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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 4"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第七十四

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第七十四巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 結蘊第二中十門納息第四之四

> 第四品（結蘊・第二段・十門の章、その四）

問云何建立內處外處。為依於法為依於我。設爾何失。二俱有過。所以者何。若依於法法無作用。於無作用一切法中。云何建立內處外處。若依於我我實性無。如何依我立內外處。答唯依法立然非一切。謂六識身是染淨法所依止處。若與六識作所依者名為內處。作所緣者名為外處。故依法立內外處名。復次若法是根立為內處。若法是根義立為外處。復次若法是有境立為內處。若法是境立為外處。有說。依我立內外處。我即是心。我執依故。於此心上假立我名。如契經說。

> 問う：内処と外処はどのようにして成立するのか。法に基づくのか、我に基づくのか。そのどちらにも問題があるのではないか。なぜなら、法に基づくなら、法には作用がない。作用のない法の中で、どうして内処や外処を立てられるだろうか。我に基づくなら、我には実体がない。どうして我に基づいて内処と外処を立てられるだろうか。 答：ただ法に基づいて立てられるが、すべての法によるわけではない。すなわち、六識の集まりは、汚れたものや清らかなもののよりどころとなるものである。六識にとってよりどころとなるものを内処と名づけ、よりどころとなる対象を外処と名づける。したがって、法に基づいて内処と外処の名を立てるのである。 また、ある法が根（機能）であるならば、それを内処とし、ある法が根の意味（対象）であるならば、それを外処とする。 また、ある法が境（対象）を有するならば、それを内処とし、ある法が境そのものであるならば、それを外処とする。 ある説によれば、我に基づいて内処と外処を立てる。我とはすなわち心である。我執がよりどころとなるからである。この心の上に仮に我という名を立てる。経典に次のように説かれている。

由善調伏我智者得生天應善調伏心心調能引樂

> 善く自己を調伏する智者は、天に生まれることができる。 心をよく調伏すべきである。心を調伏すれば、楽を導き出すことができる。

既善調心即善調我。故知心上假立我名。此我所依立為內處。我所緣者立為外處。然內外名非圓成實。謂於我是內者於他名外。於我是外者於他名內故。而且依一立內外名非不決定。

> 心をよく調えることは、すなわち私をよく調えることです。したがって、心の上に仮に「私」という名前を立てていると知るべきです。この「私」のよりどころとなるものを「内の対象」（内処）とし、「私」が執着する対象を「外の対象」（外処）とします。しかし、「内」と「外」という名称は、絶対的な真実（円成実性）ではありません。なぜなら、私にとって「内」であるものが他者にとっては「外」であり、私にとって「外」であるものが他者にとっては「内」となるからです。それでも、ある一つの立場に基づいて「内」「外」の名を立てることは、必ずしも不確定なわけではありません。

如契經說。汝等苾芻。於內六處應如實知。問於外六處亦應如實知。何故世尊唯勸知內處。答世尊欲令諸弟子輩多於內門修靜慮故。如契經說。汝等苾芻。應觀內根不應緣外。復次世尊欲令諸弟子輩內修靜慮無所增益。如契經說。汝等苾芻。應內修定勿妄增益常樂我淨。汝等苾芻應內修定如實觀察。諸行無常苦空非我因集生緣。由此八種聖慧行相。於一切時應觀諸有。復次世尊欲令諸弟子輩於內修習不共靜慮。如世尊說。汝等苾芻。應內修定不應修習諸共靜慮。謂麁苦障靜妙離觀。汝等苾芻應內修定。謂應修習不共靜慮觀察諸有。如病如癰如箭惱害。無常有苦是空非我。由此八種勝尋思杖。能遍摧伏一切有生。復次此契經中。唯勸觀察內六處者以內是外所依止故亦勸觀彼。所以者何。以有我故便有我所。有我見故有我所見。有五我見故有十五我所見。有我執故有我所執。有我癡故有我所癡。有我愛故有我所愛。為養內我求外資具。復次世尊欲令諸弟子等先於內法修念住故。謂修行者先緣內法修習念住。既成滿已方緣於外。由如是等種種因緣。是故世尊唯勸知內。

> 例えば経典にこう説かれています。「汝ら比丘よ、内の六処について、如実に知るべきである」。問う、外の六処についても如実に知るべきではないか。なぜ世尊は内の処についてのみ知るよう勧められたのか。答える、世尊は弟子たちに、内の門において多く静慮を修めることを望まれたからである。例えば経典にこう説かれています。「汝ら比丘よ、内の根を観ずべきであって、外に縁るべきではない」。また、世尊は弟子たちに、内において静慮を修め、何ものも増益することのないように望まれた。例えば経典にこう説かれています。「汝ら比丘よ、内に定を修め、みだりに常・楽・我・浄を増益してはならない。汝ら比丘よ、内に定を修め、諸行は無常・苦・空・非我であり、因・集・生・縁によるものであると如実に観察すべきである」。この八種の聖慧の行相によって、常に一切の有を観ずべきである。また、世尊は弟子たちに、内において不共の静慮を修めることを望まれた。世尊がこう説かれているように。「汝ら比丘よ、内に定を修めるべきであって、諸々の共の静慮を修習すべきではない。すなわち、麁・苦・障・静・妙・離の観察である。汝ら比丘よ、内に定を修めるべきである。すなわち、不共の静慮を修習し、一切の有を、病の如く、癰の如く、箭の如く、悩害であると観察すべきである。無常であり、苦であり、空であり、非我であると」。この八種の勝れた尋思の杖によって、よく一切の有の生を遍く摧伏することができる。また、この経典の中で、内の六処のみを観察するよう勧められているのは、内が外の依止所であるからであり、また外をも観察するよう勧めているのである。なぜなら、我があるから我の所有があり、我見があるから我の所有の見があり、五種の我見があるから十五種の我の所有の見があり、我執があるから我の所有の執があり、我癡があるから我の所有の癡があり、我愛があるから我の所有の愛がある。内の我を養うために外の資具を求めるのである。また、世尊は弟子たちに、まず内の法において念住を修めさせたいと望まれた。すなわち、修行者はまず内の法に縁って念住を修習し、それが成満した後に、はじめて外に縁るのである。このような様々な因縁によって、世尊は内の処についてのみ知るよう勧められたのである。

