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title: "阿毘達磨集異門足論 · 1"
description: "阿毘達磨集異門足論是佛教重要论典之一，由佛陀十大弟子之一的舍利子尊者所造，唐代高僧玄奘翻译为汉文。该论属于说一切有部阿毘达磨论藏七论之一，主要阐释佛教名相与法义，通过分类归纳的方式系统论述佛法要义。内容涵盖五蕴、十二处、十八界等基本教理，以及修行次第与解脱之道。此论在部派佛教时期具有重要地位，是研究早期佛教思想体系的关键文献，为后世佛教理论发展奠定基础。玄奘译本保存完整，是汉传佛教研究阿毘达磨的重要依据。"
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### 集異門足論三法品第四之一

> 集異門足論 三法品 第四の一

時舍利子復告眾言：「具壽當知，佛於三法自善通達，現等覺已，為諸弟子宣說開示。我等今應和合結集，佛滅度後勿有乖諍，當令隨順梵行法律久住，利樂無量有情，哀愍世間諸天人眾，令獲殊勝義利安樂。」

> そのとき、舎利子は再び皆に告げた。「具寿よ、知っておくべきです。仏は三つの法を自らよく通達し、完全な悟りを開かれ、弟子たちのために説き示されました。私たちは今、和合して結集し、仏の入滅後には争いごとがあってはなりません。梵行と法と律を長く保ち、無量の生きとし生けるものに利益と安楽をもたらし、世間の天と人々を哀れみ、すぐれた利益と安楽を得させましょう。」

三法云何？此中有五嗢柁南頌。初嗢柁南曰：

> 三つの法とは何か。ここでは五つの嗢柁南の頌がある。最初の嗢柁南に曰く：

初三法有十， 謂根尋行界，前三各有二， 後一有四種。

> 初三法には十があり、根・尋・行・界をいう。 前三にはそれぞれ二があり、後の一には四種がある。

有三不善根、三善根。三不善尋、三善尋。三惡行、三妙行。欲恚害三界、出離無恚無害三界、欲色無色三界、色無色滅三界。

> 三つの不善の根と、三つの善の根があります。三つの不善の思い（尋）と、三つの善の思いがあります。三つの悪い行いと、三つの優れた行いがあります。欲望・怒り・害心という三つの世界と、出離・無瞋・無害という三つの世界、欲望・色・無色という三つの世界、色・無色・滅という三つの世界があります。

三不善根者，謂貪不善根、瞋不善根、癡不善根。貪不善根者？貪云何？答：謂於欲境諸貪等貪，執藏防護堅著、愛樂迷悶、耽嗜遍耽嗜、內縛欲求耽湎苦集，貪類貪生，總名為貪。不善根云何？答：謂此貪法是不善性，能為無量不善法根，是故此法能為病根癰根、箭根惱根、苦根穢根濁根、諸雜染根、不清淨根、不鮮白根，是故名為貪不善根。瞋不善根者，瞋云何？答：謂於有情欲為損害，內懷栽杌欲為擾惱，已瞋、當瞋、現瞋，樂為過患、極為過患，意極忿恚，於諸有情各相違戾欲為過患，已為過患、當為過患、現為過患，總名為瞋。不善根云何？答：謂此瞋法是不善性，能為無量不善法根，是故此法能為病根癰根、箭根惱根、苦根穢根濁根、諸雜染根、不清淨根、不鮮白根，是故名為瞋不善根。癡不善根者，癡云何？答：謂於前際無知、後際無知、前後際無知，於內無知、外無知、內外無知，於業無知、異熟無知、業異熟無知，於善作業無知、惡作業無知、善惡作業無知，於因無知、因所生法無知，於佛無知、法無知、僧無知，於苦無知、集無知、滅無知、道無知，於善法無知、不善法無知，於有罪法無知、無罪法無知，於應修法無知、不應修法無知，於下劣法無知、勝妙法無知，於黑法無知、白法無知，於有敵對法無知，於緣生法無知，於六觸處如實無知。如是無知無見非現觀、黑闇愚癡無明盲冥、罩網纏裹頑騃渾濁障蓋，發盲、發無明、發無智、滅勝慧，障礙善品令不涅槃。無明漏、無明暴流、無明軛、無明毒根、無明毒莖、無明毒枝、無明毒葉、無明毒花、無明毒果，癡、等癡、極癡，改、等改、極改，癡類癡生、改類改生，總名為癡。不善根云何？答：謂此癡法是不善性，能為無量不善法根，是故此法能為病根癰根、箭根惱根、苦根穢根濁根、諸雜染根、不清淨根、不鮮白根，是故名為癡不善根。如世尊說：

