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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 6"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第七十六

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第七十六巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 結蘊第二中十門納息第四之六

> 諸蘊第二中十門納息第四之六

復有二法。謂有對無對法。問何故作此論。答為欲遮遣補特伽羅。及為顯示智殊勝故。為欲遮遣補特伽羅者。謂顯唯有有對無對法。畢竟無實補特伽羅。及為顯示智殊勝者。謂有聰慧殊勝智者。由此二法通達一切。此二遍攝一切法故。復次為止他宗顯正理故。謂或有執。若與對俱說名有對不與對俱說名無對。若作是說。五識身等名為有對。所依所緣俱對礙故。或復有執。若與瞋俱說名有對。不與瞋俱說名無對。若作是說。瞋相應品心心所法說名有對。為止彼意顯有礙色說名有對。此所餘法說名無對。由此三緣故作斯論。問有對法云何。答十處。謂五內色處。及五外色處。問無對法云何。答二處。謂意處及法處。問有對無對是何義耶。答諸極微積聚是有對義。非極微積聚是無對義。復次諸可分析是有對義。不可分析是無對義。復次諸可積集是有對義。不可積集是無對義。復次諸有障礙是有對義。若無障礙是無對義。復次諸有形質是有對義。若無形質是無對義。復次若能容受。及能障礙是有對義。若不能容受及不能障礙是無對義。脇尊者言。若可分析則可積集。若可積集則有障礙。若有障礙則有形質。若有形質則能容受及能障礙。若能容受及能障礙是有對義。與上相違是無對義。尊者世友作如是說。有細分相有障礙相是有對相。無細分相無障礙相是無對相。大德說曰。若能容受及能障礙相是有對相。若不能容受及不能障礙是無對相。尊者妙音作如是說。若可施設極微積聚性。顯色長短性。隨生音響性者。是有對相。與此相違是無對相。此中極微積聚性者。說八處顯色。長短性者說色處。隨生音響性者說聲處。尊者世友作如是說。極微雜合積集住相是有對相。與此相違是無對相。尊者覺天作如是說。能據處所展轉相礙是有對相。與此相違是無對相。

> また二つの法があります。すなわち「有対法」と「無対法」です。 問う：なぜこの論を作るのか。 答える：補特伽羅（自我）の執着を除き、智慧の優れたことを示すためです。 補特伽羅の執着を除くとは、有対法と無対法のみが存在し、実体としての補特伽羅はないことを明らかにすることです。 智慧の優れたことを示すとは、優れた智慧を持つ賢者が、この二つの法によってすべてを理解することを言います。この二つの法がすべての法を包括するからです。 さらに、他宗の説を否定し、正しい道理を示すためでもあります。 ある者は「対と共にあるものを有対、対と共にないものを無対」と主張します。その説によれば、五識身などは有対であり、その所依と所縁がともに障礙があるからです。 またある者は「瞋と共にあるものを有対、瞋と共にないものを無対」と主張します。その説によれば、瞋と対応する心・心所法が有対となります。 これらの説を否定し、障礙のある色を有対とし、その他の法を無対とすることを示すためです。この三つの理由によって、この論が作られました。 問う：有対法とは何か。 答える：十処です。すなわち五つの内色処と五つの外色処です。 問う：無対法とは何か。 答える：二処です。すなわち意処と法処です。 問う：有対・無対の意味は何か。 答える：極微が積聚していることが有対の意味であり、極微が積聚していないことが無対の意味です。 また、分析できることが有対の意味であり、分析できないことが無対の意味です。 また、積集できることが有対の意味であり、積集できないことが無対の意味です。 また、障礙があることが有対の意味であり、障礙がないことが無対の意味です。 また、形質があることが有対の意味であり、形質がないことが無対の意味です。 また、容受でき、障礙できることが有対の意味であり、容受できず、障礙できないことが無対の意味です。 脇尊者は言います。「分析できるならば積集できる。積集できるならば障礙がある。障礙があるならば形質がある。形質があるならば容受でき、障礙できる。容受でき、障礙できることが有対の意味である。これと反対のことが無対の意味である」と。 尊者世友はこう言います。「細分の相があり、障礙の相があることが有対の相であり、細分の相がなく、障礙の相がないことが無対の相である」と。 大徳は言います。「容受でき、障礙できる相が有対の相であり、容受できず、障礙できないことが無対の相である」と。 尊者妙音はこう言います。「極微の積聚性、顕色の長短性、それに伴って生じる音響性を施設できるものが有対の相であり、これと反対のものが無対の相である」と。 ここで、極微の積聚性とは八処を説き、顕色の長短性とは色処を説き、随生音響性とは声処を説きます。 尊者世友はこうも言います。「極微が雑合し、積集して住する相が有対の相であり、これと反対のものが無対の相である」と。 尊者覚天はこう言います。「場所を占め、互いに障礙し合うことが有対の相であり、これと反対のものが無対の相である」と。

應知有對總有三種。一障礙有對。二境界有對。三所緣有對。障礙有對者。如以手擊手以手擊石以石擊石以石擊手以杵擊鍾。此等展轉更相障礙。如是名為障礙有對。境界有對者。如眼根等諸有境法各於自境界有所拘礙。如是名為境界有對。所緣有對者。如心心所有所緣法。各於自所緣有所拘礙。如是名為所緣有對。如是三種。有對法中。此中但說障礙有對。問障礙有對十色處中。幾處展轉有相礙義。有作是說。唯有觸處有相礙義。餘十一處無相礙義非所觸故。或有說者。唯有五處有相礙義。謂內處中唯有身處。若外處中色香味觸。彼作是說。若以手擊手即以五擊五。若以手擊石即以五擊四若以石擊石即以四擊四。若以石擊手即以四擊五。若以杵擊鍾亦以四擊四。復有說者。唯有九處有相礙義。十色處中唯除聲處。若不爾者。有以手等擊眼處等時應不生苦。評曰。應作是說。十種色處皆有礙義。若聲處無礙者。此應無積聚義。又不應名障礙有對。施設論說。眼定對色色定對眼。廣說乃至意定對法法定對意。彼師但依境界有對。而造彼論故作是說。或有眼於水有礙於陸無礙如魚等眼。或有眼於陸有礙於水無礙如人等眼。或有眼於水於陸二俱有礙。如水邏剎娑捕魚人等眼。或有眼於水於陸二俱無礙。謂除前相即被翳眼。或有眼於夜有礙於晝無礙如鵂鶹等眼。或有眼於晝有礙於夜無礙如人等眼。或有眼於晝於夜二俱有礙如馬鹿猫狸等眼。或有眼於晝於夜二俱無礙。謂除前相即被翳眼。此中有礙者謂境界有對。

