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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 5"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第六十七

> 『阿毘達磨大毘婆沙論』 巻第六十七

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 結蘊第二中有情納息第三之五

> 第三の章「蘊結・有情納息」の第五節

諸不還者所成就無漏法。此法不還果攝耶。答或攝或不攝。義不定故。云何攝。答有為無為不還果已得不失。有為不還果者。謂道類智等。或離欲染第九解脫道等及彼眷屬。無為不還果者。謂三界見所斷法斷。及欲界修所斷法斷。已得者。謂信勝解已得信勝解不還果攝種性諸根。見至已得見至不還果攝種性諸根。及已得三界見所斷法斷。并欲界修所斷法斷。不失者。謂信勝解不轉根作見至故。不失信勝解不還果攝種性諸根。或不退失此及欲界修所斷。法斷。云何不攝。答諸不還者所得勝進無漏根等有為法。及彼所證諸結盡。并不還者所成就非擇滅。諸不還者所得勝進無漏根等有為法者。謂離初靜慮乃至非想非非想處染。諸加行道無間道。及有學解脫道勝進道。如是無漏法。不還者雖成就。而非不還果所攝。以勝果道非果攝故。及彼所證諸結盡者。謂初靜慮乃至無所有處。各九品修所斷法斷。及非想非非想處前八品修所斷法斷。是勝果道所證斷故。如勝果道非此果攝。并不還者所成就非擇滅者。謂不還者於三界及無漏法得非擇滅。彼雖成就此非擇滅。而此非擇滅非不還果攝。所以者何。非擇滅是無記。不還果是善故。設法不還果攝。此是無漏法耶。答如是。謂有為無為不還果。俱是無漏故。諸阿羅漢所成就無漏法。此法阿羅漢果攝耶。答或攝或不攝。義不定故。云何攝。答有為無為阿羅漢果已得不失。有為阿羅漢果者。謂盡智無生智無學正見及彼眷屬。無為阿羅漢果者。謂三界見修所斷法斷。已得者。謂時解脫已得時解脫阿羅漢果攝種性諸根。不時解脫已得不時解脫阿羅漢果攝種性諸根。及已得三界見修所斷法斷。不失者。謂時解脫不轉根作不時解脫故。不失時解脫阿羅漢果攝種性諸根。或不退失此及三界修所斷法斷。云何不攝。答阿羅漢所成就非擇滅。謂阿羅漢於三界及無漏法得非擇滅。彼雖成就此非擇滅。而此非擇滅非阿羅漢果攝。所以者何。非擇滅是無記。阿羅漢果是善故。設法阿羅漢果攝。此是無漏法耶。答如是。謂有為無為阿羅漢果俱是無漏故。

> \### 不還果の者が成就する無漏法について \*\*問い：\*\* 不還果の者が成就している無漏法は、すべて不還果に含まれるのでしょうか？ \*\*答え：\*\* 含まれる場合と含まれない場合があります。その定義は一定ではないからです。 \*\*含まれる場合とは？\*\* 不還果に含まれるのは、有為の不還果と無為の不還果のうち、すでに得ていて失っていないものです。 \* \*\*有為の不還果\*\*とは、道類智など、あるいは欲界の煩悩を断つ第九解脱道などと、それに伴う心相応の法（眷属）を指します。 \* \*\*無為の不還果\*\*とは、三界（欲界・色界・無色界）の見道によって断たれるべき法、および欲界の修道によって断たれるべき法が断たれた状態（択滅）を指します。 \* \*\*「すでに得ている」\*\*とは、例えば「信勝解」の者が、その種姓や根に属する不還果の法をすでに獲得している状態や、「見至」の者が同様に獲得している状態を指します。また、三界の見道で断つべき法と欲界の修道で断つべき法が断たれた状態も、すでに得ていると言えます。 \* \*\*「失っていない」\*\*とは、「信勝解」の者が「見至」へと根を転換しないために、元の種姓や根に属する不還果の法を失わないこと、あるいは欲界の修道で断つべき法が断たれた状態を退失しないことを指します。 \*\*含まれない場合とは？\*\* 不還果に含まれないのは、以下のものです。 1. \*\*不還果の者が獲得する、より優れた境地（勝進）の無漏の根などの有為法。\*\* 例えば、初禅から非想非非想処に至る各段階の煩悩を離れるための加行道や無間道、そして有学の解脱道や勝進道などの無漏法です。これらは不還果の者が成就していても、不還果そのものには含まれません。なぜなら、これらはより優れた果（阿羅漢果など）へ至る道（勝果道）であり、現在の果（不還果）に含まれるものではないからです。 2. \*\*その者が証する、様々な煩悩の消滅（諸結尽）。\*\* 初禅から無所有処までの各九品の修道で断つべき法が断たれた状態、および非想非非想処の前八品の修道で断つべき法が断たれた状態です。これらも勝果道によって証される断であり、勝果道が現在の果に含まれないのと同様に、不還果には含まれません。 3. \*\*不還果の者が成就する非択滅（縁が欠けて生じないという無為法）。\*\* 不還果の者は、三界の諸法や無漏法に対して非択滅を得ています。しかし、この非択滅は不還果に含まれません。その理由は、非択滅は無記（善でも悪でもない）であるのに対し、不還果は善であるからです。 \*\*問い：\*\* では、不還果に含まれる法は、すべて無漏法なのでしょうか？ \*\*答え：\*\* その通りです。有為の不還果も無為の不還果も、ともに無漏法だからです。 --- ### 阿羅漢が成就する無漏法について \*\*問い：\*\* 阿羅漢が成就している無漏法は、すべて阿羅漢果に含まれるのでしょうか？ \*\*答え：\*\* 含まれる場合と含まれない場合があります。その定義は一定ではないからです。 \*\*含まれる場合とは？\*\* 阿羅漢果に含まれるのは、有為の阿羅漢果と無為の阿羅漢果のうち、すでに得ていて失っていないものです。 \* \*\*有為の阿羅漢果\*\*とは、尽智、無生智、無学正見、およびそれらに伴う心相応の法（眷属）を指します。 \* \*\*無為の阿羅漢果\*\*とは、三界の見道と修道によって断たれるべきすべての法が断たれた状態（択滅）を指します。 \* \*\*「すでに得ている」\*\*とは、「時解脱」の者がその種姓や根に属する阿羅漢果の法をすでに獲得している状態や、「不時解脱」の者が同様に獲得している状態を指します。また、三界の見道と修道で断つべきすべての法が断たれた状態も、すでに得ていると言えます。 \* \*\*「失っていない」\*\*とは、「時解脱」の者が「不時解脱」へと根を転換しないために、元の種姓や根に属する阿羅漢果の法を失わないこと、あるいは三界の修道で断つべき法が断たれた状態を退失しないことを指します。 \*\*含まれない場合とは？\*\* 阿羅漢果に含まれないのは、以下のものです。 \* \*\*阿羅漢が成就する非択滅。\*\* 阿羅漢は、三界の諸法や無漏法に対して非択滅を得ています。しかし、この非択滅は阿羅漢果に含まれません。その理由は、非択滅は無記であるのに対し、阿羅漢果は善であるからです。 \*\*問い：\*\* では、阿羅漢果に含まれる法は、すべて無漏法なのでしょうか？ \*\*答え：\*\* その通りです。有為の阿羅漢果も無為の阿羅漢果も、ともに無漏法だからです。

