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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 9"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第七十九

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第七十九巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 結蘊第二中十門納息第四之九

> 諸蘊第二中十門納息第四之九

如契經說苦聖諦應以慧遍知。阿毘達磨說。智所遍知謂一切法。問若一切法是所遍知如阿毘達磨說。何故契經唯說以慧應遍知苦。答契經唯依出世間慧。說苦聖諦是應遍知。阿毘達磨總依世間出世間慧。說一切法是所遍知。如世間出世間有漏無漏縛解繫不繫應知亦爾。復次契經唯依近遍知慧說苦聖諦是應遍知。阿毘達磨依近遠慧說一切法是所遍知。如近遠隣逼非隣逼和合非和合應知亦爾。復次契經唯依觀共相慧說苦聖諦是應遍知阿毘達磨總依觀自相共相慧說一切法是所遍知。如自相共相慧。自相共相覺自相共相作意應知亦爾。復次契經唯依不共慧說苦聖諦是應遍知。阿毘達磨總依共不共慧說一切法是所遍知。復次契經依現觀時說苦聖諦是應遍知。阿毘達磨依行諦時說一切法是所遍知。復次契經依施設覺說苦聖諦是應遍知。阿毘達磨依勝義覺說一切法是所遍知。問施設覺者義何謂耶。答依果麁顯易見。方便說遍知苦。依生死因不續。方便說永斷集。依具二德不在身。方便說應證滅。依能永斷諸煩惱道。方便說應修道。如是名為施設覺義。非盡理故立施設名。脇尊者言。世尊唯說應遍知苦。或謂唯苦是應遍知。故對法中說一切法是所遍知。世尊唯說集應永斷。或謂唯集是應永斷故。對法中說有漏法皆應永斷。世尊唯說滅應作證。或謂唯滅是應作證。故對法中依得作證說諸善法皆應作證。世尊唯說道應修習。或謂唯道是應修習。故對法中總說一切善有為法皆應修習。此則顯示經義不了。阿毘達磨是了義說。復次為令永斷生死道路故佛唯說應遍知苦。謂有身見是六十二見趣根本。見趣是餘煩惱根本。諸餘煩惱是業根本。諸業復是異熟根本。依止異熟生長一切善不善無記法。由此輪轉生死無窮。遍知苦時斷有身見。身見斷故生死路絕。故佛唯說應遍知苦。復次為令永斷五我見十五我所見。故佛唯說應遍知苦。復次為令永斷有身見邊執見。及為證得空無願三摩地。故佛唯說應遍知苦。復次從無始來諸有情類於五取蘊。起我有情命者生者及養育者數取趣想。誰能斷此諸惡倒想。令得法想謂苦遍知。故佛唯說應遍知苦。復次從無始來於苦非常空非我蘊起常樂我淨想。誰能斷此諸顛倒想。令得無顛倒想謂苦遍知。故佛唯說應遍知苦。復次從無始來諸有情類。雖為諸蘊損惱逼切如荷重擔。而於諸蘊希求貪著。如諸嬰兒。雖為乳母打罵逼切。而歸附之。欲令有情斷蘊貪著。故佛唯說應遍知苦。復次從無始來諸有情類。由諸煩惱惡行顛倒。令心心所於境邪曲。誰令正直謂苦遍知。故佛唯說應遍知苦。復次諸瑜伽師若遍知苦便能安住無倒想心。設彼現觀苦聖諦已。於餘聖諦不復現觀。有人問言此五取蘊為苦為樂。答言唯苦如熱鐵團。復問取蘊為常非常。答言非常一剎那後決定不住。復問取蘊為淨不淨。答言不淨如糞穢聚。復問取蘊有我無我。答言無我作者受者皆不可得唯空行聚。此無顛倒由苦遍知。故佛唯說應遍知苦。復次取蘊如病性不調適。取蘊如癰性能逼惱。取蘊如箭性能損害。取蘊如刀性能傷切。取蘊如毒性能殺害。取蘊如火性能焚燒。取蘊如怨性不饒益。取蘊如邊城恒為種種業煩惱賊之所侵擾。能知此者謂苦遍知。故佛唯說應遍知苦。復次諸瑜伽師。若遍知苦名遇真佛出現世間。名入勝義如理正法。名真出家。名真受用正法財寶得無障礙。故佛唯說應遍知苦。復次諸瑜伽師。若遍知苦名捨曾緣得未曾緣。名捨共得不共。名捨世間得出世間。故佛唯說應遍知苦。復次諸瑜伽師。若遍知苦開未曾開聖道門。故能捨未曾捨異生性。能得未曾得聖性。故佛唯說應遍知苦。復次諸瑜伽師。若遍知苦捨名得名捨界得界捨性得性捨名得名者。謂捨異生名得聖者名捨界得界者。謂捨異生界分。得聖者界分。捨性得性者。謂捨異生種性。得聖者種性故佛唯說應遍知苦。復次諸瑜伽師。若遍知苦得心不得心因。得苦不得苦因。得明不得明因。故佛唯說應遍知苦。復次諸瑜伽師。若遍知苦捨五同分得八同分。五同分者謂五無間業同分。八同分者謂四向四果同分。故佛唯說應遍知苦。復次諸瑜伽師。若遍知苦則捨如柳絮異生性。住如帝幢佛法性。故佛唯說應遍知苦。復次諸瑜伽師。若遍知苦名為最初得法證淨。故佛唯說應遍知苦。復次諸瑜伽師。若遍知苦名最初得無有是處。如契經說無有是處。見聖諦者故斷他命越所學處乃至廣說。故佛唯說應遍知苦。復次諸瑜伽師。若遍知苦名為最初入大法海。登大法山。摧大怨敵。昇大法座。故佛唯說應遍知苦。復次苦應遍知非皆永斷。集應永斷不應唯遍知。滅應作證不應唯遍知。道應修習不應唯遍知。故佛唯說應遍知苦。復次於四聖諦皆應遍知。苦在最初故唯說苦。

