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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 1"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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### 結蘊第二中十門納息第四之一

> 第二結蘊中的十門納息第四之一

二十二根。乃至九十八隨眠。如是四十二章及解章義既領會已。應廣分別。二十二根者。謂眼根耳根鼻根舌根身根女根男根命根意根樂根苦根喜根憂根捨根信根精進根念根定根慧根未知當知根已知根具知根。此廣分別。如後根蘊根納息中十八界者。謂眼界色界眼識界耳界聲界耳識界鼻界香界鼻識界舌界味界舌識界身界觸界身識界意界法界意識界。此界契經亦名略說亦名廣說。名略說者。對大記經如大譬喻大涅槃等。名廣說者。對處契經彼處契經。亦名略說亦名廣說。名略說者對界契經名廣說者。對蘊契經。彼蘊契經亦名略說亦名廣說。名略說者對處契經。名廣說者。對諸所有受皆是苦等經。彼諸所有受皆是苦等經。但名略說不名廣說。有作是說。此界契經等亦名略說亦名廣說。即依自說不對餘經。謂界經中廣說色心。略說心所故。彼處契經亦名略說亦名廣說。即依自說不對餘經。謂處經中廣說色略說心心所故。彼蘊契經亦名略說亦名廣說。即依自說不對餘經。謂蘊經中廣說心所。略說色心故。彼諸所有受皆是苦契經但名略說不名廣說。復有說者。此界契經名為廣說亦攝一切法。彼大譬喻大涅槃等經雖名廣說而不攝一切法。彼處契經雖攝一切法而非廣說。是處中說故。彼蘊契經不名廣說。是略說故。亦不攝一切法。但攝有為非無為故。彼諸所有受皆是苦等經不名廣說。是極略說故。於中亦有攝一切法者如說諸法空無我等。有餘師說。更無略說契經。如世尊說施有二種。一者法施。二者財施經等。更無廣說契經如大譬喻大涅槃經等。如是諸說雖各有義。然佛世尊於所知境。先作廣說後作略說。謂於所知境先廣說十八界。後即於此略說為十二處。復即於此除無為法略說為五蘊。是名世尊廣略說法。即依如是廣略說法。佛告尊者舍利子言。我於法寶能廣略說。而能解者甚為難得。復依如是廣略說法。尊者舍利子白佛言。世尊唯願如來廣略說法此定當有解法寶者。於如是事應作譬喻。如海龍王久處大海。增長威勢上昇虛空。興布大雲遍覆空界。掣電晃曜震大雷音。普告世間我當注雨。一切藥草卉木叢林。聞如是聲皆大驚慴咸作是念。此大龍王處大海中久增威勢。今若注雨未有息期。我等皆當定為漂沒。爾時大地聞如是聲心不驚疑面無異色。虛懷仰請海龍王言。唯願恣情降注大雨。過百千歲我悉能受。世尊亦爾。曾於過去釋迦牟尼帝幢寶髻然燈勝觀。乃至最後迦葉波佛所。增長福德智慧資糧。昇有餘依涅槃空界。興大悲雲遍覆世間。發勝慧電普照一切。虛空非我無畏雷音。遍告所化舍利子等。我於法寶能廣略說。而能解者甚為難得。時諸所化除舍利子。聞佛此言皆生怯懼。咸作是念。佛得如是。昔所未得名句文身。為我等說恐不能解。唯舍利子六十劫中。增長智見猛利圓滿猶如大地。聞佛此言心不驚疑。面無異色能無所畏。而請佛言。唯願如來廣略說法。此定當有解法寶者。問亦應有法非諸聲聞獨覺境界。彼舍利子何緣無畏作如是請。答彼唯請佛聲聞所知非佛所知。聲聞境界非佛境界。聲聞所行非佛所行。聲聞根所及非佛根所及故不違理。復次知佛開許故作是請。謂舍利子作如是念。世尊慈悲諸所說法。必應稱量定有饒益。要於田器而雨法雨。所雨法雨終不唐捐。諸所發言必依法器。若非法器終不發言。世尊既知我有爾所堪受法器。作如是言。故知世尊開許我請。是故尊者請佛無畏。

> 二十二根から九十八随眠に至るまで、この四十二章と章の意味を理解したならば、詳しく解説すべきである。二十二根とは、眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、女根、男根、命根、意根、楽根、苦根、喜根、憂根、捨根、信根、精進根、念根、定根、慧根、未知当知根、已知根、具知根である。この詳しい解説は、後の「根蘊」の「根納息」の中で述べられる。 十八界とは、眼界、色界、眼識界、耳界、声界、耳識界、鼻界、香界、鼻識界、舌界、味界、舌識界、身界、触界、身識界、意界、法界、意識界である。この界の経典は、略説とも広説とも呼ばれる。略説と呼ばれるのは、「大記経」のような大譬喻経や大涅槃経などと対比した場合である。広説と呼ばれるのは、「処の経典」と対比した場合である。その処の経典もまた、略説とも広説とも呼ばれる。略説と呼ばれるのは、界の経典と対比した場合であり、広説と呼ばれるのは、蘊の経典と対比した場合である。その蘊の経典もまた、略説とも広説とも呼ばれる。略説と呼ばれるのは、処の経典と対比した場合であり、広説と呼ばれるのは、「諸々の受はすべて苦である」などの経典と対比した場合である。それらの「諸々の受はすべて苦である」などの経典は、ただ略説と呼ばれるだけで、広説とは呼ばれない。 ある者はこう説く。「この界の経典などは、それ自体に基づいて、他の経典と対比することなく、略説とも広説とも呼ばれる。すなわち、界の経典の中では、色と心を広く説き、心所を略して説くからである」。その処の経典もまた、それ自体に基づいて、他の経典と対比することなく、略説とも広説とも呼ばれる。すなわち、処の経典の中では、色を広く説き、心と心所を略して説くからである。その蘊の経典もまた、それ自体に基づいて、他の経典と対比することなく、略説とも広説とも呼ばれる。すなわち、蘊の経典の中では、心所を広く説き、色と心を略して説くからである。それらの「諸々の受はすべて苦である」などの経典は、ただ略説と呼ばれるだけで、広説とは呼ばれない。 さらに別の者はこう説く。「この界の経典は広説と呼ばれ、また一切の法を摂取する。あの大譬喻経や大涅槃経などは、広説と呼ばれるが、一切の法を摂取するわけではない。あの処の経典は、一切の法を摂取するが、広説ではない。それは中位の説き方だからである。あの蘊の経典は、広説とは呼ばれない。略説だからである。また、一切の法を摂取するわけでもない。ただ有為法のみを摂取し、無為法を摂取しないからである。それらの『諸々の受はすべて苦である』などの経典は、広説とは呼ばれない。極めて略した説き方だからである。その中にも一切の法を摂取するものもある。例えば『諸法は空であり無我である』と説く経典などである」。 他の師たちはこう説く。「世尊が『施には二種ある。一つは法施、一つは財施である』と説かれた経典などより略した説き方の経典はなく、大譬喻経や大涅槃経などより広い説き方の経典はない」。 これらの諸説は、それぞれに意味があるが、しかし仏世尊は、認識されるべき対象について、最初に広く説き、後に略して説かれた。すなわち、認識されるべき対象について、最初に十八界を広く説き、後にこの十八界を略して十二処と説かれた。さらに、この十二処から無為法を除いて、略して五蘊と説かれた。これが世尊の広略説法である。 この広略説法に基づいて、仏は尊者舎利子に告げられた。「私は法宝について広くも略しても説くことができる。しかし、それを理解できる者は、極めて得難いのである」。さらに、この広略説法に基づいて、尊者舎利子は仏に申し上げた。「世尊よ、どうか如来が広略説法してくださいますように。必ずや法宝を理解する者がいるでありましょう」。 このような事柄について、譬えを用いるべきである。例えば、海の龍王が長い間大海に住み、威勢を増し、虚空に昇り、大きな雲を起こして空界を覆い、稲妻を光らせ、大きな雷鳴を轟かせて、世間に向かって「私は雨を降らせよう」と告げる。すべての薬草や木々や叢林は、この音を聞いて皆ひどく驚き、「この大龍王は大海の中に長く住んで威勢を増してきた。今雨を降らせ始めたら、止む気配がない。我々は皆、きっと流されてしまうだろう」と考える。その時、大地はこの音を聞いても心に驚き疑いがなく、顔色も変えず、心を開いて海の龍王に請う。「どうか思うままに大雨を降らせてください。百千年過ぎても、私はすべて受け入れましょう」。 世尊もまた同じである。かつて過去の釈迦牟尼、帝幢、宝髻、燃灯、勝観、さらには最後の迦葉波仏の所で、福徳と智慧の資糧を増長し、有余依涅槃の空界に昇り、大悲の雲を起こして世間を覆い、勝れた智慧の稲妻を放ってすべてを照らし、虚空・非我・無畏の雷音をもって、教化すべき舎利子らに告げられた。「私は法宝について広くも略しても説くことができる。しかし、それを理解できる者は、極めて得難いのである」。 その時、教化すべき者たちは、舎利子を除いて、仏のこの言葉を聞いて皆怖れおののき、「仏はこのような、かつて得られなかった名・句・文身を、我々のために説かれるが、理解できないのではないか」と考えた。ただ舎利子だけは、六十劫の間、智慧と見解を増長し、猛利で円満であり、大地のようであったので、仏のこの言葉を聞いても心に驚き疑いがなく、顔色も変えず、何の怖れもなく仏に請うた。「どうか如来が広略説法してくださいますように。必ずや法宝を理解する者がいるでありましょう」。 問う。「法には、声聞や独覚の境界ではないものもあるはずである。それなのに、どうして舎利子は怖れずにこのように請うたのであろうか」。 答える。「彼はただ仏の声聞として知るべきことを請うたのであって、仏の知ることを請うたのではない。声聞の境界は仏の境界ではなく、声聞の所行は仏の所行ではなく、声聞の根が及ぶところは仏の根が及ぶところではないから、理に反しないのである」。 さらに、「仏が開許されたことを知って、このように請うたのである。すなわち、舎利子はこう考えた。『世尊は慈悲深く、説かれる法は必ずやよく斟酌され、必ず利益があるであろう。必ず田や器に応じて法の雨を降らせ、降らせた法の雨は決して無駄になることはない。発せられる言葉は必ず法の器に従う。もし法の器でなければ、決して言葉を発しないであろう。世尊は、私にこのような堪えられる器があると知って、このように言われたのである。だから、世尊が私の請いを開許されたことが分かる』と。それゆえ、尊者は怖れずに仏に請うたのである」。

