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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 2"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第六十四

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第六十四巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 結蘊第二中有情納息第三之二

> 第二結蘊中有情納息第三之二

生欲界聖者有三事命終。一全離染而命終。二全退而命終。三分離染而命終。異生但有二事命終。一全離染而命終。二全退而命終。無分離染而命終者。生色界聖者有二事命終。一全離染而命終。二分離染而命終。無有退者。色無色界無退義故。異生但有一事命終。謂全離染彼無退故。無分離染而命終故。生無色界聖者異生應知亦爾。問何故聖者有分離染而命終。異生不爾答以諸聖者有無漏定。任持相續令極堅固。異生但有世俗諸定。任持相續非極堅固。復次聖者成就勝奢摩他毘鉢舍那異生不爾。復次聖者成就無漏道力隨意所為。異生不爾。是故聖者有分離染而命終義。異生即無。有作是說。以諸聖者具三種力。一聖道力。二煩惱力。三定業力。定業力故有全離染而命終義煩惱力故有全退已而命終義。聖道力故有分離染而命終義異生但有二種力。謂煩惱力。定業力。無聖道力。定業力故有全離染而命終義。煩惱力故有全退已而命終義。無聖道力故無分離染而命終義。有餘師說。聖者有三力。一道力。二煩惱力。三定業力。由道力故有全離染而命終。由煩惱力故有全退已而命終。由定業力。故有分離染而命終。若全離染得此地生非擇滅故。決定受業便不與果。由此定業為留難故。有分離染而命終者。如家家等。異生但有二力。謂道力煩惱力。無定業力。由道力故有全離染而命終。由煩惱力故有全退已而命終。無定業力故無分離染而命終。設全離染而有還生此地義故。決定受業不為留難。或有說者。分離染位有別立聖補特伽羅。謂離欲界三四品染別立家家。離六品染別立一來。離七八品別立一間。是故聖者有分離染而命終義。異生定無分離染位如聖別立補特伽羅。是故彼無分離染已而命終義。復有說者。聖者於定有自在力故離染時有離少分而命終者。異生於定無自在力。故離染時無離少分而命終者。尊者僧伽筏蘇說曰。異生亦有分離染位而命終者。然命終已結生心時先所斷結必還成就。評曰。彼不應作是說。彼命終心勢力劣故。先所斷結已得成就。是故前說於理為善。

> 欲界に生まれた聖者が命終するには三つの場合がある。第一に、すべての煩悩を離れて命終する。第二に、すべての煩悩が再び現れて命終する。第三に、一部の煩悩を離れて命終する。一方、凡夫には二つの場合しかない。第一に、すべての煩悩を離れて命終する。第二に、すべての煩悩が再び現れて命終する。一部の煩悩を離れて命終することはない。 色界に生まれた聖者が命終するには二つの場合がある。第一に、すべての煩悩を離れて命終する。第二に、一部の煩悩を離れて命終する。煩悩が再び現れることはない。なぜなら、色界と無色界には退没の意味がないからである。凡夫には一つの場合しかない。すなわち、すべての煩悩を離れて命終するのである。そこには退没がないからであり、一部の煩悩を離れて命終することもないからである。 無色界に生まれた聖者と凡夫についても、同様に理解すべきである。 問う。なぜ聖者には一部の煩悩を離れて命終する場合があるのに、凡夫にはないのか。 答える。聖者たちは無漏の禅定を有しており、それが心身の連続を保持して非常に堅固なものにしているからである。凡夫は世俗の様々な禅定しか有しておらず、心身の連続を保持する力は非常に堅固ではない。 さらに、聖者は優れた止観（奢摩他・毘鉢舍那）を成就しているが、凡夫はそうではない。 さらに、聖者は無漏の道の力によって自在に振る舞うことができるが、凡夫はそうではない。それゆえ、聖者には一部の煩悩を離れて命終する場合があるが、凡夫にはないのである。 次のような説もある。聖者は三つの力を備えている。すなわち、聖なる道の力、煩悩の力、そして定まった業の力である。定まった業の力によって、すべての煩悩を離れて命終する場合がある。煩悩の力によって、すべての煩悩が再び現れて命終する場合がある。聖なる道の力によって、一部の煩悩を離れて命終する場合がある。凡夫は二つの力しか備えていない。すなわち、煩悩の力と定まった業の力であり、聖なる道の力はない。定まった業の力によって、すべての煩悩を離れて命終する場合がある。煩悩の力によって、すべての煩悩が再び現れて命終する場合がある。聖なる道の力がないため、一部の煩悩を離れて命終する場合がないのである。 さらに別の師はこう説く。聖者には三つの力がある。第一に道の力、第二に煩悩の力、第三に定まった業の力である。道の力によって、すべての煩悩を離れて命終する。煩悩の力によって、すべての煩悩が再び現れて命終する。定まった業の力によって、一部の煩悩を離れて命終する。もしすべての煩悩を離れると、その境地に対しては生まれることのない解脱（非択滅）を得るため、決定して受けるべき業は結果をもたらさなくなる。このように、定まった業が妨げとなることで、一部の煩悩を離れて命終する者がある。例えば、家家などの聖者がこれに当たる。凡夫は二つの力しかない。すなわち、道の力と煩悩の力であり、定まった業の力はない。道の力によって、すべての煩悩を離れて命終する。煩悩の力によって、すべての煩悩が再び現れて命終する。定まった業の力がないため、一部の煩悩を離れて命終することはない。たとえすべての煩悩を離れても、再びこの境地に生まれる可能性があるからである。そのため、決定して受けるべき業は妨げとならないのである。 あるいはこう説く者もいる。一部の煩悩を離れた段階において、別に聖なる個人（補特伽羅）が立てられる。例えば、欲界の三、四品の煩悩を離れて家家とされ、六品を離れて一来とされ、七、八品を離れて一間とされる。故に、聖者には一部の煩悩を離れて命終する場合がある。凡夫には、このように聖者が立てられるような、一部の煩悩を離れた段階というものが決してない。よって、凡夫には一部の煩悩を離れて命終する場合がないのである。 また次のように説く者もいる。聖者は禅定に対して自在の力があるため、煩悩を離れる際に、その一部を離れて命終することがある。凡夫は禅定に対して自在の力がないため、煩悩を離れる際に、その一部を離れて命終することがない。 尊者僧伽筏蘇（サンガヴァルマン）はこう説いた。「凡夫にも一部の煩悩を離れた状態で命終する者はある。しかし、命終して次の生の心（結生心）が生じる時には、以前に断った煩悩は必ず再び現れるのである。」 評して言う。彼はそのように説くべきではない。その命終の心は勢力が弱いため、以前に断った煩悩はすでに再び現れることになる。ゆえに、前述の説が道理にかなっている。

問以世俗道離諸染時。無間解脫有幾行相。答諸無間道有三行相。一麁行相。二苦行相。三障行相。諸解脫道有三行相。一靜行相。二妙行相。三離行相。問無間道中何行相後。起解脫道何行相耶。有作是說。從麁行。相無間道後。起靜行相為解脫道。從苦行相無間道後。起妙行相為解脫道。從障行相無間道後。起離行相為解脫道。有餘師說。從麁行相無間道後。起妙行相為解脫道。從苦行相無間道後。起靜行相為解脫道。從障行相無間道後。起離行相為解脫道。麁妙苦靜障離對故。評曰。此事不定。從麁行相無間道後。容起靜等三種行相為解脫道。從苦行相無間道。後容起妙等三種行相為解脫道。從障行相無間道後。容起離等三種行相為解脫道。以此六種有漏行相隨離染者所樂起故。