> 経典に説くところによれば、「苦聖諦は慧をもって遍く知るべきである」とあります。しかし阿毘達磨（対法）では、「智によって遍く知られるべきものは、一切の法である」と説かれています。 問う：もし一切の法が遍く知られるべきものであるなら、なぜ経典ではただ「慧をもって苦を遍く知るべきである」とのみ説くのでしょうか。 答える：経典は世間を超えた出世間の慧のみに依って、「苦聖諦は遍く知られるべきである」と説いています。一方、阿毘達磨は世間の慧と出世間の慧の両方に依って、「一切の法は遍く知られるべきものである」と説いています。世間と出世間、有漏と無漏、縛と解、繫と不繫の関係も、これと同じように理解すべきです。 また、経典は近いところを遍く知る慧のみに依って「苦聖諦は遍く知られるべきである」と説きます。阿毘達磨は近い慧と遠い慧の両方に依って「一切の法は遍く知られるべきものである」と説きます。近いと遠い、隣接すると隣接しない、和合すると和合しないの関係も、これと同じように理解すべきです。 また、経典は共相を観察する慧のみに依って「苦聖諦は遍く知られるべきである」と説きます。阿毘達磨は自相と共相の両方を観察する慧に依って「一切の法は遍く知られるべきものである」と説きます。自相・共相を観察する慧、自相・共相を観察する覚（はたらき）、自相・共相を観察する作意も、これと同じように理解すべきです。 また、経典は他と共通しない不共の慧のみに依って「苦聖諦は遍く知られるべきである」と説きます。阿毘達磨は共の慧と不共の慧の両方に依って「一切の法は遍く知られるべきものである」と説きます。 また、経典は現観（さとり）の時点に依って「苦聖諦は遍く知られるべきである」と説きます。阿毘達磨は諸諦を修行する時点に依って「一切の法は遍く知られるべきものである」と説きます。 また、経典は施設覚（仮に立てて理解するはたらき）に依って「苦聖諦は遍く知られるべきである」と説きます。阿毘達磨は勝義覚（真実の理解）に依って「一切の法は遍く知られるべきものである」と説きます。 問う：施設覚とはどういう意味でしょうか。 答える：果（結果）が粗く顕われていて見えやすいことから、仮に「苦を遍く知るべきである」と説きます。生死の因が続かないことから、仮に「集（苦の原因）を永遠に断つべきである」と説きます。二つの功徳（滅と道）を身に具えていることから、仮に「滅（苦しみの消滅）を証得すべきである」と説きます。すべての煩悩を永遠に断つ道を具えていることから、仮に「道（修行の道）を修習すべきである」と説きます。これを施設覚の意味と呼びます。究極の理を尽くしていないから、仮に「施設」という名称を立てるのです。 脇尊者（きょうそんじゃ）はこう言っています。世尊はただ「苦は遍く知られるべきである」とのみ説きました。ある人は「苦だけが遍く知られるべきなのだ」と思いました。それゆえ対法では「一切の法が遍く知られるべきものである」と説いたのです。世尊はただ「集は永遠に断つべきである」と説きました。ある人は「集だけが永遠に断つべきなのだ」と思いました。それゆえ対法では「有漏の法はすべて永遠に断つべきである」と説いたのです。世尊はただ「滅は証得すべきである」と説きました。ある人は「滅だけが証得すべきなのだ」と思いました。それゆえ対法では「善い法はすべて証得すべきである」と説いたのです。世尊はただ「道は修習すべきである」と説きました。ある人は「道だけが修習すべきなのだ」と思いました。それゆえ対法では「すべての善い有為の法は修習すべきである」と説いたのです。これは経典の説が完全に明らかではない（不了義）ことを示しています。阿毘達磨こそが完全に明らかな（了義）説なのです。 さらに、生死の道を永遠に断つために、仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。すなわち、有身見（自我への執着）は六十二種の見解の根本であり、その見解は他の煩悩の根本であり、他の煩悩は業の根本であり、業はまた異熟（結果）の根本です。異熟に基づいてすべての善・不善・無記の法が生じ、これによって生死を輪廻して尽きることがありません。苦を遍く知る時、有身見を断ちます。有身見が断たれると、生死の道は絶たれます。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説いたのです。 また、五種の我見と十五種の我所見を永遠に断つために、仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、有身見と辺執見（極端な見解）を永遠に断ち、空・無願の三摩地（禅定）を証得するために、仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、無始以来、すべての有情は五取蘊（五つの執着の集まり）に対して、「我」や「有情」「命者」「生者」「養育者」「数取趣」という考えを起こしてきました。誰がこのような誤った考えを断って、正しい法の考えを得られるのでしょうか。それは苦を遍く知ることによってです。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、無始以来、苦・無常・空・無我である五蘊に対して、「常・楽・我・浄」という考えを起こしてきました。誰がこのような顛倒した考えを断って、顛倒のない考えを得られるのでしょうか。それは苦を遍く知ることによってです。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、無始以来、すべての有情は、諸蘊によって苦しめられ悩まされ、重い荷を背負っているようなものであるにもかかわらず、諸蘊に対して執着し渇愛します。ちょうど幼い子供たちが、乳母に叩かれたり叱られたりしても、なお彼女にすがりつくようなものです。有情が蘊に対する執着を断つようにさせるために、仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、無始以来、すべての有情は、煩悩と悪行と顛倒によって、心と心所（心の働き）を境に対して歪めてしまっています。誰がこれを正しくまっすぐにするのでしょうか。それは苦を遍く知ることです。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、修行者（ヨーガ行者）は、苦を遍く知れば、顛倒のない正しい心に安住できます。もし彼が苦聖諦を現観（直接体験）したなら、他の聖諦をさらに現観しなくても、次のように問われれば正しく答えることができます。「この五取蘊は苦であるか楽であるか」と問われれば、「ただ苦であり、熱せられた鉄の塊のようなものである」と答えます。また「取蘊は常であるか無常であるか」と問われれば、「無常であり、一刹那の後には必ず留まらない」と答えます。また「取蘊は浄であるか不浄であるか」と問われれば、「不浄であり、糞の山のようなものである」と答えます。また「取蘊には我があるか無我であるか」と問われれば、「無我であり、作者も受者も得られず、ただ空なる行の集まりである」と答えます。この顛倒のない理解は、苦を遍く知ることによって得られます。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、取蘊は病のようなもので、その性質は調和していません。取蘊は腫れ物のようなもので、その性質は人を苦しめ悩ませます。取蘊は矢のようなもので、その性質は人を損ない傷つけます。取蘊は刀のようなもので、その性質は人を切り傷つけます。取蘊は毒のようなもので、その性質は人を殺します。取蘊は火のようなもので、その性質は人を焼き尽くします。取蘊は怨敵のようなもので、その性質は人を利益しません。取蘊は辺境の城のようなもので、常にさまざまな業と煩悩という盗賊に侵され悩まされます。これを知ることができるのは、苦を遍く知ることによってです。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、修行者は、苦を遍く知れば、真の仏が世に現れたのに出会ったと言えます。勝義にかなった正しい法に入ったと言えます。真に出家したと言えます。真に正法の財宝を受け用いて、障害がないと言えます。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、修行者は、苦を遍く知れば、かつて縁じたものを捨てて、まだ縁じたことのないものを得ます。共なるものを捨てて、共ならざるものを得ます。世間のものを捨てて、出世間のものを得ます。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、修行者は、苦を遍く知れば、まだ開かれたことのない聖道の門を開きます。それゆえ、まだ捨てられたことのない凡夫の性質を捨て、まだ得られたことのない聖者の性質を得ることができます。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、修行者は、苦を遍く知れば、名を捨てて名を得、界を捨てて界を得、性を捨てて性を得ます。「名を捨てて名を得る」とは、凡夫の名を捨てて聖者の名を得ることです。「界を捨てて界を得る」とは、凡夫の界分を捨てて聖者の界分を得ることです。「性を捨てて性を得る」とは、凡夫の種性を捨てて聖者の種性を得ることです。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、修行者は、苦を遍く知れば、心を得て心の因を得ず、苦を得て苦の因を得ず、明を得て明の因を得ません。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、修行者は、苦を遍く知れば、五つの同分を捨てて八つの同分を得ます。五つの同分とは、五つの無間業（無間地獄に落ちる重罪）の同分です。八つの同分とは、四向（四つの修行段階）と四果（四つの悟りの結果）の同分です。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、修行者は、苦を遍く知れば、柳絮（やわらかな綿毛）のような凡夫の性質を捨てて、帝幢（帝釈天の旗竿）のような仏法の性質に安住します。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、修行者は、苦を遍く知れば、最初に法への証浄（清らかな信）を得たと言えます。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、修行者は、苦を遍く知れば、最初に「あり得ないこと」を得たと言えます。経典に説くように、「聖諦を見た者が、他人の命を断ち、学処（戒律）を越えることはあり得ない」と。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、修行者は、苦を遍く知れば、最初に大いなる法の海に入り、大いなる法の山に登り、大いなる怨敵を打ち破り、大いなる法の座に昇ったと言えます。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 さらに、苦は遍く知るべきものであって、すべて永遠に断つべきものではありません。集は永遠に断つべきものであって、ただ遍く知るだけでは不十分です。滅は証得すべきものであって、ただ遍く知るだけでは不十分です。道は修習すべきものであって、ただ遍く知るだけでは不十分です。それゆえ仏はただ「苦を遍く知るべきである」とのみ説きました。 また、四聖諦はすべて遍く知るべきものですが、苦が最初にあるので、ただ苦だけを説いたのです。

