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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 7"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第七十七

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第七十七巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 結蘊第二中十門納息第四之七

> 結蘊第二中の十門納息第四の七

說一切有部有四大論師。各別建立二世有異。謂尊者法救說類有異。尊者妙音說相有異。尊者世友說位有異。尊者覺天說待有異。說類異者。彼謂諸法於世轉時。由類有異非體有異。如破金器等作餘物時形雖有異而顯色無異。又如乳等變成酪等時捨味勢等非捨顯色。如是諸法從未來世至現在世時。雖捨未來類得現在類。而彼法體無得無捨。復從現在世至過去世時。雖捨現在類得過去類。而彼法體亦無得無捨。說相異者。彼謂諸法於世轉時。由相有異非體有異。一一世法有三世相。一相正合二相非離。如人正染一女色時。於餘女色不名離染。如是諸法住過去世時。正與過去相合。於餘二世相不名為離。住未來世時。正與未來相合。於餘二世相不名為離。住現在世時。正與現在相合。於餘二世相不名為離。說位異者。彼謂諸法於世轉時。由位有異非體有異。如運一籌。置一位名一。置十位名十。置百位名百。雖歷位有異而籌體無異。如是諸法經三世位。雖得三名而體無別。此師所立世無雜亂。以依作用立三世別。謂有為法未有作用名未來世。正有作用名現在世。作用已滅名過去世。說待異者。彼謂諸法於世轉時前後相待立名有異。如一女人待母名女待女名母體雖無別由待有異得女母名。如是諸法待後名過去。待前名未來。俱待名現在。彼師所立世有雜亂。所以者何。前後相待一一世中有三世故。謂過去世前後剎那名過去未來。中間名現在未來。三世類亦應然。現在世法雖一剎那待後待前及俱待故應成三世。豈應正理。說相異者。所立三世亦有雜亂。一一世法彼皆許有三世相故。說類異者。離法自性說何為類故亦非理。諸有為法從未來世至現在時前類應滅。從現在世至過去時後類應生。過去有生未來有滅豈應正理。故唯第三立世為善。諸行容有作用時故。

> ここに、説一切有部には四大論師がいる。それぞれが過去・現在・未来の三世の存在について異なる説を立てている。すなわち、尊者・法救は「類」が異なると説き、尊者・妙音は「相」が異なると説き、尊者・世友は「位」が異なると説き、尊者・覚天は「待」が異なると説く。 「類が異なる」という説とは、諸法が三世を移り変わる時、その本体が変わるのではなく「類」（性質の種類）だけが変わるとする考え方である。例えば、金の器を壊して別の物を作る時、形は変わっても色は変わらないようなものである。また、乳などが酪などに変わる時、味や勢いなどは失われても、色は失われない。同様に、諸法が未来世から現在世に至る時、未来の類を捨てて現在の類を得るが、法の本体に得るとか失うとかはない。さらに現在世から過去世に至る時も、現在の類を捨てて過去の類を得るが、法の本体には得ることも失うこともない。 「相が異なる」という説とは、諸法が三世を移り変わる時、本体が変わるのではなく「相」（特徴）が異なるとする考え方である。それぞれの世の法には三世の相が備わっており、一つの相が現に合っている時、他の二つの相から離れているとは言わない。例えば、人が一人の女に染まっている時、他の女に対して染まっていないとは言わないようなものである。同様に、諸法が過去世に住している時は、過去の相と現に合っており、他の二世の相から離れているとは言わない。未来世に住している時は未来の相と合い、現在世に住している時は現在の相と合うが、他の二世の相から離れているとは言わない。 「位が異なる」という説とは、諸法が三世を移り変わる時、本体が変わるのではなく「位」（位置・段階）が異なるとする考え方である。例えば、一つの算木を動かして、ある位に置けば「一」と呼ばれ、十の位に置けば「十」と呼ばれ、百の位に置けば「百」と呼ばれる。位を経るごとに名称は異なるが、算木の本体は変わらない。同様に、諸法が三世の位を経ても、三つの名前を得るが本体に違いはない。この師の立てる三世は混雑しない。なぜなら、はたらきによって三世の区別を立てるからである。すなわち、有為法はまだはたらきがないものを未来世と呼び、まさにはたらきがあるものを現在世と呼び、はたらきがすでに滅したものを過去世と呼ぶ。 「待が異なる」という説とは、諸法が三世を移り変わる時、前後の関係によって名前の立て方が異なるとする考え方である。例えば、一人の女が母に対しては「女」と呼ばれ、娘に対しては「母」と呼ばれる。本体に違いはないが、待つ対象が異なることで「女」「母」という名前を得る。同様に、諸法は後ろのものに対する関係で「過去」と呼ばれ、前のものに対する関係で「未来」と呼ばれ、前後の両方に対する関係で「現在」と呼ばれる。この師の立てる三世は混雑している。なぜなら、前後の相待によって、それぞれの世の中に三世があることになるからである。すなわち、過去世の中でも、前後の刹那に対して過去・未来と呼ばれ、中間は現在と呼ばれることになる。未来世も同様である。現在世の法は一刹那であるが、後のものに対する関係、前のものに対する関係、両方に対する関係によって、三世の三つに区別されることになる。これは正しい道理ではない。 「相が異なる」という説の立てる三世もまた混雑している。なぜなら、それぞれの世の法に三世の相があると認めているからである。「類が異なる」という説は、法の自性を離れて何を「類」と呼ぶのかということで、これも道理に適わない。もし諸法が未来世から現在世に至る時、前の類は滅し、現在世から過去世に至る時、後の類が生じることになる。過去に生があり、未来に滅があるというのは、どうして正しい道理であろうか。 したがって、ただ第三の説（世友の「位が異なる」説）だけが三世を正しく立てるものである。なぜなら、諸の行（もろもろの形成されたもの）には、はたらきが存在する時があるからである。

復有三法。謂善不善無記法。問善法云何。答善五蘊及擇滅。問不善法云何。答不善五蘊。問無記法云何。答無記五蘊及虛空非擇滅。餘義廣說如前不善納息。

> さらに三つの法がある。すなわち、善法・不善法・無記法である。 問う：「善法とは何か。」 答える：「善の五蘊と択滅である。」 問う：「不善法とは何か。」 答える：「不善の五蘊である。」 問う：「無記法とは何か。」 答える：「無記の五蘊と虚空および非択滅である。」 その他の意味については、先に述べた不善納息のところで詳しく説かれたのと同じである。

復有三法。謂欲界色界無色界繫法。問欲界繫法云何。答欲界繫五蘊。問色界繫法云何。答色界繫五蘊。問無色界繫法云何。答無色界繫四蘊。餘義廣說亦如前不善納息。復有三法。謂學無學非學非無學法。問學法云何。答學五蘊。問無學法云何。答無學五蘊。問非學非無學法云何。答有漏五蘊及三無為。問學等三法其義云何。答以無貪瞋癡道學斷貪瞋癡是學義。以無貪瞋癡道不學斷貪瞋癡。已學斷故是無學義。與二相違是非學非無學義。復次以無愛道。學斷愛非愛事是學義。以無愛道學斷愛者。遮無學道。非愛事者。遮世俗道。以無愛道不學斷愛已學斷故。亦非愛事是無學義。以無愛道不學斷愛者。遮學道。非愛事者。遮世俗道。與二相違是非學非無學義。復次學斷煩惱學諦現觀是學義。不學斷煩惱已學斷故。亦不學諦現觀已學諦現觀故是無學義。與二相違是非學非無學義。復次學斷二求謂欲求有求。學滿一求。謂梵行求。是學義。不學斷二求已學斷故。不學滿一求。已學滿故是無學義。與二相違是非學非無學義。復次若相續中有煩惱得。亦有無漏道得。而學斷煩惱是學義。若相續中無煩惱得。而有無漏道得。不學斷煩惱已學斷故是無學義。與二相違是非學非無學義。復次若相續中未離貪愛。有無漏道得而學斷貪愛是學義。若相續中已離貪愛而有無漏道得。不學斷貪愛已學斷故是無學義。與二相違是非學非無學義。復次見修道攝是學義。無學道攝是無學義與二相違是非學非無學義。復次見修地攝是學義。無學地攝是無學義。與二相違是非學非無學義。復次未知當知已知根攝是學義。具知根攝是無學義。與二相違是非學非無學義。復次隨信行隨法行信勝解見至身證。五聖者身中諸無漏道是學義。慧解脫俱解脫。二聖者身中諸無漏道是無學義。與二相違是非學非無學義。復次四向及前三果。七聖者身中諸無漏道是學義。第四果一聖者身中諸無漏道是無學義。與二相違是非學非無學義。復次十八學聖者身中諸無漏道是學義。九無學聖者身中諸無漏道是無學義。與二相違是非學非無學義。問住學果者乃至未起勝果道時。諸無漏道云何名學。答學阿世耶猶未息故。彼無漏道亦得名學。

