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title: "菩提道次第廣論 · 念死無常"
description: "菩提道次第廣論是藏传佛教格鲁派创始人宗喀巴大师所著的佛教经典著作，由法尊法师译为汉文。该书成书于15世纪初，系统阐述了从凡夫到成佛的完整修行次第，融合了显密教法。内容涵盖下士道、中士道、上士道三主要道，详细指导修行者循序渐进地修习佛法。作为藏传佛教最重要的论典之一，菩提道次第廣論奠定了格鲁派教义基础，在佛教史上具有崇高地位，被誉为\"雪域佛教百科全书\"，对汉藏佛教交流产生了深远影响。"
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第二、正取心要分三：一、於共下士道次修心，二、於共中士道次修心，三、於上士夫道次修心。初中分三：一、正修下士意樂，二、發此意樂之量，三、除遣此中邪執。初中分二：一、發生希求後世之心，二、依止後世安樂方便。初中分二：一、思惟此世不能久住憶念必死，二、思惟後世當生何趣二趣苦樂。初中分四：一、未修念死所有過患，二、修習勝利，三、當發何等念死之心，四、修念死理。今初

如是於其有暇身時，取心藏中有四顛倒，於諸無常執為常倒，即是第一損害之門。其中有二，謂粗及細。於其粗劣死無常中，分別不死是損害門。此復僅念今後邊際定當有死，雖皆共有，然日日中，乃至臨終，皆起是念：今日不死。今亦不死，其心終執不死方面。若不作意此執對治，被如是心之所蓋覆，便起久住現法之心。於此時中，謂須如是如是眾事，數數思惟，唯於現法除苦引樂所有方便，不生觀察後世、解脫、一切智等大義之心，故不令起趣法之意。設有時趣聞、思、修等，然亦唯為現法利故，令所修善勢力微弱。復與惡行罪犯相屬而轉，故未糅雜惡趣因者，極為希貴。

> このように、有暇な身を得ている時に、心の本質を捉えるには四つの顛倒があります。諸行無常であるものを「常」と執着するのが、第一の顛倒であり、最初の損害の門となります。これには粗と細の二種類があります。 その粗い死の無常について、「死なない」と思い込むことが損害の門となります。ただ「いつか必ず死ぬ」と考えることは誰にでもありますが、日々、臨終の瞬間まで「今日は死なない」「今も死なない」と思い、心は常に「死なない」という側面に執着します。 もしこの執着に対治する心を働かせなければ、そのような心に覆われて、「長く生き続ける」という現世への執着心が生まれます。その時、「これこれの用事をしなければ」と繰り返し考え、ただ現世の苦を除き楽を求める方法ばかりを考えて、来世や解脱、一切智などの大きな目的を観察する心が生まれません。そのため、仏法へ向かう心も起こりません。 たとえ時々、聞・思・修などの修行をする機会があっても、それも現世の利益のためだけであり、修めた善の力は弱いものになります。さらに悪行や過ちと結びついて進むため、悪趣の因に混ざっていないものは、極めて稀です。

設能緣慮後世而修，然不能遮後時漸修延緩懈怠，遂以睡眠、惛沈、雜言、飲食等事，散耗時日，故不能發廣大精勤，如理修行。如是由希身命久住所欺誑故，遂於利養恭敬等上，起猛利貪。於此障礙，或疑作礙，起猛利瞋。於彼過患蒙昧愚癡。由利等故，引起猛利我慢、嫉等諸大煩惱及隨煩惱如瀑流轉。復由此故，於日日中漸令增長，諸有勝勢，能引惡趣猛利大苦，身語意攝十種惡行無間隨近，謗正法等諸不善業。又令漸棄能治彼等善妙宣說甘露正法，斷增上生及决定勝。所有命根遭死壞已，為諸惡業引導，令赴苦痛粗猛、炎燒非愛諸惡趣處。何有過此暴惡之門？《四百論》亦云：「若有三世主，自死無教者，彼若安然睡，豈有暴於此？」《入行論》亦云：「須棄一切走，我未如是知，為親非親故，作種種罪惡。」

> 即使想到來世而要修行，卻仍無法阻止日後漸修時的拖延與懈怠。最終因睡眠、昏沈、雜談、飲食等事，虛耗光陰，無法生起廣大精進，如理修行。 如此，因被「願此身長久住世」的念頭所欺騙，於名聞利養、恭敬等事上，生起猛烈貪心。對障礙這些的事物，或懷疑其造成障礙，生起猛烈瞋心。對這些過患，則愚昧無知。因利養等緣故，引生猛烈的我慢、嫉妒等諸大煩惱及隨煩惱，如瀑流般流轉不息。 又因如此，日日增長種種強而有力的惡行，能引致墮入惡趣的猛烈大苦。身語意所攝的十種惡行、無間罪及隨近罪、誹謗正法等種種不善業，也日益增長。同時也漸漸捨棄能對治這些煩惱的善妙甘露正法，斷絕了增上生與決定勝的善根。 當命根終被死壞吞噬，便被諸惡業引導，墮入痛苦劇烈、熾熱燃燒、不可愛樂的諸惡趣中。還有比這更暴惡的門徑嗎？ 《四百論》也說：「若有三世主，自死無教者，彼若安然睡，豈有暴於此？」——《入行論》亦云：「須棄一切走，我未如是知，為親非親故，作種種罪惡。」