如契經說。苦集聖諦應以慧永斷。阿毘達磨說。應永斷者謂有漏法。若說唯愛是集諦者。應問彼言諸有漏法皆應永斷如對法說。何故世尊唯說愛應永斷非餘一切有漏法耶。彼應如前愛為集。答若說一切有漏法因是集諦者。應問苦諦亦應永斷何故唯說集應永斷。答佛為捨苦故作是說汝等若欲捨眾苦者應永斷集。集永斷故苦則不生名真捨苦。復次佛為捨果故作是說。汝等若欲捨苦果者應永斷因。因永斷故苦果不生名真捨果。復次為止苦流故作是說。如止流者當堰水源。欲止苦流應永斷集。復次永斷集故。便害俱因離俱繫。得無漏離繫得。滅有頂遍行因。故佛唯說集應永斷。復次若斷因者果即隨斷。若滅因者果即隨滅。若棄因者果即隨棄。若吐因者果即隨吐。故佛唯說集應永斷。復次世尊欲令諸有情類捨蘊重擔故作是說。謂如有人荷負重擔經嶮難處。而復蹎蹶為擔逼切欲脫無由。有人語言欲脫此擔當斷擔索乃可脫之。如是有情荷蘊重擔經歷生死諸嶮難處。為蘊重擔之所逼切故。佛告言汝等若欲脫蘊重擔當永斷集。集既斷已蘊擔便脫。復次為對外道故作是說。謂諸外道苦果所逼。雖厭苦果而不斷因。如愚癡狗捨人逐塊。故佛告彼汝等厭苦當永斷集。集因斷已苦果不生便得解脫。復次集引三界下中上果。若永斷集苦果不生。是故世尊告有情類。汝等厭苦當永斷集。復次集能生長三種苦果。若永斷集彼不生長。是故世尊告有情類。若厭三苦當永斷集。復次集能生長四種苦生。若永斷集彼不生長。是故世尊告有情類。若厭四苦當永斷集。復次集能生長五種苦趣。若永斷集彼不生長。是故世尊告有情類。若厭五苦當永斷集。復次苦但應捨不應斷之。故佛唯說集應永斷。由如是等種種因緣世尊唯說集應永斷。

> 経典にも説かれるとおり、「苦集聖諦（苦しみの集まりという聖なる真理）は、智慧によって永遠に断ち切るべきものである」とされています。また、アビダルマ（対法）の教えによれば、「永遠に断つべきものとは、煩悩に染まったすべての存在（有漏法）である」と説かれています。 もし「集諦とは愛（渇愛）だけである」と主張するなら、その人にこう問うべきです。「有漏法はすべて永遠に断つべきものであると対法で説かれているのに、なぜ世尊は愛だけを断つべきだと説き、他のすべての有漏法については説かれなかったのか」と。その答えは、先に述べたように「愛が集（苦しみの原因）であるから」です。 逆に「すべての有漏法が原因であるから集諦である」と主張するなら、こう問うべきです。「苦諦もまた断つべきであるのに、なぜ集だけを断つべきだと説かれたのか」と。その答えは次のとおりです。 仏は苦しみを捨てさせるために、こう説かれました。「あなたたちがすべての苦しみを捨てたいと思うなら、集（原因）を永遠に断ち切りなさい。集を断ち切れば、苦しみは生じず、本当に苦しみを捨てたことになるのです」と。 また、仏は結果を捨てさせるために、こう説かれました。「あなたたちが苦しみという結果を捨てたいと思うなら、原因を永遠に断ち切りなさい。原因を断ち切れば、苦しみの結果は生じず、本当に結果を捨てたことになるのです」と。 さらに、苦しみの流れを止めるために、こう説かれました。流れを止めるには水源をせき止めるべきであるように、苦しみの流れを止めたいなら集を永遠に断つべきです。 また、集を永遠に断つことによって、因と共にあること、繫縛と共にあることを害し、煩悩を離れた無漏の解脱を得て、有頂（最上の存在領域）の遍行因を滅ぼすことができます。それゆえ、仏は集だけを断つべきだと説かれたのです。 また、原因を断てば結果もともに断たれ、原因を滅ぼせば結果もともに滅び、原因を捨てれば結果もともに捨てられ、原因を吐き出せば結果もともに吐き出されます。それゆえ、仏は集だけを断つべきだと説かれたのです。 また、世尊はすべての生きとし生けるものに、五蘊という重い荷物を捨てさせようとして、こう説かれました。たとえば、ある人が重い荷を背負って危険な場所を歩き、つまずいて荷に押しつぶされ、どうしても逃れられないとき、ある人が言う。「この荷を外したいなら、荷を縛っている綱を断ち切りなさい。そうすれば外せますよ」と。それと同じように、生きとし生けるものは五蘊という重い荷を背負い、生死という危険な場所を巡りながら、五蘊の重荷に苦しめられています。それゆえ、仏は「あなたたちが五蘊の重荷を脱したいと思うなら、集を永遠に断ち切りなさい。集を断ち切れば、五蘊の荷は自然に外れます」と説かれたのです。 また、外道（仏教以外の教えを説く者たち）に対抗するために、こう説かれました。外道たちは苦しみの結果に苦しめられながら、原因を断つことはせず、苦しみの結果を嫌うだけで、愚かな犬が人を噛もうとせずに投げられた石を追いかけるようなものです。それゆえ、仏は「あなたたちが苦しみを嫌うなら、集を永遠に断ち切りなさい。原因を断ち切れば苦しみの結果は生じず、解脱を得るでしょう」と説かれたのです。 また、集は三界における下・中・上の結果を引き起こします。集を永遠に断てば、苦しみの結果は生じません。それゆえ、世尊は生きとし生けるものに「あなたたちが苦しみを嫌うなら、集を永遠に断ち切りなさい」と説かれたのです。 また、集は三種の苦しみの結果（苦苦・行苦・壊苦）を育てます。集を永遠に断てば、それらは生じません。それゆえ、世尊は生きとし生けるものに「三種の苦しみを嫌うなら、集を永遠に断ち切りなさい」と説かれたのです。 また、集は四種の苦しみの生起（生・老・病・死）を育てます。集を永遠に断てば、それらは生じません。それゆえ、世尊は生きとし生けるものに「四種の苦しみを嫌うなら、集を永遠に断ち切りなさい」と説かれたのです。 また、集は五趣（地獄・餓鬼・畜生・人間・天）という五種の苦しみの世界を育てます。集を永遠に断てば、それらは生じません。それゆえ、世尊は生きとし生けるものに「五種の苦しみを嫌うなら、集を永遠に断ち切りなさい」と説かれたのです。 さらに、苦そのものは捨てるべきものであって、断つべきものではありません。それゆえ、仏は集だけを断つべきだと説かれたのです。 このように様々な理由によって、世尊はただ集だけを永遠に断つべきだと説かれたのです。

如契經說苦滅聖諦應以慧作證阿毘達磨說得作證者謂諸善法。問若諸善法皆應作證如對法說。何故世尊唯作是說滅應作證。答滅是解脫離繫為相。故佛唯說滅應作證。復次滅無處所亦無所依。故佛唯說滅應作證。復次滅雖是因而無有果。滅雖是果而無有因。故佛唯說滅應作證。復次滅雖是因而無有因。滅雖是果而無有果。故佛唯說滅應作證。復次滅是能作非有能作。是緣非有緣。是離非有離。故佛唯說滅應作證。復次滅令蘊無而不變法。故佛唯說滅應作證。復次滅能息三墮四遮五故佛唯說滅應作證。復次滅是一味廣大道果。能淨四姓及諸名言名無上法。故佛唯說滅應作證復次滅唯無漏得通二種滅唯非學非無學得通三種。滅一諦攝得三諦攝。滅唯不繫得通三種。滅唯不斷得通二種。故佛唯說滅應作證。復次滅是善亦是常。是善亦離世。是善亦離蘊。是善無三品。是善無前後。故佛唯說滅應作證。復次滅是沙門果非沙門。是婆羅門果非婆羅門。是梵行果非梵行。是道果非道。故佛唯說滅應作證。復次為證滅故證有為善。故佛唯說滅應作證。由如是等種種因緣。故佛唯說滅應作證。