> ここで知るべきこととして、「有対」には全部で三種類ある。一つは「障害有対」、二つは「境界有対」、三つは「所縁有対」である。 「障害有対」とは、例えば手で手を打つ、手で石を打つ、石で石を打つ、石で手を打つ、杵で鐘を打つ、といったように、これらが互いに障害し合うことをいう。これを「障害有対」と名づける。 「境界有対」とは、例えば眼根などの諸々の境を持つ法が、それぞれ自分の境に対して拘束・妨げを持つことをいう。これを「境界有対」と名づける。 「所縁有対」とは、心や心所などの所縁を持つ法が、それぞれ自分の所縁に対して拘束・妨げを持つことをいう。これを「所縁有対」と名づける。 この三種類の有対法のうち、ここではただ「障害有対」だけを説く。 問う：「障害有対」について、十色処のうち、いくつの処が互いに障害し合う性質を持つのか。 ある人はこう説く：「ただ触処だけが互いに障害し合う性質を持つ。残りの十一処には障害し合う性質はない。なぜなら、触れられるものではないからである。」 あるいはこう説く者もいる：「ただ五つの処だけが障害し合う性質を持つ。すなわち、内処の中ではただ身処だけであり、外処の中では色・香・味・触である。」その者はこう説く：「もし手で手を打つならば、五つで五つを打つことになる。もし手で石を打つならば、五つで四つを打つことになる。もし石で石を打つならば、四つで四つを打つことになる。もし石で手を打つならば、四つで五つを打つことになる。もし杵で鐘を打つならば、これも四つで四つを打つことになる。」 さらにこう説く者もいる：「ただ九つの処だけが障害し合う性質を持つ。十色処のうち、ただ声処だけを除くのである。もしそうでなければ、手などで眼処などを打つときに苦しみが生じないはずがない。」 評して言うべきである：「十種の色処はすべて障害の性質を持つ。もし声処に障害がなければ、これには積み重なる性質がないはずであり、また『障害有対』と名づけるべきではない。」 『施設論』にはこう説かれている：「眼は必ず色に対して対であり、色は必ず眼に対して対である。広く説いて、意は必ず法に対して対であり、法は必ず意に対して対である。」あの師はただ「境界有対」に依ってその論を造ったので、このように説いたのである。 あるいは、水に対して障害があり陸に対して障害がない眼がある。例えば魚などの眼である。あるいは、陸に対して障害があり水に対して障害がない眼がある。例えば人間などの眼である。あるいは、水に対しても陸に対しても両方とも障害がある眼がある。例えば水羅刹や魚を捕る人などの眼である。あるいは、水に対しても陸に対しても両方とも障害がない眼がある。これは先に述べたものを除いた、すなわち翳（かすみ）のある眼である。 あるいは、夜に対して障害があり昼に対して障害がない眼がある。例えば梟（みみずく）などの眼である。あるいは、昼に対して障害があり夜に対して障害がない眼がある。例えば人間などの眼である。あるいは、昼に対しても夜に対しても両方とも障害がある眼がある。例えば馬・鹿・猫・狸などの眼である。あるいは、昼に対しても夜に対しても両方とも障害がない眼がある。これは先に述べたものを除いた、すなわち翳のある眼である。 ここで「障害がある」とは、「境界有対」を指すのである。

復有二法謂有漏無漏法。問何故作此論。答為欲遮遣補特伽羅。及為顯示智殊勝故。為欲遮遣補特伽羅者。謂顯唯有有漏無漏法。畢竟無實補特伽羅。及為顯示智殊勝者。謂有聰慧殊勝智者。由此二法通達一切。此二遍攝一切法故。復次為止他宗顯正理故。謂或有執。佛身無漏如大眾部。問彼何故作此執。答依契經故。如契經說。苾芻當知。如來生在世間長在世間出世間住。不為世法之所染污。彼作是說。既言如來出世間住不為世法之所染污。由此故知佛身無漏。為止彼意顯佛生身唯是有漏。若佛生身是無漏者便違契經。如契經說。無明所覆愛結所縛。愚夫智者感有識身。世尊亦是智者所攝身定應是無明愛果。是故佛身定應有漏。又若佛身是無漏者。無比女人不應於佛生身起愛。指鬘於佛不應生瞋諸憍傲者不應生慢。隖盧頻螺迦葉波等不應生癡。於佛生身既有發起貪瞋癡慢。故知佛身定非無漏。問若佛生身是有漏者。云何通彼所引契經。答彼說法身故不成證。謂彼經說。如來生在世間長在世間者。說佛生身。出世間住不為世法所染污者說佛法身。復次依佛不隨世法轉義說彼契經故無有失。謂世八法隨世間轉。世間亦隨世八法轉。雖世八法隨世間轉。而佛不隨世八法轉。復次依佛解脫世八法義。說彼契經。故無有失。問佛亦曾遇此世八法。如何說佛解脫此耶。謂一日中勇猛長者曾奉施佛三百千衣。諸如是等名佛遇利。佛入娑羅婆羅門邑乞食不得空鉢而還。諸如是等名佛遇衰。佛於生時名譽上至他化自在。得菩提時名譽上至色究竟天。轉法輪時名譽上至大梵王宮。諸如是等名佛遇譽。佛為戰遮婆羅門女孫陀利女惡心毀謗。惡名流布十六大國。諸如是等名佛遇毀。佛為跋羅墮闍梵志以五百頌現前譏罵諸如是等名佛遇譏。即此梵志須臾迴此五百頌言現前讚佛。如是論力及隖波離以妙伽他現前讚佛。尊者舍利子以眾多頌現前讚佛無上功德。尊者阿難陀以眾多頌現前讚佛希有妙法。諸如是等名佛遇稱。佛有輕安及勝受樂。一切有情所不能及名佛遇樂。佛有頭痛背痛腹痛。及有傷足出血等事名佛遇苦。既有此事如何解脫。答雖遇此事而不生染。故說世尊於此解脫。謂佛雖遇利等四法。而心不生高歡喜愛。又佛雖遇衰等四法。而心不生下慼憂恚。如妙高山據金輪上。八方猛風不能傾動。世尊亦爾住戒金輪。此世八法所不能動。是故名為於此解脫。解脫此故說為不染。非謂生身亦是無漏。然佛生身從漏生故說為有漏。能生他漏故名有漏。是故為止他宗所說及顯己宗無顛倒理。并前二緣故作斯論。問有漏法云何。答十處二處少分。謂意處法處少分。問無漏法云何。答二處少分。謂即意處法處少分。問有漏無漏其義云何。答若法能長養諸有。攝益諸有。任持諸有。是有漏義。與此相違是無漏義。復次若法能令諸有相續生老病死流轉不絕是有漏義。與此相違是無漏義。復次若法是趣苦集行。及是趣諸有世間生老病死行是有漏義與此相違是無漏義。復次若法是有身見事。苦集諦攝是有漏義。與此相違是無漏義。復次若法能令諸漏增長是有漏義。若法能令諸漏損減是無漏義。尊者世友作如是說。有漏相者從漏生相是有漏相。能生漏相是有漏相。無漏相者與此相違。大德說曰。若離此事諸漏不有。應知此事是有漏相。若離此事諸漏得有。應知此事是無漏相。尊者覺天作如是說。若法是漏生長依處是有漏相。與此相違是無漏相。