第二、修習之勝利者。

> 第二に、修行を積むことの功徳（利益）についてです。

謂若真起隨念死心，譬如决斷今明定死，則於正法稍知之士，由見親屬及財物等不可共往，多能任運遮彼貪愛，由施等門樂取堅實。如是若見為求利敬及名稱等世間法故，一切劬勞皆如扇揚諸空穀壳，全無心實，是欺誑處，便能遮止諸罪惡行。由其恆常殷重精進，修集歸依及淨戒等諸微妙業，遂於無堅身等諸事取勝堅實。由是自能昇勝妙位，亦能於此導諸眾生，更有何事義大於此？是故經以多喻讚美，《大般湼槃經》云：「一切耕種之中，秋實第一；一切跡中，象跡第一；一切想中，無常死想是為第一，由是諸想能除三界一切貪欲無明我慢。」如是又以是能頓摧一切煩惱惡行大椎，是能轉趣頓辦一切勝妙大門，如是等喻而為讚美。《集法句》中亦云：「應達此身如瓦器，如是知法等陽燄，魔花刃劍於此折，能趣死王無見位。」又云：「如見衰老及病苦，并見心離而死亡，勇士能斷如牢家，世庸豈能遠離欲？」總之能修士夫義時，唯是得此殊勝暇身期中，我等多是久住惡趣，設有少時暫來善趣，亦多生於無暇之處。其中難獲修法之時。縱得一次堪修之身，然未如理修正法者，是由遇此且不死心。故心執取不死方面，是為一切衰損之門。其能治此憶念死者，即是一切圓滿之門。故不應執此是無餘深法可修習者之所修持，及不應執，雖是應修，然是最初，僅應略修，非是堪為恆所修持。應於初中後三須此之理，由其至心發起定解而正修習。

> もし本当に「死ぬかもしれない」という心を起こせば、例えば明日死ぬと決心したならば、正法を少し知る者であれば、親族や財物などは共に往くことができないと見て、自然に貪愛を抑え、布施などを通じて真実の価値を求めるようになる。同様に、世間の名利や名声を求めるための努力が、すべて籾殻を扇ぐようなもので、実質がなく、欺瞞に過ぎないと見れば、悪行を防ぐことができる。そして、常に真剣に精進し、帰依や清浄な戒律などの善い行いを積み、堅固でない身体などの事柄において、真の堅固なものを得る。これにより、自らは高貴な境地に達し、また他の衆生をも導くことができる。これ以上の大きな意義があるだろうか。ゆえに経典は多くの喩えをもってこれを称賛する。「大般涅槃経」にはこうある。「すべての耕作の中で、秋の収穫が第一である。すべての足跡の中で、象の足跡が第一である。すべての想念の中で、無常と死の想念が第一である。なぜなら、この想念は三界のすべての貪欲、無明、我慢を除くからである。」また、これはすべての煩悩と悪行を打ち砕く大槌であり、すべての勝れた門へと導くものであると、このような喩えで称賛されている。「集法句」にもこうある。「この身を瓦の器のようであると知るべし。法を陽炎のように知るべし。魔の花や刃の剣はここで折れ、死王の見えない境地に至る。」またこうも言う。「衰老や病苦を見、心が離れて死ぬのを見て、勇士は牢獄の家を断ち切るが、世の凡夫はどうして欲望を離れられようか。」総じて、善き人間としての目的を成就するのは、この勝れた暇満な身を得た期間においてのみである。しかし、我々は長く悪趣に留まり、たとえ善趣に生まれることがあっても、多くは無暇な場所に生まれる。その中で法を修行する時を得るのは難しい。たとえ一度は修行に堪える身を得ても、正しく法を修行しないのは、「今日は死なない」という心に捉えられているからである。ゆえに、死なないという心に執着することは、すべての衰退と損害の門である。それに対治する死を憶念することは、すべての円満の門である。だから、これは深い法を修行できない者のための修行だと考えるべきではないし、また、修行すべきではあるが最初に少しだけ修行すればよいもので、常に修行するに値しないと考えるべきでもない。初めも中も後も、この理を必要とすることを、心から決して理解し、正しく修行すべきである。

