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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 5"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第三十三

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第三十三巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 雜蘊第一中愛敬納息第四之五

> 雑蘊第一中・愛敬納息第四の五

涅槃當言學耶無學耶非學非無學耶。乃至廣說。問何故作此論。答前雖說有二種涅槃界。而未說涅槃為是學為無學為非學非無學。今欲說之。復次為止他宗顯正義故。謂或有執涅槃有學有無學有非學非無學。如犢子部。為遮彼執顯涅槃唯是非學非無學故作斯論。涅槃當言學耶無學耶非學非無學耶。答涅槃應言非學非無學。學無學義不相應故。謂為異果明了進修故名為學。進修滿足更無異果可為進修。是學種類而非即彼故名無學。涅槃於此二義俱無故名非學非無學。有作是說。涅槃有學有無學有非學非無學。如犢子部。彼作是說。涅槃自性有三種相。一學二無學三非學非無學。云何學。謂學得諸結斷得獲觸證。云何無學。謂無學得諸結斷得獲觸證。云何非學非無學。謂有漏得諸結斷得獲觸證彼說有過。如何涅槃三得得故便有三相。一法不應有三種體相即體故。為止彼說故作是言。於此義中涅槃但應言非學非無學。謂於此論無倒義中但應說言涅槃唯是非學非無學性。相常住無變易故。此中論主齊此應止。若作餘說唐捐其功。有說。此中應作餘說。問答決擇理更顯故。謂應理論者。辨分別論者。所說有過。顯自無失。分別論者所說有二。一說涅槃先是非學非無學後轉成學。先是學後轉成無學。先是無學復轉成學。二說涅槃有三種。謂學者常是學。無學者常是無學。非學非無學者常是非學非無學。若對前說釋此文者。而汝說涅槃有學有無學有非學非無學耶者。是應理論者問。重定前宗。若不定他宗說他過失則不應理。答如是者是分別論者答。我說涅槃轉變不定可有三種故言如是。汝何所欲諸先以世俗道永斷欲貪瞋恚。得非學非無學離繫得。彼於四諦未得現觀。修習現觀得現觀已證不還果轉成學耶者。是應理論者問。彼修行者先是異生今轉成學。或離繫得轉起學耶。答如是者。是分別論者答。述前所問於理無違故言如是。又汝何所欲諸先以世俗道永斷欲貪瞋恚。得非學非無學離繫得。後證不還果時即彼離繫應轉成學者。是應理論者詰。彼所宗恐彼非理印述。尋復以理難言。若彼今時轉成學者。先應是學體常住故。未證不還果未有學得。已名為學不應正理。汝何所欲阿羅漢向學諸結斷證阿羅漢果。彼轉成無學耶者。是應理論者問。彼修行者先是學今轉成無學。或離繫得轉起無學耶。答如是者是分別論者答。述前所問。於理無違故言如是。又汝何所欲阿羅漢向學諸結斷證阿羅漢果時。即彼結斷應轉成無學者。是應理論者詰。彼所宗恐彼非理印述。尋復以理難言。若彼今時成無學者先應是無學體常住故。未證阿羅漢果無無學得。已名無學不應正理。汝何所欲諸阿羅漢無學結斷。退阿羅漢果時彼轉成學耶者。是應理論者問。彼修行者先是無學。今轉成學或離繫得轉起學耶。答如是者。是分別論者答。述前所問。於理無違故言如是。又汝何所欲諸阿羅漢無學結斷。退阿羅漢果時。即彼結斷應轉成學者。是應理論者詰彼所宗恐彼非理印述。尋復以理難言。若彼今時轉成學者。先應是學體常住故。未退阿羅漢果無有學得。已名為學不應正理。若對後說釋此文者。而汝說涅槃有學有無學有非學非無學耶者。是應理論者問重定前宗。若不定他宗說他過失則不應理。答如是者是分別論者答。我說涅槃體類差別定有三種故言如是。汝何所欲諸先以世俗道永斷欲貪瞋恚。得非學非無學離繫得。彼於四諦未得現觀修習現觀得現觀已轉成學耶者。是應理論者問。彼修行者先是異生今轉成學。或離繫得轉起學耶。答如是者。是分別論者答。述前所問。於理無違故言如是。又汝何所欲諸先以世俗道永斷欲貪瞋恚。得非學非無學離繫得。後證不還果時。即彼離繫應轉成學者。是應理論者難。汝說涅槃隨學得成學。今既有學得應轉成學。若彼今時轉成學者先應是學體常住故者。是分別論者反詰通難我說涅槃學者常是學故。未證不還果未有學得。已名為學不應正理者。是應理論者通彼所詰。重成前難。謂先未證不還果時未有學得。得順五下分結斷。彼結斷可不名學。今既有學得得彼結斷。何故不名學。若有學得不名學者。不應言涅槃隨學得說學。汝何所欲阿羅漢向學諸結斷證阿羅漢果。彼轉成無學耶者。是應理論者問。彼修行者先是學今轉成無學。或離繫得轉起無學耶。答如是者是分別論者答。述前所問。於理無違故言如是。又汝何所欲阿羅漢向學諸結斷證阿羅漢果時。即彼結斷應轉成無學者。是應理論者難。汝說涅槃隨無學得成無學。今既有無學得應轉成無學。若彼今時成無學者先應是無學體常住故者。是分別論者反詰通難。我說涅槃無學者常是無學故。未證阿羅漢果無無學得。已名無學不應正理者。是應理論者通彼所詰重成前難。謂先未證無學果時無無學得。得一切結斷。彼結斷可不名無學。今既有無學得得彼結斷。何故不名無學。若有無學得不名無學者。不應言涅槃。隨無學得說無學。汝何所欲諸阿羅漢無學結斷。退阿羅漢果時彼轉成學耶者。是應理論者問。彼修行者先是無學今轉成學。或離繫得轉起學耶。答如是者是分別論者答。述前所問。於理無違故言如是。又汝何所欲諸阿羅漢無學結斷。退阿羅漢果時。即彼結斷應轉成學者。是應理論者難。汝說涅槃隨學得成學。今既有學得應轉成學。若彼今時轉成學者。先應是學體常住故者。是分別論者反詰通難。我說涅槃學者常是學故未退阿羅漢果無有學得。已名為學不應正理者。是應理論者通彼所詰重成前難。謂先未退無學果時未有學得。得見所斷及修所斷一分結斷。彼結斷可不名學。今既有學得得彼結斷。何故不名學。若有學得不名學者不應言涅槃隨學得說學。復次。有別誦言。汝說涅槃唯是非學非無學耶。餘如前誦。若依此誦應作是說。此中具有問答難通。謂分別論者問。應理論者答。分別論者難。應理論者通。汝說涅槃唯是非學非無學耶者。是分別論者問。重定前宗。若不定他宗說他過失則不應理答。如是者是應理論者答。我說涅槃唯是非學非無學稱理順經故曰如是。汝何所欲諸先以世俗道永斷欲貪瞋恚。得非學非無學離繫得。彼於四諦未得現觀修習現觀得現觀。已證不還果。轉成學耶者是分別論者問。義如前釋。答如是者是應理論者答。義如前釋。又汝何所欲諸先以世俗道永斷欲貪瞋恚。得非學非無學離繫得。後證不還果時。即彼離繫應轉成學者。是分別論者難。如有為法與得相似。既有學得得彼離繫。即彼離繫應轉成學。若彼今時轉成學者。先應是學體常住故者。是應理論者通。諸有為法轉變不定。及有作用可隨得說。涅槃常住無有作用不隨得變。若今時是學先亦應是學恐彼非理印述。尋復以理難言。未證不還果未有學得。已名為學不應正理。此中二文。前遮涅槃轉變者說後遮涅槃決定者說。俱顯涅槃體常住故。唯是非學非無學性不應名學。汝何所欲阿羅漢向。學諸結斷證阿羅漢果。彼轉成無學耶者。是分別論者問。義如前釋。答如是者是應理論者答。義如前釋。又汝何所欲阿羅漢向學諸結斷證阿羅漢果時。即彼結斷應轉成無學者。是分別論者難。如有為法與得相似。既有無學得得彼結斷。即彼結斷應轉成無學。若彼今時成無學者。先應是無學體常住故者。是應理論者通。諸有為法轉變不定。及有作用可隨得說。涅槃常住無有作用不隨得變。若今時是無學。先亦應是無學。恐彼非理印述。尋復以理難言。未證阿羅漢果無無學得。已名無學不應正理。此中二文。前遮涅槃轉變者說。後遮涅槃決定者說。俱顯涅槃體常住故。唯是非學非無學性。不應名無學。汝何所欲諸阿羅漢無學結斷。退阿羅漢果時彼轉成學耶者。是分別論者問。義如前釋。答如是者是應理論者答義如前釋。又汝何所欲諸阿羅漢無學結斷退阿羅漢果時。即彼結斷應轉成學者。是分別論者難。如有為法與得相似既有學得。得彼結斷即彼結斷。應轉成學。若彼今時轉成學者。先應是學體常住故者。是應理論者通。諸有為法轉變不定。及有作用可隨得說。涅槃常住無有作用不隨得變。若今時是學先亦應是學。恐彼非理印述。尋復以理難言。未退阿羅漢果無有學得。已名為學不應正理。此中二文。前遮涅槃轉變者說。後遮涅槃決定者說。俱顯涅槃體常住故。唯是非學非無學性不應名學。

