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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 8"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第七十八

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第七十八巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 結蘊第二中十門納息第四之八

> 諸蘊第二中十門納息第四之八

如契經說。尊者舍利子作如是言。諸善法生皆四聖諦攝趣四聖諦。問三諦有為說生可爾。滅諦無為既無生義。如何可說諸善法生攝在四諦。答此經意說諸善法生無不攝在四聖諦中。不言四諦一一皆攝所生善法。於理何違。復次生有二種。一有自性故名為生。二從緣起故名為生。有自性故名為生者。生言顯體非滅壞義。從緣起故名為生者。生言欲顯從緣起義。諸善法中具二生者三諦所攝。唯有自性故名生者滅諦所攝。故經所說亦不違理。復次生有二種。一作用生。二彼得生。諸善法中具二生者三諦所攝。唯彼得生者滅諦所攝。擇滅雖不生而得生故。脇尊者曰。此契經中說諸忍智名所生善。此諸忍智隨應攝在四聖諦中不言遍攝。言趣諦者是緣諦義。謂苦忍苦智道諦攝緣苦諦。集忍集智道諦攝緣集諦。滅忍滅智道諦攝緣滅諦。道忍道智道諦攝緣道諦。

> 『契経に説くが如し。尊者舎利子、かくの如き言をなす。諸の善法の生ずるは、皆四聖諦に摂せられ、四聖諦に趣く、と。』 問う。三諦は有為にして「生」を説くは可なり。滅諦は無為にして、既に「生」の義なし。如何にして「諸の善法の生は四諦に摂せらる」と言うことを得んや。 答う。此の経の意は、諸の善法の生は、ことごとく四聖諦の中に摂せられざることなし、と説くのみ。四諦の一つ一つが皆、生ずる善法を摂するとは言わず。理において何の違背かあらん。 また、生に二種あり。一には自性あるが故に生と名づく。二には縁より起るが故に生と名づく。 自性あるが故に生と名づくとは、「生」の言は体を示し、滅壊の義にあらざるなり。縁より起るが故に生と名づくとは、「生」の言は縁より起る義を示さんと欲するなり。 諸の善法の中に、二種の生を具足する者は三諦に摂せらる。唯だ自性あるが故に生と名づくのみの者は滅諦に摂せらる。故に経の説く所も亦た理に違せず。 また、生に二種あり。一には作用生、二には彼得生。諸の善法の中に二種の生を具足する者は三諦に摂せらる。唯だ彼得生のみの者は滅諦に摂せらる。択滅は生ぜずといえども、得は生ずるが故に。 脇尊者曰く。此の契経の中に、諸の忍・智を説きて名づけて所生の善とす。此の諸の忍・智は、随応に四聖諦の中に摂せらる。遍く摂することを言わず。「諦に趣く」と言うは、諦を縁ずる義なり。謂く、苦忍・苦智は道諦に摂せられ、苦諦を縁ず。集忍・集智は道諦に摂せられ、集諦を縁ず。滅忍・滅智は道諦に摂せられ、滅諦を縁ず。道忍・道智は道諦に摂せられ、道諦を縁ず。

如契經說。佛告苾芻。一切如來應正等覺說拔濟法。謂四聖諦。宣說開示四聖諦法。拔濟有情出生死故。問何故說此拔濟法耶。答欲顯要由自勤修道有拔濟義不由他修。云何知然契經說故。如契經說。有婆羅門名道德迦。來詣佛所到已頂禮世尊雙足合掌恭敬而說頌言。

> 仏典に説かれるところによれば、仏は比丘たちに告げられた。「すべての如来・応供・正等覚者は、救済の法を説かれる。すなわち四聖諦である。この四聖諦の法を説き示し、開演して、有情を生老病死の苦しみから救い出すのである。」なぜこの救済の法を説くのか。それは、自ら精進して道を修行することによってのみ救済の意味があるのであって、他人の修行によってではないことを示すためである。どうしてそうだと知るのか。経典に説かれているからである。経典にこうある。ある婆羅門がいて、名を道徳迦といった。彼は仏のもとを訪れ、到着すると仏の両足に頭を礼し、合掌して恭敬し、偈を唱えてこう言った。

稽首此人間勇猛真梵志淨眼普觀照願能除我疑

> ここに、人間の世界で勇敢に修行する真の求道者に敬礼します。清らかな智慧の眼で全てを見通し、どうか私の疑問を取り除いてください。

問今此頌中欲顯何義。答彼婆羅門稟性懶惰謂他修道能除自惑。故對佛說愛語伽他。欲顯世尊是天梵志乘勇猛願來生人間。為濟有情已修聖道。唯願哀愍除我疑惑。世尊於是為說頌言。

> さて、この偈頌の中で、どのような意味を示そうとしているのか。答えよう。あの婆羅門は生まれつき怠け者で、他人が修道すれば自分の迷いも除かれると考えていた。そこで仏に向かって、愛語の偈頌を唱えたのである。それは、世尊は天の梵志であり、勇猛な願いを乗せて人間界に生まれてこられた。衆生を救うために、すでに聖なる道を修行された。どうか哀れみをもって、私の疑惑を取り除いてください、と示そうとしたのである。そこで世尊は、この偈頌をもって答えられたのである。

我於脫汝疑必無自在力要汝見勝法方能越瀑流

> 私はあなたの疑問を除く力を持っていない あなたが勝れた教えを見てこそ、激流を渡り越えられる

今此頌中。世尊欲顯無他修道斷自惑義。若有此義我坐樹下修聖道時。一切有情煩惱應斷。我於一切具大慈悲。而諸有情惑未頓斷。故無他道斷自惑義。如他服藥自病不除。要自服藥其病方愈。由此故知要自修道有拔濟義不由他修。是故世尊說拔濟法。此拔濟法即四聖諦。欲令有情依此修道。見四聖諦斷自疑惑。問言拔濟者是何義耶。答從嶮難處引諸有情置平坦處故名拔濟。嶮難處者。謂異生性如深坑谷及山巖等諸可畏處。平坦處者。謂諸聖性如大王路。由佛宣說四聖諦法。從異生性極嶮難處。引諸有情置諸聖性極平坦處。謂令入道及得道果故名拔濟。復次從平等處引入正性故名拔濟。平等處者謂世第一法。正性者謂苦法智忍。由佛宣說四聖諦法。引諸有情從世第一法入苦法智忍故名拔濟。復次從大苦處引諸有情置大樂處故名拔濟。大苦處者謂生死。大樂處者謂涅槃。由佛宣說四聖諦法引諸有情令出生死得大涅槃故名拔濟。問何故四諦名拔濟法非界處蘊。答觀四聖諦入道得果離染盡漏。觀界處蘊不如是故。復次觀四聖諦令所化者近入聖道近證法身。觀界處蘊是遠加行。謂修行者遠加行中初習業位觀十八界。已串修位觀十二處。超作意位觀於五蘊。燸頂忍等近加行中。方觀四諦能入聖道證果法身。故唯四諦名拔濟法。