第三、當發何等念死之心者。

> 第三に、どのような死を念じる心を発すべきか。

若由堅著諸親屬等增上力故，恐與彼離起怖畏者，乃是於道全未修習畏死之理，此中非是令發彼心。若爾者何？謂由惑業增上所受一切之身，皆定不能超出於死，故於彼事雖生怖懼，暫無能遮。為後當來世間義故，未能滅除諸惡趣因，未能成辦增上生因、决定勝因，即便沒亡而應恐怖。若於此事思惟怖畏，則於此等有可修作能令臨終無所怖畏，若未成辦如是諸義，總之不能脫離生死，特當墮落諸惡趣故，深生畏懼，臨終悔惱。《本生論》云：「雖勵不能住，何事不可醫？能作諸怖畏，其中有何益？如是若觀世法性，諸人作罪當憂悔，又未善作諸妙業，恐於後法起諸苦。臨終畏懼而蒙昧，若何能令我意悔，我未憶作如是事，復善修作白淨業，安住正法誰畏死？」《四百論》中亦云：「思念我必死，若誰有决定，此棄怖畏故，豈畏於死主？」故若數數思惟無常，念身、受用定當速離，則能遮遣希望不離彼等愛著，由離此等所引憂惱增上力故，怖畏死沒皆不得生。

> もし親族などを強く執着するあまり、彼らと離れることを恐れて怖れるのであれば、それは道を全く修習していない死の畏れの理であり、ここでそのような心を起こさせるのではない。では何かというと、煩悩と業によって受け取る一切の身は、必ず死を超えることができないので、その事に対して恐怖を生じても、暫くは防ぐことができない。後の来世の利益のために、諸々の悪趣の因を滅ぼすことができず、増上生の因・決定勝の因を成し遂げることができないまま、命終わってしまうことを怖れるべきである。もしこの事について思惟して怖れるならば、これらの者には臨終に何も怖れることのないように修行することができる。もしこのような義を成し遂げなければ、総じて生死を脱することができず、特に悪趣に堕ちるであろうから、深く畏れを生じ、臨終に悔やみ惱むのである。 『本生論』にいう：「勵んでも住することができず、何の事が醫すことができないのか。諸々の怖畏をなすことに、何の益があるのか。このようにして世の法性を観ずれば、諸人は罪を作って憂い悔い、また善い妙業をなさず、後の法に諸々の苦を恐れる。臨終に畏れて蒙昧となり、何によって我をして意を悔ましめるのか。我はかかる事をなしたと憶えず、また白淨業を善く修作し、正法に安住して誰が死を畏れようか。」 『四百論』にもいう：「我は必ず死すと思うことを、もし誰かが決定すれば、この者は怖畏を捨てる故に、どうして死主を畏れようか。」 それ故、もし無常を數數思惟して、身・受用が必ず速やかに離れることを念ずれば、彼らと離れないことを望む愛着を遮り遣ることができる。これらの所引の憂惱の増上力によって、死沒の怖畏はすべて生じることができない。

第四、如何修念死者。

> 第四に、どのように死を念じる修行をするか。

謂應由於三種根本、九種因相、三種决斷門中修習。此中有三：一、思决定死，二、思惟死無定期，三、思惟死時除法而外，餘皆無益。

> 三つの根本、九つの因相、三つの決斷の門を通じて修習すべきである。その中に三つがある。第一に、必ず死ぬと決意すること。第二に、死ぬ時期は定まらないと考えること。第三に、死ぬときには法（仏の教え）のほかは、すべて無益であると考えること。

初中分三。思惟死主决定當來，此復無緣能令却退者，謂任受生何等之身，定皆有死。《無常集》云：「若佛若獨覺，若諸佛聲聞，尚須捨此身，何况諸庸夫！」任住何境，其死定至者，即彼中云：「住於何處死不入，如是方所定非有，空中非有海中無，亦非可住諸山間。」前後時中諸有情類，終為死摧等無差別，即如彼云：「盡其已生及當生，悉捨此身而他往，智者達此悉滅壞，當住正法决定行。」於其死主逃不能脫，非以咒等而能退止，如《教授勝光大王經》云：「譬如若有四大山王，堅硬隱固成就堅實，不壞不裂無諸隕損，至極堅強純一實密。觸天磨地從四方來，研磨一切草木本幹及諸枝葉，并研一切有情有命諸有生者，非是速走易得逃脫，或以力退，或以財退，或以諸物及咒藥等易於退却。大王，如是此四極大怖畏來時，亦非於此速走能逃，或以力退，或以財退，或以諸物及咒藥等易於退却。何等為四？謂老、病、死、衰。大王，老壞強壯，病壞無疾，衰壞一切圓滿豐饒，死壞命根。從此等中，非是速走易得逃脫，或以力退，或以財退，或以諸物及咒藥等易於靜息。」迦摩巴云：「現須畏死，臨終則須無所恐懼。我等反此，現在無畏，至臨終時，用爪抓胸。」