> 涅槃は「学」と言うべきか、「無学」と言うべきか、「学でも無学でもない」と言うべきか。……と詳しく説かれた。 問う。なぜこの論を立てるのか。 答える。先に二種の涅槃界があると説いたが、涅槃が「学」であるか「無学」であるか「学でも無学でもない」であるかはまだ説いていなかった。今、それを説こうとするのである。また、他宗の主張を止め、正しい義を示すためである。すなわち、ある者たちは「涅槃には学・無学・学でも無学でもない、の三つがある」と執する。例えば犢子部である。その執りを遮り、「涅槃はただ学でも無学でもない、のみである」ことを顕すために、この論を立てるのである。 涅槃は「学」と言うべきか、「無学」と言うべきか、「学でも無学でもない」と言うべきか。 答える。涅槃は「学でも無学でもない」と言うべきである。「学」と「無学」の義には相応しないからである。すなわち、「異なる果報を得るために明らかに進んで修行すること」を「学」と名づける。修行が満ち足りて、さらに進んで修行すべき異なる果報がなくなったとき、「学の種類ではあるが、それ自体は学ではない」ことから「無学」と名づける。涅槃にはこの二つの義がともにないので、「学でも無学でもない」と名づけるのである。 ある者はこう説く。「涅槃には学・無学・学でも無学でもない、の三つがある」と。例えば犢子部である。彼らはこう説く。「涅槃の自性には三種の相がある。一に学、二に無学、三に学でも無学でもない。何を学と言うか。学の位にある者が得る、諸々の煩悩の断滅を得、獲、触、証することを言う。何を無学と言うか。無学の位にある者が得る、諸々の煩悩の断滅を得、獲、触、証することを言う。何を学でも無学でもないと言うか。有漏の者が得る、諸々の煩悩の断滅を得、獲、触、証することを言う」と。 彼らの説には過失がある。なぜなら、涅槃が三つの得によって得られるからといって、三つの相があることにはならない。一つの法に三つの体相があるべきではないからである。すなわち、体はすなわち相であるからである。 その説を止めるために、次のように言うのである。「この義において、涅槃はただ『学でも無学でもない』と言うべきである。すなわち、この論の誤りのない義においては、ただ『涅槃はただ学でも無学でもないという性質のみである』と説くべきである。その相は常住であり、変異することがないからである」。 ここにおいて論主は、この位で止めるべきである。もし他の説をなすならば、その功は無駄になる。 ある者は言う。「ここでは他の説をなすべきである。問答と決択によって、理がより顕かになるからである。すなわち、応理論者は分別論者の説に過失があると弁別し、自己の失がないことを顕すのである」。 分別論者の説には二つがある。一には、「涅槃は先に学でも無学でもなく、後に学に転じ、先に学で後に無学に転じ、先に無学でまた学に転じる」と説く。二には、「涅槃には三種がある。すなわち、学である者は常に学であり、無学である者は常に無学であり、学でも無学でもない者は常に学でも無学でもない」と説く。 もし前の説に対してこの文を釈するならば、「そして、あなたは涅槃に学・無学・学でも無学でもない、の三つがあると説くのか」というのは、応理論者の問いであり、前の宗を重ねて定めるものである。もし他宗を定めずに他宗の過失を説くならば、理に適わない。 「如是」と答えるのは、分別論者の答えである。「私は涅槃は転変して定まらず、三種があり得ると説くので、『如是』と言うのである」と。 「あなたはどう思うか。先に世俗道によって欲貪・瞋恚を永く断じ、学でも無学でもない離繋の得を得た者が、四諦について未だ現観を得ず、現観を修習し、現観を得た後に不還果を証し、学に転じるか」というのは、応理論者の問いである。「その修行者は先に異生であり、今、学に転じるのか。あるいは、離繋の得が転じて学を起こすのか」と。 「如是」と答えるのは、分別論者の答えであり、前に問われたことを述べて、理に違わないから「如是」と言うのである。 「また、あなたはどう思うか。先に世俗道によって欲貪・瞋恚を永く断じ、学でも無学でもない離繋の得を得た者が、後に不還果を証する時、その離繋は学に転じるべきか」というのは、応理論者の詰問である。彼の宗を恐れ、その非理を認めて述べ、続けて理をもって難じる。「もし彼が今、学に転じるならば、先に学であるべきである。体が常住であるからである。未だ不還果を証せず、学の得がなければ、すでに学と言うことは理に適わない」と。 「あなたはどう思うか。阿羅漢向の者が学の諸々の結を断じ、阿羅漢果を証する時、彼は無学に転じるか」というのは、応理論者の問いである。「その修行者は先に学であり、今、無学に転じるのか。あるいは、離繋の得が転じて無学を起こすのか」と。 「如是」と答えるのは、分別論者の答えであり、前に問われたことを述べて、理に違わないから「如是」と言うのである。 「また、あなたはどう思うか。阿羅漢向の者が学の諸々の結を断じ、阿羅漢果を証する時、その結の断滅は無学に転じるべきか」というのは、応理論者の詰問である。彼の宗を恐れ、その非理を認めて述べ、続けて理をもって難じる。「もし彼が今、無学になるならば、先に無学であるべきである。体が常住であるからである。未だ阿羅漢果を証せず、無学の得がなければ、すでに無学と言うことは理に適わない」と。 「あなたはどう思うか。諸々の阿羅漢が無学の結を断じ、阿羅漢果から退く時、彼は学に転じるか」というのは、応理論者の問いである。「その修行者は先に無学であり、今、学に転じるのか。あるいは、離繋の得が転じて学を起こすのか」と。 「如是」と答えるのは、分別論者の答えであり、前に問われたことを述べて、理に違わないから「如是」と言うのである。 「また、あなたはどう思うか。諸々の阿羅漢が無学の結を断じ、阿羅漢果から退く時、その結の断滅は学に転じるべきか」というのは、応理論者の詰問である。彼の宗を恐れ、その非理を認めて述べ、続けて理をもって難じる。「もし彼が今、学に転じるならば、先に学であるべきである。体が常住であるからである。未だ阿羅漢果から退かず、学の得がなければ、すでに学と言うことは理に適わない」と。 もし後の説に対してこの文を釈するならば、「そして、あなたは涅槃に学・無学・学でも無学でもない、の三つがあると説くのか」というのは、応理論者の問いであり、前の宗を重ねて定めるものである。もし他宗を定めずに他宗の過失を説くならば、理に適わない。 「如是」と答えるのは、分別論者の答えである。「私は涅槃には体と類の差別が定まって三種があると説くので、『如是』と言うのである」と。 「あなたはどう思うか。先に世俗道によって欲貪・瞋恚を永く断じ、学でも無学でもない離繋の得を得た者が、四諦について未だ現観を得ず、現観を修習し、現観を得た後に学に転じるか」というのは、応理論者の問いである。「その修行者は先に異生であり、今、学に転じるのか。あるいは、離繋の得が転じて学を起こすのか」と。 「如是」と答えるのは、分別論者の答えであり、前に問われたことを述べて、理に違わないから「如是」と言うのである。 「また、あなたはどう思うか。先に世俗道によって欲貪・瞋恚を永く断じ、学でも無学でもない離繋の得を得た者が、後に不還果を証する時、その離繋は学に転じるべきか」というのは、応理論者の難である。「あなたは涅槃は学の得に随って学になると説く。今、すでに学の得があるならば、学に転じるべきである」と。 「もし彼が今、学に転じるならば、先に学であるべきである。体が常住であるからである」というのは、分別論者の反詰であり、難を解く。「私は涅槃において、学である者は常に学であると説くからである」と。 「未だ不還果を証せず、学の得がなければ、すでに学と言うことは理に適わない」というのは、応理論者が彼の詰めに通じ、重ねて前の難を成立させるのである。「すなわち、先に未だ不還果を証さない時には、学の得がなく、順五下分結の断滅を得た。その結の断滅は学と言わなくてもよい。今、すでに学の得があり、その結の断滅を得たのに、なぜ学と言わないのか。もし学の得があっても学と言わないならば、涅槃は学の得に随って学と言われるべきではない」と。 「あなたはどう思うか。阿羅漢向の者が学の諸々の結を断じ、阿羅漢果を証する時、彼は無学に転じるか」というのは、応理論者の問いである。「その修行者は先に学であり、今、無学に転じるのか。あるいは、離繋の得が転じて無学を起こすのか」と。 「如是」と答えるのは、分別論者の答えであり、前に問われたことを述べて、理に違わないから「如是」と言うのである。 「また、あなたはどう思うか。阿羅漢向の者が学の諸々の結を断じ、阿羅漢果を証する時、その結の断滅は無学に転じるべきか」というのは、応理論者の難である。「あなたは涅槃は無学の得に随って無学になると説く。今、すでに無学の得があるならば、無学に転じるべきである」と。 「もし彼が今、無学になるならば、先に無学であるべきである。体が常住であるからである」というのは、分別論者の反詰であり、難を解く。「私は涅槃において、無学である者は常に無学であると説くからである」と。 「未だ阿羅漢果を証せず、無学の得がなければ、すでに無学と言うことは理に適わない」というのは、応理論者が彼の詰めに通じ、重ねて前の難を成立させるのである。「すなわち、先に未だ無学果を証さない時には、無学の得がなく、一切の結の断滅を得た。その結の断滅は無学と言わなくてもよい。今、すでに無学の得があり、その結の断滅を得たのに、なぜ無学と言わないのか。もし無学の得があっても無学と言わないならば、涅槃は無学の得に随って無学と言われるべきではない」と。 「あなたはどう思うか。諸々の阿羅漢が無学の結を断じ、阿羅漢果から退く時、彼は学に転じるか」というのは、応理論者の問いである。「その修行者は先に無学であり、今、学に転じるのか。あるいは、離繋の得が転じて学を起こすのか」と。 「如是」と答えるのは、分別論者の答えであり、前に問われたことを述べて、理に違わないから「如是」と言うのである。 「また、あなたはどう思うか。諸々の阿羅漢が無学の結を断じ、阿羅漢果から退く時、その結の断滅は学に転じるべきか」というのは、応理論者の難である。「あなたは涅槃は学の得に随って学になると説く。今、すでに学の得があるならば、学に転じるべきである」と。 「もし彼が今、学に転じるならば、先に学であるべきである。体が常住であるからである」というのは、分別論者の反詰であり、難を解く。「私は涅槃において、学である者は常に学であると説くからである」と。 「未だ阿羅漢果から退かず、学の得がなければ、すでに学と言うことは理に適わない」というのは、応理論者が彼の詰めに通じ、重ねて前の難を成立させるのである。「すなわち、先に未だ無学果から退かない時には、学の得がなく、見所断および修所断の一部分の結の断滅を得た。その結の断滅は学と言わなくてもよい。今、すでに学の得があり、その結の断滅を得たのに、なぜ学と言わないのか。もし学の得があっても学と言わないならば、涅槃は学の得に随って学と言われるべきではない」と。 さらに、別の誦ではこう言う。「あなたは涅槃はただ学でも無学でもない、と説くのか」と。残りは前の誦の通りである。 もしこの誦に依るならば、こう説くべきである。「ここには問答と難通が具わっている。すなわち、分別論者が問い、応理論者が答え、分別論者が難じ、応理論者が通ずるのである」と。 「あなたは涅槃はただ学でも無学でもない、と説くのか」というのは、分別論者の問いであり、前の宗を重ねて定めるものである。もし他宗を定めずに他宗の過失を説くならば、理に適わない。 「如是」と答えるのは、応理論者の答えである。「私は涅槃はただ学でも無学でもない、と説く。理にかなり、経に順うから『如是』と言うのである」と。 「あなたはどう思うか。先に世俗道によって欲貪・瞋恚を永く断じ、学でも無学でもない離繋の得を得た者が、四諦について未だ現観を得ず、現観を修習し、現観を得た後に不還果を証し、学に転じるか」というのは、分別論者の問いである。義は前に釈した通りである。 「如是」と答えるのは、応理論者の答えである。義は前に釈した通りである。 「また、あなたはどう思うか。先に世俗道によって欲貪・瞋恚を永く断じ、学でも無学でもない離繋の得を得た者が、後に不還果を証する時、その離繋は学に転じるべきか」というのは、分別論者の難である。「有為法が得に似ているように、すでに学の得があり、その離繋を得たならば、その離繋は学に転じるべきである」と。 「もし彼が今、学に転じるならば、先に学であるべきである。体が常住であるからである」というのは、応理論者の通である。「諸々の有為法は転変して定まらず、また作用があるので、得に随って説くことができる。涅槃は常住であり、作用がなく、得に随って変わることはない。もし今が学であるならば、先もまた学であるべきである」と。 彼の非理を恐れ、認めて述べ、続けて理をもって難じる。「未だ不還果を証せず、学の得がなければ、すでに学と言うことは理に適わない」と。 この中の二つの文は、前は涅槃の転変を遮る者を説き、後は涅槃の決定を遮る者を説く。ともに涅槃の体が常住であることを顕し、ただ学でも無学でもないという性質のみであり、学と名づけるべきではないのである。 「あなたはどう思うか。阿羅漢向の者が学の諸々の結を断じ、阿羅漢果を証する時、彼は無学に転じるか」というのは、分別論者の問いである。義は前に釈した通りである。 「如是」と答えるのは、応理論者の答えである。義は前に釈した通りである。 「また、あなたはどう思うか。阿羅漢向の者が学の諸々の結を断じ、阿羅漢果を証する時、その結の断滅は無学に転じるべきか」というのは、分別論者の難である。「有為法が得に似ているように、すでに無学の得があり、その結の断滅を得たならば、その結の断滅は無学に転じるべきである」と。 「もし彼が今、無学になるならば、先に無学であるべきである。体が常住であるからである」というのは、応理論者の通である。「諸々の有為法は転変して定まらず、また作用があるので、得に随って説くことができる。涅槃は常住であり、作用がなく、得に随って変わることはない。もし今が無学であるならば、先もまた無学であるべきである」と。 彼の非理を恐れ、認めて述べ、続けて理をもって難じる。「未だ阿羅漢果を証せず、無学の得がなければ、すでに無学と言うことは理に適わない」と。 この中の二つの文は、前は涅槃の転変を遮る者を説き、後は涅槃の決定を遮る者を説く。ともに涅槃の体が常住であることを顕し、ただ学でも無学でもないという性質のみであり、無学と名づけるべきではないのである。 「あなたはどう思うか。諸々の阿羅漢が無学の結を断じ、阿羅漢果から退く時、彼は学に転じるか」というのは、分別論者の問いである。義は前に釈した通りである。 「如是」と答えるのは、応理論者の答えである。義は前に釈した通りである。 「また、あなたはどう思うか。諸々の阿羅漢が無学の結を断じ、阿羅漢果から退く時、その結の断滅は学に転じるべきか」というのは、分別論者の難である。「有為法が得に似ているように、すでに学の得があり、その結の断滅を得たならば、その結の断滅は学に転じるべきである」と。 「もし彼が今、学に転じるならば、先に学であるべきである。体が常住であるからである」というのは、応理論者の通である。「諸々の有為法は転変して定まらず、また作用があるので、得に随って説くことができる。涅槃は常住であり、作用がなく、得に随って変わることはない。もし今が学であるならば、先もまた学であるべきである」と。 彼の非理を恐れ、認めて述べ、続けて理をもって難じる。「未だ阿羅漢果から退かず、学の得がなければ、すでに学と言うことは理に適わない」と。 この中の二つの文は、前は涅槃の転変を遮る者を説き、後は涅槃の決定を遮る者を説く。ともに涅槃の体が常住であることを顕し、ただ学でも無学でもないという性質のみであり、学と名づけるべきではないのである。

