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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 3"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第三十一

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第三十一巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 雜蘊第一中愛敬納息第四之三

> 諸行無常

已說佛十力。當說四無畏。云何為四。一正等覺無畏。如契經說我是諸法正等覺者。若有世間沙門梵志天魔梵等依法立難。或令憶念於如是法非正等覺無有是處設當有者我於是事正見無由故得安隱無怖無畏。自稱我處大仙尊位。於大眾中正師子吼轉大梵輪。一切世間沙門梵志天魔梵等所不能轉二漏永盡無畏。如契經說。我於諸漏已得永盡若有世間沙門梵志天魔梵等依法立難。或令憶念有如是漏未得永盡無有是處。設當有者乃至廣說。三說障法無畏。如契經說。我為弟子說能障法染必為障。若有世間沙門梵志天魔梵等依法立難。或令憶念有此障法染不為障無有是處。設當有者乃至廣說。四說出道無畏。如契經說。我為弟子說能出道修必出苦。若有世間沙門梵志天魔梵等依法立難。或令憶念修如是道不能出苦無有是處。設當有者我於是事正見無由故得安隱無怖無畏。自稱我處大仙尊位。於大眾中正師子吼轉大梵輪。一切世間沙門梵志天魔梵等所不能轉問此四無畏以何為自性。答亦以智為自性。所以者何。初無畏即初力。第二無畏即第十力。第三無畏即第二力。第四無畏即第七力故。已說自性。所以今當說。問何故名無畏無畏是何義。答不怯弱義是無畏義。不傾動義。勇猛義。安隱義。清淨義。鮮白義。不驚怖義。是無畏義。界者此四無畏。有漏者三界繫。無漏者是不繫。地者此四無畏有漏者在十一地。無漏者在九地。所依者此四無畏皆依欲界人贍部洲大丈夫身。唯依此身得成佛故。行相者初無畏十六行相。或餘行相。第二無畏諸有欲令緣漏盡境故名漏盡無畏者。彼說滅四行相。或餘行相。諸有欲令依漏盡身故名漏盡無畏者。彼說十六行相。或餘行相。第三無畏苦集八行相。或餘行相。第四無畏十六行相。或餘行相。所緣者初無畏緣一切法。第二無畏若緣漏盡境故則緣滅諦。若依漏盡身故則緣一切法。第三無畏緣苦集諦。第四無畏但緣四諦。念住者第二無畏若緣漏盡境故則法念住。若依漏盡身故則四念住。餘三無畏皆四念住。智者初及第四無畏皆通十智。第二無畏若緣漏盡境故則唯六智。謂法智類智滅智盡智無生智世俗智。若依漏盡身故則通十智。第三無畏唯有八智。謂除滅道。三摩地俱者。初及第四無畏三三摩地俱或不俱。第二無畏若緣漏盡境故則無相俱或不俱。若依漏盡身故則三三摩地俱或不俱。第三無畏緣苦集空無願俱或不俱。根相應者總說皆與三根相應。謂樂喜捨。過去未來現在者。此四無畏皆通三世。緣過去未來現在者。初及第四無畏緣三世及離世。第二無畏若緣漏盡境故則緣離世。若依漏盡身故則緣三世及離世第三無畏但緣三世。善不善無記者。此四無畏皆是善。緣善不善無記者。第二無畏若緣漏盡境故則但緣善。若依漏盡身故則緣三種。餘三無畏皆緣三種繫不繫者。此四無畏有漏者三界繫。無漏者是不繫。緣繫不繫者。初及第四無畏緣三界繫及不繫第二無畏若緣漏盡境故則緣不繫若依漏盡身故則緣三界繫及不繫。第三無畏但緣三界繫。學無學非學非無學者。此四無畏無漏者是無學。有漏者。是非學非無學。緣學無學非學非無學者。初及第四無畏緣三種第二無畏若緣漏盡境故則緣非學非無學。若依漏盡身故則緣三種。第三無畏但緣非學非無學。見所斷修所斷不斷者。此四無畏有漏者修所斷。無漏者是不斷。緣見所斷修所斷不斷者。初及第四無畏緣三種。第二無畏若緣漏盡境故則緣不斷。若依漏盡身故則緣三種。第三無畏緣見修所斷。緣名緣義者。第二無畏若緣漏盡境故則但緣義。若依漏盡身故通緣名義。餘三無畏皆緣名義緣自相續他相續非相續者。初及第四無畏緣三種。第二無畏若緣漏盡境故則緣非相續。若依漏盡身故則緣三種第三無畏緣自他相續加行得離染得者。此四無畏皆可言加行得。三無數劫積集殊勝加行得故皆可言離染得。離有頂染得盡智時得無畏故。問此四無畏加行云何答此加行有二種一近加行謂順決擇分等。二遠加行謂初不退菩提心等。如是所說十力四無所畏。一一力攝四無畏。一一無畏攝十力故則有四十力四十無畏。然前說初無畏即初力。第二無畏即第十力。第三無畏即第二力。第四無畏即第七力者。依相顯說理實。世尊成就四十力四十無畏。依根本說但言成就十力四無所畏。問若十力攝四無畏。四無畏攝十力者。力與無畏有何差別。有說此二無有差別互相攝故。有說此二亦有差別且名即差別謂名力名無畏。復次堅強是力。勇決是無畏。復次安住是力。不可傾動是無畏。復次不可屈伏是力。不怯弱是無畏。復次自利是力。利他是無畏。復次自攝受是力。攝受他是無畏。復次非他所勝是力。能勝他是無畏。復次非他所降伏是力。能降伏他是無畏。

