---
title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 2"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm9to6utj00jzhj0vrhaczep7"
---

## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第三十

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第三十巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 雜蘊第一中愛敬納息第四之二

> 雑蘊第一中 愛敬納息第四の二

云何供養恭敬乃至廣說。問何故復作此論。答前雖別說供養恭敬自性。而未總說於一境轉。今欲顯示此二於一境轉故作斯論云何供養恭敬。答如有一類於佛法僧親教軌範及餘隨一有智尊重同梵行者。施設供養恭敬而住。若於是處有供養及恭敬。是謂供養恭敬。此中一類義如前說。謂異生或聖者。於佛施設供養恭敬而住者。唯施設財供養恭敬而住非法供養。所以者何。佛於諸法已得究竟。不復從他受學法故。無有能為世尊說法令生未曾有善巧覺慧故。於法施設供養恭敬而住者。有本不說敬養法言。以於涅槃無緣義故。前說供養謂能為緣涅槃無緣是故不說。而有本說者雖於涅槃無生長義而有於彼令顯了義謂以財法供養涅槃令諸有情恭敬求證由斯展轉斷障證得。復次法有二種。一世俗謂名身等法。二勝義謂究竟涅槃。雖於勝義法無生長義而於世俗法有生長義。是故於法亦有敬養。問諸施法物誰應受之。答施世俗法物說法師應受。或應以此書寫正法施勝義法物。應勤加守護猶如守護窣堵波物。於僧施設供養恭敬而住者通財法二供養。財供養者謂以香華衣食等物供養僧眾。或設五年大會等事名財供養僧。法供養者謂以三契聲等為眾宣說正法。或在眾中論議決擇。或復處眾讚美功德申述所願令眾歡悅。諸如是等名法供養僧。於親教軌範及餘隨一有智尊重同梵行者。施設供養恭敬而住者。亦通財法二種供養。財供養者謂以衣鉢飲食湯藥及餘隨一沙門資具而供養之。法供養者謂以三藏勸令受持。或為解釋令無疑滯。或復勸請令修正行。諸如是等名法供養。於上所說三寶師友殊勝境中隨應供養恭敬而住。故餘境中不決定有准前應說。問供養恭敬何處具有。答欲界具有非色無色界。於欲界中四趣具有非捺落迦以地獄中無財供養唯有法故。問此財法供養誰設誰受。答佛於一切有情能設財法二供養。彼隨所應能受。一切有情於佛隨應能設財供養非法供養。無能為佛說法者故。及不能生佛未曾有善巧覺慧故。獨覺除佛於一切有情能設財法二供養。彼隨所應能受。一切有情於獨覺隨應能設財供養。非法供養。舍利子除佛獨覺。於一切有情能設財法二供養。彼隨所應能受。一切有情於舍利子隨應能設財供養非法供養。大目乾連除佛獨覺及舍利子。於一切有情能設財法二供養彼隨所應能受。一切有情於大目乾連隨應能設財供養非法供養。乃至利根者於鈍根者隨應能設財法二供養。彼隨所應能受。鈍根者於利根者隨應能設財供養非法供養彼隨所應能受。

> ここで問う。どのように供養・恭敬について説くのか。そもそもなぜ再びこの論を設けるのか。答えていう。前に個別に供養・恭敬の自性を説いたが、まだ総じて一つの境において働くことを説いていない。今、この二者が一つの境において働くことを示そうとして、この論を作るのである。どのように供養・恭敬と説くのか。答えていう。例えばある一類の者は、仏・法・僧、親教師・軌範師、およびその他の一人の智ある尊者・同梵行者に対し、供養・恭敬を施して安住する。もしその処に供養と恭敬とがあるならば、これを供養・恭敬と名づける。 この中の「一類」の意味は前に説いた通りであり、凡夫または聖者をいう。仏に供養・恭敬を施して安住するとは、ただ財物の供養・恭敬のみを施して安住し、法の供養ではない。なぜなら、仏は諸法においてすでに究竟を得ており、再び他者から法を学ぶことがないからである。世尊のために法を説いて、未だ曾て有らざる善巧の覚慧を生ぜしめることのできる者はないからである。 法に供養・恭敬を施して安住するとは、ある本には法を敬い養う語を説かない。涅槃には縁となる義がないからである。前に供養とは縁をなすことのできるものをいうが、涅槃には縁がないので、説かないのである。しかし、ある本に説くところがあるのは、涅槃には生長の義はないけれども、そこにおいて顕了の義があるからである。すなわち、財と法をもって涅槃を供養し、諸の有情をして恭敬して証を求めしめ、これによって展転して障を断じ証を得るのである。 さらに、法には二種がある。一には世俗、すなわち名身などの法であり、二には勝義、すなわち究竟の涅槃である。勝義の法には生長の義はないけれども、世俗の法には生長の義がある。それゆえ、法にもまた敬養があるのである。 問う。諸の法施の物は誰が受けるべきか。答えていう。世俗の法の物を施すならば、説法の師が受けるべきであり、あるいはこれをもって正法を書写すべきである。勝義の法の物を施すならば、努めて守護すべきであり、塔の物を守護するのと等しくすべきである。 僧に供養・恭敬を施して安住するとは、財・法の二つの供養に通ずる。財の供養とは、香・華・衣・食などの物をもって僧の衆に供養し、あるいは五年の大会などの事を設けることを、僧への財の供養と名づける。法の供養とは、三契の声などをもって衆のために正法を宣説し、あるいは衆の中で論議して決択し、あるいはまた衆において功徳を讃美し、所願を述べて衆を歓悦せしめる。このようなものを、僧への法の供養と名づける。 親教師・軌範師およびその他の一人の智ある尊者・同梵行者に対して供養・恭敬を施して安住するとは、これも財・法の二つの供養に通ずる。財の供養とは、衣・鉢・飲食・湯薬およびその他の一つの沙門の資具をもって供養することである。法の供養とは、三蔵をもって勧めて受持せしめ、あるいは解説して疑い滞ることなからしめ、あるいはまた勧請して正行を修せしめる。このようなものを、法の供養と名づける。 上に説いたところの三宝・師友という殊勝なる境において、随応に応じて供養・恭敬を施して安住するのである。ゆえに、その他の境においては、必ずしも有ると決まらず、前に準じて説くべきである。 問う。供養・恭敬はどこに具有するのか。答えていう。欲界に具有し、色・無色界にはない。欲界の中では、四趣に具有し、捺落迦（地獄）にはない。地獄には財の供養がなく、ただ法のみがあるからである。 問う。この財・法の供養は、誰が施し、誰が受けるのか。答えていう。仏は一切の有情に対して、財・法の二つの供養を施すことができ、彼らは随所に応じて受けることができる。一切の有情は、仏に対して、随応に財の供養を施すことができ、法の供養ではない。仏のために法を説く者はなく、また仏の未だ曾て有らざる善巧の覚慧を生ぜしめることができないからである。 独覚は、仏を除いて、一切の有情に対して財・法の二つの供養を施すことができ、彼らは随所に応じて受けることができる。一切の有情は、独覚に対して、随応に財の供養を施すことができ、法の供養ではない。 舎利子は、仏と独覚とを除いて、一切の有情に対して財・法の二つの供養を施すことができ、彼らは随所に応じて受けることができる。一切の有情は、舎利子に対して、随応に財の供養を施すことができ、法の供養ではない。 大目乾連は、仏・独覚および舎利子を除いて、一切の有情に対して財・法の二つの供養を施すことができ、彼らは随所に応じて受けることができる。一切の有情は、大目乾連に対して、随応に財の供養を施すことができ、法の供養ではない。 乃至、利根の者は鈍根の者に対して、随応に財・法の二つの供養を施すことができ、彼らは随所に応じて受けることができる。鈍根の者は利根の者に対して、随応に財の供養を施すことができ、法の供養ではない。彼らは随所に応じて受けることができる。

