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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 1"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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### 大毘婆沙論雜蘊第一中愛敬納息第四之一

> 大毘婆沙論 雑蘊第一 愛敬納息第四之一

云何愛。云何敬。如是等章。及解章義。既領會已。次應廣釋。問何故作此論。答為廣分別契經義故。謂契經說。若有修習慚愧圓滿。應知愛敬亦得圓滿。契經雖作是說。而不分別云何愛云何敬。契經是此論所依根本。彼所不分別者今應盡分別之。復次為欲訶毀非善士法令棄捨故。為欲讚歎諸善士法令修習故。為欲顯示五濁增時廣大有情甚難得故。此中非善士法者。謂有一類。愛則妨敬。敬則妨愛。愛妨敬者。如有父母於子寵極。子於父母有愛無敬。師於弟子應知亦然。此等名為愛則妨敬敬妨愛者。如有父母於子嚴酷子於父母有敬無愛。師於弟子應知亦然。此等名為敬則妨愛。如是俱名非善士法。善士法者。謂有一類愛則加敬敬則加愛。愛敬俱行名善士法。若有此法增上圓滿。應知即是廣大有情。如是有情甚為難得。世若無佛此類難遇。設令有者是大菩薩。諸大菩薩愛敬必俱。為顯此事及前所說三種因緣故作斯論。

> 問う、何をか愛とし、何をか敬とする。これらの章およびその章の義を解するところ、すでに領会したのち、次に広く釈すべきである。問う、何をもってこの論を作るや。答う、広く契経の義を分別せんがためなり。謂わく、契経に説く「もし修習して慚愧円満する者あらば、まさに知るべし、愛敬もまた円満することを得ん」と。契経はかくのごとく説くと雖も、しかして「云何が愛、云何が敬」と分別せず。契経はこの論の依る所の根本なり。彼の分別せざる所を、今まさに尽く分別すべし。また、善からざる士の法を訶毀して、これを棄捨せしめんがため、諸の善士の法を讚歎して、これを修習せしめんがため、五濁増す時に、広大有情の甚だ得難きことを顕示せんがためなり。この中、善からざる士の法とは、あるいは一類の者あり。愛すれば則ち敬を妨げ、敬すれば則ち愛を妨ぐ。愛が敬を妨ぐとは、もし父母が子を寵愛極まりなきがごとし。子は父母に対して愛ありて敬なし。師が弟子に対するもまた、かくのごとしと知るべし。これらを名づけて「愛すれば則ち敬を妨ぐ」とす。敬が愛を妨ぐとは、もし父母が子に対して厳酷なるがごとし。子は父母に対して敬ありて愛なし。師が弟子に対するもまた、かくのごとしと知るべし。これらを名づけて「敬すれば則ち愛を妨ぐ」とす。かくのごときを、倶に名づけて善からざる士の法とす。善士の法とは、あるいは一類の者あり。愛すれば則ち敬を加え、敬すれば則ち愛を加う。愛敬倶に行なうを名づけて善士の法とす。もしこの法が増上して円満する者あらば、まさに知るべし、すなわち是れ広大有情なり。かくのごとき有情は、甚だもって得難し。世に仏なければ、この類に遇うこと難し。仮令有るとも、是れ大菩薩なり。諸の大菩薩は、愛敬必ず倣う。この事および先に説く所の三種の因縁を顕さんがために、この論を作る。

云何愛。答諸愛等愛憙等憙樂等樂是謂愛。此本論師於異文義得善巧故。以種種文顯示此愛而體無別。問愛以何為自性。答愛有二種。一染污謂貪。二不染污謂信問諸貪皆愛耶。答應作順前句謂貪皆愛。有愛非貪此即是信問諸信皆愛耶。有作是說諸信皆愛。有愛非信謂染污愛。應作是說信有二種。一者於境唯信不求。二者於境亦信亦求。是故此中應作四句有是信非愛。謂信不求有是愛非信。謂染污愛。有亦信亦愛。謂信亦求。有非信非愛。謂除前相。云何敬。答謂有敬有敬性。有自在有自在性。於自在者有畏怖轉是謂敬。此本論師於異文義得善巧故。以種種文顯示此敬。而體無別。問敬以何為自性答敬以慚為自性。