諸法預流者成就。此法預流果攝耶。答應作四句。此成就果攝互有寬狹故。有法預流者成就非預流果攝。謂預流者所得勝進無漏根等有為法。及彼所證諸結盡。并預流者所成就非擇滅有漏法。此中有四法。前三如前說。彼所成就有漏法者總有三種。謂善染污無覆無記。善復有二。謂加行善及生得善。染污謂三界修所斷染法。無覆無記謂威儀路工巧處異熟生。如是諸法預流者成就非預流果攝。果唯無漏。此有漏故。有法預流果攝非預流者成就。謂預流果未得已失。未得者。謂信勝解未得見至預流果攝種性諸根。及見至不得信勝解預流果攝種性諸根。已失者。謂信勝解轉根作見至故。失信勝解預流果攝種性諸根。或有退失。有法預流者成就亦預流果攝。謂預流果已得不失。應知此中義如前說。有法非預流者成就亦非預流果攝。謂除前相。此中相聲即名所表。謂若法已稱已說名所表者作前三句。此中除之若法未稱未說名所表者作第四句。此復云何。謂善染污無覆無記。善有二種。謂有漏及無漏。有漏善者。謂預流者所不成就加行離染生得善。無漏善者。謂預流者所不成就下位上位一切聖道。及所未得上位擇滅。染污者。謂三界見所斷染法。及預流者已斷欲界修所斷染法。無覆無記者。謂預流者所不成就威儀路工巧處異熟生。及一切變化心等。如是諸法是第四句。諸法一來者成就此法一來果攝耶。答應作四句。此成就果攝互有寬狹故。有法一來者成就非一來果攝。謂一來者所得勝進無漏根等有為法。及彼所證諸結盡。并一來者所成就非擇滅有漏法。此中有四法。前三如前說。彼所成就有漏法者總有三種。謂善染污無覆無記。善復有二。謂加行善及生得善。染污謂欲界後三品修所斷染法。及色無色界修所斷染法。無覆無記謂威儀路工巧處異熟生。如是諸法。一來者成就。非一來果攝。果唯無漏。此有漏故。有法一來果攝非一來者成就。謂一來果未得已失。未得者。謂信勝解未得見至一來果攝種性諸根。及見至不得信勝解一來果攝種性諸根。已失者。謂信勝解轉根作見至故。失信勝解一來果攝種性諸根。或有退失。有法一來者成就亦一來果攝。謂一來果已得不失。應知此中義如前說。有法非一來者成就亦非一來果攝。謂除前相。此中相聲即名所表。謂若法已稱已說名所表者作前三句。此中除之。若法未稱未說名所表者作第四句。此復云何。謂善染污無覆無記。善有二種。謂有漏及無漏。有漏善者。謂一來者所不成就加行離染生得善。無漏善者。謂一來者所不成就下位上位一切聖道。及所未得上位擇滅。染污者。謂三界見所斷染法。及一來者已斷欲界修所斷染法。無覆無記者。謂一來者所不成就威儀路工巧處異熟生。及一切變化心等。如是諸法是第四句。諸法不還者成就。此法不還果攝耶。答應作四句。此成就果攝互有寬狹故。有法不還者成就非不還果攝。謂不還者所得勝進無漏根等有為法。及彼所證諸結盡。并不還者所成就非擇滅有漏法。此中有四法。前三如前說。彼所成就有漏法者總有三種。謂善染污無覆無記。善復有三。謂加行離染生得善。染污。謂色無色界修所斷染法。無覆無記。謂威儀路工巧處異熟生及變化心等。如是諸法。不還者成就。非不還果攝。果唯無漏。此有漏故。有法不還果攝。非不還者成就。謂不還果未得已失。未得者。謂信勝解未得見至不還果攝種性諸根。及見至不得信勝解不還果攝種性諸根。已失者。謂信勝解轉根作見至故。失信勝解不還果攝種性諸根。或有退失。有法不還者成就亦不還果攝。謂不還果已得不失。應知此中義如前說。有法非不還者成就亦非不還果攝。謂除前相。此中相聲即名所表。謂若法已稱已說名所表者作前三句。此中除之。若法未稱未說名所表者作第四句。此復云何。謂善染污無覆無記。善有二種。謂有漏及無漏。有漏善者。謂不還果所不成就加行離染生得善。無漏善者。謂不還者所不成就下位上位一切聖道。及所未得上位擇滅。染污者。謂三界見所斷染法。及欲界修所斷染法。無覆無記者。謂不還者所不成就威儀路工巧處異熟生及變化心等。如是諸法是第四句。諸法阿羅漢成就。此法阿羅漢果攝耶。答應作四句。此成就果攝互有寬狹故。有法阿羅漢成就非阿羅漢果攝。謂阿羅漢所成就非擇滅有漏法。彼所成就非擇滅者。如前廣說。彼所成就有漏法者總有二種。謂善及無覆無記。善有三種。謂加行離染生得善。無覆無記。謂威儀路工巧處異熟生及變化心等。如是諸法。阿羅漢成就。非阿羅漢果攝。果唯無漏。此有漏故。有法阿羅漢果攝非阿羅漢成就。謂阿羅漢果未得已失。未得者。謂時解脫未得不時解脫阿羅漢果攝種性諸根。及不時解脫不得時解脫阿羅漢果攝種性諸根。已失者。謂時解脫轉根作不時解脫故。失時解脫阿羅漢果攝種性諸根。或有退失。有法阿羅漢成就亦阿羅漢果攝。謂阿羅漢果已得不失。應知此中義如前說。有法非阿羅漢成就亦非阿羅漢果攝。謂除前相。此中相聲即名所表。謂若法已稱已說名所表者作前三句。此中除之。若法未稱未說名所表者作第四句。此復云何。謂善染污無覆無記。善有二種。謂有漏及無漏。有漏善者。謂阿羅漢所不成就加行離染生得善。無漏善者。謂諸學法。染污者。謂三界見修所斷染法。無覆無記者。謂阿羅漢所不成就威儀路工巧處異熟生及變化心等。如是諸法是第四句。

