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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 3"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第七十三

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第七十三巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 結蘊第二中十門納息第四之三

> 結蘊第二中 十門納息 第四之三

即彼以第四靜慮眼見欲界色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。若退法者欲界三種。四靜慮各二種。不退法者欲界第四靜慮各二種。前三靜慮各唯善。見初靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。若退法者欲界及後三靜慮各二種。初靜慮三種。不退法者欲界及前三靜慮各唯善。第四靜慮二種見第二靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。若退法者欲界及初第三第四靜慮各二種。第二靜慮三種。不退法者欲界及前三靜慮各唯善。第四靜慮二種見第三靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。若退法者欲界及初第二第四靜慮各二種。第三靜慮三種。不退法者欲界及前三靜慮各唯善。第四靜慮二種。見第四靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。若退法者欲界及前三靜慮各二種。第四靜慮三種。不退法者欲界及前三靜慮各唯善。第四靜慮三種。即彼若已離第四靜慮染。以四靜慮眼見五地色。於彼色起無覆無記眼識。及五地分別意識多少。隨相應知此中已離初靜慮染等以欲界眼見諸色時。於彼色起眼識分別。准前易了故不復說。若諸異生生初靜慮。未離初靜慮染。見欲界色時。於彼色起二種眼識。除染污。此後於彼復起分別意識。欲界三種。初靜慮二種見初靜慮色時。於彼色起三種眼識。此後於彼復起分別意識。欲界二種。初靜慮三種。即彼已離初靜慮染。未離第二靜慮染。以初靜慮眼見欲界色時。於彼色起眼識分別。廣說如前。見初靜慮色時。於彼色起二種眼識所起分別如前應知。即彼以第二靜慮眼見欲界色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。欲界三種前二靜慮二種。見初靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。欲界及第二靜慮各二種。初靜慮三種。見第二靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。欲界及初靜慮各二種。第二靜慮三種。即彼已離第二靜慮染。未離第三靜慮染。以三地眼見四地色。或已離第三靜慮染。未離第四靜慮染。或已離第四靜慮染。以四地眼見五地色。於彼色起眼識分別。准前應知。如說異生生初靜慮。如是即彼生第二第三第四靜慮。一一廣說隨相應知。

> 第四禅の境地に達した者が、その清らかな眼で欲界の色を見るとき、その色に対して隠されず記されない眼識が生じます。その後、その色に対してさらに分別意識が生じます。退法（修行が退きやすい性質）の者には、欲界で三種類、四つの静慮（禅定境地）でそれぞれ二種類の分別意識があります。不退法（修行が退かない性質）の者には、欲界と第四静慮でそれぞれ二種類、前三つの静慮では善のみの分別意識があります。 初禅の色を見るときも同様に、その色に対して隠されず記されない眼識が生じ、その後分別意識が生じます。退法の者には、欲界と後ろ三つの静慮でそれぞれ二種類、初禅で三種類です。不退法の者には、欲界と前三つの静慮で善のみ、第四静慮で二種類です。 第二禅の色を見るときは、退法の者には欲界と第一、第三、第四静慮でそれぞれ二種類、第二静慮で三種類。不退法の者には欲界と前三つの静慮で善のみ、第四静慮で二種類です。 第三禅の色を見るときは、退法の者には欲界と第一、第二、第四静慮でそれぞれ二種類、第三静慮で三種類。不退法の者には欲界と前三つの静慮で善のみ、第四静慮で二種類です。 第四禅の色を見るときは、退法の者には欲界と前三つの静慮でそれぞれ二種類、第四静慮で三種類。不退法の者には欲界と前三つの静慮で善のみ、第四静慮で三種類です。 また、第四禅の煩悩（染）をすでに離れた者が、四つの静慮の眼で五つの境地（欲界と四静慮）の色を見るとき、その色に対して隠されず記されない眼識と、五つの境地にわたる分別意識が生じるかどうかは、状況に応じて理解すべきです。 ここで、初禅の煩悩をすでに離れた者などが、欲界の眼で様々な色を見るとき、その色に対して眼識と分別意識が生じることは、先の説明に準じて容易に理解できるので、ここでは詳しく述べません。 もし、凡夫が初禅に生まれ、まだ初禅の煩悩を離れていない場合、欲界の色を見るとき、その色に対して二種類の眼識（染汚を除く）が生じます。その後、さらに分別意識が生じます。欲界では三種類、初禅では二種類です。 初禅の色を見るときは、その色に対して三種類の眼識が生じ、その後分別意識が生じます。欲界では二種類、初禅では三種類です。 その者が初禅の煩悩を離れ、まだ第二禅の煩悩を離れていない場合、初禅の眼で欲界の色を見るとき、その色に対して眼識と分別意識が生じることは、前に詳しく述べた通りです。初禅の色を見るときは、その色に対して二種類の眼識が生じ、生じる分別意識も先に述べた通りです。 次に、その者が第二禅の眼で欲界の色を見るとき、その色に対して隠されず記されない眼識が生じ、その後分別意識が生じます。欲界では三種類、前二つの静慮（初禅と第二禅）では二種類です。 初禅の色を見るときは、その色に対して隠されず記されない眼識が生じ、その後分別意識が生じます。欲界と第二静慮でそれぞれ二種類、初静慮で三種類です。 第二禅の色を見るときは、その色に対して隠されず記されない眼識が生じ、その後分別意識が生じます。欲界と初静慮でそれぞれ二種類、第二静慮で三種類です。 その者が第二禅の煩悩を離れ、まだ第三禅の煩悩を離れていない場合、三つの境地（欲界と初禅、第二禅）の眼で四つの境地（欲界と初禅、第二禅、第三禅）の色を見ます。あるいは、第三禅の煩悩を離れ、まだ第四禅の煩悩を離れていない場合、四つの境地の眼で五つの境地の色を見ます。これらの場合に生じる眼識と分別意識については、先の説明に準じて理解すべきです。 凡夫が初禅に生まれる場合について述べましたが、同様に、その者が第二、第三、第四の静慮に生まれる場合も、それぞれ広く説明するとおり、状況に応じて理解すべきです。

已說異生。若諸聖者未離欲界染。見欲界色時。於彼色起三種眼識此後於彼復起欲界三種分別。即彼若生欲界已離欲界染。未離初靜慮染。以欲界眼見諸色時。於彼色起二種眼識。此後於彼復起分別意識。若退法者欲界三種。初靜慮二種。不退法者欲界初靜慮各二種。即彼以初靜慮眼見欲界色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。初靜慮二種。欲界若退法者三種。不退法者二種見初靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。初靜慮三種。欲界唯善。即彼已離初靜慮染。未離第二靜慮染。以初靜慮眼見欲界色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。若退法者欲界三種。初靜慮二種。不退法者欲界二種。初靜慮唯善。見初靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。欲界唯善初靜慮。若退法者三種。不退法者唯善。即彼以第二靜慮眼見欲界色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。若退法者欲界三種。前二靜慮各二種。不退法者欲界第二靜慮各二種。初靜慮唯善。見初靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼。復起分別意識。欲界唯善。第二靜慮二種。初靜慮若退法者三種。不退法者唯善。見第二靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。欲界初靜慮各唯善。第二靜慮三種。即彼已離第二靜慮染。未離第三靜慮染以三地眼見四地色。或已離第三靜慮染。未離第四靜慮染。或已離第四靜慮染。以四地眼見五地色。於彼色起眼識分別。隨相應知。此中已離初靜慮染等。以欲界眼見諸色時。於彼色起眼識分別。准前易了故不復說。