> この偈の中で、世尊は「他者が修道することで自分の煩悩が断たれることはない」という義を示そうとしておられます。もしこの義があるならば、私が樹下に坐して聖道を修行した時、一切の有情の煩悩も断たれるはずです。私は一切の衆生に対して大きな慈悲を有しています。しかし、諸々の有情の煩悩は頓に断たれることはありません。それゆえ、他者の修道によって自分の煩悩が断たれるという義はないのです。たとえば、他人が薬を服用しても自分の病は治らないように、自分自身が薬を服用して初めて病が癒えるのです。このことから、自分自身が修道して初めて救済の義があるのであり、他者の修行によるのではないと知るべきです。それゆえ、世尊は救済の法を説かれたのです。この救済の法とは、すなわち四つの聖なる諦（真理）です。有情たちがこの法に依って修道し、四つの聖諦を見て、自らの疑惑を断つことを望まれたからです。 問う：救済とはどのような義でしょうか。 答える：危険な難所から諸々の有情を導き出して、平らかな場所に置くこと、これを救済と名づけます。危険な難所とは、凡夫の性質を指し、深い穴や谷、山や岩などの恐れ多い場所のようなものです。平らかな場所とは、聖者の性質を指し、大王の道のようなものです。仏が四聖諦の法を説かれたことにより、凡夫の性質という極めて危険な難所から、諸々の有情を導き出して、聖者の性質という極めて平らかな場所に置かれたのです。すなわち、道に入らせ、道の果を得させることから、救済と名づけます。 さらに、平等の場所から正性に入らせることを救済と名づけます。平等の場所とは、世第一法（世間で最も優れた法）を指します。正性とは、苦法智忍（苦諦を観る智慧の忍び）を指します。仏が四聖諦の法を説かれたことにより、諸々の有情を世第一法から苦法智忍に入らせることから、救済と名づけます。 さらに、大きな苦しみの場所から諸々の有情を導き出して、大きな安楽の場所に置くことを救済と名づけます。大きな苦しみの場所とは、生死を指します。大きな安楽の場所とは、涅槃を指します。仏が四聖諦の法を説かれたことにより、諸々の有情を導き出して、生死を出離させ、大涅槃を得させることから、救済と名づけます。 問う：なぜ四諦だけが救済の法と名づけられ、十八界や十二処、五蘊などとは名づけられないのでしょうか。 答える：四聖諦を観じることは、道に入り果を得て、煩悩を離れ、漏れを尽くすことにつながります。しかし、十八界や十二処、五蘊を観じることは、そのようではありません。さらに、四聖諦を観じることは、教化される者たちを聖道に近づけ、法身を近証させることになりますが、十八界や十二処、五蘊を観じることは、遠い加行（修行の段階）に過ぎません。すなわち、修行者が遠い加行の中で、最初に修行を始めた位では十八界を観じ、すでに修行を繰り返した位では十二処を観じ、作意を超えた位では五蘊を観じます。煖・頂・忍などの近い加行の段階に至って初めて四諦を観じ、聖道に入って果を証し、法身を得ることができるのです。それゆえ、四諦のみが救済の法と名づけられるのです。

問言聖諦者是何義耶。為是善故名為聖諦。為無漏故名為聖諦。為聖者成就故名聖諦耶。設爾何失。三皆有過。所以者何。若是善故名聖諦者。四中後二可名聖諦唯是善故。前二既通三種如何亦名聖諦。若無漏故名聖諦者。四中後二可名聖諦是無漏故。前二既有漏如何名聖諦。若聖者成就故名聖諦者。非聖者亦成就如何獨名聖諦。如說誰成就苦集諦。謂一切有情。誰成就滅諦。謂不具縛者。答應作是說。聖者成就故名聖諦。問若爾善通前二種難第三難云何通。答聖具成四故名聖諦。異生不爾。問亦有聖者不具成四如具縛者。見道初心滅諦爾時猶未成故。答時分少故非如異生。謂具縛者見道初心雖未成四。此後必具成就四種。異生怛時不具成四。是故苦等獨名聖諦。復次聖者品中有具成四故名聖諦。異生品中無成四者故非彼諦。復次若聖法印印相續者得聖者名彼所有諦故名聖諦。復次若已得聖所愛戒名為聖者彼所有諦故名聖諦。復次若已得聖慧名為聖者。彼所有諦故名聖諦。復次若已得聖奢摩他毘鉢舍那名為聖者彼所有諦故名聖諦。復次若已得聖財名為聖者。彼所有諦故名聖諦。復次若已入聖胎名為聖者。彼所有諦故名聖諦。復次若已得聖覺支道支名為聖者。彼所有諦故名聖諦。尊者僧伽筏蘇說曰。佛在世時異生聖者共興諍論。諸異生說諸行是常樂淨有我諸聖者說諸行無常苦空非我。諸異生說我言是諦。聖者復說我言是諦。為滅諍故。共詣佛所請佛決之。佛作是言。聖言是諦餘言非諦。所以者何。聖於苦等現知見覺所言是諦異生不爾。是故四諦唯屬聖者非諸異生故名聖諦。尊者世友作如是說。如是四諦唯諸聖者聖慧通達故名聖諦。

> 問う：聖諦とは何の意味か。善であるから聖諦と名づけるのか。無漏であるから聖諦と名づけるのか。聖者が成就するから聖諦と名づけるのか。もしそうならば、何の過失があるのか。三つとも過失がある。なぜならば、もし善であるから聖諦と名づけるならば、四つのうち後の二つ（滅諦と道諦）は聖諦と名づけることができる。ただ善であるからである。前の二つ（苦諦と集諦）は三種（善・不善・無記）に通じるのに、どうして聖諦と名づけるのか。もし無漏であるから聖諦と名づけるならば、四つのうち後の二つは聖諦と名づけることができる。無漏であるからである。前の二つは有漏であるのに、どうして聖諦と名づけるのか。もし聖者が成就するから聖諦と名づけるならば、聖者でない者も成就するのに、どうして聖諦とだけ名づけるのか。例えば、だれが苦諦と集諦を成就するかと言えば、すべての有情である。だれが滅諦を成就するかと言えば、煩悩の束縛を完全には断ち切っていない者である。答えていうべきである。聖者が成就するから聖諦と名づけるのである。問う：もしそうならば、前の二つの難問はうまく通じるが、第三の難問はどう通じるのか。答える：聖者は四つを完全に成就するから聖諦と名づけるのである。凡夫はそうではない。問う：聖者でも四つを完全に成就しない者がある。例えば、煩悩の束縛をすべて具える者は、見道の最初の心では、その時まだ滅諦を成就していないからである。答える：時分が少ないからであって、凡夫のようではない。煩悩の束縛をすべて具える者は、見道の最初の心では四つをまだ成就していないが、その後は必ず四つを完全に成就する。凡夫は常に四つを完全に成就しない。それゆえに、苦などのみを聖諦と名づけるのである。また、聖者の品類の中には、四つを完全に成就する者があるから聖諦と名づけるのである。凡夫の品類の中には、四つを成就する者がないから、彼らの諦ではない。また、もし聖法の印が相続に印せられたならば、聖者の名を得る。彼らの有する諦であるから聖諦と名づけるのである。また、もしすでに聖者が愛する戒を得たならば、聖者と名づける。彼らの有する諦であるから聖諦と名づけるのである。また、もしすでに聖なる慧を得たならば、聖者と名づける。彼らの有する諦であるから聖諦と名づけるのである。また、もしすでに聖なる奢摩他（止）と毘鉢舍那（観）を得たならば、聖者と名づける。彼らの有する諦であるから聖諦と名づけるのである。また、もしすでに聖なる財を得たならば、聖者と名づける。彼らの有する諦であるから聖諦と名づけるのである。また、もしすでに聖なる胎に入ったならば、聖者と名づける。彼らの有する諦であるから聖諦と名づけるのである。また、もしすでに聖なる覚支と道支を得たならば、聖者と名づける。彼らの有する諦であるから聖諦と名づけるのである。尊者僧伽筏蘇はこう説いた。仏が在世のとき、凡夫と聖者がともに論争を起こした。凡夫たちは諸行は常・楽・我であると説き、聖者たちは諸行は無常・苦・空・非我であると説いた。凡夫たちは自分の言葉が諦であると説き、聖者たちもまた自分の言葉が諦であると説いた。論争を滅するために、ともに仏の所に赴いて仏に決していただいた。仏はこう言われた。「聖者の言葉は諦であり、他の者の言葉は諦ではない」。なぜならば、聖者は苦などを現に知り、見、覚り、その言葉は諦であるが、凡夫はそうではないからである。それゆえに、四諦はただ聖者にのみ属し、凡夫には属さないから聖諦と名づけるのである。尊者世友はこう説いた。この四諦は、ただ聖者たちだけが聖なる慧をもって通達するから聖諦と名づけるのである。

問苦聖諦云何。答如契經說。生苦老苦病苦死苦非愛會苦愛別離苦求不得苦。略說一切五取蘊苦是名苦聖諦。應知此中與生相合故名生苦。與住異相合故名老苦。與逼惱相合故名病苦。與滅相合故名死苦。與非愛會相合故名非愛會苦。與愛別離相合故名愛別離苦。與不自在不隨所欲相合故名求不得苦。如是諸苦皆是有漏取蘊所攝。故名略說一切五取蘊苦。復次生是一切苦安足處苦之良田故名生苦。老能衰變可愛盛年故名老苦。病能損壞可愛安適故名病苦。死能斷滅可愛壽命故名死苦。不可愛境與身合時引生眾苦故名非愛會苦。諸可愛境遠離身時引生眾苦故名愛別離苦。求如意事不果遂時引生眾苦故名求不得苦。如是諸苦皆是有漏取蘊所攝。故名略說一切五取蘊苦。問五取蘊苦其量廣大何故名略。答苦雖廣大而略說之故名為略。謂五取蘊苦患極多不可廣說欲令所化總生厭離故略說之。譬如有人多諸過惡不可廣說。有問彼過但可總答是極惡人言雖是略而過甚廣。此亦如是故名略說五取蘊苦。

