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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 10"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第八十

> 阿毘達磨大毘婆沙論 第八十巻

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 結蘊第二中十門納息第四之十

> 諸蘊第二中の十門納息第四の十

四靜慮者。謂初靜慮。第二靜慮。第三靜慮。第四靜慮。問何故作此論。答欲令疑者得決定故。謂品類足說。云何初靜慮。謂初靜慮攝善五蘊。乃至云何第四靜慮。謂第四靜慮攝善五蘊。彼唯說善靜慮。或有生疑。靜慮唯善非染。亦非無覆無記。為決彼疑顯四靜慮。通善及染無覆無記故作斯論。問此四靜慮自性云何。答各以自地五蘊為自性。是名靜慮自性我物自體相分本性。

> 四つの静慮（しょりょ）とは、初静慮、第二静慮、第三静慮、第四静慮を指します。 問：なぜこの論を説くのか。 答：疑いを持つ者に決定の理解を得させるためである。 すなわち、『品類足論』にはこう説かれている。「何を初静慮というか。初静慮に含まれる善の五蘊である」と。さらに「何を第四静慮というか。第四静慮に含まれる善の五蘊である」と。 そこでは善の静慮のみが説かれている。ある者はこう疑うかもしれない。「静慮は善のみであり、染汚（煩悩に染まった状態）でもなく、無覆無記（覆いがなく善悪でもない状態）でもない」と。 その疑いを断ち、四静慮が善・染汚・無覆無記のすべてに通じることを明らかにするために、この論を説くのである。 問：この四静慮の自性（本質）は何か。 答：それぞれの地に属する五蘊を自性とする。これを静慮の自性、すなわち自己の本質・体・相・本性という。

已說自性。所以今當說。問何故名靜慮。為能斷結故名靜慮。為能正觀故名靜慮。若能斷結故名靜慮。則無色定亦能斷結應名靜慮。若能正觀故名靜慮。則欲界三摩地亦能正觀。應名靜慮。有作是說。以能斷結故名靜慮。問諸無色定亦能斷結應名靜慮。答若定能斷不善無記二種結者名為靜慮。諸無色定唯斷無記非不善故不名靜慮。問若作是說。唯未至定可名靜慮。上地不斷不善結故。答上地雖無彼斷對治。而有不善厭壞對治。以能厭壞亦名能斷。問若作是說。上地滅道法智品。及彼一切類智品應非靜慮。皆非欲界斷及厭壞二對治故。答彼於欲界雖無全界全地對治。而彼界地容有不善厭壞對治。由此勢力餘亦得名。復次四靜慮中有能對治不善結者。無色全無。故靜慮名不通無色。尊者妙音作如是說。色界六地於欲界結皆有斷對治及厭壞對治。然未至定已斷彼結。餘地對治無彼可斷。雖無彼可斷而有對治用。如日三分皆能破暗。初分已破餘無可破。又如六人共一怨家。一人已殺餘無可殺。又如六燈皆能破暗。持一入室其暗已除。餘五入時無暗可破。如是六地於欲界結。皆有斷能非唯未至。若不爾者依上五地入見道時。應不證得欲見所斷諸結離繫。既能證得。故知六地於欲界結有斷對治。復次若定能斷見修所斷二結盡者名為靜慮。諸無色定唯能斷修所斷結盡故非靜慮。復次若能斷結五蘊俱生能為所依起多功德。能具攝受四支五支。能發六通具四通行。三種變現三明三根三道三地四沙門果九遍知道。見修二道法類二智。及忍智者名為靜慮。諸無色定雖能斷結。而不具上所說功德故非靜慮。復有說者。以能正觀故名靜慮。問若爾欲界有三摩地。亦能正觀應名靜慮。答若能正觀亦能斷結名為靜慮。欲界三摩地雖有能正觀。而不能斷結。故不名靜慮。復次若能正觀堅固難壞相續久住。於所緣境長時注意而不捨者名為靜慮。欲界三摩地無如是德故非靜慮。復次若三摩地具有定名定用。能正觀者名為靜慮。欲界三摩地雖有定名而無定用。如泥椽梁有名無用故非靜慮。復次若三摩地非散亂風之所搖動如密室燈。能正觀者名為靜慮。欲界三摩地多散亂風之搖動。如四衢燈故非靜慮。如是說者。要具二義方名靜慮。謂能斷結及能正觀。欲界三摩地雖能正觀而不能斷結。諸無色定雖能斷結。而不能正觀故非靜慮。復次若能遍觀遍斷結者名為靜慮。欲界三摩地雖能遍觀而不能遍斷結。諸無色定二義俱無故非靜慮。復次若能靜息一切煩惱。及能思慮一切所緣名為靜慮。欲界三摩地雖能思慮一切所緣。不能靜息一切煩惱。諸無色定兩義都無故非靜慮。復次諸無色定有靜無慮。欲界三摩地有慮無靜。色定俱有故名靜慮。靜謂等引。慮謂遍觀。故名靜慮。

> すでに自性について説いた。それでは次に、なぜ「静慮」と名付けるのかを説くべきであろう。 問う。なぜ静慮と名付けるのか。煩悩の結び目を断ち切るから静慮と名付けるのか、それとも正しく観察するから静慮と名付けるのか。もし煩悩の結び目を断ち切るから静慮と名付けるならば、無色定もまた煩悩の結び目を断ち切ることができるのだから、静慮と名付けるべきではないか。もし正しく観察するから静慮と名付けるならば、欲界の三摩地もまた正しく観察することができるのだから、静慮と名付けるべきではないか。 このように説く者がある。「煩悩の結び目を断ち切るから静慮と名付けるのである」と。 問う。無色定もまた煩悩の結び目を断ち切ることができるのだから、静慮と名付けるべきではないか。 答える。もしある定が、不善と無記の二種類の結び目を断ち切ることができるならば、それを静慮と名付けるのである。無色定は無記の結び目だけを断ち切り、不善の結び目を断ち切ることはないから、静慮と名付けないのである。 問う。もしそう説くならば、未至定だけが静慮と名付けられることになる。上の地は不善の結び目を断ち切らないからである。 答える。上の地には、不善の結び目を断ち切る対治はないけれども、不善を嫌い壊す対治はある。嫌い壊すこともまた断ち切ると名付けることができるのである。 問う。もしそう説くならば、上の地の滅道法智の品類、およびそのすべての類智の品類は静慮ではないことになる。それらはすべて欲界の断ち切る対治と嫌い壊す対治の二つを持たないからである。 答える。それらは欲界全体に対して、あるいは欲界の一地全体に対して対治となるわけではないが、その界や地には不善を嫌い壊す対治があるかもしれない。その力によって、残りのものもまた静慮と名付けられるのである。 さらにまた、四静慮の中には不善の結び目を対治するものがあるが、無色にはまったくない。それゆえに静慮という名は無色には通じないのである。 尊者妙音はこのように説く。「色界の六地は、欲界の結び目に対して、すべて断ち切る対治と嫌い壊す対治を持っている。しかし未至定はすでにその結び目を断ち切っているので、残りの地の対治には断ち切るべきものが何もない。断ち切るべきものはないけれども、対治の働きはある。たとえば、太陽の三つの部分はすべて暗闇を破ることができるが、最初の部分がすでに破ったならば、残りには破るべきものが何もない。また、六人の者が一人の敵を共有しているとき、一人がすでに殺したならば、残りには殺すべきものが何もない。また、六つの灯がすべて暗闇を破ることができるが、一つを持って部屋に入れば、その暗闇はすでに除かれている。残りの五つが入る時には、破るべき暗闇は何もない。このように、六つの地は欲界の結び目に対して、すべて断ち切る働きを持っているのであって、未至定だけではない。もしそうでなければ、上の五地に依って見道に入る時には、見道によって断たれるべき諸々の結び目の離繋を証得できないはずである。実際に証得できるのだから、六つの地が欲界の結び目に対して断ち切る対治を持つと知るべきである。」 さらにまた、もしある定が見道と修道によって断たれるべき二種類の結び目をすべて断ち切るならば、それを静慮と名付けるのである。無色定は修道によって断たれるべき結び目だけを断ち切り尽くすから、静慮ではないのである。 さらにまた、もしある定が結び目を断ち切り、五蘊とともに生じ、依り所となって多くの功徳を生み出し、四支と五支を完全に摂受し、六通を発し、四通行を具え、三種の変現、三明、三根、三道、三地、四沙門果、九遍知、見道と修道の二道、法智と類智の二智、および忍と智を具えるならば、それを静慮と名付けるのである。無色定は結び目を断ち切ることはできるけれども、上に説いた功徳を完全に具えることはないから、静慮ではないのである。 また、このように説く者がある。「正しく観察するから静慮と名付けるのである」と。 問う。もしそうならば、欲界にも三摩地があり、それも正しく観察することができるのだから、静慮と名付けるべきではないか。 答える。もし正しく観察することができ、かつ結び目を断ち切ることもできるならば、それを静慮と名付けるのである。欲界の三摩地は正しく観察することはできるけれども、結び目を断ち切ることはできないから、静慮と名付けないのである。 さらにまた、もし正しく観察することができ、堅固で壊れ難く、相続して長く留まり、所縁の境に対して長い間注意を向けて捨てないならば、それを静慮と名付けるのである。欲界の三摩地にはこのような徳がないから、静慮ではないのである。 さらにまた、もし三摩地が定の名と定の用をともに具え、正しく観察することができるならば、それを静慮と名付けるのである。欲界の三摩地は定の名はあるけれども定の用がない。たとえば、泥で作られた梁や椽は名はあるが用がないようなものであるから、静慮ではないのである。 さらにまた、もし三摩地が散乱の風に揺り動かされることがなく、密室の灯のようであり、正しく観察することができるならば、それを静慮と名付けるのである。欲界の三摩地は散乱の風に揺り動かされることが多く、四辻の灯のようなものであるから、静慮ではないのである。 このように説く者がある。要するに、二つの意味を具えて初めて静慮と名付けるのである。すなわち、結び目を断ち切ることができ、かつ正しく観察することができることである。欲界の三摩地は正しく観察することはできるけれども、結び目を断ち切ることはできない。無色定は結び目を断ち切ることはできるけれども、正しく観察することができないから、静慮ではないのである。 さらにまた、もし広く観察し、広く結び目を断ち切るならば、それを静慮と名付けるのである。欲界の三摩地は広く観察することはできるけれども、広く結び目を断ち切ることはできない。無色定は二つの意味ともにないから、静慮ではないのである。 さらにまた、もしすべての煩悩を静め、かつすべての所縁を思慮することができるならば、それを静慮と名付けるのである。欲界の三摩地はすべての所縁を思慮することはできるけれども、すべての煩悩を静めることはできない。無色定は二つの意味ともにないから、静慮ではないのである。 さらにまた、無色定は静はあるが慮がない。欲界の三摩地は慮はあるが静がない。色界の定は両方を具えるから静慮と名付けるのである。静とは等引のことであり、慮とは広く観察することである。それゆえに静慮と名付けるのである。

