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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 6"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第三十四

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第三十四巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 雜蘊第一中愛敬納息第四之六

> 雑蘊第一中の愛敬納息第四の六

如契經說。有二遍知。謂智遍知及斷遍知。乃至廣說。問何故作此論。答為廣分別契經義故。謂契經說有二遍知。謂智遍知及斷遍知。契經雖作是說。而不廣辨其義。彼是此論所依根本。彼所不說者此皆應說之。復次前說斷知諸取。而未分別斷知取義。今欲分別故作斯論。云何智遍知。答諸智見明覺現觀。是謂智遍知。此中諸名同顯一義。以本論主於諸字義得善巧故作種種說。謂對治無知故名智。對治惡見故名見。對治無明故名明。對治邪覺故名覺。對治邪現觀故名現觀。問此中為說何等智等名智遍知。有作是說。唯說無漏說現觀故。所以者何。非世俗智可名現觀。復有說者。通說有漏無漏智等名智遍知。所以者何。遍知諸法。契經多說世俗智故。問豈世俗智亦名現觀。答明了觀察是現觀義。世俗智中。有能明了觀察法者亦名現觀。非唯無漏得現觀名。故城喻經作如是說。我未證得三菩提時。如實現觀生緣老死。非未證得三菩提時已有觀緣起。真實無漏智可名現觀。由此故知有世俗智亦名現觀。問何等世俗智亦名智遍知。答除勝解作意相應世俗智。餘聞思修觀自共相。諸世俗智極明了者亦得名現觀。亦名智遍知。聞所成慧者。如觀十八界自共相等。思所成慧者。如持息念四念住等。修所成慧者。如煖頂忍世第一法等。此及無漏慧俱名智遍知。云何斷遍知。答諸貪永斷。瞋癡永斷。一切煩惱永斷。是謂斷遍知。問於所緣境能遍知故立遍知。名斷無所緣及遍知用何故名遍知。答斷是智果故亦名遍知。

> 経典にこう説かれている。「二つの遍知がある。すなわち、智遍知と断遍知である」と。さらには詳細に述べられている。問う。なぜこの論を造るのか。答える。経典の意義を広く解釈するためである。すなわち、経典に「二つの遍知がある。智遍知と断遍知である」と説かれているが、経典はこのように説くだけで、その意義を詳しく明かしていない。それがこの論の根本となるものである。経典が説かなかったことを、ここで全て説くべきである。さらに、先に「諸の取（と）を断知する」と説いたが、まだ断知の取の意義を分別していない。今、分別しようとして、この論を造るのである。 問う。何が智遍知か。答える。諸々の智・見・明・覚・現観、これを智遍知という。ここで諸々の名は、同じ一つの意義を示すものである。本論の主者が諸字の意義に善巧（じょうぎょう）を得ているので、種々の説き方をするのだ。すなわち、無知に対治するから「智」と名づけ、悪見に対治するから「見」と名づけ、無明に対治するから「明」と名づけ、邪覚に対治するから「覚」と名づけ、邪現観に対治するから「現観」と名づける。 問う。ここではどのような智などを智遍知と説くのか。ある人はこう説く。「無漏のみを説き、現観を説くからである。なぜなら、世俗智は現観と名づけられることはないからである」と。またある人はこう説く。「有漏・無漏の智などを合わせて智遍知と説くのである。なぜなら、諸法を遍知する場合、経典では世俗智を多く説くからである」と。問う。世俗智もまた現観と名づけられるのか。答える。明らかに了解し観察することが現観の意義である。世俗智の中にも、法を明らかに了解し観察できるものがあり、それもまた現観と名づけられる。無漏だけが現観の名を得るのではない。ゆえに城喩経ではこう説いている。「私は三菩提を証得していなかった時、生と縁じて老死があることを如実に現観した」と。三菩提を証得していなかった時には、すでに縁起を観察する真実の無漏智があり、それを現観と名づけることはできない。これによって、世俗智にもまた現観と名づけられるものがあることを知るべきである。 問う。どのような世俗智が智遍知とも名づけられるのか。答える。勝解作意と相応する世俗智を除いて、その他の聞・思・修によって自相・共相を観察する諸々の世俗智で、極めて明らかなものは、また現観と名づけられ、智遍知とも名づけられる。聞所成慧とは、例えば十八界の自相・共相などを観察することである。思所成慧とは、例えば持息念・四念住などである。修所成慧とは、例えば煖・頂・忍・世第一法などである。これらと無漏慧とを合わせて、ともに智遍知と名づける。 問う。何が断遍知か。答える。諸々の貪が永遠に断たれ、瞋・痴が永遠に断たれ、一切の煩悩が永遠に断たれること、これを断遍知という。問う。所縁の境を遍知できるから遍知の名が立てられるのである。断には所縁も遍知の働きもない。なぜ遍知と名づけられるのか。答える。断は智の果であるから、また遍知と名づけられるのである。

如阿羅漢。是解果故亦說名解。天眼天耳是通果故亦說名通。內六處等是業果故說名故業。此中亦爾。斷是智果亦名遍知。問修所斷斷是智果故。可說為遍知。見所斷斷既是忍果。云何名遍知。尊者僧伽筏蘇說曰。此是慧果故名遍知。謂遍知有二種。一慧為性。二智為性。彼不應作是說。契經但說有二遍知。一智遍知。二斷遍知。智遍知者智為自性。斷遍知者斷為自性。斷是智果故名遍知。未曾有處說慧遍知。遍知是智作用名故。脇尊者曰。應說此斷名捨遍知。棄捨生死得此斷故。尊者妙音作如是說。應說此斷名理遍知。見最勝法最勝義理。得此究竟最勝斷故。此二所說皆不了義。俱不釋斷名遍知故。尊者佛護作如是說。斷雖於境無遍知用。而約相說亦名遍知。如過去未來眼。雖不見色而約相說亦得名眼。耳乃至意諸心所等。應知亦然。此亦如是。斷是智相故名遍知。彼說非理。所以者何。此斷恒無遍知用故。有餘師說。忍所斷斷是世俗智果故亦名遍知。彼說非理。欲界乃至無所有處。是事可爾。有頂地中見所斷斷。如何可說世俗智果。世俗智於彼無永斷用故。又異生位用世俗道斷下八地見所斷時未名遍知。至見道位立遍知時無世俗智。如何說為世俗智果。復有說者。見所斷斷是無漏智。士用果故亦名遍知。謂無漏智為斷欲界第六無間道證一來果時。通得三界見所斷斷。欲界六品修所斷斷為一來果。用無漏智為斷。欲界第九無間道證不還果時。通得三界見所斷斷。及得欲界修所斷斷。為不還果。金剛喻定現在前時通得三界見修所斷斷。為阿羅漢果。是故彼斷亦名遍知。彼亦不應作如是說。見道六遍知應非遍知故。應作是說。忍是智眷屬。是智種族故亦名為智。斷是彼果故名遍知。如喬答摩種中生者名喬答摩。此亦應爾。問一身見斷亦名遍知。何緣乃說諸貪永斷。乃至一切煩惱永斷名斷遍知。答雖一結斷亦名遍知。然此中說圓滿遍知。一切結盡方名圓滿斷遍知故。