> 経典に説かれる通り、苦の滅という聖なる真理は、智慧によって直接に体得されるべきものです。阿毘達磨（対法）の論書によれば、「体得する」とは、あらゆる善い法（ダルマ）を指すと説かれています。 問う：もしすべての善い法が体得されるべきものであるなら、なぜ世尊はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのでしょうか。 答える：滅は解脱であり、束縛からの離脱をその本質とするからです。それゆえ、仏はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのです。 また、滅には場所もなく、依拠するものもありません。それゆえ、仏はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのです。 また、滅は原因でありながら結果を持たず、結果でありながら原因を持ちません。それゆえ、仏はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのです。 また、滅は原因でありながら原因を持たず、結果でありながら結果を持ちません。それゆえ、仏はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのです。 また、滅は作用するものでありながら作用されるものではなく、縁でありながら縁を持つものではなく、離れるものでありながら離れるものを持つものではありません。それゆえ、仏はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのです。 また、滅は五蘊を寂滅させながら、法そのものを変えることはありません。それゆえ、仏はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのです。 また、滅は三つの堕（苦・集・道の三諦に堕すること）を息め、四つを遮り、五つを防ぐからです。それゆえ、仏はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのです。 また、滅は一味であり、広大な道の果であり、四つの姓（カースト）やあらゆる名称を清浄にする、無上のある法です。それゆえ、仏はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのです。 また、滅はただ無漏のみでありながら、二種に通じ、ただ非学非無学のみでありながら、三種に通じます。滅は一つの真理に摂せられながら、三つの真理にも摂せられます。滅はただ繫縛を離れるのみでありながら、三種に通じ、ただ断たれるのみでありながら、二種に通じます。それゆえ、仏はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのです。 また、滅は善でありながら常住であり、善でありながら世間を離れ、善でありながら蘊を離れ、善でありながら三品（上・中・下）がなく、善でありながら前後がありません。それゆえ、仏はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのです。 また、滅は沙門の果でありながら沙門そのものではなく、婆羅門の果でありながら婆羅門そのものではなく、梵行の果でありながら梵行そのものではなく、道の果でありながら道そのものではありません。それゆえ、仏はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのです。 また、滅を体得するために、有為の善を体得するのです。それゆえ、仏はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのです。 このような様々な理由により、仏はただ「滅は体得されるべきである」とのみ説かれたのです。

如契經說趣苦滅道聖諦應以慧修習。阿毘達磨說應修習法者謂有為善法。問諸有為善皆應修習如對法說。何故世尊唯作是說應修聖道。答聖道應修不應永斷。非如餘善應斷應修。故佛唯說應修聖道。復次聖道唯有得修習修。非如餘善具四種修。所謂得習對治除遣。故佛唯說應修聖道。復次聖道具善無漏二聖。非如餘善唯有善聖。故佛唯說應修聖道。復次聖道應修不斷緣彼貪等煩惱。非如餘善亦修亦斷緣彼煩惱。故佛唯說應修聖道。復次聖道應修是出非沒。非如餘善雖是應修亦出亦沒。謂出欲界沒初靜慮。乃至出無所有處沒非想非非想處。故佛唯說應修聖道。問得聖道者離欲染已生初靜慮。乃至離無所有處染已生非想非非想處。如何聖道是出非沒。答雖有是事而諸聖道不招異熟。非如餘善能招異熟。故諸聖道唯名為出。復次修習聖道能損諸有。能害諸有。能破諸有修習餘善長養諸有。攝益諸有。任持諸有。故佛唯說應修聖道復次修習聖道斷有流轉生老病死令不相續。修習餘善續有流轉生老病死不令間斷。故佛唯說應修聖道。復次修習聖道是趣苦有世間生老病死滅行。修習餘善是趣苦有世間生老病死集行。故佛唯說應修聖道。復次修習聖道非有身見事乃至不墮苦集諦攝。修習餘善是有身見事。乃至墮在苦集諦攝。故佛唯說應修聖道。復次修習聖道非界趣生生老病死流轉之因。修習餘善是界趣生生老病死流轉之因。故佛唯說應修聖道。復次修習聖道令界趣生生老病死流轉都盡。修習餘善令界趣生生老病死流轉無盡。故佛唯說應修聖道。復次聖道唯是可愛可愛果。可喜可喜果。可意可意果。可欣可欣果。可樂可樂果。餘善不爾。故佛唯說應修聖道。復次聖道是沙門是沙門果。是婆羅門是婆羅門果。是梵行是梵行果。是道是道果。故佛唯說應修聖道。復次修習聖道定趣涅槃。修習餘善所趣不定。故佛唯說應修聖道。由如是等種種因緣。故佛唯說應修聖道。

> 経典に「苦を滅する道という聖なる真理は、智慧をもって修行すべきである」と説かれている。阿毘達磨では、「修行すべき法とは、善なる有為法をいう」と説く。問う：すべての善なる有為法が修行すべきであるなら、どうして世尊はただ「聖なる道を修行すべきである」とのみ説かれたのか。答える：聖なる道は修行すべきものであり、永遠に断ち切るべきものではない。他の善法のように断つべきであり修行すべきであるのとは異なる。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 また、聖なる道は得ることと修習することの二つの修行のみを有し、他の善法のように得・習・対治・除遣の四種の修行を有するわけではない。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 また、聖なる道は善と無漏の二つの聖なる性質を具えているが、他の善法はただ善なる聖性のみを有する。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 また、聖なる道は修行すべきものであり、それを縁とする貪りなどの煩悩を断つことはない。他の善法は修行もされ煩悩も断たれるが、聖なる道はそのようなことはない。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 また、聖なる道は修行すべきものであり、出るものであって没するものではない。他の善法は修行すべきものではあるが、出るものでもあり没するものでもある。すなわち欲界を出て初静慮に没し、乃至、無所有処を出て非想非非想処に没する。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 問う：聖なる道を得た者は、欲界の煩悩を離れて初静慮に生まれ、乃至、無所有処の煩悩を離れて非想非非想処に生まれる。どうして聖なる道は出るものであって没するものではないのか。答える：そのようなことはあるが、聖なる道は異熟果を招かない。他の善法のように異熟果を招くことはない。それゆえ聖なる道はただ出るとのみ名づけられるのである。 また、聖なる道を修習することは、諸々の生存を損ない、害し、破る。他の善法を修習することは、諸々の生存を長養し、摂益し、任持する。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 また、聖なる道を修習することは、生存の流転と生老病死を断ち、相続させないようにする。他の善法を修習することは、生存の流転と生老病死を継続させ、間断させない。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 また、聖なる道を修習することは、苦ある世間の生老病死の滅へ向かう行である。他の善法を修習することは、苦ある世間の生老病死の集へ向かう行である。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 また、聖なる道を修習することは、有身見の対象となることはなく、苦集諦に堕ちることもない。他の善法を修習することは、有身見の対象となり、苦集諦に堕ちることもある。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 また、聖なる道を修習することは、界・趣に生まれ生老病死が流転する因とはならない。他の善法を修習することは、界・趣に生まれ生老病死が流転する因となる。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 また、聖なる道を修習することは、界・趣における生老病死の流転を尽くす。他の善法を修習することは、界・趣における生老病死の流転を尽くすことがない。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 また、聖なる道はただ愛すべきものであり愛すべき果を有し、喜ぶべきものであり喜ぶべき果を有し、意にかなうものであり意にかなう果を有し、欣ぶべきものであり欣ぶべき果を有し、楽しいものであり楽しい果を有する。他の善法はそのようではない。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 また、聖なる道は沙門であり沙門の果であり、婆羅門であり婆羅門の果であり、梵行であり梵行の果であり、道であり道の果である。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 また、聖なる道を修習することは必ず涅槃に向かうが、他の善法を修習することはその趣くところが定まらない。それゆえ仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。 このような様々な因縁によって、仏はただ聖なる道を修行すべきとのみ説かれたのである。

有十六行相緣四聖諦起。謂緣苦諦有四行相。一苦二非常三空四非我。緣集諦有四行相。一因二集三生四緣。緣滅諦有四行相。一滅二靜三妙四離。緣道諦有四行相。一道二如三行四出。問十六行相名有十六實體有幾。有作是說。名有十六實體有七。謂緣苦諦四種行相名有四種實體亦四。緣餘三諦各四行相名雖有四實體唯一。問何故緣苦有四行相名有四種實體亦四。緣餘三諦而不爾耶。答緣苦行相是四顛倒近對治故。如四顛倒名體各四。緣餘三諦所起行相非四顛倒近對治。故名雖有四實體唯一。評曰應作是說。十六行相名與實體俱有十六。如名與體。名施設體施設。名異相體異相。名異性體異性。名差別體差別。名建立體建立。名覺了體覺了。應知亦爾。問言行相者自性是何。答自性是慧。應知此中慧是行相。亦是能行亦是所行。與慧相應心心所法雖非行相而是能行亦是所行。與慧俱有不相應行。及餘有法雖非行相亦非能行而是所行。有作是說。言行相者總以一切心心所法為其自性。若作是說。諸心心所皆是行相。亦是能行亦是所行。餘一切法雖非行相亦非能行而是所行。復有說者。所言行相以一切法為其自性。若作是說。諸相應法亦是行相。亦是能行亦是所行。不相應法雖是行相亦是所行而非能行。評曰應作是說。言行相者自性是慧如初所說。如是名為行相自性。我物自體相分本性。