> \*\*預流者の法について\*\* 預流者が成就するあらゆる法は、預流果に含まれるのでしょうか？ 答えは、四つの場合があります。成就と果の範囲には、互いに広狭があるからです。 1. \*\*預流者が成就するが、預流果に含まれない法\*\*：預流者が得た、より優れた無漏の根などの修行による諸々の法、および彼らが証得した煩悩の消滅、ならびに預流者が成就する非択滅と有漏の法です。 ここで言う有漏の法には三種類あります。善、染汚、無覆無記です。善はさらに加行善と生得善に分かれます。染汚とは三界の修道において断たれるべき染汚の法です。無覆無記とは、威儀路、工巧処、異熟生です。 これらの法は預流者が成就しますが、預流果には含まれません。果は無漏のみですが、これらは有漏であるからです。 2. \*\*預流果に含まれるが、預流者が成就しない法\*\*：まだ得ていない、あるいはすでに失った預流果です。 \* 「未得」とは、信勝解の者が見至の預流果に属する種姓の諸々の根をまだ得ていないこと、また見至の者が信勝解の預流果に属する種姓の諸々の根を得られないことです。 \* 「已失」とは、信勝解の者が根を転じて見至となったため、信勝解の預流果に属する種姓の諸々の根を失うこと、あるいは退失することです。 3. \*\*預流者が成就し、かつ預流果に含まれる法\*\*：すでに得て失っていない預流果のことです。この意味は前述の通りです。 4. \*\*預流者が成就せず、かつ預流果にも含まれない法\*\*：上記の三つの場合を除いたすべてです。「相」という言葉は、「名前で表されるもの」を意味します。すでに名前を挙げて述べた法は前三句に含まれ、ここでは除かれます。まだ名前を挙げて述べていない法が第四句となります。 それは何でしょうか。善、染汚、無覆無記です。善には有漏と無漏の二種があります。 \* \*\*有漏の善\*\*：預流者が成就しない加行善、離染善、生得善。 \* \*\*無漏の善\*\*：預流者が成就しない下位・上位の一切の聖道、およびまだ得ていない上位の択滅。 \* \*\*染汚\*\*：三界の見道において断たれるべき染汚の法、および預流者がすでに断った欲界の修道において断たれるべき染汚の法。 \* \*\*無覆無記\*\*：預流者が成就しない威儀路、工巧処、異熟生、およびすべての変化心など。 これらの法が第四句です。 \*\*一来者の法について\*\* 一来者が成就するあらゆる法は、一来果に含まれるのでしょうか？ 答えは、四つの場合があります。成就と果の範囲には、互いに広狭があるからです。 （以下、預流者の場合と同様の構造で説明されます。） \*\*不還者の法について\*\* 不還者が成就するあらゆる法は、不還果に含まれるのでしょうか？ 答えは、四つの場合があります。成就と果の範囲には、互いに広狭があるからです。 （以下、預流者の場合と同様の構造で説明されます。ただし、不還者が成就する有漏の善には加行、離染、生得の三種があり、染汚は色無色界の修道断、無覆無記には変化心などが加わります。） \*\*阿羅漢の法について\*\* 阿羅漢が成就するあらゆる法は、阿羅漢果に含まれるのでしょうか？ 答えは、四つの場合があります。成就と果の範囲には、互いに広狭があるからです。 1. \*\*阿羅漢が成就するが、阿羅漢果に含まれない法\*\*：阿羅漢が成就する非択滅と有漏の法です。 ここで言う有漏の法には二種類、善と無覆無記があります。善には加行、離染、生得の三種。無覆無記には威儀路、工巧処、異熟生、変化心などです。 これらの法は阿羅漢が成就しますが、阿羅漢果には含まれません。果は無漏のみですが、これらは有漏であるからです。 2. \*\*阿羅漢果に含まれるが、阿羅漢が成就しない法\*\*：まだ得ていない、あるいはすでに失った阿羅漢果です。 \* 「未得」とは、時解脱の者が不时解脱の阿羅漢果に属する種姓の諸根をまだ得ていないこと、また不时解脱の者が時解脱の阿羅漢果に属する種姓の諸根を得られないことです。 \* 「已失」とは、時解脱の者が根を転じて不时解脱となったため、時解脱の阿羅漢果に属する種姓の諸根を失うこと、あるいは退失することです。 3. \*\*阿羅漢が成就し、かつ阿羅漢果に含まれる法\*\*：すでに得て失っていない阿羅漢果のことです。この意味は前述の通りです。 4. \*\*阿羅漢が成就せず、かつ阿羅漢果にも含まれない法\*\*：上記の三つの場合を除いたすべてです。この中の「相」という言葉の意味は前述の通りです。 それは何でしょうか。善、染汚、無覆無記です。 \* \*\*有漏の善\*\*：阿羅漢が成就しない加行、離染、生得の善。 \* \*\*無漏の善\*\*：すべての有学の法。 \* \*\*染汚\*\*：三界の見道と修道において断たれるべきすべての染汚の法。 \* \*\*無覆無記\*\*：阿羅漢が成就しない威儀路、工巧処、異熟生、変化心など。 これらの法が第四句です。

問信勝解為轉根作見至不。設爾何失。二俱有過。所以者何。若信勝解轉根作見至者。後根蘊中何故不說。如彼說若捨無漏根。得無漏根彼皆從果至果耶。答若從果至果。彼皆捨無漏根得無漏根。有捨無漏根得無漏根非從果至果謂現觀邊道類智現在前時。及時解脫阿羅漢練根作不動時。此本論師有何勞倦而不說。信勝解練根作見至時。若信勝解不轉根作見至者。此中所說當云何通。如此說。有法預流果攝非預流者成就。謂預流果未得已失。若信勝解不轉根作見至者。如何預流果有得已而失耶。後智蘊說復云何通。如彼說。預流者於三三摩地未來皆成就過去。若已滅不失即成就現在。若現在前即成就。若信勝解不轉根作見至者。如何預流者有三摩地已滅而失。為簡彼故說有已滅而不失耶。識身論說復云何通。如彼說有過去無學心是已了非今了非當了。謂時解脫阿羅漢退阿羅漢果作信勝解。彼練根作見至已還得阿羅漢果。彼時解脫道所攝無學心。是已成就非今成就非當成就。彼於成就施設了聲。是已了者是已成就非今了者非今成就。非當了者非當成就。若信勝解不轉根作見至者。如何彼說時解脫阿羅漢退阿羅漢果作信勝解。練根作見至已還得阿羅漢果耶。答應作是說。有信勝解轉根作見至。

