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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 3"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第六十五

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第六十五巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 結蘊第二中有情納息第三之三

> 結蘊第二中有情納息第三之三

三結乃至九十八隨眠一一盡何果攝。問何故作此論。答先雖說十五部結盡諸果所攝。而未說十六章煩惱盡諸果所攝。今欲說之故作斯論。答三結中有身見盡四沙門果攝。或無處。四沙門果攝者。謂彼盡證預流果時即預流果攝。乃至證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。或無處者謂無異生非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處有身見故。次第者苦現觀一心頃。集滅現觀各四心頃。道現觀三心頃。有身見盡非果攝。如三結中有身見盡。應知五順下分結中有身見。五見中有身見邊執見盡亦爾。自性等故同對治故。戒禁取疑盡四沙門果攝。四果攝義如前應知。此無異生非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處戒禁取疑故。亦無次第者非果攝義。所以者何。道類智忍滅時方斷彼盡。道類智生時隨其所應證前三果。戒禁取疑盡即前三果攝故。如三結中戒禁取疑盡。應知四瀑流軛中見瀑流軛。四取中見取戒禁取。四身繫中戒禁取此實執身繫。五順下分結中戒禁取疑。五見中邪見見取戒禁取。七隨眠中見疑隨眠。九結中見取疑結盡亦爾。自性等故。同對治故。三不善根盡不還阿羅漢果攝。或無處。不還果攝者。謂彼盡證不還果時即不還果攝。阿羅漢果攝者。謂彼盡證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。或無處者。謂諸異生已離欲染彼盡非果攝。已離欲染入正性離生者。見道十五心頃彼盡非果攝。無次第者非果攝義。所以者何。離欲染第九無間道滅時方斷彼盡。第九解脫道生時證不還果即不還果攝故。如三不善根盡。應知三漏中欲漏。四瀑流軛中欲瀑流軛。四取中欲取。四身繫中貪欲瞋恚。五蓋中前四蓋。五結中瞋嫉慳結。五順下分結中貪欲瞋恚。六愛身中鼻舌觸所生愛身。七隨眠中貪欲瞋恚。九結中恚嫉慳結盡亦爾。自性等故。同對治故。有漏無明漏盡阿羅漢果攝。謂彼盡證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。無有異生非果攝義。所以者何。無異生者能離非想非非想處有漏無明漏故。亦無次第者非果攝義。所以者何。金剛喻定現在前時方斷彼盡。初盡智生時證阿羅漢果彼盡即阿羅漢果攝故。如有漏無明漏盡。應知四瀑流軛中有無明瀑流軛。四取中我語取。五結中貪慢結。五順上分結中除色貪餘四。六愛身中意觸所生愛身。七隨眠中有貪無明慢。九結中愛慢無明結盡亦爾。自性等故。同對治故。疑蓋盡四沙門果攝。或無處。四沙門果攝者如前說。或無處者。謂諸異生已離欲染疑蓋盡非果攝。已離欲染入正性離生者。見道十五心頃疑蓋盡非果攝。次第者道現觀二心頃疑蓋盡非果攝。色貪順上分結盡阿羅漢果攝或無處。阿羅漢果攝者。謂彼盡證阿羅漢果時即阿羅漢果攝。或無處者。謂諸異生已離色染彼盡非果攝。已離色染入正性離生者。見道十五心頃及道類智等諸有學位彼盡非果攝。次第者從離第四靜慮染第九解脫道。乃至金剛喻定現在前時彼盡非果攝。如色貪順上分結盡。應知眼耳身觸所生愛身盡亦爾。自性等故。同對治故。然有差別。此中應言或無處者。謂諸異生已離梵世染彼盡非果攝。已離梵世染入正性離生者。見道十五心頃及道類智等諸有學位彼盡非果攝。次第者從離初靜慮染第九解脫道。乃至金剛喻定現在前時彼盡非果攝。九十八隨眠中欲界見苦集滅道所斷隨眠盡四沙門果攝或無處。此如十五部結中欲界前四部盡說。欲界修所斷隨眠盡不還阿羅漢果攝或無處。此如十五部結中。欲界第五部盡說。色界見苦集滅道所斷隨眠盡四沙門果攝或無處。此如十五部結中色界前四部盡說。色界修所斷隨眠盡阿羅漢果攝或無處。此如十五部結中色界第五部盡說。無色界見苦集滅所斷隨眠盡四沙門果攝或無處。此如十五部結中無色界前三部盡說。無色界見道所斷隨眠盡四沙門果攝。此如十五部結中無色界第四部盡說。無色界修所斷隨眠盡阿羅漢果攝。此如十五部結中無色界第五部盡說。預流向中諸結盡何果攝。答無處。所以者何。預流果前無沙門果攝彼盡故。預流果中諸結盡何果攝。答預流果。謂此果中總攝三界見所斷諸結盡。一來向中諸結盡何果攝。答預流果或無處。預流果攝者。謂此果中總攝三界見所斷諸結盡。或無處者。謂倍離欲染入正性離生者。見道十五心頃諸結盡非果攝。次第者欲界前五品修所斷諸結盡非果攝。所以者何。是勝果道所證得故。如勝果道非果所攝。所得結盡理亦應爾。一來果中諸結盡何果攝。答一來果。謂此果中總攝三界見所斷諸結盡。及攝欲界修所斷前六品諸結盡。不還向中諸結盡何果攝。答一來果或無處。一來果攝者。謂此果中。總攝三界見所斷諸結盡。及攝欲界修所斷前六品諸結盡。或無處者。謂已離欲乃至無所有處染入正性離生者。見道十五心頃諸結盡非果攝。次第者。欲界修所斷第七第八品諸結盡非果攝。不還果中諸結盡何果攝。答不還果。謂此果中總攝三界見所斷諸結盡。及攝欲界修所斷諸結盡。阿羅漢向中諸結盡何果攝。答不還果或無處。不還果攝者。謂此果中總攝三界見所斷諸結盡。及攝欲界修所斷諸結盡。或無處者。謂離初靜慮一品。乃至非想非非想處八品染諸結盡非果攝。所以者何。是勝果道所證得故。如勝果道非果所攝。所得結盡理亦應爾阿羅漢果中諸結盡何果攝。答阿羅漢果。謂此果中總攝三界見修所斷諸結盡。問此中為說諸向果中所成就諸結盡。為說諸向果中新所證得諸結盡。設爾何失。二俱有過。所以者何。若說諸向果中所成就諸結盡者。前三果中諸結盡不應唯說自果攝。如已離欲前五品染入正性離生者。至道類智時證預流果。彼欲界修所斷五品結盡。非此果攝。何故不說或無處耶。又已離欲前八品染入正性離生者。至道類智時證一來果。彼欲界修所斷第七八品結盡非此果攝何故不說或無處耶。又已離欲乃至無所有處染入正性離生者。至道類智時證不還果。彼上二界七地修所斷結盡非此果攝何故不說或無處耶。若說諸向果中新所證得諸結盡者。後三向中諸結盡不應亦說前果攝。向中新所證結盡定非前果所攝故。答此中總說諸向果中所成就諸結盡。問若爾善通後三向難。前三果難當云何通。答此說具縛入見道者故。前三果所成就結盡唯說自果攝。有作是說。此中果位說新所證所求滿故。向位未滿所求事故總說成就故。向果位二說善通。