> 十六の行相が四つの聖諦を縁として生じる。すなわち、苦諦を縁として四つの行相がある。一に苦、二に非常、三に空、四に非我である。集諦を縁として四つの行相がある。一に因、二に集、三に生、四に縁である。滅諦を縁として四つの行相がある。一に滅、二に静、三に妙、四に離である。道諦を縁として四つの行相がある。一に道、二に如、三に行、四に出である。 問う、十六の行相は名前としては十六あるが、実体としてはいくつあるのか。ある説では、名前は十六、実体は七つであるという。すなわち、苦諦を縁とする四つの行相は、名前も四つ、実体も四つである。残りの三諦を縁とする各四つの行相は、名前は四つであるが、実体は一つだけである。 問う、なぜ苦諦を縁とする四つの行相は、名前も四つ、実体も四つであるのに、残りの三諦を縁とする場合はそうではないのか。 答える、苦諦を縁とする行相は、四つの顛倒（さかさまの見方）に直接対治するものであるからである。四つの顛倒が名前も体もそれぞれ四つであるのと同じである。残りの三諦を縁として生じる行相は、四つの顛倒に直接対治するものではない。だから名前は四つであっても、実体は一つだけなのである。 評して言うべきである。十六の行相は、名前も実体もともに十六であると説くべきである。名前と体がそうであるように、名前の施設と体の施設、名前の異相と体の異相、名前の異性と体の異性、名前の差別と体の差別、名前の建立と体の建立、名前の覚了と体の覚了も、同じように知るべきである。 問う、行相と言うが、その自性（本質）は何か。 答える、自性は慧（智慧）である。この中で慧は行相であり、能行（はたらきかけるもの）でもあり、所行（はたらきかけられるもの）でもあると知るべきである。慧と相応する心・心所法は、行相ではないが、能行であり、所行でもある。慧と俱にある不相应行（心と対応しないはたらき）や、その他の存在する法も、行相でも能行でもないが、所行ではある。 ある説では、行相と言うのは、総じてすべての心・心所法をその自性とするという。もしこのように説くならば、すべての心・心所法はみな行相であり、能行であり、所行でもある。他のすべての法は、行相でも能行でもないが、所行ではある。 さらに別の説では、行相と言うのは、すべての法をその自性とすると説く。もしこのように説くならば、対応する法も行相であり、能行であり、所行でもある。対応しない法も、行相ではあり、所行でもあるが、能行ではない。 評して言うべきである。行相と言うのは、その自性は慧であると、最初に説いたとおりであると説くべきである。これを行相の自性、我物、自体、相分、本性と名付ける。

已說自性所以今當說。問何故名行相。行相是何義。答於諸境相簡擇而轉是行相義。問何故名苦廣說乃至何故名出。答傷痛逼迫如荷重擔。違逆聖心故名為苦。由二緣故說名非常。一由所作。二由屬緣。由所作者。諸有為法一剎那頃能有所作。第二剎那不復能作。由屬緣者諸有為法繫屬眾緣。方有所作違我所見故名為空。違於我見故名非我。如種子法故名為因。能等出現故名為集。令有續起故名為生。能有成辦故名為緣。譬如埿團輪繩水等眾緣和合成辦瓶等。取蘊永盡故名為滅。有為相息故名為靜。是善是常故名為妙。最極安隱故名為離。是離自體非有離故。違害邪道故名為道。違害非理故名為如。趣涅槃宮故名為行。能永超度故名為出。是能出性非沒性故。復次麁重所逼故名為苦。性不究竟故名非常。內離士夫作者受者遣作受者故名為空。性不自在故名非我。引發諸有故名為因。令有等現故名為集。能有滋產故名為生。有所造作故名為緣。性不相續盡諸相續故名為滅。三火永寂故名為靜。脫諸災橫故名為妙。出眾過患故名為離。是出要路故名為道。能契正理故名為如。能正趣向故名為行。永超生死故名為出。

> すでに自性について説いたので、今ここで行相について説くことにする。問う、「なぜ行相という名なのか。行相とはどのような意味か。」答える、「諸々の境相を簡別しつつ心がはたらくこと、これを行相の意味とする。」問う、「なぜ苦という名なのか。広く説いて、ついにはなぜ出という名なのか。」答える、「傷つき痛み、逼迫し、重い荷を担うかのようであり、聖者の心に背くものであるから、苦と名づける。二つの理由によって非常と説く。一つは所作によって、二つは属縁によってである。所作によるものとは、諸々の有為法は一刹那の間だけ能く所作をなすが、第二刹那には再び能く所作をなすことがないことをいう。属縁によるものとは、諸々の有為法は多くの縁に繫がって、はじめて所作をなすことをいう。我という見解に違背するから空と名づける。我見に違背するから非我と名づける。種子の法のようであるから因と名づける。平等に出現させるから集と名づける。有を続けて生じさせるから生と名づける。よく成し遂げることができるから縁と名づける。例えば、泥土・輪・縄・水などの多くの縁が和合して瓶などを完成させるようなものである。取蘊が永く尽きるから滅と名づける。有為の相が息むから静と名づける。善であり常であるから妙と名づける。最も極めて安穏であるから離と名づける。これは離れているという自体であって、さらに離れるということがあるのではない。邪道に違背し害するから道と名づける。非理に違背し害するから如と名づける。涅槃の宮殿に向かうから行と名づける。よく永遠に超度するから出と名づける。これは出ていく性質であって、沈没する性質ではないからである。さらにまた、粗重に逼められるから苦と名づける。性質が究竟でないから非常と名づける。内に士夫・作者・受者を離れ、作者・受者を遣うことを離れるから、空と名づける。性質が自在でないから非我と名づける。諸々の有を引き起こすから因と名づける。有を等しく現れさせるから集と名づける。よく滋養し産み出すから生と名づける。造作するところがあるから縁と名づける。性質が相続せず、諸々の相続を尽くすから滅と名づける。三つの火が永く寂滅するから静と名づける。諸々の災いや横難を脱するから妙と名づける。諸々の過患を出るから離と名づける。出離の要路であるから道と名づける。正理に契い合うから如と名づける。正しく趣向するから行と名づける。永遠に生死を超えるから出と名づける。

問有四行相觀生死果。何故此果但名苦諦不名非常空非我諦。答亦應說為非常等諦。而不說者是有餘說。復次既說為苦諦當知已說為非常空及非我諦以相同故。復次苦相不共唯有漏法是苦非餘故名苦諦。非常等三是餘共相。謂非常相三諦皆有。空非我相遍一切法。故此不名非常等諦。復次苦違諸有。有情聞之能捨生死故名苦諦。美妙飲食持與小兒。若語是苦彼便遠棄。語非常等彼無捨心。是故不名非常等諦。復次生死有苦愚智同信。外道聞之亦不誹謗。聞非常等有不生信。故名苦諦非非常等。復次能知所知易分別故。但名苦諦非非常等。謂佛世尊說有苦智故此所知但名苦諦。如智所知。覺所覺。根根義。行相所緣。有境及境。應知亦爾。復次此苦諦名舊所傳說是舊文句。過去諸佛過殑伽沙皆以苦名表示此諦。今佛亦爾故不應責。復次此諦四相苦相最初。是故世尊但名苦諦。問有四行相觀生死因。何故此因但名集諦不名因等三種諦耶。答亦應說為因生緣諦而不說者是有餘說。復次既說為集諦當知已說因生緣諦以相同故。復次能知所知易分別故但名集諦非因生緣。謂佛世尊說有集智故此所知但名集諦。如智所知覺所覺等應知亦爾。復次此集諦名舊所傳說是舊文句。過去諸佛過殑伽沙皆以集名表示此諦。今佛亦爾故不應責。復次集相但於有漏法有。招集生死非無漏故。因生緣相無漏亦有。聖道亦名因生緣故。集不共故立以諦名。是故世尊但名集諦。問有四行相觀於涅槃。何故涅槃唯名滅諦不名靜等三種諦耶。答亦應說為靜妙離諦。而不說者是有餘說。復次既說為滅諦當知已說靜妙離諦以相同故。復次能知所知易分別故但名滅諦非靜妙離。謂佛世尊說有滅智故此所知但名滅諦。如智所知覺所覺等應知亦爾。復次滅名不共故立諦名。滅名唯顯究竟滅故。靜名濫定妙離濫道故不名為靜妙離諦。復次此滅諦名舊所傳說是舊文句。過去諸佛過殑伽沙皆以滅名表示此諦。今佛亦爾故不應責。復次此諦四相滅相最初是故世尊但名滅諦。問有四行相觀於聖道。何故聖道但名道諦不名如等三種諦耶。答亦應說為如行出諦。而不說者是有餘說。復次既說為道諦當知已說如行出諦以相同故。復次能知所知易分別故。但名道諦非如行出。謂佛世尊說有道智。故此所知但名道諦。如智所知覺所覺等應知亦爾。復次道名唯顯趣涅槃路故立諦名。如濫正理。行通有漏。出通涅槃。故此不名如行出諦。復次此道諦名舊所傳說是舊文句。過去諸佛過殑伽沙皆以道名表示此諦。今佛亦爾故不應責。復次此諦四相道相最初是故世尊但名道諦。