問佛為何等所化有情。說蘊處界廣略三法。答佛隨所化所愚而說。謂愚於界者為說十八界。若愚於處者為說十二處。若愚於蘊者為說五蘊。復次世尊所化略有三種。一初習業。二已串修。三超作意初習業者為說十八界。已串修者為說十二處。超作意者為說五蘊。復次世尊所化有三種根。謂鈍中利為鈍根者說十八界。為中根者說十二處。為利根者說五蘊。復次世尊所化有三種智。一者開智。二者說智。三者引智。為開智者說五蘊。為說智者說十二處。為引智者說十八界。復次世尊所化有三種樂。謂廣中略。為樂廣者說十八界。為樂中者說十二處。為樂略者說五蘊。復次世尊所化有三憍逸。一恃姓憍逸。二恃財憍逸。三恃命憍逸。恃姓憍逸者為說十八界。謂族姓義是界義。種類貴賤無差別故。恃財憍逸者為說十二處。謂生門義是處義。隨有所生尋散盡故。恃命憍逸者為說五蘊。謂積聚義是蘊義。有為積聚尋散滅故。復次世尊所化有三種愚。一者愚色心。二者愚於色。三者愚心所。愚色心者為說十八界。於此界中廣說色心略說心所故。愚於色者為說十二處。於此處中廣說色略說心心所故。愚心所者為說五蘊。於此蘊中廣說心所略說色心故。復次為計我者說十八界。謂一身中有多界別無一我故為愚所依及所緣者說十二處。謂分別識有六所依六所緣故。為我慢者說五蘊。謂身唯有生滅五蘊不應恃怙起我慢故。佛為此等所化有情說蘊處界廣略三法。

> 仏は、どのような教化の対象者に対して、五蘊・十二処・十八界という広・略・中の三つの法を説かれるのか。 答えていう。仏は、教化の対象者が何に迷っているかに応じて説かれる。すなわち、界に迷う者には十八界を説き、処に迷う者には十二処を説き、蘊に迷う者には五蘊を説かれる。 また、世尊が教化される対象者には、おおよそ三種類がある。第一に修行を始めたばかりの者、第二にすでに修行を積んだ者、第三に修行の段階を超えた者である。修行を始めたばかりの者には十八界を説き、すでに修行を積んだ者には十二処を説き、修行の段階を超えた者には五蘊を説かれる。 また、世尊が教化される対象者には、三種類の根機がある。鈍根・中根・利根である。鈍根の者には十八界を説き、中根の者には十二処を説き、利根の者には五蘊を説かれる。 また、世尊が教化される対象者には、三種類の智慧がある。第一に開く智慧、第二に説く智慧、第三に導く智慧である。開く智慧の者には五蘊を説き、説く智慧の者には十二処を説き、導く智慧の者には十八界を説かれる。 また、世尊が教化される対象者には、三種類の好みがある。広いものを好む者、中くらいのものを好む者、簡潔なものを好む者である。広いものを好む者には十八界を説き、中くらいのものを好む者には十二処を説き、簡潔なものを好む者には五蘊を説かれる。 また、世尊が教化される対象者には、三種類の慢心がある。第一に家柄を恃む慢心、第二に財産を恃む慢心、第三に寿命を恃む慢心である。家柄を恃む慢心を持つ者には十八界を説かれる。なぜなら、族姓という意味は界という意味であり、種類や貴賤に差別がないからである。財産を恃む慢心を持つ者には十二処を説かれる。なぜなら、生まれる門という意味は処という意味であり、生まれるものはすべてやがて散り尽きるからである。寿命を恃む慢心を持つ者には五蘊を説かれる。なぜなら、積み重なるという意味は蘊という意味であり、有為の積み重ねはやがて消え去るからである。 また、世尊が教化される対象者には、三種類の迷いがある。第一に色と心に迷う者、第二に色に迷う者、第三に心所に迷う者である。色と心に迷う者には十八界を説かれる。この界の中では、色と心を詳しく説き、心所を簡略に説くからである。色に迷う者には十二処を説かれる。この処の中では、色を詳しく説き、心と心所を簡略に説くからである。心所に迷う者には五蘊を説かれる。この蘊の中では、心所を詳しく説き、色と心を簡略に説くからである。 また、自己があると考える者には十八界を説かれる。一つの身体の中に多くの異なる界があり、一つの自己は存在しないからである。心のよりどころと対象に迷う者には十二処を説かれる。識には六つのよりどころと六つの対象があるからである。自己慢を持つ者には五蘊を説かれる。身体はただ生滅する五蘊のみであり、恃みにして自己慢を起こすべきではないからである。 仏は、このような教化の対象者たちのために、五蘊・十二処・十八界という広・略・中の三つの法を説かれるのである。

