金翅鳥が食べる様々な龍の姿です。

「復有大龍，金翅鳥所不能得。何者是？娑竭龍王、難陀龍王、跋難陀龍王、伊那婆羅龍王、提頭賴吒龍王、善見龍王、阿盧龍王、伽拘羅龍王、伽毗羅龍王、阿波羅龍王、伽㝹龍王、瞿伽㝹龍王、阿耨達龍王、善住龍王、優睒伽波頭龍王、得叉伽龍王，此諸大龍王皆不為金翅鳥之所搏食，其有諸龍在近彼住者，亦不為金翅鳥之所搏食。」

> また、大いなる龍たちがおり、金翅鳥が捕らえることのできない者がいます。それはどのような者たちでしょうか。娑竭羅龍王、難陀龍王、跋難陀龍王、伊那婆羅龍王、提頭頼吒龍王、善見龍王、阿盧龍王、伽拘羅龍王、伽毘羅龍王、阿波羅龍王、伽㝹龍王、瞿伽㝹龍王、阿耨達龍王、善住龍王、優睒伽波頭龍王、得叉伽龍王です。これらの大龍王たちは、いずれも金翅鳥に捕らえられて食われることはなく、彼らの近くに住む他の龍たちも、金翅鳥に捕らえられて食われることはありません。

佛告比丘：「若有眾生奉持龍戒，心意向龍，具龍法者，即生龍中。若有眾生奉持金翅鳥戒，心向金翅鳥，具其法者，便生金翅鳥中。或有眾生持兔梟戒者，心向兔梟，具其法者，墮兔梟中。若有眾生奉持狗戒，或持牛戒，或持鹿戒，或持瘂戒，或持摩尼婆陀戒，或持火戒，或持月戒，或持日戒，或持水戒，或持供養火戒，或持苦行穢汙法，彼作是念：『我持此瘂法、摩尼婆陀法、火法、日月法、水法、供養火法、諸苦行法，我持此功德，欲以生天。』此是邪見。」

> 仏が比丘たちに告げました。「もし衆生が龍の戒めを奉じ守り、心を龍に向け、龍の法を具えているならば、その者は龍の中に生まれます。もし衆生が金翅鳥の戒めを奉じ守り、心を金翅鳥に向け、その法を具えているならば、金翅鳥の中に生まれます。あるいは、衆生が梟や兎の戒めを守る者、心を梟や兎に向け、その法を具えているならば、梟や兎の中に堕ちます。 もし衆生が犬の戒めを奉じ守り、あるいは牛の戒め、鹿の戒め、無言（瘂）の戒め、摩尼婆陀の戒め、火の戒め、月の戒め、日の戒め、水の戒め、あるいは火を供養する戒め、あるいは苦行による穢れた法を守るならば、彼らはこう考えます。『私はこの無言の法、摩尼婆陀の法、火の法、日月の法、水の法、火を供養する法、諸々の苦行の法を守る。私はこの功徳によって、天に生まれよう。』これは邪見です。」

佛言：「我說此邪見人必趣二處，若生地獄，有墮四生。或有沙門、婆羅門有如是論、如是見：『我、世間有常，此實餘虛；我及世間無常，此實餘虛；我及世間有常無常，此實餘虛；我及世間非有常非無常，此實餘虛。我、世有邊，此實餘虛；我、世無邊，此實餘虛；我、世有邊無邊，此實餘虛；我、世非有邊非無邊，此實餘虛。是命是身，此實餘虛；是命異身異，此實餘虛；非有命非無命，此實餘虛；無命無身，此實餘虛。』或有人言：『有如是他死，此實餘虛。』有言：『無如是他死，此實餘虛。』或言：『有如是無如是他死，此實餘虛。』又言：『非有非無如是他死，此實餘虛。』