> 問う、四つの行相をもって生死の果を観ずるに、何ゆえにこの果をただ苦諦と名づけ、非常・空・非我の諦と名づけざるや。 答う、また非常等の諦と説くべきなり。しかれども説かざるは、これは有余の説なり。 また既に苦諦と説くときは、当に知るべし、已に非常・空・非我の諦をも説けりと。その相同じきがゆえに。 また苦の相は不共なり。ただ有漏の法のみが苦にして、他のものは非ず。ゆえに苦諦と名づく。非常等の三つは、これ余の共相なり。すなわち非常の相は三諦に皆あり。空・非我の相は一切法に遍くあり。これによりて非常等の諦と名づけざるなり。 また苦は諸有に違す。有情これを聞いて生死を捨てることを得。ゆえに苦諦と名づく。美味の飲食を小児に持与するに、もし苦なりと言わば、彼は遠く棄てん。非常等と言わば、彼に捨てる心なし。このゆえに非常等の諦と名づけざるなり。 また生死に苦あることは、愚智同じく信ず。外道もこれを聞いて誹謗せず。非常等を聞けば、信を生ぜざることあり。ゆえに苦諦と名づけ、非常等とせざるなり。 また能知・所知、易分別のゆえに、ただ苦諦と名づけ、非常等とせざるなり。すなわち仏世尊は苦智あると説きたまえり。このゆえにこの所知をただ苦諦と名づく。智と所知とのごとく、覚と所覚、根と根義、行相と所縁、有境および境も、応に知るべし、またしかなり。 またこの苦諦の名は、旧所伝説にして、これ旧文句なり。過去の諸仏、殑伽沙を過ぐるも、皆苦の名をもってこの諦を示したまえり。今仏もまたしかなり。ゆえに責むべきにあらず。 またこの諦の四相に、苦相は最初なり。このゆえに世尊はただ苦諦と名づけたまえり。 問う、四つの行相をもって生死の因を観ずるに、何ゆえにこの因をただ集諦と名づけ、因等の三種の諦と名づけざるや。 答う、また因・生・縁の諦と説くべきなり。しかれども説かざるは、これは有余の説なり。 また既に集諦と説くときは、当に知るべし、已に因・生・縁の諦をも説けりと。その相同じきがゆえに。 また能知・所知、易分別のゆえに、ただ集諦と名づけ、因・生・縁とせざるなり。すなわち仏世尊は集智あると説きたまえり。このゆえにこの所知をただ集諦と名づく。智と所知とのごとく、覚と所覚等も、応に知るべし、またしかなり。 またこの集諦の名は、旧所伝説にして、これ旧文句なり。過去の諸仏、殑伽沙を過ぐるも、皆集の名をもってこの諦を示したまえり。今仏もまたしかなり。ゆえに責むべきにあらず。 また集の相は、ただ有漏の法にのみあり。生死を招集すれども、無漏にはあらざるがゆえに。因・生・縁の相は無漏にもあり。聖道もまた因・生・縁と名づけらるるがゆえに。集は不共有り。ゆえに諦の名を立てたり。このゆえに世尊はただ集諦と名づけたまえり。 問う、四つの行相をもって涅槃を観ずるに、何ゆえに涅槃をただ滅諦と名づけ、静等の三種の諦と名づけざるや。 答う、また静・妙・離の諦と説くべきなり。しかれども説かざるは、これは有余の説なり。 また既に滅諦と説くときは、当に知るべし、已に静・妙・離の諦をも説けりと。その相同じきがゆえに。 また能知・所知、易分別のゆえに、ただ滅諦と名づけ、静・妙・離とせざるなり。すなわち仏世尊は滅智あると説きたまえり。このゆえにこの所知をただ滅諦と名づく。智と所知とのごとく、覚と所覚等も、応に知るべし、またしかなり。 また滅の名は不共なるがゆえに諦の名を立てたり。滅の名は、ただ究竟の滅のみを顕すがゆえに。静の名は定に濫り、妙・離の名は道に濫る。ゆえに静・妙・離の諦と名づけざるなり。 またこの滅諦の名は、旧所伝説にして、これ旧文句なり。過去の諸仏、殑伽沙を過ぐるも、皆滅の名をもってこの諦を示したまえり。今仏もまたしかなり。ゆえに責むべきにあらず。 またこの諦の四相に、滅相は最初なり。このゆえに世尊はただ滅諦と名づけたまえり。 問う、四つの行相をもって聖道を観ずるに、何ゆえに聖道をただ道諦と名づけ、如等の三種の諦と名づけざるや。 答う、また如・行・出の諦と説くべきなり。しかれども説かざるは、これは有余の説なり。 また既に道諦と説くときは、当に知るべし、已に如・行・出の諦をも説けりと。その相同じきがゆえに。 また能知・所知、易分別のゆえに、ただ道諦と名づけ、如・行・出とせざるなり。すなわち仏世尊は道智あると説きたまえり。このゆえにこの所知をただ道諦と名づく。智と所知とのごとく、覚と所覚等も、応に知るべし、またしかなり。 また道の名は、ただ涅槃に趣く路のみを顕すがゆえに、諦の名を立てたり。如は正理に濫り、行は有漏に通じ、出は涅槃に通ず。このゆえに如・行・出の諦と名づけざるなり。 またこの道諦の名は、旧所伝説にして、これ旧文句なり。過去の諸仏、殑伽沙を過ぐるも、皆道の名をもってこの諦を示したまえり。今仏もまたしかなり。ゆえに責むべきにあらず。 またこの諦の四相に、道相は最初なり。このゆえに世尊はただ道諦と名づけたまえり。

毘奈耶說。世尊有時為四天王先以聖語說四聖諦四天王中二能領解二不領解。世尊憐愍饒益彼故。以南印度邊國俗語說四聖諦。謂瑿泥迷泥蹋部達𮒅部。二天王中一能領解一不領解。世尊憐愍饒益彼故。復以一種篾戾車語說四聖諦。謂摩奢覩奢僧攝摩薩縛怛羅毘刺遲。時四天王皆得領解。問佛以聖語說四聖諦能令所化皆得解不。設爾何失。二俱有過。所以者何。若言能者後二天王聞聖語說何故不解。若不能者伽他所說當云何通。如有頌言。

> 毘奈耶にはこう記されています。ある時、世尊は四天王のために、まず聖語で四聖諦をお説きになりました。ところが、四天王のうち二人は理解できたものの、二人は理解できませんでした。そこで世尊は、その二人を哀れみ、彼らのために、南インドの辺境の俗語で四聖諦をお説きになりました。それは「瑿泥迷泥蹋部達部」という言葉でした。すると、二人の天王のうち、一人は理解できましたが、もう一人はまだ理解できませんでした。世尊はさらに哀れみ、その者のために、別の辺境の言葉で四聖諦をお説きになりました。それは「摩奢覩奢僧攝摩薩縛怛羅毘刺遲」という言葉でした。この時、四天王は皆、理解することができました。 問う：仏が聖語で四聖諦をお説きになった時、教化の対象となる者たちは皆、理解することができたのでしょうか。もしそうだとすると、どのような問題があるでしょうか。どちらの立場を取っても過失があります。なぜなら、もし聖語で理解できたと言うならば、後の二人の天王が聖語を聞いても理解できなかったのはなぜでしょうか。また、もし理解できなかったと言うならば、伽他に説かれている言葉はどのように解釈すべきでしょうか。例えば、次のような偈頌があります。