問此十八界名有十八。實體有幾。答此界實體或有十七或有十二。若說六識便失意界。離六識身無別意界。故十八界名有十八實體十七。若說意界便失六識。離此意界無別六識。故十八界名有十八實體十二。如名與體。名施設體施設。名異相體異相。名異性體異性。名差別體差別。名建立體建立。名覺體覺。應知亦爾。問若十八界名有十八。體或十七或十二者云何建立十八界耶。答以三事故建立十八。一以所依。二以能依。三以境界。以所依故立六內界。謂眼界乃至意界。以能依故立六識界。謂眼識界乃至意識界。以境界故立六外界。謂色界乃至法界。問若以所依能依境界各有六故。立十八界有差別者。諸阿羅漢最後念心應非意界。依彼不能生後識故。答彼亦是意界依彼不能生後識者非彼為障。但餘緣障故後識不起。設後起者亦作所依。如有餘緣不生芽等。豈沃壤地非芽等依。此十八界過去未來現在皆具。問過去可有此十八界。以六識身無間已滅名意界故。未來現在如何亦有十八界耶。答此十八界依相而立。三世各有十八界相。若未來現在識無意界相者。過去識亦應無以相無轉故。

> 問う、この十八界は名が十八あり、実体は幾つあるのか。答う、この界の実体はあるいは十七、あるいは十二である。もし六識を説けば意界を失う。六識の身を離れて別に意界はないからである。ゆえに十八界の名は十八あっても、実体は十七である。もし意界を説けば六識を失う。この意界を離れて別に六識はないからである。ゆえに十八界の名は十八あっても、実体は十二である。名と体の関係も、名の施設立てと体の施設立て、名の異なる相と体の異なる相、名の異なる性質と体の異なる性質、名の違いと体の違い、名の建て方と体の建て方、名の認識と体の認識、同様に知るべきである。 問う、もし十八界の名が十八あり、体が十七または十二であるならば、どうやって十八界を建てるのか。答う、三つの事によって十八を建てる。第一に「所依（よりどころ）」、第二に「能依（よりつくもの）」、第三に「境界（対境）」である。所依によって六つの内界を建てる。すなわち眼界から意界までである。能依によって六つの識界を建てる。すなわち眼識界から意識界までである。境界によって六つの外界を建てる。すなわち色界から法界までである。 問う、もし所依・能依・境界にそれぞれ六つあることによって、十八界に違いを建てるならば、諸々の阿羅漢の最後の瞬間の心は、意界であるべきではないのか。それによっては後の識を生じないからである。答う、それもまた意界である。それによって後の識を生じないのは、それが妨げになるからではない。ただ他の縁が妨げとなって、後の識が生じないのである。もし後に生じるならば、それもまた所依となる。たとえば他の縁があって芽などが生じない場合でも、肥沃な土地は芽などの依りどころではないと言えるだろうか。 この十八界は、過去・未来・現在のすべてに具わっている。問う、過去にはこの十八界があり得る。六識の身が間断なく滅したものを意界と名づけるからである。未来・現在にもどうして十八界があり得るのか。答う、この十八界は相に依って立つ。三世にはそれぞれ十八の界の相がある。もし未来・現在の識に意界の相がなければ、過去の識にもまたその相がないことになる。なぜなら相は転じないからである。

問等無間緣未來未有。現在過去亦應不立。此既得立。意界應然。答等無間緣依用而立。未來未有等無間法故不可立等無間緣。設立於誰有此緣用。此十八界依相而立。未來雖無識所依用。而已有識可立所依。故此與彼不可為例。諸阿羅漢最後念心。雖非等無間緣而是意界准此應知。餘契經中世尊自說惡叉聚喻。說此喻已告諸苾芻。有情身中有多界性。彼亦攝在此十八界。所依能依境界攝故。又佛於彼多界經中說界差別有六十二。彼亦攝在此十八界。即所依等三事攝故。問何故世尊為眾說彼六十二界。答為對外道身見為本。有六十二見趣別故。又世尊告天帝釋言。憍尸迦當知。世有種種界。隨各所想。而各執著。隨各執著而各說之。各言此實餘皆愚妄。彼亦攝在此十八界。即所依等三事攝故。有作是說。彼經諸見以界聲說。皆唯攝在此法界中。尊者左受作如是說。以四事故立十八界。一自性故。二所作故。三能作故。四蘊差別故。以自性故建立色界乃至法界。以所作故建立眼識界乃至意識界。以能作故建立眼界乃至意界。以蘊差別故建立十八界。謂色蘊差別建立十界一界少分。識蘊差別建立七心界。三蘊攝在一法界中。如是名為諸界自性。我物自體相分本性已說界自性所以今當說。問何故名界。界是何義。答種族義是界義。段義分義片義異相義不相似義分齊義是界義。種種因義是界義。聲論者說馳流故名界。任持故名界。長養故名界。應知此中種族義是界義者。如一山中有多種族。謂金銀銅鐵白鑞鉛錫丹青等石。白墡土等異類種族。如是於一相續身中。有十八界異類種族。段義是界義者。如有次第安布段物得種種名。謂次第安布材木等段。名為宮殿臺觀舍等。次第安布餘甘子等段名阿摩洛迦。次第安布竹篾等段名蓋扇等。次第安布骨肉等段名男女等。如是次第安布眼等。十八界段名為有情摩納婆等。分義是界義者。謂男身中有十八分。女等亦爾。即十八界。片義是界義者。謂男身中有十八片。女等亦爾。即十八界。異相義是界義者。謂眼界相異乃至意識界相異。不相似義是界義者。謂眼界不似餘界。乃至意識界不似餘界。分齊義是界義者。謂眼界分齊異餘十七界。乃至意識界分齊異餘十七界。種種因義是界義者。謂因此故有眼界非即因此乃至有意識界。乃至因此故有意識界非即因此乃至有眼界。聲論者說。馳流故名界者。謂此諸界馳流三界五趣四生輪轉生死。任持故名界者。謂此諸界任持自性。長養故名界者。謂此諸界長養他性。是故種族義是界義。乃至長養故名為界。