> すでに凡夫の話は述べました。では、聖者がまだ欲界の煩悩を離れていない場合、欲界の色を見るとき、その色に対して三種の眼識が生じます。その後、その色に対してさらに欲界の三種の分別意識が生じます。 その聖者が欲界に生まれ、すでに欲界の煩悩は離れたが、初静慮の煩悩をまだ離れていない場合、欲界の眼で諸々の色を見るとき、その色に対して二種の眼識が生じます。その後、その色に対してさらに分別意識が生じます。もし退法者（修行に後退しやすい人）ならば、欲界の三種と初静慮の二種が生じます。不退法者（後退しない人）ならば、欲界と初静慮にそれぞれ二種が生じます。 同じ人が初静慮の眼で欲界の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じます。その後、その色に対してさらに分別意識が生じます。初静慮では二種、欲界では退法者なら三種、不退法者なら二種です。初静慮の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じます。その後、その色に対してさらに分別意識が生じます。初静慮では三種、欲界では善のみです。 同じ人がすでに初静慮の煩悩を離れたが、第二静慮の煩悩をまだ離れていない場合、初静慮の眼で欲界の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じます。その後、その色に対してさらに分別意識が生じます。退法者ならば欲界で三種、初静慮で二種。不退法者ならば欲界で二種、初静慮で善のみです。初静慮の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じます。その後、その色に対してさらに分別意識が生じます。欲界では善のみ、初静慮では退法者なら三種、不退法者なら善のみです。 同じ人が第二静慮の眼で欲界の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じます。その後、その色に対してさらに分別意識が生じます。退法者ならば欲界で三種、前の二つの静慮でそれぞれ二種。不退法者ならば欲界と第二静慮でそれぞれ二種、初静慮では善のみです。初静慮の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じます。その後、その色に対してさらに分別意識が生じます。欲界では善のみ、第二静慮では二種、初静慮では退法者なら三種、不退法者なら善のみです。第二静慮の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じます。その後、その色に対してさらに分別意識が生じます。欲界と初静慮ではそれぞれ善のみ、第二静慮では三種です。 同じ人がすでに第二静慮の煩悩を離れたが、第三静慮の煩悩をまだ離れていない場合、三つの地の眼で四つの地の色を見るとき。あるいは、すでに第三静慮の煩悩を離れたが、第四静慮の煩悩をまだ離れていない場合。あるいは、すでに第四静慮の煩悩を離れた場合、四つの地の眼で五つの地の色を見るとき。その色に対して生じる眼識と分別は、それぞれの状況に応じて対応づけて理解すべきです。この中で、すでに初静慮の煩悩を離れた場合などについては、欲界の眼で諸々の色を見るとき、その色に対して生じる眼識と分別は、先の説明に準じて容易に理解できるので、改めて述べません。

已說聖者生欲界。即彼若生初靜慮。未離初靜慮染。見欲界色時。於彼色起二種眼識。此後於彼復起初靜慮二種分別。見初靜慮色時。於彼色起三種眼識。此後於彼復起初靜慮三種分別。即彼已離初靜慮染。未離第二靜慮染。以初靜慮眼見欲界色時。於彼色起眼識分別。准前應知。見初靜慮色時。於彼色起二種眼識。此後於彼復起前二靜慮二種分別。即彼以第二靜慮眼見欲界初靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起前二靜慮各二種分別。見第二靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。初靜慮唯善。第二靜慮三種即彼已離第二靜慮染。未離第三靜慮染。以初靜慮眼見欲界初靜慮色時。於彼色起眼識分別准前應知。即彼以第二靜慮眼見欲界初靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。初及第三靜慮各二種。第二靜慮唯善。見第二靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。前二靜慮各唯善。第三靜慮二種。即彼以第三靜慮眼見欲界初靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。初及第三靜慮各二種。第二靜慮唯善。見第二靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。前二靜慮各唯善。第三靜慮二種。見第三靜慮色時。於彼色起無覆無記眼識。此後於彼復起分別意識。前二靜慮各唯善。第三靜慮三種。即彼已離第三靜慮染。未離第四靜慮染。或已離第四靜慮染。以四地眼見五地色時。於彼色起眼識分別。隨相應知。如說聖者生初靜慮。如是即彼生第二第三第四靜慮。一一廣說隨相應知。

> すでに聖者が欲界に生まれた場合について述べた。 さて、その聖者が初禅に生まれ、初禅の煩悩をまだ離れていない場合。 欲界の色を見るとき、その色に対して二種の眼識が生じる。その後、その対象に対して初禅における二種の分別がさらに生じる。 初禅の色を見るとき、その色に対して三種の眼識が生じる。その後、その対象に対して初禅における三種の分別がさらに生じる。 その聖者が初禅の煩悩をすでに離れ、第二禅の煩悩をまだ離れていない場合。 初禅の眼で欲界の色を見るとき、その色に対して眼識と分別が生じることは、先の解説に準じて理解すべきである。 初禅の色を見るとき、その色に対して二種の眼識が生じる。その後、その対象に対して前の二つの禅定（初禅と第二禅）における二種の分別がさらに生じる。 同じく、第二禅の眼で欲界と初禅の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じる。その後、その対象に対して前の二つの禅定におけるそれぞれ二種の分別がさらに生じる。 第二禅の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じる。その後、その対象に対して分別意識がさらに生じる。初禅は善のみ、第二禅は三種である。 その聖者が第二禅の煩悩をすでに離れ、第三禅の煩悩をまだ離れていない場合。 初禅の眼で欲界と初禅の色を見るとき、その色に対して眼識と分別が生じることは、先の解説に準じて理解すべきである。 同じく、第二禅の眼で欲界と初禅の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じる。その後、その対象に対して分別意識がさらに生じる。初禅と第三禅はそれぞれ二種、第二禅は善のみである。 第二禅の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じる。その後、その対象に対して分別意識がさらに生じる。前の二つの禅定（初禅と第二禅）はそれぞれ善のみ、第三禅は二種である。 同じく、第三禅の眼で欲界と初禅の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じる。その後、その対象に対して分別意識がさらに生じる。初禅と第三禅はそれぞれ二種、第二禅は善のみである。 第二禅の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じる。その後、その対象に対して分別意識がさらに生じる。前の二つの禅定はそれぞれ善のみ、第三禅は二種である。 第三禅の色を見るとき、その色に対して無覆無記の眼識が生じる。その後、その対象に対して分別意識がさらに生じる。前の二つの禅定はそれぞれ善のみ、第三禅は三種である。 その聖者が第三禅の煩悩をすでに離れ、第四禅の煩悩をまだ離れていない場合。あるいは、第四禅の煩悩をすでに離れている場合。 四つの禅定の眼で五つの領域（欲界と四禅）の色を見るとき、その色に対して眼識と分別が生じることについては、それぞれの場合に応じて理解すべきである。 聖者が初禅に生まれた場合について述べたように、同様に、その聖者が第二禅、第三禅、第四禅に生まれた場合についても、一つ一つ広く解説するところを、それぞれの場合に応じて理解すべきである。

此中眼識依自地眼。緣下地色容有二種。謂除染污。緣自地色容有三種。若依上地眼唯無覆無記。善染污眼識唯生自地容現在前。由此必定繫屬生故。善分別意識能緣一切自上下地。染污分別意識唯能緣自上地。無覆無記分別意識唯能緣自下地。善及染污分別意識生自下地容現在前。非生上地。無覆無記分別意識唯生自地容現在前。由此必定繫屬生故。眼識後起分別意識非唯一生。設經多生緣所見色亦得起故。問何緣生在後三靜慮。而得現起初靜慮眼識耶。譬喻者說。誰說生在後三靜慮而能現起初靜慮地眼等諸識。然後三靜慮自有眼等識依自地根了自下境。若不爾者。云何生上作巧方便。引初靜慮眼等諸識令現在前。評曰。彼不應作是說。應作是說。後三靜慮無眼等識。所以者何。無尋伺故。眼等五識恒與尋伺相應起故。問何緣生在後三靜慮。不引欲界眼等諸識令現在前。而但引起初靜慮識。有作是說。欲界劣故生在勝地。不欲引彼眼等諸識令現在前。有餘師說。彼界別故。謂欲界繫眼等諸識與上地根不同界繫。初靜慮識與上地根雖不同地。而界同故亦依彼起。或有說者。欲界眼等識非修果非通果故。依上地根不得現起。初靜慮眼等識是修果是通果故。依上地根亦得現起。復有說者。欲界眼等識非定界非修地。非離染地故。依上地根不得現起。初靜慮眼等識是定界是修地是離染地故。依上地根亦得現起。由如是等種種因緣。生後三靜慮得起初靜慮眼等諸識不起欲界。如說眼識依諸地根了諸地色。引意識中三種分別數有多少。耳等諸識准此應知。

