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title: "大乘理趣六波羅蜜多經 · 之一"
description: "大乘理趣六波罗蜜多经（般若）是唐代高僧般若三藏所译的重要佛教经典，属于大乘佛教般若部经典之一。该经以六波罗蜜（布施、持戒、忍辱、精进、禅定、智慧）为核心，系统阐述了大乘菩萨道的修行次第与智慧境界。经文强调般若智慧在解脱中的核心作用，融合了中观与瑜伽行派思想，体现了大乘佛教的圆融特质。作为唐代佛教翻译的重要成果，该经对汉传佛教的教理体系构建影响深远，至今仍为研究大乘菩萨道思想的重要文献，在佛教经典中具有承前启后的重要地位。"
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### 般若波羅蜜多品第十之一

> 般若波羅蜜多品 第十の一

爾時薄伽梵處於種種摩尼寶王師子座上，現種種相，純以菩薩摩訶薩眾而共圍遶。時慈氏菩薩摩訶薩即從座起，偏袒右肩右膝著地，合掌恭敬而白佛言：「大聖世尊已為利益安樂諸菩薩故，說靜慮波羅蜜多，唯願世尊為諸菩薩說般若波羅蜜多。又此般若波羅蜜多復有幾種？修何方便而能得之？唯願如來分別解說。」

> その時、尊き世尊は、種々の摩尼寶王の獅子座に坐し、種々の相を現じ、ただ菩薩摩訶薩たちのみを眷属として囲まれていた。そこで慈氏菩薩摩訶薩が即座より立ち上がり、右の肩を露わにし、右膝を地につけて、合掌し敬礼して仏に申し上げた。 「大聖世尊は、すでに菩薩たちを利益し安楽ならしめるために、静慮波羅蜜多を説かれました。どうか世尊よ、菩薩たちのために般若波羅蜜多をお説き下さい。また、この般若波羅蜜多にはいったい幾つの種類があるのでしょうか。どのような方便によってそれを得ることができるのでしょうか。どうか如来よ、おのおのを分別して解き明かして下さい。」

爾時薄伽梵告慈氏菩薩摩訶薩言：「善男子！汝今諦聽，善思念之，吾當為汝分別解說。若諸菩薩修行布施波羅蜜多，乃至靜慮波羅蜜多，皆從般若波羅蜜多本母所生而為根本。譬如眼等五根發生五識，能取五塵皆有作用，如是一一皆以識心而為根本，若離其心無所成辦。菩薩摩訶薩修前五種波羅蜜多，恒以智慧而為其母，若離智慧無所剋獲。亦如有情身有命根能有所作，命根謝已無復堪任，修行諸度若無智慧亦復如是。譬如國境無有智臣，陰陽失序，一切人民皆不安樂。法王國土若無智慧亦復如是，修行布施乃至靜慮波羅蜜多皆不成就，解脫涅槃終不能得。亦如商主入海採寶，要得船師方達寶所隨意而取。菩薩亦爾，於生死海以五波羅蜜多而為舟舡，載功德寶，要因般若波羅蜜多無上舡師至於彼岸。」爾時薄伽梵而說頌言：

> 爾時、尊き世尊は慈氏菩薩摩訶薩に告げられた。「善き男子よ、あなたは今、よく聞き、よく心に思い巡らせなさい。わたしがあなたのために、一つ一つ

「智慧為根本， 能生善法芽，佛果大菩提， 無非智所作。如人遭苦難， 智者能救護，愚者造諸惡， 如石投深水。若無真智慧， 多聞妄分別，斯人不解義， 如器安知味。所謂長老相， 不必在耆年，雖少有智慧， 是為真長老。如世有德人， 正直無邪曲，不能辯邪正， 寧知理是非。正智聞深法， 智與理相應，隨順於大乘， 是名真智者。於得失無著， 憂喜不能動，安住如須彌， 是名真智者。恭敬不生喜， 輕慢無瞋恚，智慧如大海， 是名真智者。不說他人過， 亦不稱己德，智照無自他， 當獲大名稱，勇猛勤精進， 遠離一切相，我慢悉皆除， 是名真智者。常當正觀察， 不見他人過，深信善惡報， 是名真智慧。智者在眾中， 不說自功德，若人所稱讚， 愧心無取著。成就諸功德， 虛己常謙下，如果樹繁熟， 枝條自低屈。福智生豪族， 雖貴無憍慢，愚者自矜高， 智者應觀察。智慧為善伴， 遠離惡知識，斷滅諸煩惱， 自然得解脫。樂將護惡人， 亦當常遠離，崇重於賢善， 是名真智慧。菩薩多悲智， 損惱猶慈愍，如斫栴檀樹， 流香普芬馥。不念他人惡， 常思其善事，智慧離分別， 人中最第一。智者住空寂， 被毀心無惱，諸惡不能燒， 如火煖大海。大悲離分別， 見惡常憐愍，如日放光明， 不棄旃荼舍。智人雖小過， 為益應同住，如入瞻蔔林， 自然皆蒙熏。正智離分別， 如日無私照，亦如清涼月， 能淨諸雲翳。智者多慈悲， 常濟於貧乏，見乞不輕賤， 應生歡喜心。如樹初生長， 日夜無休息，智者樂修行， 增長亦如是。智者遇大怨， 慈悲猶不捨，如折蓮花莖， 藕絲恒不斷。生死如毒樹， 悟即法身果，生死與涅槃， 本性皆平等。淨慧賢聖行， 大悲常利物，不擇於怨親， 恒離於分別。耆年多智慧， 淨戒悉圓滿，親近如是人， 速成安樂行。智慧無垢人， 三業恒清淨，應親近是人， 尊重過父母。無智難親近， 能壞善人心，如火燒枯木， 應當常遠離。供給於惡人， 欲益反招損，如人飼猛獸， 無不傷害者。供養智慧人， 小善獲多福，如人飲甘露， 求得安隱樂。」