> 阿羅漢因為已經證得解脫的果位，所以也被稱為「解」。天眼、天耳是因為神通力的果報而生，所以也稱為「通」。內六處等是因為業力的果報而生，所以稱為「業」。這裡的情況也是這樣——斷除煩惱是智慧（智）的果報，所以也稱為「遍知」。 有人問：「修道所斷的煩惱，斷除之後是智慧的果報，所以可以稱為遍知。但見道所斷的煩惱，斷除時是『忍』的果報，怎麼也能稱為遍知呢？」 尊者僧伽筏蘇說：「這是慧的果報，所以稱為遍知。因為遍知有兩種：一種是以慧為本質，另一種是以智為本質。」 他不應該這樣說。因為經典中只說有兩種遍知：一是「智遍知」，二是「斷遍知」。智遍知是以智為自性，斷遍知是以斷為自性。斷是智的果報，所以稱為遍知。經典中從來沒有說過「慧遍知」，因為遍知是智的作用名稱。 脅尊者說：「應該說這種斷稱為『捨遍知』，因為捨棄了生死輪迴，獲得這種斷的緣故。」 尊者妙音說：「應該說這種斷稱為『理遍知』，因為見到最殊勝的法、最殊勝的義理，獲得這種究竟最殊勝的斷。」 這兩種說法都不是究竟義，因為都沒有真正解釋為什麼斷稱為遍知。 尊者佛護說：「斷雖然在境界上沒有遍知的作用，但從相狀上來說，也可以稱為遍知。就像過去、未來的眼睛雖然看不見色法，但從相狀上來說仍叫做眼睛。耳朵乃至意識、各種心所等，也應該這樣理解。這裡也是這樣，斷是智的相狀，所以稱為遍知。」 他的說法不合理。為什麼？因為這種斷始終沒有遍知的作用。 另有論師說：「見道所斷的斷，是世俗智的果報，所以也稱為遍知。」他的說法也不合理。因為欲界乃至無所有處，這樣說還可以。但非想非非想處（有頂地）中，見道所斷的煩惱斷除，怎麼能說是世俗智的果報呢？因為世俗智對那一地沒有永遠斷除煩惱的作用。而且凡夫在修行位時，用世俗道斷除下八地見道所斷煩惱時，還不稱為遍知；到了見道位建立遍知時，又沒有世俗智，怎麼能說是世俗智的果報呢？ 又有人說：「見道所斷的斷，是無漏智的士用果，所以也稱為遍知。也就是說，無漏智在斷除欲界第六品煩惱、證得一來果的時候，同時獲得三界見道所斷的斷。欲界六品修道所斷的斷，屬於一來果，也是用無漏智來斷除。在斷除欲界第九品煩惱、證得不還果的時候，同時獲得三界見道所斷的斷，以及欲界修道所斷的斷，屬於不還果。金剛喻定現前的時候，同時獲得三界見道、修道所斷的斷，屬於阿羅漢果。所以這些斷也稱為遍知。」 他也不應該這樣說。因為這樣的話，見道位的六種遍知就不應稱為遍知了。 應該這樣說：「忍是智的眷屬，是智的種族，所以也可以稱為智。斷是那智的果報，所以稱為遍知。就像喬答摩種族中出生的人，就稱為喬答摩一樣，這裡也是同樣的道理。」 問：單單斷除「身見」也可以稱為遍知，為什麼經中說「各種貪欲永遠斷除，乃至一切煩惱永遠斷除，才稱為斷遍知」呢？ 答：雖然斷除一個煩惱結也可以稱為遍知，但這裡說的是「圓滿的遍知」。必須一切煩惱完全斷盡，才稱為圓滿的斷遍知。

復次世尊。或時於智說遍知聲。或時於斷說遍知聲。於智說遍知聲者。如伽他說。

> また、世尊は、時に智慧について「遍知」という言葉を用い、時に断ち切ることについて「遍知」という言葉を用いました。智慧について「遍知」という言葉を用いた場合とは、例えば偈頌で説かれた通りです。

儒童賢寂靜能益諸世間有智能遍知貪愛生眾苦有智言應作不作不應言智者應遍知有言無作者

> 心の静かな賢者は、世の中のあらゆる人々を助けられる 智慧があれば、すべてを正しく見抜き、貪りの愛が多くの苦しみを生むと知る 賢い人は、やるべきことを語り、やるべきでないことは口にしない 賢者は、「言葉はあっても、実行の伴わない者」を見抜くべきだ

多求王因緣是此頌根本。謂昔有王名曰多求。稟性兇暴貪求無厭。劫奪國人所有財寶。於是臣佐議共退之。以其次弟紹繼王位。時多求王至國邊邑。編草作屨以自存活。如是多時。弟王忽憶。問諸臣曰。大兄何在。諸臣答言。聞在邊邑作屨自活。王聞憂惱作是思惟。兄既如是。我今何用居王位耶。即時召來封以一邑。人多附彼食便不供。如是更封二邑三邑乃至半國。猶故無厭。遂復興兵殺弟自立。時天帝釋知已念言。今此惡王不識恩義。我今應往誑而惱之。遂自化作婆羅門像。戴帽披苫執缾持杖。至彼王所作吉祥言。讚歎呪願在一面立。王言。梵志。從何所來。婆羅門言。從大海外。王言。海外有何事耶答言。我見有一國土。安隱豐樂多諸人眾。奇珍異寶充滿其國。王言。我力可得彼不。婆羅門言。往必可得。王復問言。誰相導引。答言。我能。王言。幾日當可進途。婆羅門言。却後七日。言已便去。時多求王招集兵眾。辦諸資具至第七日。嚴駕將行。覓婆羅門竟不能得。王遂憂惱作是念言。彼若來者當得大利。坐失彼故所期不獲遂入憂室煩冤而坐。舉國無人解其愁毒。時釋迦菩薩生彼國中大婆羅門村。少因緣故來至王都。聞如是事心生悲愍。謂諸臣曰。吾能解王心中愁結。諸臣歡喜引至王前。以吉祥言讚歎呪願在一面立。為王宣說義品伽他。

