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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 5"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第七十五

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第七十五巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 結蘊第二中十門納息第四之五

> 第五品 第二蘊 第十門 第四節之五

五取蘊者。謂色取蘊受取蘊想取蘊行取蘊識取蘊。問何故作此論。答為欲分別契經義故。謂契經說。有五取蘊。謂色取蘊乃至識取蘊。契經雖作是說而不廣辯其義。經是此論所依根本。彼不說者今應分別故作斯論。問色取蘊云何。答若色有漏有取。彼色在過去未來現在。或起欲或起貪或起瞋或起癡或起怖。或復隨起一心所隨煩惱是名色取蘊。此中起欲起貪者謂起愛結。起瞋者謂起恚結。起癡者謂起無明結。起怖者有作是說。此中不應說或起怖。所以者何。怖即煩惱。若說煩惱即已說怖。問若爾此怖以何煩惱為自性。有作是說。以有身見為自性。所以者何。執有我者多怖畏故。若說有身見即已說怖。有餘師說。以愛為自性。所以者何。若有愛者多怖畏故。復有說者。以無智為自性。所以者何。諸無智者多怖畏故。若說無明即已說怖。評曰應作是說。此所起中應別說怖。所以者何。有別心所與心相應。是怖自性此即攝在。復有所餘如是類法與心相應心所法內非諸煩惱。問此怖自性於何處有。答在欲界有非上二界。問若怖自性色界中無。云何釋通契經所說。如契經說。苾芻當知。有極光淨先生。諸天見後生者覩劫火焰心生恐怖。而慰喻言。大仙勿怖大仙勿怖。我數曾見此劫火焰。燒空梵宮即於彼滅。伽他所說。復云何通。如說。

> 五取蘊，就是色取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊。 問：為什麼要造這部論呢？ 答：為了分別解說經典的義理。因為經中說到有五取蘊，也就是色取蘊乃至識取蘊。經中雖然這樣說，但沒有詳細解釋其中的道理。經典是這部論的根本依據，經中沒有說清楚的，現在應該加以分別說明，所以造這部論。 問：什麼是色取蘊呢？ 答：如果色法是屬於有漏、有取的，那樣的色法，無論在過去、未來或現在，對它生起欲求、貪愛、瞋怒、愚癡、恐懼，或者隨之生起任何一種與心相應的煩惱，這就叫作色取蘊。 這裡所說的「起欲」「起貪」，是指生起愛結；「起瞋」是指生起恚結；「起癡」是指生起無明結。 關於「起怖」，有人說：這裡不應該說「或起怖」。為什麼呢？因為恐懼本身就是煩惱，如果已經說了煩惱，就等於已經說了恐懼。 問：如果是這樣，這個恐懼是以什麼煩惱為自性呢？ 有人說：是以有身見為自性。為什麼呢？因為執著有我的人，大多會有恐懼。如果說了有身見，就等於已經說了恐懼。 另有其他論師說：是以愛為自性。為什麼呢？因為有愛的人，大多會有恐懼。 還有人說：是以無智為自性。為什麼呢？因為沒有智慧的人，大多會有恐懼。如果說了無明，就等於已經說了恐懼。 評判：應該這樣說，在這些生起的法中，應該另外說明恐懼。為什麼呢？因為有另外一種心所，與心相應，以恐懼為自性，這就包含在「還有其他這類與心相應的心所法」之中，而不只是煩惱。 問：這個恐懼的自性，存在於哪些地方呢？ 答：存在於欲界，不存在於上二界（色界、無色界）。 問：如果恐懼的自性在色界中不存在，那該如何解釋經中所說呢？例如經中說：「比丘們應當知道，有極光淨天的天人，最初生在那裡。後來生到那裡的天人，看到劫末的火焰，心中生起恐怖。先前的天人便安慰他們說：『大仙不要害怕！大仙不要害怕！我曾經多次見過這種劫末的火焰，燃燒虛空中的梵宮，然後就在那裡熄滅。』」 偈頌中所說的，又該如何解釋呢？例如說：

聞說長壽天有妙色名譽深心懷厭怖如鹿對師子

> 長寿の天には、妙なる色と名声があると聞くが、深く心に厭い怖れること、鹿が獅子に向かうがごとし。

答經頌於厭以怖聲說。問若爾厭怖有何差別。答名即差別。謂彼名厭此名為怖。尊者世友作如是說。怖唯欲界厭通三界。復作是說。怖在煩惱品厭在善根品。復作是說。怖通染污無覆無記厭唯是善。大德說曰。於衰損事深心疑慮欲得遠離說名為怖。已得遠離深心憎惡說名為厭。如是名為厭怖差別。問異生聖者誰有怖耶。有作是說。異生有怖聖者無怖。所以者何。聖者已離五怖畏故。五怖畏者。一不活畏。二惡名畏。三怯眾畏。四命終畏。五惡趣畏。評曰應作是說。異生聖者二皆有怖。問聖者已離五種怖畏如何有怖。答聖者雖無五種大怖而有所餘暫時小怖。問何等聖者有餘小怖。為有學位無學位耶。有作是說。唯有學位有餘小怖。以怖唯是煩惱品故。評曰應作是說。學無學位皆容有怖。學謂預流一來不還者。無學謂阿羅漢獨覺除佛世尊。佛無恐怖毛竪等事。於一切法如實通達得無畏故。或復隨起一心所隨煩惱者。謂緣色生諸餘遍行及修所斷餘煩惱等問受取蘊云何。答若受有漏有取。彼受在過去未來現在。或起欲或起貪或起瞋或起癡或起怖。或復隨起一心所隨煩惱。是名受取蘊。此中廣釋如前。應知有差別者。謂隨起一隨煩惱中。緣此受生諸餘遍行及見所斷餘非遍行。

> 経の偈頌に答えて、厭（おん）と怖（ふ）について声を上げて説く。問う「もしそうならば、厭と怖にはどのような違いがあるのか」。答え「名がすなわち違いである。すなわち、それを厭と名づけ、これを怖と名づける」。尊者世友はこのように説く「怖は欲界のみにあり、厭は三界に通じる」。またこのように説く「怖は煩悩の品にあり、厭は善根の品にある」。またこのように説く「怖は染汚と無覆無記に通じ、厭はただ善のみである」。大徳はこのように説く「衰損の事に対して深く心に疑い慮り、遠く離れようと欲することを名づけて怖という。すでに遠く離れて深く心に憎み嫌うことを名づけて厭という。このように名づけて厭と怖の違いとする」。問う「凡夫と聖者のどちらに怖があるのか」。ある者はこのように説く「凡夫には怖があり、聖者には怖がない。なぜならば、聖者はすでに五つの怖れを離れているからである。五つの怖れとは、一に生きられない怖れ、二に悪い名声の怖れ、三に大衆に臆する怖れ、四に命終わりの怖れ、五に悪趣の怖れである」。評して言う「このように説くべきである。凡夫と聖者の両方とも怖がある」。問う「聖者はすでに五種の怖れを離れているのに、どうして怖があるのか」。答え「聖者には五種の大きな怖れはないが、それ以外の一時的な小さな怖れはある」。問う「どのような聖者に残りの小さな怖れがあるのか。有学位か無学位か」。ある者はこのように説く「ただ有学位のみに残りの小さな怖れがある。なぜならば、怖はただ煩悩の品のみにあるからである」。評して言う「このように説くべきである。有学位と無学位の両方とも怖があり得る。有学とは預流、一来、不還の者である。無学とは阿羅漢、独覚であり、仏世尊を除く。仏には恐怖や毛の逆立つなどの事がない。すべての法を如実に通達し、無畏を得ているからである」。あるいはまた、一つの心に随って起こる随煩悩がある。すなわち、色を縁として他の遍行や修所断の他の煩悩などが生じる。問う「受取蘊とは何か」。答え「もし受が有漏で有取であるならば、その受は過去・未来・現在にあり、あるいは欲を起こし、あるいは貪を起こし、あるいは瞋を起こし、あるいは癡を起こし、あるいは怖を起こす。あるいはまた、一つの心に随って起こる随煩悩がある。これを名づけて受取蘊という」。ここで広く解釈することは先の通りである。知るべきである。違いがあるとは、すなわち随って起こる一つの随煩悩の中において、この受を縁として他の遍行や見所断の他の非遍行が生じることをいう。

