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title: "大乘理趣六波羅蜜多經 · 之餘"
description: "大乘理趣六波罗蜜多经（般若）是唐代高僧般若三藏所译的重要佛教经典，属于大乘佛教般若部经典之一。该经以六波罗蜜（布施、持戒、忍辱、精进、禅定、智慧）为核心，系统阐述了大乘菩萨道的修行次第与智慧境界。经文强调般若智慧在解脱中的核心作用，融合了中观与瑜伽行派思想，体现了大乘佛教的圆融特质。作为唐代佛教翻译的重要成果，该经对汉传佛教的教理体系构建影响深远，至今仍为研究大乘菩萨道思想的重要文献，在佛教经典中具有承前启后的重要地位。"
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## 大乘理趣六波羅蜜多經卷第十

> 大乗理趣六波羅蜜多経 巻第十

罽賓國三藏般若奉　詔譯

> 罽賓国の三蔵般若、詔を奉じて訳す

### 般若波羅蜜多品第十之餘

> 第十章 般若波羅蜜多の章（続き）

佛告慈氏：「菩薩摩訶薩有七種事，能得如是不可思議無盡法門，謂因無盡、有情界無盡、大悲無盡、妙用無盡、法門無盡、壞生死魔故、智無盡故。如是般若波羅蜜多，無行無相、無生無滅，菩薩於一切法應如是知。」

> 仏が慈氏に告げられた。「菩薩摩訶薩には七つの事柄があり、それによってこのような不可思議で尽きることのない法門を得ることができる。すなわち、因が尽きないこと、有情界が尽きないこと、大悲が尽きないこと、妙用が尽きないこと、法門が尽きないこと、生死の魔を打ち破るからであり、智慧が尽きないからである。このように般若波羅蜜多は、行もなく相もなく、生もなく滅もない。菩薩はあらゆる法について、このように知るべきである。」

佛說是甚深般若波羅蜜多時，會中有一外道名微末底，即從座起而白佛言：「世尊！佛說一切諸法本來不生、自性清淨。此義不然。自在天常，而是一切萬物父母，能生諸法，能造能作安立世間。復有說云：『神我能生一切諸法，然此我者住於心中猶如拇指。』復有說云：『一切諸法從和合生。』云何今者乃說無生？」

> 仏がこの深遠な般若波羅蜜多を説かれた時、会座の中に微末底という名の外道が一人、席を立ち、仏にこう申し上げた。「世尊よ。仏は『すべての諸法は本来生じず、自性は清らかである』と説かれますが、それは道理にかなっていません。自在天は永遠不変であり、あらゆる万物の父母として、諸法を生み出し、造り、整え、この世を成立させています。また『神我がすべての諸法を生み出す。この我は心の中にあたかも親指のように存在する』と説く者もいます。さらに『すべての諸法は和合によって生じる』という説もあります。それなのに、どうして今、無生を説かれるのでしょうか。」

爾時薄伽梵告微末底：「汝所問者，隨汝意答。斷汝疑心，應當諦聽。如汝所說：『自在天常，能生一切。』所生萬物應同一性，悉亦是常。若謂所生前後變易非常住者，理亦不然。用不離體，應是常住；體不離用，應非常故。自在常者，生應常生，云何有時或生不生？既不常生，云何是常？以是義故，同彼所生，定是無常。所生既多，亦非是一，若是一者應無差別，萬類區分如何是一？又自在天能生一切，無有慈悲。若有慈悲，應令有情悉生人天常受快樂，云何令諸有情受於八苦，生三惡趣受種種苦？若有慈悲，云何自生自立自害？若自在天是一是常，所生一切應無變易，云何異類生滅無常，五趣之中受茲不淨？譬如見果即知其因，當知自在非常非一。若言妙好是自在作，麁鄙不善畢舍遮為。如是之言亦不應理。善由自在，惡由舍遮，善惡相違何名自在？又諸有情，作惡人多、修善者少，即畢舍遮鬼勝自在天。又諸有情，所作善事自在處分，所作諸惡鬼所教者。汝諸弟子恒作是言：『為善生天，惡墮地獄。』若生天墮獄由造善惡，云何言彼自在作耶？譬如國王使人宣令賜財授職，但言王賜，終不言是宣教命人。又如國王使人斷命，但言王殺，不言魁膾。是即造善歸自在天。若造諸惡，畢舍遮受，有情何故受苦樂耶？以是當知，大自在天決定不能造作一切。若言一者，有情何故能生無量善惡心耶？以是故知亦非是一。若言一切由自在天，即應純善，何有惡耶？如人有時於多人所，作諸惡事即是惡人。若眾生惡由自在者，世間咸謂地獄罪人自作惡業，汝獨云何推自在耶？又如有人謗他作惡得無量罪，汝謗自在獲罪亦然。

> さて、世尊はミケーマンダに告げられた。「あなたの問いには、あなたの心のままに答えよう。あなたの疑いを断ち切るために、よく聞きなさい。あなたが言うように、『大自在天は常にして、一切を生み出す』というなら、生み出された万物はみな同じ性質を持ち、これまた常であるべきだ。もし生み出されたものが前後して変化し、常住ではないと言うなら、それも道理に合わない。作用は本体を離れないのだから常住であるべきであり、本体は作用を離れないのだから常住ではないことになる。大自在天が常なら、生み出すことも常に起こるべきで、どうして時に生み、時に生まないことがあろうか。常に生み出さないのであれば、どうして常と言えるのか。この理によって、生み出されたものと同じく、大自在天もまた無常であると定まる。生み出されたものは多種多様であり、一つでもない。もし一つなら、違いがあるはずがなく、万物が区別されるのはどうしてか。また、大自在天が一切を生み出すなら、慈悲はないことになる。もし慈悲があるなら、一切の有情を人や天に生まれさせ、常に楽しみを受けさせてしかるべきだ。どうして有情に八苦を受けさせ、三悪趣に生まれさせ、様々な苦しみを受けさせるのか。もし慈悲があるなら、どうして自ら生み、自ら立て、自ら害するのか。もし大自在天が一つであり常であるなら、生み出された一切は変化すべきではない。どうして異なる種類のものが生滅無常であり、五趣の中でこの不浄を受けるのか。たとえば、果実を見ればその因を知るように、大自在天は常ではなく、一つでもないと知るべきである。もし、善美なものは大自在天が作り、粗悪で不善なものはピシャーチャ（餓鬼）が為すと言うなら、それも道理に合わない。善は大自在天に、悪はピシャーチャに由来するというなら、善悪は相反するものであり、どうして大自在天と言えるのか。また、有情の中で悪事を為す者は多く、善を修める者は少ない。これはすなわち、ピシャーチャ鬼が大自在天に勝っていることになる。さらに、有情が為す善事は大自在天の采配によるものであり、為す諸々の悪は鬼の教えによるものだというのか。あなたの弟子たちは常にこう言う。『善を為せば天に生まれ、悪を為せば地獄に堕ちる』と。もし天に生まれ、地獄に堕ちるのが、善悪を為すことによるのなら、どうしてそれを大自在天の所作と言えるのか。たとえば、王が人に命じて財産を賜り職を授けさせる時、ただ『王が賜った』と言い、決して命令を伝えた者を指して言わないようなものだ。また、王が人に命じて命を断たせる時、ただ『王が殺した』と言い、刑執行者を指して言わないようなものだ。つまり、善を為せば大自在天に帰し、悪を為せばピシャーチャが受け持つことになる。だとすれば、有情はどうして苦楽を受けるのか。このことから、大自在天は決して一切を造り得ないと知るべきである。もし『一』と言うなら、有情はどうして無量の善悪の心を生じることができるのか。このことから、一つでもないと知る。もし一切が大自在天に由来するなら、純粋に善であるべきで、どうして悪があるのか。例えば、人が時に多くの人に対して悪事を為せば、その人は悪人である。もし衆生の悪が大自在天に由来するなら、世間の人々は地獄の罪人は自ら悪業を為したのだと言うのに、あなたはどうして大自在天のせいにするのか。また、例えば人が他人が悪を為したと誹謗して無量の罪を得るように、あなたが大自在天を誹謗して得る罪もまた同じである。」

「復次，微末底！自在造作過失如前，神我過失倍過於彼。若我是常、能造作者，此身去住應得自由，無人能害，云何號哭而懼死耶？若我是常，應能憶念過去造業受諸苦報，故於今生不應造惡。又我常者，即應自在捨於衰老恒受少壯，如脫故衣更著新好，云何而有老病死耶？以是當知，我非作者。

> 「また、微末底よ。自在天による創造の過失は先に述べた通りだが、神我の過失はそれよりもさらに大きい。もし我が常住であり、創造する主体であるならば、この身体は自由に去来でき、誰も害することができず、なぜ泣き叫び死を恐れるのか？もし我が常住であるならば、過去に行った業や受けた苦しみの報いを覚えているはずであり、それゆえに現世で悪を為すべきではない。また、もし我が常住であるならば、老いを捨てて常に若さを保ち、古い衣を脱いで新しい良い衣を着るように自在であるべきなのに、なぜ老・病・死が存在するのか。これらの理由により、我は創造者ではないと知るべきである。」

「復次，微末底！我觀諸法，亦非和合因緣所生。所以者何？因無生性。因若有生，不應待緣。緣無生性亦復如是。若說因緣我能和合，此亦不然。如二盲人，各別行住不能見色，設令同住不見亦然。當知神我和合因緣亦不能生。若能生者，應是無常，有作用故，如所生果定是無常。以是當知，離所生外無別能生。或說五大極微是常，能生諸法。此亦不然，猶如水米和合成酒，飲即令醉。如是醉力不從外來，非水中出，亦非米出，水米和合轉變而生。一切諸法無有作者，亦無有我而為因緣。所以者何？大地虛空。水、火、風界當知亦爾，豈無情物生有情耶？一切諸法假有實無，非自在天亦非神我，非和合因緣五大能生。是故當知，一切諸法本性不生，從緣幻有，無來無去、非斷非常，清淨湛然，是真平等。」

> 「また、微末底よ、私は諸々の法（あらゆる現象）を観察すると、それらは和合や因縁によって生じたものではないと見極めた。なぜか？ 因には生じる性質がないからである。もし因に生じる性質があるなら、縁（条件）を待つ必要はないだろう。しかし、縁にもまた生じる性質はないのである。もし『因と縁が私によって和合し、生じるのだ』と言うなら、それもまた正しくない。例えば、二人の盲人がそれぞれ別々に歩いていても物の形を見ることはできず、たとい一緒にいても見えないのと同じである。知るがよい、神我（アートマン）と和合の因縁によっても、ものは生じ得ないのだ。もし生じ得るなら、それは無常であるはずだ。というのも、作用があるからであり、生じた結果のものもまた必ず無常である。このことから、生じたものの外に、別に生じさせるものはないと知るべきである。あるいは、五大（地・水・火・風・空）や極微（原子）は常住で、諸々の法を生じさせると説く者もいる。これもまた正しくない。例えば、水と米が和合して酒ができ、飲めば酔わせる。この酔いの力は外から来るのではなく、水から出るのでもなく、米から出るのでもない。水と米の和合によって変化し生じるのである。一切の諸法には作り手はなく、また我（アートマン）が因縁となることもない。なぜか？ 大地や虚空、水・火・風の界（要素）もまた同じだと知るべきである。どうして無情のものが有情（命あるもの）を生じさせることがあろうか？ 一切の諸法は仮に存在するかのように見えるが、実体はない。自在天（最高神）によるのでもなく、神我によるのでもなく、和合因縁や五大によって生じるのでもない。それゆえ知るがよい、一切の諸法の本性は生じず、縁によって幻のように現れる。来ることも去ることもなく、断滅でも常住でもない。清らかで静まりきっており、これこそが真の平等である。」

