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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 7"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第二十九

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第二十九巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 雜蘊第一中補特伽羅納息第三之七

> 雑蘊第一の中、補特伽羅納息第三の七

如世尊說。有三界。謂斷界離界。滅界乃至廣說。問何故作此論答為廣分別契經義故。謂契經說。具壽阿難往詣尊者名上座所。問何故阿難往詣彼所。答尊者阿難。是樂法者。是正法將攝受聖教。御聖教船。恒巡四眾。教授教誡。數數觀察諸苾芻等。勿有懈怠耽著戲論。或於境界顛倒思惟。令彼一生空過顛墜。故往彼所。復次阿難作如是念。彼名上座恒樂寂靜居阿練若。勇猛精勤證何妙德。我應往問。若能為我說所證德。我當合掌隨喜讚歎。若不爾者。方便慇懃示其加行。令速證得。勿彼多時居阿練若空無所獲。故往彼所。如彼經說。具壽阿難到已施設同分言論。非不同分。問何等名為同分言論。答若居阿練若者。問以阿練若法。若持毘奈耶者。問毘奈耶。若誦素怛纜者。問素怛纜若學阿毘達磨者。問阿毘達磨。是名同分言論。與此相違名不同分言論。謂居阿練若者。問以三藏。持毘奈耶者。問阿練若及餘二藏。誦素怛纜者。問阿練若及餘二藏。學阿毘達磨者。問阿練若及餘二藏。或更問餘事。皆名不同分言論。尊者阿難所以唯作同分言論。若作不同分言論者。彼不解故。便不能答。既不能答。心便羞恥。以羞恥故鬪諍違拒。不欲令彼起如是過。是故唯作同分言論。謂但問彼阿練若法。如彼經說。爾時阿難問名上座。若有苾芻。居阿練若。或居樹下。或居靜室。或在塚間。應數思惟何等行法。時名上座白阿難言。若有苾芻。居阿練若。或居樹下。或居靜室。或在塚間。應數思惟二種行法。謂奢摩他毘鉢舍那所以者何。若奢摩他熏修心者。依毘鉢舍那而得解脫。若毘鉢舍那熏修心者。依奢摩他而得解脫。若奢摩他毘鉢舍那熏修心者依三種界而得解脫。云何三界。所謂斷界離界滅界。問依對法義於一心中有奢摩他毘鉢舍那云何建立如是二種行者差別。答由加行故二種差別。謂加行時或多修習奢摩他資糧。或多修習毘鉢舍那資糧多修習奢摩他資糧者。謂加行時恒樂獨處閑居寂靜怖畏憒鬧見諠雜過恒居靜室入聖道時。名奢摩他行者。多修習毘鉢舍那資糧者謂加行時恒樂讀誦思惟三藏。於一切法自相共相數數觀察入聖道時。名毘鉢舍那行者。復次或有繫心一緣不分別法相。或有分別法相不繫心一緣。若繫心一緣不分別法相者入聖道時。名奢摩他行者。若分別法相不繫心一緣者入聖道時。名毘鉢舍那行者。復次若利根者。名毘鉢舍那行者若鈍根者。名奢摩他行者。如利根鈍根如是。因力緣力。內分力外分力。內正思惟力外聞他音力。應知亦爾。問斷離滅界體是無為無因無果。云何乃說若奢摩他毘鉢舍那熏修心者依三種界而得解脫。答彼契經於緣涅槃勝解以界聲說。謂修行者雖加行時精進勇猛修習止觀二種資糧。若於涅槃不起勝解決定趣證。畢竟不能斷諸煩惱心得解脫。故緣涅槃勝解名界。依此界故心得解脫。如彼經說。爾時阿難問名上座。何等斷故名為斷界。何等離故名為離界。何等滅故名為滅界。名上座言。一切行斷故名斷界。一切行離故名離界。一切行滅故名滅界。尊者阿難聞已合掌隨喜讚歎辭退。復詣竹林道場以此事問五百苾芻。彼復皆如名上座答。問彼諸苾芻云何而答。有作是說。從少至老次第而答。如法集時少者先問。有餘師說。從老至少次第而答。如行施物自老至少。復有說者。一苾芻答餘皆隨喜。脇尊者言。先作白已後次行籌。受籌名答。如彼經說。爾時阿難聞已合掌隨喜讚歎。辭詣佛所到已頂禮世尊雙足。却住一面。以此句義問佛世尊。佛還如彼上座等答。問尊者阿難忍可上座五百苾芻所說義不。設爾何失。若忍可者。何故復以問佛世尊。若不忍可何故合掌隨喜讚歎。答阿難忍可彼所說義。問何故復以問佛世尊。答如佛世尊知而故問。尊者阿難亦復如是。所以者何。阿難欲顯善說法中同見同欲文義決定。如大師說。徒眾亦然。如親教說。弟子亦然。如軌範說。受學亦然。如是文義微妙決定。依之修學乃至能證阿羅漢果。非如外道所說文義師徒眾等展轉相違。依之修學空無所證。復次阿難欲以佛妙言印印所說義。故重問佛。若不以佛妙言印之則所說義猶可傾動。當來四眾不敬信故。如世文符。若無王印則所行處人不敬受。此亦如是。故重問佛。如彼經說佛問阿難汝知上座五百苾芻有何功德。阿難白佛。彼名上座五百苾芻皆阿羅漢諸漏已盡已捨重擔盡諸有結。逮得己利善辦聖旨心善解脫。佛告阿難。如汝所說。問何故世尊問彼功德。答為欲開發少欲喜足所覆真實功德寶藏。令諸世間知已敬養得勝果故。