如受取蘊如是想行及識取蘊廣說。應知是名取蘊自性我物自體相分本性。

> ここでいう「取蘊」とは、色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊の五つのことである。これらを総称して「取蘊」と呼ぶ。その自性（本質）、我物（自我の対象）、自体（存在の基盤）、相分（性質の現れ）、本性（本来の姿）について、広く説かれた通りに理解すべきである。

已說自性。所以今當說。問何故名取蘊。取蘊是何義。答此從取生復能生取故名取蘊。復次此從取轉復能轉取故名取蘊。復次此由取引復能引取故名取蘊。復次此由取長養復能長養取故名取蘊。復次此由取增廣復能增廣取故名取蘊。復次此由取流派復能流派取故名取蘊。復次此蘊屬取故名取蘊。如臣屬王故名王臣。諸有漏行都無有我。設有問言。汝屬於誰。應正答言。我屬於取。復次諸取於此應生時生。應住時住。應執時執。故名取蘊。復次諸取於此增長廣大故名取蘊。復次諸取於此長養攝受故名取蘊。復次諸取於此染著難捨。猶如塵垢染著衣服故名取蘊。復次諸取於此深生樂著。如魚鼈等樂著河池故名取蘊。復次此是諸取巢穴舍宅故名取蘊。謂依此故貪瞋癡慢見疑纏垢。皆得生長。應知此中依同分取立取蘊名。謂依欲界取名欲界取蘊。依色界取名色界取蘊。依無色界取名無色界取蘊。如依三界同分取立取蘊名。依九地取應知亦爾。此於界地無雜亂故。若於相續容有雜亂。謂依自取他蘊名取蘊亦依他取自蘊名取蘊。若於相續無雜亂者。一切外物應非取蘊。以外物中無諸取故。然諸外物依有情取立取蘊名互生長故。

> すでに自性（本質）については述べました。それでは次に、なぜ「取蘊」と呼ぶのかを説明しましょう。 問：なぜ「取蘊」という名前なのでしょうか。「取蘊」の意味は何でしょうか。 答：これは「取」から生じ、また「取」を生むから「取蘊」と呼びます。また、これは「取」によって転じ、また「取」を転ずるから「取蘊」と呼びます。また、これは「取」に導かれ、また「取」を導くから「取蘊」と呼びます。また、これは「取」によって養われ、また「取」を養うから「取蘊」と呼びます。また、これは「取」によって広がり、また「取」を広げるから「取蘊」と呼びます。また、これは「取」の流れから生じ、また「取」の流れを生むから「取蘊」と呼びます。 また、この蘊は「取」に属するから「取蘊」と呼びます。ちょうど家来が王に属するから「王臣」と呼ばれるのと同じです。すべての煩悩を伴う行（現象）には、私（自我）というものは存在しません。もし「あなたは誰に属するのか」と問われたら、「私は取に属する」と正しく答えるべきです。 また、諸々の「取」は、これにおいて生じるべき時に生じ、留まるべき時に留まり、執着すべき時に執着するから、「取蘊」と呼びます。 また、諸々の「取」は、これにおいて成長し、広がり、大きくなるから「取蘊」と呼びます。 また、諸々の「取」は、これにおいて養われ、保持されるから「取蘊」と呼びます。 また、諸々の「取」は、これに染まり執着して離れがたいこと、ちょうど塵や垢が衣服に染みつくようなものだから、「取蘊」と呼びます。 また、諸々の「取」は、これに対して深く楽著（楽しみ執着する）すること、ちょうど魚や鼈（かめ）などが川や池を楽しみ執着するようなものだから、「取蘊」と呼びます。 また、これは諸々の「取」の巣窟であり、住処であり、家屋であるから「取蘊」と呼びます。すなわち、これに依って貪り、怒り、愚かさ、慢（おごり）、見解、疑い、纏（とらわれ）、垢（けがれ）がすべて生じ育つのです。 ここで知るべきことは、同じ種類の「取」に基づいて「取蘊」という名前が立てられるということです。すなわち、欲界の取に基づいて「欲界の取蘊」と呼び、色界の取に基づいて「色界の取蘊」と呼び、無色界の取に基づいて「無色界の取蘊」と呼びます。三界の同じ種類の取に基づいて「取蘊」という名前を立てるのと同様に、九地の取に基づいても同じように名付けるべきであると知るべきです。これは界や地に関しては混ざり合うことがないからです。 しかし、心身の連続（相続）においては、混ざり合うことがあり得ます。すなわち、自分自身の取に基づいて他者の蘊を「取蘊」と呼ぶこともあり、また他者の取に基づいて自分自身の蘊を「取蘊」と呼ぶこともあります。 もし心身の連続において混ざり合うことがないとするならば、すべての外の物は「取蘊」ではないはずです。なぜなら、外の物の中には諸々の取が存在しないからです。しかし、諸々の外の物も、有情（生きとし生けるもの）の取に基づいて「取蘊」という名前が立てられるのです。互いに生じ合うからです。

問蘊與取蘊有何差別。答名即差別彼名為蘊此名取蘊。復次蘊通有漏無漏。取蘊唯有漏。復次蘊攝三諦取蘊攝二諦。復次蘊攝十七界一界少分。取蘊攝十五界三界少分。復次蘊攝十一處一處少分。取蘊攝十處二處少分。復次蘊攝五蘊取蘊攝五蘊各少分。復次於蘊中有流轉者受訶責。有還滅者受讚歎。於取蘊中有流轉者受訶責。無還滅者受讚歎。蘊與取蘊是謂差別六界者。謂地界水界火界風界空界識界。問何故作此論。答是作論者意欲爾故。謂本論師隨自意欲而作此論不違法相故不應責。復次不應詰問此本論師。所以者何。世尊施設十八界已。復於此中略出少分施設六界。故此六界十八界中攝五界全四界少分。五界全者。謂前五識界。四界少分者。謂色觸意及意識界。此中空界攝色界少分。地水火風界攝觸界少分。識界攝意界意識界少分。以此二界通有漏無漏。識界唯攝有漏分故。由此六界十八界中攝五界全四界少分。問置本論師。世尊何故十八界中略出少分施設六界。答觀受化者所宜差別。謂有所化於所知境但愚少分。或有所化於所知境愚於一切。愚少分者為說六界。愚一切者為說十八界。復次世尊所化有利根者。有鈍根者。為利根者說六界。為鈍根者說十八界。復次世尊所化有開智者有說智者。為開智者說六界。為說智者。說十八界。復次世尊所化有樂略者有樂廣者。為樂略者說六界。為樂廣者說十八界。復次於十八界為略現門故說六界謂十八界中有是色有非色。若說前五界。當知已說諸是色界。若說識界。當知已說諸非色界。復次十八界中有有見有無見。若說空界。當知已說諸有見者若說餘五界。當知已說諸無見者。復次十八界中有有對有無對。若說前五界。當知已說諸有對者。若說識界。當知已說諸無對者。復次十八界中有相應有不相應。若說識界。當知已說諸相應者。若說餘五界。當知已說不相應者。如相應不相應。如是有所依無所依。有所緣無所緣。有行相無行相。有警覺無警覺。應知亦爾。復次由此六界能生能養能長有情色無色身故復施設。能生者。謂識界。能養者謂地水火風界。能長者謂空界。復次由此六界能引能持能增有情色無色身故復施設。能引者謂識界。能持者謂地水火風界。能增者謂空界。復次由此六界是根本有情事。是遍行有情事。是無始有情事。是無分別有分別有情事故復施設。根本有情事者。謂欲色界受生有情。從結生心乃至死有。無此六界無勢用時。遍行有情事者。謂欲色界一切有情從結生心乃至死有。無此六界不增上時。無始有情事者。謂不可知本際已來諸有情類。從結生心乃至死有。無此六界不作用時無分別有分別有情事者。謂有有情未可分別是男是女。如羯剌藍頞部曇閉尸揵南位。如是六界亦有勢用。或有有情已可分別是男是女鉢羅奢佉等位。如是六界亦有勢用。尊者妙音作如是說。由此六界得入母胎勢用增上故復施設。由如是等種種因緣故。佛世尊於十八界略出少分。施設如是六界差別。