佛以一音演說法眾生隨類各得解皆謂世尊同其語獨為我說種種義

> 仏は一つの音で法を説かれ、衆生はそれぞれの種類に応じて理解を得る 皆が世尊は自分と同じ言葉で語り、ただ自分のために様々な意味を説いてくださると思う

一音者謂梵音。若至那人來在會坐。謂佛為說至那音義。如是礫迦葉筏那達剌陀末𮒅婆佉沙覩貨羅博喝羅等人來在會坐。各各謂佛獨為我說自國音義。聞已隨類各得領解。又貪行者來在會坐。聞佛為說不淨觀義。若瞋行者來在會坐。聞佛為說慈悲觀義。若癡行者來在會坐。聞佛為說緣起觀義。憍慢行等類此應知。此伽他中既作是說。如何可說佛以聖語。說四聖諦不令一切所化有情皆得領解。有作是說。佛以聖語說四聖諦能令一切所化有情皆得領解。問若爾何故後二天王聞聖語說而不能解。答彼四天王意樂有異。為滿彼意故佛異說。謂二天王作如是念。若佛為我以聖語說四聖諦者我能受行。第三天王作如是念。若佛為我以南印度邊國俗語說四諦者我能受行第四天王作如是念。若佛為我隨以一種篾戾車語說四諦者我能受行。是故世尊隨彼意說。復次世尊欲顯於諸言音皆能善解故作是說。謂有生疑佛唯能作聖語說法。於餘言音未必自在。為決彼疑佛以種種言音說法。顯於諸方言音自在。所說法要聞皆受行。復次有所化者依佛不變形言而得受化。有所化者依佛轉變形言而得受化。依佛不變形言得受化者。若變形言而為說法彼不能解。如說佛在摩揭陀國為度池堅步行十二踰繕那故七萬眾生皆得見諦。彼皆依佛不變形言而得受化。若變形言為說法者。彼諸眾生應不見諦。依佛轉變形言得受化者。若不變形言而為說法彼不能解。是故世尊作三種語。為四天王說四聖諦。復有說者。佛以一音說四聖諦。不令一切所化有情皆能領解。世尊雖有自在神力。而於境界不能改越。如不能令耳見諸色眼聞聲等。問若爾前頌當云何通。答不必須通非三藏故。諸讚佛頌言多過實。如分別論者。讚說世尊心常在定。善安住念及正知故。又讚說佛恒不睡眠離諸蓋故。如彼讚佛實不及言前頌亦然故不須釋。復次如來言音遍諸聲境隨所欲語皆能作之。謂佛若作至那國語勝在至那中華生者。乃至若作博喝羅語勝在彼國中都生者。以佛言音遍諸聲境故。彼伽他作如是說。復次佛語輕利速疾迴轉。雖種種語而謂一時。謂佛若作至那語已無間復作礫迦國語。乃至復作博喝羅語。以速轉故皆謂一時。如旋火輪非輪輪想。前頌依此故亦無違。復次如來言音雖有多種。而同有益故說一音。

> 一つの音とは、梵音（清らかな音）を指します。もし至那（中国）の人が会座に来ていれば、仏はその人のために至那の言葉で教えを説きます。同様に、礫迦、葉筏那、達剌陀、末𮒅、婆佉沙、覩貨羅、博喝羅などの人々が会座に来ていれば、それぞれの人は「仏は私のためにだけ自分の国の言葉で教えを説いてくださった」と思い、聞いた後、それぞれが自分の言葉で理解を得るのです。 また、貪り（欲望）の強い人が会座に来ていれば、仏は不浄観（体の不浄を見つめる瞑想）の教えを説きます。怒りの強い人が来ていれば、慈悲観の教えを説き、愚かさの強い人が来ていれば、縁起観の教えを説きます。傲慢な人などについても、同様に理解すべきです。 この詩句ではこのように説かれていますが、では「仏が聖語（神聖な言葉）で四聖諦を説いても、すべての教えを受ける人々が理解できるとは限らない」というのはどう説明できるのでしょうか。 ある見解では、「仏が聖語で四聖諦を説けば、すべての教えを受ける人々が理解できる」と言います。では、なぜ後の二人の天王は聖語で説かれても理解できなかったのでしょうか。 答え：四人の天王にはそれぞれ異なる願いがありました。その願いを満たすために、仏はそれぞれに異なる説法をしたのです。すなわち、最初の二人の天王は「もし仏が聖語で四聖諦を説いてくだされば、私は修行できるだろう」と思い、第三の天王は「もし仏が南インドの辺境の俗語で四諦を説いてくだされば、私は修行できるだろう」と思い、第四の天王は「もし仏がどのような蔑戾車（未開の地）の言葉でもって四諦を説いてくだされば、私は修行できるだろう」と思いました。そこで世尊はそれぞれの願いに応じて説法したのです。 さらに、世尊はあらゆる言語を自在に説けることを示すために、このように説きました。ある人々は「仏は聖語でのみ説法でき、他の言葉では自在ではないのでは」と疑うかもしれません。その疑いを断つために、仏は様々な言葉で説法し、あらゆる言語に自在であることを示しました。説かれた教えの要旨は、聞く者すべてが理解し実践できるのです。 さらに、仏が形を変えずに説法することで教化される者もいれば、形を変えて説法することで教化される者もいます。形を変えずに教化される者は、もし形を変えて説法されると理解できません。例えば、仏が摩掲陀国で池堅（池のほとり）を歩いて十二由旬を進み、七万の衆生が真理を見たという話があります。彼らは皆、仏が形を変えずに説法することで教化されました。もし形を変えて説法していたら、彼らは真理を見ることができなかったでしょう。一方、形を変えて教化される者は、形を変えない説法では理解できません。そこで世尊は三種類の言葉で、四人の天王に四聖諦を説いたのです。 また別の見解としては、「仏は一つの音で四聖諦を説くが、すべての教えを受ける人々が理解できるわけではない」と言います。世尊には自在な神通力があっても、境界（現象の仕組み）を変えることはできません。例えば、耳で色を見たり、眼で音を聞いたりするようにさせることはできないのと同じです。 問い：では、先ほどの詩句はどう解釈すべきでしょうか。 答え：必ずしも解釈する必要はありません。それは三蔵（経・律・論）に属さないからです。仏を讃える詩句は、しばしば誇張されています。例えば分別論者は、世尊は常に定（心の統一）の中にあり、正しい念と正しい知恵を保ち、眠らず、煩悩の覆いを離れていると讃えます。しかし、そのような讃えは実際の仏の徳を超えることはありません。詩句も同じで、詳しく説明する必要はないのです。 さらに、如来の言葉はあらゆる音声の領域に及び、望むままに話すことができます。すなわち、仏が至那の言葉を話せば、至那で生まれた最も優れた人にも勝り、博喝羅の言葉を話せば、その国の最も優れた人にも勝ります。仏の言葉はあらゆる音声の領域に及ぶからです。その詩句もこのように説かれているのです。 さらに、仏の言葉は軽やかで速く、自在に転じるため、様々な言葉で話しても、同時に聞こえます。仏が至那の言葉を話した後、間を置かずに礫迦の言葉を話し、さらに博喝羅の言葉を話しても、速やかに転じるため、すべて同時に聞こえるのです。例えば回転する火の輪が、輪のように見えても実際には輪ではないのと同じです。先ほどの詩句も、この意味に基づけば矛盾しません。 さらに、如来の言葉は多様であっても、すべて同じ利益をもたらすので、「一つの音」と説かれるのです。