> 問う、愛とは何か。答える、種々の愛、等しい愛、喜びにおける等しい喜び、楽における等しい楽、これを愛と謂う。この本論の師は、異なる文や義に巧みであるが故に、種々の文をもってこの愛を示すが、その体に別はない。問う、愛は何を自性とするのか。答える、愛には二種ある。一は染汚、即ち貪であり、二は不染汚、即ち信である。問う、全ての貪は愛なりや。答える、順前句を作して答えるべきである。即ち、貪は全て愛である。愛にして貪にあらざるものあり、これは即ち信である。問う、全ての信は愛なりや。ある者は説いて、諸々の信は全て愛であると為す。愛にして信にあらざるものあり、即ち染汚の愛であると。かく説くべきである。信には二種あり。一は境に対して唯だ信じて求めず、二は境に対して信じ且つ求む。是の故に此の中に於て四句を作すべきである。信にして愛にあらざるあり、謂わく信じて求めざるなり。愛にして信にあらざるあり、謂わく染汚の愛なり。亦信亦愛あり、謂わく信じて亦求むるなり。非信非愛あり、謂わく前の相を除く。問う、敬とは何か。答える、謂わく、敬あり敬の性あり、自在あり自在の性あり。自在なる者に対して畏怖ありて転ずる、これを敬と謂う。この本論の師は、異なる文や義に巧みであるが故に、種々の文をもってこの敬を示すが、その体に別はない。問う、敬は何を自性とするのか。答える、敬は慚を以て自性と為す。

云何愛敬。乃至廣說。問何故復作此論。答前雖別說愛敬自性。而未總說於一境轉。今欲顯示愛敬二種於一境轉故作斯論。云何愛敬。答如有一類於佛法僧親教軌範及餘隨一有智尊重同梵行者。愛樂心悅恭敬而住。若於是處有愛及敬。是謂愛敬。此中一類者。謂異生或聖者。異生於佛愛樂心悅恭敬住者彼作是念。佛威力故我等解脫災橫王役種種苦事。及得世間諸資生具。聖者於佛愛樂心悅恭敬住者彼作是念。佛威力故我等永捨諸惡趣因。斷二十種薩迦耶見。得正決定見四聖諦。於無邊際生死輪迴諸苦事中。已作分限。復次彼二於佛愛樂心悅恭敬住者。俱作是念。佛威力故我等出家受具足戒得苾芻性。及餘利益安樂資糧。是故尊者鄔陀夷言。世尊於我有大恩德。謂拔我無量苦。與我無量樂。滅我無量惡。生我無量善。復次彼二於佛俱作是念。世尊開發我等慧眼故應愛敬。是故尊者舍利子言。若佛世尊不出于世。我等一切盲生盲死。復次彼二於佛俱作是念。佛為法王最初開示無上正法。令諸有情無倒了達。雜染清淨繫縛解脫。流轉還滅生死涅槃。餘無此能。故應愛敬。復次彼二於佛俱作是念。世尊最初出無明㲉宣說正法。亦令無量無邊有情出無明㲉。餘無此能。故應愛敬。復次彼二於佛俱作是念。無始時來七依勝定隱蔽不現。佛出世間無倒開示令無量眾依之趣入大涅槃宮。餘無此能。故應愛敬。復次彼二於佛俱作是念。佛威力故能令無量無邊有情修諸善法。謂從不淨觀乃至無生智。餘無此力。故應愛敬。復次彼二於佛俱作是念。佛威力故令諸有情種諸善根成熟解脫。餘無此力。故應愛敬。復次彼二於佛俱作是念。佛威力故念住正斷神足根力覺支道支三十七種菩提分等功德寶藏出現世間。利益安樂無邊有情故應愛敬。彼二於法愛樂心悅恭敬住者俱作是念。我依此法解脫一切身心苦惱究竟安樂。彼二於僧愛樂心悅恭敬住者俱作是念。僧威力故我於正法毘奈耶中淨信出家。受具足戒得苾芻性。能正受持百一羯磨。無所毀犯安樂而住。由此速證究竟涅槃。彼二俱於親教軌範及餘隨一有事尊重同梵行者。愛樂心悅恭敬住者。謂作是念。此諸師友為我伴侶。令我於法勤修正行速得成辦。於前所說三寶師友殊勝境中。具起愛敬。餘則不定。應作四句。謂或有境起愛非敬。如父母於子師於弟子等。或復有境起敬非愛。如於有德非已師長。或復有境起愛及敬。如有一類子於父母弟子於師等。或復有境不起愛敬。謂除前相。問如是愛敬於何處有。答三界五趣雖皆容有。而此中說殊勝愛敬唯在欲界人趣非餘。唯佛法中有此愛敬。