問以世俗道離諸染時無間解脫各緣何地。答離欲染時。九無間道唯緣欲界。九解脫道緣初靜慮。問若爾。善通根蘊所說。如說。頗有思惟色界法。而能遍知欲界耶。答有。彼意說斷遍知。云何二道所緣行相而不雜亂。若此二道所緣行相有雜亂者。於離染事如何不為障礙留難。答如是二道所緣行相雖有雜亂。於離染事然不能為障礙留難。所以者何。彼於離染諸逕路中已善修習加行成故。如見道中。緣欲界忍智後緣有頂忍智現在前。緣有頂忍智後緣欲界忍智現在前。雖有所緣行相雜亂。於現觀事。然不能為障閡留難。所以者何。彼於現觀諸逕路中已善修習加行成故。此亦如是。故無有失。有作是說。離欲染時九無間道八解脫道皆緣欲界。最後解脫緣初靜慮。如以滅道智離非想非非想處染時。九無間道八解脫道皆緣滅道。最後解脫道緣非想非非想處有漏四蘊此亦如是。有餘師說。離欲染時或無止息或有止息。無止息者。九無間道八解脫道皆緣欲界。最後解脫道緣初靜慮。有止息者。或離一品即便止息。或離二品而便止息。如是乃至或離八品方乃止息。若離一品即止息者。彼無間道緣欲界。解脫道緣初靜慮。若離二品便止息者。彼二無間道。一解脫道緣欲界。第二解脫道緣初靜慮。如是乃至若離八品方止息者。彼八無間道七解脫道皆緣欲界。第八解脫道緣初靜慮。或有說者。離欲染時九無間道九解脫道皆緣欲界。如以苦集智離欲染時。九無間道九解脫道皆緣欲界。此亦如是。問若爾。雖無無間解脫所緣行相雜亂過失。根蘊所說當云何通。如說。頗有思惟色界法而能遍知欲界耶。答有。彼意說斷遍知。答根蘊依近加行而說。謂修行者將離欲染。先起如是分別思惟。欲界苦麁障初靜慮靜妙離。問若爾。根蘊後說復云何通。如說頗有思惟無色界法而能遍知欲界耶。答無。彼意說斷遍知。豈修行者將離欲染。不先起此分別思惟。欲界苦麁障無色界靜妙離耶。答雖起如是分別思惟。而遠非近。非於思惟無色界後即能引生離欲染道。思惟色界是近加行即能引生離欲染道。故彼二說非互相違。復有說者。離欲染時九無間道九解脫道皆緣初靜慮。問若爾。善通根蘊所說。如說。頗有思惟色界法而能遍知欲界耶。答有。彼意說斷遍知。又無二道所緣行相雜亂過失。云何緣他地能離餘地染。答此亦無失。如滅道智離諸染時。雖緣滅道而斷苦集。此亦如是。評曰。如是諸說雖各能生弟子覺慧。而最初說於理為善。謂九無間道皆緣欲界。九解脫道皆緣初靜慮。所以者何。以世俗道離欲染時。厭下欣上方能離故。如離欲染離上七地染。應知亦爾。

> 問う：世俗の道によって諸々の煩悩を離れる時、無間解脱はそれぞれ何の地を所縁とするのか。 答える：欲界の煩悩を離れる時、九つの無間道はただ欲界のみを所縁とする。九つの解脱道は初静慮を所縁とする。 問う：もしそうなら、「根蘊」の説とよく合う。例えば、「色界の法を思惟して、よく欲界を遍知することができることがあるか」と言えば、「ある」と答える。それは断遍知のことを言っているのである。どうして二つの道の所縁と行相が雑乱しないのか。もしこの二つの道の所縁と行相に雑乱があるならば、煩悩を離れる働きにとって、どうして障碍や妨げとならないのか。 答える：この二つの道の所縁と行相には雑乱があるが、煩悩を離れる働きにとって、障碍や妨げとはならない。なぜか。それらは煩悩を離れる道筋において、すでによく修行し、加行が成立しているからである。例えば、見道において、欲界に対する忍と智の後に、有頂に対する忍と智が現前し、有頂に対する忍と智の後に、欲界に対する忍と智が現前する。所縁と行相に雑乱があるとはいえ、現観の働きにとって、障りや妨げとはならない。なぜか。それらは現観の道筋において、すでによく修行し、加行が成立しているからである。これも同じである。ゆえに過失はない。 ある説：欲界の煩悩を離れる時、九つの無間道と八つの解脱道はすべて欲界のみを所縁とし、最後の解脱道のみが初静慮を所縁とする。例えば、滅・道の智によって非想非非想処の煩悩を離れる時、九つの無間道と八つの解脱道はすべて滅・道を所縁とし、最後の解脱道のみが非想非非想処の有漏の四蘊を所縁とする。これも同じである。 さらに他の師の説：欲界の煩悩を離れる時、止息（中断）がない場合と、止息がある場合とがある。止息がない場合は、九つの無間道と八つの解脱道はすべて欲界を所縁とし、最後の解脱道のみが初静慮を所縁とする。止息がある場合は、あるいは一品を離れてすぐに止息するか、あるいは二品を離れて止息するか、あるいは八品を離れて初めて止息するかである。一品を離れてすぐに止息する場合は、その無間道は欲界を所縁とし、解脱道は初静慮を所縁とする。二品を離れて止息する場合は、その二つの無間道と一つの解脱道は欲界を所縁とし、第二の解脱道は初静慮を所縁とする。八品を離れて初めて止息する場合は、その八つの無間道と七つの解脱道はすべて欲界を所縁とし、第八の解脱道は初静慮を所縁とする。 ある説：欲界の煩悩を離れる時、九つの無間道と九つの解脱道はすべて欲界のみを所縁とする。例えば、苦・集の智によって欲界の煩悩を離れる時、九つの無間道と九つの解脱道はすべて欲界を所縁とする。これも同じである。 問う：もしそうなら、無間解脱の所縁と行相の雑乱という過失はないが、「根蘊」の説はどう解釈すべきか。すなわち、「色界の法を思惟して、よく欲界を遍知することができることがあるか。答えはある。それは断遍知のことを言っている」とある。これは、近加行に基づいて説かれているのである。つまり、修行者が欲界の煩悩を離れようとして、まず「欲界は苦・粗・障であり、初静慮は静・妙・離である」というような分別思惟を起こすことを言うのである。 問う：では、「根蘊」の後の説はどう解釈すべきか。すなわち、「無色界の法を思惟して、よく欲界を遍知することができることがあるか。答えはない。それは断遍知のことを言っている」とある。修行者が欲界の煩悩を離れようとして、まず「欲界は苦・粗・障であり、無色界は静・妙・離である」という分別思惟を起こさないことがあろうか。 答える：そのような分別思惟を起こすことはあるが、それは遠く、近くではない。すなわち、無色界を思惟した後に、すぐに欲界の煩悩を離れる道を引き起こすことはできない。色界を思惟することは近加行であり、すぐに欲界の煩悩を離れる道を引き起こすことができる。ゆえに、その二つの説は互いに矛盾しない。 さらに別の説：欲界の煩悩を離れる時、九つの無間道と九つの解脱道はすべて初静慮のみを所縁とする。 問う：もしそうなら、「根蘊」の説とよく合う。すなわち、「色界の法を思惟して、よく欲界を遍知することができることがあるか。答えはある。それは断遍知のことを言っている」とある。また、二つの道の所縁と行相の雑乱という過失もない。しかし、どうして他の地を所縁として、他の地の煩悩を離れることができるのか。 答える：これにも過失はない。例えば、滅・道の智によって諸々の煩悩を離れる時、滅・道を所縁としながら苦・集を断ずる。これも同じである。 評して言う：これらの諸説は、それぞれに弟子たちの智慧を生む力があるが、最初の説が理として最も優れている。すなわち、九つの無間道はすべて欲界を所縁とし、九つの解脱道はすべて初静慮を所縁とする。なぜか。世俗の道によって欲界の煩悩を離れる時、下の世界を厭い上の世界を慕うことによってこそ離れることができるからである。欲界の煩悩を離れるように、さらに上の七つの地の煩悩を離れる場合も、同様であると知るべきである。

問世俗無間解脫道中一一能修幾種行相。答諸異生者離欲染時。九無間道中修三行相。謂苦麁障八解脫道中修六行相。謂苦麁障及靜妙離。最後解脫道中即修此六行相。亦修未來初靜慮地無邊行相。如是乃至離無所有處染。隨其所應當知亦爾。若諸聖者離欲染時。九無間道中修十九行相。謂麁等三及有漏無漏十六聖行相。八解脫道中修二十二行相。謂麁等三靜等三。及有漏無漏十六聖行相。最後解脫道中即修此二十二行相。亦修未來初靜慮地無邊行相。即諸聖者離初靜慮染時。九無間道中修十九行相。謂麁等三及唯無漏十六聖行相。八解脫道中修二十二行相。謂麁等三靜等三。及唯無漏十六聖行相。最後解脫道中即修此二十二行相。亦修未來第二靜慮地無邊行相如是。乃至離無所有處染。隨其所應當知亦爾。