爾時，薄伽梵而說偈言：

> その時、尊き師は次のように偈を説かれました──

「一切有為法， 如乾闥婆城，眾生妄心取， 雖現非實有。諸法非因生， 亦非無因生，虛妄分別有， 是故說唯心。無明妄想見， 而是色相因，藏識為所依， 隨緣現眾像。如人目有瞖， 妄見空中花，習氣擾濁心， 從是三有現。眼識依賴耶， 能見種種色，譬如鏡中像， 分別不在外。所見皆自心， 非常亦非斷，賴耶識所變， 能現於世間。法性皆平等， 一切法所依，藏識恒不斷， 末那計為我，集起說為心， 思量性名意，了別義為識， 是故說唯心。心外諸境界， 妄見毛輪花，所執實皆無， 咸是識心變。色具色功能， 皆依賴耶識，凡愚妄分別， 謂是真實有。睡眠與昏醉， 行住及坐臥，作業及士用， 皆依藏識起。有情器世間， 非由自在作，亦非神我造， 非世性微塵。如木中火性， 雖有未能燒，因燧方火生， 由此破諸闇。展轉互為因， 賴耶為依止，諸識從彼生， 能起漏無漏。如海遇風緣， 起種種波浪，現前作用轉， 無有間斷時。藏識海亦然， 境界風所動，恒起諸識浪， 無間斷亦然。如酪未鑽搖， 其酥人不見，施功既不已， 醍醐方可得。賴耶妄熏習， 隱覆如來藏，修習純熟時， 正智方明了。諸識隨緣轉， 不見本覺心，自覺智現前， 真性常不動。猶如金在礦， 處石不堪用，銷練得真金， 作眾莊嚴具。賴耶性清淨， 妄識所熏習，圓鏡智相應， 如日出雲翳。若有修空者， 順空而取空，觀空與色殊， 不名真觀者。觀色即是空， 色空不可得，此即勝義空， 是真解脫者。客塵無自性， 無明妄分別，實相非有無， 眾生虛妄見。猶如日月明， 流光能普照，如來清淨藏， 具足諸功德。真妄互相熏， 猶如二象鬪，弱者去無迴， 妄盡無來去。蓮花性無染， 出水離淤泥，菡蓞開敷時， 見者皆歡喜。如來無垢識， 永斷諸習氣，清淨智圓明， 賢聖所歸趣。猶如最勝寶， 無復諸瑕翳，輪王為寶冠， 常置於頂上。如來清淨藏， 永離諸分別，體具恒沙德， 諸佛之法身。住真無漏界， 清淨解脫身，寂滅等虛空， 法性無來去。佛現三界中， 不生亦不滅，此界及他方， 湛然常不動。平等真法界， 佛與眾生如，非斷亦非常， 大悲恒不盡。諸佛法性身， 本覺自然智，是真勝義諦， 唯佛方證知。自性體無生， 牟尼本寂靜，流轉諸三有， 畢竟歸依處。法無來去相， 三世常寂然，住真三昧者， 見彼法界身。清淨不思議， 恒沙眾德備，此即無漏界， 諸佛之所依。佛具三種身， 體相用平等，甚深廣大性， 勝義無差別。無漏無變易， 遠離一切相，煩惱及所知， 本性恒清淨。無垢無染著， 是真調御師，性淨即涅槃， 亦是法身佛。體備恒沙德， 無垢不思議，六度常圓滿， 此即薩婆若。廣大無邊際， 永斷於思想，斷習成菩提， 具恒沙功德。於諸法自在， 普現諸色像，大悲清淨果， 常利一切眾。無漏無分別， 願力皆圓滿，猶如摩尼珠， 隨色皆能現。譬如工畫師， 能畫種種相，所現諸境界， 皆是識心變。眾生諸性欲， 如來悉能知，法身恒不動， 願力隨緣現。示現兜率天， 降神乘白象，生處於王宮， 出家修苦行，即詣菩提樹， 降伏諸魔怨，成佛轉法輪， 或現涅槃相。示現有生滅， 真身恒不動，鈍根樂小法， 方便說涅槃。真如法界中， 無有涅槃相，大悲樂饒益， 引導於眾生。猶如大商主， 誘進諸愚少，菩薩廣大心， 咸令入涅槃。」

> 「すべての現象（有為法）は、まるで蜃気楼の城のようなものです。 衆生は誤った心でそれらを捉えますが、現れはしても実体はありません。 すべての現象は特定の原因から生じるのでもなく、また原因なしに生じるのでもありません。 虚妄な分別によって存在するように見えるだけであり、それゆえに「すべては心」と説かれます。 無明と妄想によって見えるもの、それが色や形の因となります。 阿頼耶識（あらやしき）がその基盤となり、縁にしたがって様々な現象を現します。 まるで目に曇りがある人が、空中の花を誤って見るようなものです。 習気（しゅうけ）が心を濁らせることから、三界（さんがい）が現れ出ます。 眼識は阿頼耶識に依存して、様々な色や形を見ることができます。 例えば鏡の中の像のように、分別は外にあるのではありません。 見えるものはすべて自らの心であり、常なるものでも断滅するものでもありません。 阿頼耶識が変化して、世の中の現象を現し出します。 すべての現象の本質（法性）は平等であり、すべての現象が依拠する基盤です。 阿頼耶識は絶え間なく続き、末那識（まなしき）がそれを「我」と執着します。 様々な現象を集め起こす働きを「心」と言い、思量する性質を「意」と言い、 対象を識別する働きを「識」と言います。これらによって「すべては心」と説かれます。 心の外に存在するかのように見えるすべての対象は、毛輪（もうりん）や花などの誤った見解のようなものです。 執着する対象は実はどれもなく、すべては識の心が変化したものです。 色には色としての機能があり、すべて阿頼耶識に依存しています。 凡夫や愚か者は誤って分別し、それが真実に存在すると言います。 睡眠や昏醉の状態、歩く、止まる、座る、横になるという動作、 さらに行為やその働きも、すべて阿頼耶識に基づいて生じます。 有情（うじょう）の世界や器（うつわ）の世界は、自在な創造主によって作られたのではなく、 また神我（しんが）によって作られたのでも、世性（せしょう）や微塵（みじん）によって作られたのでもありません。 まるで木の中に火の性質があるように、存在していてもまだ燃えることはありませんが、 火打ち石によって火が生じ、これによって闇を打ち破ります。 相互に因果関係を巡らせながら、阿頼耶識がその依りどころとなります。 様々な識はそこから生じ、煩悩のある状態（有漏）も煩悩のない状態（無漏）も生じさせます。 大海が風の縁に出会って様々な波を起こすように、 目の前で働きが展開し、途切れることがありません。 阿頼耶識の海も同様で、境界という風に動かされ、 常に様々な識の波を起こし、途切れることがありません。 乳をかき混ぜないうちは、その中の酥（そ）は誰にも見えませんが、 努力を続ければ、ついに醍醐（だいご）を得ることができます。 阿頼耶識が誤った熏習（くんじゅう）によって、如来蔵（にょらいぞう）を覆い隠していますが、 修行を純熟させれば、正しい智慧が明らかになります。 様々な識が縁にしたがって変化し、本来の覚りの心（本覚心）が見えなくなりますが、 自己の覚りの智慧が現前するとき、真実の本性は常に動くことがありません。 まるで金が鉱石の中にあるように、石の中にあっては役に立ちませんが、 精錬して真の金を得ると、様々な荘厳な器具を作ることができます。 阿頼耶識の本性は清浄ですが、誤った識によって熏習されています。 大円鏡智（だいえんきょうち）が対応すれば、太陽が雲を晴らすように清らかになります。 もし「空」を修する者が、空に従って空を捉え、 空と色を別々に見るならば、それは真の観察者とは言えません。 色がすなわち空であり、色も空も捉えられないこと、 これこそが勝義の空であり、真の解脱者です。 客塵（きゃくじん）には実体がなく、無明が誤って分別するものです。 真実の相（実相）は有でも無でもなく、衆生は虚妄に見ているだけです。 まるで太陽や月の明るさが、その光を広く照らすように、 如来の清らかな蔵（如来蔵）は、すべての功徳を備えています。 真実と虚妄は互いに熏習し合い、まるで二頭の象が闘うようなものです。 弱い方は去って戻らず、虚妄が尽きれば来ることも去ることもありません。 蓮華の本性は汚れがなく、水から出て泥を離れます。 花が開くとき、見る者は皆、歓喜します。 如来の汚れのない識は、すべての習気を永遠に断ち切り、 清らかな智慧は円満に明らかで、聖者や賢者の帰依するところです。 まるで最も優れた宝に、もはや欠点や曇りがないように、 転輪聖王（てんりんじょうおう）が宝冠として、常に頂上に戴くものです。 如来の清らかな蔵は、永遠にすべての分別を離れ、 その本質は恒河沙（ごうがしゃ）の功徳を備え、諸仏の法身です。 真実の無漏の世界に住み、清らかな解脱の身であり、 寂滅は虚空の如く、法性に来たり去ったりはありません。 仏は三界の中に現れますが、生じることも滅することもなく、 この世界でも他方の世界でも、湛然として常に動きません。 平等な真実の法界において、仏と衆生は等しく、 断滅でも常住でもなく、大悲は永遠に尽きることがありません。 諸仏の法身の本性（法性身）は、本覚の自然の智慧であり、 これこそ真実の勝義諦であって、仏だけが証し知るものです。 自性の本質は生じることがなく、牟尼（むに）は本来寂静です。 三界に流転するすべてのものにとって、究極の帰依処です。 法には来たり去ったりする相がなく、過去・現在・未来の三世は常に寂静です。 真の三昧に住む者は、その法界の身を見ることができます。 清らかで思議を絶し、恒河沙の功徳を備え、 これこそが無漏の世界であり、諸仏の依りどころです。 仏には三種の身（三身）があり、その本質・相・働きは平等で、 非常に深く広大な本性であり、勝義には差別がありません。 無漏で変易することなく、すべての相を遠く離れ、 煩悩と所知障（しょちしょう）も、その本性は常に清らかです。 汚れがなく、執着もない、これこそが真の調御師（ちょうごし）です。 本性が清らかであることが涅槃であり、また法身の仏でもあります。 その本質は恒河沙の功徳を備え、汚れがなく思議を絶し、 六波羅蜜は常に円満であり、これこそが一切智（いっさいち）です。 広大で限りがなく、永遠に思考を断ち切り、 習気を断って菩提（ぼだい）を成就し、恒河沙の功徳を備えます。 すべての現象に自在であり、あらゆる姿を普く現し、 大悲の清らかな果報は、常にすべての衆生を利益します。 無漏で分別がなく、願いはすべて円満で、 まるで摩尼珠（まにしゅ）のように、色に応じてすべてを現すことができます。 例えば巧みな絵師が、様々な形を描くことができるように、 現れるすべての境界は、識の心が変化したものです。 衆生の様々な性質や欲望を、如来はすべて知ることができます。 法身は常に動かず、願いの力にしたがって縁に応じて現れます。 兜率天（とそつてん）に姿を現し、神の白象に乗って降り立ち、 王宮に生まれ、出家して苦行を修行し、 そのまま菩提樹の下に向かい、すべての魔や怨みを降伏し、 成仏して法輪（ほうりん）を転じ、あるいは涅槃の相を現します。 生滅があるように示されますが、真の身は常に動くことがありません。 鈍根（どんこん）で小さな法を好む者のために、方便として涅槃を説きます。 真如の法界の中には、涅槃という相はありません。 大悲をもって衆生の利益を喜び、彼らを導きます。 まるで偉大な商主のように、愚かな者たちを誘い導き、 菩薩の広大な心は、すべてを涅槃に入らせます。」

