---
title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 3"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm9to6k9w004whj0vjiscujzv"
---

## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第四

> 阿毘達磨大毘婆沙論 巻第四

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 雜蘊第一中世第一法納息第一之三

> 雑蘊第一 世第一法納息第一の三

何故此法。不應言無色界繫耶。答入正性離生。先現觀欲界苦為苦。後合現觀色無色界苦為苦。聖道起先辦欲界事。後合辦色無色界事。若入正性離生。先現觀無色界苦為苦。後合現觀欲色界苦為苦。聖道起先辦無色界事。後合辦欲色界事。如是世第一法。應言無色界繫。然入正性離生。先現觀欲界苦為苦。後合現觀色無色界苦為苦。聖道起先辦欲界事。後合辦色無色界事。是故世第一法。不應言無色界繫。此中入正性離生。先現觀欲界苦為苦。後合現觀色無色界苦為苦者。謂見道中。先別現觀欲界苦諦。為苦行相。後合現觀色無色界苦諦為苦行相。問見道位中。具觀四諦。何故但說觀苦諦耶。答見道位中。先觀苦諦。以相麁顯是故偏說。問四種行相。皆現觀苦。何故但說苦行相耶。答理應具說而不說者。當知此中是有餘說。有說此文但應作如是說。先現觀欲界苦。後合現觀色無色界苦。不應言為苦。而復言為苦者有何意耶。答四行相中。苦最居首故且說苦類顯餘三。有說以苦行相久遠所傳。過去如來應正等覺。皆於諦首標苦名故。有說以苦行相。唯屬苦諦故偏說之。非常行相通屬三諦。空非我行相屬一切法故。有說此苦行相。能違諸有能棄生死。勝餘行相順厭心故。乃至嬰兒雖得種種上妙飲食。適欲食時有人語言。此食有苦即便棄捨。是故偏說。有說以苦行相易可信受。謂內外道老少愚智皆信有苦。是故偏說。有說苦相麁顯易以智知纔說即了。是故偏說。如智於所知。覺於所覺。行相於所行。根於根義。能緣於所緣。應知亦爾。問何故行者。見道位中。先現觀欲界苦。後合現觀色無色界苦耶。答麁細異故。謂欲界苦麁易可觀察故先現觀色無色界苦。細難可觀察故後現觀。如習射人先射麁物後射毛端。此亦如是。問若爾色界苦麁無色界苦細。何故行者俱時現觀。答以觀行者。於定不定二界差別起現觀故。謂欲界苦不定界攝故別現觀。色無色界苦俱定界攝故合現觀。如定不定界。修不修界。離染不離染界。應知亦爾。有說欲界苦於觀行者。現為逼惱猶如重擔故先現觀。色無色界苦。於觀行者。則不如是故後現觀。有說欲界苦是觀行者現所執受故先現觀。色無色界苦。則不如是故後現觀。有說欲界苦於觀行者現生痛惱故先現觀。色無色界苦不爾故後現觀。有說欲界苦行者現見故先現觀。色無色界苦不爾故後現觀。問若色無色界苦不現見者。行者云何於彼現觀。答現見有二種。一執受現見。二離染現見。彼觀行者於欲界苦具二現見。於色無色界苦但有離染現見。猶如商人有財兩擔。一自擔之。二使人擔。於自所擔。具二現見。謂輕重現見及財物現見。於他所擔唯有一種財物現見。此亦如是。有說欲界苦近故先現觀。色無色界苦遠故後現觀。如近遠與身俱不與身俱。在自身在他身亦爾。有說欲界苦有三種。謂善不善無記故先現觀。色無色界苦。但有二種。謂善無記故後現觀。有說修觀行者將入聖時。必成就欲界異生性。不成就色無色界異生性。現觀法爾於成就者先起。於不成就者後起。有說見欲界苦時斷二種結。謂不善無記故先現觀。見色無色界苦時唯斷無記結故後現觀。如不善無記。有異熟無異熟。生二果生一果。無慚無愧相應。無慚無愧不相應。當知亦爾。有說如異生位。謗苦諦時。先謗欲界苦。後謗色無色界苦。今入聖位信苦諦時。亦先信欲界苦。後信色無色界苦。如謗信迷悟疑決。應知亦爾。是故於欲界苦先別現觀。於色無色界苦後合現觀。