> 三つの不善の根とは、貪りの不善の根、怒りの不善の根、愚かさの不善の根です。 貪りの不善の根について。貪りとは何か。答え：欲望の対象に対して起こるさまざまな貪り、執着して抱え込み守り固めること、愛し楽しみ夢中になること、耽溺しつくすこと、内に縛られ求めること、溺れふけること、苦しみを集めること、貪りの類、貪りから生じるもの、これらをすべて貪りと名づけます。不善の根とは何か。答え：この貪りは不善の性質であり、無数の不善の法の根となることができる。それゆえこの法は、病の根、腫れ物の根、矢の根、悩みの根、苦しみの根、汚れの根、濁りの根、あらゆる雑染の根、清らかでない根、白くない根となる。それゆえ貪りの不善の根と名づけます。 怒りの不善の根について。怒りとは何か。答え：生きとし生けるものを害そうとし、内に害心を抱いて悩ませようとし、すでに怒り、やがて怒り、今怒り、過ちとなると喜び、甚だしく過ちとし、心に極めて忿り恨み、もろもろの生きとし生けるものに対して互いに背き逆らい害しようとし、すでに害し、やがて害し、今害する、これらをすべて怒りと名づけます。不善の根とは何か。答え：この怒りは不善の性質であり、無数の不善の法の根となることができる。それゆえこの法は、病の根、腫れ物の根、矢の根、悩みの根、苦しみの根、汚れの根、濁りの根、あらゆる雑染の根、清らかでない根、白くない根となる。それゆえ怒りの不善の根と名づけます。 愚かさの不善の根について。愚かさとは何か。答え：過去について知らないこと、未来について知らないこと、過去と未来について知らないこと、内について知らないこと、外について知らないこと、内外について知らないこと、業について知らないこと、異熟について知らないこと、業と異熟について知らないこと、善い業について知らないこと、悪い業について知らないこと、善悪の業について知らないこと、因について知らないこと、因から生じた法について知らないこと、仏について知らないこと、法について知らないこと、僧について知らないこと、苦について知らないこと、集について知らないこと、滅について知らないこと、道について知らないこと、善法について知らないこと、不善法について知らないこと、罪ある法について知らないこと、罪なき法について知らないこと、修めるべき法について知らないこと、修めるべきでない法について知らないこと、下劣な法について知らないこと、勝れた法について知らないこと、黒い法について知らないこと、白い法について知らないこと、敵対する法について知らないこと、縁から生じた法について知らないこと、六つの触れの場をありのままに知らないこと。このような知らないこと、見ないこと、明らかに観ないこと、暗黒、愚かさ、無明、盲暗、覆いの網にまとわり包まれた頑なさと濁り、障りと蓋となり、盲を生じ、無明を生じ、無智を生じ、勝れた慧を滅し、善きものを障り、涅槃に至らせない。無明の漏、無明の暴流、無明の軛、無明の毒の根、無明の毒の茎、無明の毒の枝、無明の毒の葉、無明の毒の花、無明の毒の果、愚かさ、等しい愚かさ、極まった愚かさ、混乱、等しい混乱、極まった混乱、愚かさの類、愚かさから生じるもの、混乱の類、混乱から生じるもの、これらをすべて愚かさと名づけます。不善の根とは何か。答え：この愚かさは不善の性質であり、無数の不善の法の根となることができる。それゆえこの法は、病の根、腫れ物の根、矢の根、悩みの根、苦しみの根、汚れの根、濁りの根、あらゆる雑染の根、清らかでない根、白くない根となる。それゆえ愚かさの不善の根と名づけます。世尊が説かれたとおりです。

「諸惡貪瞋癡， 惱害自心者，如樹心有蝎， 皮果等皆衰。」

> 諸悪の貪り、怒り、愚かさは、 自らの心を悩ませ害するものである。 それはちょうど、樹の芯に蝎がいるようなもので、 皮も実もみな衰えてしまう。

三善根者，謂無貪善根、無瞋善根、無癡善根。無貪善根者，無貪云何？答：謂於欲境諸不貪、不等貪、不執藏不防護不堅著、不愛不樂、不迷心悶、不耽嗜不遍耽嗜、不內縛不欲不求不耽湎，非苦集非貪類非貪生，總名無貪。善根云何？答：謂無貪法是善性，能為無量善法根，是故此法能為無病根無癰根、無箭根無穢根無濁根、不雜染根、清淨根、鮮白根，是故名為無貪善根。無瞋善根者，無瞋云何？答：謂於有情不欲損害，不懷栽杌不欲擾惱，非已瞋非當瞋非現瞋，不樂為過患、不極為過患，意不憤恚，於諸有情不相違戾，不欲為過患，非已為過患、非當為過患、非現為過患，總名無瞋。善根云何？答：謂無瞋法是善性，能為無量善法根，是故此法能為無病根無癰根、無箭根無穢根無濁根、不雜染根、清淨根、鮮白根，是故名為無瞋善根。無癡善根者，無癡云何？答：謂知前際智、後際智、前後際智，知內智、外智、內外智，知業智、異熟智、業異熟智，知善作業智、惡作業智、善惡作業智，知因智、因所生法智，知佛智、法智、僧智，知苦智、集智、滅智、道智，知善法智、不善法智，知有罪法智、無罪法智，知應修法智、不應修法智，知下劣法智、勝妙法智，知黑法智、白法智，知有敵對法智，知緣生法智，知六觸處如實智。如是智見明覺解慧光觀，總名無癡。善根云何？答：謂無癡法是善性，能為無量善法根，是故此法能為無病根無癰根、無箭根無穢根無濁根、不雜染根、清淨根、鮮白根，是故名為無癡善根。如世尊說：