> 仏の十力を説き終えたので、次に四無畏（四つの恐れなきこと）について説こう。四無畏とは何か。 第一に、正等覚無畏（完全なる悟りに関する恐れなきこと）。経典に説かれるように、「私は一切の法について正しく完全に悟った者である」と自称する。もし世間の修行者や梵志、天や魔、梵天などが、法に基づいて論難を仕掛け、「そのような法について完全に悟っていないのではないか」と追及しようとしても、そのようなことはありえない。もし仮にそのようなことがあっても、私はこの事について正しい見解を持つゆえに、安心して恐れず、怖れず、怯えることがない。自ら「私は大仙の尊い位にいる」と称し、大衆の中で正しく獅子吼し、大いなる梵輪を転ずる。一切の世間の修行者、梵志、天、魔、梵天などは、これを転ずることができない。 第二に、漏永尽無畏（煩悩を尽くし尽くしたことに関する恐れなきこと）。経典に説かれるように、「私はすべての煩悩をすでに永く尽くした」と自称する。もし世間の修行者や梵志、天や魔、梵天などが、法に基づいて論難を仕掛け、「そのような煩悩が尽きていないのではないか」と追及しようとしても、そのようなことはありえない。もし仮にそのようなことがあっても、以下のように広く説く。 第三に、説障法無畏（さまたげる法を説くことに関する恐れなきこと）。経典に説かれるように、「私は弟子たちのために、悟りをさまたげる法は、必ずさまたげとなる」と説く。もし世間の修行者や梵志、天や魔、梵天などが、法に基づいて論難を仕掛け、「そのようなさまたげる法は、さまたげとならないのではないか」と追及しようとしても、そのようなことはありえない。もし仮にそのようなことがあっても、以下のように広く説く。 第四に、説出道無畏（苦しみを超える道を説くことに関する恐れなきこと）。経典に説かれるように、「私は弟子たちのために、苦しみを超えることのできる道を説く。これを修めれば必ず苦しみを超えることができる」と説く。もし世間の修行者や梵志、天や魔、梵天などが、法に基づいて論難を仕掛け、「そのような道を修めても苦しみを超えられないのではないか」と追及しようとしても、そのようなことはありえない。もし仮にそのようなことがあっても、私はこの事について正しい見解を持つゆえに、安心して恐れず、怖れず、怯えることがない。自ら「私は大仙の尊い位にいる」と称し、大衆の中で正しく獅子吼し、大いなる梵輪を転ずる。一切の世間の修行者、梵志、天や魔、梵天などはこれを転ずることができない。 問う——この四無畏の本質は何か。 答える——智慧を本質とする。なぜなら、第一の無畏は第一の力（十力の第一）、第二の無畏は第十の力、第三の無畏は第二の力、第四の無畏は第七の力に対応するからである。 すでに本質を説いたので、次に名称について説こう。 問う——なぜ「無畏」というのか。「無畏」とはどういう意味か。 答える——怯弱ではないという意味が無畏の意味である。動じないという意味、勇猛という意味、安穏という意味、清浄という意味、鮮白という意味、驚怖しないという意味が無畏の意味である。 範疇について——この四無畏は、煩悩を有するものは三界に属し、煩悩を離れたものは三界に属さない。 地について——この四無畏は、煩悩を有するものは十一地にあり、煩悩を離れたものは九地にある。 所依について——この四無畏はすべて、欲界の人間の贍部洲（インド）における大丈夫の身に依る。ただこの身によってのみ仏となることができるからである。 行相について——第一の無畏は十六の行相または他の行相を持つ。第二の無畏について、煩悩の尽きることを境とするという見解を採る者（「漏尽無畏」と名づける者）は、滅に関する四行相または他の行相を持つと説く。煩悩の尽きた身に依るという見解を採る者は、十六の行相または他の行相を持つと説く。第三の無畏は苦と集に関する八つの行相または他の行相を持つ。第四の無畏は十六の行相または他の行相を持つ。 所縁について——第一の無畏は一切の法を縁とする。第二の無畏は、煩悩の尽きることを境とする見解を採れば滅諦を縁とし、煩悩の尽きた身に依るという見解を採れば一切の法を縁とする。第三の無畏は苦諦と集諦を縁とする。第四の無畏はただ四諦のみを縁とする。 念住について——第二の無畏は、煩悩の尽きることを境とする見解を採れば法念住であり、煩悩の尽きた身に依るという見解を採れば四念住である。他の三つの無畏はすべて四念住である。 智について——第一と第四の無畏は十智すべてと通じる。第二の無畏は、煩悩の尽きることを境とする見解を採れば六智のみと通じる。すなわち、法智、類智、滅智、尽智、無生智、世俗智である。煩悩の尽きた身に依るという見解を採れば十智と通じる。第三の無畏は八智のみと通じる（滅智と道智を除く）。 三昧との関係——第一と第四の無畏は、三つの三昧（空・無相・無願）と共にあるか、または共にない。第二の無畏は、煩悩の尽きることを境とする見解を採れば無相三昧と共にあるか、または共にない。煩悩の尽きた身に依るという見解を採れば三つの三昧と共にあるか、または共にない。第三の無畏は苦と集を縁とし、空三昧・無願三昧と共にあるか、または共にない。 根との対応——総じて説けば、すべて三つの根（楽根・喜根・捨根）と対応する。 過去・未来・現在について——この四無畏はすべて三世に通じる。 過去・未来・現在を縁とするか——第一と第四の無畏は三世および三世を離れたものを縁とする。第二の無畏は、煩悩の尽きることを境とする見解を採れば三世を離れたものを縁とし、煩悩の尽きた身に依るという見解を採れば三世および三世を離れたものを縁とする。第三の無畏はただ三世のみを縁とする。 善・不善・無記について——この四無畏はすべて善である。 善・不善・無記を縁とするか——第二の無畏は、煩悩の尽きることを境とする見解を採ればただ善のみを縁とし、煩悩の尽きた身に依るという見解を採れば三種すべてを縁とする。他の三つの無畏はすべて三種を縁とする。 繫属と非繫属について——この四無畏は、煩悩を有するものは三界に繫属し、煩悩を離れたものは繫属しない。 繫属と非繫属を縁とするか——第一と第四の無畏は、三界に繫属するものと繫属しないものを縁とする。第二の無畏は、煩悩の尽きることを境とする見解を採れば繫属しないものを縁とし、煩悩の尽きた身に依るという見解を採れば三界に繫属するものと繫属しないものを縁とする。第三の無畏はただ三界に繫属するもののみを縁とする。 有学・無学・非有学非無学について——この四無畏のうち、煩悩を離れたものは無学であり、煩悩を有するものは非有学非無学である。 有学・無学・非有学非無学を縁とするか——第一と第四の無畏は三種すべてを縁とする。第二の無畏は、煩悩の尽きることを境とする見解を採れば非有学非無学のみを縁とし、煩悩の尽きた身に依るという見解を採れば三種すべてを縁とする。第三の無畏はただ非有学非無学のみを縁とする。 見所断・修所断・不断について——この四無畏は、煩悩を有するものは修所断であり、煩悩を離れたものは不断である。 見所断・修所断・不断を縁とするか——第一と第四の無畏は三種すべてを縁とする。第二の無畏は、煩悩の尽きることを境とする見解を採れば不断のみを縁とし、煩悩の尽きた身に依るという見解を採れば三種すべてを縁とする。第三の無畏は見所断と修所断を縁とする。 名と義を縁とするか——第二の無畏は、煩悩の尽きることを境とする見解を採ればただ義のみを縁とし、煩悩の尽きた身に依るという見解を採れば名と義の両方を縁とする。他の三つの無畏はすべて名と義を縁とする。 自相続・他相続・非相続を縁とするか——第一と第四の無畏は三種すべてを縁とする。第二の無畏は、煩悩の尽きることを境とする見解を採れば非相続を縁とし、煩悩の尽きた身に依るという見解を採れば三種すべてを縁とする。第三の無畏は自相続と他相続を縁とする。 獲得の方法について——この四無畏は、加行（努力修行）によって得られると言える。三つの無数劫にわたって殊勝な加行を積み重ねて得られるからである。また、煩悩を離れることによっても得られると言える。有頂の煩悩を離れるとき、尽智を得る時に無畏を得るからである。 問う——この四無畏の加行とは何か。 答える——この加行には二種類ある。第一に近加行、すなわち順決択分などの修行である。第二に遠加行、すなわち最初に退かない菩提心を発することなどである。 このように説かれた十力と四無畏について、それぞれの力に四無畏が含まれ、それぞれの無畏に十力が含まれるので、四十の力と四十の無畏があることになる。しかし前述の通り、第一の無畏は第一の力、第二の無畏は第十の力、第三の無畏は第二の力、第四の無畏は第七の力に対応すると説いたのは、特徴を示すための方便である。実際には、世尊は四十の力と四十の無畏を成就しておられるが、根本に基づいて説けば、ただ十力と四無畏を成就すると言うだけである。 問う——もし十力が四無畏を含み、四無畏が十力を含むならば、力と無畏にどんな違いがあるのか。 答える——ある説では、この二つに違いはない。互いに含み合うからである。またある説では、この二つにも違いがある。まず名称が異なる。すなわち「力」と名づけ、「無畏」と名づけるからである。さらに、堅強であることが力であり、勇決であることが無畏である。また、安住することが力であり、動かされないことが無畏である。また、屈伏されないことが力であり、怯弱でないことが無畏である。また、自利が力であり、利他が無畏である。また、自己を摂受することが力であり、他を摂受することが無畏である。また、他に勝たれないことが力であり、他に勝つことが無畏である。また、他に降伏されないことが力であり、他を降伏することが無畏である。