> 問う：等無間緣は未來には未だ存在しない。ならば現在や過去においても成立しないはずではないか。これが成立するのであれば、意界も同様に成立するはずである。 答う：等無間緣はその働きに基づいて立てられる。未來には未だ等無間の法が存在しないため、等無間緣を立てることはできない。仮に立てたとしても、誰においてこの緣の働きがあるというのか。十八界はその相に基づいて立てられる。未來には識が依拠する働きは未だないが、すでに識というものは存在するので、所依を立てることができる。それゆえ、これとそれとは同列に論じることはできない。諸々の阿羅漢の最後の念心は、等無間緣ではないが、意界ではある。これに準じて知るべきである。 他の経典において、世尊は自ら悪叉聚の喩えを説かれた。この喩えを説いた後、諸々の比丘に告げられた。「有情の身の中には多くの界の性質がある」と。それもこの十八界に含まれる。所依・能依・境界の三つの事柄に摂せられるからである。 また、仏はその多界経において、界の差別に六十二種あると説かれた。それもこの十八界に含まれる。すなわち、所依等の三つの事柄に摂せられるからである。 問う：なぜ世尊は衆生のためにその六十二界を説かれたのか。 答う：外道の身見を根本とする、六十二種の見解の趣きがそれぞれ異なることに対応するためである。 また、世尊は天帝釈に告げられた。「憍尸迦よ、知るべきである。世には種々の界がある。それぞれの思いに従って、それぞれ執著し、それぞれの執著に従ってそれぞれ説く。各自が『これが真理である』と言い、他はすべて愚かで誤っているとする」と。それもこの十八界に含まれる。すなわち、所依等の三つの事柄に摂せられるからである。 ある者はこう説く。「あの経の諸々の見解は、界という言葉で説かれているが、すべてこの法界の中にのみ摂せられる」と。 尊者左受はこう説いた。「四つの事柄によって十八界を立てる。第一に自性、第二に所作、第三に能作、第四に蘊の差別である。自性によって色界乃至法界を立てる。所作によって眼識界乃至意識界を立てる。能作によって眼界乃至意界を立てる。蘊の差別によって十八界を立てる。すなわち、色蘊の差別によって十界と一界の少分を立てる。識蘊の差別によって七つの心界を立てる。三蘊は一つの法界の中に摂せられる。これを諸界の自性と名づける。」 我物・自体・相分・本性については、すでに界の自性を説いた。それでは、なぜ界と名づけるのか。今まさに説くべきである。 問う：なぜ界と名づけるのか。界とはどのような意味か。 答う：種族の義が界の義である。段の義、分の義、片の義、異相の義、不相似の義、分斉の義が界の義である。種種の因の義が界の義である。声論者は説く。「馳流するから界と名づける。任持するから界と名づける。長養するから界と名づける」と。 ここにおいて、種族の義が界の義であるとは、例えば一つの山の中に多くの種族がある。すなわち金・銀・銅・鉄・白鑞・鉛・錫・丹青等の石、白墡土等の異なる種類の種族がある。このように、一つの相続する身の中に十八界の異なる種類の種族がある。 段の義が界の義であるとは、例えば順序立てて段物を配置すれば、種々の名前を得る。すなわち、材木等の段を順に配置すれば、宮殿・台観・舎等と名づける。余甘子等の段を順に配置すれば、阿摩洛迦と名づける。竹篾等の段を順に配置すれば、蓋・扇等と名づける。骨肉等の段を順に配置すれば、男・女等と名づける。このように、眼等の十八界の段を順に配置すれば、有情・摩納婆等と名づける。 分の義が界の義であるとは、男の身の中に十八の部分がある。女等もまた同様である。すなわち十八界である。 片の義が界の義であるとは、男の身の中に十八の片がある。女等もまた同様である。すなわち十八界である。 異相の義が界の義であるとは、眼界の相は異なり、乃至意識界の相も異なることである。 不相似の義が界の義であるとは、眼界は他の界と似ず、乃至意識界も他の界と似ないことである。 分斉の義が界の義であるとは、眼界の分斉は他の十七界と異なり、乃至意識界の分斉も他の十七界と異なることである。 種種の因の義が界の義であるとは、この因によって眼界があるのであって、すなわちこの因によって乃至意識界があるのではない。乃至、この因によって意識界があるのであって、すなわちこの因によって乃至眼界があるのではない。 声論者は説く。「馳流するから界と名づけるとは、これらの諸界が三界・五趣・四生を馳流し、生死の中を輪転することをいう。任持するから界と名づけるとは、これらの諸界が自性を任持することをいう。長養するから界と名づけるとは、これらの諸界が他の性質を長養することをいう。」 それゆえ、種族の義が界の義であり、乃至長養するから界と名づけるのである。

已總說界立名所因。今當一一別說其相。問眼界云何。答諸眼於色已正當見。及彼同分是名眼界。已見色者。謂過去眼。正見色者。謂現在眼。當見色者。謂未來眼。及彼同分者。此國諸師說有四種。一者過去彼同分眼。謂眼界不見色已滅。二者現在彼同分眼。謂眼界不見色正滅。三者未來彼同分眼。謂眼界不見色當滅。四者未來畢竟不生眼界。外國諸師說有五種三如前說。未來畢竟不生眼界分為二種。一有識屬眼界。二無識屬眼界。舊外國師同此國說。舊此國師同外國說。諸見色眼於自有情名同分眼。於餘有情亦名同分。諸不見色眼於自有情名彼同分眼。於餘有情亦名彼同分。有作是說。諸見色眼於自有情名同分眼。於餘有情名彼同分。諸不見色眼於自有情名彼同分眼。於餘有情亦名彼同分。復有說者。諸見色眼於自有情名同分眼。於餘有情非同分亦非彼同分。諸不見色眼於自有情名彼同分眼。於餘有情非同分亦非彼同分。彼不應作是說。云何有眼而非同分非彼同分。應作是說。於三說中初說應理。問豈用他眼能見色耶。答誰說能用他眼見色。問若無能用他眼見色。如何有情自見色眼於餘有情亦名同分。答以有用眼根恒定故。眼界用者。謂能見色。如眼於色有用已滅說為同分。於自於他此同分名恒無改轉。雖無能用他眼見色。而有用眼恒名同分。正滅當滅應知亦爾。問同分眼能見色。彼同分眼不能見色。云何見色眼是不見色眼之同分。不見色眼是彼見色眼之同分耶。答彼此二眼互為因故。謂見色眼與不見色眼為因。不見色眼亦與見色眼為因。復次彼此二眼互相生故。謂見色眼能生不見色眼。不見色眼復能生見色眼。復次彼此二眼互相引故。謂見色眼能引不見色眼。不見色眼復能引見色眼。復次彼此二眼互相轉故。謂見色眼能轉不見色眼。不見色眼復能轉見色眼。復次彼此二眼互相續故。謂見色眼能續不見色眼。不見色眼復能續見色眼。復次見色眼與不見色眼。俱一界攝。俱一處攝。俱一根攝。同一見性故。見色眼是不見色眼之同分。不見色眼復是彼見色眼之同分。如眼界耳鼻舌身界亦爾。同分彼同分品類差別皆相似故。

> 我們已經總體說明了「界」這個名稱的由來。現在就來逐一詳細說明它們各自的相狀。 \*\*問：什麼是「眼界」？\*\* \*\*答：\*\* 各種眼根對於色境，無論是已經看見、正在看見、還是將要看見，以及與這些情況相應的「彼同分」眼，都稱為「眼界」。 \* \*\*已經看見色境的\*\*，是指過去的眼根。 \* \*\*正在看見色境的\*\*，是指現在的眼根。 \* \*\*將要看見色境的\*\*，是指未來的眼根。 \* \*\*「彼同分」眼\*\*：對此，本國（印度）的論師們認為有四種情況： 1. 過去的「彼同分」眼：指那些沒有看見色境就已經滅去的眼根。 2. 現在的「彼同分」眼：指那些沒有看見色境、正在滅去的眼根。 3. 未來的「彼同分」眼：指那些沒有看見色境、將來會滅去的眼根。 4. 未來究竟不會生起的眼根。 而外國的論師們則認為有五種，前三種與上述相同。他們將「未來畢竟不生」的眼根分為兩種： 1. 有識所屬的眼根。 2. 無識所屬的眼根。 早先的外國論師們同意本國的說法，而早先的本國論師們則同意外國的說法。 \*\*進一步分析：\*\* 那些能看見色境的眼根，對於有情自身來說，稱為「同分眼」；對於其他有情來說，也稱為「同分眼」。 那些看不見色境的眼根，對於有情自身來說，稱為「彼同分眼」；對於其他有情來說，也稱為「彼同分眼」。 \*\*有不同的觀點：\*\* \* 有一種觀點認為：能看見色境的眼根，對於自身是「同分眼」，對於其他有情則是「彼同分眼」。看不見色境的眼根，對於自身是「彼同分眼」，對於其他有情也是「彼同分眼」。 \* 還有一種觀點認為：能看見色境的眼根，對於自身是「同分眼」，對於其他有情則既不是「同分眼」，也不是「彼同分眼」。看不見色境的眼根，對於自身是「彼同分眼」，對於其他有情也同樣既不是「同分眼」，也不是「彼同分眼」。 \*\*反駁與正義：\*\* 對於最後這種觀點，是不應該這樣說的。怎麼可能有一種眼根，既不是「同分」，也不是「彼同分」呢？ 所以，應該這樣說：在上述三種說法中，第一種說法（即最初的觀點）是合理的。 \*\*問：\*\* 難道能用他人的眼根來看色境嗎？ \*\*答：\*\* 當然不能。有誰說能用他人的眼根來看色境呢？ \*\*問：\*\* 既然不能用他人的眼根來看色境，那為什麼說自己看見色境的眼根，對於其他有情來說也叫「同分眼」呢？ \*\*答：\*\* 這是因為「有用」的眼根是恆常確定的。所謂「眼界的作用」，就是指能看見色境。例如，眼根對於色境有作用，即使已經過去，也稱之為「同分」。無論是對於自身還是其他有情，這種「同分」的名稱是恆常不變的。雖然不能用他人的眼根看見色境，但是具有「作用」的眼根，恆常被稱為「同分」。正在滅去和將要滅去的情況也應如此理解。 \*\*問：\*\* 「同分眼」能看見色境，「彼同分眼」不能看見色境。為什麼說能看見色境的眼根，是那看不見色境眼根的「同分」？而看不見色境的眼根，又是那能看見色境眼根的「同分」呢？ \*\*答：\*\* 這是因為這兩種眼根互為因果的緣故。具體來說： \* 能看見色境的眼根，是看不見色境眼根的因；看不見色境的眼根，也是能看見色境眼根的因。 \* 再者，這兩種眼根互相生起。能看見色境的眼根能生起看不見色境的眼根，看不見色境的眼根也能生起能看見色境的眼根。 \* 再者，這兩種眼根互相牽引。能看見色境的眼根能牽引看不見色境的眼根，看不見色境的眼根也能牽引能看見色境的眼根。 \* 再者，這兩種眼根互相轉變。能看見色境的眼根能轉變看不見色境的眼根，看不見色境的眼根也能轉變能看見色境的眼根。 \* 再者，這兩種眼根互相延續。能看見色境的眼根能延續看不見色境的眼根，看不見色境的眼根也能延續能看見色境的眼根。 \* 再者，能看見色境的眼根和看不見色境的眼根，都屬於同一「界」所攝，都屬於同一「處」所攝，都屬於同一「根」所攝，都具有相同的「看見」的本性。 因此，能看見色境的眼根是看不見色境眼根的「同分」，看不見色境的眼根也是能看見色境眼根的「同分」。 \*\*總結：\*\* 就像眼界這樣，耳界、鼻界、舌界、身界也是如此。「同分」與「彼同分」的種類差別，在這些根界中都是類似的。

