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title: "阿毘達磨大毘婆沙論 · 11"
description: "阿毘達磨大毘婆沙論是佛教重要論典，由五百大阿羅漢集體編撰，唐代高僧玄奘譯為中文。該論形成於公元2世紀左右，屬說一切有部根本論書，系統闡釋《發智論》要義，涵蓋佛法名相、修行次第與教理體系。全書以問答形式展開，詳細辨析諸法實相，被視為部派佛教時期最具權威性的阿毘達磨論著之一。玄奘譯本共二百卷，保存了印度佛教鼎盛時期的思想精華，對漢傳佛教教理研究影響深遠，是理解說一切有部哲學體系的核心文獻，在佛教思想史上佔有重要地位。"
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## 阿毘達磨大毘婆沙論卷第八十一

> 阿毘達磨大毘婆沙論 巻第八十一

五百大阿羅漢等造

> 五百大阿羅漢等造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 結蘊第二中十門納息第四之十一

> 諸蘊第二中十門納息第四之十一

復次離喜住捨。正念正慧身受樂。聖應說捨第三靜慮具足住。是名第三天道離喜者。問得第三靜慮時。總離第二靜慮諸有漏法。何故但說離喜耶。答以喜為上首。總離第二靜慮諸有漏法故偏說喜。復次以喜難斷難破難可越度故偏說之。復次以喜多諸過患。熾盛堅牢。是故偏說。復次以喜離第二靜慮染時。極為障礙繫縛留難。如暴獄卒故偏說之。復次諸瑜伽師專為對治喜故。修第三靜慮。是故偏說。復次諸瑜伽師憎厭喜故總捨第二靜慮故偏說之。復次喜上地無餘法容有故偏說喜。由如是等種種因緣。唯說離喜。住捨。正念正慧者。捨謂行捨。正念謂勝善念。正慧謂勝善慧。身受樂者。身謂意身。有作是說。意有樂時亦令大種所造色身有適悅樂。此即意識相應樂受名身受樂。聖應說捨者。聖謂諸佛及聖弟子。應為他說。應自住捨。問聖於諸地皆應說捨。何故唯說第三靜慮。答第三靜慮具自他地二種留難故偏說之。他地留難者。謂第二靜慮喜。漂沒輕躁如邏剎斯。能令瑜伽師於第二靜慮離染衰退。故說應捨。勿為此喜之所留難。自地留難者。謂第三靜慮樂。生死樂中此樂最勝。諸瑜伽師染著此樂。不求上地勝妙功德。故說道者為初習業諸瑜伽師。說此樂受是留難處不應染著。復次佛及弟子應為他說第三靜慮自地他地。留難過失勸他令捨。是故名為聖應說捨。謂為他說第三靜慮。有勝樂受。能令眾生染著迷悶。不求上地勝妙功德。汝等應住正念正知。勿為此樂之所留難。亦為他說第二靜慮。有勝喜受。能令眾生漂溺輕躁退失第二靜慮離染。汝等應住正念及捨。勿為此喜之所留難。如舊商主為新商人。說諸國邑所有過患。謂如是國如是邑中。多諸婬女博戲矯詐酒肆賊難應遠防之。勿令汝等喪失財貨。第三靜慮具足住者。謂得獲成就第三靜慮善五蘊。得獲成就名具足住。