> 問う、何を「愛敬」と言うのか。乃至、広く説く。 問う、なぜまたこの論を設けるのか。 答える、前には別々に愛敬の自性を説いたが、未だ総じて一つの境において転ずることを説いていなかった。今、愛と敬の二種が一つの境において転ずることを示そうとして、この論を設ける。 問う、何を「愛敬」と言うのか。 答える、例えば、ある者が仏・法・僧、親教師・軌範師、その他、あるいは一人の智ある尊敬すべき同梵行者に対して、愛楽し心楽しみ恭しく敬いながら住する。もしその処に愛と敬が有るならば、これを愛敬と言う。 ここに「一類」とは、凡夫あるいは聖者を言う。 凡夫が仏に対して愛楽し心楽しみ恭しく敬いて住するのは、彼らがこのように思うからである。「仏の威力によって、我等は災いや禍い、王の使役、種々の苦しみの事から解脱し、また世間の諸々の資生の具を得た」と。 聖者が仏に対して愛楽し心楽しみ恭しく敬いて住するのは、彼らがこのように思うからである。「仏の威力によって、我等は永遠に諸々の悪趣の因を捨て、二十種類の薩迦耶見を断ち、正決定を得て四聖諦を見、限りない生死輪廻の諸々の苦しみの事について、既に区切りを為した」と。 また、その二者が仏に対して愛楽し心楽しみ恭しく敬いて住するのは、共にこのように思うからである。「仏の威力によって、我等は出家し具足戒を受け、苾芻の性を得て、その他の利益や安楽の資糧を得た」と。 それ故に、尊者鄔陀夷は言う。「世尊は私に対して大いなる恩徳が有る。すなわち、私から限りない苦しみを抜き、私に限りない楽を与え、私の限りない悪を滅し、私に限りない善を生じさせた」と。 また、その二者は仏に対して共にこのように思う。「世尊は我等の慧眼を開いて下さった。故に愛敬すべきである」と。 それ故に、尊者舎利子は言う。「もし仏世尊が世に出ずんば、我等は皆、盲いて生まれ盲いて死ぬであろう」と。 また、その二者は仏に対して共にこのように思う。「仏は法王であり、最初に無上の正法を開示し、諸々の有情に誤りなく、雑染と清浄、繫縛と解脱、流転と還滅、生死と涅槃を了達させる。他の者にこの能力は無い。故に愛敬すべきである」と。 また、その二者は仏に対して共にこのように思う。「世尊は最初に無明の卵の殻を出て正法を宣説し、また限りなく多くの有情に無明の卵の殻を出させた。他の者にこの能力は無い。故に愛敬すべきである」と。 また、その二者は仏に対して共にこのように思う。「無始の時より、七つの依る所の勝定は隠蔽して現れなかったが、仏が世に出て誤りなく開示し、限りない衆生にそれに依って大涅槃の宮殿に入らせた。他の者にこの能力は無い。故に愛敬すべきである」と。 また、その二者は仏に対して共にこのように思う。「仏の威力によって、限りなく多くの有情に諸々の善法を修めさせることができる。すなわち、不浄観から無生智に至るまで。他の者にこの力は無い。故に愛敬すべきである」と。 また、その二者は仏に対して共にこのように思う。「仏の威力によって、諸々の有情に諸々の善根を植え、成熟させ、解脱させることができる。他の者にこの力は無い。故に愛敬すべきである」と。 また、その二者は仏に対して共にこのように思う。「仏の威力によって、念住、正断、神足、根、力、覚支、道支、三十七種の菩提分等の功徳の宝蔵が世に出現し、限りない有情を利益し安楽にする。故に愛敬すべきである」と。 その二者が法に対して愛楽し心楽しみ恭しく敬いて住するのは、共にこのように思うからである。「我はこの法に依って、一切の身心の苦悩から解脱し、究極の安楽を得る」と。 その二者が僧に対して愛楽し心楽しみ恭しく敬いて住するのは、共にこのように思うからである。「僧の威力によって、我は正法と毘奈耶の中で清らかな信をもって出家し、具足戒を受け苾芻の性を得、正しく百一羯磨を受持し、毀犯することなく安楽に住し、これによって速やかに究極の涅槃を証する」と。 その二者が共に親教師、軌範師、その他、あるいは一人の事ある尊重すべき同梵行者に対して愛楽し心楽しみ恭しく敬いて住するのは、このように思うからである。「これらの師や友は我が伴侶であり、我に法において勤め正しく修行し、速やかに成弁させる」と。 前に説いた三宝や師友の殊勝な境において、愛と敬を共に起こす。その他の場合は定まらず、四句を作すべきである。 すなわち、ある境には愛が起こり敬は起こらない。例えば、父母が子に対する、師が弟子に対する等。 また、ある境には敬が起こり愛は起こらない。例えば、徳が有るが自分の師長ではない者に対して。 また、ある境には愛と敬が共に起こる。例えば、ある種の子が父母に対する、弟子が師に対する等。 また、ある境には愛も敬も起こらない。前の相を除くものを言う。 問う、このような愛敬は何処に有るのか。 答える、三界五趣は皆、有ることは可能である。しかし、ここで説く殊勝な愛敬は、ただ欲界の人間の趣にのみ有り、他の趣には無い。ただ仏法の中にのみ、この愛敬が有る。