> 初中では三つに分けて考える。まず、死主が必ず来ると決定づけて思惟すること。この死に対して、退けられる縁は何一つない。すなわち、どのような身を受けて生まれようとも、必ず死があるということだ。「無常集」にこうある。 「仏も独覚も、諸々の仏の声聞も、なおこの身を捨てねばならない。ましてや凡夫はなおさらのことである。」 どのような場所にいても、死は必ず来る。同じくその経典にこうある。 「住する所において死が入らない、そのような場所は決して存在しない。虚空にもなく、海中にもなく、また諸々の山間にも住めない。」 過去も未来も、あらゆる有情は結局死に打ち負かされることに変わりはない。同じくその経典にこうある。 「すでに生まれた者も、これから生まれる者も、すべてこの身を捨てて他へ赴く。智者はこれがすべて壊滅することを知って、正法に住して決然と行じるべきである。」 死主からは逃れることはできず、呪術などによって退けることもできない。「教授勝光大王経」にこうある。 「たとえば、堅固で堅牢、壊れることも裂けることもなく、微細な損傷もなく、極めて強固で純一、隙のない四つの大山王があるとする。それらが天に触れ地を磨しながら四方から来て、すべての草木の幹や枝葉を砕き、すべての有情・命あるものを粉砕する。この時、速く走って逃れることも、力で退けることも、財物で退けることも、種々の物や呪術・薬などで容易に退けることはできない。大王よ、このように、四つの極めて大いなる怖れが来る時も、速く走って逃れることも、力で退けることも、財物で退けることも、種々の物や呪術・薬などで容易に鎮めることはできない。その四つとは何か。老・病・死・衰である。大王よ、老は壮健を壊し、病は無病を壊し、衰はすべての円満な豊かさを壊し、死は命の根を壊す。これらのものからは、速く走って容易に逃れることも、力で退けることも、財物で退けることも、種々の物や呪術・薬などで容易に静めることもできないのである。」 カマパはこう言った。「今は死を畏れるべきであり、臨終の時には何も恐れることがないようにすべきである。しかし我々はこれと逆で、今は何も畏れず、臨終の時に至って胸を掻きむしるのである。」

思惟壽無可添，無間有減者。如《入胎經》云：「若於現在善能守護，長至百年或暫存活。」極久邊際僅有爾許，縱能至彼，然其中間壽盡極速。謂月盡其年，日盡其月，其日亦為晝夜盡銷，此等復為上午等時而漸銷盡，故其壽命總量短少。此復現見多已先盡，所餘壽量，雖剎那許亦無可添，然其損減，則遍晝夜無間有故。《入行論》云：「晝夜無暫停，此壽恆損減，亦無餘可添，我何能不死？」此復應從眾多喻門而正思惟。謂如織布，雖織一次僅去一縷，然能速疾完畢所織。為宰殺故，如牽所殺羊等步步移時，漸近於死。又如江河猛急奔流，或如險岩垂注瀑布，如是壽量，亦當速盡。又如牧童持杖驅逐，令諸畜類無自主力而赴其所，其老、病等，亦令無自在引至死前。此諸道理，應由多門而勤修習。如《集法句》云：「譬如舒經織，隨所入緯線，速窮緯邊際，諸人命亦爾。如諸定被殺，隨其步步行，速至殺者前，諸人命亦爾。猶如瀑流水，流去無能返，如是人壽去，亦定不回還。艱勞及短促，此復有諸苦，唯速疾壞滅，如以杖畫水，如牧執杖驅，諸畜還其處。如是以老病，催人到死前。」如傳說大覺𡁮行至水岸，謂「水淅淅流，此於修無常極為便利。」說已而修。《大遊戲經》亦以多喻宣說：「三有無常如秋雲，眾生生死等觀戲，眾生壽行如空電，猶崖瀑布速疾行。」又如說云：「若有略能向內思者，一切外物，無一不為顯示無常。」故於眾事皆應例思。若數數思能引定解。若略思惟，便言不生，實無利益。如迦摩巴云：「說思已未生，汝何時思？晝日散逸，夜則惛睡，莫說妄語。」非但壽邊為死所壞，而趣他世，即於中間行、住、臥三，隨作何事，全無不減壽量之時。首從入胎，即無剎那而能安住，唯是趣向他世而行，故於中間生存之際，悉被老、病使者所牽，唯為死故導令前行。故不應計於存活際，不趣後世安住歡喜，譬如從諸高峯墮時，未至地前空墜之際，不應歡樂。此亦如《四百頌釋》引經說云：「人中勇識如初夜，安住世間胎胞中，彼從此後日日中，全無暫息趣死前。」《破四倒論》亦云：「如從險峯墮地壞，豈於此空受安樂？從生為死常奔馳，有情於中豈得樂？」此等是顯决定速死。