如契經說有六內處。契經復說有六觸處。問此二六處有何差別。或有說者。此二無別。所以者何。六內處即六觸處。六觸處即六內處。聲雖有異而義無別。復有說者。亦有差別。謂名即差別名內六處名六觸處故。復次諸同分者名六觸處。彼同分者名六內處。復次諸可生法名六觸處。不可生法名六內處。復次有業用者名六觸處。無業用者名六內處。若作是說。諸現在者名六觸處。過去未來者名六內處。復次諸已生者名六觸處。未已生者名六內處。若作是說。過去現在名六觸處。未來名六內處。復次心心所法正依住者名六觸處。心心所法不正依住。唯空轉者名六內處。復次眼等六處作觸所依義名六觸處。作餘心心所法所依義名六內處。脇尊者言。眼等六處自性名內六處。若有所作名六觸處。如苾芻鉢。若說自性但名為鉢。苾芻用時名苾芻鉢。尊者望滿作如是言。眼等六處自體名內六處。若與觸作所依名六觸處。如鐵酥鉢。若說自體但名鐵鉢。若盛酥時名鐵酥鉢。問眼等六處亦為受等之所依止。何故但名觸處不名受等處耶。答亦應說受等處而不作是說者。當知此義有餘。復次契經舉勝兼顯劣者。謂於一切心心所中。觸最為勝。若說觸處當知兼顯名受等處。復次心心所法以觸為命。觸所住持觸所引發。由觸力故能現在前。故名觸處。謂心心所於境流散。由觸攝持令得和合。又若無觸諸心心所應如死屍不能觸對自所緣境。皆由觸力有觸境用。如有命根身能覺觸。是故眼等但名觸處。如契經說。六內處名此岸六外處名彼岸。問六內外處與此彼岸。有何相似而作是說。答與心心所作所依緣。有近有遠似此彼岸故作是說。如河兩岸。近者名此遠者名彼。如是六處與心心所。作所依者近故如此岸。作所緣者遠故如彼岸。復次是心心所初入已渡如此彼岸故作是說。如諸有情。初入河處名為此岸。已渡河處名為彼岸。如是與心心所法作所依者。如初入故名此岸。作所緣者如已度故名彼岸。故內外處名此彼岸。復次契經中說。寂滅涅槃名為彼岸。涅槃唯是外處所攝既名彼岸。故內六處得此岸名。如契經說。薩迦耶是此岸。薩迦耶滅是彼岸。薩迦耶者即是生死。於生死中六內處勝故。六內處得此岸名。既六內處名為此岸故。六外處得彼岸名。問此中何法如河。而說六內外處如此彼岸耶。答心心所法如河故。內外處如此彼岸。如有瀑河漂此彼岸。情非情物同趣大海。心心所法亦復如是。漂內外處所攝有情。同趣生老病死大海。問於此河中誰為船栰。答八支聖道如有船栰。百千眾生之所依止。從河此岸渡至彼岸隨意遊適。如是無量無邊有情依止聖道。從生死此岸至涅槃彼岸。自在遊賞故。八聖道猶如船栰。

> 経典に説くところによれば、六内処（六つの内なる感覚の基盤）があると説かれ、また経典には六触処（六つの接触の基盤）があるとも説かれている。問う、この二つの六処にはどのような違いがあるのか。 ある論者は言う、「この二つに違いはない。なぜなら、六内処はすなわち六触処であり、六触処はすなわち六内処である。言葉は異なるが、その意味に違いはないからだ」と。 また別の論者は言う、「違いもある。すなわち、名称が異なるのである。『内六処』と呼ばれ、『六触処』と呼ばれるからだ」と。 さらに、「同じ対象を持つもの（同分）を六触処と名づけ、異なる対象を持つもの（彼同分）を六内処と名づける」と。 さらに、「生ずる可能性のあるものを六触処と名づけ、生ずる可能性のないものを六内処と名づける」と。 さらに、「作用のあるものを六触処と名づけ、作用のないものを六内処と名づける。このように説くならば、現在のものを六触処と名づけ、過去・未来のものを六内処と名づけることになる」と。 さらに、「すでに生じたものを六触処と名づけ、まだ生じていないものを六内処と名づける。このように説くならば、過去・現在を六触処と名づけ、未来を六内処と名づけることになる」と。 さらに、「心と心所（心の働き）が正しく依り住するものを六触処と名づけ、心と心所が正しく依り住せず、ただ空しく転ずるのみのものを六内処と名づける」と。 さらに、「眼などの六処が触の所依（よりどころ）となる意味で六触処と名づけ、他の心・心所の所依となる意味で六内処と名づける」と。 脇尊者は言う、「眼などの六処の自性（本質）を内六処と名づけ、何らかの働きがあるときを六触処と名づける。たとえば、比丘の鉢のようなものである。自性を説くならば単に『鉢』と名づけ、比丘が用いるときに『比丘鉢』と名づける」と。 尊者望満はこのように言う、「眼などの六処の自体を内六処と名づけ、触の所依となるときを六触処と名づける。たとえば、鉄の酥鉢のようなものである。自体を説くならば単に『鉄鉢』と名づけ、酥（酥油）を盛るときに『鉄酥鉢』と名づける」と。 問う、眼などの六処は、受（感受）などの所依でもあるのに、なぜ触処とだけ名づけ、受処などと名づけないのか。 答える、「受処などとも説くべきであるが、そのように説かないのは、この意味には余裕（省略）があると知るべきである」と。 さらに、「経典は優れたものを挙げて、劣ったものをも兼ねて示すのである。すなわち、すべての心・心所のうちで、触が最も優れている。触処と説くならば、受処などをも兼ねて示していると知るべきである」と。 さらに、「心・心所は触を命とし、触によって保たれ、触によって引き起こされる。触の力によって現前することができるので、触処と名づけるのである。すなわち、心・心所は境に対して流れ散乱するが、触によって摂持されて和合を得る。また、もし触がなければ、諸々の心・心所は死体のようであり、自らの所縁の境に触対することができないであろう。すべて触の力によって、境に触れる作用があるのである。命根があるから身体が触を覚えることができるように、眼などはただ触処と名づけられるのである」と。 経典に説くところによれば、「六内処を此岸と名づけ、六外処を彼岸と名づける」と。問う、六内処・六外処と、この岸・彼の岸との間には、どのような類似性があってこのように説くのか。 答える、「心・心所に対して、所依と所縁となることに、近いものと遠いものとがある。これが此岸・彼岸に似ているので、このように説くのである。たとえば、河の両岸のように、近いものを此岸と名づけ、遠いものを彼岸と名づける。このように、六処が心・心所に対して所依となるものは近いので此岸のようであり、所縁となるものは遠いので彼岸のようである」と。 さらに、「これは心・心所が最初に入り、すでに渡ったところを此岸・彼岸とするので、このように説くのである。たとえば、諸々の有情が最初に河に入るところを此岸と名づけ、すでに河を渡ったところを彼岸と名づけるように、心・心所に対して所依となるものは、最初に入るようなものであるから此岸と名づけ、所縁となるものは、すでに渡ったようなものであるから彼岸と名づける。ゆえに、内処・外処を此岸・彼岸と名づけるのである」と。 さらに、「経典に説くところによれば、寂滅涅槃を彼岸と名づける。涅槃はただ外処に摂せられるものであり、彼岸と名づけられるので、内六処が此岸の名を得るのである。経典に説くところによれば、『薩迦耶（身見・自我への執着）は此岸であり、薩迦耶の滅は彼岸である』と。薩迦耶とはすなわち生死である。生死の中では六内処が最も勝れているので、六内処が此岸の名を得る。六内処が此岸と名づけられるので、六外処が彼岸の名を得るのである」と。 問う、この中で何が河のようなものであり、六内処・六外処が此岸・彼岸のように説かれるのか。 答える、「心・心所が河のようなものであり、内処・外処が此岸・彼岸のようなものである。たとえば、暴れる河が此岸・彼岸を漂わせ、有情・非情の物がともに大海に向かうように、心・心所もまたそのようであり、内処・外処に摂せられる有情を漂わせて、ともに生・老・病・死の大海に向かわせるのである」と。 問う、この河の中で何が船や筏のようなものか。 答える、「八支聖道が船や筏のようなものである。百千の衆生がこれに依り住して、河の此岸から彼岸に渡り、心のままに遊び楽しむ。このように、無量無辺の有情が聖道に依り住して、生死の此岸から涅槃の彼岸に至り、自在に遊び楽しむのである。ゆえに、八聖道は船や筏のようなものである」と。

如契經說。有八勝處有十遍處。問彼八與十既亦名處。何故但有十二處耶。答彼八與十皆攝在此十二處中。謂彼自性俱有相應即此意處法處攝故。

> 仏典に説くところによれば、八つの勝處と十つの遍處がある。問う、それら八つと十つもまた「處」と名づけられるのに、なぜ十二處のみが説かれるのか。答う、それら八つと十つはすべてこの十二處に含まれる。すなわち、それらの自性・俱有・相応は、この意處と法處に収められるからである。