爾時微末底聞佛說已，身心適悅歡喜無量，從座而起整理衣服，右膝著地合掌恭敬，以妙伽他而讚佛曰：

> その時、微末底は仏の説法を聞いて、心身共に安らぎと静けさに満たされ、喜びも限りなかった。彼は座から立ち上がり、衣服を整え、右膝を地面につけて合掌し、敬意を込めて、見事な詩で仏を讃嘆した。

「墮在生死河， 邪見所纏縛，迦毘微野娑， 迦那仙外道。凡愚被昏弊， 邪見由是生，十力善逝尊， 慧日朗明照。或聞那羅延， 自在天等教，增長於貪著， 令心發狂亂。正見破諸暗， 是真如來教，我當至心聽， 歸依大聖尊。大梵身四臂， 四面蓮花生，演說四違陀， 增長於邪見。唯佛薄伽梵， 慧日大聖尊，能破我等疑， 真實歸依處。」

> 生死の河に堕ち、 邪見に縛られた者たち。 ガピ（迦毘）やミケーシャ（微野娑）や、 カナ仙人のような外道がいる。 凡夫は愚かさに覆われ、 そこから邪見が生まれる。 十力を持つ善逝（如来）の尊き方は、 智慧の太陽のように明るく照らす。 ある者はナーラーヤナ（那羅延）や、 自在天などの教えを聞き、 貪りを増長させ、 心を狂わせる。 正見がすべての暗闇を破る、 これこそ真の如来の教え。 私は心から聴こう、 大いなる聖尊に帰依しよう。 大梵天は四本の腕を持ち、 四面の顔を持つ蓮華から生まれ、 四つのヴェーダを説いて、 邪見を増長させる。 ただ仏陀・バガヴァンだけが、 智慧の太陽、大いなる聖尊であり、 我々の疑いを打ち破る、 真実の帰依処である。

時，微末底讚歎佛已而白佛言：「大聖世尊！我於今者得大善利，蒙佛慧日正智光明，邪見疑心一切都盡。我今歸依大聖世尊！」

> その時、微末底は仏を讃嘆し終えて、仏に申し上げました。 「大聖なる世尊よ。私は今、大きな善い利益を得ることができました。仏の智慧の太陽、正しい智慧の光明に照らされ、誤った見解や疑いの心はすべて消え去りました。私は今、大聖なる世尊に帰依いたします。」

復白佛言：「世尊！我今所以名微末底，為求異道心轉疑惑。今於佛前獲正法眼，滅疑惑心名蘇末底。我及弟子，同於今日歸佛法僧，修行大乘願無退轉，所得善利，迴施有情皆向佛道。」爾時薄伽梵為微末底說是法時，會中無量眾生發阿耨多羅三藐三菩提心，六十二那庾多菩薩證無生法忍。

> 再び仏に申し上げました。「世尊よ、私が今、微末底と名乗るのは、異なる道を求め心に迷いがあったからです。今、仏の御前で正法の眼を得て、迷いの心を滅したので、蘇末底と名乗ります。私と弟子たちは、本日共に仏・法・僧に帰依し、大乗の修行を退転なく願い、得た善き功徳を、全ての人々に施して仏道に向かいます。」 その時、薄伽梵（仏）が微末底のためにこの法を説かれたとき、会の中の数え切れないほどの衆生が、無上正等覚の心を発し、六十二那庾多の菩薩が無生法忍を証得しました。

「復次，慈氏！菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多，應修八法。云何為八？所謂蘊善巧、處善巧、界善巧、諦善巧、緣起善巧、三世善巧、一切乘善巧、一切法善巧。云何蘊善巧？謂觀色蘊猶如聚沫，愚人見之謂是白㲲，入水而取，其沫散滅不可撮摩。菩薩摩訶薩以正智慧見第一義，了色性空猶如聚沫。以是因緣，名正知見。復觀受蘊如水上泡，速起速滅、剎那不住。菩薩摩訶薩以正智慧見第一義，了受性空猶如水泡。以是因緣，名正知見。復觀想蘊猶如陽焰，如人熱渴遠見陽焰謂之為水，馳走尋覓近之則無。菩薩摩訶薩以正智慧見第一義，了相性空。以是因緣，名正知見。復觀行蘊猶如芭蕉，中無有堅，剝之不已竟無所得。菩薩摩訶薩以正智慧見第一義，知行性空。以是因緣，名正知見。復觀識蘊猶如幻化，如世幻師幻作金銀珍寶真珠瓔珞，求其實體了不可得。菩薩摩訶薩以正智慧見第一義，了識性空猶如幻化。以是因緣，名正知見。作是觀已，於諸有情起大悲心興拔濟意，如是觀察，名蘊善巧。復觀五蘊猶如幻夢，皆從妄想顛倒心生，無我、無人、無眾生、無壽命，非養育、非士夫，非補特伽羅、意生、儒童、作者、受者，以善巧方便了蘊性空，猶如夢想都不可得，是名菩薩摩訶薩蘊善巧智。復次，菩薩摩訶薩觀蘊如響，無我、無人乃至無作者、受者，如是蘊性如空谷響，屬諸因緣。如實了知，等無二相，是則名為菩薩摩訶薩蘊善巧智。復次，觀蘊如影，從業緣現，無我、無人乃至受者，如是影性了不可得，等無二相，是名菩薩摩訶薩蘊善巧智。復次，觀蘊如鏡中像，無我、無人乃至受者，如是鏡像非內非外，了不可得平等無二，是名菩薩摩訶薩蘊善巧智。復次，觀蘊從緣而有、如幻如化，無我、無人乃至受者，以善巧智如實了知，等無二相，是名菩薩摩訶薩蘊善巧智。復次，觀蘊是變壞相，無常、苦、空、無我、不淨，性本空寂、非壞非不壞，如實了知，名蘊善巧智。

> また、慈氏よ。菩薩大士が般若波羅蜜多を修行するならば、八つの法を修めるべきである。その八つとは何か。すなわち、蘊の善巧、処の善巧、界の善巧、諦の善巧、縁起の善巧、三世の善巧、一切乗の善巧、一切法の善巧である。 では、蘊の善巧とは何か。色蘊を観ずるに、それは泡の集まりのようなものである。愚かな人はそれを白い布だと思い込み、水中に手を入れて取ろうとするが、泡は散り去ってしまい掴むことはできない。菩薩大士は正しい智慧によって第一義を観じ、色の本性が空であり、泡の集まりのようなものであると了知する。このゆえに、正しい知見と名づける。 さらに、受蘊を観ずるに、それは水面の泡のようなものである。速やかに生じては速やかに滅し、一瞬の間もとどまらない。菩薩大士は正しい智慧によって第一義を観じ、受の本性が空であり、水面の泡のようなものであると了知する。このゆえに、正しい知見と名づける。 さらに、想蘊を観ずるに、それは陽炎のようなものである。例えば、暑さに渇いた人が遠くに陽炎を見て水だと思い、走り寄って探すが、近づけば何もないのと同じである。菩薩大士は正しい智慧によって第一義を観じ、想の本性が空であると了知する。このゆえに、正しい知見と名づける。 さらに、行蘊を観ずるに、それは芭蕉の木のようなものである。中に堅固なものはなく、いくら剥いても結局何も得られない。菩薩大士は正しい智慧によって第一義を観じ、行の本性が空であると了知する。このゆえに、正しい知見と名づける。 さらに、識蘊を観ずるに、それは幻術で作り出されたもののようなものである。世間の幻術師が金銀や宝玉、真珠の首飾りなどを幻術で作り出しても、その実体を求めれば決して得られないのと同じである。菩薩大士は正しい智慧によって第一義を観じ、識の本性が空であり、幻術で作り出されたもののようであると了知する。このゆえに、正しい知見と名づける。 このように観じてのち、すべての生きとし生けるものに対して大いなる慈悲の心を起こし、彼らを救い助けようという思いを起こす。このように観察することを、蘊の善巧と名づける。 さらに、五蘊はすべて幻や夢のようなものであり、すべて妄想や顛倒した心から生じるものであって、我もなく、人もなく、衆生もなく、寿命もない。養育する者もなく、士夫もなく、補特伽羅もなく、意生もなく、儒童もなく、作者もなく、受者もない。善巧な方便によって蘊の本性が空であると了知し、夢や幻想のようであって決して得られるものではない。これを菩薩大士の蘊善巧の智慧と名づける。 さらに、菩薩大士は蘊を響きのように観じる。我もなく、人もなく、作者もなく、受者もない。このような蘊の本性は、空っぽの谷の響きのように、様々な因縁に属している。これを如実に了知し、等しく二つの相がない。これを菩薩大士の蘊善巧の智慧と名づける。 さらに、蘊を影のように観じる。それは業という縁から現れるものであり、我もなく、人もなく、受者もない。このような影の本性は決して得られるものではなく、等しく二つの相がない。これを菩薩大士の蘊善巧の智慧と名づける。 さらに、蘊を鏡の中の像のように観じる。我もなく、人もなく、受者もない。このような鏡の像は内にも外にもなく、了知することも得ることもできず、平等であって二つの相がない。これを菩薩大士の蘊善巧の智慧と名づける。 さらに、蘊は縁によって存在し、幻や変化のようであると観じる。我もなく、人もなく、受者もない。善巧な智慧によって如実に了知し、等しく二つの相がない。これを菩薩大士の蘊善巧の智慧と名づける。 さらに、蘊は変化し壊れる相であり、無常であり、苦であり、空であり、無我であり、不浄であると観じる。その本性はもとより空しく寂滅しており、壊れるものでもなく、壊れないものでもない。これを如実に了知することを、蘊の善巧の智慧と名づける。

「復次，云何名為處善巧？謂觀眼處，耳、鼻、舌、身、意處，內法皆空。次觀色處，聲、香、味、觸、法處，外法亦空。以正智慧觀第一義，非內非外，名正知見，是則名為處善巧智。復有處善巧，所謂了眼、耳、鼻、舌、身、意處皆悉是空，亦無見、聞、覺知之相，名法處智。復有了法處智，了色、聲、香、味、觸、法處自性空寂，非眼、耳、鼻、舌、身、意處境界相，名了法處智。復有處善巧，謂眼處，耳、鼻、舌、身、意處，法性空寂、無我我所。色處，聲、香、味、觸、法處，法性皆空、無我我所，非相應非不相應，非善法非不善法，不增不減，無有二相，本來空寂，是名菩薩摩訶薩處善巧智。復有處善巧智，眼處色處本來清淨無染無著，眼處堅固寂然常住。如是耳聲、鼻香、舌味、身觸、意法，性本清淨無染無著，乃至意根堅固寂然常住不變，是名菩薩處善巧智。復次，云何名為處善巧？所謂聖人處非凡夫處，能生聖道，是名為處。凡夫邪行生於惡道，名為非處。菩薩摩訶薩住八聖道，起大悲心，令諸有情入正定聚，是則名為處善巧智。

