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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 1"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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### 雜蘊第一中無慚愧納息第五之一

> 第五品之一：無慚愧品（第一部分）

云何無慚。云何無愧。如是等章及解章義既領會已。次應廣釋。問何故作此論。答為廣分別契經義故。謂契經說。無慚無愧。雖作是說而不廣辨。云何無慚云何無愧。經是此論所依根本。彼所不分別者今應廣分別之。復次為令疑者得決定故。謂此二法展轉相似。世間有情。見無慚者言是無愧。見無愧者言是無慚。勿謂此二其體是一。今欲顯示性相差別。令彼疑者得決定解。復次如是二法唯是不善。亦是施設不善勝因。如說。何纏相應心品一向是不善。謂無慚無愧。今顯其相令速厭斷。復次如是二法破壞世間。如世尊說。有二黑法能破壞世間。謂無慚無愧。今顯其相令速厭斷。

> 無慚とは何か。無愧とは何か。このような章句とその意味を理解したならば、次に詳しく解釈すべきである。 問う：なぜこの論を作るのか。 答える：契経の意味を広く分別するためである。すなわち、契経には「無慚無愧」と説かれているが、その詳細は明らかにされていない。無慚とは何か、無愧とは何か。経典はこの論の根本となるものであり、そこでは分別されていない部分を、今ここで詳しく分別しようとするのである。 また、疑いを抱く者に確かな理解を得させるためである。この二つの法は互いに似通っているため、世間の人々は無慚を見て無愧と言い、無愧を見て無慚と言うことがある。これら二つが同一のものであると誤解されないよう、その本質と相の違いを示し、疑いを抱く者に確かな理解を得させようとするのである。 さらに、この二つの法は不善であり、不善を生じさせる主要な原因でもある。例えば、「どのような煩悩が相応する心品が常に不善であるか」と言えば、それは無慚と無愧である。その相を明らかにし、速やかに厭離し断じることを促すためである。 また、この二つの法は世間を破壊するものである。世尊は、「世間を破壊する二つの黒い法がある。それは無慚と無愧である」と説かれている。その相を明らかにし、速やかに厭離し断じることを促すためである。

復次如是二法能令眾生種種差別。如契經說。世間若無無慚無愧。無猪犬等種種差別。今顯其相令速厭斷故作斯論。云何無慚。答諸無慚。無所慚無異慚。無羞無所羞無異羞。無敬無敬性。無自在無自在性。於自在者無怖畏轉是謂無慚。此本論主於異名義得善巧故作種種說。文雖差別而體無異。問此中所說差別名言。為顯自性。為顯行相為顯所緣。有作是說。此顯無慚自性。問若爾無慚行相云何。答如諸不善心心所法行相。此行相亦爾。所以者何。彼相應故。問無慚所緣云何。答四聖諦。有餘師說。此顯無慚行相。此行相對餘應作四句。有無慚非無慚行相轉。謂無慚作餘行相轉。有無慚行相轉非無慚。謂無慚相應法。作無慚行相轉。有無慚亦無慚行相轉。謂無慚作無慚行相轉。有非無慚亦非無慚行相轉。謂若取此種類應說無慚相應法作餘行相轉。若不爾者應說除前相。如說轉有四句。已轉當轉應知亦爾。如無慚行相有三四句諸餘行相應知亦爾。問若爾無慚自性云何。答自體自相即彼自性。如說諸法自性即是諸法自相。同類性是共相。問無慚所緣云何。答四聖諦。復有說者。此顯無慚所緣。謂諸無慚無所慚無異慚無羞無所羞無異羞者。說緣苦集諦。無敬無敬性無自在無自在性於自在者無怖畏轉者。說緣滅道諦自性行相皆如前說。云何無愧。答諸無愧無所愧無異愧無恥無所恥無異恥。