> 問う。三結乃至九十八隨眠の、一つ一つの尽（じん）は、いずれの果に摂せられるのか。 問う。何故にこの論を作すのか。 答える。先に、十五部の結の尽が諸果に摂せられることを説いたが、未だ十六章の煩悩の尽が諸果に摂せられることを説いていない。今まさにこれを説かんがために、この論を作す。 答える。三結のうち、有身見の尽は、四沙門果に摂せられるか、または、摂せられる所がない。 四沙門果に摂せられるとは、その尽を証する時が、預流果を証する時であれば預流果に摂せられ、乃至、阿羅漢果を証する時であれば阿羅漢果に摂せられることをいう。 または、摂せられる所がないとは、凡夫には果に摂せられるという義がないことである。何以故ならば、凡夫には非想非非想処の有身見を離れることができないからである。 次第者は、苦現観の一心の間、集現観・滅現観は各々四心の間、道現観は三心の間、有身見の尽は果に摂せられない。 三結のうち有身見の尽のように、五順下分結のうち有身見、五見のうち有身見・辺執見の尽もまた、同じであると知るべきである。自性が等しいからであり、対治が同じだからである。 戒禁取・疑の尽は、四沙門果に摂せられる。四果に摂せられる義は、先の如く知るべきである。 これには、凡夫には果に摂せられる義がない。何以故ならば、凡夫には非想非非想処の戒禁取・疑を離れることができないからである。 また、次第者にも、果に摂せられない義はない。何以故ならば、道類智忍が滅する時に、まさにその尽を断ずるからである。道類智が生ずる時に、その所に随って前の三果を証する。戒禁取・疑の尽は、すなわち前の三果に摂せられるからである。 三結のうち戒禁取・疑の尽のように、四瀑流・軛のうち見瀑流・軛、四取のうち見取・戒禁取、四身系のうち戒禁取・此実執身系、五順下分結のうち戒禁取・疑、五見のうち邪見・見取・戒禁取、七随眠のうち見・疑随眠、九結のうち見取・疑結の尽もまた、同じであると知るべきである。自性が等しいからであり、対治が同じだからである。 三不善根の尽は、不還果・阿羅漢果に摂せられるか、または、摂せられる所がない。 不還果に摂せられるとは、その尽を証する時が不還果を証する時であれば、すなわち不還果に摂せられることをいう。 阿羅漢果に摂せられるとは、その尽を証する時が阿羅漢果を証する時であれば、すなわち阿羅漢果に摂せられることをいう。 または、摂せられる所がないとは、諸の凡夫がすでに欲染を離れている場合、その尽は果に摂せられないことである。すでに欲染を離れて正性離生に入る者は、見道の十五心の間、その尽は果に摂せられない。 次第者に、果に摂せられない義はない。何以故ならば、欲染を離れる第九無間道が滅する時に、まさにその尽を断ずるからである。第九解脱道が生ずる時に不還果を証する。すなわち不還果に摂せられるからである。 三不善根の尽のように、三漏のうち欲漏、四瀑流・軛のうち欲瀑流・軛、四取のうち欲取、四身系のうち貪欲・瞋恚、五蓋のうち前の四蓋、五結のうち瞋・嫉・慳結、五順下分結のうち貪欲・瞋恚、六愛身のうち鼻・舌触に生ずる愛身、七随眠のうち貪欲・瞋恚、九結のうち恚・嫉・慳結の尽もまた、同じであると知るべきである。自性が等しいからであり、対治が同じだからである。 有漏・無明漏の尽は、阿羅漢果に摂せられる。その尽を証する時が阿羅漢果を証する時であれば、すなわち阿羅漢果に摂せられる。 凡夫には果に摂せられない義はない。何以故ならば、凡夫には非想非非想処の有漏・無明漏を離れることができないからである。 また、次第者にも果に摂せられない義はない。何以故ならば、金剛喩定が現在前する時に、まさにその尽を断ずるからである。初めの尽智が生ずる時に阿羅漢果を証する。その尽はすなわち阿羅漢果に摂せられるからである。 有漏・無明漏の尽のように、四瀑流・軛のうち無明瀑流・軛、四取のうち我語取、五結のうち貪・慢結、五順上分結のうち色貪を除く余の四、六愛身のうち意触に生ずる愛身、七随眠のうち有貪・無明・慢、九結のうち愛・慢・無明結の尽もまた、同じであると知るべきである。自性が等しいからであり、対治が同じだからである。 疑蓋の尽は、四沙門果に摂せられるか、または、摂せられる所がない。 四沙門果に摂せられるとは、前に説いた通りである。 または、摂せられる所がないとは、諸の凡夫がすでに欲染を離れている場合、疑蓋の尽は果に摂せられないことである。すでに欲染を離れて正性離生に入る者は、見道の十五心の間、疑蓋の尽は果に摂せられない。 次第者は、道現観の二心の間、疑蓋の尽は果に摂せられない。 色貪の順上分結の尽は、阿羅漢果に摂せられるか、または、摂せられる所がない。 阿羅漢果に摂せられるとは、その尽を証する時が阿羅漢果を証する時であれば、すなわち阿羅漢果に摂せられることをいう。 または、摂せられる所がないとは、諸の凡夫がすでに色染を離れている場合、その尽は果に摂せられないことである。すでに色染を離れて正性離生に入る者は、見道の十五心の間、及び道類智等の諸の有学位において、その尽は果に摂せられない。 次第者は、第四静慮の染を離れる第九解脱道より、乃至、金剛喩定が現在前する時まで、その尽は果に摂せられない。 色貪の順上分結の尽のように、眼・耳・身の触に生ずる愛身の尽もまた、同じであると知るべきである。自性が等しいからであり、対治が同じだからである。 