如世伏藏雖多珍寶沙土覆之不得顯現。若有開發令無量人採取受用得世富樂。此亦如是。故佛問之。復次開覺施主勝思願故。謂有施主。恒以衣服等四種供具。施彼上座及五百苾芻。而不知彼有勝功德。欲令知已歡喜踊躍起勝思願。我等得遇如是福田已種善種。定於來世受大快樂。是故世尊問彼功德。復次為止世間誹謗事故。謂彼上座在母胎中經六十年。既出胎已形容衰老無有威德。故初生已立上座名。後雖出家而被嗤笑。少年強盛晝夜精勤尚難得果況此衰老氣力羸劣能得果耶。又彼上座所度五百新學苾芻先隨天授。眾人毀曰。如是老叟貪著名利度五百人。為充自身驅役供侍。不能教誡令從邪法。五百苾芻先受邪化後雖歸正得無學果。而有謗言。此愚人輩先貪利養捨佛從邪。雖後還來而無所得。為止如是諸誹謗故問彼功德。令世共知捨誹謗罪勤修敬養。於當來世生天解脫。彼經雖說斷等三界。而不廣辯三界差別。彼是此論所依根本。彼不說者今欲說之。故作斯論。

> 世尊は「三つの界がある」と説かれました。すなわち、「断界」「離界」「滅界」です。これは広く説かれています。 \*\*問：\*\* なぜこの論が作られたのでしょうか。 \*\*答：\*\* 経典の意味を広く解説するためです。経典にこうあります。尊者のアーナンダは、名を「上座」という尊者のもとへ行きました。なぜアーナンダはそこへ行ったのでしょうか。 尊者アーナンダは、法を愛し、正法を守り、聖教を摂受し、聖教の船を操る方です。常に四衆（比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷）を巡り、教え諭し、何度も比丘たちを観察しました。「怠けたり、戯論に耽ったり、あるいは対象について倒錯した考えを持ったりして、一生を空しく過ごし、堕落してはならない」と。そのために彼のもとへ行ったのです。 また、アーナンダはこう考えました。「あの上座尊者は、常に寂静を好み、阿蘭若（あらんにゃ）に住み、勇猛に精進している。いったいどのような素晴らしい徳を証得されたのだろうか。私は行って尋ねてみよう。もし私のために証得した徳を説いてくだされば、私は合掌して歓喜し、讃嘆しよう。もしそうでなければ、適切な方法で熱心に修行の道筋を示し、速やかに証得させよう。彼が長い間、阿蘭若に住みながら何も得ることがないようにはさせまい。」そう思って彼のもとへ行ったのです。 その経典にあるように、尊者アーナンダは到着すると、同分の言論（共通の話題）を設けました。不同分（異なる話題）ではありません。 \*\*問：\*\* どのようなものを同分の言論と言うのでしょうか。 \*\*答：\*\* 阿蘭若に住む者には阿蘭若の法を問い、毘奈耶（律）を護持する者には毘奈耶を問い、素怛纜（経）を誦する者には素怛纜を問い、阿毘達磨（論）を学ぶ者には阿毘達磨を問うこと。これを同分の言論と言います。これに反することを不同分の言論と言います。すなわち、阿蘭若に住む者に三蔵すべてを問うことや、毘奈耶を護持する者に阿蘭若や他の二蔵を問うこと、素怛纜を誦する者に阿蘭若や他の二蔵を問うこと、阿毘達磨を学ぶ者に阿蘭若や他の二蔵を問うこと、あるいはさらに別の事柄を問うことなどは、すべて不同分の言論です。 尊者アーナンダが同分の言論のみを行ったのは、もし不同分の言論をすれば、相手が理解できず、答えられなくなるからです。答えられなければ心に恥じ入り、その恥ずかしさから争いや違背が生じます。そのような過ちを相手に起こさせたくはなかったのです。そのため、ただ阿蘭若の法についてだけ尋ねたのです。 その経典にあるように、そのときアーナンダは上座尊者に尋ねました。「もし比丘が阿蘭若に住み、あるいは樹下に、あるいは静かな部屋に、あるいは塚間に住むならば、どのような行法を何度も思惟すべきでしょうか。」 そのとき上座尊者はアーナンダに答えました。「もし比丘が阿蘭若に住み、あるいは樹下に、あるいは静かな部屋に、あるいは塚間に住むならば、二つの行法を何度も思惟すべきです。すなわち、奢摩他（しゃまた：止）と毘鉢舍那（びはっしゃな：観）です。なぜかと言えば、奢摩他によって心が熏修（くんしゅ：繰り返し修められること）された者は、毘鉢舍那に依って解脱を得るからです。毘鉢舍那によって心が熏修された者は、奢摩他に依って解脱を得るからです。奢摩他と毘鉢舍那の両方によって心が熏修された者は、三つの界に依って解脱を得るからです。その三つの界とは、断界、離界、滅界です。」 \*\*問：\*\* 対法（論）の義理に従えば、一つの心の中に奢摩他と毘鉢舍那があるのに、どのようにしてこの二つの修行者の差別を立てるのでしょうか。 \*\*答：\*\* 加行（準備修行）によって二つの差別があります。すなわち、加行の時に奢摩他（止）の資糧（準備）を多く修習するか、毘鉢舍那（観）の資糧を多く修習するかによる違いです。 