復次自相智是力。共相智是無畏。復次智是力。辯是無畏。復次因是力。果是無畏。復次自通達是力。能為他說是無畏。復次通達義是力。通達文是無畏。復次法義無礙解是力。詞辯無礙解是無畏。復次於法義無礙解究竟明了是力。於詞辯無礙解究竟明了是無畏。復次積集是力。受用是無畏。復次如自豐財寶是力。如能分施他是無畏。復次如解醫方是力。如能療病是無畏。復次智慧明了是力。不怯他難是無畏。力與無畏是謂差別。已說無畏。當說大悲。問大悲以何為自性。答以智為自性。有說。大悲別有自性非智所攝。如是說者。大悲是智無別有體知藥病等而救療故已說自性。所以今當說。問何故名大悲。大悲是何義。答拔濟有情增上苦難故名大悲。謂從地獄傍生鬼趣大苦難中拔濟令出安置人天喜樂等處。復次拔眾生出增上淤泥故名大悲。謂有情類沒在煩惱大淤泥中授正法手拔之令出安置聖道及道果中。復次授諸有情增上義利故名大悲謂教眾生斷三惡行修三妙行。種植尊貴富樂種子。感得尊貴大富樂果。形色美妙眾所樂見。膚體細軟光明清淨。或為輪王。或作帝釋。或為魔主。或作梵王。展轉乃至或生有頂。或復種植三乘種子引得三乘菩提涅槃。如是皆由大悲威力。復次大價所得故名大悲。謂一切時於一切處。捨施一切所愛身財及妻子等。濟諸眾生匱乏苦難。具足受持清淨禁戒寧捨身命終無毀犯。打罵𣣋辱割截身支乃至斷命曾無嗔忿。精進苦行未嘗暫息。恒居寂靜專修靜慮。為勝慧故求法無怠。如是福德智慧資糧大價圓滿乃得如是救眾苦難清淨大悲。非如二乘或施一食持一宿戒乃至思惟一四句頌便得彼果。復次大加行得故名大悲。謂必經三無數大劫修習百千難行苦行方得如是無限大悲。非如聲聞極利根者經六十劫修諸加行便得菩提。非如獨覺極利根者唯經百劫修諸加行便得菩提。復次依大身起故名大悲。謂此大悲決定依止三十二種大丈夫相所莊嚴身。八十隨好間飾支體。身真金色常光一尋無能見頂。眾生遇者無不獲益。大悲依止如是勝身。非如二乘所獲功德依止矬陋支體不具諸根缺減無威德身亦能現起。復次捨大安樂救大苦難故名大悲。謂佛世尊棄捨殊勝增上熾盛無量無邊不共佛法大安樂事。逾越百千俱胝大海輪圍山等諸險難處。遊歷十方救眾生苦作安樂事。如是皆由大悲威力。復次為度無量難化有情造作難為大劬勞事故名大悲。謂佛雖居極尊貴位為眾生故。或作陶師。或作商人。或作力士。或作獵主。或作俳優。或販花鬘。或賃船筏。作如是等諸猥雜類。拔濟種種所化有情。或將阿難遊歷五趣。晝夜無間饒益有情。或為指鬘得度脫故延促地界時遠時近。令其調伏然後化之。雖復成就增上慚愧而為有情現陰藏相。令彼見已誹謗止息。無量有情聞皆從化。雖復久斷輕躁調戲而為有情現廣長舌。乃至髮際遍覆面輪令諸有情因受佛化。如是等事無量無邊一切皆由大悲威力。復次傾動大捨故名大悲。謂佛成就二種大法。一者大捨。二者大悲。若佛安住大捨法時假使十方諸有情類。一時吹擊大角大鼓。或現雷震掣電霹靂諸山大地傾覆動搖不能令佛舉心視聽。若佛現起大悲法時。擊大捨山令其振動。亦令無量那羅延力所合成身。如大猛風吹小草葉處處飄轉作諸有情利樂勝事。由斯等義故名大悲。如是大悲界者唯是色界。地者唯在第四靜慮所依者唯依欲界人贍部洲大丈夫身。唯依此身得大悲故。行相者非十六行相是餘行相。所緣者通緣三界諸法有情。念住者唯法念住。智者唯世俗智。三摩地俱者非三摩地俱。根相應者捨根相應。過去未來現在者是三世。緣過去未來現在者緣三世善不善無記者唯是善。緣善不善無記者緣三種。繫不繫者唯色界繫。緣繫不繫者緣三界繫。學無學非學非無學者唯是非學非無學。緣學無學非學非無學者。但緣非學非無學。見所斷修所斷不斷者唯修所斷。緣見所斷修所斷不斷者。緣見修所斷緣名緣義者通緣名義。緣自相續他相續非相續者。雖通緣自他相續而多緣他相續。加行得離染得者。可言加行得。三無數劫積集殊勝加行得故。可言離染得。離有頂染得盡智時得大悲故。問云何名為大悲加行。答此加行有二種。一近加行謂順決擇分等。二遠加行謂初不退菩提心等。問此大悲何力攝。答處非處智力攝。以佛世尊不共功德多分攝在處非處智力中故。問悲與大悲有何差別。答應知略有八種差別。一自性差別。謂悲無嗔善根為自性。大悲無癡善根為自性。二行相差別。謂悲作苦苦行相。大悲作三苦行相。三所緣差別。謂悲唯緣欲界。大悲通緣三界。四依地差別。謂悲通依十地。即四靜慮四近分靜慮中間及欲界地。大悲唯在第四靜慮五所依差別。謂悲通依三乘及異生身。大悲唯依佛身。六證得差別。謂悲離欲界乃至第三靜慮染時得。大悲唯離有頂染時得。七救濟差別。謂悲唯希望救濟。大悲救濟事成。八哀愍差別。謂悲哀愍不平等。大悲哀愍平等。是謂悲與大悲差別。已說佛大悲。當說三念住。云何為三。一者佛說法時。若諸弟子恭敬聽受如教奉行。如來於彼不生歡喜心不踊躍。但起大捨住念正知隨宜教誨。二者佛說法時。若諸弟子不恭敬聽受不如教奉行。如來於彼不生嗔恨。心無悵恨不捨保任。但起大捨住念正知隨宜教誨。三者佛說法時。一分弟子恭敬聽受如教奉行。一分弟子不恭敬聽受不如教奉行。如來於彼不生歡喜亦不嗔恨。但起大捨住念正知。如是三種不共念住應知亦攝在處非處智力。廣分別義如理應思。問此十八種不共佛法幾於說法能為勝支。答除三念住餘十五種。皆於說法能為勝支。所以者何。佛由十力能立自論。由四無畏能破他論。由大悲故起說法欲。由此三種說法事成。三種念住無如是力。但說法時於弟子眾不生憂喜。發起大捨住念正知名不共法如契經說。如來成就七種妙法。云何為七。一者知法。二者知義。三者知時。四者知量。五者自知。六者知眾。七者知補特伽羅勝劣差別問此七妙法誰幾智性。答此七皆是世俗智性。有作是說。知法知量知眾三種唯世俗智。知義一種諸有欲令唯有涅槃是勝義者六智為性謂法智類智滅智盡智無生智及世俗智。諸有欲令一切法皆是勝義者十智為性。知時自知八智為性。除滅智及他心智。知補特伽羅勝劣差別九智為性除滅智。有餘師說。知時亦以九智為性謂除滅智。評曰。如是所說雖亦有理。然契經中說此七種一切皆是世俗智性皆知事法有差別故。問此七妙法何力所攝。答皆處非處智力所攝。