四靜慮支總有十八。謂初靜慮有五支。一尋二伺三喜四樂五心一境性。第二靜慮有四支。一內等淨二喜三樂四心一境性。第三靜慮有五支。一行捨二正念三正慧四受樂五心一境性。第四靜慮有四支。一不苦不樂受二行捨清淨三念清淨四心一境性。問四靜慮支名有十八實體有幾。答唯有十一。謂初靜慮支名與實體俱有五種。第二靜慮支雖有四。而三如前增內等淨。第三靜慮支雖有五。而第五如前但增前四。第四靜慮支雖有四。而後三如前但增第一。故靜慮支名有十八實體十一。復有說者。實體唯十。謂三靜慮樂合為一。評曰。彼不應作是說。初二靜慮是輕安樂。第三靜慮別是受樂。初二靜慮樂行蘊攝。第三靜慮樂受蘊攝。故前所說於理為善。如名實體名施設體施設。名異相體異相。名異性體異性。名差別體差別。名建立體建立。名覺體覺。應知亦爾。問此中何者是靜慮。何者是靜慮支。答心一境性是靜慮。以三摩地為自性故。此及所餘是靜慮支。問若三摩地是靜慮者。初第三靜慮應各唯四支。第二第四靜慮應各唯三支。則靜慮支應唯十四。云何乃說十八支耶。答三摩地是靜慮亦是靜慮支。餘是靜慮支非靜慮故有十八。如擇法是覺亦是覺支。餘是覺支非覺。正見是道亦是道支。餘是道支非道。離非時食是齋亦是齋支。餘是齋支非齋。此亦如是。如是名為靜慮支。自性我物自體相分本性。

> 四つの禅定（静慮）の構成要素は、全部で十八あります。第一禅定には五つの要素があります。一つ目は「尋」（考えること）、二つ目は「伺」（詳しく調べること）、三つ目は「喜」（喜び）、四つ目は「楽」（安らぎ）、五つ目は「心の一境性」（心が一つの対象に集中すること）です。第二禅定には四つの要素があります。一つ目は「内等浄」（内側の清らかさ）、二つ目は「喜」、三つ目は「楽」、四つ目は「心の一境性」です。第三禅定には五つの要素があります。一つ目は「行捨」（心の働きを手放すこと）、二つ目は「正念」（正しい気づき）、三つ目は「正慧」（正しい智慧）、四つ目は「受楽」（感受される安らぎ）、五つ目は「心の一境性」です。第四禅定には四つの要素があります。一つ目は「苦でも楽でもない感受」、二つ目は「行捨の清らかさ」、三つ目は「念の清らかさ」、四つ目は「心の一境性」です。 問い：四つの禅定の要素の名前は十八ありますが、実際の実体はいくつあるのでしょうか。 答え：ただ十一だけです。第一禅定の要素は、名前も実体も五つあります。第二禅定の要素は四つありますが、そのうち三つは前述のものと同じで、「内等浄」が加わっただけです。第三禅定の要素は五つありますが、そのうち五番目は前述のものと同じで、最初の四つが加わっただけです。第四禅定の要素は四つありますが、後の三つは前述のものと同じで、最初の一つが加わっただけです。ですから、禅定の要素の名前は十八ありますが、実体は十一だけです。 さらに、「実体はただ十だけである」と説く人もいます。それは、三つの禅定の「楽」を一つにまとめるからです。 評者（評曰）は言います。「そのような説は正しくない。最初の二つの禅定の『楽』は軽やかで安らかな楽であり、第三禅定の『楽』は別に感受される楽である。最初の二つの禅定の楽は『行蘊』（心の働きの集まり）に含まれ、第三禅定の楽は『受蘊』（感受の集まり）に含まれる。だから、前述の説が道理にかなっている。」 名前と実体の関係についても、名前の施設と実体の施設、名前の異相と実体の異相、名前の異性と実体の異性、名前の差別と実体の差別、名前の建立と実体の建立、名前の覚と実体の覚も、同じように理解すべきです。 問い：ここで、どれが「禅定」であり、どれが「禅定の要素」なのでしょうか。 答え：心の一境性が「禅定」です。なぜなら、三昧（深い集中）を本質とするからです。これとその他のものが「禅定の要素」です。 問い：もし三昧が禅定であるなら、第一と第三の禅定にはそれぞれ四つの要素しかなく、第二と第四の禅定にはそれぞれ三つの要素しかないはずです。そうすると、禅定の要素は十四だけになり、なぜ十八と言うのでしょうか。 答え：三昧は禅定であり、また禅定の要素でもあります。その他は禅定の要素ではありますが、禅定そのものではありません。だから十八あるのです。例えば、「択法」（法を選ぶこと）は「覚」（悟りの一部）であり、また「覚支」（悟りの要素）でもあります。その他は「覚支」ではありますが、「覚」そのものではありません。「正見」は「道」であり、また「道支」でもあります。その他は「道支」ではありますが、「道」そのものではありません。「非時食を離れること」は「斎」であり、また「斎支」でもあります。その他は「斎支」ではありますが、「斎」そのものではありません。これも同じです。これが「禅定の要素」の自性、我物、自体、相分、本性です。