云何供養乃至廣說。問何故作此論。答為廣分別契經義故。謂契經說。

> 供養とは何か、さらには広く説かれていることについて問う。なぜこの論を作ったのか。答える。経典の意味を広く分別するためである。すなわち経典にこう説かれている。

若於佛法僧及所受學處能供養恭敬乃名為智者若於不放逸及勝三摩地能供養恭敬不退近涅槃

> もし仏法僧と、お受けした戒律（学処）に対して、 供養し敬うならば、それをこそ賢者と呼ぶ。 もし心の油断（放逸）を離れることと、優れた禅定（三昧）に対して、 供養し敬うならば、彼は退くことなく涅槃に近づく。

契經雖作是說。而不廣分別。云何供養。云何恭敬。彼是此論所依根本。彼不說者今應說之。復次為欲訶毀非善士法令棄捨故。為欲讚歎諸善士法令修習故。為欲顯示五濁增時廣大有情甚難得故。此中非善士法者。謂有一類若供養則妨恭敬。若恭敬則妨供養。云何供養則妨恭敬。如在家者或有男女雖具勢力能以種種資生珍饌供養父母。而恃此力心生輕慢。如出家者。或有弟子福德多聞。雖於其師能設種種財法供養。而恃此事遂於師所不生恭敬。此等供養則妨恭敬。云何恭敬則妨供養。如有一類懼他威力雖恭敬之而不供養。如是俱名非善士法。善士法者。謂有一類若供養彼則加恭敬。若恭敬彼則加供養。二事俱行。名善士法。若有此法增上圓滿。應知即是廣大有情。如是有情甚為難得世若無佛。此類難遇。設令有者是大菩薩諸大菩薩此二必俱。為顯此事及前所說三種因緣故作斯論。