> 問：蘊與取蘊有什麼差別？ 答：名稱本身就是差別——一個叫「蘊」，另一個叫「取蘊」。此外，蘊通於有漏與無漏，而取蘊只屬於有漏。又，蘊涵攝三諦（苦諦、集諦、滅諦），取蘊涵攝二諦（苦諦、集諦）。又，蘊涵攝十七界及一界的一部分，取蘊涵攝十五界及三界的一部分。又，蘊涵攝十一處及一處的一部分，取蘊涵攝十處及二處的一部分。又，蘊涵攝全部五蘊，取蘊涵攝五蘊的各一部分。又，在蘊中，有流轉者受到呵責，有還滅者受到讚歎；在取蘊中，只有流轉者受到呵責，沒有還滅者受到讚歎。蘊與取蘊的差別就是這樣。 所謂六界，是指地界、水界、火界、風界、空界、識界。 問：為什麼要造這部論？ 答：這是造論者的意願如此。也就是說，本論師隨自己的意願而造此論，只要不違背法的實相，就不應責難。再者，不應詰問這位本論師。為什麼呢？因為世尊施設十八界之後，又從中略取一部分施設六界。所以這六界在十八界中，包含了五界的全部和四界的一部分。五界的全部，是指前五識界。四界的一部分，是指色界、觸界、意界和意識界。其中，空界涵攝色界的一部分，地、水、火、風界涵攝觸界的一部分，識界涵攝意界和意識界的一部分。因為意界和意識界通於有漏與無漏，而識界只攝取有漏的部分。因此，這六界在十八界中包含了五界的全部和四界的一部分。 問：暫且不論本論師，世尊為什麼在十八界中略取一部分施設六界呢？ 答：這是觀察所教化眾生的根機差別。有些所教化的人，對於所知的境界只迷惑一部分；有些所教化的人，對於所知的境界則迷惑於全部。對迷惑一部分的人，就為他說六界；對迷惑於全部的人，就為他說十八界。 再者，世尊的所化眾生有利根者，有鈍根者。為利根者說六界，為鈍根者說十八界。 再者，世尊的所化眾生有以智慧自開悟的人，有需要他人解說的人。為以智慧自開悟的人說六界，為需要他人解說的人說十八界。 再者，世尊的所化眾生有喜歡簡略的，有喜歡詳盡的。為喜歡簡略的人說六界，為喜歡詳盡的人說十八界。 再者，為了在十八界中顯示簡略的門徑，所以說六界。十八界中有的是色法，有的是非色法。如果說了前五界，就應當知道已經說了一切色法界；如果說了識界，就應當知道已經說了一切非色法界。 再者，十八界中有有見的，有無見的。如果說了空界，就應當知道已經說了一切有見的；如果說了其餘五界，就應當知道已經說了一切無見的。 再者，十八界中有有對的，有無對的。如果說了前五界，就應當知道已經說了一切有對的；如果說了識界，就應當知道已經說了一切無對的。 再者，十八界中有相應的，有不相應的。如果說了識界，就應當知道已經說了一切相應的；如果說了其餘五界，就應當知道已經說了一切不相應的。如同「相應與不相應」這樣，有所依與無所依、有所緣與無所緣、有行相與無行相、有警覺與無警覺，也應當如此理解。 再者，因為這六界能生、能養、能長有情的有色與無色之身，所以又施設六界。「能生」是指識界，「能養」是指地、水、火、風界，「能長」是指空界。 再者，因為這六界能引、能持、能增有情的有色與無色之身，所以又施設六界。「能引」是指識界，「能持」是指地、水、火、風界，「能增」是指空界。 再者，因為這六界是根本的有情事、是遍行的有情事、是無始的有情事、是無分別與有分別的有情事，所以又施設六界。「根本的有情事」是指欲界和色界中受生的有情，從結生心到死有，沒有這六界就沒有作用的時候。「遍行的有情事」是指欲界和色界的一切有情，從結生心到死有，沒有這六界不增上的時候。「無始的有情事」是指從不可知的過去際以來的一切有情，從結生心到死有，沒有這六界不起作用的時候。「無分別與有分別的有情事」是指有的有情還不能分別是男是女，如羯剌藍、頞部曇、閉尸、揵南的階段，這時六界也有作用；有的有情已經可以分別是男是女，如鉢羅奢佉等階段，這時六界也有作用。 尊者妙音這樣說：因為這六界具有進入母胎的強大作用，所以又施設六界。 由於以上種種因緣，佛陀世尊在十八界中略取一部分，施設了這六界的差別。

問地界云何。答堅性。雖此地界總是堅性。而此堅性差別無邊。謂內外分堅性各異。內分中堅性者。謂髮毛爪齒塵垢皮肉。筋骨脈心脾腎肝肺胃肚腸糞。生藏熟藏手足支節。如是等中所有堅性。此諸堅性有勝有劣。謂足堅性勝手堅性。若諸有情少時手行手皮血肉即便壞盡。若以足行盡眾同分足皮血肉都無損壞。由此故知內分堅性有勝有劣。外分中堅性者。謂地山礫石塼瓦草木。螺蜯䗾蛤銅鐵金銀白鑞鉛錫末尼真珠珊瑚琥珀珂貝璧玉。帝青大青末羅羯多。杵藏石藏颯頗胝迦。及紅頗黎吠琉璃等所有堅性。此內外分種種堅性。以相同故略為一聚總名地界。

> 問う、地界とは何か。答え、堅性である。この地界はすべて堅性ではあるが、その堅性には無数の違いがある。すなわち、内と外の部分で堅性はそれぞれ異なる。内の部分の堅性とは、髪、毛、爪、歯、垢、皮、肉、筋、骨、髄、心、脾、腎、肝、肺、胃、肚、腸、糞、生藏、熟藏、手足の関節などの中にある堅性をいう。これらの堅性には優れたものと劣ったものがある。すなわち、足の堅性は手の堅性に勝っている。もし生き物が幼い時に手で歩くなら、手の皮や肉はすぐに傷んでしまう。しかし足で歩くなら、一生の間、足の皮や肉はまったく損なわれることがない。これによって、内の部分の堅性にも優劣があると知るべきである。外の部分の堅性とは、地、山、小石、煉瓦、瓦、草木、螺、蜯、䗾、蛤、銅、鉄、金、銀、白鑞、鉛、錫、末尼、真珠、珊瑚、琥珀、珂、貝、璧、玉、帝青、大青、末羅羯多、杵藏、石藏、颯頗胝迦、そして紅頗黎、吠琉璃などのすべての堅性をいう。この内外の様々な堅性は、その性質が同じであるため、ひとまとめにして総じて地界と名付けるのである。