> 多求王の因縁は、この偈の根本である。昔、多求という名の王がいた。性質は凶暴で、貪り求めて飽くことがなく、国の人々の所有する財宝を奪い取った。そこで臣下たちは協議して彼を退け、その弟を王位に継がせた。その時、多求王は国の辺境の邑に至り、草を編んで草鞋を作り、自らの生計を立てた。こうして長い時間が過ぎた。 弟王はある時ふと思い出し、臣下に尋ねた。「兄はどこにいるのか」。臣下たちは答えた。「辺境の邑で草鞋を作り、自ら生計を立てていると聞いております」。王はこれを聞いて憂い悲しみ、こう思った。「兄がそのような境遇にあるのに、今私が王位に留まる必要がどこにあるだろうか」。すぐに兄を召し寄せ、一つの邑を封じた。 しかし、多くの人々が彼に従ったため、食料が足りなくなった。そこでさらに二邑、三邑と封じ、ついには国土の半分にまで及んだ。それでもなお満足せず、やがて兵を起こして弟を殺し、自ら王位に就いた。 この時、天帝釈はこれを知って考えた。「この悪王は恩義も知らない。今こそ行って彼を騙し、苦しめてやろう」。そこで自ら婆羅門の姿に変じ、帽子をかぶり、苫をまとい、瓶を持ち、杖を執って、その王のもとへ行った。吉祥の言葉で讃歎し、呪願を唱えて、片隅に立った。 王が言った。「梵志よ、どこから来たのか」。婆羅門は言った。「大海の彼方から来ました」。王が言った。「海の彼方には何があるのか」。答えていうには、「一つの国を見ました。安穏で豊かで楽しく、多くの人々が住み、珍しい宝が国中に満ちております」。王が言った。「我が力でそこを得ることができるか」。婆羅門は言った。「行けば必ず得られます」。王が再び尋ねた。「誰が導き手となるのか」。答えていうには、「私ができます」。王が言った。「幾日で出発できるか」。婆羅門は言った。「七日後です」。そう言って立ち去った。 その時、多求王は兵を集め、様々な物資を整えた。七日目に至り、車を整えて出発しようとしたが、婆羅門を探しても全く見つからなかった。王は憂い悩み、こう思った。「彼が来れば大いなる利益を得られただろうに。彼を失ったため、期待したものを得られなかった」。そして憂いの部屋に入り、煩悶のまま座した。国中の誰も彼の愁いの毒を解く者はなかった。 その時、釈迦菩薩はその国の中の大婆羅門の村に生まれており、少しの因縁によって王都に来ていた。この出来事を聞いて、心に悲愍を生じ、諸臣に言った。「私は国王の心の中の愁いの結び目を解くことができます」。諸臣は喜び、彼を王の前に引き連れて行った。吉祥の言葉で讃歎し、呪願を唱えて片隅に立ち、王のために『義品』の伽他を説いた。

趣求諸欲人常起於悕望所欲若稱遂心便大歡喜趣求諸欲人常起於悕望所欲若不遂惱壞如箭中

> 欲を求める人は、常に期待を抱くもの。 願いが叶えば、心は大いに喜ぶ。 欲を求める人は、常に期待を抱くもの。 願いが叶わなければ、矢に射抜かれたように苦しみ嘆く。

如是次第為王盡說彼義品中呵欲頌已。即時菩薩自離欲染。王聞遂解心中憂毒。即為菩薩而說初頌。儒童賢寂靜。乃至廣說。此頌義顯無勞分別。菩薩為王說第二頌。有智言應作。乃至廣說。此頌前半呵責帝釋。謂有智者說許他言必定應作。若不欲作便不應言。後半責王。謂有智者應當遍知若有發言而不作者欲相擾惱。然無實事。王何專直信彼虛言。誰當有能海外來者。誰復能往海彼岸耶。願王勿求分外之事。於斷說遍知聲者。如契經說。佛告苾芻。當為汝說所遍知法遍知自性能遍知者。所遍知法。謂五取蘊。遍知自性。謂貪永斷。瞋癡永斷。一切煩惱永斷。能遍知者。謂阿羅漢諸漏永盡。不執如來死後有等不應記法。此中所遍知法謂五取蘊者。問依何遍知而作是說。為智遍知。為斷遍知。設爾何失。若依智遍知說。則應說一切法為所遍知。何故但說五取蘊。是若依斷遍知說亦不應理。以五取蘊通二遍知。所遍知故不應但說依斷遍知。有作是說。此中但依智遍知說。問若爾則應說一切法為所遍知。何故但說五取蘊是。答如四諦中。但說苦諦為應遍知。彼釋所以即是此因。有餘師說。此中但依斷遍知說。問此五取蘊通二遍知。所遍知故不應但說依斷遍知而作是說。答如四諦中。但說滅諦是應作證。釋彼所以即是此因。此中復有一不共因。謂斷遍知唯於取蘊可得。非餘遍知自性。謂貪永斷瞋癡永斷一切煩惱永斷者。問餘契經說。一切行斷離滅名斷離滅界。一切行者。即是一切有漏之法。何故此中但說一切煩惱永斷名斷遍知。答彼經了義是無餘說。此不了義是有餘說。謂世尊說。煩惱為先諸有漏法皆永斷故。復次以諸煩惱難斷難破難可超越故偏說之。復次以諸煩惱多諸過患。迷失正理障礙涅槃及諸聖道。是故偏說。復次以諸煩惱是自性斷斷已不成就。餘有漏法非自性斷斷已猶成就。是故偏說煩惱永斷。復次以諸煩惱正與聖道展轉相違。餘有漏善無覆無記即不如是是故偏說。如燈與闇展轉相違。非器油炷。然燈生時正能破闇。亦令器熱油盡炷燋。如是聖道與諸煩惱互相違故。聖道現前正斷煩惱。亦令所餘有漏法斷。彼與煩惱同對治故能遍知者謂阿羅漢。乃至廣說。問有學亦是能遍知者。何故但說阿羅漢耶。答就勝說故。謂無學法於諸法中。最為殊勝。無學補特伽羅於諸補特伽羅中最為殊勝。是故偏說。復次學雖遍知未能遍斷。無學遍知亦能遍斷。是故偏說。復次此中但說斷遍知者。無學於此圓滿究竟。有學不爾。是故偏說。復次以遍斷故名斷遍知。有學不爾。是故不說。復次前說一切煩惱永斷名斷遍知。今說成就此遍知者唯阿羅漢。諸歸依佛者何所歸依乃至廣說。問何故作此論。答為於非所歸依處起歸依想者。顯示真實歸依處令捨彼歸此。如契經說。