問若無以法供養佛者。契經所說當云何通。如說苾芻善哉善哉。汝乃能以和雅清妙明了易解美亮音聲。諷誦正法令我歡喜。答世尊欲令聞俱胝耳得無畏故作如是說。非佛於彼受法供養。謂彼親教迦多衍那遣詣佛所。為居邊國寒地苾芻求請五事。一常澡浴。二以皮作襯身敷具。三請恒著周足革屣。四請持律為第五人得受具戒。五請若有苾芻遣使持衣與餘苾芻。彼苾芻若不受我等當如何處分此衣聞俱胝耳承親教勅來詣佛所。世尊威重釋梵護世尚不能側近正觀。況彼輒敢申請佛知是事告阿難曰。汝可將彼至我寢室敷設臥具而安置之。阿難如教佛與同止至夜後分。知彼倦息便告之言。汝應為我誦所解法聞俱胝耳以三契聲誦所解法。世尊歡喜為欲令彼得無所畏能申所請。是故讚言善哉。善哉乃至廣說。有作是說。世尊讚彼過去所修業道清淨感得如是美妙音聲。令人樂聞故作是說。非為於彼受法供養。有餘師說。世尊讚彼能善誦持波羅衍拏見諦經等故作是說。非為於彼受法供養。或有說者。以彼苾芻在豐馬國作諸佛事。世尊讚彼更令彼國無量有情敬重受法故作是說。非為於彼受法供養。復有說者。佛讚弟子有多因緣非為受法。或為彼得無畏心故。如今讚歎聞俱胝耳。或為遮彼誹謗事故。如告無滅吾今背痛汝可為諸苾芻宣說近堅固法。唯汝能說如是勝事。或欲令彼言威肅故。如告目連唯汝能為劫比羅城諸釋種等說微妙法。或欲顯彼功德大故。如佛讚歎舍利子言。汝能說法如師子吼。汝所說者是決定說。問餘契經說復云何通。如說佛告阿難陀言善哉善哉。如汝所說精進速證無上菩提。我聞汝言深生歡喜。答佛以慶喜所說應時故說此言非為受法。謂薄伽梵為化有情曾涉遠路勞倦背痛詣一樹下。四疊七條以為臥具五條覆體枕僧伽胝。如師子王右脇而臥告阿難曰。汝可為諸苾芻說法不應虛度。爾時阿難承佛聖旨為苾芻眾說七覺支言。諸仁者念等覺支是我世尊自覺自說依厭離滅迴向於捨。如是乃至捨等覺支廣說亦爾。世尊聞彼說精進時便起前際憶念智見。我於過去三無數劫由精進力所修加行速得圓滿。疾證無上正等菩提。念已發生殊勝歡喜。由斯喜力背痛便愈。尋起整衣結跏趺坐。告阿難曰汝為大眾說精進耶。阿難白佛。唯然世尊佛讚彼曰善哉善哉。我由精進速證菩提。汝今說之故我歡喜。讚應時說非受供養。問毘奈耶說復云何通。如說阿難我今增益出離善法極生歡喜。若不受他法供養者如何增長出離善法。答佛以他事為己事故。他善法增便作是說謂有情類多依佛法淨信出家。受具足戒誦持三藏居阿練若寂靜思惟。入正決定得果離欲乃至漏盡或種生天解脫種子。佛知是事甚大歡喜作如是念。無量有情以我威力世出世間善法增長。彼之所作即是我事深可慶喜故作是說。然佛世尊定不於他受法供養。法身功德極圓滿故。生身必待衣食等資故有於他受財供養。云何身力乃至廣說。問何故作此論答為止他宗顯正義故。謂或有執。身力身劣無別自體。如分別論彼作是說。心有力時說為身力。心無力時說為身劣。故身力劣無別自體。故遮彼執顯身力劣有別自體觸處所攝。或復有執。身力自體即是精進。身劣自體即是懈怠。如法密部為止彼執顯示別有身力身劣非精進等。有執。身力及與身劣無定自體。如譬喻者彼作是說。象力勝馬馬力勝牛。故知力劣無定自體。為遮彼執顯身力劣有定自體觸處所攝。以一切法自性定故諸有為法皆有勝劣自體決定。如眼於色見明了者說名為勝見。不明了說名為劣。廣說乃至意知諸法亦復如是。於中各有勝劣定性。身力身劣應知亦爾。問若身力劣各有定性。譬喻者難當云何通。答雖象馬等相待勝劣名不決定而有定體。謂馬對象劣大種多力大種少。馬若對牛劣大種少力大種多。如馬餘類當知亦爾。以力與劣大種各異故相待時。名雖不定而體恒別。為止如是他宗異執及為顯示身力身劣實有別體故作斯論。

> 問：もし「法をもって仏に供養する」ことがないのであれば、経典に説かれている次のような言葉はどう解釈すべきでしょうか。経典にはこうあります。「比丘よ、善きかな、善きかな。汝は実に和やかで清らかで、明瞭で理解しやすく、美しく響く声をもって正法を吟誦し、私を喜ばせた」と。 答：世尊は、俱胝耳（クティカンナ）という比丘が、仏の前で臆することなく自らの願いを申し立てられるようにと、このようにお説きになったのです。仏がその比丘から法の供養を受けたのではありません。 彼の師である迦多衍那（カータヤーヤナ）は、辺境の寒い国に住む比丘たちのために、五つの事項を仏に請願するよう彼を遣わしました。すなわち、①常に入浴すること、②革で裏打ちした敷き具を用いること、③常に足を覆う革靴を履くこと、④律に精通した者を第五の成員として具足戒を受けられること、⑤もし比丘が使者を遣わして衣を他の比丘に渡そうとした場合、その比丘が受け取らなかったなら、私たちはこの衣をどのように処分すべきか、という五つです。 俱胝耳は師の教えを受けて仏のもとへ参りました。しかし世尊の威光はあまりにも勝れており、梵天や帝釈天、諸々の護世者でさえ傍に近づいて正しく観ることすらできないほどでした。ましてや彼が軽々しく請願を申し出ることなどできませんでした。 仏はこのことを知って、阿難に告げられました。「汝、彼を私の寝室に連れて行き、臥具を整えて安置しなさい。」阿難は教えの通りにし、仏は彼と同じ場所にとどまりました。夜の更けて後、仏は彼が疲れて休息しているのを知って、こう告げられました。「汝、私のために、汝が習得した法を誦しなさい。」 俱胝耳は三節の調子で、学んだ法を吟誦しました。世尊は喜ばれ、彼が臆することなく請願を申し立てられるようにと、「善きかな、善きかな」と称賛されたのです。以上が詳細です。 ある説では、次のように言います。世尊は彼が過去世に修めた業道が清らかであったために、このような美しい声を感得し、人々が喜んで聞くようになったことを称賛されたのであって、法の供養を受けたのではありません。 また他の師は、世尊は彼が『波羅衍拏』（パーラーヤナ）や『見諦経』などを巧みに誦持したことを称賛されたのであって、法の供養を受けたのではありません、と説きます。 あるいは、ある者たちはこう言います。彼の比丘が豊馬国で様々な仏事を行ったので、世尊は彼を称賛し、さらにその国の無量の衆生が敬重して法を受け入れるようにされたのであって、法の供養を受けたのではありません、と。 さらに、ある者はこう説きます。仏が弟子を称賛されるのには多くの因縁があり、法を受けるためではありません。あるいは、彼に畏れのない心を得させるためであり、今俱胝耳を称賛されたのもその例です。あるいは、誹謗を遮るためであり、無滅（アニルッダ）に「私は今背中が痛い。汝、比丘たちのために近堅固法を説きなさい。このような勝れた事を説けるのは汝だけである」と告げられたのもその例です。あるいは、彼の言葉に威厳を持たせるためであり、「目連よ、汝だけが劫比羅城の釈迦族のために微妙な法を説くことができる」と告げられたのもその例です。