> 三つの善根とは、貪りのない善根、怒りのない善根、愚かさのない善根です。 貪りのない善根について。貪りがないとは何か。答え：欲望の対象に対して、貪らないこと、むさぼり求めないこと、執着して隠し持たないこと、守りに固執しないこと、強く執着しないこと、愛さないこと、楽しみとしないこと、心が迷って昏くなることなく、耽溺せず、あちこち耽溺せず、内に縛られず、欲しがらず、求めず、溺れないこと。苦を集めず、貪りに属さず、貪りから生じないこと。これらを総称して貪りがないといいます。 善根とは何か。答え：貪りのないこの法は善い性質であり、無量の善い法の根となることができます。それゆえこの法は、病のない根、腫れ物のない根、矢のない根、汚れのない根、濁りのない根、雑染のない根、清らかな根、鮮やかに白い根となることができます。それゆえ貪りのない善根と名づけられます。 怒りのない善根について。怒りがないとは何か。答え：生きとし生けるものに対して損害を与えようとせず、害する心を抱かず、悩ませ乱そうとせず、すでに怒らず、未来に怒らず、現在に怒らないこと。過失や災いとなることを喜ばず、過失や災いを極めることなく、心に憤り怒らず、もろもろの生きとし生けるものと争わず、過失や災いとなることを望まず、すでに過失や災いとならず、未来に過失や災いとならず、現在に過失や災いとならないこと。これらを総称して怒りがないといいます。 善根とは何か。答え：怒りのないこの法は善い性質であり、無量の善い法の根となることができます。それゆえこの法は、病のない根、腫れ物のない根、矢のない根、汚れのない根、濁りのない根、雑染のない根、清らかな根、鮮やかに白い根となることができます。それゆえ怒りのない善根と名づけられます。 愚かさのない善根について。愚かさがないとは何か。答え：過去を知る智、未来を知る智、過去と未来を知る智、内を知る智、外を知る智、内外を知る智、業を知る智、異熟を知る智、業と異熟を知る智、善い業を知る智、悪い業を知る智、善悪の業を知る智、因を知る智、因から生じた法を知る智、仏を知る智、法を知る智、僧を知る智、苦を知る智、集を知る智、滅を知る智、道を知る智、善い法を知る智、善くない法を知る智、罪ある法を知る智、罪のない法を知る智、修めるべき法を知る智、修めるべきでない法を知る智、劣った法を知る智、勝れた法を知る智、黒い法を知る智、白い法を知る智、敵対する法があることを知る智、縁から生じた法を知る智、六つの触れ合う場所をありのままに知る智。このような智・見・明・覚・解・慧・光・観を総称して愚かさがないといいます。 善根とは何か。答え：愚かさのないこの法は善い性質であり、無量の善い法の根となることができます。それゆえこの法は、病のない根、腫れ物のない根、矢のない根、汚れのない根、濁りのない根、雑染のない根、清らかな根、鮮やかに白い根となることができます。それゆえ愚かさのない善根と名づけられます。世尊が説かれたとおりです。

「若離貪瞋癡， 說名為智者，亦名為上士， 不惱害自心。是故應遠離， 貪瞋及無明，勤修起慧明， 速得眾苦盡。」

> 貪りと怒りと迷いを離れた人を、智者と呼びます。 また、すぐれた人とも呼ばれ、自分の心を悩ませることがありません。 ですから、貪りと怒りと無明を遠ざけ、 慧の光を輝かせるよう努めれば、やがてすべての苦しみが尽きるでしょう。

三不善尋者，謂欲尋、恚尋、害尋。欲尋云何？答：欲貪相應諸心尋求、遍尋求、近尋求，心顯了、極顯了、現前顯了，推度搆畫思惟分別，總名欲尋。恚尋云何？答：瞋相應諸心尋求、遍尋求、近尋求，心顯了、極顯了、現前顯了，推度搆畫思惟分別，總名恚尋。害尋云何？答：害相應諸心尋求、遍尋求、近尋求，心顯了、極顯了、現前顯了，推度搆畫思惟分別，總名害尋。如世尊說：

> 三つの不善な尋（思い巡らし）とは、欲の尋、恚（いかり）の尋、害の尋です。 欲の尋とは何か。答えて言う：欲の貪りと結びついた、あらゆる心の求め、遍く求め、近く求めること、心がはっきりと現れ、極めてはっきりと現れ、目の前にはっきりと現れること、推し量り、思い描き、思惟し、分別することを、総じて欲の尋と名づけます。 恚の尋とは何か。答えて言う：瞋（いかり）と結びついた、あらゆる心の求め、遍く求め、近く求めること、心がはっきりと現れ、極めてはっきりと現れ、目の前にはっきりと現れること、推し量り、思い描き、思惟し、分別することを、総じて恚の尋と名づけます。 害の尋とは何か。答えて言う：害と結びついた、あらゆる心の求め、遍く求め、近く求めること、心がはっきりと現れ、極めてはっきりと現れ、目の前にはっきりと現れること、推し量り、思い描き、思惟し、分別することを、総じて害の尋と名づけます。 世尊がお説きになったとおり：