如契經說。有四無色處。謂空無邊處識無邊處無所有處非想非非想處。問何故世尊於四無色以處聲說。答為破外道解脫執故。謂諸外道執四無色為四涅槃。一執空無邊處名無身涅槃。二執識無邊處名無邊意涅槃。三執無所有處名淨聚涅槃。四執非想非非想處名世間窣堵波涅槃。為破如是外道涅槃執故。說四無色名為生處非真解脫。真解脫者乃名涅槃。

> 経典にこう説かれている。「四つの無色処がある。すなわち、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処である。」問う、なぜ世尊は四つの無色について「処」という言葉で説かれたのか。答える、外道の解脱についての執着を破るためである。すなわち、諸々の外道は四つの無色を四つの涅槃であると執着する。第一に、空無辺処を「無身涅槃」と執着する。第二に、識無辺処を「無辺意涅槃」と執着する。第三に、無所有処を「浄聚涅槃」と執着する。第四に、非想非非想処を「世間窣堵波涅槃」と執着する。このような外道の涅槃に対する執着を破るために、四つの無色は「生処」であり、真の解脱ではないと説かれたのである。真の解脱こそが、涅槃と名づけられるのである。

如契經說。復有二處。一無想有情處。二非想非非想處。問何故世尊說此二處。答為破外道解脫想故。謂諸外道於此二處起解脫想。為破彼想佛說此二名為生處非真解脫。復次為破外道不還想故。謂諸外道於此二處起不還想。為破彼想佛說此二名退還處。謂彼處沒退還諸界諸趣諸生。流轉生死無息期故。復次為破外道不散想故。謂諸外道執此二處是真解脫不復散壞。為破彼執佛說此二是散壞處。謂從彼歿散向諸界諸趣諸生。流轉生死無息期故。若從無想有情天歿決定散墮欲界受生。若從非想非非想歿。非聖散墮下地受生。復次觀此二處壽量長遠。諸外道等執為解脫。唯諸異生所受生處壽量長遠。無有過於無想天者。謂彼壽量五百大劫。一切有情所受生處。壽量長遠無過非想非非想處。謂彼壽量八萬大劫。為遣外道此解脫執佛說此二名為生處非真解脫。復次佛於餘處以二名說。一名有情居。二名為識住。於此二處亦二名說。一名有情居。二名為處。故於此二以處聲說。謂受生處。復次佛說諸識住定是有情居。有有情居而非識住。謂此二處顯非無此故說處名。即是有情所居處義。

> 例えば経典に説かれる通り、また二つの所がある。一つは無想有情の所、二つは非想非非想の所である。問う、なぜ世尊はこの二つの所を説かれたのか。答える、外道の解脱という思いを破るためである。すなわち諸々の外道はこの二つの所において解脱の思いを起こす。その思いを破るために、仏はこの二つを「生まれる所」と名づけて、真の解脱ではないと説かれたのである。また、外道の「還らない」という思いを破るためである。すなわち諸々の外道はこの二つの所において「還らない」という思いを起こす。その思いを破るために、仏はこの二つを「退き還る所」と名づけて説かれた。すなわち、その所から没したならば、諸々の界・諸々の趣・諸々の生に退き還り、生死の中を流転して、止まる時がないからである。また、外道の「散らない」という思いを破るためである。すなわち諸々の外道は、この二つの所こそ真の解脱であり、再び散り壊れることはないと執着する。その執着を破るために、仏はこの二つを「散り壊れる所」と説かれた。すなわち、そこから没したならば、諸々の界・諸々の趣・諸々の生に向かって散り、生死の中を流転して、止まる時がないからである。もし無想有情の天から没したならば、必ず欲界に散り堕ちて受生する。もし非想非非想から没したならば、聖者でなければ下の地に散り堕ちて受生する。また、この二つの所の寿命が長遠であることを観じて、諸々の外道などはこれを解脱と執着するのである。凡夫が受生する所の中で、寿命が長遠であって、無想天を超えるものはない。すなわちその寿命は五百大劫である。一切の有情が受生する所の中で、寿命が長遠であって、非想非非想処を超えるものはない。すなわちその寿命は八万大劫である。外道のこの解脱の執着を除くために、仏はこの二つを「生まれる所」と名づけて、真の解脱ではないと説かれたのである。また、仏は他の所では二つの名で説かれる。一つは「有情の住む所」と名づけ、二つは「識の住む所」と名づける。この二つの所においても、また二つの名で説かれる。一つは「有情の住む所」と名づけ、二つは「所」と名づける。それゆえ、この二つにおいて「所」という声で説かれるのである。すなわち「受生する所」という意味である。また、仏は諸々の識の住む所は必ず有情の住む所であると説かれる。しかし、有情の住む所であって識の住む所ではないものもある。すなわちこの二つの所は、それが無いわけではないことを示すために「所」という名を説かれるのである。すなわち、有情の住む所という意味である。

如契經說。尊者舍利子往詣佛所作如是言。大德世尊。施設諸處為無有上。謂十二處。攝一切法。此是世尊無餘知見過此更無所知見法。若有沙門婆羅門等。覺所知法過世尊者無餘是處。問尊者舍利子如何能知此十二處攝一切法。而讚佛言施設諸處為無有上。答由教故知。謂舍利子得四證淨於佛所說決定信受。曾聞世尊說十二處攝一切法。由此故知。問尊者舍利子於十二處唯有教智無證智耶。答亦有證智。謂舍利子於十二處亦能一一無倒證知。問佛舍利子於十二處。俱能一一無倒證知。佛舍利子有何差別。答佛能於此十二處法。一一證知自相共相。尊者舍利子於此十二處法。唯能一一證知共相。於彼自相未能一一如實證知。謂有無量諸處差別。皆攝入此十二處中。而舍利子須他顯示乃能知故。復次尊者舍利子於十二處一一證知由他教引。佛於十二處一一證知皆能自覺不由他教。

> 経典にこう説かれています。尊者舎利子が仏のもとへ赴き、こう申し上げました。「大徳よ、世尊よ。諸処を施設して、これより上はないと説かれました。すなわち十二処は、すべての法を摂するものです。これは世尊の余すことのない知見であり、これより先に知るべき法はありません。もし沙門や婆羅門などが、世尊の余すことのない知見を超えて知る法があると覚知するならば、その者は尊者舎利子に問われるでしょう。『どうしてあなたは、この十二処がすべての法を摂すると知り、仏を讃えて“諸処を施設して、これより上はない”と言うのですか』と。 答えていうには、「教えによって知るのです。すなわち舎利子は四つの清らかな信を得て、仏の説かれたことを決定的に信受しました。かつて世尊が『十二処はすべての法を摂する』と説かれるのを聞いたのです。それによって知るのです」と。 問うていう、「尊者舎利子は十二処について、ただ教えによる智のみあって、証得による智はないのですか」。 答えていう、「証得による智もあります。すなわち舎利子は十二処の一つ一つを、誤りなく証知することができます」と。 問うていう、「仏も舎利子も、十二処の一つ一つを誤りなく証知できます。では、仏と舎利子にはどのような違いがあるのですか」。 答えていう、「仏はこの十二処の法について、一つ一つの自相と共相を証知されます。尊者舎利子はこの十二処の法について、ただ共相のみを証知し、自相については一つ一つを如実に証知することはできません。すなわち、無量の処の違いがありますが、すべてこの十二処の中に摂入されます。しかし舎利子は、他者が示して初めて知ることができるのです」と。 さらに、尊者舎利子は十二処の一つ一つを、他者の教え導きによって証知します。仏は十二処の一つ一つを、すべて自ら覚り、他者の教えによることはありません。