あるいは、彼の功徳が大いなることを顕すためであり、仏が舎利子を称賛して「汝は獅子吼の如く法を説くことができる。汝の説くところは決定の説である」と言われたのもその例です。 問：他の経典に説かれる次のような言葉はどう解釈すべきでしょうか。経典にはこうあります。「仏は阿難陀に告げられた。『善きかな、善きかな。汝の説く通り、精進によって速やかに無上菩提を証するのである。私は汝の言葉を聞いて深く欢喜した』」と。 答：仏は慶喜（阿難）が時機にかなった説法をしたので、このように言われたのであって、法の供養を受けたのではありません。 すなわち、薄伽梵（世尊）は衆生を教化するために遠路を旅し、疲労と背中の痛みを覚え、一本の樹の下に至られました。七条の衣を四重に畳んで臥具とし、五条の衣を体に覆い、僧伽胝（大衣）を枕として、獅子王のように右脇を下にして横になられました。そして阿難に告げられました。「汝、諸比丘のために説法しなさい。時を虚しく過ごしてはならない。」 その時、阿難は仏の聖旨を受けて、比丘たちのために七覚支を説きました。「諸仁者よ、念等覚支は、わが世尊が自ら悟り自ら説かれたものであり、厭離に依り、滅に依り、回向して捨に向かうものである。」このように、捨等覚支に至るまで同様に広く説きました。 世尊が彼の精進の説を聞かれた時、過去の前際の憶念智見を起こされました。「私は過去の三無数劫において、精進の力によって修した加行が速やかに円満し、速やかに無上正等菩提を証したのである。」このように念じて、殊勝な欢喜を生じられました。この喜びの力によって背中の痛みはたちまち癒えました。 やがて起き上がって衣を整え、結跏趺坐され、阿難に告げられました。「汝は大衆のために精進を説いたか。」阿難は仏に申し上げました。「その通りです、世尊。」仏は彼を称賛されました。「善きかな、善きかな。私は精進によって速やかに菩提を証した。汝が今それを説いたので、私は欢喜した。」これは時機にかなった説法を称賛されたのであって、供養を受けたのではありません。 問：毘奈耶（律）に説かれる次のような言葉はどう解釈すべきでしょうか。経典にはこうあります。「阿難よ、私は今、出離の善法が増長したことを極めて欢喜する。」もし他者の法の供養を受けないのであれば、どうして出離の善法が増長するのでしょうか。 答：仏は他者の事を自己の事とされるからです。他者の善法が増長した時、このように言われるのです。すなわち、有情たちは多く仏法に依って清浄な信心をもって出家し、具足戒を受け、三蔵を誦持し、阿練若（閑静な処）に住して静かに思惟し、正決定に入り、果を得て離欲し、さらに煩悩を尽くすに至るか、あるいは生天や解脱の種子を植えるのです。 仏はこのことを知って甚だ大いに欢喜し、このように念じられました。「無量の有情が私の威力によって、世間・出世間の善法が増長している。彼らの所作は即ち我が事であり、深く慶喜すべきである。」それゆえにこのように言われたのです。 しかし、仏世尊は決して他者から法の供養を受けません。法身の功徳は極めて円満だからです。生身は衣食などの資具を待つので、他者から財の供養を受けることはあります。 「云何が身力（身体の力）か」と広く説かれるのは、問うて言う。「何ゆえにこの論を作すのか。」答えて言う。「他宗を止め、正義を顕すためである。」 すなわち、ある者はこう執します。「身力と身劣（身体の弱さ）には別の自体がない。」分別論者のように。彼らはこう説きます。「心に力がある時、これを身力と言い、心に力がない時、これを身劣と言う。故に身力と身劣には別の自体がないのである。」 そこで、その執りを遮り、身力と身劣には別の自体があり、触処に摂せられることを顕すのです。 また、ある者はこう執します。「身力の自体は即ち精進であり、身劣の自体は即ち懈怠である。」法密部のように。その執りを止め、身力と身劣が別に存在し、精進などではないことを顕すのです。 あるいは、ある者はこう執します。「身力と身劣には定まった自体がない。」譬喩者のように。彼らはこう説きます。「象の力は馬に勝り、馬の力は牛に勝る。故に力と劣には定まった自体がないと知るべきである。」その執りを遮り、身力と身劣には定まった自体があり、触処に摂せられることを顕すのです。 あらゆる法は自性が定まっているからです。諸の有為法はすべて勝劣の自体が決定しています。例えば、眼が色を見る時、明瞭に見る者を「勝」と言い、明瞭に見ない者を「劣」と言う。広く説けば、意が諸法を知るのもまた同様である。その中にそれぞれ勝劣の定まった性質がある。身力と身劣についても、同様に知るべきです。 問：もし身力と身劣にそれぞれ定まった性質があるならば、譬喩者の難問はどう解釈すべきでしょうか。 答：象や馬などは相対的に勝劣が名づけられ、その名は定まらないけれども、定まった体があるのです。すなわち、馬は象に対しては劣であり、大種（四大元素）は少なく、力の大種は多い。馬が牛に対しては劣であり、大種は少なく、力の大種は多い。馬のような他の種類もまた同様に知るべきです。力と劣の大種が各々異なるので、相対する時、その名は定まらないけれども、その体は常に別なのである。 このように、他宗の異なる執りを止め、身力と身劣が実に別の自体を持つことを顕すために、この論を作すのです。

云何身力。答諸身勇猛強健輕捷能有所辦是謂身力。此本論師於異文義得善巧故以種種文顯示身力而體無異。云何身劣。答諸身不勇不猛不強不健不輕不捷無所能辦是謂身劣。此本論師於異文義得善巧故以種種文顯示身劣而體無異。身力身劣幾處攝幾識識。答一處攝謂觸處。二識識。謂身識及意識。此中身識唯了彼自相意識了彼自相及共相。此言即遮分別論者執身力劣無別自體。顯示此二有別自體若無自體應非觸處攝及二識所識。心力有無非觸處攝二識識故。如二力士相扠撲時手腕纔交互知強弱。此中論主引現事喻欲令愚智俱得解了。由此即遮法密部執身力是精進身劣是懈怠。顯身力劣非精進等。若不爾者手腕纔交寧知強弱。精進懈怠非以手觸即能知故。又如強者執弱者時力之勝劣相知亦爾。此中論主引第二喻重顯斯義令易了知。由此即遮譬喻者執身力身劣無定自體。顯示此二有定自體。若不爾者不應纔執即知勝劣相待假法定非身識所能了故。問身力身劣以何為自性。有作是說。以大種為自性。問何大種增名為身力何大種增名為身劣。有說。大種無偏增者然四大種有強勝者說名身力。有羸弱者說名身劣。有說。地界增故名為身力。水界增故名為身劣。外物亦爾擔山木等地界增故其體堅強柳苽瓠等水大增故其體虛弱。有餘師說。身力身劣非四大種是所造觸。問七所造觸中誰增故名身力。誰增故名身劣。有說。重增故名身力。輕增故名身劣外物亦爾。重者體強。輕者體弱。有說。此二是所造觸非七所攝。謂七種外別有所造觸。名身力身劣。評曰應作是說。即四大種及所造觸。俱是身力身劣自性。謂若調和俱名身力。若不調和俱名身劣。