> なぜこの法は「無色界に属する」と言ってはいけないのか。答えよう。正性に離生に入る時、まず欲界の苦を苦と観じ、その後、色界と無色界の苦を合わせて苦と観じる。聖道が起こる時、まず欲界の事柄を処理し、その後、色界と無色界の事柄を合わせて処理する。もし正性に離生に入る時、まず無色界の苦を苦と観じ、その後、欲界と色界の苦を合わせて苦と観じるならば、聖道が起こる時も、まず無色界の事柄を処理し、その後、欲界と色界の事柄を合わせて処理することになる。そうであれば、世第一法は無色界に属すると言うべきである。しかし実際には、正性に離生に入る時、まず欲界の苦を苦と観じ、その後、色界と無色界の苦を合わせて苦と観じる。聖道が起こる時も、まず欲界の事柄を処理し、その後、色界と無色界の事柄を合わせて処理する。それゆえ、世第一法は無色界に属すると言ってはならない。 ここで「正性に離生に入る時、まず欲界の苦を苦と観じ、その後、色界と無色界の苦を合わせて苦と観じる」とは、見道において、まず欲界の苦諦を別々に「苦」という行相として観じ、その後、色界と無色界の苦諦を合わせて「苦」という行相として観じることを意味する。 問う。見道の位では四諦をすべて観じるのに、なぜ苦諦だけを挙げて説明するのか。答える。見道の位ではまず苦諦を観じる。その相が粗く顕著であるため、特に挙げて説明するのである。 問う。四つの行相（苦・空・無常・無我）のすべてが苦を観じるものであるのに、なぜ苦行相だけを挙げるのか。答える。本来はすべてを挙げるべきだが、ここでは説明を省略していると知るべきである。あるいは、ここでは単に「まず欲界の苦を観じ、その後色界と無色界の苦を合わせて観じる」とだけ述べ、「苦」という語を繰り返す必要はないのではないか、という意見もある。しかし、繰り返し「苦」と言う意図は何か。四つの行相の中で「苦」が最も先に来るため、ひとまず苦を挙げて、残りの三つ（空・無常・無我）を類推させるためである。また、苦行相は遠い昔から伝えられてきたものであり、過去の如来・応供・正等覚者もみな、諦の冒頭に「苦」という名を掲げたからである。また、苦行相は苦諦のみに属するため、特に挙げるのである。非常行相は三諦（集・滅・道）に通じ、空行相と無我行相はすべての法に通じるからである。また、この苦行相は「有」に逆らい、生死を捨て去る力があり、他の行相よりも厭離の心にかなっているからである。たとえ幼児であっても、さまざまな美味を得て食べようとする時、「この食べ物には苦みがある」と言われれば、すぐに捨てる。そのような理由から、特に苦行相が挙げられる。また、苦行相は信じやすく受け入れやすい。内道・外道、老若・賢愚を問わず、誰もが苦の存在を信じているからである。また、苦の相は粗く顕著で、智慧をもって知りやすく、説けばすぐに理解されるからである。例えば、智慧が対象を知ること、覚りが対象を覚ること、行相が対境を巡ること、根がその働きをすること、能縁が所縁を縁することも、同様であると理解すべきである。 問う。なぜ修行者は見道において、まず欲界の苦を観じ、その後、色界と無色界の苦を合わせて観じるのか。答える。粗と細の違いによる。欲界の苦は粗く観察しやすいため先に観じ、色界と無色界の苦は細かく観察しにくいため後に観じる。例えば、弓の練習をする人が、まず粗い的を射、後に毛の先を射るようなものである。これも同じである。 問う。もしそうなら、色界の苦は粗く、無色界の苦は細かい。なぜ修行者はこれらを同時に観じるのか。答える。修行者は、定の世界と不定の世界という区別に基づいて現観を行うからである。欲界の苦は不定界に属するため別々に観じ、色界と無色界の苦はともに定界に属するため合わせて観じる。定と不定、修と不修、離染と未離染の違いについても、同様に理解すべきである。 また、欲界の苦は修行者にとって重い荷物のように迫って悩ますため先に観じ、色界と無色界の苦はそうではないため後に観じる。また、欲界の苦は修行者が現在、身に受けている苦しみであるため先に観じ、色界と無色界の苦はそうではないため後に観じる。また、欲界の苦は修行者に現在、痛みや悩みを生じさせるため先に観じ、色界と無色界の苦はそうではないため後に観じる。また、欲界の苦は修行者が現に見ることができるため先に観じ、色界と無色界の苦はそうではないため後に観じる。 問う。もし色界と無色界の苦を現に見ることができないなら、修行者はどのようにしてそれらを現観するのか。答える。現見には二種類ある。一つは「執受による現見」、もう一つは「離染による現見」である。修行者は欲界の苦に対してはこの二つの現見を持ち、色界と無色界の苦に対しては「離染による現見」のみを持つ。例えば、商人が財貨を二つの荷物として持つ時、一つは自分で担ぎ、もう一つは人に担がせる。自分で担ぐ荷物には二つの現見がある。すなわち、重さの現見と、財物としての現見である。他人が担ぐ荷物に対しては、財物としての現見のみがある。これと同じである。 また、欲界の苦は近いため先に観じ、色界と無色界の苦は遠いため後に観じる。近い・遠い、身と共にある・共にない、自身にある・他身にある、という違いも同様である。 また、欲界の苦には善・不善・無記の三種があるため先に観じ、色界と無色界の苦には善と無記の二種しかないため後に観じる。 また、修行者が聖なる境地に入ろうとする時、必ず欲界における凡夫の性質を成就しており、色界と無色界における凡夫の性質は成就していない。現観は、成就しているものに対して先に起こり、成就していないものに対して後に起こるのが道理である。 また、欲界の苦を見る時には二種類の結（不善と無記）を断つため先に観じ、色界と無色界の苦を見る時には無記の結のみを断つため後に観じる。不善・無記の違い、異熟がある・ないの違い、二つの果を生む・一つの果を生む違い、無慚・無愧と対応する・対応しない違いについても、同様に理解すべきである。 また、凡夫の位で苦諦を謗る時、まず欲界の苦を謗り、後に色界と無色界の苦を謗る。今、聖なる位で苦諦を信じる時も、まず欲界の苦を信じ、後に色界と無色界の苦を信じる。謗りと信じること、迷いと悟り、疑いと決定についても、同様に理解すべきである。それゆえ、欲界の苦は先に別々に現観し、色界と無色界の苦は後で合わせて現観するのである。

聖道起先辦欲界事。後合辦色無色界事者。謂見道中。先別辦於欲界所應作事。後合辦於色無色界所應作事。問現觀辦事。有何差別。有作是言。此無差別現觀即是所辦事故。或有說者。亦有差別且名即差別。謂此名現觀。此名辦事。復次通達所緣是現觀。斷諸煩惱是辦事。復次現觀者謂智現觀。辦事者謂事現觀。復次現觀者謂智遍知。辦事者謂斷遍知。如智遍知。斷遍知智作證。得作證。明解脫道道果。應知亦爾。復次現觀者。謂無間道所作。辦事者。謂解脫道所作。如無間道所作。解脫道所作。斷繫得證離繫。得除過失修功德。出下賤入勝妙。捨無義得有義。盡愛膏油受無熱樂。應知亦爾。復有說者。剎那是現觀。相續是辦事。如剎那相續入數。入應知亦爾。若入正性離生等者。反舉非理。順成是義。問如於色界苦非先現觀。而世第一法是色界繫。如是於無色界苦。雖非先現觀。何妨世第一法是無色界繫。答以色界中有遍緣智。能緣自地及緣上下。故於色界苦。雖非先現觀而世第一法。得是色界繫。無色界中無遍緣智。雖緣自上而不緣下。故世第一法非無色界繫。

> 聖道はまず欲界の事柄を処理し、その後、色界・無色界の事柄をまとめて処理します。つまり、見道においては、まず欲界でなすべきことを個別に処理し、その後、色界・無色界でなすべきことをまとめて処理するのです。 問：現観と辦事にはどのような違いがあるのでしょうか。 ある人は言います。「これらに違いはない。現観こそが辦事であるからだ。」と。 また別の人は言います。「違いもある。まず名称が異なる。すなわち、これを現観と呼び、これを辦事と呼ぶのである。」と。 さらに、所縁を悟ることが現観であり、煩悩を断ち切ることが辦事である。 また、現観とは智慧による現観であり、辦事とは事柄による現観である。 また、現観とは智慧による完全な理解であり、辦事とは断滅による完全な理解である。 智慧による完全な理解と断滅による完全な理解、智慧による証得と証得による獲得、明・解脱・道・果についても、同じように理解すべきである。 また、現観とは無間道の働きであり、辦事とは解脱道の働きである。無間道と解脱道の働き、繫縛を断ち離繫を証すること、過失を取り除き功徳を修めること、低い境涯から出て高い境涯に入ること、無意味を捨てて有意義を得ること、愛欲の油を尽くして熱のない楽を受けることについても、同じように理解すべきである。 さらに、ある人は言います。「刹那が現観であり、相続が辦事である。刹那と相続、入と数についても、同じように理解すべきである。正性に離生するなどということになれば、道理に反する例を挙げて、この義を正しく成立させることになる。」と。 問：もし色界の苦について先に現観しないとしても、世第一法は色界に属するものです。では、無色界の苦についても先に現観しないとしても、世第一法が無色界に属することの何の妨げとなるのでしょうか。 答：色界にはあらゆる所縁を観る智慧があり、自地を観るとともに上下の地も観ることができます。そのため、色界の苦について先に現観しなくても、世第一法は色界に属することができるのです。しかし、無色界にはあらゆる所縁を観る智慧がなく、自地以上を観ることはできても下の地を観ることはできません。したがって、世第一法は無色界に属さないのです。

復次入無色定。除去色想。非除色想能知欲界。若緣此法起苦法智忍。即緣此法起世第一法。問此中復次理不應說。應但說言入無色定除去色想。乃至廣說。所以者何是一門故。有餘於此以義正文應作是言。何故此法不應言無色界繫。答入無色定除去色想。乃至廣說。所以者何。此於所問義是根本答。故應作是說。而不說者。有何意耶。答夫設言論法有二種。一者方便。二者根本。先所說者。是方便言論。今所說者。是根本言論。根本異方便故。復次言方便法在前故。應如文說。有作是說。論道有二。一者開縱。二者遮奪。此中前門。是開縱論道。後門是遮奪論道。由此本文於義無失。有餘師說。此中前門顯苦法智忍但緣欲界。後門顯世第一法與苦法智忍同一所緣故。彼定非無色界繫。以無色定有除色想。必不緣下有漏色故。除色想定。在四無色及彼上三近分地攝。問有多處說。除色想言。謂此處說入無色定。除去色想。乃至廣說。大種蘊說。云何除色想。謂有苾芻。起如是勝解。乃至廣說。波羅衍拏。亦作是說。