> 智慧を根本として、 善法の芽を生じる。 仏果や大菩提も、 智慧のなせる業に他ならない。 人が苦難に遭えば、智慧ある者は救い護る。 愚者は諸々の悪を造り、石を深水に投じるがごとし。 真の智慧がなければ、多く聞きても妄りに分別し、 その人は義を解せず、器が味を知らぬがごとし。 いわゆる長老の相とは、必ずしも老年にあるにあらず。 若くして智慧あれば、これこそ真の長老である。 世に徳ある人のごとく、正直にして邪曲なく、 邪正を弁えずんば、いずくんぞ理非を知らん。 正しく智慧ある者は深い法を聞き、智慧と理が相応し、 大乗に随順する、これを真の智慧者という。 得失に執着せず、憂喜にも動かされず、 須弥山のごとく安住する、これを真の智慧者という。 恭敬されても喜ばず、軽んじられても怒らず、 智慧は海のごとし、これを真の智慧者という。 他人の過ちを言わず、また己の徳を称えず、 智慧の光は自他なく、大いなる名声を得ん。 勇猛に精進し、すべての相を離れ、 我慢をことごとく除く、これを真の智慧者という。 常に正しく観察し、他人の過ちを見ず、 善悪の報いを深く信ずる、これを真の智慧という。 智慧者は大衆の中にあって、自らの功徳を語らず、 もし人に称賛されても、恥じ入り執着しない。 諸々の功徳を成就し、己を虚しくして常に謙虚、 果樹が熟して枝が自然に垂れるがごとし。 福と智慧によって豪族に生まれても、貴くとも驕り高ぶらず、 愚者は自ら誇る、智慧者はよく観察すべきである。 智慧は善き伴侶、悪しき知識を遠ざけ、 諸々の煩悩を断ち滅し、自然に解脱を得る。 悪人を喜んでかばうのも、常に遠ざかるべきである。 賢善を尊び重んずる、これを真の智慧という。 菩薩は悲しみと智慧が多く、害を加えられてもなお慈しみ、 栴檀の樹を伐つ時、その香りが広く芳るがごとし。 他人の悪を念わず、常にその善きことを思い、 智慧は分別を離れる、人中にて最も第一なり。 智慧者は空寂に住み、誹られても心に悩みなし、 諸々の悪は焼くこと能わず、火が大海を暖めるがごとし。 大いなる悲は分別を離れ、悪を見て常に憐れむ、 日が光を放ちて、旃荼舎をも見捨てぬがごとし。 智慧ある人には、たとえ小さな過ちがあっても、益のために共に住むべきである、 瞻蔔林に入れば、自然にその香りに薫るがごとし。 正しい智慧は分別を離れ、日が私なく照らすがごとし、 また清涼なる月のごとく、諸々の雲翳を清める。 智慧ある者は慈悲多く、常に貧しき人々を救い、 乞う者を見て軽んじず、喜びの心を起こすべきである。 樹が初めて生長する時、日夜休みなきがごとく、 智慧ある者は修行を楽しみ、その成長もまた同じ。 智慧ある者は大いなる怨みに遭っても、慈悲をなお捨てず、 蓮の茎を折る時、藕糸が絶えぬがごとし。 生死は毒樹のごとし、悟れば法身の果、 生死と涅槃、その本性はすべて平等なり。 清らかな智慧の聖賢の行いは、大悲常に物を利し、 怨親を選ばず、常に分別を離れる。 老年で智慧多く、清らかな戒めすべて円満、 かかる人に親近せよ、速やかに安楽行を成就せん。 智慧にして汚れなき人、三業常に清浄なり、 この人に親近すべし、父母よりも尊重せよ。 智慧なき人は親しみがたく、善人の心を壊す、 火が枯れ木を焼くがごとし、常に遠ざかるべきである。 悪人に供養すれば、益そうとしてかえって損を招く、 人が猛獣を飼うごとく、害されぬ者はいない。 智慧ある人に供養すれば、小さな善で大きな福を得る、 人が甘露を飲むがごとく、安穏の楽を求めるのである。

佛告慈氏菩薩摩訶薩：「此般若波羅蜜多，皆從善友聞正法生，邪見之人是智慧怨，汝等應當親近善友、遠惡知識。此般若波羅蜜多，非唯出生一切善法，過去未來現在諸佛皆從此生，當知此經即是一切諸佛之母。

> 仏は慈氏菩薩摩訶薩に告げて言われた。「この般若波羅蜜多は、すべて善き友人から正しい教えを聞くことによって生じる。邪見を持つ人は智慧の敵である。あなたがたは善き友人に親しみ、悪い知識を遠ざけるべきである。この般若波羅蜜多は、あらゆる善い教えを生み出すだけでなく、過去・未来・現在のすべての仏も、これより生まれるのである。この経典こそが、すべての仏の母であると知るべきである。」