已說自性。所以今當說。問何故名靜慮支。靜慮支是何義。答寂靜思慮故名靜慮。隨順此靜慮故名靜慮支。以隨順義。負重擔義。成大事義。堅勝義。分別義。是支義故。隨順義者。若法隨順此地靜慮。名此地靜慮支。負重擔義者。若法能引此地靜慮。名此地靜慮支。成大事義者。若法能辦此地靜慮。名此地靜慮支。堅勝義者。若法助成此地靜慮。令其堅勝名此地靜慮支。分別義者。如軍車等諸分別異故名軍車等支。如是靜慮諸分別異名靜慮支。如是已釋靜慮支名。次應分別雜無雜相。問若是初靜慮支。亦是第二靜慮支耶。答應作四句。有是初支非第二支。謂尋伺。有是第二支非初支。謂內等淨。有是初支亦是第二支。謂喜樂心一境性。有非初支亦非第二支。謂除前相問若是初靜慮支亦是第三靜慮支耶。答應作四句。有是初支非第三支。謂尋伺喜樂。有是第三支非初支。謂捨念慧樂。有是初支亦是第三支謂心一境性。有非初支亦非第三支。謂除前相。問若是初靜慮支亦是第四靜慮支耶。答應作四句。有是初支非第四支。謂尋伺喜樂。有是第四支非初支。謂不苦不樂捨念。有是初支亦是第四支。謂心一境性。有非初支亦非第四支。謂除前相。問若是第二靜慮支。亦是第三靜慮支耶。答應作四句。有是第二支非第三支。謂內等淨喜樂。有是第三支非第二支。謂捨念慧樂。有是第二支亦是第三支。謂心一境性。有非第二支亦非第三支。謂除前相。問若是第二靜慮支。亦是第四靜慮支耶。答應作四句。有是第二支非第四支。謂內等淨喜樂。有是第四支非第二支。謂不苦不樂捨念。有是第二支亦是第四支。謂心一境性。有非第二支亦非第四支。謂除前相。問若是第三靜慮支。亦是第四靜慮支耶。答應作四句。有是第三支非第四支。謂慧樂。有是第四支非第三支。謂不苦不樂。有是第三支亦是第四支。謂捨念心一境性。有非第三支亦非第四支。謂除前相。問輕安行捨一切地有。何故初二靜慮立輕安為支非行捨。第三第四靜慮立行捨為支非輕安耶。答先說隨順是支義故。謂輕安唯隨順初二靜慮故立為支。行捨唯隨順第三第四靜慮故立為支。復次互相覆故。謂初二靜慮輕安用勝。能覆行捨故立為支。第三第四靜慮行捨用勝。能覆輕安故立為支問何故此二能互相覆。答此二行相更相違故。謂輕安相輕舉。行捨相沈靜。俱時而有更互相違。如人一時亦行亦住。亦睡亦覺一向相違。而善心中對治各異故得俱起。謂輕安能對治惛沈。行捨能對治掉舉。復次為對治欲界五識身。及所引身麁重故。初靜慮立輕安為支。為對治初靜慮三識身。及所引身麁重故。第二靜慮立輕安為支。第二第三靜慮無麁識身。及所引身麁重可對治故。第三第四靜慮不立輕安為支。彼既不立輕安為支。故立行捨為支。復次初二靜慮有染污喜擾動身心。故世尊說應習輕安不應住捨。是故初二靜慮唯立輕安為支。第三第四靜慮無染污喜擾動身心故世尊說。但應住捨勿習輕安。是故第三第四靜慮唯立行捨為支。復次初二靜慮輕安有因。謂諸善喜。如契經說。心有喜故身則輕安。是故初二靜慮唯立輕安為支。第三第四靜慮輕安無因。謂無善喜唯應住捨。故彼但立行捨為支。復次第三靜慮棄捨極喜。第四靜慮棄捨極樂。故此唯立行捨為支。初二靜慮既不立行捨為支。故立輕安為支無相違故。問內等淨即是信諸地皆有。何故唯在第二靜慮立為支耶。答前說隨順是支義故。謂信唯順第二靜慮。是故唯此立信為支。復次初靜慮中。尋伺如火。身識如泥。令心相續。熱惱濁亂信不明淨。如熱泥中面像不現。第二靜慮無尋伺火及識身泥。心相續中信相明淨。如清冷水面像得現。故於此立內等淨支。第三靜慮有極悅受。第四靜慮有勝捨受覆心相續信相不顯故彼及初皆不建立內等淨支。復次第二靜慮諸瑜伽師。於離染中初生信勝。故唯此立內等淨支。謂瑜伽師離欲界染起初靜慮現在前時。作是思惟。我雖已離不定界染。諸定地染為可離耶。彼後復離初靜慮染第二靜慮現在前時。於界地染俱可離中。初生大信如欲界染我既能離。色無色染亦必可離。如初靜慮染既可離。乃至非想非非想處染定可離。彼初靜慮現在前時未生定信。後二靜慮現在前時。雖有定信而非初故信相不顯。故皆不立內等淨支。復次起增上信必依大喜因。喜信者信必堅固。第二靜慮有極勝喜故唯此立內等淨支。問慧遍諸地何故唯於第三靜慮立為支耶。答前說隨順是支義故。謂慧唯順第三靜慮。故但於彼立正慧支。復次第三靜慮有適悅受。諸適悅中此最為勝。耽著此故諸瑜伽師。不欲欣求上地勝法。此受即是自地留難。對治此故立正慧支是故世尊作如是說。應以正慧覺了此樂。勿固貪著不求上地。上下地中無有自地極樂留難如此地者。故彼不立正慧為支。復次初靜慮中。有麁尋伺覆障正慧。第二靜慮。有極喜躍覆障正慧。第四靜慮。有勝捨受覆障正慧。以勝捨受是無明分正慧是明。明無明分互相違害。故皆不立正慧為支。第三靜慮無有如彼覆正慧法故立為支。問念遍諸地何故唯在後二靜慮立念為支。答前說隨順是支義故。謂念唯順後二靜慮。故但於彼立念為支。復次後二靜慮。俱有地地增上留難。對治彼故立念為支。餘地不爾。謂第二靜慮有極勝喜輕躁漂溺。如邏剎斯諸瑜伽師。由此衰退不能堅固。離自地染為對治彼。第三靜慮立念為支。是故世尊作如是說。應住正念勿為下地喜所漂溺退失自地。第三靜慮有極勝樂。生死樂中此為最上留礙行者如詐親怨。諸瑜伽師由此衰退不能堅固離自地染。為對治彼第四靜慮立念為支。是故世尊作如是說。應住正念勿為下地樂所留礙退失自地。復次初靜慮中有麁尋伺猶如暴風覆障正念。第二靜慮有極喜躍。如水濤波覆障正念。故俱不立正念為支。後二靜慮無此過失。是故俱立正念為支。問若是靜慮支亦是菩提分耶。答應作四句有是靜慮支非菩提分。謂伺樂受捨受有是菩提分非靜慮支。謂精進正語正業正命。有是靜慮支亦是菩提分。謂餘菩提分法。有非靜慮支亦非菩提分。謂除前相。問何故伺樂受捨受不立菩提分耶。答被覆損故。謂伺被正思惟之所覆損。樂受被輕安樂之所覆損。捨受被行捨之所覆損。故不立為菩提分法。問若爾何故立靜慮支。答菩提分中為策正見。立正思惟為菩提分。伺行相細策正見中為尋覆損立靜慮支。為遮下地惡不善法不相覆損。菩提分中輕安樂受同一剎那有相覆損。靜慮支中地別建立無覆損義。菩提分中行捨受捨。同一剎那有相覆損。靜慮支中對治利益。支用各別不相覆損。問何故精進非靜慮支。答諸靜慮支順自地勝。精進於順他地為勝。謂初靜慮精進順第二靜慮為勝。乃至無所有處精進。順非想非非想處為勝。故彼不立為靜慮支。復次精進損害三摩地因。三摩地因即是勝樂。如契經說。樂故心定。勤精進者身心多苦。修三摩地身心多樂。是故精進非靜慮支。問何故正語正業正命非靜慮支。答靜慮支者。謂與靜慮相應住境。必有所依所緣行相。及有警覺乃名相應。正語業命無如是義。是故不立為靜慮支。由此四相及諸得等。不相應法皆不應立為靜慮支。非助等持住一境故。問何故慚愧無貪無瞋。不放逸不害等非靜慮支耶。答非極隨順諸靜慮故。此諸善法多於欲界。散地惡法為近對治。勢力增強非於定地。是故不立為靜慮支。問心想思等何故不立為靜慮支。答非極隨順諸靜慮故。心順流轉定順還滅。故心不立為靜慮支。復次心勝如王。諸心所法皆如臣佐。定是心所故心不立為靜慮支。如諸國王不事臣佐。想思觸欲皆順流轉。作用偏勝定順還滅。故彼不立為靜慮支。作意唯在欲界散地。對境用勝非諸定地。故亦不立為靜慮支。勝解唯於無學位勝。靜慮遍於一切位勝。故彼不立為靜慮支。復次此中應以諸靜慮支。對四念住四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支展轉相攝。復應以初靜慮支乃至第四靜慮支。對菩提分法展轉相攝。復應以初靜慮支乃至第四靜慮支。對四念住乃至八聖道支展轉相攝。應隨其相一一廣說。