> さらに、無色定に入り、色の想いを除く。色の想いを除かなければ、欲望の領域を理解することはできない。もしこの法に基づいて苦法智忍を起こすなら、その同じ法に基づいて世第一法も起こすのである。 問う：「ここで『さらに』という言葉は論理的に言うべきではない。ただ『無色定に入り、色の想いを除く』とだけ述べれば十分である。なぜなら、これは一つの系統だからである。ある学者はこの点について、『なぜこの法は無色界に属すると言うべきでないのか』と問い、回答として『無色定に入り、色の想いを除くからである』と述べるのが正しいと指摘する。しかし、そう述べなかったのはどのような意図があるのか。」 答える：一般的に、言論の法には二種類ある。一つは「方便」であり、もう一つは「根本」である。先に述べたのは方便の言論であり、今述べているのは根本の言論である。根本は方便とは異なるため、「さらに」という言葉が使われたのであり、方便の法が前に置かれたからである。したがって、文章の通りに解釈すべきである。 ある見解では、論議の道には二つある。一つは開き許すことであり、もう一つは遮り奪うことである。ここでの前の部分は開き許す論議であり、後の部分は遮り奪う論議である。このため、本文の意味に誤りはない。 別の師は言う：ここでの前の部分は、苦法智忍が欲望の領域のみを対象とすることを示し、後の部分は、世第一法が苦法智忍と同じ対象を持つことを示す。そのため、それ（世第一法）は無色界に属さない。無色定は色の想いを除くものであり、必ず下の領域にある有漏の色を対象としないからである。色の想いを除く定は、四無色界およびその上の三つの近分地に含まれる。 問う：多くの場所で「色の想いを除く」という言葉が説かれている。ここでは「無色定に入り、色の想いを除く」と言われ、さらに広く説明されている。大種蘊では「どのように色の想いを除くのか」と問い、「ある比丘がこのような勝解を起こす」と答え、さらに広く説明されている。波羅衍拏でもこのように説かれている。

諸有除色想能除一切身於內外法中無有不見者

> 色についての想いを除けば、身体の全体を超えることができます。内も外も、見えないものは何一つありません。

眾義品中。亦作是說。

> 衆義の品においても、このように説かれています。

於想有想非即離亦非無想非除想如是平等除色想無有染著彼因緣

> 想いに対しても「想いがある」と捉えず、 「想いと一体」でも「想いと離れている」でもなく、 「想いがない」のでもなく、「想いを除く」のでもない。 このように、色についての想いを超えて平等になったならば、 そこには執着も、その因縁も存在しない。

如是諸說。義有何異。答此蘊中說。不緣下地流轉諸色名除色想。大種蘊說。遣積集色令不現前名除色想。波羅衍拏眾義品說。斷色界愛名除色想。有說此處除色想者通四念住。大種蘊說除色想者。唯身念住。波羅衍拏眾義品說。除色想者。唯法念住有說此處除色想者。在七地攝謂四無色上三近分大種蘊說。除色想者。在第四靜慮攝。波羅衍拏眾義品說除色想者。亦在七地攝。謂未至中間四靜慮。空無邊處近分。有作是言。大種蘊說除色想者。是不共唯內道有故。餘三是共。有餘師說。此蘊所說除色想者。是共內外道俱有故。餘三是不共。如是名為諸說義異。

> これらの様々な教えの意味には、どのような違いがあるのでしょうか。 答え：この「蘊（うん）」の箇所で説く「除色想（じょしきそう）」は、下の地に流転する諸々の色を縁としないことを意味します。「大種蘊（だいしゅううん）」で説く除色想は、積集した色を除き去って現前させないことを意味します。「波羅衍拏（はらえんな）衆義品」で説く除色想は、色界への愛着を断つことを意味します。 ある説によると、ここでの除色想は四念住（しねんじゅう）全てに通じています。大種蘊で説く除色想は、身念住（しんねんじゅう）だけに限られます。波羅衍拏衆義品で説く除色想は、法念住（ほうねんじゅう）だけに限られます。 またある説によると、ここでの除色想は七つの地（四無色定とその上の三つの近分定）に含まれます。大種蘊で説く除色想は、第四静慮（だいしじょうりょ）に含まれます。波羅衍拏衆義品で説く除色想も、七つの地（未至定・中間定・四静慮・空無辺処近分定）に含まれます。 ある論師は言います。「大種蘊で説く除色想は、内道だけが持つ不共のものです。残りの三つは共（内外道に共通）です。」 また別の論師は言います。「この蘊で説く除色想は、内外道ともに持つ共のものです。残りの三つは不共です。」 これらが、各教えの意味の違いとして挙げられます。

於此義中。復有分別。問何緣世第一法。非無色界繫耶。答非田等故。謂無色界於世第一法。非田非器非地。不能生長世第一法。故於彼無。復次若地有餘順決擇分。彼地可有世第一法。無色界無餘順決擇分。是故無有世第一法。復次若定。容有遍觀三界四諦善根。彼定可有世第一法。於無色定無此善根。是故無有世第一法。復次若定容有緣一切法無我行相。彼地可有世第一法。無色定中無此行相。是故無有世第一法。復次若地。能修現觀邊世俗智。彼地可有世第一法。無色地中無如是事。故彼無有世第一法。復次若地有見道。可有世第一法。無色界中無有見道。是故無有世第一法。問因論生論。何故無色界無見道耶。答如前所說無世第一法因亦為此證。復有別義。謂無色界奢摩他增故。要毘鉢舍那增地。能有見道。有餘於此雙遮二界。謂欲界極麁故。無色界極細故。俱無世第一法。復次欲界善根極羸劣故。無色界善根極沈昧故。俱無世第一法。復次欲界極喧動故。無色界極寂靜故。俱無世第一法。復次若地。有遍緣智及斷結道。彼地容有世第一法。欲界雖有遍緣智。而無斷結道。無色界雖有斷結道。而無遍緣智。是故俱無世第一法。問頗有二聖者。同生一處。於世第一法。一成就。一不成就耶。答有。謂一依初靜慮。入正性離生。一依第二靜慮。入正性離生。彼俱命終生第二靜慮。依初靜慮者。不成就世第一法。越地捨故。依第二靜慮者。猶成就世第一法。生自地故。問頗有二阿羅漢。俱在欲界於世第一法。一成就。一不成就耶。答有。謂一依初靜慮。入正性離生。一依第二靜慮。入正性離生。彼俱命終。生第二靜慮中。有未離欲界。俱得阿羅漢果。依初靜慮者。不成就世第一法。越地捨故。依第二靜慮者。成就世第一法。生自地故。