> かくのごとく、順を追って王のために、その義品の中の欲を呵責する頌を説き終えたとき、菩薩はただちに自らの欲の染まりを離れた。王はこれを聞いて、心の中の憂いと苦しみを解いた。そこで菩薩のために最初の頌を説いた。「儒童は賢く寂静なり」と広く説くが如し。この頌の義は明らかで、わざわざ分別するまでもない。菩薩は王のために第二の頌を説いた。「智ある者は、作るべしと言うならば、作るべし」と広く説くが如し。この頌の前半は帝釈天を呵責するものである。すなわち、智ある者は、他に許した言葉は必ず行うべきであると言う。もし行いたくないのなら、言うべきではないのである。後半は王を責めるものである。すなわち、智ある者は、広く知るべきである。もし発言しておきながら行わないなら、それは相手を悩まそうとするものである。しかし実際の事はないのに、王はなぜひたすらその虚ろな言葉を信じるのか。誰が海外から来る者があろうか。誰が海の彼岸に行くことができるであろうか。願わくば王よ、分を超えたことを求めるなかれ。「断つ」について「遍知」と言うことについては、経典に説くところの如くである。仏は苾芻たちに告げられた。「汝らのために、遍知されるべき法と、遍知の自性と、遍知する者とを説こう」と。遍知されるべき法とは、すなわち五取蘊である。遍知の自性とは、すなわち貪りの永断、瞋りと愚かさの永断、一切の煩悩の永断である。遍知する者とは、すなわち阿羅漢であり、諸々の煩悩が永遠に尽きている者である。如来が死後にあるとかないとかいう、記すべきではない法を執着しない者である。この中で、遍知されるべき法とは五取蘊であると言うが、問う、どの遍知に依ってこのように説くのか。智遍知によるのか、断遍知によるのか。もしそうだとすれば、何の過失があるか。もし智遍知による説ならば、一切の法を所遍知と説くべきである。なぜ五取蘊のみを説くのか。もし断遍知による説ならば、これも理にかなわない。五取蘊は二つの遍知に通じるものであり、所遍知であるから、断遍知のみに依って説くべきではないからである。ある者はこのように説く。「ここではただ智遍知に依って説くのである」。問う、もしそうならば、一切の法を所遍知と説くべきである。なぜ五取蘊のみを説くのか。答える、四諦の中で、ただ苦諦のみを遍知されるべきと説くのと同じである。その理由を釈すれば、これがすなわちこの因である。他の師はこのように説く。「ここではただ断遍知に依って説くのである」。問う、この五取蘊は二つの遍知に通じるものであり、所遍知であるから、断遍知のみに依ってこのように説くべきではない。答える、四諦の中で、ただ滅諦のみを証すべきと説くのと同じである。その理由を釈すれば、これがすなわちこの因である。ここにはさらに一つの共通しない因がある。すなわち、断遍知はただ取蘊においてのみ得られるのであって、他のものではないからである。遍知の自性とは、貪りの永断、瞋りと愚かさの永断、一切の煩悩の永断であると言うが、問う、他の経典には「一切の行の断、離、滅を断界、離界、滅界と名づける」と説く。一切の行とは、すなわち一切の有漏の法である。なぜここではただ一切の煩悩の永断のみを断遍知と説くのか。答える、かの経は了義であり、余りのない説である。これは不了義であり、余りのある説である。すなわち、世尊は「煩悩を先として、諸々の有漏の法はすべて永断される」と説かれたからである。また、諸々の煩悩は断じ難く、破り難く、超越し難いがゆえに、特に説かれるのである。また、諸々の煩悩は多くの過失と患いを持ち、正しい理を失わせ、涅槃と諸々の聖道を妨げるがゆえに、特に説かれるのである。また、諸々の煩悩は自性の断であり、断じた後に成就しない。他の有漏の法は自性の断ではなく、断じた後もなお成就する。ゆえに特に煩悩の永断を説くのである。また、諸々の煩悩は正に聖道と相互に相違する。他の有漏の善や無覆無記はそのようではない。ゆえに特に説くのである。例えば灯と闇が相互に相違するように、器や油や燈芯がそうであるのではない。灯が生じるとき、正に闇を破る。また器を熱くし、油を尽き、燈芯を焦がす。このように聖道は諸々の煩悩と相互に相違するがゆえに、聖道が現前するとき、正に煩悩を断じる。また残りの有漏の法をも断じさせる。それらは煩悩と同じ対治法を持つからである。遍知する者とは、すなわち阿羅漢であり、広く説くが如くである。問う、有学もまた遍知する者である。なぜただ阿羅漢のみを説くのか。答える、殊勝なるものに就いて説くからである。すなわち、無学法は諸々の法の中で最も殊勝である。無学の補特伽羅は諸々の補特伽羅の中で最も殊勝である。ゆえに特に説くのである。また、有学は遍知しても遍断することはできない。無学は遍知し、また遍断することができる。ゆえに特に説くのである。また、ここではただ断遍知のみを説くのであるが、無学はこれにおいて円満究竟であり、有学はそうではない。ゆえに特に説くのである。また、遍断するがゆえに断遍知と名づける。有学はそうではない。ゆえに説かないのである。また、前に「一切の煩悩の永断を断遍知と名づける」と説いた。今、この遍知を成就する者はただ阿羅漢のみであると説く。仏に帰依する者は何に帰依するのか、広く説くが如くである。問う、なぜこの論を作るのか。答える、帰依すべきでない所に帰依の想を起こす者のために、真実の帰依処を示して、彼らにその誤りを捨ててこれに帰依させるためである。経典に説くところの如くである。