ただし、差別がある。ここにおいて「または、摂せられる所がない」とは、諸の凡夫がすでに梵世の染を離れている場合、その尽は果に摂せられないことである。すでに梵世の染を離れて正性離生に入る者は、見道の十五心の間、及び道類智等の諸の有学位において、その尽は果に摂せられない。次第者は、初静慮の染を離れる第九解脱道より、乃至、金剛喩定が現在前する時まで、その尽は果に摂せられない。 九十八随眠のうち、欲界の見苦・集・滅・道に断ぜられる随眠の尽は、四沙門果に摂せられるか、または、摂せられる所がない。これは、十五部結のうち欲界の前の四部の尽について説くが如し。 欲界の修所断の随眠の尽は、不還果・阿羅漢果に摂せられるか、または、摂せられる所がない。これは、十五部結のうち欲界の第五部の尽について説くが如し。 色界の見苦・集・滅・道に断ぜられる随眠の尽は、四沙門果に摂せられるか、または、摂せられる所がない。これは、十五部結のうち色界の前の四部の尽について説くが如し。 色界の修所断の随眠の尽は、阿羅漢果に摂せられるか、または、摂せられる所がない。これは、十五部結のうち色界の第五部の尽について説くが如し。 無色界の見苦・集・滅に断ぜられる随眠の尽は、四沙門果に摂せられるか、または、摂せられる所がない。これは、十五部結のうち無色界の前三部の尽について説くが如し。 無色界の見道に断ぜられる随眠の尽は、四沙門果に摂せられる。これは、十五部結のうち無色界の第四部の尽について説くが如し。 無色界の修所断の随眠の尽は、阿羅漢果に摂せられる。これは、十五部結のうち無色界の第五部の尽について説くが如し。 預流向における諸の結の尽は、何の果に摂せられるのか。 答える。摂せられる所がない。何以故ならば、預流果の前には、沙門果がその尽を摂する所がないからである。 預流果における諸の結の尽は、何の果に摂せられるのか。 答える。預流果。この果の中に、総じて三界の見所断の諸の結の尽を摂することをいう。 一来向における諸の結の尽は、何の果に摂せられるのか。 答える。預流果か、または、摂せられる所がない。 預流果に摂せられるとは、この果の中に総じて三界の見所断の諸の結の尽を摂することをいう。 または、摂せられる所がないとは、倍離欲染して正性離生に入る者は、見道の十五心の間、諸の結の尽は果に摂せられないことである。 次第者は、欲界の前の五品の修所断の諸の結の尽は、果に摂せられない。何以故ならば、これは勝果道によって証得されるからである。勝果道が果に摂せられないように、得られる結の尽もまた、理として同じであるべきだからである。 一来果における諸の結の尽は、何の果に摂せられるのか。 答える。一来果。この果の中に、総じて三界の見所断の諸の結の尽を摂し、及び欲界の修所断の前の六品の諸の結の尽を摂することをいう。 不還向における諸の結の尽は、何の果に摂せられるのか。 答える。一来果か、または、摂せられる所がない。 一来果に摂せられるとは、この果の中に総じて三界の見所断の諸の結の尽を摂し、及び欲界の修所断の前の六品の諸の結の尽を摂することをいう。 または、摂せられる所がないとは、すでに欲乃至無所有処の染を離れて正性離生に入る者は、見道の十五心の間、諸の結の尽は果に摂せられないことである。 次第者は、欲界の修所断の第七・第八品の諸の結の尽は、果に摂せられない。 不還果における諸の結の尽は、何の果に摂せられるのか。 答える。不還果。この果の中に、総じて三界の見所断の諸の結の尽を摂し、及び欲界の修所断の諸の結の尽を摂することをいう。 阿羅漢向における諸の結の尽は、何の果に摂せられるのか。 答える。不還果か、または、摂せられる所がない。 不還果に摂せられるとは、この果の中に総じて三界の見所断の諸の結の尽を摂し、及び欲界の修所断の諸の結の尽を摂することをいう。 または、摂せられる所がないとは、初静慮の一品乃至非想非非想処の八品の染を離れる、諸の結の尽は果に摂せられないことである。何以故ならば、これは勝果道によって証得されるからである。勝果道が果に摂せられないように、得られる結の尽もまた、理として同じであるべきだからである。 阿羅漢果における諸の結の尽は、何の果に摂せられるのか。 答える。阿羅漢果。この果の中に、総じて三界の見・修所断の諸の結の尽を摂することをいう。 問う。ここにおいて説くのは、諸の向果において成就する所の諸の結の尽のことを説くのか、それとも、諸の向果において新たに証得する所の諸の結の尽のことを説くのか。 仮にそうだとして、何の過失があろうか。二つとも過失がある。何以故ならば、もし諸の向果において成就する所の諸の結の尽を説くならば、前三果における諸の結の尽は、ただ自果に摂せられるとのみ説くべきではないからである。 例えば、すでに欲の前五品の染を離れて正性離生に入る者が、道類智に至る時に預流果を証するが、彼の欲界の修所断の五品の結の尽は、この果に摂せられない。何故に、「または、摂せられる所がない」と説かないのか。 また、すでに欲の前八品の染を離れて正性離生に入る者が、道類智に至る時に一来果を証するが、彼の欲界の修所断の第七・八品の結の尽は、この果に摂せられない。何故に、「または、摂せられる所がない」と説かないのか。 また、すでに欲乃至無所有処の染を離れて正性離生に入る者が、道類智に至る時に不還果を証するが、彼の上二界の七地の修所断の結の尽は、この果に摂せられない。何故に、「または、摂せられる所がない」と説かないのか。 もし諸の向果において新たに証得する所の諸の結の尽を説くならば、後の三向における諸の結の尽は、また前の果に摂せられると説くべきではない。向において新たに証得する結の尽は、必ず前の果に摂せられる所ではないからである。 答える。ここにおいて総じて説くのは、諸の向果において成就する所の諸の結の尽である。 問う。もしそうなら、後の三向の難問はよく通じる。前三果の難問は、どのように通ずべきか。 答える。これは、具縛して見道に入る者について説くからである。故に、前三果において成就する結の尽は、ただ自果に摂せられるとのみ説くのである。 あるいは、このように説く者もある。ここにおいて果の位では、新たに証得するものを説く。求める所の事が満ち足りているからである。向の位は、求める所の事が未だ満ち足りていないので、総じて成就を説くのである。故に、向果の位の二説は善く通ずる。