> 再有二法，所謂有漏法與無漏法。問：為何要作這部論呢？答：為了要排除「補特伽羅」（實體自我）的執著，以及為了顯示智慧的殊勝。所謂排除補特伽羅，是顯示唯有有漏、無漏之法，究竟沒有真實的補特伽羅。所謂顯示智慧殊勝，是說有聰慧殊勝的智者，能透過這二法通達一切，因為這二法普遍涵攝一切法的緣故。 其次，為了止息他宗、顯示正理。例如有某些派別執著佛身是無漏的，如大眾部。問：他們為何這樣執著呢？答：依據經典的緣故。如經典中說：「比丘們當知，如來生在世間、長在世間，出世間而住，不被世間法所染污。」他們這樣說：「既然說如來出世間而住、不被世間法所染污，由此可知佛身是無漏的。」為了止息他們的觀點，顯示佛的「生身」（肉身）唯是有漏。如果佛的生身是無漏的，就違背經典。如經典中說：「被無明所覆蓋、被愛結所繫縛，愚夫與智者都會感得有識之身。」世尊也是屬於智者所攝，其身必定是無明與愛的果報，因此佛身必定是有漏的。 又，如果佛身是無漏的話，無比女人就不應對佛的生身生起愛欲；指鬘就不應對佛生起瞋恨；諸多驕傲者就不應生起慢心；優樓頻螺迦葉波等人就不應生起愚癡。既然對佛的生身會發起貪、瞋、癡、慢，由此可知佛身決定不是無漏的。 問：如果佛的生身是有漏的，那要如何通釋他們所引的經典呢？答：他們說的是「法身」，所以不能成為證明的依據。那部經中說「如來生在世間、長在世間」，是說佛的生身；說「出世間而住、不被世間法所染污」，是說佛的法身。 其次，依據佛不隨世間法而轉的意義來說那部經典，所以沒有過失。所謂世間八法隨世間而轉，世間也隨世間八法而轉。雖然世間八法隨世間而轉，但佛不隨世間八法而轉。 其次，依據佛已解脫世間八法的意義來說那部經典，所以沒有過失。問：佛也曾經遭遇這世間八法，如何說佛解脫這些呢？例如在一日之中，勇猛長者曾供養佛三百千件衣服，這類事情叫做佛遭遇「利」（利益）。佛進入娑羅婆羅門的城邑乞食，空缽而回，這類事情叫做佛遭遇「衰」（衰敗）。佛出生時，名聲遠播上至他化自在天；證得菩提時，名聲遠播上至色究竟天；轉法輪時，名聲遠播上至大梵王宮，這類事情叫做佛遭遇「譽」（讚譽）。佛被戰遮婆羅門女、孫陀利女以惡心毀謗，惡名流布十六大國，這類事情叫做佛遭遇「毀」（毀謗）。佛被跋羅墮闍梵志以五百頌當面譏罵，這類事情叫做佛遭遇「譏」（譏諷）。而這位梵志不久後又迴轉這五百頌的話，當面讚歎佛。同樣地，論力及鄔波離以美妙的偈頌當面讚歎佛；尊者舍利子以眾多偈頌當面讚歎佛的無上功德；尊者阿難陀以眾多偈頌當面讚歎佛的希有妙法，這類事情叫做佛遭遇「稱」（稱讚）。佛有輕安及殊勝的受樂，是一切有情所不能及的，叫做佛遭遇「樂」（快樂）。佛有頭痛、背痛、腹痛，以及傷足出血等事，叫做佛遭遇「苦」（痛苦）。既然有這些事，如何說佛解脫呢？ 答：雖然遭遇這些事，但心中不生染著，所以說世尊對此已得解脫。佛雖然遭遇利等四法，但心不生高慢、歡喜、貪愛；佛雖然遭遇衰等四法，但心不生卑下、憂愁、瞋恚。如同妙高山安住於金輪之上，八方的猛風都不能動搖它。世尊也是如此，安住於戒的金輪之上，這世間八法不能動搖他，所以稱為對此已得解脫。因為解脫這些，所以說為「不染」，並非說生身也是無漏的。然而佛的生身是從煩惱（漏）所生，所以說為有漏；又能令他人產生煩惱，所以稱為有漏。 因此，為了止息他宗所說的觀點，以及顯示自宗沒有顛倒的道理，再加上前面所說的兩種緣由，所以作這部論。 問：什麼是有漏法？答：十處加上二處的一部分，也就是意處和法處的一部分。問：什麼是無漏法？答：二處的一部分，也就是意處和法處的一部分。問：有漏與無漏的意義是什麼？答：如果一法能長養諸有（生死流轉的存在）、攝益諸有、任持諸有，這就是有漏的意義；與此相反的，就是無漏的意義。 其次，如果一法能令諸有相續，使生老病死流轉不絕，這就是有漏的意義；與此相反的，就是無漏的意義。 其次，如果一法是趨向苦集的行，以及是趨向諸有世間生老病死的行，這就是有漏的意義；與此相反的，就是無漏的意義。 其次，如果一法是「有身見」（我見）的對象，屬於苦諦與集諦所攝，這就是有漏的意義；與此相反的，就是無漏的意義。 其次，如果一法能令諸煩惱增長，這就是有漏的意義；如果一法能令諸煩惱損減，這就是無漏的意義。 尊者世友這樣說：有漏的相狀，是從煩惱所生的相，以及能生煩惱的相，這就是有漏相；無漏的相狀與此相反。 大德說：如果離開了這件事，煩惱就不存在，應知這件事是有漏相；如果離開了這件事，煩惱才能夠存在，應知這件事是無漏相。 尊者覺天這樣說：如果一法是煩惱生長所依止之處，這就是有漏相；與此相反的，就是無漏相。

復有二法。謂有為無為法。問何故作此論。答為欲遮遣補特伽羅。及為顯示智殊勝故。為欲遮遣補特伽羅者。謂顯唯有有為無為法。畢竟無實補特伽羅故。及為顯示智殊勝者。謂有聰慧智殊勝者。由此二法通達一切。此二遍攝一切法故。復次為止他宗顯正理故。謂或有執。有對法是有為。無對法是無為。或復有執。有漏法是有為。無漏法是無為。為止彼意顯無對法及無漏法俱通有為無為由此三緣故作斯論。問有為法云何。答十一處一處少分。謂法處少分。問無為法云何。答一處少分。謂法處少分。問有為無為是何等義。答若法有生有滅有因有果得有為相。是有為義。若法無生無滅無因無果。得無為相。是無為義。復次若法依屬因緣和合作用是有為義。若法不依屬因緣和合作用是無為義。復次若法為生所起。為老所衰。為無常所滅。是有為義。與此相違是無為義。復次若法流轉於世。能取果。有作用分別所緣。是有為義。與此相違是無為義。復次若法墮世墮蘊與苦相續。前後變易有下中上是有為義。與此相違是無為義。尊者世友作如是說。何等有為相。謂墮世相墮蘊相是有為相。何等無為相。謂不墮世相不墮蘊相是無為相。大德說曰。若法由有情加行。而有聚散是有為相。若法由有情加行。而無聚散是無為相。尊者覺天作如是說。若法由因緣作是有為相。若法不由因緣作是無為相。尊者妙音作如是說。若法與有為相合是有為相。若法不與有為相合是無為相。