> さらに、どのようなものを「処（ところ）の巧みな智慧」と呼ぶのか。それは、眼の処、耳・鼻・舌・身・意の処を観察し、内なる法はすべて空であると見抜くことである。次に、色の処、声・香・味・触・法の処を観察し、外なる法もまた空であると見抜く。正しい智慧をもって第一義（最高の真理）を観じ、内でも外でもないと知ることを、正しい知見と呼び、これを処の巧みな智慧と名づける。 また、処の巧みな智慧には、次のようなものもある。すなわち、眼・耳・鼻・舌・身・意のすべての処が、ことごとく空であり、見る・聞く・感じる・知るという相もないことを悟る。これを法処の智慧と名づける。さらに、法処を理解する智慧もある。色・声・香・味・触・法の処は、自らの本性として空であり静かで、眼・耳・鼻・舌・身・意の処の境界の相ではないと知る。これを法処を理解する智慧と名づける。 また、処の巧みな智慧には、次のようなものもある。すなわち、眼の処、耳・鼻・舌・身・意の処は、その法性（本質）が空であり静かで、「私」も「私のもの」もない。色の処、声・香・味・触・法の処も、その法性はすべて空であり、「私」も「私のもの」もない。それらは、対応するものでもなければ、対応しないものでもなく、善い法でもなければ、善くない法でもなく、増えることも減ることもなく、二つの相はなく、もともと空であり静かである。これを菩薩摩訶薩（大いなる菩薩）の処の巧みな智慧と名づける。 また、処の巧みな智慧には、次のようなものもある。眼の処と色の処は、もともと清らかで、汚れも執着もない。眼の処は堅固で、静かに常住している。耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法についても同様に、その本性はもともと清らかで、汚れも執着もなく、ついには意根までも堅固で、静かに常住し、変わることがない。これを菩薩の処の巧みな智慧と名づける。 さらに、どのようなものを処の巧みな智慧と呼ぶのか。それは、聖者の処であって凡夫の処ではなく、聖なる道を生み出すことができるものを、処と名づけるのである。凡夫の邪な行いは悪い道を生み出すので、これを非処と名づける。菩薩摩訶薩は八聖道に安住し、大いなる慈悲の心を起こして、すべての有情（生きとし生けるもの）を正しい悟りの境地へと導き入れる。これを処の巧みな智慧と名づけるのである。

「復次，云何名為菩薩界善巧智？謂觀眼界、色界、眼識界，無我亦不屬我，亦非眼界、色界、眼識為緣而起，乃至意界、法界無我，亦不繫屬於我，乃至意識界無我，亦非意識為緣而起，如是菩薩以正智慧觀第一義，知十八界性即是空、無我、無人，法界平等清淨不動，是名菩薩摩訶薩界善巧智。復有界善巧，所謂了法界智，了知地、水、火、風界性是空，堅、濕、暖、動皆不可得，同真際，等法性，是名菩薩摩訶薩了法界智。復有了法界智，了眼界乃至意界性空，色界乃至法界性空，眼識界乃至意識界性空，亦無見聞覺知分別之相，是則名為了法界智。

> 「また、菩薩の「界に関する巧みな智慧」とは何でしょうか。すなわち、眼の領域、色の領域、眼の認識の領域を観察して、それらに我（永遠の自己）はなく、我に属するものでもないと見ます。また、眼の領域、色の領域、眼の認識が縁（条件）となって生じるわけでもありません。同様に、意の領域、法の領域にも我はなく、我に属するものでもなく、意の認識の領域にも我はなく、意の認識が縁となって生じるわけでもありません。このように菩薩は正しい智慧をもって究極の真理（第一義）を観察し、十八界（六根・六境・六識）の本質は空であり、我も人もないと知ります。法の世界は平等で清らかであり、動くことがありません。これを菩薩（大士）の界に関する巧みな智慧といいます。 また、別の界に関する巧みな智慧があります。それは、法の世界を了知する智慧です。地・水・火・風の四大元素の本性が空であり、それらの堅さ、湿り、暖かさ、動きといった性質もすべて実体として捉えられないと知り、真実の際（真際）と同じであり、法の本性（法性）と等しいと理解します。これを菩薩（大士）の法の世界を了知する智慧といいます。 さらに、法の世界を了知する智慧とは、眼の領域から意の領域に至るまで、その本性が空であり、色の領域から法の領域に至るまで、その本性が空であり、眼の認識の領域から意の認識の領域に至るまで、その本性が空であり、見る、聞く、感じる、知るという分別の相もないと了知することです。これを法の世界を了知する智慧といいます。」

「復次，云何名為諦善巧？所謂四諦——苦、集、滅、道。觀此五蘊苦苦、行苦、壞苦，名苦聖諦智。了知無明增長五蘊，名集諦智。不起貪欲滅盡諸苦，名滅諦智。為此滅故修八聖道，名道諦智。是名菩薩摩訶薩諦善巧智。復有諦善巧，所謂知苦無生，名苦諦智。知集不起，名集諦智。了本不生今則無滅，名滅諦智。於不二相修中道觀，名道諦智。是則名為諦善巧智。復次，菩薩摩訶薩了知苦受空無自性，能觀正智亦復皆空，名苦中苦智。觀集緣起從緣幻有，能觀正智亦皆是空，名集中集智。知貪愛滅既本性空，正智現前清淨平等，名滅中滅智。知出苦道了不可得，正智觀察自性皆空，名道中道智。如是正智離諸分別，是名菩薩摩訶薩諦善巧智。復次，能知生苦體即無生，名苦中真智。知生集起集無和合，名集中真智。知生本無即無有滅，名滅中真智。知出苦道離有離無，是名道中真智。菩薩摩訶薩如實了知，名諦善巧。復有諦善巧，所謂三諦——世俗諦、勝義諦、實相諦。世俗諦者，謂一切世間語言文字、見聞覺知。勝義諦者，謂心行處滅無復文字，離於一切見聞覺知。實相諦者，所謂一切相即無相，如是無相即是實相。菩薩摩訶薩於俗不染，觀真不住，一相平等，是則名為菩薩摩訶薩諦善巧智。復有二諦，所謂世諦、真諦。世諦者，所謂一切世間色心等法，如實而見，稱實而知。真諦者，謂二空理，清淨湛然究竟寂滅，化之不厭，知真無取，無法可得，是名菩薩摩訶薩諦善巧智。復有一諦，謂即真如清淨法界，無生無滅、非斷非常，遠離二邊究竟安樂，於生無生心無二相，是名菩薩摩訶薩諦善巧智。

> 「また、どのようなことを真理に対する巧みな智慧と言うのでしょうか。それは、四つの真理——苦しみ、苦しみの原因、苦しみの消滅、消滅に至る道——です。この五蘊を観察して、苦しみそのものの苦しみ、移り変わる苦しみ、壊れゆく苦しみと見ることを、苦しみの聖なる真理を知る智慧と言います。無明が五蘊を成長させることを理解することを、苦しみの原因の真理を知る智慧と言います。貪りの欲を起こさず、すべての苦しみを消し尽くすことを、消滅の真理を知る智慧と言います。この消滅のために八つの聖なる道を修めることを、道の真理を知る智慧と言います。これが大菩薩の真理に対する巧みな智慧です。 また、別の真理に対する巧みな智慧もあります。苦しみに生じるものがないと知ることを、苦しみの真理を知る智慧と言います。原因が生じないと知ることを、原因の真理を知る智慧と言います。本来生じたことがないので、今は消滅することもないと悟ることを、消滅の真理を知る智慧と言います。二つではない相において中道の観察を修めることを、道の真理を知る智慧と言います。これを真理に対する巧みな智慧と呼びます。 さらに、大菩薩は苦しみの感受には実体がなく、それを観察する正しい智慧もまたすべて空であると理解します。これを苦しみの中の苦しみの智慧と言います。原因と縁起は縁に従って幻のように存在し、それを観察する正しい智慧もすべて空であると見ます。これを原因の中の原因の智慧と言います。貪りや愛執の消滅は本来空なる性質であり、正しい智慧が現れて清らかで平等であると知ります。これを消滅の中の消滅の智慧と言います。苦しみから出る道はつかみどころがなく、正しい智慧で観察すると自らの性質はすべて空であると知ります。これを道の中の道の智慧と言います。このような正しい智慧はあらゆる分別を離れています。これが大菩薩の真理に対する巧みな智慧です。 また、生の苦しみの本体がすなわち生まれないことであると知ることを、苦しみの中の真実の智慧と言います。生の原因が起こっても、原因には和合がないと知ることを、原因の中の真実の智慧と言います。生が本来ないのであれば、消滅もないと知ることを、消滅の中の真実の智慧と言います。苦しみから出る道は「有」も「無」も離れていると知ることを、道の中の真実の智慧と言います。大菩薩がこのように如実に知ることを、真理に対する巧みな智慧と言います。 また、別の真理に対する巧みな智慧もあります。それは三つの真理——世俗の真理、最高の真理、真実の相の真理——です。世俗の真理とは、あらゆる世間の言語文字、見ること・聞くこと・感じること・知ることを指します。最高の真理とは、心の働きが滅して文字もなく、あらゆる見聞覚知を離れた状態を指します。真実の相の真理とは、あらゆる相が無相であり、その無相こそが真実の相であることを指します。大菩薩は世俗に染まらず、真理にもとどまらず、一つの相として平等です。これを大菩薩の真理に対する巧みな智慧と言います。 また、二つの真理もあります。それは世俗の真理と真実の真理です。世俗の真理とは、あらゆる世間の物質や心などの現象を、あるがままに見て、実相にかなって知ることです。真実の真理とは、人と法の二つの空の理法であり、清らかで澄み渡り、究極的に静かに滅していることです。それを教え導いても厭わず、真理を知っても執着せず、得るべき法もありません。これを大菩薩の真理に対する巧みな智慧と言います。 また、一つの真理もあります。それは、すなわち真如・清らかな法界そのものであり、生じることもなければ滅することもなく、断絶でもなく常住でもなく、二つの極端を離れて究極の安らぎがあります。生と不生について心に二つの相がありません。これを大菩薩の真理に対する巧みな智慧と言います。」

「復次，云何名緣起善巧？菩薩摩訶薩觀察緣起流轉不斷，無明緣行，行緣識，識緣名色，名色緣六入，六入緣觸，觸緣受，受緣愛，愛緣取，取緣有，有緣生，生緣老死憂悲苦惱。菩薩以正智慧如實了知緣起無性，無生無滅，法性現前，無心無作、無主無攝，是名菩薩摩訶薩緣起善巧智。復次，所有善因不善因、動因不動因、生死因涅槃因，如此因等皆如實知。所有眾生利根、鈍根如是根性，如是因，如是緣，如是果報，如是本末，皆如實知。隨其因緣，生善修集而無所失，是名菩薩摩訶薩緣起善巧智。復次，妄想滅則無明滅，無明滅則行滅，行滅則識滅，識滅則名色滅，名色滅則六入滅，六入滅則觸滅，觸滅則受滅，受滅則愛滅，愛滅則取滅，取滅則有滅，有滅則生滅，生滅則老死愁歎苦憂惱滅。菩薩摩訶薩以正智慧了知緣起，無生無滅、無主無攝，是名緣起善巧智。