> ここで、眼識は自らの地の眼に依って、下の地の色を認識する場合、二種類がある。ただし染汚を除く。自らの地の色を認識する場合は三種類がある。上の地の眼に依る場合は、ただ無覆無記のみである。善と染汚の眼識は、自らの地に生まれた場合のみ、現在に現れることができる。なぜなら、必ず生まれた地に繫属するからである。 善の分別意識は、自らの地と上下の地のすべてを認識できる。染汚の分別意識は、上の地のみを認識できる。無覆無記の分別意識は、自らの地と下の地のみを認識できる。善と染汚の分別意識は、自らの地か下の地に生まれた場合、現在に現れることができる。上の地に生まれた場合はできない。無覆無記の分別意識は、自らの地に生まれた場合のみ、現在に現れることができる。なぜなら、必ず生まれた地に繫属するからである。 眼識の後から生じる分別意識は、一度の生に限らない。たとえ何度の生を経ても、見た色を認識することができるからである。 問い：なぜ、後の三静慮に生まれた場合に、初静慮の眼識を現在に現すことができるのか。 譬喩者は言う。「誰が、後の三静慮に生まれながら、初静慮の地の眼などの諸識を現在に現すことができると言ったのか。後の三静慮には、自らの地の根に依って、自らの下の境を認識する眼などの識が自らある。そうでなければ、どのようにして上の地に生まれた者が巧みに方便を施して、初静慮の眼などの諸識を引き出して現在に現すことができるのか。」 評して言う。「彼はそのように言うべきではない。こう言うべきである。後の三静慮には眼などの識はない。なぜなら、尋と伺がないからである。眼などの五識は、常に尋と伺と相応して起こるからである。」 問い：なぜ、後の三静慮に生まれた場合に、欲界の眼などの諸識を引き出して現在に現さず、ただ初静慮の識だけを引き起こすのか。 ある者は次のように説く。「欲界は劣っているので、勝れた地に生まれた者は、その眼などの諸識を引き出して現在に現そうとしないからである。」 他の師は言う。「それは、その界が異なるからである。すなわち、欲界に繫属する眼などの諸識は、上の地の根とは異なる界に繫属している。初静慮の識は、上の地の根とは地は異なっても、界は同じであるから、それにも依って起こるのである。」 あるいは説く人がある。「欲界の眼などの識は、修の果でもなく通の果でもないので、上の地の根に依って現在に現れることができない。初静慮の眼などの識は、修の果であり通の果であるので、上の地の根に依っても現在に現れることができるのである。」 また別の者が言う。「欲界の眼などの識は、定の界でもなく、修の地でもなく、離染の地でもないので、上の地の根に依って現在に現れることができない。初静慮の眼などの識は、定の界であり、修の地であり、離染の地であるので、上の地の根に依っても現在に現れることができるのである。」 このような様々な因縁によって、後の三静慮に生まれた場合、初静慮の眼などの諸識を起こすことはできても、欲界のものを起こすことはできない。 眼識が諸地の根に依って諸地の色を認識すると説いたように、それを引き合いにして意識の中の三種の分別（善、染汚、無覆無記）の数がどれほどあるかを知るべきである。耳などの諸識もこれに準じて理解すべきである。

問諸成就眼界亦成就色界耶。答若成就眼界亦成就色界。有成就色界不成就眼界。謂生欲界若未得眼。或得已失。未得眼者。謂羯剌藍等位及生盲者。得已失者。謂得眼已或腐爛。或被挑或蟲食。或餘緣壞。問諸成就眼界亦成就眼識界耶。答應作四句。有成就眼界不成就眼識界。謂生第二第三第四靜慮。眼識界不現在前。有成就眼識界不成就眼界。謂生欲界若未得眼或得已失。有成就眼界亦成就眼識界。謂生欲界已得眼而不失。或生初靜慮。或生第二第三第四靜慮眼識界現在前。有不成就眼界。亦不成就眼識界。謂生無色界。問諸成就色界亦成就眼識界耶。答若成就眼識界。亦成就色界。有成就色界不成就眼識界。謂生第二第三第四靜慮。眼識界不現在前。

> 問う。眼の界を成就する者は、また色の界を成就するか。 答う。眼の界を成就する者は、必ず色の界をも成就する。ただし、色の界を成就しても眼の界を成就しない場合がある。すなわち、欲界に生まれて、まだ眼を得ていないか、あるいは得た後に失った者である。「まだ眼を得ていない」とは、羯剌藍（くじらん）などの位や、生まれつきの盲人のことである。「得た後に失った」とは、眼を得た後に腐敗したり、摘出されたり、虫に食われたり、その他の因縁で壊れた者のことである。 問う。眼の界を成就する者は、また眼識の界を成就するか。 答う。四句をもって答えるべきである。 第一句。眼の界を成就するが、眼識の界を成就しない者。すなわち、第二・第三・第四静慮に生まれて、眼識の界が現在前しない者である。 第二句。眼識の界を成就するが、眼の界を成就しない者。すなわち、欲界に生まれて、まだ眼を得ていないか、あるいは得た後に失った者である。 第三句。眼の界を成就し、また眼識の界を成就する者。すなわち、欲界に生まれて、すでに眼を得て失っていない者。または初静慮に生まれた者。または第二・第三・第四静慮に生まれて、眼識の界が現在前する者である。 第四句。眼の界を成就せず、また眼識の界を成就しない者。すなわち、無色界に生まれた者である。 問う。色の界を成就する者は、また眼識の界を成就するか。 答う。眼識の界を成就する者は、必ず色の界をも成就する。ただし、色の界を成就しても眼識の界を成就しない場合がある。すなわち、第二・第三・第四静慮に生まれて、眼識の界が現在前しない者である。

問若不成就眼界亦不成就色界耶。答若不成就色界。亦不成就眼界。有不成就眼界非不成就色界。謂生欲界若未得眼或得已失。問諸不成就眼界。亦不成就眼識界耶。答應作四句。有不成就眼界非不成就眼識界。謂生欲界若未得眼。或得已失。有不成就眼識界非不成就眼界。謂生第二第三第四靜慮眼識界不現在前。有不成就眼界。亦不成就眼識界。謂生無色界。有非不成就眼界亦非不成就眼識界。謂生欲界已得眼而不失。或生初靜慮。或生第二第三第四靜慮眼識界現在前。問諸不成就色界。亦不成就眼識界耶。答若不成就色界。亦不成就眼識界。有不成就眼識界非不成就色界。謂生第二第三第四靜慮眼識界不現在前。

> 問う。眼界を成就せざる者は、また色界を成就せざるや。 答う。もし色界を成就せざれば、また眼界を成就せず。眼界を成就せざれども、色界を成就せざるにあらざることあり。すなわち欲界に生まれて、未だ眼を得ず、あるいは得たれどもすでに失う者をいう。 問う。眼界を成就せざる諸々の者は、また眼識界を成就せざるや。 答う。四句を作すべきなり。 第一句：眼界を成就せざれども、眼識界を成就せざるにあらざることあり。すなわち欲界に生まれて、未だ眼を得ず、あるいは得たれどもすでに失う者をいう。 第二句：眼識界を成就せざれども、眼界を成就せざるにあらざることあり。すなわち第二・第三・第四静慮に生まれて、眼識界が現在前しない場合をいう。 第三句：眼界を成就せず、また眼識界を成就せざることあり。すなわち無色界に生まれる者をいう。 第四句：眼界を成就せざるにあらず、また眼識界を成就せざるにあらざることあり。すなわち欲界に生まれてすでに眼を得て失わず、あるいは初静慮に生まれ、あるいは第二・第三・第四静慮に生まれて、眼識界が現在前している場合をいう。 問う。色界を成就せざる諸々の者は、また眼識界を成就せざるや。 答う。もし色界を成就せざれば、また眼識界を成就せず。眼識界を成就せざれども、色界を成就せざるにあらざることあり。すなわち第二・第三・第四静慮に生まれて、眼識界が現在前しない場合をいう。