具見世尊弟子未離欲染。欲界修所斷諸結盡何果攝。答一來果或無處。一來果攝者。謂欲界修所斷前六品諸結盡。或無處者。謂欲界修所斷第七第八品諸結盡。已離欲染未離色染。色界修所斷諸結盡何果攝。答無處。謂離初靜慮一品乃至第四靜慮八品染。彼修所斷諸結盡非果攝。已離色染未離無色染。無色修所斷諸結盡何果攝。答無處。謂離空無邊處一品乃至非想非非想處八品染。彼修所斷諸結盡非果攝。

> 世尊の弟子が、まだ欲界の煩悩から離れていない場合について考えます。 欲界の修行によって断つべき煩悩がすべて尽きた時、その境地はどの「果」に含まれるのでしょうか？ 答え：一来果、あるいはどの果にも含まれません。 一来果に含まれる場合とは、欲界の修行によって断つべき、最初の六つの品目の煩悩がすべて尽きた時です。 どの果にも含まれない場合とは、欲界の修行によって断つべき、第七と第八の品目の煩悩が尽きた時です。 次に、すでに欲界の煩悩は離れたが、まだ色界の煩悩から離れていない場合について考えます。 色界の修行によって断つべき煩悩がすべて尽きた時、その境地はどの「果」に含まれるのでしょうか？ 答え：どの果にも含まれません。 つまり、初禅の一つの品目から第四禅の八つの品目までの煩悩を離れたとしても、それらの修行によって断つべき煩悩が尽きたとしても、その境地はいずれの果にも含まれないのです。 最後に、すでに色界の煩悩も離れたが、まだ無色界の煩悩から離れていない場合について考えます。 無色界の修行によって断つべき煩悩がすべて尽きた時、その境地はどの「果」に含まれるのでしょうか？ 答え：どの果にも含まれません。 つまり、空無辺処の一つの品目から非想非非想処の八つの品目までの煩悩を離れたとしても、それらの修行によって断つべき煩悩が尽きたとしても、その境地はいずれの果にも含まれないのです。

此中說有四沙門果。謂預流果一來果不還果阿羅漢果。問何故說此四沙門果。答為止他宗顯己義故。謂或有說。四沙門果唯是無為如分別論者。問彼何故作是說。答依契經故。如契經說。佛告苾芻。吾當為汝說沙門性及沙門沙門果。云何沙門性。謂八支聖道。云何沙門謂成就此法者。云何沙門果。謂預流果乃至阿羅漢果。云何預流果謂永斷三結。云何一來果謂永斷三結薄貪瞋癡。云何不還果謂永斷五順下分結。云何阿羅漢果。謂永斷貪瞋癡及一切煩惱。依此經故說沙門果唯是無為。為遮彼意顯沙門果亦有為亦無為。若沙門果唯無為者便違契經。如契經說。有行四向有住四果。此中住者住有為果非無為果。以無為果不可住故。彼作是說。無為果中亦可說住故。施設論作如是說。彼住於斷不求勝進。為得未得。為獲未獲。為觸未觸。為證未證。彼論非證。所以者何。彼論意說。住於道故。謂住斷者非如乘象馬住象馬上。但於證斷道不進不退說名為住。有餘契經。唯說有為是沙門果。如說五根增上猛利迅速圓滿。名俱解脫阿羅漢果。次減劣者名慧解脫阿羅漢果。次減劣者名不還果。次減劣者名一來果。最減劣者名預流果。此中。唯說信等五根勝劣差別名沙門果故。知沙門果。非但是無為。問若沙門果亦是有為。云何通彼所引契經。答四沙門果實通有為無為。而彼契經且說是無為者。所以者何。唯說果故。若法是沙門果非沙門性者彼經說之道。是沙門果亦是沙門性故彼不說。復次若法是婆羅門果非婆羅門性者彼經說之道。是婆羅門果亦是婆羅門性故彼不說。復次若法是梵行果非梵行性者彼經說之道。是梵行果亦是梵行性故彼不說。復次若法是果非有果者彼經說之道。是果亦是有果故彼不說。復次若法是離非有離者彼經說之道。是離亦是有離故彼不說。復次若法是所求非所厭者彼經說之道。是所求亦是所厭故彼不說。為止如是他宗所說欲顯自宗故說四果。復次勿為止他顯示己義。但為開發法相正理令他了知故說四果。問四沙門果自性是何。答品類足論作如是說。預流果有二種。謂有為及無為。云何有為預流果。謂證預流果者於諸學法已正當得。已得者謂過去。正得者謂現在。當得者謂未來。云何無為預流果。謂證預流果者。於諸結斷已正當得。已得者謂過去。正得者謂現在。當得者謂未來。問道是有為墮在三世可說於彼已正當得。斷是無為不墮三世云何說於彼已正當得耶。答品類足論應作是說。於諸結斷得獲觸證不應說言已正當得。作是說者有別意趣。欲顯彼斷得及相續得者。謂彼斷得在過去名已得。在現在名正得。在未來名當得。相續者謂證斷相續。在過去名已得。在現在名正得。在未來名當得。又彼論說一來果有二種。謂有為及無為。云何有為一來果。謂證一來果者。於諸學法已正當得。餘如前說。云何無為一來果。謂證一來果者。於諸結斷已正當得餘如前說。不還果有二種。謂有為及無為。云何有為不還果。謂證不還果者。於諸學法已正當得餘如前說。云何無為不還果。謂證不還果者。於諸結斷已正當得。餘如前說。阿羅漢果有二種。謂有為及無為。云何有為阿羅漢果。謂證阿羅漢果者。於諸無學法已正當得。餘如前說。云何無為阿羅漢果。謂證阿羅漢果者。於諸結斷已正當得。餘如前說。施設論中亦作是說。預流果有二種。謂有為及無為。云何有為預流果。謂此果得及此得得。此果得者。謂有為無為預流果得。此得得者。謂此果得之得由此果得故成就預流果。由此得得故成就此果得。若諸學根學力學戒學善根八學法。及此種類諸學法。是名有為預流果。云何無為預流果。謂三結永斷。及此種類諸結法永斷。八十八隨眠永斷。及此種類隨眠法永斷。是名無為預流果。一來果有二種。謂有為及無為。云何有為一來果。謂此果得及此得得。餘如前說。若諸學根學力學戒學善根八學法。及此種類諸學法。是名有為一來果。云何無為一來果。謂三結永斷。及此種類諸結法永斷。八十八隨眠永斷。及此種類隨眠法永斷貪瞋癡倍斷。及此種類煩惱法倍斷。是名無為一來果。不還果有二種。謂有為及無為。云何有為不還果。謂此果得及此得得。餘如前說。若諸學根學力學戒學善根八學法。及此種類諸學法。是名有為不還果。云何無為不還果。謂五順下分結永斷。及此種類諸結法永斷。九十二隨眠永斷。