> 寿命は少しも増えることがなく、絶え間なく減り続けるものだと考えるべきです。例えば『入胎経』にこうあります。「もし現在の善行をしっかりと守ることができれば、長くて百年、あるいはもう少し生きられるかもしれない」。たとえ最長でもその程度の期間であり、仮にそこまで生きられたとしても、その間の寿命の尽きるのは非常に速いのです。つまり、月が年を終わらせ、日が月を終わらせ、その日も昼夜によって消え尽くされ、それらもまた午前などの時間によって少しずつ消えていきます。ですから、寿命の総量は短くなっていくばかりです。しかも現に見られるように、すでに多くの時間は過ぎ去ってしまい、残された寿命は、一瞬たりとも増えることはありませんが、減っていくことは昼夜を問わず絶え間なくあるのです。 『入行論』にこうあります。「昼夜絶え間なく、この寿命は常に減り続け、また増えることもない。どうして私は死なないでいられようか」。また、さまざまな例えを用いて深く考えるべきです。例えば、機織りをするとき、一度に一本の糸しか織らないとしても、その織物はすぐに完成してしまいます。屠殺される羊などを引かれていくように、一歩一歩進むごとに死に近づいていきます。また、激しく流れる川や、険しい岩から落ちる滝のように、寿命もまた速やかに尽きるものです。また、羊飼いが杖で追い立てて、家畜たちが自分の意志とは無関係に指定された場所へ赴くように、老いや病もまた、私たちを自在ならしめずに死の目前へと引き連れていくのです。これらの道理を、さまざまな観点から熱心に修習すべきです。 『集法句』にこうあります。「機織りを広げて、経糸に従って緯糸を入れていくように、その緯糸がすぐに終わりに達するように、人の命もまたそうである。定められて殺される者が、歩くたびに速やかに殺す者の前に至るように、人の命もまたそうである。激しい流れの水が流れ去って戻れないように、人の命もまた去ってしまい、決して戻ってくることはない。苦労が多く、短く、そして様々な苦しみがあり、ただ速やかに壊れ去るのみである。杖で水に書いた文字のように、羊飼いが杖で追い立て、家畜たちがその場所へ戻るように、老いと病によって、人は死の目前へと追いやられる」。 伝説によれば、アティーシャが水辺にやって来て、「水が絶え間なく流れていく。これは無常の修行にとって非常に役立つ」と言って、そのまま修行されたといいます。『大遊戲経』にも、多くの例えを用いて説かれています。「三界は無常であり、秋の雲のようなものである。人々の生と死は、観劇のようにはかないものである。人々の寿命の働きは、空の稲妻や、崖から落ちる滝が速やかに流れるように速い」。 また、こうも説かれています。「心を内に向けて考えることができれば、外のすべてのものは、どれ一つとして無常を示さないものはない」。ですから、すべてのことについて同様に考えるべきです。繰り返し考えることによって、確かな理解が生まれます。ほんの少し考えただけで「定解が生じなかった」と言っても、実際には何の利益もありません。カマパがこう言っています。「『考えたのに定解が生じない』と言うが、あなたはいつ考えたのか。昼は遊びに費やし、夜は眠っているではないか。嘘を言ってはいけない」。 寿命の限りが死によって壊されるだけでなく、来世へと赴く道のりも、その途中で行・住・臥の三つの態度を取る間、どんなことをしている間も、寿命が減らない時は全くありません。 胎内に入ったその瞬間から、一瞬たりともとどまることはなく、ただ来世へと向かって進んでいるだけです。ですから、生きている間に、来世へ行かないで安穏と過ごせると考えるべきではありません。例えば、高い峰から落ちるとき、地面に着く前に空中を落下している間、楽しむべきではないのと同じです。 これについても、『四百頌釈』が経典を引いてこう説いています。「人間の勇気ある意識は、初夜のように胎内に安住するが、その後は日々、一瞬の休息もなく死へと向かって進む」。『破四倒論』にもこうあります。「険しい峰から落ちて地面に砕けるとき、どうして空中で楽しめるだろうか。生まれてから死へと常に駆け続ける有情が、その中でどうして楽しむことができようか」。これは、決定して速やかに死ぬことを示しています。

思於生時亦無閒暇修行妙法，决定死者。謂縱能至如前所說爾許長邊，然亦不應執為有暇。謂無義中，先已耗去眾多壽量，於所餘存，亦由睡眠分半度遷。又因散亂徒銷非一，少壯遷謝至衰耄時，身心力退，雖欲行法，然亦無有勤修之力，故能修法時實為少許。《入胎經》云：「此中半數為睡覆蓋，十年頑稚，念年衰老，愁嘆苦憂及諸恚惱亦能斷滅，從身所生多百疾病，其類非一亦能斷滅。」《破四倒論》亦云：「此諸人壽極久僅百歲，此復初頑後老徒銷耗，睡病等摧令無可修時，住樂人中眾生壽餘幾。」伽喀巴亦云：「六十年中，除去身腹睡眠疾病，餘能修法，尚無五載。」如是現法一切圓滿，於臨死時，唯成念境，如醒覺後，念一夢中所受安樂。