問水界云何。答濕性。雖此水界總是濕性。而此濕性差別無邊。謂內外分濕性各異。內分中濕性者。謂淚污涕唾肪膏髓腦涎膽痰癊膿血尿等所有濕性。外分中濕性者。謂江河池沼泉井溝渠四大海等所有濕性。此內外分種種濕性。以相同故略為一聚總名水界。

> 水界とは何か。答えれば、湿り気の性質である。この水界はすべて湿り気の性質であるが、この湿り気の性質には無限の違いがある。すなわち、内と外に分けて湿り気の性質はそれぞれ異なる。内の部分における湿り気の性質とは、涙、汚れ、鼻水、唾、脂肪、髄、脳、涎、胆、痰、膿、血、尿などの持つ湿り気の性質である。外の部分における湿り気の性質とは、川、湖、池、沼、泉、井戸、溝、海などの持つ湿り気の性質である。この内と外に分かれた様々な湿り気の性質は、同じであるがゆえにひとまとめにして、総じて水界と名付けるのである。

問火界云何。答煖性。雖此火界總是煖性。而此煖性差別無邊。謂內外分煖性各異。內分中煖性者。謂身中熱等熱遍熱。由此所飲所食所噉。皆易消熟令身安隱。此若增時便成熱病。外分中煖性者。謂炬燈燭陶竈爐等火聚炎焰。燒諸城。村山林曠野。及諸藥草日輪未尼天龍宮殿所出光焰。并地獄等諸火煖性。應作是說。內火煖性熱於外火。所以者何。若以飲食置釜鑊中。下然熾火經一日夜。猶不能令形色變易。如在腹中經須臾頃。此內外分種種煖性以相同故。略為一聚總名火界。

> 問う、火界とは何か。答えよう、それは温かさの性質である。この火界はすべて温かさの性質ではあるが、その温かさには限りない違いがある。すなわち、内と外の部分で温かさはそれぞれ異なる。内の部分の温かさとは、身体の中の熱、熱く広がる熱、全身に及ぶ熱のことである。これによって、飲み物や食べ物は容易に消化され、身体は安らかになる。これが増えすぎると、熱病となる。外の部分の温かさとは、松明、灯り、ろうそく、陶器の窯、かまど、炉などの火の塊や炎を指す。これらは城、村、山、林、野原、薬草を焼き、太陽、宝石、天龍の宮殿から出る光や炎、そして地獄などの様々な火の温かさを含む。こう言うべきであろう。内の火の温かさは外の火よりも熱い。なぜなら、食べ物を鍋に入れ、下で強い火を一日中燃やしても、形や色を変えることはできないが、腹の中ではほんの一瞬で変わるからである。この内外の様々な温かさは、その性質が同じであるため、ひとまとめにして総称して火界と呼ぶのである。

問風界云何。答輕等動性。雖此風界總是動性。而此動性差別無邊。謂內外分動性各異。內分中動性者。謂有上行風有下行風。有住脇風有住腹風。有住背風有如鍼風。有如刀風。有蓽茇羅風有婆呾瑟恥羅風。有婆呾寠拉摩風。有入息風有出息風。有隨身分支節行風所有動性。外分中動性者。謂有四方風。或有塵風。或無塵風。或毘濕縛風。或吠嵐婆風。或小風。或大風。或風輪風等所有動性。此內外分種種動性以相同故。略為一聚總名風界。

> 問う、風界とは何か。答えていこう。風界とは、軽く動く性質を持つものである。この風界はすべて動く性質を持つとはいえ、その動き方には限りなく多くの違いがある。内と外の部分によって、その動きの様相はそれぞれ異なる。 内側の部分における動きの性質とは、上に向かって流れる風、下に向かって流れる風、脇腹に留まる風、腹部に留まる風、背中に留まる風、針のような風、刀のような風、胡椒のような風、蓽茇羅の風、婆呾瑟恥羅の風、婆呾寠拉摩の風、息を吸い込む風、息を吐き出す風、体の各部位や関節に沿って流れる風など、そのすべての動きの性質をいう。 外側の部分における動きの性質とは、四方から吹く風、塵を伴う風、塵を伴わない風、毘湿縛の風、吠嵐婆の風、小さい風、大きい風、風輪の風などの、すべての動きの性質をいう。 このように内外の様々な動きの性質は、その本質が同じであることから、まとめて一つの集まりとし、総称して風界と呼ぶのである。

問空界云何。答如契經說。有眼穴空。有耳穴空。有鼻穴空。有面門空。有咽喉空。有心中空有心邊空。有通飲食處空。有貯飲食處空。有棄飲食處空。有諸支節毛孔等空。是名空界。阿毘達磨作如是說。云何空界。謂隣礙色。礙謂積聚即牆壁等有色。近此名隣礙色。如牆壁間空。叢林間空。樹葉間空。窓牖間空。往來處空。指間等空。是名空界。有作是說此文應言云何空界謂隣難除色。然色有二種。一者易除謂有情數。二者難除謂無情數。此空界色多近非情牆壁樹等。而施設故名隣難除色。舊對法者及此國師。俱說空界處處皆有。謂骨肉筋脈皮血身分。晝夜明闇形顯等處皆有此色。問緣空界色眼識生不。有說緣此眼識不生。謂空界色雖眼識境而此眼識畢竟不生。復有說者。緣空界色眼識亦生。問若爾何故見不明了。答此空界色晝為明所覆。夜為闇所覆。故眼雖見而不明了。

> 問う、空界とは何か。答えていう、経典に説くところによれば、眼の穴の空、耳の穴の空、鼻の穴の空、面門の空、咽喉の空、心中の空、心辺の空、飲食が通る処の空、飲食を貯える処の空、飲食を捨てる処の空、諸々の支節や毛孔などの空がある。これを空界と名づける。 アビダルマはこう説く。何をもって空界とするか。すなわち、礙（さまたげ）に隣接する色である。礙とは積聚、すなわち牆壁などの有色をいう。これに近接することを隣礙色と名づける。牆壁の間の空、叢林の間の空、樹葉の間の空、窓の間の空、往来する処の空、指の間などの空、これを空界と名づける。 ある者はこう説く。この文は「何をもって空界とするか。すなわち隣難除色（隣接して除き難い色）である」と言うべきである。しかるに色には二種ある。一つは易除（除き易い）で、有情に属するもの。二つは難除（除き難い）で、非情に属するもの。この空界の色は、多くは非情の牆壁や樹木などに近接して施設される。それゆえ隣難除色と名づける。 旧対法者およびこの国の師たちは、ともに空界は処処に皆有ると説く。すなわち骨、肉、筋、脈、皮、血、身分、昼夜、明暗、形、顕などの処に、皆この色があると。 問う、空界の色を縁として眼識は生じるか。ある者は説く、この空界の色を縁として眼識は生じない。空界の色は眼識の境ではあるが、この眼識は究竟には生じないからである。またある者は説く、空界の色を縁として眼識もまた生じる。問う、もしそうならば、なぜ見ても明瞭でないのか。答えていう、この空界の色は、昼は明に覆われ、夜は闇に覆われる。それゆえ眼は見るけれども明瞭ではないのである。