奢摩他の資糧を多く修習する者とは、加行の時に常に独りで閑静な場所にいることを好み、静寂を楽しみ、喧騒を恐れ、雑踏の過ちを見て、常に静かな部屋に住み、聖道に入る時、奢摩他行者と呼ばれます。 毘鉢舍那の資糧を多く修習する者とは、加行の時に常に三蔵の読誦や思惟を好み、すべての法の自相と共相を何度も観察し、聖道に入る時、毘鉢舍那行者と呼ばれます。 また、心を一つの対象に集中させて法の相を分別しない者がいる一方で、法の相を分別して心を一つの対象に集中させない者がいます。心を一つの対象に集中させて法の相を分別しない者が聖道に入る時、奢摩他行者と呼ばれます。法の相を分別して心を一つの対象に集中させない者が聖道に入る時、毘鉢舍那行者と呼ばれます。 また、利根の者は毘鉢舍那行者と呼ばれ、鈍根の者は奢摩他行者と呼ばれます。利根と鈍根のように、因力と縁力、内分力と外分力、内正思惟力と外聞他音力についても、同様に知られるべきです。 \*\*問：\*\* 断界・離界・滅界の体（本質）は無為であり、因も果もありません。それなのに、どうして「奢摩他と毘鉢舍那によって心が熏修された者は、三つの界に依って解脱を得る」と言うのでしょうか。 \*\*答：\*\* あの経典では、涅槃を縁（よりどころ）とする勝解（確固たる理解）を「界」という言葉で説いているのです。修行者は加行の時に精進勇猛であり、止観の二つの資糧を修習しても、もし涅槃に対して勝解を起こし、決定的に証得しようと志さなければ、結局は諸々の煩悩を断じて心の解脱を得ることができません。したがって、涅槃を縁とする勝解を「界」と呼び、この界に依って心が解脱を得るのです。 その経典にあるように、尊者アーナンダは上座尊者に尋ねました。「どのようなものを断つから断界と言うのでしょうか。どのようなものを離れるから離界と言うのでしょうか。どのようなものを滅するから滅界と言うのでしょうか。」 上座尊者は答えました。「すべての行（形成されたもの）を断つから断界と言います。すべての行を離れるから離界と言います。すべての行が滅するから滅界と言います。」 尊者アーナンダはこれを聞いて合掌し、歓喜し讃嘆して辞去しました。そして竹林精舎に赴き、このことを五百人の比丘に尋ねました。彼らも皆、上座尊者と同じように答えました。 \*\*問：\*\* それらの比丘たちはどのように答えたのでしょうか。 \*\*答：\*\* ある説では、若い者から年長者へと順に答えたと言います。法を集める時は若い者が先に問うのです。他の師は、年長者から若い者へと順に答えたと言います。施し物を行う時のように、年長者から順に与えるのです。また別の説では、一人の比丘が答え、他の者たちは皆それに随喜したと言います。脇尊者は言いました。「先に告白（提案）をしてから、後に籌（木札）を回し、籌を受け取ったことをもって答えとした」と。 その経典にあるように、尊者アーナンダはこれを聞いて合掌し、歓喜し讃嘆し、仏のもとへ赴きました。到着して世尊の両足に頭頂を礼し、一方に退いて立ち、この句義を仏世尊に問いました。 仏は、あの上座尊者や五百人の比丘たちと同じように答えられました。 \*\*問：\*\* 尊者アーナンダは、上座尊者や五百人の比丘たちの説いた義を承認していたのでしょうか。もし承認していたのなら、なぜ改めて仏世尊に問うたのでしょう。もし承認していなかったのなら、なぜ合掌して歓喜し讃嘆したのでしょう。 \*\*答：\*\* アーナンダは彼らの説いた義を承認していました。 \*\*問：\*\* それならなぜ改めて仏世尊に問うたのですか。 \*\*答：\*\* 仏世尊がご存知でありながらお尋ねになるように、尊者アーナンダもまた同じなのです。なぜなら、アーナンダは善く説かれた法の中では、見解や欲求が同じであり、文と義が決定していることを明らかに示そうとしたからです。大師が説かれるように、その弟子たちもまた同じです。親教師が説かれるように、その弟子たちもまた同じです。軌範師が説かれるように、その受学する者たちもまた同じです。このように文と義は微妙で決定しており、これに依って修学すれば、ついには阿羅漢果を証得することができます。外道の説く文や義のように、師と弟子、大衆の間で互いに矛盾し合い、それに依って修学しても空しく何も証得できないのとは異なります。 また、アーナンダは仏の素晴らしい言葉の印で、説かれた義を印証しようとして、改めて仏に問うたのです。もし仏の素晴らしい言葉の印で印証しなければ、説かれた義はまだ動かされる可能性があり、未来の四衆が敬い信じなくなります。世間の文書や符牒のようなもので、もし王の印がなければ、その行く先々で人々は敬い受け入れません。これもまた同じです。だから改めて仏に問うたのです。 