> すでに自性について説き終えたので、ここからは名称の意味について述べることにしよう。 問う。何ゆえに「静慮支」というのか。「静慮支」とはどのような意味があるのか。 答える。心が静まり、深く思慮することを「静慮」という。この静慮に随順するものを「静慮支」という。「随順する」という意味、「重い荷を担う」という意味、「大きな事を成し遂げる」という意味、「堅固で優れている」という意味、「区別する」という意味、これらが「支」という言葉の意味である。 「随順する」という意味については、ある法がこの地の静慮に従い添うならば、これを「この地の静慮支」と名づける。 「重い荷を担う」という意味については、ある法がこの地の静慮を引き起こすならば、これを「この地の静慮支」と名づける。 「大きな事を成し遂げる」という意味については、ある法がこの地の静慮を成し遂げるならば、これを「この地の静慮支」と名づける。 「堅固で優れている」という意味については、ある法がこの地の静慮を助けて、それを堅固で優れたものにするならば、これを「この地の静慮支」と名づける。 「区別する」という意味については、たとえば軍や車などに様々な部分の区別があるので、軍の部分、車の部分と呼ばれるのと同じように、静慮にも様々な部分の区別があるので、これを「静慮支」と名づける。 このようにして、静慮支という名称を解釈した。次に、支が共通している場合と共通していない場合の相について、それぞれ区別して述べよう。 問う。初静慮の支であるならば、それも第二静慮の支であるのか。 答える。四句に分類して答えるべきである。 初静慮の支ではあるが第二静慮の支ではないものがある。それは「尋」と「伺」である。 第二静慮の支ではあるが初静慮の支ではないものがある。それは「内等浄」である。 初静慮の支でもあり第二静慮の支でもあるものがある。それは「喜」「楽」「心一境性」である。 初静慮の支でもなく第二静慮の支でもないものがある。それは前のものを除いた残りである。 問う。初静慮の支であるならば、それも第三静慮の支であるのか。 答える。四句に分類して答えるべきである。 初静慮の支ではあるが第三静慮の支ではないものがある。それは「尋」「伺」「喜」「楽」である。 第三静慮の支ではあるが初静慮の支ではないものがある。それは「捨」「念」「慧」「楽」である。 初静慮の支でもあり第三静慮の支でもあるものがある。それは「心一境性」である。 初静慮の支でもなく第三静慮の支でもないものがある。それは前のものを除いた残りである。 問う。初静慮の支であるならば、それも第四静慮の支であるのか。 答える。四句に分類して答えるべきである。 初静慮の支ではあるが第四静慮の支ではないものがある。それは「尋」「伺」「喜」「楽」である。 第四静慮の支ではあるが初静慮の支ではないものがある。それは「不苦不楽」「捨」「念」である。 初静慮の支でもあり第四静慮の支でもあるものがある。それは「心一境性」である。 初静慮の支でもなく第四静慮の支でもないものがある。それは前のものを除いた残りである。 問う。第二静慮の支であるならば、それも第三静慮の支であるのか。 答える。四句に分類して答えるべきである。 第二静慮の支ではあるが第三静慮の支ではないものがある。それは「内等浄」「喜」「楽」である。 第三静慮の支ではあるが第二静慮の支ではないものがある。それは「捨」「念」「慧」「楽」である。 第二静慮の支でもあり第三静慮の支でもあるものがある。それは「心一境性」である。 第二静慮の支でもなく第三静慮の支でもないものがある。それは前のものを除いた残りである。 問う。第二静慮の支であるならば、それも第四静慮の支であるのか。 答える。四句に分類して答えるべきである。 第二静慮の支ではあるが第四静慮の支ではないものがある。それは「内等浄」「喜」「楽」である。 第四静慮の支ではあるが第二静慮の支ではないものがある。それは「不苦不楽」「捨」「念」である。 第二静慮の支でもあり第四静慮の支でもあるものがある。それは「心一境性」である。 第二静慮の支でもなく第四静慮の支でもないものがある。それは前のものを除いた残りである。 問う。第三静慮の支であるならば、それも第四静慮の支であるのか。 答える。四句に分類して答えるべきである。 第三静慮の支ではあるが第四静慮の支ではないものがある。それは「慧」「楽」である。 第四静慮の支ではあるが第三静慮の支ではないものがある。それは「不苦不楽」である。 第三静慮の支でもあり第四静慮の支でもあるものがある。それは「捨」「念」「心一境性」である。 第三静慮の支でもなく第四静慮の支でもないものがある。それは前のものを除いた残りである。 問う。軽安と行捨はすべての地に存在するのに、何ゆえに最初の二つの静慮では軽安を支として立てて、行捨を立てないのか。第三と第四の静慮では行捨を支として立てて、軽安を立てないのか。 答える。先に述べたように、「随順する」ことが支の意味だからである。すなわち、軽安は最初の二つの静慮にのみ随順するので、それを支として立てる。行捨は第三と第四の静慮にのみ随順するので、それを支として立てるのである。 また、互いに覆い隠すからである。すなわち、最初の二つの静慮では軽安の働きが優れていて、行捨を覆い隠すので、それを支として立てる。第三と第四の静慮では行捨の働きが優れていて、軽安を覆い隠すので、それを支として立てるのである。 問う。何ゆえにこの二つは互いに覆い隠すことができるのか。 答える。この二つの働き方は互いに相反するからである。すなわち、軽安の特徴は軽やかで浮き立つこと、行捨の特徴は沈み静まることである。同時に存在する場合、互いに相反する。たとえば、一人の人が同時に歩くこともできず、立つこともできず、眠ることもできず、目覚めていることもできないように、本来は相反的である。しかし、善心の中では対治する対象がそれぞれ異なるので、同時に生じることができるのである。すなわち、軽安は昏沈を対治し、行捨は掉挙を対治する。 また、欲界の五識身と、それによって引き起こされる身体の重だるさを対治するために、初静慮では軽安を支として立てる。初静慮の三識身と、それによって引き起こされる身体の重だるさを対治するために、第二静慮では軽安を支として立てる。第二と第三の静慮には粗い識身と、それによって引き起こされる身体の重だるさという対治すべきものがないので、第三と第四の静慮では軽安を支として立てないのである。それらの地では軽安を支として立てないので、行捨を支として立てるのである。 また、最初の二つの静慮には染汚された喜があり、身心を揺り動かすので、世尊は「軽安を修習すべきであり、捨にとどまるべきではない」と説かれた。それゆえ、最初の二つの静慮では軽安のみを支として立てるのである。第三と第四の静慮には染汚された喜がなく、身心を揺り動かすこともないので、世尊は「ただ捨にとどまるべきであり、軽安を修習すべきではない」と説かれた。それゆえ、第三と第四の静慮では行捨のみを支として立てるのである。 また、最初の二つの静慮の軽安には原因がある。すなわち、諸々の善喜である。経典に「心に喜びがあれば、身体は軽安となる」と説かれているように。それゆえ、最初の二つの静慮では軽安のみを支として立てるのである。第三と第四の静慮の軽安には原因がない。すなわち、善喜がないので、ただ捨にとどまるべきである。それゆえ、それらの地では行捨のみを支として立てるのである。 また、第三静慮では非常に優れた喜を捨て去り、第四静慮では非常に優れた楽を捨て去る。それゆえ、これらの地では行捨のみを支として立てる。最初の二つの静慮では行捨を支として立てないので、軽安を支として立てる。これには矛盾がないのである。 問う。内等浄はすなわち信であり、すべての地に存在するのに、何ゆえに第二静慮のみに支として立てるのか。 答える。先に述べたように、「随順する」ことが支の意味だからである。すなわち、信は第二静慮にのみ随順する。それゆえ、この地にのみ信を支として立てるのである。 また、初静慮には尋伺が火のようなものであり、身識が泥のようなものであって、心の相続を熱く悩ませ、濁らせて乱し、信を明らかで清らかでなくする。たとえば熱い泥の中では顔の像が現れないのと同じである。第二静慮には尋伺という火や識身という泥がないので、心の相続の中で信の相が明らかで清らかになる。たとえば清らかで冷たい水の面には顔の像が現れるのと同じである。それゆえ、この地に内等浄という支を立てるのである。第三静慮には非常に優れた悦の受があり、第四静慮には優れた捨の受があって、心の相続を覆い、信の相を顕わさないので、それらの地と初静慮には内等浄の支を立てないのである。 