> 仏は言われた。「私はこう説く。このような邪見を持つ者は、必ず二つの道のいずれかに向かう。地獄に生まれるか、あるいは四生のいずれかに堕ちるかである。 また、このような論、このような見解を持つ沙門や婆羅門がいる。 『我と世間は常住である。これが真実で、他は虚妄である』 『我と世間は無常である。これが真実で、他は虚妄である』 『我と世間は常住でもあり無常でもある。これが真実で、他は虚妄である』 『我と世間は常住でもなく無常でもない。これが真実で、他は虚妄である』 『我と世間には限りがある。これが真実で、他は虚妄である』 『我と世間には限りがない。これが真実で、他は虚妄である』 『我と世間には限りもあり、限りもない。これが真実で、他は虚妄である』 『我と世間には限りもなく、限りがないわけでもない。これが真実で、他は虚妄である』 『命と身体は同一である。これが真実で、他は虚妄である』 『命と身体は別々である。これが真実で、他は虚妄である』 『命もなく、身体もない。これが真実で、他は虚妄である』 『命も身体も存在しない。これが真実で、他は虚妄である』 また、ある者は言う。『死後もこのような存在がある。これが真実で、他は虚妄である』 ある者は言う。『死後にはこのような存在はない。これが真実で、他は虚妄である』 ある者は言う。『死後にはこのような存在もあり、またない。これが真実で、他は虚妄である』 またある者は言う。『死後にはこのような存在もなく、またないわけでもない。これが真実で、他は虚妄である』」

「彼沙門、婆羅門若作如是論、如是見者，言世是常，此實餘虛者，彼於行有我見、命見、身見、世間見，是故彼作是言：『我、世間有常。』彼言無常者，於行有我見、命見、身見、世間見，是故彼言：『我、世間無常。』彼言有常無常者，彼行於有我見、命見、身見、世間見，故言：『世間有常無常。』彼言非有常非無常者，於行有我見、命見、身見、世間見，故言：『我、世間非有常非無常。』

> ある修行者やバラモンが、このような論を立て、このような見解を持つならば、「世界は常住である」と言い、これが真実で他は虚妄であると主張します。彼らは、あらゆる現象（行）に対して「我」という見方、生命という見方、身体という見方、世間という見方を持っているからです。それゆえに彼らはこう言うのです：「私と世界は常住である」。 「世界は無常である」と言う者も、あらゆる現象に対して「我」という見方、生命という見方、身体という見方、世間という見方を持っています。それゆえに彼らはこう言うのです：「私と世界は無常である」。 「世界は常住でもあり無常でもある」と言う者も、あらゆる現象に対して「我」という見方、生命という見方、身体という見方、世間という見方を持っています。それゆえに彼らはこう言うのです：「世界は常住でもあり無常でもある」。 「世界は常住でもなく無常でもない」と言う者も、あらゆる現象に対して「我」という見方、生命という見方、身体という見方、世間という見方を持っています。それゆえに彼らはこう言うのです：「私と世界は常住でもなく無常でもない」。

「彼言我、世間有邊者，於行有我見、命見、身見、世間見，言：『命有邊，身有邊，世間有邊，從初受胎至於塚間，所有四大身如是展轉，極至七生，身、命行盡，我入清淨聚。』是故彼言：『我有邊。』彼言我、世間無邊者，於行有我見、命見、身見、世間見，言：『命無邊，身無邊。世間無邊，從初受胎至於塚間，所有四大身如是展轉，極至七生，身、命行盡，我入清淨聚。』是言：『我、世間無邊。』彼作是言：『此世間有邊無邊。』彼於行有我見、命見、身見、世間見：『命有邊無邊，從初受胎至於塚間，所有四大身如是展轉，極至七生，身、命行盡，我入清淨聚。』是故言：『我有邊無邊。』彼作是言：『我、世間非有邊非無邊。』於行有我見、命見、身見、世間見：『命身非有邊非無邊，從初受胎至於塚間，所有四大身如是展轉，極至七生，身、命行盡，我入清淨聚。』是故言：『我非有邊非無邊。』

> ある者が「自我と世界には限りがある」と言うとき、それは、諸行に対して自我の見解、生命の見解、身体の見解、世界の見解を持ち、「生命には限りがあり、身体には限りがあり、世界には限りがある。最初に母胎を受けてから墓場に至るまで、この四大からなる身体はこのように転変し、極めて七生を経て、身体と生命の行いは尽き、私は清浄の集いに入るのだ」と言うからです。それゆえに彼は「自我には限りがある」と言うのです。 ある者が「自我と世界には限りがない」と言うとき、それは、諸行に対して自我の見解、生命の見解、身体の見解、世界の見解を持ち、「生命には限りがなく、身体には限りがなく、世界には限りがない。最初に母胎を受けてから墓場に至るまで、この四大からなる身体はこのように転変し、極めて七生を経て、身体と生命の行いは尽き、私は清浄の集いに入るのだ」と言うからです。それゆえに彼は「自我と世界には限りがない」と言うのです。 ある者が「この世界には限りがあるとも限りがないとも言える」と言うとき、それは、諸行に対して自我の見解、生命の見解、身体の見解、世界の見解を持ち、「生命には限りがあり、また限りがない。最初に母胎を受けてから墓場に至るまで、この四大からなる身体はこのように転変し、極めて七生を経て、身体と生命の行いは尽き、私は清浄の集いに入るのだ」と言うからです。それゆえに彼は「自我には限りがあり、また限りがない」と言うのです。 ある者が「自我と世界は限りがあるのでもなく、限りがないのでもない」と言うとき、それは、諸行に対して自我の見解、生命の見解、身体の見解、世界の見解を持ち、「生命と身体は限りがあるのでもなく、限りがないのでもない。最初に母胎を受けてから墓場に至るまで、この四大からなる身体はこのように転変し、極めて七生を経て、身体と生命の行いは尽き、私は清浄の集いに入るのだ」と言うからです。それゆえに彼は「自我は限りがあるのでもなく、限りがないのでもない」と言うのです。