その経典にあるように、仏はアーナンダに尋ねられました。「あなたは、上座尊者や五百人の比丘たちにどのような功徳があるかを知っているか。」 アーナンダは仏に申し上げました。「あの上座尊者や五百人の比丘たちは、皆、阿羅漢であり、もろもろの漏（煩悩）はすでに尽き、重い荷をすでに捨て、もろもろの有（存在）の結びつきを尽くし、自己の利益を得て、聖者のご意志をよく成し遂げ、心は善く解脱しております。」 仏はアーナンダに告げられました。「あなたの言う通りである。」 \*\*問：\*\* なぜ世尊は彼らの功徳を尋ねられたのでしょうか。 \*\*答：\*\* 少欲と知足によって覆われている、真実の功徳という宝の蔵を開き示し、世間の人々に知らせて敬い養わせ、優れた果報を得させるためです。世の中の伏蔵（埋蔵物）のようなもので、多くの宝があっても砂や土で覆われていて現れません。もし誰かが開き示せば、無数の人々が採取し受け取って、世の中の富と楽しみを得ることができます。これもまた同じです。だから仏は問われたのです。 また、施主の優れた思願を開き覚ますためです。すなわち、ある施主が常に衣服などの四つの供具で、あの上座尊者や五百人の比丘たちに布施していましたが、彼らに優れた功徳があることを知りませんでした。そこで、彼らに知らせて歓喜躍動し、優れた思願を起こさせようとされたのです。「私たちは、このような福田に出会い、すでに善い種を植えた。必ずや未来世において大きな楽しみを受けるだろう」と。そのため、世尊は彼らの功徳を尋ねられたのです。 また、世間の誹謗の出来事を止めるためです。あの上座尊者は母の胎内に六十年もいました。生まれてからは、容姿は老い衰え、威徳がありませんでした。それで生まれるとすぐに「上座」という名前が付けられました。後に出家しても笑われました。「若くて強い者が昼夜精進しても、まだ果報を得るのは難しい。ましてやこのように年老いて気力の劣った者が、どうして果報を得られようか」と。また、あの上座尊者が教化した五百人の新しく学んだ比丘たちは、以前は提婆達多（天授）に従っていました。人々は非難しました。「こんな年老いた者が名利に貪って五百人を教化し、自分の身の回りの世話をさせている。教え諭して邪法に従わせることすらできない。」五百人の比丘たちは、先に邪な教化を受けましたが、後に正法に帰依して無学の果を得ました。しかし、非難する者もいました。「これらの愚か者たちは、先に利養に貪って、仏を捨てて邪に従った。後に戻ってきても、何も得ることはなかったのだ。」これらの誹謗を止めるために、彼らの功徳を問われたのです。世の人々に、誹謗の罪を捨てて精進して敬い養い、未来世において天界に生まれ解脱することを、共に知らしめるためです。 あの経典では断等の三界を説いていますが、三界の差別を広く弁別してはいません。それがこの論の依って立つ根本です。あの経典で説かれなかったことを、今ここで説こうとするのです。それゆえに、この論が作られたのです。

云何斷界。答除愛結餘結斷名斷界。云何離界答愛結斷名離界。云何滅界。答諸餘順結法斷名滅界。此中先約阿毘達磨。依世俗理說三界別。近對治道有差別故。餘結斷者。餘八結斷。順結法者。謂除九結餘有漏法。是名一種三界差別。復有說者。若八結及此相應并生等斷名斷界。若愛結及此相應并生等斷名離界。若諸餘順結法及此相應并生等斷名滅界。即有漏善及諸有為無覆無記名順結法。復有說者。若無明結斷名斷界。若愛結斷名離界。若諸餘結斷名滅界。復有說者。或有諸法能縛非能染。彼斷名斷界。或有諸法能縛亦能染。彼斷名離界。或有諸法非能縛非能染。而是所縛是所染。彼斷名滅界。復有說者。或有諸法是能繫非能染。彼斷名斷界。或有諸法是能繫是能染。彼斷名離界。或有諸法非能繫非能染。而是所繫所染。彼斷名滅界。有餘師說。唯諸隨眠有自性斷。問契經所說當云何通。如說。一切行斷故名斷界。一切行離故名離界。一切行滅故名滅界。品類足說復云何通。如說。云何所斷法。答一切有漏法。云何遍知法。答一切有漏法。彼作是答。若諸隨眠緣八結起。彼斷名斷界。若諸隨眠緣愛結起。彼斷名離界。若諸隨眠緣餘法起。彼斷名滅界。評曰。彼不應作是說。諸有漏法先被繫縛離繫縛時皆得斷故。有作是說。唯愛隨眠有自性斷。問若爾。前說契經及論當云何通彼作是答。若愛隨眠緣八結起。彼斷名斷界。若愛隨眠緣愛結起。彼斷名離界。若愛隨眠緣餘法起。彼斷名滅界。評曰。彼不應作是說。諸有漏法先被繫縛。離繫縛時皆得斷故。尊者妙音作如是說。煩惱體斷名斷界。於境離繫名離界。棄諸重擔名滅界。脇尊者言。無繫縛繫縛息名斷界。無染污染污息名離界。無彼果彼果息名滅界。尊者設摩達多說曰。諸煩惱斷名斷界。無貪治貪名離界。果相續滅名滅界。尊者左取作是說言。相續斷故名斷界。於緣離繫名離界。離執受故名滅界。復有說者。