> さらに、喜びを離れて、捨（しゃ）に住し、正念と正慧（しょうえ）を保ち、身体に楽を受ける。聖者は、捨を説くべきであると称し、第三静慮（だいさんじょうりょ）を具足して住する。これを第三天道と名づけ、喜びを離れるという。 問う：第三静慮を得る時、総じて第二静慮の諸々の有漏法（うろほう）を離れるのに、なぜ喜びだけを離れると説くのか。 答える：喜びが最も主要なものであるから、総じて第二静慮の諸々の有漏法を離れることを、喜びに偏って説くのである。 また、喜びは断じ難く、破り難く、越え難いものであるから、偏って説くのである。 また、喜びには多くの過患（かげん）があり、盛んで堅固であるから、偏って説くのである。 また、喜びは第二静慮の染（けがれ）を離れる時、非常に障害となり、束縛し、留難（るなん）する。まるで狂暴な獄卒のようであるから、偏って説くのである。 また、諸々の瑜伽師（ゆがし）は、専ら喜びを対治するために第三静慮を修するから、偏って説くのである。 また、諸々の瑜伽師は喜びを憎み厭うて、総じて第二静慮を捨てるから、偏って説くのである。 また、喜びは上地（じょうじ）には余りの法が容（い）れられることがないから、偏って喜びを説くのである。 このような種々の因縁によって、ただ喜びを離れるとのみ説くのである。 「捨に住す」とは、行捨（ぎょうしゃ）をいう。「正念」とは、勝れた善念をいう。「正慧」とは、勝れた善慧をいう。 「身に楽を受く」とは、身とは意身（いしん）をいう。ある者は説く、意に楽がある時、また大種（だいしゅ）によって造られた色身（しきしん）にも適悦の楽をもたらすと。これはすなわち意識に相応する楽受を、身に楽を受くると名づけるのである。 「聖者は捨を説くべきなり」とは、聖とは諸仏および聖弟子をいう。彼らは他のために説くべきであり、自らも捨に住すべきである。 問う：聖者は諸々の地すべてにおいて捨を説くべきなのに、なぜ第三静慮だけに説くのか。 答える：第三静慮は、自地（じじ）と他地（たじ）の二種の留難を具えているから、偏って説くのである。 他地の留難とは、第二静慮の喜びである。これは漂没し、軽躁（きょうそう）で、羅刹（らせつ）のようであり、瑜伽師をして第二静慮の離染（りぜん）において衰退せしめることができる。だから説く、捨てるべきであると。この喜びによって留難されることのないようにと。 自地の留難とは、第三静慮の楽である。生死の楽の中で、この楽が最も勝れている。諸々の瑜伽師はこの楽に染着して、上地の勝妙な功徳を求めない。だから説く、道を行う者よ、初めて業を習う諸々の瑜伽師のために、この楽受は留難の場所であり、染着すべきではないと。 また、仏および弟子は、第三静慮の自地・他地の留難の過失を他のために説き、勧めて捨てさせるべきである。だから「聖者は捨を説くべきなり」と名づけるのである。 すなわち、他のために第三静慮には勝れた楽受があり、衆生をして染着し迷悶せしめ、上地の勝妙な功徳を求めさせないと説く。あなたがたは正念と正知に住すべきであり、この楽によって留難されることのないようにと。 また、他のために第二静慮には勝れた喜受があり、衆生をして漂溺し軽躁せしめ、第二静慮の離染を退失させると説く。あなたがたは正念と捨に住すべきであり、この喜びによって留難されることのないようにと。 たとえば、旧い商主が新しい商人のために、諸々の国や邑の過患を説くようなものである。すなわち、このような国、このような邑には、多くの淫女（いんにょ）、博戯（ばくぎ）、矯詐（きょうさ）、酒肆（しゅし）、賊難（ぞくなん）があり、遠く離れて防ぐべきである。あなたがたが財貨を失うことのないようにと。 「第三静慮を具足して住す」とは、第三静慮の善五蘊（ぜんごうん）を得、獲、成就することをいう。得、獲、成就することを「具足して住す」と名づけるのである。