「復次，慈氏！菩薩摩訶薩行布施時，有二種智：一者小智，二者大智。小智施者，為求人、天、二乘解脫，如是施者但名布施，不得名為波羅蜜多。大智施者，心無所得，無所得故得佛菩提，如是施者名檀波羅蜜。以是故知，檀波羅蜜從智慧生。尸波羅蜜亦有二種：一者小智，二者大智。小智持戒，怖三惡道，求生人、天、二乘解脫，如是持戒心不清淨，不得名為尸波羅蜜。大智持戒，普為利樂一切有情，不住於相而無所得，趣大菩提，如是持戒是則名為尸波羅蜜。以是故知，戒波羅蜜從智慧生。忍辱波羅蜜多亦從般若波羅蜜多生，一切有情本智如日，無明覆蔽忍光不現。修安忍者除斷無明，聖智現前佛日斯照。譬如國邑無有智臣，識用不均人民流散，設有智者亦當迴避，無忍慧者亦復如是。又此智慧如明眼人，遙見毒虵即便遠避，有智慧眼避瞋恚蛇亦復如是。無慧眼者，謂於過去無量劫中修行諸善，無安忍力及智慧眼，一念瞋火燒滅無餘，如乾草積飈火入中焚燒皆盡。智慧之人有安忍力，設遇惡人打罵訶責，正智安忍能調伏之。譬如香象既已調伏，臨陣驅策能破敵軍。菩薩摩訶薩亦復如是，住無相忍不起瞋恚，無緣大悲廣度一切。以是當知，安忍波羅蜜從般若波羅蜜生。精進波羅蜜亦從般若波羅蜜多而得發生。何以故？若無般若波羅蜜多，一切所作皆不成就大菩提果，無邊法門安住最勝，巧便大智周遍觀察，要精進力方能圓滿六波羅蜜。以是當知，精進波羅蜜皆從般若波羅蜜生。禪波羅蜜亦從般若波羅蜜生。所以者何？意業微細難可測量，身口所作則易除滅，妄心所起難可制伏。如風飄火猛焰可制，如海濤波亦可息之，唯有妄心甚難調伏。何以故？無始無明迷心性故。譬如世間多思覺者，妄起尋求而伺察之。如是妄想設入定門心猶取著，無智慧故經百千劫，終不能得三昧現前。亦如愚人妄執諸見，或執我常、或執我斷，見不清淨，云何能得三昧現前？有智慧人觀察二事：一者見其自身多有疾病苦樂等事，皆由先世妄想顛倒，造作諸業而今受之。若無癡愛，何有病耶？身本自空，因緣幻有，無造無作，誰受苦耶？二者復應重更觀察，雖無我相，所作福業皆不唐捐。當願法界一切有情，無盡福德滌令清淨，悉得成就六波羅蜜，戒、定、智慧以為莊嚴。以是故知，一切萬行皆以般若波羅蜜而為其母。猶如大地皆依虛空而得安立，而彼虛空無有所依。般若波羅蜜亦復如是。以是故知，禪波羅蜜，智慧為母。非唯五度從智慧生，一切世間福德名聞人天果報，乃至出世無漏善根，皆以智慧而為生處，猶如大地皆依虛空而得安立。一切眾生執我取相，有五怖畏：一不活畏，常積資財恐不活故。二惡趣畏，造不善業恐墮三塗恒怖畏故。三者死畏，愛惜身命恐喪失故。四者惡名畏，恒作諸惡以自覆藏，恐人聞知常怖畏故。五者大眾威德畏，於大眾中所發言詞懷怖畏故。菩薩摩訶薩智慧觀察具證二空，能益自他，無不活畏。除斷邪行具淨尸羅，必至涅槃，無惡趣畏。深入緣起了本無生，則無死畏。住無相理身心寂靜，無自他相，離惡名畏。成就微妙四無礙辯，處眾無畏猶師子王，是故名為無大眾畏。