過去煩惱斷故名斷界。現在煩惱斷故名離界。未來煩惱斷故名滅界。如煩惱斷蘊斷亦爾。復有說者。苦受斷故名斷界。樂受斷故名離界。不苦不樂受斷故名滅界。如三受斷順三受法斷亦爾。復有說者。若苦苦斷名斷界。若壞苦斷名離界。若行苦斷名滅界。復有說者。若欲界斷名斷界。若色界斷名離界。若無色界斷名滅界。如是等說皆依世俗隨就一門辯三界別皆非勝義。諸斷界是離界耶。答如是。設離界是斷界耶。答如是。諸斷界是滅界耶。答如是。設滅界是斷界耶。答如是。諸離界是滅界耶。答如是。設滅界是離界耶。答如是。問何故復作此論。答前約阿毘達磨依世俗理。就近對治辯三界別。今隨契經顯此三界體無差別。謂有漏法一一斷時。皆得一斷。此一一斷約差別義說為三界。故此三界義雖有別而體無異。

> 問う、断界とは何ぞや。 答えよう。「愛結」を除く、残りの「結」を断つことを「断界」という。 問う、離界とは何ぞや。 答えよう。「愛結」を断つことを「離界」という。 問う、滅界とは何ぞや。 答えよう。その他すべての「順結法」、つまり結びつきをもたらす法を断つことを「滅界」という。 ここではまず、アビダルマの教えに基づき、世俗の道理に従って三つの区別を示した。それは、実際の修行の道に対応させるためである。「余結」とは、残り八つの結びのこと。「順結法」とは、九つの結び以外の、煩悩の対象となる有漏の法のことを指す。これが一つの分類である。 また、ある師はこう説く。八つの結びとそれに伴う心作用、そしてそれらから生じるものなどを断つことを「断界」という。愛結とそれに伴う心作用や生じるものなどを断つことを「離界」という。その他すべての順結法とそれに伴うものなどを断つことを「滅界」という。この場合、有漏の善と、無覆無記の有為の法が「順結法」にあたる。 また別の師はこう説く。無明の結びを断つことを「断界」、愛結を断つことを「離界」、残りの結びを断つことを「滅界」とする。 また別の師はこう説く。結びつける力はあるが染める力はない法。それを断つのが「断界」である。結びつける力も染める力もある法。それを断つのが「離界」である。結びつける力も染める力もないが、結ばれ、染められる対象となる法。それを断つのが「滅界」である。 また別の師も同様に、結びつけはするが染めないものの断絶が「断界」、結びつけも染めもするものの断絶が「離界」、結びつけも染めもしないが結ばれ染められるものの断絶が「滅界」であると説く。 さらに別の師は、ただ煩悩（随眠）だけがそれ自体として断たれる性質を持つと主張する。 問う。では経典にある「一切の行を断つゆえに断界という。一切の行を離れるゆえに離界という。一切の行を滅するゆえに滅界という」という教えは、どう解釈すべきか。また『品類足論』の「断たれるべき法とは何か。答え、一切の有漏法である。遍く知られるべき法とは何か。答え、一切の有漏法である」という記述はどうか。 これに対し師は答える。もしある煩悩が八つの結びを縁として生じるなら、それを断つのが「断界」である。煩悩が愛結を縁として生じるなら、それを断つのが「離界」である。煩悩がその他の法を縁として生じるなら、それを断つのが「滅界」である。 しかし批評する。「そのような説は妥当ではない。すべての有漏法は、かつて束縛されていたものが、その束縛から解放されるとき、みな断たれるからである。」 また別の考えとして、ただ愛の煩悩だけが自らの性質として断たれるとする者もいる。 問う。ではその場合、先に引用した経典や論書の言葉はどう解釈するのか。 彼は答える。もし愛の煩悩が八つの結びを縁として生じるなら、それを断つのが「断界」である。愛の煩悩が愛結を縁として生じるなら、それを断つのが「離界」である。愛の煩悩がその他の法を縁として生じるなら、それを断つのが「滅界」である。 しかし批評する。「そのような説も妥当ではない。すべての有漏法は、かつて束縛されていたものが、その束縛から解放されるとき、みな断たれるからである。」 尊者妙音はこう説く。煩悩の本体が断たれることを「断界」、対象に対する執着から離れることを「離界」、重荷を捨て去ることを「滅界」という。 脇尊者はこう説く。束縛がなくなり、束縛が静まった状態を「断界」、汚れがなくなり、汚れが静まった状態を「離界」、その結果がなくなり、結果が静まった状態を「滅界」という。 尊者設摩達多はこう説く。煩悩が断たれることを「断界」、貪りを貪りでなくすことが「離界」、果報の連続が滅することを「滅界」という。 尊者左取はこう説く。心の連続が断たれることを「断界」、縁に対する執着から離れることを「離界」、執受（感覚の基体）から離れることを「滅界」という。 また別の師はこう説く。過去の煩悩が断たれることを「断界」、現在の煩悩が断たれることを「離界」、未来の煩悩が断たれることを「滅界」という。