及此種類隨眠法永斷。是名無為不還果。阿羅漢果有二種。謂有為及無為。云何有為阿羅漢果。謂此果得及此得得。餘如前說。若諸無學根無學力無學戒無學善根十無學法。及此種類諸無學法。是名有為阿羅漢果。云何無為阿羅漢果。謂貪瞋癡永斷。及一切煩惱永斷。越一切趣斷一切路。滅三種火渡四瀑流。摧諸傲慢離諸渴愛。破阿賴耶。無上究竟無上寂靜無上安樂。及諸愛盡離滅涅槃。是名無為阿羅漢果。是謂四沙門果自性我物相分本性。已說自性。所以今當說。問何故名沙門果。沙門果是何義。答所有聖道是沙門性。有為無為及諸擇滅。是此果故名沙門果。問若爾。此果不應唯四。謂見道中八忍品是沙門性。八智品是有為沙門果。八部法斷是無為沙門果。離欲界染時九無間道是沙門性。九解脫道是有為沙門果。九品法斷是無為沙門果。如是乃至離非想非非想處染時應知亦爾。如是便有八十九有為沙門果。八十九無為沙門果。若依此說。此沙門果有二百六十七。謂八十九在過去。八十九在現在。八十九在未來。品類足論作如是說。云何果法。謂一切有為法及擇滅。隨諸聖道爾所剎那。即有爾所有為沙門果。隨有漏法有爾所量。擇滅無為亦有爾所。隨有爾所擇滅無為。即有爾所無為沙門果。若以剎那在身分別。便有無量沙門果體。何故唯說四沙門果。有作是說。此是世尊為受化者所宜聞故有餘略說。脇尊者曰。唯佛世尊能具正智諸法性相勢用分齊。餘不能知。若此堪立沙門果者即便立之。若不堪者便不建立。故不應難。尊者世友作如是說。此是世尊為開智者簡要而說。故不應難。復次此四果位易見易施設。謂此是預流果乃至此是阿羅漢果。所餘諸位難見難施設。故佛但說四沙門果。復次此四果位。諸瑜伽師於果發起增上慶悅。餘位不爾。如務農者於六月中修治稼穡。後收子實積置場中生大慶悅。此亦如是。故佛唯說四沙門果。復次此四果位具三因緣。一捨曾得道。二得未曾得道。三證結斷一味得。餘位不爾。故佛唯說四沙門果。復次此四果位具五因緣。一捨曾得道。二得未曾得道。三證結斷一味得。四頓得八智。五一時修十六行相。餘位不爾。故佛唯說四沙門果。復次此四果位。是瑜伽師最勝安隱穌息之處。餘位不爾故佛唯說四沙門果。復次此四果位所有聖道是功用。是功用究竟所有結斷是所作。是所作究竟。餘位聖道是功用非功用究竟。餘位結斷是所作非所作究竟。故佛唯說四沙門果。復次此四果位容修行者廣修聖道。餘位不爾。故佛唯說四沙門果。復次此四果位。諸瑜伽師能善了知功德過失。功德者謂道及道果。過失者謂生死因果。餘位不爾。故佛唯說四沙門果。復次此四果位。諸瑜伽師方能善取四聖諦相。餘位不爾。如人道。行於四方相未能善取。若坐一處方能善取。此亦如是。故佛唯說四沙門果。復次此四果位。若退失時有證知者。餘位不爾。如村邑中若被劫奪有證知者非兩中間。故佛唯說四沙門果。復次此四果位。諸瑜伽師先廣加行安足堅固。餘位不爾。預流果先廣加行者。謂彼先求解脫果故。精勤修習惠施淨戒。不淨觀持息念念住聞思修慧。及煖頂忍世第一法。并見道中十五心頃。即此總名安足堅固。有說。從初乃至世第一法名廣加行。見道十五心名安足堅固。一來果先廣加行者。謂即前說及離欲染諸加行道。六無間道五解脫道即此名為安足堅固。有說。預流果名安足堅固。不還果先廣加行者。謂即前說及離欲染諸加行道。三無間道二解脫道。即此名為安足堅固。有說。一來果名安足堅固。阿羅漢果先廣加行者。謂即前說及離初靜慮一品染諸加行道。乃至金剛喻定。即此總名安足堅固。有說。不還果名安足堅固。故佛唯說四沙門果。復次此四果位。諸瑜伽師斷絕止息一切生分。餘位不爾。謂預流果除欲界七生及色無色界一一處一生。餘一切生得非擇滅。一來果除欲界二生及色無色界一一處一生。餘一切生得非擇滅。不還果除色無色界一一處一生。餘一切生得非擇滅。阿羅漢果於一切生。得非擇滅。故佛唯說四沙門果。復次此四果位。諸瑜伽師總集三界見修所斷煩惱斷得。餘位不爾。謂預流果位總集三界見所斷煩惱斷得。一來果位總集三界見所斷。及欲界修所斷前六品煩惱斷得。不還果位總集三界見所斷。及欲界修所斷九品煩惱斷得。阿羅漢果位總集三界見修所斷一切煩惱斷得。故佛唯說四沙門果。復次此四果位。是瑜伽師本所求處。餘位不爾故佛唯說四沙門果。復次此四果位。諸瑜伽師說有退者若未還得必不命終。餘位不爾。故佛唯說四沙門果。復次此四果位對治五趣得非擇滅。餘位不爾。謂預流果對治地獄傍生鬼趣得非擇滅。一來果對治人趣一分得非擇滅。不還果對治人趣全分得非擇滅。阿羅漢果對治天趣得非擇滅。故佛唯說四沙門果。復次此四果位對治四生得非擇滅。餘位不爾。謂預流果對治卵生濕生得非擇滅。一來果對治胎生一分得非擇滅。不還果對治胎生全分得非擇滅。阿羅漢果對治化生得非擇滅。故佛唯說四沙門果。復次此四果位對治二邊。餘位不爾。言二邊者。謂欲界及有頂對治欲界邊故得一來不還果。對治有頂邊故得預流阿羅漢果。故佛唯說四沙門果。復次此四果位對治二有根本。餘位不爾二有根本者。謂欲界及有頂。對治欲界有根本故得一來不還果。對治有頂有根本故得預流阿羅漢果。故佛唯說四沙門果。復次此四果位能永對治二種惡思。及彼異熟所依諸蘊。餘位不爾。二種惡思者。謂斷善根思及起無間業思。預流果能永對治斷善根思。一來果能永對治起無間業思。不還果能永對治彼異熟果。阿羅漢果能永對治彼所依諸蘊。故佛唯說四沙門果。復次此四果位對治三法。餘位不爾。謂預流果對治三結。一來果對治三不善根及欲漏一分。不還果對治三不善根及欲漏全分。阿羅漢果對治有漏無明漏。故佛唯說四沙門果。復次此四果位對治四法。餘位不爾。謂預流果對治見瀑流軛見取戒禁取及後二身繫。一來果對治欲瀑流軛取及初二身繫一分。不還對治欲瀑流軛取及前二身繫全分。阿羅漢果對治有無明瀑流軛及我語取。故佛唯說四沙門果。復次此四果位對治五法。餘位不爾。謂預流果對治疑蓋後三順下分結及五見。一來果對治前四蓋瞋嫉慳結。及前二順下分結一分。不還果對治前四蓋瞋嫉慳結。及前二順下分結全分。阿羅漢果對治貪慢結。及五順上分結。故佛唯說四沙門果。復次此四果位對治六愛身。餘位不爾。謂預流果對治見所斷意觸所生愛身。一來果對治鼻舌觸所生愛身一分。不還果對治鼻舌觸所生愛身全分。阿羅漢果對治眼耳身觸所生愛身。及修所斷意觸所生愛身。故佛唯說四沙門果。復次此四果位對治七隨眠。餘位不爾。謂預流果對治見疑隨眠。一來果對治欲貪瞋恚隨眠一分。不還果對治欲貪瞋恚隨眠全分。阿羅漢果對治有貪慢無明隨眠。故佛唯說四沙門果。復次此四果位對治九結。餘位不爾。謂預流果對治見取疑結。一來果對治恚嫉慳結一分。不還果對治恚嫉慳結全分。阿羅漢果對治愛慢無明結。故佛唯說四沙門果。復次此四果位對治九十八隨眠。餘位不爾。謂預流果對治三界見所斷隨眠。一來果對治欲界修所斷隨眠一分。不還果對治欲界修所斷隨眠全分。阿羅漢果對治色無色界修所斷隨眠。故佛唯說四沙門果。復次此四果位各出一種重煩惱際。餘位不爾。謂預流果出見所斷重煩惱際。一來果出能等起五無間業重煩惱際。謂欲界前六品煩惱能等起五無間業。後三品不爾。勢力劣故。不還果出諸不善重煩惱際。阿羅漢果出諸無記重煩惱際。故佛唯說四沙門果。