問色界云何。答諸色為眼已正當見及彼同分是名色界。已所見者。謂過去色。正所見者。謂現在色。當所見者。謂未來色。及彼同分者。謂有四種彼同分色。一者過去彼同分色。謂色界不為眼所見已滅。二者現在彼同分色。謂色界不為眼所見正滅。三者未來彼同分色。謂色界不為眼所見當滅。四者未來畢竟不生色界。或有色界於一有情是同分。於二三四乃至百千諸有情等亦是同分。謂此色界是一有情眼所見。亦是二三四乃至百千諸有情等眼所見故。如百千人同觀初月。然此色界於諸緣彼生眼識者名同分。於不緣彼生眼識者名彼同分。又如眾中有一伎女。形容端正眾具莊嚴。諸有緣之起眼識者彼色界名同分。諸有不緣起眼識者即彼色界名彼同分。又如法師昇座說法。言辭清辯形貌端嚴。諸有緣之起眼識者彼色界名同分。諸有不緣起眼識者即彼色界名彼同分。或有色界於一有情名彼同分。於二三四乃至百千諸有情等亦名彼同分。謂彼色界在隱映處。無量有情不能見故。或有色界一切有情眼所不見。即彼色界於一切時名彼同分。如妙高山中心之色。及大地中大海下色。一切有情無有見者。問彼色豈非天眼境界。答彼色雖是天眼境界。而無用故此不觀之。復次非一切時天眼現起。故有彼色天眼不見。問彼色豈非佛眼境界。答彼色雖是佛眼境界。而無用故佛不觀之。復次非一切時有佛出世。如今無佛既無佛眼故。有彼色非佛眼見。

> 問う、色界とは何か。答えよう。様々な色が、眼によって既に見られ、現在見られ、まさにこれから見られるもの、そしてその「彼同分」を、これを色界と名付ける。 既に見られたものとは、過去の色である。現在見られているものとは、現在の色である。まさにこれから見られるものとは、未来の色である。 そして「彼同分」とは、四種類の彼同分の色があることを指す。一つ目は、過去の彼同分の色である。これは、眼には見られずにすでに滅した色界のことである。二つ目は、現在の彼同分の色である。これは、眼には見られずに現在消えつつある色界のことである。三つ目は、未来の彼同分の色である。これは、眼には見られずに、これから滅するであろう色界のことである。四つ目は、未来において永遠に生じない色界のことである。 あるいは、ある色界が、一人の有情にとっては「同分」であり、二人、三人、四人、あるいは百人、千人もの有情にとってもまた「同分」であることがある。これは、その色界が、一人の有情の眼に見られ、また二人、三人、四人、あるいは百人、千人もの有情の眼にも見られるからである。例えば、百人の人々が同じ新月を眺めるようなものである。しかし、この色界は、それによって眼識を生じさせる有情にとっては「同分」と呼ばれ、それによっては眼識を生じさせない有情にとっては「彼同分」と呼ばれる。 また例えば、大勢の人の中に一人の伎女がいて、姿かたちが整い美しく、様々な装飾品で身を飾っているとする。彼女を見て眼識を生じさせる有情にとって、その色界は「同分」と呼ばれる。彼女を見ても眼識を生じさせない有情にとっては、その同じ色界が「彼同分」と呼ばれる。 また例えば、説法者が高座に上がって説法するとき、言葉遣いが明瞭で美しく、姿かたちも端正であるとする。彼を見て眼識を生じさせる有情にとって、その色界は「同分」と呼ばれる。彼を見ても眼識を生じさせない有情にとっては、その同じ色界が「彼同分」と呼ばれる。 あるいは、ある色界が、一人の有情にとっては「彼同分」であり、二人、三人、四人、あるいは百人、千人もの有情にとってもまた「彼同分」であることがある。これは、その色界が隠れた場所にあり、数え切れないほどの有情が見ることができないからである。 あるいは、ある色界は、すべての有情の眼にも見られないことがある。その色界は、常に「彼同分」と呼ばれる。例えば、妙高山の中心にある色や、大地の中、深海の底にある色のようなものである。これは、すべての有情が見ることができないものである。 問う、その色は、天眼の境地ではないのか。答えよう。その色は天眼の境地ではあるが、何の役にも立たないので、天眼ではそれを見ないのである。それに、常に天眼が現れているわけではないので、天眼でも見られないそのような色があるのである。 問う、その色は、仏眼の境地ではないのか。答えよう。その色は仏眼の境地ではあるが、何の役にも立たないので、仏はそれを見ないのである。それに、常に仏が世に現れるわけではない。今は仏がいないので、仏眼もない。だから、仏眼でも見られないそのような色があるのである。