> 問う、身力とは何か。答えていう、身体が勇猛で強健で軽捷であり、なすべきことを成し遂げられること、これを身力という。この根本論師は異なる文義に巧みであるがゆえに、種々の文をもって身力を示すが、その本体に違いはない。問う、身劣とは何か。答えていう、身体が勇ならず、猛ならず、強ならず、健ならず、軽ならず、捷ならず、なすべきことを成し遂げられないこと、これを身劣という。この根本論師は異なる文義に巧みであるがゆえに、種々の文をもって身劣を示すが、その本体に違いはない。身力と身劣は、幾つの処に含まれ、幾つの識によって識別されるか。答えていう、一つの処に含まれる。すなわち触処である。二つの識によって識別される。すなわち身識と意識である。このうち身識はただその自相のみを了知し、意識はその自相と共相を了知する。この言葉は、すなわち分別論者が身力・身劣には別の自体がないと執することを遮る。この二つには別の自体があることを示す。もし自体がなければ、触処に含まれ、二つの識によって識別されるべきではない。心力の有無は触処に含まれず、二つの識によって識別されることもないからである。例えば二人の力士が組み合うとき、手首が交われば、ただちに強弱を知る。ここで論主は現実の事柄の喩えを挙げて、愚かな者も賢い者も皆、理解できるようにしようとする。これによって、すなわち法密部が身力は精進であり、身劣は懈怠であると執することを遮る。身力・身劣は精進などではないことを示す。もしそうでなければ、手首が交わっただけで、どうして強弱を知ることができようか。精進や懈怠は手の触れ合いによって知ることができるものではないからである。また例えば強い者が弱い者を捕まえるとき、力の勝劣は互いに知られるのも同じである。ここで論主は第二の喩えを挙げて、この義を重ねて示し、理解しやすくする。これによって、すなわち譬喩者が身力・身劣には定まった自体がないと執することを遮る。この二つには定まった自体があることを示す。もしそうでなければ、捕まえただけで、ただちに勝劣を知るべきではない。相待して仮に定まる法は、決して身識によって了知できるものではないからである。問う、身力と身劣は何を自性とするのか。ある者はこう説く。四大種を自性とする、と。問う、何の大種が増すとき身力と名づけ、何の大種が増すとき身劣と名づけるのか。ある者はこう説く。大種には偏って増すものはないが、しかし四大種のうち強勝なものが身力と名づけられ、羸弱なものが身劣と名づけられる、と。ある者はこう説く。地界が増すから身力と名づけられ、水界が増すから身劣と名づけられる。外物もまた同じである。山や木を担ぐなどのものは地界が増すがゆえに、その体は堅強であり、柳や瓜や瓢などのものは水大が増すがゆえに、その体は虚弱である。他の師はこう説く。身力と身劣は四大種ではなく、造られた触である、と。問う、七つの造られた触のうち、どれが増すから身力と名づけられ、どれが増すから身劣と名づけられるのか。ある者はこう説く。重が増すから身力と名づけられ、軽が増すから身劣と名づけられる。外物もまた同じである。重いものは体が強く、軽いものは体が弱い。ある者はこう説く。この二つは造られた触であるが、七つの種類には含まれない。七種のほかに、別に造られた触があって、それを身力・身劣と名づける、と。評者がいう、こう説くべきである。すなわち四大種および造られた触、ともに身力・身劣の自性である。もし調和していればともに身力と名づけられ、もし調和していなければともに身劣と名づけられる、と。

如契經說。菩薩身具那羅延力。此力其量云何。有作是說。十凡牛力等一毫牛力。十毫牛力等一青牛力。十青牛力等一凡象力。十凡象力等一香象力。十香象力等一大諾健那力。十大諾健那力等一鉢羅塞建提力。十鉢羅塞建提力等半那羅延力。二半那羅延力等一那羅延力。菩薩身力與此力等。有餘師說。此量極少。應說十凡牛力等一毫牛力。十毫牛力等一青牛力。十青牛力等一凡象力。十凡象力等一野象力。十野象力等一羯拏魯訶象力。十羯拏魯訶象力等一阿羅擇迦象力。十阿羅擇迦象力等一殑耆洛迦象力。十殑耆洛迦象力等一雪山象力。十雪山象力等一香山象力。十香山象力等一青山象力。十青山象力等一黃山象力。十黃山象力等一赤山象力。十赤山象力等一白山象力。十白山象力等一嗢鉢羅象力。十嗢鉢羅象力等一拘牟陀象力。十拘牟陀象力等一鉢特摩象力。十鉢特摩象力等一奔茶利迦象力。十奔茶利迦象力等一鉢特莫迦象力。十鉢特莫迦象力等一大鉢特莫迦象力。十大鉢特莫迦象力等一大香象力。十大香象力等一大諾健那力。十大諾健那力等一鉢羅塞建提力。十鉢羅塞建提力等一娑浪伽力。十娑浪伽力等一伐浪伽力。十伐浪伽力等一遮怒羅力。十遮怒羅力等一伐羅遮怒羅力。十伐羅遮怒羅力等半那羅延力。二半那羅延力等一那羅延力。菩薩身力與此力等。或有說者。此量猶少。應說菩薩身中有十八大節一一大節皆有一那羅延力。復有說者。此量猶少。應說菩薩身中有十八大節。一一大節有十八那羅延力。或復有說。此量猶少。應說菩薩身中大小總有三百二十節。其最小節有一那羅延力。其次大節有二那羅延力。漸次大者力倍倍增。有餘復說。此量猶少。應說菩薩身力等千藹羅伐拏龍象王力。此象王力其量云何。謂此象王舉身鮮白如拘牟陀白蓮花色。七支善住具有六牙。其頭紅赤如因達羅瞿博迦色。左右邊脇各二踰繕那半。身前後分各一踰繕那。周圍身量七踰繕那。高下唯一踰繕那半。此是常身變化不定。此有八千龍象眷屬。身皆鮮白如拘牟陀具有六牙七支善住。其頭紅赤如上烟脂。若轉輪王出現於世。此諸象中隨一來應。三十三天將遊戲苑天福力故纔舉心時。令大象王牙現異色。便作是念天帝釋等今須乘我入苑遊戲。即便從此贍部洲沒至天帝釋宮前而現。身上化出三十二頭。皆具六牙如本頭色。此頭并本有三十三。一一牙上化作七池。一一池中作七蓮花。一一花上作七寶院。一一院內作七寶臺。一一臺中作七寶帳。一一帳內作七天女。一一天女作七侍者。一一侍者作七伎女奏諸伎樂。作是化已。時天帝釋及諸眷屬升彼本頭。三十二天及諸眷屬升所化作三十二頭。餘十千城諸天家族升彼背上。其身輕舉猶如旋風吹蓮華葉或飄樺皮。乘空往詣所遊戲苑。爾時諸天都不自見有前後者。到已俱下各詣戲林歡娛受樂。時彼龍象亦自化身如天子形遊戲受樂。藹羅伐拏其力如是。有作是言此力猶少。應說菩薩身中有十八大節一一大節皆有如千藹羅伐拏龍象王力。有餘復言此力猶少。應說菩薩身中大小總有三百二十節。其最小節有如千倍藹羅伐拏龍象王力。漸次大者力倍倍增。大德說曰。此力猶少。應說菩薩意力無邊身力亦爾云何知然。謂昔菩薩吉祥人邊受吉祥草詣菩提樹自敷為座結跏趺坐。作是堅固願言。若未諸漏永盡及證無上菩提我終不起此座。無上菩提從未來世將入現在。爾時三千大千世界六種震動。菩薩毛髮亦不動搖。由此故知菩薩身力猶如意力量無邊際。問若爾何故契經中說菩薩身有那羅延力。答此力世間共所欽重故以為喻而實不然。問菩薩何緣集此身力。答欲現所有皆殊勝故。謂諸色力族姓自在眷屬財位功德名聞智見威猛皆殊勝故憍傲有情歸伏受法。復次欲為無上正等菩提作所依故集此身力。謂佛無上正等菩提要依此身方得安住。假使無上正等菩提置在妙高大山王頂彼便碎壞猶若微塵。力無畏等甚尊重故。由此三千大千世界中贍部洲。有金剛座。上窮地際。下據金輪。菩薩坐之成正等覺。除此無有堅固依處。是故菩薩初成佛時。方欲經行徐足按地。即令大地六種震動便起勝解乃得經行。復次為欲引攝所化有情猶如遣使故集此力。謂無上覺遣此力使摧彼慢已然後度之。故在家時與諸釋種種種捔力無不得勝。將般涅槃亦以身力伏諸力士而度脫之。謂佛世尊化緣將盡欲入寂滅往拘尸城波波邑中。五百力士聞已為佛修治道路。當彼路上有一大石長六十肘廣三十肘。彼諸力士欲轉去之盡其身力不能令動。世尊既至見已問言。汝諸童子欲何所作。彼聞惘然竊作是念。我等勢力贍部推先如何世尊呼為童子。作是念已俱白佛言。我為世尊修治道路。共轉此石不能令動。頗能哀愍除此石耶。佛言我能。汝等遠避。便以足指挑置掌中。