> 問う。「信勝解」が根を転じて「見至」となることはあるか。もしそうだとしたら、どのような過失があるのか。どちらの立場にも過失がある。なぜなら、もし信勝解が根を転じて見至となるならば、後の根蘊（こんうん）でなぜ説かれていないのか。そこにはこう説かれている。「もし無漏根を捨て、無漏根を得るならば、そのすべては果から果に至るであろうか」と。答えていわく、「もし果から果に至るならば、そのすべては無漏根を捨て、無漏根を得る。しかし無漏根を捨て、無漏根を得ても、果から果に至らない場合がある。すなわち現観辺（げんかんぺん）の道類智（どうるいち）が現在前する時、および時解脱の阿羅漢が根を練って不動となる時である」と。この本論の師は、何の労をいとわずして、信勝解が根を練って見至となる時を説かなかったのであろうか。 もし信勝解が根を転じて見至となることがないならば、ここで説かれていることはどのようにして通じるのか。このように説かれている。「法として預流果に摂せられながら、預流者が成就しないものがある。すなわち、預流果が未だ得られず、あるいはすでに失われたものである」と。もし信勝解が根を転じて見至となることがないならば、どうして預流果が得られた後に失われることがあるのか。後の智蘊（ちうん）の説は、さらにどのように通じるのか。そこではこう説かれている。「預流者は、三三摩地について、未来にはすべてを成就する。過去については、すでに滅して失われていなければ成就する。現在については、現在前すれば成就する」と。もし信勝解が根を転じて見至となることがないならば、どうして預流者に、三摩地がすでに滅して失われたものがありながら、「すでに滅して失われていない」と説くことがあるのか。 識身論の説は、さらにどのように通じるのか。そこではこう説かれている。「過去の無学心には、すでに了（りょう）せられたものであって、今了せられるものではなく、当来（とうらい）了せられるものでもないものがある」と。すなわち、時解脱の阿羅漢が阿羅漢果を退失して信勝解となり、その者が根を練って見至となった後に、再び阿羅漢果を得る場合である。その時の、時解脱の道に摂せられる無学心は、すでに成就されたものであって、今成就されるものではなく、当来成就されるものでもない。彼は成就について「了」という声を施設する。「すでに了せられたもの」とは、すでに成就されたものである。「今了せられるものではない」とは、今成就されるものではない。「当来了せられるものではない」とは、当来成就されるものではない。もし信勝解が根を転じて見至となることがないならば、どうしてそこで「時解脱の阿羅漢が阿羅漢果を退失して信勝解となり、根を練って見至となった後に、再び阿羅漢果を得る」と説かれているのか。 答えていわく、「信勝解が根を転じて見至となることはある」と説くべきである。

問若爾。善通後所設難。後根蘊中何故不說。答後根蘊中應作是說。有捨無漏根得無漏根非從果至果謂現觀邊道類智現在前時。信勝解練根作見至時。退法等練根作思法等時。及時解脫練根作不動時。而不作是說者。有別意趣。謂彼舉始舉終。影顯中故說。現觀邊道類智現在前時者。即是舉始說時解脫練根作不動時者。即是舉終。由舉始終。影顯中間。有信勝解練根作見至時。若學位中無練根義至無學位亦應如是。如學位中無救護無勢力。無學位中亦應爾。故亦顯有退法等轉根作思法等。如舉始終如是。舉初入已度加行究竟應知亦爾。尊者僧伽筏蘇說曰。信勝解練根作見至。即攝在根蘊所說中。即是從果至果攝故。謂預流者修習練根加行道已趣一來果。若得一來果即名轉根。得果與轉根時。無差別。若一來者修習練根加行道已趣不還果。若得不還果即名轉根。得果與轉根時無差別。問何故無有得預流果阿羅漢果即名練根。彼作是答。出過欲界是無始來數數舊法。無一有情於欲界染未曾離故。由此得有求轉根者倍離全離欲界染故。得二果時亦即轉根。出過有頂。非無始來數數舊法。無一有情於有頂染曾已離故。由此無有求轉根者分離全離有頂染故。得二果時亦即轉根。問如汝所說學位練根進得二果。即是從果至果攝故不別說者。無學位中有六種性轉退法作思法。乃至轉安住作堪達時。後根蘊中何故不說。但說時解脫練根作不動耶。彼作是答。此亦攝在根蘊說中。所以者何。轉退法作思法時不捨退法根而得思法根。乃至轉安住作堪達時不捨前四根而得堪達根。若轉堪達作不動時頓捨前五根得不動根故。彼但說時解脫練根作不動時。捨無漏根得無漏根非從果至果。不說轉退法等作思法等。評曰。彼不應作是說。所以者何。尚無有一成就二根。況有成就五品根者。又不還者修習練根加行道已雖不能得阿羅漢果。何故不能轉作見至。諸異生輩雖不得果而有轉根。何緣聖者離得果時無轉根義。離染轉根加行各別。如何離染得二果時亦即轉根。故後根蘊舉始舉終影顯中故。不說信勝解練根作見至。亦不說退法等練根作思法等。有餘師說。無信勝解轉根作見至。

> 問：もしそうなら、後根蘊で述べられた難問はよく通じる。なぜ後根蘊では説かれていないのか。 答：後根蘊では次のように説くべきである。「無漏根を捨てて無漏根を得るが、果から果に至るのではない場合がある。それは現観の辺、道類智が現在前する時である。また、信勝解が根を練って見至となる時、退法等が根を練って思法等となる時、そして時解脱が根を練って不動となる時である。」しかし、このように説かないのには別の意図がある。つまり、始めと終わりを挙げて、中間を暗示しているのである。「現観の辺、道類智が現在前する時」と言うのは始めを挙げているのであり、「時解脱が根を練って不動となる時」と言うのは終わりを挙げているのである。始めと終わりを挙げることで、中間にある「信勝解が根を練って見至となる時」を暗示しているのである。もし有学位に根を練る意味がなければ、無学位でも同様にないはずである。有学位に救護がなく勢力がないように、無学位にもまた同様であるはずである。よって、退法等が根を転じて思法等となることも示されている。始めと終わりを挙げるように、初入、已度、加行、究竟も同様であると知るべきである。尊者僧伽筏蘇は次のように説く。「信勝解が根を練って見至となることは、根蘊の説に含まれている。すなわち、これは果から果に至ることに含まれるからである。つまり、預流者が根を練る加行道を修習して一来果に向かう。もし一来果を得れば、すなわちこれを根の転換と名づける。果を得ることと根の転換は時に差別がない。もし一来者が根を練る加行道を修習して不還果に向かうならば、もし不還果を得れば、すなわちこれを根の転換と名づける。果を得ることと根の転換は時に差別がない。」 問：なぜ預流果や阿羅漢果を得たときに、すなわち根を練ることと名づけないのか。 答：欲界を超えることは、無始以来、繰り返し行われてきた古い方法である。欲界の染汚を未曾に離れた有情はいないからである。これによって、根を転じようと求める者が、欲界の染汚を倍に離れ、全く離れることで、二つの果を得る時に、すなわち根を転じるのである。有頂を超えることは、無始以来、繰り返し行われてきた古い方法ではない。有頂の染汚を曾て離れたことのある有情はいないからである。これによって、根を転じようと求める者で、有頂の染汚を分けて離れ、全く離れることで、二つの果を得る時に、すなわち根を転じることはないのである。 問：あなたの説くように、有学位での根の練成が、さらに二つの果を得ることへと進む。これは果から果に至ることに含まれるので別に説かないというならば、無学位には六種の種姓があり、退法を転じて思法とし、乃至、安住を転じて堪達とする時がある。なぜ後根蘊では、時解脱が根を練って不動となることだけを説いて、これを説かないのか。 答：これも根蘊の説に含まれている。なぜなら、退法を転じて思法とする時には、退法の根を捨てずに思法の根を得るからである。乃至、安住を転じて堪達とする時には、前の四つの根を捨てずに堪達の根を得るからである。もし堪達を転じて不動とする時には、一時に前の五つの根を捨てて不動の根を得るからである。よって、ただ時解脱が根を練って不動となる時だけを説き、無漏根を捨てて無漏根を得て、果から果に至るのではないとし、退法等を転じて思法等とすることは説かないのである。 評曰：そのような説は妥当ではない。なぜなら、まだ一人として二根を成就する者さえいないのに、まして五品の根を成就する者がいるだろうか。また、不還者が根を練る加行道を修習した後、阿羅漢果を得ることはできなくても、なぜ見至に転じることができないのだろうか。凡夫たちは果を得なくても根を転じることがあるのに、どうして聖者が果を得る時を離れて根を転じる意味がないと言えるだろうか。離染と根の転換は加行がそれぞれ別である。どうして離染によって二つの果を得る時に、すなわち根を転じると言えるだろうか。よって、後根蘊では始めと終わりを挙げて中間を暗示するので、信勝解が根を練って見至となることや、退法等が根を練って思法等となることを説かないのである。また、他の師は「信勝解が根を練って見至となることはない」と説く者もいる。