問何故見色眼於自有情名同分。於餘有情亦名同分。而所見色於見者名同分。於不見者名彼同分耶。答容一色界多有情見。無一眼界二有情用故。謂有色界一有情見。容二三四乃至百千有情亦見是共見故。諸有見者此色界於彼名同分諸不見者此色界於彼名彼同分。無一眼界二有情用。況多有情是不共故。諸用此眼能見色者此眼於彼名同分。諸餘有情眼若見色若不見色。此眼於彼亦名有作用。眼既是不共。於一切時相恒定故。如色界聲香味觸界亦爾。同分彼同分品類差別皆相似故。然於此義或有欲令唯嗅嘗覺各自身中諸香味觸。彼作是說。香味觸界依世俗理如色界說。謂諸世間作如是語。汝所嗅香我等亦嗅。汝所嘗味我等亦嘗。汝所覺觸我等亦覺。依勝義理香味觸界如眼界說。謂一有情所嗅香界餘不能嗅。若一有情所嘗味界餘不能嘗。若一有情所覺觸界餘不能覺。問若一觸界二有情身各在一邊共所逼觸。豈非勝義如色界說。答如是觸界有多極微和集一處。二身逼觸各得一邊無共得者。故勝義理如眼界說。香味觸界准此應知。復有欲令亦嗅嘗覺他及非情諸香味觸。彼作是說。香味觸界若已受用及受用時。依世俗理如色界說。謂諸世間說共得故。依勝義理如眼界說。一所受用餘不得故。若未受用香味觸界。依勝義理亦有共得如色界說義。謂在未來當至現在。有多人等共得義故。若依前義應作是說。香味觸界依世俗理如色界說。依勝義理如眼界說。若依後義應作是說。香味觸界若已受用及受用時。依世俗理如色界說。依勝義理如眼界說。若未受用依勝義理。亦可得言如色界說。是故諸論皆作是說。如色界聲香味觸界亦爾。以香味觸可共得故。

> 問う、なぜ色を見る眼は、自己の有情にとって「同分」と呼ばれ、他の有情にとっても「同分」と呼ばれるのか。一方、見られる色は、見る者にとっては「同分」と呼ばれ、見ない者にとっては「彼同分」と呼ばれるのか。 答えよう、一つの色界を多くの有情が見ることができるからである。一つの眼界を二つの有情が共用することはないからである。すなわち、ある色界を一つの有情が見るとする。しかし、二つ、三つ、四つ、あるいは百、千の有情もまたそれを見ることができる。これは共有される見える対象だからである。それを見る有情にとって、この色界は「同分」と呼ばれる。それを見ない有情にとって、この色界は「彼同分」と呼ばれる。しかし、一つの眼界を二つの有情が用いることはなく、ましてや多くの有情が用いることなどない。これは共有されないものだからである。この眼を用いて色を見ることができる者にとって、この眼は「同分」と呼ばれる。他の有情が、その眼で色を見ようが見まいが、その眼は彼らにとっても「作用がある」と呼ばれる。眼はそもそも共有されないものであり、あらゆる時にその相は常に定まっているからである。 色界と同様に、声界、香界、味界、触界もまたそうである。「同分」と「彼同分」の種類の違いは、すべて似ているからである。 しかしながら、この意義について、ある者は、ただ自分自身の身体の中の香・味・触のみを嗅ぎ、嘗め、感じるのだと欲する者もいる。彼らはこう説く。「香界・味界・触界は、世俗の理法に基づけば、色界のように説くべきである。世の人々が『汝が嗅ぐ香を、我々もまた嗅ぐ。汝が嘗める味を、我々もまた嘗める。汝が感じる触れを、我々もまた感じる』と言うからである。しかし、勝義の理法に基づけば、香界・味界・触界は、眼界のように説くべきである。一つの有情が嗅ぐ香界を、他の者は嗅ぐことができない。一つの有情が嘗める味界を、他の者は嘗めることができない。一つの有情が感じる触界を、他の者は感じることができないからである。」 問う、もし一つの触界を、二つの有情の身体がそれぞれ別の側から共に逼め触れるならば、それは勝義の理法においても、色界のように説くべきではないか。 答えよう、このような触界は、多くの極微が集まって一つの場所に和合している。二つの身体が逼め触れる時、それぞれが一方の側を得るのであり、共に得る者はない。ゆえに、勝義の理法では、眼界のように説くのである。香界・味界・触界もこれに準じて知るべきである。 また、ある者は、他人や非情のものの香・味・触をも嗅ぎ、嘗め、感じると欲する者もいる。彼らはこう説く。「香界・味界・触界は、もしすでに受用されたもの、そして受用されているものであるならば、世俗の理法に基づけば、色界のように説くべきである。世の人々がそれを共に得ると言うからである。しかし、勝義の理法に基づけば、眼界のように説くべきである。一つのものが受用されれば、他は得られないからである。もし未だ受用されていない香界・味界・触界であるならば、勝義の理法においても、共に得るということがあり得るので、色界のように説くべきである。未来にあって、まさに現在に至ろうとする時、多くの人々が共に得るということがあるからである。」 もし最初の説に従うならば、こう説くべきである。「香界・味界・触界は、世俗の理法に基づけば、色界のように説き、勝義の理法に基づけば、眼界のように説く。」 もし後の説に従うならば、こう説くべきである。「香界・味界・触界は、もしすでに受用されたもの、そして受用されているものであるならば、世俗の理法に基づけば、色界のように説き、勝義の理法に基づけば、眼界のように説く。もし未だ受用されていないものであるならば、勝義の理法においても、色界のように説くと言える。」 それゆえ、諸々の論書はすべてこう説くのである。「色界と同様に、声界・香界・味界・触界もまたそうである。香・味・触は共に得ることができるからである。」

問眼識界云何。答眼及色為緣所生眼識是名眼識界。問眼識生時除自性餘一切法皆作緣。何故但眼色為緣。答此中且說增勝緣故。謂若法是眼識所依所緣者。此中說之眼。是眼識所依色是眼識所緣。是故偏說。餘法不爾。復次若法是眼識近增上緣者此中說之眼。及色與眼識作近增上緣。勝眼識上生住異滅。是故偏說。復次若法是眼識不共勝緣者此中說之眼。及色與眼識作不共勝緣。勝眼識生住異滅。是故偏說。問眼識亦以色為緣生。何故名眼識不名色識耶。答亦有經說此名色識。如說。色界為緣生色識。乃至法界為緣生法識。問但有一經作如是說。餘一切經皆說眼識。如何不說名色識耶。答眼是內故但名眼識。色是外故不名色識。復次眼是所依故但名眼識。色是所緣故不名色識。復次眼是根故但名眼識。色是根義故不名色識。復次眼是有境故但名眼識。色是境故不名色識。復次眼是不共故但名眼識。色是共故不名色識。復次諸立名者皆就所依顯所立名有差別故。眼是識所依根故但名眼識。乃至意是意識所依根故但名意識。如聲唯就所依立名。顯所立名有差別故。如依鼓起但名鼓聲。若依貝起但名貝聲。依箜篌等應知亦爾。問眼等六識皆依意生。何緣前五不名意識。答若法是識不雜不共不亂所依識名依。彼眼是眼識不雜不共不亂所依故名眼識。廣說乃至身是身識不雜不共不亂所依故名身識。意是五識雜共亂依。是故前五不名意識。問若爾。意識亦應不說名意識耶。答意識更無不雜不共不亂所依如前五識。是故但說名為意識。以是因緣應作四句。有法是眼識所依非等無間緣。謂俱生眼。有法是眼識等無間緣非所依。謂無間已滅諸心所法。有法是眼識所依亦是等無間緣。謂無間已滅意界。有法非眼識所依亦非等無間緣。謂除前相。乃至身識四句亦爾。若法是意識所依亦是等無間緣。有法是意識等無間緣而非所依。謂無間已滅諸心所法。尊者世友亦作是說。眼識亦以色為緣生。何緣眼識不名色識。答眼是眼識所依。色不爾故。復次眼是眼識勝緣。色不爾故。復次眼唯墮自相續。色不定故。復次眼唯在近。色不定故。復次眼唯在內。色不定故。復次眼是不共。色不爾故。復次眼唯有執受。色不定故。復次眼有損益。識隨損益。色不爾故。問色若有損益識亦隨損益。若無色者眼識不生亦應名色識。何緣但說名眼識耶。答此不應例。所以者何。有眼根者。雖一色壞更緣餘色眼識可生。若無眼根。雖有多色恒現在轉眼識不生。是故眼識損益隨根不隨於色。復次眼有下中上識隨下中上。色不爾故。復次眼是不共。色不定故。有緣一界色生二界眼識。無依一界眼生二界眼識故。有緣一趣色生五趣眼識。無依一趣眼生二趣眼識。況有多故。有緣一生色生四生眼識。無依一生眼生二生眼識。況有多故。復次眼是眼識勝增上緣。色不爾故。大德說曰。若眼有留難識亦有留難。若眼無留難識亦無留難。故名眼識不名色識。問若色有留難眼識亦有留難。無所緣色眼識不生故。答色有眾多。眼唯有一。不應為例。謂若有眼雖一色壞而緣第二眼識得生。若第二壞緣第三色眼識得生餘壞緣餘生識亦爾。若一身中眼根壞者。設有無量那庾多色正現在前。緣彼眼識皆不得生。是故眼識不名色識。乃至身識應知亦爾。問有契經言。眼所識色此有何意。諸色但是眼識所識。眼根不能了別色故。答彼於所依顯能依事。故不違理。謂佛世尊或於所依顯能依事。或於能依顯所依事。於所依顯能依事者。如彼經言眼所識色。於能依顯所依事者。如有處說。眼識所受眼識所了說名所見。復次彼經應言眼識所識色。誦者錯謬故彼但言眼所識色。復次彼經應言眼識所識色。略去中間故但說眼所識色。如說牛車擇滅等故。復次彼契經中依勝具說。故不違理。如伎染書依勝具說。此亦如是。如作伎樂時。雖有樂具及諸子女并餘助伴。而伎樂主偏得其名。是勝具故。又如染衣等時。非無水器染師助伴。而彼染色偏得其名。是勝具故。又如書時。非無水墨盛貯墨器及人葉等。而筆勝故偏得其名。此亦如是。雖識色時有多識具謂空明等。而眼勝故偏得其名。故彼經說眼所識色。復次眼是識色所依止故。彼契經言眼所識色。如言道路是商侶等所應行處。然彼道路但是腳足所應行處。彼商侶等是彼腳足所依止故偏得其名。此亦如是。如眼識界。耳鼻舌身識界亦爾。緣生立名釋通經義皆相似故。問意界云何。答諸意於法已正當了。及彼同分是名意界。已了法者謂過去意界。正了法者謂現在意界。當了法者謂未來意界。及彼同分者謂未來畢竟不生意界。無有過去現在意界是彼同分。心心所法必託所緣方能起故。由此未來當生意界亦必是同分。問意界若緣十七界起是同分不。答亦是同分。如眼界等有見等用必是同分。意界亦爾。有了用者即名同分。