> 生きている間に修行をする暇もなく、必ず死ぬものであると考えるべきです。 たとえ先に述べたような長い寿命を得られたとしても、それを「暇がある」と捉えてはなりません。 なぜなら、無意味なことに、すでに多くの寿命を費やしてしまい、残りの命も、睡眠によって半分は過ぎ去ってしまうからです。 また、散乱によって多くの時間を無駄にし、若さが過ぎ去って老いの時期に至れば、心身の力は衰え、修行をしたいと思っても、精進する力がありません。 ですから、本当に修行できる時間はごくわずかなのです。 『入胎経』にはこうあります。 「このうち半分は睡眠に覆われ、十年は幼く、二十年は老いて、嘆き、苦しみ、憂い、怒りといったものも、命を削っていく。身体から生じる多くの病も、様々であり、また命を削っていく。」 『破四倒論』にもこうあります。 「人間の寿命は長くても百年ほどである。そのうち、初めは幼く、後には老いて、ただ無駄に消耗されていく。睡眠や病などに摧かれ、修行の暇がない。楽しい人間の世界に住んでいても、衆生の残りの命はどれほどあるだろうか。」 ガダンパ尊者もこう言っています。 「六十年のうち、食事や睡眠、病の時間を除けば、修行にあてられるのは、まだ五年にも満たない。」 このように、現世のすべての円満な事柄は、臨終の時には、ただ記憶の中の思い出にすぎなくなります。それは、目が覚めた後に、夢の中で味わった快楽を思い出すようなものです。

若死怨敵定當到來，無能遮止，何故愛著現法欺誑。如是思已，多起誓願，决斷必須修行正法。如《本生論》所說而思，「嗟呼世間惑，匪堅不可喜，此姑姆達會，亦當成念境。眾生住於如是性，眾生無畏極希有，死主自斷一切道，全無怖懼歡樂行。現有老病死作害，大勢怨敵無能遮，定赴他世苦惱處，誰有心知思愛此。」《迦尼迦書》中亦云：「無悲愍死主，無義殺士夫，現前來殺害，智誰放逸行？故此極勇暴，猛箭無錯謬，乃至未射放，當勤修自利。」

> 死の怨敵は必ず訪れるものであり、それを防ぐことは誰にもできません。それならば、どうして現世の偽りの楽しみに執着するのでしょうか。このように深く考えたならば、强く誓いを立て、必ず正しい教えを修行しようと決意すべきです。 『本生論』に説かれたように考えなさい。「ああ、世の中の迷いは、堅固ではなく喜ぶに値しない。この美しい花の集まりも、やがては思い出の対象となるだろう。衆生はこのような性質を持ちながら、恐れもせずにいるのは誠に稀有なことだ。死主はすべての道を断ち切るというのに、少しも怖れずに歡んで歩いている。老い、病、死という災いがあり、それらは大力の怨敵として誰にも防ぐことができない。必ずや他界の苦悩の場所へ赴くことになるのに、心ある者で誰がこの現世を愛著するだろうか。」 『迦尼迦書』にもこう說かれています。「慈悲なき死主は、無意味に人を殺す。それが目の前に來て殺害しようとしているのに、智慧ある者がどうして放逸に過ごせようか。それゆえ、この非常に猛威を振るう、誤ることのない鋭い箭が放たれる前に、自らの利益を勤め修めるべきである。」

第二思惟死無定期者，謂今日已後，百年以前，其死已定，然此中間，何日而來，亦無定期。即如今日，謂死不死，俱不决定，然心應執死亡方面，須發今日定死之心，以念今日决定不死，或多分不死，其心則執不死方面，便專籌備久住現法，不能籌備後世之事，於此中間為死所執，須帶憂悔而沒亡故。若日日中籌備死事，則多成辦他世義利，縱不即死，造作此事亦為善哉。若即死者，則此尤其是所必須，譬如自有能作猛利損害大敵，從此時期至彼時期，知其必至，然未了知何日到來，須日日中作其防慎。若日日中，能起是念，今日必死，下至能念多分是死，則能修作所當趣赴後世義利，不更籌備住現世間。若未生起如此意樂，於現世間見能久住，便籌備此，而不修作後世義利。譬如若念久住一處，則計設備住彼所須，若念不住當他往者，則當備作所趣之事，故日日中定須發起必死之心。

> 第二に、「死ぬ時期は定まらない」ということについて考える。今この瞬間から百年以内に、必ず死ぬことは定まっている。しかし、その間にいつ死が訪れるかは、まったく決まっていない。たとえば今日一日をとっても、死ぬか死なないかはどちらとも決まっていない。それなのに心は「死」の方に向けるべきである。「今日こそ必ず死ぬ」という心を起こさなければならない。もし「今日は死なないだろう」「たぶん死なないだろう」と思えば、心は「死なない」方に執着し、現世に長く留まることばかりを準備して、来世のための準備ができなくなる。そうしている間に死に捕らえられ、後悔と悲しみを抱えたまま命を終えることになる。 もし毎日「死」を念じて準備していれば、来世の利益を多く成し遂げることができる。たとえすぐに死ななくても、そうした善い行いを積んでおくのは素晴らしいことだ。ましてや、もしすぐに死ぬことになれば、これは特に必要なことである。 たとえば、自分に大きな害を及ぼす強力な敵がいるとして、それがいつ来るかはわからないが、必ず来るとわかっているならば、毎日用心して備えるだろう。同じように、毎日「今日こそ死ぬかもしれない」と、せめて「死ぬ可能性が高い」と思うことができれば、来世のための善い行いを実践できるようになり、現世に留まる準備ばかりしなくなる。 もしそのような心が起こらなければ、現世に長く住めると思い込み、そのための準備ばかりして、来世のための善い行いをしない。たとえば、長く一つの場所に留まると思えば、そこに住むための備えをする。逆に、そこを離れて他へ行くと思えば、旅の準備をするものだ。だからこそ、毎日必ず「死ぬ」という心を起こさなければならないのである。