問虛空空界有何差別。答虛空非色空界是色。虛空無見空界有見。虛空無對空界有對。虛空無漏空界有漏。虛空無為空界有為。問若此虛空是無為者。契經所說當云何通。如契經說。世尊以手摩捫虛空告苾芻眾。豈佛以手摩捫無為而告弟子。答彼於空界說虛空聲。非謂虛空手可摩捫。餘經亦說。佛告苾芻。若有畫師或彼弟子持諸彩色來作是言。我能彩畫虛空。作種種文像有是事不。苾芻白佛無有是事。彼亦於空界說虛空聲又伽他說。

> 問：虛空と空界にはどのような違いがあるのでしょうか。 答：虛空は色（形あるもの）ではなく、空界は色です。虛空は見ることができず、空界は見ることができます。虛空は対立するもの（障害となるもの）がなく、空界には対立するものがあります。虛空は煩悩の汚れがなく、空界には煩悩の汚れがあります。虛空はつくられたもの（有為）ではなく、空界はつくられたものです。 問：もしこの虛空がつくられたものでないのなら、経典に説かれていることはどう理解すればよいのでしょうか。例えば経典にはこうあります。「世尊は手で虛空を撫でながら、僧侶たちに告げられた」。仏が手でつくられたものでないものを撫でて、弟子たちに教えを説かれたというのでしょうか。 答：あの経典では、空界のことを「虛空」という言葉で表しているのです。決して、つくられたものでない虛空を手で撫でたという意味ではありません。他の経典にもこうあります。「仏は僧侶たちに告げられた。もし絵師やその弟子が絵の具を持ってきて、『私は虛空に様々な模様を描くことができる』と言ったとしたら、それは可能だろうか」。僧侶たちは「それは不可能です」と仏に答えました。そこでもまた、空界のことを「虛空」という言葉で表しているのです。さらに、詩偈（ガーター）にもこうあります。

獸歸林藪鳥歸虛空聖歸涅槃法歸分別

> 獣は林に帰り、鳥は虚空に帰り、聖者は涅槃に帰る。法は分別に帰する。

彼亦於空界。說虛空聲。復有頌言。

> その方もまた、空の世界において虚空の声を説かれた。さらに、次のような偈（うた）がある。

虛空無鳥跡外道無沙門愚夫樂戲論如來則無有

> 虚空に鳥の跡はなく、外道には沙門（修行者）は存在しない。愚かな者は戯論（無益な議論）を好むが、如来にはそのようなものは一切ない。

彼亦於空界說虛空聲。有餘經說。鳥步虛空跡難可現亦不可尋。彼亦於空界說虛空聲。有處問虛空而答以空界。如品類足作如是言。云何虛空謂有虛空無障無礙色於中行周遍增長。問何故問虛空而答以空界。答虛空微細難可顯說。空界相麁易可開示。以麁顯細故作是說。

> また、虚空の界について虚空の声を説くこともある。他の経典には、鳥が虚空を歩む跡は現し難く、また尋ね求めることもできないと説く。そこでも虚空の界について虚空の声を説くのである。ある所では虚空について問い、虚空の界をもって答えることがある。例えば『品類足論』にはこうある。「何を虚空というのか。謂わく、虚空とは障碍なく、妨げなく、色がその中を行き、周遍し、増長するものである」と。問う、なぜ虚空について問いながら、虚空の界をもって答えるのか。答う、虚空は微細であり、説き顕すことが難しい。虚空の界はその相が粗く、開示し易い。粗いものをもって微細なものを顕すがゆえに、このように説くのである。

問以何緣故知有虛空。尊者世友作如是說。以佛說故知有虛空。謂契經中。佛處處說虛空虛空。故知實有。問為但信教知有虛空。為此虛空亦現量得。答亦現量得。若無虛空一切有物應無容處。既有容受諸有物處知有虛空。復作是說。以有往來聚集處故知有虛空。若無彼因彼亦不有。言彼因者即是虛空。虛空是彼容受因故。復作是說。容有礙物知有虛空。若無虛空彼無容處。復作是說若無虛空應一切處皆有障礙。既現見有無障礙處故。知虛空決定實有。無障礙相是虛空故。大德說曰。虛空不可知非所知事故。所知事者色非色性虛空與彼俱不相應。所知事者謂此彼性虛空與彼俱不相應。此虛空名。但是世間分別假立。評曰應作是說。實有虛空非彼不知即謂非有由前教理實有虛空。

> 問：どういう理由で虚空の存在を知るのか。 尊者世友はこう述べた。「仏の教えによって虚空の存在を知る。すなわち経典の中で、仏はあちこちで『虚空、虚空』と説かれた。それゆえ虚空が実在すると知るのである。」 問：ただ教えを信じて虚空の存在を知るのか、それとも虚空は現量（直接の知覚）でも得られるのか。 答：現量でも得られる。もし虚空がなければ、すべての物には存在する場所がなくなるはずである。現に物を受け入れる場所がある以上、虚空の存在を知ることができる。 またこうも述べられた。「往来や集合する場所があることによって虚空の存在を知る。もしその因がなければ、それも存在しないであろう。その因とはすなわち虚空である。虚空はそれらを受け入れる因だからである。」 またこうも述べられた。「障礙のある物を収めることができることによって虚空の存在を知る。もし虚空がなければ、それらには収まる場所がないであろう。」 またこうも述べられた。「もし虚空がなければ、あらゆる場所に障礙があるはずである。現に障礙のない場所があるのを見るので、虚空が確かに実在すると知る。障礙のないという相が虚空だからである。」 大徳はこう述べた。「虚空は知ることができない。知られる対象の事柄ではないからである。知られる対象とは、これやあれの性質であるが、虚空はそれらとはまったく対応しない。知られる対象とは、これとあれの性質であり、虚空はそれらとまったく対応しない。この虚空という名は、ただ世間の分別によって仮に立てられたものにすぎない。」 評して言うべきである。「虚空は実在すると説くべきである。知られないからといって、ただちに存在しないとは言えない。前述の教えと道理によって、虚空は実在するのである。」

問若爾虛空有何作用。答虛空無為無有作用。然此能與種種空界作近增上緣。彼種種空界能與種種大種作近增上緣。彼種種大種能與有對造色等作近增上緣。彼有對造色能與心心所法作近增上緣。若無虛空。如是展轉因果次第皆不成立。勿有此失。是故虛空體相實有不應撥無。

> 問：それならば、虚空にどんな働きがあるのか。 答：虚空は作為のないもので、それ自体に働きはない。しかし、虚空は様々な空界に対して近い増上縁（よりどころとなる縁）として働く。その様々な空界は、様々な大種（四大元素）に対して近い増上縁として働く。その様々な大種は、有形の物質やそれに伴うものに対して近い増上縁として働く。その有形の物質は、心と心の働きに対して近い増上縁として働く。もし虚空が存在しなければ、このように順を追って因果が成り立つことはすべて成立しない。このような欠損があってはならない。それゆえ、虚空はその本質として実在するのであり、否定してはならないのである。

問識界云何。答五識身及有漏意識。問何故無漏識不立識界耶。答與識界相不相應故。若法能長養諸有。攝益諸有。任持諸有者。立六界中。無漏意識。能損減諸有。散壞諸有。破滅諸有。是故不立在六界中。復次若法能令諸有相續生老病死流轉不絕者立六界中。無漏意識與此相違。是故不立在六界中。復次若法是趣苦集行亦是趣有世間生老病死集行者立六界中。無漏意識與此相違。是故不立在六界中。復次若法是有身見事。顛倒事愛事。隨眠事與貪瞋癡為安足處。有垢有毒有穢有刺。有過有濁墮在諸有苦集諦攝者立六界中。無漏意識與此相違。是故不立在六界中。尊者世友作是問言。此六界中何故不攝無漏意識。即自答言。如是六界從諸漏生。無漏意識不從漏生。復作是說。如是六界能生諸漏。無漏意識不生諸漏。復作是說。如是六界是我執緣。無漏意識非我執緣。復作是說。如是六界是有情依。無漏意識非有情依。復作是說。如是六界是異熟依。無漏意識非異熟依。復作是說如是六界是入胎緣。無漏意識非入胎緣。復作是說。如是六界無始來有。無漏意識非無始有。大德說曰。如是六界是自體分。無漏意識非。自體分。脇尊者言。如是六界是生死依。無漏意識非生死依。由如是等種種因緣無漏意識不立識界。