問諸眼界不成就。得成就亦色界耶。答若色界不成就。得成就眼界亦爾。有眼界不成就得成就非色界。謂生欲界漸得眼界。問諸眼界不成就得成就亦眼識界耶。答應作四句。有眼界不成就得成就非眼識界。謂無色界歿生第二第三第四靜慮。或生欲界漸得眼界。有眼識界不成就。得成就非眼界。謂生第二第三第四靜慮眼識界現在前。或從彼歿生欲界及初靜慮。有眼界不成就。得成就亦眼識界。謂無色界歿生欲界及初靜慮。有眼界非不成就得成就亦非眼識界。謂除前相。問諸色界不成就得成就亦眼識界耶。答應作四句。有色界不成就。得成就非眼識界。謂無色界歿生第二第三第四靜慮。有眼識界不成就得成就非色界。謂生第二第三第四靜慮眼識界現在前。或從彼歿生欲界及初靜慮。有色界不成就。得成就亦眼識界。謂無色界歿生欲界及初靜慮。有色界非不成就。得成就亦非眼識界。謂除前相。

> 問う、眼界が成就しないことから成就するに至る場合、それは色界もまた同じか。 答え、もし色界が成就しないことから成就するに至るならば、眼界についてもまた同じである。ただし、眼界が成就しない状態から成就するに至るものの、色界はそうでない場合がある。例えば、欲界に生まれて、徐々に眼界を得るときである。 問う、眼界が成就しないことから成就するに至る場合、それは眼識界もまた同じか。 答え、四句をもって答えるべきである。 第一、眼界が成就しない状態から成就するに至るが、眼識界はそうでない場合がある。例えば、無色界から死んで、第二、第三、第四静慮に生まれるか、または欲界に生まれて徐々に眼界を得るときである。 第二、眼識界が成就しない状態から成就するに至るが、眼界はそうでない場合がある。例えば、第二、第三、第四静慮に生まれて、眼識界が現在面前に現れるか、またはそこから死んで、欲界や初静慮に生まれるときである。 第三、眼界が成就しない状態から成就するに至り、かつ眼識界もまた同じである場合がある。例えば、無色界から死んで、欲界や初静慮に生まれるときである。 第四、眼界が成就しない状態から成就するに至るのでもなく、眼識界もまたそうでない場合がある。これは前の三句を除いたものである。 問う、色界が成就しないことから成就するに至る場合、それは眼識界もまた同じか。 答え、四句をもって答えるべきである。 第一、色界が成就しない状態から成就するに至るが、眼識界はそうでない場合がある。例えば、無色界から死んで、第二、第三、第四静慮に生まれるときである。 第二、眼識界が成就しない状態から成就するに至るが、色界はそうでない場合がある。例えば、第二、第三、第四静慮に生まれて、眼識界が現在面前に現れるか、またはそこから死んで、欲界や初静慮に生まれるときである。 第三、色界が成就しない状態から成就するに至り、かつ眼識界もまた同じである場合がある。例えば、無色界から死んで、欲界や初静慮に生まれるときである。 第四、色界が成就しない状態から成就するに至るのでもなく、眼識界もまたそうでない場合がある。これは前の三句を除いたものである。

問諸眼界成就。得不成就亦色界耶。答應作四句。有眼界成就。得不成就非色界。謂生欲界已得眼而失。有色界成就。得不成就非眼界。謂欲界無眼者歿生無色界。有眼界成就得不成就亦色界。謂欲界有眼者歿生無色界。或色界歿生無色界。有眼界非成就得不成就亦非色界。謂除前相。問諸眼界成就得不成就亦眼識界耶。答應作四句。有眼界成就得不成就非眼識界。謂生欲界已得眼而失。或第二第三第四靜慮歿生無色界。有眼識界成就得不成就非眼界。謂欲界無眼者歿生無色界。或欲界初靜慮歿生第二第三第四靜慮或即住彼眼識界已現在前而斷。有眼界成就得不成就亦眼識界。謂欲界有眼者歿生無色界。或初靜慮歿生無色界。有眼界非成就得不成就亦非眼識界。謂除前相。問諸色界成就得不成就亦眼識界耶。答應作四句。有色界成就得不成就非眼識界。謂第二第三第四靜慮歿生無色界。有眼識界成就得不成就非色界。謂欲界初靜慮歿。生第二第三第四靜慮。或即住彼眼識界已現在前而斷。有色界成就得不成就亦眼識界。謂欲界初靜慮歿生無色界。有色界非成就得不成就亦非眼識界。謂除前相。

> 問う。眼界の成就と不成就を得ることは、色界でもあるのか。 答えは、四句で作るべきである。 第一句：眼界の成就と不成就を得るが、色界ではない場合。 例えば、欲界に生まれて、すでに眼を得た後に失う場合である。 第二句：色界の成就と不成就を得るが、眼界ではない場合。 例えば、欲界で眼のない者が死んで、無色界に生まれる場合である。 第三句：眼界の成就と不成就を得て、色界でもある場合。 例えば、欲界で眼のある者が死んで無色界に生まれるか、または色界から死んで無色界に生まれる場合である。 第四句：眼界の成就と不成就を得ず、色界でもない場合。 例えば、先の三つの場合を除いたものである。 問う。眼界の成就と不成就を得ることは、眼識界でもあるのか。 答えは、四句で作るべきである。 第一句：眼界の成就と不成就を得るが、眼識界ではない場合。 例えば、欲界に生まれて、すでに眼を得た後に失うか、第二静慮・第三静慮・第四静慮から死んで無色界に生まれる場合である。 第二句：眼識界の成就と不成就を得るが、眼界ではない場合。 例えば、欲界で眼のない者が死んで無色界に生まれるか、欲界や初静慮から死んで第二・第三・第四静慮に生まれ、あるいはその地に留まって、眼識界がすでに現在前に現れた後に断たれる場合である。 第三句：眼界の成就と不成就を得て、眼識界でもある場合。 例えば、欲界で眼のある者が死んで無色界に生まれるか、初静慮から死んで無色界に生まれる場合である。 第四句：眼界の成就と不成就を得ず、眼識界でもない場合。 例えば、先の三つの場合を除いたものである。 問う。色界の成就と不成就を得ることは、眼識界でもあるのか。 答えは、四句で作るべきである。 第一句：色界の成就と不成就を得るが、眼識界ではない場合。 例えば、第二静慮・第三静慮・第四静慮から死んで無色界に生まれる場合である。 第二句：眼識界の成就と不成就を得るが、色界ではない場合。 例えば、欲界や初静慮から死んで第二・第三・第四静慮に生まれ、あるいはその地に留まって、眼識界がすでに現在前に現れた後に断たれる場合である。 第三句：色界の成就と不成就を得て、眼識界でもある場合。 例えば、欲界や初静慮から死んで無色界に生まれる場合である。 第四句：色界の成就と不成就を得ず、眼識界でもない場合。 例えば、先の三つの場合を除いたものである。

如眼界色界眼識界展轉相對有十二論如是耳界聲界耳識界展轉相對。乃至意界法界意識界展轉相對。亦各應有十二論。如是則說同分對同分。若不同分對不同分。應作是說。眼界色界眼識界有五種三論。耳界聲界耳識界有四種三論。鼻界香界鼻識界有三種三論。舌界味界舌識界有二種三論。身界觸界身識界有一種三論。如是一一隨相應知。

> もし眼の領域、色の領域、眼の認識の領域が互いに関わり合うならば、十二の論がある。同様に、耳の領域、音の領域、耳の認識の領域が互いに関わり合うならば、十二の論がある。さらには、心の領域、心の対象の領域、心の認識の領域が互いに関わり合うならば、それぞれ十二の論があるべきである。このようにして、同じ部分が同じ部分と対する場合と、異なる部分が異なる部分と対する場合について述べられている。 次のように説くべきである。眼の領域、色の領域、眼の認識の領域には五種の三論がある。耳の領域、音の領域、耳の認識の領域には四種の三論がある。鼻の領域、香りの領域、鼻の認識の領域には三種の三論がある。舌の領域、味の領域、舌の認識の領域には二種の三論がある。身体の領域、触れるものの領域、身体の認識の領域には一種の三論がある。このように、それぞれ相応に従って知るべきである。