此中分三，思贍部洲壽無定者，總之俱盧壽量决定，諸餘處者各各於自能住壽量雖無决定，然亦多數能得定限。贍部洲壽極無定準，刧初壽數經無量年，今後須以滿十歲為壽長際，即於現在老、幼、中年，於何時死皆無定故。如是亦如《俱舍論》云：「此中壽無定，末十初無量。」《集法句》云：「上日見多人，下日有不見，下日多見者，上日有不見。」又云：「若眾多男女，強壯亦歿亡，何能保此人，尚幼能定活？一類胎中死，如是有產地，又有始能爬，亦有能行走，有老有幼稚，亦有中年人，漸次當趣沒，猶如墮熟果。」應當作意所見所聞，若諸尊重或友伴等，壽未究竟，忽由內外死緣未滿心願而死。念我亦定是如是法，應數思惟，應令發生必死之心。

> ここでは三つの点に分けて考える。まず、閻浮提（私たちの住む世界）の衆生の寿命が定まらないことについて考える。 総じて言えば、北俱盧洲（ほくくるす）の衆生の寿命は一定であるが、他の場所の衆生はそれぞれ、自分の住む場所で生きられる寿命が定まってはいない。しかし、多くは一定の限度まで生きることができる。 ところが閻浮提の衆生の寿命は非常に定まらない。劫の最初の頃は寿命が無量の年であったが、今後は満 ten 歳が寿命の上限となる。そして現在では、老人も若者も中年も、いつ死ぬか全く定まっていないのである。 これについて『倶舎論』にもこう説かれている。「ここでは寿命は定まらない。末期は十歳、初期は無量である」と。 また『集法句経』にはこうある。 「午前中に見かけた多くの人々が、午後にはもう見られない。午後に見かけた多くの人々も、翌朝には見られないことがある」 さらにこうも説かれている。 「多くの男女が、たとえ強壮であっても死んでしまう。どうして自分だけが、まだ幼いからといって必ず生き延びられると保証できようか。ある者は母胎の中で死に、ある者は生まれた場所で死に、ある者はやっと這えるようになった時に死に、ある者は歩けるようになった時に死ぬ。老いた者も、幼い者も、中年の者もいるが、皆、熟した果実が落ちるように、順々に死へと向かっていくのである」 私たちは、見たり聞いたりしたことを心に留めて考えるべきである。例えば、尊敬すべき師や友人などが、寿命の尽きる前に、内外の死因によって、願いを果たせずに亡くなっていくのを。 「私も必ずこのような運命にあるのだ」と、何度も何度も思い返し、必ず死ぬという心を起こすべきである。

思惟死緣極多，活緣少者，謂於此命有多違害，謂諸有心及諸無心，若諸魔屬、人、非人等眾多違害及旁生類，損此身命，亦有多種，彼等如何違害之理，如是內中所有諸病及外大種違損之理，皆應詳思。復次自身由四大種成，彼等亦復互相違害，諸大種界若不平等，有所增減能發諸病而奪命根，此諸違害是與自體俱生而有，故於身命無可安保。如是亦如《大湼槃經》云：「言死想者，謂此命根，恆有眾多怨敵圍繞，剎那剎那漸令衰退，全無一事能使增長。」《寶鬘論》亦云：「安住死緣中，如燈處風內。」《親友書》亦云：「若其壽命多損害，較風激泡尤無常，出息入息能從睡，有暇醒覺最希奇。」《四百論》亦云：「無能諸大種，生起說名身，於諸違云樂，一切非應理。」現是五濁極濃厚時，修集能感長壽久住大勢妙業極其稀寡；飲食等藥勢力微劣，故皆少有能治病力；諸所受用，安然消後，能長身中諸大種分勢用虧減，故難消化，縱能消已亦無大益；資粮寡集，惡行尤重，念誦等事勢力微劣，故延壽等極屬難事。又諸活緣亦無不能為死緣者，為不死故，求諸飲食房舍伴等，此復由其受用飲食太多、太少及不相宜，房舍倒塌，親友欺侮，是等門中而成死緣，故實不見有諸活緣，非死緣者。復次存活即是趣向於死沒故，活緣雖多，然無可憑。《寶鬘論》云：「死緣極眾多，活緣唯少許，此等亦成死，故當常修法。」