> 問う、苦の聖諦とは何か。答える、経典に説く如く、生苦・老苦・病苦・死苦・愛せざる者と会う苦・愛する者と別れる苦・求めて得られぬ苦である。略して説けば、一切の五取蘊の苦がこれであり、これを苦の聖諦と名づける。ここにおいて、生と相合するがゆえに生苦と名づけ、住が異なる相と合するがゆえに老苦と名づけ、逼惱の相と合するがゆえに病苦と名づけ、滅の相と合するがゆえに死苦と名づけ、愛せざる者と会う相と合するがゆえに非愛会苦と名づけ、愛する者と別れる相と合するがゆえに愛別離苦と名づけ、自在ならず、欲するままにならぬ相と合するがゆえに求不得苦と名づける。これらの諸苦はすべて有漏の取蘊に摂せられる。ゆえに略して一切の五取蘊の苦と説くのである。また、生は一切の苦の安足処、苦の良田であるがゆえに生苦と名づけ、老は愛すべき盛年を衰え変ぜしめるがゆえに老苦と名づけ、病は愛すべき安適を損壊するがゆえに病苦と名づけ、死は愛すべき寿命を断滅するがゆえに死苦と名づけ、愛せざる境が身と合するとき、衆苦を引き起こすがゆえに非愛会苦と名づけ、愛すべき境が身を離れるとき、衆苦を引き起こすがゆえに愛別離苦と名づけ、意のままになることを求めて果たされぬとき、衆苦を引き起こすがゆえに求不得苦と名づける。これらの諸苦はすべて有漏の取蘊に摂せられる。ゆえに略して一切の五取蘊の苦と説くのである。問う、五取蘊の苦はその量が広大であるのに、なぜ略と名づけるのか。答える、苦は広大であるが、略して説くがゆえに略と名づけるのである。すなわち、五取蘊の苦患は極めて多く、広く説くことはできない。教化すべき者に総じて厭離の心を生じさせようとして、略して説くのである。たとえば、ある人が多くの過悪を有し、広く説くことができないとき、その過を問われて、ただ「これは極悪人である」と総じて答えるようなものである。言葉は略であるが、過は甚だ広い。これもまた同じである。ゆえに略して五取蘊の苦と説くのである。

問於諸蘊中為有樂不。設爾何失。二俱有過。所以者何。若諸蘊中亦有樂者。何故名苦諦而不名樂諦。若諸蘊中全無樂者。契經所說當云何通。如契經說。大名當知。色若一向有苦無樂。非樂所隨不生喜樂。遠離樂者有情不應為樂於色起貪起著。以諸色中有苦有樂。亦樂所隨亦生喜樂。不離樂故有情為樂於諸色中起貪起著。乃至於識廣說亦爾。又說三受各定建立不相雜亂。謂樂及苦不苦不樂。又契經說。道依資糧涅槃依道。以道樂故得涅槃樂。道既是樂如何蘊中可說無樂。答應作是說。於諸蘊中。亦有少樂。以諸蘊中苦多樂少少從多故但名苦蘊。如毒瓶中置一渧蜜。少從多故但名毒瓶。諸蘊亦爾。樂少苦多唯名苦諦。有作是說。於諸蘊中全無樂故但名苦諦。問若爾經說當云何通。答相待立名假說有樂。謂受上苦時於中苦起樂想。受中苦時於下苦起樂想。受地獄苦時於傍生苦起樂想。受傍生苦時於鬼界苦起樂想。受鬼界苦時於人苦起樂想。受人苦時於天苦起樂想。受有漏苦時於無漏道亦生樂想。故說有樂。復有說者。若依世間施設於諸蘊中亦說有樂。謂諸世間飢時得食渴時得飲。寒時得煖熱時得冷行疲倦時得車馬等。皆言得樂。若依賢聖施設於諸蘊中應說無樂。謂諸聖者從無間獄。乃至有頂諸蘊界處。皆等觀見如熱鐵團。評曰。應知此中初說為善。苦多樂少但名苦諦。

> 問う：諸の蘊の中に、楽は有るや否や。仮にそうだとしたら、何の過ちがあろうか。二つとも過ちが有る。何以故ならば、若し諸の蘊の中に亦た楽が有るならば、何故に苦諦と名付け、楽諦と名付けざるや。若し諸の蘊の中に全く楽が無いならば、契経の所説は如何にして通ぜんや。契経に説くが如し。大名よ、当に知るべし。色が一向に苦のみ有って楽が無く、楽に随わず、喜楽を生ぜず、楽を遠離するならば、有情は楽の為に色に於いて貪を起し執着を起すべからず。諸の色の中に苦も有り楽も有り、亦た楽に随い、亦た喜楽を生じ、楽を離れざるが故に、有情は楽の為に諸の色の中に於いて貪を起し執着を起す。乃至、識に於いても広説の如く爾るなり。又説く、三受は各々定って建立され、相雑乱せず。謂く、楽及び苦、不苦不楽なり。又契経に説く、道は資糧に依り、涅槃は道に依る。道が楽なるが故に涅槃の楽を得る。道が既に楽ならば、如何にして蘊の中に楽無しと言うべけんや。 答えに応えて作すべし。諸の蘊の中に、亦た少楽が有る。諸の蘊の中に苦が多く楽が少なく、少は多に従うが故に、但だ苦蘊と名付くるのみ。毒瓶の中に一渧の蜜を置くが如く、少は多に従うが故に、但だ毒瓶と名付く。諸の蘊も亦た爾るなり。楽少なく苦多きが故に、唯だ苦諦と名付くのみ。 或る説を作す：諸の蘊の中に全く楽が無いが故に、但だ苦諦と名付く。 問う：若し爾らば、経の説く所は如何にして通ぜんや。 答う：相待して名を立て、仮りに楽有りと説く。謂く、上苦を受くる時、中苦に於いて楽想を起す。中苦を受くる時、下苦に於いて楽想を起す。地獄の苦を受くる時、傍生の苦に於いて楽想を起す。傍生の苦を受くる時、鬼界の苦に於いて楽想を起す。鬼界の苦を受くる時、人の苦に於いて楽想を起す。人の苦を受くる時、天の苦に於いて楽想を起す。有漏の苦を受くる時、無漏の道に於いても亦た楽想を生ず。故に楽有りと説く。 復た或る説有り：若し世間の施設に依らば、諸の蘊の中に亦た楽有りと説く。謂く、諸の世間は飢うる時食を得、渇する時飲を得、寒き時煖を得、熱き時冷を得、行道疲れ倦む時車馬等を得て、皆な楽を得たりと言う。若し賢聖の施設に依らば、諸の蘊の中には楽無しと説くべし。謂く、諸の聖者は無間獄より乃至有頂の諸蘊・界・処に至るまで、皆な等しく観じて熱鉄の団の如しと見る。 評して曰く：此の中、初の説を善しと知るべし。苦多く楽少なく、但だ苦諦と名付くるのみ。

問苦集聖諦云何。答如契經說。諸所有愛及後有愛。喜俱行愛彼彼喜愛。是名苦集聖諦。問諸有漏法能為因義皆是集諦。何故世尊但說集諦是愛非餘。答愛於施設集聖諦中。勢用增強非餘有漏。故偏說愛是集非餘。然有漏法皆是集諦。如施設行蘊中思最勝故說思非餘。而實相應不相應行皆是行蘊。是故偏說愛為集諦。復次愛是三世眾苦因本。道路由緒能作生緣。集起勝故偏說集諦。復次愛能數數招集苦果勝故偏說。如有頌言。

> 問う：苦集聖諦とは何か。答え：経典に説かれる通り、あらゆる愛着、そして来世への執着、喜びを伴う愛着、さまざまな対象に対する愛着、これを苦集聖諦という。 問う：すべての煩悩を伴う存在（有漏法）は、原因となるという意味ではすべて集諦であるのに、なぜ世尊は集諦を愛だけであると説き、他のものを除外したのか。 答え：愛は集聖諦を立てるにあたって、その働きが他の有漏法よりもはるかに強いからである。それゆえに、特に愛を集諦として説き、他のものではないとしたのである。しかし実際には、有漏法はすべて集諦である。たとえば、行蘊を立てるにあたって思（意志）が最も優れていることから、思だけを説いて他を除外するが、実際には対応するものも対応しないものもすべて行蘊に含まれるのと同じである。それゆえに、特に愛を集諦として説くのである。 また、愛は三世にわたるすべての苦しみの根本であり、道筋であり、縁であり、生の原因を作り出すものである。苦しみを集め起こす働きが特に優れているから、特に集諦として説くのである。 また、愛は繰り返し苦しみの結果を招き集める働きが特に強いから、特に説かれるのである。次の偈頌にもある通りである。