> 次に、「自相を知る智慧」は十力であり、「共相を知る智慧」は無畏である。また、智慧は力であり、弁説は無畏である。また、原因は力であり、結果は無畏である。また、自ら悟りを得ることは力であり、他人のために説くことは無畏である。また、義理を悟ることは力であり、文句を悟ることは無畏である。また、法と義理についての無礙解は力であり、詞と弁説についての無礙解は無畏である。また、法と義理についての無礙解を究極まで明らかにすることは力であり、詞と弁説についての無礙解を究極まで明らかにすることは無畏である。また、積み集めることは力であり、受用することは無畏である。また、自ら財宝を豊かに持つことは力であり、他人に分け与えることは無畏である。また、医術の処方を理解することは力であり、病気を治療できることは無畏である。また、智慧が明らかであることは力であり、他人の問難に怯えないことは無畏である。力と無畏の違いはこのようなものである。 無畏について説き終えたので、次に大悲について説こう。 問う、大悲の自性は何か。 答える、智慧を自性とする。あるいは、大悲には智慧とは別の自性があり、智慧には含まれないという説もある。しかし、このように説く者もある。大悲は智慧であり、別の本体はない。薬と病を知って救い治療するからである。 自性について説き終えたので、次にその意味を説こう。 問う、なぜ大悲というのか。大悲とはどのような意味か。 答える、有情を増上の苦難から救い出し助けるから大悲という。すなわち、地獄・傍生・鬼趣の大苦難から救い出して、人天の喜楽などの処に安置することをいう。 また、衆生を増上の淤泥から救い出すから大悲という。すなわち、有情が煩悩の大きな淤泥に沈んでいるのを、正法の手を差し伸べて救い出し、聖道および道果に安置することをいう。 また、諸の有情に増上の義利を授けるから大悲という。すなわち、衆生に三悪行を断ち、三妙行を修めることを教え、尊貴で富楽な種子を植えさせ、尊貴で大いなる富楽の果報を感得させる。形色は美妙で、衆生は皆見ることを楽しむ。膚体は細軟で光明清浄である。あるいは輪王となり、あるいは帝釈となり、あるいは魔主となり、あるいは梵王となる。展転してついには有頂天に生まれることもある。あるいはまた、三乗の種子を植え、三乗の菩提と涅槃を引き起こす。このようなことはすべて大悲の威力によるものである。 また、大いなる価値をもって得られるから大悲という。すなわち、一切時において一切処において、愛する身や財産、妻子などをすべて施し捨てて、衆生の匮乏と苦難を救済する。清浄な禁戒を具足して受持し、身命を捨ててもついに毀犯しない。打たれ、罵られ、陵辱され、身肢を割截され、命を断たれることがあっても、はたして嗔恚の心を起こさない。精進して苦行すること、ついに暫くも休むことがない。常に寂静に住して専ら静慮を修め、優れた智慧の為に法を求めることを怠らない。このような福徳と智慧の資糧を大いなる価値をもって円満に得て、はじめてこのように衆生の苦難を救う清浄な大悲を得るのである。二乗のように、一食を施し、一宿の戒を持ち、あるいは一つの四句頌を思念するだけで、その果報を得るのとは異なる。 また、大いなる加行によって得られるから大悲という。すなわち、必ず三無数大劫を経て、百千の難行苦行を修行して、はじめてこのような限りない大悲を得るのである。声聞のように、極めて利根な者は六十劫の加行を経て菩提を得るのとは異なる。独覚のように、極めて利根な者は百劫の加行を経てのみ菩提を得るのとは異なる。 また、大いなる身に依って起こるから大悲という。すなわち、この大悲は、決定して三十二種の大丈夫相によって荘厳された身に依止する。八十種の随好が肢体を飾る。身は真金色で、常に光が一尋あり、頂を見ることができない。衆生が遭遇する者は、利益を得ない者はない。大悲はこのような勝れた身に依止するのである。二乗のように、得た功徳が矮小で醜い肢体、諸根の欠けた減損した威徳なき身に依止して、また現起することができるのとは異なる。 また、大いなる安楽を捨てて、大いなる苦難を救うから大悲という。すなわち、仏世尊は、殊勝で増上し盛んに燃え盛る、無量無辺の不共仏法の大安楽の事を棄て捨て、百千俱胝の大海や輪囲山などの諸の険難の処を越えて、十方に遊歴して衆生の苦を救い、安楽の事を作す。このようなことはすべて大悲の威力によるものである。 また、無量の難化の有情を度するために、為し難き大いなる劬労の事を作すから大悲という。すなわち、仏は極めて尊貴な位に居ながらも、衆生のために、あるいは陶師となり、あるいは商人となり、あるいは力士となり、あるいは猟主となり、あるいは俳優となり、あるいは華鬘を売り、あるいは船筏を貸す。このような諸の猥雑な類を作して、種々の所化の有情を救い抜くのである。あるいは阿難を連れて五趣を遊歴し、昼夜を問わず有情を饒益する。あるいは指鬘を度脱するために、地界を延ばしたり縮めたりして、時には遠く時には近くし、その心を調伏してから教化する。あるいは、増上の慚愧を成就しているのに、有情のために陰蔵の相を現す。彼らが見て誹謗が止むようにするためである。無量の有情が聞いて皆教化に従う。あるいは、久しく軽躁や調戯を断じているのに、有情のために広長舌相を現す。髪際に至るまで面輪を覆い、諸の有情に仏の教化を受けさせるためである。このような事は無量無辺であり、すべて大悲の威力によるものである。 また、大捨を傾動させるから大悲という。すなわち、仏は二種の大法を成就する。一つは大捨であり、二つは大悲である。もし仏が大捨の法に安住するならば、仮に十方の諸の有情が一時に大角や大鼓を吹き鳴らし、あるいは雷震・電光・霹靂を現し、諸の山や大地が傾覆し動揺しても、仏の心を動かして目を上げて見たり耳を傾けたりすることはできない。もし仏が大悲の法を現起するならば、大捨の山を撃って振動させ、無量の那羅延力によって合成された身を、大いなる猛風が小さな草の葉を吹くように、至る所に飄転させて、諸の有情の利楽の勝れた事を作すのである。 これらの義によって大悲というのである。 このように大悲の界は、ただ色界のみである。地はただ第四静慮のみである。所依はただ欲界の人間、贍部洲の大丈夫の身のみである。ただこの身に依って大悲を得るからである。行相は十六行相ではなく、その他の行相である。所縁は三界の諸法と有情を通じて縁じる。念住はただ法念住のみである。智はただ世俗智のみである。三摩地と倶なることは、三摩地と倶ではない。根と相応するものは、捨根と相応する。過去・未来・現在の三世である。過去・未来・現在を縁じる。善・不善・無記はただ善のみである。善・不善・無記を縁じるものは、三種を縁じる。繋と不繋はただ色界に繋属するのみである。繋と不繋を縁じるものは、三界に繋属するものを縁じる。学・無学・非学非無学は、ただ非学非無学のみである。学・無学・非学非無学を縁じるものは、ただ非学非無学のみを縁じる。見所断・修所断・不断は、ただ修所断のみである。見所断・修所断・不断を縁じるものは、見所断と修所断を縁じる。名を縁じ、義を縁じるものは、名と義を通じて縁じる。自相続・他相続・非相続を縁じるものは、自他相続を通じて縁じるが、多くは他相続を縁じる。加行得・離染得については、加行得ということができる。三無数劫の殊勝な加行を積み集めて得るからである。離染得ということもできる。有頂の染を離れて尽智を得る時に大悲を得るからである。 問う、どのようなものを大悲の加行というのか。 答える、この加行には二種ある。一は近加行であり、順決択分などをいう。二は遠加行であり、最初の不退の菩提心などをいう。 問う、この大悲は何の力に摂せられるのか。 答える、処非処智力に摂せられる。仏世尊の不共の功徳は、多く処非処智力の中に摂せられるからである。 問う、悲と大悲にはどのような違いがあるのか。 答える、およそ八種の違いがあることを知るべきである。 一に自性の違い。悲は無嗔の善根を自性とし、大悲は無癡の善根を自性とする。 二に行相の違い。悲は苦苦を行相とし、大悲は三苦を行相とする。 三に所縁の違い。悲はただ欲界のみを縁じ、大悲は三界を通じて縁じる。 四に依地の違い。悲は十地を通じて依る。すなわち四静慮・四近分静慮・中間・欲界地である。大悲はただ第四静慮のみにある。 五に所依の違い。悲は三乗および異生の身を通じて依る。大悲はただ仏身のみに依る。 六に証得の違い。悲は欲界乃至第三静慮の染を離れる時に得る。大悲はただ有頂の染を離れる時にのみ得る。 七に救済の違い。悲はただ救済を希望するのみである。大悲は救済の事が成就する。 八に哀愍の違い。悲は哀愍が平等ではない。大悲の哀愍は平等である。 これが悲と大悲の違いである。 仏の大悲について説き終えたので、次に三念住について説こう。 どのようなものが三つか。 一に、仏が説法する時、もし諸の弟子が恭敬して聴受し、教えのままに奉行するならば、如来は彼らに対して喜びの心を生じず、心が踊ることもない。ただ大捨を起こし、念と正知に住して、その人に応じて教え誨ます。 二に、仏が説法する時、もし諸の弟子が恭敬して聴受せず、教えのままに奉行しないならば、如来は彼らに対して瞋恨の心を生じず、心に恨みを抱かず、保任を捨てることもない。ただ大捨を起こし、念と正知に住して、その人に応じて教え誨ます。 三に、仏が説法する時、一部の弟子は恭敬して聴受し、教えのままに奉行し、一部の弟子は恭敬して聴受せず、教えのままに奉行しない。如来は彼らに対して喜びの心も生じず、また瞋恨の心も生じない。ただ大捨を起こし、念と正知に住する。 このような三種の不共念住は、また処非処智力に摂せられることを知るべきである。広くその義を分別することは理に従って思うべきである。 問う、この十八種の不共仏法のうち、幾つが説法にとって勝れた支分となり得るか。 答える、三念住を除いた残りの十五種が、皆説法にとって勝れた支分となり得る。なぜならば、仏は十力によって自らの論を立て、四無畏によって他者の論を破り、大悲によって説法を求めようという心を起こすからである。この三種によって説法の事が成就する。三種の念住にはこのような力はない。ただ説法の時、弟子の衆に対して憂喜の心を生じず、大捨を起こし、念と正知に住することを不共法というのである。 契経に説くように、如来は七種の妙法を成就する。どのようなものが七つか。 一に法を知り、二に義を知り、三に時を知り、四に量を知り、五に自らを知り、六に衆を知り、七に補特伽羅の勝劣の差別を知る。 問う、この七種の妙法は、それぞれ何の智の性質か。 答える、この七つは皆、世俗智の性質である。 あるいは、このように説く者もある。知法・知量・知衆の三種は、ただ世俗智のみである。知義の一種は、涅槃のみを勝義と考える者にとっては、六智の性質である。すなわち法智・類智・滅智・尽智・無生智および世俗智である。一切法を勝義と考える者にとっては、十智の性質である。知時・自知は八智の性質である。滅智と他心智を除く。知補特伽羅勝劣差別は九智の性質である。滅智を除く。 他の師は説く。知時もまた九智の性質である。滅智を除いて。 評して曰く、このように説くのも道理はあるが、しかし契経の中ではこの七種はすべて世俗智の性質であると説く。すべて事と法を知ることに差別があるからである。 問う、この七種の妙法は何の力に摂せられるのか。 答える、皆処非処智力に摂せられる。