> 思惟死亡的外緣極多，而能活命的因緣卻很少。所謂壽命有種種的違害，包括有心的眾生和無心的物質，例如魔類、人類、非人等有眾多的違害，以及旁生類也會損害我們的身體與壽命，有種種的方式。這些違害是如何發生的，包括體內所有各種疾病，以及外在四大種對我們的損害，都應該詳細思惟。 再者，我們的身體是由四大種所構成，而這四大種之間也彼此互相違害。如果四大種的界性不平等，有所增減，就會引發各種疾病，甚至奪取命根。這些違害是與我們的身體同時俱生的，所以對於身體和壽命，實在無法保證安全。 如《大涅槃經》所說：「所謂的死想，是指這個命根，恆常有眾多怨敵圍繞著，剎那剎那逐漸衰退，沒有一件事能使它增長。」《寶鬘論》也說：「安住在死緣之中，就像燈處於風中一樣。」《親友書》也說：「如果壽命有這麼多損害，比風吹起的泡沫還要無常。呼吸出入之間，能從睡眠中醒來還有時間睜眼，這才是最稀奇的。」《四百論》也說：「無能無力的四大種，和合生起了身體，在這些相互違害中說有快樂，這一切都沒有道理。」 現在正是五濁極其濃厚的時代，能修集感得長壽、久住、大勢力這些善妙之業的人，非常稀少；飲食和藥物等力量都非常微弱，所以大多沒有治病的能力；各種受用，縱然安然消化之後，能使身體中的四大種分勢用虧減，所以難以消化，縱然能消化也沒有大的利益；資糧累積得少，惡行更加嚴重，念誦等修行的事業力量微弱，所以延長壽命等事非常困難。 再者，那些賴以活命的因緣，也沒有不能成為死緣的。為了不死的緣故，而追求飲食、房舍、伴侶等，但這些又因為受用飲食太多、太少或不相宜，房舍倒塌，親友欺侮，在這些狀況中反而成為死緣。所以實在看不到有任何活緣不是死緣的。 再者，存活本身就是一步步走向死亡，所以活緣雖然眾多，但都無可依賴。《寶鬘論》說：「死亡的因緣極其眾多，活命的因緣只有少許，但這些也終會導致死亡，所以應當恆常修習正法。」

思惟其身極微弱，故死無定期者。身如水沫，至極微劣，無須大損，即如名曰芒刺所傷，且能壞命，故由一切死緣違害，是極易事。《親友書》云：「七日燃燒諸有身，大地須彌及大海，尚無灰塵得餘留，况諸至極微弱人。」如是思後，不見死主何時决定壞其身命，莫謂有暇，應多立誓，决從現在而修正法。如《迦尼迦書》云：「死主悉無親，忽爾而降臨，莫想明後行，應速修正法，此明後作此，是說非賢人，汝當何日無，其明日定有。」瑜伽自在吉祥勝逝友慶喜亦云：「國主所借身，無病衰樂住，爾時取堅實，病死衰無畏，病老衰等時，雖念有何益？」三根本中極重要者，厥由思惟死無定期能變其心，故應勵修。

第三、思惟死時除法而外，餘皆無益之三者。如是若見須往他世，爾時親友極大憐愛而相圍繞，然無一人是可隨去，盡其所有悅意寶聚，然無塵許可得持往，俱生骨肉尚須棄捨，况諸餘法。是故現法一切圓滿皆棄捨我，我亦决定棄捨彼等而赴他世。復應思惟今日或死，又應思惟爾時唯法是依是怙，是示究竟所有道理。《迦尼迦書》云：「能生諸異熟，先業棄汝已，與新業相係，死主引去時，當知除善惡，餘眾生皆返，無一隨汝去，故應修妙行。」吉祥勝逝友亦云：「天王任何富，死赴他世時，如敵刦於野，獨無子無妃，無衣無知友，無國無王位，雖有無量軍，無見無所聞，下至無一人，顧戀而隨往，總爾時尚無，名諱况餘事。」

如是思惟有暇義大而實難得，及雖難得然極易壞，念其死亡，若不勤修後世，以往畢竟安樂，僅於命存引樂除苦者，則諸旁生有大勢力，尤過於人，故須超勝彼等之行，若不爾者，雖得善趣，仍同未得。如《入行論》云：「畜亦不難辦，為是小利故，業逼者壞此，難得妙暇滿。」

以是此心縱覺難生，然是道基，故應勵力，博朵瓦云：「除我光榮者，即是修習無常1。由已了知，定當除去親屬資具等現世一切光榮，獨自無伴而往他世，除法而外，皆無所為，不住現法，始得生起。乃至心中未能生此，是乃遮阻一切法道。」鐸巴亦云：「若能兼修積集資糧、淨治罪障，啟禱本尊及諸尊長，並發刻勤殷重思惟，雖覺百年亦不能生，然諸無常不安住故，略覺艱難即得生起。」於迦瑪巴請求另易所緣境時，重述前法。請其後者，則云後者全未能至。

如是自心若能堪任，應如前說而正修習，若不堪者，則隨其所稱取三根本九種因相，觀現法中所有諸事，猶如臨殺飾以莊嚴，應當乃至意未厭離，數數修習。若經論中，何處有說親近知識、暇滿、無常諸法品類，皆應了知是彼彼時所有行持，取而修習，乃能速得諸佛密意。餘處亦當如是了知。