「惡尋伏眾生， 令於穢見淨，倍增長貪愛， 自為堅固縛。」

> 悪いた考えは生きとし生けるものを惑わし、 穢れたものを美しいと見せてしまう。 その結果、貪りと愛着はますます膨らみ、 自らを固く縛りつけてしまうのです。

三善尋者，謂出離尋、無恚尋、無害尋。出離尋云何？答：於諸欲尋思惟過患，謂此欲尋是不善法，諸下賤者信解受持。一切如來及諸弟子、賢貴善士共所呵厭，能為自害、能為他害、能為俱害、能滅智慧、能礙彼品、能障涅槃，受持此法不生通慧、不引菩提、不證涅槃。如是思惟諸欲尋過患時，諸心尋求、遍尋求、近尋求，心顯了、極顯了、現前顯了，推度搆畫思惟分別，名出離尋。復次為斷欲尋，於出離尋思惟功德，謂出離尋是勝善法，是尊勝者信解受持，一切如來及諸弟子、賢貴善士共所稱讚，不為自害、不為他害、不為俱害、不滅智慧、不礙彼品、不障涅槃，受持此法能生通慧、能引菩提、能證涅槃。如是思惟出離尋功德時，諸心尋求乃至分別，名出離尋。復次思惟欲尋如病如癰如箭惱害，無常苦空非我轉動，勞倦羸篤是失壞法，迅速不停衰朽非恒，不可保信是變壞法。如是思惟諸欲尋時，諸心尋求乃至分別，名出離尋。復次為斷欲尋，思惟彼滅是真寂靜，思惟彼道是真出離。如是思惟彼滅道時，諸心尋求乃至分別，名出離尋。復次思惟捨心定及道，捨心定相應無想定、滅定、擇滅。如是思惟時，諸心尋求乃至分別，名出離尋。復次思惟出離及出離相應受想行識，及彼等起身語業心不相應行時，諸心尋求乃至分別，名出離尋。無恚尋云何？答：於諸恚尋思惟過患，謂此恚尋是不善法，諸下賤者信解受持，一切如來及諸弟子、賢貴善士共所呵厭，能為自害、能為他害、能為俱害、能滅智慧、能礙彼品、能障涅槃，受持此法不生通慧、不引菩提、不證涅槃。如是思惟諸恚尋過患時，諸心尋求、遍尋求、近尋求，心顯了、極顯了、現前顯了，推度搆畫思惟分別，名無恚尋。復次為斷恚尋，於無恚尋思惟功德，謂無恚尋是勝善法，是尊勝者信解受持，一切如來及諸弟子、賢貴善士共所稱讚，不為自害、不為他害、不為俱害、不滅智慧、不礙彼品、不障涅槃，受持此法能生通慧、能引菩提、能證涅槃。如是思惟無恚尋功德時，諸心尋求乃至分別，名無恚尋。復次思惟恚尋如病如癰如箭惱害，無常苦空非我轉動，勞倦羸篤是失壞法，迅速不停衰朽非恒，不可保信是變壞法。如是思惟諸恚尋時，諸心尋求乃至分別，名無恚尋。復次為斷恚尋，思惟彼滅是真寂靜，思惟彼道是真出離。如是思惟彼滅道時，諸心尋求乃至分別，名無恚尋。復次思惟慈心定及道、慈心定相應無想定、滅定、擇滅。如是思惟時，諸心尋求乃至分別，名無恚尋。復次思惟無恚及無恚相應受想行識，及彼等起身語業心不相應行時，諸心尋求乃至分別，名無恚尋。無害尋云何？答：於諸害尋思惟過恚，謂此害尋是不善法，諸下賤者信解受持，一切如來及諸弟子、賢貴善士共所呵厭，能為自害、能為他害、能為俱害、能滅智慧、能礙彼品、能障涅槃，受持此法不生通慧、不引菩提、不證涅槃。如是思惟諸害尋過患時，諸心尋求、遍尋求、近尋求，心顯了、極顯了、現前顯了，推度搆畫思惟分別，名無害尋。復次為斷害尋，於無害尋思惟功德，謂無害是勝善法，是尊勝者信解受持，一切如來及諸弟子、賢貴善士共所稱讚，不為自害、不為他害、不為俱害、不滅智慧、不礙彼品、不障涅槃，受持此法能生通慧、能引菩提、能證涅槃。如是思惟無害尋功德時，諸心尋求乃至分別，名無害尋。復次思惟害尋如病如癰如箭惱害，無常苦空非我轉動，勞倦羸篤是失壞法，迅速不停衰朽非恒，不可保信是變壞法。如是思惟諸害尋時，諸心尋求乃至分別，名無害尋。復次為斷害尋，思惟彼滅是真寂靜，思惟彼道是真出離。如是思惟彼滅道時，諸心尋求乃至分別，名無害尋。復次思惟悲心定及道、悲心定相應無想定、滅定、擇滅。如是思惟時，諸心尋求乃至分別，名無害尋。復次思惟無害及無害相應受想行識，及彼等起身語業心不相應行時，諸心尋求乃至分，別名無害尋。如世尊說：