> 問う：眼識界とは何か。答え：眼と色を縁として生じる眼識、これを眼識界と名づける。 問う：眼識が生じる時、自性を除いた他のすべての法は皆縁となる。なぜ特に眼と色だけを縁とするのか。答え：ここでは特に優れた縁（増上縁）を説いているからである。すなわち、もしある法が眼識の所依であり所縁であるならば、ここでそれを説く。眼は眼識の所依であり、色は眼識の所縁である。ゆえに特に説くのである。他の法はそうではない。また、もしある法が眼識にとって近い増上縁であるならば、ここでそれを説く。眼と色は眼識にとって近い増上縁であり、眼識の生・住・異・滅よりも勝れている。ゆえに特に説くのである。また、もしある法が眼識にとって不共の勝れた縁であるならば、ここでそれを説く。眼と色は眼識にとって不共の勝れた縁であり、眼識の生・住・異・滅よりも勝れている。ゆえに特に説くのである。 問う：眼識はまた色を縁として生じる。なぜ眼識と名づけ、色識と名づけないのか。答え：実は、これを色識と説く経典もある。例えば「色界を縁として色識が生じ、乃至、法界を縁として法識が生じる」と説く経典がある。 問う：ただ一つの経典だけがそのように説き、他のすべての経典は眼識と説く。なぜ色識と名づけないのか。答え：眼は内にあるから、ただ眼識と名づけるのである。色は外にあるから、色識とは名づけない。また、眼は所依であるから、ただ眼識と名づける。色は所縁であるから、色識とは名づけない。また、眼は根であるから、ただ眼識と名づける。色は根の対象（根義）であるから、色識とは名づけない。また、眼は境を有するもの（有境）であるから、ただ眼識と名づける。色は境であるから、色識とは名づけない。また、眼は不共であるから、ただ眼識と名づける。色は共であるから、色識とは名づけない。また、名づけをする者たちは皆、所依によって名を立て、その名に違いがあることを示すのである。眼は識の所依の根であるから、ただ眼識と名づける。乃至、意は意識の所依の根であるから、ただ意識と名づける。例えば、音声はただ所依によって名を立て、その名に違いがあることを示す。例えば、鼓に依って生じる音はただ鼓の音と名づけ、貝に依って生じる音はただ貝の音と名づけ、箜篌などに依る場合も同様に知るべきである。 問う：眼識などの六識は皆、意に依って生じる。なぜ前の五識は意識と名づけないのか。答え：もしある法が識にとって雑じらず、不共であり、乱れない所依であるならば、識の名はそれに依って立つ。眼は眼識にとって雑じらず、不共であり、乱れない所依であるから、眼識と名づける。広く説けば、乃至、身は身識にとって雑じらず、不共であり、乱れない所依であるから、身識と名づける。意は五識にとって雑じり、共であり、乱れのある所依である。ゆえに前の五識は意識と名づけないのである。 問う：もしそうならば、意識もまた意識と説くべきではないのではないか。答え：意識には、前の五識のように、雑じらず、不共であり、乱れない所依というものがさらにない。ゆえにただ意識と名づけるのである。この因縁によって、四句を作るべきである。ある法は眼識の所依であるが、等無間縁ではない。すなわち俱生の眼である。ある法は眼識の等無間縁であるが、所依ではない。すなわち無間で既に滅した諸心所法である。ある法は眼識の所依であり、また等無間縁でもある。すなわち無間で既に滅した意界である。ある法は眼識の所依でもなく、等無間縁でもない。すなわち前の相を除いたものである。乃至、身識の四句もまた同様である。もしある法が意識の所依であるならば、それもまた等無間縁である。ある法は意識の等無間縁であるが、所依ではない。すなわち無間で既に滅した諸心所法である。 尊者世友もまたこのように説く。眼識はまた色を縁として生じる。なぜ眼識は色識と名づけないのか。答え：眼は眼識の所依であり、色はそうではないからである。また、眼は眼識にとって勝れた縁であり、色はそうではないからである。また、眼はただ自相続に堕するが、色は定まっていないからである。また、眼はただ近くにあるが、色は定まっていないからである。また、眼はただ内にあるが、色は定まっていないからである。また、眼は不共であり、色はそうではないからである。また、眼はただ有執受であり、色は定まっていないからである。また、眼に損益があれば識もそれに従って損益するが、色はそうではないからである。 問う：もし色に損益があれば識もまたそれに従って損益する。もし色がなければ眼識は生じないのだから、色識と名づけるべきではないか。なぜただ眼識と説くのか。答え：これは例えることができない。なぜなら、眼根がある者は、一つの色が壊れても、他の色を縁として眼識は生じることができる。もし眼根がなければ、多くの色が現在に転じていても、それらを縁とする眼識は生じないからである。ゆえに眼識の損益は根に従い、色に従わないのである。また、眼に下・中・上があり、識もそれに従って下・中・上となるが、色はそうではないからである。また、眼は不共であり、色は定まっていないからである。一界の色を縁として二界の眼識が生じることはあるが、一界の眼に依って二界の眼識が生じることはない。一趣の色を縁として五趣の眼識が生じることはあるが、一趣の眼に依って二趣の眼識が生じることはない。ましてや多くの場合はなおさらである。一生の色を縁として四生の眼識が生じることはあるが、一生の眼に依って二生の眼識が生じることはない。ましてや多くの場合はなおさらである。また、眼は眼識にとって勝れた増上縁であり、色はそうではないからである。 大徳は説く。「もし眼に留難（障害）があれば識にも留難がある。もし眼に留難がなければ識にも留難がない。ゆえに眼識と名づけ、色識とは名づけない」と。 問う：もし色に留難があれば眼識にも留難がある。所縁の色がなければ眼識は生じないからである。答え：色は多いが、眼はただ一つである。同じように例えるべきではない。すなわち、もし眼があれば、一つの色が壊れても、第二の色を縁として眼識は生じることができる。もし第二が壊れれば、第三の色を縁として眼識が生じる。他の色が壊れても、他の色を縁として識が生じるのもまた同様である。もし一身の中で眼根が壊れたならば、たとえ無量の那庾多（極めて多くの）の色が現在に現れていても、それらを縁とする眼識は全て生じないのである。ゆえに眼識は色識と名づけないのである。乃至、身識もまた同様に知るべきである。 問う：ある経典に「眼所識の色」と説くものがある。これはどういう意味か。諸々の色はただ眼識によって認識されるのであり、眼根は色を了別することができないからである。答え：それは所依によって能依の事柄を示すのであり、道理に反しないのである。すなわち、仏世尊はあるいは所依によって能依の事柄を示し、あるいは能依によって所依の事柄を示す。所依によって能依の事柄を示すとは、例えばその経典に「眼所識の色」と説くことである。能依によって所依の事柄を示すとは、例えばあるところで「眼識が受け取り、眼識が了別したものを、『見られたもの』と説く」とあることである。 また、その経典は「眼識所識の色」と説くべきであるが、誦者が誤って略したため、ただ「眼所識の色」と説くのである。また、その経典は「眼識所識の色」と説くべきであるが、中間を略したため、ただ「眼所識の色」と説くのである。例えば「牛車」「択滅」などのように。 また、その経典では勝れた道具（勝具）に依って説くのであり、道理に反しないのである。例えば、伎楽や染め物や書くことにおいて、勝れた道具に依って説くのと同じである。このこともまた同じである。伎楽を行う時、楽器や子女や他の助伴があるが、伎楽の主だけがその名を得る。これが勝れた道具であるからである。また、衣を染める時などには、水器や染め師の助伴がないわけではないが、染め色だけがその名を得る。これが勝れた道具であるからである。また、書く時には、墨や水や墨を入れる器や人や葉などがないわけではないが、筆が勝れているので、その名を得るのである。このこともまた同じである。識が色を認識する時、空や明かりなど多くの識の道具があるが、眼が勝れているので、その名を得るのである。ゆえにその経典は「眼所識の色」と説くのである。 また、眼は識が色を認識するための所依止であるから、その経典は「眼所識の色」と説くのである。例えば「道路は商人たちが行くべき場所である」と言うが、実際に道路は脚足が行くべき場所であり、商人たちはその脚足の所依止であるから、特にその名を得るのである。このこともまた同じである。 眼識界について説いたように、耳識界・鼻識界・舌識界・身識界もまた同様である。縁によって生じ、名を立て、経の意味を通釈することは、すべて似ているからである。 問う：意界とは何か。答え：諸々の意が法を已に了知し、正に了知し、当に了知するであろうこと、および、それらの同分、これを意界と名づける。已に法を了知したものとは、過去の意界である。正に法を了知しているものとは、現在の意界である。当に法を了知するであろうものとは、未来の意界である。および彼の同分とは、未来において究竟的に生じない意界である。過去・現在の意界が彼の同分であることはない。心・心所法は必ず所縁に託して初めて生じることができるからである。これによって、未来において当に生じる意界もまた必ず同分である。 問う：意界が十七界を縁として生じるならば、それは同分であるか。答え：それもまた同分である。例えば眼界などが見るという働きがあれば必ず同分であるのと同じである。意界もまた同様である。了知する働きがあれば、それを同分と名づけるのである。