また、第二静慮では、修行者たちが、離染の中ではじめて信が最も勝れることを生じる。それゆえ、この地にのみ内等浄の支を立てるのである。すなわち、修行者が欲界の染を離れ、初静慮を現在前に現じたとき、このように思惟する。「私はすでに不定界の染を離れたが、諸々の定地の染は離れることができるだろうか」と。その後、再び初静慮の染を離れて第二静慮を現在前に現じたとき、界と地の染が共に離れることができる中で、初めて大きな信を生じる。「欲界の染を私がすでに離れることができたのだから、色界と無色界の染も必ず離れることができるだろう。初静慮の染を離れることができたのだから、非想非非想処の染も必ず離れることができるだろう」と。初静慮を現在前に現じたときには、まだ定まった信を生じていない。後の二つの静慮を現在前に現じたときには、定まった信があるが、初めてではないので、信の相が顕わにならない。それゆえ、これらの地には内等浄の支を立てないのである。 また、増上の信を起こすには、必ず大きな喜の原因に依る。喜があれば信は必ず堅固である。第二静慮には非常に優れた喜があるので、この地にのみ内等浄の支を立てるのである。 問う。慧はすべての地に存在するのに、何ゆえに第三静慮のみに支として立てるのか。 答える。先に述べたように、「随順する」ことが支の意味だからである。すなわち、慧は第三静慮にのみ随順する。それゆえ、その地にのみ正慧の支を立てるのである。 また、第三静慮には快適で悦びの受がある。諸々の快適な受の中でも、これが最も優れている。この受に耽着するので、修行者たちは上の地の優れた法を欣求しようとしない。この受はまさに自地の留難である。これを対治するために正慧の支を立てる。それゆえ、世尊はこのように説かれた。「正慧をもってこの楽を覚りなさい。固く貪着して上の地を求めないことがあってはならない」と。上下の地の中には、この地のように自地の極めて優れた楽が留難となるものはない。それゆえ、それらの地では正慧を支として立てないのである。 また、初静慮には粗い尋伺が正慧を覆い妨げる。第二静慮には非常に勝れた喜びの躍動が正慧を覆い妨げる。第四静慮には優れた捨の受が正慧を覆い妨げる。なぜなら、勝れた捨の受は無明の分であり、正慧は明である。明と無明の分は互いに害し合うからである。それゆえ、これらの地では正慧を支として立てないのである。第三静慮には、それらのように正慧を覆う法がないので、それを支として立てるのである。 問う。念はすべての地に存在するのに、何ゆえに後の二つの静慮にのみ念を支として立てるのか。 答える。先に述べたように、「随順する」ことが支の意味だからである。すなわち、念は後の二つの静慮にのみ随順する。それゆえ、それらの地にのみ念を支として立てるのである。 また、後の二つの静慮には、それぞれ地ごとに増上の留難がある。それを対治するために念を支として立てるのである。他の地はそうではない。すなわち、第二静慮には非常に勝れた喜があり、軽く躁いで、人を漂わせ沈める。たとえば羅刹がそうであるように、修行者たちはこれによって衰退し、堅固になることができず、自地の染を離れることができない。それを対治するために、第三静慮では念を支として立てるのである。それゆえ、世尊はこのように説かれた。「正念にとどまりなさい。下地の喜に漂われて、自地を退失することがあってはならない」と。第三静慮には非常に勝れた楽がある。生死の楽の中でも、これが最も勝れている。修行者を妨げること、あたかも偽りの親しい怨敵のようである。修行者たちはこれによって衰退し、堅固になることができずに、自地の染を離れることができない。それを対治するために、第四静慮では念を支として立てるのである。それゆえ、世尊はこのように説かれた。「正念にとどまりなさい。下地の楽に妨げられて、自地を退失することがあってはならない」と。 また、初静慮には粗い尋伺があって、あたかも暴風のようであり、正念を覆い妨げる。第二静慮には非常に勝れた喜びの躍動があって、あたかも水の波濤のようであり、正念を覆い妨げる。それゆえ、これらの地では正念を支として立てないのである。後の二つの静慮にはこのような過失がない。それゆえ、これらの地では正念を支として立てるのである。 問う。静慮支であるならば、それも菩提分であるのか。 答える。四句に分類して答えるべきである。 静慮支ではあるが菩提分ではないものがある。それは「伺」「楽受」「捨受」である。 菩提分ではあるが静慮支ではないものがある。それは「精進」「正語」「正業」「正命」である。 静慮支でもあり菩提分でもあるものがある。それはその他の菩提分法である。 静慮支でもなく菩提分でもないものがある。それは前のものを除いた残りである。 問う。何ゆえに「伺」「楽受」「捨受」を菩提分として立てないのか。 答える。覆い隠されて損なわれるからである。すなわち、伺は正思惟によって覆い隠されて損なわれる。楽受は軽安の楽によって覆い隠されて損なわれる。捨受は行捨によって覆い隠されて損なわれる。それゆえ、これらを菩提分法として立てないのである。 問う。それでは、何ゆえに静慮支としては立てるのか。 答える。菩提分の中では、正見を策励するために、正思惟を菩提分として立てる。伺は行相が細かく、正見を策励する中で、尋によって覆い隠されて損なわれるので、静慮支として立てるのである。下地の悪しき不善法を遮り、互いに覆い隠して損なうことがないようにするために、菩提分の中では、軽安と楽受が同一の刹那に互いに覆い隠して損なうことがある。静慮支の中では、地によって別々に立てるので、覆い隠して損なうという意味がない。菩提分の中では、行捨と捨受が同一の刹那に互いに覆い隠して損なうことがある。静慮支の中では、対治と利益の支の働きがそれぞれ別々であり、互いに覆い隠して損なうことがないのである。 問う。何ゆえに精進は静慮支ではないのか。 答える。諸々の静慮支は自地に随順して勝れるものであるが、精進は他地に随順して勝れるものであるからである。すなわち、初静慮の精進は第二静慮に随順して勝れる。このようにして、無所有処の精進は非想非非想処に随順して勝れる。それゆえ、精進は静慮支として立てないのである。 また、精進は三摩地の因を損なうものである。三摩地の因とは、すなわち勝れた楽である。経典に「楽であるがゆえに心は定まる」と説かれているように。精進に勤める者は身心に多くの苦がある。三摩地を修する者は身心に多くの楽がある。それゆえ、精進は静慮支ではないのである。 問う。何ゆえに「正語」「正業」「正命」は静慮支ではないのか。 答える。静慮支とは、静慮と相応して境に住するものであり、必ず所依・所縁・行相・警覚があって、はじめて「相応」と名づけられる。正語・正業・正命にはそのような意味がない。それゆえ、静慮支として立てないのである。この四つの相や、諸々の得などの不相应法も、すべて静慮支として立てるべきではない。等持を助けて一境に住することがないからである。 問う。何ゆえに「慚」「愧」「無貪」「無瞋」「不放逸」「不害」などは静慮支ではないのか。 答える。諸々の静慮に非常に随順するものではないからである。これらの善法は、多くは欲界の散地の悪法に対する近い対治であって、勢力が強いが、定地のためのものではない。それゆえ、静慮支として立てないのである。 問う。心・想・思などは、何ゆえに静慮支として立てないのか。 答える。諸々の静慮に非常に随順するものではないからである。心は流転に随順し、定は還滅に随順する。それゆえ、心は静慮支として立てないのである。 また、心は勝れて王のようなものであり、諸々の心所法はすべて臣下のようである。定は心所であるので、心は静慮支として立てない。たとえば、諸々の国王は臣下に仕えることがないように。 想・思・触・欲はすべて流転に随順し、その働きが特に勝れているが、定は還滅に随順する。それゆえ、これらは静慮支として立てないのである。 作意はただ欲界の散地にのみあり、境に対する働きが勝れるが、諸々の定地のためのものではない。それゆえ、これも静慮支として立てないのである。 勝解はただ無学位にのみ勝れ、静慮はすべての位に勝れる。それゆえ、勝解は静慮支として立てないのである。 また、ここでは、諸々の静慮支を四念住・四正断・四神足・五根・五力・七等覚支・八聖道支と、相互に摂め合う関係にあるものとして説明すべきである。 また、初静慮の支から第四静慮の支までを、菩提分法と相互に摂め合う関係にあるものとして説明すべきである。 また、初静慮の支から第四静慮の支までを、四念住から八聖道支までと、相互に摂め合う関係にあるものとして説明すべきである。 それぞれの相に従って、一つ一つ詳しく説くべきである。