於諸罪中不怖不畏不見怖畏是謂無愧。此本論主於異名義得善巧故作種種說。文雖差別而體無異。問此中所說差別名言為顯自性。為顯行相。為顯所緣。有作是說。此顯無愧自性問若爾無愧行相云何。答如諸不善心心所法行相。此行相亦爾。所以者何。彼相應故。問無愧所緣云何。答四聖諦。有餘師說。此顯無愧行相。此行相對餘應作四句。有無愧非無愧行相轉。謂無愧作餘行相轉。有無愧行相轉非無愧。謂無愧相應法作無愧行相轉。有無愧亦無愧行相轉。謂無愧作無愧行相轉。有非無愧亦非無愧行相轉。謂若取此種類。應說無愧相應法作餘行相轉。若不爾者應說除前相。如說轉有四句。已轉當轉應知亦爾。如無愧行相有三四句。諸餘行相應知亦爾。問若爾無愧自性云何。答自體自相即彼自性。如說諸法自性即是諸法自相同類性是共相。問無愧所緣云何。答四聖諦。復有說者。此顯無愧所緣。謂諸無愧無所愧無異愧無恥無所恥。無異恥者說緣滅道諦。於諸罪中不怖不畏不見怖畏者說緣苦集諦。自性行相皆如前說。無慚無愧有何差別。答於自在者無怖畏轉是無慚。於諸罪中不見怖畏是無愧。如是差別。問何故復作此論。答阿毘達磨說。此二法展轉相應其相相似。今欲分別無慚無愧性相差別故作此論。謂於自在者無怖畏轉是無慚。於諸罪中不見怖畏是無愧。復次不恭敬是無慚。不怖畏是無愧。復次不厭賤煩惱是無慚。不厭賤惡行是無愧。復次作惡不自顧是無慚。作惡不顧他是無愧。復次作惡不自羞是無慚。作惡不恥他是無愧。復次作惡不羞恥是無慚。作惡而傲逸是無愧。復次獨一造罪而不羞恥是無慚。對他造罪而不羞恥是無愧。復次若對少人造罪而不羞恥是無慚。若對眾人造罪而不羞恥是無愧。復次若對惡趣有情造罪而不羞恥是無慚。若對善趣有情造罪而不羞恥是無愧。復次若對愚者造罪而不羞恥是無慚。若對智者造罪而不羞恥是無愧。復次若對卑者造罪而不羞恥是無慚。若對尊者造罪而不羞恥是無愧。復次若對在家者造罪而不羞恥是無慚。若對出家者造罪而不羞恥是無愧。復次若對非親教軌範造罪而不羞恥是無慚。若對親教軌範造罪而不羞恥是無愧。復次若作惡時不羞天者是無慚。若作惡時不恥人者是無愧。復次於諸惡因不能訶毀是無慚。於諸惡果不能厭怖是無愧。復次貪等流是無慚。癡等流是無愧。是謂無慚無愧差別。如是二法唯欲界繫。唯是不善。一切不善心心所法皆遍相應唯除自性。問無慚無愧既唯不善過患深重。何故不立隨眠性中。答此二無有隨眠相故。謂微細煩惱是隨眠相。此二麁動故非隨眠。復次猛利煩惱是隨眠相。此非猛利故非隨眠。復次若不數起起已長時相續煩惱是隨眠相。此二數起起已不長時相續故非隨眠。復次厚重煩惱是隨眠相。此二輕薄故非隨眠。復次習氣堅固難滅煩惱是隨眠相。如剛炭火所在之處熱勢難息此亦如是。此二習氣囂虛易滅故非隨眠。如草葉火所在之處熱勢易息此亦如是。復次根本煩惱是隨眠相。此二既是隨煩惱攝故非隨眠。是貪無明等流果故。

> さらに、この二つの法が衆生に種々の差別をもたらす。経典に説かれるように、世間に「無慚」「無愧」がなければ、豚や犬などの種々の差別もないであろう。今、その相を示して、速やかに厭離し断じることを促すために、この論を造るのである。 「無慚」とは何か。答えていう——あらゆる無慚、無所慚、異慚、無羞、無所羞、異羞、敬なし、敬する性質なし、自在なし、自在の性質なし、自在なる者に対して怖れ畏れることなく転ずること、これを「無慚」という。この本論の主は、異名義に対して善巧を得ているがゆえに、種々の説をなすのである。文は差別があっても、その体は異ならない。 問う——ここに説かれた差別の名言は、自性を顕すのか、行相を顕すのか、所縁を顕すのか。ある者は説く——これは無慚の自性を顕すのである。問う——もしそうならば、無慚の行相はどうか。答えていう——諸々の不善の心・心所法の行相の如く、この行相もまた同じである。なぜなら、それと相応するからである。