復次涅槃不應先是非學非無學。乃至廣說。問何故復作此論。答欲令前所說義得明了故。謂前來雖廣分別而義意未甚明了。今欲略說他宗有過自宗無失。故作斯論。復次涅槃不應先是非學非無學。後轉成學。先是學後轉成無學。先是無學復轉成學者。遮說涅槃轉變不定有三種者意。若爾涅槃隨得變易。應無常故不應正理。又涅槃不應有學有無學有非學非無學者。遮說涅槃體類差別有三種者意。

> また、涅槃は先ず「学」でも「無学」でもないとされるべきではない。さらに詳しく説くならば、次の通りである。問う、なぜ再びこの論を立てるのか。答える、先に述べたところの意味を明らかにするためである。すなわち、先に広く分別したけれども、その義の意はまだあまり明らかではない。今、簡略に他宗には過失があり、自宗には失がないことを説こうとして、この論を立てるのである。また、涅槃は先ず「学」でも「無学」でもなく、後に転じて「学」となるべきではない。先ず「学」であり、後に転じて「無学」となることもない。先ず「無学」であり、再び転じて「学」となることもない。これは、涅槃が転変して定まらないという三種の説を遮する意である。もしそうならば、涅槃は得に随って変易するので、無常であるはずであり、道理に適わない。また、涅槃には「学」、「無学」、「学でもなく無学でもない」というべきではない。これは、涅槃の体類に差別が三種あるという説を遮する意である。

若爾涅槃隨位差別。有雜亂故不應正理。謂異生位具三得一。至有學位具三得二。至無學位亦具三種。若具得三應有學得。若唯得二應非具足。得涅槃者。若無學位以無學得總得三種。有學等位應亦如是。則不應言學得諸結斷名學。無學得諸結斷名無學。有漏得諸結斷名非學非無學。若言諸位雖各具三。而隨得故各但名一。是則涅槃隨得轉變。應如前說有無常過。是故此說亦不應理。若如是者。應成三分諸法不決定故應有雜亂。是則不應施設諸法性相決定者。總以正理破前二說。謂分別論者。一說涅槃隨位不定。一說涅槃三種性定是則涅槃體有常有無常。故成二分。復次。彼後所說。亦隨能得有轉變義。轉變非一故名為二。若不隨得而轉變者。如何可說涅槃有三。若一涅槃隨得轉變。則一切法皆應不定。若不決定應有雜亂。若有雜亂不應施設常無常等性相決定。佛亦不說涅槃有學有無學性者。總引聖教破前二說。謂契經中。曾不說涅槃有學有無學故。彼所說決定非理。雖無處說涅槃唯非學非無學。而與學無學義不相應故。定是非學非無學性。以涅槃恒是非學非無學。諸法決定無有雜亂。恒住自性不捨自性涅槃。常住無有變易。是故涅槃但應言非學非無學者。既說他宗有過失已。顯自所宗無諸過失。以涅槃唯一種故。諸法性相決定無有雜亂。涅槃常住無有變易。其理善成。此中得義。如後定蘊得納息中當廣分別。

> それでは、涅槃について、位（修行の段階）に応じて区別があるとすれば、混雑が生じるので、正しい理ではありません。すなわち、異生（凡夫）の位では、三つの得（獲得）を具えています。有学の位に至れば、三つの得のうち二つを具えています。無学の位に至っても、また三つを具えています。もし三つの得を具えているならば、有学の得もあるはずです。もし二つだけを得ているならば、完全に具足しているとは言えません。涅槃を得る者について、もし無学の位であれば、無学の得によって三つをすべて得ます。有学などの位も、同じようにあるべきです。そうであれば、「学の得によって諸々の結（煩悩）を断じることを、学と名づける。無学の得によって諸々の結を断じることを、無学と名づける。有漏の得によって諸々の結を断じることを、非学非無学と名づける」と言うべきではありません。もし、諸々の位はそれぞれ三つを具えているけれども、得に随うから、それぞれ一つの名だけがあると言うならば、この涅槃は得に随って転変することになります。先に述べたように、無常の過失があるはずです。ゆえに、この説もまた理にかなっていません。もしこのようであるならば、三つの部分に分かれることになり、諸法が決定しないので、混雑があるはずです。そうであれば、諸法の性相を決定して施設することはできないはずです。総じて正理をもって、前の二つの説を破ります。すなわち、分別論者は、一説には涅槃は位に随って不定であり、一説には涅槃の三種は性が定まっていると説きます。この涅槃の体は、常と無常があることになるので、二分となります。また、その後の説も、能得に随って転変する義があります。転変して一つでないから、二つと名づけます。もし得に随って転変しないならば、どうして涅槃に三つがあると言えるでしょう。もし一つの涅槃が得に随って転変するならば、すべての法も皆、不定であるはずです。もし不決定ならば、混雑があるはずです。もし混雑があるならば、常や無常などの性相を決定して施設すべきではありません。仏もまた、涅槃に学・無学の性があるとは説かれません。総じて聖教を引いて、前の二つの説を破ります。すなわち、契経の中では、かつて涅槃に学・無学があるとは説かれていないからです。彼らの説くところは、決定して理にかなっていません。涅槃がただ非学非無学であると説かれた場所はないけれども、学・無学の義とは相応しないから、決定して非学非無学の性であるとすべきです。涅槃は常に非学非無学であり、諸法は決定して混雑がありません。常に自性に住して自性を捨てず、涅槃は常住で変易がありません。ゆえに、涅槃はただ非学非無学と言うべきです。すでに他宗の過失を説き終えて、自らの所宗には諸々の過失がないことを示します。涅槃はただ一種であるから、諸法の性相は決定して混雑がなく、涅槃は常住で変易がないという理は、善く成立します。ここにおける得の義は、後の「定蘊」の「得納息」の中で広く分別されるでしょう。