> ここで「識界（しきかい）」とは何かと問うならば、答えよう。五つの識身（五感に対応する識）と、煩悩を有する意識（有漏意識）である。 では、なぜ煩悩を離れた無漏の意識は識界に含めないのか。それは、識界の定義と相応しないからである。 もしある法が、諸々の生存（有）を育て、支え、保つものであるならば、それは六界の中に立てられる。しかし無漏の意識は、諸々の生存を減らし、壊し、滅ぼすものである。それゆえ、六界の中には立てられないのである。 また、もしある法が、諸々の生存をして生・老・病・死と流転させ、絶え間なく続けさせるものであるならば、それは六界の中に立てられる。無漏の意識はこれと反対である。それゆえ、六界の中には立てられない。 また、もしある法が、苦を集める行であり、世間の生老病死を集める行であるならば、それは六界の中に立てられる。無漏の意識はこれと反対である。それゆえ、六界の中には立てられない。 また、もしある法が、有身見（自我への執着）の対象であり、顛倒（逆さまな見解）の対象であり、愛（渇愛）の対象であり、随眠（潜在的な煩悩）の対象であり、貪・瞋・癡（むさぼり・怒り・愚かさ）のよりどころとなり、汚れや毒や穢れや棘や過失や濁りを有し、諸々の生存と苦・集の真理に属するものであるならば、それは六界の中に立てられる。無漏の意識はこれと反対である。それゆえ、六界の中には立てられない。 尊者世友（そんじゃせゆう）はこう問うた。「この六界の中に、なぜ無漏の意識が含まれないのか」と。そして自ら答えた。「この六界はすべて煩悩から生じるものであるが、無漏の意識は煩悩から生じない」と。 さらにこうも説いた。「この六界は煩悩を生じさせるものであるが、無漏の意識は煩悩を生じさせない」と。 またこう説いた。「この六界は我執（自我への執着）のよりどころとなるが、無漏の意識は我執のよりどころとはならない」と。 またこう説いた。「この六界は有情（生きとし生けるもの）の依りどころとなるが、無漏の意識は有情の依りどころとはならない」と。 またこう説いた。「この六界は異熟（業の報い）の依りどころとなるが、無漏の意識は異熟の依りどころとはならない」と。 またこう説いた。「この六界は胎に入る縁となるが、無漏の意識は胎に入る縁とはならない」と。 またこう説いた。「この六界は無始（はじめのない昔）から存在するが、無漏の意識は無始から存在するものではない」と。 大徳（だいとく）はこう説いた。「この六界は自己の一部であるが、無漏の意識は自己の一部ではない」と。 脇尊者（きょうそんじゃ）はこう言った。「この六界は生死（生まれ変わり死に変わり）の依りどころとなるが、無漏の意識は生死の依りどころとはならない」と。 このように様々な理由によって、無漏の意識は識界として立てられないのである。

問蘊取蘊界有何差別。答名即差別。謂名為蘊名為取蘊名為界故。復次於有為法施設蘊於有漏法施設取蘊。於有情數法施設界。復次蘊有流轉還滅作用。取蘊唯有流轉作用。界有結生入胎作用如是名為蘊取蘊界三種差別。

> 問う：蘊・取蘊・界には、どのような違いがあるのか。 答える：名前がそのまま違いである。すなわち、蘊と呼ばれ、取蘊と呼ばれ、界と呼ばれるからである。 また、有為の法に蘊を施し、有漏の法に取蘊を施し、有情に数えられる法に界を施す。 さらに、蘊には流転と還滅の働きがあり、取蘊にはただ流転の働きだけがあり、界には結生（けっしょう）・入胎の働きがある。 これらが、蘊・取蘊・界の三つの違いである。

有二法。謂有色無色法。問何故作此論。答為欲遮遣補特伽羅。及為顯示智殊勝故。為欲遮遣補特伽羅者。謂顯唯有有色無色法畢竟無實補特伽羅故。及為顯示智殊勝者。謂有聰慧殊勝智者。由此二法通達一切。此二遍攝一切法故。由此二緣故作斯論。問有色法云何。答謂十處一處少分。十處者。謂眼耳鼻舌身色聲香味觸處。一處少分者。謂法處少分。問無色法云何。答謂一處一處少分。一處者謂意處。一處少分者。謂法處少分。問此中何等名有色法無色法耶。答若法有色名體是色者名有色法。若法有非色名體非色者名無色法。或有法雖有色名而體非色。如契經說寂靜解脫超有色法。至無色法。應知此中有色法者即有色定。又契經說。身證色定具足而住。又如有言。我今正受如是色受。又如佛說。我以如是色經典句付屬汝等應正受持。如是等處雖有色名而體非色。若有色名體是色者名有色法。或色體有色用。或色用有色體。或體與相互相有故立有色名。復次若法體是四大種。或是四大種所造者名有色法。若法體非四大種。或非四大種所造者名無色法。復次若法大種為因及體是所造色者名有色法。若法非大種為因及體非所造色者名無色法。復次若法可種植可增長者名有色法。若法不可種植及不可增長者名無色法。尊者世友作如是說。有色相者名有色法。何等名有色相。謂有漸次積集相者名有色相。復作是說。若有漸次散壞相者名有色相。復作是說。若有形質可取相者名有色相。復作是說。若有方所可取相者名有色相。復作是說。若有大小所取相者名有色相。復作是說。若有障礙可取相者名有色相。復作是說。若有怨害可取相者名有色相。復作是說。若有損害可取相者名有色相。復作是說。若增益可取相者名有色相。復次若有三種色相可得名有色相。謂或有色有見有對。或復有色無見有對。或復有色無見無對。復作是說。若有牽來引去相者名有色相。復作是說。有變礙相名有色相。問若有變礙相名有色相者。過去未來極微無表既無變礙應無色相。若無色相體應非色。答彼亦是色得色相故。謂過去色雖今無變礙而曾有變礙。未來色雖今無變礙而當有變礙極微一一雖無變礙而多積集即有變礙。無表自體雖無變礙而彼所依有變礙故亦名變礙。所依者何謂四大種。所依有變礙故無表亦可說有變礙。如樹動時影亦隨動。復作是說。若有容受障礙相者名有色相。復作是說。若有大種為因相者名有色相。復作是說。無一切色同一色相。所以者何。眼處色相異乃至法處所攝色相異。大德說曰。若有能壞有對色相是有色相。與前所說色相相違名無色相。若法有此無色相者。名無色法。