復次斷樂斷苦先喜憂沒。不苦不樂捨念清淨。第四靜慮具足住。是名第四天道斷樂者。問得第四靜慮時。總離第三靜慮諸有漏法。何故但說斷樂耶。答以樂為上首。總離第三靜慮諸有漏法故偏說樂。復次以樂難斷難破難可越度故偏說之。復次以樂多諸過患熾盛堅牢。是故偏說。復次以樂離第三靜慮染時。極為障礙繫縛留難。如暴獄卒故偏說之。復次諸瑜伽師專為對治樂故修第四靜慮。是故偏說。復次諸瑜伽師憎厭樂故。總離第三靜慮故偏說之。復次樂上地無餘法容有故偏說樂。由如是等種種因緣唯說斷樂。斷苦者。問離欲染時修觀行者已斷苦根。何故今離第三靜慮染時乃說斷苦。答此於已斷說名為斷謂於遠事而說近聲。如已來者亦說今來。如說。大王從何處來。如已解脫說解脫聲。如說。由此知見心解脫欲漏有漏無明漏。離欲染時心已解脫欲漏。離非想非非想處染時。心解脫有漏無明漏。如於已入而說入聲。如說。菩薩入正性離生。得現觀邊世俗智。如於已受而說受聲。如說。受樂受時如實知受樂受無有自知現在受者。故知已受而說受聲。此中亦爾已斷說斷。謂於遠事而說近聲。復次依雙法盡俱說斷聲言雙法者。謂苦與樂。離欲染時雖苦已盡而樂未盡。今離第三靜慮染已。苦樂俱盡俱說斷聲。復次斷樂者。謂斷第三靜慮樂根。斷苦者。謂斷彼相應心心所法。復次斷樂者。謂斷第三靜慮樂根。斷苦者。謂斷第三靜慮入出息。諸賢聖者於入出息生於苦想過諸異生於無間獄所起苦想。復次斷樂者。謂斷第三靜慮樂根。斷苦者。謂即斷彼樂根。如說。無常故苦。先喜憂沒者。離欲染時憂根已沒。離第二靜慮染時喜根已復沒。是故說今先喜憂沒。不苦不樂者。謂不苦不樂受。捨清淨者。謂行捨。念清淨者。謂善念。問下地亦有無漏捨念。何故但說第四靜慮捨念清淨。答第四靜慮捨念。俱離八擾亂事故名清淨。苦樂憂喜入息出息尋伺名為八擾亂事。此中皆無獨名清淨。復次第四靜慮無內外災故名清淨。下三靜慮有內外災不名清淨。謂初靜慮內有尋伺火故外為火災所燒。第二靜慮內有極喜水故外為水災爛。第三靜慮內有出入息風故外為風災飄。第四靜慮無此三災故說清淨。復次第四靜慮所依身器三災不及。念無忘失捨無諠雜。非如下地故說清淨。復次第四靜慮離諸煩惱及隨煩惱。故說捨念清淨非餘。謂有捨念離諸煩惱非隨煩惱。謂下三靜慮無漏捨念或有捨念離隨煩惱非諸煩惱。謂第四靜慮有漏捨念。或有捨念離諸煩惱及隨煩惱。謂第四靜慮無漏捨念。或有捨念非離煩惱及隨煩惱。謂下三靜慮有漏捨念及欲界一切捨念。應知此中隨煩惱者。即上所說八擾亂事。