> また三つの法があります。すなわち、欲界・色界・無色界に繋属する法です。問う、欲界に繋属する法とは何か。答える、欲界に繋属する五蘊です。問う、色界に繋属する法とは何か。答える、色界に繋属する五蘊です。問う、無色界に繋属する法とは何か。答える、無色界に繋属する四蘊です。その他の詳しい説明は、先ほどの不善納息のように広く述べられます。 また三つの法があります。すなわち、学法・無学法・非学非無学法です。問う、学法とは何か。答える、学の五蘊です。問う、無学法とは何か。答える、無学の五蘊です。問う、非学非無学法とは何か。答える、有漏の五蘊と三つの無為です。問う、学などの三つの法の意味は何か。答える、貪・瞋・癡のない道によって貪・瞋・癡を学び断つこと、これが学の意味です。貪・瞋・癡のない道によって貪・瞋・癡を学び断たないこと、すでに学び断ったからであり、これが無学の意味です。この二つと相違することが、非学非無学の意味です。 また、愛のない道によって愛と愛の対象を学び断つこと、これが学の意味です。愛のない道によって愛を学び断つ者というのは、無学道を遮るものです。愛の対象でないものというのは、世俗道を遮るものです。愛のない道によって愛を学び断たないこと、すでに学び断ったからであり、また愛の対象でもないこと、これが無学の意味です。愛のない道によって愛を学び断たない者というのは、学道を遮るものです。愛の対象でないものというのは、世俗道を遮るものです。この二つと相違することが、非学非無学の意味です。 また、学びて煩悩を断じ、学びて真理を観察すること、これが学の意味です。学びて煩悩を断じないこと、すでに学び断ったからであり、また学びて真理を観察しないこと、すでに真理を観察したからであり、これが無学の意味です。この二つと相違することが、非学非無学の意味です。 また、学びて二つの求めることを断じます。すなわち欲求と有求です。学びて一つの求めることを満たします。すなわち梵行求です。これが学の意味です。学びて二つの求めることを断じないこと、すでに学び断ったからであり、学びて一つの求めることを満たさないこと、すでに満たしたからであり、これが無学の意味です。この二つと相違することが、非学非無学の意味です。 また、もし相続の中に煩悩の得があり、また無漏道の得があるならば、学びて煩悩を断じることを学とします。もし相続の中に煩悩の得がなく、無漏道の得があるならば、学びて煩悩を断じないこと、すでに学び断ったからであり、これが無学の意味です。この二つと相違することが、非学非無学の意味です。 また、もし相続の中に貪愛を離れていないのに、無漏道の得があり、学びて貪愛を断じることを学とします。もし相続の中にすでに貪愛を離れ、無漏道の得があるならば、学びて貪愛を断じないこと、すでに学び断ったからであり、これが無学の意味です。この二つと相違することが、非学非無学の意味です。 また、見道と修道に摂せられることが学の意味です。無学道に摂せられることが無学の意味です。この二つと相違することが、非学非無学の意味です。 また、見道と修道の地に摂せられることが学の意味です。無学地に摂せられることが無学の意味です。この二つと相違することが、非学非無学の意味です。 また、未知当知根・已知根に摂せられることが学の意味です。具知根に摂せられることが無学の意味です。この二つと相違することが、非学非無学の意味です。 また、随信行・随法行・信勝解・見至・身証の五種の聖者の身の中にある諸々の無漏道が学の意味です。慧解脱・倶解脱の二種の聖者の身の中にある諸々の無漏道が無学の意味です。この二つと相違することが、非学非無学の意味です。 また、四向と前三果の七種の聖者の身の中にある諸々の無漏道が学の意味です。第四果の一聖者の身の中にある諸々の無漏道が無学の意味です。この二つと相違することが、非学非無学の意味です。 また、十八種の学の聖者の身の中にある諸々の無漏道が学の意味です。九種の無学の聖者の身の中にある諸々の無漏道が無学の意味です。この二つと相違することが、非学非無学の意味です。 問う、学の果に住する者が、いまだ勝果道を起こさない時、諸々の無漏道はどうして学と名づけられるのか。答える、学の意欲がまだ息んでいないからです。それゆえに、その無漏道もまた学と名づけられるのです。

復有三法。謂見所斷修所斷無斷法。問見所斷法云何。答隨信隨法行現觀邊忍所斷。此復云何。謂見所斷八十八隨眠及彼相應心心所法。彼所等起不相應行。是名見所斷法。問修所斷法云何。答學見迹修所斷。此復云何。謂修所斷十隨眠。及彼相應彼所等起身語二業。彼所等起不相應行。并不染污諸有漏法。是名修所斷法。問無斷法云何。答無漏五蘊。及三無為。餘義廣說如前不善納息。四諦者。謂苦諦集諦滅諦道諦。問何故作此論。答為廣分別契經義故。謂契經說有四聖諦。雖作是說而不廣辯。經是此論所依根本。彼未說者今欲說之。故作斯論。問如是四諦自性云何。阿毘達磨諸論師言。五取蘊是苦諦。有漏因是集諦。彼擇滅是滅諦學無學法是道諦。譬喻者說。諸名色是苦諦。業煩惱是集諦。業煩惱盡是滅諦。奢摩他毘鉢舍那是道諦。分別論者作如是說。若有八苦相是苦是苦諦。餘有漏法是苦非苦諦。招後有愛是集是集諦。餘愛及餘有漏因是集非集諦。招後有愛盡是滅是滅諦。餘愛盡及餘有漏因盡是滅非滅諦。學八支聖道是道是道諦。餘學法及一切無學法是道非道諦。若作是說。諸阿羅漢但成就苦滅二諦。不成就集道二諦。所以者何。招後有愛諸阿羅漢已斷盡故。學八支聖道得阿羅漢果時皆已捨故。尊者妙音作如是說。若墮自相續五蘊。若墮他相續五蘊。若有情數及無情數諸蘊。如是一切皆是苦是苦諦。修觀行者起現觀時。唯觀墮自相續五蘊為苦。不觀墮他相續五蘊。及無情數諸蘊為苦。所以者何。逼切行相是苦現觀。墮他相續及無情數蘊於自相續非逼切故。彼生智論作如是說。自相續蘊極自逼切。非他相續及無情數蘊。非離自身他及非情能相逼切。無自身者他及非情何所逼切。故現觀時唯觀墮自相續五蘊為苦非餘。若墮自相續五蘊因。若墮他相續五蘊因。若有情數及無情數諸蘊因。如是一切皆是集是集諦。修觀行者起現觀時。唯觀墮自相續五蘊因為集不觀墮他相續五蘊因。及無情數諸蘊因為集。若墮自相續五蘊盡。若墮他相續五蘊盡。若有情數及無情數諸蘊盡。如是一切皆是滅是滅諦。修觀行者起現觀時。唯觀墮自相續五蘊盡為滅。不觀墮他相續五蘊盡。及無情數諸蘊盡為滅。若墮自相續五蘊對治。若墮他相續五蘊對治。若有情數及無情數諸蘊對治。如是一切皆是道是道諦。修觀行者起現觀時。唯觀墮自相續五蘊對治為道。不觀墮他相續及無情數諸蘊對治為道。如是說者。若墮自相續五蘊。若墮他相續五蘊。若有情數及無情數諸蘊。如是一切皆是苦是苦諦。修觀行者起現觀時。皆觀為苦。問逼切行相是苦現觀。墮他相續及無情數蘊。於自相續既非逼切。修觀行者起現觀時何故亦觀為苦。答設彼於自不能逼切亦觀為苦。所以者何。無始時來於一切苦皆起無智。為對治彼皆應起智。無始時來於一切苦皆起猶豫。為對治彼皆應起決定。無始時來於一切苦皆起誹謗。為對治彼皆應起信。故應遍觀一切為苦。況彼於自亦能逼切。所以者何。若有為他所打觸者。亦生大苦。豈非逼切。若有空中木石瓦等墮自身上。亦生大苦。豈非逼切。既有逼切自相續義。故現觀時亦觀為苦。若墮自相續五蘊因。若墮他相續五蘊因。若有情數及無情數諸蘊因。如是一切皆是集是集諦。修觀行者起現觀時皆觀為集。若墮自相續五蘊盡。若墮他相續五蘊盡。若有情數及無情數諸蘊盡。如是一切皆是滅是滅諦。修觀行者起現觀時皆觀為滅。若墮自相續五蘊對治。若墮他相續五蘊對治。若有情數及無情數諸蘊對治。如是一切皆是道是道諦。修觀行者起現觀時皆觀為道。如是名為四諦自性我物自體相分本性。