> ここに二つの法がある。それは「有色法」と「無色法」である。 問う——なぜこの論を作るのか。 答える——補特伽羅（個我）を否定し、かつ智慧の殊勝さを示すためである。補特伽羅を否定するとは、ただ有色法と無色法のみが存在し、実在する個我は究極的に存在しないことを明らかにするためである。智慧の殊勝さを示すとは、優れた智慧を持つ賢者が存在し、この二つの法によって一切を理解することを示すためである。この二つがすべての法を包括するからである。この二つの理由によって、この論を作るのである。 問う——有色法とは何か。 答える——十処と一処の一部である。十処とは、眼・耳・鼻・舌・身・色・声・香・味・触の処である。一処の一部とは、法処の一部である。 問う——無色法とは何か。 答える——一処と一処の一部である。一処とは意処であり、一処の一部とは法処の一部である。 問う——ここで何を有色法・無色法と呼ぶのか。 答える——もし法が「色」という名を持ち、その体が色であるならば、それを有色法と呼ぶ。もし法が「非色」という名を持ち、その体が非色であるならば、それを無色法と呼ぶ。あるいは、法の中には「色」という名を持ちながら、その体が色でないものもある。例えば経典に「寂静解脱は有色法を超え、無色法に至る」と説かれている。ここでいう有色法とは有色定（色界の禅定）を指すと知るべきである。また経典に「身をもって色定を証得し、具足して安住する」とある。また「私は今、このような色（状態）の感受を受けている」と言う者もある。また仏が「私はこのような色（経典）の文句を汝らに付嘱する。正しく受持すべきである」と説かれたように、これらの場合、名は「色」であっても体は色ではない。もし「色」という名を持ち、その体が色であるならば、それを有色法と呼ぶ。 あるいは、色の体に色の働きがあるか、色の働きに色の体があるか、あるいは体と相が互いに関係し合うことで、「色」という名が立てられる。 さらに、もし法の体が四大種であるか、あるいは四大種によって造られたものであるならば、それを有色法と呼ぶ。もし法の体が四大種でなく、また四大種によって造られたものでもないならば、それを無色法と呼ぶ。 さらに、もし法が四大種を因とし、その体が造られた色であるならば、それを有色法と呼ぶ。もし法が四大種を因とせず、その体が造られた色でないならば、それを無色法と呼ぶ。 さらに、もし法が植え付けられ、成長し得るものであるならば、それを有色法と呼ぶ。もし法が植え付けられず、成長し得ないものであるならば、それを無色法と呼ぶ。 尊者世友はこう説く——「色の相を持つものを有色法と呼ぶ。何を色の相と呼ぶか。漸次に積み集まる相を持つものを色の相と呼ぶ」と。 またこう説く——「漸次に散じ壊れる相を持つものを色の相と呼ぶ」と。 またこう説く——「形質として捉えられる相を持つものを色の相と呼ぶ」と。 またこう説く——「方所（位置）として捉えられる相を持つものを色の相と呼ぶ」と。 またこう説く——「大小として捉えられる相を持つものを色の相と呼ぶ」と。 またこう説く——「障礙として捉えられる相を持つものを色の相と呼ぶ」と。 またこう説く——「怨害として捉えられる相を持つものを色の相と呼ぶ」と。 またこう説く——「損害として捉えられる相を持つものを色の相と呼ぶ」と。 またこう説く——「増益として捉えられる相を持つものを色の相と呼ぶ」と。 さらに、もし三種の色の相が得られるならば、それを色の相と呼ぶ。すなわち、ある色は見ることができ、障礙を持つ。ある色は見ることができず、障礙を持つ。ある色は見ることができず、障礙も持たない。 またこう説く——「引き寄せたり、導いたりする相を持つものを色の相と呼ぶ」と。 またこう説く——「変礙（変化し妨げる）の相を持つものを色の相と呼ぶ」と。 問う——もし変礙の相を持つものを色の相と呼ぶならば、過去・未来の極微や無表（無表色）は変礙を持たないのだから、色の相を持たないはずである。もし色の相を持たないならば、その体は色ではないはずである。 答える——それらもまた色である。色の相を得ているからである。過去の色は、今は変礙を持たないが、かつて変礙を持っていた。未来の色は、今は変礙を持たないが、将来変礙を持つであろう。極微は一つ一つは変礙を持たないが、多く積み集まれば変礙を持つ。無表はその自体は変礙を持たないが、その所依（よりどころ）が変礙を持つので、変礙を持つとも言える。所依とは何か。四大種である。所依が変礙を持つので、無表も変礙を持つと言える。例えば木が動くとき、影もそれに従って動くようなものである。 またこう説く——「受け入れ、妨げる相を持つものを色の相と呼ぶ」と。 またこう説く——「四大種を因とする相を持つものを色の相と呼ぶ」と。 またこう説く——「すべての色が同一の色相を持つわけではない。なぜなら、眼処の色相と、法処に含まれる色相とは異なるからである」と。 大徳はこう説く——「有対の色を壊すことができる相を持つものを色の相と呼ぶ。先に説いた色の相と相反するものを無色の相と呼ぶ。もし法がこの無色の相を持つならば、それを無色法と呼ぶ」と。

問墮法處色。何不攝在十色處中。答若色可以剎那極微而分析者立十色處。墮法處色雖有剎那可分析義。而無極微可分析義故不攝在十色處中。復次若色可作五識所依及所緣者立十色處。墮法處色不與五識作所依緣故不攝在十色處中。復次若色有障礙可立十色處。墮法處色既無障礙故不攝在十色處中。

> 問う：法処に堕する色は、なぜ十色処の中に含まれないのか。 答える：もし色が刹那や極微によって分析できるならば、十色処を立てる。法処に堕する色は、刹那によって分析できるという意味はあるが、極微によって分析できるという意味はないので、十色処の中に含まれないのである。 また、もし色が五識の所依や所縁となり得るならば、十色処を立てる。法処に堕する色は、五識に対して所依や所縁となることがないので、十色処の中に含まれないのである。 また、もし色に障礙があれば、十色処を立てることができる。法処に堕する色は、障礙がないので、十色処の中に含まれないのである。

問為欲界色多色界色多耶。答若依處說欲界色多色界色少。所以者何。以欲界色攝二處全九處少分。色界色唯攝九處少分。若依體說色界色多欲界色少。所以者何。以色界身處俱廣大故。謂色界身形量廣大過於欲界。色界處所亦復如是。施設論說。如從此處至梵眾天。從梵眾天至梵輔天。其量亦爾。廣說乃至。如從此處至善見天。從善見天。至色究竟其量亦爾。故色界色多於欲界。

> 問う、欲界の色と色界の色と、どちらが多いか。答えていう、もし場所に基づいて言えば、欲界の色が多く、色界の色は少ない。なぜなら、欲界の色は二つの処の全体と九つの処の一部を含むが、色界の色はただ九つの処の一部のみを含むからである。もし体に基づいて言えば、色界の色が多く、欲界の色は少ない。なぜなら、色界の身と処はともに広大であるからである。すなわち、色界の衆生の身体の大きさは欲界を超えており、色界の場所もまた同様に広大である。『施設論』に説かれるには、例えばここから梵衆天に至るまで、梵衆天から梵輔天に至るまで、その距離もまた同じである。さらに広く説いて、例えばここから善見天に至るまで、善見天から色究竟天に至るまで、その距離もまた同じである。ゆえに色界の色は欲界より多いのである。