> この意味について、さらに詳しく説明しよう。問う：「なぜ世第一法は無色界に属さないのか？」答える：「それは適した場所ではないからである。無色界は世第一法にとって、田んぼにも器にも土地にもならず、世第一法を育てることができない。だからそこには存在しない。 また、ある領域に他の順決択分（修行の段階）が存在すれば、その領域には世第一法があり得る。しかし無色界には他の順決択分がない。だから世第一法もない。 さらに、ある禅定が三界の四諦を遍く観察する善根を許容するなら、その禅定には世第一法があり得る。しかし無色界の禅定にはこの善根がない。だから世第一法もない。 さらに、ある禅定が一切の法を縁として無我行相を許容するなら、その領域には世第一法があり得る。しかし無色界の禅定にはこの行相がない。だから世第一法もない。 さらに、ある領域が現観の辺にある世俗智を修めることができるなら、その領域には世第一法があり得る。しかし無色界にはそのようなことがない。だから世第一法もない。 さらに、ある領域に見道があれば世第一法があり得る。しかし無色界には見道がない。だから世第一法もない。」 問う：「議論から生じた問いとして、なぜ無色界に見道がないのか？」 答える：「前に述べた世第一法がない理由が、これの証拠にもなる。さらに別の意味もある。無色界は奢摩他（止・心の静けさ）が強いからだ。毘鉢舎那（観・物事を観察する智慧）が強い領域でこそ見道があり得るのである。 ある学者は、この両方の領域（欲界と無色界）を否定する。欲界は極めて粗雑であり、無色界は極めて微細すぎるため、どちらにも世第一法はない、と。 また、欲界の善根は極めて弱く、無色界の善根は極めて沈み曇っているから、どちらにも世第一法はない、と。 また、欲界は極めて騒がしく動き、無色界は極めて静かすぎるから、どちらにも世第一法はない、と。 さらに、ある領域に遍縁智（すべてを縁とする智慧）と断結道（煩悩を断つ道）があれば、その領域には世第一法があり得る。欲界には遍縁智があるが断結道がない。無色界には断結道があるが遍縁智がない。だからどちらにも世第一法はない。」 問う：「二人の聖者が同じ場所に生まれながら、世第一法について、一人は成就し、一人は成就しないということがあり得るか？」 答える：「あり得る。例えば、一人は初禅に依って正性離生（聖者の境地）に入り、もう一人は第二禅に依って正性離生に入る。二人とも命終して第二禅に生まれる。初禅に依っていた者は、領域を越えて捨てられたため、世第一法を成就しない。第二禅に依っていた者は、自分の領域に生まれたため、世第一法を成就する。」 問う：「二人の阿羅漢が共に欲界にありながら、世第一法について、一人は成就し、一人は成就しないということがあり得るか？」 答える：「あり得る。例えば、一人は初禅に依って正性離生に入り、もう一人は第二禅に依って正性離生に入る。二人とも命終して第二禅に生まれる。その中で、欲界を離れていない者が共に阿羅漢果を得る。初禅に依っていた者は、領域を越えて捨てられたため、世第一法を成就しない。第二禅に依っていた者は、自分の領域に生まれたため、世第一法を成就する。」

世第一法。當言有尋有伺。乃至廣說。問何故作此論。答雖已說彼在色界繫。而未分別彼在何地。今欲分別。如已知人所居國邑。而未知彼所居宅等。此亦如是故作斯論。復次為令疑者得決定故。謂先說言。世第一法。唯色界繫。然色界中。有三種地。一有尋有伺地。二無尋唯伺地。三無尋無伺地。而未顯示世第一法定在何地。有諸善根唯在有尋有伺地。如詞無礙解。有諸善根。唯在無尋無伺地。如淨解脫。後四勝處。前八遍處。有諸善根。在有尋有伺。及無尋無伺地。如喜無量。有說。亦如初二解脫。前四勝處。勿有生疑。世第一法。唯在一地。或在二地。今成立彼定在三地。故作此論。世第一法。當言有尋有伺。無尋唯伺。無尋無伺耶。答應言或有尋有伺。或無尋唯伺。或無尋無伺。問何故顯示世第一法在三地耶。答為止餘部執。此善根唯在一地。謂或有執。世第一法。唯有尋有伺。有相有警覺。非等引屬異生緣諸行。唯有尋有伺者。思搆轉故。有相者緣名起故。有警覺者。有功用故。非等引者相續轉故。屬異生者。異生得故。緣諸行者。緣有為故。為止彼執。顯此善根。通在三地。云何有尋有伺。答若依有尋有伺三摩地。入正性離生。彼所得世第一法。謂依未至及初靜慮。入正性離生者。所得世第一法。問此中依言。欲顯何法。有作是說。此俱生定說名為依。謂世第一法。相應定以依聲說。此俱生依。有成文證。如智蘊說。若依空三摩地。入正性離生。彼於苦法智忍相應定。以依聲說。此亦如是。有餘師說。此等無間緣定。說名為依。謂增上忍相應定。以依聲說。如是說者。即彼三地。說名為依。後所說依。應知亦爾。云何無尋唯伺。答若依無尋唯伺三摩地。入正性離生。彼所得世第一法。謂依靜慮中間。入正性離生者。所得世第一法。云何無尋無伺。答若依無尋無伺三摩地。入正性離生。彼所得世第一法。謂依第二第三第四靜慮。入正性離生者。所得世第一法。

> 問う。世第一法には「尋（粗い思考）」と「伺（微細な思考）」があると言うべきか、それともないと言うべきか。さらには、その詳細を広く述べるべきか。 なぜこの議論を起こすのか。答え。すでに世第一法が色界に属することは説いたが、それが色界の中のどの地にあるのかはまだ分別していなかった。今、それを明らかにしようとするからである。例えば、人が住む国や町はすでに知っていても、その家や建物の詳細までは知らないようなものだ。この場合も同様である。故にこの論を起こす。 さらに、疑いを抱く者に決定を与えるためでもある。先に「世第一法は色界のみに属する」と説いた。しかし色界には三つの地がある。すなわち、(1) 尋と伺のある地（有尋有伺地）、(2) 尋はないが伺のみある地（無尋唯伺地）、(3) 尋も伺もない地（無尋無伺地）である。しかし、世第一法がこれらのうちどの地に定まるかはまだ示していなかった。 ある種の善根（善い性質）は有尋有伺地だけにある。例えば「詞無礙解（言葉による妨げのない智慧）」がそうだ。また別の善根は無尋無伺地だけにある。例えば「浄解脱（清らかな解脱）」や後の四つの「勝処（優れた認識）」、前の八つの「遍処（普遍的な認識）」がそうだ。さらに、有尋有伺地と無尋無伺地の両方にある善根もある。例えば「喜無量（喜びの無量心）」がそうだ。ある説では、最初の二つの「解脱」と前の四つの「勝処」もこれに含まれるという。 このような事情から、世第一法がただ一つの地にあるのか、あるいは二つの地にあるのか、疑問が生じるかもしれない。そこで、今、それが必ず三つの地にあることを成立させるために、この論を起こすのである。 問う。世第一法は、「有尋有伺」と言うべきか、「無尋唯伺」と言うべきか、あるいは「無尋無伺」と言うべきか。 答える。世第一法には、有尋有伺のものもあり、無尋唯伺のものもあり、無尋無伺のものもあると言うべきである。 問う。なぜ世第一法が三つの地にあることを示すのか。 答える。他の部派が「この善根はただ一つの地にある」と主張するのを否定するためである。ある者はこう主張する。「世第一法は、有尋有伺のものであり、相（対象の形象）を有し、警覚（自覚的な働き）を有し、『等引（心の集中状態）』ではなく、凡夫に属し、諸行（現象）を対象とする。有尋有伺であるのは、思惟・構想が働くからである。相を有するのは、名称（概念）に基づいて生じるからである。警覚を有するのは、努力を伴うからである。等引ではないのは、心の流れが続く中で起こるからである。凡夫に属するのは、凡夫が獲得するからである。諸行を対象とするのは、有為な現象を対象とするからである。」このような主張を否定し、この善根が三つの地に通じて存在することを明らかにするのである。 どのような場合が有尋有伺か。答え。もし有尋有伺の三昧（心の統一）に基づいて「正性離生（正しい真理の流れに入ること）」に入るならば、その時に得られる世第一法がこれにあたる。すなわち、「未至定」と「初静慮」に基づいて正性離生に入る者が得る世第一法である。 問う。この文脈での「依（基づく）」という言葉は、何を意味するのか。 ある論師はこう言う。「これと同時に生じる定（心の統一）を『依』と言う。世第一法と対応する定を『依』という言葉で表すのだ。」これを証拠づける文証もある。『智蘊』の中で、「もし空三昧に基づいて正性離生に入るならば、彼は苦法智忍に対応する定を『依』という言葉で表す」とある。これも同じである。 別の論師はこう言う。「この無間縁（すぐ前の因）となる定を『依』と言う。すなわち、増上忍（最高の忍び）に対応する定を『依』という言葉で表すのだ。」 このように説く立場では、その三つの地そのものを『依』と名付ける。後で出てくる『依』についても、同様に理解すべきである。 どのような場合が無尋唯伺か。答え。もし無尋唯伺の三昧に基づいて正性離生に入るならば、その時に得られる世第一法がこれにあたる。すなわち、「静慮中間（初禅と二禅の間の定）」に基づいて正性離生に入る者が得る世第一法である。 どのような場合が無尋無伺か。答え。もし無尋無伺の三昧に基づいて正性離生に入るならば、その時に得られる世第一法がこれにあたる。すなわち、「第二静慮」「第三静慮」「第四静慮」に基づいて正性離生に入る者が得る世第一法である。