復次佛於十二處。具一切智一切種智。尊者舍利子於十二處唯有一切智。無一切種智。復次佛於十二處不依六識而能證知唯有爾所。尊者舍利子於十二處。要依六識方能證知唯有爾所。謂舍利子作是念言。一切識身唯有六種識身定有所依所緣。此所依緣定有十二。故十二處不增不減。

> さらに、仏は十二処について、一切智と一切種智の両方を完全に備えておられます。尊者舎利子は十二処について、一切智のみを有し、一切種智を有しません。 さらに、仏は十二処について、六識に依らずして、その数がこれだけであると証知されます。尊者舎利子は十二処について、六識に依って初めて、その数がこれだけであると証知できます。すなわち、舎利子はこのように考えます。「すべての識身は、ただ六種類の識身のみであり、必ず依るところと縁るところがある。この依るところと縁るところは、必ず十二ある。ゆえに十二処は増えも減りもしない」と。

復次尊者舍利子雖於十二處一一證知。而要先思惟佛所說法。謂佛先說十二處名。後隨此名一一分別。世尊分別十一處已。時舍利子作是念言。前十一處所不攝法必應攝在最後法處。故作是說大德世尊。施設諸處為無有上。謂十二處攝一切法。世尊證知十二處相。不由思惟他所說教故。舍利子雖能證知十二處相。而與佛智極有差別。是故號佛為無上尊。

> 尊者の舎利子は、十二処のそれぞれを一つ一つ悟り知ってはいるものの、まず仏が説かれた教えを思惟しなければならない。すなわち、仏はまず十二処の名前を説かれ、その後、その名前に従って一つ一つを分別されたのである。 世尊が十一処を分別し終えられたとき、舎利子はこのように考えた。「前の十一処に含まれない法は、必ず最後の法処に含まれるはずである」と。それゆえ、このように述べたのである。「大徳よ、世尊は諸処を施設して、これより上のものはないとされた。すなわち、十二処はすべての法を摂するのである」。 世尊は十二処の相を悟り知られても、他者の教えを思惟することはない。舎利子は十二処の相を証知することができても、仏の智慧とは非常に大きな違いがある。それゆえ、仏を無上の尊と称するのである。

五蘊者謂色蘊受蘊想蘊行蘊識蘊。問何故作此論。答為廣分別契經義故。謂契經中說。有五蘊色乃至識。雖作是說而不廣釋。經是此論所依根本。彼不說者今欲說之故作斯論。

> 五蘊とは、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊を指します。 問：なぜこの論を造るのか。 答：経典の意味を広く詳しく解き明かすためである。経典には「五蘊がある。すなわち色から識に至るまでである」と説かれているが、詳しくは説明されていない。経典はこの論の拠り所となる根本であり、そこで説かれていないことを、今ここで明らかにしようとして、この論を造るのである。

問色蘊云何。答如契經說。諸所有色皆是四大種及四大種所造。餘經復說。云何色蘊。諸所有色若過去若未來若現在。若內若外若麁若細。若劣若勝若遠若近。如是一切略為一聚說名色蘊。乃至識蘊廣說亦爾。阿毘達磨作是說言。云何色蘊。謂十色處及法處所攝色是名色蘊。問此三處說義有何異。答各為遮止他宗所說。問如契經說。諸所有色。皆是四大種及四大種所造。此為遮止何宗所說。答此為遮止覺天等說。謂佛觀察未來世中。有覺天等當作是說。四大種外無別所造。為遮彼意故作是說。諸所有色皆是四大種及四大種所造。顯離大種有所造色。問餘經復說。諸所有色若過去若未來若現在。乃至廣說。此為遮止何宗所說。答此為遮止外道所說。謂佛在世有出家外道名為杖髻。撥無過去未來。為遮彼意故世尊說諸所有色若過去若未來若現在。乃至廣說。顯有過去未來色等。問阿毘達磨作如是言。云何色蘊謂十色處及法處所攝色。此為遮止何宗所說。答此為遮止譬喻者說。謂譬喻者撥無法處所攝諸色故。此尊者法救亦言。諸所有色皆五識身所依所緣。如何是色非五識身所依所緣。為遮彼意故作是說。云何色蘊。謂十色處及法處所攝色。問若法處所攝諸色是實有者。尊者法救所說當云何通。答不必須通非三藏故。若必須通當正彼說。諸所有色皆五識所依。及六識所緣法處所攝色。雖非五識所依所緣。而是意識所緣色攝。復次法處所攝色依四大種而得生。故從所依說在身識所緣中。故彼尊者說亦無失。

> 問う、色蘊とは何か。答えには、経典に説かれる通り、すべての色は四大種および四大種によって造られたものである。他の経典ではさらに、色蘊とは何かと説き、過去の色も未来の色も現在の色も、内も外も、粗いものも細かいものも、劣ったものも優れたものも、遠いものも近いものも、すべてを一つにまとめて色蘊と名づける。識蘊に至るまで同様に広く説かれる。阿毘達磨ではこう説く。色蘊とは何か。十色処および法処に含まれる色を色蘊と名づける。問う、この三つの説の意味に違いはあるのか。答えには、それぞれ他宗の説を遮るためである。問う、経典に説かれるように、すべての色は四大種および四大種によって造られたものであるというのは、どの宗の説を遮るのか。答えには、これは覚天らの説を遮るためである。仏は未来世において、覚天らが四大種の外に別に造られたものはないと説くであろうと観察された。その考えを遮るために、すべての色は四大種および四大種によって造られたものであると説き、大種を離れて造られた色が存在することを示されたのである。問う、他の経典で説かれるように、すべての色は過去も未来も現在も、と広く説かれるのは、どの宗の説を遮るのか。答えには、これは外道の説を遮るためである。仏が在世のとき、杖髻という出家の外道がいて、過去と未来を否定した。その考えを遮るために、世尊はすべての色は過去も未来も現在も、と広く説かれ、過去や未来の色などが存在することを示されたのである。問う、阿毘達磨がこう言うのは、色蘊とは何か、十色処および法処に含まれる色であるというのは、どの宗の説を遮るのか。答えには、これは譬喩者の説を遮るためである。譬喩者は法処に含まれる諸々の色を否定するからである。また、尊者法救もこう言う。すべての色は五識身の所依・所縁である。どうして法処に含まれる色が五識身の所依・所縁でないことがあろうか。その考えを遮るために、色蘊とは何か、十色処および法処に含まれる色であると説くのである。問う、もし法処に含まれる諸々の色が実在するならば、尊者法救の説はどう解釈すべきか。答えには、必ずしも通釈する必要はない。三蔵に属さないからである。もし通釈しなければならないなら、その説を正すべきである。すべての色は五識の所依であり、六識の所縁である。法処に含まれる色は、五識の所依・所縁ではないが、意識の所縁である色に含まれる。さらに、法処に含まれる色は四大種に依って生じるので、所依に従って身識の所縁の中に説かれる。それゆえ、尊者法救の説も誤りではないのである。

問受蘊云何。答六受身。謂眼觸所生受。乃至意觸所生受。契經及阿毘達磨皆作是說。問想蘊云何。答六想身謂眼觸所生想。乃至意觸所生想。契經及阿毘達磨皆作是說。問行蘊云何。答契經說此是六思身。謂眼觸所生思。乃至意觸所生思。阿毘達磨說此行蘊。略有二種。謂相應行不相應行。乃至廣說。問世尊何故於相應不相應行蘊中。偏說思為行蘊非餘行耶。答思於施設行蘊法中最為上首。思能導引攝養諸行故佛偏說。如愛施設集諦法中最為上首。愛能導引攝養諸集故佛偏說。復次造作有為故名為行。思是造性餘法不爾。故佛偏說思為行蘊。