上擲虛空下還接取。以口吹散令如微塵。還使如本棄之路側。力士驚歎得未曾有。敬禮合掌復白佛言。此是如來何等神力。世尊告曰舉石置掌復擲虛空復還接取棄之路側皆我父母生身之力。以口吹散令如微塵是神通力。還合如本是勝解力。力士聞已歡喜踊躍復白佛言。頗有餘力能勝世尊如是力不。佛答言有。謂無常力。佛告力士。謂我父母生身之力。若神通力。及勝解力。今日中夜皆為無常力之滅壞。時諸力士聞佛所說皆於世間深生厭離。佛便為說如應法要。令諸力士及餘無量在彼天人得法眼淨。永離惡趣。第八有等故為引攝所化有情猶如遣使集此身力。問菩薩何時身力圓滿。答年二十五。此後乃至年滿五十其力無減。過是已後世尊身力漸漸衰退。有說世尊身力無減猶如意力無衰退故。評曰。如來法身雖無衰退。而生身力必有退減。諸異熟果有衰退故。是故尊者鄔陀夷言。今見世尊色力衰減諸根變異。謂五色根。問諸餘有情有斯力不。答此力不共一切有情唯最後身菩薩得有。如最初說菩薩力量極為減少尚為難得。況第二說第三說等餘有情類而得有耶。然此賢劫世界初成時。有諸有情具那羅延力。或有有半那羅延力。或有鉢羅塞建提力。或有摩訶諾健那力。此諸力士充滿世間。過是已後漸漸減少乃至今時全無彼力。佛在世時有三釋種具有鉢羅塞建提力。謂阿難陀設摩釋子瞿波釋女。爾時亦有具足摩訶諾健那力象力馬力牛力等人不可稱數。若麟角喻獨覺亦有那羅延力。若部行喻獨覺其力不可定說。以彼多是聲聞種姓後遇別緣得無學果。雖樂寂靜而有眾居如五百仙一處得果。麟角喻者根極勝故樂獨出故。當知如佛必無有二並出世間。如舍利子尚無並出。況麟角喻勝彼多倍。諸聲聞人其力不定。如部行喻獨覺人說。諸轉輪王力亦不定。王四洲者有那羅延力。王三洲者有伐浪伽力。王二洲者有鉢羅塞建提力。王一洲者有摩訶諾健那力。此四輪寶亦有差別王四洲者有金輪寶。其量正等四俱盧舍。王三洲者有銀輪寶其量正等三俱盧舍。王二洲者有銅輪寶其量正等二俱盧舍。王一洲者有鐵輪寶其量正等一俱盧舍。如四輪寶有此差別。應知餘寶亦有勝劣謂王四洲者餘寶最勝乃至王一洲者餘寶最劣。問諸有情類身力既別骨節安立有差別不。答亦有差別。謂凡常力者骨節相遠。有象馬力者骨節相近。有大諾健那力者骨節相接如接板等。有鉢羅塞建提力者骨節相鉤。有那羅延力者骨節連鎖。菩薩骨節展轉相交如龍蟠結。是故最勝。已說佛身力。意力今當說。謂佛世尊成就十力四無所畏及與大悲三念住等不可思議無邊功德。隨用差別立種種名。具於十種說名意力。云何為十。一處非處智力。二業法集智力。三靜慮解脫等持等至發起雜染清淨智力。四種種界智力。五種種勝解智力。六根勝劣智力。七遍趣行智力。八宿住隨念智力。九死生智力。十漏盡智力問如是十力以何為自性。答以智為自性。謂佛意力是智所成。以智為體智所攝故。如契經說。於處非處如實了知乃至廣說。已說自性。所以今當說。問何故名力力是何義。答不可屈義是力義。不可伏義。不可摧義。不可害義。不可轉義。不可覆義。能遍覺義。能荷擔義。堅固義。最勝義。能制他義。是力義。界者宿住隨念智力死生智力是色界繫。餘力有漏者三界繫。無漏者是不繫。地者宿住隨念智力死生智力在四根本靜慮。是通性故。近分無色及不定地非通所依故無此二。餘力有漏者在十一地。謂欲界四靜慮四無色及未至定靜慮中間。無漏者在九地。所依者皆依欲界人贍部洲大丈夫身。唯依此身得成佛故。行相者處非處智力遍趣行智力十六行相。或餘行相。業法集智力苦集八行相。或餘行相。第三第四第五第六智力苦集道十二行相。或餘行相宿住隨念智力死生智力是餘行相。非十六行相。漏盡智力諸有欲令緣漏盡境故。名漏盡智力者彼說滅四行相。或餘行相諸有欲令依漏盡身故名漏盡智力者彼說十六行相。或餘行相。所緣者處非處智力緣一切法。業法集智力唯緣苦集。第三第四第五第六智力緣三諦除滅諦。遍趣行智力但緣四諦。宿住隨念智力緣欲色界前際五蘊。死生智力緣色處。漏盡智力若緣漏盡境故則緣滅諦。若依漏盡身故則緣一切法。念住者種種勝解智力宿住隨念智力唯法念住。死生智力唯身念住。漏盡智力若緣漏盡境故則法念住。若依漏盡身故則四念住。餘力皆四念住智者處非處智力遍趣行智力通十智。業法集智力唯八智除滅道。第三第四第五第六智力唯九智除滅智。宿住隨念智力死生智力唯世俗智。漏盡智力若緣漏盡境故則唯六智。謂法智類智滅智盡智無生智世俗智。若依漏盡身故則通十智。三摩地俱者處非處智力遍趣行智力三三摩地俱或不俱。業法集智力緣苦集空無願俱或不俱。第三第四第五第六智力緣苦集道空無願俱或不俱。宿住隨念智力死生智力非三摩地俱。漏盡智力若緣漏盡境故則無相俱或不俱。若依漏盡身故則三三摩地俱或不俱。根相應者總說皆與三根相應謂樂喜捨。過去未來現在者此十力皆通三世。緣過去未來現在者處非處智力遍趣行智力。緣三世及離世第二第三第四第五第六智力。緣三世宿住隨念智力。過去現在者緣過去。未來者緣三世。死生智力過去者緣過去。現在者緣現在。未來生法緣未來。若不生法緣三世。漏盡智力若緣漏盡境故則緣離世。若依漏盡身故則緣三世及離世。善不善無記者此十力皆是善。緣善不善無記者漏盡智力若緣漏盡境故則但緣善。若依漏盡身故則緣三種。餘九力皆緣三種。有餘師說。第三智力但緣善無記。彼不應作是說。此力通緣雜染清淨有為法故。雜染法中有不善故。繫不繫者宿住隨念智力死生智力唯色界繫。餘八力有漏者三界繫。無漏者是不繫。緣繫不繫者宿住隨念智力死生智力緣欲色界繫。業法集智力緣三界繫。漏盡智力若緣漏盡境故則緣不繫。若依漏盡身故則緣三界繫及不繫。餘力皆緣三界繫及不繫。學無學非學非無學者。宿住隨念智力死生智力唯非學非無學。餘八力無漏者是無學。有漏者是非學非無學。緣學無學非學非無學者。業法集智力宿住隨念智力死生智力唯緣非學非無學。漏盡智力若緣漏盡境故唯緣非學非無學。若依漏盡身故則緣三種。餘力皆緣三種見所斷修所斷不斷者。宿住隨念智力死生智力唯修所斷。餘八力有漏者修所斷。無漏者是不斷。緣見所斷修所斷不斷者。業法集智力宿住隨念智力緣見修所斷。死生智力緣修所斷。漏盡智力若緣漏盡境故則緣不斷。若依漏盡身故則緣三種。餘力皆緣三種。緣名緣義者。種種勝解智力根勝劣智力死生智力唯緣義。漏盡智力若緣漏盡境故則但緣義。若依漏盡身故則通緣名義。餘力皆通緣名義。緣自相續他相續非相續者。處非處智力遍趣行智力緣三種。漏盡智力若緣漏盡境故則緣非相續。若依漏盡身故則緣三種。餘力皆緣自他相續。加行得離染得者。此十力皆可言加行得。三無數劫積集殊勝加行得故。皆可言離染得。離有頂染得盡智時得諸力故。問如是十力加行云何。答此加行有二種。一近加行。謂順決擇分等。二遠加行。謂初不退菩提心等。問業法集智力死生智力俱可緣業有何差別。答從因入果是業法集智力。從果入因是死生智力。如因果如是細麁不現見。現見遠近亦爾。問無表業云何知。答從果入因從麁入細。從現見入不現見。從近入遠。如是知。問宿住隨念智死生智二乘亦有。何故唯佛建立力耶。答前說不可屈義等是力義。二乘雖有而無此義故不名力如舍利子雖入第四靜慮而不知人當所生處及所從來等事。問二乘亦有漏永盡智何故非力。答佛智猛利速斷煩惱及彼餘習。非二乘故。復次佛智能知自他相續諸漏永盡時分不謬。聲聞獨覺無如是能。復次不以自知諸漏盡故名漏盡力。以能知他無邊世界諸有情類漏盡差別。及為彼說漏盡方便明了不謬名漏盡力。聲聞獨覺無如是義。