> また三つの法があります。すなわち、見所断、修所断、無断の法です。問う、見所断の法とは何か。答えていう、随信行・随法行の者が現観の辺際の忍によって断ずるものです。これはまた何かといえば、見所断の八十八の随眠、およびそれと相応する心・心所法、それによって等しく起こされる不相応行を、見所断の法と名づけます。問う、修所断の法とは何か。答えていう、学びの見迹が修によって断ずるものです。これはまた何かといえば、修所断の十の随眠、およびそれと相応し、それによって等しく起こされる身・語の二業、それによって等しく起こされる不相応行、さらに染まらない諸々の有漏法を、修所断の法と名づけます。問う、無断の法とは何か。答えていう、無漏の五蘊、および三つの無為です。その他の意味は、先に詳しく説いた不善の納息のとおりです。 四諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦です。問う、なぜこの論を作るのか。答えていう、経典の意味を広く分別するためです。すなわち経典には四聖諦があると説かれていますが、そのように説くだけで広く弁別していません。経はこの論の拠り所となる根本です。そこに説かれていないことを、今まさに説こうとして、この論を作るのです。問う、この四諦の自性は何か。アビダルマの論師たちは言います。五取蘊は苦諦であり、有漏の因は集諦であり、その択滅は滅諦であり、学・無学の法は道諦であると。譬喩者は説きます。諸々の名色は苦諦であり、業と煩悩は集諦であり、業と煩悩が尽きることが滅諦であり、奢摩他と毘鉢舎那は道諦であると。分別論者はこのように説きます。もし八つの苦の相を具えるならば、それは苦であり苦諦である。その他の有漏法は苦ではあるが苦諦ではない。後の有を招く愛は集であり集諦である。その他の愛およびその他の有漏の因は集ではあるが集諦ではない。後の有を招く愛が尽きることが滅であり滅諦である。その他の愛が尽きることおよびその他の有漏の因が尽きることは滅ではあるが滅諦ではない。学の八支の聖道は道であり道諦である。その他の学法および一切の無学法は道ではあるが道諦ではない。もしこのように説くならば、諸々の阿羅漢はただ苦・滅の二諦のみを成就し、集・道の二諦を成就しない。なぜなら、後の有を招く愛は阿羅漢がすでに断じ尽くしたからであり、学の八支の聖道は阿羅漢の果を得るときにすべて捨てられたからである。 尊者妙音はこのように説きます。もし自らの相続に堕ちる五蘊、もし他者の相続に堕ちる五蘊、もし有情の数および無情の数の諸蘊、このように一切はすべて苦であり苦諦である。修観の行者が現観を起こすとき、ただ自らの相続に堕ちる五蘊のみを苦と観じ、他者の相続に堕ちる五蘊および無情の数の諸蘊を苦と観じない。なぜなら、逼切の行相は苦の現観であるが、他者の相続に堕ちるおよび無情の数の蘊は、自らの相続にとって逼切ではないからである。 彼の生智論はこのように説きます。自らの相続の蘊は極めて自らを逼切する。他者の相続および無情の数の蘊ではない。自身を離れて、他者および非情が相逼切することはできない。自身がない者にとって、他者および非情が何を逼切するのか。ゆえに現観のとき、ただ自らの相続に堕ちる五蘊のみを苦と観じ、その他を観じない。 もし自らの相続に堕ちる五蘊の因、もし他者の相続に堕ちる五蘊の因、もし有情の数および無情の数の諸蘊の因、このように一切はすべて集であり集諦である。修観の行者が現観を起こすとき、ただ自らの相続に堕ちる五蘊の因のみを集と観じ、他者の相続に堕ちる五蘊の因および無情の数の諸蘊の因を集と観じない。 もし自らの相続に堕ちる五蘊が尽きること、もし他者の相続に堕ちる五蘊が尽きること、もし有情の数および無情の数の諸蘊が尽きること、このように一切はすべて滅であり滅諦である。修観の行者が現観を起こすとき、ただ自らの相続に堕ちる五蘊が尽きることのみを滅と観じ、他者の相続に堕ちる五蘊が尽きることおよび無情の数の諸蘊が尽きることを滅と観じない。 もし自らの相続に堕ちる五蘊の対治、もし他者の相続に堕ちる五蘊の対治、もし有情の数および無情の数の諸蘊の対治、このように一切はすべて道であり道諦である。修観の行者が現観を起こすとき、ただ自らの相続に堕ちる五蘊の対治のみを道と観じ、他者の相続に堕ちるおよび無情の数の諸蘊の対治を道と観じない。 このように説く者があります。もし自らの相続に堕ちる五蘊、もし他者の相続に堕ちる五蘊、もし有情の数および無情の数の諸蘊、このように一切はすべて苦であり苦諦である。修観の行者が現観を起こすとき、すべて苦と観じる。問う、逼切の行相は苦の現観である。他者の相続に堕ちるおよび無情の数の蘊は、自らの相続にとって逼切ではないのに、修観の行者が現観を起こすとき、なぜまた苦と観じるのか。答えていう、たとえそれらが自らを逼切することができなくても、やはり苦と観じるのである。なぜなら、無始の時以来、すべての苦に対して無智を起こしてきた。それを対治するために、すべてに対して智を起こすべきである。無始の時以来、すべての苦に対して猶豫を起こしてきた。それを対治するために、すべてに対して決定を起こすべきである。無始の時以来、すべての苦に対して誹謗を起こしてきた。それを対治するために、すべてに対して信を起こすべきである。ゆえにすべてを遍く苦と観じるべきである。ましてやそれらが自らを逼切することもできるのである。なぜなら、もし他者に打たれ触れられるならば、大きな苦が生じる。これは逼切ではないか。もし虚空から木・石・瓦などが自らの身に堕ちてくるならば、大きな苦が生じる。これは逼切ではないか。すでに自らの相続を逼切するという意味があるので、現観のときにも苦と観じるのである。 もし自らの相続に堕ちる五蘊の因、もし他者の相続に堕ちる五蘊の因、もし有情の数および無情の数の諸蘊の因、このように一切はすべて集であり集諦である。修観の行者が現観を起こすとき、すべて集と観じる。もし自らの相続に堕ちる五蘊が尽きること、もし他者の相続に堕ちる五蘊が尽きること、もし有情の数および無情の数の諸蘊が尽きること、このように一切はすべて滅であり滅諦である。修観の行者が現観を起こすとき、すべて滅と観じる。もし自らの相続に堕ちる五蘊の対治、もし他者の相続に堕ちる五蘊の対治、もし有情の数および無情の数の諸蘊の対治、このように一切はすべて道であり道諦である。修観の行者が現観を起こすとき、すべて道と観じる。これを四諦の自性・我物・自体・相分・本性と名づけます。