> さらに、楽を断ち、苦を断ち、先の喜びと憂いを滅し、苦でも楽でもない捨の念が清らかになる。第四静慮を具足して住する。これを第四天道と名づける。 「楽を断ず」とは、問うて言う。第四静慮を得る時、第三静慮のすべての有漏の法を離れるのに、なぜただ「楽を断ず」とのみ説くのか。 答えて言う。楽を上首とするからである。総じて第三静慮の諸の有漏の法を離れるので、偏に楽を説くのである。 また、楽は断じ難く、破り難く、越え難く度し難いから、偏にこれを説くのである。 また、楽は多くの過患を有し、熾盛にして堅牢であるから、偏にこれを説くのである。 また、楽は第三静慮の染を離れる時、極めて障礙となり、繋縛し、留難する。暴悪な獄卒の如くであるから、偏にこれを説くのである。 また、諸の瑜伽師は専ら楽を対治するが故に第四静慮を修する。この故に偏にこれを説くのである。 また、諸の瑜伽師は楽を憎厭するが故に、総じて第三静慮を離れるので、偏にこれを説くのである。 また、楽は上地には余の法が容れども有ることはないから、偏に楽を説くのである。 このような種々の因縁によって、ただ「楽を断ず」とのみ説くのである。 「苦を断ず」とは、問うて言う。欲の染を離れる時、修観行者はすでに苦根を断じた。なぜ今、第三静慮の染を離れる時になって、はじめて「苦を断ず」と説くのか。 答えて言う。これは已に断じたことを「断ず」と名づけるのである。すなわち遠い事について近い声を説くのである。例えば、すでに来た者にも「今来た」と説くようなものである。「大王、どこから来たのか」と説くが如し。 すでに解脱した者に解脱の声を説くが如し。例えば、「この知見によって心は欲漏・有漏・無明漏から解脱す」と説く。欲の染を離れる時、心はすでに欲漏から解脱し、非想非非想処の染を離れる時、心は有漏・無明漏から解脱する。 すでに入った者に入るの声を説くが如し。例えば、「菩薩は正性離生に入り、現観辺の世俗智を得る」と説く。 すでに受けた者に受けるの声を説くが如し。例えば、「楽受を受ける時、如実に楽受を受けることを知る」と説く。自ら現在の受を知る者はない。この故に、すでに受けた者に受けるの声を説くことを知るべきである。 この中もまた同じである。已に断じたことを「断ず」と説く。すなわち遠い事について近い声を説くのである。 また、双法が尽きるに依って、ともに「断ず」の声を説くのである。双法とは、すなわち苦と楽である。欲の染を離れる時は、苦はすでに尽きたが楽はまだ尽きていない。今、第三静慮の染を離れて、苦楽ともに尽きたので、ともに「断ず」の声を説くのである。 また、「楽を断ず」とは、第三静慮の楽根を断ずることを謂う。「苦を断ず」とは、それと相応する心・心所法を断ずることを謂う。 また、「楽を断ず」とは、第三静慮の楽根を断ずることを謂う。「苦を断ず」とは、第三静慮の入出息を断ずることを謂う。諸の賢聖は入出息について苦の想を生ずる。これ諸の異生が無間地獄において起こす苦の想に過ぐることを。 また、「楽を断ず」とは、第三静慮の楽根を断ずることを謂う。「苦を断ず」とは、すなわちその楽根を断ずることを謂う。例えば、「無常なるが故に苦なり」と説くが如し。 「先の喜びと憂いが滅す」とは、欲の染を離れる時、憂根はすでに滅し、第二静慮の染を離れる時、喜根はすでにまた滅した。この故に「今、先の喜びと憂いが滅す」と説くのである。 「苦でも楽でもない」とは、苦でも楽でもない受を謂う。 「捨が清らか」とは、行捨を謂う。 「念が清らか」とは、善念を謂う。 問うて言う。下地にも無漏の捨・念はある。なぜただ第四静慮の捨・念のみが清らかであると説くのか。 答えて言う。第四静慮の捨・念は、ともに八つの擾乱の事を離れるが故に清らかと名づける。苦・楽・憂・喜・入息・出息・尋・伺を八つの擾乱の事と名づける。この中にはすべてこれがなく、独り清らかと名づけるのである。 また、第四静慮は内外の災がなく、この故に清らかと名づける。下の三静慮は内外の災があり、清らかと名づけない。すなわち初静慮は内に尋・伺の火があるが故に、外には火災のために焼かれる。第二静慮は内に極喜の水があるが故に、外には水災のために爛れる。第三静慮は内に出入息の風があるが故に、外には風災のために飄われる。第四静慮はこの三災がないが故に清らかと説くのである。 また、第四静慮の所依の身・器は三災の及ぶところではない。念は忘失なく、捨は諠雑なし。下地の如くではないが故に清らかと説くのである。 また、第四静慮は諸の煩惱および随煩惱を離れるが故に、捨・念は清らかであると説くのであって、他のものではない。すなわち、捨・念があって諸の煩惱を離れるが随煩惱を離れないものがある。下の三静慮の無漏の捨・念がこれである。あるいは捨・念があって随煩惱を離れるが諸の煩惱を離れないものがある。第四静慮の有漏の捨・念がこれである。あるいは捨・念があって諸の煩惱および随煩惱をともに離れるものがある。第四静慮の無漏の捨・念がこれである。あるいは捨・念があって煩惱および随煩惱を離れないものがある。下の三静慮の有漏の捨・念および欲界のすべての捨・念がこれである。 ここにおいて、随煩惱とは、すなわち上に説いた八つの擾乱の事であると知るべきである。

復次第四靜慮所依色身澄潔明淨。譬如燈光捨念依彼故亦清淨。復次第四靜慮是圓滿依諸依中勝。是究竟地諸地中尊。故彼捨念亦名清淨。復次第四靜慮定名不動定之勢力遍所依身。故彼捨念亦名清淨。復次第四靜慮是七依定齊下上俱有三無漏定故。由此捨念亦名清淨。復次第四靜慮有二事廣。一處所廣。二善根廣。故彼捨念亦名清淨。復次第四靜慮過殑伽沙菩薩依之入正性離生。證得無上正等菩提。故彼捨念亦名清淨。復次第四靜慮三瑜伽師依之得入正性離生得果盡漏。謂佛獨覺及諸聲聞。故彼捨念亦名清淨。復次第四靜慮大種造色。顯色形色皆極勝妙故。彼捨念亦名清淨。復次依第四靜慮宿住隨念智。能緣欲界及四靜慮諸宿住事故。彼捨念亦名清淨。由如是等種種因緣。第四靜慮所有捨念獨名清淨。第四靜慮具足住者。謂得獲成就第四靜慮善五蘊。得獲成就名具足住。