> 経典にこう説かれています。「菩薩の身体には那羅延の力が具わっている」と。では、その力の大きさはどれほどなのでしょうか。 ある説ではこう言われています。「凡夫の牛の力10頭分が、毫牛の力1頭分に等しい。毫牛の力10頭分が、青牛の力1頭分に等しい。青牛の力10頭分が、凡象の力1頭分に等しい。凡象の力10頭分が、香象の力1頭分に等しい。香象の力10頭分が、大諾健那の力1頭分に等しい。大諾健那の力10頭分が、鉢羅塞建提の力1頭分に等しい。鉢羅塞建提の力10頭分が、那羅延の力の半分に等しい。那羅延の力の半分が2つで、那羅延の力1つに等しい。菩薩の身体の力は、この力に等しい」と。 また別の師はこう言います。「この量はまだ少なすぎる。こう言うべきだ。凡夫の牛の力10頭分が毫牛の力1頭分に等しく、毫牛の力10頭分が青牛の力1頭分に等しく、青牛の力10頭分が凡象の力1頭分に等しく、凡象の力10頭分が野象の力1頭分に等しく、野象の力10頭分が羯拏魯訶象の力1頭分に等しく、羯拏魯訶象の力10頭分が阿羅擇迦象の力1頭分に等しく、阿羅擇迦象の力10頭分が殑耆洛迦象の力1頭分に等しく、殑耆洛迦象の力10頭分が雪山象の力1頭分に等しく、雪山象の力10頭分が香山象の力1頭分に等しく、香山象の力10頭分が青山象の力1頭分に等しく、青山象の力10頭分が黄山象の力1頭分に等しく、黄山象の力10頭分が赤山象の力1頭分に等しく、赤山象の力10頭分が白山象の力1頭分に等しく、白山象の力10頭分が嗢鉢羅象の力1頭分に等しく、嗢鉢羅象の力10頭分が拘牟陀象の力1頭分に等しく、拘牟陀象の力10頭分が鉢特摩象の力1頭分に等しく、鉢特摩象の力10頭分が奔茶利迦象の力1頭分に等しく、奔茶利迦象の力10頭分が鉢特莫迦象の力1頭分に等しく、鉢特莫迦象の力10頭分が大鉢特莫迦象の力1頭分に等しく、大鉢特莫迦象の力10頭分が大香象の力1頭分に等しく、大香象の力10頭分が大諾健那の力1頭分に等しく、大諾健那の力10頭分が鉢羅塞建提の力1頭分に等しく、鉢羅塞建提の力10頭分が娑浪伽の力1頭分に等しく、娑浪伽の力10頭分が伐浪伽の力1頭分に等しく、伐浪伽の力10頭分が遮怒羅の力1頭分に等しく、遮怒羅の力10頭分が伐羅遮怒羅の力1頭分に等しく、伐羅遮怒羅の力10頭分が那羅延の力の半分に等しく、那羅延の力の半分が2つで那羅延の力1つに等しい。菩薩の身体の力はこの力に等しい」と。 あるいはこう言う人もいます。「この量もまだ少ない。菩薩の身体には十八大節があり、その一つ一つに那羅延の力があると言うべきだ」と。 さらにこう言う人もいます。「この量もまだ少ない。菩薩の身体には大小合わせて三百二十節あり、その最も小さな節にも那羅延の力一つ分があり、次に大きな節には那羅延の力二つ分があり、順に大きくなるごとに力は倍々に増えると言うべきだ」と。 また別の説ではこう言います。「この量もまだ少ない。菩薩の身体の力は、千の藹羅伐拏龍象王の力に等しいと言うべきだ」と。 では、この象王の力はどれほどのものなのでしょうか。この象王は、全身が鮮やかに白く、拘牟陀の白蓮華の花のような色をしています。七つの肢がしっかりとしており、六本の牙を持っています。頭は赤く、因達羅瞿博迦の色のようです。左右の脇腹はそれぞれ二由旬半、体の前後はそれぞれ一由旬、周囲は七由旬、高さは一由旬半です。これは通常の姿であり、変化は一定しません。この象には八千の龍象の眷属がいます。彼らの体も皆、鮮やかに白く拘牟陀のようであり、六牙を備え、七肢がしっかりとしています。頭は赤く、上等の紅のようです。 転輪王が世に現れる時、これらの象の中から一頭が応じて来ます。三十三天が遊楽のために苑に赴こうとする時、天の福力によって、思いを起こすだけで大象王の牙に異なる色が現れます。すると象王は「天帝釈らが今、私に乗って苑に遊びに行こうとしている」と思い、すぐにこの贍部洲から消え、天帝釈の宮殿の前に現れます。そして体から三十二の頭を変化させます。それぞれが六牙を備え、元の頭の色をしています。この頭と元の頭を合わせて三十三の頭となります。それぞれの牙の上には七つの池が現れ、それぞれの池には七つの蓮華があり、それぞれの花の上には七つの宝の庭があり、それぞれの庭の中には七つの宝の台があり、それぞれの台の中には七つの宝の幕があり、それぞれの幕の中には七人の天女がおり、一人の天女には七人の侍者がおり、一人の侍者には七人の伎女がいて、様々な音楽を奏でます。このような変化を見せた後、天帝釈とその眷属は元の頭に乗り、三十二の天とその眷属は変化した三十二の頭に乗り、他の多くの天の家族は背中に乗ります。象の体は軽く上がり、まるで旋風が蓮華の葉や樺の皮を吹き上げるかのようです。空を駆けて遊楽の苑に赴きます。その時、諸天は自分たちの前後を顧みることもなく、到着すると皆降り立ち、それぞれ遊びの林で歓楽を楽しみます。その時、龍象もまた自ら天人の姿に変化して、同じように遊び楽しみます。藹羅伐拏の力はこのようなものです。 こう言う人もいます。「この力もまだ少ない。菩薩の身体には十八大節があり、その一つ一つが千の藹羅伐拏龍象王の力に等しいと言うべきだ」と。 さらにこう言う人もいます。「この力もまだ少ない。菩薩の身体には大小合わせて三百二十節あり、その最も小さな節でも千倍の藹羅伐拏龍象王の力があり、順に大きくなるごとに力は倍々に増えると言うべきだ」と。 大徳はこう説いています。「この力もまだ少ない。菩薩の意力は無辺であり、身力もまた同様であると言うべきだ。どうしてそうだと知るのか。かつて菩薩は吉祥という人のもとで吉祥草を受け、菩提樹の下に自ら敷いて結跏趺坐し、このような堅固な誓いを立てた。『もし煩悩が完全に尽き、無上菩提を証することがなければ、私は決してこの座を立たない』と。無上菩提が未来から現在に入ろうとする時、三千大千世界は六種に震動したが、菩薩の毛髪も動かなかった。このことから、菩薩の身力が意力のように量り知れず、辺際がないことを知るべきである」と。 問う。「もしそうなら、なぜ経典には菩薩の身に那羅延の力があると説かれているのでしょうか。」 答える。「この力は世間で広く尊ばれているので、たとえとして用いられているだけであり、実際にはそうではないのです。」 問う。「菩薩はなぜこのような身力を集めるのでしょうか。」 答える。「すべてのものが殊勝であることを示すためです。すなわち、色力・族姓・自在・眷属・財位・功徳・名声・智見・威猛がすべて殊勝であるからこそ、傲慢な有情たちも帰伏して法を受け入れるのです。また、無上正等菩提の拠り所となるためにこの身力を集めるのです。仏の無上正等菩提は、この身に依って安住するからです。もし無上正等菩提を妙高山の頂に置いたとしても、それは微塵のように砕けてしまうでしょう。力・無畏などは非常に重んじられるものだからです。それゆえ、三千大千世界の中の贍部洲には金剛座があり、上は地際に達し、下は金輪に据わっています。菩薩はそこに座して正等覚を成就します。これより他に堅固な依処はありません。だから菩薩が最初に仏となった時、歩み始めようとして足で地面を軽く押すと、大地は六種に震動し、勝解を起こしてから歩行できたのです。 また、教化すべき有情を導き摂取するために、ちょうど使いを遣わすように、この力を集めるのです。無上の覚者はこの力の使いを遣わして、彼らの慢心を打ち砕いてから、それを度するのです。だから在家の時には、釈種の者たちと様々な力比べをしても、勝たないことはありませんでした。