> 「さらに、慈氏よ。菩薩摩薩が布施を行う時には、二つの智慧があります。一つは小さな智慧、もう一つは大きな智慧です。小さな智慧で施しを行う者は、人天や二乗の解脱を求めます。このような施しは、ただ「布施」と呼ばれるだけで、波羅蜜多とは呼べません。大きな智慧で施しを行う者は、心に得るところがありません。得るところがないからこそ、仏の菩提を得るのです。このような施しを、檀波羅蜜（布施波羅蜜）といいます。ですから、檀波羅蜜は智慧から生まれると知るべきです。 戒波羅蜜にもまた二つの種類があります。一つは小さな智慧、もう一つは大きな智慧です。小さな智慧で戒を守る者は、三悪道を恐れ、人天や二乗の解脱を求めて生まれようとします。このような戒めの心は清らかではなく、尸波羅蜜（戒波羅蜜）とは呼べません。大きな智慧で戒を守る者は、あまねく一切の有情を利益し楽しませるために、相に留まることなく、得るところもなく、大菩提を目指します。このような戒めこそ、尸波羅蜜と名づけられます。ですから、戒波羅蜜は智慧から生まれると知るべきです。 忍辱波羅蜜多もまた、般若波羅蜜多から生まれます。一切の有情の本来の智慧は太陽のようですが、無明に覆い隠されて、忍辱の光が現れないのです。安忍を修める者は、無明を断ち除き、聖なる智慧が現前し、仏の太陽が照らします。例えば、国や町に賢明な家臣がいなければ、人材の見分け方や使い方が不均一で、人民は離散してしまい、たとえ智者がいても避けて去ってしまうでしょう。忍辱の智慧がない者もまた、これと同じです。 また、この智慧は目の明るい人のようなものです。遠くに毒蛇を見れば、すぐに遠くへ避けます。智慧の目を持つ者は、怒りの蛇を避けるのもまた同じです。智慧の目がない者は、過去の無量劫において諸々の善を修行しても、安忍の力と智慧の目がなく、一瞬の怒りの火で焼き尽くされてしまいます。それは、乾いた草の山に突風が火を運び込み、全てを焼き尽くすようなものです。智慧ある人は安忍の力を持ち、たとえ悪人が殴ったり罵ったり責めたりしても、正しい智慧と安忍でそれを鎮めます。例えば、象を調教した後、戦場で駆り出せば敵軍を打ち破れるようなものです。菩薩摩薩もまた同じく、無相の安忍に留まって怒りを起こさず、無縁の大悲で一切を広く救済します。これによって、安忍波羅蜜は般若波羅蜜から生まれると知るべきです。 精進波羅蜜もまた、般若波羅蜜多から発生します。なぜなら、もし般若波羅蜜多がなければ、一切の行いは大菩提の果を成就できず、無辺の法門も最勝に安住することができないからです。巧みな方便と大きな智慧であまねく観察しても、精進の力があって初めて六波羅蜜を円満にできるのです。ですから、精進波羅蜜は全て般若波羅蜜から生まれると知るべきです。 禅波羅蜜もまた般若波羅蜜から生まれます。なぜでしょうか？ 意業は微細で計り知れず、身や口の行いは除き滅ぼしやすいですが、妄心から起こるものは制し伏せるのが難しいからです。風に舞う火の猛る炎は制御でき、海の大波も静めることはできますが、妄心だけは非常に調伏しがたいのです。なぜなら、無始の無明が心の本性を迷わせているからです。例えば、この世で多く思惟する者は、虚妄に尋求を起こし、それを観察しようとします。このような妄想は、たとえ禅定の門に入ろうとしても、心はまだ執着に捕らわれています。智慧がないため、百千劫を経ても、ついに三昧を現前させることができません。また、愚かな人が虚妄に諸々の見解に執着し、「我は常である」と執したり、「我は断滅する」と執したりするのと同じです。見解が清らかでなければ、どうして三昧を現前にできるでしょうか？ 智慧ある人は、二つの事を観察します。一つは、自分の身に多くの病気や苦楽などの事があるのを見て、これらは全て前世の妄想顛倒によって諸々の業を造り、今それを受けているのだと知ることです。もし無明と愛着がなければ、どうして病があるでしょうか？ 身は本来空であり、因縁によって幻のように存在するだけです。造る者も作る者もなく、誰が苦しみを受けるのでしょうか？ 二つ目は、更に重ねて観察すべきです。我相はないけれども、行った福業は決して無駄にはならないと。願わくは法界の一切の有情の、尽きることのない福徳を清め清らかにし、全てが六波羅蜜を成就し、戒・定・智慧を荘厳としますように。ですから、一切の万行は全て般若波羅蜜をその母とすると知るべきです。例えば、大地は全て虚空に依って安立するけれども、その虚空には依るところがありません。般若波羅蜜もまた同じです。ですから、禅波羅蜜は智慧を母とすると知るべきです。 五度だけが智慧から生まれるのではなく、世間の一切の福徳や名声、人天の果報、さらに出世間の無漏の善根に至るまで、全て智慧を出生の場所とします。それは、大地が全て虚空に依って安立するのと同じです。一切の衆生は我に執着し相を取るため、五つの怖れがあります。一つは、生きられないのではないかという怖れ。常に財を蓄積し、生きられないことを恐れるからです。二つは、悪趣に落ちる怖れ。不善の業を造り、三塗に堕ちることを常に怖れるからです。三つは、死の怖れ。身命を愛惜し、失うことを恐れるからです。四つは、悪名の怖れ。常に諸々の悪を行って自分を隠し、他人に知られることを恐れて常に怖れるからです。五つは、大衆の威徳の怖れ。大衆の中で発言する時に怖れを抱くからです。菩薩摩薩は智慧で観察し、二種の無我を完全に証得し、自他を利益できるので、生きられない怖れはありません。邪行を断ち切り、清らかな戒を具え、必ず涅槃に至るので、悪趣の怖れはありません。縁起を深く観察し、本来無生であることを理解すれば、死の怖れはありません。無相の理に安住し、身心は寂静であり、自他の相がないので、悪名の怖れを離れます。成就した微妙な四無礙弁を有し、大衆の中にあっても獅子王のように畏れません。これを、大衆の怖れがないと名づけるのです。」

「復次，慈氏！一切眾生根性差別，慳貪者令惠施，瞋恚者令慈忍，我慢者令謙下，愚癡者得智慧，開示涅槃顯真實相無量功德，皆從般若波羅蜜生。一切諸佛及諸菩薩、天龍八部咸皆讚歎，尊重恭敬猶如父母。譬如慈母唯有一子，鞠育誨示漸漸成長令得尊貴。菩薩亦爾，憐愛有情等如一子，般若甘露而為法食，五波羅蜜為大資糧，十力、四無所畏、十八不共法諸妙功德莊嚴法身，成就無上法王之位。