若依未至定。入正性離生。彼修一地。見道一地。世第一法。二地現觀邊世俗智。若依初靜慮。入正性離生。彼修二地。見道一地。世第一法。三地現觀邊世俗智。若依靜慮中間。入正性離生。彼修三地。見道一地。世第一法。四地現觀邊世俗智。若依第二靜慮入正性離生。彼修四地。見道一地。世第一法。五地現觀邊世俗智。若依第三靜慮。入正性離生。彼修五地。見道一地。世第一法。六地現觀邊世俗智。若依第四靜慮。入正性離生。彼修六地。見道一地。世第一法。七地現觀邊世俗智。有餘師說。若依初靜慮。入正性離生彼修二地。見道二地。世第一法。三地現觀邊世俗智。若依靜慮中間。入正性離生。彼修三地。見道三地。世第一法。四地現觀邊世俗智。所以者何。以彼三地。皆一地故。一隨眠故。此中善法互為因故。依餘地如前說。評曰彼不應作是說。所以者何。若作是說。則依靜慮中間。入正性離生者。應得二地世第一法。謂有尋有伺。及無尋唯伺。若爾便違此文。所說云何。有尋有伺。若依有尋有伺三摩地。入正性離生。彼所得世第一法。云何無尋唯伺。若依無尋唯伺三摩地。入正性離生。彼所得世第一法。勿有此過。是故前說於理為善。問何故見道。修自他地。世第一法。唯修自地耶。答見道無漏解脫離繫。世第一法不如是故。復次見道雖在地而不墮界。世第一法在地亦墮界故。復次見道由三緣故修。一因長養故。二同辦事故。三同對治故。因長養者。謂六地見道。展轉為因。同辦事者。謂上地見道。所應作事。下地見道。亦能辦之。同對治者。謂上地見道。所對治惑。下地見道。亦能對治。修道亦以如上所說三緣故修自地他地。因長養者。謂九地修道。展轉為因。又如法智離欲界染。亦修類智。此但由一緣謂因長養故。同辦事者。謂上地修道所應作事。下地修道亦能辦之。又如苦智所應作事。乃至道智。亦皆能辦。同對治者。謂上地修道所對治惑。下地修道亦能對治。又如一念此智現前。能於未來修無量念。世第一法。非因長養。諸地不能互為因故。亦非同辦事。於煩惱斷。不能證故。亦非同對治。以不能永斷諸煩惱故。復次世第一法。繫屬相續。見道不如是故。復次世第一法。能辦異熟。見道不如是故。復次世第一法。為愛所繫。見道不如是故。復次世第一法。有垢有過。有毒有刺。有染有濁。見道不如是故。復次世第一法依異生身。異生身法不修他地。見道唯依聖者身。聖者身法修自他地故。問世第一法。與現觀邊諸世俗智。同是有漏。何故彼智。自他地修。世第一法。唯修自地。答現觀邊世俗智。是見道眷屬。依見道修。如見道修自他地。彼智亦爾世第一法。不如是故。復次現觀邊世俗智。依聖者身。聖者能修自地他地。世第一法。不如是故。復次現觀邊世俗智。依隨信隨法行身。彼能具修自地他地。世第一法。不如是故。復次現觀邊世俗智。有冤敵無勢力。有冤敵故。自他地修。無勢力故依他力修。世第一法。無冤敵有勢力。無冤敵故。唯修自地。有勢力故。依自力修。復次現觀邊世俗智。不用功得。隨見道力。自他地修。世第一法。用功而得。是故唯能修於自地。