問若爾善通根蘊所說。此中所說當云何通。如此說有預流果未得已失。若信勝解不轉根作見至者。如何預流果有得已而失耶。彼於此中有作是說。不成就過去未來得。有作是說。有成就過去未來得。若作是說。不成就過去未來得者。彼說預流果得在未來名未得。在過去名已失。在現在名成就。若作是說。有成就過去未來得者。彼說預流果有三種。謂下中上。若初住下預流果時於中上預流果名未得。於下品預流果名成就。不應說已失無所已失故。若初住中預流果時於上預流果名未得。於下預流果名已失。於中預流果名成就。若初住上預流果時於中下預流果名已失。於上預流果名成就。不應說未得無所未得故。問若初住中預流果者於下未得。若初住上預流果者於中下俱未得。如何說已失耶。彼作是答。超過彼故說名已失。謂彼先時有可得義今至勝位已超過彼更不可得故名已失。由斯理趣雖信勝解無有轉根作見至者。而得說預流果有未得已失義。後智蘊說復云何通。如彼說預流者於三三摩地未來皆成就過去。若已滅不失即成就現在。若現在前即成就。若信勝解不轉根作見至者。如何預流者有三三摩地已滅而失。為簡彼故說有已滅而不失耶。彼作是答。後智蘊中應作是說。預流者於三三摩地未來皆成就過去已滅即成就。不應說不失而說不失者是誦者錯謬。識身論說復云何通。如彼說時解脫阿羅漢退阿羅漢果作信勝解。練根作見至已還得阿羅漢果彼作是答。我不能通識身論文極明了故。評曰既不能通識身論說。又前損減智蘊論文。雖通此文亦不應理。故應信受有信勝解能轉根作見至。若有學位不能轉根。無學位中亦應不轉如有學位。無救護無勢力。無學位中亦應爾。故尊者佛護作如是說。信勝解轉根作見至有六事不共。一者在欲界不在色無色界。二者依靜慮不依無色定。三者用無漏道不用世俗道。四者用法智不用類智。五者是已退非未退。六者住果非住勝果道。問彼何故在欲界非在色無色界耶。彼作是答。由說法力方能轉根。唯欲界中有說者故。問彼何故依靜慮不依無色定耶。彼作是答。學位練根要依得果地。無依無色定得學果者。故學轉根不依無色。問彼何故用無漏道不用世俗道耶。彼作是答。要猛利道方能轉根。世俗道鈍故彼不用。問彼何故唯用法智不用類智。彼作是答。要生欲界方能轉根。欲界唯得法智自在。故彼不用類智轉根。問彼何故是已退者。非未退者。彼作是答。厭患退者方求練根。要曾退已而有厭患。故未退者無轉根義。問彼何故住果非住勝果道。彼作是答。若住勝果道而練根者。應練根時捨多道得少道。彼應名退不名為進。故唯住果有轉根義。以練根時唯得果故。

> 問：もしそうなら、「根」と「蘊」で説かれている内容がよく通じる。ここで説かれていることは、どう通じるべきか。このように説かれている――「預流果には、未だ得ていないものと、すでに失ったものとがある」と。もし信勝解が根を転じて見至となることがないならば、どのようにして預流果に「得た後に失う」ということがあり得るのか。これについて、ある者はこう説く。「過去と未来の得を成就しない」と。またある者はこう説く。「過去と未来の得を成就する」と。 もし「過去と未来の得を成就しない」と説くならば、その者は預流果の得が未来にあるものを「未得」と呼び、過去にあるものを「已失」と呼び、現在にあるものを「成就」と呼ぶ。 もし「過去と未来の得を成就する」と説くならば、その者は預流果には三種（下・中・上）があると説く。最初に下の預流果に住する時、中の預流果と上の預流果に対しては「未得」と言い、下の預流果に対しては「成就」と言う。「已失」とは言うべきでない。失ったものが無いからである。最初に中の預流果に住する時、上の預流果に対しては「未得」と言い、下の預流果に対しては「已失」と言い、中の預流果に対しては「成就」と言う。最初に上の預流果に住する時、中と下の預流果に対しては「已失」と言い、上の預流果に対しては「成就」と言う。「未得」とは言うべきでない。未だ得ていないものが無いからである。 問：もし最初に中の預流果に住する者は、下に対しては未だ得ていない。最初に上の預流果に住する者は、中と下の両方に対して未だ得ていない。どうして「已失」と言えるのか。それに対して、こう答える。「それを超えたから『已失』と言うのである。つまり、その者は以前には得られる可能性があったが、今はより勝れた位に至り、それを超えたために、もはや得られなくなった。だから『已失』と言うのである。」 この論理に従えば、信勝解が根を転じて見至となることがないとしても、預流果に「未得」と「已失」の意味があると説くことができる。後の「智蘊」の説は、どう通じるべきか。そこではこう説かれている――「預流者は、三つの三摩地に対して、未来にはすべてを成就し、過去においてすでに滅したならば失わないならば、現在を成就する。もし現在に現前するならば、それを成就する。」と。もし信勝解が根を転じて見至となることがないならば、どのようにして預流者に「すでに滅したが失った」三つの三摩地があり、それを簡別するために「すでに滅したが失わない」と説くのか。それに対して、こう答える。「後の『智蘊』の中では、こう説くべきである――『預流者は、三つの三摩地に対して、未来にはすべてを成就し、過去においてすでに滅したならば、それを成就する』と。『失わない』と言うべきではなく、『失わない』と説くのは、誦者の誤りである。」 「識身論」の説は、どう通じるべきか。そこではこう説かれている――「時解脱の阿羅漢が阿羅漢果から退して信勝解となり、根を練って見至となり、その後再び阿羅漢果を得る」と。それに対して、こう答える。「私は『識身論』の文を通じることができない。その文が極めて明らかだからである。」 評して言う。すでに「識身論」の説を通じることができず、また前には「智蘊」の文を損減した。この文を通じることも道理に適わない。ゆえに、信勝解が根を転じて見至となることができるということを信受すべきである。もし有学位において根を転じることができないならば、無学位においても転じるべきでない。有学位に救護なく勢力がないように、無学位にもまた同様であるべきだからである。ゆえに、尊者仏護はこのように説く――「信勝解が根を転じて見至となることには、六つの共通しない事がある。一つ目は、欲界にあり、色界や無色界にはないこと。二つ目は、静慮に依り、無色定には依らないこと。三つ目は、無漏道を用い、世俗道を用いないこと。四つ目は、法智を用い、類智を用いないこと。五つ目は、すでに退した者であり、未だ退していない者ではないこと。六つ目は、果に住し、勝れた果の道に住しないことである。」 問：なぜ欲界にあり、色界や無色界にはないのか。それに対して、こう答える。「説法の力によって初めて根を転じることができる。欲界にのみ説く者がいるからである。」 問：なぜ静慮に依り、無色定には依らないのか。それに対して、こう答える。「学位において根を練るには、果を得る地に依らなければならない。無色定に依って学位の果を得ることはない。ゆえに、学位の転根は無色に依らないのである。」 問：なぜ無漏道を用い、世俗道を用いないのか。それに対して、こう答える。「猛利な道でなければ根を転じることができない。世俗道は鈍いので、それを用いないのである。」 問：なぜ法智のみを用い、類智を用いないのか。それに対して、こう答える。「欲界に生まれて初めて根を転じることができる。欲界では法智にのみ自在を得ている。ゆえに、類智を用いて根を転じることはないのである。」 問：なぜそれはすでに退した者であり、未だ退していない者ではないのか。それに対して、こう答える。「退することを厭い患う者こそ、根を練ろうと求める。すでに退した後に厭患があるのである。ゆえに、未だ退していない者には根を転じる意味はない。」 問：なぜ果に住し、勝れた果の道に住しないのか。それに対して、こう答える。「もし勝れた果の道に住して根を練るならば、根を練る時に、多くの道を捨てて少ない道を得ることになる。それは退と呼ばれるべきであり、進とは呼ばれない。ゆえに、果にのみ住して根を転じる意味がある。根を練る時には、ただ果を得るだけだからである。」