> 問う、受蘊とは何か。答う、六種の受身である。すなわち、眼の接触から生じる受から、意の接触から生じる受までである。経典やアビダルマもこのように説いている。 問う、想蘊とは何か。答う、六種の想身である。すなわち、眼の接触から生じる想から、意の接触から生じる想までである。経典やアビダルマもこのように説いている。 問う、行蘊とは何か。答う、経典には、これは六種の思身であると説かれている。すなわち、眼の接触から生じる思から、意の接触から生じる思までである。アビダルマでは、この行蘊には大きく分けて二種類があると説く。すなわち、対応する行と対応しない行である。このように詳しく説かれている。 問う、世尊はなぜ、対応する行と対応しない行の蘊の中で、特に思を行蘊と説いて、他の行を説かなかったのか。答う、思は、行蘊という法を施設する上で最も優れているからである。思は諸々の行を導き、引き寄せ、養うことができるので、仏は特にこれを説いたのである。例えば、愛は集諦という法を施設する上で最も優れている。愛は諸々の集を導き、引き寄せ、養うことができるので、仏は特にこれを説いたのである。また、有為を造り作ることから、これを「行」と名付ける。思は造り作る性質を持ち、他の法はそうではない。だから仏は特に思を行蘊と説いたのである。

問識蘊云何。答六識身。謂眼識乃至意識。契經及阿毘達磨皆作是說。如是名為諸蘊自性我物自體相分本性。

> 問う、識蘊とは何か。答えていわく、六識の身なり。すなわち眼識より乃至意識にいたるまでをいう。経典および阿毘達磨（論蔵）もみなこのように説く。これを諸蘊の自性、我物、自体、相分、本性と名づける。

已說自性。所以今當說。問何故名蘊蘊是何義。答聚義是蘊義。合義是蘊義。積義是蘊義。略義是蘊義。若世施設即蘊施設。若多增語即蘊增語。聚義是蘊義者。謂諸所有色。若過去若未來若現在。廣說乃至若遠若近。如是一切總為一聚立為色蘊。乃至識蘊聚義亦爾。合義是蘊義者。謂諸所有色。若過去若未來若現在。廣說乃至若遠若近。如是一切總為一合立為色蘊。乃至識蘊合義亦爾。積義是蘊義者。如種種物總為一積名雜物蘊。如是諸色總為一積立為色蘊。乃至識蘊積義亦爾。略義是蘊義者。謂諸所有色。若過去若未來若現在。廣說乃至若遠若近。如是一切總略一處立為色蘊。乃至識蘊略義亦爾。問過去未來現在諸色可略聚耶。答雖不可略聚其體。而可得略聚其名。乃至識蘊應知亦爾。問若爾無為亦應立蘊。諸無為名可略聚故。答諸有為法有作用故有略聚義。雖體有時不可略聚者。而略聚其名立色等蘊。諸無為法無作用故無略聚義。雖可略聚其名。而不可立為蘊。若世施設即蘊施設者。謂色蘊可施設有三世。乃至識蘊亦可施設有三世故。若多增語即蘊增語者。如多財名財蘊。多穀名穀蘊。多軍名軍蘊。雖多人眾不相疊肩。而同一事故名為軍。如是俱胝那庾多等諸極微色。雖相去遠以相同故合立色蘊。乃至識蘊無量剎那雖相去遠。而相同故合立識蘊。問若多增語是蘊增語者。為有一極微名色蘊不。有作是說。非一極微可立色蘊。若立色蘊要多極微。復有說者。一一極微有蘊相故。亦可各別立為色蘊。若一極微無色蘊相。眾多聚集亦應非蘊阿毘達磨諸論師言。若觀假蘊應作是說。一極微是一界一處一蘊少分。若不觀假蘊應作是說。一極微是一界一處一蘊。如人於穀聚上取一粒穀。他人問言汝何所取。彼人若觀穀聚應作是答。我於穀聚取一粒穀。若不觀穀聚應作是答。我今聚穀。乃至識蘊一一剎那問答亦爾。

> すでに法の自性（あり方）について述べました。それでは次に、なぜ「蘊（うん）」と呼ぶのか、その意味について説明しましょう。 問い：なぜ「蘊」という名前なのでしょうか。「蘊」の意味は何ですか。 答え：「集まる」という意味が「蘊」の意味です。「合わさる」という意味が「蘊」の意味です。「積み重なる」という意味が「蘊」の意味です。「まとめる」という意味が「蘊」の意味です。世間で用いられる施設（概念的な名称）がそのまま蘊の施設であり、多くの言葉で言い表されるものがそのまま蘊の言葉です。 「集まる」という意味が蘊の意味であるとは、次のようなことです。存在するすべての色（物質的なもの）について、過去のものも未来のものも現在のものも、遠いものも近いものも、すべてを一つに集めて「色蘊」とします。識蘊（心の認識作用）についても、集まるという意味は同じです。 「合わさる」という意味が蘊の意味であるとは、すべての色を、過去・未来・現在、遠い・近いものまで、すべて一つに合わせて「色蘊」とします。識蘊についても、合わさるという意味は同じです。 「積み重なる」という意味が蘊の意味であるとは、例えば様々な物を一つに積み重ねて「雑物の積み重ね」と呼ぶように、すべての色を一つに積み重ねて「色蘊」とします。識蘊についても、積み重なるという意味は同じです。 「まとめる」という意味が蘊の意味であるとは、すべての色を、過去・未来・現在、遠い・近いものまで、すべて一箇所にまとめて「色蘊」とします。識蘊についても、まとめるという意味は同じです。 問い：過去・未来・現在の色は、実際にまとめることができるのでしょうか。 答え：その本体（実体）をまとめることはできませんが、その名前をまとめることはできます。識蘊についても同じだと知るべきです。 問い：それならば、無為法（つくられたものではない永遠の真理）も蘊とすべきではないでしょうか。無為法の名前もまとめることができるからです。 答え：有為法（因縁によってつくられたもの）には働きがあるので、「まとめる」という意味があります。その本体が時にまとめられないことがあっても、その名前をまとめて色蘊などと立てるのです。無為法には働きがないので、「まとめる」という意味がありません。その名前をまとめることはできても、蘊と立てることはできないのです。 「世間で用いられる施設がそのまま蘊の施設である」とは、色蘊は過去・現在・未来の三世に施設できるし、識蘊も三世に施設できるということです。 「多くの言葉で言い表されるものがそのまま蘊の言葉である」とは、例えば多くの財産を「財の集まり」と呼び、多くの穀物を「穀物の集まり」と呼び、多くの軍勢を「軍」と呼ぶようなものです。多くの人々が肩を並べていなくても、同じ目的のために集まっているので「軍」と呼ばれます。同じように、数えきれないほどの極微（これ以上分割できない最小の物質）の色も、互いに遠く離れていても、その性質が同じであるので、まとめて色蘊とします。識蘊についても、無数の瞬間（刹那）が互いに遠く離れていても、その性質が同じであるので、まとめて識蘊とします。 問い：「多くの言葉で言い表されるものがそのまま蘊の言葉である」と言うなら、一つの極微を色蘊と呼ぶことはできるのでしょうか。 ある説では、一つの極微では色蘊とはできません。色蘊と立てるには多くの極微が必要です。 また別の説では、一つ一つの極微にも蘊の性質があるので、それぞれ別々に色蘊と立てることができます。もし一つの極微に色蘊の性質がなければ、多く集まっても蘊とはならないはずです。 阿毘達磨（アビダルマ）の論師たちはこう言います。「仮の蘊（概念的なまとまり）として観るならば、こう言うべきです。一つの極微は、一つの界（元素）、一つの処（認識の場）、一つの蘊の一部である、と。仮の蘊として観ないならば、こう言うべきです。一つの極微は、一つの界、一つの処、一つの蘊である、と。」 例えば、人が穀物の山から一粒の穀物を取ったとします。他の人が「何を取ったのか」と尋ねたとき、その人が穀物の山を観て（意識して）いれば、「穀物の山から一粒の穀物を取りました」と答えるでしょう。穀物の山を観ていなければ、「穀物を集めています」と答えるでしょう。識蘊についても、一つ一つの瞬間（刹那）についての問いと答えは、これと同じです。