> また、どのようなものを縁起の巧みな智慧といいましょうか。菩薩大士は縁起の流れが絶えずめぐる様子を観察します。すなわち、無明を縁として行が生じ、行を縁として識が生じ、識を縁として名色が生じ、名色を縁として六入が生じ、六入を縁として触が生じ、触を縁として受が生じ、受を縁として愛が生じ、愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老いや死、憂い、悲しみ、苦しみ、悩みが生じます。 菩薩は正しい智慧によって、縁起には本質的な実体がなく、生じることも滅することもなく、真理の性質が目の前に現れており、心もなく、作為もなく、主体もなく、捉えるものもないと、あるがままに知ります。これを菩薩大士の縁起の巧みな智慧といいます。 さらにまた、善い因、善くない因、動く因、動かない因、生死の因、涅槃の因など、あらゆる因をあるがままに知ります。また、すべての衆生の鋭い根性、鈍い根性といった根性の違い、そのような因、そのような縁、そのような報い、そのような根源から結果に至るまでを、すべてあるがままに知ります。そして、その因縁にしたがって善を起こし、それを積み重ねて失うことがありません。これを菩薩大士の縁起の巧みな智慧といいます。 さらにまた、妄想が滅びれば無明が滅び、無明が滅びれば行が滅び、行が滅びれば識が滅び、識が滅びれば名色が滅び、名色が滅びれば六入が滅び、六入が滅びれば触が滅び、触が滅びれば受が滅び、受が滅びれば愛が滅び、愛が滅びれば取が滅び、取が滅びれば有が滅び、有が滅びれば生が滅び、生が滅びれば老い、死、嘆き、苦しみ、憂い、悩みが滅びます。 菩薩大士は正しい智慧によって、縁起を、生じることもなく滅することもなく、主体もなく捉えるものもないと知ります。これを縁起の巧みな智慧といいます。

「復次，慈氏！一切因緣，皆假和合無有自性，不從我、人、眾生、壽命而得生長，為是有情說如是法，無量無邊無有窮盡，如實了知，是名緣起善巧智。復次，菩薩摩訶薩了知一切緣生之法，無生無滅、無盡之相，此無盡相即菩提相，是名菩薩摩訶薩緣起善巧智。

> また、慈氏（弥勒）よ。すべての因縁は、仮の和合によって生じるものであり、本来、固有の性質（自性）を持たない。それは、「我」「人」「衆生」「寿者」という固定的な存在から生じるものではない。このような道理を、迷いある者たちのために説き明かす。その教えは無量無辺であり、尽きることがない。このことを如実に理解するならば、これを「縁起の善巧智」と呼ぶ。 さらに、菩薩摩訶薩は、縁によって生じるすべての法（現象）が、本来、生もなく滅もなく、尽きることのない相（すがた）であることを知る。この尽きることのない相こそが、菩提（覚り）の相である。これを、菩薩摩訶薩の「縁起の善巧智」と呼ぶのである。

「復次，云何三世善巧？謂念過去所有善法如實修行，不善之法常當遠離，如實知已，悉皆迴施一切有情，是名菩薩摩訶薩過去善巧智。復念未來所有善根菩提資糧，皆悉迴向一切智智，是名菩薩摩訶薩未來善巧智。復次，現在所有正念相應善法，不起邪念相應不善，是名菩薩摩訶薩現在善巧智。復次，觀於過去皆悉是空，現在、未來亦復皆空，三世平等，住第一義，是真解脫。復觀過去、現在、未來一切諸佛福德智慧，生隨喜心，是名菩薩摩訶薩三世善巧智。復觀過去已滅、未來未至、現在不住，三世善法所修勝行，悉願迴向無上菩提，現在善法剎那不住，而恒發起菩提之心，是名菩薩摩訶薩三世善巧智。復次，過去已滅，未來未至，現在不住，如是生滅念念不住，心常覺悟，是名菩薩摩訶薩三世善巧智。復次，菩薩不思議自在神通，能憶過去所種善根，現在所修諸善，未來覺心當願圓滿，願皆迴向無上菩提，是名菩薩三世善巧智。復次，為欲成就諸有情故，憶念過去所有善根，一切有情，隨彼彼根依願成就，所有供養未來諸佛，一切有情，隨彼彼根當來成就，所有現在一切有情，神通說法種種教化隨根成就。如是三世利益自他，圓滿菩提勝妙之行，是名菩薩三世善巧智。

> また、どのように三世に巧みであるのかというと、過去のすべての善法を思い起こし、如実に修行し、不善の法は常に遠く離れ、如実に知った後、すべてを一切の有情に回向する。これを菩薩摩訶薩の過去の巧みな智慧という。また、未来のすべての善根や菩提の資糧を思い起こし、すべてを一切智智に回向する。これを菩薩摩訶薩の未来の巧みな智慧という。また、現在のすべての正念に相応する善法を起こし、邪念に相応する不善を起こさない。これを菩薩摩訶薩の現在の巧みな智慧という。 さらに、過去はすべて空であり、現在も未来もまたすべて空であり、三世は平等であり、第一義に住する。これが真の解脱である。また、過去・現在・未来の一切の諸仏の福徳と智慧を観じ、歓喜の心を生じる。これを菩薩摩訶薩の三世に巧みな智慧という。 また、過去はすでに滅し、未来はまだ至らず、現在はとどまらないことを観じ、三世の善法によって修行された優れた行いを、すべて無上の菩提に回向しようと願い、現在の善法は刹那もとどまらないが、常に菩提心を起こし続ける。これを菩薩摩訶薩の三世に巧みな智慧という。 また、過去はすでに滅し、未来はまだ至らず、現在はとどまらない。このように生滅は刹那ごとにとどまらず、心は常に覚悟している。これを菩薩摩訶薩の三世に巧みな智慧という。 また、菩薩は不可思議な自在の神通力によって、過去に植えた善根、現在に修める諸々の善、未来に覚りの心を起こし、円満することを願う。これらすべてを無上の菩提に回向しようと願う。これを菩薩の三世に巧みな智慧という。 また、諸々の有情を成就させたいがために、過去のすべての善根を思い起こし、すべての有情は、それぞれの根機に従って願いに応じて成就する。未来の諸仏に供養するすべての行為も、すべての有情は、それぞれの根機に従って未来に成就する。現在のすべての有情に対しては、神通や説法による様々な教化によって、根機に従って成就させる。このように三世において自他を利益し、菩提の勝妙な行いを円満する。これを菩薩の三世に巧みな智慧という。

「復次，云何名三乘善巧？謂聲聞乘、獨覺乘、菩薩乘，依此三乘而求出離。云何菩薩摩訶薩於聲聞乘善巧智慧？遇佛出世，聞四諦法，因聲悟理，生正見故，是名聲聞。修淨戒故圓滿戒身，得禪定故圓滿定身，見諦理故得智慧、解脫、解脫知見身。是名菩薩摩訶薩於聲聞乘得善巧智。復有聲聞乘善巧，於三界中生疲倦想，於有為法深觀無常，見一切法悉皆無我，涅槃寂靜歡喜愛樂。復觀五蘊如怨賊，觀諸界如毒蛇，觀內六處如空聚，常願出離，樂於涅槃起依怙想，是名菩薩摩訶薩於聲聞乘而得善巧。復次，云何菩薩摩訶薩於獨覺乘善巧？謂厭諸有為，樂於出離，少欲知足，離諸戲論，樂居閑寂，於諸因緣自然覺悟諸法無常而得解脫，是名菩薩摩訶薩於獨覺乘善巧智。復次，云何菩薩摩訶薩於大乘法而得善巧？大乘功德無量無邊，悉令有情咸皆悟入彼最上乘無有障礙，無生無滅得大智慧，積集一切福德善根，一切有情所受用故；成就諸波羅蜜，令諸心行善調伏故；增長無上大菩提故；有大威力，詣菩提樹，坐於道場，觀眾生根大悲不捨，無障無礙普於一切，悉皆憐愍等如一子，能越一切惡道諸怖畏故；能令一切佛法皆現前故；摧伏外道諸魔怨故；建立菩提勝法幢故；能除斷常諸結使故；得佛如來無礙智故；豐益佛法諸珍寶故；隨根利益無錯失故；養育有情大悲成故；十力、無畏、不共佛法、相好功德瓔珞莊嚴無過失故。如是所有一切善巧，是名菩薩摩訶薩大乘善巧智。復次，一切諸佛之所乘故，具足七法佛為大乘，如轉輪王具足七寶。云何為七？所謂大觀察故、大隨順故、大智慧故、大精進故、大方便故、大證悟故、大事業故。大觀察者，菩薩摩訶薩親近善友聽聞正法，於一剎那悟一切法，實相現前。大隨順者，菩薩摩訶薩成就大智大定大悲，利益自他故。大智慧者，菩薩摩訶薩見真實相，我法皆空。大精進者，菩薩摩訶薩於無量阿僧祇劫，大悲萬行能成辦故。大方便者，菩薩摩訶薩得平等忍，不住生死、不證涅槃。大證悟者，菩薩摩訶薩證力、無畏、不共佛法無量無邊大功德故。大事業者，菩薩摩訶薩於生死中得大菩提，成就圓滿恒沙萬億佛事業故。具足如是七種勝法而為法王，是名菩薩摩訶薩大乘善巧智。