十二處者。謂眼處色處耳處聲處鼻處香處舌處味處身處觸處意處法處。問何故作此論。答為廣分別契經義故。謂契經說。有生聞婆羅門。來詣佛所。到已頂禮世尊雙足。合掌恭敬慰問佛已退坐一面。而白佛言。喬答摩尊。常為眾說一切。云何一切。齊何施設此一切言。佛告生聞婆羅門曰。我說一切即十二處。所謂眼處乃至法處。如來齊此施設一切。若有沙門婆羅門等作如是說。我能捨佛所說一切。別更施設有一切言。彼但有語而無實義。若還問之便不能了。後自思審轉生迷悶。所以者何。非彼境故。契經雖作是說而不分別其義。經是此論所依根本。彼不說者今欲說之。故作斯論。問若作是說。言一切者謂十八界。或作是說。言一切者謂五蘊及無為。或作是說。言一切者謂四諦及虛空非擇滅。或作是說。言一切者謂名與色。如是等說豈但有語而無實義答此中遮義不遮於文。但遮義施設。不遮文施設。佛意說言。一切法性皆攝入此十二處中。若有說言。我能施設別更有法。不攝在此十二處中。彼但有語而無實義。非佛意說十二處外無名色等差別法門。然佛所說十二處教最上勝妙非餘法門。問何故此教最上勝妙。答此是處中說攝一切法故。十八界教雖攝一切法。而是廣說難可受持。五蘊教非唯略說難可解了。而亦不能攝一切法。以蘊不攝三無為故。唯佛所說十二處教攝諸法盡。非廣非略。是故說為最上勝妙。故作是言。若欲觀察諸法性相。當依如是十二處教。若依如是十二處教觀察諸法所有性相。便生十二爾焰智光。復現十二實義影像。如人瑩拭十二明鏡懸在諸方。若入其中便現十二自身影像。一一有情身中有十二處可得問若一身中有十二處。云何建立十二處耶。答以彼自性作用別故。謂十二處雖在一身。而十二種自性作用有差別故非互相雜。如一室內有十二人伎藝各別。雖同一室而有十二自性作用。復次以二事故立十二處。一以所依。即眼等六。二以所緣。即色等六。復次以三事故立十二處。一以自性。二以所依。三以所緣。自性故者。謂立眼處乃至法處。所依故者。謂立眼處乃至意處。所緣故者。謂立色處乃至法處。如是名為諸處自性我物自體相分本性。

> 「十二処」とは、眼処、色処、耳処、声処、鼻処、香処、舌処、味処、身処、触処、意処、法処のことをいいます。 問：なぜこの論を造るのでしょうか。 答：経典の意味を広く詳しく明らかにするためです。すなわち、経典にはこう説かれています。「ある時、生聞というバラモンが仏のもとに来て、仏の両足に頭を付けて礼拝し、合掌して敬意を表してから、退いて一方に座り、仏に申し上げた。『ゴータマ尊よ、あなたは常に人々に「一切」について説かれます。では、「一切」とは何でしょうか。どのような範囲を指して「一切」という言葉を用いられるのですか。』 仏は生聞バラモンに答えて言われた。『私が説く一切とは、すなわち十二処のことである。すなわち眼処から法処に至るまでである。如来はこれを以て一切を施設する。もしある沙门やバラモンなどが、「私は仏の説かれた一切を捨てて、別に「一切」という言葉を施設することができる」と言うならば、その言葉には意味がなく、問い詰められれば理解できず、後に自ら考えても迷い苦しむだけだろう。なぜなら、それは彼の認識の対象ではないからである。』 経典にはこのように説かれていますが、その意味を詳しく分別していません。経典はこの論の依りどころとなる根本です。経典が説かなかったことを、今ここで説こうとして、この論を造ります。 問：もし「一切」とは十八界のことだと言う者や、「一切」とは五蘊と無為のことだと言う者、「一切」とは四諦と虚空と非択滅のことだと言う者、「一切」とは名と色のことだと言う者がいるならば、これらの説はただ言葉だけで意味がないのでしょうか。 答：ここでは「意味の施設」を遮っており、「言葉の施設」を遮っているのではありません。仏の意図は、「すべての法の性質は、この十二処の中に含まれる」ということです。「私は、十二処の中に含まれない別の法を施設できる」という主張は、ただ言葉だけで意味がありません。仏が十二処の外に名・色などの別の法門が無いと言っているわけではありません。しかし、仏の説かれた十二処の教えは最も優れており、他の法門には及びません。 問：なぜこの教えが最も優れているのでしょうか。 答：これは中道の説であり、一切の法を摂めるからです。十八界の教えは一切の法を摂めますが、詳しすぎて理解しがたく、五蘊の教えは簡略すぎて理解しにくく、また一切の法を摂めることもできません（五蘊は三無為を摂めないからです）。ただ仏の説かれた十二処の教えだけが、全ての法を尽くし、広すぎず狭すぎず、そのため最も優れていると説かれます。それゆえ、「もし諸法の性質と相を観察したいならば、この十二処の教えに依るべきである」と言うのです。 この十二処の教えに依って諸法の性質と相を観察すれば、十二の「爾焔智」の光が生じ、さらに十二の実義の影像が現れます。ちょうど人が十二枚の明るい鏡を磨き、四方に掲げて、その中に入れば十二の自分の姿が映るようなものです。 問：もし一つの身体の中に十二処があるならば、どのようにして十二処を成立させるのでしょうか。 答：それらの自性と作用が異なるからです。すなわち、十二処は一つの身体にありますが、十二種の自性と作用に違いがあるため、互いに混ざり合うことはありません。例えば、一つの部屋の中に十二人の芸能にそれぞれ長けた人がいるようなものです。同じ部屋にいても、十二人の異なる自性と作用があるのです。 また、二つの事柄によって十二処が成立します。第一に「所依」、すなわち眼などの六つ。第二に「所縁」、すなわち色などの六つです。 また、三つの事柄によって十二処が成立します。第一に「自性」、第二に「所依」、第三に「所縁」です。自性とは、眼処から法処までを立てることです。所依とは、眼処から意処までを立てることです。所縁とは、色処から法処までを立てることです。 これらを諸処の自性、我物、自体、相分、本性といいます。

已說處自性。所以今當說。問何故名處。處是何義。答生門義是處義生路義藏義倉義經義殺處義田義池義流義海義白義淨義是處義應知。此中生門義是處義者。如城邑中出生諸物。由此長養諸有情身。如是所依及所緣內出生種種心心所法。由此長養染淨相續。生路義是處義者。如道路中通生諸物。由此長養諸有情身。如是所依及所緣內通生種種心心所法。由此長養染淨相續。藏義是處義者。如庫藏中有金銀等寶物積集。如是所依及所緣內有心心所諸法積集。倉義是處義者。如篅倉中有稻麥等諸穀積集。如是所依及所緣內有心心所諸法積集。經義是處義者。如織經上編布諸緯。如是所依及所緣上。遍布種種心心所法。殺處義是處義者。如戰場中斷百千頭令墮於地。如是所依及所緣內有無量種心心所法。為無常滅之所滅壞。田義是處義者。如在田中有無量種苗稼生長。如是所依及所緣內生長種種心心所法。池義是處義者。如有問言。