如是已釋諸蘊總名。今應分別諸蘊次第。問何故世尊先說色蘊。乃至最後說識蘊耶。答隨順文辭詮表相故。

> このようにして、諸々の蘊（かたまり）の総称について説明しました。次に、諸々の蘊の順序について述べるべきでしょう。問いかけます——なぜ世尊（仏陀）は最初に色蘊（物質的な要素）を説き、最後に識蘊（認識する心の要素）を説かれたのでしょうか。答え——それは、言葉の表現や説明の流れに自然に従ったからです。

復次隨順說者受者持者次第法故。復次隨順麁細次第法故。謂五蘊內色蘊最麁故佛先說。於四蘊內受蘊最麁故。次色說。問受等四蘊無有方處無形質故。如何可說有麁有細耶。答雖無方處亦無形質。而依行相立麁細名。如世有言。我手足痛。我頭腹痛。我支節痛。痛即是受。以受如色可施設故。於無色蘊說受最麁。於三蘊內想最為麁。女男等想易了知故次受後說。於二蘊內行蘊相麁。貪瞋癡等相易了故次想後說。識蘊最細總取境相難了知故最在後說。

> また、説く者・聞く者・受持する者の順序に従う法がある。また、粗いものから細かいものへの順序に従う法がある。すなわち、五蘊のうち色蘊が最も粗いので、仏は最初に説かれた。四蘊のうちでは受蘊が最も粗いので、色の次に説かれた。問う：受などの四蘊には方処がなく、形質もない。どうして粗い・細かいと言えるのか。答える：方処も形質もないけれども、行相に基づいて粗い・細かいという名を立てるのである。世間に「私の手足が痛い」「私の頭や腹が痛い」「私の関節が痛い」と言うように、痛みとはすなわち受である。受は色のように施設できるので、無色蘊の中では受が最も粗いと説く。三蘊のうちでは想が最も粗い。男女などの想は了知しやすいので、受の次に説かれる。二蘊のうちでは行蘊の相が粗い。貪・瞋・癡などの相は了知しやすいので、想の次に説かれる。識蘊は最も細かく、総じて境の相を取り、了知しにくいので、最後に説かれる。

復次從無始來男女於色更相愛樂故先說色。更相愛色由貪受味故次說受。此貪受味由顛倒想故次說想。此顛倒想由煩惱生故次說行。一切煩惱依識而生染污諸識故後說識。復次二種色觀於入佛法為甘露門。謂不淨觀及持息念。故先說色。既觀色已能見受過故次說受見受過已想不顛倒故次說想。想無倒已煩惱不生故次說行。無煩惱故識便清淨故後說識。復次色蘊如器。為無色蘊所依所緣。是故先說。受如飲食是正所貪故次說受。想如助味由顛倒想貪著諸受故次說想。行如廚人諸煩惱業能有造作故次說行。識如食者能了別境故後說識。復次依界地故說五先後。謂欲界中有諸妙欲色相顯了故先說色。諸靜慮中有喜樂等受相顯了故次說受。前三無色取空等相想顯了故次說想。有頂地中思最為勝行相顯了故次說行。色等四種即四識住。識是能依故最後說問五蘊有為皆應名行。何緣於一獨立行名。答如十八界雖皆是法。而但於一立法界名。廣說乃至三寶三歸雖皆是法而但立一法寶法歸。如是五蘊雖皆是行。而但於一立行蘊名亦無有過。復次行蘊有一名。餘蘊有二名。一名者。謂共名。謂五種蘊皆是行故。二名者謂共不共名。共名如前。不共名者。謂餘四蘊欲令易了顯不共名。行蘊更無不共名故。但顯共名故名行蘊。復次生一切行生相唯在此蘊攝故獨名行蘊。復次四有為相是一切行印封幖幟。簡別有為異無為故。彼相唯在此蘊攝故獨名行蘊。復次名句文身詮表顯示諸行性相作用差別令易解了。彼三唯在此蘊攝故獨名行蘊。復次覺一切行皆空非我空解脫門。此蘊攝故獨名行蘊。問能執諸行為我我所。薩迦耶見亦此蘊攝。如何此蘊不名我蘊。答薩迦耶見是虛妄執。不稱諸行實相而解。是故此蘊不立我名。空解脫門覺行實相。是故此蘊依彼名行。復次分別諸行自相共相。安立諸行自相共相。破自性愚及所緣愚。於一切行不增不減。如實解慧唯此蘊攝故名行蘊。餘蘊不爾故別立名。復次此攝多行故名行蘊攝。多行者謂此蘊中有相應不相應行。有所依無所依。有所緣無所緣行。有行相無行相行。有警覺無警覺行。餘蘊不爾故立別名。復次行謂造作。有為法中能造作者思最為勝。思但攝在此行蘊中。故此行蘊獨名為行。