> また、第四禅定に依る所の身体は澄み切って清らかで明るく浄らかである。例えば灯火の光が、捨と念とに依ってそのまま清らかであるようなものである。また、第四禅定は円満な依処であり、諸々の依処の中で最も優れている。究極の境地であり、諸々の境地の中で最も尊い。それゆえ、その捨と念もまた清らかと名付けられる。また、第四禅定は定として動かないと名付けられ、その定の力は身体全体に及ぶ。それゆえ、その捨と念もまた清らかと名付けられる。また、第四禅定は七つの依処ある定であり、下と上とを共に有し、三つの無漏の定がある。それゆえ、この捨と念もまた清らかと名付けられる。また、第四禅定には二つの広い事柄がある。一つは場所が広いことであり、二つは善根が広いことである。それゆえ、その捨と念もまた清らかと名付けられる。また、第四禅定は、ガンジス川の砂の数を超える菩薩たちがこれに依って正しい真理に入り、無上の正しい悟りを証得する。それゆえ、その捨と念もまた清らかと名付けられる。また、第四禅定には三種類の瑜伽師がこれに依って正しい真理に入り、果報を得て煩悩を尽くす。すなわち、仏と独覚と諸々の声聞である。それゆえ、その捨と念もまた清らかと名付けられる。また、第四禅定の四大種と造られた色、顕色と形色は、いずれも極めて勝れていて妙である。それゆえ、その捨と念もまた清らかと名付けられる。また、第四禅定に依って宿住随念智は、欲界と四つの禅定の諸々の過去の出来事を縁とすることができる。それゆえ、その捨と念もまた清らかと名付けられる。このような様々な因縁によって、第四禅定の全ての捨と念だけが清らかと名付けられるのである。第四禅定に具足して住するとは、第四禅定の善い五蘊を得て、獲得し、成就することをいう。得て、獲得し、成就することを具足して住すると名付けるのである。

如契經說。有四種增上心所現法樂住。問何故名為增上心所。答此中心所即三摩地。無三摩地具大勢力。有大功用能成大事。能如根本四靜慮者。故此獨名增上心所。復次四靜慮中有無量種增上心所殊勝功德。如無量解脫勝處遍處無礙解。無諍願智邊際定等。是故獨名增上心所。復次依四靜慮諸瑜伽師。以無量門受心所樂。謂前所說諸功德門。及空空等三三摩地是故獨名增上心所。

> 経典に説かれる通り、四種類の増上心所による現法楽住がある。問う、何を以て増上心所と名付けるのか。答えていう、ここでいう心所とは三摩地のことである。三摩地にして大勢力を具え、大功用あり、大事件を成し遂げることができ、根本の四静慮の如くできるものは、他にない。この故に、ただこれのみを増上心所と名付けるのである。 また、四静慮の中には、無量の種類の増上心所の殊勝な功徳がある。例えば、無量解脱、勝処、遍処、無礙解、無諍、願智、辺際定などである。この故に、ただこれのみを増上心所と名付けるのである。 また、四静慮に依る諸々の瑜伽師は、無量の門をもって心所の楽を受ける。すなわち、先に説いた諸々の功徳の門、および空空等の三三摩地である。この故に、ただこれのみを増上心所と名付けるのである。

復次此四靜慮樂通行攝。是故獨名增上心所。問四靜慮中亦有能引後樂功德。何故但說現法樂住。答亦應說為後法樂住。而不說者應知此經是有餘說。復次若說此為現法樂住。應知已說後法樂住。以後法樂用現法樂為因得故。

> さらに、この四つの静慮（じょうりょ）は楽（らく）に通じる行（ぎょう）としてまとめられる。そのため、特に「増上心所（ぞうじょうしんじょ）」と呼ばれるのである。 問う：四つの静慮の中には、後の楽をもたらす功徳も含まれているのに、なぜ「現法楽住（げんぽうらくじゅう）」だけを説くのか。 答える：後の楽の住まいとしても説くべきであるが、そう説かないのは、この経典は一部を述べたものだと知るべきである。 さらに、もしこれを「現法楽住」と説くならば、それによって後の楽の住まいも説かれたと知るべきである。なぜなら、後の楽は現法の楽を因として得られるからである。