煩悩の断絶についてそうであるように、五蘊の断絶についても同様である。 また別の師はこう説く。苦受が断たれることを「断界」、楽受が断たれることを「離界」、不苦不楽受が断たれることを「滅界」という。三受の断絶についてそうであるように、それに順ずる法の断絶も同様である。 また別の師はこう説く。苦苦が断たれることを「断界」、壊苦が断たれることを「離界」、行苦が断たれることを「滅界」という。 また別の師はこう説く。欲界が断たれることを「断界」、色界が断たれることを「離界」、無色界が断たれることを「滅界」という。 これらの説はすべて、世俗の道理に基づき、ある一面から三つの区別を説明したものである。どれも勝義（究極の真理）ではない。 問う。「断界」は「離界」でもあるのか。 答え。その通りである。では「離界」は「断界」でもあるのか。 答え。その通りである。 問う。「断界」は「滅界」でもあるのか。 答え。その通りである。では「滅界」は「断界」でもあるのか。 答え。その通りである。 問う。「離界」は「滅界」でもあるのか。 答え。その通りである。では「滅界」は「離界」でもあるのか。 答え。その通りである。 問う。なぜ改めてこのような議論をするのか。 答え。先ほどはアビダルマの教えに従い、世俗の道理に基づき、修行の道との対応から三つの区別を示した。しかし今ここでは、経典の意図に従い、この三つの区別は本質的に異ならないことを明らかにするためである。すなわち、有漏の法の一つひとつが断たれるとき、それは一つの断ち切りの働きである。その一つの断ち切りの働きを、異なる側面から三つの「界」として説き分けたにすぎない。したがって、これら三つの「界」は概念上は区別があるが、その本質は一つなのである。

如世尊說。有三想。謂斷想離想滅想。乃至廣說。問何故作此論。答為廣分別契經義故。謂契經說有三種想。謂斷離滅。契經雖作是說。而不廣分別。彼是此論根本。彼所不說者今欲說之。故作此論。云何斷想。答除愛結餘結斷諸想解名斷想。云何離想。答愛結斷諸想解名離想。云何滅想。答諸餘順結法斷諸想解名滅想。此中廣釋如界應知。問何故此中不說三想如前三界展轉相即。答應說而不說者。當知此義有餘。復次此中欲顯異相異文故作是說。若作異相異文說者易受持故。復次此中欲現二門二略二階二蹬二光二炬二明二照二文相影。如界相即。想亦應然。如想不相即界亦應然。而為相影故作是說。問十六行相外有無漏慧不。設爾何失。若有者。識身論及智蘊中何故不說。若無者。此文所說當云何通。如說云何斷想。答除愛結餘結斷。諸想解名斷想。乃至廣說。此斷等想與何行相聖慧相應。品類足論復云何通。如說。云何盡智。謂如實知我已知苦已斷集已證滅已修道。云何無生智。謂如實知我已知苦不復知。乃至我已修道不復修。如是二智何行相攝。集異門論復云何通。如說。如實了知我已盡欲漏有漏無明漏是盡智。不復當盡是無生智。如是二智何行相攝。此論見蘊復云何通。如說。受樂受時如實知受樂受。是何行相。契經所說復云何通。如說。如實了知我生已盡梵行已立所作已辦不受後有。是何行相。有作是說。十六行相外無別無漏慧。故識身論此論智蘊俱不說有。問此中所說當云何通。如說。云何斷想。廣說乃至此斷等想與何行相聖慧相應。答此約所緣建立三想不依行相。由此三想皆作緣滅四行相故。謂緣斷故名為斷想。不於此斷作斷行相。餘二亦爾。若作是說。則此三想如前三界展轉相即。問品類足論復云何通。如說。云何盡智。廣說乃至如是二智何行相攝答如實知我已知苦不復知者。緣苦二行相攝。謂苦非常。我已斷集不復斷者。緣集四行相攝。我已證滅不復證者。緣滅四行相攝。我已修道不復修者。緣道四行相攝。問集異門論復云何通。如說。如實了知我已盡欲漏。廣說乃至如是二智何行相攝。答六行相攝。謂苦非常及緣集四。問見蘊所說復云何通。如說。受樂受時如實知受樂受是何行相。答彼於聖道說樂受聲即是緣道四行相攝。問契經所說復云何通。如說。如實了知我生已盡。廣說乃至是何行相。答如實了知我生已盡者。是緣集四行相。梵行已立者。是緣道四行相所作已辦者。是緣滅四行相。不受後有者。是緣苦二行相。謂苦非常。復次由五緣故經作是說不說行相。云何為五。一由意樂故。謂加行時起此意樂。云何當令我生永盡。廣說乃至不受後有。二由對治故。謂修如是殊勝對治令生永盡。廣說乃至不受後有。三由所作故。謂由如是殊勝所作令生永盡。廣說乃至不受後有。四相續故。謂得如是殊勝相續令生永盡。廣說乃至不受後有。五由補特伽羅故。謂此補特伽羅易現易施設一切生盡。廣說乃至不受後有。由此五緣故作是說。非謂別有如是行相。有餘師說。十六行相外有別無漏慧。問若爾。後說諸文善通識身智蘊何故不說。答應說而不說者。當知此義有餘。復次若有行相現在和合能辦所作有作用者。識身見蘊明了說之。彼未來修畢竟不起。是故不說復次若有行相能入見道得果離染盡諸漏者。識身見蘊明了顯示。彼無此用是故不說。謂彼行相無學果後方起現前。受現法樂遊戲神通觀本所作受用聖財。復次若有行相加行無間解脫勝進四道可得。識身見蘊明了顯示。彼諸行相唯遠加行遠勝進道乃得現起。是故不說。若作是說。十六行相外有無漏慧者。彼說此中依行相別建立三想。謂斷行相相應想名斷想。離行相相應想名離想。滅行相相應想名滅想。如是三想。依行相別建立三種。不約所緣。謂於一一擇滅無為起此三想。如於一的三箭所中其相各異。依此所說斷等三想互不相即。應作是說諸斷想是離想耶答不爾。廣說乃至設滅想是離想耶。答不爾。評曰。應作是說。十六行相外無別無漏慧於理為善。然此中說斷等三想。若無漏者。展轉相即。若是有漏。容作斷等三種行相互不相即。是故此中不決定說。