> また、二つの法があります。すなわち、有為法と無為法です。 問う：なぜこの論を作るのか。 答う：補特伽羅（個我）の存在を否定し、かつ智慧の優れたことを示すためです。 補特伽羅を否定するとは、有為法と無為法のみが存在し、究極的には実在する個我がないことを示すことです。 智慧の優れたことを示すとは、聡明で智慧に優れた者は、この二つの法によって一切を理解するからです。この二つはすべての法を包括するからです。 さらに、他宗の主張を否定し、正しい道理を示すためです。 ある者は、有対法は有為であり、無対法は無為であると執着します。 またある者は、有漏法は有為であり、無漏法は無為であると執着します。 これらの見解を否定し、無対法と無漏法の両方が有為と無為に通じることを示すため、この三つの理由によってこの論が作られました。 問う：有為法とは何か。 答う：十一処と一処の一部、すなわち法処の一部です。 問う：無為法とは何か。 答う：一処の一部、すなわち法処の一部です。 問う：有為と無為の意味は何か。 答う：もし法に生・滅・因・果があり、有為の相を備えるならば、それが有為の意味です。 もし法に生・滅・因・果がなく、無為の相を備えるならば、それが無為の意味です。 また、もし法が因縁の和合に依属し、作用を有するならば、それが有為の意味です。 もし法が因縁の和合に依属せず、作用を有しないならば、それが無為の意味です。 また、もし法が生によって起こされ、老によって衰え、無常によって滅ぼされるならば、それが有為の意味です。 これと反対のものが無為の意味です。 また、もし法が世間を流転し、果を取ることができ、作用があり、所縁を分別するならば、それが有為の意味です。 これと反対のものが無為の意味です。 また、もし法が世間に堕ち、蘊に堕ち、苦と相続し、前後に変易し、下・中・上があるならば、それが有為の意味です。 これと反対のものが無為の意味です。 尊者世友はこう述べています。 何が有為の相か。世間に堕ちる相、蘊に堕ちる相が有為の相です。 何が無為の相か。世間に堕ちない相、蘊に堕ちない相が無為の相です。 大徳はこう述べています。 もし法が有情の加行によって集散するならば、それが有為の相です。 もし法が有情の加行によっても集散しないならば、それが無為の相です。 尊者覚天はこう述べています。 もし法が因縁によって作られるならば、それが有為の相です。 もし法が因縁によって作られないならば、それが無為の相です。 尊者妙音はこう述べています。 もし法が有為の相と合するならば、それが有為の相です。 もし法が有為の相と合しないならば、それが無為の相です。

復有三法。謂過去未來現在法。問何故作此論。答為止他宗顯正理故。謂或有執。世與行異。如譬喻者分別論師。彼作是說。世體是常行體無常。行行世時如器中果。從此器出轉入彼器。亦如多人從此舍出轉入彼舍。諸行亦爾。從未來世入現在世。從現在世入過去世。為止彼意顯世與行體無差別。謂世即行行即是世。故大種蘊作如是說。世名何法。謂此增語所顯諸行。復有愚於三世自性。謂撥無過去未來。執現在是無為法。為止彼意顯過去未來體相實有。及顯現在是有為法。所以者何。若過去未來非實有者。應無成就及不成就。如第二頭第三手第六蘊第十三處第十九界。無有成就及不成就。過去未來法亦應爾。既有成就及不成就。故知實有過去未來。又應詰彼撥無過去未來體者。若有異熟因在現在世時。彼所得果當言在何世。過去耶未來耶現在耶。若言在過去應說有過去。若言在未來應說有未來。若言在現在應說異熟因果同時。如是便違伽他所說。

> さらに三つの法がある。すなわち過去・未来・現在の法である。 問う——なぜこの論を作るのか。 答える——他者の主張を止め、正しい理を顕すためである。 というのも、ある者たちは「世と行とは別である」と執着する。例えば、譬喩者や分別論師たちである。彼らはこう説く——「世の体は常であり、行の体は無常である。行が世を渡るとき、それは器の中の果実のようなものである。この器から出て、かの器に移る。また、多くの人がこの家から出てかの家に移るのと同じである。諸の行もまた、未来世から現在世に入り、現在世から過去世に入る」と。 彼らの意を止めるために、世と行とは体に差別がないことを顕す。すなわち、世がすなわち行であり、行がすなわち世である。 ゆえに大種蘊はこう説く——「世とは何の法か。すなわち、この増語が顕すところの諸の行である」と。 また、三世の自性について愚かな者たちがいる。すなわち、過去と未来を撥無し、現在は無為法であると執する。 彼らの意を止めるために、過去と未来の体と相とは実に有ることを顕し、また現在は有為法であることを顕す。 なぜならば、もし過去と未来が実に有るのでなければ、成就と不成就とがあるべきではない。例えば、第二の頭、第三の手、第六の蘊、第十三の処、第十九の界には、成就も不成就もない。過去と未来の法もまた、そのようにあるべきである。 しかるに、成就と不成就とが有る以上、過去と未来とが実に有ると知るべきである。 また、過去と未来の体を撥無する者を、こう詰問すべきである——「もし異熟因が現在世にあるとき、その得るべき果は、いずれの世にあると言うべきか。過去か、未来か、現在か。もし過去にあると言うならば、過去は有ると説くべきである。もし未来にあると言うならば、未来は有ると説くべきである。もし現在にあると言うならば、異熟の因と果とは同時であると説くことになり、そうであれば伽他（偈）の説に違背することになる」と。

作惡不即受非如乳成酪猶灰覆火上愚蹈久方燒

> 悪い行いをしても、その報いはすぐには来ない。乳が凝ってチーズになるように、時間をかけて熟成されるのだ。火が灰に覆われているように、愚かな者はその上を歩いても、しばらくは気づかないが、やがて火傷するのだ。

若言彼果不在三世彼應無果。以異熟果非無為故。若無果者因亦應無。如第二頭第三手等。若有異熟果在現在世時。彼所酬因當言在何世。過去耶未來耶現在耶。若言在過去應說有過去。若言在未來應說有未來。若言在現在應說異熟因果同時。如是便違前所引頌。若言彼因不在三世。彼應無因。以異熟因非無為故。若無因者果亦應無。如第二頭第三手等。復次若過去未來非實有者。應無出家受具戒義。如有頌言。

> もし「その果報は三世に存在しない」と言うならば、その者には果報がないはずである。なぜなら、異熟果は無為法ではないからである。もし果報がないならば、因もまた存在しないはずである。例えば、第二の頭や第三の手のようなものである。もし異熟果が現在世に存在するならば、その報いをもたらす因は、いったいどの世に属すると言うべきであろうか。過去か、未来か、現在か。もし過去にあると言うならば、過去は存在すると説くべきである。もし未来にあると言うならば、未来は存在すると説くべきである。もし現在にあると言うならば、異熟果と因は同時であると説くことになり、そうすれば先に引用した偈頌に反することになる。もし「その因は三世に存在しない」と言うならば、その者には因がないはずである。なぜなら、異熟因は無為法ではないからである。もし因がないならば、果報もまた存在しないはずである。例えば、第二の頭や第三の手のようなものである。さらに、もし過去と未来が実在しないならば、出家して具足戒を受ける意味もないはずである。次の偈頌のように説かれている。

若執無過去應無過去佛若無過去佛無出家受具

> もし過去がないというなら、過去の仏もないことになる。もし過去の仏がいなければ、出家して戒を受け修行する者も存在し得ない。

復次若過去未來非實有者。應出家眾皆有正知而虛誑語。如有頌言。

> また、もし過去や未来が実在しないのであれば、出家した者たちは皆、正しい知識を持ちながらも虚偽の言葉を語ることになってしまいます。例えば、次のような偈（うた）があります。

若執無過去而言歲少多彼應日日增正知虛誑語

> もし「過去は存在しない」と主張するなら、歳が少ないとか多いとか言うことはできないはずだ。それなのに歳の多少を言うなら、それは正しい智慧に反する虚偽の言葉となる。

復次若過去未來非實有者。彼現在世應亦是無。觀過去未來施設現在故。若無三世便無有為。若無有為亦無無為。觀有為法立無為故。若無有為無為應無一切法。若無一切法應無解脫出離涅槃。如是便成大邪見者。勿有斯過故知實有過去未來。又現在世非無為法。因緣生故有作用故。無為不爾。如是為遮他宗所說及顯正理故作斯論。