> 三善尋とは、出離尋・無恚尋・無害尋をいいます。 出離尋とは何でしょうか。答え：もろもろの欲望の思い（欲尋）について過ちや害を観察して、「この欲尋は不善の法であり、低劣な者たちが信じて受け入れ保つものである。すべての如来と弟子たち、賢く尊い善き人々がともに責め嫌うものである。自分を害し、他人を害し、双方を害し、智慧を滅ぼし、悟りの支分を妨げ、涅槃をさまたげる。この法を受け保っても神通と智慧は生まれず、菩提へ導かず、涅槃を証しない」と考える。このようにもろもろの欲尋の過患を観察するとき、心が求め、遍く求め、近く求め、心が明らかになり、極めて明らかになり、現前に明らかになり、推し量り思案し思い分別することを、出離尋といいます。 次に、欲尋を断つために、出離尋について功徳を観察して、「出離尋はすぐれた善法であり、尊く勝れた者たちが信じて受け入れ保つものである。すべての如来と弟子たち、賢く尊い善き人々がともに称賛するものである。自分を害さず、他人を害さず、双方を害さず、智慧を滅ぼさず、悟りの支分を妨げず、涅槃をさまたげない。この法を受け保てば神通と智慧が生まれ、菩提へ導き、涅槃を証することができる」と考える。このように出離尋の功徳を観察するとき、心が求め……分别することを、出離尋といいます。 次に、欲尋を病のように、癰のように、矢のように悩ませ害するものと考え、無常・苦・空・非我であり移り変わり、疲れ弱り衰える失壊の法であり、すばやく止まらず衰え朽ちて恒常でなく、信頼できず変壊する法であると観察する。このようにもろもろの欲尋を観察するとき、心が求め……分别することを、出離尋といいます。 次に、欲尋を断つために、その滅を真の寂静と考え、その道を真の出離と考える。このようにその滅と道を観察するとき、心が求め……分别することを、出離尋といいます。 次に、捨心定とその道、捨心定に相応する無想定・滅定・択滅を観察する。このように観察するとき、心が求め……分别することを、出離尋といいます。 次に、出離と、出離に相応する受・想・行・識、およびそれらから生じる身業・語業・心不相応行を観察するとき、心が求め……分别することを、出離尋といいます。 無恚尋とは何でしょうか。答え：もろもろの怒りの思い（恚尋）について過ちや害を観察して、「この恚尋は不善の法であり、低劣な者たちが信じて受け入れ保つものである。すべての如来と弟子たち、賢く尊い善き人々がともに責め嫌うものである。自分を害し、他人を害し、双方を害し、智慧を滅ぼし、悟りの支分を妨げ、涅槃をさまたげる。この法を受け保っても神通と智慧は生まれず、菩提へ導かず、涅槃を証しない」と考える。このようにもろもろの恚尋の過患を観察するとき、心が求め、遍く求め、近く求め、心が明らかになり、極めて明らかになり、現前に明らかになり、推し量り思案し思い分別することを、無恚尋といいます。 次に、恚尋を断つために、無恚尋について功徳を観察して、「無恚尋はすぐれた善法であり、尊く勝れた者たちが信じて受け入れ保つものである。すべての如来と弟子たち、賢く尊い善き人々がともに称賛するものである。自分を害さず、他人を害さず、双方を害さず、智慧を滅ぼさず、悟りの支分を妨げず、涅槃をさまたげない。この法を受け保てば神通と智慧が生まれ、菩提へ導き、涅槃を証することができる」と考える。このように無恚尋の功徳を観察するとき、心が求め……分别することを、無恚尋といいます。 次に、恚尋を病のように、癰のように、矢のように悩ませ害するものと考え、無常・苦・空・非我であり移り変わり、疲れ弱り衰える失壊の法であり、すばやく止まらず衰え朽ちて恒常でなく、信頼できず変壊する法であると観察する。このようにもろもろの恚尋を観察するとき、心が求め……分别することを、無恚尋といいます。 次に、恚尋を断つために、その滅を真の寂静と考え、その道を真の出離と考える。このようにその滅と道を観察するとき、心が求め……分别することを、無恚尋といいます。 次に、慈心定とその道、慈心定に相応する無想定・滅定・択滅を観察する。このように観察するとき、心が求め……分别することを、無恚尋といいます。 次に、無恚と、無恚に相応する受・想・行・識、およびそれらから生じる身業・語業・心不相応行を観察するとき、心が求め……分别することを、無恚尋といいます。 無害尋とは何でしょうか。答え：もろもろの害の思い（害尋）について過ちや害を観察して、「この害尋は不善の法であり、低劣な者たちが信じて受け入れ保つものである。すべての如来と弟子たち、賢く尊い善き人々がともに責め嫌うものである。自分を害し、他人を害し、双方を害し、智慧を滅ぼし、悟りの支分を妨げ、涅槃をさまたげる。この法を受け保っても神通と智慧は生まれず、菩提へ導かず、涅槃を証しない」と考える。このようにもろもろの害尋の過患を観察するとき、心が求め、遍く求め、近く求め、心が明らかになり、極めて明らかになり、現前に明らかになり、推し量り思案し思い分別することを、無害尋といいます。 次に、害尋を断つために、無害尋について功徳を観察して、「無害はすぐれた善法であり、尊く勝れた者たちが信じて受け入れ保つものである。すべての如来と弟子たち、賢く尊い善き人々がともに称賛するものである。自分を害さず、他人を害さず、双方を害さず、智慧を滅ぼさず、悟りの支分を妨げず、涅槃をさまたげない。この法を受け保てば神通と智慧が生まれ、菩提へ導き、涅槃を証することができる」と考える。このように無害尋の功徳を観察するとき、心が求め……分别することを、無害尋といいます。 次に、害尋を病のように、癰のように、矢のように悩ませ害するものと考え、無常・苦・空・非我であり移り変わり、疲れ弱り衰える失壊の法であり、すばやく止まらず衰え朽ちて恒常でなく、信頼できず変壊する法であると観察する。このようにもろもろの害尋を観察するとき、心が求め……分别することを、無害尋といいます。 次に、害尋を断つために、その滅を真の寂静と考え、その道を真の出離と考える。このようにその滅と道を観察するとき、心が求め……分别することを、無害尋といいます。 次に、悲心定とその道、悲心定に相応する無想定・滅定・択滅を観察する。このように観察するとき、心が求め……分别することを、無害尋といいます。 次に、無害と、無害に相応する受・想・行・識、およびそれらから生じる身業・語業・心不相応行を観察するとき、心が求め……分别することを、無害尋といいます。 世尊がお説きになったように：

「樂滅諸惡尋， 勤修不淨觀，常念斷貪愛， 能壞堅固縛。」

> 楽しく悪い思いを滅ぼし、ひたすら不浄観を修め、 常に貪りの愛を断つことを念じれば、堅固な束縛を壊すことができる。

三惡行者，謂身惡行、語惡行、意惡行。身惡行云何？答：斷生命、不與取、欲邪行。復次斷生命、不與取、非梵行。復次諸所有不善身業、諸所有非理所引身業、諸所有身業能障礙定，總名身惡行。語惡行云何？答：虛誑語、離間語、麁惡語、雜穢語。復次諸所有不善語業、諸所有非理所引語業、諸所有語業能障礙定，總名語惡行。意惡行云何？答：貪欲、瞋恚、邪見。復次諸所有不善意業、諸所有非理所引意業、諸所有意業能障礙定，總名意惡行。如世尊說：