> また、どのように三乗の巧みな智慧（善巧智）と名づけるのか。それは、声聞乗、独覚乗、菩薩乗である。この三乗に依って、人は迷いからの解脱を求めるのである。 では、菩薩摩訶薩（大きな悟りを求める者）は、声聞乗について、どのように巧みな智慧を得るのか。仏がこの世に現れ、四つの真理（四諦）の教えを聞き、その声によって道理を悟り、正しい見解を生じさせること。これを声聞と名づける。清らかな戒律を修めることで戒律の完成（戒身）を得、禅定を得ることで心の統一（定身）を得、真理を見極めることで智慧、解脱、そして解脱した後の智慧と見解（解脱知見身）を得る。これを、菩薩摩訶薩が声聞乗において巧みな智慧を得た、と名づける。 また、別の声聞乗の巧みな智慧もある。三つの世界（三界）に倦み疲れた想いを抱き、現象世界（有為法）をよく観察して無常であると見抜き、すべてのものは自己（我）がないと観じ、涅槃の静けさを喜び愛好する。さらに、五つの集まり（五蘊）を盗人のような怨みの敵と見なし、十八の要素（諸界）を毒蛇のように見なし、内側の六つの感覚器官（内六処）を空っぽの集落のように見なし、常に解脱を願い、涅槃に安らぎと頼りを求める。これを、菩薩摩訶薩が声聞乗において巧みな智慧を得た、と名づける。 次に、菩薩摩訶薩は、どのように独覚乗について巧みな智慧を得るのか。それは、様々な現象に倦み、解脱を喜び求め、欲望が少なく満足することを知り、無意味な議論を離れ、静かな場所に住むことを好み、様々な縁（原因）によって自ら諸行無常の道理を悟り、解脱を得ることである。これを、菩薩摩訶薩が独覚乗において巧みな智慧を得た、と名づける。 次に、菩薩摩訶薩は、どのように大乗（菩薩乗）について巧みな智慧を得るのか。大乗の功徳は限りなく広大であり、すべての生きとし生けるものを、その最上の乗り物に妨げなく悟りへと導く。生まれもせず、滅びもせず（無生無滅）、大きな智慧を得て、一切の福徳と善い根を積み集め、それがすべての生きとし生けるものの享受するところとなる。様々な完成（波羅蜜）を成就し、心の働きをよく調伏させ、この上ない悟り（大菩提）を成長させる。大きな力を持ち、悟りの木（菩提樹）のもとに赴き、道場に座して、生きとし生けるものの根機を観察し、大いなる慈悲をもって見捨てることなく、障りなく隔てなくすべてのものに対して、一人の子を愛するように等しく憐れみ、あらゆる悪い道への恐れを乗り越えさせる。すべての仏の教えを目の当たりにさせ、外道や魔の怨みを打ち倒し、悟りの勝利の旗を打ち立て、断見や常見という煩悩を除き去り、仏の如き妨げのない智慧を得させ、仏法という宝を豊かにし、その根機に応じて利益を誤りなく与え、大いなる慈悲によって生きとし生けるものを育て、十の力（十力）、四つの恐れのなさ（四無畏）、仏だけが持つ特別な性質（不共法）、そして相好の功徳という宝飾で飾られ、欠けるところがない。このようなすべての巧みな智慧を、菩薩摩訶薩の大乗の巧みな智慧と名づける。 さらに、すべての仏が乗り物として用いるものであり、七つの法を備えて、仏は大乗となる。それは、あたかも転輪聖王が七つの宝を備えるのと同じである。その七つとは何か。すなわち、大いなる観察、大いなる随順、大いなる智慧、大いなる精進、大いなる方便、大いなる悟り、大いなる事業である。 大いなる観察とは、菩薩摩訶薩が善き友（善知識）に親しく近づき、正しい教えを聞き、一瞬のうちにすべての法の真実の姿（実相）を悟ることである。 大いなる随順とは、菩薩摩訶薩が大きな智慧と大きな定（禅定）と大きな慈悲を成就し、自他を利益することである。 大いなる智慧とは、菩薩摩訶薩が真実の姿を見て、自己（我）も現象（法）もともに空であると悟ることである。 大いなる精進とは、菩薩摩訶薩が無量の長い時間（阿僧祇劫）をかけて、大いなる慈悲による無数の修行を成し遂げることである。 大いなる方便とは、菩薩摩訶薩が平等の忍び（等忍）を得て、迷いの世界（生死）に留まらず、かといって悟りの世界（涅槃）にも執着しないことである。 大いなる悟りとは、菩薩摩訶薩が、十力、四無畏、不共法という、限りなく広大な功徳を証得することである。 大いなる事業とは、菩薩摩訶薩が迷いの世界にあって大きな悟りを得て、川の砂の数ほどもある無数の仏の事業を成就し、円満にすることである。 このように、七つの優れた法を備えて法王となること。これを、菩薩摩訶薩の大乗の巧みな智慧と名づける。

「復次，云何一切法善巧？謂有為、無為。菩薩於此二法巧便最勝，於身善行、口善行、意善行清淨增長，迴向無上正等菩提，是名菩薩有為善巧智；菩薩於身、口、意具三無作，清淨平等，迴向無上正等菩提，是名菩薩無為善巧智。復有善巧，謂菩薩摩訶薩於布施、持戒乃至靜慮增長修習，迴向無上正等菩提，是名菩薩有為善巧智；復以般若波羅蜜多，離一切相修諸波羅蜜多，迴向無上正等菩提，是名菩薩摩訶薩無為善巧智。復有善巧，以方便智行四攝法攝取眾生，是名菩薩摩訶薩有為善巧智；復有善巧，住第一義，雖攝眾生而無取著，迴向菩提，是名菩薩無為善巧智。復有善巧，了知煩惱增長生死，菩提分法斷絕生死，是名菩薩有為善巧智；復次知空、無相、無願三解脫門，能於無上正等菩提，決定平等、無二無別、無有退轉，是名菩薩無為善巧智。復次有為善巧，行於三界不著三界，是名菩薩有為善巧智；了知三界性皆是空，如幻如化而不取著，是名菩薩無為善巧智。復次，如是了知法性清淨無相無名，具一切智，名為實智；為度眾生假名方便，如是分別，是名權智。菩薩摩訶薩於此八法二智自在，名為般若波羅蜜多。復次，悉能了知一切法性，名為智慧；所有觀察善不善法，名為方便；隨順解脫離諸分別，聖智現前，名為般若波羅蜜多。復能如是善巧分別諸見結使，以奢摩他、毘鉢舍那如是拔除，是名方便；而能圓滿無上大願，是名智慧。除彼熱惱使得清涼，是名方便；能解煩惱性不可得，是名智慧。除身心苦得輕安樂，是名方便；遊法園苑得念總持，理智現前，是名智慧。與諸有情作依止處，是名方便；能依所依無住無著，是名智慧。獲三十七菩提分法，是名方便；應常離念而與實相智慧相應，得大法樂，是名智慧。復能生長五波羅蜜，是名方便；隨所樂乘同歸佛慧，自性照明，是名智慧。能度一切生死瀑流，是名方便；實無眾生得滅度者，是名智慧。建立正行，是名方便；見本性空，是名智慧。除客煩惱，是名方便；善能覺悟智性無染，是名智慧。行無所行，是名方便；悟於法空，是名智慧。不著三界，是名方便；令諸菩薩了第一義，是名智慧。攝諸眾生行於萬善，是名方便；一切賢聖同一法界，是名智慧。隨其根性除妄分別，是名方便；見本清淨寂滅無生，是名智慧。能起方便斷滅癡闇，是名方便；深入禪定不住禪定，是名智慧。誘導二乘，是名方便；除斷法執入佛知見，是名智慧。隨眾生根令生勝解，是名方便；了根性空，是名智慧。超妄境界，是名方便；示勝義諦，是名智慧。權說四諦，是名方便；於諸修行了不可得，是名智慧。勤求功德悲願無盡，是名方便；了應非真不來不去，法界平等，是名智慧。隨緣普示教化一切，是名方便；了煩惱性本來解脫，是名智慧。了知結使虛妄分別，是名方便；了眾生心本來寂靜，是名智慧。勸令修斷隨眠習氣，是名方便；一切眾生心行差別，八萬四千諸塵勞門即佛慧門，是名智慧。聲聞、緣覺善巧勸修漸入佛道，是名方便；菩薩修行如是般若波羅蜜多，疾證阿耨多羅三藐三菩提，是名般若波羅蜜多。」

> 「さらに、すべての法について巧みに理解するとは何か。それは、有為と無為である。菩薩はこの二つの法について最も優れた巧みな智慧を持つ。身体の善行、言葉の善行、心の善行を清らかに成長させ、それを無上なる正等覚（あのくたらさんみゃくさんぼだい）へと回向する。これを菩薩の有為の巧みな智慧という。菩薩が身体・言葉・心において三つの無作（つくるところのない行い）を具え、清らかに平等であり、それを無上なる正等覚へと回向する。これを菩薩の無為の巧みな智慧という。 さらに別の巧みな智慧もある。すなわち、菩薩摩訶薩（ぼさつまかさつ）が布施、持戒、さらに静慮（じょうりょ）に至るまでを増長し修習し、それを無上なる正等覚へと回向する。これを菩薩の有為の巧みな智慧という。また般若波羅蜜多（はんにゃはらみった）をもって、すべての相を離れて諸々の波羅蜜多を修し、それを無上なる正等覚へと回向する。これを菩薩摩訶薩の無為の巧みな智慧という。 さらに別の巧みな智慧もある。方便の智慧をもって四摂法（ししょうほう）を行い、衆生を摂取する。これを菩薩摩訶薩の有為の巧みな智慧という。さらに別の巧みな智慧として、第一義（だいいちぎ）に安住し、衆生を摂取しながらも執着せず、それを菩提へと回向する。これを菩薩の無為の巧みな智慧という。 さらに別の巧みな智慧もある。煩悩が生死を増長させ、菩提分法（ぼだいぶんぽう）が生死を断絶することを了知する。これを菩薩の有為の巧みな智慧という。次に、空・無相・無願の三解脱門（さんげだつもん）を知り、それが無上なる正等覚において決定的に平等であり、二つなく別なく、退転することがないと了知する。これを菩薩の無為の巧みな智慧という。 次に、有為の巧みな智慧として、三界（さんがい）において行じながらも三界に執着しない。これを菩薩の有為の巧みな智慧という。三界の本質はすべて空であり、幻や化のようであって執着すべきでないと了知する。これを菩薩の無為の巧みな智慧という。 次に、このように法の本質は清らかで、相も名前もなく、一切の智慧を具えることを真実の智慧（実智）という。衆生を救うために仮に名前や方便を設けて、このように分別することを仮の智慧（権智）という。菩薩摩訶薩がこれら八つの法と二つの智慧において自在であること、これを般若波羅蜜多という。 次に、すべての法の本質をことごとく了知することを智慧という。あらゆる善・不善の法を観察することを方便という。解脱に随い、あらゆる分別を離れ、聖なる智慧が現前することを般若波羅蜜多という。 さらに、このようにして諸々の見解や煩悩の束縛（結使）を巧みに分別し、奢摩他（しゃまた、止）と毘鉢舎那（びばっしゃな、観）によってそれを抜き除くことを方便という。そして無上の大いなる願いを円満に成就することを智慧という。熱悩を取り除いて清涼を得させることを方便という。煩悩の本質は得ることはできないと解することを智慧という。身と心の苦しみを取り除き、軽やかな安楽を得ることを方便という。法の園林に遊び、念（ねん）と総持（そうじ）を得て、理と智が現前することを智慧という。 諸々の有情のために依り所となってあげることを方便という。能依・所依ともに住するところなく執着もないことを智慧という。 三十七菩提分法（さんじゅうしちぼだいぶんぽう）を得ることを方便という。常に念を離れ、実相の智慧と相応し、大いなる法の楽しみを得ることを智慧という。 さらに、五波羅蜜（ごはらみつ）を生長させることを方便という。それぞれの好む乗り物に従って、みな仏の智慧に帰し、自らの本性が照らし明らかであることを智慧という。 すべての生死の激流を渡ることを方便という。実際には滅度されるべき衆生などいないと知ることを智慧という。 正しい行いを建立することを方便という。本性が空であることを見ることを智慧という。 客塵の煩悩を取り除くことを方便という。智慧の本質は汚れていないとよく覚悟することを智慧という。 行じるところなく行じることを方便という。法が空であると悟ることを智慧という。 三界に執着しないことを方便という。諸々の菩薩に第一義を了知させることを智慧という。 諸々の衆生を摂取し、万善（まんぜん）を行じることを方便という。すべての賢聖が同一の法界（ほっかい）であることを智慧という。 その根機（きき）に従い、虚妄の分別を取り除くことを方便という。本来清らかで、寂滅して無生（むしょう）であると見ることを智慧という。 方便を起こして愚痴の闇を断ち滅ぼすことを方便という。深く禅定に入りながらも禅定に留まらないことを智慧という。 声聞・縁覚を誘い導くことを方便という。法への執着を除き断って、仏の知見に入ることを智慧という。 衆生の根機に従って勝れた理解を生じさせることを方便という。根機の本質が空であると了知することを智慧という。 虚妄の境界を超えることを方便という。勝義諦（しょうぎたい）を示すことを智慧という。 仮に四諦（したい）を説くことを方便という。あらゆる修行について得るべきものはないと了知することを智慧という。 功徳を勤め求め、悲願が尽きることないことを方便という。応現（おうげん）は真実ではなく、来ることも去ることもなく、法界は平等であると了知することを智慧という。 因縁に従って、あまねく一切を教化することを方便という。煩悩の本性はもとより解脱していると了知することを智慧という。 結使（けっし）は虚妄の分別であると了知することを方便という。衆生の心はもとより寂静であると了知することを智慧という。 勧めて随眠（ずいめん）や習気（じっけ）を修し断たせることを方便という。一切の衆生の心行の差別、八万四千の塵労門（じんろうもん）がすなわち仏の智慧の門であると知ることを智慧という。 声聞・縁覚を巧みに勧めて、徐々に仏道に入らせることを方便という。菩薩がこのように般若波羅蜜多を修行すれば、速やかに阿耨多羅三藐三菩提（あのくたらさんみゃくさんぼだい）を証得する。これを般若波羅蜜多という。」