> また、もし過去と未来が実在しないのであれば、現在の世もまた存在しないはずである。なぜなら、過去と未来に基づいて現在を仮に立てているからである。もし三世が存在しなければ、つくり出されたもの（有為法）も存在しない。もし有為法が存在しなければ、つくり出されていないもの（無為法）も存在しない。なぜなら、有為法を観察して無為法を立てるからである。もし有為法と無為法が存在しなければ、すべての法が存在しないことになる。もしすべての法が存在しなければ、解脱や出離、涅槃も存在しないことになる。このように考えれば、大きな誤った見解に陥ってしまう。このような過ちがあってはならないので、過去と未来も実在すると知るべきである。また、現在の世は無為法ではない。因と縁によって生じ、作用を持つからである。無為法はそのようではない。このようにして、他宗の説を否定し、正しい道理を示すために、この論を説くのである。

問過去法云何。答五蘊十二處十八界各一分。問未來法云何。答五蘊十二處十八界各一分。問現在法云何。答五蘊十二處十八界各一分。問如是三世以何為自性。答以一切有為法為自性。如說自性。我物自體相分本性應知亦爾。已說自性。所以今當說。問何故名世。世是何義。答行義是世義。問諸行無來無去。云何行義是世義。所以者何。諸行若來不應有去來相合故。諸行若去不應有來去相合故。復次諸行若來則來處應空缺。諸行若去則去處應盈礙。是故尊者世友說言。諸行無來亦無有去。剎那性故住義亦無。諸行既無來去等相。如何立有三世差別。答以作用故立三世別。即依此理說有行義。謂有為法未有作用名未來。正有作用名現在。作用已滅名過去。復次色未變礙名未來。正有變礙名現在。變礙已滅名過去。受未領納名未來。正能領納名現在。領納已滅名過去。想未取相名未來。正能取相名現在。取相已滅名過去。行未造作名未來。正有造作名現在。造作已滅名過去。識未了別名未來。正能了別名現在。了別已滅名過去。復次眼未見色名未來。正能見色名現在。見色已滅名過去。廣說乃至意未了法名未來。正能了法名現在。了法已滅名過去。問現在眼等若彼同分無見等用應非現在。答彼雖無有見等作用。而決定有取果作用。是未來法同類因故諸有為法在現在時皆能為因取等流果。此取果用遍現在法無雜亂故。依之建立過去未來現在差別。復次諸有為法三有為相。未已作用名未來。一已作用二正作用名現在。三已作用名過去。復次諸有為法未有四緣作用名未來。正有四緣作用名現在。四緣作用已滅名過去。復次諸有為法未有六因作用名未來。正有六因作用名現在。六因作用已滅名過去。復次諸有為法未取未與士用果名未來。正取正與士用果名現在。取與士用果已滅名過去。復次諸有為法未取未與等流果名未來。正取或與等流果名現在。取或與等流果已滅名過去。復次不善善有漏法。未取未與異熟果名未來。正取未與異熟果名現在。取異熟果已滅名過去。復次諸有為法。未酬相應俱有因名未來。正酬相應俱有因名現在。酬相應俱有因已滅名過去。復次諸有為法。未已酬同類遍行因名未來。已酬未滅名現在。已酬已滅名過去。復次異熟無記法。未已酬異熟因名未來。已酬未滅名現在。已酬已滅名過去。復次諸有為法未已起滅名未來。已起未已滅名現在。已起已滅名過去。復次諸有為法。未已起壞名未來。已起未已壞名現在。已起已壞名過去。復次諸有為法。未已起離名未來。已起未已離名現在。已起已離名過去。如起對滅壞離。生對滅壞離亦爾。然契經中未來亦說已生等者。依彼種類故作是說。如說有法已生已有已作。有為。有所作緣已生。有盡法有費法有離法有滅法有壞法。欲令不壞無有是處。此中已生者。唯說生所生法。已有者。顯有自性。已作者。顯有過患。有為者。顯有造作。有所作者。顯業有果。緣已生者。顯因緣合。有盡費離滅壞法者。顯定當有欲令不壞。無有是處者。顯不自在。復次諸有為法在二世前名過去。在二世後名未來。在二世中名現在。復次諸有為法。為三世因名過去。為二世因名現在。為一世因名未來。復次諸有為法。是三世果名未來。是二世果名現在。是一世果名過去。復次諸有為法。觀過去現在故施設未來。不觀未來故施設未來。無第四世故觀未來現在。故施設過去。不觀過去故施設過去。無第四世故。觀過去未來。故施設現在。不觀現在故施設現在。無第四世故。如是名為三世差別。依此建立諸行行義。由此行義世義得成。