如契經說。彼成就無學戒蘊定蘊慧蘊解脫蘊解脫智見蘊。乃至廣說。問何故作此論。答為廣分別契經義故。如契經說。彼成就無學戒蘊。乃至廣說。契經雖作是說而不廣分別。云何無學戒蘊乃至解脫智見蘊。彼是此論所依根本。彼所不分別者。今悉應分別之。復次前說道果而未說道。今欲說之。復次前說無為阿羅漢果。未說有為阿羅漢果。今欲說之。復次前說涅槃。未說菩提今欲說之。故作斯論。問亦有成就學蘊或非學非無學蘊。契經何故不說。答應說而不說者。當知此義有餘。復次是佛世尊為諸弟子簡略之說。復次是佛世尊就勝而說。謂諸法中無學法勝。諸有情中無學有情勝。是故偏說。復次是佛世尊稱譽長子。故作是說。謂佛或時稱譽長子。或時稱譽中子。或時稱譽幼子。或時稱譽長子者。如伽他說。

> 経典にこう説かれている。「彼は無学の戒蘊・定蘊・慧蘊・解脱蘊・解脱智見蘊を成就する」と。乃至、詳しく説く。 問う、何故にこの論を作すのか。 答える、契経の義を広く分別するが故である。経典に「彼は無学の戒蘊を成就する」等と説くが、経典はこのように説くだけで、広く分別していない。どのようなものが無学の戒蘊乃至解脱智見蘊であるのか。それがこの論の所依の根本である。経典が分別しなかったものを、今まさに全て分別すべきである。 又、前に道果を説いたが、道を説いていない。今まさにこれを説こうとする。又、前に無為の阿羅漢果を説いたが、有為の阿羅漢果を説いていない。今まさにこれを説こうとする。又、前に涅槃を説いたが、菩提を説いていない。今まさにこれを説こうとする。故にこの論を作すのである。 問う、また学法の蘊や、非学非無学の蘊を成就する者もあるのに、何故契経には説かないのか。 答える、説くべきであるが説かなかったものは、この義には餘分があると知るべきである。又、これらは仏世尊が諸弟子の為に簡略に説かれたものである。又、これらは仏世尊が殊勝なるものに依って説かれたものである。謂わく、諸法の中では無学法が殊勝であり、諸有情の中では無学の有情が殊勝である。故に偏に説くのである。又、これらは仏世尊が長子を称誉して、このように説かれたものである。仏は或る時は長子を称誉し、或る時は中子を称誉し、或る時は幼子を称誉される。長子を称誉する時とは、伽他に説くが如くである。

阿羅漢最樂以永斷渴愛亦永斷諸慢壞裂無明網

> 阿羅漢は最も安らかである。渇きの愛を永遠に断ち切り、慢の心も永遠に捨て去り、無明の網を打ち破ったからである。

或時稱譽中子者。如佛稱譽七善士趣。或時稱譽幼子者。如池喻經讚預流果。今稱譽長子。故唯說無學。復次。若有戒蘊非惡戒所壞。定蘊非散亂所擾。慧蘊非惡慧所覆。解脫蘊非煩惱所亂。解脫智見蘊非無明所蔽者。此中說之。學及非學非無學蘊。無如是義是故不說。云何無學戒蘊。答無學身律儀語律儀。命清淨。謂契經說。無學支中正業即此中身律儀。正語即此中語律儀。正命即此中命清淨。經說。此三總名戒蘊。問離身語業無別正命。云何此中建立三種。答以黑白二法相對建立故。謂前七不善業道中。瞋癡所起身業名邪業。瞋癡所起語業名邪語。貪所起身語業名邪命。邪活命故。遠離此三名正業正語正命。有說。若為活命故作戲樂事。起不善身語業名邪命。若為餘事故起不善身語業名邪業邪語。遠離此三名正命等。有說。若為活命故作醫呪事。起不善身語業名邪命。若為餘事起不善身語業名邪業邪語。遠離此三名正命等。有說。若由四種愛。故起不善身語業名邪命。若由餘事起不善身語業名邪業邪語。遠離此三名正命等。有說。若由諂誑等五。起不善身語業名邪命。若由餘事。起不善身語業名邪業邪語。遠離此三名正命等。有說。遮罪身語業名邪命。性罪身語業名邪業邪語。遠離此三名正命等。有說。加行後起不善身語業名邪命。根本業道不善身語業名邪業邪語。遠離此三名正命等。問云何此蘊名曰尸羅。答尸羅者是清涼義。遠離破戒熱惱事故。復次尸羅者是。習學義。於三學中此在初故。如說。持戒故無悔。乃至廣說。無學相續中無漏身語業名無學戒蘊。云何無學定蘊。答無學三三摩地。謂空無願無相。問定體唯一。謂心所法中三摩地。云何建立三種差別。答以近對治三種障故謂空三摩地近對治有身見。無願三摩地近對治戒禁取。無相三摩地近對治疑。復次行相別故。謂空三摩地三行相俱即空非我。無願三摩地十行相俱即苦非常集道各四。無相三摩地四行相俱即緣滅四。復次以三事故。一以對治故。二以意樂故。三以所緣故。以對治故建立空三摩地。謂非我行相對治我見。空行相對治我所見。如我見我所見已見已所見。五我見十五我所見亦爾。復次非我行相對治我愛。空行相對治我所愛。如我愛我所愛。我慢我所慢亦爾。以意樂故建立無願三摩地。謂諸賢聖由意樂故。不願有及聖道。所以者何。以諸賢聖由意樂故。不願流轉及蘊世苦聖道。依流轉及蘊世苦故。亦不願緣道行相。雖非不願。而意樂故立無願名。問聖者何故修聖道耶。答為涅槃故。謂除聖道。更無異法能得涅槃。故修習之非本意樂。以所緣故建立無相三摩地。謂滅諦中無有十相。故名無相五塵男女三有為相。說名十相。復次以滅諦中無上中下及蘊世相故名無相。滅四行相此為所緣。故名無相。云何無學慧蘊。答無學正見智此誦為善。有異誦言無學八智。謂四法類彼誦太總。盡無生智亦此攝故。有別誦言。無學作意相應極簡擇法最極簡擇。廣說乃至毘鉢舍那復有誦言。無學智見明覺現觀彼亦大總。盡無生智亦此攝故。云何無學解脫蘊。答無學作意相應心。已勝解。今勝解。當勝解。謂盡無生無學正見相應勝解此蘊所攝故。非無為解脫。謂一切法中二法名解脫。一者擇滅即無為解脫。二者勝解即有為解脫。於境自在立解脫名。非謂離繫。云何無學解脫智見蘊答盡智。無生智。問何故此二智名解脫智見蘊。答解脫身中獨有此故。最能審決解脫事故。無學慧蘊與解脫智見蘊。有何差別。答無學苦集智是無學慧蘊。緣繫縛法故。無學滅道智是無學解脫智見蘊。緣解脫法故。復次無學苦集滅智是無學慧蘊。此緣有漏無為解脫。不緣緣解脫無漏智故。無學道智是無學解脫智見蘊。此緣無漏有為解脫。亦緣緣解脫無漏智故。復次無學苦集道智是無學慧蘊。不緣離繫法故。無學滅智是無學解脫智見蘊。緣離繫法故。是謂差別者。是謂世俗麁相差別。若說勝義真實差別。應如前說。謂無學正見智是無學慧蘊。盡智無生智是無學解脫智見蘊。復次。對治邪慧是無學慧蘊。對治無知是無學解脫智見蘊。復次若慧猛利推求尋覓。加行不息。是無學慧蘊。若慧不猛不利不推不求不尋不覓加行止息。是無學解脫智見蘊。如是五蘊界者非三界繫。地者戒蘊在六地。謂四靜慮未至中間。餘四蘊在九地謂前六地下三無色。問如是五蘊有上中下品差別不。答一相續中無此差別。異相續有。謂佛上品。獨覺中品。聲聞下品。復次利根者上品。中根者中品。鈍根者下品。有為功德雖有無量。此五最勝故立為蘊。