> 契経はこのように説くが、詳しく分別してはいない。いかなることが供養であり、いかなることが恭敬であるのか。それはこの論の依拠する根本である。そこで、経典が説かなかったことを、ここで説くべきである。 さらに、善からざる人の法を非難し捨てさせるため、善い人の法を讚歎し修行させるため、また五濁が増す時において、広大な有情が極めて得難いことを示すためである。 ここで「善からざる人の法」とは、ある種の者において、供養すれば恭敬を妨げ、恭敬すれば供養を妨げることをいう。 「供養が恭敬を妨げる」とはどういうことか。在家の者でいえば、ある男女は勢力を備え、様々な資生の財や珍しい食事で父母を供養することができるが、その力を恃んで心に軽蔑を生じることがある。出家者でいえば、ある弟子は福徳と多聞を備え、師に対して様々な財施・法施の供養を設けることができるが、そのことを恃んで師に対して恭敬の心を生じないことがある。これらが供養が恭敬を妨げる例である。 「恭敬が供養を妨げる」とはどういうことか。ある種の者は、他者の威力を恐れて、恭敬はするが供養しないことである。これらをともに「善からざる人の法」という。 「善い人の法」とは、ある種の者において、供養すればその者に対してさらに恭敬し、恭敬すればその者に対してさらに供養することである。二つの行いをともに実践することを「善い人の法」という。 もしこの法が増上して円満したならば、それを「広大なる有情」と知るべきである。このような有情は極めて得難い。世に仏がいなければ、このような者に出会うことは難しい。たとえいたとしても、それは大菩薩である。大菩薩は必ずこの二つ（供養と恭敬）をともに備えている。このことを示すため、および先に述べた三つの因縁のため、この論が作られたのである。

云何供養。答此有二種。一財供養。二法供養。財供養者。問財供養以何為自性。有作是說。為饒益故捨諸財物。即所捨財是此自性。有餘師說。能供養者。身語二業是此自性。或有說者。即能發彼心心所法是此自性。復有說者。受者受已諸根大種及餘造色皆得增長是此自性。評曰。應作是說。若所捨財。若能捨者身語二業。若能發彼心心所法。若受者受已諸根大種造色增長皆此自性。如是財供養。總用五蘊以為自性。已說自性。所以今當說。問何故名財供養。財供養是何義。答能為緣義。是供養義。此以財為初故名財供養。若為饒益故捨諸財物。受者受已身心增益如是名施亦名供養。若為饒益故捨諸財物。受者受已身心損減。如是名施不名供養。若為損害故捨匪宜物。受者受已或由神通或由呪藥或由福力身心增盛。此雖非施而名供養若為損害故捨匪宜物。受者受已身心損減。此不名施亦非供養。問此財供養在何處有。答唯在欲界。非色無色唯在四趣。非捺落迦。問此財供養誰設誰受。有作是說。傍生趣設。唯傍生趣受。乃至天趣設。唯天趣受。有餘師說。傍生趣設唯傍生受。鬼趣設二趣受。人趣設三趣受。天趣設四趣受。下不及上上及下故。評曰。應作是說。四趣皆能展轉供養問施設論說。天欲食時取空寶器。以衣覆上而置座前。經須臾頃隨其福力麁妙飲食自然盈滿。既爾如何受他供養。答雖不受他飲食供養。而有受餘香花資具。法供養者。問法供養以何為自性。有作是說。以說法者語為自性。有餘師說。以語所起名為自性。或有說者。以能發語心心所法為其自性。復有說者。受者聞已生未曾有善巧覺慧以為自性。評曰。應作是說。若說法者語。若能發語心心所法。若受者聞已生未曾有善巧覺慧皆此自性。如是法供養。總用五蘊以為自性。已說自性。所以今當說。問何故名法供養。法供養是何義。答能為緣義是供養義。此以法為初故名法供養。若為饒益故為他說法。他聞法已生未曾有善巧覺慧。如是名施亦名供養。若為饒益故為他說法。他聞法已不生未曾有善巧覺慧。如是名施不名供養。若為損害故說譏刺他法。他聞是已住正憶念歡喜忍受不數其過。生未曾有善巧覺慧。此雖非施而名供養。若為損害故說譏刺他法。他聞是已發恚恨心。不生未曾有善巧覺慧。此不名施亦非供養。問此法供養在何處有。答此法供養在欲色界。非無色界。五趣皆有。地獄有者如慈授子生地獄中。謂是浴室見諸苦具。便說頌言甞聞世間受苦樂非我非他之所作。受諸苦樂皆緣身身若滅無誰復受時彼地獄無量眾生聞此頌已脫地獄苦。從彼命終生天受樂。傍生有者。如迦賓折羅鳥自修梵行為他說法。鬼趣有者。如發愛鬼母為諸鬼子說是頌言。