已說諦自性。所以今當說。問何故名諦。諦是何義。答實義是諦義。真義如義不顛倒義無虛誑義是諦義。問若實義是諦義。乃至無虛誑義是諦義者。虛空非擇滅亦有實義乃至無虛誑義。何故世尊不立為諦。答若法是苦是苦因。是苦盡是苦對治者。世尊立為諦。虛空非擇滅非苦非苦因非苦盡非苦對治。是故世尊不立為諦。復次若法是蘊是蘊因是蘊盡是蘊對治者立為諦。虛空非擇滅非蘊非蘊因非蘊盡非蘊對治故不立為諦。復次若法是疾病是疾病因是疾病盡是疾病對治者立為諦。虛空非擇滅非疾病非疾病因非疾病盡非疾病對治故不立為諦。復次若法是癰箭惱害過患。是癰箭惱害過患因。是癰箭惱害過患盡。是癰箭惱害過患對治者立為諦。虛空非擇滅於彼皆非故不立為諦。復次若法是重擔。是能荷重擔是重擔盡。是重擔對治者立為諦。虛空非擇滅於彼皆非故不立為諦。復次若法是此岸是彼岸是河是船栰者立為諦。虛空非擇滅於彼皆非故不立為諦。復次若法是苦是苦因。是道是道果者立為諦。虛空非擇滅非苦非苦因。非道非道果故不立為諦。復次若法有因性果性者立為諦。虛空非擇滅無因性果性故不立為諦。復次虛空非擇滅無漏故非苦集諦。無記故非滅諦。無為故非道諦。復次虛空非擇滅不墮世故非三諦。無記故非滅諦。復次虛空非擇滅非蘊自性故非三諦。無記故非滅諦。復次虛空非擇滅不隨苦故非三諦。無記故非滅諦。復次若法是邪見及無漏慧所緣者立為諦。虛空非擇滅非邪見及無漏慧所緣故不立為諦。復次若法是無明及明所緣者立為諦。虛空非擇滅非無明及明所緣。故不立為諦。復次若法是雜染事及清淨事者立為諦。虛空非擇滅非雜染事及清淨事。故不立為諦。復次若法是可欣事及可厭事者立為諦。虛空非擇滅非可欣事及可厭事。故不立為諦。復次若法是欣作意事及厭作意事者立為諦。虛空非擇滅非欣作意事及厭作意事。故不立為諦。

> すでに「諦（たい）」の自性について述べました。それでは次に、なぜ「諦」と呼ばれるのか、その意味について説明しましょう。 問い：「諦」とは何か。「諦」の意味は何か。 答え：「実」という意味が「諦」の意味です。「真実」という意味、「如実」という意味、「顛倒（てんどう）していない」という意味、「虚偽がない」という意味が「諦」の意味です。 問い：「実」という意味が「諦」の意味であり、さらには「虚偽がない」という意味が「諦」の意味であるならば、虚空（こくう）や非択滅（ひちゃくめつ）にも「実」という意味や「虚偽がない」という意味があります。なぜ世尊（せそん）はこれらを「諦」と立てなかったのでしょうか。 答え：もしある法が「苦」であり、「苦の原因」であり、「苦の消滅」であり、「苦の対治（たいじ）」であるならば、世尊はそれを「諦」と立てます。虚空や非択滅は、「苦」でもなく、「苦の原因」でもなく、「苦の消滅」でもなく、「苦の対治」でもありません。ですから、世尊はこれらを「諦」と立てなかったのです。 さらに言えば、もしある法が「蘊（うん）」であり、「蘊の原因」であり、「蘊の消滅」であり、「蘊の対治」であるならば、「諦」と立てられます。虚空や非択滅は、「蘊」でもなく、「蘊の原因」でもなく、「蘊の消滅」でもなく、「蘊の対治」でもないので、「諦」とは立てられません。 さらに言えば、もしある法が「疾病（しっぺい）」であり、「疾病の原因」であり、「疾病の消滅」であり、「疾病の対治」であるならば、「諦」と立てられます。虚空や非択滅は、「疾病」でもなく、「疾病の原因」でもなく、「疾病の消滅」でもなく、「疾病の対治」でもないので、「諦」とは立てられません。 さらに言えば、もしある法が「癰（よう）・箭（せん）・悩害（のうがい）・過患（かげん）」であり、「癰・箭・悩害・過患の原因」であり、「癰・箭・悩害・過患の消滅」であり、「癰・箭・悩害・過患の対治」であるならば、「諦」と立てられます。虚空や非択滅は、それらのいずれでもないので、「諦」とは立てられません。 さらに言えば、もしある法が「重担（じゅうたん）」であり、「重担を担うもの」であり、「重担の消滅」であり、「重担の対治」であるならば、「諦」と立てられます。虚空や非択滅は、それらのいずれでもないので、「諦」とは立てられません。 さらに言えば、もしある法が「此岸（しがん）」であり、「彼岸（ひがん）」であり、「河」であり、「船」や「筏（いかだ）」であるならば、「諦」と立てられます。虚空や非択滅は、それらのいずれでもないので、「諦」とは立てられません。 さらに言えば、もしある法が「苦」であり、「苦の原因」であり、「道」であり、「道の果」であるならば、「諦」と立てられます。虚空や非択滅は、「苦」でもなく、「苦の原因」でもなく、「道」でもなく、「道の果」でもないので、「諦」とは立てられません。 さらに言えば、もしある法に「原因としての性質」と「結果としての性質」があるならば、「諦」と立てられます。虚空や非択滅には「原因としての性質」も「結果としての性質」もないので、「諦」とは立てられません。 さらに言えば、虚空や非択滅は煩悩（ぼんのう）がないので、「苦諦」でも「集諦」でもありません。善でも悪でもない「無記（むき）」なので、「滅諦」でもありません。つくられたものではない「無為（むい）」なので、「道諦」でもありません。 さらに言えば、虚空や非択滅は世間の枠組みに属さないので、最初の三つの諦（苦・集・道）ではありません。無記なので、「滅諦」でもありません。 さらに言えば、虚空や非択滅は「蘊」の本質ではないので、最初の三つの諦ではありません。無記なので、「滅諦」でもありません。 さらに言えば、虚空や非択滅は「苦」に従わないので、最初の三つの諦ではありません。無記なので、「滅諦」でもありません。 さらに言えば、もしある法が「邪見（じゃけん）」と「無漏の慧（え）」の両方によって認識される対象であるならば、「諦」と立てられます。虚空や非択滅は、「邪見」によっても「無漏の慧」によっても認識される対象ではないので、「諦」とは立てられません。 さらに言えば、もしある法が「無明（むみょう）」と「明（みょう）」の両方によって認識される対象であるならば、「諦」と立てられます。虚空や非択滅は、「無明」によっても「明」によっても認識される対象ではないので、「諦」とは立てられません。 さらに言えば、もしある法が「雑染（ぞうぜん）の対象」であり「清浄（しょうじょう）の対象」であるならば、「諦」と立てられます。虚空や非択滅は、「雑染の対象」でも「清浄の対象」でもないので、「諦」とは立てられません。 さらに言えば、もしある法が「喜ぶべき対象」であり「嫌うべき対象」であるならば、「諦」と立てられます。虚空や非択滅は、「喜ぶべき対象」でも「嫌うべき対象」でもないので、「諦」とは立てられません。 さらに言えば、もしある法が「喜びの心を起こす対象」であり「厭離（えんり）の心を起こす対象」であるならば、「諦」と立てられます。虚空や非択滅は、「喜びの心を起こす対象」でも「厭離の心を起こす対象」でもないので、「諦」とは立てられません。