如契經說如來成就五聖智三摩地云何為五。一者有內證智生。知此三摩地是聖離染二者有內證智生知此三摩地非愚者所近是智者所讚。三者有內證智生。知此三摩地現樂後樂。四者有內證智生。知此三摩地寂靜微妙是止息道令心一趣有所證得。五者有內證智生。知此三摩地正念故入正念故出。問此五聖智三摩地誰幾智性。答此五皆是世俗智性。有作是說。皆八智性。謂除滅智及他心智。尊者妙音作如是說。皆六智性。謂除苦集滅他心智。如是說者。如是所說雖亦有理。然契經中說此五種一切皆是世俗智性。皆知定事有差別故。問此五聖智三摩地何力所攝。答皆處非處智力所攝。因釋身力傍論已了。

> 経典に説くところによれば、如来は五種の聖智三摩地を成就しておられる。どのような五種か。第一に、内証の智が生じて、この三摩地は聖なるものであり、染めを離れたものであると知る。第二に、内証の智が生じて、この三摩地は愚者が近づくべきものではなく、智者が讚えるものであると知る。第三に、内証の智が生じて、この三摩地は現世においても来世においても楽であると知る。第四に、内証の智が生じて、この三摩地は寂静であり微細であり、止息の道であって、心を一つに向け、証得するところがあると知る。第五に、内証の智が生じて、この三摩地は正念によって入り、正念によって出るものであると知る。 問う、この五種の聖智三摩地は、誰の幾つの智の性質であるのか。答える、この五つはすべて世俗智の性質である。ある説では、すべて八智の性質であるという。すなわち、滅智と他心智を除くものである。尊者妙音はこのように説く、すべて六智の性質であるという。すなわち、苦・集・滅・他心智を除くものである。このように説く者も、その説は一理あるが、しかし経典の中でこの五種はすべて世俗智の性質であると説かれている。すべて定の事柄について知ることに差別があるからである。 問う、この五種の聖智三摩地は、何の力に摂せられるのか。答える、すべて処非処智力に摂せられる。身力を釈するために、傍論としてこの論議はすでに終わったのである。

云何擇滅乃至廣說。問何故作此論。答為止他宗顯正義故。謂或有執。擇滅非擇滅無常滅非實有體。如譬喻者為遮彼執顯三種滅皆有實體。或復有執。此三種滅皆是無為。如分別論者。為遮彼執顯二滅是無為。無常滅是有為。故作斯論。云何擇滅。答諸滅是離繫。謂諸法滅亦得離繫得離繫得是名擇滅。云何非擇滅。答諸滅非離繫。謂諸法滅得不離繫不得離繫得名非擇滅。云何無常滅。答諸行散壞破沒亡退是謂無常滅。此中散壞破沒亡退文字雖有差別而同顯無常滅。又諸行散等言。非如散穀豆等令往異處。但顯由無常滅無復作用。又散等言不顯諸行自性滅壞但顯諸行由無常滅無復作用。謂有為法自性恒有由生相故。有作用起由滅相故。無復作用名為散壞破沒亡退。

> ここで「択滅」とは何か、さらには広く説くことについて述べる。なぜこの論を立てるのか。答えていうには、他宗の主張を止め、正しい義を示すためである。すなわち、ある者は執する——択滅・非択滅・無常滅は実体として存在しない、と。譬喩者の如くである。その執りを遮り、三種の滅がすべて実体を持つことを示すために、この論を立てるのである。また、ある者は執する——この三種の滅はすべて無為である、と。分別論者の如くである。その執りを遮り、二つの滅は無為であり、無常滅は有為であることを示すために、この論を立てるのである。では、択滅とは何か。答えていうには、諸々の滅は離繫である。すなわち、諸法が滅するとき、また離繫を得、離繫の得を得る。これを択滅と名づける。非択滅とは何か。答えていうには、諸々の滅は離繫ではない。すなわち、諸法が滅しても、離繫を得ず、離繫の得を得ない。これを非択滅と名づける。無常滅とは何か。答えていうには、諸行が散じ、壊れ、破れ、没し、亡び、退くこと、これを無常滅と謂う。この中で、散、壊、破、没、亡、退という文字は、その表記に違いはあれど、同じく無常滅を示すものである。また、諸行が散ずるなどの言葉は、穀物や豆を散らして他の場所に移すようなことを意味するのではない。ただ、無常によって滅し、再び作用がなくなることを示すのみである。また、散などの言葉は、諸行の自性が滅し壊れることを示すのではなく、ただ諸行が無常によって滅し、再び作用がなくなることを示すのである。すなわち、有為法はその自性が常に存在し、生の相によって作用が起こり、滅の相によって再び作用がなくなる。これを散じ、壊れ、破れ、没し、亡び、退く、と名づけるのである。