「彼言是命是身者，於此身有命見，於餘身有命見，是故言：『是命是身。』言命異身異者，於此身有命見，於餘身無命見，是故言：『命異身異。』彼言身命非有非無者，於此身無命見，於餘身有命見，是故言：『非有非無。』彼言無身命者，此身無命見，餘身無命見，是故言：『無命無身。』彼言有如是他死者，其人見今有命，後更有身、命遊行，是故言：『有如是他死。』無如是他死者，彼言今世有命，後世無命，是故言：『無如是他死。』有如是他死無如是他死者，彼言今世命斷滅，後世命遊行，是故言：『有如是他命無如是他命。』非有非無如是他死者，彼言今身、命斷滅，後身、命斷滅，是故言：『非有非無如是他死。』」

> 「命と身体は同じである」と言う人は、この身体に命があると見て、他の身体にも命があると見ているから、「命と身体は同じである」と言うのです。 「命と身体は別である」と言う人は、この身体に命があると見て、他の身体には命がないと見ているから、「命と身体は別である」と言うのです。 「命と身体は有るのでもなく無いのでもない」と言う人は、この身体には命がないと見て、他の身体には命があると見ているから、「有るのでもなく無いのでもない」と言うのです。 「命も身体も無い」と言う人は、この身体に命がないと見て、他の身体にも命がないと見ているから、「命も身体も無い」と言うのです。 「他に死がある」と言う人は、現在の命があり、後にさらに身体と命が遊行する（輪廻する）と見ているから、「他に死がある」と言うのです。 「他に死は無い」と言う人は、現世には命があるが、来世には命がないと見ているから、「他に死は無い」と言うのです。 「他に死があるとも無いとも言えない」と言う人は、現世の命は断滅するが、来世の命は遊行すると見ているから、「他に死があるとも無いとも言えない」と言うのです。 「有るのでもなく無いのでもない他死」と言う人は、今の身体と命は断滅し、後の身体と命も断滅すると見ているから、「有るのでもなく無いのでもない他死」と言うのです。

爾時，世尊告諸比丘言：「乃往過去有王名鏡面，時，集生盲人聚在一處，而告之曰：『汝等生盲，寧識象不？』對曰：『大王！我不識、不知。』王復告言：『汝等欲知彼形類不？』對曰：『欲知。』時，王即勅侍者，使將象來，令眾盲子手自捫象。中有摸象得鼻者，王言此是象，或有摸象得其牙者，或有摸象得其耳者，或有摸象得其頭者，或有摸象得其背者，或有摸象得其腹者，或有摸象得其䏶者，或有摸象得其膊者，或有摸象得其跡者，或有摸象得其尾者，王皆語言：『此是象也。』

> その時、世尊は比丘たちに告げられました。 「昔々、鏡面王という王様がおりました。ある時、生まれつき目の見えない人たちを一か所に集めて、こうお尋ねになりました。 『そなたたちは、象というものを知っているか？』 彼らは答えました。 『王様、私たちは知りません』 王はさらに言われました。 『では、その形を知りたいか？』 『はい、知りたいです』 そこで王は侍従に命じて象を連れて来させ、盲人たちに自分の手で象を触らせました。 中には象の鼻を触った者がいました。王は『これが象だ』と言われました。 ある者は牙を触り、ある者は耳を触り、ある者は頭を触り、ある者は背中を触り、ある者は腹を触り、ある者は足を触り、ある者は肩を触り、ある者は足跡を触り、ある者は尾を触りました。 王は皆に言われました。 『これが象なのだ』と」