如樹根未拔斫斫還復生未斷愛隨眠數數感眾苦

> 根を抜かない限り、切っても切ってもまた生えてくる。 愛欲の眠りを断たない限り、何度も何度も苦しみを味わうことになる。

復次愛於有情能燒能潤是故偏說。因時能潤果時能燒。如熱油渧墮在身時能燒能潤。愛於有情亦復如是。復次以愛能起如起尸鬼能招生業。是故偏說。如有水處有起尸鬼能起死尸。有愛身中有招生業能招生死。復次以愛能攝有情無情內外諸事是故偏說。攝有情者。由愛勢力攝受妻子奴婢作使。象馬牛羊駝驢等事。攝無情者。由愛勢力攝受宮殿舍宅珍財及穀麥等。復次愛能長養男身女身是故偏說。謂諸有情由愛勢力能正供養父母師長。及能養育妻子作使朋友眷屬乃至禽獸由愛勢力。從一谷中殘害生類持至餘谷養育其子。復次以愛勢力欲得未來生趣自體由欲得故便起希望。由希望故即便求覓。由求覓故得生趣體故偏說愛。復次愛能滋潤諸有生死令不萎枯是故偏說。如水能潤樹木藥草令不萎枯。復次愛能潤識生後有芽謂由愛力得入母胎滋潤精血令住胎藏是故偏說。復次若有所依所緣行相。能起愛者即此所依所緣行相起餘煩惱。猶如魚王所遊止處小魚皆隨。此亦如是由此說愛名煩惱王是故偏說。復次若相續中有貪愛者。諸餘煩惱皆集其中。如潤濕衣塵垢易著。是故偏說愛為集諦。復次若相續中有貪愛水。諸餘煩惱皆悉樂住。如有水處魚蝦蟇等皆悉樂住是故偏說。復次愛如熾火能燒一切。又如鹹水飲無足時是故偏說。如熾火中投諸物類。悉皆燒盡無充足時。又如渴人飲以鹹水。隨飲隨渴無厭足時。如是身中未離愛者貪著境界無滿足時。復次愛能和合別異有情令不別異是故偏說。如水和合別異砂等令不相離。復次愛令有情善法生澁無所堪能。愛潤有情令有住著不能出離是故偏說。謂諸有情由愛勢力所修善法生澁無能。又潤有情令於生死所在執著不能超昇。如蠅蜂等至酥油蜜。濕皮等上膠粘翅足不能飛空。復次愛於有情因位果位。所作有異是故偏說。謂所起愛於諸有情因時隨順如善親友。果時違害如惡怨家。如諸商人入海採寶。至一洲渚遇邏剎斯。先現善顏作諸愛語。以禮供事請以為夫。後知委信方便誘引。禁鐵城中飲食血肉。漸至都盡唯有餘骨。愛邏剎斯亦復如是。先令有情嬉戲造惡。後令墮惡趣受種種劇苦。復次愛是起因是故偏說。如契經說。業為生因愛為起因生死流轉。復次愛難斷離是故偏說。如人忽遇二邏剎斯。一作母形難可免離。二作怨形易可免離。如是有情未離欲染。有二煩惱數數現行。一者貪欲難可斷離。二者瞋恚易可斷離。復次愛數現行微細難覺是故偏說。如善鏇師所用利器。所有斷盡微細難知。復次愛於有支漸立三種是故偏說。謂初起時說名為愛。次增廣位說名為取。死後得果說名無明。復次有十染法愛為上首是故偏說。如契經說。佛告阿難。緣愛故求。緣求故得。緣得故集。緣集故貪。緣貪故著。緣著故慳。緣慳故攝受。緣攝受故守護。緣守護故執持刀杖。鬪諍欺誑諂詐輕侮。生無量種惡不善法。復次愛於染污八等至中勢力增強是故偏說。如說味相應初靜慮。為在定時味。為出定已味。應言出定已味。非在定時味。乃至味相應非想非非想處廣說亦爾。復次佛說貪愛縛諸異生如繩繫鳥是故偏說。復次佛說貪愛如網如藤籠縛難免是故偏說。復次佛說貪愛深廣難渡猶如大海是故偏說。復次佛說貪愛長遠如河難可尋偃是故偏說。如契經說言長河者喻三種愛。謂欲愛色愛無色愛。復次以佛說貪愛難斷難破難可越度是故偏說。復次佛說貪愛多諸過患熾盛堅牢是故偏說。復次佛說貪愛能令界別地別部別及能生長一切煩惱是故偏說。由如是等種種因緣。有漏法中。唯愛一種世尊偏說為集聖諦。而集聖諦非唯愛攝。