> また、無始の昔から男女は互いに愛し合い楽しむことから、まず「色」について説かれました。互いに愛し合う色は、貪りの心で味わいを求めるから、次に「受」が説かれます。この貪りの味わい求めは、顛倒した想いから生じるので、次に「想」が説かれます。この顚倒した想いは、煩悩から生じるので、次に「行」が説かれます。すべての煩悩は識に依って生じ、諸々の識を染め汚すので、最後に「識」が説かれます。 また、二種類の色の観察は、仏法に入るための甘露の門となります。すなわち、不浄観と持息念です。だからまず「色」が説かれます。色を観察したならば、受の過ちを見ることができるので、次に「受」が説かれます。受の過ちを見たならば、想は顚倒しないので、次に「想」が説かれます。想が顚倒しなければ、煩悩は生じないので、次に「行」が説かれます。煩悩がなければ、識は清らかになるので、最後に「識」が説かれます。 また、色蘊は器のようなもので、無色蘊の依り所となり、所縁となります。だから最初に説かれます。受は飲食のようなもので、まさに貪り求める対象だから、次に受が説かれます。想は味付けのようなもので、顚倒した想いによって諸々の受に執着するから、次に想が説かれます。行は料理人のようなもので、諸々の煩悩や業が造作を行うから、次に行が説かれます。識は食べる者のようなもので、境を了別するから、最後に識が説かれます。 また、界や地に基づいて五つの先後の順序が説かれます。すなわち、欲界には諸々の妙なる欲があり、色の相が顕著に現れるので、まず「色」が説かれます。諸々の静慮には喜びや楽などの受の相が顕著に現れるので、次に「受」が説かれます。前三無色界には空などの相を取る想の相が顕著に現れるので、次に「想」が説かれます。有頂地には思が最も勝れ、行の相が顕著に現れるので、次に「行」が説かれます。色などの四種はすなわち四識住です。識は依るものであるから、最後に説かれます。 問う：五蘊はすべて有為であり、すべて「行」と呼ぶべきである。なぜ一つの蘊だけを特に「行」と名付けるのか。 答える：十八界がすべて法であるのに、ただ一つのものだけを法界と名付けるのと同じである。詳しく言えば、三宝や三帰もすべて法であるのに、ただ一つだけを法宝・法帰と立てる。このように五蘊がすべて行であるのに、ただ一つだけを行蘊と名付けても、過ちはない。 また、行蘊には一つの名前があり、他の蘊には二つの名前がある。一つの名前とは、共通の名前である。すなわち、五つの蘊はすべて行であるからである。二つの名前とは、共通の名前と不共通の名前である。共通の名前は前述の通りである。不共通の名前とは、他の四蘊について、理解しやすいように不共通の名前を示すことである。行蘊にはさらに不共通の名前がないので、ただ共通の名前を示すだけであるから、行蘊と名付けるのである。 また、すべての行を生じさせる生の相は、ただこの蘊にのみ含まれるから、特に行蘊と名付けるのである。 また、四つの有為の相は、すべての行の印であり、標であり、旗である。有為を簡別して無為と異なることを示す。その相はただこの蘊にのみ含まれるから、特に行蘊と名付けるのである。 また、名・句・文の身は、諸々の行の性・相・作用・差別を表し示し、理解しやすくする。それらはただこの蘊にのみ含まれるから、特に行蘊と名付けるのである。 また、すべての行が空であり、我ではないと覚る空解脱門は、この蘊に含まれるから、特に行蘊と名付けるのである。 問う：諸々の行を我・我所として執着する薩迦耶見も、この蘊に含まれる。それならば、この蘊を我蘊と名付けないのはなぜか。 答える：薩迦耶見は虚妄な執着であり、諸々の行の実相にかなって理解するものではない。だからこの蘊を我と名付けないのである。空解脱門は行の実相を覚るものである。だからこの蘊はそれに基づいて行と名付けるのである。 また、諸々の行の自相と共相を分別し、諸々の行の自相と共相を安立し、自性の愚かさと所縁の愚かさを破し、すべての行について増えも減りもせず、如実に理解する慧は、ただこの蘊にのみ含まれるから、行蘊と名付けるのである。他の蘊はそうではないので、別に名前を立てるのである。 また、この蘊は多くの行を含むから、行蘊と名付けるのである。多くの行とは、この蘊の中に、対応する行もあれば対応しない行もあり、依り所のある行もあれば依り所のない行もあり、所縁のある行もあれば所縁のない行もあり、行相のある行もあれば行相のない行もあり、警覚のある行もあれば警覚のない行もある。他の蘊はそうではないので、別の名前を立てるのである。 また、行とは造作のことである。有為法の中で造作を行うものとして、思が最も勝れている。思はただこの行蘊にのみ含まれる。だからこの行蘊だけを特に「行」と名付けるのである。

問大地法等諸心所中。何故別立受想為蘊。餘心所法不別立耶。脇尊者言。唯佛通達諸法性相作用差別。若法堪任獨立蘊者便獨立蘊。若不堪任獨立蘊者便共立蘊故不應責。

> 問う、大地法などの諸々の心所（心の働き）の中において、なぜ特に「受」（感受）と「想」（表象）だけを別に立てて「蘊」（集まり）とするのか。他の心所法は別に立てないのはなぜか。 脇尊者は言う。「ただ仏のみが、諸法の本性・相・作用の違いを完全に理解しておられる。もしある法が独立して蘊となるにふさわしいならば、それを独立して蘊とする。もし独立して蘊となるにふさわしくないならば、それを共にまとめて蘊とするのである。ゆえに、このことを問い詰めるべきではない。」

復次。世尊欲以異相異文莊嚴於義。故作是說。謂佛若以異相異文莊嚴於義則受化者欣樂受持不生厭倦。復次世尊欲現二門二略二階二隥二炬二明二光二影故作是說。謂如受想各別立蘊。餘心所法亦應別立。如餘心所合立行蘊。受想亦應合立為蘊。如是則應蘊有無量。或但有三以現二門乃至二影故。蘊有五不減不增。復次世尊欲顯二門法要。是故別立受想為蘊。謂諸心所有是根性有非根性。若說受別立蘊當知已說是根心所。若說想別立蘊當知已說非根心所。如根性非根性。明性非明性。現見性非現見性。喜觀性非憙觀性。妙性非妙性。勝性非勝性。有勢力性無勢力性。增上性非增上性應知亦爾。復次受想二法二界所顯故別立蘊。謂受蘊色界所顯。喜樂等受色界增故。想蘊無色界所顯空識等想無色界增故。復次由二法故。諸瑜伽師於二界勞倦故別立蘊。謂受力故諸瑜伽師於色界勞倦。想力故諸瑜伽師於無色界勞倦。復次諸有情類。耽著樂受執顛倒想。生死輪迴受諸劇苦。欲令了知此二過患故別立蘊。復次受想二法為因發起二諍根本。勝餘法故別立為蘊。謂受能發起愛諍根本。想能發起見諍根本。如能發起二諍根本。如是能發起二雜染二邊二箭二戲論二我所應知亦爾。復次受想二法別立識住故獨立蘊。餘心所法總立識住故共立蘊。復次諸瑜伽師厭惡受想。入滅盡定故別立蘊如施設論說。云何加行得滅盡定。以何方便起滅盡定。謂初修業者。於一切行不作功用。亦不思惟但作是念。誰未生故受想得生。誰已生故受想便滅。作是念已能如實知。滅定未生故受想得生。若滅定生受想便滅。知已厭離受想二法。乃至不生得滅盡定。由如是等種種因緣。別立受想各為一蘊。

> また、世尊は異なる表現や異なる文を用いて、その意味をより明確に示そうとされた。すなわち、仏が異なる表現や異なる文で意味を荘厳にされると、教えを受ける人々は喜んで受け入れ、飽きることがないのである。 さらに、世尊は二つの門、二つの略、二つの階、二つの隥、二つの炬、二つの明、二つの光、二つの影を示そうとされた。すなわち、受と想がそれぞれ別の蘊として立てられるならば、他の心所法もまた別に立てられるべきである。逆に、他の心所法がまとめて行蘊とされるならば、受と想もまたまとめて一つの蘊とされるべきである。そうであれば、蘊は無量になるか、あるいは三つだけになるはずである。しかし、二つの門から二つの影までを示すために、蘊は五つとされ、減らされることも増やされることもないのである。 さらに、世尊は二つの門の法要を示そうとされたため、受と想を別々の蘊として立てられた。すなわち、心所法には根性のものと非根性のものとがある。受が別の蘊として立てられるならば、根性の心所法が示されたことになる。想が別の蘊として立てられるならば、非根性の心所法が示されたことになる。根性と非根性のように、明性と非明性、現見性と非現見性、喜観性と非喜観性、妙性と非妙性、勝性と非勝性、有勢力性と無勢力性、増上性と非増上性についても同様に理解すべきである。 さらに、受と想の二法は、二つの界によって顕われるため、別々の蘊として立てられる。すなわち、受蘊は色界によって顕われる。喜びや楽などの受は色界で増大するからである。想蘊は無色界によって顕われる。空や識などの想は無色界で増大するからである。 さらに、この二つの法によって、瑜伽師たちは二つの界において疲れ労れるため、別々の蘊として立てられる。すなわち、受の力によって瑜伽師たちは色界において疲れ労れ、想の力によって瑜伽師たちは無色界において疲れ労れるのである。 さらに、有情たちは楽受に耽着し、顛倒した想に執着し、生死の輪廻の中で様々な苦しみを受ける。この二つの過患を了知させるために、別々の蘊として立てられるのである。 さらに、受と想の二法は、二つの諍いの根本を引き起こす因となり、他の法よりも勝れているため、別々の蘊として立てられる。すなわち、受は愛の諍いの根本を引き起こし、想は見の諍いの根本を引き起こす。二つの諍いの根本を引き起こすように、二つの雑染、二つの辺、二つの箭、二つの戲論、二つの我所についても同様に理解すべきである。 さらに、受と想の二法は、識住として別々に立てられるため、独立した蘊とされる。他の心所法は、識住としてまとめて立てられるため、共に一つの蘊とされるのである。 さらに、瑜伽師たちは受と想を厭い嫌い、滅尽定に入るため、別々の蘊として立てられる。施設論に説かれるように、「どのように加行して滅尽定を得るのか。どのような方便をもって滅尽定を起こすのか」と。すなわち、最初に修行を始める者は、すべての行に対して功用をなさず、また思惟せず、ただこう考える。「何が未だ生じていないために、受と想が生じるのか。何がすでに生じたために、受と想が滅するのか」と。このように考えた後、如実に知る。「滅定が未だ生じていないために、受と想が生じる。もし滅定が生じれば、受と想は滅する」と。知った後、受と想の二法を厭い離れ、ついには生じないことによって滅尽定を得るのである。 このような様々な因縁によって、受と想をそれぞれ別々の蘊として立てられるのである。