阿毘達磨諸論師言。學轉根時於彼六事。三事應理三事不可。謂彼所說學位轉根在欲界非在色無色界者此事應理。唯欲界有轉根義故。又彼所說彼依靜慮不依無色定者此亦應理。唯依靜慮得學果故。又彼所說彼用無漏道不用世俗道者此亦應理。學位練根如見道故。然彼所言彼用法智不用類智者此事不可。所以者何。義不定故。謂生欲界或有於法智得自在非類智。或有於類智得自在非法智故。又彼所言是已退者非未退者。此亦不可。所以者何。義不定故。謂或已退或復未退然怖畏退或求勝根而練根故。又彼所言彼住果非住勝果道者此亦不可。所以者何。義不定故。謂學練根或住果位或住勝果道求利根故或畏退故。問若住勝果道而轉根者捨多道得少道豈非退耶。答彼求利根不求多道故無有失。如多銅鐵貿少金銀豈名失利。

> 阿毘達磨の論師たちはこう述べています。「学びの位で根を転じる場合、六つの事柄のうち、三つは理にかなっており、三つは理にかなわない。」 彼らが言う「学びの位で根を転じるのは欲界においてであり、色界や無色界ではない」という点は理にかなっています。なぜなら、根を転じるという概念は欲界にのみ存在するからです。 また、「それは禅定（静慮）に依って行われ、無色定には依らない」という点も理にかなっています。なぜなら、学びの果を得るためには禅定に依る必要があるからです。 さらに、「それは世俗の道ではなく、無漏の道を用いる」という点も理にかなっています。なぜなら、学びの位で根を練ることは、見道の場合と同じだからです。 しかし、彼らが言う「それは法智を用い、類智を用いない」という点は理にかなっていません。その理由は、状況によって異なるからです。欲界に生まれた者の中には、法智に自在であっても類智に自在でない者もいれば、類智に自在であっても法智に自在でない者もいるからです。 また、「それはすでに退失した者であり、まだ退失していない者ではない」という点も理にかなっていません。その理由は、状況によって異なるからです。すでに退失した者もいれば、まだ退失していない者もいますが、退失を恐れたり、より優れた根を求めて根を練るからです。 さらに、「それは果に住している者であり、勝れた果の道に住している者ではない」という点も理にかなっていません。その理由は、状況によって異なるからです。学びの位での根の練り上げは、果の位に住している者もいれば、勝れた果の道に住している者もいます。それは、より鋭い根を求めるためか、退失を恐れるためです。 \*\*問い\*\*：もし勝れた果の道に住している者が根を転じる場合、多くの道を捨てて少ない道を得ることになりますが、それは退失ではないのでしょうか？ \*\*答え\*\*：彼らは多くの道ではなく、より鋭い根を求めているので、失うことはありません。例えば、多くの銅や鉄と引き換えに、わずかな金や銀を得る場合、それが損失とは言えないのと同じです。