> さらに、愛は有情を燃やし潤すものであるため、特に説かれるのです。因の時には潤し、果の時には燃やします。例えば熱い油の滴が身に落ちた時、燃やし潤すようなものです。愛も有情に対して同じような働きをします。 また、愛は起屍鬼のように、生を招く業を起こすことができるため、特に説かれるのです。水のある所には起屍鬼がいて死体を起こすことができますが、愛のある身には生を招く業があって生死を起こすのです。 また、愛は有情・無情の内外の諸々の事柄を摂受することができるため、特に説かれるのです。有情を摂するとは、愛の力によって妻子や奴婢、使役する者、象・馬・牛・羊・駱駝・驢馬などを摂受することです。無情を摂するとは、愛の力によって宮殿や舎宅、珍宝や穀物・麦などを摂受することです。 また、愛は男身・女身を長養することができるため、特に説かれるのです。すなわち、諸々の有情は愛の力によって父母や師長を正しく供養し、妻子や使役する者、朋友や眷属を養育することができます。さらに禽獣に至るまで、愛の力によって一つの谷から生き物を害して取り、他の谷に持って行ってその子を養うのです。 また、愛の力によって未来の生趣における自己の身体を得ようと欲するのです。欲するがゆえに希望を起こし、希望するがゆえに求めて探し求め、求めて探し求めるがゆえに生趣の身体を得るのです。それゆえに愛が特に説かれるのです。 また、愛は諸々の生死を滋潤して萎れ枯れることがないようにするため、特に説かれるのです。水が樹木や薬草を潤して萎れ枯れさせないようなものです。 また、愛は識を潤して後有の芽を生じさせます。すなわち、愛の力によって母の胎内に入り、精血を潤して胎蔵に住まわせることができるため、特に説かれるのです。 また、もし所依・所縁・行相があって愛を起こすならば、まさにこの所依・所縁・行相が他の煩悩をも起こすのです。ちょうど魚王の遊び止まる所には小魚がみな従うようなものです。これも同じです。このように説くことによって、愛を煩悩の王と名づけるのです。それゆえに特に説かれるのです。 また、もし相続の中に貪愛があるならば、諸々の他の煩悩はみなその中に集まるのです。湿った衣には塵や垢がつきやすいようなものです。それゆえに愛を集諦と特に説くのです。 また、もし相続の中に貪愛の水があるならば、諸々の他の煩悩はみな喜んでそこに住むのです。水のある所には魚や蝦蟇などがみな喜んで住むようなものです。それゆえに特に説かれるのです。 また、愛は燃え盛る火のように一切を焼き尽くし、また塩水のように飲んでも満たされることがないため、特に説かれるのです。燃え盛る火の中に諸々の物を投じれば、みな焼き尽くされて満たされる時がないようなものです。また、渴いた人が塩水を飲めば、飲むごとに渴き、飽き足りる時がないようなものです。このように、身の中で愛を離れていない者は、境界を貪著して満足することがないのです。 また、愛は別異の有情を和合させ、別異ならしめないため、特に説かれるのです。水が別異の砂などを和合させて互いに離れないようにするようなものです。 また、愛は有情の善法を生澁にさせ、堪能することができないようにし、有情を潤して執着させ、出離することができないようにするため、特に説かれるのです。すなわち、諸々の有情は愛の力によって修める善法が生澁で能力がなく、また有情を潤して生死の中の所に執着させ、超昇することができないようにするのです。蠅や蜂などが酥・油・蜜・湿った皮などに付着すると、翅や足が膠着して空を飛ぶことができないようなものです。 また、愛は有情に対して因の位と果の位でその働きに違いがあるため、特に説かれるのです。すなわち、起こされた愛は諸々の有情に対して因の時には善い親友のように従順であり、果の時には悪い怨家のように違背して害するのです。たとえば、商人たちが海に入って宝を採り、一つの洲渚に至って羅刹に遇うと、まず善い顔を見せて愛語をなし、礼をもって供養して夫と請うのです。後に信任を得たことを知って、方便をもって誘い引き、鉄の城中に禁錮して飲食として血肉を与え、徐々に尽きてただ骨のみが残るようにするようなものです。愛の羅刹も同じであり、まず有情に戯れや悪を造らせ、後に悪趣に堕ちて種々の劇苦を受けるようにするのです。 また、愛は起因であるため、特に説かれるのです。経典に説くように、「業は生の因であり、愛は起の因であり、生死が流転する」のです。 また、愛は断ち難く離れ難いため、特に説かれるのです。たとえば、人が忽然として二つの羅刹に遇う時、一つは母の形を作っていて離れ難く、一つは怨の形を作っていて離れ易いようなものです。このように、有情が未だ欲染を離れない時には、二つの煩悩が数々現行します。一つは貪欲で断ち離れ難く、二つは瞋恚で断ち離れ易いのです。 また、愛は数々現行して微細で覚え難いため、特に説かれるのです。巧みな旋師が用いる利器のように、その断ち尽くすことは微細で知り難いようなものです。 また、愛は有支の中で漸く三種を立てるため、特に説かれるのです。すなわち、初めに起こる時は愛と名づけ、次に増広する位では取と名づけ、死後に果を得る時は無明と名づけるのです。 また、十の染法があって愛がその上首であるため、特に説かれるのです。経典に説くように、仏は阿難に告げて言われました。「愛に縁って求めることがあり、求めることに縁って得ることがあり、得ることに縁って集まることがあり、集まることに縁って貪ることがあり、貪ることに縁って執着することがあり、執着することに縁って慳吝があり、慳吝に縁って摂受があり、摂受に縁って守護があり、守護に縁って刀杖を執持ち、闘諍・欺誑・諂詐・軽侮が生じ、無量の種々の悪不善法が生じる」と。 また、愛は染汚の八等至の中で勢力が増強するため、特に説かれるのです。「味相応の初静慮は、定にある時の味なのか、定を出た後の味なのか。応に言うべきは、定を出た後の味であって、定にある時の味ではない」と説くように、乃至、味相応の非想非非想処に至るまで広説しても同様です。 また、仏は貪愛が諸々の異生を縛ることを、縄が鳥を繋ぐようなものだと説かれたため、特に説かれるのです。 また、仏は貪愛が網のようであり、藤籠のようであって縛られて免れ難いと説かれたため、特に説かれるのです。 また、仏は貪愛が深広で渡り難く、大海のようであると説かれたため、特に説かれるのです。 また、仏は貪愛が長遠で河のようであり、その岸を求め難いと説かれたため、特に説かれるのです。経典に「長河とは三種の愛を喩える。すなわち欲愛・色愛・無色愛である」と説くように。 また、仏が貪愛は断ち難く破り難く越え難いと説かれたため、特に説かれるのです。 また、仏は貪愛が多くの過患を有し、熾盛で堅牢であると説かれたため、特に説かれるのです。 また、仏は貪愛が界を別にし、地を別にし、部を別にすることができ、また一切の煩悩を生長することができると説かれたため、特に説かれるのです。 このような種々の因縁によって、有漏の法の中で、ただ愛の一種のみを世尊は特に集聖諦として説かれたのです。しかし、集聖諦は愛のみを含むのではありません。

問苦滅聖諦云何。答如契經說。即諸所有愛及後有愛喜俱行愛彼彼喜愛。無餘斷棄吐盡離滅靜沒。是名苦滅聖諦。問既說諸愛無餘斷等名滅聖諦。即集亦滅如何但說苦滅聖諦。答此亦應說集滅聖諦。而不說者是有餘說。復次已說苦滅當知即說集諦亦滅。以苦與集是一物故。復次若說苦滅應知已說集諦亦滅。要滅其因果乃滅故。復次為所化者欣樂滅故但說苦滅。謂所化者於苦厭心勝於厭集。無始時來為苦逼故。今聞佛說苦滅聖諦便生歡喜言。此弊惡眾苦滅盡甚為快哉。由此喜心速求證滅。由如是等種種因緣世尊但說苦滅聖諦。而不說為集滅聖諦。問趣苦滅道聖諦云何。答如契經說八支聖道。謂正見乃至正定。是名趣苦滅道聖諦。問此亦應說趣集滅道。如何但說趣苦滅道。答此亦應說趣集滅道。而不說者是有餘說。復次已說趣苦滅道當知即說趣集滅道。以苦與集非別物故。復次若說趣苦滅道應知已說趣集滅道。要滅因已果方滅故。復次為所化者欣樂滅道故作是說。謂所化者厭苦情深聞說此道能趣苦滅極生歡喜。由此速能修道加行。是故但說趣苦滅道。復次欲顯聖道唯能遮苦令永不生故作是說。謂設問道。汝為有力令因非因果非果不。道答不能。然諸因緣能生苦者。我能對治令不生苦。是故但說趣苦滅道。復次為欲遮遣於道誹謗。是故但說趣苦滅道。謂有幼年七八歲等證無學果。乃至百歲壽命方盡。於其中間受種種苦。如受四百四病等苦。世人見之便誹謗道。言此聖道不能盡苦。是故世尊作如是說。聖道能滅後有眾苦。由如是等種種因緣。世尊但說趣苦滅道。而不說為趣集滅道。

> 問う、苦滅聖諦とは何か。答えよう、経典に説かれる通りである。すなわち、あらゆる愛、および後有への愛、喜びと共に働く愛、あれこれの対象への喜びの愛を、残すことなく捨て、断ち、吐き出し、尽くし、離れ、滅し、静まり、消え去らせること、これを苦滅聖諦と名づける。 問う、すでに諸々の愛を残らず断つなどを滅聖諦と説くならば、集もまた滅するはずである。どうして苦滅聖諦とのみ説くのか。答えよう、これもまた集滅聖諦と説くべきである。しかし説かないのは、これは余分な説明を省略したものである。また、苦滅を説けば、集諦もまた滅することが知られるべきである。苦と集は同じものだからである。また、苦滅を説けば、集諦もまた滅することがすでに説かれたと知るべきである。その因を滅ぼしてこそ、果も滅するからである。また、教化される者たちが滅を喜び求めるから、苦滅とのみ説くのである。教化される者たちは、苦に対しては集に対するよりも厭離の心が強い。始まりなき時から苦に逼められてきたからである。今、仏が苦滅聖諦を説くのを聞いて、欢喜を生じ、「この悪しき苦しみの数々が滅し尽くされるとは、なんと素晴らしいことか」と言う。この喜びの心によって、速やかに滅を証得しようと求める。このような様々な因縁によって、世尊は苦滅聖諦とのみ説き、集滅聖諦とは説かなかったのである。 問う、趣苦滅道聖諦とは何か。答えよう、経典に説かれる通り、八支の聖道である。すなわち正見から正定に至るまでである。これを趣苦滅道聖諦と名づける。 問う、これもまた趣集滅道と説くべきである。どうして趣苦滅道とのみ説くのか。答えよう、これもまた趣集滅道と説くべきである。しかし説かないのは、これは余分な説明を省略したものである。また、趣苦滅道を説けば、趣集滅道もまた説かれたと知るべきである。苦と集は別のものではないからである。また、趣苦滅道を説けば、趣集滅道もまた説かれたと知るべきである。因を滅ぼしてこそ、果も滅するからである。また、教化される者たちが滅道を欣楽するから、このように説くのである。教化される者たちは苦を厭う心が深く、この道が苦滅に至ることを聞いて、非常に喜びを生じる。これによって速やかに道の加行を修めることができる。それゆえ、趣苦滅道とのみ説くのである。また、聖道がただ苦を遮って、永く生じないようにすることができることを示そうとして、このように説くのである。すなわち、もし道に問うて、「あなたは因をして非因たらしめ、果をして非果たらしめる力があるか」と言えば、道は「できない」と答えるであろう。しかし、苦を生じる様々な因縁に対しては、私は対治して苦を生じないようにすることができる。それゆえ、趣苦滅道とのみ説くのである。また、道に対する誹謗を遮り除こうとして、それゆえ趣苦滅道とのみ説くのである。すなわち、七、八歳の幼年で無学果を証得し、百歳になって寿命が尽きるまで、その間に様々な苦を受ける者がある。例えば四百四病などの苦を受けるようなものである。世の人々はこれを見て道を誹謗し、「この聖道は苦を尽くすことができない」と言う。それゆえ世尊はこのように説かれたのである。「聖道は後有の衆苦を滅することができる」と。このような様々な因縁によって、世尊は趣苦滅道とのみ説き、趣集滅道とは説かなかったのである。