問何故初靜慮近分通修有漏無漏十六聖行相。上地近分唯修無漏耶。答初靜慮近分有聖行相。故能通修有漏無漏十六聖行相。上地近分無聖行相。故唯能修無漏行相。有作是說。諸異生者離欲染時。九無間道中修九行相。謂麁等三及慈悲喜捨。不淨觀持息念。八解脫道中修十二行相。謂即前九及靜等三。最後解脫道中即修此十二行相。亦修未來初靜慮地無邊行相。若諸聖者離欲染時。九無間道中修二十五行相。謂麁等三慈悲喜捨。不淨觀持息念。及有漏無漏十六聖行相。八解脫道中修二十八行相。謂即前二十五及靜等三。最後解脫道中即修此二十八行相。亦修未來初靜慮地無邊行相。上地近分修義如前。

> 問う、なぜ初静慮の近分は有漏・無漏の十六聖行相をともに修するが、上の地の近分は無漏のみを修するのか。 答える、初静慮の近分には聖行相があるため、有漏・無漏の十六聖行相をともに修することができる。上の地の近分には聖行相がないため、無漏の行相のみを修することができる。 ある人々はこう説く。「凡夫が欲の染まりを離れる時、九つの無間道では九つの行相を修する。それは、粗・苦・障の三つと、慈悲喜捨、不浄観、持息念である。八つの解脱道では十二の行相を修する。すなわち、先の九つに静・妙・離の三つを加えたものである。最後の解脱道では、この十二の行相を修するとともに、未来の初静慮の地における無辺の行相も修する。」 「もし聖者が欲の染まりを離れる時、九つの無間道では二十五の行相を修する。それは、粗等の三つ、慈悲喜捨、不浄観、持息念、そして有漏・無漏の十六聖行相である。八つの解脱道では二十八の行相を修する。すなわち、先の二十五に静等の三つを加えたものである。最後の解脱道では、この二十八の行相を修するとともに、未来の初静慮の地における無辺の行相も修する。」 上の地の近分における修の意味は、先と同じである。

問何故初靜慮近分能修如是種種行相。上地近分不能修耶。答初靜慮近分有種種善根。故能修此種種行相。上地近分諸善根少。故不能修種種行相。復次欲界煩惱有種種相還修種種善根。對治上地煩惱無種種相故。彼不修種種對治。

> 問う、なぜ初静慮の近分は、このように様々な行相を修することができ、上の地の近分は修することができないのか。 答える、初静慮の近分には様々な善根がそなわっているからである。だから、この様々な行相を修することができる。上の地の近分には善根が少ないために、様々な行相を修することができない。また、欲界の煩悩には様々な相があるため、それに対抗する様々な善根も修するが、上の地の煩悩には様々な相がないので、そちらでは様々な対治法を修することはないのである。

問現在俱行負重有用。世俗無間及解脫道行相所緣。已如前說。未來修者為何所緣。答離欲染時。九無間道中所修未來麁等三行相唯緣欲界。八解脫道中。所修未來麁等三行相。緣欲界及初靜慮。靜等三行相。唯緣初靜慮。最後解脫道中。所修未來麁等三行相通緣三界。靜等三行相緣初靜慮。乃至非想非非想處。離初靜慮染時。九無間道中。所修未來麁等三行相唯緣初靜慮。八解脫道中。所修未來麁等三行相緣初二靜慮。靜等三行相唯緣第二靜慮。最後解脫道中。所修未來麁等三行相通緣三界。靜等三行相緣第二靜慮。乃至非想非非想處。離第二靜慮染時。九無間道中。所修未來麁等三行相。唯緣第二靜慮。八解脫道中所修。未來麁等三行相緣第二第三靜慮。靜等三行相唯緣第三靜慮。最後解脫道中。所修未來麁等三行相通緣三界。靜等三行相緣第三靜慮乃至非想非非想處。離第三靜慮染時。九無間道中。所修未來麁等三行相唯緣第三靜慮。八解脫道中。所修未來麁等三行相緣第三第四靜慮。靜等三行相唯。緣第四靜慮。最後解脫道中。所修未來麁等三行相通緣三界。靜等三行相緣第四靜慮乃至非想非非想處。離第四靜慮染時。九無間道中所修未來麁等三行相唯緣第四靜慮。八解脫道中。所修未來麁等三行相緣第四靜慮及空無邊處。靜等三行相唯緣空無邊處。最後解脫道中。所修未來麁等三行相。及靜等三行相。緣空無邊處乃至非想非非想處。問若離第四靜慮染。八解脫道中所修未來麁等三行相。能緣第四靜慮及空無邊處者。識身論說當云何通。如說頗有無色界善心能了別色無色界法耶。答無。彼遮剎那不遮相續。謂一剎那頃無色界善心。能了別色無色法者無有是處。若離彼染八解脫道中所修未來麁等三行相。或緣色界第四靜慮。或緣無色界空無邊處斯有是處故遮剎那不遮相續。此與彼說俱為善通。離空無邊處染時。九無間道中。所修未來麁等三行相。唯緣空無邊處。八解脫道中所修未來麁等三行相。緣空無邊處及識無邊處。靜等三行相唯緣識無邊處。最後解脫道中所修未來麁等三行相及靜等三行相。緣識無邊處乃至非想非非想處。離識無邊處染時。九無間道中所修未來麁等三行相唯緣識無邊處。八解脫道中所修未來麁等三行相。緣識無邊處及無所有處。靜等三行相唯緣無所有處。最後解脫道中。所修未來麁等三行相及靜等三行相。緣無所有處及非想非非想處。離無所有處染時。九無間道中所修未來麁等三行相唯緣無所有處。八解脫道中所修未來麁等三行相。緣無所有處及非想非非想處。靜等三行相唯緣非想非非想處。最後解脫道中所修未來麁等三行相。及靜等三行相。唯緣非想非非想處。問何故最後解脫道中所修未來靜慮所攝麁等行相通緣三界。無色所攝麁等行相唯緣無色界耶。答靜慮地中有遍緣智。能緣自地下地上地。無色地中無遍緣智。唯緣自上不緣下地。復次靜慮地中功德麁顯易。知易了。非無色地。復次靜慮地中多諸功德多諸勝利。無色不爾。復次靜慮地中善有種種異相異性。無色不爾。復次靜慮地中有異相根異相受異相心心所法。無色不爾。是故爾時所修未來靜慮所攝麁等行相通。緣三界。無色所攝麁等行相唯緣無色界。