問若不顛倒義是諦義者。四種顛倒應非諦攝。所以者何。顛倒轉故。答以餘緣故立為顛倒。以餘緣故是諦所攝。謂三緣故立為顛倒。一決度故。二增益故。三一向倒故。是有是實實相相應故是諦攝。復次彼於無常計常苦計為樂不淨計淨無我計我故立為倒。以有因性果性故是諦攝。問若無虛誑義是諦義者。諸虛誑語應非諦攝。所以者何。虛誑轉故。答以餘緣故立虛誑語。謂違自想誑惑他故。以餘緣故是諦所攝。謂是有是實實相相應。復次以餘緣故立虛誑語。謂不見言見見言不見。不聞言聞聞言不聞。不覺言覺覺言不覺。不知言知知言不知。以餘緣故是諦所攝。謂有因性果性是故實義是諦義。乃至無虛誑義是諦義問此四聖諦云何建立為依。實事為依。因果為依。現觀而建立耶。設爾何失。三皆有過。所以者何。若依實事而建立者。諦應有三。謂苦集諦。無別體故應合為一。滅為第二道為第三。故有三諦。若依因果而建立者。諦應有五。謂有漏法因果別故既立為二。諸無漏道亦有因果應分為二。滅為第五故有五諦。若依現觀而建立者。諦應有八。謂瑜伽師入現觀位。先別觀欲界苦。後合觀色無色界苦。先別觀欲界諸行因。後合觀色無色界諸行因。先別觀欲界諸行滅。後合觀色無色界諸行滅。先別觀欲界諸行對治。後合觀色無色界諸行對治。故有八諦。答應作是說。此四聖諦依因果立。問若爾。應有五諦非四。答聖道因果合立一故諦四非五。謂無漏道因性果性皆是能趣苦有世間生老病死究竟滅行故合立一。問若爾。有漏因性果性皆是能趣苦有世間生老病死流轉集行。亦應合一。諦應唯三。答雖爾行相有別有總。是故建立聖諦唯四。謂於有漏果性有四行相。一苦二非常三空四非我。於有漏因性有四行相。一因二集三生四緣。於無漏道因性果性。總唯有四行相。一道二如三行四出。有作是說。以三緣故建立四諦。一實事故。二因果故。三謗信故。實事故者。謂此四諦實事有二。一者有漏。二者無漏。因果故者。謂有漏事有因果性。果性立苦諦。因性立集諦。無漏事中有二種類一有因性有果性二有果性無因性。有因性有果性者。立道諦。有果性無因性者。立滅諦。問何故有漏事因性果性各立一諦。無漏道因性果性合立一諦耶。答緣彼謗信有別總故。謂於有漏因性果性各別起謗。一於果性謗實非苦。二於因性謗實非集。又於有漏因性果性各別生信。一於果性信實是苦。二於因性信實是集。於無漏道因性果性。總起一謗謂謗非道。總生一信謂信是道。是故三緣建立四諦。復有說者。依現觀故建立四諦。問若爾。聖諦應八非四。答諦行相同故四非八。謂欲界苦及色無色界苦。雖別現觀而同是苦諦。及同苦等行相所觀故合立一。欲界諸行因及色無色界諸行因。雖別現觀而同是集諦。及同因等行相所觀故合立一。欲界諸行滅及色無色界諸行滅。雖別現觀而同是滅諦。又同滅等行相所觀故合立一。欲界諸行對治。及色無色界諸行對治。雖別現觀而同是道諦。又同道等行相所觀故合立一。故依現觀建立四諦不增不減。

> 問：如果不顛倒的意義就是諦的意義，那麼四種顛倒就不應該屬於諦的範疇。為什麼呢？因為顛倒是轉變的緣故。 答：因為其他緣故而立為顛倒，也因為其他緣故而屬於諦所攝。具體來說，有三種緣故立為顛倒：一是決度，二是增益，三是一向倒。而由於它是有、是實、與實相相應，所以屬於諦所攝。再者，因為在無常中執著為常，在苦中執著為樂，在不淨中執著為淨，在無我中執著為我，所以立為顛倒。又因為具有因性和果性的緣故，所以屬於諦所攝。 問：如果無虛誑的意義就是諦的意義，那麼各種虛誑語就不應該屬於諦的範疇。為什麼呢？因為虛誑是轉變的緣故。 答：因為其他緣故而立為虛誑語，即違背自己的所想而欺騙他人。也因為其他緣故而屬於諦所攝，即它是有、是實、與實相相應。再者，因為其他緣故而立為虛誑語，比如不見說見，見說不見；不聽說聞，聞說不聞；不覺說覺，覺說不覺；不知說知，知說不知。也因為其他緣故而屬於諦所攝，即具有因性和果性的緣故。因此，真實的意義就是諦的意義，乃至無虛誑的意義就是諦的意義。 問：這四聖諦是如何建立的呢？是依真實事物、依因果、還是依現觀而建立的呢？ 假設如此，會有什麼過失呢？三種都有過失。為什麼呢？如果依真實事物而建立，諦應該只有三種。因為苦諦和集諦沒有獨立的體性，應該合為一諦；滅諦為第二，道諦為第三，所以只有三諦。 如果依因果而建立，諦應該有五種。因為有漏法的因和果不同，既然已立為二諦；無漏道也有因和果，應該分為二諦；滅諦為第五，所以有五諦。 如果依現觀而建立，諦應該有八種。因為瑜伽師進入現觀位時，先分別觀察欲界的苦，後合觀色界和無色界的苦；先分別觀察欲界諸行的因，後合觀色界和無色界諸行的因；先分別觀察欲界諸行的滅，後合觀色界和無色界諸行的滅；先分別觀察欲界諸行的對治，後合觀色界和無色界諸行的對治。所以有八諦。 答：應該這樣說，這四聖諦是依因果而建立的。 問：如果是這樣，應該有五諦而不是四諦。 答：因為聖道的因和果合立為一諦，所以是四諦而不是五諦。也就是說，無漏道的因性和果性都是能趣向究竟滅除苦、有、世間、生老病死的修行，所以合立為一諦。 問：如果是這樣，有漏的因性和果性也都是能趣向苦、有、世間、生老病死流轉集起的行為，也應該合為一諦，這樣諦就只有三種了。 答：雖然如此，但行相有別有總，因此建立聖諦只有四種。也就是說，對於有漏的果性，有四種行相：一苦、二非常、三空、四非我。對於有漏的因性，有四種行相：一因、二集、三生、四緣。對於無漏道的因性和果性，總共只有四種行相：一道、二如、三行、四出。 有一種說法認為，因為三種緣故而建立四諦：一真實事物，二因果，三謗信。 真實事物的緣故是：這四諦的真實事物有兩種，一是有漏，二是無漏。 因果的緣故是：有漏的事物具有因性和果性，果性立為苦諦，因性立為集諦。無漏的事物中有兩種類型：一是有因性也有果性，二是有果性而沒有因性。有因性也有果性的，立為道諦；有果性而沒有因性的，立為滅諦。 問：為什麼有漏事物的因性和果性各立一諦，而無漏道的因性和果性卻合立一諦呢？ 答：因為對它們的謗和信有別有總的緣故。也就是說，對於有漏的因性和果性，會分別生起誹謗：一是對果性誹謗說它不是真正的苦，二是對因性誹謗說它不是真正的集。又對有漏的因性和果性，會分別生起信心：一是對果性相信它確實是苦，二是對因性相信它確實是集。而對於無漏道的因性和果性，則總體生起一種誹謗，即誹謗說它不是道；總體生起一種信心，即相信它就是道。因此，基於這三種緣故而建立四諦。 還有一種說法認為，是依現觀而建立四諦的。 問：如果是這樣，聖諦應該有八種而不是四種。 答：因為諦的行相相同的緣故，所以是四諦而不是八諦。也就是說，欲界的苦以及色界和無色界的苦，雖然是分別現觀，但同樣是苦諦，而且同樣是以苦等行相來觀察，所以合立為一諦。欲界諸行的因以及色界和無色界諸行的因，雖然是分別現觀，但同樣是集諦，而且同樣是以因等行相來觀察，所以合立為一諦。欲界諸行的滅以及色界和無色界諸行的滅，雖然是分別現觀，但同樣是滅諦，而且同樣是以滅等行相來觀察，所以合立為一諦。欲界諸行的對治以及色界和無色界諸行的對治，雖然是分別現觀，但同樣是道諦，而且同樣是以道等行相來觀察，所以合立為一諦。因此，依現觀建立四諦，不增不減。