> \## 供養とは何か これには二種類ある。一つは財による供養、もう一つは法による供養である。 #### 財による供養について 財供養の本質は何か。ある者はこう説く。「利益のため財物を施すこと。その施される財そのものが本質である」と。別の師は、「供養する側の身体とことばの行為が本質である」と説く。またある者は、「その行為を起こす心や心の働きが本質である」と説く。さらに別の者もいる。「受け取った側が受けた後、諸々の感覚器官や体の構成要素、さらにはその他もろもろの物質が増大することが本質である」と。 結論として、こう言うべきである。「施される財、施す側の身体とことばの行為、それを起こす心や心の働き、受け取った側の諸器官や体の構成要素、物質の増大、これらすべてが本質である」。このように、財による供養は、五蘊（物質・感覚・知覚・心の働き・意識）のすべてをその本質とする。 本質について述べたので、次にその理由を説明しよう。 問う。なぜ財による供養というのか。財供養の意味は何か。 答える。「縁（条件）となること」が供養という意味である。これが財を第一とするから、財による供養という。もし利益のために財物を施し、受け取った側が身心ともに利益を受ければ、それは「施し」とも「供養」とも呼ばれる。利益のために財物を施しても、受け取った側の身心が損なわれるなら、それは「施し」ではあっても「供養」ではない。もし害を与えるために不適切な物を施し、受け取った側が神通力や呪いや薬、あるいは福徳の力によって身心が増大するなら、これは「施し」ではないが「供養」と呼ばれる。もし害のために不適切な物を施し、受け取った側の身心が損なわれるなら、これは「施し」でも「供養」でもない。 問う。この財による供養は、どこに存在するのか。 答える。欲界（欲望の世界）のみにあり、色界や無色界にはない。また、地獄を除く四つの生存領域（人間・天・畜生・餓鬼）に存在する。 問う。この財供養は、誰が施し、誰が受けるのか。 ある者はこう説く。「畜生が施し、畜生のみが受ける。……天が施し、天のみが受ける」と。別の師は、「畜生が施せば畜生のみが受ける。餓鬼が施せば二つの領域（餓鬼と畜生）が受ける。人間が施せば三つの領域が受ける。天が施せば四つの領域が受ける。下の領域は上に及ばず、上の領域は下に及ぶからである」と説く。 結論として、こう言うべきである。「四つの領域はすべて、相互に供養し合うことができる」と。 問う。「施設論」にこうある。「天人が食事を欲するとき、空の宝器を取り、衣で覆って座前に置く。しばらくすると、その福徳の力に応じて、粗末なものや上等な飲食物が自然に満ちる」。それならば、どうして他人の供養を受けることができるのか。 答える。飲食物の供養は受けないが、香りや花などの供養は受けるのである。 #### 法による供養について 法供養の本質は何か。ある者は、「説法者のことばが本質である」と説く。別の師は、「ことばによって生じる名前（概念）が本質である」と説く。またある者は、「ことばを発させる心や心の働きが本質である」と説く。さらに別の者もいる。「聞き手が聞いた後、いまだかつてない巧みな智慧を生じることが本質である」と。 結論として、こう言うべきである。「説法者のことば、それを発させる心や心の働き、聞き手が聞いた後、いまだかつてない巧みな智慧を生じること、これらすべてが本質である」。このように、法による供養も五蘊をその本質とする。 本質について述べたので、次にその理由を説明しよう。 問う。なぜ法による供養というのか。法供養の意味は何か。 答える。「縁となること」が供養という意味である。これが法を第一とするから、法による供養という。もし利益のために相手に説法し、相手が聞いて、いまだかつてない巧みな智慧を生じるなら、それは「施し」であり「供養」でもある。利益のために説法しても、相手がいまだかつてない巧みな智慧を生じなければ、それは「施し」ではあっても「供養」ではない。もし害を与えるために相手を非難するような法を説き、相手がそれを聞いても正しい記憶を保ち、喜んで受け入れ、相手の過ちを数え上げず、いまだかつてない巧みな智慧を生じるなら、これは「施し」ではないが「供養」と呼ばれる。もし害を与えるために非難の法を説き、相手が聞いて怒りの心を起こし、いまだかつてない巧みな智慧を生じなければ、これは「施し」でも「供養」でもない。 問う。この法による供養は、どこに存在するのか。 答える。欲界と色界にあり、無色界にはない。また、五つの生存領域すべてに存在する。地獄では、例えば慈授子が地獄に生まれ、浴室のような場所で苦しみの器具を見て、こう詩を唱えた。「世間に苦楽があると聞くが／それは私や他人のせいではない。／すべての苦楽は身体に由来する。／身体が滅びれば、誰が苦楽を受けるのか」。その時、地獄の無数の生き物がこの詩を聞いて地獄の苦しみから脱し、その後に天に生まれて楽しみを受けたという。畜生では、例えば迦賓折羅鳥が自ら梵行を実践し、他人のために説法した。餓鬼では、例えば発愛鬼母が自分の子らにこう詩を唱えた。