問無為何故不立蘊耶。答無蘊相故不立為蘊。謂蘊是聚積相。無為無此相故不立為蘊。復次無為是蘊究竟滅處故不立蘊。如瓶衣等究竟滅處非瓶衣等。復次諸有為法生滅相應。有因有緣得有為相可立為蘊。諸無為法生滅不相應。無因無緣不得有為相故不立蘊。復次諸有為法屬因屬緣因緣和合可立為蘊。諸無為法與此相違故不立蘊。復次諸有為法為生所起。為老所衰。為無常所滅。可立為蘊。諸無為法與此相違故不立蘊。復次諸有為法流行於世。取果與果有諸作用。能了所緣可立為蘊。諸無為法與此相違故不立蘊。復次諸有為法墮在三世。與苦相應有前後際。有下中上可立為蘊。諸無為法與此相違故不立蘊。復次諸無為法無五蘊相。不可立在此五蘊中。亦不可立為第六蘊。無聚積等諸蘊相故。復次蘊是作相。諸無為法無有作相故不立蘊。復次蘊從他生。諸無為法不從他生故不立蘊。由如是等種種因緣無為非蘊。

> 問う、無為はなぜ蘊として立てないのか。答える、蘊の相がないから蘊として立てないのである。すなわち、蘊は集まり積もる相である。無為にはこの相がないから、蘊として立てないのである。また、無為は蘊が究極的に滅する場所であるから、蘊として立てない。例えば、瓶や衣などが究極的に滅する場所は、瓶や衣そのものではないのと同じである。また、諸々の有為法は生滅に相応し、因があり縁があり、有為の相を得て蘊として立てることができる。諸々の無為法は生滅に相応せず、因も縁もなく、有為の相を得ないから、蘊として立てないのである。また、諸々の有為法は因に属し縁に属し、因と縁が和合して蘊として立てることができる。諸々の無為法はこれと相反するから、蘊として立てないのである。また、諸々の有為法は生によって起こされ、老によって衰え、無常によって滅ぼされるので、蘊として立てることができる。諸々の無為法はこれと相反するから、蘊として立てないのである。また、諸々の有為法は世の中を流れ行き、果を取って果を与え、様々な働きがあり、所縁を了知することができるので、蘊として立てることができる。諸々の無為法はこれと相反するから、蘊として立てないのである。また、諸々の有為法は三つの世に堕ち、苦と相応し、前後の際があり、下・中・上があるので、蘊として立てることができる。諸々の無為法はこれと相反するから、蘊として立てないのである。また、諸々の無為法には五蘊の相がないので、この五蘊の中に立てることもできず、第六の蘊として立てることもできない。集まり積もるなどの諸々の蘊の相がないからである。また、蘊は作る相である。諸々の無為法には作る相がないから、蘊として立てないのである。また、蘊は他から生じる。諸々の無為法は他から生じないから、蘊として立てないのである。このような様々な因縁によって、無為は蘊ではないのである。

如契經說。有五種功德蘊。謂戒蘊定蘊慧蘊解脫蘊解脫知見蘊。問蘊應有十。如何說五。答彼戒等蘊皆攝在此色等五中故蘊唯五。如契經說。尊者阿難告諸苾芻作如是語。我親從佛邊受八萬法蘊。從諸苾芻所傳受得二千。問世尊既說眾多法蘊。如何但說有色等五。答彼多法蘊皆攝在此色等五中故蘊唯五。問彼諸法蘊是何蘊攝。有作是說。一切法蘊語為自性。彼說攝在此色蘊中。有餘師說。一切法蘊名為自性。彼說攝在此行蘊中。是故世尊唯說五蘊。

> 経典に説くところによれば、五種の功徳の蘊（うん）がある。すなわち、戒の蘊、定の蘊、慧の蘊、解脱の蘊、解脱知見の蘊である。 問う：蘊には十種あるべきではないか。どうして五種と説くのか。 答う：それらの戒などの蘊は、すべてこの色などの五蘊の中に含まれるのである。ゆえに蘊はただ五つである。 経典に説くところによれば、尊者アーナンダは諸々の比丘に告げて、このように語った。「私は親しく仏の御許で八万の法蘊を聴受し、諸々の比丘から二千の法蘊を伝授された」 問う：世尊は多くの法蘊を説かれたのに、どうして色などの五蘊だけを説かれたのか。 答う：それらの多くの法蘊は、すべてこの色などの五蘊の中に含まれるのである。ゆえに蘊はただ五つである。 問う：それらの法蘊は、どの蘊に含まれるのか。 ある論師は説く。「すべての法蘊は言葉を自性とする。それゆえ、この色蘊に含まれる」と。 他の論師は説く。「すべての法蘊は名を自性とする。それゆえ、この行蘊に含まれる」と。 それゆえ、世尊はただ五蘊のみを説かれたのである。

問一一法蘊其量云何。有作是說有法蘊論六千頌成。一一法蘊各如彼量。復有說者。如世尊說。蘊處界食緣起諦寶。念住正斷。神足根力。覺支道支。如是等類一一法門各一法蘊。不可定說有爾所頌。尊者妙音作如是說。一一法蘊有五十萬五千五百五十頌文。有餘師說。一一法蘊有十五萬五千五百五十頌文。有餘復言。一一法蘊唯有一萬五千五百五十頌文。評曰彼皆不應作如是說。應作是說。受化有情有八萬行。為對治彼八萬行故。世尊為說八萬法蘊。彼諸有情依佛所說八萬法蘊入佛法中。作所應作各得究竟。

> 問う。一つの法蘊の量はどのようなものか。ある者はこう説く。「法蘊論」というものがあり、六千頌から成る。一つの法蘊はそれぞれその量に相当する。また別の者はこう説く。世尊が説かれたように、蘊・処・界・食・縁起・諦・宝・念住・正断・神足・根・力・覚支・道支など、このような種類の一つ一つの法門がそれぞれ一つの法蘊である。その頌の数を定めて説くことはできない。尊者妙音はこう説く。一つの法蘊には五十万五千五百五十頌の文がある。また別の師はこう説く。一つの法蘊には十五万五千五百五十頌の文がある。さらに別の者はこう言う。一つの法蘊にはただ一万五千五百五十頌の文があるのみである。評して曰く、それらはいずれもこのように説くべきではない。こう説くべきである。教化を受ける有情には八万の行がある。その八万の行を対治するために、世尊は八万の法蘊を説かれた。それらの有情は仏の説かれた八万の法蘊に依って仏法の中に入り、なすべきことをなし、それぞれ究竟を得るのである。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第七十四

> 説一切有部発智大毘婆沙論 巻第七十四