また涅槃に入ろうとする時にも、身力をもって力士たちを伏して度脱したのです。仏世尊は教化の縁が尽きて寂滅に入ろうとし、拘尸城の波波邑に向かいました。五百人の力士はそれを聞いて、仏のために道を整えました。その道の上に大きな石があり、長さは六十肘、広さは三十肘ありました。力士たちはそれを動かそうとしましたが、全力を尽くしても動かすことができませんでした。世尊が到着して見て、尋ねました。「あなたたち童子は何をしようとしているのか。」彼らは茫然として、ひそかにこう思いました。「我々の力は贍部洲で一番なのに、どうして世尊は我々を童子と呼ぶのだろうか。」そう思ってから、皆で仏に言いました。「私たちは世尊のために道を整えようとして、一緒にこの石を動かそうとしましたが、動かすことができません。どうか哀れんで、この石を取り除いてください。」仏は言いました。「私にできる。あなたたちは遠くに避けなさい。」そして足の指で石を掘り起こして掌に載せ、虚空に投げ上げ、落ちてくると受け取り、口で吹いて微塵のように散らし、また元のように戻して道の脇に捨てました。力士たちは驚嘆し、未曾有のことであり、合掌して礼をし、また仏に尋ねました。「これは如来のどのような神通力なのでしょうか。」世尊は告げました。「石を挙げて掌に置き、虚空に投げ、また受け取り、道の脇に捨てることは、すべて父母から生まれた身体の力である。口で吹いて微塵のようにするのは神通力であり、元のように合わせるのは勝解力である。」力士たちはこれを聞いて歓喜踊躍し、また仏に尋ねました。「他に世尊のこのような力を超える力があるでしょうか。」仏は答えました。「ある。それは無常の力である。」そして力士たちに告げました。「私の父母から生まれた身体の力も、神通力も、勝解力も、今日の夜半にはすべて無常の力によって滅ぼされるであろう。」その時、力士たちは仏の説法を聞いて、皆世間に対して深く厭離の心を生じました。仏は彼らのために応じた法要を説き、力士たちや無量の天人が法眼を清らかにし、悪趣を永遠に離れました。第八有などのことは、このように教化すべき有情を導き摂取するために、ちょうど使いを遣わすように、この身力を集めるのです。 問う。「菩薩の身力はいつ円満になるのでしょうか。」 答える。「二十五歳の時です。この後、五十歳になるまでは力は衰えません。その後は世尊の身力は次第に衰退します。」 ある説ではこう言います。「世尊の身力は衰えることがありません。意力のように衰退しないからです。」 評して言う。如来の法身は衰退しないが、生身の力は必ず退減がある。諸々の異熟果には衰退があるからである。それゆえ、尊者邬陀夷はこう言っています。「今、世尊の色力が衰え、諸根が変わっているのを見る」と。つまり五色根のことです。 問う。「他の有情にもこのような力があるのでしょうか。」 答える。「この力はすべての有情に共通するものではなく、最後の身の菩薩だけが持つことができるものです。最初の説のように、菩薩の力の量は非常に少ないと説かれても、なお得難いのに、ましてや第二の説、第三の説などは、他の有情が持つことなどできるはずがありません。しかし、この賢劫の世界が最初に形成された時には、那羅延の力を持つ有情もいれば、那羅延の力の半分を持つ者、鉢羅塞建提の力を持つ者、摩訶諾健那の力を持つ者もいました。これらの力士たちは世間に満ちていましたが、その後、次第に減少し、今の時代には全くその力を持つ者がいません。 仏が在世の時には、三人の釈種が鉢羅塞建提の力を持っていました。すなわち、阿難陀、設摩釈子、瞿波釈女です。その時にも、完全な摩訶諾健那の力を持つ者、象力・馬力・牛力などを備えた者は数え切れないほどいました。 麟角のような独覚にも那羅延の力があります。部行のような独覚の力は一定して説くことはできません。なぜなら、彼らは多くは声聞の種姓であり、後に別の縁によって無学果を得るからです。寂静を好むけれども大勢で住することがあり、五百の仙人が一処で果を得るようなものです。麟角のような者は根が非常に優れており、独居を好むからです。仏のように、必ず二人が同時に世に出ることはありません。舎利子のような者でも同時に二人出ることはないのに、ましてや麟角のような者はそれより何倍も優れているのです。 諸々の声聞の者の力は一定しません。部行のような独覚について説かれたのと同じです。 諸々の転輪王の力も一定しません。四洲を王とする者は那羅延の力を持ち、三洲を王とする者は伐浪伽の力を持ち、二洲を王とする者は鉢羅塞建提の力を持ち、一洲を王とする者は摩訶諾健那の力を持ちます。この四種の輪宝にも違いがあります。四洲を王とする者には金輪宝があり、その量は正しく四俱盧舎に等しい。三洲を王とする者には銀輪宝があり、その量は正しく三俱盧舎に等しい。二洲を王とする者には銅輪宝があり、その量は正しく二俱盧舎に等しい。一洲を王とする者には鉄輪宝があり、その量は正しく一俱盧舎に等しい。四種の輪宝にこのような違いがあるように、他の宝にも優劣があると知るべきです。四洲を王とする者の他の宝は最も優れ、一洲を王とする者の他の宝は最も劣ります。 問う。「有情たちの身力が異なるなら、骨節の安立にも違いがあるでしょうか。」 答える。「違いがあります。凡夫の通常の力を持つ者は骨節が互いに遠く、象や馬の力を持つ者は骨節が近く、大諾健那の力を持つ者は骨節が板を接したようにつながり、鉢羅塞建提の力を持つ者は骨節が互いに鉤のようにかみ合い、那羅延の力を持つ者は骨節が鎖のようにつながっています。菩薩の骨節は互いに交差して、まるで龍が蟠り結んだかのようです。それゆえ最も勝れているのです。」 仏の身力について説き終わった。次に意力について説くべきである。 仏世尊は十力・四無所畏・大悲・三念住などの不可思議な無辺の功徳を成就している。用途の違いによって様々な名前が立てられている。その十種を備えていることを「意力」と名付ける。 十力とは何か。第一に処非処智力、第二に業法集智力、第三に静慮解脱等持等至発起雑染清浄智力、第四に種種界智力、第五に種種勝解智力、第六に根勝劣智力、第七に遍趣行智力、第八に宿住随念智力、第九に死生智力、第十に漏尽智力である。 問う。「この十力は何を自性とするのでしょうか。」 答える。「智を自性とします。仏の意力は智によって成され、智を体とし、智に摂せられるからです。経典に説かれているように『処と非処とを如実に知る』などと広く説かれています。」 自性については説き終わった。では、なぜ「力」という名前なのか、その意味を説くべきである。 問う。「なぜ力という名前なのか。力とはどういう意味か。」 答える。「屈することができないという意味が力の意味です。伏せられないこと、摧かれないこと、害されないこと、転じられないこと、覆われないこと、すべてを覚ること、荷なうことができること、堅固であること、最も勝れていること、他を制することができること、これが力の意味です。」 界について：宿住随念智力と死生智力は色界に繋属する。他の力のうち有漏のものは三界に繋属し、無漏のものは繋属しない。 地について：宿住随念智力と死生智力は四根本静慮にあります。神通の性質だからです。近分・無色・不定地は神通の依処ではないので、この二つはありません。他の力のうち有漏のものは十一地にあります。