眾人怖所逼多歸依諸山園苑及叢林孤樹制多等此歸依非勝此歸依非尊不因此歸依能解脫眾苦諸有歸依佛及歸依法僧於四聖諦中恒以慧觀察知苦知苦集知永超眾苦知八支聖道趣安隱涅槃此歸依最勝此歸依最尊必因此歸依能解脫眾苦

> 眾人因恐怖而害怕，紛紛歸依山岳、園林、樹木和神廟。這樣的歸依不是最好的，也不是最尊貴的，不能因為這種歸依而解脫所有的苦。那些歸依佛、法、僧的人，常以智慧觀察四聖諦，知道苦、知道苦的原因，知道永遠超越苦的方法，知道八正道通往安穩的涅槃。這樣的歸依是最殊勝的，是最尊貴的，必定能因為這種歸依而解脫所有的苦。

復次。為於歸依有愚惑者。令得正解無猶豫故。謂或有謂。歸依佛者。歸依如來頭項腹背。及手足等所合成身。今顯此身父母生長是有漏法非所歸依。所歸依者謂佛無學成菩提法即是法身。或復有謂。歸依法者歸依三諦。或善不善無記等法。或為苾芻所制學處。謂此應作不應作等。今顯此法。有為有漏非所歸依。所歸依者。謂唯滅諦愛盡涅槃。或復有謂。歸依僧者。歸依四姓出家之僧。今顯此僧威儀形相。皆是有漏非所歸依。所歸依者。謂成僧伽學無學法。由此因緣故作斯論。諸歸依佛者。何所歸依。答若法實有現有想等想施設言說。名為佛陀歸依彼所有無學成菩提法名歸依佛。此中若法實有者。顯實有佛體以法為自性。此言為遮。或有謂。佛但名但想但假施設無有實體。現有者。顯佛體如現實有非曾有。等想者顯緣佛想等。想者顯此想一切共起。施設者謂依想施設名。言說者謂依名言說轉。問若彼無學成菩提法是真佛者。契經所說當云何通。如說。長者何名為佛。謂有釋子剃除鬚髮披服袈裟正信出家。具一切智是名為佛。答以所依身顯能依法。故作是說於理無違。問若爾惡心出佛身血。何故彼得無間罪耶。答壞所依身。令能依法亦隨壞故。得無間罪。復次彼緣無學成菩提法。起惡心故得無間罪。謂彼憎惡無學法故損害佛身得無間罪。非但起心欲出身血。諸歸依法者何所歸依。答若法實有現有想等想施設言說。名為達磨歸依。如是愛盡離滅涅槃。名歸依法。此中若法實有者。顯實有涅槃。此言為遮有作是說。唯眾苦滅說名涅槃非實有體。欲顯涅槃實有自體故作是說。現有者。顯涅槃如現實有非假說有。餘如前釋。有本但言。歸依愛盡離滅涅槃名歸依法。不說實有現有等言。斯有何義。謂涅槃體寂滅離相。想名言說所不及故。無有於中執為非有。此不應理。邪見撥無寂滅涅槃現可得故。此但應說。誦者遺忘。諸歸依僧者何所歸依。答若法實有現有想等想施設言說。名為僧伽歸依。彼所有學無學成僧伽法。名歸依僧。此中若法實有者。顯實有僧體以法為自性。此言為遮或有謂。僧但名但想但假施設無有實體。現有者。顯僧體如現實有非曾有等。餘如前釋。問何者所歸依。何者能歸依。歸依是何義。答所歸依者。謂滅諦全道諦少分。謂除菩薩二無漏道。及除獨覺三無漏道。所餘道諦是所歸依。能歸依者。有說。是名等。有說。是語業。有說。亦身業。有說。是信。應作是說。是身語業及能起彼心心所法。并諸隨行如是善五蘊是能歸依體。歸依義者。謂救護義。是歸依義問若救護義是歸依義。天授亦曾歸依三寶。云何復墮無間地獄。答諸有歸依佛法僧寶。不破學處。不犯律儀。不越法則。便能救護。彼破學處。毀犯律儀。違越法則。雖歸依三寶而不為救護。譬如有人怖畏怨敵。依投國王請為救護。王謂之曰汝若常能不違我法不越我界。我能為汝常作救護。若違我法越我界者。我則不能。眾生亦爾。怖畏惡趣及生死苦。歸佛法僧若不毀戒。勤修道者便為救護。餘則不爾復次隨歸依心上中下品。還蒙三寶爾所救護是故天授唯除地獄人趣一生。於餘惡趣善趣生死得非擇滅。豈非三寶救護彼耶。故救護義是歸依義。問歸依佛者為歸依一佛。為一切佛耶。設爾何失。若歸依一佛者。如何不是少分歸依。若歸依一切佛者。如何但言我歸依佛。不言一切。契經所說復云何通。如說。我是勝觀如來弟子。我是頂髻如來弟子。乃至我是能寂如來弟子。答應作是說。歸依佛者。歸依一切過殑伽沙數量諸佛。問若爾何故但言我歸依佛。不言一切。答佛言總攝一切如來。種類同故以一言說問契經所說復云何通。如說。我是勝觀弟子。乃至廣說。答。隨依彼佛出家見諦。即說我為彼佛弟子。此說依止不說歸依。問歸依法者。為歸依自相續諸蘊滅。為歸依他相續諸蘊滅。為歸依無情數諸蘊滅耶。設爾何失。若但歸依自相續諸蘊滅者。如何不是少分歸依。若亦歸依他相續等諸蘊滅者。如何但言我歸依法。不言一切。又如何說救護義是歸依義。他相續等諸蘊滅。於我無救護義故。答應作是說。歸依自他相續及無情數一切蘊滅。問若爾何故但言我歸依法。不言一切。答法言總攝一切法滅。種類同故以一言說。問他相續等諸蘊滅於我無救護義。何為歸依。答彼雖於我無救護義。而彼於他有救護義。救護相等。故亦歸依此依得說。