> また、慈氏よ。すべての衆生の根性にはそれぞれ違いがある。物惜しみする者には施しをさせ、怒りやすい者には慈悲と忍耐を、高慢な者には謙虚さを、愚かな者には智慧を得させ、涅槃を開示して真実の相を明かす無量の功徳は、すべて般若波羅蜜から生まれる。すべての諸仏や諸菩薩、天竜八部はみなこれを称賛し、父母のように敬い尊ぶ。たとえば、慈しむ母がただ一人の子を育て、教え諭しながら徐々に成長させ、ついには高貴な地位を得させるようなものだ。菩薩もまたこれと同じく、生きとし生けるものを我が子のように愛しみ、般若の甘露を法の食物とし、五波羅蜜を大きな糧として、十力・四無所畏・十八不共法のさまざまな功徳で法身を荘厳し、無上の法王の位を成就するのである。

「復次，慈氏！有十種事能障智燈，掩蔽光明不能顯了，增長癡闇無所覺知。一者懶惰，於世事業皆不成就，豈能修行出世妙善。二者近惡知識，造諸惡業增長無明。三者耽著睡眠身心昏昧，不能修習無上菩提。四者聽聞大乘尋復忘失。五者樂習世間一切技藝，不知如幻而生執著。六者我慢覆藏，雖遇善友不能諮問無上正法。七者於大乘教微妙深理不能解悟，我慢自高便生退屈。八者恥己愚昧，不能親近有智之人。九者攻乎異端詐謂知見，有所論難皆涉邪徒。十者於最上乘不生信樂，設有所聞師心邪解。由是十事障礙大乘，正法不聞，淪溺生死。離此十事有十勝法，便能悟入無上菩提。一者精勤樂習禪定。二者親近善友聽聞正法。三者損減睡眠恒自覺悟。四者於大乘法所聞不忘。五者順世事業，常觀如幻無所著故。六者無所藏隱，決眾疑故。七者不輕己身，勤修行故。八者常樂法施，興大會故。九者恒自謙下，不誑眾生故。十者不自師心，深入佛慧故。菩薩摩訶薩以此十事具足圓滿六波羅蜜，成就法身清淨解脫。

> さらに、慈氏よ、智慧の灯りを妨げ、光明を覆い隠して顕わにできず、無明の闇を増長させて何も悟ることができなくなる十の事柄がある。 第一に、怠惰であること。世間の事業もすべて成就せず、ましてや出世間の妙なる善を修行することなどできようか。 第二に、悪知識に親しむこと。様々な悪業を造り、無明を増長させる。 第三に、睡眠に耽り心身が昏昧であること。無上の菩提を修習することができない。 第四に、大乗を聴聞してもすぐに忘れ失ってしまうこと。 第五に、世間のあらゆる技芸を学ぶことを好み、それが幻であると知らず執着すること。 第六に、我慢の心で覆い隠し、善友に出会っても無上の正法を問うことができないこと。 第七に、大乗教の微妙で深い理を理解できず、我慢と高慢によって退屈してしまうこと。 第八に、自分の愚かさを恥じて、智慧ある人に親近できないこと。 第九に、異端の教えを攻めて我こそは知見ありと偽り、議論すれば皆邪見の徒に陥ること。 第十に、最上の乗に対して信楽を生ぜず、たとえ聞くことがあっても自分の心を師として邪解すること。 これらの十の事柄によって大乗が妨げられ、正法を聞くことができず、生死に溺れ沈むのである。 この十の事柄から離れることによって、十の勝れた法が得られ、それにより無上の菩提を悟ることができる。 第一に、精進して禅定を学び楽しむこと。 第二に、善友に親しんで正法を聴聞すること。 第三に、睡眠を減らして常に自ら覚悟すること。 第四に、大乗の法を聞いて忘れないこと。 第五に、世間の事業に従いながらも常に幻のように観じて執着しないこと。 第六に、隠し覆うことなく、衆生の疑問を断ち切ること。 第七に、自らの身を軽んぜず、勤めて修行すること。 第八に、常に法施を楽しみ、大いなる集会を催すこと。 第九に、常に謙虚で、衆生を欺かないこと。 第十に、自らの心を師とせず、深く仏の智慧に入ること。 菩薩摩訶薩は、これら十の事によって六波羅蜜を円満に具足し、法身の清浄な解脱を成就するのである。