「時，鏡面王即却彼象，問盲子言：『象何等類？』其諸盲子，得象鼻者，言象如曲轅，得象牙者，言象如杵，得象耳者，言象如箕，得象頭者，言象如鼎，得象背者，言象如丘阜，得象腹者，言象如壁，得象䏶者，言象如樹，得象膊者，言象如柱，得象跡者，言象如臼，得象尾者，言象如絙。各各共諍，互相是非，此言如是，彼言不爾，云云不已，遂至鬪諍。時，王見此，歡喜大笑。

> その時、鏡面王はすぐに象を引き下げ、盲人たちに尋ねました。 「象とはどんなものかね？」 象の鼻を触った者は、「象は曲がった車の轅のようだ」と言い、 牙を触った者は、「象は杵のようだ」と言い、 耳を触った者は、「象は箕のようだ」と言い、 頭を触った者は、「象は鼎のようだ」と言い、 背中を触った者は、「象は丘のようだ」と言い、 腹を触った者は、「象は壁のようだ」と言い、 腿を触った者は、「象は木のようだ」と言い、 肩を触った者は、「象は柱のようだ」と言い、 足跡を触った者は、「象は臼のようだ」と言い、 尾を触った者は、「象は縄のようだ」と言いました。 それぞれが言い争い、互いに「これは正しい」「いや、違う」と譲らず、言い合いは止まず、ついには喧嘩になりました。 王はそれを見て、喜び大笑いしました。

「爾時，鏡面王即說頌曰：

> その時、鏡面王はすぐに詩を唱えて言いました。

「『諸盲人群集，於此競諍訟，象身本一體，異相生是非。』」

> 「多くの盲人が群れ集い、ここで争い諍う。 象の体はもともと一つなのに、異なる形を見て是非を生じる。」

佛告比丘：「諸外道異學亦復如是，不知苦諦，不知習諦、盡諦、道諦，各生異見，互相是非，謂己為是，便起諍訟。若有沙門、婆羅門能如實知苦聖諦、苦習聖諦、苦滅聖諦、苦出要諦，彼自思惟，相共和合，同一受，同一師，同一水乳，熾然佛法，安樂久住。」

> 仏は比丘たちに告げられた。「諸々の外道や異なる教えを学ぶ者たちもまた同じである。彼らは苦諦を知らず、苦の集諦、苦の滅諦、苦の道諦を知らない。それぞれが異なる見解を生じさせ、互いに是と非を争い、自分だけが正しいと主張して、諍いを起こすのである。もし沙門や婆羅門が、苦聖諦、苦の集聖諦、苦の滅聖諦、苦の出離聖諦をありのままに知るならば、彼らは自ら思惟し、互いに和合し、同じ教えを受け入れ、同じ師に従い、水と乳のように一体となって、仏法を盛んにし、安楽のうちに長く存続させるであろう。」

爾時，世尊而說偈言：

> その時、世尊は偈を説かれました。

「若人不知苦，不知苦所起，亦復不知苦，所可滅盡處，亦復不能知，滅於苦集道，失於心解脫，慧解脫亦失，不能究苦本，生老病死源。若能諦知苦，知苦所起因，亦能知彼苦，所可滅盡處，又能善分別，滅苦集聖道，則得心解脫，慧解脫亦然。斯人能究竟，苦陰之根本，盡生老病死，受有之根原。

> もし人が苦を知らず、苦の起こる源を知らず、 また苦が滅び尽きる場所も知らず、 さらに苦を滅ぼす道も知ることができなければ、 心の解き放たれも失い、智慧の解き放たれも失う。 苦の根本、生老病死の源を究めることはできない。 もし苦を真に知り、苦の起こる原因を知り、 またその苦が滅び尽きる場所を知り、 さらに苦を滅ぼす聖なる道を善く分別できるならば、 心の解き放たれを得、智慧の解き放たれもまた得る。 この人は苦の根源を究め尽くし、 生老病死、存在の根元を滅することができる。

「諸比丘！是故汝等當勤方便思惟苦聖諦、苦集聖諦、苦滅聖諦、苦出要諦。」

> 諸比丘よ、それゆえに、あなた方は努めて工夫し、苦の聖なる真理、苦の生起の聖なる真理、苦の滅の聖なる真理、苦からの解脱の真理について思惟すべきである。

## 佛說長阿含經卷第十九

> 仏説長阿含経 第十九巻