> ある時は中子（中間の弟子）を称揚することもある。例えば、仏が七種の善士趣（しょうじしゅ）を称揚された如くである。ある時は幼子（幼い弟子）を称揚することもある。例えば、池喩経（池の譬えの経）において預流果（よるか）を讃嘆された如くである。今、長子（最も優れた弟子）を称揚するので、専ら無学（がく）のみを説くのである。 また、戒蘊（かいうん）は悪戒によって壊されず、定蘊（じょううん）は散乱によって擾されず、慧蘊（えうん）は悪慧によって覆われず、解脱蘊（げだつうん）は煩悩によって乱されず、解脱智見蘊（げだつちけんうん）は無明によって蔽われないものがあるならば、ここにそれを説くのである。学（がく）及び非学非無学（ひがくひむがく）の蘊には、このような義がないので、それは説かないのである。 どのようなものが無学の戒蘊（かいうん）であるのか。答えていく。無学の身律儀（しんりつぎ）、語律儀（ごりつぎ）、命清浄（みょうしょうじょう）である。すなわち契経（けいきょう）に説かれているように、無学の支（し）の中における正業（しょうごう）は、これがすなわちここでいう身律儀であり、正語（しょうご）は、これがすなわちここでいう語律儀であり、正命（しょうみょう）は、これがすなわちここでいう命清浄である。経にこれらの三つを総称して戒蘊と名づけると説かれている。 問う。身語業（しんごごう）を離れて別の正命（しょうみょう）はないのに、どうしてここに三種を建立するのか。 答える。黒白の二法を相対させて建立するからである。すなわち前の七つの不善業道（ふぜんごうどう）の中において、瞋（しん）と癡（ち）によって起こされた身業（しんごう）を邪業（じゃごう）と名づけ、瞋と癡によって起こされた語業（ごごう）を邪語（じゃご）と名づけ、貪（とん）によって起こされた身語業を邪命（じゃみょう）と名づける。邪命はすなわち邪なる生活（活命）であるからである。これらの三つを遠離することを正業・正語・正命と名づける。 ある論師は説く。もし活命のために戲楽（けらく）の事を作して不善の身語業を起こすならば、これを邪命と名づける。もし他の事のために不善の身語業を起こすならば、これを邪業・邪語と名づける。これらの三つを遠離することを正命などと名づける。 ある論師は説く。もし活命のために医呪（いじゅ）の事を作して不善の身語業を起こすならば、これを邪命と名づける。もし他の事のために不善の身語業を起こすならば、これを邪業・邪語と名づける。これらの三つを遠離することを正命などと名づける。 ある論師は説く。もし四種の愛（あい）によって不善の身語業を起こすならば、これを邪命と名づける。もし他の事によって不善の身語業を起こすならば、これを邪業・邪語と名づける。これらの三つを遠離することを正命などと名づける。 ある論師は説く。もし諂誑（てんおう）などの五種によって不善の身語業を起こすならば、これを邪命と名づける。もし他の事によって不善の身語業を起こすならば、これを邪業・邪語と名づける。これらの三つを遠離することを正命などと名づける。 ある論師は説く。遮罪（しゃざい）の身語業を邪命と名づけ、性罪（しょうざい）の身語業を邪業・邪語と名づける。これらの三つを遠離することを正命などと名づける。 ある論師は説く。加行（けぎょう）と後起（ごき）の不善の身語業を邪命と名づけ、根本業道（こんぽんごうどう）の不善の身語業を邪業・邪語と名づける。これらの三つを遠離することを正命などと名づける。 問う。どうしてこの蘊（うん）を尸羅（しら）と名づけるのか。 答える。尸羅とは、すなわち清涼（しんりょう）の義である。破戒の熱悩（ねつのう）の事を遠離するからである。また、尸羅とは、すなわち習学（じゅうがく）の義である。三学（さんがく）の中においてこれは最初にあるからである。たとえば説かれるように、「持戒すれば故に悔なし、乃至広説の如し」と。無学の相続（そうぞく）の中における無漏（むろ）の身語業を、無学の戒蘊と名づける。 どのようなものが無学の定蘊（じょううん）であるのか。答えていく。無学の三三摩地（さんざんまち）である。すなわち空（くう）・無願（むがん）・無相（むそう）である。 問う。定の体（たい）はただ一つであり、心所法（しんじょほう）の中における三摩地（さんまち）であるのに、どうして三種の差別を建立するのか。 答える。三種の障（しょう）に近しく対治するからである。すなわち空三摩地（くうざんまち）は有身見（うしんけん）に近しく対治し、無願三摩地（むがんざんまち）は戒禁取（かいごんじゅ）に近しく対治し、無相三摩地（むそうざんまち）は疑（ぎ）に近しく対治する。 また、行相（ぎょうそう）の差別によるからである。すなわち空三摩地は三つの行相を具える。すなわち空と非我（ひが）である。無願三摩地は十の行相を具える。すなわち苦・非常・集・道がそれぞれ四つである。無相三摩地は四つの行相を具える。すなわち滅（めつ）を縁じて四つである。 また、三つの事によってである。一には対治（たいじ）によって、二には意楽（いぎょう）によって、三には所縁（しょえん）によってである。対治によって空三摩地を建立する。すなわち非我行相（ひがぎょうそう）は我見（がけん）に対治し、空行相（くうぎょうそう）は我所見（がしょけん）に対治する。我見・我所見がそうであるように、已見（いけん）・已所見（いしょけん）、五我見（がけん）・十五我所見（じゅうごがしょけん）もまた同じである。また、非我行相は我愛（があい）に対治し、空行相は我所愛（がしょあい）に対治する。我愛・我所愛がそうであるように、我慢（がまん）・我所慢（がしょまん）もまた同じである。 意楽（いぎょう）によって無願三摩地を建立する。すなわち諸の賢聖（けんしょう）は意楽によって、有（う）及び聖道（しょうどう）を願わないからである。なぜなら、諸の賢聖は意楽によって、流転（るてん）及び蘊世苦（うんせく）と聖道を願わないからである。聖道は流転及び蘊世苦に依っているので、また縁道（えんどう）の行相を願わない。願わないのではないが、意楽によって無願の名を立てるのである。 問う。聖者はどうして聖道を修するのか。 答える。涅槃（ねはん）のためである。すなわち聖道を除いては、更に別の法で涅槃を得ることができるものはない。だから修習するのであって、元々の意楽によるのではない。 所縁（しょえん）によって無相三摩地を建立する。すなわち滅諦（めったい）の中には十相（じゅうそう）がないので、無相と名づける。五塵（ごじん）・男女（なんにょ）・三有為相（さんういそう）を十相と説く。また、滅諦の中には上中下（じょうちゅうげ）及び蘊世相（うんせそう）がないので、無相と名づける。滅（めつ）の四行相（しぎょうそう）はこれを所縁とするので、無相と名づける。 どのようなものが無学の慧蘊（えうん）であるのか。答えていく。無学の正見智（しょうけんち）である。この誦（じゅ）が善いとされる。異なる誦には「無学の八智（はっち）、すなわち四法智（しほうち）・四類智（しるいち）」とあるが、その誦はあまりに総（くく）り過ぎである。尽智（じんち）・無生智（むしょうち）もまたこれに摂せられるからである。別の誦には「無学の作意（さい）と相応し、極めて簡択（けんちゃく）し、最も簡択し、広説乃至毘鉢舍那（びはしゃな）」とある。また別の誦には「無学の智・見・明・覚・現観（げんかん）」とあるが、それもまた大いに総り過ぎである。尽智・無生智もまたこれに摂せられるからである。 どのようなものが無学の解脱蘊（げだつうん）であるのか。答えていく。無学の作意と相応する心において、已に勝解（しょうげ）し、今、勝解し、当に勝解すべきものである。すなわち尽智・無生智・無学の正見と相応する勝解は、この蘊に摂せられるのである。無為（むい）の解脱ではない。すなわち一切法の中において、二つの法を解脱と名づける。一には択滅（ちゃくめつ）、すなわち無為の解脱である。二には勝解（しょうげ）、すなわち有為（うい）の解脱である。境において自在であることをもって解脱の名を立てるのであって、離繋（りけ）をいうのではない。 どのようなものが無学の解脱智見蘊（げだつちけんうん）であるのか。答えていく。尽智（じんち）と無生智（むしょうち）である。 問う。どうしてこの二つの智を解脱智見蘊と名づけるのか。 答える。解脱の身の中に独りこれがあるからである。最も能く解脱の事を審決（しんけつ）するからである。 無学の慧蘊と解脱智見蘊には、どのような差別があるのか。 答える。無学の苦智（くち）・集智（じっち）は無学の慧蘊である。繋縛（けばく）の法を縁じるからである。無学の滅智（めっち）・道智（どうち）は無学の解脱智見蘊である。解脱の法を縁じるからである。 また、無学の苦・集・滅智は無学の慧蘊である。これは有漏（うろ）と無為の解脱を縁じ、緣解脱（えんげだつ）の無漏智（むろち）を縁じないからである。無学の道智は無学の解脱智見蘊である。これは無漏の有為の解脱を縁じ、また緣解脱の無漏智を縁じるからである。 また、無学の苦・集・道智は無学の慧蘊である。離繫（りけ）の法を縁じないからである。無学の滅智（めっち）は無学の解脱智見蘊である。離繫の法を縁じるからである。これがすなわち差別であると説かれる。 これはすなわち世俗（せぞく）の麁相（そそう）の差別を説くものである。もし勝義（しょうぎ）の真実の差別を説くならば、前に説いた如く、無学の正見智は無学の慧蘊であり、尽智・無生智は無学の解脱智見蘊であると言うべきである。 また、邪慧（じゃえ）に対治するものを無学の慧蘊とし、無知（むち）に対治するものを無学の解脱智見蘊とする。 また、慧が猛利（みょうり）にして推求（すいぐ）し、尋覓（じんみゃく）し、加行（けぎょう）が休まないものを無学の慧蘊とする。もし慧が猛利でなく、利（り）ではなく、推求せず、尋ねず、覓（もと）めず、加行が止息（しそく）したものを無学の解脱智見蘊とする。 このように、五蘊の界（かい）は、三界（さんがい）に繋属（けいぞく）しない。地（じ）については、戒蘊は六地（ろくじ）にある。すなわち四静慮（しじょうろ）・未至（みし）・中間（ちゅうげん）である。残りの四蘊は九地（くじ）にある。すなわち前の六地と下の三無色（さんむしき）である。 問う。このような五蘊に、上・中・下の品（ぼん）の差別があるのか。 答える。一つの相続（そうぞく）の中にはこの差別はない。異なる相続にはある。すなわち仏は上品（じょうぼん）、独覚（どっかく）は中品（ちゅうぼん）、声聞（しょうもん）は下品（げぼん）である。また、利根（りこん）の者は上品、中根（ちゅうこん）の者は中品、鈍根（どんこん）の者は下品である。 有為（うい）の功徳（くどく）は無量にあるが、この五つが最も勝れているので蘊（うん）と立てるのである。