> さらに、帰依について愚かに惑う者のために、正しい理解を得て猶豫（ためらい）がなくなるようにするためである。ある者はこう言うかもしれない。「仏に帰依するとは、如來の頭・項・腹・背、および手足などによって合成された身體に帰依することだ」と。ここでは、この身體は父母から生まれ成長したものであり、有漏（煩惱に染まった）の法であって、歸依すべきものではないことを明らかにする。帰依すべきものとは、仏の無學（學ぶべきことが盡きた狀態）の成菩提法、すなわち法身である。あるいはまた、こう言う者もある。「法に帰依するとは、三諦（苦諦・集諦・道諦）や、善・不善・無記などの法に帰依することだ。あるいは、比丘のために制定された學處（戒律）に帰依することだ。すなわち、これは行うべきであり、行うべきではないなどと」と。ここでは、これらの法は有為・有漏であって、帰依すべきものではないことを明らかにする。帰依すべきものとは、ただ滅諦、すなわち愛（渇愛）が盡きた涅槃のみである。あるいはまた、こう言う者もある。「僧に帰依するとは、四姓（四つのカースト）から出家した僧伽に帰依することだ」と。ここでは、この僧伽の威儀や形相はすべて有漏であって、帰依すべきものではないことを明らかにする。帰依すべきものとは、僧伽を構成する學法（學ぶべき法）と無學法（學ぶべきが盡きた法）である。このような理由から、この論が作られたのである。 諸々の仏に帰依する者は、何に帰依するのか。答え：もし法が実有であり、現有し、想・等想・施設・言説によって「仏陀」と名付けられるならば、その者の所有する無學の成菩提法に帰依することを「仏に帰依する」と名付ける。ここで「法が実有である」とは、仏の體が実に存在し、法を自性としていることを示す。この言葉は、ある者が「仏はただ名のみであり、ただ想のみであり、ただ仮に施設されたものであって、実體はない」と言うことを防ぐためである。「現有」とは、仏の體が実際に現在存在するものであり、かつて存在しなかったものではないことを示す。「等想」とは、仏を縁（よりどころ）とする想が等しく生じることを示す。「想」とは、この想がすべてのものに共通して生じることを示す。「施設」とは、想に基づいて名を施設することを示す。「言説」とは、名と言説に基づいて轉（はたら）くことを示す。 問う：もし無學の成菩提法が真の仏であるならば、経典に説かれるところはどのように通じるのか。例えば次のように說く。「長者よ、何をもって仏と名付けるか。すなわち、釈氏の子が鬚髪を剃り、袈裟を著け、正しい信仰によって出家し、一切智を具えていることを仏と名付ける」と。答え：所依の身體によって能依の法を示すので、このように說いても道理に違わない。問う：もしそうであるならば、悪心をもって仏の身體から血を出した者は、なぜ無間罪（無間地獄に墮ちる罪）を得るのか。答え：所依の身體を損なうことで、能依の法もまた損なわれるからである。それゆえに無間罪を得る。さらに、その者は無學の成菩提法を縁として悪心を起こすからである。すなわち、その者は無學の法を憎み嫌うことで仏の身體を損ない、無間罪を得るのである。ただ心を起こして血を出そうとしただけではない。 諸々の法に帰依する者は、何に帰依するのか。答え：もし法が実有であり、現有し、想・等想・施設・言説によって「達磨（法）」と名付けられるならば、このような愛盡・離・滅・涅槃に帰依することを「法に帰依する」と名付ける。ここで「法が実有である」とは、涅槃が実に存在することを示す。この言葉は、ある者が「ただ衆苦が滅することだけを涅槃と名付け、実體はない」と言うことを防ぐためである。涅槃が実に自體を有することを示そうとして、このように說くのである。「現有」とは、涅槃が実際に現在存在するものであり、仮に說かれた存在ではないことを示す。その他は前述の通りである。ある版本ではただ「愛盡・離・滅・涅槃に帰依することを法に帰依すると名付ける」とだけ說き、「実有」「現有」などの言葉を說かない。これにはどのような意味があるのか。涅槃の體は寂滅であり、離相であり、想・名・言説の及ぶところではないからである。その中で「非有である」と執著する者はない。しかしこれは理にかなわない。邪見が寂滅涅槃を否定しても、涅槃は現に得られるからである。これはただ、誦者が遺忘したと說くべきである。 諸々の僧に帰依する者は、何に帰依するのか。答え：もし法が実有であり、現有し、想・等想・施設・言説によって「僧伽」と名付けられるならば、その者の所有する學法・無學法によって僧伽を構成する法に帰依することを「僧に帰依する」と名付ける。ここで「法が実有である」とは、僧の體が実に存在し、法を自性としていることを示す。この言葉は、ある者が「僧はただ名のみであり、ただ想のみであり、ただ仮に施設されたものであって、実體はない」と言うことを防ぐためである。「現有」とは、僧の體が実際に現在存在するものであり、かつて存在しなかったものではないことを示す。その他は前述の通りである。 問う：何が所帰依（帰依されるもの）であり、何が能帰依（帰依するもの）であるのか。帰依とは何を意味するのか。答え：所帰依とは、滅諦の全体と道諦の少分である。すなわち、菩薩の二つの無漏道と、独覚の三つの無漏道を除いた、残りの道諦が所帰依である。能帰依とは、ある者は「名などである」と說く。ある者は「語業である」と說く。ある者は「身業もまたそうである」と說く。ある者は「信である」と說く。このように說くべきである。「身業・語業、およびそれらを起こす心・心所法、ならびにそれに隨行する善の五蘊が能帰依の體である」と。帰依の意味とは、救護（救い守る）の意味である。これが帰依の意味である。 問う：もし救護の意味が帰依の意味であるならば、天授（デーヴァダッタ）もかつて三宝に帰依したことがある。なぜ再び無間地獄に墮ちたのか。答え：諸々の三宝に帰依した者が、學處を破らず、律儀を犯さず、法則を越えなければ、そのときに救護を得ることができる。彼（天授）は學處を破り、律儀を毀り、法則に違反したので、三宝に帰依したけれども救護されなかった。例えば、ある人が怨敵を怖れて、王に依投して救護を請うたとする。王は彼に言う。「もし汝が常に我が法に違わず、我が界を越えなければ、我は汝のために常に救護を施そう。もし我が法に違反し、我が界を越えるならば、我はそれができない」と。衆生もまた同じである。悪趣および生死の苦を怖れて仏法僧に帰依しても、戒を毀らず、勤めて道を修める者があれば、そのときに救護される。その他の者はそうではない。さらに、帰依の心の上・中・下の品に隨って、三宝のそのほどの救護を受けるのである。それゆえに、天授は地獄・人趣・一生を除いて、その他の悪趣・善趣の生死において非擇滅（擇によって得られるのではない滅）を得た。これは三宝が彼を救護したのではないか。だから、救護の意味が帰依の意味なのである。 問う：仏に帰依する者は、一仏に帰依するのか、それとも一切の仏に帰依するのか。もし一仏に帰依するとすれば、どうして少分の帰依ではないのか。もし一切の仏に帰依するとすれば、どうしてただ「我は仏に帰依する」と言って、「一切」と言わないのか。経典に說かれるところも、どのように通じるのか。例えば次のように說く。「我は勝觀如來の弟子である」「我は頂髻如來の弟子である」と。乃至「我は能寂如來の弟子である」と。答え：このように說くべきである。「仏に帰依する者は、ガンジス川の砂の數を超えるほどのすべての諸仏に帰依するのである」と。問う：もしそうであるならば、なぜただ「我は仏に帰依する」と言って、「一切」と言わないのか。答え：「仏」という言葉は一切の如來を總攝する。種類が同じであるから、一言で說うのである。問う：経典に說かれるところは、どのように通じるのか。例えば「我は勝觀の弟子である」と說き、乃至廣說する。答え：その仏に隨って出家し、見諦（真理を見る）したならば、「我はその仏の弟子である」と說うのである。これは依止（よりどころ）を說うのであり、帰依を說うのではない。 問う：法に帰依する者は、自己の相續（心身の連續）の諸蘊の滅に帰依するのか、他者の相續の諸蘊の滅に帰依するのか、無情數（生命のないもの）の諸蘊の滅に帰依するのか。もしただ自己の相續の諸蘊の滅に帰依するならば、どうして少分の帰依ではないのか。もし他者の相續などの諸蘊の滅にも帰依するならば、どうしてただ「我は法に帰依する」と言って、「一切」と言わないのか。また、どうして救護の意味が帰依の意味であると言えるのか。他者の相續などの諸蘊の滅は、我にとって救護の意味がないからである。答え：このように說くべきである。「自己と他者の相續、および無情數の一切の蘊の滅に帰依するのである」と。問う：もしそうであるならば、なぜただ「我は法に帰依する」と言って、「一切」と言わないのか。答え：「法」という言葉は一切の法の滅を總攝する。種類が同じであるから、一言で說うのである。問う：他者の相續などの諸蘊の滅は、我にとって救護の意味がないのに、なぜ帰依するのか。答え：それらは我にとって救護の意味はないけれども、他者にとっては救護の意味がある。救護の相等しいから、それゆえにまた帰依するのである。これは得（獲得）に基づいて說うのである。