> 質問：今まさに行っている修行において、苦しみの負担を背負うことは実際に役立ちますか。 世俗の無間道と解脱道における修行のあり方とその対象については、すでに前述の通りです。では、未来に向けて修行する際、その対象は何でしょうか。 答え：欲望の汚れから離れる時、九つの無間道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、欲界だけを対象とします。八つの解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、欲界と初禅定を対象とします。「静か」などの三つの行相は、初禅定だけを対象とします。最後の解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、三つの世界すべてを対象とします。「静か」などの三つの行相は、初禅定から非想非非想処までを対象とします。 初禅定の汚れから離れる時、九つの無間道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、初禅定だけを対象とします。八つの解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、初禅定と第二禅定を対象とします。「静か」などの三つの行相は、第二禅定だけを対象とします。最後の解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、三つの世界すべてを対象とします。「静か」などの三つの行相は、第二禅定から非想非非想処までを対象とします。 第二禅定の汚れから離れる時、九つの無間道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、第二禅定だけを対象とします。八つの解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、第二禅定と第三禅定を対象とします。「静か」などの三つの行相は、第三禅定だけを対象とします。最後の解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、三つの世界すべてを対象とします。「静か」などの三つの行相は、第三禅定から非想非非想処までを対象とします。 第三禅定の汚れから離れる時、九つの無間道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、第三禅定だけを対象とします。八つの解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、第三禅定と第四禅定を対象とします。「静か」などの三つの行相は、第四禅定だけを対象とします。最後の解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、三つの世界すべてを対象とします。「静か」などの三つの行相は、第四禅定から非想非非想処までを対象とします。 第四禅定の汚れから離れる時、九つの無間道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、第四禅定だけを対象とします。八つの解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、第四禅定と空無辺処を対象とします。「静か」などの三つの行相は、空無辺処だけを対象とします。最後の解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相と「静か」などの三つの行相は、空無辺処から非想非非想処までを対象とします。 質問：もし第四禅定の汚れから離れる時、八つの解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相が第四禅定と空無辺処を対象とできるなら、『識身論』の説明はどう解釈すべきでしょうか。そこでは「無色界の善心が色界や無色界の法を認識できることはあるか」と問い、「ない」と答えています。これは瞬間的な認識を否定するもので、連続した認識を否定するものではありません。つまり、一瞬の間に無色界の善心が色界や無色界の法を認識できることはありません。しかし、その汚れから離れる八つの解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、ある時は色界の第四禅定を対象とし、ある時は無色界の空無辺処を対象とします。これは可能なことです。そのため、瞬間的な認識を否定し、連続した認識を否定しないのです。この解釈は、両方の説をうまく調和させます。 空無辺処の汚れから離れる時、九つの無間道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、空無辺処だけを対象とします。八つの解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、空無辺処と識無辺処を対象とします。「静か」などの三つの行相は、識無辺処だけを対象とします。最後の解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相と「静か」などの三つの行相は、識無辺処から非想非非想処までを対象とします。 識無辺処の汚れから離れる時、九つの無間道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、識無辺処だけを対象とします。八つの解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、識無辺処と無所有処を対象とします。「静か」などの三つの行相は、無所有処だけを対象とします。最後の解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相と「静か」などの三つの行相は、無所有処と非想非非想処を対象とします。 無所有処の汚れから離れる時、九つの無間道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、無所有処だけを対象とします。八つの解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相は、無所有処と非想非非想処を対象とします。「静か」などの三つの行相は、非想非非想処だけを対象とします。最後の解脱道において修行する未来の「粗い」などの三つの行相と「静か」などの三つの行相は、非想非非想処だけを対象とします。 質問：なぜ最後の解脱道において修行される、禅定に含まれる未来の「粗い」などの行相は三つの世界すべてを対象とするのに、無色界に含まれる未来の「粗い」などの行相は無色界だけを対象とするのでしょうか。 答え：禅定の領域には全てを遍く認識する智慧があり、それは自分の領域、下の領域、上の領域を対象とすることができます。しかし、無色界の領域には全てを遍く認識する智慧はなく、上の領域だけを対象とし、下の領域は対象としません。また、禅定の領域における功徳は、粗く顕著で、理解しやすく、はっきりしていますが、無色界の領域ではそうではありません。さらに、禅定の領域には多くの功徳や多くの優れた特徴がありますが、無色界にはそうではありません。また、禅定の領域における善には様々な異なる特徴や性質がありますが、無色界にはそうではありません。さらに、禅定の領域には異なる感覚器官、異なる感受、異なる心と心の働きがありますが、無色界にはそうではありません。これらの理由から、その時に修行される、禅定に含まれる未来の「粗い」などの行相は三つの世界すべてを対象とし、無色界に含まれる未来の「粗い」などの行相は無色界だけを対象とするのです。

欲界見所斷結盡何果攝。乃至廣說。問何故作此論。答先說三界二部諸結頓漸得捨。未說彼斷是何果攝。今欲說之故作斯論。欲界見所斷結盡何果攝。答四沙門果或無處。四沙門果攝者。謂彼結盡證預流果時即預流果攝。證一來果時即一來果攝。證不還果時即不還果攝。證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。或無處者謂諸異生已離欲染彼結盡非果攝。已離欲染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。次第者道現觀二心頃彼結盡非果攝。欲界修所斷結盡何果攝。答不還阿羅漢果。或無處不還果攝者。謂彼結盡證不還果時即不還果攝。阿羅漢果攝者。謂彼結盡證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。或無處者謂諸異生已離欲染彼結盡非果攝。已離欲染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。無次第者非果攝義。所以者何。離欲染第九無間道滅時方斷彼盡。第九解脫道生時證不還果。彼結盡即不還果攝故。色界見所斷結盡。何果攝。答四沙門果或無處。四沙門果攝者。謂彼結盡證預流果時即預流果攝。乃至證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。或無處者謂諸異生已離色染彼結盡非果攝。已離色染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。無次第者非果攝義。所以者何道類智忍滅時方斷彼盡道類智生時隨其所應證前三果。彼結盡即前三果攝故。色界修所斷結盡何果攝。答阿羅漢果。或無處。阿羅漢果攝者謂彼結盡證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。或無處者謂諸異生已離色染彼結盡非果攝。已離色染入正性離生者。見道十五心頃及道類智等。諸有學位彼結盡非果攝。次第者從離第四靜慮染第九解脫道。乃至金剛喻定現在前時彼結盡非果攝。無色界見所斷結盡何果攝。答四沙門果。謂彼結盡證預流果時即預流果攝。乃至證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。無異生者非果攝義。所以者何。無有異生能離非想非非想處見所斷結故。亦無次第者非果攝義。所以者何。道類智忍滅時方斷彼盡。道類智生時隨其所應證前三果。彼結盡即前三果攝故。無色界修所斷結盡何果攝。答阿羅漢果。謂彼結盡證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。無異生者非果攝義。所以者何。無有異生能離非想非非想處修所斷結故。亦無次第者非果攝義。所以者何。金剛喻定現在前時方斷彼盡。初盡智生時證阿羅漢果。彼結盡即阿羅漢果攝故。有五部結。謂見苦所斷結。乃至修所斷結。問何故作此論。答先雖說三界二部結盡諸果所攝。而未說五部結盡諸果所攝。今欲說之故作斯論。見苦所斷結盡何果攝。答四沙門果或無處。四沙門果攝者。謂彼結盡證預流果時即預流果攝。乃至證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。或無處者無有異生。非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處見苦所斷結故。次第者苦現觀一心頃。集滅現觀各四心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。見集所斷結盡何果攝。答四沙門果或無處四沙門果攝者。如前說。或無處者無有異生非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處見集所斷結故。次第者集現觀一心頃滅現觀四心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。見滅所斷結盡何果攝。答四沙門果或無處。四沙門果攝者。如前說。或無處者無有異生非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處見滅所斷結故。次第者滅現觀一心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。見道所斷結盡何果攝。答四沙門果。謂彼結盡證預流果時即預流果攝。乃至證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。無有異生非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處見道所斷結故。亦無次第者非果攝義。所以者何。道類智忍滅時方斷彼盡。道類智生時隨其所應證前三果。彼結盡即前三果攝故。修所斷結盡何果攝。答阿羅漢果。謂彼結盡證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。無有異生非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處修所斷結故。亦無次第者非果攝義。所以者何。金剛喻定現在前時方斷彼盡。初盡智生時證阿羅漢果彼結盡即阿羅漢果攝故。