問苦集滅道各有何相。脇尊者曰。逼迫是苦相。生長是集相。寂靜是滅相。出離是道相。尊者世友作如是說。流轉是苦相。能轉是集相。止息是滅相。還滅是道相。復作是說。生依流轉是苦相。能轉生依是集相。生依止息是滅相。能滅生依是道相。大德說曰。於實有事建立諦名。謂五取蘊。如從爐出極熱鐵團。三苦所隨順苦流轉沒在苦海雜苦而住。如苦合成猶如鐵團。與火合故火勢隨逐極熱如火。此五取蘊亦復如是。與苦合故如苦合成。故與苦合是苦諦相。如是苦蘊從煩惱生。由業轉變諸趣流轉。無始相續故能生轉是集諦相。此煩惱業究竟離故。於諸趣生不復流轉。故不流轉是滅諦相。修淨戒定正觀生滅。能斷有因能證有盡。故能斷證是道諦相。

> 問う、苦・集・滅・道にそれぞれ何の相があるか。脇尊者は言う。「逼迫は苦の相、生長は集の相、寂静は滅の相、出離は道の相である」と。尊者世友はこう説く。「流転は苦の相、能転は集の相、止息は滅の相、還滅は道の相である」と。またこう説く。「生が流転に依るのは苦の相、能く生の依を転ずるのは集の相、生の依が止息するのは滅の相、能く生の依を滅するのは道の相である」と。大徳は説く。「実有事に於いて諦の名を建立す。謂く五取蘊なり。炉から出た極めて熱い鉄の塊の如く、三苦が随順し、苦に順って流転し、苦海に没し、苦と雑りて住す。苦と合成するが如く、鉄の塊が火と合するが故に火勢が随逐し、火の如く極めて熱い。この五取蘊もまた同じく、苦と合するが故に苦と合成するが如し。故に苦と合するは苦諦の相である。このように苦蘊は煩悩から生じ、業によって転変し、諸趣に流転して、無始より相続する。故に能く生を転ずるは集諦の相である。この煩悩と業を究竟的に離れるが故に、諸趣の生に於いて再び流転しない。故に流転しないは滅諦の相である。清浄な戒・定を修し、生滅を正しく観じて、有の因を断じ、有の尽きることを証することを能くする。故に能断・能証は道諦の相である」と。

問若諦有四。何故世尊說有一諦。如伽他說。

> 問う：もし真理（諦）が四つあるのなら、なぜ世尊は「一つの真理がある」と説かれたのでしょうか。例えば、偈頌（ガーター）に次のようにあります。

一諦無有二眾生於此疑別說種種諦我說無沙門

> 一つの真理に二つはない。しかし、衆生はこのことを疑う。 様々な真理を説く者たちよ、私は沙門などいないと言う。

此頌意言唯有一諦。外道猶豫別說有多。佛說彼法中無沙門道果。沙門道果依一諦故。脇尊者曰。言一諦者。謂四聖諦各唯有一。唯一苦諦無第二苦。唯一集諦無第二集。唯一滅諦無第二滅。唯一道諦無第二道。故說一諦。不違說四。復次言一諦者。謂一滅諦為欲遮遣餘解脫故。謂諸外道說四解脫。一無身解脫。即空無邊處。二無邊意解脫。即識無邊處。三淨聚解脫。即無所有處。四世窣堵波解脫。即非想非非想處。佛作是說。彼非真實解脫出離。是無色有真解脫者。唯一滅諦究竟涅槃。復次言一諦者。謂一道諦。為欲遮遣餘道諦故。謂諸外道說多道諦。如執自餓為道。或執臥灰為道。或執隨日轉為道。或執飲風飲水食果食菜為道。或執露形為道。或執臥刺棘等為道。或執不臥為道。或執著弊故衣為道。或執服諸藥物斷食為道。佛作是說。彼非真道。是邪僻道是虛偽道是矯詐道。如是諸道。非諸善士所應習行。是諸惡人所應遊履。真淨道者。謂一道諦。即正見等八支聖道。復次言一諦者。謂一滅諦。永捨一切生死苦故。又一諦者。謂一道諦。能斷一切生死因故。餘契經中說有二諦。一世俗諦。二勝義諦。問世俗勝義二諦云何。有作是說。於四諦中前二諦是世俗諦。男女行住及瓶衣等。世間現見諸世俗事。皆入苦集二諦中故。後二諦是勝義諦。諸出世間真實功德。皆入滅道二諦中故。復有說者。於四諦中前三諦是世俗諦。苦集諦中有世俗事。義如前說。佛說滅諦如城如宮或如彼岸。諸如是等世俗施設滅諦中有。是故滅諦亦名世俗。唯一道諦是勝義諦。世俗施設此中無故。或有說者。四諦皆是世俗諦攝。前三諦中有世俗事。義如前說。道諦亦有諸世俗事。佛以沙門婆羅門名說道諦故。唯一切法空非我理是勝義諦。空非我中諸世俗事絕施設故。評曰。應作是說。四諦皆有世俗勝義苦集中有世俗諦者。義如前說。苦諦中有勝義諦者。謂苦非常空非我理。集諦中有勝義諦者。謂因集生緣理。滅諦中有世俗諦者。佛說滅諦如園如林如彼岸等。滅諦中有勝義諦者。謂滅靜妙離理。道諦中有世俗諦者。謂佛說道如船栰如石山如梯隥如臺觀如花如水。道諦中有勝義諦者。謂道如行出理。由說四諦皆有世俗勝義諦故。世俗勝義俱攝十八界十二處五蘊。虛空非擇滅亦二諦攝故。

> この偈頌の意味するところは、ただ一つの真理があるのみである。外道は迷い惑って、別々に多くの真理があると説く。仏は彼らの説く法の中には沙門の道果はないと説かれた。沙門の道果は一つの真理に依るからである。脇尊者は言う。「一つの真理と言うのは、四つの聖なる真理がそれぞれただ一つだけあるということである。ただ一つの苦の真理があり、第二の苦はない。ただ一つの集の真理があり、第二の集はない。ただ一つの滅の真理があり、第二の滅はない。ただ一つの道の真理があり、第二の道はない。それゆえに一つの真理と言うのである。四つと言うことと矛盾しない。」 さらにまた、一つの真理と言うのは、一つの滅の真理のことであり、他の解脱を退けるためのものである。すなわち、諸々の外道は四つの解脱を説く。第一は無身解脱であり、これは空無辺処である。第二は無辺意解脱であり、これは識無辺処である。第三は浄聚解脱であり、これは無所有処である。第四は世窣堵波解脱であり、これは非想非非想処である。仏はこのように説かれた。「それらは真実の解脱や出離ではない。無色界に真の解脱があるとすれば、それはただ一つの滅の真理、究極の涅槃のみである。」 さらにまた、一つの真理と言うのは、一つの道の真理のことであり、他の道の真理を退けるためのものである。すなわち、諸々の外道は多くの道の真理を説く。例えば、自らを飢えさせることを道と執着し、灰の上に臥すことを道と執着し、太陽に従って回ることを道と執着し、風を飲み水を飲み果物を食べ菜を食べることを道と執着し、裸形であることを道と執着し、棘などの上に臥すことを道と執着し、臥さないことを道と執着し、粗末な古い衣を着ることを道と執着し、諸々の薬を服用し断食することを道と執着する。仏はこのように説かれた。「それらは真の道ではない。邪な道であり、虚偽の道であり、偽り騙る道である。このような諸々の道は、善い人々が修行すべきものではなく、悪い人々が歩むべきものである。真に清らかな道とは、一つの道の真理、すなわち正見などの八つの支分からなる聖なる道である。」 さらにまた、一つの真理と言うのは、一つの滅の真理のことであり、一切の生老病死の苦を永遠に捨て去るからである。また、一つの真理と言うのは、一つの道の真理のことであり、一切の生死の原因を断ち切ることができるからである。 他の経典の中では、二つの真理があると説かれている。第一は世俗の真理であり、第二は勝義の真理である。 問う。世俗と勝義の二つの真理はどのようなものか。 ある者はこう説く。「四つの真理の中で、前の二つの真理は世俗の真理である。男や女、行くことや止まること、瓶や衣服など、世間で現に見られる諸々の世俗の事柄は、すべて苦と集の二つの真理の中に含まれるからである。後の二つの真理は勝義の真理である。諸々の出世間の真実の功徳は、すべて滅と道の二つの真理の中に含まれるからである。」 また、ある者はこう説く。「四つの真理の中で、前の三つの真理は世俗の真理である。苦と集の真理の中には世俗の事柄があり、その意味は前に述べた通りである。仏は滅の真理を城のようであり、宮殿のようであり、あるいは彼岸のようであると説かれた。このような諸々の世俗的な施設は滅の真理の中にある。それゆえに滅の真理もまた世俗と名付けられる。ただ一つの道の真理のみが勝義の真理である。世俗的な施設はここにはないからである。」 あるいは、ある者はこう説く。「四つの真理はすべて世俗の真理に含まれる。前の三つの真理の中には世俗の事柄があり、その意味は前に述べた通りである。道の真理にもまた諸々の世俗の事柄がある。仏は沙門や婆羅門の名を用いて道の真理を説かれたからである。ただ一切の法が空であり、我がないという真理のみが勝義の真理である。空と無我の中では、諸々の世俗の事柄の施設は完全に絶たれているからである。」 評して言う。こう説くべきである。「四つの真理はすべて世俗と勝義の両方を持つ。苦と集の中に世俗の真理があることは、前に述べた意味の通りである。苦の真理の中に勝義の真理があるとは、苦・無常・空・無我の理である。集の真理の中に勝義の真理があるとは、因・集・生・縁の理である。滅の真理の中に世俗の真理があるとは、仏が滅の真理を園のようであり、林のようであり、彼岸のようであると説かれたことである。滅の真理の中に勝義の真理があるとは、滅・静・妙・離の理である。道の真理の中に世俗の真理があるとは、仏が道を船や筏のようであり、石山のようであり、梯子や階段のようであり、楼閣や観楼のようであり、花のようであり、水のようであると説かれたことである。道の真理の中に勝義の真理があるとは、道・行・出の理である。四つの真理がすべて世俗と勝義の真理を持つと説かれたことによって、世俗と勝義はともに十八界、十二処、五蘊を摂する。虚空と非択滅もまた二つの真理に含まれるからである。」