問於欲界內何處轉根。為但人中為亦天上。答唯在人中受教勝故。又畏退故。問人四洲內何處轉根。尊者窶沙筏摩說曰。唯贍部洲有轉根義。贍部洲人根猛利故。評曰應作是說。人三洲內皆得轉根。除北俱盧無勝德故。問為依男身有轉根義為亦依女。有作是說。唯依男身有轉根義。男身功德勝女人故。評曰應作是說。諸轉根者亦依男身亦依女身。以依女身亦能發起勝功德故。問隨依何地先得學果後即依彼而轉根耶。有說即依彼學者轉根。亦有依餘地然勝非劣。謂初二果依未至定得果轉根不依餘地。若不還果依彼地得即依彼地而後轉根。或依餘地然勝非劣。諸不還者極少成就三地果。極多成就六地果。謂次第者離欲界染第九解脫道時。彼成就三地不還果。即未至定初靜慮及靜慮中間。若已離欲染即依此三地入正性離生者。彼道類智時亦即成就此三地不還果。若依第二靜慮入正性離生者。彼道類智時成就四地不還果。謂前三地及第二靜慮。若依第三靜慮入正性離生者。彼道類智時成就五地不還果。謂前四地及第三靜慮。若依第四靜慮入正性離生者。彼道類智時成就六地不還果。謂前五地及第四靜慮。依初三地得不還果已。即依此三地而轉根者。彼捨三地不還果。得三地不還果。即彼若依第二靜慮而轉根者。彼捨三地不還果得四地不還果。即彼若依第三靜慮而轉根者。彼捨三地不還果。得五地不還果。即彼若依第四靜慮而轉根者。彼捨三地不還果。得六地不還果。若依第二靜慮得不還果已即依第二靜慮而轉根者。彼捨四地不還果得四地不還果。即彼若依第三靜慮而轉根者。彼捨四地不還果。得五地不還果。即彼若依第四靜慮而轉根者。彼捨四地不還果。得六地不還果。若依第三靜慮得不還果已。即依第三靜慮而轉根者。彼捨五地不還果。得五地不還果。即彼若依第四靜慮而轉根者。彼捨五地不還果。得六地不還果。若依第四靜慮得不還果已。即依第四靜慮而轉根者。彼捨六地不還果。得六地不還果。無依上地得不還果後依下地而轉根者。所以者何。勿捨多道得少道故。應名損減不名增益。或有說者。有依上地得不還果後依下地而轉根者。彼作是說。依第四靜慮得不還果已若依第三靜慮而轉根者。彼捨六地不還果。得五地不還果。即彼若依第二靜慮而轉根者。彼捨六地不還果。得四地不還果。即彼若依初靜慮等三地而轉根者。彼捨六地不還果。得三地不還果。依第三靜慮得不還果已。若依第二靜慮而轉根者。彼捨五地不還果。得四地不還果。即彼若依初靜慮等三地而轉根者。彼捨五地不還果。得三地不還果。依第二靜慮得不還果已。若依初靜慮等三地而轉根者。彼捨四地不還果。得三地不還果。此中但說與前異者。依自上地而轉根者捨得多少如前應知。問若依上地得不還果後依下地而轉根者。既捨多道得少道故。應名損減豈是增益。答彼求利根不求多道捨多得少亦無有過。如多賤貨貿少貴珍。乃名增益不名損減。依果說已若依道說諸不還者。未離初靜慮染若依初靜慮等三地而轉根者。彼捨三地聖道。得三地聖道。已離初靜慮染未離第二靜慮染。若依初靜慮等三地而轉根者。彼捨四地聖道。得三地聖道。已離第二靜慮染未離第三靜慮染。若依初靜慮等三地而轉根者。彼捨五地聖道得三地聖道。已離第三靜慮染未離第四靜慮染。若依初靜慮等三地而轉根者。彼捨六地聖道得三地聖道。已離第四靜慮染未離空無邊處染。若依初靜慮等三地而轉根者。彼捨七地聖道。得三地聖道。已離空無邊處染未離識無邊處染。若依初靜慮等三地而轉根者。彼捨八地聖道得三地聖道。已離識無邊處染。若依初靜慮等三地而轉根者。彼捨九地聖道。得三地聖道。未離第二靜慮染。若依第二靜慮而轉根者。彼捨四地聖道得四地聖道。已離第二靜慮染未離第三靜慮染。若依第二靜慮而轉根者彼捨五地聖道得四地聖道。乃至已離識無邊處染。若依第二靜慮而轉根者。彼捨九地聖道得四地聖道。未離第三靜慮染。若依第三靜慮而轉根者。彼捨五地聖道得五地聖道。已離第三靜慮染未離第四靜慮染。若依第三靜慮而轉根者。彼捨六地聖道得五地聖道。乃至已離識無邊處染。若依第三靜慮而轉根者。彼捨九地聖道得五地聖道。未離第四靜慮染。若依第四靜慮而轉根者。彼捨六地聖道得六地聖道。已離第四靜慮染未離空無邊處染。若依第四靜慮而轉根者。彼捨七地聖道得六地聖道。乃至已離識無邊處染。若依第四靜慮而轉根者。彼捨九地聖道得六地聖道。已離初靜慮等染。若依第二靜慮等而轉根者。捨得多少如理應思。無依無色而轉根者。學果不依無色定故。應作是說。若於上地已得自在而依下地學轉根等。亦得上地無漏果道。然轉根時不得無色彼定無有不還果故。此中應作頗設問答。頗有聖者捨九地聖道得六地聖道而名為進不名退耶。答有謂已離識無邊處染。信勝解依第四靜慮而轉根時。頗有聖者已離無所有處染而但成就一地聖道耶。答有。謂已離無所有處染。依未至定入正性離生。彼見道中十五心頃。頗有不還者已離無所有處染。唯成就三地無漏果道耶。答有。謂已離無所有處染。信勝解於上地不得自在。依未至定或初靜慮或靜慮中間轉根作見至時。頗有身證者不成就無漏無色定耶。答有。謂身證信勝解轉根作見至時。