すなわち欲界・四静慮・四無色・未至定・静慮中間です。無漏のものは九地にあります。 所依について：すべて欲界の人間の贍部洲の大丈夫の身に依ります。この身に依ってのみ仏となるからです。 行相について：処非処智力と遍趣行智力は十六行相、あるいは他の行相です。業法集智力は苦・集の八行相、あるいは他の行相です。第三・第四・第五・第六の智力は苦・集・道の十二行相、あるいは他の行相です。宿住随念智力と死生智力は他の行相であり、十六行相ではありません。漏尽智力は、漏尽の境を縁とするという考えでは、滅の四行相、あるいは他の行相です。漏尽の身に依るという考えでは、十六行相、あるいは他の行相です。 所縁について：処非処智力はすべての法を縁じます。業法集智力は苦・集のみを縁じます。第三・第四・第五・第六の智力は滅諦を除いた三諦を縁じます。遍趣行智力は四諦のみを縁じます。宿住随念智力は欲・色界の前際の五蘊を縁じます。死生智力は色処を縁じます。漏尽智力は、漏尽の境を縁とするなら滅諦を縁じ、漏尽の身に依るならすべての法を縁じます。 念住について：種種勝解智力と宿住随念智力は法念住のみです。死生智力は身念住のみです。漏尽智力は、漏尽の境を縁とするなら法念住であり、漏尽の身に依るなら四念住です。他の力はすべて四念住です。 智について：処非処智力と遍趣行智力は十智に通じます。業法集智力は滅・道を除いた八智のみです。第三・第四・第五・第六の智力は滅智を除いた九智のみです。宿住随念智力と死生智力は世俗智のみです。漏尽智力は、漏尽の境を縁とするなら六智のみです。すなわち法智・類智・滅智・尽智・無生智・世俗智です。漏尽の身に依るなら十智に通じます。 三摩地との関係：処非処智力と遍趣行智力は三三摩地と俱にあるか、あるいは俱でないかです。業法集智力は苦・集を縁じるので、空・無願と俱にあるか、あるいは俱でないかです。第三・第四・第五・第六の智力は苦・集・道を縁じるので、空・無願と俱にあるか、あるいは俱でないかです。宿住随念智力と死生智力は三摩地と俱にありません。漏尽智力は、漏尽の境を縁とするなら無相と俱にあるか、あるいは俱でないかです。漏尽の身に依るなら三三摩地と俱にあるか、あるいは俱でないかです。 根との相応：総じてすべて三根と相応します。すなわち楽・喜・捨です。 過去・未来・現在について：この十力はすべて三世に通じます。 過去・未来・現在を縁することについて：処非処智力と遍趣行智力は三世および離世を縁じます。第二・第三・第四・第五・第六の智力は三世を縁じます。宿住随念智力は、過去・現在のものは過去を縁じ、未来のものは三世を縁じます。死生智力は、過去のものは過去を縁じ、現在のものは現在を縁じ、未来に生じる法は未来を縁じ、生じない法は三世を縁じます。漏尽智力は、漏尽の境を縁とするなら離世を縁じ、漏尽の身に依るなら三世および離世を縁じます。 善・不善・無記について：この十力はすべて善です。善・不善・無記を縁することについて：漏尽智力は、漏尽の境を縁とするなら善のみを縁じ、漏尽の身に依るなら三種を縁じます。他の九力はすべて三種を縁じます。 別の師はこう言います。「第三の智力は善と無記のみを縁じる」と。しかし、彼はそう言うべきではありません。この力は雑染と清浄の有為法を縁じるからです。雑染法の中には不善があるからです。 繋属・不繋属について：宿住随念智力と死生智力は色界に繋属するのみです。他の八力のうち有漏のものは三界に繋属し、無漏のものは不繋属です。繋属・不繋属を縁することについて：宿住随念智力と死生智力は欲・色界の繋属を縁じます。業法集智力は三界の繋属を縁じます。漏尽智力は、漏尽の境を縁とするなら不繋属を縁じ、漏尽の身に依るなら三界の繋属および不繋属を縁じます。他の力はすべて三界の繋属および不繋属を縁じます。 学・無学・非学非無学について：宿住随念智力と死生智力は非学非無学のみです。他の八力のうち無漏のものは無学であり、有漏のものは非学非無学です。学・無学・非学非無学を縁することについて：業法集智力・宿住随念智力・死生智力は非学非無学のみを縁じます。漏尽智力は、漏尽の境を縁とするなら非学非無学のみを縁じ、漏尽の身に依るなら三種を縁じます。他の力はすべて三種を縁じます。 見所断・修所断・不断について：宿住随念智力と死生智力は修所断のみです。他の八力のうち有漏のものは修所断であり、無漏のものは不断です。見所断・修所断・不断を縁することについて：業法集智力と宿住随念智力は見・修所断を縁じます。死生智力は修所断を縁じます。漏尽智力は、漏尽の境を縁とするなら不断を縁じ、漏尽の身に依るなら三種を縁じます。他の力はすべて三種を縁じます。 名を縁じるか義を縁じるかについて：種種勝解智力・根勝劣智力・死生智力は義のみを縁じます。漏尽智力は、漏尽の境を縁とするなら義のみを縁じ、漏尽の身に依るなら名と義の両方を縁じます。他の力はすべて名と義の両方を縁じます。 自相続・他相続・非相続を縁することについて：処非処智力と遍趣行智力は三種を縁じます。漏尽智力は、漏尽の境を縁とするなら非相続を縁じ、漏尽の身に依るなら三種を縁じます。他の力はすべて自・他の相続を縁じます。 加行得・離染得について：この十力はすべて加行得と言えます。三無数劫にわたって殊勝な加行を積んだからです。またすべて離染得と言えます。有頂の染を離れて尽智を得る時、諸力を得るからです。 問う。「この十力の加行とはどのようなものでしょうか。」 答える。「この加行には二種あります。第一に近加行、すなわち順決択分などです。第二に遠加行、すなわち最初に退かない菩提心を起こすことなどです。」 問う。「業法集智力と死生智力はともに業を縁することができますが、どのような違いがあるのでしょうか。」 答える。「因から果に入るのが業法集智力であり、果から因に入るのが死生智力です。因と果のように、細と麁、不現見と現見、遠と近もまた同様です。」 問う。「無表業はどのように知るのでしょうか。」 答える。「果から因に入り、麁から細に入り、現見から不現見に入り、近から遠に入ることによって、このように知るのです。」 問う。「宿住随念智と死生智は二乗にもあります。なぜ仏だけに力が立てられるのでしょうか。」 答える。「先に説いたように、屈することができないという意味が力の意味です。二乗にはそれがありますが、この意味がないので力とは名付けません。舎利子のような者でも第四静慮に入っても、人が生まれる場所や来た場所などを知らないからです。」 問う。「二乗にも漏永尽の智はあります。なぜ力ではないのでしょうか。」 答える。「仏の智は猛利であり、煩悩とその残りの習気を速やかに断じることができます。二乗にはそれがありません。また、仏の智は自他の相続の諸漏が永遠に尽きた時期を誤りなく知ることができますが、声聞・独覚にはそのような能力がありません。また、自分自身の諸漏が尽きたことを知るから漏尽力というのではなく、他者の無辺の世界の有情たちの漏尽の違いを知り、彼らのために漏尽の方便を明らかに説いて誤りがないことから、漏尽力と名付けられます。声聞・独覚にはこのような意味がありません。」

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第三十

> 説一切有部発智大毘婆沙論 巻第三十