問う——無慚の所縁はどうか。答えていう——四聖諦である。 他の師は説く——これは無慚の行相を顕すのである。この行相は他のものに対して四句を作るべきである。無慚であって無慚の行相として転じないものがある。すなわち、無慚が他の行相として転ずるものである。無慚の行相として転ずるが無慚でないものがある。すなわち、無慚と相応する法が無慚の行相として転ずるものである。無慚であってまた無慚の行相として転ずるものがある。すなわち、無慚が無慚の行相として転ずるものである。無慚でもなく無慚の行相としても転じないものがある。すなわち、もしこの種類を取るならば、無慚と相応する法が他の行相として転ずると説くべきである。もしそうでなければ、前の相を除いて説くべきである。転ずると説くのに四句があるように、已転・当転もまた同じであると知るべきである。無慚の行相に三四句があるように、他の行相もまた同じであると知るべきである。 問う——もしそうならば、無慚の自性はどうか。答えていう——自体・自相がすなわちその自性である。諸法の自性はすなわち諸法の自相であり、同類性は共相であると言われるからである。問う——無慚の所縁はどうか。答えていう——四聖諦である。 また他の説者は——これは無慚の所縁を顕すのである。すなわち、諸々の無慚・無所慚・異慚・無羞・無所羞・異羞は、苦集、苦集諦を縁ずると説く。無敬・無敬性・無自在・無自在性・自在なる者に対して怖れ畏れることなく転ずるとは、滅道諦を縁ずると説く。自性・行相はすべて先に説いた如くである。 「無愧」とは何か。答えていう——あらゆる無愧、無所愧、異愧、無恥、無所恥、異恥、諸々の罪の中において、怖れず、畏れず、怖畏を見ないこと、これを「無愧」という。この本論の主は、異名義に対して善巧を得ているがゆえに、種々の説をなすのである。文は差別があっても、その体は異ならない。 問う——ここに説かれた差別の名言は、自性を顕すのか、行相を顕すのか、所縁を顕すのか。ある者は説く——これは無愧の自性を顕すのである。問う——もしそうならば、無愧の行相はどうか。答えていう——諸々の不善の心・心所法の行相の如く、この行相もまた同じである。なぜなら、それと相応するからである。問う——無愧の所縁はどうか。答えていう——四聖諦である。 他の師は説く——これは無愧の行相を顕すのである。この行相は他のものに対して四句を作るべきである。無愧であって無愧の行相として転じないものがある。すなわち、無愧が他の行相として転ずるものである。無愧の行相として転ずるが無愧でないものがある。すなわち、無愧と相応する法が無愧の行相として転ずるものである。無愧であってまた無愧の行相として転ずるものがある。すなわち、無愧が無愧の行相として転ずるものである。無愧でもなく無愧の行相としても転じないものがある。すなわち、もしこの種類を取るならば、無愧と相応する法が他の行相として転ずると説くべきである。もしそうでなければ、前の相を除いて説くべきである。転ずると説くのに四句があるように、已転・当転もまた同じであると知るべきである。無愧の行相に三四句があるように、他の行相もまた同じであると知るべきである。 問う——もしそうならば、無愧の自性はどうか。答えていう——自体・自相がすなわちその自性である。諸法の自性はすなわち諸法の自相であり、同類性は共相であると言われるからである。問う——無愧の所縁はどうか。答えていう——四聖諦である。 また他の説者は——これは無愧の所縁を顕すのである。すなわち、諸々の無愧・無所愧・異愧・無恥・無所恥・異恥は、滅道諦を縁ずると説く。諸々の罪の中において怖れず、畏れず、怖畏を見ないとは、苦集諦を縁ずると説く。自性・行相はすべて先に説いた如くである。 