非擇滅無常滅何差別。答非擇滅者。不由擇力解脫疫癘災橫愁惱種種魔事行世苦法。非於貪欲調伏斷越。無常滅者諸行散壞破沒亡退。是謂二滅差別。此中解脫疫癘災橫愁惱種種魔事苦法者。顯有漏法非擇滅解脫行世法者。顯無漏法非擇滅非於貪欲調伏斷越者。顯異擇滅問何故此中但說非擇滅無常滅差別不說擇滅耶。答是作論者意欲爾故乃至廣說。復次此中應作是說。擇滅非擇滅無常滅何差別。答擇滅者由擇力故有漏法滅。非擇滅者不由擇力解脫疫癘廣說如前。無常滅者諸行散壞破沒亡退。復次擇滅是解脫是離繫相。非擇滅是解脫非離繫相。無常滅非解脫非離繫相。復次擇滅於三世有漏法得。非擇滅於未來不生有為法得。無常滅於現在一切法轉。復次擇滅是善。彼得亦善。非擇滅是無記。彼得亦無記。無常滅通三種。彼得亦三種。復次擇滅是無漏。彼得通有漏無漏。非擇滅是無漏。彼得唯有漏。無常滅通二種。彼得亦二種。復次擇滅是不繫。彼得或色界繫。或無色界繫或不繫。非擇滅是不繫。彼得唯三界繫。無常滅三界繫。或不繫。彼得亦三界繫或不繫。復次擇滅是非學非無學。彼得或學或無學或非學非無學。非擇滅是非學非無學。彼得亦唯非學非無學。無常滅通三種。彼得亦三種復次擇滅是不斷。彼得或修所斷或不斷。非擇滅是不斷。彼得唯修所斷。無常滅通三種。彼得亦三種。復次擇滅非擇滅俱不染污。彼得亦俱不染污。無常滅通染污不染污。彼得亦二種如染污不染污。有罪無罪退不退亦爾。復次擇滅無異熟。彼得或有異熟。或無異熟。非擇滅無異熟。彼得亦無異熟。無常滅通二種。彼得亦二種。復次擇滅是道果。彼得或是道是道果。或非道非道果。非擇滅非道非道果。彼得亦非道非道果。無常滅或是道非道果。或是道亦道果。或非道非道果。彼得亦爾。復次擇滅滅諦攝。彼得三諦攝除滅諦。非擇滅非諦攝。彼得二諦攝謂苦集。無常滅三諦攝除滅諦。彼得亦爾。應作如是廣辨差別。而不爾者前已說故。謂擇滅是離繫。非擇滅無常滅非離繫。俱非離繫須辨差別。有說。二滅俱不用功得。須辨差別。擇滅用功得與二有異故不須說。

> 非擇滅と無常滅には、どのような違いがあるのでしょうか。 非擇滅とは、智慧の力によるのではなく、疫病や災難、横禍、憂い苦しみ、さまざまな魔の妨害、世の中の苦しみの法から解脱していることをいいます。しかし、貪りの欲望を調伏し、断ち切り、超え出たわけではありません。 無常滅とは、すべての形成されたもの（行）が壊れ散り、崩れ去り、消え失せ、退き失せることをいいます。 これが二つの滅の違いです。 ここで「疫病や災難、横禍、憂い苦しみ、さまざまな魔の妨害、苦しみの法から解脱している」というのは、煩悩を伴う法（有漏法）の非擇滅が、世の中の法（行世法）から解脱していることを示します。 「貪りの欲望を調伏し、断ち切り、超え出たわけではない」というのは、擇滅とは異なることを示しています。 問：なぜここでは非擇滅と無常滅の違いだけを説いて、擇滅を説かないのでしょうか。 答：それは論書の作者がそう意図したからであり、詳しくは先に述べたとおりです。 また、ここでは次のように説くべきでしょう。擇滅と非擇滅と無常滅には、どのような違いがあるのでしょうか。 答：擇滅とは、智慧の力によって、煩悩を伴う法（有漏法）が消滅することをいいます。 非擇滅とは、智慧の力によるのではなく、疫病や災難などから解脱していることで、先に述べたとおりです。 無常滅とは、すべての形成されたもの（行）が壊れ散り、崩れ去り、消え失せ、退き失せることをいいます。 また、擇滅は解脱であり、繫がりから離れる性質（離繫相）を有しています。 非擇滅は解脱ではありますが、繫がりから離れる性質は有していません。 無常滅は解脱でもなく、繫がりから離れる性質も有していません。 また、擇滅は過去・現在・未来の煩悩を伴う法（有漏法）に対して獲得されます。 非擇滅は未来において生じない形成された法（有為法）に対して獲得されます。 無常滅は現在におけるすべての法に対して作用します。 また、擇滅は善であり、その獲得も善です。 非擇滅は無記（善でも悪でもない）であり、その獲得も無記です。 無常滅は善・不善・無記の三種に通じ、その獲得も三種です。 また、擇滅は無漏であり、その獲得は有漏にも無漏にも通じます。 非擇滅は無漏ですが、その獲得は有漏のみです。 無常滅は二種（有漏・無漏）に通じ、その獲得も二種です。 また、擇滅は繫がれていない（不繫）ですが、その獲得は色界に繫がれているか、無色界に繫がれているか、あるいは繫がれていません。 非擇滅は繫がれていませんが、その獲得は三界に繫がれているのみです。 無常滅は三界に繫がれているか、あるいは繫がれていません。その獲得も三界に繫がれているか、繫がれていないかのいずれかです。 また、擇滅は学（修行中の聖者）でも非学（修行を終えた阿羅漢）でもありませんが、その獲得は学・無学・非学非無学のいずれかです。 非擇滅は学でも非学でもなく、その獲得もまた非学非無学のみです。 無常滅は三種に通じ、その獲得も三種です。 また、擇滅は断たれるべきものではありませんが、その獲得は修道によって断たれるものか、あるいは断たれるべきではないもののいずれかです。 非擇滅は断たれるべきものではありませんが、その獲得は修道によって断たれるもののみです。 無常滅は三種に通じ、その獲得も三種です。 また、擇滅と非擇滅はどちらも煩悩に染まっていません。その獲得もどちらも煩悩に染まっていません。 無常滅は煩悩に染まったものにも染まっていないものにも通じ、その獲得も二種です。煩悩に染まっているか染まっていないかと同様に、罪があるかないか、退くか退かないかも同じです。 また、擇滅には異熟（報い）がありません。その獲得には異熟がある場合とない場合があります。 非擇滅には異熟がなく、その獲得にも異熟はありません。 無常滅は二種に通じ、その獲得も二種です。 また、擇滅は道の果実です。その獲得は道そのものか、道の果実か、あるいは道でも道の果実でもないかのいずれかです。 非擇滅は道でも道の果実でもなく、その獲得も道でも道の果実でもありません。 無常滅は道であって道の果実でない場合も、道であって道の果実でもある場合も、道でも道の果実でもない場合もあります。その獲得も同じです。 また、擇滅は滅諦に含まれます。その獲得は滅諦を除く三諦に含まれます。 非擇滅は諦に含まれません。その獲得は苦諦と集諦の二諦に含まれます。 無常滅は滅諦を除く三諦に含まれます。その獲得も同じです。 このように広く違いを論ずべきですが、そうしないのは先に述べたからです。すなわち、擇滅は繫がりから離れる性質を持ちますが、非擇滅と無常滅は繫がりから離れる性質を持ちません。どちらも繫がりから離れる性質を持たないため、その違いを論ずる必要があるのです。 ある説があります。二つの滅（非擇滅と無常滅）はどちらも努力を要せずに得られるものですから、その違いを論ずる必要があります。擇滅は努力によって得られるものであり、二つとは異なるため、説く必要はないのです。