> \*\*欲界の見道で断つべき煩惱の尽きは、何の果報に含まれるのか。\*\* さらには広く説明する。 \*\*問う\*\*　なぜこの論を設けたのか。 \*\*答える\*\*　先に、三界の二つの部分（見道と修道）のすべての煩惱について、頓断と漸断、そして得る・捨てることを説いたが、それらの断尽が何の果報に含まれるかは、まだ説いていなかった。今、それを説こうとして、この論を設けたのである。 \*\*欲界の見道で断つべき煩惱の尽きは、何の果報に含まれるのか。\*\* \*\*答える\*\*　四沙門果（預流果・一来果・不還果・阿羅漢果）に含まれるか、あるいは、どこにも含まれない場合もある。 \* \*\*四沙門果に含まれる場合\*\*： \* その煩惱の尽きを、預流果を証する時に得れば、それは預流果に含まれる。 \* 一来果を証する時に得れば、一来果に含まれる。 \* 不還果を証する時に得れば、不還果に含まれる。 \* 阿羅漢果を証する時に得れば、阿羅漢果に含まれる。 \* \*\*どこにも含まれない場合\*\*： \* 凡夫がすでに欲界の煩惱を離れている場合、その煩惱の尽きは、いずれの果報にも含まれない。 \* すでに欲界の煩惱を離れて、正しい聖なる道（正性離生）に入った者が、見道の十五心の間は、その煩惱の尽きはいずれの果報にも含まれない。 \* 順序通りの修行者（次第者）が、道の現観（道現観）における二心の間は、その煩惱の尽きはいずれの果報にも含まれない。 \*\*欲界の修道で断つべき煩惱の尽きは、何の果報に含まれるのか。\*\* \*\*答える\*\*　不還果、または阿羅漢果に含まれるか、あるいは、どこにも含まれない場合もある。 \* \*\*不還果に含まれる場合\*\*：その煩惱の尽きを、不還果を証する時に得れば、不還果に含まれる。 \* \*\*阿羅漢果に含まれる場合\*\*：その煩惱の尽きを、阿羅漢果を証する時に得れば、阿羅漢果に含まれる。 \* \*\*どこにも含まれない場合\*\*： \* 凡夫がすでに欲界の煩惱を離れている場合、その煩惱の尽きはいずれの果報にも含まれない。 \* すでに欲界の煩惱を離れて、正しい聖なる道に入った者が、見道の十五心の間は、その煩惱の尽きはいずれの果報にも含まれない。 \* 順序通りの修行者については、いずれの果報にも含まれないという意味はない。なぜなら、欲界を離れる第九の無間道が滅する時に、その煩惱の尽きを断ち、第九の解脱道が生じる時に不還果を証する。その煩惱の尽きは、ただちに不還果に含まれるからである。 \*\*色界の見道で断つべき煩惱の尽きは、何の果報に含まれるのか。\*\* \*\*答える\*\*　四沙門果に含まれるか、あるいは、どこにも含まれない場合もある。 \* \*\*四沙門果に含まれる場合\*\*：その煩惱の尽きを、預流果を証する時に得れば預流果に含まれ、乃至、阿羅漢果を証する時に得れば阿羅漢果に含まれる。 \* \*\*どこにも含まれない場合\*\*： \* 凡夫がすでに色界の煩惱を離れている場合、その煩惱の尽きはいずれの果報にも含まれない。 \* すでに色界の煩惱を離れて、正しい聖なる道に入った者が、見道の十五心の間は、その煩惱の尽きはいずれの果報にも含まれない。 \* 順序通りの修行者については、いずれの果報にも含まれないという意味はない。なぜなら、道類智忍が滅する時に、その煩惱の尽きを断ち、道類智が生じる時に、その人の境地に応じて前三果（預流・一来・不還）を証する。その煩惱の尽きは、ただちにその前三果のいずれかに含まれるからである。 \*\*色界の修道で断つべき煩惱の尽きは、何の果報に含まれるのか。\*\* \*\*答える\*\*　阿羅漢果に含まれるか、あるいは、どこにも含まれない場合もある。 \* \*\*阿羅漢果に含まれる場合\*\*：その煩惱の尽きを、阿羅漢果を証する時に得れば、阿羅漢果に含まれる。 \* \*\*どこにも含まれない場合\*\*： \* 凡夫がすでに色界の煩惱を離れている場合、その煩惱の尽きはいずれの果報にも含まれない。 \* すでに色界の煩惱を離れて、正しい聖なる道に入った者の、見道の十五心の間、および道類智などの全ての有学位において、その煩惱の尽きはいずれの果報にも含まれない。 \* 順序通りの修行者については、第四静慮の煩惱を離れる第九解脱道から、金剛喻定が現在するまでの間、その煩惱の尽きはいずれの果報にも含まれない。 \*\*無色界の見道で断つべき煩惱の尽きは、何の果報に含まれるのか。\*\* \*\*答える\*\*　四沙門果に含まれる。すなわち、その煩惱の尽きを預流果を証する時に得れば預流果に含まれ、乃至、阿羅漢果を証する時に得れば阿羅漢果に含まれる。 \* 凡夫については、いずれの果報にも含まれないという意味はない。なぜなら、非想非非想処の見道で断つべき煩惱を離れることのできる凡夫はいないからである。 \* また、順序通りの修行者についても、いずれの果報にも含まれないという意味はない。なぜなら、道類智忍が滅する時に、その煩惱の尽きを断ち、道類智が生じる時に、その人の境地に応じて前三果を証する。その煩惱の尽きは、ただちにその前三果のいずれかに含まれるからである。 \*\*無色界の修道で断つべき煩惱の尽きは、何の果報に含まれるのか。\*\* \*\*答える\*\*　阿羅漢果に含まれる。すなわち、その煩惱の尽きを、阿羅漢果を証する時に得れば、阿羅漢果に含まれる。 \* 凡夫については、いずれの果報にも含まれないという意味はない。なぜなら、非想非非想処の修道で断つべき煩惱を離れることのできる凡夫はいないからである。 \* また、順序通りの修行者についても、いずれの果報にも含まれないという意味はない。なぜなら、金剛喻定が現在する時に、その煩惱の尽きを断ち、最初の尽智が生じる時に阿羅漢果を証する。その煩惱の尽きは、ただちに阿羅漢果に含まれるからである。 \*\*五つの部類の煩惱（結）がある。すなわち、苦諦を見て断つべき煩惱、乃至、修道で断つべき煩惱である。\*\* \*\*問う\*\*　なぜこの論を設けたのか。 \*\*答える\*\*　先に、三界の二つの部分（見道・修道）の煩惱の尽きが諸々の果報に含まれることを説いたが、まだ五つの部類の煩惱の尽きが諸々の果報に含まれることは説いていなかった。今、それを説こうとして、この論を設けたのである。 \*\*苦諦を見て断つべき煩惱の尽きは、何の果報に含まれるのか。\*\* \*\*答える\*\*　四沙門果に含まれるか、あるいは、どこにも含まれない場合もある。 \* \*\*四沙門果に含まれる場合\*\*：その煩惱の尽きを預流果を証する時に得れば預流果に含まれ、乃至、阿羅漢果を証する時に得れば阿羅漢果に含まれる。 \* \*\*どこにも含まれない場合\*\*：凡夫については、いずれの果報にも含まれないという意味はない。なぜなら、非想非非想処の苦諦を見て断つべき煩惱を離れることのできる凡夫はいないからである。順序通りの修行者については、苦諦の現観における一心の間、集諦と滅諦の現観におけるそれぞれ四心の間、道諦の現観における三心の間は、その煩惱の尽きはいずれの果報にも含まれない。 \*\*集諦を見て断つべき煩惱の尽きは、何の果報に含まれるのか。\*\* \*\*答える\*\*　四沙門果に含まれるか、あるいは、どこにも含まれない場合もある。 \* \*\*四沙門果に含まれる場合\*\*：先に述べた通りである。 \* \*\*どこにも含まれない場合\*\*：凡夫については、いずれの果報にも含まれないという意味はない。なぜなら、非想非非想処の集諦を見て断つべき煩惱を離れることのできる凡夫はいないからである。順序通りの修行者については、集諦の現観における一心の間、滅諦の現観における四心の間、道諦の現観における三心の間は、その煩惱の尽きはいずれの果報にも含まれない。 \*\*滅諦を見て断つべき煩惱の尽きは、何の果報に含まれるのか。\*\* \*\*答える\*\*　四沙門果に含まれるか、あるいは、どこにも含まれない場合もある。 \* \*\*四沙門果に含まれる場合\*\*：先に述べた通りである。 \* \*\*どこにも含まれない場合\*\*：凡夫については、いずれの果報にも含まれないという意味はない。なぜなら、非想非非想処の滅諦を見て断つべき煩惱を離れることのできる凡夫はいないからである。順序通りの修行者については、滅諦の現観における一心の間、道諦の現観における三心の間は、その煩惱の尽きはいずれの果報にも含まれない。 \*\*道諦を見て断つべき煩惱の尽きは、何の果報に含まれるのか。\*\* \*\*答える\*\*　四沙門果に含まれる。すなわち、その煩惱の尽きを預流果を証する時に得れば預流果に含まれ、乃至、阿羅漢果を証する時に得れば阿羅漢果に含まれる。 \* 凡夫については、いずれの果報にも含まれないという意味はない。なぜなら、非想非非想処の道諦を見て断つべき煩惱を離れることのできる凡夫はいないからである。 \* また、順序通りの修行者についても、いずれの果報にも含まれないという意味はない。なぜなら、道類智忍が滅する時に、その煩惱の尽きを断ち、道類智が生じる時に、その人の境地に応じて前三果を証する。その煩惱の尽きは、ただちにその前三果のいずれかに含まれるからである。 \*\*修道で断つべき煩惱の尽きは、何の果報に含まれるのか。\*\* \*\*答える\*\*　阿羅漢果に含まれる。すなわち、その煩惱の尽きを、阿羅漢果を証する時に得れば、阿羅漢果に含まれる。 \* 凡夫については、いずれの果報にも含まれないという意味はない。なぜなら、非想非非想処の修道で断つべき煩惱を離れることのできる凡夫はいないからである。 \* また、順序通りの修行者についても、いずれの果報にも含まれないという意味はない。なぜなら、金剛喻定が現在する時に、その煩惱の尽きを断ち、最初の尽智が生じる時に阿羅漢果を証する。その煩惱の尽きは、ただちに阿羅漢果に含まれるからである。