> 三つの悪い行いとは、体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いを指します。体による悪い行いとは何でしょうか。答えは、命を断つこと、与えられていないものを取ること、欲望に基づく邪な行いです。さらに、不浄な行いも含まれます。また、すべての不善な体の行為、すべての道理に反する体の行為、すべての定を妨げる体の行為は、まとめて体の悪い行いと呼ばれます。言葉による悪い行いとは何でしょうか。答えは、嘘をつくこと、仲たがいさせる言葉、荒々しい言葉、無駄話です。さらに、すべての不善な言葉の行為、すべての道理に反する言葉の行為、すべての定を妨げる言葉の行為は、まとめて言葉の悪い行いと呼ばれます。心による悪い行いとは何でしょうか。答えは、貪り、怒り、邪な見方です。さらに、すべての不善な心の行為、すべての道理に反する心の行為、すべての定を妨げる心の行為は、まとめて心の悪い行いと呼ばれます。世尊がおっしゃったように。

「若造身惡行、 語意惡行已，不修對治者， 當墮於地獄。」

> 身に悪い行いをし、言葉や心に悪い行いをして、 それを改めようとしない者は、地獄に堕ちてしまうでしょう。

三妙行者，謂身妙行、語妙行、意妙行。身妙行云何？答：離斷生命、離不與取、離欲邪行。復次離斷生命、離不與取、離非梵行。復次諸學身業、諸無學身業、諸善非學非無學身業，總名身妙行。語妙行云何？答：離虛誑語、離離間語、離麁惡語、離雜穢語。復次諸學語業、諸無學語業、諸善非學非無學語業，總名語妙行。意妙行云何？答：無貪、無瞋、正見。復次諸學意業、諸無學意業、諸善非學非無學意業，總名意妙行。如世尊說：

> 三妙行とは、身妙行、語妙行、意妙行をいいます。身妙行とは何でしょうか。答えは、生き物を殺すことを離れ、与えられないものを取ることを離れ、邪(よこしま)な欲の行いを離れることです。また、生き物を殺すことを離れ、与えられないものを取ることを離れ、清らかでない行いを離れることです。さらに、学(まな)ぶべき身の業、学ぶべきことのない身の業、善なる学ぶべきでも学ぶべきことのないでもない身の業、これらを総称して身妙行といいます。語妙行とは何でしょうか。答えは、嘘をつくことを離れ、仲違いさせる言葉を離れ、荒々しい言葉を離れ、むだで汚(けが)れた言葉を離れることです。また、学ぶべき語の業、学ぶべきことのない語の業、善なる学ぶべきでも学ぶべきことのないでもない語の業、これらを総称して語妙行といいます。意妙行とは何でしょうか。答えは、貪(むさぼ)りの心がないこと、怒りの心がないこと、正しい見方を持つことです。また、学ぶべき意の業、学ぶべきことのない意の業、善なる学ぶべきでも学ぶべきことのないでもない意の業、これらを総称して意妙行といいます。世尊がおっしゃったように、

「若修身妙行、 語意妙行已，無餘緣礙者， 當生天受樂。」

> 身と口と心の行いを正しく整え、 妨げるものが何もなくなった人は、 天の世界に生まれて喜びを受けるでしょう。

欲界、恚界、害界，及出離界、無恚界、無害界，如《法蘊論》說。欲界、色界、無色界，亦如《法蘊論》說。如世尊說：

> 欲界、怒りの界、害そうとする界、そして出離の界、怒らない界、害さない界については、『法蘊論』に説かれているとおりです。欲界、色界、無色界についても、また『法蘊論』に説かれているとおりです。世尊がおっしゃったように、

「諸有能遍知， 欲色無色界，超一切依故， 當觸無餘依。身證甘露界， 無漏不思議，世尊說涅槃， 為饒益含識。」

> すべての存在をありのままに見きわめ、 欲界・色界・無色界を超えた人は、 すべてのよりどころを超えているため、 まもなく残りなき安らぎに触れるでしょう。 その身で甘露の世界を証し、 煩悩のない不思議な境地に至る—— 世尊は涅槃を説かれました。 それは生きとし生けるもののためなのです。

色界、無色界、滅界，亦如《法蘊論》說。如世尊說：

> 色界、無色界、滅界についても、また『法蘊論』で説かれているとおりです。世尊が次のようにお説きになったとおりです。

「住色界有情， 及住無色界，不證知滅故， 定當往後有。若遍知色界， 不住於無色，趣向究竟滅， 後解脫生死。」

> 色界に住む者も、 無色界に住む者も、 滅を知らないために、 必ず再び生まれを受ける。 色界を完全に知り尽くし、 無色界にとどまることなく、 究極の滅に向かって進むなら、 やがて生死の輪から解き放たれる。

第二嗢柁南曰：

> 第二のまとめの詩はこうです。

二三法有十， 世言依處行，心數趣上座， 聚舉不護三。

> 心のはたらきを数える立場では、上座の教えに従い、 三つのまとまりを挙げれば、守らないことについて三つあると言われます。

有三世、三言依、三色處、三行、三心、三補特伽羅、三上座、三聚、三舉罪事、三不護。

> 三つの時代、三つの言葉の拠り所、三つの色の領域、三つの行い、三つの心、三つの人、三つの長老、三つの集まり、三つの罪を挙げる事柄、三つの護らないこと。

三世者，謂過去世、未來世、現在世。過去世云何？答：諸行已起已等起、已生已等生、已轉已現轉、已聚集已出現，落謝過去盡滅離變，過去性、過去類、過去世攝，是謂過去世。未來世云何？答：諸行未已起未已等起、未已生未已等生、未已轉未已現轉、未聚集未出現，未來性、未來類、未來世攝，是謂未來世。現在世云何？答：諸行已起已等起、已生已等生、已轉已現轉、聚集出現，住未已謝、未已盡滅、未已離變和合現前，現在性、現在類、現在世攝，是謂現在世。問：世是何義？答：世是顯示諸行增語。