問何故世尊先說苦諦。乃至最後說道諦耶。答隨順文辭故作是說。謂作是說文辭隨順。復次若作是說隨順說者。受者持者非餘次第。復次依現觀時故作是說。謂次第法略有三種。一生起次第。二易說次第。三現觀次第。生起次第者。謂四念住四靜慮四無色等。諸瑜伽師先起身念住。是故先說。乃至後起法念住。是故後說。靜慮無色廣說亦爾。易說次第者。謂四正勝四神足五根五力七等覺支八道支等。雖四正勝俱時而有而易說故。先說斷惡後說修善。於斷惡中先說斷已生惡。後說遮未生惡。於修善中先說起未生善。後說增已生善。若作是說。言辭輕便四神足等廣說亦爾。現觀次第者。謂四聖諦。諸瑜伽師於現觀位。先現觀苦故佛先說。次現觀集故佛次說。次現觀滅故佛次說。後現觀道故佛後說。

> 問う：なぜ世尊は先に苦諦を説き、最後に道諦を説かれたのか。 答える：言葉の流れに従ってそのように説かれたのである。すなわち、そのように説くと文辞が自然に整うからである。 また、そのように説くと、説く者にも聞く者にも受け取る者にも、他の順序よりも適しているからである。 また、現観（さとりを観じる時）の順序に基づいてそのように説かれたのである。すなわち、順序には大きく三つの種類がある。第一に生起の順序、第二に説きやすさの順序、第三に現観の順序である。 生起の順序とは、四念住・四静慮・四無色などのことである。修行者たちはまず身念住を起こすので、それを先に説く。そして最後に法念住を起こすので、それを後に説く。静慮や無色についても同様に広く説明される。 説きやすさの順序とは、四正勝・四神足・五根・五力・七等覚支・八道支などのことである。四正勝は同時に存在するが、説きやすいから、まず悪を断つことを説き、その後に善を修めることを説く。悪を断つことについては、まずすでに生じた悪を断つことを説き、その後にまだ生じていない悪を防ぐことを説く。善を修めることについては、まずまだ生じていない善を起こすことを説き、その後にすでに生じた善を増すことを説く。このように説くと、言葉が簡潔でわかりやすい。四神足などについても同様に広く説明される。 現観の順序とは、四聖諦のことである。修行者たちは現観の位において、まず苦を現観するので、仏は先に苦を説かれた。次に集を現観するので、仏は次に集を説かれた。次に滅を現観するので、仏は次に滅を説かれた。最後に道を現観するので、仏は最後に道を説かれたのである。

問因論生論。何故行者入現觀時。先現觀苦乃至最後現觀道耶。答依麁細故。謂四諦中苦諦最麁故先現觀。漸次乃至道諦最細故後現觀。如學射時先射麁物。漸次乃至能射毛端。復次以迷苦愚能持迷集愚。乃至迷滅愚能持迷道愚。若未除迷苦愚終不能除迷集愚。乃至若未除迷滅愚終不能除迷道愚。故先現觀苦乃至最後現觀道。復次以迷苦愚能引迷集愚。乃至迷滅愚能引迷道愚。若未遮迷苦愚。必不能遮迷集愚。乃至若未遮迷滅愚必不能遮迷道愚。故先現觀苦乃至最後現觀道。復次以苦諦觀能引集諦觀。乃至滅諦觀能引道諦觀。若未起苦諦觀必不能起集諦觀。乃至若未起滅諦觀必不能起道諦觀。故先現觀苦乃至最後現觀道。復次以苦諦觀是集諦觀因本道路由緒能作生緣集起。乃至滅諦觀是道諦觀。因本道路由緒能作生緣集起。若未起苦諦觀必不能起集諦觀。乃至若未起滅諦觀必不能起道諦觀故。先現觀苦乃至最後現觀道。復次苦諦觀是集諦觀加行所依門安足處。乃至滅諦觀是道諦觀加行所依門安足處。若未起苦諦觀必不能起集諦觀。乃至若未起滅諦觀必不能起道諦觀故。先現觀苦乃至最後現觀道。脇尊者言。修觀行者知五取蘊如病如癰如箭等已。次求其因知是集諦。次求無處知是滅諦。後求對治知是道諦。如軟弱人身遭病等。為苦所逼便起念言。我此病等因何而生。知因風熱痰癊等起。復作是念。何當得愈知除滅時。復作是念。由何當愈知服藥等。由此因緣故先現觀苦。乃至最後現觀道。復次修觀行者知五取蘊多諸過患。次求其因次求其滅後求對治。如人有子專行劫盜。作如是念。我子因誰而作此惡知因惡友。復作是念。子所行惡何時當止知調善時復作是念。誰令調善知由善友。由此因緣故先現觀苦。乃至最後現觀道。

> 問：なぜ修行者は現観に入る時、まず苦を現観し、最後に道を現観するのでしょうか。 答：それは粗いものから細かいものへと進む順序によるものです。四諦の中では苦諦が最も粗いので最初に現観し、段階を経て道諦が最も細かいので最後に現観します。ちょうど弓術を学ぶ時、まず大きな的を射ることから始め、徐々に進んで毛先ほどの的も射られるようになるのと同じです。 また、苦に対する無知は集に対する無知を支え持つ働きがあり、滅に対する無知は道に対する無知を支え持つ働きがあります。苦に対する無知を取り除かなければ、集に対する無知を取り除くことはできません。同様に、滅に対する無知を取り除かなければ、道に対する無知を取り除くことはできません。ですから、まず苦を現観し、最後に道を現観するのです。 また、苦に対する無知は集に対する無知を引き起こす原因となり、滅に対する無知は道に対する無知を引き起こす原因となります。苦に対する無知を防がなければ、必ず集に対する無知を防ぐことはできません。同様に、滅に対する無知を防がなければ、必ず道に対する無知を防ぐことはできません。ですから、まず苦を現観し、最後に道を現観するのです。 また、苦諦の観察は集諦の観察を引き起こし、滅諦の観察は道諦の観察を引き起こします。苦諦の観察を起こさなければ、必ず集諦の観察を起こすことはできません。同様に、滅諦の観察を起こさなければ、必ず道諦の観察を起こすことはできません。ですから、まず苦を現観し、最後に道を現観するのです。 また、苦諦の観察は集諦の観察にとっての根本・基礎・道筋・手がかり・生起の縁となります。同様に、滅諦の観察は道諦の観察にとっての根本・基礎・道筋・手がかり・生起の縁となります。苦諦の観察を起こさなければ、必ず集諦の観察を起こすことはできません。同様に、滅諦の観察を起こさなければ、必ず道諦の観察を起こすことはできません。ですから、まず苦を現観し、最後に道を現観するのです。 また、苦諦の観察は集諦の観察への修行のよりどころ・入り口・足場となり、滅諦の観察は道諦の観察への修行のよりどころ・入り口・足場となります。苦諦の観察を起こさなければ、必ず集諦の観察を起こすことはできません。同様に、滅諦の観察を起こさなければ、必ず道諦の観察を起こすことはできません。ですから、まず苦を現観し、最後に道を現観するのです。 脇尊者はこう述べています。修行者は五つの取蘊が病のようであり、腫物のようであり、矢が刺さったようなものであると知った後、まずその原因を求め、それが集諦であると知ります。次に苦しみのない場所を求め、それが滅諦であると知ります。そして最後にその対治法を求め、それが道諦であると知ります。 ちょうど弱い人が病にかかり、苦しみに悩まされて「この病は何によって生じたのか」と考え、風や熱、痰などの原因によって起きたと知り、「いつ治るのだろうか」と考え、治る時があることを知り、「何によって治るのだろうか」と考え、薬を服用することなどを知るのと同じです。このような理由から、まず苦を現観し、最後に道を現観するのです。 また、修行者は五つの取蘊に多くの過患があると知り、次にその原因を求め、次にその消滅を求め、最後にその対治法を求めます。ちょうど、息子が盗みを働いている人がいて、「この子は誰の影響でこんな悪事を働くようになったのか」と考えると悪い友の影響だと知り、「この子の悪行はいつ止むだろうか」と考えると善く調えられる時があると知り、「誰が善く調えるのだろうか」と考えると善い友によってだと知るのと同じです。このような理由から、まず苦を現観し、最後に道を現観するのです。