「復次，慈氏菩薩摩訶薩！此般若波羅蜜多，不與十六種法而為相應。一者不與十二因緣相應，所謂無明乃至老死。二者不與無明滅乃至老死滅而為相應，菩薩摩訶薩離分別心、無二相故。三者不與身見、邊見乃至六十二見而為相應。四者不與世間八風相應，所謂利、養、稱讚、譏毀、苦、樂、衰、損等事而為相應。五者不與隨煩惱等忿恨相應。六者不與我慢、增上慢等相應。七者不與根本貪、瞋、癡等而為相應。八者不與煩惱魔、死魔等而為相應。九者不與我相、人相、作者、受者、養育、士夫、補特伽羅、意生、儒童、業障、報障、煩惱等障而為相應。十者不與妄念分別、見聞覺知而為相應。十一者不與四顛倒法而為相應——無常計常、常計無常，無樂計樂、樂計無樂，無我計我、我計無我，不淨計淨、淨計不淨。如是妄計名顛倒法，有情心行乃至諸塵勞門而為相應。十二者不與慳悋、犯戒、瞋恚、懈怠、散亂、愚癡而為相應，亦不與有相行施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧相應。十三者不與不善等法——性罪遮罪、有漏有為——而為相應，亦不分別世出世善法——有漏無漏——而為相應。十四者不與二十二根相應，所謂眼、耳、鼻、舌、身根相應，亦不與苦、樂、憂、喜、捨受相應，亦不與男女等根、意根、命根、信等五根、三無漏根而為相應。十五者不與三界五趣種種有情而為相應，亦不分別大乘小乘佛法僧寶差別之相而為相應。十六者不分別真諦俗諦、有為無為、有智無智、有識無識、作意無作意、有體性無體性、有相無相心意差別而為相應。慈氏、當知摩訶般若波羅蜜多，無染無著，離諸分別，平等清淨，一相一味，不與如是差別等法而為相應。

> また、慈氏菩薩摩訶薩よ。この般若波羅蜜多は、十六の法とは相応しない。 第一に、十二因縁（無明から老死に至るまで）とは相応しない。 第二に、無明の消滅、老死の消滅とも相応しない。菩薩摩訶薩は分別心を離れ、二つの相（にそう）がないからである。 第三に、身見・辺見・六十二見などとは相応しない。 第四に、世間の八風（利得・養い・称賛・嘲笑・苦しみ・楽しみ・衰退・損害など）とは相応しない。 第五に、随煩悩である忿・恨などとは相応しない。 第六に、我慢・増上慢などとは相応しない。 第七に、根本の貪り・怒り・無知などとは相応しない。 第八に、煩悩魔・死魔などとは相応しない。 第九に、我相・人相・作者・受者・養育・士夫・補特伽羅・意生・儒童・業障・報障・煩悩障などとは相応しない。 第十に、妄念・分別・見・聞・覚・知とは相応しない。 第十一に、四つの顛倒法（無常なのに常と見なす、常を無常と見なす、無楽を楽と見なす、楽を無楽と見なす、無我を我と見なす、我を無我と見なす、不浄を浄と見なす、浄を不浄と見なす）とは相応しない。このように誤って執着するのが顛倒法であり、有情の心の働きや塵労（煩悩）の入り口とは相応しない。 第十二に、慳吝・犯戒・怒り・怠け・散乱・愚かさとは相応せず、また相（かたち）に執着して行う布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧とも相応しない。 第十三に、不善の法（性罪・遮罪・有漏・有為）とは相応せず、また世間の善法か出世の善法か、有漏か無漏かという分別とも相応しない。 第十四に、二十二根（眼・耳・鼻・舌・身の根、苦・楽・憂・喜・捨の受、男根・女根・意根・命根・信等五根・三無漏根）とは相応しない。 第十五に、三界や五趣の様々な有情とは相応せず、また大乗・小乗、仏・法・僧の宝の区別という相とも相応しない。 第十六に、真諦・俗諦、有為・無為、有智・無智、有識・無識、作意・無作意、有体性・無体性、有相・無相といった心の区別とは相応しない。 慈氏よ、知るがよい。大般若波羅蜜多は、汚れなく執着なく、諸々の分別を離れ、平等に清らかで、一つの相（いっそう）・一つの味わいであり、このような差別の法とは相応しないのである。

「復次，慈氏！菩薩摩訶薩善巧方便行深般若波羅蜜多時，住奢摩他、毘鉢舍那，住身寂靜，了因緣法如幻如化，順勝義諦，離有離無非斷非常，隨順因果，無我人相真實不動，不壞威儀住三解脫門而不取證。無動無靜是如來禪，遊戲神通深入實際，不住生死不入涅槃，不盡有為不住無為，雖觀無相不捨大悲，雖住三界而恒出離，知真無染而不修證，離於戲論常樂宣說。

> さらに、慈氏よ、菩薩摩訶薩は巧みな方便をもって深遠なる般若波羅蜜多を実践する際、奢摩他（止）と毘鉢舎那（観）に安住し、身体を寂静に保ちます。因縁の法が幻や影のようなものであると悟り、勝義諦（究極の真理）に従って、「有」からも「無」からも離れ、「断」でも「常」でもありません。因果の道理に随順し、我や人の相（すがた）はなく、真実そのもので動じることなく、威儀を崩さずに三解脱門（空・無相・無願）に安住しながらも、それを証得しようとはしません。 動もなく静もない、これが如来の禅です。自在な神通力をもって遊戯し、真実の際（きわみ）に深く入りながらも、生死に留まらず、涅槃にも入りません。有為を尽くすことなく、無為に安住することもありません。無相を観じながらも大悲を捨てず、三界にありながら常にそれを超え出ています。真実が無染であることを知りながらも、それを修行して証得しようとはせず、戯論（無駄な議論）を離れ、常に喜んで説法を行います。