復有二法。謂有見無見法。問何故作此論。答為欲遮遣補特伽羅。及為顯示智殊勝故。為欲遮遣補特伽羅者。謂顯唯有見無見法畢竟無實補特伽羅故。及為顯示智殊勝者。謂有聰慧殊勝智者。由此二法通達一切。此二遍攝一切法故。復次為止他宗顯正理故。謂或有執一切法皆是有見。如尊者妙音彼作是說。一切法皆是有見慧眼境故。為止彼意顯一切法。或是有見或是無見。由此三緣故作斯論。問有見法云何答。一處謂色處。問無見法云何。答十一處。謂餘十一處。問有見無見是何義耶。尊者世友作如是說。能現所現及可示現在此在彼是有見義。與此相違是無見義。大德說曰。是眼所照。是眼所行。是眼境界是有見義。與此相違是無見義。脇尊者言。若有影像明了可見是有見義。與此相違是無見義。問何故有色十一處中唯一色處說名有見。答唯一色處麁顯易了。廣說如前。十一色內唯一色處立色處名。此有見法有二十種。謂長短方圓正不正高下。青黃赤白影光明暗雲烟塵霧。復有說者。此有二十一。謂前二十種加空一顯色。問此二十色內。幾有顯無形幾有顯有形。答二十色內八有顯無形。謂青黃赤白影光明暗。餘十二色有顯有形。有說此中應作四句。或有色有顯無形。謂青黃赤白影光明暗。此八種色有顯可知無形可知故。或有色有形無顯。謂身表色此有形可知無顯可知故。或有色有顯有形。謂長短方圓正不正高下雲烟塵霧。此十二種有顯有形而可知故。或有色無顯無形。謂除前相。即空界色。問水鏡等中所有影像為是實有非實有耶。譬喻者說此非實有。所以者何。面不入鏡鏡不在面。如何鏡上有面像生。阿毘達磨諸論師言。此是實有是眼所見眼識所緣色處攝故。問面不入鏡鏡不在面。云何實有。答生色因緣有多種理非一種理故彼非難。如緣月光月愛珠器。得有水生非不實有。彼所生水有水用故。如緣日光及日愛珠牛糞末等。而有火生非不實有。彼所生火有火用故。如緣鑽燧及人功力。而有火生非不實有。彼所生火有火用故。如是緣水鏡等及人面等有影像生非不實有。所生影像能為所緣生覺念故。問世間所聞諸谷響等。為是實有非實有耶。譬喻者說。此非實有。所以者何。一切音聲剎那性故。於此處生即此處滅。剎那頃生自然即滅。如何能至谷等生響。阿毘達磨諸論師言。此是實有。是耳所聞耳識所緣聲處攝故。問聲剎那生即此處滅。如何能至谷等生響。答生聲因緣非一種理有多種理故彼非難。如緣脣齒舌齶喉等相擊出聲。彼所出聲非不實有。生耳識故。如是緣聲及緣谷等而有響生非不實有。能為所緣生覺念故。

> さらに二つの法があります。すなわち、「有見（うけん）」の法と「無見（むけん）」の法です。 問う：「なぜこの論を作るのか。」 答える：補特伽羅（個人存在）の実在という考えを打ち消し、また智慧の優れていることを示すためです。補特伽羅を打ち消すとは、ただ「見」ある法と「見」なき法のみが存在し、結局のところ実在する補特伽羅はないことを示すことです。智慧の優れていることを示すとは、優れた智慧を持つ賢明な人々が、この二つの法によってすべてを理解することを指します。この二つの法がすべての法を包括するからです。 さらに、他宗の説を止め、正しい道理を示すためでもあります。ある者は「すべての法は有見である」と執着します。例えば、尊者妙音はこう説きました。「すべての法は有見であり、慧眼の対象となるからである。」その考えを止め、すべての法は有見か無見のいずれかであることを示すために、この三つの理由によってこの論が作られたのです。 問う：「有見の法とは何か。」 答える：一つの処、すなわち色処です。 問う：「無見の法とは何か。」 答える：十一の処、すなわち残りの十一処です。 問う：「有見・無見とはどのような意味か。」 尊者世友はこう説きました。「現れることができ、現れたものを示すことができ、ここにある、そこにあると示すことができるのが有見の意味である。これと反対のものが無見の意味である。」 大徳はこう説きました。「眼によって照らされ、眼によって行じられ、眼の境界となるものが有見の意味である。これと反対のものが無見の意味である。」 脇尊者はこう言いました。「もし影像が明らかにはっきりと見えるならば、それが有見の意味である。これと反対のものが無見の意味である。」 問う：「なぜ十一の色処の中で、ただ一つの色処だけが有見と説かれるのか。」 答える：ただ一つの色処だけが粗く顕かで理解しやすいからです。詳しくは先に述べた通りです。十一の色の中でも、ただ一つの色処だけが色処という名を立てられます。 この有見の法には二十種類があります。すなわち、長・短・方・円・正・不正・高・下、青・黄・赤・白、影・光・明・暗、雲・烟・塵・霧です。 また、ある者はこう説きます。「これは二十一種類である。先の二十種類に『空の一顕色』を加えるからである。」 問う：「この二十の色の中で、いくつが顕（色）のみで形がないか。いくつが顕（色）と形の両方を持つか。」 答える：二十の色の中で、八つは顕のみで形がありません。すなわち、青・黄・赤・白・影・光・明・暗です。残りの十二の色は顕と形の両方を持ちます。 ある者はここで四句を設けるべきだと言います。 ある色は顕のみで形がない。すなわち、青・黄・赤・白・影・光・明・暗です。この八種の色は、顕としては知られるが、形としては知られないからです。 ある色は形のみで顕がない。すなわち、身の表色です。これは形としては知られるが、顕としては知られないからです。 ある色は顕と形の両方を持つ。すなわち、長・短・方・円・正・不正・高・下・雲・烟・塵・霧です。この十二種は顕と形の両方によって知られるからです。 ある色は顕も形もない。すなわち、先に述べたものを除いたもので、空界の色です。 問う：「水や鏡などの中にある影像は、実在するのか、それとも実在しないのか。」 譬喻者はこう説きます。「これは実在しない。なぜなら、顔は鏡に入らず、鏡は顔の上にない。どうして鏡の上に顔の影像が生じるのか。」 阿毘達磨の論師たちはこう言います。「これは実在する。眼によって見られ、眼識の対象となるものであり、色処に含まれるからである。」 問う：「顔は鏡に入らず、鏡は顔の上にないのに、どうして実在すると言えるのか。」 答える：色を生じる因縁には多くの理法があり、一つの理法だけではないので、そのような非難は成立しません。例えば、月光・月愛珠・器などを縁として水が生じることがありますが、それは実在しないわけではありません。生じた水には水の働きがあるからです。日光・日愛珠・牛糞の粉末などを縁として火が生じることがありますが、それは実在しないわけではありません。生じた火には火の働きがあるからです。また、鑽（きり）と燧（ひうち）と人の力を縁として火が生じることがありますが、それは実在しないわけではありません。生じた火には火の働きがあるからです。 このように、水・鏡などと人の顔などを縁として影像が生じますが、それは実在しないわけではありません。生じた影像は、認識の対象となって覚りや念を生じさせるからです。 問う：「世間で聞かれる谷の響きなどは、実在するのか、それとも実在しないのか。」 譬喻者はこう説きます。「これは実在しない。なぜなら、すべての音声は刹那の性質であり、この場所で生じてすぐにこの場所で滅するからである。刹那の間に生じて自然に滅するのに、どうして谷などに達して響きを生じることができるのか。」 阿毘達磨の論師たちはこう言います。「これは実在する。耳によって聞かれ、耳識の対象となるものであり、声処に含まれるからである。」 問う：「声は刹那に生じてすぐにこの場所で滅するのに、どうして谷などに達して響きを生じるのか。」 答える：声を生じる因縁は一つの理法ではなく、多くの理法があるので、そのような非難は成立しません。例えば、唇・歯・舌・齶・喉などが互いに触れ合って声を出しますが、その出た声は実在しないわけではありません。耳識を生じさせるからです。 このように、声と谷などを縁として響きが生じますが、それは実在しないわけではありません。認識の対象となって覚りや念を生じさせるからです。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第七十五

> 說一切有部発智大毘婆沙論 巻第七十五