問世俗中世俗性。為勝義故有為勝義故無。設爾何失。二俱有過。所以者何。若世俗中世俗性勝義故有者。應唯有一諦。謂勝義諦。若世俗中世俗性勝義故無者。亦應唯有一諦。謂勝義諦。答應作是說。世俗中世俗性勝義故有。若世俗中世俗性勝義故無。佛說二諦言應非實。佛說二諦言既是實。故世俗中世俗性勝義故有。問若爾。唯應有一諦。謂勝義諦。答實唯有一諦。謂勝義諦。問若爾。何故立有二諦。答依差別緣立有二諦不依實事。若依實事唯有一諦。謂勝義諦。依差別緣建立二種。若依此緣立世俗諦。不依此緣立勝義諦。若依此緣立勝義諦。不依此緣立世俗諦。譬如一受有四緣性。若依此緣立因緣性。不依此緣乃至立增上緣性。若依此緣乃至立增上緣性。不依此緣乃至立因緣性。又如一受有六因性。若依此緣立相應因性。不依此緣乃至立能作因性。若依此緣乃至立能作因性不依此緣乃至立相應因性。二諦亦爾。依別緣立不依實事。問世俗勝義亦可施設各是一物不相雜耶。答亦可施設。其事云何。尊者世友作如是說。能顯名是世俗。所顯法是勝義。復作是說。隨順世間所說名是世俗。隨順賢聖所說名是勝義。大德說曰。宣說有情瓶衣等事。不虛妄心所起言說是世俗諦。宣說緣性緣起等理。不虛妄心所起言說是勝義諦。尊者達羅達多說曰。名自性是世俗。此是苦集諦少分。義自性是勝義。此是苦集諦少分。及餘二諦二無為。

> ここで「世俗」というものが、勝義（最終的な真理）によって存在するのか、それとも勝義によって存在しないのかが問われています。この問いには、どちらの答えにも難点があります。なぜなら、もし世俗が勝義によって存在するなら、真理はただ一つ、すなわち勝義諦だけになってしまいます。逆に、世俗が勝義によって存在しないとしても、やはり真理はただ一つ、勝義諦だけになってしまうからです。 これに対する答えはこうです。世俗は勝義によって存在すると言うべきです。もし世俗が勝義によって存在しないなら、仏が説かれた「二諦」という教えは真実ではなくなってしまいます。しかし、仏が説かれた二諦の教えは確かに真実です。ですから、世俗は勝義によって存在するのです。 問い：それならば、ただ一つの真理、すなわち勝義諦だけがあるべきではありませんか。 答え：確かに、実在としての真理はただ一つ、勝義諦だけです。 問い：では、なぜ二つの真理を立てるのですか。 答え：それは、観点や因縁の違いに基づいて二諦を立てているのであって、実在に基づいているわけではありません。実在に基づけば、ただ一つの真理、勝義諦のみがあります。観点や因縁の違いによって、二つの種類を立てているのです。ある因縁に基づいて世俗諦を立て、その因縁に基づかない場合は勝義諦を立てます。逆に、ある因縁に基づいて勝義諦を立て、その因縁に基づかない場合は世俗諦を立てます。 たとえば、一つの感受（受）には四つの縁（因縁・等無間縁・所縁縁・増上縁）があります。ある縁に基づいて「因縁」の性質を立て、その縁に基づかない場合は、増上縁など他の縁の性質を立てます。また、同じ一つの感受には六つの因（相応因・倶有因・同類因・遍行因・異熟因・能作因）があります。ある縁に基づいて「相応因」の性質を立て、その縁に基づかない場合は、能作因など他の因の性質を立てます。二諦もこれと同じで、特定の観点や因縁に基づいて立てられるのであって、実在そのものに基づいているわけではありません。 問い：それでは、世俗と勝義は、それぞれ別々の実体として、互いに混ざり合うことなく存在すると言えますか。 答え：それは言えます。 では、その詳細はどうか。尊者世友はこう述べています。「名前を示すものが世俗であり、名前によって示される対象が勝義である。」 また、こうも述べています。「世間の慣習に従って語られる名前が世俗であり、聖者たちの言葉に従って語られる名前が勝義である。」 大徳はこう述べています。「有情や瓶、衣服などについて語り、虚假でない心によって起こされる言葉は世俗世俗諦である。縁の性質や縁起の道理について語り、虚假でない心によって起こされる言葉は勝義諦である。」 尊者達羅達多はこう述べています。「名前の自性は世俗である。これは苦諦と集諦の一部である。意味の自性は勝義である。これも苦諦と集諦の一部であり、さらに残りの二諦（滅諦・道諦）と二つの無為法（虚空・択滅）を含む。」

如契經說。出家梵志總有三種婆羅門諦。云何為三。謂有出家梵志作如是說。一切有情皆不應害。如是所說是諦非虛。是名第一婆羅門諦。復有出家梵志。作如是說。我非彼所有。彼非我所有。如是所說是諦非虛。是名第二婆羅門諦。復有出家梵志作如是說。諸有集法皆有滅法。如是所說是諦非虛。是名第三婆羅門諦。問此中何者是婆羅門何者是諦。答此中意說出家外道名婆羅門。彼所說中。前三是諦。餘皆虛妄一切有情皆不應害者。謂諸有情皆不應殺。我非彼所有。彼非我所有者。謂我不屬彼。彼不屬我。諸有集法皆有滅法者。謂諸有生皆歸於滅。復有說者。此中意說住佛法者名婆羅門。即前所說三種名諦。為對外道佛說此經。謂有外道自謂我是真婆羅門。而為祠祀殺諸牛羊。及多聚集雜類眾生而斷其命。佛對彼故作如是說。損害他者非真婆羅門。真婆羅門者。於諸有情皆不應害。復有外道自謂我是真婆羅門。而為生天受諸欲樂勤修梵行。佛對彼故作如是說。為天欲樂修梵行者非真婆羅門。真婆羅門者於諸所有志無繫屬。而修行梵行。復有外道自謂我是真婆羅門。而執斷常乖於中道。佛對彼故作如是說。執斷常者非真婆羅門。真婆羅門者。知有集法皆有滅法。集故非斷滅故非常。非斷非常契於中道。復次此經意說三解脫門所有加行。一切有情皆不應害者。說空解脫門加行。我非彼所有。彼非我所有者。說無願解脫門加行。諸有集法皆有滅法者。說無相解脫門加行。有作是說。此經意說三解脫門如其次第。或有說者。此經意說三三摩地。謂空無願無相三種如其次第。復有說者。此經意說戒蘊定蘊慧蘊三種如其次第。如說三蘊如是。三學三修三淨應知亦爾。