問靜慮近分及無色定為立支不。若立支者此何不說。若不立者施設論說當云何通。如說。頗有空無邊處定。於空無邊處定根勝道勝定勝而支等耶。答有。謂從空無邊處定起無間。復入空無邊處定。有作是說。靜慮近分及無色定亦建立支。問若爾善通施設論說。今於此中何故不說。答理亦應說而不說者。應知此中是有餘說。謂初靜慮近分如根本亦有五支。然除喜受增捨受。第二靜慮近分如根本亦有四支。亦除喜受增捨受。第三靜慮近分如根本亦有五支。然除樂受增捨受。第四靜慮近分。及無色定。如根本第四靜慮皆亦有四支。評曰。應作是說。靜慮近分及無色定皆不立支。功德少故苦道攝故。問若爾善通此中所說。施設論說當云何通。答依因長養故說為勝。言支等者。謂覺道支。

> 問う：静慮の近分と無色定に、支分を立てるべきか。もし支分を立てるならば、なぜここで説かないのか。もし立てないならば、施設論の説はどのように通じるのか。例えばこう言う：「空無辺処定があって、空無辺処定において根が勝れ、道が勝れ、定が勝れ、しかも支分は等しいか。」答え：有り。すなわち、空無辺処定から起って間を置かず、再び空無辺処定に入ることである。 ある者はこう説く：「静慮の近分と無色定にも、支分を立てるべきである。」問う：もしそうならば、施設論の説をよく通じるが、今ここではなぜ説かないのか。答え：理としては説くべきであるが、説かないのは、これは余説（一部の説）であると知るべきである。すなわち、初静慮の近分は、根本のように五支がある。しかし喜受を除いて捨受を加える。第二静慮の近分は、根本のように四支がある。また喜受を除いて捨受を加える。第三静慮の近分は、根本のように五支がある。しかし楽受を除いて捨受を加える。第四静慮の近分と無色定は、根本の第四静慮のように、皆四支がある。 評して言う：「静慮の近分と無色定には、皆支分を立てないと説くべきである。功徳が少ないからであり

問何故初及第三靜慮俱立五支。第二第四靜慮俱立四支耶。答前說隨順是支義故。謂四靜慮各有爾所。能隨順法不增不減。復次欲界諸惡難斷難破難可越度。故初靜慮建立五支為牢強對治。第二靜慮重地極喜。難斷難破難可越度。第三靜慮建立五支為牢強對治。初及第三靜慮俱無如是難斷難破難越度法。是故第二第四靜慮唯立四支。以彼俱不假牢強對治故。復次為對治欲界增上五欲境貪故。初靜慮立五支。為對治第二靜慮五部重地喜愛故。第三靜慮亦立五支。初及第三靜慮。俱無如是所對治故。第二第四靜慮俱唯立四支。復次為欲隨順超定法故。謂從五支定超入五支定。復從四支定超入四支定。以支等者易可超入。問若從第三靜慮超入空無邊處。復從第四靜慮超入識無邊處。彼俱無支云何隨順。答諸外內事初作時難。後成辦時不假隨順。且外事者如遮諾迦與臣懷月。十二年中學造金法。初成一粒如穬麥量。便師子吼。我等今者能造金山。言內事者。如瑜伽師修神境通。初學離地如半苣蕂。次復離地如一苣蕂。如是漸漸半麥一麥。半指一指半搩一搩。半肘一肘半尋一尋。彼後成時隨心欲往色究竟天自在能往。超定亦爾初時難故假支齊等。後時易故設不立支亦能超入。故初第三各立五支。第二第四各立四支。如契經說。苾芻當知。有四天道能令有情未淨者淨淨者轉明。問何故世尊作如是說。答欲令有情於生天道。深生厭怖欣求安住勝義天道。生天者。謂三十三天。彼有四苑莊嚴殊妙。一名眾車。二名麁惡。三名歡喜。四名雜林。如是四苑有四衢道。天諸婇女遊集其中。諸勝美人於中遊止。種種音樂恒時擊奏。安置種種餚膳飲食。寶樹行列枝條蔭映。花葉茂盛香氣氛氳。果實繁多光淨甘美。隨欲變鳥雅韻和鳴。諸天於中受諸欲樂。遊戲既畢相與入苑。於此正法毘奈耶中。擇滅涅槃如彼天苑。四妙靜慮如四衢道。通明婇女遊集其中。解脫無礙美人遊止。三藏音樂恒時擊奏。安置淨喜餚膳飲食。菩提分法寶樹行列。無量解脫勝處遍處。枝條蔭映覺支道支。花葉茂盛諸妙淨戒。香氣氛氳諸沙門果。光淨甘美學與無學。隨欲變鳥雅韻和鳴。眾聖於中受勝定樂。遊戲既畢俱入涅槃云何名為四種天道。謂離欲惡不善法有尋有伺。離生喜樂初靜慮具足住。是名第一天道離欲惡不善法者。問得初靜慮時總離欲界一切法。何故但說離欲惡不善法耶。答惡不善法以為上首。總離欲界故作是說。復次惡不善法違害聖道自性應斷。彼若斷已不復成就。是故偏說。諸有漏善無覆無記。不違聖道非自性斷。彼若斷已猶可成就。是故不說。然有漏善無覆無記。斷惡不善時亦隨說斷。同一對治故一時斷故。如燈違暗非炷油器。而破暗時亦能燒炷盡油熱器。復次惡不善法難斷難破難可越度。是故偏說。復次惡不善法多諸過患熾盛堅牢。是故偏說。復次惡不善法離欲染時。極為障礙留難繫縛。如暴獄卒故偏說之。復次諸瑜伽師專為斷彼惡不善法修初靜慮。是故偏說。復次諸瑜伽師憎惡彼故總捨欲界。故偏說離惡不善法。復次惡不善法上地所無故偏說離。由如是等種種因緣唯說離欲惡不善法。問此中何者是欲。何者是惡不善法耶。答事具欲是欲。煩惱欲是惡不善法。復次欲。謂五欲。惡不善法。謂五蓋。復次欲。謂欲愛。惡不善法。謂欲界諸餘煩惱。復次欲。謂欲尋。惡不善法。謂恚害尋。復次欲。謂欲界。惡不善法。謂恚害界。復次欲。謂欲想。惡不善法。謂恚害想。復次欲。謂欲愛。惡不善法。謂即欲愛。此即說離種種欲愛。有尋有伺者與尋俱法名有尋。與伺俱法名有伺。離生者。問上地中離勝妙清淨過初靜慮。何故唯說此名離生。答此中舉初以顯後故。作如是說。世尊有處舉後顯初。如說。云何非自他害。謂在非想非非想處。如舉初後始入已度加行究竟應知亦爾。復次初得離生發希奇想。後時不爾故作是說。復次以初靜慮唯從離生。後諸靜慮亦從定生。從離生故名為離生。如水生者說名水生。陸地生者說名陸生。復次初靜慮離二無漏定為眷屬故。獨名離生。謂未至定靜慮中間。復次初靜慮離是後離門。所依加行因本道路。及安足處獨得離名。復次初靜慮離牽引任持。長養後離獨得離名。復次初靜慮離是後諸離生緣集起獨得離名。復次上地諸離決定依止初靜慮離得及前起故。初靜慮獨得離名。復次諸瑜伽師離欲界染起初靜慮現在前時。歡喜踊躍勝於後時故。獨名離。如飢渴人初得飲食。雖復麁惡而生歡喜。勝於後時得美飲食。復次三種行者依初靜慮得入離生。得果練根及盡諸漏故獨名離。三種行者。謂具縛者。分離欲者。全離欲者。復次為令疑者得決定故。獨立離名。如欲界中有尋有伺。有諸識身尊卑眷屬。初靜慮中亦有此事。或有生疑如欲界無離。初靜慮亦爾。為決此疑說初靜慮有離非欲。復次欲界無離近對治彼。故初靜慮獨立離名。復次唯初靜慮能離三界一切煩惱獨立離名。復次唯初靜慮有四沙門果道。九遍知果道。具三十七菩提分法故獨名離。復次唯初靜慮能離所有。苦根憂根男根女根無慚無愧食愛婬愛。五蓋五欲慳貪嫉恚。五蘊十二處及十八界等故獨名離。由如是等種種因緣。唯初靜慮獨名離生。喜樂者。喜謂喜根樂謂輕安樂。復次喜受蘊攝。樂行蘊攝。初靜慮具足住者。謂得獲成就初靜慮善五蘊。得獲成就名具足住。