> 問：欲界の内で、どこで根を転じるのか。人界のみか、それとも天界も含まれるのか。 答：人界のみである。人界は教えを受け入れる力が優れているからであり、また退転を怖れるからである。 問：人界の四大洲の中で、どこで根を転じるのか。 尊者クシャファルマ（窶沙筏摩）の説では、「ただ贍部洲（南瞻部洲）だけが根を転じる意義を持つ。贍部洲の人は根が鋭く猛利だからである」とされる。 評して言うべきである。「人の三洲（北俱盧洲を除く）では、すべて根を転じることができる。北俱盧洲は優れた功徳がないため除かれる」と。 問：男性の身に基づいて根を転じる意義があるのか、それとも女性にもあるのか。 ある説では「ただ男性の身にのみ根を転じる意義がある。男性の身の功徳は女性より勝れているからである」と言う。 評して言うべきである。「すべて根を転じる者は、男性の身にも依り、また女性の身にも依る。女性の身でもすぐれた功徳を起こすことができるからである」と。 問：どの地に基づいて先に学果を得たなら、その後、その同じ地に基づいて根を転じるのか。 ある説では、まさにその学んだ地に基づいて転じるという。また、他の地に基づく場合もある。しかし、その際は勝れた地に基づき、劣った地に基づくことはない。 すなわち、初果と第二果は未至定に基づいて果を得、根を転じる場合も他の地には依らない。 不還果については、その果を得た地に基づいて根を転じるか、または他の勝れた地に基づく。 すべての不還果者は、最低でも三地の果を成就し、最大で六地の果を成就する。 つまり、順序を経て欲界の煩悩を離れる場合、第九解脱道の時に三地の不還果を成就する。すなわち、未至定、初静慮、静慮中間である。 もしすでに欲界の煩悩を離れて、この三地に基づいて正性離生に入った者は、その道類智の時にも同じくこの三地の不還果を成就する。 もし第二静慮に基づいて正性離生に入った者は、その道類智の時に四地の不還果を成就する。すなわち、前三地と第二静慮である。 もし第三静慮に基づいて正性離生に入った者は、その道類智の時に五地の不還果を成就する。すなわち、前四地と第三静慮である。 もし第四静慮に基づいて正性離生に入った者は、その道類智の時に六地の不還果を成就する。すなわち、前五地と第四静慮である。 初めの三地に基づいて不還果を得た後、その同じ三地に基づいて根を転じる者は、三地の不還果を捨て、三地の不還果を得る。 もし第二静慮に基づいて根を転じる者は、三地の不還果を捨て、四地の不還果を得る。 もし第三静慮に基づいて根を転じる者は、三地の不還果を捨て、五地の不還果を得る。 もし第四静慮に基づいて根を転じる者は、三地の不還果を捨て、六地の不還果を得る。 もし第二静慮に基づいて不還果を得た後、その同じ第二静慮に基づいて根を転じる者は、四地の不還果を捨て、四地の不還果を得る。 もし第三静慮に基づいて根を転じる者は、四地の不還果を捨て、五地の不還果を得る。 もし第四静慮に基づいて根を転じる者は、四地の不還果を捨て、六地の不還果を得る。 もし第三静慮に基づいて不還果を得た後、その同じ第三静慮に基づいて根を転じる者は、五地の不還果を捨て、五地の不還果を得る。 もし第四静慮に基づいて根を転じる者は、五地の不還果を捨て、六地の不還果を得る。 もし第四静慮に基づいて不還果を得た後、その同じ第四静慮に基づいて根を転じる者は、六地の不還果を捨て、六地の不還果を得る。 上の地に基づいて不還果を得た後、下の地に基づいて根を転じることはない。なぜなら、多くの道を捨てて少ない道を得ることになり、それは損減と呼ばれ、增益とは言えないからである。 ある説では「上の地に基づいて不還果を得た後、下の地に基づいて根を転じることがある」と言う。その説によれば、 第四静慮に基づいて不還果を得た後、第三静慮に基づいて根を転じる者は、六地の不還果を捨て、五地の不還果を得る。 もし第二静慮に基づいて根を転じる者は、六地の不還果を捨て、四地の不還果を得る。 もし初静慮などの三地に基づいて根を転じる者は、六地の不還果を捨て、三地の不還果を得る。 第三静慮に基づいて不還果を得た後、第二静慮に基づいて根を転じる者は、五地の不還果を捨て、四地の不還果を得る。 もし初静慮などの三地に基づいて根を転じる者は、五地の不還果を捨て、三地の不還果を得る。 第二静慮に基づいて不還果を得た後、初静慮などの三地に基づいて根を転じる者は、四地の不還果を捨て、三地の不還果を得る。 ここでは、前の説と異なる点だけを述べている。自地や上地に基づいて根を転じる場合の捨得の多少は、前に述べた通りである。 問：もし上の地に基づいて不還果を得た後、下の地に基づいて根を転じるならば、多くの道を捨てて少ない道を得ることになる。これは損減であって、どうして增益と言えるのか。 答：その人は鋭利な根を求めており、多くの道を求めていない。多くの道を捨てて少ない道を得ても、それは過ちではない。たとえば、多くの安物の品を投げ出して、少しの高価な宝物と交換するようなもので、そうすることで増益となり、損減とはならないのである。 果（結果）に基づいて述べたが、もし道に基づいて述べるならば、すべての不還果者は、 まだ初静慮の煩悩を離れていない者が、初静慮などの三地に基づいて根を転じる場合、三地の聖道を捨て、三地の聖道を得る。 すでに初静慮の煩悩を離れ、まだ第二静慮の煩悩を離れていない者が、初静慮などの三地に基づいて根を転じる場合、四地の聖道を捨て、三地の聖道を得る。 すでに第二静慮の煩悩を離れ、まだ第三静慮の煩悩を離れていない者が、初静慮などの三地に基づいて根を転じる場合、五地の聖道を捨て、三地の聖道を得る。 すでに第三静慮の煩悩を離れ、まだ第四静慮の煩悩を離れていない者が、初静慮などの三地に基づいて根を転じる場合、六地の聖道を捨て、三地の聖道を得る。 すでに第四静慮の煩悩を離れ、まだ空無辺処の煩悩を離れていない者が、初静慮などの三地に基づいて根を転じる場合、七地の聖道を捨て、三地の聖道を得る。 すでに空無辺処の煩悩を離れ、まだ識無辺処の煩悩を離れていない者が、初静慮などの三地に基づいて根を転じる場合、八地の聖道を捨て、三地の聖道を得る。 すでに識無辺処の煩悩を離れた者が、初静慮などの三地に基づいて根を転じる場合、九地の聖道を捨て、三地の聖道を得る。 まだ第二静慮の煩悩を離れていない者が、第二静慮に基づいて根を転じる場合、四地の聖道を捨て、四地の聖道を得る。 すでに第二静慮の煩悩を離れ、まだ第三静慮の煩悩を離れていない者が、第二静慮に基づいて根を転じる場合、五地の聖道を捨て、四地の聖道を得る。 このようにして、すでに識無辺処の煩悩を離れた者が、第二静慮に基づいて根を転じる場合、九地の聖道を捨て、四地の聖道を得る。 まだ第三静慮の煩悩を離れていない者が、第三静慮に基づいて根を転じる場合、五地の聖道を捨て、五地の聖道を得る。 すでに第三静慮の煩悩を離れ、まだ第四静慮の煩悩を離れていない者が、第三静慮に基づいて根を転じる場合、六地の聖道を捨て、五地の聖道を得る。 このようにして、すでに識無辺処の煩悩を離れた者が、第三静慮に基づいて根を転じる場合、九地の聖道を捨て、五地の聖道を得る。 まだ第四静慮の煩悩を離れていない者が、第四静慮に基づいて根を転じる場合、六地の聖道を捨て、六地の聖道を得る。 すでに第四静慮の煩悩を離れ、まだ空無辺処の煩悩を離れていない者が、第四静慮に基づいて根を転じる場合、七地の聖道を捨て、六地の聖道を得る。 このようにして、すでに識無辺処の煩悩を離れた者が、第四静慮に基づいて根を転じる場合、九地の聖道を捨て、六地の聖道を得る。 すでに初静慮などの煩悩を離れた者が、第二静慮などに基づいて根を転じる場合の捨得の多少は、道理に従って考えるべきである。 無色定に基づいて根を転じることはない。なぜなら、学果は無色定に依らないからである。 正しく言うべきである。もし上の地ですでに自在を得ていて、下の地に基づいて学び根を転じるなどする場合でも、上の地の無漏果道も得る。しかし、根を転じる時に無色定は得られない。なぜなら、その定には不還果が存在しないからである。 ここで、次のような設問と応答があるべきである。 問：九地の聖道を捨てて六地の聖道を得る聖者がいて、これを退転と言わず、進歩と言うことはあるか。 答：ある。すでに識無辺処の煩悩を離れた信勝解者が、第四静慮に基づいて根を転じる時である。 問：すでに無所有処の煩悩を離れた聖者で、ただ一地の聖道だけを成就する者はあるか。 答：ある。すでに無所有処の煩悩を離れた者が、未至定に基づいて正性離生に入った場合、その見道の中の十五心の間である。 問：すでに無所有処の煩悩を離れた不還果者で、ただ三地の無漏果道だけを成就する者はあるか。 答：ある。すでに無所有処の煩悩を離れた信勝解者が、上の地において自在を得ず、未至定か初静慮か静慮中間に基づいて、根を転じて見至となる時である。 問：身証でありながら、無漏の無色定を成就しない者はあるか。 答：ある。身証である信勝解者が、根を転じて見至となる時である。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第六十七

> 説一切有部発智大毘婆沙論 巻第六十七