如世尊說。苾芻當知。唯一究竟無別究竟。乃至廣說。問何故作此論。答為欲分別契經義故。如契經說。唯一究竟無別究竟。雖作是說而不分別。為是勤勇究竟。為是事成究竟經是此論所依根本。彼不說者今欲說之故作此論。問究竟有二。如何言一。脇尊者言。此二究竟一一唯一故說一言。謂唯有一勤勇究竟。無別有餘勤勇究竟。及唯有一事成究竟。無別有餘事成究竟。如世尊說。唯有一諦無別第二。彼亦一一唯有一種故說一言。謂唯有一苦諦。無別第二苦諦。乃至唯有一道諦。無別第二道諦。此亦如是。故說一言。有作是說。為遮外道邪道邪解脫故說一言。謂諸外道妄執種種露形自餓臥灰服氣隨日而轉。或唯服水噉菓食糞。著糞掃衣臥木礫石。投巖赴火行牛等行。以為真道。佛為遮彼作如是言。彼是邪道愚人所習。真道唯一無別第二真道。即是勤勇究竟。又諸外道妄執種種無身無邊意淨聚世窣堵波等為真解脫。佛為遮彼作如是言。彼是生處非真解脫。真解脫唯一。謂事成究竟。有餘師說。唯有一勤勇究竟能斷生死因。唯有一事成究竟能捨生死苦。故說一言非無二種。或有說者。究竟唯一。謂事成究竟。為證此故修勤勇究竟。故說究竟唯一無二。復有說者。外道各於自所宗處起究竟想。佛為遮彼作如是言。惡說法中無真究竟。愚人所習不能永離貪瞋癡故。善說法中有真究竟。智人所習能永出離貪瞋癡故。或復有說。非佛欲顯真究竟故說唯一言。但為顯示外道過失。謂諸外道互興諍論。起斷見者。執斷為究竟。撥常見為非。起常見者。執常為究竟。撥斷見為非。為顯彼失佛作是言。若斷究竟常見應非。若常究竟斷見應非。究竟唯一無第二故。所執斷常俱非究竟。此中何法名究竟耶。答世尊或時於道說究竟聲。或時於斷說究竟聲。出世因果俱究竟故於道說究竟聲者。如世尊說。

> そこで世尊はこのように説かれた。「比丘たちよ、知るがよい。ただ一つの究竟があり、他の究竟はない」と。そして、このように広く説かれた。 問う——何ゆえにこの論を作すのか。 答える——契経の義を分別せんがためである。契経に説くように、「ただ一つの究竟があり、他の究竟はない」と。このように説くけれども、それを分別しなかった。それは精進努力の究竟であるのか、それとも事が成し遂げられた究竟であるのかを。経はこの論のよりどころとなる根本である。そこにおいて説かれなかったことを、今ここで説こうとして、この論を作すのである。 問う——究竟には二種ある。いかにして「一」と説くのか。 脇尊者は言う——この二つの究竟は、それぞれに一つずつであるから、「一」と説くのである。すなわち、ただ一つの精進努力の究竟があり、他に別の精進努力の究竟はない。また、ただ一つの事成究竟があり、他に別の事成究竟はない。世尊が説かれたように、「ただ一つの真理があり、他に第二の真理はない」と。それもまた、それぞれに一つずつであるから「一」と説くのである。すなわち、ただ一つの苦諦があり、他に第二の苦諦はない。……乃至、ただ一つの道諦があり、他に第二の道諦はない。これもまた同じであるから、「一」と説くのである。 ある説にはこうある——外道の邪道・邪解脱を遮するために「一」と言うのである。すなわち、諸々の外道は、さまざまな裸形・自餓・灰を塗る・息を止める・日に向かって回るなどの行を妄りに執着する。あるいは、ただ水を飲む・果物を食べる・糞を食う・糞掃衣を着る・木や礫や石に臥す・岩から投身する・火に赴く・牛などの行を行うことをもって、真の道とする。仏はそれを遮するために、このように言われるのである。「それらは邪道であり、愚人が習うものである。真の道はただ一つであり、他に第二の真道はない。すなわち、これが精進努力の究竟である」と。 また、諸々の外道は、さまざまな無身・無辺・意浄・聚世・窣堵波などを妄りに執着して、真の解脱とする。仏はそれを遮するために、このように言われるのである。「それらは再生の場所であって、真の解脱ではない。真の解脱はただ一つである。すなわち、これが事成究竟である」と。 他の師たちは言う——ただ一つの精進努力の究竟があり、それによって生死の因を断ずることができる。また、ただ一つの事成究竟があり、それによって生死の苦を捨てることができる。だから「一」と言うのであって、二種がないというのではない。 あるいは説く者もある——究竟はただ一つであり、事成究竟である。これを証するために精進努力の究竟を修するのである。だから「究竟はただ一つで二つはない」と説くのである。 さらにまたある説にはこうある——外道はそれぞれに自らが帰依するところにおいて究竟という想いを起こす。仏はそれを遮するために、このように言われるのである。「悪説の法の中には真の究竟はない。愚人が習うものであって、永遠に貪・瞋・癡を離れることができないからである。善説の法の中には真の究竟がある。智ある人が習うものであって、永遠に貪・瞋・癡を出離することができるからである」と。 あるいはまた、仏が真の究竟を示そうとして「一」と説くのではない。ただ外道の過失を示すためである。すなわち、諸々の外道は互いに論争を起こす。断見を起こす者は、断を執って究竟とし、常見を撥無して非とする。常見を起こす者は、常を執って究竟とし、断見を撥無して非とする。それらの過失を示すために、仏はこのように言われるのである。「もし断が究竟ならば、常見は非であるべきだ。もし常が究竟ならば、断見は非であるべきだ。究竟はただ一つであり、第二がないからである。それゆえに、執着された断も常も、ともに究竟ではない」と。 この中で、どの法を究竟と名づけるのか。 答える——世尊はあるときは道において究竟の声を説き、あるときは断において究竟の声を説く。出世間の因果はともに究竟であるからである。道において究竟の声を説くとは、世尊がこのように説かれたことである——

一類聰慢者不能知究竟彼不證道故不調伏而死

> 一类の賢くて慢心のある者は、最終的な真理を理解できない。彼らは道を悟ることがないため、心を整えることなく命を終える。

一類者。謂外道彼實愚癡。自謂聰慧。而生憍慢名聰慢者。究竟者謂勤勇究竟。彼於此究竟不如實知見。名不能知。八支聖道說名為道。彼於此道不能證故。不調伏而死。謂有煩惱生有煩惱而死。不得真實調伏道故。於斷說究竟聲者。如世尊說。

> ある者たちは、外道であり、彼らは実に愚かでありながら、自らは賢いと思い上がり、驕り高ぶる者である。「究竟」とは、勤めと勇気の究極のことであるが、彼らはこの究極について、あるがままに知り見ることができない。ゆえに「知ることができない」と言う。八支聖道は「道」と説かれるが、彼らはこの道を証得できないから、調伏されずに死ぬのである。すなわち、煩悩を有して生まれ、煩悩を有して死ぬのであり、真実の調伏の道を得ることができないのである。「断」について「究竟」という言葉が説かれることは、世尊がお説きになったとおりである。

已到究竟者無怖無疑悔永拔有箭故彼住後邊身此是最究竟無上寂靜迹清淨不死迹諸相皆盡故

> 究極に達した者は、恐れも疑いも悔やみもない。 ありのままの苦しみの矢を永遠に抜き去ったので、その方は最後の身を保たれている。 これこそが最上の究極であり、何ものにもまさる静けさの境地である。 清らかで不死の境地、すべての表象が尽き果てた場所である。