有九部結。謂苦法智所斷結。乃至修所斷結。問何故作此論。答先雖說五部結盡諸果所攝。而未說九部結盡諸果所攝。今欲說之故作斯論。即前五部諸結依對治差別說為九部。謂法類智品各別所對治結分為八部。雜所對治總為一部故有九部。苦法智所斷結盡何果攝。答四沙門果。或無處四沙門果攝者。謂彼結盡證預流果時即預流果攝。乃至證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。或無處者謂諸異生已離欲染彼結盡非果攝。已離欲染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。次第者苦現觀三心頃。集滅現觀各四心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。苦類智乃至道法智所斷結盡何果攝。答四沙門果或無處。四沙門果攝者。如前說。或無處者若苦類智所斷結盡。無有異生非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處見苦所斷結故。次第者苦現觀一心頃集滅現觀各四心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。若集法智所斷結盡。謂諸異生已離欲染彼結盡非果攝。已離欲染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。次第者集現觀三心頃。滅現觀四心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。若集類智所斷結盡。無有異生非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處見集所斷結故。次第者集現觀一心頃。滅現觀四心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。若滅法智所斷結盡。謂諸異生已離欲染彼結盡非果攝。已離欲染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。次第者滅道現觀各三心頃彼結盡非果攝。若滅類智所斷結盡無有異生非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處見滅所斷結故。次第者滅現觀一心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。若道法智所斷結盡。謂諸異生已離欲染彼結盡非果攝。已離欲染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。次第者道現觀二心頃彼結盡非果攝故說無處。道類智所斷結盡何果攝。答四沙門果。謂彼結盡證預流果時即預流果攝。乃至證阿羅漢果即阿羅漢果攝。無有異生非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處見道所斷結故。亦無次第者非果攝義。所以者何。道類智忍滅時方斷彼盡。道類智生時隨其所應證前三果。彼結盡即前三果攝故。修所斷結盡何果攝。答阿羅漢果。謂彼結盡證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。無有異生非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處修所斷結故。亦無次第者非果攝義。所以者何。金剛喻定現在前時方斷彼盡。初盡智生時證阿羅漢果。彼結盡即阿羅漢果攝故。

> ９つの「結び（けつ）」があります。それは、苦法智（くほうち）によって断たれる結びから、修行によって断たれる結びまでのことです。 問：なぜこの論を造ったのか。 答：先に、五つの部類の結びが尽きることが、諸々の果（修行の成果）に含まれるとは説いたものの、九つの部類の結びが尽きることが、諸々の果に含まれるとはまだ説いていませんでした。そこで、これを説こうとして、この論を造ったのです。 つまり、先の五つの部類の諸々の結びを、対治法の違いに基づいて、九つの部類として説いたのです。すなわち、法智（ほうち）と類智（るいち）の各々の対治されるべき結びを八つの部類に分け、それらが混ざって対治されるものを総合して一つの部類とすることで、九つの部類があるのです。 \*\*苦法智によって断たれる結びが尽きることは、何の果に含まれるのか。\*\* 答：四沙門果（ししゃもんか）、あるいは含まれない場合もある。 四沙門果に含まれる場合とは、その結びが尽きた状態で預流果（よるか）を証得するときは、預流果に含まれます。乃至、阿羅漢果（あらかんか）を証得するときは、阿羅漢果に含まれます。 「含まれない場合」とは、凡夫（ぼんぶ）がすでに欲界の煩悩から離れている場合、その結びの尽きた状態は果には含まれません。また、すでに欲界の煩悩から離れて正性離生（しょうしょうりしょう）に入ろうとしている者が、見道の十五心の間にある場合も、その結びの尽きた状態は果には含まれません。さらに、順序通りの修行者の場合、苦諦を観察する最初の三心、集諦・滅諦を観察する各々四心、道諦を観察する三心の間も、その結びの尽きた状態は果には含まれません。 \*\*苦類智（くるいち）乃至、道法智（どうほうち）によって断たれる結びが尽きることは、何の果に含まれるのか。\*\* 答：四沙門果、あるいは含まれない場合もある。 四沙門果に含まれる場合は、先と同じです。 「含まれない場合」とは、苦類智によって断たれる結びについて、凡夫で果に含まれないということはありません。なぜなら、非想非非想処（ひそうひひそうしょ）における苦諦に基づいて断たれる結びから離れることのできる凡夫はいないからです。順序通りの修行者でも、苦諦を観察する一心の間、集諦・滅諦を観察する各々四心、道諦を観察する三心の間は、その結びの尽きた状態は果には含まれません。 もし、集法智によって断たれる結びについては、諸々の凡夫がすでに欲界の煩悩を離れている場合、その結びの尽きた状態は果には含まれません。すでに欲界の煩悩を離れて正性離生に入ろうとしている者が、見道の十五心の間にある場合も、その結びの尽きた状態は果には含まれません。順序通りの修行者でも、集諦を観察する三心、滅諦を観察する四心、道諦を観察する三心の間は、その結びの尽きた状態は果には含まれません。 もし、集類智によって断たれる結びについて、凡夫で果に含まれないということはありません。なぜなら、非想非非想処における集諦に基づいて断たれる結びから離れることのできる凡夫はいないからです。順序通りの修行者でも、集諦を観察する一心、滅諦を観察する四心、道諦を観察する三心の間は、その結びの尽きた状態は果には含まれません。 もし、滅法智によって断たれる結びについては、諸々の凡夫がすでに欲界の煩悩を離れている場合、その結びの尽きた状態は果には含まれません。すでに欲界の煩悩を離れて正性離生に入ろうとしている者が、見道の十五心の間にある場合も、その結びの尽きた状態は果には含まれません。順序通りの修行者でも、滅諦と道諦を観察する各々三心の間は、その結びの尽きた状態は果には含まれません。 もし、滅類智によって断たれる結びについて、凡夫で果に含まれないということはありません。なぜなら、非想非非想処における滅諦に基づいて断たれる結びから離れることのできる凡夫はいないからです。順序通りの修行者でも、滅諦を観察する一心、道諦を観察する三心の間は、その結びの尽きた状態は果には含まれません。 もし、道法智によって断たれる結びについては、諸々の凡夫がすでに欲界の煩悩を離れている場合、その結びの尽きた状態は果には含まれません。すでに欲界の煩悩を離れて正性離生に入ろうとしている者が、見道の十五心の間にある場合も、その結びの尽きた状態は果には含まれません。順序通りの修行者でも、道諦を観察する二心の間は、その結びの尽きた状態は果には含まれません。このように「含まれない場合もある」と説かれています。 \*\*道類智（どうるいち）によって断たれる結びが尽きることは、何の果に含まれるのか。\*\* 答：四沙門果です。すなわち、その結びの尽きた状態で預流果を証得するときは預流果に含まれます。乃至、阿羅漢果を証得するときは阿羅漢果に含まれます。 凡夫で果に含まれないということはありません。なぜなら、非想非非想処における道諦に基づいて断たれる結びから離れることのできる凡夫はいないからです。また、順序通りの修行者でも、果に含まれないということはありません。なぜなら、道類智忍（どうるいちにん）が滅した時に、その結びは尽き、道類智が生じた時に、その状況に応じて最初の三つの果を証得し、その結びの尽きた状態は、その最初の三つの果に含まれるからです。 \*\*修行によって断たれる結びが尽きることは、何の果に含まれるのか。\*\* 答：阿羅漢果です。すなわち、その結びの尽きた状態で阿羅漢果を証得するときは、阿羅漢果に含まれます。 凡夫で果に含まれないということはありません。なぜなら、非想非非想処における修行によって断たれる結びから離れることのできる凡夫はいないからです。また、順序通りの修行者でも、果に含まれないということはありません。なぜなら、金剛喻定（こんごうにょうじょう）が現前した時に、その結びは尽き、最初の尽智（じんち）が生じた時に阿羅漢果を証得し、その結びの尽きた状態は、すなわち阿羅漢果に含まれるからです。