> 世尊がお説きになったように、三つの想（おもい）があります。すなわち断想、離想、滅想であり、さらに詳しく説かれています。 問：なぜこの論が作られたのか。 答：経典の意味を広く分別するためである。経典には「三つの想がある。すなわち断、離、滅である」と説かれているが、詳細に分別してはいない。これがこの論の根本であり、経典で説かれていないことを今ここで説こうとして、この論が作られたのである。 問：「断想」とは何か。 答：愛結（愛執の束縛）を除いた、その他の結（煩悩の束縛）を断ち切り、諸々の想を解脱させることを断想という。 問：「離想」とは何か。 答：愛結を断ち切り、諸々の想を解脱させることを離想という。 問：「滅想」とは何か。 答：その他の、煩悩に随順する法を断ち切り、諸々の想を解脱させることを滅想という。この中での広い解説は、「界」の場合と同様に知られるべきである。 問：なぜここでは、先の三界（欲界、色界、無色界）が互いに等しいように、三つの想について互いに等しいと説かないのか。 答：本来説くべきであるが説かなかったのは、この意味にはまだ余裕があると知るべきである。また、ここでは異なる相（すがた）と異なる文を示そうとして、このように説いたのである。異なる相と異なる文で説けば、理解しやすく保ちやすいからである。また、ここでは二つの門、二つの略、二つの階、二つの蹬（きざはし）、二つの光、二つの炬（たいまつ）、二つの明、二つの照、二つの文が互いに影となり映すことを示そうとしたのである。「界」が互いに等しいように、「想」もまたそうであるべきである。「想」が互いに等しくないように、「界」もまたそうであるべきである。そして互いに影となり映すために、このように説いたのである。 問：十六行相（観察の十六の側面）の外に、無漏の慧（煩悩を離れた智慧）は存在するのか。 仮に存在するとすれば、「識身論」や「智蘊」でなぜ説かれていないのか。存在しないとすれば、ここでの文はどのようにして通じるのか。「断想とは何か。愛結を除いた、その他の結を断ち切り、諸々の想を解脱させることを断想という」と広く説かれているが、この断想などの想は、いかなる行相の聖慧と対応するのか。また、「品類足論」はどのようにして通じるのか。そこには「尽智とは、如実に我はすでに苦を知り、集を断じ、滅を証し、道を修したと知ることである。無生智とは、如実に我はすでに苦を知り、もはや知らない。乃至、我はすでに道を修し、もはや修しないと知ることである」と説かれている。この二つの智は、いかなる行相に摂せられるのか。「集異門論」はどのようにして通じるのか。そこには「如実に了知して、我はすでに欲漏、有漏、無明漏を尽くしたことが尽智であり、再び尽くすべきことがないことが無生智である」と説かれている。この二つの智は、いかなる行相に摂せられるのか。この論の「見蘊」はどのようにして通じるのか。「楽受（楽しい感受）を受ける時、如実に楽受を受けると知る」と説かれているが、これはいかなる行相か。経典の説はどのようにして通じるのか。「如実に了知して、我が生はすでに尽き、梵行（清らかな行い）はすでに立ち、なすべきことはすでに成し遂げ、再び受けること（輪廻）はない」と説かれているが、これはいかなる行相か。 ある論師は次のように説く。「十六行相の外に、別の無漏慧は存在しない。それゆえに『識身論』やこの論の『智蘊』でも、ともに存在するとは説かれていないのである。」 問：では、ここでの説はどのようにして通じるのか。「断想とは何か」などと広く説かれ、さらにこの断想などの想は、いかなる行相の聖慧と対応するのか。 答：これは、所縁（対象）に基づいて三つの想を建立したものであり、行相に基づくのではない。この三つの想はすべて、縁として滅（涅槃）に関する四行相をなすからである。すなわち、断を縁とするから断想と名づけられ、この断に対して「断ずる」という行相をなすのではない。残りの二つも同様である。このように説くならば、この三つの想は、先の三界のように互いに等しくなるのである。 