> 問う：なぜ初靜慮と第三靜慮はともに五支を立て、第二靜慮と第四靜慮はともに四支を立てるのか。 答え：先に述べたように、随順することが支の意味だからである。つまり、四靜慮にはそれぞれ、その數に応じた隨順の法があり、増えもせず減りもしない。 また、欲界の諸々の悪は斷ち難く、破り難く、越え難い。それゆえ初靜慮には五支を立てて、強固な対治とする。第二靜慮は重い地であり、極めて喜びやすい。斷ち難く、破り難く、越え難い。第三靜慮には五支を立てて、強固な対治とする。初靜慮と第三靜慮には、このような斷ち難く破り難く越え難い法がない。それゆえ第二と第四の靜慮にはただ四支のみを立てる。それらはどちらも強固な対治を要しないからである。 また、欲界の増上する五欲の境への貪りを対治するために、初靜慮には五支を立てる。第二靜慮の五部の重い地の喜と愛を対治するために、第三靜慮にも五支を立てる。初靜慮と第三靜慮には、このような対治すべきものがなく、第二と第四の靜慮にはただ四支のみを立てる。 また、超越定の法に隨順しようがためである。すなわち、五支の定から五支の定へと超越し、四支の定から四支の定へと超越する。支が等しいならば、超越して入ることが容易だからである。 問う：もし第三靜慮から空無邊處に超越し、第四靜慮から識無邊處に超越するならば、それらには支がない。どうして隨順と言えるのか。 答え：內外の事柄は、初めに作る時は難しいが、後に成し遂げる時には隨順を要しない。例えば、遮諾迦という人が臣の懷月とともに十二年間、金を造る法を學んだ。初めに一つの粒を麥の大きさほどに作った時、「我々は今や金山を造れる」と獅子吼した。內の事で言えば、瑜伽師が神境通を修する時、初めに地を離れること半ゴマの大きさ、次に一ゴマの大きさ、と次第に半麥、一麥、半指、一指、半手、一手、半肘、一肘、半尋、一尋と離れる。後に成し遂げた時には、心のままに色究竟天に往くことを欲すれば、自在に往ける。超越定もまたこのようである。初めは難しいから支が等しいのを必要とするが、後には易しいから、たとえ支を立てなくても超越して入ることができる。それゆえ初靜慮と第三靜慮には各五支を立て、第二と第四の靜慮には各四支を立てる。 經に説くように、「比丘たちよ、知るがよい。四つの天道があり、有情をして未だ淨ならざるものを淨からしめ、淨きものをさらに明らかにせしめる」と。 問う：なぜ世尊はこのように説いたのか。 答え：有情をして生天道に深く厭怖し、勝義の天道に安住することを欣い求めるようにさせようがためである。生天とは、三十三天をいう。彼らには四つの苑があり、莊厳で殊妙である。一つを衆車、二つを麁惡、三つを歡喜、四つを雜林という。この四つの苑には四つの衢道がある。天の婇女たちがその中に集まり遊び、勝れた美女たちがその中で遊び止まる。種々の音樂が常に奏でられ、種々の饗膳や飲食が安置されている。寶樹が列をなし、枝條が蔭り映え、花や葉が盛んに茂り、香りが芬芬と漂い、果實が多く、光澤があり、淨く、甘美である。心のままに鳥と變じ、雅やかな韻を以て和やかに鳴く。諸天はその中で諸々の欲樂を受け、遊戲が終わると共に苑に入る。 この正法毘奈耶の中にあっては、擇滅涅槃がかの天苑のようなものである。四つの妙靜慮が四つの衢道のようなものである。通明の婇女がその中に集まり遊び、解脱・無礙の美人が遊び止まる。三藏の音樂が常に奏でられ、淨喜の饗膳や飲食が安置されている。菩提分法の寶樹が列をなし、無量の解脱・勝處・遍處が枝條として蔭り映え、覺支と道支が花や葉として盛んに茂り、諸々の妙淨戒が香りとして芬芬と漂い、諸々の沙門果が光澤があり淨く甘美である。學と無學が心のままに鳥と變じ、雅やかな韻を以て和やかに鳴く。眾聖はその中で勝れた定の樂を受け、遊戲が終わると共に涅槃に入る。 何をもって四種の天道というのか。すなわち、欲を離れ、惡不善法を離れ、尋を有し伺を有し、離より生じる喜と樂を以て、初靜慮を具足して住する。これを第一天道という。 「欲を離れ、惡不善法を離れる」とは、問う：初靜慮を得る時は、總じて欲界の一切の法を離れる。なぜただ欲と惡不善法を離れるとだけ說くのか。 答え：惡不善法を上首とする。總じて欲界を離れるから、このように說くのである。 また、惡不善法は聖道に違背し、自性として斷ずべきものである。それらが斷たれれば、再び成就することはない。それゆえに特に說くのである。諸々の有漏善と無覆無記は、聖道に違背せず、自性として斷ずべきものではない。それらが斷たれても、なお成就し得る。それゆえには說かないのである。しかし、有漏善と無覆無記も、惡不善法を斷ずる時には、それに隨って說斷される。同一の対治であり、一時に斷ぜられるからである。燈が暗を破る時、炷や油や器を違えることなく、しかし暗を破る時には、炷を燒き盡くし油を盡くし器を熱するようなものである。 また、惡不善法は斷ち難く、破り難く、越え難い。それゆえに特に說くのである。 また、惡不善法は多くの過患があり、熾盛で堅牢である。それゆえに特に說くのである。 また、惡不善法は欲染を離れる時、非常に障礙となり、留難し、繫縛する。暴なる獄卒のようであるから、特に說くのである。 また、諸々の瑜伽師は專らその惡不善法を斷たんがために初靜慮を修する。それゆえに特に說くのである。 また、諸々の瑜伽師はそれを憎惡するがゆえに、總じて欲界を捨てる。それゆえに特に「惡不善法を離れる」と說くのである。 また、惡不善法は上地にはないから、特に「離れる」と說くのである。 このような種々の因緣によって、ただ「欲を離れ、惡不善法を離れる」とのみ說くのである。 問う：ここで何が欲であり、何が惡不善法であるのか。 答え：事具欲は欲であり、煩惱欲は惡不善法である。 また、欲とは五欲であり、惡不善法とは五蓋である。 また、欲とは欲愛であり、惡不善法とは欲界のその餘の煩惱である。 また、欲とは欲尋であり、惡不善法とは恚尋と害尋である。 また、欲とは欲界であり、惡不善法とは恚界と害界である。 また、欲とは欲想であり、惡不善法とは恚想と害想である。 また、欲とは欲愛であり、惡不善法とはすなわちその欲愛である。これは種々の欲愛を離れることを說くのである。 「尋を有し伺を有する」とは、尋と俱なる法を有尋と名づけ、伺と俱なる法を有伺と名づける。 「離より生ずる」とは、問う：上地における離は勝妙で清淨であり、初靜慮を超えている。なぜただこれのみを離生と名づけるのか。 答え：ここでは初を舉げて後を示すのである。このように說くのである。世尊は處によっては後を舉げて初を示す。例えば「何をもって自他を害さないというのか。非想非非想處に在ることである」と說くように。初を舉げ、後を舉げるように、始めに入り、已に度し、加行と究竟についても同じように知るべきである。 また、初めて離生を得る時には希奇の想を發するが、後にはそのようでないから、このように說くのである。 また、初靜慮はただ離からのみ生ずるが、後の諸靜慮は定からも生ずる。離から生ずるから離生と名づける。水から生ずるものを水生と說き、陸地から生ずるものを陸生と說くようなものである。 また、初靜慮は二つの無漏定を眷屬とするから、特に離生と名づける。未至定と靜慮中間である。 また、初靜慮の離は後の離の門、所依、加行、因、本、道、および安足處であるから、獨り離の名を得る。 また、初靜慮の離は後の離を牽引し、任持し、長養するから、獨り離の名を得る。 また、初靜慮の離は後の諸の離が生じ、集まり、起きる緣であるから、獨り離の名を得る。 また、上地の諸の離は決定的に初靜慮の離に依止し、またそれから得られ、前に起きるから、初靜慮は獨り離の名を得る。 また、諸々の瑜伽師が欲界の染を離れて初靜慮を現在前させる時、歡喜踴躍することは後よりも勝れているから、獨り離と名づける。飢渇した人が初めて飲食を得る時、たとえ粗悪であっても歡喜を生ずることは、後によりも勝れた飲食を得る時よりも勝れているようなものである。 また、三種の行者が初靜慮に依って離生に入り、果を得、根を練り、諸漏を盡くすから、獨り離と名づける。三種の行者とは、具縛者、分離欲者、全離欲者である。 また、疑う者に決定を得させるために、獨立に離の名を立てる。欲界には尋があり伺があり、諸の識身があり、尊卑の眷屬がある。初靜慮にもこの事がある。あるいは「欲界には離がないように、初靜慮もまたそうである」と疑う者があるかもしれない。この疑いを決するために、初靜慮には離があり欲にはないと說くのである。 また、欲界には離がなく、近くそれに対治するものがないから、初靜慮は獨立に離の名を立てる。 また、ただ初靜慮のみが三界の一切の煩惱を離れることができるから、獨立に離の名を立てる。 また、ただ初靜慮のみが四沙門果の道、九遍知の果道、三十七菩提分法を具えているから、獨り離と名づける。 また、ただ初靜慮のみが、所有の苦根、憂根、男根、女根、無慚、無愧、食愛、婬愛、五蓋、五欲、慳貪、嫉恚、五蘊、十二處、十八界などを離れることができるから、獨り離と名づける。 このような種々の因緣によって、ただ初靜慮のみが獨り離生と名づけられるのである。 「喜樂」とは、喜とは喜根であり、樂とは輕安樂である。また、喜は受蘊に攝せられ、樂は行蘊に攝せられる。 「初靜慮を具足して住する」とは、初靜慮の善五蘊を得、獲、成就することをいう。得、獲、成就することを具足住と名づける。