無慚と無愧に何の差別があるのか。答えていう——自在なる者に対して怖れ畏れることなく転ずるのが無慚であり、諸々の罪の中において怖畏を見ないのが無愧である。このように差別がある。 問う——なぜまたこの論を造るのか。答えていう——阿毘達磨に説く。この二つの法は展転して相応し、その相は相似である。今、無慚・無愧の性相の差別を分別しようとして、この論を造るのである。すなわち、自在なる者に対して怖れ畏れることなく転ずるのが無慚であり、諸々の罪の中において怖畏を見ないのが無愧である。 さらに、恭敬しないのが無慚であり、怖れ畏れないのが無愧である。 さらに、煩悩を厭い賤しまないのが無慚であり、悪行を厭い賤しまないのが無愧である。 さらに、悪を作って自ら顧みないのが無慚であり、悪を作って他を顧みないのが無愧である。 さらに、悪を作って自ら恥じないのが無慚であり、悪を作って他を恥じないのが無愧である。 さらに、悪を作って羞恥しないのが無慚であり、悪を作って傲り逸するのが無愧である。 さらに、独りで罪を造って羞恥しないのが無慚であり、他人に対して罪を造って羞恥しないのが無愧である。 さらに、もし少ない人に対して罪を造って羞恥しないのが無慚であり、もし大勢の人に対して罪を造って羞恥しないのが無愧である。 さらに、もし悪趣の有情に対して罪を造って羞恥しないのが無慚であり、もし善趣の有情に対して罪を造って羞恥しないのが無愧である。 さらに、もし愚者に対して罪を造って羞恥しないのが無慚であり、もし智者に対して罪を造って羞恥しないのが無愧である。 さらに、もし卑しい者に対して罪を造って羞恥しないのが無慚であり、もし尊い者に対して罪を造って羞恥しないのが無愧である。 さらに、もし在家人に対して罪を造って羞恥しないのが無慚であり、もし出家者に対して罪を造って羞恥しないのが無愧である。 さらに、もし非親教・非軌範に対して罪を造って羞恥しないのが無慚であり、もし親教・軌範に対して罪を造って羞恥しないのが無愧である。 さらに、悪を作る時、天を羞じないのが無慚であり、悪を作る時、人を恥じないのが無愧である。 さらに、諸々の悪因を訶め毀ることができないのが無慚であり、諸々の悪果を厭い怖れることができないのが無愧である。 さらに、貪の等流が無慚であり、癡の等流が無愧である。これが無慚・無愧の差別である。 この二つの法は欲界にのみ繋属し、のみ不善である。一切の不善の心・心所法はすべて遍く相応するが、自性のみを除く。 問う——無慚・無愧は不善のみであって、過患が深く重いならば、なぜ随眠性の中に立たないのか。答えていう——この二つには随眠の相がないからである。すなわち、微細な煩悩が随眠の相であるが、この二つは麁動であるがゆえに随眠ではない。さらに、猛利な煩悩が随眠の相であるが、これは猛利ではないので随眠ではない。さらに、もし数多く起き、起きてから長い時相続する煩悩が随眠の相であるが、この二つは数多く起きても、起きてから長い時相続しないので随眠ではない。さらに、厚重な煩悩が随眠の相であるが、この二つは軽薄であるので随眠ではない。さらに、習気が堅固で滅し難い煩悩が随眠の相である。ちょうど剛い炭火の在る所は熱勢が息み難いのと同様に、これもまた同じである。この二つの習気は囂虚で滅し易いので随眠ではない。ちょうど草や葉の火の在る所は熱勢が息み易いのと同様に、これもまた同じである。さらに、根本煩悩が随眠の相であるが、この二つは随煩悩に摂せられるものであるので随眠ではない。これは貪・無明の等流果であるからである。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第三十四

> 説一切有部発智大毘婆沙論 巻第三十四