問已知擇滅離繫為體。應說何故名擇滅耶答擇者謂慧。滅是彼果。擇所得滅故名擇滅。復次一向劬勞。一向加行。一向功用簡擇諸法方得此滅。故名擇滅。復次數數決擇苦等得滅。故名擇滅。謂苦忍苦智決擇苦諦。於見苦所斷法得滅。集忍集智決擇集諦。於見集所斷法得滅。滅忍滅智決擇滅諦。於見滅所斷法得滅。道忍道智決擇道諦。於見道所斷法得滅。以苦等智數數決擇苦聖諦等。於修所斷法得滅。故名擇滅。問擇滅自性為是一物為多物耶。有說。一物。問若爾證見所斷法擇滅時。亦證修所斷法擇滅不。若亦證者修後對治應成無用。若不證者云何一物少分證少分不證。有說。二物。一見所斷法擇滅。二修所斷法擇滅。問若爾證見苦所斷法擇滅時。亦證見集滅道所斷。法擇滅不。若亦證者修後對治應成無用。若不證者云何一物少分證少分不證。有說。五物謂見所斷法擇滅有四。修所斷擇滅有一。問若爾證欲界見修所斷法擇滅時。亦證色無色界見修所斷法擇滅不。若亦證者修後對治應成無用。若不證者云何一物少分證少分不證有說擇滅有十一物。謂見所斷法擇滅有八。修所斷法擇滅有三。問若爾證欲界修所斷上上品法擇滅時。亦證欲界修所斷後八品法擇滅不。若亦證者修後對治應成無用。若不證者云何一物少分證少分不證。色無色界修所斷九品法擇滅徵問亦爾。有說。擇滅有三十五。謂見所斷法擇滅有八。修所斷法擇滅三界各九為二十七。足前八為三十五。問若爾證初靜慮修所斷法擇滅時。亦證後三靜慮修所斷法擇滅不。若亦證者修後對治應成無用。若不證者云何一物少分證少分不證。四無色地修所斷法徵問亦爾。有說。擇滅有八十九。謂見所斷法擇滅有八。修所斷法擇滅九地各九為八十一。足前八為八十九。問若爾見所斷法三界九地各有四部九品差別。云何擇滅但有八種。又見修所斷法一一地一一部一一品各有多種。云何擇滅但有一種。評曰。應作是說隨有漏法有爾所體擇滅亦爾。隨所繫事體有爾所離繫亦有爾所體故。問已知擇滅隨所繫事有爾所量。諸有情類證擇滅時。為共證一為各別證。設爾何失。二俱有過。若共證一。云何涅槃名不共法。又若爾者若一有情得涅槃時。一切有情亦應皆得。若爾則應不由功用自然解脫。若各別證。云何涅槃名不同類。又契經說當云何通。如說。如來解脫與餘阿羅漢等解脫無異。答應作是說。諸有情類證擇滅時皆共證一。問若爾云何涅槃名不共法。答涅槃體雖實是共。而約得說名不共。以離繫得一一有情自相續中各別起故。問若一有情得涅槃時。諸餘有情何故不得。答若身中有涅槃得者名得涅槃。無則不爾。故無一時一切有情得涅槃失。有餘師說。諸有情類證擇滅時各各別證。問若爾云何涅槃名不同類。答遮同類因故作是說。謂諸擇滅無同類因名不同類。非諸有情無別擇滅展轉相似。問苦法智忍無同類因。亦應名為不同類法。何故有為皆名同類。但說涅槃名不同類。答苦法智忍雖無同類因。而能與他作同類因故亦名同類。涅槃不爾。復次諸有為法同蘊界處三門所攝。同墮三世。同有生滅。同下中上。同有先後。同從因生。同能生果。故名同類。涅槃不爾名不同類。復次一切法中唯有涅槃是善是常。餘不爾故名不同類。謂所餘法有善非常有常非善有二俱非。涅槃獨具善常二義。是故獨名不同類法。問契經所說復云何通。如說。如來解脫與餘阿羅漢等解脫無異。答三乘身中解脫雖異而善常同故說無異。復次此言顯示一相續中有三乘道同證解脫。謂望他身所證解脫。雖各有異而一身中有三乘性同證解脫。隨依何乘引起聖道。皆能證得此涅槃故。評曰。彼不應作是說。應作是說。諸有情類普於一一有漏法中。皆共證得一擇滅體。前說擇滅隨所繫事多少量故。由此前說於理為善問於外物中為亦證得擇滅體不。設爾何失。若亦證得擇滅體者。既於外法無成就義。云何成就彼擇滅耶。又契經說當云何通。如說。尊者舍利子言。我斷諸愛得內解脫。若外物中不得擇滅。契經所說復云何通。如說一切行斷故名斷界。一切行離故名離界。一切行滅故名滅界。答應作是說。於外物中亦得擇滅。問若爾既於外物無成就義云何於彼得擇滅耶。答雖於外物無成就者。而亦於彼有得擇滅。如不成就過去未來命等八根。而有於彼證得擇滅。外物亦爾何所相違。問契經所說復云何通。如說。尊者舍利子言。我斷諸愛得內解脫。答說於內蘊得解脫故。當知於外亦得解脫。復次外物解脫依內得故。亦名為內。謂內身中修道方得。復次外物解脫得是內故亦名為內。謂得彼得是內蘊攝。復次斷內煩惱而得彼滅故亦名內。謂外物中所有擇滅斷內能繫煩惱方得。是故經言。得內解脫。有餘師說。外物中無擇滅可得。唯斷能繫諸煩惱縛得擇滅故。問若爾契經所說當云何通。如說。一切行斷故名斷界。乃至廣說。答彼經應說。諸行斷故名為斷界。乃至廣說。不應言一切而說一切者。當知彼說少分一切。謂一切有二種。一少分一切。二全分一切。彼經但說少分一切。有作是說。諸外物中雖有擇滅而不可得。評曰。彼不應作是說。寧說為無不應說有而不可得。既不可得何須如是無用滅為應作是說。亦有亦得。所以者何。諸有漏法無始時來煩惱所繫不得解脫。若斷煩惱彼離繫故便得解脫。如人被縛後解脫時人名解脫。非謂繩等。既於所繫證得解脫故外物中亦得解脫。若不爾者與品類足所說相違。如說。云何得作證法。答一切善法。若外物中雖有擇滅而不可得。應有善法非得作證便違彼說。故外亦有擇滅可得。問擇滅自性為即是蘊為但蘊無。若即是蘊。有情本來應得解脫。以皆本來成就蘊故。若但蘊無。如何為無勤修聖道。答應說。擇滅非即是蘊。亦非蘊無。但於有漏諸蘊中得別有自性。