問為無間道能斷諸結。為解脫道能斷諸結。設爾何失。二俱有過。所以者何。若無間道能斷諸結。此文所說當云何通。如說苦法智所斷結。乃至道類智所斷結。若解脫道能斷諸結。智蘊所說當云何通。如說諸結見苦所斷彼結非苦智斷是苦忍斷。乃至諸結見道所斷彼結非道智斷是道忍斷。答應作是說。唯無間道能斷諸結。問若爾善通智蘊所說。此文所說當云何通。答此文應作是說。有九部結。謂苦法智忍所斷。乃至道類智忍所斷。而不作是說者有別意趣。謂忍屬智是智助伴。諸忍所斷名智所斷。如臣所作名王所作。復次無間道正能斷結。解脫道持令不生。謂無間道雖正斷結。若無解脫道持令不生者。彼結還起便為過患。顯解脫道於斷有用故。此文說法類智斷。復次無間解脫同一所作。於斷結事俱有勢力。如二力士同害一怨。一撲置地一令不起。不爾還起能為過患。又如二人同逐一賊。一驅令出一牢閉門。不爾還入能為過患。又如二士同捉一蛇。一內瓶中一牢蓋口。不爾還出能為過患。無間解脫斷結亦然。顯解脫道於斷有用故。此文說法類智斷。復次欲顯解脫道於無間道所斷結中有多作用。此多作用如根蘊說。故此文說法類智斷。復次諸無間道正斷結。得諸解脫道與彼諸結斷得俱生。既得彼斷有斷彼用。故此文說法類智斷。復次斷有二種。一別二通。別唯無間通解脫。此依通說故不違理。復次此中諸忍以智名說能引智故因立果名。如飢渴名因彼因觸。故能斷結唯無間道。

> 問う：無間道が諸々の結び（煩悩）を断ち切るのか。それとも解脱道が諸々の結びを断ち切るのか。仮にそうだとして、何が問題か。両方とも過失がある。なぜか。もし無間道が結びを断つなら、この文の説くところはどう通じるのか。すなわち「苦法智によって断たれる結び」乃至「道類智によって断たれる結び」と説かれている。もし解脱道が結びを断つなら、智蘊の説くところはどう通じるのか。すなわち「諸々の結びは苦を見て断たれる。その結びは苦智によって断たれるのではなく、苦忍によって断たれる」乃至「諸々の結びは道を見て断たれる。その結びは道智によって断たれるのではなく、道忍によって断たれる」と説かれている。 答え：こう言うべきである。ただ無間道のみが諸々の結びを断ち切ることができる。 問う：それならば智蘊の説くところはうまく通じる。しかし、この文の説くところはどう通じるのか。 答え：この文はこう言うべきである。「九つの部類の結びがある。すなわち苦法智忍によって断たれるものから、乃至道類智忍によって断たれるものまでである」と。だが、そう説かないのには別の意図がある。すなわち、忍は智に属し、智の助けとなる仲間である。諸々の忍によって断たれるものを、智によって断たれると名付ける。例えば、臣下のなすことを王のなすことと名付けるようなものである。 さらに、無間道はまさに結びを断ち切り、解脱道はそれを保って生じないようにする。すなわち、無間道は確かに結びを断つが、もし解脱道がそれを保って生じないようにしなければ、その結びは再び生じて過患となる。解脱道が断ち切ることに役立つことを示すため、この文では法智や類智が断つと説く。 さらに、無間道と解脱道は同一の働きをなし、結びを断つことにおいて共に力を持つ。例えば、二人の力持ちが一つの怨みを共に倒すようなもので、一人が地面に押さえつけ、一人が起き上がらせない。そうしなければ、再び起き上がって過患となる。また、例えば二人が一つの賊を追いかけ、一人が追い出し、一人が門を閉じて牢に入れる。そうしなければ、再び入ってきて過患となる。また、例えば二人の男が一匹の蛇を捕まえ、一人が瓶の中に入れ、一人が蓋をしっかり閉める。そうしなければ、再び出てきて過患となる。無間道と解脱道が結びを断つことも同じである。解脱道が断つことに役立つことを示すため、この文では法智や類智が断つと説く。 さらに、無間道によって断たれた結びに対して、解脱道が多くの働きを持つことを示そうとしている。この多くの働きは根蘊で説かれている。そのため、この文では法智や類智が断つと説く。 さらに、諸々の無間道はまさに結びを断ち、その断ち切りの結果を得る。諸々の解脱道は、それらの結びの断ち切りの結果と共に生じる。その断ち切りを得れば、それを断つ働きがある。そのため、この文では法智や類智が断つと説く。 さらに、断ち切りには二種類ある。一つは個別、一つは共通である。個別の断ち切りは無間道のみにあり、共通の断ち切りは解脱道にもある。これは共通の断ち切りに基づいて説くので、道理に反しない。 さらに、ここでいう諸々の忍は、智という名称で説かれている。なぜなら、智を引き起こすからであり、原因に基づいて結果に名前を付けるからである。例えば、飢えや渇きを原因として、その結果である飲食に名前を付けるようなものである。よって、結びを断ち切ることができるのは、ただ無間道のみである。

有十五部結。謂三界各有五。即見苦所斷結。乃至修所斷結。問何故作此論。答先雖說九部結盡諸果所攝。而未說十五部結盡諸果所攝。今欲說之故作斯論。謂約界部二門。分別諸結差別有十五種。欲界見苦集滅道所斷結盡何果攝。答四沙門果。或無處。四沙門果攝者。謂彼結盡證預流果時即預流果攝。乃至證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。或無處者若欲界見苦所斷結盡。謂諸異生已離欲染彼結盡非果攝。已離欲染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。次第者苦現觀三心頃。集滅現觀各四心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。若欲界見集所斷結盡。謂諸異生已離欲染彼結盡非果攝。已離欲染入正性離生者。見道十五心頃。彼結盡非果攝。次第者集現觀三心頃。滅現觀四心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。若欲界見所斷結盡。謂諸異生已離欲染彼結盡非果攝。已離欲染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。次第者滅道現觀各三心頃。彼結盡非果攝。若欲界見道所斷結盡。謂諸異生已離欲染彼結盡非果攝。已離欲染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。次第者道現觀二心頃。彼結盡非果攝。欲界修所斷結盡何果攝。答不還阿羅漢果或無處。不還果攝者。謂彼結盡證不還果時即不還果攝。阿羅漢果攝者。謂彼結盡證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。或無處者。謂諸異生已離欲染彼結盡非果攝。已離欲染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。無次第者非果攝義。所以者何。離欲染第九無間道滅時方斷彼盡。第九解脫道生時證不還果即不還果攝故。色界見苦集滅道所斷結盡何果攝。答四沙門果。或無處。四沙門果者。如前說。或無處者若色界見苦所斷結盡。謂諸異生已離色染彼結盡非果攝。已離色染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。次第者苦現觀一心頃。集滅現觀各四心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。若色界見集所斷結盡。謂諸異生已離色染彼結盡非果攝。已離色染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。次第者集現觀一心頃。滅現觀四心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。若色界見滅所斷結盡。謂諸異生已離色染彼結盡非果攝。已離色染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。次第者滅現觀一心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。若色界見道所斷結盡。謂諸異生已離色染彼結盡非果攝。已離色染入正性離生者。見道十五心頃彼結盡非果攝。無次第者非果攝義。所以者何。道類智忍滅時方斷彼盡。道類智生時隨其所應證前三果彼結盡即前三果攝故。色界修所斷結盡何果攝。答阿羅漢果或無處。阿羅漢果攝者。謂彼結盡證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。或無處者。謂諸異生已離色染彼結盡非果攝。已離色染入正性離生者。見道十五心頃及道類智等諸有學位彼結盡非果攝。次第者從離第四靜慮染第九解脫道。乃至金剛喻定現在前時彼結盡非果攝。無色界見苦集滅所斷結盡何果攝。答四沙門果或無處。四沙門果者。如前說。或無處者若無色界見苦所斷結盡。無有異生非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處見修所斷結故。次第者苦現觀一心頃。集滅現觀各四心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。若無色界見集所斷結盡。無有異生非果攝義。義如前說。次第者集現觀一心頃。滅現觀四心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。若無色界見滅所斷結盡無有異生非果攝義。義如前說。次第者滅現觀一心頃。道現觀三心頃。彼結盡非果攝。若無色界見道所斷結盡何果攝。答四沙門果。謂彼結盡證預流果時即預流果攝。乃至證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。無有異生非果攝義。義如前說。亦無次第者非果攝義。所以者何。道類智忍滅時方斷彼盡。道類智生時隨其所應證前三果。彼結盡即前三果攝故。無色界修所斷結盡何果攝。答阿羅漢果。謂彼結盡證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。無有異生非果攝義。義如前說。亦無次第者非果攝義。所以者何。金剛喻定現在前時方斷盡。初盡智生時證阿羅漢果彼結盡即阿羅漢果攝故。