問：「品類足論」はどのようにして通じるのか。 答：「如実に我はすでに苦を知り、もはや知らない」とは、苦に関する二行相（苦・非常）に摂せられる。「我はすでに集を断じ、もはや断じない」とは、集に関する四行相に摂せられる。「我はすでに滅を証し、もはや証しない」とは、滅に関する四行相に摂せられる。「我はすでに道を修し、もはや修しない」とは、道に関する四行相に摂せられる。 問：「集異門論」はどのようにして通じるのか。 答：「如実に了知して、我はすでに欲漏を尽くした」などと広く説かれているが、この二つの智は六つの行相に摂せられる。すなわち、苦・非常、および集に関する四行相である。 問：「見蘊」の説はどのようにして通じるのか。 答：「楽受を受ける時、如実に楽受を受けると知る」とは、いかなる行相か。 答：それは聖道において「楽受」という言葉を用いたものであり、つまりは道に関する四行相に摂せられる。 問：経典の説はどのようにして通じるのか。 答：「如実に了知して、我が生はすでに尽きた」などと広く説かれているが、これはいかなる行相か。 答：「如実に了知して、我が生はすでに尽きた」とは、集に関する四行相である。「梵行はすでに立った」とは、道に関する四行相である。「なすべきことはすでに成し遂げた」とは、滅に関する四行相である。「再び受けることはない」とは、苦に関する二行相（苦・非常）である。 また、五つの理由によって経典はこのように説き、行相については説かなかったのである。五つとは何か。第一に、意楽（意志・願望）による。すなわち、加行（努力）の時に「どうか我が生が永遠に尽きますように」乃至「再び受けることがありませんように」という意楽を起こすからである。第二に、対治による。すなわち、このような殊勝な対治を修することによって、生が永遠に尽きる乃至再び受けることがなくなるからである。第三に、所作（作用）による。すなわち、このような殊勝な所作によって、生が永遠に尽きる乃至再び受けることがなくなるからである。第四に、相続による。すなわち、このような殊勝な相続（心身の連続）を得ることによって、生が永遠に尽きる乃至再び受けることがなくなるからである。第五に、補特伽羅（人）による。すなわち、この補特伽羅は、すべての生が尽きたこと乃至再び受けることがないことを、示しやすく、説きやすいからである。これらの五つの理由によってこのように説かれたのであり、別にこのような行相があるというわけではない。 別の論師は次のように説く。「十六行相の外に、別の無漏慧が存在する。」 問：もしそうならば、前述の諸々の文はよく通じるが、『識身論』や『智蘊』ではなぜ説かれていないのか。 答：本来説くべきであるが説かなかったのは、この意味にはまだ余裕があると知るべきである。また、現在において和合し、所作を成し遂げる作用のある行相を、『識身論』や『見蘊』は明確に説くのである。未来において修されるとしても、結局は現前しないものは、そのために説かれないのである。また、見道に入り、果を得て、染を離れ、諸々の漏を尽くすことのできる行相を、『識身論』や『見蘊』は明確に示すのである。これらの行相にはそのような作用がないために説かれないのである。これらの行相は、無学の果を得た後に現前し、現法楽住（現世での安楽）を受け、神通を遊戯し、本来なしたことを観察し、聖財（聖なる財産）を受用するのである。また、加行道、無間道、解脱道、勝進道の四つの道が得られる行相を、『識身論』や『見蘊』は明確に示すのである。これらの行相は、遠い加行道と遠い勝進道においてのみ現前するために、説かれないのである。 十六行相の外に無漏慧が存在すると説く者によれば、ここでは行相の違いに基づいて三つの想を建立するのである。すなわち、「断ずる」という行相と対応する想を断想と名づけ、「離れる」という行相と対応する想を離想と名づけ、「滅する」という行相と対応する想を滅想と名づける。この三つの想は、行相の違いに基づいて三つが建立され、所縁（対象）には基づかない。すなわち、一つの択滅無為（選択による滅、涅槃）に対して、この三つの想が起こるのである。例えば、一つの的に三本の矢が当たるようなもので、その相はそれぞれ異なる。この説に基づけば、断などの三つの想は互いに等しくない。「断想は離想であるか」と問えば、「そうではない」と答えるべきであり、広く「滅想は離想であるか」と問えば、「そうではない」と答えるべきである。 評して言えば、「十六行相の外に別の無漏慧は存在しない」という説が、理として優れている。しかし、ここで説かれる断などの三つの想について、もし無漏であるならば、互いに等しくなり、もし有漏であるならば、断などの三つの行相をなすことができ、互いに等しくはならないのである。それゆえに、ここでは断定して説かなかったのである。