問先因後果隨順次第。何故行者先現觀苦後現觀集。答知苦斷集次第順故。問知苦斷集順何次第。答此順世間伐樹次第。謂伐樹者先斷枝等然後拔根。伐生死樹次第亦爾。先知苦者如斷枝等。後斷集者如拔樹根。問先道後滅隨順次第。何故行者先現觀滅後現觀道。答證滅修道次第順故。問證滅修道順何次第。答此順所趣能趣次第。若先說修道後說證滅者。不知此道為是誰道。若先說證滅後說修道者。即知此道是趣滅道。如人問他當示我道。他反詰言汝問何道。其人報言問某城道。他遂答言此是彼道。先說證滅後說修道。應知亦爾舉滅示道順次第故。復次諸瑜伽師。先以緣三諦道斷迷三諦愚。後以緣道諦道斷迷道諦愚。故先現觀滅後乃現觀道。譬如有人先觀他面知其好醜。後欲自知面好醜故取鏡照之。由此因緣先現觀滅後現觀道。問現觀諦時為觀自相為觀共相。設爾何失。二俱有過。所以者何。若觀自相諸法自相差別無邊。應無觀諦得究竟者。且地自相無邊差別。觀未窮盡而便命終。況更能觀諸餘自相。若觀共相如何四諦不頓現觀復於何時以如實智觀諦自相。於諦自相。若不能觀云何名為現觀諦者。答應作是說觀於共相。問如何四諦不頓現觀。答現觀諦時雖觀共相而不現觀一切共相。謂但現觀少分共相然自共相差別無邊。且地大種亦名自相亦名共相。名自相者對三大種。名共相者一切地界皆堅相故。大種造色合成色蘊。如是色蘊亦名自相亦名共相。名自相者對餘四蘊。名共相者諸色皆有變礙相故。即五取蘊合成苦諦。如是苦諦亦名自相亦名共相。名自相者對餘三諦。名共相者諸蘊皆有逼迫相故。思惟如是共逼迫相。即是思惟苦及非常空非我相。亦即名為苦諦現觀。如是現觀若對諸諦名自相觀。若對諸蘊名共相觀。由對諸蘊名共相觀。故現觀時名觀共相。由對諸諦名自相觀。故於四諦不頓現觀。復次一諦非四。四諦非一。故於四諦不頓現觀。復次一行相非四。四行相非一。故於四諦不頓現觀。復次有漏無漏相各差別。故於四諦不頓現觀。復次有為無為相各差別。故於四諦不頓現觀。復次果因所證能證各別。故於四諦不頓現觀。復次以四聖諦或相有異或性相異。故無一時頓現觀義。復次能覺所覺根與相義。行相所緣境與有境相各有別。故於四諦不頓現觀。復次於一一諦尚不頓觀。況有一時頓觀四諦。謂現觀位先別觀欲界苦。後合觀色無色界苦。先別觀欲界集。後合觀色無色界集。先別觀欲界滅。後合觀色無色界滅。先別觀欲界道。後合觀色無色界道。故無頓觀四聖諦義。

> 問：因在前、果在後，這是順著次第的。為什麼修行的人先現觀「苦」，然後才現觀「集」呢？ 答：因為先了知苦、再斷除集，這是符合次第的順序。 問：了知苦、斷除集，是順著什麼次第呢？ 答：這是順著世間砍樹的次第。砍樹的人，先砍斷樹枝等，然後再拔起樹根。砍斷生死這棵樹的次第也是這樣：先了知苦，就像砍斷樹枝；之後斷除集，就像拔起樹根。 問：道在先、滅在後，這是順著次第的。為什麼修行的人先現觀「滅」，然後才現觀「道」呢？ 答：因為證得滅、修習道，這是符合次第的順序。 問：證得滅、修習道，是順著什麼次第呢？ 答：這是順著「所趣向的目標」和「能趣向的方法」的次第。如果先說修道、後說證滅，就不知道這條道是誰的道。如果先說證滅、後說修道，就知道這條道是趣向滅的道。就像有人問別人說：「請您指示我道路。」對方反問說：「您問的是什麼道？」這個人回答說：「問的是通往某城的道。」對方於是回答說：「這就是通往那座城的道。」先說證滅、後說修道，也應該這樣理解：舉出滅來指示道，這是順著次第的緣故。 再者，各位修行的人，先以緣於苦、集、滅三諦的道，斷除對這三諦的迷惑；之後再以緣於道諦的道，斷除對道諦的迷惑。所以先現觀滅，之後才現觀道。就像有人先看別人的臉，知道其美醜；之後想知道自己臉的美醜，就拿起鏡子來照自己。由於這個因緣，先現觀滅、後現觀道。 問：現觀諸諦的時候，是觀察自相呢，還是觀察共相呢？ 如果這樣問，會有什麼過失呢？兩種說法都有問題。為什麼呢？ 如果觀察自相，諸法的自相差別無量無邊，就不應該有能究竟現觀諸諦的人。況且，光是「地」的自相就有無邊的差別，還沒有觀察完畢，壽命就已經結束了，更何況要去觀察其他種種的自相呢？ 如果觀察共相，那麼為什麼四諦不是一下子就全部現觀呢？又在什麼時候，以如實的智慧來觀察諦的自相呢？如果連諦的自相都不能觀察，憑什麼叫做「現觀諸諦」的人呢？ 答：應該這樣說：觀察的是共相。 問：既然如此，為什麼四諦不是一下子全部現觀呢？ 答：現觀諸諦的時候，雖然是觀察共相，但並不是觀照一切的共相。只是現觀少分的共相而已。然而，自相和共相的差別是無量無邊的。 舉例來說，「地大種」既可以稱為自相，也可以稱為共相。說它是自相，是相對於其他三大種而言；說它是共相，是因為一切地界都有堅硬的性質。 由大種和所造的色，合起來構成色蘊。這樣的色蘊，既可以稱為自相，也可以稱為共相。說它是自相，是相對於其餘的四蘊（受、想、行、識）而言；說它是共相，是因為諸色都有變礙的性質。 五取蘊合起來構成苦諦。這樣的苦諦，既可以稱為自相，也可以稱為共相。說它是自相，是相對於其餘三諦（集、滅、道）而言；說它是共相，是因為諸蘊都有逼迫的性質。 思惟這樣共通的逼迫性質，就是思惟苦、無常、空、非我的性質，這也就叫做「苦諦現觀」。 這樣的現觀，如果相對於諸諦而言，稱為自相觀；如果相對於諸蘊而言，則稱為共相觀。由於相對於諸蘊是共相觀，所以現觀的時候稱為觀察共相；由於相對於諸諦是自相觀，所以對四諦不是一下子全部現觀。 再者，一諦不等於四諦，四諦也不等於一諦，所以對四諦不是一下子全部現觀。 再者，一種行相不等於四種行相，四種行相也不等於一種行相，所以對四諦不是一下子全部現觀。 再者，有漏和無漏的性質各有差別，所以對四諦不是一下子全部現觀。 再者，有為和無為的性質各有差別，所以對四諦不是一下子全部現觀。 再者，果與因、所證與能證，各有不同，所以對四諦不是一下子全部現觀。 再者，因為四聖諦的相狀有所不同，或者體性與相狀有所差異，所以沒有一時之間全部現觀的道理。 再者，能覺與所覺、根與相、行相與所緣、境與有境，這些都各有差別，所以對四諦不是一下子全部現觀。 再者，對於每一諦，尚且不能一下子全部觀完，更何況是一時之間全部觀照四諦呢？在現觀的階段，先分別觀察欲界的苦，之後再合起來觀察色界和無色界的苦；先分別觀察欲界的集，之後再合起來觀察色界和無色界的集；先分別觀察欲界的滅，之後再合起來觀察色界和無色界的滅；先分別觀察欲界的道，之後再合起來觀察色界和無色界的道。所以，並沒有一下子全部現觀四聖諦的道理。