如契經說。先於此間修彼等至後方生彼。復次後法樂住依止繫屬現法樂住。現法樂住不依止繫屬後法樂住。是故但說現法樂住即已說彼。復次現法樂住與後法樂住為加行門。若已說此即已說彼。復次現法樂住是因後法樂住是果。若已說因即已說果。如因果如是。能作所作。能生所生。能成所成。能續所續。能引所引。能轉所轉。能相所相。應知亦爾。復次現法樂近後法樂遠。若已說近即已說遠。如近遠如是。隣逼非隣逼。和合非和合。此身眾同分。餘身眾同分。應知亦爾。復次現法樂住若愚若智。內道外道正觀邪觀。皆共信有故偏說之。後法樂住有不信者如諸外道是故不說。復次諸愚夫類多貪現樂不求後樂。於現樂中貪少欲樂。不求廣大離欲妙樂。世尊欲令捨小欲樂。得四靜慮廣大妙樂。作如是說。汝等若求廣大樂者。當捨欲樂修四靜慮。是故但說現法樂住。復次以四靜慮現在前時。必受現樂故偏說之。後樂不定或退生下或進生上。或般涅盤是故不說。由如是等種種因緣。世尊但說四種靜慮名現法樂。近分無色雖亦有樂義。而苦通行攝故不說之。

> 経典に説かれる通り、まずこの世で彼の等至を修して、後に彼の境地に生まれるのである。また、後の法楽住は現在法楽住に依止し繫属するものであり、現在法楽住は後の法楽住に依止し繫属しない。それゆえ、ただ現在法楽住を説けば、すでに後の法楽住も説いたことになるのである。また、現在法楽住は後の法楽住にとって加行の門である。もしこれを説けば、すでにそれも説いたことになる。また、現在法楽住は因であり、後の法楽住は果である。もし因を説けば、すでに果を説いたことになる。因と果の関係がこのようであるならば、能作と所作、能生と所生、能成と所成、能續と所續、能引と所引、能轉と所轉、能相と所相についても、同じように理解すべきである。また、現在法楽は近く、後の法楽は遠い。もし近いものを説けば、すでに遠いものも説いたことになる。近いものと遠いものの関係がこのようであるならば、隣逼と非隣逼、和合と非和合、この身の衆同分と他の身の衆同分についても、同じように理解すべきである。また、現在法楽住は、愚者であれ智者であれ、内道であれ外道であれ、正観であれ邪観であれ、皆が共にその存在を信じているので、特に説かれるのである。後の法楽住には、諸々の外道のように信じない者もいるので、説かれないのである。また、諸々の凡夫は多くが現在の楽を貪り、後の楽を求めない。現在の楽の中でも、少ない欲楽を貪り、広大な離欲の妙楽を求めない。世尊は、小さな欲楽を捨てさせ、四静慮の広大な妙楽を得させようと、このように説かれたのである。「汝らがもし広大な楽を求めるならば、欲楽を捨てて四静慮を修すべきである」と。それゆえ、ただ現在法楽住のみを説かれたのである。また、四静慮が現在に現前する時には、必ず現在の楽を受けるので、特に説かれるのである。後の楽は不定であり、あるいは退して下の境地に生まれ、あるいは進んで上の境地に生まれ、あるいは般涅槃するので、説かれないのである。このような種々の因縁によって、世尊はただ四種の静慮のみを説いて、現在法楽と名づけられたのである。近分と無色界にもまた楽の義はあるが、苦通行に摂せられるので、説かれないのである。

如契經說如是四種增上心所現法樂住。諸修定者數數入出。應正了知寂靜解脫超過諸色。四無色定諸修定者數數入出應正宣示。問何故世尊於四靜慮勸應了知。於四無色勸應宣示。答靜慮麁顯明了易見。諸修定者從彼出已復樂欲入故。佛告言。若欲復入應正了知入出定相勿有謬失。無色微細相隱難見。諸修定者從彼出已不樂復入故。佛告言。若不樂復入應正宣示他。入出定相勿令忘失。復次四靜慮中多有種種異相功德。諸修定者從彼出已復樂欲入故。佛告言。若樂復入應正了知入出定相勿有謬失。無色定中無有多種異相功德。諸修定者從彼出已不樂復入故。佛告言。若不樂復入應正宣示他。入出定相勿令忘失。復次四靜慮中根受心所有多異相。諸修定者從彼出已復樂欲入故。佛告言。若樂復入應正了知入出定相勿有謬失。無色定中根受心所無多異相。諸修定者從彼出已不樂復入故。佛告言。若不樂復入應正宣示他。入出定相勿令忘失。復次四靜慮中有無量種功德勝利。諸修定者從彼出已復樂欲入故。佛告言。若樂復入應正了知入出定相勿有謬失。無色定中無無量種功德勝利。諸修定者從彼出已不樂復入故。佛告言。若不樂復入應正宣示他。入出定相勿令忘失。復次四靜慮中有遍照智緣自上下。諸修定者從彼出已。復樂欲入故。佛告言。若樂復入應正了知入出定相勿有謬失。無色定中無遍照智能緣自上不緣下地。諸修定者從彼出已不樂復入故。佛告言。若不樂復入應正宣示他。入出定相勿令忘失。由如是等種種因緣。佛於靜慮勸應了知。於四無色勸應宣示。