> 三世とは、過去世・未来世・現在世のことです。過去世とは何でしょうか。答え：もろもろの行がすでに起こり、すでに生じ、すでに転じ、すでに現れ、すでに集まり、すでに現れ出て、過ぎ去り滅び尽きて離れ変わり、過去の性質・過去の類・過去世に属するもの、これを過去世といいます。未来世とは何でしょうか。答え：もろもろの行がまだ起こらず、まだ生じず、まだ転じず、まだ現れず、まだ集まらず、まだ現れ出ず、未来の性質・未来の類・未来世に属するもの、これを未来世といいます。現在世とは何でしょうか。答え：もろもろの行がすでに起こり、すでに生じ、すでに転じ、すでに現れ、集まり現れ出て、とどまりまだ過ぎ去らず、まだ滅び尽きず、まだ離れ変わらず、和合して現前にあり、現在の性質・現在の類・現在世に属するもの、これを現在世といいます。問い：世とはどのような意味でしょうか。答え：世とは、もろもろの行を表す別の言葉です。

三言依者，謂過去言依、未來言依、現在言依。過去言依者云何？過去云何言、云何依而說過去言依耶？答：諸行已起已等起、已生已等生、已轉已現轉、已聚集已出現，落謝過去盡滅離變，過去性、過去類、過去世攝，是謂過去。即依如是過去諸行，所起語言唱詞評論、呼召宣說顯示教誨、語路語音語業語表，是謂言。即前所說過去諸行亦名為依。是言因本眼路緣起無間引發，能作生緣集等起故、依過去行起諸言說故，過去諸行名過去言依。未來言依者云何？未來云何言、云何依而說未來言依耶？答：諸行未已起未已等起、未已生未已等生、未已轉未已現轉、未聚集未出現，未來性、未來類、未來世攝，是謂未來。即依如是未來諸行，所起語言唱詞評論、呼召宣說顯示教誨、語路語音語業語表，是謂言。即前所說未來諸行亦名為依。是言因本眼路緣起無間引發，能作生緣集等起故、依未來行起論言說故，未來諸行名未來言依。現在言依者，云何現在、云何言、云何依而說現在言依耶？答：諸行已起已等起、已生已等生、已轉已現轉，聚集出現，住未已謝未已盡滅、未已離變，和合現前，現在性、現在類、現在世攝，是謂現在。即依如是現在諸行，所起語言唱詞評論、呼召宣說顯示教誨、語路語音語業語表，是謂言。即前所說現在諸行亦名為依。是言因本眼路緣起無間引發，能作生緣集等起故、依現在行起諸言說故，現在諸行名現在言依。無第四第五者依有為說，謂有為法唯有三種，更無第四第五可得。有說此依一切法說，諸無為法即是現在言依攝故，更無第四第五可得。如世尊說：

> 三言依について述べる。過去の言依、未来の言依、現在の言依である。過去の言依とは何か。過去とは何か、言とは何か、依とは何か、そしてなぜ過去の言依と言うのか。答え：もろもろの行がすでに起こり、すでに等しく起こり、すでに生じ、すでに等しく生じ、すでに転じ、すでに現に転じ、すでに集まり、すでに現れ、過ぎ去り消え去って尽き滅び離れ変わり、過去の性質であり、過去の類であり、過去世に属するもの、これが過去である。まさにこのような過去の諸行に依って起こされる言語・唱詞・評論・呼召・宣説・表示・教誨・語路・語音・語業・語表、これが言である。先に述べた過去の諸行もまた依と名づける。この言は因の本であり、眼路の縁起であり、間断なく引き起こされ、生の縁をなし集を等しく起こすことができるから、過去の行に依ってもろもろの言説が起こるから、過去の諸行を過去の言依と名づける。未来の言依とは何か。未来とは何か、言とは何か、依とは何か、そしてなぜ未来の言依と言うのか。答え：もろもろの行がまだ起こらず、まだ等しく起こらず、まだ生じず、まだ等しく生じず、まだ転じず、まだ現に転じず、まだ集まらず、まだ現れず、未来の性質であり、未来の類であり、未来世に属するもの、これが未来である。 まさにこのような未来の諸行に依って起こされる言語・唱詞・評論・呼召・宣説・表示・教誨・語路・語音・語業・語表、これが言である。先に述べた未来の諸行もまた依と名づける。この言は因の本であり、眼路の縁起であり、間断なく引き起こされ、生の縁をなし集を等しく起こすことができるから、未来の行に依って論と言説が起こるから、未来の諸行を未来の言依と名づける。現在の言依とは何か。現在とは何か、言とは何か、依とは何か、そしてなぜ現在の言依と言うのか。答え：もろもろの行がすでに起こり、すでに等しく起こり、すでに生じ、すでに等しく生じ、すでに転じ、すでに現に転じ、集まり現れ、住してまだ謝せず、まだ尽き滅びず、まだ離れ変わらず、和合して現前にあり、現在の性質であり、現在の類であり、現在世に属するもの、これが現在である。まさにこのような現在の諸行に依って起こされる言語・唱詞・評論・呼召・宣説・表示・教誨・語路・語音・語業・語表、これが言である。先に述べた現在の諸行もまた依と名づける。この言は因の本であり、眼路の縁起であり、間断なく引き起こされ、生の縁をなし集を等しく起こすことができるから、現在の行に依ってもろもろの言説が起こるから、現在の諸行を現在の言依と名づける。第四、第五がないとは、有為について説かれたものである。すなわち有為法にはただ三種のみがあり、さらに第四、第五は得られない。あるいはこの依は一切法について説かれたとも言う。もろもろの無為法はすなわちこれ現在の言依に含まれるから、さらに第四、第五は得られない。世尊が説かれたように：