問因論生論。何故行者先別觀欲界苦。後合觀色無色界苦耶。答依麁細相而起現觀。欲界苦麁故先現觀。色無色界苦細故後現觀。問若爾色界苦麁應先現觀。無色界苦細應後現觀。如何一時觀二界苦。答俱定地攝故合現觀。謂欲界苦非定地攝故先別觀。色無色界苦俱定地攝故後合觀。復次欲界苦與身俱現執受故先別觀。色無色苦不與身俱非現執受故後合觀。復次欲界苦現痛逼迫。如荷重擔故先別觀色無色界苦非現痛逼迫如荷重擔故後合觀。復次欲界苦現惱行者如現怨敵故先別觀。色無色界苦非現惱行者如現怨敵故後合觀。復次欲界苦近故先別觀。色無色界苦遠故後合觀。如近遠如是隣逼。非隣逼和合非和合此身眾同分。餘身眾同分。應知亦爾。復次欲界苦現見故先別觀。色無色界苦不現見故後合觀。問入現觀位於色無色界苦若不現見云何名現觀耶。答現見有二種。一執受現見。二離染現見。入現觀位於欲界苦具二現見故名現觀。於色無色界苦唯有離染現見故名現觀。如商賈者有兩擔財。一自身擔二使他擔。自身擔者具二現見。一知重現見。二知財現見。使他擔者唯一現見。謂知財現見。復次欲界苦有善不善無記三種故先別觀。色無色界苦唯有善無記二種故後合觀。復次行者成就欲界異生性故先別觀欲界苦。不成就色無色界異生性故。後合觀色無色界苦。謂法應爾。若成就此界異生性者。即先觀此界苦。復次於欲界苦先起誹謗故先別現觀而生於信。於色無色界苦後起誹謗故後合現觀而生於信。由如是等種種因緣。先別觀欲界苦。後合觀色無色界苦。三諦現觀准此應知。

> ここで、問答による論議が起こる。なぜ修行者は、まず欲界の苦を個別に観察し、その後で色界と無色界の苦をまとめて観察するのだろうか。 答えよう。粗い・細かいという性質の違いに基づいて、真理の直観的理解（現観）が起こるからである。欲界の苦は粗いので、まず最初に直観的理解が起こる。色界と無色界の苦は細かいので、その後で直観的理解が起こる。 問う。それならば、色界の苦は粗いのだから先に直観的理解が起こるべきであり、無色界の苦は細かいのだから後で直観的理解が起こるべきではないか。どうして二つの界の苦を一度に観察するのか。 答えよう。どちらも禅定の境地に属するものとしてまとめられているから、一緒に直観的理解が起こるのである。つまり、欲界の苦は禅定の境地に属さないので、最初に個別に観察する。色界と無色界の苦はどちらも禅定の境地に属するので、後でまとめて観察するのである。 さらに、欲界の苦は身体と共にあり、現在において直接感受されているので、最初に個別に観察する。色界と無色界の苦は身体と共になく、現在において直接感受されていないので、後でまとめて観察する。 さらに、欲界の苦は現在において痛みとなって迫り、重い荷物を背負うようなものであるから、最初に個別に観察する。色界と無色界の苦は現在において痛みとなって迫ることがなく、重い荷物を背負うようなものではないから、後でまとめて観察する。 さらに、欲界の苦は現在において修行者を悩ませ、目の前の敵のようなものであるから、最初に個別に観察する。色界と無色界の苦は現在において修行者を悩ませることがなく、目の前の敵のようなものではないから、後でまとめて観察する。 さらに、欲界の苦は身近にあるので、最初に個別に観察する。色界と無色界の苦は遠いので、後でまとめて観察する。「身近」と「遠い」の関係から、「すぐに迫っている」と「すぐには迫っていない」、「結びついている」と「結びついていない」、「自己の身体とその仲間」と「他の身体とその仲間」についても、同じように理解すべきである。 さらに、欲界の苦は現在において直接見ることができるので、最初に個別に観察する。色界と無色界の苦は現在において直接見ることができないので、後でまとめて観察する。 問う。直観的理解の境地に入ったとき、色界と無色界の苦が直接見えなくても、どうして「直観的理解」と呼ばれるのか。 答えよう。「直接見る」には二種類ある。一つは「直接感受して見る」ことであり、もう一つは「煩悩から離れることによって見る」ことである。直観的理解の境地に入った修行者は、欲界の苦についてはこの二つの「直接見る」を共にそなえているので、「直観的理解」と呼ばれる。色界と無色界の苦については、「煩悩から離れることによって見る」という一つのみをそなえているので、「直観的理解」と呼ばれるのである。 ちょうど商人が二つの荷物を持つようなものである。一つは自分の身体で担う荷物であり、もう一つは他人に担わせる荷物である。自分の身体で担う荷物は、二つの「直接見る」をそなえている。一つは「重いと知って見る」ことであり、もう一つは「財物だと知って見る」ことである。他人に担わせる荷物は、ただ一つの「直接見る」のみである。「財物だと知って見る」ことだけである。 さらに、欲界の苦は善・不善・無記の三種類があるので、最初に個別に観察する。色界と無色界の苦は善と無記の二種類のみであるので、後でまとめて観察する。 さらに、修行者は欲界における凡夫の性質（異生性）を成就しているので、最初に欲界の苦を個別に観察する。色界と無色界における凡夫の性質を成就していないので、後で色界と無色界の苦をまとめて観察する。これは道理として当然のことである。もしある界の凡夫の性質を成就しているならば、その界の苦を先に観察するのである。 さらに、欲界の苦に対して先に否定の間違った見解（誹謗）を起こすので、最初に個別に直観的理解を起こして信仰を生じる。色界と無色界の苦に対して後で否定の間違った見解を起こすので、後でまとめて直観的理解を起こして信仰を生じるのである。 このような様々な理由によって、最初に欲界の苦を個別に観察し、後で色界と無色界の苦をまとめて観察するのである。他の三つの真理（集・滅・道）の直観的理解についても、これに準じて理解すべきである。

問若以共相現觀諦者。復於何時以如實智觀諦自相。於諦自相若不能觀。云何名為現觀諦者。答非如實智於諸自相以自相觀名諦現觀。而如實智於諸自相。以共相觀名諦現觀。復次於諦自相共相無知。現觀諦時一切頓斷雖觀共相。而亦得名如實現觀諸諦自相。復次苦非常等名諦自相。此於諸蘊即名共相。故於諸諦觀苦等時。即名現觀自相共相。蘊等自相差別無邊。觀之不能斷諸煩惱。故現觀位不各別觀。問入現觀時既總觀蘊。如何於諦不總觀耶。答入現觀時觀四諦理。斷迷四諦別相煩惱。無一煩惱總迷四諦。故於四諦不總現觀。於諸蘊中有總迷惑。故於諸蘊得總現觀。又蘊自相非諸諦理。無始已了故不復觀四諦自相無始未了。故今於彼各別現觀。

> 問：もし共相によって諦を現観するのであれば、どの時点で如実智をもって諦の自相を観るのでしょうか。諦の自相を観ることができないなら、どうして「諦を現観した」と言えるのでしょうか。 答：如実智が自相を自相として観ることを諦の現観というのではありません。むしろ、如実智が諸々の自相を共相として観ることを諦の現観というのです。 また、諦の自相と共相についての無知は、現観の時にすべて一度に断たれます。共相を観るとしても、それによって諸々の諦の自相を如実に現観したと称することができるのです。 さらに、苦・無常などは諦の自相と呼ばれますが、これらは諸々の蘊にとっては共相でもあります。ですから、諸々の諦において苦などを観るとき、それは自相と共相の両方を現観していることになります。 蘊などの自相はその違いが限りなくありますが、それらを観ても煩悩を断ち切ることはできません。だから現観の段階では、それぞれを個別に観察することはないのです。 問：現観に入る時、蘊を総合的に観るのなら、なぜ諦については総合的に観ないのでしょうか。 答：現観に入る時は四諦の理を観て、四諦の別相に迷う煩悩を断ちます。一つの煩悩が四諦すべてに迷うということはありません。だから四諦については総合的な現観がないのです。しかし諸々の蘊には総合的な迷いがあるので、蘊については総合的な現観が成り立ちます。 また、蘊の自相は諦の理そのものではなく、無始の昔からすでに理解されているので、改めて観る必要はありません。しかし四諦の自相は無始の昔からまだ理解されていなかったので、今ここでそれぞれを個別に現観するのです。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第七十八

> 説一切有部発智大毘婆沙論 巻第七十八