> 経典に説かれる通り、この四種の増上心によって現世における楽住を享受する。修行者はこれらの定に何度も入り、また出る。寂静の解脱が色を超えていることを正しく理解すべきである。四無色定についても、修行者は何度も入り出し、その経験を他者に正しく伝えるべきである。 問う：なぜ世尊は四静慮については「了知すべき」と勧め、四無色については「宣示すべき」と勧めたのか。 答える：静慮は粗く、明らかで、見えやすい。修行者はそこから出た後、再び入りたいと望む。そこで仏は言われた。「再び入りたいならば、入定と出定の相を正しく理解し、過ちを犯してはならない」と。無色定は微細で、相が隠れて見えにくい。修行者はそこから出た後、再び入りたいとは思わない。そこで仏は言われた。「再び入りたくないならば、その入定と出定の相を他者に正しく伝え、忘れてはならない」と。 さらに、四静慮には多くの様々な異なる相や功徳がある。修行者はそこから出た後、再び入りたいと望む。そこで仏は言われた。「再び入りたいならば、入定と出定の相を正しく理解し、過ちを犯してはならない」と。無色定には多くの様々な異なる相や功徳がない。修行者はそこから出た後、再び入りたいとは思わない。そこで仏は言われた。「再び入りたくないならば、その入定と出定の相を他者に正しく伝え、忘れてはならない」と。 さらに、四静慮には根・受・心所に多くの異なる相がある。修行者はそこから出た後、再び入りたいと望む。そこで仏は言われた。「再び入りたいならば、入定と出定の相を正しく理解し、過ちを犯してはならない」と。無色定には根・受・心所に多くの異なる相がない。修行者はそこから出た後、再び入りたいとは思わない。そこで仏は言われた。「再び入りたくないならば、その入定と出定の相を他者に正しく伝え、忘れてはならない」と。 さらに、四静慮には無量の種類の功徳と利益がある。修行者はそこから出た後、再び入りたいと望む。そこで仏は言われた。「再び入りたいならば、入定と出定の相を正しく理解し、過ちを犯してはならない」と。無色定には無量の種類の功徳と利益がない。修行者はそこから出た後、再び入りたいとは思わない。そこで仏は言われた。「再び入りたくないならば、その入定と出定の相を他者に正しく伝え、忘れてはならない」と。 さらに、四静慮には遍照の智があり、自己の上地と下地を縁ることができる。修行者はそこから出た後、再び入りたいと望む。そこで仏は言われた。「再び入りたいならば、入定と出定の相を正しく理解し、過ちを犯してはならない」と。無色定には遍照の智がなく、自己の上地のみを縁り、下地を縁ることができない。修行者はそこから出た後、再び入りたいとは思わない。そこで仏は言われた。「再び入りたくないならば、その入定と出定の相を他者に正しく伝え、忘れてはならない」と。 このような様々な因縁により、仏は静慮については「了知すべき」と勧め、四無色については「宣示すべき」と勧めたのである。