> すでに「処の自性」については説明しました。それでは、今から「処」という名称について説明します。 問う。「なぜ『処』という名前があるのか。『処』とはどういう意味か。」 答える。「生まれ出る門」という意味が「処」の意味です。他にも、「通り道」という意味、「蔵」という意味、「倉」という意味、織機の「経糸」の意味、「殺戮の場」の意味、「田」の意味、「池」の意味、「流れ」の意味、「海」の意味、そして「白く清らか」という意味が「処」の意味であると知るべきです。 この中で、「生まれ出る門」という意味が「処」の意味であるとは、例えば、町の中から様々な物が生まれ出て、それによって生き物の身体が養われるように、それと同じく、認識の拠り所（所依）とその対象（所縁）の中から、様々な心の働き（心・心所）が生まれ出て、それによって煩悩に染まった状態と清らかな状態が続いていく、ということです。 「通り道」という意味が「処」の意味であるとは、例えば、道の上を通って様々な物が生まれ、それによって生き物の身体が養われるように、それと同じく、認識の拠り所とその対象の中を通って、様々な心の働きが生まれ出て、それによって染まった状態と清らかな状態が続いていく、ということです。 「蔵」という意味が「処」の意味であるとは、例えば、蔵の中に金や銀などの宝物が集められているように、それと同じく、認識の拠り所とその対象の中に、心の働きの様々な法が集まっている、ということです。 「倉」という意味が「処」の意味であるとは、例えば、穀物倉の中に稲や麦などの穀物が集められているように、それと同じく、認識の拠り所とその対象の中に、心の働きの様々な法が集まっている、ということです。 「経糸」の意味が「処」の意味であるとは、例えば、織り機の経糸の上に様々な緯糸が織り込まれるように、それと同じく、認識の拠り所とその対象の上に、様々な心の働きが広く行き渡っている、ということです。 「殺戮の場」の意味が「処」の意味であるとは、例えば、戦場で何百何千もの首が切り落とされて地に落ちるように、それと同じく、認識の拠り所とその対象の中にある無数の心の働きが、無常という滅法によって滅ぼされ壊される、ということです。 「田」の意味が「処」の意味であるとは、例えば、田んぼの中に無数の種類の苗や穀物が育ち生長するように、それと同じく、認識の拠り所とその対象の中で、様々な心の働きが生まれ育つ、ということです。 「池」の意味が「処」の意味であるとは、例えば、ある人がこう尋ねたとします。

水從何池出何處道不通何處攝世間苦樂等皆盡

> どの池から水は湧き出るのか。 どの道が通じていないのか。 どこで世の中の全てが尽きるのか。 苦しみも楽しみも、すべて消え去る場所とは。

世尊告曰。

> 世尊はおっしゃいました。

眼耳鼻舌身意及諸餘處此攝名及色能令無有餘水從此池出此處道不通此處攝世間苦樂等皆盡

> 目・耳・鼻・舌・身・意、そしてその他すべての感覚器官── これらは「名前」と「形（物質）」を集めたものであり、それ以上何も残さない。 水がこの池から湧き出るように、しかしここには道は通じていない。 この場にすべての世界――苦しみも楽しみも――は尽きる。

流義是處義者。如有問言。

> 流れとは、即ち道理という意味です。例えば、次のように問われたとしましょう。

諸處將流泄以何能制防若從彼已流誰復能偃塞

> あらゆる方向から漏れ出るものを、何によって防ぎ止めることができるのか。 もしそれが既に漏れ出てしまったなら、誰がそれをせき止めることができようか。

世尊告曰。

> 世尊はおっしゃいました。

諸處將流泄正念能制防若從彼已流淨慧能偃塞

> あらゆる場所から漏れ出そうとするものを、正しい気づき（正念）がしっかりと防ぎとめる。 たとえそれがすでに漏れ出したとしても、清らかな智慧（浄慧）がそれをせき止める。

海義是處義者。如世尊說。苾芻當知諸有情類以眼為海。現前諸色是彼濤波。於色濤波自制抑者能度眼海。得免洄澓邏剎娑等種種嶮難。乃至意法廣說亦爾。白義是處義者。謂眼等處麁顯明了。淨義是處義者。謂眼等處貞實澄潔。是謂生門乃至淨義。外論說此名勃路拏。如摩健地迦出家外道說。喬答摩說諸勃路拏。皆來入我呪術章句。勃路拏聲含二種義。一根本義。二能作義。以十二處與心心所為根本故及能作動心心所故。已總說處立名所因。今當一一別說其相。問眼處云何。答諸眼於色已正當見及彼同分是名眼處。已見色等言如界中已釋。乃至意處應知亦爾。問色處云何。答諸色為眼已正當見及彼同分是名色處。已所見等言如界中已釋。乃至法處應知亦爾。問若十色處法處少分皆體是色。何故唯一名色處耶。答唯此一處色相麁顯易見易了。故名色處餘處不爾。故立別名。復次唯此一處是二眼境。謂肉天眼故名色處。餘處不爾故立別名。復次唯此一處是三眼境。謂肉天聖慧眼故名色處。餘處不爾故立別名復次唯此一處是二眼境。眼識所緣故名色處。是故尊者妙音說曰。若二眼境眼識所緣立色處名。餘處不爾。復次若有麁細長短此彼方處可了立色處名。餘處不爾故非色處。復次若形相大及可積聚易了知者立色處名。餘處不爾故非色處。復次若可種植增長易了立色處名。餘處不爾故非色處種植增長通內外分。外分種植謂下種時。增謂萌芽時。長謂莖葉花果時。內分種植謂羯剌藍位。增謂頞部曇位。長謂閉尸鍵南鉢羅奢佉等位復次若可施設為方隅性立色處名。餘處不爾故非色處。唯於色處施設一切方隅自性。非餘處故。復次若可施設踰繕那性立色處名。餘處不爾故非色處。唯於色處施設一切踰繕那性。非餘處故。復次若能覆蓋諸餘色法。如巾帽者立色處名。餘處不爾故非色處。唯有色處能總覆蓋諸餘色法。非餘處故。復次若處具有形色顯色立色處名。餘處不爾故非色處。復次若處具有二十種色或二十一立色處名。餘處不爾故非色處。