佛說此摩訶般若波羅蜜多時，會中三十二俱胝菩薩摩訶薩得無生法忍，七十萬八千眾生發阿耨多羅三藐三菩提心。此會大眾，各以種種妙花、寶幢、幡蓋諸莊嚴具，瞻蔔花香供養般若波羅蜜多，散於如來及慈氏菩薩摩訶薩等諸菩薩上。一切諸天於虛空中作天妓樂，種種歌頌讚歎如來，於無量劫成就菩提無邊功德。

> 仏がこの摩訶般若波羅蜜多を説かれた時、その法会の中の三十二俱胝の菩薩摩訶薩は無生法忍を得、七十万八千の衆生は阿耨多羅三藐三菩提心を起こしました。この法会の大衆は、それぞれ様々な妙なる花や宝幢、幡蓋などの荘厳な道具や、瞻蔔花の香りをもって般若波羅蜜多を供養し、如来および慈氏菩薩摩訶薩などの諸菩薩の上に散りまきました。すべての諸天は虚空の中で天の音楽を奏で、様々な歌や頌をもって如来を称賛し、無量の劫の間、菩提を成就した限りない功徳をたたえました。

爾時佛告一切大眾：「慈氏菩薩摩訶薩！汝等能問甚深般若波羅蜜多，大乘功德無盡法門不可思議。彼諸會眾聞是經者，亦當圓滿如是功德。若聞是經生信解心，受持讀誦書寫解說，如是等人利益無量不可思議，亦非譬喻算數之所能及。」

> その時、仏はすべての大衆に告げられました。 「慈氏菩薩摩訶薩よ。あなた方が、この深遠なる般若波羅蜜多、大乗の功徳の尽きることのない法門の不可思議さについて問うたことは、素晴らしいことです。 この経を聞く集いの人々もまた、このような功徳を円満に成就するでしょう。 もしこの経を聞いて、信じ理解する心を起こし、自ら受持し、読み誦し、書き写し、人に説き明かすならば、そのような人々が得る利益は無量で不可思議であり、例えや計算で計ることのできるものではありません。」

爾時薄伽梵解絡掖衣，授與慈氏而作是言：「善哉，善哉！善男子！汝能問此甚深般若波羅蜜多，一切十方諸佛如來悉皆隨喜。」

> そのとき、世尊は絡掖衣を解いて、慈氏（弥勒菩薩）に授けて、こうおっしゃいました。「善きかな、善きかな。善男子よ、あなたがこの深遠なる般若波羅蜜多について問うことを、すべての十方の諸仏・如来たちもまた、皆ともに喜んでいる。」

時慈氏菩薩受佛衣已，頂戴尊敬而作是言：「此衣即是如來真身制底，一切天，龍，人非人等皆應作禮，右遶恭敬種種供養。」

> 時に慈氏菩薩は仏の衣を受けると、それを頭頂に戴いて敬い、このように述べられた。「この衣こそ如来の真の御身であり、法の拠り所でございます。天や竜、人や人ならざる者など、すべての者が礼拝し、右に巡り、敬いの心でさまざまな供養を捧げるべきものでございます。」

爾時，大眾忽見無量雜花、寶鬘、幡蓋從十方來，住佛頂上，在虛空中，須臾之間遍覆大會慈氏菩薩大眾之上。又於幡蓋供養具中，出大音聲讚言：「善哉，善哉！慈氏菩薩摩訶薩！快問斯義。我等深心隨喜供養。」

> その時、参会者たちは突然、無数の様々な花や宝の花飾り、旗や蓋物が十方から来て、仏の頭上に留まり、虚空の中で瞬く間に、慈氏菩薩とその大衆の上を覆うのを見ました。また、その旗や蓋物などの供養具の中から、大きな声で「善きかな、善きかな。慈氏菩薩よ、よくこの義を問うた。我らは心から喜び、供養する」と賛嘆する声が聞こえてきました。

爾時，舍利弗白佛言：「世尊！此等花鬘、幡蓋從何而來，出是音聲讚歎隨喜？」

> その時、舎利弗が仏に申し上げました。「世尊よ、これらの花の飾りや幢蓋（とうがい）は、どこから来て、このような音声で称賛と共に喜びを讃えているのでしょうか？」

爾時薄伽梵告舍利弗言：「善男子！此慈氏菩薩於過去世行菩薩行，度脫無量百千萬億諸眾生等，于今有住菩薩不退地者，或在聲聞、獨覺、人、天之中，彼諸眾生以宿因緣，於十方界各以種種寶花鬘蓋，供養般若波羅蜜多經及佛如來，讚歎慈氏如是功德，有是音聲。」

> その時、尊き仏は舎利弗に告げられた。「善きかな、この慈氏菩薩は過ぎ去った世において菩薩としての道を歩み、数えきれないほどの多くの生きとし生けるものを救い導いてきた。今もなお、菩薩の不退転の位にとどまる者もいれば、声聞や独覚、人々、天人の間にいる者もいる。それらの者たちは、過去の因縁によって、十方の世界でそれぞれ様々な宝の花や鬘、蓋を持って、般若波羅蜜多の経典と仏である如来に供養し、慈氏のこのような功徳を称賛している。そのような音声があるのだ。」

說此語已，一切眾會於慈氏菩薩摩訶薩所，深生尊重，咸作是言：「我等今日得大善利，得見是人親近供養，於如來所得聞是經。世尊！此諸眾生得聞佛名及慈氏菩薩摩訶薩名，尚得無量無邊功德，何況親於佛前得聞是經信解受持。」

> この言葉を聞いて、会場に集まったすべての人々は、慈氏菩薩摩訶薩に対して深く敬いの心を起こし、口をそろえてこう言いました。「私たちは今日、この上ない幸運を得ました。この方に出会い、親しく供養し、如来のもとでこの経典を聞くことができたのです。世尊よ、これらの人々は、仏の御名と慈氏菩薩摩訶薩の御名を聞くだけでも、計り知れない功徳を得ることができます。ましてや、仏の御前でこの経典を聞き、心から信じ、理解し、受持するならば、なおさらのことでしょう。」

爾時世尊告舍利弗：「若有善男子、善女人，於一劫中種種布施——金、銀、瑠璃、珊瑚、瑪瑙、真珠、摩尼、頭目髓腦無所悋惜——護持禁戒，安忍精進，修諸禪定，若聞此經一四句偈，我說此人成就大乘般若波羅蜜多，而此功德勝前功德。若離此法，諸波羅蜜悉不成就。舍利弗！以是因緣，若善男子、善女人，聞此經典信解受持思惟修習，我說是人速能成就無上菩提，當知是人則為已得諸佛如來菩提法印。舍利弗！若有菩薩說此經時，應發是願：『我今應當諷誦此經，廣為人說。』能生此念，即名圓滿檀波羅蜜。何以故？一切施中法施最勝。若持此經守護法身，即是圓滿戒波羅蜜；順無生忍，亦即名為忍波羅蜜；如理不懈，此即名為精進波羅蜜；安住寂滅，此即名為靜慮波羅蜜；得自然慧不由他悟。是即名為般若波羅蜜。舍利弗！若復有人受持此經四句偈等，速能圓滿無上菩提。若諸菩薩持此法要，讀誦書寫或持經卷，所在之處則為有佛，當知是人已得如來一切法藏。若有受持此經典者，形雖差別，而菩提心無有二相。何以故？舍利弗！此經則是不退菩提實相法印。以是當知，若諸菩薩隨順此經，當知是人得不退轉無上菩提。若諸菩薩隨順此經，當知則是隨順一切佛法。」

> その時、世尊は舎利弗に告げられた。 「もし善男子・善女人が、一劫の間、金・銀・瑠璃・珊瑚・瑪瑙・真珠・摩尼などの財宝や、自らの頭・目・髄・脳に至るまで、惜しみなく施しを行い、戒律を守り、忍辱・精進に励み、様々な禅定を修めても、この経典のたった一つの四句偈を聞けば、わたしはこの人こそが大乗の般若波羅蜜多を成就した者であると説く。そして、その功徳は先の功徳よりも勝れているのである。 この教えから離れては、いかなる波羅蜜も成就することはない。 舎利弗よ、それゆえに、もし善男子・善女人が、この経典を聞いて、信解し、受持し、心に思い、修行に励むならば、わたしはこの人は速やかに無上の悟りを成就できると説く。知るがよい、この人はすでに諸仏如来の悟りの法の印を得たのである。 舎利弗よ、もしある菩薩が、この経典を説くときには、このように願うべきである。 『わたしは今、この経典を読誦し、広く人々のために説こう。』 このような思いを起こすこと、これをこそ布施の波羅蜜の完成というのである。 なぜか。すべての施しの中で、教えを施すことが最も勝れているからである。 もしこの経典を受持して、真理の宝を守るならば、これが戒めの完成である。 怒りのない心に従うこと、これが忍辱の完成である。 道理に従って怠らないこと、これが精進の完成である。 静かな滅びの境地に安らぐこと、これが瞑想の完成である。 他から教わることなく、自ずから智慧を得ること、これが智慧の完成である。 舎利弗よ、もし人がこの経典の四句偈などを、受持するならば、速やかに無上の悟りを完成することができる。 もし諸々の菩薩が、この教えの要点を受持し、読誦し、書き写し、あるいは経巻を身に帯びるならば、その場所には仏がいると知るべきである。この人はすでに如来の全ての教えの宝を得たのである。 この経典を受持する者は、姿かたちは人それぞれであっても、悟りへの心に二つとない。 なぜか。舎利弗よ、この経典こそ、退くことのない悟りの真実の教えの証しだからである。 それゆえ知るがよい。もし諸々の菩薩がこの経典に従うならば、この人は退くことのない無上の悟りを得ると知るべきである。 もし諸々の菩薩がこの経典に従うならば、それはすなわち、すべての教えに従うことである。」

爾時，護世四天大王及諸眷屬，悉皆合掌尊重恭敬，一心正念而白佛言：「世尊！我等四王，今為如來作護正法眾。若善男子、善女人，持此經者即是法師，我當承事供養恭敬，如佛無異。何以故？一切諸佛及大乘法，皆從此經出故。」

> その時、この世界を守護する四天王とその眷属たちは、皆、合掌し深く敬意を表し、心を一つにして仏に申し上げました。「世尊よ。私たち四天王は、今、如来のために正しい教えを守る集いとなりました。もし善き男子や善き女性が、この経典を保つならば、その人はまさに説法師です。私たちはその人を、仏と異なることなく、丁重に仕え、供養し、敬うべきです。なぜなら、全ての仏陀と大乗の教えは、皆、この経典から生まれるからです。」