默然汝上勝默然汝井宿我得見諦時亦當令汝見

> 沈黙しているあなた、最高の者よ。沈黙しているあなた、井に宿る者よ。 私が真理を見極めた時、あなたにもまた、それを見せてあげよう。

人趣有者。如今現見。天趣有者。欲界天中如補處慈尊為諸天說法。色界天中如手天子來白佛言。如此世尊四眾圍遶為說正法聞已奉行。我聞法已還無熱天。為彼諸天說法亦爾。問此法供養誰設誰受。有作是說。地獄趣設唯地獄趣受。乃至唯天趣設唯天趣受。有餘師說。地獄趣設唯地獄趣受。傍生趣設二趣受。鬼趣設三趣受。人趣設四趣受。天趣設五趣受。評曰。應作是說。五趣皆能展轉供養。云何恭敬。答諸有恭敬有恭敬性。有自在有自在性。於自在者有怖畏轉。是謂恭敬。此本論師於異文義得善巧故。以種種文顯示恭敬。而體無別恭敬亦以慚為自性。

> \*\*人趣について言えば、今この世界で現に見ることができる。天趣については、欲界天では弥勒菩薩が天人のために説法している姿が見られる。色界天では、手天子が仏のもとに来てこう申し上げた。「このように世尊は四衆に囲まれ、正しい法を説かれ、我々はそれを聞いて実践しています。私はこの法を聞いた後、無熱天に戻り、そこの天人のために同じように法を説きます」と。\*\* \*\*問う。この法の供養は、誰が設け、誰が受けるのか。\*\* \*\*ある論師はこう説く。「地獄趣が設けたものは、地獄趣だけが受ける。天趣が設けたものは、天趣だけが受ける」と。\*\* \*\*また別の論師はこう説く。「地獄趣が設けたものは、地獄趣だけが受ける。傍生趣が設けたものは、二つの趣が受ける。鬼趣が設けたものは、三つの趣が受ける。人趣が設けたものは、四つの趣が受ける。天趣が設けたものは、五つの趣が受ける」と。\*\* \*\*評して言う。こう説くべきである。「五趣はすべて互いに供養し合うことができる」と。\*\* \*\*問う。では「恭敬」とは何か。\*\* \*\*答える。恭敬には恭敬の性質があり、自在には自在の性質がある。自在なる者に対しては、畏怖の念が生じる。これを恭敬という。この本論の師は、異なった文の意味に巧みであったので、様々な言葉で「恭敬」を表しているが、その本体に違いはない。恭敬もまた、慚（恥じる心）をその自性とするのである。\*\*

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第二十九

> 説一切有部発智大毘婆沙論 巻第二十九