> ここに四つの沙門果（修行の成果）が説かれています。すなわち、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果です。 問：なぜこれらの四つの沙門果が説かれたのでしょうか。 答：他者の主張を否定し、自らの教えを明らかにするためです。ある者たち（分別論者）は、「四つの沙門果は、ただ無為（条件づけられないもの）のみである」と説きます。 問：なぜ彼らはそのように説くのでしょうか。 答：経典に依拠するからです。経典にこうあります。「比丘たちよ、あなたたちに沙門性（修行者の本質）、沙門（修行者）、そして沙門果（修行の成果）を説こう。沙門性とは何か。それは八支聖道である。沙門とは何か。それはこの法を成就した者である。沙門果とは何か。それは預流果から阿羅漢果に至るまでである。預流果とは何か。それは三つの結び目（三結）を永遠に断ち切ることである。一来果とは何か。それは三つの結び目を永遠に断ち切り、貪り・怒り・無知を薄くすることである。不還果とは何か。それは五つの下位の結び目（五順下分結）を永遠に断ち切ることである。阿羅漢果とは何か。それは貪り・怒り・無知、そしてあらゆる煩悩を永遠に断ち切ることである。」この経典に基づいて、彼らは沙門果は無為のみであると説くのです。 しかし、その考えを否定し、沙門果には有為（条件づけられたもの）も無為も含まれることを明らかにするためです。もし沙門果が無為だけなら、経典に矛盾します。経典には、「四つの道に向かう者（四向）と、四つの果に安住する者（四果）がいる」とあります。ここでいう「安住する」とは、有為の果に安住することで、無為の果に安住することではありません。無為の果には「安住」という概念が当てはまらないからです。 彼らはこう反論するでしょう。「無為の果においても『安住』は語れる。『施設論』にはこうあるからだ。『彼はその断（煩悩を断ち切った状態）に安住し、より優れたものを得ようと努めない。まだ得ていないものを得るために、まだ獲ていないものを獲るために、まだ触れていないものに触れるために、まだ証していないものを証するために、努めようとしない。』」 しかし、その論は証拠として不適切です。なぜなら、その論の真意は「道に安住する」という意味だからです。「断に安住する」とは、象や馬に乗ってその上に「いる」ように物理的に存在することではなく、煩悩を断つ道において、進むことも退くこともない状態を「安住」と言うのです。 また別の経典では、沙門果を有為のみと説くものもあります。例えば、「五つの根（信・精進・念・定・慧）が増上し、鋭利で、迅速で、円満であるとき、これを倶解脱阿羅漢果と名づける。その次に劣る者を慧解脱阿羅漢果と名づける。さらに劣る者を不還果、その次を一来果、最も劣る者を預流果と名づける。」この経典では、五根の優劣の差だけを沙門果としているので、沙門果が無為だけではないことが分かります。 問：もし沙門果が有為も含むなら、彼らが引用した経典をどう説明するのですか。 答：四つの沙門果は実際には有為と無為の両方を含みます。しかし、彼らが引用した経典が、特に無為の側面だけを説いたのは、果（結果）のみを述べているからです。もしある法が沙門果であって沙門性ではないなら、その経典はそれを説きます。道は沙門果であり、かつ沙門性でもあるので、その経典では説かれていないのです。（同様に、婆羅門果、梵行果、果であって有果でないもの、離であって有離でないもの、求められるものであって嫌われるものでないもの、といった観点からも説明できます。） 他宗のこのような説を否定し、自宗の立場を明らかにしたいがために、四つの果が説かれたのです。あるいは、単に他宗を否定するためではなく、法の相（特性）と正しい道理を明らかにし、人々に理解させるために、四つの果が説かれたのです。 問：四つの沙門果の本質（自性）は何でしょうか。 答：『品類足論』ではこう説いています。預流果には二種類あります。有為の預流果と無為の預流果です。 有為の預流果とは、預流果を証した者が、学ぶべき諸々の法（学法）を、すでに得、まさに得つつあり、将来得るであろうもの、をいいます。「すでに得た」とは過去、「まさに得つつある」とは現在、「将来得るであろう」とは未来のことです。 無為の預流果とは、預流果を証した者が、諸々の結び目（結）の断を、すでに得、まさに得つつあり、将来得るであろうもの、をいいます。 問：道は有為であり三世に属するので、それについて「すでに得た、まさに得つつある、将来得るであろう」と言えます。しかし断は無為であり三世に属さないのに、どうしてそれについて「すでに得た、まさに得つつある、将来得るであろう」と言えるのですか。 答：『品類足論』はこう言うべきです。「諸々の結び目の断については、『得る、獲る、触れる、証する』とは言っても、『すでに得た、まさに得つつある、将来得るであろう』とは言うべきではない」と。しかし、この論がそのように言うのには別の意図があります。それは、その断の「得」（煩悩を断ち切ったという智慧の獲得）と、その「相続」（煩悩を断ち切った状態の連続）を表現したいからです。 （同様に、一来果、不還果、阿羅漢果についても、有為と無為の二種があると説明されます。） 『施設論』でも同様に説かれています。預流果には有為と無為の二種がある。