> 問う：已知の通り、択滅は離繋を体とします。では、何ゆえに「択滅」と名付けるべきなのでしょうか。答え：択とは、すなわち慧のことです。滅はその果です。択によって得られる滅であるから、「択滅」と名付けます。また、ひたすら労苦し、ひたすら加行し、ひたすら功用以って諸法を簡択して、はじめてこの滅を得るので、「択滅」と名付けます。また、繰り返し苦などを決択して滅を得るので、「択滅」と名付けます。すなわち、苦忍・苦智によって苦諦を決択し、見苦所断の法において滅を得ます。集忍・集智によって集諦を決択し、見集所断の法において滅を得ます。滅忍・滅智によって滅諦を決択し、見滅所断の法において滅を得ます。道忍・道智によって道諦を決択し、見道所断の法において滅を得ます。苦などの智によって繰り返し苦聖諦などを決択し、修所断の法において滅を得るので、「択滅」と名付けます。 問う：択滅の自性は、一つのものなのでしょうか、それとも多くのものなのでしょうか。ある説では、一つのものだと言います。問う：もしそうならば、見所断の法の択滅を証する時、修所断の法の択滅もまた証するのでしょうか。もしまた証するならば、修行の後の対治は無用となるべきです。もし証しないならば、どうして一つのものの一部を証し、一部を証しないことがあり得るのでしょうか。ある説では、二つのものだと言います。一は見所断の法の択滅、二は修所断の法の択滅です。問う：もしそうならば、見苦所断の法の択滅を証する時、見集・滅・道所断の法の択滅もまた証するのでしょうか。もしまた証するならば、修行の後の対治は無用となるべきです。もし証しないならば、どうして一つのものの一部を証し、一部を証しないことがあり得るのでしょうか。ある説では、五つのものだと言います。すなわち、見所断の法の択滅には四つあり、修所断の択滅には一つあります。問う：もしそうならば、欲界の見・修所断の法の択滅を証する時、色・無色界の見・修所断の法の択滅もまた証するのでしょうか。もしまた証するならば、修行の後の対治は無用となるべきです。もし証しないならば、どうして一つのものの一部を証し、一部を証しないことがあり得るのでしょうか。ある説では、択滅には十一のものがあると言います。すなわち、見所断の法の択滅には八つあり、修所断の法の択滅には三つあります。問う：もしそうならば、欲界の修所断の上上品の法の択滅を証する時、欲界の修所断の後の八品の法の択滅もまた証するのでしょうか。もしまた証するならば、修行の後の対治は無用となるべきです。もし証しないならば、どうして一つのものの一部を証し、一部を証しないことがあり得るのでしょうか。色・無色界の修所断の九品の法の択滅についての問いもまた同じです。ある説では、択滅には三十五あると言います。すなわち、見所断の法の択滅には八つあり、修所断の法の択滅は三界それぞれ九つで二十七、先の八つを加えて三十五となります。問う：もしそうならば、初静慮の修所断の法の択滅を証する時、後の三静慮の修所断の法の択滅もまた証するのでしょうか。もしまた証するならば、修行の後の対治は無用となるべきです。もし証しないならば、どうして一つのものの一部を証し、一部を証しないことがあり得るのでしょうか。四無色地の修所断の法についての問いもまた同じです。ある説では、択滅には八十九あると言います。すなわち、見所断の法の択滅には八つあり、修所断の法の択滅は九地それぞれ九つで八十一、先の八つを加えて八十九となります。問う：もしそうならば、見所断の法は三界九地それぞれに四部九品の差別があるのに、どうして択滅はただ八種しかないのでしょうか。また、見・修所断の法は、一地一部一品ごとにそれぞれ多くの種類があるのに、どうして択滅はただ一種類しかないのでしょうか。評して言う：このように言うべきです。有漏法にその数だけの体があるならば、択滅もまたその通りです。所繋の事にその数だけの体があるならば、離繫もまたその数だけの体があるからです。 問う：已知の通り、択滅は所繋の事に従ってその量があるとします。諸々の有情が択滅を証する時、共に一つのものを証するのでしょうか、それとも各々別々に証するのでしょうか。もしそうならば、どのような過失があるでしょうか。両方に過失があります。もし共に一つのものを証するならば、どうして涅槃が不共の法と名付けられるのでしょうか。また、もしそうならば、一人の有情が涅槃を得る時、全ての有情もまた皆得るはずです。もしそうならば、功用以らずして自然に解脱するはずです。もし各々別々に証するならば、どうして涅槃が不同類と名付けられるのでしょうか。また、契経の説をどう通すべきでしょうか。例えば、「如来の解脱は他の阿羅漢などの解脱と異なることがない」と説かれています。答えて言うべきです。諸々の有情が択滅を証する時は、皆共に一つのものを証します。問う：もしそうならば、どうして涅槃が不共の法と名付けられるのでしょうか。答え：涅槃の体は実に共ですが、得について説いて不共と名付けます。離繫の得は、一人一人の有情の自相続の中で各々別に生じるからです。問う：もし一人の有情が涅槃を得る時、他の諸々の有情はなぜ得ないのでしょうか。答え：もし身の中に涅槃の得がある者は涅槃を得たと名付け、無ければそうではないからです。ゆえに、一時にすべての有情が涅槃を得るという過失はありません。他の師は説きます。諸々の有情が択滅を証する時は、各々別々に証します。問う：もしそうならば、どうして涅槃が不同類と名付けられるのでしょうか。答え：同類の因を遮するためにこのように説きます。すなわち、諸々の択滅には同類の因がなく、不同類と名付けられます。諸々の有情に別々の択滅がなく、互いに相似であるというわけではありません。問う：苦法智忍には同類の因がありません。また不同類の法と名付けられるべきではないでしょうか。なぜ有為は皆同類と名付けられ、ただ涅槃だけが不同類と説かれるのでしょうか。答え：苦法智忍は同類の因がなくとも、他のものに同類の因を作るから、また同類と名付けられます。涅槃はそうではありません。また、諸々の有為法は、同じく蘊・界・処の三門に摂せられ、同じく三世に堕ち、同じく生滅があり、同じく下・中・上があり、同じく先後があり、同じく因から生じ、同じく果を生じるので、同類と名付けられます。涅槃はそうではないので、不同類と名付けられます。また、一切の法の中でただ涅槃だけが善であり常であり、他のものはそうではないので、不同類と名付けられます。すなわち、他の法には善であって常でないもの、常であって善でないもの、両方ともに非であるものがあります。涅槃だけが独り善と常の二義を具えているので、独り不同類の法と名付けられます。 問う：契経の説はどう通すべきでしょうか。例えば、「如来の解脱は他の阿羅漢などの解脱と異なることがない」と説かれています。答え：三乗の身の中の解脱は異なっても、善と常は同じであるから、異なることがないと説きます。また、この言は、一つの相続の中に三乗の道があり、同じく解脱を証することを示します。すなわち、他身に対して所証の解脱は各々異なっても、一身の中に三乗の性があり、同じく解脱を証します。どの乗に依っても聖道を引き起こせば、皆この涅槃を証することができるからです。評して言う：彼はこのように説くべきではありません。このように説くべきです。諸々の有情は、全ての一々の有漏法において、皆共に一つの択滅の体を証します。先に説いた択滅が所繋の事に従ってその量があるというのは、ゆえに先の説が理において善です。 問う：外物の中においても択滅の体を証するのでしょうか。もしそうならば、どのような過失があるでしょうか。もしまた択滅の体を証するならば、外法において成就の義がないのに、どうしてその択滅を成就すると言えるのでしょうか。また、契経の説をどう通すべきでしょうか。例えば、「尊者舎利子は言う。私は諸々の愛を断ち、内解脱を得た」と。もし外物の中に択滅を得ないならば、契経の説はどう通すべきでしょうか。例えば、「一切の行が断ずるから断界と名付け、一切の行が離れるから離界と名付け、一切の行が滅するから滅界と名付ける」と説かれています。答えて言うべきです。外物の中においても択滅を得ます。問う：もしそうならば、外物において成就の義がないのに、どうしてその択滅を得るのでしょうか。答え：外物において成就する者がなくとも、またその択滅を得ることはあります。例えば、過去・未来の命などの八根を成就しないが、その擇滅を証することがあるのと同じです。外物もまた同じで、何の相違があるでしょうか。問う：契経の説はどう通すべきでしょうか。例えば、「尊者舎利子は言う。私は諸々の愛を断ち、内解脱を得た」と。答え：内の蘊において解脱を得ると説くので、外においても解脱を得ると知るべきです。また、外物の解脱は内に依って得られるので、また内と名付けられます。すなわち、内身の中で道を修してはじめて得られるからです。また、外物の解脱の得は内なるものであるから、また内と名付けられます。すなわち、その得は内の蘊に摂せられるからです。また、内の煩悩を断じてその滅を得るから、また内と名付けられます。すなわち、外物の中の全ての択滅は、内の能繋の煩悩を断じてはじめて得られるからです。ゆえに経には「内解脱を得た」と説かれます。他の師は説きます。外物の中に択滅を得ることはできません。ただ能繋の諸々の煩悩の縛を断じて択滅を得るだけです。問う：もしそうならば、契経の説はどう通すべきでしょうか。例えば、「一切の行が断ずるから断界と名付け、乃至広説」と。答え：その経は「諸行が断ずるから断界と名付け、乃至広説」と説くべきで、「一切」と言うべきではありません。しかし「一切」と説くのは、その説が少分の一切を説くと知るべきです。すなわち、一切には二種あります。一は少分の一切、二は全分の一切です。その経はただ少分の一切を説くだけです。ある説では、諸々の外物の中に択滅はあるが、得ることはできないと言います。評して言う：彼はこのように説くべきではありません。むしろ「無し」と説くべきで、「有るが得られない」と説くべきではありません。得られないのであれば、何のためにこのような無用の滅を必要とするのでしょうか。このように説くべきです。亦有り亦得ます。なぜなら、諸々の有漏法は無始より煩悩に繋がれて解脱を得なかったが、もし煩悩を断ずれば、その離繫によって解脱を得るからです。例えば、人が縛られた後、解かれる時、「人が解脱した」と言い、縄などについては言いません。既に所繋において解脱を証するので、外物の中においてもまた解脱を得ます。もしそうでなければ、品類足の説と相違します。例えば、「どのような法が得作証法か。答え：一切の善法である」と説かれています。もし外物の中に択滅はあるが得られないならば、善法であって得作証でないものがあるはずで、その説に違背します。ゆえに外にも択滅を得ることがあります。 問う：択滅の自性は、すなわち蘊なのでしょうか、それともただ蘊が無いことなのでしょうか。もしすなわち蘊であるならば、有情は本来解脱を得るべきです。なぜなら、皆もともと蘊を成就しているからです。もしただ蘊が無いことであるならば、無いもののためにどうして勤めて聖道を修するのでしょうか。答えて言うべきです。択滅はすなわち蘊ではなく、また蘊が無いことでもありません。ただ有漏の諸蘊の中において、別に自性を得るだけです。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第三十一

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