「復次，慈氏！菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多，應於善友聽聞正法，具足八十四種勝上之心，方能發生般若波羅蜜多微妙勝慧。所謂住真實相，最極微妙相，般若相應相，善知識相，離憍慢相，恭敬相，右遶相，無量相，善言相，至誠相，善作意相，無亂相，無定相，妙寶相，妙藥相，除病相，法器相，示導相，入智慧相，聞法無厭相，增長捨相，善調象馬相，敬事多聞相，樂聞深法相，觀身寂滅相，清淨適悅相，聞法無倦相，聞義相，聞法相，隨說修行相，為他說法相，聞所未聞相，聞神通相，不求餘乘相，樂聞般若相，樂聞菩薩藏相，樂聞善巧方便相，四攝法相，聞梵行相，念正定相，能生善巧無生相，大慈悲心相，緣起相，無常相，苦相，空相，無我相，不淨相，寂靜相，空相，無相相，無願相，無不善行相，勝義諦相，不壞相，自在相，護自心相，不捨精進相，思惟妙法相，對治煩惱相，宗重正法相，對治邪見相，獲聖財相，除斷貧窮相，智者稱讚相，智人極喜相，智者所樂相，崇重賢善相，見諦相，觀蘊過失相，有為過患相，依法相，依義相，依智相，依了義經相，不依不了義經相，不作諸惡相，自利益相，利益他相，善作業相，無熱惱相，勝行相，獲一切諸佛法門相。慈氏！當知聽法之人具足如是勝妙之心，能善聽聞甚深般若波羅蜜多，知一切法無我、無人、本來清淨。生死、涅槃平等無二。復次，菩薩摩訶薩觀於眼等五根苦樂等受，男女意、命，能起煩惱生死根本；信等五根、三無漏根，能捨煩惱是涅槃因。知煩惱性從本以來，不生不滅性相常住，如是修習是名般若波羅蜜多。

> 「さらに、慈氏よ。菩薩摩耶は般若波羅蜜多を修行するにあたり、善友から正しい教えを聞き、八十四種の優れた心をそなえて初めて、般若波羅蜜多の微細で勝れた智慧を生じることができるのです。すなわち、真実の相に安住する心、最も微細な相、般若と対応する相、善知識の相、高ぶりを離れる相、敬う相、右繞する相、限りない相、善い言葉の相、至誠の相、善く意をなす相、乱れのない相、定まらない相、妙なる宝の相、妙なる薬の相、病気を除く相、法の器の相、導き示す相、智慧に入る相、説法を聞いて飽きることのない相、施しを増長する相、象や馬をよく調御する相、多聞を敬う相、深い法を聞くことを喜ぶ相、身の寂滅を観じる相、清らかで心地よい相、法を聞いて疲れない相、意味を聞く相、法を聞く相、説かれたままに修行する相、他のために説法する相、未だ聞かざるを聞く相、神通を聞く相、他の乗り物を求めない相、般若を聞くことを喜ぶ相、菩薩蔵を聞くことを喜ぶ相、善巧方便を聞くことを喜ぶ相、四摂法の相、梵行を聞く相、正定を念ずる相、善巧無生を生じる相、大慈悲心の相、縁起の相、無常の相、苦の相、空の相、無我の相、不浄の相、寂静の相、空の相、無相の相、無願の相、不善の行のない相、勝義諦の相、壊れない相、自在の相、自らの心を護る相、精進を捨てない相、妙法を思惟する相、煩悩を対治する相、正法を尊び重んじる相、邪見を対治する相、聖なる財を得る相、貧しさを断ち除く相、智者に称賛される相、智人が大いに喜ぶ相、智者に楽しまれる相、賢く善い人を尊び重んじる相、真理を見る相、蘊の過失を観じる相、有為の過患の相、法に依る相、義に依る相、智に依る相、了義経に依る相、不了義経に依らない相、諸々の悪をなさない相、自らを利益する相、他を利益する相、善く業をなす相、熱悩のない相、勝れた行いの相、一切の諸仏の法門を得る相です。慈氏よ、知ってください。法を聞く人がこのような勝れた心をそなえているならば、その人は深遠なる般若波羅蜜多をよく聞き、一切の法に我もなく人もなく、本来清らかであることを知るでしょう。生死と涅槃は平等であって、二つではありません。 さらに、菩薩摩耶は眼などの五根、苦楽などの受、男女の意や命など、煩悩と生死の根本を生じさせるものを観じます。また、信などの五根、三つの無漏根は、煩悩を捨て去り涅槃の因となるものです。煩悩の性は、もとより生じもせず滅しもせず、その性と相は常に存在することを知ります。このように修習することを、般若波羅蜜多と名づけるのです。」

「復次，慈氏！菩薩摩訶薩所修勝行，與智慧相應及不相應，無有分別、二智平等，不捨眾生恒起大悲，普覆一切清淨不動。如是修習，是則名為般若波羅蜜多。」

> また、慈氏よ。菩薩（大いなる悟りを目指す者）が修める優れた行いは、智慧と結びついているか、結びついていないかに関わらず、分別を超え、二つの智慧は等しく、衆生を見捨てることなく常に大いなる慈悲を起こし、すべてを広く覆って清らかで動じることがありません。このように修習することを、般若波羅蜜多（智慧の完全さ）と名づけるのです。

佛告慈氏：「此般若波羅蜜多句義不可思議，是相應句、如理句、如量句、佛語句、了緣句、無礙句、無滅句、大捨句、不動句、一切不動句、無依止句、平等句、無難句、無高下句、實際句、不變易句、無著句、無住句、無所住句、對治句、寂靜句、極寂靜句、遍寂靜句、無戲論句、無起句、即真句、不缺句、無餘句、無際句、無對治句、最勝句、真實句、如如句、絕言句、不別異句、無彼此句、三世平等句、無三世句、不住五蘊句、不住六界句、不住十二處句、不住十八界句、依法句、依義句、依智句、依了義句。如是句義，是菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多不可思議，離言說故、真勝義故、不可思議故、無因喻故、無比量故、無有上故、自利利他故、大希有故，唯佛與佛能證能說，餘無測知。何以故？般若波羅蜜多無性無相、無比無喻，唯佛如來方能究盡。