有為の預流果とは、この果の「得」と、その「得」の「得」である。……（以下、各果の詳細な説明が続きます。有為の果には学法や無学法が含まれ、無為の果には煩悩の永遠の断尽が含まれます。） これが四つの沙門果の本質、自己、物質的な構成要素、性質です。本質を述べたので、次にその名前の意味を説明します。 問：なぜ「沙門果」という名前なのですか。沙門果とはどういう意味ですか。 答：すべての聖なる道（聖道）が沙門性です。有為の果と無為の果（特に択滅）がその果であるので、沙門果と名づけます。 問：もしそうなら、この果は四つだけであるべきではありません。見道には八つの忍品（無間道）が沙門性で、八つの智品（解脱道）が有為の沙門果、八つの法断（煩悩の断）が無為の沙門果です。また、欲界の煩悩を離れる時、九つの無間道が沙門性で、九つの解脱道が有為の沙門果、九つの品の法断が無為の沙門果です。このようにして、非想非非想処の煩悩を離れる時まで、同じように考えるべきです。そうすると、八十九の有為の沙門果と、八十九の無為の沙門果があることになります。さらに三世を考慮すると、二百六十七もの沙門果があることになります。なぜ仏はわずか四つだけを説いたのですか。 答：ある論師はこう言います。「これは世尊が、教えを受ける人々が聞きやすいように、簡略に説かれたのです。」 脇尊者はこう言います。「世尊のみが、すべての法の性質、状態、働き、限界を完全に知る智慧を持っておられます。他の者にはそれは分かりません。もしこれが沙門果として成立するに値するなら、それを立て、もし値しないなら立てないのです。ですから、この点で非難すべきではありません。」 尊者世友はこう言います。「これは世尊が、智慧ある人々のために簡潔に説かれたものです。ですから、非難すべきではありません。」 また、次のような理由もあります。 1. これら四つの果の段階は、見やすく、説明しやすいからです。（預流果、一来果などと明確に区別できる。） 2. これらの果の段階では、修行者は結果に対して大きな喜びを感じますが、他の段階ではそうではありません。 3. これらの果の段階は、三つの因縁を備えています。（以前に得た道を捨て、未だ得たことのない道を得、煩悩の断という一味の得を証する。） 4. これらの果の段階は、五つの因縁を備えています。（上記三つに加え、一度に八つの智を得て、同時に十六の行相を修する。） 5. これらの果の段階は、修行者にとって最も優れた安らぎの場所だからです。 6. これらの果の段階にある聖道は「功用」であり「功用の究竟」であり、煩悩の断は「所作」であり「所作の究竟」だからです。 7. これらの果の段階では、修行者は広く聖道を修行できるからです。 8. これらの果の段階では、修行者は功徳（道と道果）と過失（生死の因果）をよく知ることができるからです。 9. これらの果の段階では、修行者は四つの聖諦の特徴をよく捉えることができるからです。 10. これらの果の段階から退堕した場合、それを証明する人がいるからです。 11. これらの果の段階は、修行者が初めに広く修行（加行）を積み、しっかりと基盤（安足）を固める場所だからです。 12. これらの果の段階では、修行者はあらゆる再生の部分を断ち切り、止滅させるからです。 13. これらの果の段階では、修行者は三界の見断と修断の煩悩の断を総合して得るからです。 14. これらの果の段階は、修行者が本来求める場所だからです。 15. これらの果の段階から退堕したとしても、それを取り戻さなければ命終することはないと説かれるからです。 16. これらの果の段階は、五つの生存の領域（五趣）や、四つの生まれ方（四生）などに対する対治として、非択滅（積極的に選ばなくても得られる滅）を得るからです。 （以下、様々な煩悩や束縛に対する対治の観点からも、四つの果だけが特に重要な段階であると説明されます。） これらの多くの理由により、仏は四つの沙門果だけを説かれたのです。

問何故離欲界染立二沙門果。謂一來不還果。離色無色界染立一沙門果。謂阿羅漢果耶。脇尊者曰。唯佛世尊能具正知諸法性相勢用分齊餘不能知。若離此染堪立二果便即立二。若離此染堪立一果便即立一。故不應難。復次四沙門果無不皆因離三界染而得建立。謂離三界見所斷染立預流果。若離三界見所斷染。及離欲界修所斷前六品染立一來果。若離三界見所斷染。及離欲界修所斷染立不還果。若離三界見修所斷染立阿羅漢果。復次以欲界是不定界非修地非離染地。故離彼染立二沙門果。色無色界是定界是修地是離染地。故離彼染唯立一沙門果。復次以欲界難斷難破難可越度。故離彼染立二沙門果。色無色界易斷易破易可越度。故離彼染唯立一沙門果。復次以欲界過患增盛過患堅固過患眾多故。離彼染立二沙門果。色無色界與此相違。故離彼染唯立一沙門果。復次以欲界煩惱猶如瀑流難可越度。故離彼染立二沙門果。如人渡河其水深廣濤波漂急數數止息乃能渡之。如契經說。邑主當知。言瀑流者喻五妙欲。色無色界與此相違。故離彼染唯立一沙門果。復次以欲界是嶮難界。煩惱增重作業增重。猶如重擔難可越度。故離彼染立二沙門果。色無色界非嶮難界。煩惱作業設有增重而易越度。故離彼染唯立一沙門果。如人擔重登嶮難山數數止息乃能越度。若至平地雖復擔重而易遠涉。此亦如是。復次以欲界是雜穢界。猶如淤泥雜諸糞穢難可出離。故離彼染立二沙門果。色無色界與此相違。故離彼染唯立一沙門果。如糞聚上造立宮室。雖復妙好人不樂住。色無色界亦復如是。為居欲界雜穢法上。雖復妙好賢聖不樂。是故尊者僧伽筏蘇作如是說。此欲界中多諸過失。謂喪父母兄弟姊妹妻子眷屬亡失財位。或被割截耳鼻手足及諸身分。或復遭於四百四病。由如是等種種因緣受諸劇苦。如是欲界多諸過失。若離彼染。總立一切四沙門果猶少況二。復次以欲界有男身女身難可越度。故離彼染立二沙門果。色無色界唯有男身易可越度。故離彼染唯立一沙門果。復次以欲界有男根女根難可越度。故離彼染立二沙門果。色無色界無男女根易可越度。故離彼染唯立一沙門果。復次以欲界有不善無記二種煩惱難可越度。故離彼染立二沙門果。色無色界唯有一種無記煩惱易可越度。故離彼染唯立一沙門果如不善無記二種煩惱。如是有異熟無異熟生二果生一果。無慚無愧相應不相應煩惱應知亦爾。復次以欲界有苦根憂根無慚無愧嫉慳段食。及婬欲愛五蓋五欲諸惡趣等種種過患難可出離。故離彼染立二沙門果。色無色界與此相違故離彼染唯立一沙門果。復次欲界具有十八界十二處等多有漏法難可出離。故離彼染立二沙門果。色無色界有漏法少。故離彼染唯立一沙門果。問何故離見所斷染立初一沙門果。離修所斷染立後三沙門果耶。答見所斷染易可遠離。故離彼時立初一沙門果。修所斷染難可遠離。故離彼時立後三沙門果。