> もし未至定に依って正性離生に入るならば、その人は一地を修し、見道は一地、世第一法は一地、現観辺の世俗智は二地である。 もし初静慮に依って正性離生に入るならば、その人は二地を修し、見道は一地、世第一法は一地、現観辺の世俗智は三地である。 もし静慮中間に依って正性離生に入るならば、その人は三地を修し、見道は一地、世第一法は一地、現観辺の世俗智は四地である。 もし第二静慮に依って正性離生に入るならば、その人は四地を修し、見道は一地、世第一法は一地、現観辺の世俗智は五地である。 もし第三静慮に依って正性離生に入るならば、その人は五地を修し、見道は一地、世第一法は一地、現観辺の世俗智は六地である。 もし第四静慮に依って正性離生に入るならば、その人は六地を修し、見道は一地、世第一法は一地、現観辺の世俗智は七地である。 ある他の師はこう説く。「もし初静慮に依って正性離生に入るならば、その人は二地を修し、見道は二地、世第一法は一地、現観辺の世俗智は三地である。もし静慮中間に依って正性離生に入るならば、その人は三地を修し、見道は三地、世第一法は一地、現観辺の世俗智は四地である。なぜならば、それら三地はすべて一地だからである。一つの随眠があるからであり、これらの善法は互いに因となるからである。」他の地に依る場合も、前述の通りである。 評して言う。「彼はこのように説くべきではない。なぜならば、もしそう説くならば、静慮中間に依って正性離生に入る人は、二地の世第一法を得ることになる。すなわち、有尋有伺と無尋唯伺である。もしそうならば、この文の説くところに反する。すなわち、『有尋有伺とは、もし有尋有伺の三摩地に依って正性離生に入るならば、その人が得る世第一法をいう。無尋唯伺とは、もし無尋唯伺の三摩地に依って正性離生に入るならば、その人が得る世第一法をいう』と。この過失があってはならない。ゆえに、前述の説が道理にかなっている。」 問う。「なぜ見道は自地と他地を修し、世第一法は自地のみを修するのか。」 答える。「見道は無漏であり、解脱と離繋をもたらすからである。世第一法はそうではないからである。また、見道は地にありながら界に堕ちないが、世第一法は地にもあり界にも堕ちるからである。また、見道は三つの縁によって修される。一には因長養、二には同弁事、三には同対治である。因長養とは、六地の見道が互いに因となることである。同弁事とは、上地の見道がなすべき事を、下地の見道もまたなし得ることである。同対治とは、上地の見道が対治する煩悩を、下地の見道もまた対治し得ることである。修道もまた、上述の三つの縁によって自地と他地を修する。因長養とは、九地の修道が互いに因となることである。また、法智が欲界の染を離れる時に類智をも修するのは、これはただ一つの縁、すなわち因長養による。同弁事とは、上地の修道がなすべき事を、下地の修道もまたなし得ることである。また、苦智がなすべき事を、道智に至るまでもまたすべてなし得る。同対治とは、上地の修道が対治する煩悩を、下地の修道もまた対治し得ることである。また、一念のこの智が現前する時、未来に無量の念を修し得る。世第一法は因長養ではない。諸地は互いに因となることはないからである。また、同弁事でもない。煩悩の断証ができないからである。また、同対治でもない。諸煩悩を永く断ち切ることができないからである。また、世第一法は相続に繋属する。見道はそうではないからである。また、世第一法は異熟をもたらす。見道はそうではないからである。また、世第一法は愛に繋がれる。見道はそうではないからである。また、世第一法には垢があり、過があり、毒があり、刺があり、染があり、濁がある。見道はそうではないからである。また、世第一法は異生の身に依る。異生の身の法は他地を修しない。見道はただ聖者の身にのみ依る。聖者の身の法は自地と他地を修するからである。」 問う。「世第一法と現観辺の諸世俗智は、同じく有漏である。なぜあの智は自他地を修し、世第一法は自地のみを修するのか。」 答える。「現観辺の世俗智は見道の眷属であり、見道に依って修される。見道が自地と他地を修するように、あの智もまたそうである。世第一法はそうではないからである。また、現観辺の世俗智は聖者の身に依る。聖者は自地と他地を修し得る。世第一法はそうではないからである。また、現観辺の世俗智は随信行と随法行の身に依る。彼らは自地と他地を共に修し得る。世第一法はそうではないからである。また、現観辺の世俗智には怨敵があり、勢力がない。怨敵があるゆえに自他地を修し、勢力がないゆえに他力に依って修される。世第一法には怨敵がなく、勢力がある。怨敵がないゆえに自地のみを修し、勢力があるゆえに自力に依って修される。また、現観辺の世俗智は労力を用いずに得られ、見道の力に従って自他地を修する。世第一法は労力を用いて得られる。ゆえに自地のみを修することができるのである。」

問何故六地。所起見道。上能修下。下不修上。答上地法勝。現在前時。則能修下。下地法劣。現在前時。不能修上。如劣朝勝非勝朝劣。此亦如是。復次下地力劣依上而修。如力劣人依附強者。上地力勝不依下修。如力勝人不依附劣。復次下地屬上故。上能修下。上地不屬下故。下不能修上。如人屬他受他驅使。不屬他者他不能役。復次若依上地。入正性離生。彼於下地已得離染故能修下。若依下地入正性離生。彼於上地未得離染。設已離染不得自在。以不依彼入正性離生故。由此下地不能修上。復次若於上地。入正性離生。彼於下地已得故能修。若依下地入正性離生。彼於上地未得故不修。設已得者而不自在。以不依彼入正性離生故。復次下地求上故上修下。上地不求下故下不修上。復次下地能斷上故。上能修下。上地不斷下故下不修上。復次下能辦上事故。上須修下。上不能辦下事故下不修上。復次猶如六種守護法故。謂三十三天。懼阿素洛。安布六軍而自守護。一依海住龍。二堅手天。三持鬘天。四恒憍天。五四大王眾天。六三十三天。若阿素洛。從自宮出。欲與諸天興戰諍時。依海住龍。先與戰諍。若龍能勝阿素洛者。餘五天軍無事而住。若不能勝。堅手天軍即助其力。若二能勝。餘四天軍無事而住。若不能勝。持鬘天軍復助其力。若三能勝。餘三天軍無事而住。若不能勝。恒憍天軍復助其力。若四能勝。餘二天軍無事而住。若不能勝。四大王軍復助其力。若五能勝。三十三天無事而住。若不能勝。三十三天與前五軍。相助戰諍。令阿素洛退敗馳走。如是見道。為欲對治見所斷惑安布六地。一未至定乃至第六。第四靜慮若依未至定入正性離生。未來唯修一地。見道即能永斷見所斷惑。其餘五地無事而住。若依初靜慮入正性離生。未來便修二地。見道相助永斷見所斷惑。其餘四地無事而住。若依靜慮中間入正性離生。未來便修三地。見道相助永斷見所斷惑。其餘三地無事而住。若依第二靜慮入正性離生。未來便修四地。見道相助永斷見所斷惑。其餘二地無事而住。若依第三靜慮入正性離生。未來便修五地。見道相助永斷見所斷惑第四靜慮無事而住。若依第四靜慮入正性離生。未來便修六地。見道相助永斷見所斷惑。故依上地能修於下。依彼下地不能修上。復次猶如依山六重池故。謂從山頂乃至於下。有六泉池連次流注。其最上水流遍六池。第二遍五第三遍四。乃至第六唯遍一池。如是六地所起見道。上能修下下不修上。