> 「海」というのは「場所」という意味です。例えば、世尊がこうおっしゃいました。「比丘たちよ、知っておきなさい。あらゆる有情にとって、眼は海である。そこに現れる様々な色は波である。その色の波を自ら抑えられる者は、眼の海を渡り、渦巻きや羅刹などの様々な危難を免れることができる。」さらに、意と法についても同様に広く説かれています。 「白（明白）」というのも「場所」という意味で、眼などの場所がはっきりと顕れていることを指します。「浄（清浄）」というのも「場所」という意味で、眼などの場所が真実で清らかであることを指します。これらを「生門」などと呼び、この「浄」の意味に至るまでがそうです。 外道の論では、これを「勃路拏（ブルナ）」と呼びます。例えば、マガンディカという出家した外道がこう言いました。「ゴータマは、様々な『勃路拏』がすべて私の呪文の章句の中に入ってくると説いている。」「勃路拏」という言葉には二つの意味が含まれています。第一に「根本」という意味、第二に「能作（はたらきを起こす）」という意味です。なぜなら、十二処は心と心所にとって根本であり、また心と心所を動かすことができるからです。 これまで、総体的に「処」という名前の由来を説明しました。ここからは、一つ一つ個別にその特徴を説き明かしていきましょう。 \*\*問い：\*\*「眼処」とは何ですか。 \*\*答え：\*\*「眼処」とは、様々な眼が色に対して、すでに見た、今まさに見ている、これから見る、および「彼同分（見る作用をしていない眼）」であるものを指します。なお、「すでに見た色」などについては、「界」のところですでに説明した通りです。意処についても同様に理解すべきです。 \*\*問い：\*\*「色処」とは何ですか。 \*\*答え：\*\*「色処」とは、様々な色が眼によってすでに見られた、今まさに見られている、これから見られる、および「彼同分」であるものを指します。「すでに見られた」などについては、「界」のところですでに説明した通りです。法処についても同様に理解すべきです。 \*\*問い：\*\*十の色処と、法処の一部はすべてその本質が色です。それならなぜ、ただ一つの場所だけを「色処」と名付けるのですか。 \*\*答え：\*\*ただこの一つの場所だけが、色という特徴がはっきりとしていて、見やすく理解しやすいからです。だから「色処」と名付けられます。他の場所はそうではないので、別の名前が付けられています。 また、ただこの一つの場所だけが、二つの眼の対象となるからです。すなわち、肉眼と天眼です。だから「色処」と名付けられます。他の場所はそうではないので、別の名前が付けられています。 また、ただこの一つの場所だけが、三つの眼の対象となるからです。すなわち、肉眼、天眼、智慧の眼です。だから「色処」と名付けられます。他の場所はそうではないので、別の名前が付けられています。 また、ただこの一つの場所だけが、二つの眼の対象であり、眼識が認識する対象となるからです。だから「色処」と名付けられます。このため、尊者・妙音はこう述べています。「もし二つの眼の対象であり、眼識が認識する対象であれば、『色処』の名前を立てる。他の場所はそうではない。」 また、粗さや細かさ、長さや短さ、こちら側やあちら側といった方向や位置が認識できるものを「色処」と名付けます。他の場所はそうではないので、色処とはなりません。 また、形が大きく、積み重ねることができ、容易に認識できるものを「色処」と名付けます。他の場所はそうではないので、色処とはなりません。 また、植えたり、種をまいたりして成長する様子がわかりやすいものを「色処」と名付けます。他の場所はそうではないので、色処とはなりません。「植える」「成長する」という言葉は、外の部分と内の部分の両方に通じます。外の部分で「植える」とは種をまく段階を、「成長する」とは芽が出る段階を、「延びる」とは茎や葉、花や実の段階をいいます。内の部分で「植える」とは羯剌藍（けららん）の段階を、「成長する」とは頞部曇（あぶどん）の段階を、「延びる」とは閉尸（へいし）、鍵南（けんなん）、鉢羅奢佉（はらしゃきゃ）などの段階をいいます。 また、方角や場所という性質を認識できるものを「色処」と名付けます。他の場所はそうではないので、色処とはなりません。あらゆる方角や場所という性質は、色処においてのみ認識されるからです。 また、ヨージャナ（距離の単位）という性質を認識できるものを「色処」と名付けます。他の場所はそうではないので、色処とはなりません。あらゆるヨージャナという性質は、色処においてのみ認識されるからです。 また、まるで布や帽子のように、他の色法を覆い隠すことができるものを「色処」と名付けます。他の場所はそうではないので、色処とはなりません。色処だけが、他のあらゆる色法を全体的に覆い隠すことができるからです。 また、形色と顕色の両方を持っているものを「色処」と名付けます。他の場所はそうではないので、色処とはなりません。 また、二十種類、あるいは二十一種類の色を備えているものを「色処」と名付けます。他の場所はそうではないので、色処とはなりません。

問何故名觸處。為是可觸故名觸處。為體是觸故名觸處。為觸所緣故名觸處。設爾何失。三皆有過。所以者何。若是可觸故名觸處。極微展轉既不相觸。如何觸處是可觸耶。若體是觸故名觸處。大種造色非觸自性。如何觸處體是觸耶。若觸所緣故名觸處。此亦是餘心心所境。如何但說觸所緣耶。答應作是說此是可觸故名觸處。問極微展轉既不相觸。如何觸處是可觸耶。答依世俗說不依勝義。謂世共說眼所受境名可見。耳所受境名可聞。鼻所受境名可嗅。舌所受境名可嘗。身所受境名可觸。意所受境名可知。是故可觸故名觸處。復次緣生身識故名觸處。如契經說。身觸為緣生於身識。此是勝義了別境心故。此所緣名為觸處。復次此名觸處亦名養處。由此長養諸餘色法令增盛故。如能增喜名為喜處。此能長養故名養處。尊者世友作如是說。極微展轉互相觸不。答互不相觸。若相觸者即應住至第二剎那。大德說曰。一切極微實不相觸。但由無間假立觸名。有作是說。極微展轉實不相觸亦非無間。但和合住彼此相近假立觸名。

> 問う。なぜ「觸處」という名があるのか。觸れることができるから觸處というのか。その体が觸であるから觸處というのか。觸が所緣であるから觸處というのか。もしそうだとすると、いずれにも過失がある。なぜか。もし觸れることができるから觸處というなら、極微は互いに觸れ合わないのに、どうして觸處が觸れられるものといえるのか。もし体が觸であるから觸處というなら、四大種や造色は觸を自性としないのに、どうして觸處の体が觸であるといえるのか。もし觸を所緣とするから觸處というなら、これもまた他の心・心所の境であるのに、どうして觸のみを所緣とするといえるのか。 答え。こういうべきである。これは觸れることができるから觸處というのである。 問う。極微は互いに觸れ合わないのに、どうして觸處が觸れられるものといえるのか。 答え。勝義ではなく世俗によって説くのである。世間では一般的に、眼が受ける境を見られるといい、耳が受ける境を聞けるといい、鼻が受ける境を嗅げるといい、舌が受ける境を味わえるといい、身が受ける境を觸れられるといい、意が受ける境を知られるという。それゆえ、觸れられるものだから觸處というのである。 また、身識を生じさせる緣となるから觸處という。経典に「身の觸を緣として身識が生じる」とある通りである。これは勝義における境を了別する心であるから、その所緣を觸處というのである。 また、これは觸處ともいうが、同時に養處ともいう。これによって他の色法を長養し、増盛させるからである。例えば、喜びを増すものを喜處というように、これも長養するから養處というのである。 尊者世友はこう説く。極微は互いに觸れ合うか。答え。互いに觸れ合わない。もし觸れ合うなら、第二の刹那まで留まるはずである。 大徳はこう説く。すべての極微は実に觸れ合わない。ただ無間によって仮に觸という名を立てるのである。 また次のように説く者もいる。極微は互いに実に觸れ合わず、また無間でもない。しかし和合して住し、互いに近接することで仮に觸という名を立てるのである。

問十二處體無非是法。何故唯一立法處名。答雖十二處體皆是法。而但於一立法處名亦無有失。有譬喻故。如十八界。體雖皆法。而但於一立法界名。又如十智雖皆緣法。而但於一立法智名。又如七覺支。雖皆能擇法。而但於一立擇法覺支名。又如六隨念。雖皆緣法。而但於一立法隨念名。又如四念住。雖皆緣法。而但於一立法念住名。又如四證淨雖皆緣法。而但於一立法證淨名。又如四無礙解雖皆緣法。而但於一立法無礙解名。又如三寶三歸雖體皆法。而但於一立法寶法歸名。此亦如是雖十二處體皆是法。而但於一立法處名亦無有失。復次法處有一名。餘處有二名。一名者謂共名。以十二處皆是法故。二名者謂共不共名。共名如前。不共名者謂眼處等。欲令易了顯不共名。法處更無不共名故但顯共名。故名法處。復次生有為法生相。唯在此處攝故獨名法處。復次四有為相是一切法印封幖幟。簡別有為異無為故。彼相唯在此處攝故獨名法處。復次名句文身詮表顯示諸法性相令易解了彼三唯在此處攝故獨名法處。復次如諸窓牖通風行故名風行處。法處亦爾。通生諸法故名法處。諸煩惱業及定慧等。能生一切有為法故。及能通證無為法故。復次達一切法皆空非我空解脫門。在此處攝故名法處。