若依自性隨有漏法有爾所故。自他所得滅無有異。我於一切有漏蘊中得離繫故。一切滅於我皆有救護義。問歸依僧者。為歸依一佛弟子。為歸依一切佛弟子耶。設爾何失。若但歸依一佛弟子者。如何不是少分歸依。若歸依一切佛弟子者。如何但言我歸依僧。不言一切。又契經說當云何通。佛告賈客。當來世有僧。汝亦當歸依。答應說歸依一切佛弟子。問若爾何故但言我歸依僧。不言一切。答僧言總攝諸佛弟子。種類同故以一言說。問契經所說。復云何通。佛告賈客。乃至廣說。答過去現在雖亦有餘如來弟子而非現見。當來僧現見是故偏說。解憍陳那等世現見故。復次為顯僧寶極難得故。謂佛雖出世間而僧猶未有故。復次未來世僧非現見。故佛偏說有令賈客等生渴仰故。復次現在過去雖有餘僧。而佛欲顯未來世中自有弟子。故作是說。復次經說亦言。即顯亦有餘佛弟子令彼歸依。恐彼謂無未來僧寶故佛為說令亦歸依。問何趣何處有此歸依。答歸依有二種。一與律儀俱。二不與律儀俱。與律儀俱者。唯在人趣三洲非餘。不與律儀俱者通餘趣處。問若不受歸依而受律儀。彼得律儀不。有說不得。以受律儀者必依三歸。以三歸為門得律儀故。有說亦得。謂若不知三歸律儀受之先後。或復忘誤。不受三歸者受得律儀。而授者得罪。若有憍慢不受三歸但受律儀。彼必不得。問為要自起語表受歸依者乃得歸依。為他語表受歸依者亦得歸依。有作是說。要自語表受歸依者乃得歸依。問若爾契經所說當云何通。謂薄伽梵臨涅槃時。阿難白佛。拘尸城中有諸力士及其眷屬。皆共歸依佛法僧寶。有作是說。佛神力故臨涅槃時。寄他語表受三歸者亦得歸依。餘時不得。要須自受。有餘師說。尊者阿難先入拘尸城。為諸力士等受三歸已。後方白佛。欲顯世尊臨般涅槃猶有無量受化弟子。故作是說。非由今時。阿難白佛。方得歸依。復有說者。由他語表受三歸者亦得歸依。如迦尸迦女及餘啞者等。寄他語表得歸依故。