> 経典にこう説かれている。出家した梵志には、三種の婆羅門の真理がある。その三つとは何か。ある出家した梵志はこう説く。「すべての生きとし生けるものを害してはならない」。このように説かれたことは真理であり、虚偽ではない。これを第一の婆羅門の真理と名づける。また、出家した梵志はこう説く。「私は彼のものではなく、彼は私のものではない」。このように説かれたことは真理であり、虚偽ではない。これを第二の婆羅門の真理と名づける。また、出家した梵志はこう説く。「集まりあるものはすべて、滅びる法である」。このように説かれたことは真理であり、虚偽ではない。これを第三の婆羅門の真理と名づける。 問う。ここで何が婆羅門であり、何が真理であるのか。答える。ここでの意味は、出家した外道を婆羅門と名づけるのである。彼らの説くところのうち、前の三つが真理であり、残りはすべて虚偽である。「すべての生きとし生けるものを害してはならない」とは、すべての生きとし生けるものを殺してはならないということである。「私は彼のものではなく、彼は私のものではない」とは、私は彼に属さず、彼は私に属さないということである。「集まりあるものはすべて、滅びる法である」とは、生まれたものはすべて滅びに向かうということである。 また、ある論師はこう説く。この経の意味は、仏法に住する者を婆羅門と名づけるのである。すなわち、先に説いた三つを真理と名づける。外道に対抗するために、仏はこの経を説かれたのである。ある外道は自ら「私は真の婆羅門である」と称しながら、祭祀のために牛羊を殺し、また多くの雑多な生き物を集めてその命を断っていた。仏は彼らに対してこのように説かれた。「他を損なう者は真の婆羅門ではない。真の婆羅門は、すべての生きとし生けるものを害しない」。 また、ある外道は自ら「私は真の婆羅門である」と称しながら、天に生まれて様々な欲望の楽しみを受けるために、勤めて梵行を修めていた。仏は彼らに対してこのように説かれた。「天の欲望の楽しみのために梵行を修める者は真の婆羅門ではない。真の婆羅門は、すべての所有に対して心の繫がりがなく、梵行を修行する」。 また、ある外道は自ら「私は真の婆羅門である」と称しながら、断見と常見に執着し、中道に背いていた。仏は彼らに対してこのように説かれた。「断常に執着する者は真の婆羅門ではない。真の婆羅門は、集まりあるものはすべて滅びる法であると知る。集があるから断ではなく、滅があるから常ではない。断でもなく常でもないことは、中道にかなう」。 さらに、この経の意味は、三つの解脱門のすべての加行を説くものである。「すべての生きとし生けるものを害してはならない」とは、空解脱門の加行を説くものである。「私は彼のものではなく、彼は私のものではない」とは、無願解脱門の加行を説くものである。「集まりあるものはすべて、滅びる法である」とは、無相解脱門の加行を説くものである。 ある者はこう説く。この経の意味は、三つの解脱門をその順序の通りに説くものである。また、ある論師はこう説く。この経の意味は、三つの三摩地、すなわち空・無願・無相の三つをその順序の通りに説くものである。さらに、ある論師はこう説く。この経の意味は、戒の集まり・定の集まり・慧の集まりの三つをその順序の通りに説くものである。三つの集まりを説くように、三学・三修・三浄もまた同様に理解すべきである。

如契經說。佛告苾芻觀四方者。謂觀四諦。問世尊何故於四聖諦以方聲說。答觀所化者宜聞說故。謂有所化聞以方聲。說四聖諦即易悟入。故佛於諦說四方聲。如餘契經。佛為所化於八解脫說八方聲。所化聞之即易悟入。此經亦爾。故於四諦說四方聲。問四諦四方有何相似。而於四諦說四方聲。答四諦四方四數等故。問佛於何諦說何方聲。答佛於苦諦說東方聲。於彼集諦說西方聲。以現觀時先觀苦諦次觀集故。有作是說。東方如集西方如苦。先因後果次第說故。佛於道諦說南方聲。道諦南方俱應供故。佛於滅諦說北方聲。滅諦北方俱最勝故。

> 経典にこう説かれている。仏が比丘たちに告げて言う、「四方を観ずるとは、四諦を観ずることである」と。問う、世尊はなぜ四聖諦を方角の言葉で説かれたのか。答える、教化すべき者を観て、その聞き方に適うからである。すなわち、ある教化すべき者は、方角の言葉で四聖諦を説かれると、すぐに悟り入ることができる。それゆえ仏は諦について四方の言葉を説かれた。他の経典でも、仏は教化すべき者のために八解脱について八方の言葉を説かれ、教化すべき者はそれを聞いてすぐに悟り入ることができた。この経典も同じである。それゆえ四諦について四方の言葉を説かれたのである。問う、四諦と四方にどんな類似点があって、四諦について四方の言葉を説かれたのか。答える、四諦と四方は、どちらも数が四つで等しいからである。問う、仏はどの諦についてどの方角の言葉を説かれたのか。答える、仏は苦諦について東の方角の言葉を説かれ、集諦について西の方角の言葉を説かれた。現観のとき、まず苦諦を観て、次に集諦を観るからである。あるいはこう説く者もある。東は集のようであり、西は苦のようである。原因を先にし結果を後にして説くからである。仏は道諦について南の方角の言葉を説かれた。道諦と南方は、どちらも供養に値するからである。仏は滅諦について北の方角の言葉を説かれた。滅諦と北方は、どちらも最も優れているからである。

如契經說。於四聖諦應知慧根。問此為依攝為依所緣。若依攝者。四諦慧根互不相攝。如何於四諦說應知慧根。若依所緣即一切法皆是所緣何獨四諦。答應作是說。此不依攝不依所緣而作是說。然於建立四聖諦時。慧用最勝。故作是說。於四聖諦應知慧根。如於建立四證淨時。信用最勝故作是說。於四證淨應知信根。如於建立四正勝時。精進用最勝故作是說。於四正勝應知精進根。如於建立四念住時。念用最勝故作是說。於四念住應知念根。如於建立四神足時。定用最勝故作是說。於四神足應知定根。此中亦爾。有作是說。此依所緣。問慧根既能緣一切法。何獨四諦作是說耶。答若法有漏無漏慧緣。此中偏說。虛空非擇滅唯有漏慧緣故此不說。

> 経典にこう説かれています。「四聖諦について、慧根を知るべきである」と。 問う、これは依摂（相互に含み合うこと）によるのか、それとも所縁（認識の対象）によるのか。 もし依摂によるならば、四諦と慧根は互いに含み合わない。どうして四諦について「慧根を知るべきである」と説くのか。 もし所縁によるならば、すべての法はすべて所縁である。なぜ特に四諦だけなのか。 答えるべきことには、こう説くべきである。これは依摂によるのでも、所縁によるのでもなく、そう説くのである。しかし四聖諦を建立するとき、慧の働きが最も優れている。それゆえに「四聖諦について、慧根を知るべきである」と説くのである。 例えば、四証浄を建立するとき、信の働きが最も優れている。それゆえ「四証浄について、信根を知るべきである」と説く。 例えば、四正勝を建立するとき、精進の働きが最も優れている。それゆえ「四正勝について、精進根を知るべきである」と説く。 例えば、四念住を建立するとき、念の働きが最も優れている。それゆえ「四念住について、念根を知るべきである」と説く。 例えば、四神足を建立するとき、定の働きが最も優れている。それゆえ「四神足について、定根を知るべきである」と説く。 ここにおいても、また同じである。 ある者はこう説く。これは所縁によるのである、と。 問う、慧根はすべての法を縁とすることができるのに、なぜ特に四諦についてのみこう説くのか。 答える、もし法が有漏の慧と無漏の慧によって縁とされるならば、ここで特に説くのである。虚空と非択滅は、ただ有漏の慧のみによって縁とされる。それゆえ、これらについては説かないのである。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第七十七

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