> 問う。十二処の体は、いずれも法にほかならない。なぜただ一箇所だけを「法処」と名づけるのか。 答え。十二処の体はすべて法であるが、ただ一箇所に「法処」という名を立てても、なんら失当ではない。たとえがあるからだ。 たとえば、十八界の体はすべて法であるが、ただ一界だけを「法界」と名づける。 また、十智はすべて法を縁とするが、ただ一智だけを「法智」と名づける。 また、七覚支はすべて法を選り分ける力を持つが、ただ一支だけを「択法覚支」と名づける。 また、六随念はすべて法を縁とするが、ただ一念だけを「法随念」と名づける。 また、四念住はすべて法を縁とするが、ただ一つの念住だけを「法念住」と名づける。 また、四証浄はすべて法を縁とするが、ただ一つの証浄だけを「法証浄」と名づける。 また、四無礙解はすべて法を縁とするが、ただ一つの無礙解だけを「法無礙解」と名づける。 また、三宝・三帰は体がすべて法であるが、ただ一つの宝・帰だけを「法宝・法帰」と名づける。 これと同じく、十二処の体はすべて法であるが、ただ一箇所だけを「法処」と名づけても、なんら失当ではない。 さらに、法処にはただ一つの名があり、他の処には二つの名がある。一つの名とは「共名」のことである。これは十二処すべてが法であるからだ。二つの名とは「共名」と「不共名」のことである。共名は先に述べたとおりである。不共名とは、たとえば「眼処」などのことである。人々に理解しやすくするために、不共名を示すのだ。法処には不共名がないので、共名だけを示して「法処」と名づけるのである。 さらに、生・住・異・滅の四相は、すべての有為法を生み出す印（しるし）であり、標（しるべ）である。これによって有為と無為を区別する。その四相は、ただこの法処にのみ含まれるので、特に「法処」と名づけるのである。 さらに、名・句・文の三つは、あらゆる法の性質や形を説明・表示し、理解しやすくする。この三つは、ただこの法処にのみ含まれるので、特に「法処」と名づけるのである。 さらに、窓や戸が風を通すので「風行処」と呼ばれるように、法処もまた、さまざまな法を生み出すので「法処」と名づける。煩悩や業、あるいは定や慧などが、すべての有為法を生み出し、また無為法を証得する道となるからである。 さらに、あらゆる法は空であり、我にあらずと悟る「空解脱門」は、この法処に含まれるので、「法処」と名づけるのである。

問能執諸法為我我所。薩迦耶見亦此處攝。如何此處不名我處。答薩迦耶見是虛妄執。不稱諸法實相而解。是故此處不立我名。空解脫門證法實相是故此處依彼名法。復次擇滅涅槃是常是善不變不易。生老病死所不能壞是勝義法。彼法唯在此處攝故獨名法處。復次分別諸法自相共相。安立諸法自相共相。破自性愚及所緣愚於一切法不增不減如實解慧。唯此處攝故名法處。餘處不爾故別立名。復次此攝多法故名法處。攝多法者。謂於此處有色非色法。相應不相應法。有所依無所依法。有所緣無所緣法。有行相無行相法。有警覺無警覺法。有為法無為法。餘處不爾故別立名。復次此處對意故名法處。謂眼等處唯對色等。唯有意處對一切法故。對意者別得通名。由如是等種種因緣十二處中一名法處。

> 問う、すべての法を執着して「我」や「我がもの」とするものを。 薩迦耶見（身見）もまた、この処に含まれる。 なぜこの処を「我の処」と呼ばないのか。 答え、薩迦耶見は虚妄の執着である。 諸法の実相にかなった理解ではない。 それゆえ、この処には「我」という名を立てない。 空解脱門は法の実相を証する。 それゆえ、この処はその法に基づいて「法処」と名づける。 さらに、択滅涅槃は常であり、善であり、変わらず、易じない。 生・老・病・死によって壊されることがない、これが勝義法である。 その法は唯一この処に含まれるから、特に「法処」と名づける。 また、諸法の自相と共相を分別し、諸法の自相と共相を安立する。 自性の愚かさと所縁の愚かさを破り、すべての法について増減なく、如実に理解する慧は、 ただこの処にのみ含まれるから「法処」と名づける。 他の処はそうではないので、別に名を立てるのである。 また、この処は多くの法を摂するから「法処」と名づける。 多くの法を摂するとは、すなわち、この処には色法と非色法、 相応法と不相応法、 有所依法と無所依法、 有所縁法と無所縁法、 有行相法と無行相法、 有警覚法と無警覚法、 有為法と無為法がある。 他の処はそうではないので、別に名を立てるのである。 また、この処は意に対して対するから「法処」と名づける。 すなわち、眼などの処はただ色などに対してのみ対する。 ただ意処だけがすべての法に対して対する。 したがって、意に対して対するものは、特別に一般名を得るのである。 このような様々な因縁によって、十二処の中の一つの処を「法処」と名づけるのである。

別說諸處一一相已。今應復說諸處次第。問何故世尊先說內處後說外處。答以依六識所依所緣次第說故。問何故世尊於六內處先說眼處。乃至後說意處。於六外處先說色處。乃至後說法處。答隨順文詞詮表相故。復次隨順說者受者持者次第法故。復次隨順麁細次第法故。謂六內處眼處最麁。是故前說。乃至意處最細。是故後說六外處中色處最麁。是故前說。乃至法處最細是故後說。復次依定不定次第說故。六內處中前五定取現在境故前說。意處取境不決定故後說。謂以三世及無為法。或總或別為所取故。前五處中前四定取所造色故前說。身處取境不決定故後說。謂以能造及所造色。或總或別為所取故。前四處中於所取境遠速明者前說。此相違者後說。依內六處前後次第說。外六處次第亦爾。復次依處上下次第說故。謂一身中眼處最上。耳處次下鼻處次下舌處次下身多在下。意無方處故最後說。依六內處前後次第說。六外處應知亦爾。復次依諸有情展轉相遇禮儀次第故作是說。謂相遇時。先互相見。次與言論。次奉香花。次設飲食。次授細妙臥具等事。由此最後互相得意故。十二處次第如是。

> さて、諸々の処（十二処）を一つ一つ説明しました。次に、諸々の処の順序について説明しましょう。 問：なぜ世尊は、まず内処（六内処）を説き、その後に外処（六外処）を説かれたのでしょうか。 答：それは、六識の所依（よりどころ）と所縁（よりどころとする対象）の順序に従って説かれたからです。 問：なぜ世尊は、六内処の中で、まず眼処を説き、最後に意処を説かれたのでしょうか。また、六外処の中で、まず色処を説き、最後に法処を説かれたのでしょうか。 答：言葉の表現としてわかりやすい順序に従ったからです。 また、説く人、聞く人、記憶する人にとっての自然な順序の法則に従ったからです。 また、粗いものから細かいものへという順序の法則に従ったからです。すなわち、六内処の中で眼処が最も粗いので最初に説かれ、意処が最も細かいので最後に説かれます。六外処の中で色処が最も粗いので最初に説かれ、法処が最も細かいので最後に説かれます。 また、対象をとらえる仕方の「定まったもの」と「定まらないもの」という順序に従って説かれています。六内処の中で、最初の五つの処（眼・耳・鼻・舌・身）は必ず現在の境（対象）をとらえるので先に説かれます。意処は対象をとらえる仕方が定まっていないので後に説かれます。なぜなら、過去・現在・未来の三世および無為法を、まとめてあるいは個別に、その対象とするからです。 五つの処（眼・耳・鼻・舌・身）の中で、最初の四つの処（眼・耳・鼻・舌）は必ず「所造色」（物質から作られた対象）をとらえるので先に説かれます。身处は対象をとらえる仕方が定まっていないので後に説かれます。なぜなら、「能造」（物質の基本要素）と「所造色」の両方を、まとめてあるいは個別に、その対象とするからです。 四つの処（眼・耳・鼻・舌）の中で、対象を遠くから、速やかに、はっきりととらえるものから順に説かれます。これとは逆の性質を持つものは後に説かれます。このように内処の順序が説かれ、外処の順序もまた同じです。 また、身体の上下の位置の順序に従って説かれています。すなわち、一つの身体の中で、眼処は最も上にあり、耳処はその下に、鼻処はそのさらに下に、舌処はそのまた下に、身处は多くが体の下の方にあります。意処には特定の場所がないので最後に説かれます。内処の順序はこのように説かれ、外処の順序もまた同じであると知るべきです。 また、様々な有情が互いに会うときの礼儀作法の順序に従ってこのように説かれています。すなわち、会うときは、まず互いに見合い、次に言葉を交わし、次に香や花を贈り、次に飲食を差し出し、次に柔らかくて良い寝具などを与えます。このようにして、最後に互いに意気投合するからです。 以上のようにして、十二処の順序は定められています。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第七十三

> 説一切有部発智大毘婆沙論 巻第七十三