> 問う：過去の法とは何か。答う：五蘊、十二処、十八界のそれぞれ一部である。問う：未来の法とは何か。答う：五蘊、十二処、十八界のそれぞれ一部である。問う：現在の法とは何か。答う：五蘊、十二処、十八界のそれぞれ一部である。問う：このような三世の自性は何か。答う：すべての有為法を自性とする。自性について説いたように、我、物、自体、相、本性についても同様に知るべきである。すでに自性を説いたので、次にその意味を説こう。問う：なぜ「世」というのか。「世」の意味は何か。答う：「行」という意味が「世」の意味である。問う：諸行は来ることも去ることもないのに、なぜ「行」という意味が「世」の意味なのか。なぜなら、諸行が来るとすれば、去るという相と合わさることになるからである。諸行が去るとすれば、来るという相と合わさることになるからである。また、諸行が来るとすれば、来る場所は空いているはずである。諸行が去るとすれば、去る場所は塞がっているはずである。それゆえ、尊者世友はこう説いた。「諸行には来ることも去ることもなく、刹那の性質であるがゆえに、留まるという意味もない」と。諸行に来去などの相がないのなら、どうして三世の差別を立てることができるのか。答う：作用によって三世の差別を立てるのである。すなわち、この道理に基づいて「行」という意味があると説くのである。有為法がまだ作用を生じていないものを「未来」という。まさに作用を生じているものを「現在」という。作用がすでに滅したものを「過去」という。また、色がまだ変礙（変化し妨げる働き）していないものを「未来」という。まさに変礙しているものを「現在」という。変礙がすでに滅したものを「過去」という。受がまだ領納していないものを「未来」という。まさに領納しているものを「現在」という。領納がすでに滅したものを「過去」という。想がまだ相を取っていないものを「未来」という。まさに相を取っているものを「現在」という。相を取ることがすでに滅したものを「過去」という。行がまだ造作していないものを「未来」という。まさに造作しているものを「現在」という。造作がすでに滅したものを「過去」という。識がまだ了別していないものを「未来」という。まさに了別しているものを「現在」という。了別がすでに滅したものを「過去」という。また、眼がまだ色を見ていないものを「未来」という。まさに色を見ているものを「現在」という。色を見ることがすでに滅したものを「過去」という。広く説けば、意がまだ法を了別していないものを「未来」という。まさに法を了別しているものを「現在」という。法を了別することがすでに滅したものを「過去」という。問う：現在の眼などが、もし彼の同分（同じ働きを有するもの）であって、見るなどの働きがないならば、現在ではないはずである。答う：それらには見るなどの作用はないが、必ず果を取る作用がある。これらは未来の法の同類因であるからである。すべての有為法は、現在にあるとき、すべて因となって等流果を取ることができる。この果を取る作用は現在の法に普遍的に存在し、混乱がない。これに基づいて、過去・未来・現在の差別を立てるのである。また、すべての有為法には三つの有為の相がある。まだ作用を終えていないものを「未来」という。一つが作用を終え、二つが作用しているものを「現在」という。三つが作用を終えたものを「過去」という。また、すべての有為法に、まだ四縁の作用がないものを「未来」という。まさに四縁の作用があるものを「現在」という。四縁の作用がすでに滅したものを「過去」という。また、すべての有為法に、まだ六因の作用がないものを「未来」という。まさに六因の作用があるものを「現在」という。六因の作用がすでに滅したものを「過去」という。また、すべての有為法が、まだ士用果を取らず与えていないものを「未来」という。まさに士用果を取り与えているものを「現在」という。士用果を取り与えることがすでに滅したものを「過去」という。また、すべての有為法が、まだ等流果を取らず与えていないものを「未来」という。まさに等流果を取り、あるいは与えているものを「現在」という。等流果を取り、あるいは与えることがすでに滅したものを「過去」という。また、不善法と善の有漏法が、まだ異熟果を取らず与えていないものを「未来」という。まさに取り、まだ与えていないものを「現在」という。異熟果を取ることがすでに滅したものを「過去」という。また、すべての有為法が、まだ相応因と倶有因に応じていないものを「未来」という。まさに相応因と倶有因に応じているものを「現在」という。相応因と倶有因に応じることがすでに滅したものを「過去」という。また、すべての有為法が、まだ同類因と遍行因に応じ終えていないものを「未来」という。すでに応じ終えてまだ滅していないものを「現在」という。すでに応じ終えてすでに滅したものを「過去」という。また、異熟の無記法が、まだ異熟因に応じ終えていないものを「未来」という。すでに応じ終えてまだ滅していないものを「現在」という。すでに応じ終えてすでに滅したものを「過去」という。また、すべての有為法が、まだ生起し滅していないものを「未来」という。すでに生起してまだ滅していないものを「現在」という。すでに生起してすでに滅したものを「過去」という。また、すべての有為法が、まだ生起し壊れていないものを「未来」という。すでに生起してまだ壊れていないものを「現在」という。すでに生起してすでに壊れたものを「過去」という。また、すべての有為法が、まだ生起し離れていないものを「未来」という。すでに生起してまだ離れていないものを「現在」という。すでに生起してすでに離れたものを「過去」という。生起が滅・壊・離に対するように、生が滅・壊・離に対するのも同様である。しかし、経典の中で未来についても「すでに生じた」などと説くのは、その種類に基づいてそのように説くのである。例えば、「法がすでに生じ、すでに有り、すでに作られ、有為であり、所作の縁によってすでに生じ、尽きる法があり、費える法があり、離れる法があり、滅する法があり、壊れる法がある。壊れないようにさせようとしても、そのようなことはありえない」と説く。この中の「すでに生じた」とは、ただ生じた法を説くものである。「すでに有る」とは、自性を有することを示す。「すでに作られた」とは、過患があることを示す。「有為」とは、造作があることを示す。「所作がある」とは、業が果を有することを示す。「縁によってすでに生じた」とは、因と縁が合わさったことを示す。「尽きる法、費える法、離れる法、滅する法、壊れる法がある」とは、必ずそうなることが定まっていることを示す。「壊れないようにさせようとしても、そのようなことはありえない」とは、自在ではないことを示す。また、すべての有為法が、二世の前にあるものを「過去」という。二世の後にあるものを「未来」という。二世の中にあるものを「現在」という。また、すべての有為法が、三世の因であるものを「過去」という。二世の因であるものを「現在」という。一世の因であるものを「未来」という。また、すべての有為法が、三世の果であるものを「未来」という。二世の果であるものを「現在」という。一世の果であるものを「過去」という。また、すべての有為法について、過去と現在を観察して未来を施設する。未来を観察しないから未来を施設するのである。第四の世がないからである。未来と現在を観察して過去を施設する。過去を観察しないから過去を施設するのである。第四の世がないからである。過去と未来を観察して現在を施設する。現在を観察しないから現在を施設するのである。第四の世がないからである。このようにして三世の差別と名づける。これに基づいて諸行の「行」という意味を立てる。この「行」という意味によって「世」という意味が成り立つのである。

問諸有為法未來生時。為已生而生。為未已生而生。設爾何失。二俱有過。所以者何。若已生而生者。云何諸行非轉還耶。若未已生而生者。云何諸行非本無而有耶。答應作是說。有因緣故已生而生。謂一切法已有自性本來各住自體相故。已有體故說名已生。非從因緣已生自體。因緣和合起故名生。有因緣故未已生而生。謂未來法名未已生。有從因緣正得生故。問諸有為法未來生時。為已有故而生。為未已有故而生。設爾何失。二俱有過。所以者何。若已有故而生者。自體已有復何用生。若未已有故而生者。應一切法本無今有。說一切有應不得成。答應作是說已有而生。問若爾。善通後所設難。前所設難當云何通。答體雖已有而無作用。今遇因緣而生作用。問作用與體為一為異。答不可定說為一為異。如有漏法一一體上有無常等眾多義相。不可定說為一為異。此亦如是。故不應責。問為此法生即此法滅。為餘法生餘法滅耶。設爾何失。二俱有過。所以者何。若此法生即此法滅者。應未來生即未來滅。若餘法生餘法滅者。應色等生餘受等滅。答應作是說。有因緣故說此法生即此法滅。謂色蘊生即色蘊滅。乃至識蘊生即識蘊滅。有因緣故說餘法生餘法滅。謂未來世生現在世滅。問諸有為法未來生時。為世體生為世中生。設爾何失。二俱有過。所以者何。若世體生者。一法生時應未來世一切法生。此既生已應無未來。此復已滅應無現在。便壞三世一切有義若世中生者。云何諸行非異世耶。答應作是說。有因緣故說世體生。以一剎那行生時即是未來世生故。有因緣故說世中生。未來世行有多剎那。於中唯一剎那生故。問諸有為法未來生時為自性生。為他性生。設爾何失。二俱有過。所以者何。若自性生者。云何非本無自性今有自性。本無實物今有實物。若他性生者。云何不捨自性成無性相。答應作是說。非自性生。亦非他性生。然於自性有如是法生已而滅。