> ここで、自性に随って有漏の法が有る限りの数があるならば、自己と他者の得る滅には違いがない。私は一切の有漏の蘊の中において離繋を得るからである。一切の滅は、私にとって全て救護の義を有する。 問う：帰依僧とは、一人の仏弟子に帰依することか、それとも全ての仏弟子に帰依することか。 もしそうであるなら、何が失われるのか。もしただ一人の仏弟子にのみ帰依するならば、どうして少分の帰依ではないと言えるのか。もし全ての仏弟子に帰依するならば、どうしてただ「我は僧に帰依す」と言い、全ての者を言わないのか。また、契経に説かれるところは、どうして通ずるのか。仏は賈客に告げた。「未来の世に僧が有るであろう。汝もまた帰依すべきである」と。 答える：一切の仏弟子に帰依すると説くべきである。 問う：もしそうならば、なぜただ「我は僧に帰依す」と言い、全ての者を言わないのか。 答える：「僧」という言葉は、諸々の仏弟子を総括して言うのである。種類が同じであるから、一言をもって説くのである。 問う：契経に説かれるところは、またどうして通ずるのか。仏は賈客に告げた。乃至広説の如くであると。 答える：過去や現在にも、たとえ他の如来の弟子がいるとしても、現に見られるものではない。未来の僧は現に見られるものであるから、特に説かれるのである。憍陳那らの者は、世に現に見られるからである。 また、僧宝は極めて得難いことを顕すためである。すなわち、仏が世間に出現しても、僧はまだいないことがあるからである。 また、未来の世の僧は現に見られるものではない。だから仏は特に説いて、賈客らに渇仰の心を生じさせるのである。 また、現在や過去にも他の僧がいるけれども、仏は未来の世に自らの弟子が有ることを顕そうとして、このように説くのである。 また、経に「亦」と言うのは、すなわち他の仏弟子も有って、彼らを帰依させることを顕すのである。彼らが未来の僧宝は無いであろうと思うことを恐れて、仏が説いて彼らにも帰依させるのである。 問う：どの趣、どの処にこの帰依が有るのか。 答える：帰依には二種ある。一つは律儀と共に有るもの、二つは律儀と共に無いものである。律儀と共に有るものは、ただ人趣の三洲にのみ有って、他の所には無い。律儀と共に無いものは、他の趣や処にも通ずる。 問う：もし帰依を受けないで律儀を受けるならば、その者は律儀を得るか。 ある説では、得ないと言う。律儀を受ける者は必ず三帰に依るからである。三帰を門として律儀を得るからである。 ある説では、また得ると言う。もし三帰と律儀の受け方の先後を知らない者や、あるいは忘れたり誤ったりした者が、三帰を受けないで律儀を受けたならば、律儀を得る。しかし授ける者は罪を得る。もし驕慢の心があって三帰を受けないでただ律儀を受けるならば、その者は必ず得ない。 問う：自ら言葉の表業を起こして帰依を受けるならば帰依を得るのか、それとも他人の言葉の表業によって帰依を受けるならば帰依を得るのか。 ある説では、自ら言葉の表業によって帰依を受けるならば、はじめて帰依を得ると言う。 問う：もしそうならば、契経に説かれるところは、どうして通ずるのか。すなわち、薄伽梵が涅槃に入ろうとする時、阿難が仏に白して言う。「拘尸城の中に諸々の力士とその眷属がいて、皆共に仏法僧宝に帰依します」と。 ある説では、仏の神通力によって、涅槃の時に他人の言葉の表業に寄って三帰を受ける者も帰依を得ると言う。他の時には得ない。必ず自ら受けることを要するのである。 他の師は説く。尊者阿難が先に拘尸城に入って、諸々の力士らのために三帰を受けた後、後に仏に白したのである。世尊が般涅槃に臨んでもなお無量の教化を受ける弟子が有ることを顕そうとして、このように説くのである。今の時に阿難が仏に白して、はじめて帰依を得るのではない。 また、ある者は説く。他人の言葉の表業によって三帰を受ける者も帰依を得る。例えば迦尸迦女や他の唖者などのように、他人の言葉の表業に寄って帰依を得るからである。

問有在母胎。或嬰孩位。母等為受三歸律儀。彼為得不。答彼無心故。雖俱不得然應為受。令彼後時順修善故。謂彼長大若毀三寶。或造惡業。他便責言。汝在胎中或嬰孩位。先既已受三歸律儀。如何今時。輕毀三寶造諸惡業。彼聞慚愧。敬重三寶離諸惡業。復更受持。有此益故先應為受復次為令天神擁護彼。故母等為受三歸律儀。謂為受已信敬三寶。諸天善神必擁護彼。不令橫死不遭病難。問彼前生中修何善業。今在母腹或嬰孩位。他便為受三歸律儀。答彼前生中。恒樂讚歎三歸淨戒。亦勸無量百千有情。歸依三寶及受淨戒。或復施他受持三歸律儀資具。令身獲得如是善利。如契經說。歸依佛者。不墮惡趣生天人中。受諸快樂。問現見世間歸依佛者。亦墮惡趣或受眾苦。何故世尊作如是說。答若增上心不顧身命。歸依佛者得此善利。不說一切故不相違。有餘師說。此依已得證淨者說。不說一切。問佛依法生。法勝於佛。何故先說歸依佛耶。答佛為教主。若佛不說法不顯現。故先歸佛。復次如有病者。先訪良醫。次求妙藥。後覓看者。佛如良醫。法如妙藥。僧如善巧看服藥人。故三歸依如是次第。

> 問う：母の胎内にあるか、あるいは赤ん坊の時期にある者がいる。母などがその者のために三帰依の律儀を受けさせる。その者はそれを得るか。 答える：その者には心がないからである。ともに得ないけれども、それでもなお受けるべきである。彼が後に善を順じて修めるための所以である。すなわち、彼が成長した後、もし三宝を毀るか、あるいは悪業を造るならば、他の者が彼を責めて言うだろう、「汝は胎内にあるか、あるいは赤ん坊の時期に、先にすでに三帰依の律儀を受けた。どうして今、軽んじて三宝を毀り、諸々の悪業を造るのか」と。彼は聞いて慚愧し、三宝を敬重し、諸々の悪業を離れ、さらには再び受持するであろう。この利益があるがゆえに、先に受けるべきなのである。 さらにまた、天の神々に彼を擁護させるがゆえに、母などがその者のために三帰依の律儀を受けさせるのである。すなわち、受けた後には三宝を信敬するゆえ、諸々の天や善神は必ず彼を擁護し、横死させず、病難に遭わせないのである。 問う：その者は前世において、どのような善業を修めたのか。今、母の胎内にあるか、あるいは赤ん坊の時期に、他の者がその者のために三帰依の律儀を受けさせるのか。 答える：その者は前世において、常に三帰依と浄戒とを喜んで讃嘆し、また無量百千の有情を勧めて、三宝に帰依させ、浄戒を受けさせたのである。あるいはまた、他の者に三帰依の律儀を受持するための資具を施し、身にこのような善利を得させたのである。 契経に説くがごとし、仏に帰依する者は、悪趣に堕ちず、天や人の中に生まれて、諸々の楽を受ける、と。 問う：現に見るに、世間には仏に帰依しながらも、なお悪趣に堕ちるか、あるいは衆苦を受ける者がある。どうして世尊はこのように説かれたのか。 答える：もし増上心をもって、身命を顧みず、仏に帰依する者は、この善利を得る。一切について説くのではないから、相違しないのである。 他の師は説く、「これは已に証浄を得た者について説くのであって、一切について説くのではない」と。 問う：仏は法によって生じ、法は仏より勝れる。どうして先に仏に帰依すると説くのか。 答える：仏は教えの主である。もし仏が説かなければ、法は顕現しない。ゆえに先に仏に帰依するのである。 さらにまた、病める者がいて、まず良医を訪ね、次に妙薬を求め、後に看病する者を探すようなものである。仏は良医のごとく、法は妙薬のごとく、僧は巧みに薬を服用させる者を看病する人のごとくである。ゆえに三帰依はこのような次第なのである。