究竟者。謂事成究竟。已能至彼名已到者。無怖者。謂善通達緣起法故。善修習空解脫門故。不畏惡趣及生死苦。無疑者。謂非如外道住惡律儀及邪智見發起種種猶豫言說疑自所證。無悔者。謂已斷遍知戒禁取故及已生起究竟智故無有變悔。有箭者。謂二種有箭。一者愛箭。二者見箭。善修聖道得斷遍知棄捨變吐永不復轉故名永拔。最後自體名後邊身。永斷因緣不復更受當來生死。是故說彼住後邊身。此是最究竟者。謂事成究竟。對勤勇究竟。超過彼故名最無上寂靜迹者。三火息故說名寂靜智。立處故說名為迹。迹中勝故說名無上。清淨不死迹者。迹如前說。離諸煩惱隨煩惱故。說名清淨。常住無變故名不死諸相皆盡故者。謂涅槃中煩惱業苦眾相寂滅。又契經說有一梵志。名數目連。來詣佛所請問佛曰。喬答摩尊。教授教誡諸苾芻等。彼受教已。皆能證得最極究竟涅槃界不。世尊告曰。此事不定一類能證。一類不能。此亦於斷說究竟聲。涅槃即是斷究竟故。復次有勤勇。有勤勇究竟。有事成。有事成究竟。云何勤勇。云何勤勇究竟。云何事成。云何事成究竟。答異生道是勤勇。非勤勇究竟。彼所得斷是事成。非事成究竟。聖者道是勤勇是勤勇究竟。彼所得斷是事成是事成究竟。復次。有漏道是勤勇非勤勇究竟。彼所得斷是事成。非事成究竟。無漏道是勤勇是勤勇究竟。彼所得斷是事成是事成究竟。復次向道是勤勇。非勤勇究竟。彼所得斷是事成。非事成究竟。果道是勤勇是勤勇究竟。彼所得斷是事成是事成究竟。復次學道是勤勇非勤勇究竟。彼所得斷是事成。非事成究竟。無學道是勤勇是勤勇究竟。彼所得斷是事成是事成究竟。如契經說。佛告苾芻。有諸外道。雖同施設斷知諸取。而彼不能具足施設。謂彼但施設斷知欲取見取戒取非我語取。此有何義。問何故作此論。答為廣分別契經義故。謂契經說佛告苾芻。有諸外道。乃至廣說。契經雖作是說。而不廣辨其義。彼是此論所依根本。彼所不說者今悉應說之故作斯論。此中問意有三種別。一問外道實不了知斷諸取義。世尊何故說同施設斷知諸取。二問外道實不能說斷知諸取。世尊何故說彼施設斷知三取。三問外道亦能少分斷我語取。寧不施設但說斷三。於此三中先答中問。謂諸外道實不能說斷知諸取。世尊何故說彼施設斷知三取。有作是說。此是世尊率爾說法。彼不應作是說。所以者何。世尊說法非全無因。或少因故。謂彼所說是謗世尊。故應遮止訶諫違逆。所以者何。世尊永離無義言故。所說稱量必饒益故。依田依器雨法雨故。有大因緣乃說法故。由此世尊所有言說。皆使有情獲大利樂。故彼所說是謗世尊。復有說者。此言顯彼少分斷者。彼不應作是說。所以者何。異生亦有能斷少分我語取故。謂彼所說不順正理。故應遮止訶諫違逆。所以者何。如有異生離欲染位全斷欲取。從離欲界乃至無所有處染位。能少分斷見取戒取。如是離初靜慮乃至無所有處染位。亦能少分斷我語取。若少分斷便施設者。亦應施設斷我語取。故彼所說不順正理。然佛世尊。為天人等無量大眾廣說法要。無倒開示令隨類解。有諸外道。竊聞佛說蘊界處蓋念住乃至覺支等名。或有具足。或不具足。是諸外道若有得聞欲取名者。便作是言。我亦施設斷知欲取。若有得聞見取名者。便作是言。我亦施設斷知見取。若有得聞戒取名者。便作是言。我亦施設斷知戒取。此是論主依勝義答。於理無違不謗佛故。謂薄伽梵未出世時。諸外道等多獲名利。佛既出世蔽諸外道。如日出已螢光隱沒。名利徒眾漸漸減少。便集一處而共議言。喬答摩氏未出世時。世間名利皆屬我等。既出世已頓歸彼人。然喬答摩無有實德勝於我等。但善經論。形貌端嚴我等不及。雖彼形貌難可奪之。而其經論易可竊取。我等若得還招名利。復共議言。蘇尸摩等聰慧強記若遣往詣喬答摩所。求作門人。彼必為其廣說經論。聞已還來為我等說。議已共詣蘇尸摩所。慰喻勸之。彼便受教。往詣佛所方便竊法。佛以十力四無所畏。於大眾中廣說法要。時彼外道隣側經行。為竊法故其心虛怯。於具足說不能具受。或能具受而不解義。然佛世尊所說法要。或有具足或不具足。於所為事無不具足。如契經說。若諸有情能於內身。住循身觀如爪上土。若諸有情不於內身住循身觀。如大地土。此經所說。於所為事雖名具足。而於所說名不具足。如契經說。四種念住。此經所說二皆具足。如契經說。六界五蓋七覺支等。於所為事雖名具足。而於所說名不具足。如契經說。十八界十蓋十四覺支等。此經所說二皆具足。如是佛說。或有具足或不具足。而彼外道不能具受。或雖具受而不解義。隨所受持便妄施設。為證此義復引契經。如多苾芻集在一處。有諸外道來作是言。如喬答摩。為諸弟子宣說法要。謂作是說。汝等苾芻應斷五蓋如是五蓋能染污心。令慧力劣損害覺分障礙涅槃。於四念住應善住心。於七覺支應勤修習。我等亦能為諸弟子說此法要。則喬答摩所說法要。與我何別。而今汝等獨歸彼耶。然彼外道尚不能識五蓋名相。況能了達住四念住修七覺支。然竊佛語故作是說。施設斷取應知亦然。謂彼外道。與蓋俱生與蓋俱死。尚不識蓋。況知能治念住覺支。為顯斯理復引別證。又如外道摩健地迦。不了自身眾病所集。剎那不住苦空非我。來詣佛所鼓腹而言。吾今此身既無諸病。應知即是究竟涅槃。彼尚不知無病名相。況能了達究竟涅槃。然竊佛語故作是說。施設斷取應知亦然。謂彼外道身無楚痛執為無病。得好飲食執為涅槃。彼尚不知四大調適名為無病。況能了達心調適故名為涅槃。復次彼尚不知無漏聖道名為無病。況能了達究竟道果名為涅槃。但竊佛語妄作是說。施設斷取應知亦然。答中問已。次答後問。何緣外道但有施設斷知三取非我語取。此問外道亦能少分。斷我語取寧不施設答彼於長夜執有真實我及有情命者生者能養育者補特伽羅。彼既執有真實我等。寧肯施設斷我語取。謂諸外道執我為宗。若彼施設斷我語取。便捨自宗歸依他見。故不施設斷我語取。復次彼諸外道執有我故怖畏無我如臨深坑。故不施設斷我語取。復次彼諸外道作如是念。有我故活。若無我者。無命者故便為不活。故不施設斷我語取。復次彼諸外道作如是念。我若施設斷我語取。同梵行者尚輕賤我捨我而去。何況餘人怖畏輕賤。故不施設斷我語取答後問已。次答初問說同施設斷知諸取。斯有何義此問意言。彼諸外道實不了知斷諸取義。世尊何故說同施設斷知諸取。答是佛世尊隨彼言說。謂彼外道自言了知。世尊述彼非自意說。為證此義故復引經。如世尊說。彼諸外道施設實有。有情斷壞然依勝義。無實有情但隨彼言。而作是說。此亦如是。故無有過。非述他言。便同彼故。