「樂言想有情， 恒依言想住，未遍知言想， 趣生死無窮。若遍知言想， 於他無所說，亦不樂他說， 常欣修靜慮。寂定勤精進， 見生死盡邊，摧伏諸魔軍， 至生死彼岸。」

> 言葉や想いに楽しみを抱く生き物は、 いつまでも言葉や想いにすがり続けます。 言葉や想いをあるがままに知らなければ、 生と死の流れをどこまでも巡り続けるのです。 言葉や想いをあるがままに知れば、 他人に対して何かを語ろうとせず、 他人が語ることを喜ぶこともなく、 ただ静かな瞑想を楽しむようになります。 心は静まり、怠ることなく励み、 生と死の終わりを見きわめ、 あらゆる魔の軍勢を打ち破り、 生と死の流れの向こう岸へと至るのです。

三色處者，謂有三處攝一切色。何等為三？一者有色有見有對；二者有色無見有對；三者有色無見無對。云何有見有對色？答：一處。云何無見有對色？答：九處。云何無見無對色？答：一處少分。

> 三つの色の領域とは、すべての色を三つの領域にまとめることをいいます。どの三つでしょうか。第一は、色があり、見ることができ、対碍があるもの。第二は、色があり、見ることはできないが、対碍があるもの。第三は、色があり、見ることもできず、対碍もないもの。見ることができ、対碍がある色とは何でしょうか。答えは、一つの領域です。見ることはできないが、対碍がある色とは何でしょうか。答えは、九つの領域です。見ることもできず、対碍もない色とは何でしょうか。答えは、一つの領域の一部です。

三行者，謂身行、語行、意行。身行云何？答：身亦名身行、身業亦名身行、入息出息亦名身行，於此義中意說入息出息身行。所以者何？入息者呼吸外風令入身內，出息者引發內風令出身外，由此勢力令身動轉通暢安隱，故入出息說為身行。語行云何？答：語亦名語行、語業亦名語行、尋伺亦名語行，於此義中意說尋伺語行。所以者何？要尋伺已能發語言，非無尋伺，是故尋伺說為語行。意行云何？答：意亦名意行、意業亦名意行、想思亦名意行，於此義中意說想思意行。所以者何？以想及思是心所法，依止於心、繫屬於心，依心而轉、扶助於心，是故想思說為意行。

> 三行とは、身行・語行・意行をいいます。身行とは何か。答え：身もまた身行と呼ばれ、身業もまた身行と呼ばれ、入息・出息もまた身行と呼ばれますが、ここでの意味としては入息・出息を身行と説いています。なぜかといえば、入息とは外の風を呼吸によって身の内に取り入れ、出息とは内の風を引き出して身の外へ出すことであり、この力によって身体が動き、巡り、安らかになるからです。それゆえ入息・出息を身行と説きます。語行とは何か。答え：語もまた語行と呼ばれ、語業もまた語行と呼ばれ、尋伺もまた語行と呼ばれますが、ここでの意味としては尋伺を語行と説いています。なぜかといえば、尋伺があってこそ言葉を発することができ、尋伺なしには話せないからです。それゆえ尋伺を語行と説きます。意行とは何か。答え：意もまた意行と呼ばれ、意業もまた意行と呼ばれ、想と思もまた意行と呼ばれますが、ここでの意味としては想と思を意行と説いています。なぜかといえば、想と思は心所の法であり、心に依り、心に属し、心に従って働き、心を助けるものだからです。それゆえ想と思を意行と説きます。

三心者，一漏瘡喻心；二電光喻心；三金剛喻心。漏瘡喻心云何？答：如世尊說：苾芻當知，世有一類補特伽羅，稟性暴惡言憙麁獷，少有觸惱便多憤恚，結怨佷㑦語言兇勃。如惡漏瘡纔被物觸，便多流出膿血不止。彼心亦爾，少遇違緣，即便憤恚怨恨不息。問：何故彼心名漏瘡喻？答：彼心意識暫觸違緣，便速發生種種穢惡，是故名曰漏瘡喻心。

> 三心とは、第一に漏瘡（ろうそう）の喩えの心、第二に電光の喩えの心、第三に金剛の喩えの心である。 漏瘡の喩えの心とは何か。答えよ。世尊がおっしゃったとおりである。比丘たちよ、知りなさい。世の中には一類の人がいて、生まれつき性格が荒く激しく、言葉は粗野で、少しばかり触れられるとすぐに多く怒り、恨みを結んで頑なにこじらせ、言葉は凶暴である。それはちょうど、悪い漏瘡が少し物に触れただけで、すぐに膿や血が多く流れ出て止まらないようなものである。その心もまた同じである。少しでも不都合なことに出会えば、すぐに怒り恨み、その思いが止まらない。 問う。なぜその心を漏瘡の喩えと呼ぶのか。答えよ。その心や意識は、少し不都合なことに触れただけで、すぐにさまざまな穢れた悪を生じる。それゆえ漏瘡の喩えの心と名づけるのである。

## 說一切有部集異門足論卷第三

> 説一切有部集異門足論 第三巻