復次尋伺滅內等淨心一趣。無尋無伺定生喜樂。第二靜慮具足住。是名第二天道尋伺滅者。問得第二靜慮時。總滅初靜慮一切法。何故但說尋伺滅耶。答以尋伺為上首。總滅初靜慮故作是說。復次尋伺難斷難破難可越度。是故偏說。復次尋伺多諸過患。熾盛堅牢。是故偏說。復次尋伺離初靜慮染時。極為障礙留難繫縛。如暴獄卒故偏說之。復次諸瑜伽師專為斷尋伺。修第二靜慮。是故偏說。復次諸瑜伽師憎惡尋伺故。總捨初靜慮故偏說之。復次尋伺上地所無。是故偏說。由如是等種種因緣但說尋伺滅內等淨者。內謂心等。淨謂信。由信平等令內心淨故名內等淨。尊者世友作如是說。尋伺躁動擾亂定心。信能除彼令心等淨。如波浪息水則澄清。是故說信名內等淨。復作是說。染喜騰躍渾濁定心。信能除彼令心等淨。如離泥濁水則澄清。是故說信名內等淨。大德法救作如是說。行者將入第二靜慮。心於定境信向樂住。不流馳散久住一境。得第二定斯有是處。此由信力。是故說信名內等淨。心一趣者。謂一門轉非如欲界心六門轉。初靜慮中心四門轉。第二靜慮心一門轉故名一趣。即是心行一境界義。無尋無伺者。謂尋伺已滅定生者。問初靜慮亦有定。何故唯說第二靜慮名定生耶。答第二靜慮等持增盛勝妙清淨。過初靜慮。是故偏說復次第二靜慮定所引發定所長養。初靜慮後現在前故。名為定生。非如初靜慮。非定所引發。非定所長養。欲界心後現在前故。不名定生。復次初靜慮心有定不定。有內門轉有外門轉。有緣內事有緣外事。第二靜慮心多在定。多唯內門轉。唯緣內事故名定生。復次第二靜慮滅語言本。語言本者。謂尋與伺。如契經說。要尋伺已能發語言。非不尋伺。第二靜慮尋伺已滅無語言本故說定生。復次第二靜慮名聖默然。故名定生。如契經說。佛告目連。汝等勿輕第二靜慮。此是聖者默然法故。由如是等種種因緣定生。唯在第二靜慮。喜樂者。喜謂喜根。樂謂輕安樂。復次喜受蘊攝。樂行蘊攝。第二靜慮具足住者。得獲成就第二靜慮善五蘊得獲成就名具足住。

> 次に、尋と伺が滅した時、内側が清らかに静まり、心は一つの対象に向かって集中します。尋も伺もない境地で、そこには喜びと楽が生じます。これが第二静慮であり、その境地を完全に体得して安住します。これを第二の天道における尋伺の滅といいます。 問い：第二静慮を得た時には、初静慮のすべての法が共に滅するはずです。なぜ尋と伺の滅だけを特に説くのですか。 答え：尋と伺が最も主要なものであり、初静慮のすべての法が共に滅することを示すために、このように説くのです。 また、尋と伺は断ち難く、打ち破り難く、乗り越え難いものです。それゆえに特に説くのです。 また、尋と伺には多くの過失や害があり、激しく燃え盛り、堅固でしっかりとしています。それゆえに特に説くのです。 また、尋と伺は初静慮の煩悩から離れる時、非常に大きな障りとなり、妨げとなり、束縛となります。まるで暴虐な看守のようなものですから、特に説くのです。 また、修行者たちは特に尋と伺を断つために第二静慮を修習します。それゆえに特に説くのです。 また、修行者たちは尋と伺を嫌悪し、初静慮全体を捨てるからです。それゆえに特に説くのです。 また、尋と伺は上の境地には存在しません。それゆえに特に説くのです。 このように様々な理由から、尋と伺の滅だけを説くのです。 「内等浄」とは、「内」は心などを意味し、「浄」は信を意味します。信によって心が平等になり、内側が清らかになるので、「内等浄」と呼ばれます。 尊者世友はこう説いています。「尋と伺は心を騒がせ動揺させ、定まった心を乱します。信はそれらを取り除き、心を平等に清らかにします。ちょうど波が静まれば水が澄むように。だから信を『内等浄』と呼ぶのです。」 また、こうも説いています。「染められた喜びは心を躍らせ濁らせ、定まった心を濁します。信はそれらを取り除き、心を平等に清らかにします。ちょうど泥や濁りがなければ水が澄むように。だから信を『内等浄』と呼ぶのです。」 大德法救はこう説いています。「修行者が第二静慮に入ろうとする時、心は定めの対象に対して信頼し、楽しく安住し、外に散らばることなく、一つの対象に長く留まります。こうして第二の定を得ることができるのです。これは信の力によるものです。だから信を『内等浄』と呼ぶのです。」 「心一趣」とは、心が一つの門を通って働くことを意味します。欲界では心が六つの門を通って働くのとは異なります。初静慮では心が四つの門を通って働きますが、第二静慮では心が一つの門だけを通って働くので、「一趣」と呼びます。つまり、心が一つの対象だけに向かって進むという意味です。 「無尋無伺」とは、尋と伺がすでに滅したことを意味します。 「定生」についての問い：初静慮にも定はあります。なぜ第二静慮だけを特に「定生」と呼ぶのですか。 答え：第二静慮の等持（心の統一）は、より増大し、勝れ、妙で、清らかであり、初静慮を超えています。それゆえに特にそう呼ぶのです。 また、第二静慮は定によって引き起こされ、定によって育てられます。初静慮の後に現れるからです。初静慮は定によって引き起こされたものではなく、定によって育てられたものでもなく、欲界の心の後に現れるので、「定生」とは呼ばれません。 また、初静慮の心は定まった状態と定まらない状態があり、内側に向かって働くことも外側に向かって働くこともあり、内側の事柄に触れることも外側の事柄に触れることもあります。しかし第二静慮の心は、ほとんど常に定の中にあり、ほとんど常に内側だけに向かって働き、内側の事柄だけに触れます。だから「定生」と呼ばれるのです。 また、第二静慮では言葉の根源が滅します。言葉の根源とは、尋と伺のことです。経典にこう説かれています。「尋と伺があって初めて言葉を発することができる。尋と伺がなければ言葉は発せられない。」第二静慮では尋と伺が滅し、言葉の根源がないので、「定生」と呼ばれるのです。 また、第二静慮は聖者の沈黙と呼ばれます。だから「定生」と呼ばれるのです。経典にこう説かれています。「仏は目連に告げた。『あなたたちは第二静慮を軽んじてはならない。これは聖者の沈黙の教えだからである。』」 このように様々な理由から、「定生」という言葉は第二静慮にのみ当てはまるのです。 「喜楽」とは、「喜」は喜びの根（感受性）を意味し、「楽」は軽やかな安らぎを意味します。 また、「喜」は感受性の集まり（受蘊）に含まれ、「楽」は行為の集まり（行蘊）に含まれます。 「第二静慮具足住」とは、第二静慮の善い五蘊（色・受・想・行・識）を得て、獲得し、成就することを「具足住」と呼びます。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第八十

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