> 問う。なぜ六つの地（修行段階）において、見道（真理を見通す智慧）が生じる際、上位の地にある者は下位の地を修めることができ、下位の地にある者は上位の地を修めることができないのか。 答え。上位の地の法（教え）は勝れているため、それが現前する時には下位の地を修めることができる。下位の地の法は劣っているため、それが現前する時には上位の地を修めることはできない。まるで劣った者が勝れた者に仕えることはあっても、勝れた者が劣った者に仕えることがないのと同じである。この道理もまた同じである。 さらに、下位の地は力が劣っているため、上位の地に依って修める。例えるなら、力の弱い者が強い者に頼るようなものである。上位の地は力が勝れているため、下位の地に依って修めることはない。例えるなら、力の強い者が弱い者に頼らないのと同じである。 さらに、下位の地は上位の地に属するため、上位の地は下位の地を修めることができる。上位の地は下位の地に属さないため、下位の地は上位の地を修めることができない。例えるなら、人に属する者はその人の命令を受けるが、属さない者は命令されないのと同じである。 さらに、もし上位の地に依って正性離生（真理に入る境地）に入ったなら、その者は下位の地についてはすでに離染（煩悩を離れること）を得ているため、下位の地を修めることができる。もし下位の地に依って正性離生に入ったなら、その者は上位の地についてはまだ離染を得ておらず、たとえ離染を得ていても自在ではなく、依って正性離生に入ったわけではないからである。ゆえに下位の地は上位の地を修めることができない。 さらに、もし上位の地において正性離生に入ったなら、その者は下位の地をすでに得ているため修めることができる。もし下位の地に依って正性離生に入ったなら、その者は上位の地をまだ得ていないため修めることができない。たとえ得ていても自在ではなく、依って正性離生に入ったわけではないからである。 さらに、下位の地は上位の地を求めるため、上位の地は下位の地を修める。上位の地は下位の地を求めないため、下位の地は上位の地を修めない。 さらに、下位の地は上位の地の煩悩を断つことができるため、上位の地は下位の地を修める。上位の地は下位の地の煩悩を断つことがないため、下位の地は上位の地を修めない。 さらに、下位の地は上位の地の働きを完成させるため、上位の地は下位の地を修める必要がある。上位の地は下位の地の働きを完成させることがないため、下位の地は上位の地を修める必要がない。 さらに、これは六種の守護の法に似ている。すなわち、三十三天（忉利天）は阿修羅を恐れて、六つの軍を配置して自らを守護している。第一は海に住む龍、第二は堅手天、第三は持鬘天、第四は恒憍天、第五は四大王衆天、第六は三十三天である。もし阿修羅が自らの宮殿から出て天と戦いを起こそうとする時、まず海に住む龍が戦う。もし龍が阿修羅に勝てば、残りの五つの天軍は何もせずにいることができる。もし勝てなければ、堅手天軍が力を貸す。もしこの二つで勝てれば、残りの四つの天軍は何もせずにいることができる。もし勝てなければ、持鬘天軍がさらに力を貸す。もしこの三つで勝てれば、残りの三つの天軍は何もせずにいることができる。もし勝てなければ、恒憍天軍がさらに力を貸す。もしこの四つで勝てれば、残りの二つの天軍は何もせずにいることができる。もし勝てなければ、四大王天軍がさらに力を貸す。もしこの五つで勝てれば、三十三天は何もせずにいることができる。もし勝てなければ、三十三天は先の五つの軍と共に力を合わせて戦い、阿修羅を敗走させる。 このように見道は、見道において断つべき煩悩を対治するために、六つの地を配置している。すなわち、未至定から第六の第四静慮までである。もし未至定に依って正性離生に入れば、未来にはただ一地のみを修め、見道はただちに見道断の煩悩を永遠に断つ。残りの五地は何もせずにいる。もし初静慮に依って正性離生に入れば、未来には二地を修め、見道は力を合わせて見道断の煩悩を永遠に断つ。残りの四地は何もせずにいる。もし静慮中間に依って正性離生に入れば、未来には三地を修め、見道は力を合わせて見道断の煩悩を永遠に断つ。残りの三地は何もせずにいる。もし第二静慮に依って正性離生に入れば、未来には四地を修め、見道は力を合わせて見道断の煩悩を永遠に断つ。残りの二地は何もせずにいる。もし第三静慮に依って正性離生に入れば、未来には五地を修め、見道は力を合わせて見道断の煩悩を永遠に断つ。第四静慮は何もせずにいる。もし第四静慮に依って正性離生に入れば、未来には六地を修め、見道は力を合わせて見道断の煩悩を永遠に断つ。ゆえに、上位の地に依る者は下位の地を修めることができるが、下位の地に依る者は上位の地を修めることができないのである。 さらに、これは六重の山の池のようなものである。すなわち、山頂から下に向かって六つの泉があり、次々と水が流れ落ちる。最も上の水は六つの池すべてに流れ、二番目の水は五つに、三番目は四つに流れ、……六番目はただ一つの池にしか流れない。このように、六つの地において生じる見道も、上位の地にあるものは下位の地を修めることができるが、下位の地にあるものは上位の地を修めることができないのである。

問頗有世第一法。或尋相應非伺。或伺相應非尋。或尋伺俱相應。或尋伺俱不相應耶。答有尋相應非伺者。謂未至定初靜慮伺。伺與自性不相應故。伺相應非尋者。謂尋及靜慮中間除伺。餘心心所法。尋伺俱相應者。謂未至定初靜慮中除尋伺。餘心心所法。尋伺俱不相應者。謂靜慮中間伺。及上三靜慮心心所法。并一切隨心轉色。心不相應行。問頗有世第一法。非有尋有伺。非無尋唯伺。非無尋無伺耶。答有。謂未至定初靜慮伺。彼非有尋有伺。所以者何。如品類足說。云何有尋有伺法。答若法尋伺相應。彼伺雖尋相應而非伺故。亦非無尋唯伺。所以者何。如品類足說。云何無尋唯伺法。答若法伺相應非尋。彼伺唯尋相應非伺故亦非無尋無伺。所以者何。如品類足說。云何無尋無伺法。答若法尋伺不相應。彼伺唯伺不相應非尋故。問頗有世第一法。尋伺不相應。非非伺耶。答有。謂靜慮中間伺。彼雖尋伺不相應。而非非伺。所以者何。伺自性故。問頗有世第一法。在有尋有伺地與伺相應非尋耶。答有。謂尋彼唯與伺相應故。問頗有世第一法。在無尋有伺地。是相應法。非伺相應耶。答有。謂靜慮中間。伺彼與自性。不相應故。問頗有世第一法在有尋有伺地。而有三種。謂有尋有伺。無尋唯伺。無尋無伺耶。答有有尋有伺者。謂未至定。及初靜慮。除尋伺。餘心心所法。無尋唯伺者謂尋。無尋無伺者。謂隨心轉色。心不相應行。問頗有世第一法。在無尋唯伺地。而有二種。謂無尋唯伺。無尋無伺耶。答有無尋唯伺者。謂靜慮中間除伺。餘心心所法。無尋無伺者。謂彼地伺。及隨心轉色。心不相應行。

> 問う。世第一法の中に、次のようなものがあるだろうか。 すなわち、「尋」と対応していて「伺」とは対応していないもの、 「伺」と対応していて「尋」とは対応していないもの、 「尋」と「伺」の両方と対応しているもの、 「尋」と「伺」のどちらとも対応していないものである。 答える。ある。 「尋」と対応していて「伺」とは対応していないものとは、 未至定と初静慮における「伺」である。 「伺」は自己の性質（自性）とは対応しないからである。 「伺」と対応していて「尋」とは対応していないものとは、 「尋」、および静慮中間において「伺」を除いた、 その他の心・心所の法である。 「尋」と「伺」の両方と対応しているものとは、 未至定と初静慮において「尋」と「伺」を除いた、 その他の心・心所の法である。 「尋」と「伺」のどちらとも対応していないものとは、 静慮中間における「伺」、 および上の三静慮における心・心所の法、 ならびに、すべての心に従って転ずる色（随心転色）、 心と対応しない行（心不相応行）である。 問う。世第一法の中に、 「有尋有伺」でもなく、 「無尋唯伺」でもなく、 「無尋無伺」でもないものがあるだろうか。 答える。ある。 未至定と初静慮における「伺」である。 それは「有尋有伺」ではない。なぜならば、 『品類足論』に「いかなる法を有尋有伺というのか。 すなわち、法が尋と伺の両方に対応するものである」と説かれており、 その「伺」は「尋」には対応するが、「伺」自身ではないからである。 また、「無尋唯伺」でもない。なぜならば、 『品類足論』に「いかなる法を無尋唯伺というのか。 すなわち、法が伺に対応していて尋に対応しないものである」と説かれており、 その「伺」は「尋」に対応するだけであって、「伺」自身ではないからである。 また、「無尋無伺」でもない。なぜならば、 『品類足論』に「いかなる法を無尋無伺というのか。 すなわち、法が尋と伺のいずれにも対応しないものである」と説かれており、 その「伺」は「伺」に対応しない（非伺）のではなく、 「尋」に対応しないだけだからである。 問う。世第一法の中に、 「尋」や「伺」とは対応しないが、 「伺ではない」わけではないものがあるだろうか。 答える。ある。 静慮中間における「伺」である。 それは「尋」や「伺」とは対応しないが、「伺ではない」わけではない。 なぜならば、「伺」という性質そのものだからである。 問う。世第一法の中に、 「有尋有伺の地」にありながら、 「伺」と対応していて「尋」とは対応していないものがあるだろうか。 答える。ある。 「尋」である。それは「伺」とだけ対応するからである。 問う。世第一法の中に、 「無尋有伺の地」にあり、 しかも対応する法（心所法）でありながら、 「伺」と対応しているわけではないものがあるだろうか。 答える。ある。 静慮中間における「伺」である。 それは自己の性質（自性）とは対応しないからである。 問う。世第一法の中に、 「有尋有伺の地」にありながら、 三種類、すなわち 「有尋有伺」「無尋唯伺」「無尋無伺」のものがあるだろうか。 答える。ある。 「有尋有伺」のものとは、 未至定および初静慮において、「尋」と「伺」を除いた、 その他の心・心所の法である。 「無尋唯伺」のものとは、「尋」である。 「無尋無伺」のものとは、 心に従って転ずる色（随心転色）と、心と対応しない行（心不相応行）である。 問う。世第一法の中に、 「無尋唯伺の地」にありながら、 二種類、すなわち 「無尋唯伺」「無尋無伺」のものがあるだろうか。 答える。ある。 「無尋唯伺」のものとは、 静慮中間において、「伺」を除いた、 その他の心・心所の法である。 「無尋無伺」のものとは、 その地における「伺」、 および心に従って転ずる色（随心転色）と、 心と対応しない行（心不相応行）である。