> 仏が慈氏に告げられた。「この般若波羅蜜多の句の意味は、思いはかることのできないものである。それは、対応する句、理にかなった句、量にかなった句、仏の言葉の句、縁を了知する句、さまたげのない句、滅することのない句、大きく捨てる句、動かない句、すべて動かない句、よりどころのない句、平等の句、難しくない句、高下のない句、真実際の句、変わらない句、執着しない句、とどまらない句、とどまるところのない句、対治する句、静かな句、非常に静かな句、あまねく静かな句、無分別な句、生起しない句、まさに真実の句、欠けるところのない句、余すところのない句、限りのない句、対治を必要としない句、最も優れた句、真実の句、如実の句、言葉を超えた句、別異ではない句、彼此のない句、三世において平等の句、三世のない句、五蘊にとどまらない句、六界にとどまらない句、十二処にとどまらない句、十八界にとどまらない句、法による句、意味による句、智慧による句、了義による句である。 これらの句の意味こそ、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜多を修行する、思いはかることのできないものである。なぜなら、言葉による説明を離れているからであり、真実の勝義であるからであり、思いはかることのできないものであるからであり、原因や譬えがないからであり、比較や量りがないからであり、それより上のものがないからであり、自他を利するからであり、非常に希有であるからである。ただ仏と仏のみが悟り、説くことができ、その他の者には測り知ることができない。それはなぜか。般若波羅蜜多には固有の性質も形相もなく、比べるものも譬えもなく、ただ仏・如来のみが徹底的に究め尽くすことができるからである。」

「復次，慈氏！此般若波羅蜜多，非即蘊、處、界，無依無止、不生不滅，不內不外不在中間。是故般若波羅蜜多不可思議。」

> さらに、慈氏よ。この般若波羅蜜多は、五蘊や十二処、十八界そのものではなく、よりどころもなく、とどまることもありません。生まれることもなく、滅することもなく、内にも外にも、その中間にもありません。それゆえ、般若波羅蜜多は思いはかることのできないものなのです。

爾時，慈氏菩薩聞是般若波羅蜜多，歡喜踊躍，以偈讚曰：

> その時、慈氏菩薩はこの般若波羅蜜多の教えを聞いて、大いに喜び躍り上がり、偈を唱えて讃えました。

「大雄世尊智無量， 十力無畏真解脫，神通廣大無邊際， 一切無能測量者。昔曾侍覲無量佛， 獲得甚深微妙智，難行苦行恒沙劫， 是故能成調御師。佛證自然一切智， 住真寂滅難思議，唯佛如來自證知， 能現無邊佛境界。法性真常離二邊， 寂滅無為出三有，煩惱業苦悉皆除， 法身清淨真解脫。菩提道場成正覺， 唯有諸佛能證知，清淨湛然無去來， 無相無行無說示。涅槃無比無能喻， 凡夫二乘莫能測，等覺菩薩不能知， 唯佛世尊獨明了。佛會一切聲聞眾， 逮得己利如來讚，漏盡皆住最後身， 此等不知佛境界。一切辟支佛利智， 遍滿十方如稻麻，百千萬劫共思惟， 不能測知佛智慧。」

> 大雄世尊の智慧は限りなく、 十力と無畏（おそれなきこと）によって真の解脱を得た。 神通は広大で果てしなく、 すべての者が思いはかることさえできない。 かつて無数の仏に仕え、 深く微妙な智慧を得られた。 難行・苦行を河の砂の数ほどの長きにわたり行い、 そのゆえに調御師（迷いを調える師）となられた。 仏は自然に一切の智慧を証し、 真の寂滅に住して、思いはかることも語ることもできない。 ただ仏・如来のみが自ら知るところであり、 果てしない仏の境界を現すことができる。 法の本性は真実で常にあり、二つの極端を離れ、 寂滅にして作為なく、三つの生存（欲・色・無色界）を超えている。 煩悩も業も苦もことごとく除かれ、 法身は清らかで、真の解脱を得ている。 菩提の道場において正しい覚りを成就したことは、 ただ諸仏のみが知ることができる。 清らかで深く澄み、来ることも去ることもなく、 姿もなく、働きもなく、言葉で示すこともない。 涅槃には比べるものも、たとえるものもなく、 凡夫や二乗（声聞・縁覚）には測り知ることはできない。 等覚の菩薩でさえ知ることができず、 ただ仏・世尊だけがひとり明らかに知っておられる。 仏の教えの集いにおけるすべての声聞の衆は、 自らの利益を得て如来に称えられたが、 煩悩の漏れを尽くし、皆、最後の身にとどまる者たちでさえ、 この仏の境界を知ることはできない。 すべての辟支仏（縁覚）の鋭い智慧が、 十方に稲や麻のごとく満ちていても、 百千万劫にわたって共に考えをめぐらせても、 仏の智慧を測り知ることはできない。

## 大乘理趣六波羅蜜多經卷第九

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