問法界云何。答諸法為意已正當了是名法界。已為意了者。謂諸法界已為過去意界所了。正為意了者。謂諸法界正為現在意界所了。當為意了者。謂諸法界當為未來意界所了。問法界為有彼同分不。答無。所以者何。以無有法非去來今無量意識所了別故。有意識起一剎那中。唯除自性相應俱有。了別所餘一切法故。問餘十七界亦是意識所了別境。應皆是同分。便無彼同分。如何說有彼同分耶。答餘十七界不依意識立為同分及彼同分。但依各別根境相對。謂眼對色色對眼。乃至身對觸觸對身。問若爾。意界及意識界唯應對法界立同分彼同分。是則緣餘十七界者應非同分。答理應如是。然以意界及意識界能通了別一切法故。依自作用立為同分。如眼等根有見等用。必不立為彼同分故。有餘師說。法界總攝一切法盡。以十七界亦名法故無斯過失。彼不應作是說法名雖通而法界別故。由此前說於理為善。此中應作頗設問答。頗有俱有法有是同分。有是彼同分耶。答有。謂彼同分十七界上生住異滅。法界攝故恒名同分。頗有相應俱有法。有是同分有是彼同分耶。答有。謂未來不生意界意識界等是彼同分。彼相應心所法及彼隨轉色。不相應行法界攝故恒名同分。

> 問う、法界とは何か。答えていわく、諸法が意によってすでに了知され、まさに了知され、当に了知されるべきもの、これを法界と名づける。すでに意によって了知されたものとは、諸法界がすでに過去の意界によって了知されたものをいう。まさに意によって了知されるものとは、諸法界がまさに現在の意界によって了知されているものをいう。当に意によって了知されるべきものとは、諸法界が当に未来の意界によって了知されるべきものをいう。 問う、法界には彼同分が存在するか。答えていわく、存在しない。なぜならば、過去・現在・未来の無量の意識によって了別されない法は存在しないからである。意識が生起する一刹那の中に、自性・相応・俱有を除いて、その他のすべての法を了別するからである。 問う、その他の十七界もまた意識によって了別される境地である。すべて同分であるべきであり、そうすれば彼同分は存在しないことになる。どうして彼同分があると言うのか。答えていわく、その他の十七界は意識に依拠して同分および彼同分と立てられるのではない。ただ各々の根と境が相対することによる。すなわち、眼は色に対し、色は眼に対し、乃至、身は触に対し、触は身に対する。 問う、もしそうならば、意界および意識界はただ法界に対してのみ同分・彼同分を立てるべきである。そうであれば、その他の十七界を縁ずるものは同分ではないはずである。答えていわく、道理からいえば、まさにその通りである。しかし、意界および意識界はすべての法を能く通じて了別するから、自己の作用に依拠して同分と立てられる。眼等の根が視る等の作用を持つが如く、必ず彼同分と立てられないのである。 他の師の説には、法界はすべての法を総摂し尽くす。十七界もまた法と名づけられるから、この過失はないという。しかし、その説はあるべきではない。法という名は通じても、法界は別であるからだ。ゆえに、前述の説が道理において善いのである。 ここにおいて、しかるべき問答をなすべきである。問う、俱有法の中に、同分であるものもあり、彼同分であるものもあるか。答えていわく、ある。すなわち、彼同分の十七界の上に生じる生・住・異・滅は、法界に摂せられるから、常に同分と名づけられる。 問う、相応・俱有法の中に、同分であるものもあり、彼同分であるものもあるか。答えていわく、ある。すなわち、未来において未だ生起しない意界・意識界等は彼同分である。それらと相応する心所法およびそれに随転する色、不相应行法は、法界に摂せられるから、常に同分と名づけられる。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第七十一

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