世第一法。當言樂根相應。乃至廣說。問何故作此論。答雖已說彼依地差別。而未分別與何相應。今欲分別。如已知人所居宅等而未知彼朋友伴侶。此亦如是。故作斯論。有作是說。雖已顯示世第一法通在三地。而未說彼通在六地。今顯彼與三根相應。欲令知彼通在六地。分明現見如掌中果。由是因緣故作此論。世第一法。當言樂根相應。喜根相應。捨根相應耶。答應言或樂根相應。或喜根相應。或捨根相應。先已說彼非欲界繫。即知不與憂苦相應。是故唯依三根作論。雖總說彼三根相應。而未顯示相應差別。故應復說差別之相。云何樂根相應。答若依第三靜慮。入正性離生。彼所得世第一法。然第三靜慮。世第一法。或樂根相應。或不相應。樂根相應者。謂除樂根。餘心心所法。不相應者。謂即樂根。及隨心轉色。心不相應行。今且說餘心心所法。故說彼與樂根相應。云何喜根相應。答若依初二靜慮。入正性離生。彼所得世第一法。然初二靜慮世第一法。或喜根相應。或不相應。喜根相應者。謂除喜根。餘心心所法。不相應者。謂即喜根。及隨心轉色。心不相應行。今。且說餘心心所。故說彼與喜根相應。云何捨根相應。答若依未至第四靜慮。入正性離生。彼所得世第一法。問何故不說靜慮中間。答此文應作是說。若依未至靜慮中間第四靜慮。入正性離生。彼所得世第一法。而不爾者。有何意耶。答已說未至應知。亦說靜慮中間。所以者何。以未至聲亦顯彼故。俱是未至根本地故。如大種蘊說。大種依何定滅。答依四或未至故。然此三地。世第一法。或捨根相應。或不相應。捨根相應者。謂除捨根。餘心心所法。不相應者。謂即捨根。及隨心轉色。心不相應行。今且說彼餘心心所。故說彼與捨根相應。問頗有世第一法。不與樂根喜根捨根相應耶。答有。謂彼隨心轉色。心不相應行。問頗有世第一法是相應法而不與樂喜捨根相應耶。答有。謂即三根。以彼不與自性他性根相應故。

> 世第一法は、楽根と対応するのか、と広く説かれる。なぜこの論を設けるのか。すでに世第一法の地による違いは述べたが、何と対応するかはまだ分別していない。今、それを分別しようとする。例えば、すでに人の住む家などは知っているが、その友人や仲間は知らないようなものである。これも同じである。そこで、この論を設ける。 ある説には、こう言う。すでに世第一法が三地に通じることは示したが、それが六地に通じることはまだ述べていない。今、三根と対応することを示して、それが六地に通じることを知らせ、掌の中の果実のように明確に見えるようにするのである。この因縁によって、この論を設ける。 世第一法は、楽根と対応するのか、喜根と対応するのか、捨根と対応するのか、と言うべきである。答えは、あるいは楽根と対応し、あるいは喜根と対応し、あるいは捨根と対応する。先に、それは欲界に属さないと説いたので、憂根や苦根とは対応しないことがわかる。よって、ただ三根に基づいて論じる。 三根と対応すると総説したが、その対応の違いはまだ示していない。ゆえに、さらにその違いの相を述べるべきである。 「楽根と対応するとは、どういうことか」の答えは、第三静慮に依って正性離生に入る人が得る世第一法を言う。ただし、第三静慮の世第一法は、あるいは楽根と対応し、あるいは対応しない。楽根と対応するものは、楽根を除いたその他の心・心所法である。対応しないものは、すなわち楽根そのものと、心に従って転ずる色と心不相応行である。ここでは、ひとまずその他の心・心所法について説くので、それと楽根が対応すると言う。 「喜根と対応するとは、どういうことか」の答えは、初静慮と第二静慮に依って正性離生に入る人が得る世第一法を言う。ただし、初静慮と第二静慮の世第一法は、あるいは喜根と対応し、あるいは対応しない。喜根と対応するものは、喜根を除いたその他の心・心所法である。対応しないものは、すなわち喜根そのものと、心に従って転ずる色と心不相応行である。ここでは、ひとまずその他の心・心所法について説くので、それと喜根が対応すると言う。 「捨根と対応するとは、どういうことか」の答えは、未至定と第四静慮に依って正性離生に入る人が得る世第一法を言う。 問う。なぜ静慮中間について説かないのか。答える。この文は、こう言うべきである。「未至定、静慮中間、第四静慮に依って正性離生に入る人が得る世第一法」と。そうしないのは、どのような意味があるのか。答える。未至定を説けば、静慮中間も説かれたと知るべきである。なぜなら、「未至」の声がそれも示すからである。共に未至の根本地であるからだ。例えば「大種蘊」で、「大種は何の定に依って滅するか」と問い、「四つ、あるいは未至に依る」と答えるのと同じである。 しかし、これらの三地（未至定、静慮中間、第四静慮）の世第一法は、あるいは捨根と対応し、あるいは対応しない。捨根と対応するものは、捨根を除いたその他の心・心所法である。対応しないものは、すなわち捨根そのものと、心に従って転ずる色と心不相応行である。ここでは、ひとまずその他の心・心所法について説くので、それと捨根が対応すると言う。 問う。世第一法で、楽根、喜根、捨根のいずれとも対応しないものがあるか。答える。ある。それは心に従って転ずる色と心不相応行である。 問う。世第一法で、対応法でありながら楽根、喜根、捨根と対応しないものがあるか。答える。ある。すなわち、三根そのものである。それらは自性や他性の根とは対応しないからである。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第四

> 一切有部 発智大毘婆沙論 巻第四