> 十五の「結」がある。すなわち、三界にそれぞれ五つずつあり、それは「見苦所断の結」から「修所断の結」に至るまでである。 問：なぜこの論を作ったのか。 答：先に九つの結がすべての果に含まれると説いたが、十五の結がすべての果に含まれるとはまだ説いていない。今それを説こうとして、この論を作ったのである。 すなわち、界と部の二つの観点から、諸々の結の違いを分類すると十五種類となる。 欲界において、苦・集・滅・道の見断の結が尽きた場合、それは何の果に含まれるのか。 答：四沙門果、あるいはどこにも含まれない場合がある。 四沙門果に含まれる場合とは、その結の尽きが預流果を証する時には預流果に含まれ、乃至、阿羅漢果を証する時には阿羅漢果に含まれることをいう。 どこにも含まれない場合とは、欲界の見苦所断の結が尽きた場合、例えば凡夫ですでに欲の煩悩を離れた者は、その結の尽きは果に含まれない。また、すでに欲の煩悩を離れて正性離生に入った者であっても、見道の十五心の間は、その結の尽きは果に含まれない。修行順序に従う者であれば、苦現観の三心の間、集現観・滅現観の各四心の間、道現観の三心の間は、その結の尽きは果に含まれない。 欲界の見集所断の結が尽きた場合、例えば凡夫ですでに欲の煩悩を離れた者は、その結の尽きは果に含まれない。すでに欲の煩悩を離れて正性離生に入った者であっても、見道の十五心の間は、その結の尽きは果に含まれない。修行順序に従う者であれば、集現観の三心の間、滅現観の四心の間、道現観の三心の間は、その結の尽きは果に含まれない。 欲界の見滅所断の結が尽きた場合、例えば凡夫ですでに欲の煩悩を離れた者は、その結の尽きは果に含まれない。すでに欲の煩悩を離れて正性離生に入った者であっても、見道の十五心の間は、その結の尽きは果に含まれない。修行順序に従う者であれば、滅現観・道現観の各三心の間は、その結の尽きは果に含まれない。 欲界の見道所断の結が尽きた場合、例えば凡夫ですでに欲の煩悩を離れた者は、その結の尽きは果に含まれない。すでに欲の煩悩を離れて正性離生に入った者であっても、見道の十五心の間は、その結の尽きは果に含まれない。修行順序に従う者であれば、道現観の二心の間は、その結の尽きは果に含まれない。 欲界の修所断の結が尽きた場合、それは何の果に含まれるのか。 答：不還果、阿羅漢果、あるいはどこにも含まれない場合がある。 不還果に含まれる場合とは、その結の尽きが不還果を証する時には不還果に含まれることをいう。阿羅漢果に含まれる場合とは、その結の尽きが阿羅漢果を証する時には阿羅漢果に含まれることをいう。どこにも含まれない場合とは、凡夫ですでに欲の煩悩を離れた者は、その結の尽きは果に含まれない。すでに欲の煩悩を離れて正性離生に入った者であっても、見道の十五心の間は、その結の尽きは果に含まれない。修行順序に従う者に、果に含まれないという意味はない。なぜなら、欲の煩悩を離れる第九無間道が滅する時に初めてその尽きが断たれ、第九解脱道が生じる時に不還果を証し、すでに不還果に含まれるからである。 色界において、苦・集・滅・道の見断の結が尽きた場合、それは何の果に含まれるのか。 答：四沙門果、あるいはどこにも含まれない場合がある。 四沙門果に含まれる場合は、先に述べた通りである。 どこにも含まれない場合とは、色界の見苦所断の結が尽きた場合、例えば凡夫ですでに色界の煩悩を離れた者は、その結の尽きは果に含まれない。すでに色界の煩悩を離れて正性離生に入った者であっても、見道の十五心の間は、その結の尽きは果に含まれない。修行順序に従う者であれば、苦現観の一心の間、集現観・滅現観の各四心の間、道現観の三心の間は、その結の尽きは果に含まれない。 色界の見集所断の結が尽きた場合、例えば凡夫ですでに色界の煩悩を離れた者は、その結の尽きは果に含まれない。すでに色界の煩悩を離れて正性離生に入った者であっても、見道の十五心の間は、その結の尽きは果に含まれない。修行順序に従う者であれば、集現観の一心の間、滅現観の四心の間、道現観の三心の間は、その結の尽きは果に含まれない。 色界の見滅所断の結が尽きた場合、例えば凡夫ですでに色界の煩悩を離れた者は、その結の尽きは果に含まれない。すでに色界の煩悩を離れて正性離生に入った者であっても、見道の十五心の間は、その結の尽きは果に含まれない。修行順序に従う者であれば、滅現観の一心の間、道現観の三心の間は、その結の尽きは果に含まれない。 色界の見道所断の結が尽きた場合、例えば凡夫ですでに色界の煩悩を離れた者は、その結の尽きは果に含まれない。すでに色界の煩悩を離れて正性離生に入った者であっても、見道の十五心の間は、その結の尽きは果に含まれない。修行順序に従う者に、果に含まれないという意味はない。なぜなら、道類智忍が滅する時に初めてその尽きが断たれ、道類智が生じる時に、そのしかるべきに従って前三果を証し、その結の尽きはすでに前三果に含まれるからである。 色界の修所断の結が尽きた場合、それは何の果に含まれるのか。 答：阿羅漢果、あるいはどこにも含まれない場合がある。 阿羅漢果に含まれる場合とは、その結の尽きが阿羅漢果を証する時には阿羅漢果に含まれることをいう。 どこにも含まれない場合とは、凡夫ですでに色界の煩悩を離れた者は、その結の尽きは果に含まれない。すでに色界の煩悩を離れて正性離生に入った者であっても、見道の十五心の間および道類智などの有学の位においては、その結の尽きは果に含まれない。 修行順序に従う者であれば、第四静慮の煩悩を離れる第九解脱道から、金剛喩定が現前する時まで、その結の尽きは果に含まれない。 無色界において、苦・集・滅の見断の結が尽きた場合、それは何の果に含まれるのか。 答：四沙門果、あるいはどこにも含まれない場合がある。 四沙門果に含まれる場合は、先に述べた通りである。 どこにも含まれない場合とは、無色界の見苦所断の結が尽きた場合、凡夫に果に含まれないという意味はない。なぜなら、凡夫で非想非非想処の見断・修断の結を離れることができる者はいないからである。 修行順序に従う者であれば、苦現観の一心の間、集現観・滅現観の各四心の間、道現観の三心の間は、その結の尽きは果に含まれない。 無色界の見集所断の結が尽きた場合、凡夫に果に含まれないという意味はない。その意味は先に述べた通りである。 修行順序に従う者であれば、集現観の一心の間、滅現観の四心の間、道現観の三心の間は、その結の尽きは果に含まれない。 無色界の見滅所断の結が尽きた場合、凡夫に果に含まれないという意味はない。その意味は先に述べた通りである。 修行順序に従う者であれば、滅現観の一心の間、道現観の三心の間は、その結の尽きは果に含まれない。 無色界の見道所断の結が尽きた場合、それは何の果に含まれるのか。 答：四沙門果。すなわち、その結の尽きが預流果を証する時には預流果に含まれ、乃至、阿羅漢果を証する時には阿羅漢果に含まれる。凡夫に果に含まれないという意味はない。その意味は先に述べた通りである。 また、修行順序に従う者に、果に含まれないという意味もない。なぜなら、道類智忍が滅する時に初めてその尽きが断たれ、道類智が生じる時に、そのしかるべきに従って前三果を証し、その結の尽きはすでに前三果に含まれるからである。 無色界の修所断の結が尽きた場合、それは何の果に含まれるのか。 答：阿羅漢果。すなわち、その結の尽きが阿羅漢果を証する時には阿羅漢果に含まれる。凡夫に果に含まれないという意味はない。その意味は先に述べた通りである。 また、修行順序に従う者に、果に含まれないという意味もない。なぜなら、金剛喩定が現前する時に初めてその尽きが断たれ、最初の尽智が生じる時に阿羅漢果を証し、その結の尽きはすでに阿羅漢果に含まれるからである。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第六十四

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