如契經說佛告苾芻。此苦聖諦我昔未聞。於此法中如理作意。由此便生眼智明覺。此苦聖諦慧應遍知我昔未聞乃至廣說。此苦聖諦慧已遍知我昔未聞乃至廣說。集滅道諦廣說亦爾。此苦聖諦我昔未聞等。顯未知當知根。此苦聖諦慧應遍知等。顯已知根。此苦聖諦慧已遍知等。顯具知根。集滅道諦各顯三根應知亦爾。大德法救作如是說。我思此經舉身毛竪。以佛所說必不違義定有次第。今此契經越次第說具知根。後復說未知當知根故。非佛獨覺及諸聲聞。得有如是觀行次第。具知根後如何復起初無漏根。若捨此經必不應理。佛初說故以五苾芻而為上首。八萬諸天聞此所說皆證法故。若欲不捨復違次第故思此經舉身毛竪。然後大德雖作是言而不捨經。但迴文句彼作是說。此經應言此苦聖諦。我昔未聞乃至廣說。集滅道諦廣說亦爾。此苦聖諦慧應遍知。此集聖諦慧應永斷。此滅聖諦慧應作證。此道聖諦慧應修習。昔未聞等廣說如前。此苦聖諦慧已遍知。此集聖諦慧已永斷。此滅聖諦慧已作證。此道聖諦慧已修習。昔未聞等廣說如前。若作是說不失次第。隨順現觀非如經說。阿毘達磨諸論師言。不應輒迴此經文句。過去無量諸大論師。利根多聞過於大德。尚不敢迴此經文句。況今大德而可輒迴。但應尋求此經意趣。謂說法者依二次第。一依隨順說法次第如此經說。二依隨順現觀次第如大德說。脇尊者言。此經不說三無漏根。但說菩薩菩提樹下欲界聞思所成慧力修行四諦。問世尊既說我由此觀證得無上正等菩提。豈有聞思證菩提義。答菩薩由此聞思慧力。伏除一切四聖諦愚。由此定當證無上覺。故說由此證得菩提。如人先時濕皮覆面。後得除去以𣪺覆之。其障輕微可言無障。故此非說三無漏根。

> 仏の教えにこうある。「比丘たちよ、この苦聖諦について、私はかつて聞いたことがなかった。この法の中において、理にかなった心の働き（如理作意）が生じた。それによって、眼・智・明・覚が生じた。この苦聖諦は、智慧によって完全に知られるべきであると、私はかつて聞いたことがなかった。……（以下、同様に詳説される）。この苦聖諦は、智慧によってすでに完全に知られたと、私はかつて聞いたことがなかった。……（同様）。集・滅・道諦についても、同様に詳説される。」 この「この苦聖諦について、私はかつて聞いたことがなかった」という言葉は、未知当知根（まだ知るべきことを知ろうとする根）を示す。「この苦聖諦は、智慧によって完全に知られるべきである」という言葉は、已知根（すでに知った根）を示す。「この苦聖諦は、智慧によってすでに完全に知られた」という言葉は、具知根（完全に知り尽くした根）を示す。集・滅・道諦についても、それぞれ三根を示すと理解すべきである。 大徳・法救はこう述べた。「私はこの経を思うとき、全身の毛が逆立つ。仏の説かれたことは、必ず義に反することがなく、必ず秩序がある。しかし、この経は、順序を越えて、具知根を説いた後に、再び未知当知根を説いている。仏や独覚（ひとり自ら悟る者）や声聞（弟子たち）が、このような観行の順序を持つことはありえない。具知根の後に、どうして再び最初の無漏根（煩悩を離れた清らかな根）が生じることがあろうか。もしこの経を捨てるならば、必ず理にかなわない。仏が最初に説いたものであり、五人の比丘を上首とし、八万の天人がこの説法を聞いて、みな法を証したからである。しかし、もし捨てないならば、また順序に反することになる。それゆえ、この経を思うとき、全身の毛が逆立つのである。」 その後、大徳はこのように言いながらも、経を捨てず、ただ文句を並べ替えた。彼はこう述べた。「この経は、『この苦聖諦について、私はかつて聞いたことがなかった。……（以下、同様に詳説される）。集・滅・道諦についても、同様に詳説される。この苦聖諦は、智慧によって完全に知られるべきである。この集聖諦は、智慧によって完全に断たれるべきである。この滅聖諦は、智慧によって証明されるべきである。この道聖諦は、智慧によって修習されるべきである。以前に聞いたことがなかったなど、前述のように詳説される。この苦聖諦は、智慧によってすでに完全に知られた。この集聖諦は、智慧によってすでに完全に断たれた。この滅聖諦は、智慧によってすでに証明された。この道聖諦は、智慧によってすでに修習された。以前に聞いたことがなかったなど、前述のように詳説される。』と述べるべきである。このように述べるならば、順序を失わず、現観（真理を直接観る次第）に従っている。経の説くところのようではないが。」 しかし、アビダルマの論師たちはこう言う。「この経の文句を、軽々に並べ替えるべきではない。過去の無数の大論師たちは、優れた智慧と多聞において大徳を超えていたが、それでもこの経の文句を並べ替えることはしなかった。ましてや、今の大徳がどうして軽々に並べ替えることができようか。ただ、この経の意図するところを探求すべきである。すなわち、説法者は二つの順序に従っている。一つは、説法の順序に従うもので、この経の説くところである。もう一つは、現観の順序に従うもので、大徳の説くところである。」 脇尊者はこう言う。「この経は、三つの無漏根を説いているのではない。ただ、菩薩が菩提樹の下で、欲界の聞・思によって生じた智慧の力によって、四諦を修行したことを説いているのである。」問う、「世尊は、『私はこの観察によって、無上正等菩提（最高の悟り）を証得した』と説かれた。どうして聞・思によって菩提を証するという意味がありえようか。」答える、「菩薩はこの聞・思の智慧の力によって、四聖諦に対するすべての無知を取り除き、それによって必ず無上の悟りを証することが定まったのである。だから『これによって菩提を証した』と説かれたのである。例えば、人が以前は湿った皮で顔を覆っていたが、後にそれを取り除いて絹で覆ったならば、その障害は軽微であり、障害がないと言えるようなものである。ゆえに、これは三つの無漏根を説いているのではない。」

如契經說佛告苾芻。我於四聖諦三轉十二行相。生眼智明覺。問此應有十二轉四十八行相。何故但說三轉十二行相耶。答雖觀一一諦皆有三轉十二行相。而不過三轉十二行相故作是說。如預流者極七反有。及七處善并二法等。此中眼者。謂法智忍。智者。謂諸法智。明者。謂諸類智忍。覺者。謂諸類智。復次眼是觀見義。智是決斷義。明是照了義。覺是警察義。

> 仏の教えに説かれる通り、世尊は比丘たちに告げられた。「私は四聖諦について、三転十二行相によって、眼・智・明・覚を生じた。」と。問う：これには十二転四十八行相があるべきではないか。なぜ三転十二行相とのみ説くのか。答う：たとえ各々の諦を観察する際にも三転十二行相があるとしても、三転十二行相を超えることはないからである。このように説かれたのである。預流者が多くとも七回の再生を経ることや、七つの場所における善、および二つの法などの例と同じである。ここで「眼」とは法智忍を指す。「智」とは諸々の法智を指す。「明」とは諸々の類智忍を指す。「覚」とは諸々の類智を指す。さらに、「眼」は観察し見るという意味であり、「智」は判断し決定するという意味であり、「明」は照らし明らかにするという意味であり、「覚」は気づき警めるという意味である。

問此四聖諦若自性斷者亦所緣斷耶。答應作四句。有自性斷非所緣斷。謂緣無漏苦集及無所緣諸有漏法。有所緣斷非自性斷。謂緣有漏聖道。有自性斷亦所緣斷。謂緣有漏苦集。有非自性斷亦非所緣斷。謂緣無漏聖道。及無所緣聖道滅諦。

> 問う、この四聖諦について、もし自性（本質）が断たれるならば、所縁（対象）も断たれるのか。答え、四つの句（場合分け）を作るべきである。 自性は断たれるが所縁は断たれない場合がある。すなわち、無漏の苦と集を縁とし、また所縁のない諸々の有漏の法を縁とする場合である。 所縁は断たれるが自性は断たれない場合がある。すなわち、有漏の聖道を縁とする場合である。 自性も断たれ所縁も断たれる場合がある。すなわち、有漏の苦と集を縁とする場合である。 自性も断たれず所縁も断たれない場合がある。すなわち、無漏の聖道を縁とし、また所縁のない聖道と滅諦を縁とする場合である。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第七十九

> 『説一切有部発智大毘婆沙論』巻第七十九