> 問う、諸の有為法が未来に生じる時、すでに生じたものとして生じるのか、まだ生じていないものとして生じるのか。もしそうであるなら、何が問題か。両方に過失がある。なぜなら、もしすでに生じたものとして生じるなら、どうして諸の行（すべての現象）は還らないのか。もしまだ生じていないものとして生じるなら、どうして諸の行は本来無かったのに今あるということにならないのか。 答えていうべきである。因縁があるから、すでに生じたものとして生じるといえる。すなわち、すべての法はすでに自性を持ち、もともとそれぞれ自体の相に住しているからである。すでに体があるから「すでに生じた」と名づける。因縁から自体が生じたのではない。因縁が和合して起こることを「生」と名づける。また、因縁があるから、まだ生じていないものとして生じるといえる。すなわち、未来の法は「まだ生じていない」と名づける。因縁によってまさに生じるからである。 問う、諸の有為法が未来に生じる時、すでに有るから生じるのか、まだ有らないから生じるのか。もしそうであるなら、何が問題か。両方に過失がある。なぜなら、もしすでに有るから生じるなら、自体がすでに有るのに、どうしてさらに生じる必要があるのか。もしまだ有らないから生じるなら、すべての法は本来無くて今有るということになり、「説一切有」の教えは成立しないであろう。 答えていうべきである。すでに有るから生じるのである。 問う、もしそうなら、後の難問にはうまく通じるが、前の難問にはどう通じるのか。 答える。体はすでに有るが、作用はまだ無い。今、因縁に遇って作用を生じるのである。 問う、作用と体は一であるか、異なるか。 答える。一であるとも異なるとも定めて言うことはできない。例えば、有漏の法の一々の体の上に、無常などの多くの義相があるが、一であるとも異なるとも定めて言うことはできない。これもまた同じである。だから責めるべきではない。 問う、この法が生じるなら、すなわちこの法が滅するのか。それとも、他の法が生じて他の法が滅するのか。もしそうであるなら、何が問題か。両方に過失がある。なぜなら、もしこの法が生じるなら、すなわちこの法が滅するなら、未来に生じるものはすなわち未来に滅するはずである。もし他の法が生じて他の法が滅するなら、色などが生じて、他の受などが滅するはずである。 答えていうべきである。因縁があるから、この法が生じるなら、すなわちこの法が滅するといえる。すなわち、色蘊が生じるなら、すなわち色蘊が滅する。乃至、識蘊が生じるなら、すなわち識蘊が滅する。また、因縁があるから、他の法が生じて他の法が滅するといえる。すなわち、未来世に生じて現在世に滅するのである。 問う、諸の有為法が未来に生じる時、世の体が生じるのか、世の中に生じるのか。もしそうであるなら、何が問題か。両方に過失がある。なぜなら、もし世の体が生じるなら、一つの法が生じる時、未来世のすべての法が生じるはずである。これがすでに生じたなら、未来は無くなるはずである。これがすでに滅したなら、現在も無くなるはずである。そうすれば、三世と一切有の義を壊してしまう。もし世の中に生じるなら、どうして諸の行が異なる世にないといえるのか。 答えていうべきである。因縁があるから、世の体が生じるといえる。一刹那の行が生じる時、すなわち未来世が生じるからである。また、因縁があるから、世の中に生じるといえる。未来世の行には多くの刹那があるが、その中でただ一刹那だけが生じるからである。 問う、諸の有為法が未来に生じる時、自性が生じるのか、他性が生じるのか。もしそうであるなら、何が問題か。両方に過失がある。なぜなら、もし自性が生じるなら、どうして本来自性が無くて今自性があるといわないのか。本来実物が無くて今実物があるといわないのか。もし他性が生じるなら、どうして自性を捨てて無性の相にならないのか。 答えていうべきである。自性が生じるのでもなく、他性が生じるのでもない。しかし、自性の上に、このような法が生じて、そして滅するのである。

問若法是色性。彼法是過去性耶。答應作四句。有法是色性非過去性。謂未來現在色性。有法是過去性非色性。謂過去四蘊性。有法是色性亦過去性。謂過去色性。有法非色性亦非過去性。謂未來現在四蘊性及無為性。如以色性對過去性有四句。以色性對未來現在性亦各有四句。如色蘊對三世有三四句。受想行識蘊對三世亦爾。如是便有十五四句。問若法是色性。彼法是方處性耶。答若法是方處性彼定是色性。有法是色性非方處性。謂過去未來色。及現在極微無表色性。問若法是受性。彼法非方處性耶。答若法是受性彼定非方處性。有法非方處性而非是受性。謂想行識蘊。及極微無表色無為性。如受蘊想乃至識蘊應知亦爾。

> 問：もしある法が色の性質を持つならば、その法は過去の性質を持つと言えるでしょうか。 答：四つの場合に分けて考えるべきです。 一、色の性質を持つが過去の性質を持たない法——未来・現在の色の性質を持つもの。 二、過去の性質を持つが色の性質を持たない法——過去の四蘊（受・想・行・識）の性質を持つもの。 三、色の性質も過去の性質も持つ法——過去の色の性質を持つもの。 四、色の性質も過去の性質も持たない法——未来・現在の四蘊の性質、および無為法の性質を持つもの。 このように、色の性質を過去の性質と対比させると四つの場合があります。同じように、色の性質を未来の性質、現在の性質と対比させても、それぞれ四つの場合があります。色蘊を三世（過去・未来・現在）と対比させると三つの四句があり、受・想・行・識の各蘊も三世と対比させると同様にそれぞれ三つの四句があります。こうして全部で十五の四句があることになります。 問：もしある法が色の性質を持つならば、その法は方処（空間的広がり）の性質を持つと言えるでしょうか。 答：もしある法が方処の性質を持つならば、その法は必ず色の性質を持ちます。しかし、色の性質を持つが方処の性質を持たない法もあります——過去・未来の色、および現在の極微（最小の物質単位）や無表色（目に見えない業の力）の性質を持つものです。 問：もしある法が受の性質を持つならば、その法は方処の性質を持たないと言えるでしょうか。 答：もしある法が受の性質を持つならば、その法は必ず方処の性質を持ちません。しかし、方処の性質を持たないが受の性質でもない法もあります——想・行・識の蘊、および極微・無表色・無為法の性質を持つものです。受蘊について述べたように、想蘊から識蘊までについても同様に理解すべきです。

問若法是色。彼法有變礙耶。答若法有變礙彼定是色。有法是色而無變礙。謂過去未來色。及現在極微無表色。問若法是受。彼法能領納耶。答若法能領納彼定是受。有法是受非能領納。謂過去未來受。問若法是想。彼法能取像耶。答若法能取相彼定是想。有法是想非能取相。謂過去未來想。問若法是行。彼法能造作耶。答若法能造作彼定是行。有法是行非能造作。謂過去未來行。問若法是識彼法能了別耶。答若法能了別彼定是識。有法是識非能了別。謂過去未來識。問未來諸法有出無入。過去諸法有入無出。如何未來不施設減。如何過去不施設增。尊者世友作如是說。為已計數而言未來不施設減。復言過去不施設增耶。既未計數如何可言不可施設未來有減過去有增。然過去未來法無邊量故。不可施設有增有減。如大海水無量無邊。取百千瓶不知其減。投百千瓶不知其增。復作是說。未來諸法未已起未已滅故不施設減。過去諸法已起已滅故不施設增。復作是說。未來諸法未已起已壞故不施設減。過去諸法已起已壞故不施設增。復作是說。未來諸法未已起已離故不施設減。過去諸法已起已離故不施設增。如起對滅壞離。以生對滅壞離廣說亦爾。大德說曰。若有礙物流行世者。可言施設有減有增。然有為法緣合故生生已即滅。如何施設過去有增未來有減。脇尊者曰。過去未來法無作用。如何施設有增有減。