> 「究竟」とは、修行の目的が完全に達成されたことを指します。すでにその境地に到達した者を「已到者（すでに到った者）」と呼びます。「無怖（恐れがない）」とは、縁起の法をよく理解し、空の解脱門をよく修行したからこそ、悪趣や生死の苦しみを恐れないことを指します。「無疑（疑いがない）」とは、外道のように悪い戒律や邪な見解に留まり、あれこれと疑いの言葉を発して自分が証得したものを疑うようなことがないことを指します。「無悔（後悔がない）」とは、戒禁取（戒律や修行への執着）を完全に断ち尽くし、究竟の智を生じたので、変わることや後悔することがないことを指します。 「有箭（矢がある）」とは、二種類の矢があることを指します。一つは愛の矢、もう一つは見の矢です。聖なる道をよく修行して、それらを完全に断ち、捨て去り、吐き出し、二度と生じないようにしたので、「永拔（永遠に抜き去る）」と呼ばれます。最後のこの身を「後邊身（最後の身体）」と呼びます。原因を永遠に断ち切ったので、未来の生死を再び受けることがありません。それゆえに、彼らは「後邊身にとどまる」と言われます。 「これが最も究竟である」とは、修行の目的が完全に達成されたことを指します。「勤勇究竟（努力の完全な達成）」と比較して、それを超えているので、「最無上（この上なく優れたもの）」と呼ばれます。「寂静迹（静かなる跡）」とは、三つの火（貪・瞋・癡）が消えたので「寂静」と呼ばれ、智慧が確立された場所なので「迹」と呼ばれます。迹の中でも優れているので「無上」と呼ばれます。 「清浄不死迹（清らかで死のない跡）」とは、迹は先に述べた通りです。煩悩や随煩悩を離れているので「清浄」と呼ばれ、常住で変わることがないので「不死」と呼ばれます。「諸相皆尽（あらゆる相が尽きる）」とは、涅槃の中では煩悩・業・苦のあらゆる相が静かに消滅することを指します。 また、経典にこのように説かれています。ある梵志（バラモン）がいて、名前を數目連（シューモーリアン）と言いました。彼は仏のもとに訪れて、こう尋ねました。「ゴータマ尊よ、あなたが弟子たちに教えを説かれ、彼らがその教えを受けた後、皆が最も究極の涅槃の境地を証得することができるでしょうか？」世尊は答えられました。「これは定まったことではない。ある者は証得でき、ある者はできない。」これもまた、断つことについて「究竟」という言葉を用いたものです。涅槃はすなわち断つのが究竟だからです。 さらに、勤勇（努力）があり、勤勇究竟（努力の完全な達成）があります。事成（目的の達成）があり、事成究竟（目的の完全な達成）があります。 どのようなものが勤勇で、どのようなものが勤勇究竟なのでしょうか。どのようなものが事成で、どのようなものが事成究竟なのでしょうか。 答え：凡夫の道は勤勇ですが、勤勇究竟ではありません。それによって得られる断は事成ですが、事成究竟ではありません。聖者の道は勤勇であり、勤勇究竟です。それによって得られる断は事成であり、事成究竟です。 さらに、有漏の道は勤勇ですが、勤勇究竟ではありません。それによって得られる断は事成ですが、事成究竟ではありません。無漏の道は勤勇であり、勤勇究竟です。それによって得られる断は事成であり、事成究竟です。 さらに、向道（修行の途上にある道）は勤勇ですが、勤勇究竟ではありません。それによって得られる断は事成ですが、事成究竟ではありません。果道（修行の果てに達した道）は勤勇であり、勤勇究竟です。それによって得られる断は事成であり、事成究竟です。 さらに、学道（修行中の道）は勤勇ですが、勤勇究竟ではありません。それによって得られる断は事成ですが、事成究竟ではありません。無学道（修行を終えた道）は勤勇であり、勤勇究竟です。それによって得られる断は事成であり、事成究竟です。 経典にこのように説かれています。仏は比丘たちに告げられました。「多くの外道がいる。彼らは同じく諸々の取（執着）を断じ知ることを説きながら、完全には説き尽くしていない。すなわち、彼らは欲取・見取・戒取を断じ知ることを説くが、我語取を断じ知ることを説かない。」 これはどのような意味があるのでしょうか。 問い：なぜこの論が作られたのか。 答え：経典の意味を広く分別するためです。経典では「仏は比丘たちに告げられた。多くの外道がいる。...」と広く説かれていますが、経典がこのように説いているだけで、その意味を広く弁別していません。それがこの論の根本であり、経典が説いていないことを今ここで説くべきなので、この論が作られたのです。 ここでの問いの意味には三つの種類があります。 一つ目は、外道が実際には諸取を断じる意味を真に理解していないのに、なぜ世尊は彼らが同じく諸取を断じ知ることを説くと述べたのか、という問い。 二つ目は、外道が実際には諸取を断じ知ることを説くことができないのに、なぜ世尊は彼らが三つの取を断じ知ることを説くと述べたのか、という問い。 三つ目は、外道もまた我語取を少しばかり断じることができるのに、なぜそれを説かずにただ三つの取を断じるとだけ説いたのか、という問い。 この三つの問いの中で、まず中ほどの問いに答えられます。 すなわち、諸外道は実際には諸取を断じ知ることを説くことができません。それなのに、なぜ世尊は彼らが三つの取を断じ知ることを説くと述べたのでしょうか。 ある者はこう説きます。「これは世尊が特に深い意味もなく説かれた法である。」しかし、そのように言うべきではありません。なぜなら、世尊が説法されるのは、まったく因がないのではなく、あるいは少ない因があるからです。彼らの言説は世尊を誹謗するものです。だからこそ、それを遮り、諫め、逆らうべきです。 なぜなら、世尊は無意味な言葉を永遠に離れ、説かれる言葉はすべてよく計らい、必ず利益をもたらし、田や器に応じて法の雨を降らせ、大きな因縁があって初めて法を説かれるからです。それゆえに、世尊のすべての言葉は、すべての有情に大きな利益と安楽をもたらします。だからこそ、彼らの言説は世尊を誹謗するものなのです。 さらに、ある者はこう説きます。「この言葉は、彼らが少しばかり断じることを示している。」しかし、そのように言うべきではありません。なぜなら、凡夫でも我語取を少しばかり断じることができるからです。彼らの言説は正しい理にかなっていないので、それを遮り、諫め、逆らうべきです。 なぜなら、例えば凡夫が欲界の煩悩を離れる境地では、欲取を完全に断ちます。欲界から無所有処の煩悩を離れる境地では、見取と戒取を少しばかり断じることができます。同様に、初静慮から無所有処の煩悩を離れる境地では、我語取も少しばかり断じることができます。もし少しばかり断じただけで「施設（説き示す）」と言うならば、我語取を断じるとも説くべきでしょう。だからこそ、彼らの言説は正しい理にかなっていないのです。 しかし、仏世尊は天人などの無量大衆のために広く法の要を説き、誤りなく開示して、それぞれの種類に応じて理解させました。諸外道の中には、ひそかに仏の説く蘊・界・処・蓋・念住・乃至・覚支などの名前を聞いた者がいました。ある者は完全に聞き、ある者は不完全に聞きました。 これらの外道の中で、もし「欲取」という名前を聞いた者がいれば、こう言いました。「私もまた欲取を断じ知ることを説こう。」もし「見取」という名前を聞いた者がいれば、「私もまた見取を断じ知ることを説こう。」もし「戒取」という名前を聞いた者がいれば、「私もまた戒取を断じ知ることを説こう。」 これは論主が勝義（究極の真実）に基づいて答えたものです。理に反することなく、仏を誹謗するものではありません。 というのは、薄伽梵（世尊）がまだ世に出られなかった時、諸外道などは多くの名利を得ていました。仏が世に出られた後、諸外道はその光を覆われました。太陽が昇ると蛍の光が隠れるように、名利や徒衆は次第に減少していきました。 そこで彼らは一箇所に集まって、こう話し合いました。「ゴータマ氏がまだ世に出られなかった時、世の中の名利はすべて我々のものであった。彼が出られてから、すぐにすべて彼のものとなってしまった。しかし、ゴータマには我々より勝る本当の徳はない。ただ経典によく通じ、姿かたちが端麗なだけで、我々は及ばない。彼の姿かたちを奪うことは難しいが、その経典は容易に盗むことができる。我々がそれを得れば、再び名利を招くことができるだろう。」 さらに話し合いました。「スシマ（蘇尸摩）などは聡明で記憶力が強い。彼をゴータマのもとに遣わして、弟子になることを求めるならば、彼は必ずそのために広く経典を説くだろう。それを聞いて帰ってきて、我々のために説いてくれるだろう。」 話し合いの後、皆でスシマのもとを訪れて慰め、勧めました。彼は教えを受け入れ、仏のもとに行って、方便を用いてひそかに法を盗もうとしました。 仏は十力・四無所畏をもって、大衆の中で広く法の要を説かれました。その時、その外道は隣で経行しながら、法を盗もうとして心が臆しており、完全に説かれた法を完全に受け取ることができませんでした。あるいは完全に受け取っても、その意味を理解できませんでした。 しかし、仏世尊の説かれた法の要は、あるいは完全であり、あるいは不完全でありながら、その目的とする事柄に関しては、すべて完全でした。 例えば経典にこう説かれています。「もし諸有情が内身に身念住を観じることができれば、指甲の上の土のようなものである。もし諸有情が内身に身念住を観じることができなければ、大地の土のようなものである。」この経典の説くところは、目的とする事柄に関しては「具足（完全）」と呼ばれますが、説かれた言葉に関しては「不具足（不完全）」と呼ばれます。 例えば経典に「四種念住」と説かれています。この経典の説くところは、両方とも「具足」です。 例えば経典に「六界・五蓋・七覚支など」と説かれています。これらは目的とする事柄に関しては「具足」と呼ばれますが、説かれた言葉に関しては「不具足」と呼ばれます。 例えば経典に「十八界・十蓋・十四覚支など」と説かれています。この経典の説くところは、両方とも「具足」です。 このように、仏の説かれた法は、あるいは完全であり、あるいは不完全でした。しかし、それらの外道は完全に受け取ることができず、あるいは完全に受け取っても意味を理解できず、受け取ったものに従って正しくない説き方をしたのです。 この意味を証明するために、さらに経典を引用します。 多くの比丘が一箇所に集まっている時、諸外道が来てこう言いました。「ゴータマのように、弟子たちのために法の要を説くことは、こういうことだ。『あなたたち比丘は五蓋を断つべきである。この五蓋は心を汚染し、慧力を弱め、覚支を損ない、涅槃を妨げる。四念住に心をよく留め、七覚支をよく修行すべきである。』我々もまた弟子たちのためにこの法の要を説くことができる。それならば、ゴータマの説く法の要と何の違いがあろうか。それなのに、なぜあなたたちは彼にだけ帰依するのか。」 しかし、それらの外道は五蓋の名前と形相をまだ認識することさえできません。ましてや、四念住にとどまり、七覚支を修行することを理解できるはずがありません。ただ仏の言葉を盗んで、このように言っているだけです。 「取を断じることを説き示す」ということも、同じように理解すべきです。つまり、それらの外道は蓋とともに生まれ、蓋とともに死ぬ者であり、まだ蓋を認識することさえできません。ましてや、それを治すことのできる念住や覚支を知ることはできません。 この理を示すために、さらに別の証拠を引用します。 例えば外道のマケンディカ（摩健地迦）は、自身のこの身が多くの病が集まったものであり、刹那も留まらず、苦・空・非我であることを理解せずに、仏のもとに来て、お腹を膨らませてこう言いました。「私は今、この身に何の病もない。これこそが究竟涅槃であると知るべきだ。」 彼はまだ「無病」の名前と形相を知ることさえできません。ましてや、究竟涅槃を理解できるはずがありません。ただ仏の言葉を盗んで、このように言っているだけです。 つまり、彼の外道は身に苦痛がないことを「無病」と執着し、良い飲食を得たことを「涅槃」と執着しています。彼はまだ四大が調和することを「無病」と呼ぶことを知りません。ましてや、心が調和することを「涅槃」と呼ぶことを理解できるはずがありません。 さらに、彼はまだ無漏の聖道を「無病」と呼ぶことを知りません。ましてや、究竟の道と果を「涅槃」と呼ぶことを理解できるはずがありません。ただ仏の言葉を盗んで、正しくない説き方をしているだけです。 「取を断じることを説き示す」ということも、同じように理解すべきです。 中ほどの問いに答えた後、次に後ろの問いに答えます。 問い：なぜ外道は三つの取を断じると説き示すだけで、我語取については説かないのでしょうか。 この問いは、外道もまた我語取を少しばかり断じることができるのに、なぜ説き示さないのか、というものです。 答え：彼らは長い間、真実の我や、有情・命者・生者・能養育者・補特伽羅が存在すると執着してきました。彼らが真実の我などが存在すると執着しているのであれば、どうして我語取を断じると説き示すことを受け入れられるでしょうか。 つまり、諸外道は我を宗とするものです。もし彼らが我語取を断じると説き示すならば、自分の宗を捨てて他者の見解に帰依することになります。だからこそ、我語取を断じると説き示さないのです。 さらに、彼ら諸外道は我の存在を執着しているので、無我を恐れ、深い穴に臨むかのように怖れます。だからこそ、我語取を断じると説き示さないのです。 さらに、彼ら諸外道はこう考えます。「我が存在するからこそ生きられる。もし我がなければ、命者がいないので生きられないだろう。」だからこそ、我語取を断じると説き示さないのです。 さらに、彼ら諸外道はこう考えます。「もし私が我語取を断じると説き示すならば、同じ修行者たちは私を軽んじ、私を捨てて去るだろう。ましてや他の人々はなおさらである。私はそれを恐れる。」だからこそ、我語取を断じると説き示さないのです。 後ろの問いに答えた後、次に最初の問いに答えます。 問い：「同じく諸取を断じ知ることを説き示す」と言うのは、どのような意味があるのでしょうか。 この問いの意味は、「それらの外道は実際には諸取を断じる意味を理解していないのに、なぜ世尊は彼らが同じく諸取を断じ知ることを説くと述べたのか」というものです。 答え：これは仏世尊が彼らの言葉に従って述べられたものです。つまり、彼ら外道が自分で「了知している」と言ったので、世尊はそれを述べられたのであって、ご自身の意図として説かれたのではありません。 この意味を証明するために、さらに経典を引用します。 世尊がこう説かれました。「彼ら諸外道は、実有の有情が断ち壊されると説き示すが、しかし勝義に基づけば、実の有情は存在しない。ただ彼らの言葉に従って、このように説かれたのである。」これも同じです。だからこそ、過ちはありません。彼らの言葉を述べたからといって、彼らと同じになるわけではありません。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第三十三

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