爾時天帝釋白佛言：「世尊！我雖從佛得聞餘經，未曾得聞如是甚深最勝經典。我今堪任與諸天眾，隨此經典所在國土、城邑、聚落、山林、樹下空閑之處，有受持讀誦書寫解說，我等諸天為作聽眾。以是經故，令彼國王后妃眷屬色力增盛永無憂患，大臣卿相一切人民及說法師，我等常當共作擁護令無衰患，令諸國界陰陽順序無諸愆失，一切怨敵無能侵害，稼穡成熟人民安樂，增彼法師色力辯才自在無礙，又令法師處大眾中得大無畏，如師子王廣為他說。」

> その時、天帝（たいてい）＝釈提桓因（しゃくだいかんいん）は仏に申し上げました。 「世尊よ、私はこれまで仏から様々な経典を聞いてきましたが、これほど深く、この上なく勝れた経典を聞いたことはございません。 私は今、天の衆（しゅう）たちと共に、この経典のある国、町、村、山、林、木の下の静かな場所で、この経典を受け持ち、読誦（どくじゅ）し、書き写し、説き明かす者がいるところには、どこへでもお仕えし、その説法を聴く者となりましょう。 この経典のおかげで、その国の王様や皇后、その家族の皆さまの気力も体力も増し、永遠に悩みや苦しみがなくなりますように。大臣や高官、すべての人民、そして説法する僧侶の方々も、私たちは常に一緒に守り、衰えや苦しみがないようにいたしましょう。 そして、すべての国々で、自然の恵みが順調に巡り、災いや失敗がなく、すべての敵が侵入できず、作物が実り、人民が安らかに暮らせますように。さらに、説法する僧侶の気力、体力、そして言葉の力が自在に、妨げなく輝きますように。 また、その僧侶が大勢の人々の中で、獅子の王のように一切の恐れなく、広く教えを説くことができますように。」

爾時薄伽梵告天帝言：「善哉，善哉！憍尸迦！汝於此經及說法師，如是擁護令無衰患。汝今當知，若護法師則是護法，若護法者則護國土及一切眾生。」

> その時、尊き師は天帝に告げられました。 「よきかな、よきかな。憍尸迦よ。 あなたがこの経典と説法する師を、このように守り、衰えや災いから護るとは。 さあ、よく聞きなさい。説法者を護ることは、すなわち教えを護ること。 そして教えを護ることは、すなわち国土とすべての生きとし生けるものを護ることなのです。」

爾時，索訶世界主大梵天王白佛言：「世尊！我與梵眾天等捨禪定樂，隨此經典及說法師所在之處，我當往彼為現四相，令彼法師知我等來。云何為四？一者見大光明，二者聞有異香，三者令彼法師辯才無礙，四者令諸聽眾專念一心。以此四相，知我在會聽聞正法為作擁護。」

> その時、この娑婆世界の主である大梵天王が仏に申し上げました。「世尊よ、私は梵天の天衆たちと共に禅定の楽しみを捨てて、この経典と説法の師がおられる所に参ります。そしてそこに赴いて、四つのしるしを現し、その説法師に私たちが来たことを知らせます。四つのしるしとは何か。第一に、大きな光明を見ること。第二に、特別な香りを嗅ぐこと。第三に、その説法師に弁才が自在に湧き出ること。第四に、聴聞する人々が一心に集中することです。この四つのしるしによって、私がその場にいて正しい法を聴き、守護していることを知ってください。」

爾時魔王波旬白佛言：「世尊！佛說此經，令我宮殿皆無光色、震動不安，力勢衰損。所以者何？以諸菩薩摩訶薩聽此經故，若此經典在在處處，有善男子、善女人等，受持此經乃至一偈一句，一經於耳信解受持，當知此人已受阿耨多羅三藐三菩提記，當紹佛位。」

> その時、悪魔パーピーヤンが仏に申し上げました。「世尊よ。仏がこの経典をお説きになったため、私の宮殿はすべてその輝きを失い、揺れ動いて安らかではなくなり、私の力や勢いも衰えてしまいました。なぜでしょうか。それは、多くの菩薩たちがこの経典をお聴きになったからです。また、この経典がとどまるところ、どこであれ、善き男性や善き女性などの人々が、この経典を受け持ち、たとえわずか一つの詩句や一文であっても、一度耳にして信じ、理解し、受け持つならば、その人はすでに無上正等覚（アヌッタラ・サンミャク・サンボーディ）の記別（未来成仏の予言）を受け、仏の位を継ぐことになると知るべきでございます。」

爾時魔王波旬白佛言：「世尊！彼善男子、善女人，以受持是經，令我眷屬威德勢力悉皆摧滅。若有人受持讀誦書寫解說此經典者，所在之處，我等誓願常作擁護，不起一念障礙之心。」

> その時、魔王パーピーヤンが仏に申し上げました。「世尊よ、あの善男善女がこの経典を受持することにより、私の眷属の威徳や勢力はすべて打ち砕かれてしまいます。もしこの経典を受持し、読誦し、書き写し、解説する者がいるなら、その場所には、私たちが常に守護し、一瞬の妨げの心も起こさないことを誓います。」

爾時薄伽梵告舍利弗：「汝當於未來世受持讀誦流布此經，為令正法得久住故。」

> その時、尊き師は舎利弗に告げられた。「あなたは未来の世において、この経典を受持し、読み誦し、広く世に伝えなさい。それは、正しい教えを長く世に留めるためである。」

舍利弗言：「唯然，世尊！我當受持。」

> 舎利弗が言いました。「はい、世尊よ。私が必ずお受けいたします。」

復告阿難言：「汝當受持讀誦流布此經。」

> また阿難に告げられました。「あなたはこの経典を受け持ち、読誦し、広く世に伝えなさい。」

阿難陀言：「唯然，世尊！我當受持。我等雖能奉行，不得如諸菩薩廣宣流布。」

> 阿難陀が申し上げました。「はい、世尊よ。私はこの教えを心に留め、守り伝えてまいります。けれども、私たちはこの教えを実践することはできても、諸々の菩薩のように広く説き広めることはできないのです。」

佛告阿難：「勿憂此經不能流布，無量菩薩摩訶薩盡在此會，悉願傳通。」

> 仏は阿難に告げられた。「この経典が広まらないことを心配してはならない。数え切れないほどの菩薩たちがこの場に集まっており、皆がこの経を広く伝え弘めることを願っているのだから。」

會中有六十俱胝菩薩摩訶薩，為欲護持此經典故，從座而起白佛言：「大聖世尊！我等誓當於十方界流通此經。此索訶世界自有慈氏宣布是經不令斷絕，若佛滅後後五百歲，有諸眾生於此經典，暫得聽聞一經於耳，當知此人佛所記別。受持此經一偈一句，當知皆是慈氏菩薩摩訶薩威神之所建立。」

> 会の中に六十俱胝（六百億）の菩薩摩訶薩がおられました。彼らはこの経典を守り伝えたいとの願いから、座を立って仏に申し上げました。 「大聖世尊よ。私たちは誓って、十方の世界でこの経を広めます。このサハ世界では、弥勒菩薩ご自身がこの経を宣布し、絶やされることなく伝えていかれます。もし仏が滅度された後、後五百歳の時代に、众生の中でこの経典をほんの一度でも耳にした者がいるなら、その人は仏によって未来に成仏することが予言された者だと知るべきです。また、この経の一偈一句を受持する者は、すべて弥勒菩薩摩訶薩の威神の力によるものであると知るべきです。」

爾時薄伽梵告諸菩薩言：「善哉，善哉！善男子！汝等今於我所護持此經，當於無量殑伽沙佛所亦護是經。」

> その時、世尊は菩薩たちに告げられました。「よろしい、よろしい。善き者たちよ。あなたがたは今、私のもとでこの経典を護持しているが、無数のガンジス川の砂の数ほどの仏のもとでも、この経典を護り続けるであろう。」

時，慈氏菩薩摩訶薩長跪合掌而白佛言：「大聖世尊！我問此經，觸犯如來，今於佛前至誠懺悔，唯願慈悲哀恕我過。及諸菩薩，亦當受我如是悔過。」

> その時、慈氏菩薩摩訶薩はひざまずいて両手を合わせ、仏に申し上げました。「大聖なる世尊よ、私はこの経典について問うにあたり、如来様に対して過ちを犯してしまいました。今、仏の御前で心から懺悔いたします。何卒、慈しみの心で私の過ちをお許しくださいますよう。また、諸々の菩薩の皆さまも、どうかこのような私の悔い改めを受け入れてくださいませ。」

佛告慈氏：「汝於是經，得深理趣般若波羅蜜多，於大乘法無有疑惑，於身口意無有誤失，一切諸佛共印可汝，我亦如是。汝所說法，如我無異。」

> 仏は慈氏に告げられた。「あなたはこの経典において、深い理趣である般若波羅蜜多を悟り、大乗の法について疑いを持つことなく、身体・言葉・心に過ちを犯すことがありません。すべての諸仏があなたを認めており、私もまた同じく認めます。あなたが説く法は、私の説く法と何ら異なることはありません。」

爾時阿難白佛言：「世尊！當何名此經？我等云何奉持？」

> その時、阿難が仏に申し上げました。「世尊よ、この経典をどのように名付ければよいのでしょうか。私たちはどのようにして、この教えを守り実践すればよいのでしょうか。」

時薄伽梵告阿難言：「此經是過去、現在、未來菩薩摩訶薩大乘理趣，亦為一切眾生眼目，亦為諸佛本母，所以此經名『大乘菩薩理趣六波羅蜜多無量無邊無盡義經』。以是名字，汝當奉持。」

> 時に、尊き世尊は阿難に告げられた。 「この経典は、過去・現在・未来の偉大な菩薩たちが歩む大乗の真理であり、すべての生きとし生けるものの眼（道しるべ）であり、諸仏の母とも言える根本の教えである。ゆえに、この経の名は『大乗菩薩の真理・六波羅蜜多の無量無辺・尽きることなき意味の経』という。この名をもって、汝はこれを敬い守りなさい。」

佛說是經已，具壽阿難陀等諸大聲聞，慈氏菩薩摩訶薩等諸大菩薩，一切世間天、龍、藥叉、阿蘇羅、健闥婆、迦嚕羅、緊捺羅、摩怙洛迦、人非人等，及不眴世界無盡藏菩薩摩訶薩等，一切大眾聞佛所說，皆大歡喜，信受奉行。

> お釈迦様がこの教えをお説きになると、尊い阿難陀（あなんだ）をはじめとする多くのすぐれた声聞（しょうもん）の弟子たち、慈氏菩薩（みろくぼさつ）などの大菩薩たち、そしてこの世のすべての天（てん）、竜（りゅう）、夜叉（やしゃ）、阿修羅（あしゅら）、ガンダルヴァ、カルラ、キンナラ、マホラガ、人と人ならざるものたち、さらには目を瞬（またた）かない世界の無尽蔵菩薩（むじんぞうぼさつ）などの大菩薩たち、そのすべての人々がお釈迦様の説法を聞いて、皆が大いに喜び、心から深く信じて教えの通りに実践しました。

## 大乘理趣六波羅蜜多經卷第十

> 大乗理趣六波羅蜜多経 巻第十