> 問う：もし法が色であるならば、その法に変壊（変化し壊れること）があるか。 答える：もし法に変壊があるならば、それは必ず色である。しかし、法でありながら変壊のないものもある。すなわち、過去と未来の色、および現在の極微（これ以上分割できない最小の物質）と無表色（目に見えない業の力）である。 問う：もし法が受（感受）であるならば、その法は領納（受け取ること）できるか。 答える：もし法が領納できるならば、それは必ず受である。しかし、法でありながら領納できないものもある。すなわち、過去と未来の受である。 問う：もし法が想（表象）であるならば、その法は取像（形象を捉えること）できるか。 答える：もし法が取相できるならば、それは必ず想である。しかし、法でありながら取相できないものもある。すなわち、過去と未来の想である。 問う：もし法が行（形成作用）であるならば、その法は造作（作り出すこと）できるか。 答える：もし法が造作できるならば、それは必ず行である。しかし、法でありながら造作できないものもある。すなわち、過去と未来の行である。 問う：もし法が識（認識）であるならば、その法は了別（識別すること）できるか。 答える：もし法が了別できるならば、それは必ず識である。しかし、法でありながら了別できないものもある。すなわち、過去と未来の識である。 問う：未来の諸法は「出」があって「入」がない。過去の諸法は「入」があって「出」がない。それならば、なぜ未来に「減」を設けず、過去に「増」を設けないのか。 尊者世友はこう説いた。「すでに数えられたものについて、未来に減を設けず、過去に増を設けないと言うのか。まだ数えられていないのなら、どうして未来に減があり過去に増があると設けることができないと言えるのか。しかし、過去と未来の法は限りなく広大であるから、増減を設けることはできない。大海の水が無量無辺であるように、百千の瓶を汲み取ってもその減りを知らず、百千の瓶を注ぎ入れてもその増えを知らない。」 また、こうも説いた。「未来の諸法は、まだ起こっておらず、まだ滅していないので、減を設けない。過去の諸法は、すでに起こり、すでに滅したので、増を設けない。」 また、こうも説いた。「未来の諸法は、まだ起こっておらず、まだ壊れていないので、減を設けない。過去の諸法は、すでに起こり、すでに壊れたので、増を設けない。」 また、こうも説いた。「未来の諸法は、まだ起こっておらず、まだ離れていないので、減を設けない。過去の諸法は、すでに起こり、すでに離れたので、増を設けない。『起こる』ことを『滅』『壊』『離』に対応させ、『生』を『滅』『壊』『離』に対応させて広く説くのも同様である。」 大徳はこう説いた。「もし流動する物質が世の中を行き来するならば、増減を設けると言えるだろう。しかし、つくられた法は縁が合わさって生じ、生じたならばすぐに滅する。どうして過去に増があり未来に減があると設けることができようか。」 脇尊者はこう説いた。「過去と未来の法には作用がない。どうして増減を設けることができようか。」

問過去未來為有積聚。如現在世牆壁等物。為無積聚各離散耶。設爾何失。二俱有過。所以者何。若有積聚如現在世牆壁等者。云何施主造所捨物功不唐捐。云何去來非有方所。云何壁等不皆是常。云何去來非可現見。若無積聚各離散者。云何可說有過去事。如契經說。過去有王名大善見。都香茅城居善法殿。如是等事無量無邊。云何可說有未來事。如契經說。未來有佛號慈氏尊。爾時有王名曰蠰佉。所都大城名鷄覩末。如是等事無量無邊。云何宿住隨念智觀過去事。死生智觀未來事。妙願智觀過去未來事。未來諸法來集現在時。如何聚物非本無今有。現在諸法散往過去時。如何聚物非有已還無。有作是說。過去未來亦有積聚。如現在世牆壁等物。問若爾。善通後所設難前所設難當云何通。且諸施主造所捨物。所設功力寧不唐捐。答為現見故。謂未造時物雖已有而未現見。施主造已方可現見。故不唐捐。云何去來非有方所。答許有方所復有何過。云何壁等不皆是常。答剎那無常與彼合故。云何去來非可現見。答彼非現在五識境故非可現見。要與現在五識為境方可現見評曰。過去未來非有積聚如現在物但各離散。問若爾善通前所設難。後所設難當云何通。且云何說有過去事。答如曾現在說亦無失。云何可說有未來事。答如當現在說亦無失。云何宿住隨念智等觀察過去未來事耶。答如曾所更如當所受。而觀過去未來世事。此有何過而不能通復有說者。如呼諸字次第相續引生名句顯所說義。雖彼諸字不可積集。而能引生名句顯義。如是過去未來世法雖無積聚。而能生智。隨其所應知所知境復有說者。以現在事類觀去來。猶如農夫以現稼穡類知前後。未來諸法來集現在時。如何聚物非本無今有。現在諸法散往過去時。如何聚物非有已還無。答三世諸法因性果性。隨其所應次第安立。體實恒有無增無減。但依作用說有說無。諸積聚事。依實有物。假施設有。時有時無。如是此宗許有無義有何過難。而不能通分位。有無是所許故。

> 問う、過去と未来に積聚（積み重なり）はあるのか。現在の壁や物のように。それとも積聚はなく、それぞれが離散しているのか。仮にそうだとして、何が失われるのか。二つの場合とも過失がある。なぜなら、もし積聚があり現在の壁などのようであるなら、どうして施主が造った捨てられた物の功が無駄にならないのか。どうして去来（過去未来）に方所（場所）がないのか。どうして壁などがすべて常住ではないのか。どうして去来が現に見られないのか。もし積聚がなく各々離散しているなら、どうして過去の事があると言えるのか。契経に説くように、過去に大善見という王がおり、都香茅城に住み善法殿にいた。このような事は無量無辺である。どうして未来の事があると言えるのか。契経に説くように、未来に慈氏尊という仏がおられ、その時蠰佉という王がおり、都の大城を鷄覩末といった。このような事は無量無辺である。どうして宿住随念智が過去の事を観じ、死生智が未来の事を観じ、妙願智が過去未来の事を観じるのか。未来の諸法が来集して現在にある時、どうして積聚の物が本来無く今有るのではないのか。現在の諸法が散じて過去に往く時、どうして積聚の物が有ってまた無くなるのではないのか。 ある者は説く、過去未来にも積聚があり、現在の壁などの物のようであると。問う、もしそうなら、後の難問はよく通じるが、前の難問はどう通じるのか。そもそも諸々の施主が造った捨てられた物について、設けた功力はどうして無駄にならないのか。答える、現に見るためである。すなわち未だ造らない時、物はすでに有るが未だ現に見えない。施主が造った後、初めて現に見ることができる。だから無駄ではない。どうして去来に方所がないのか。答える、方所が有ることを許しても、また何の過失があるのか。どうして壁などがすべて常住ではないのか。答える、刹那の無常がそれらと合わさるからである。どうして去来が現に見られないのか。答える、それらは現在の五識の境ではないから、現に見ることはできない。現在の五識と境となることを要して、初めて現に見ることができる。 評して曰く、過去未来は現在の物のように積聚があるのではなく、ただ各々離散しているだけである。問う、もしそうなら、前の難問はよく通じるが、後の難問はどう通じるのか。そもそもどうして過去の事があると言えるのか。答える、かつて現在であったように説いても失いはない。どうして未来の事があると言えるのか。答える、まさに現在となるように説いても失いはない。どうして宿住随念智などが過去未来の事を観察するのか。答える、かつて経験したように、まさに受けるように、過去未来の世の事を観るのである。これに何の過失があり、通じないことがあろうか。 またある者は説く、諸々の文字を呼ぶように、次第に相続して名句を引き起こし、説かれた義を示す。それらの文字は積集できなくても、名句を引き起こし義を示すことができる。このように過去未来の世の法は積聚がなくても、智を生じることができる。その所知の境に随って応じる。 またある者は説く、現在の事をもって去来を類観する。ちょうど農夫が現在の作物をもって前後を知るように。未来の諸法が来集して現在にある時、どうして積聚の物が本来無く今有るのではないのか。現在の諸法が散じて過去に往く時、どうして積聚の物が有ってまた無くなるのではないのか。答える、三世の諸法は因性と果性を、その所に応じて次第に安立する。体は実に恒有であり、増も減もない。ただ作用に依って有ると説き無いと説く。諸々の積聚の事は、実有の物に依って、仮に施設して有るとする。時に有り時に無い。このようにこの宗は有と無の義を許す。何の過難があって通じないのか。分位の有無は許されているからである。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第七十六

> 説一切有部発智大毘婆沙論 巻第七十六