> 問う、なぜ欲界の煩悩を離れると二つの沙門果（一来果・不還果）が立てられ、色界・無色界の煩悩を離れると一つの沙門果（阿羅漢果）だけが立てられるのか。 脇尊者は言う。仏世尊のみが、あらゆる法の性質・作用・限界を完全に正しく知ることができ、他の者にはそれができない。もしある煩悩を離れることで二つの果報に値するならば、その場合は二つを立て、一つの果報に値するならば一つを立てる。したがって、このことを難じてはならない。 また、四つの沙門果はすべて、三界の煩悩を離れることによって成立する。すなわち、三界の見道で断つべき煩悩を離れて預流果が立ち、三界の見道の煩悩と、欲界の修道で断つべき前六品の煩悩を離れて一来果が立ち、三界の見道の煩悩と、欲界の修道で断つべき全煩悩を離れて不還果が立ち、三界の見道・修道の全煩悩を離れて阿羅漢果が立つ。 また、欲界は定まらない世界であり、修行の場ではなく、煩悩を離れる境地でもない。よって、その煩悩を離れると二つの沙門果が立てられる。一方、色界・無色界は定まった世界であり、修行の場であり、煩悩を離れる境地である。よって、その煩悩を離れると一つの沙門果だけが立てられる。 また、欲界は断ち難く、破り難く、超え難い。よって、その煩悩を離れると二つの沙門果が立てられる。色界・無色界は断ち易く、破り易く、超え易い。よって、その煩悩を離れると一つの沙門果だけが立てられる。 また、欲界は過患が大きく、堅固で、多い。よって、その煩悩を離れると二つの沙門果が立てられる。色界・無色界はこれと反対である。よって、その煩悩を離れると一つの沙門果だけが立てられる。 また、欲界の煩悩は激流のように超え難い。よって、その煩悩を離れると二つの沙門果が立てられる。例えば人が川を渡る時、水が深く広く、波が激しく流れが速いならば、何度も休みながらでなければ渡れない。経典にも「村長よ知れ、『激流』とは五つの妙なる欲を指す」と説かれている。色界・無色界はこれと反対である。よって、その煩悩を離れると一つの沙門果だけが立てられる。 また、欲界は危険な世界であり、煩悩の働きも行為の重みも大きく、重荷のように超え難い。よって、その煩悩を離れると二つの沙門果が立てられる。色界・無色界は危険な世界ではなく、煩悩や行為に重みがあっても超え易い。よって、その煩悩を離れると一つの沙門果だけが立てられる。例えば人が重い荷物を背負って険しい山に登る時は、何度も休みながらでなければ越えられないが、平地であれば荷物が重くても遠くまで進める。これも同じである。 また、欲界は汚れた世界であり、泥や汚物のように出離し難い。よって、その煩悩を離れると二つの沙門果が立てられる。色界・無色界はこれと反対である。よって、その煩悩を離れると一つの沙門果だけが立てられる。例えば糞の山の上に宮殿を建てても、たとえ立派でも人は住みたがらない。色界・無色界もこれと同じで、欲界という汚れたものの上にあり、たとえ立派でも賢聖は喜んで住まない。 そこで、尊者僧伽筏蘇はこう説いている。「この欲界には多くの過失がある。すなわち、父母・兄弟・姉妹・妻子・親族を失い、財産や地位を失い、耳・鼻・手足・身体の一部を切られること、あるいは四百四病に遭うことなど、様々な因縁により激しい苦しみを受ける。このように欲界には多くの過失がある。その煩悩を離れるならば、四つの沙門果すべてを立ててもまだ足りないほどなのに、まして二つだけ立てるのは少なすぎる」と。 また、欲界には男身・女身があり、超え難い。よって、その煩悩を離れると二つの沙門果が立てられる。色界・無色界には男身だけがあり、超え易い。よって、その煩悩を離れると一つの沙門果だけが立てられる。 また、欲界には男根・女根があり、超え難い。よって、その煩悩を離れると二つの沙門果が立てられる。色界・無色界には男根・女根がなく、超え易い。よって、その煩悩を離れると一つの沙門果だけが立てられる。 また、欲界には不善と無記の二種の煩悩があり、超え難い。よって、その煩悩を離れると二つの沙門果が立てられる。色界・無色界には無記の煩悩だけがあり、超え易い。よって、その煩悩を離れると一つの沙門果だけが立てられる。不善・無記の二種の煩悩と同様に、異熟を伴う煩悩と伴わない煩悩、二つの果を生むものと一つの果を生むもの、無慚・無愧と相応する煩悩と相応しない煩悩についても、同じように理解すべきである。 また、欲界には苦根・憂根・無慚・無愧・嫉・慳・段食・婬欲の愛・五蓋・五欲・諸々の悪趣など、様々な過患があり、出離し難い。よって、その煩悩を離れると二つの沙門果が立てられる。色界・無色界はこれと反対である。よって、その煩悩を離れると一つの沙門果だけが立てられる。 また、欲界には十八界・十二処など、多くの有漏法があり、出離し難い。よって、その煩悩を離れると二つの沙門果が立てられる。色界・無色界には有漏法が少ない。よって、その煩悩を離れると一つの沙門果だけが立てられる。 問う、なぜ見道で断つべき煩悩を離れると最初の沙門果（預流果）が立てられ、修道で断つべき煩悩を離れると後の三つの沙門果が立てられるのか。 答える、見道で断つべき煩悩は遠離し易い。よって、それを離れる時に最初の沙門果が立てられる。修道で断つべき煩悩は遠離し難い。よって、それを離れる時に後の三つの沙門果が立てられる。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第六十五

> 説一切有部発智大毘婆沙論 巻第六十五