如契經說。四種靜慮有四勝利。四無色定有一勝利。問何故靜慮勝利有四。無色定中勝利唯一。答即由前說種種因緣。靜慮無色勝利有異。此中復有二不共答。謂靜慮中有三種定。一有尋有伺。二無尋唯伺。三無尋無伺無色定中唯有一種無尋無伺。復次四靜慮中有三種受。謂喜樂捨。無色定中唯有捨受。故四靜慮勝利有四。無色定中勝利唯一。問靜慮勝利有何差別。答名即差別。謂名靜慮名勝利故。復次靜慮三種。謂善染污無覆無記。勝利唯善。復次靜慮二種謂有漏無漏。勝利唯無漏。復次靜慮或色界繫。或不繫。勝利唯不繫。復次靜慮或學或無學。或非學非無學。勝利唯學無學復次靜慮或見所斷。或修所斷。或非所斷。勝利唯非所斷。復次靜慮通染不染。勝利唯不染。復次靜慮通有異熟無異熟。勝利唯無異熟。復次靜慮三諦攝。除滅諦。勝利唯道諦攝。是謂靜慮勝利差別。

> 経典に説かれる通り、四種の静慮には四つの勝利があり、四種の無色定には一つの勝利がある。問う、なぜ静慮の勝利は四つあり、無色定の勝利はただ一つなのか。答える、すでに述べた種々の因縁によって、静慮と無色定の勝利に違いがあるのである。ここにさらに二つの共通しない答えがある。すなわち、静慮には三種の定がある。一つは尋を有し伺を有するもの、二つは尋を有さず伺のみを有するもの、三つは尋も伺も有さないものである。無色定にはただ一種の、尋も伺も有さないものだけがある。また、四種の静慮には三種の受がある。すなわち喜、楽、捨である。無色定にはただ捨受のみがある。ゆえに四種の静慮には勝利が四つあり、無色定には勝利がただ一つあるのである。問う、静慮の勝利にはどのような差別があるのか。答える、名前がすなわち差別である。すなわち、静慮と名づけ、勝利と名づけるからである。また、静慮には三種がある。すなわち善、染汚、無覆無記である。勝利はただ善のみである。また、静慮には二種がある。すなわち有漏と無漏である。勝利はただ無漏のみである。また、静慮は色界に繫属するか、あるいは繫属しない。勝利はただ繫属しないもののみである。また、静慮は学、あるいは無学、あるいは学でも無学でもないものである。勝利はただ学と無学のみである。また、静慮は見所断、あるいは修所断、あるいは断ずべきものでないものである。勝利はただ断ずべきものでないもののみである。また、静慮は染と不染に通じる。勝利はただ不染のみである。また、静慮は異熟を有するものと異熟を有さないものに通じる。勝利はただ異熟を有さないもののみである。また、静慮は三諦に摂せられ、滅諦を除く。勝利はただ道諦に摂せられるのみである。これをもって静慮の勝利の差別となす。

如契經說。初靜慮憂根滅。第二靜慮苦根滅問離欲染時斷憂及苦。契經何故作是說耶。答依過對治故作是說。謂離欲染位雖斷苦根。而未名為過苦對治。於初靜慮得離染時。過苦對治故說苦滅。苦對治者。謂初靜慮。復次依過族姓及苦所依故作是說。謂離欲染位雖斷苦根。而未過苦所依族姓。於初靜慮得離染時。過苦所依及苦族姓故說苦滅所依族姓。謂諸識身。問離欲染位雖斷憂根。而未過彼對治所依及彼族姓。不應說憂初靜慮滅。答憂根對治所依族姓皆在意識。既與憂根同在意識。故正斷時即說彼滅。苦根所依及苦族姓。不與對治同在一識。故過對治所依族姓方說苦滅。有作是說。第二靜慮苦根滅者。謂尋伺滅以諸賢聖於尋伺中發生苦想。過諸異生厭地獄苦。能生苦想故名苦根有契經中說四靜慮猶如床座。問世尊何故說四靜慮如床座耶。答是高勝性攝受性故。高勝性者。對欲界說。以四靜慮出欲界故。攝受性者。對善法說。靜慮攝受多善法故。復次諸賢聖者。於無始來生死長途極生疲厭故。於靜慮暫時憩息。如倦長途暫居床座。故於靜慮說床座聲。

> 『契経』に説くところによれば、初静慮において憂根は滅し、第二静慮において苦根は滅するという。問う、欲の染まりを離れる時、憂と苦はともに断たれるのに、契経ではどうしてこのように説くのか。答う、過失に対する対治に基づいてこのように説くのである。すなわち、欲の染まりを離れる位では、苦根はすでに断たれているが、まだ苦に対する対治を超えたとは言えない。初静慮において染まりを離れることを得た時、苦に対する対治を超えるので、苦の滅を説くのである。苦の対治とは、すなわち初静慮のことである。また、苦のよりどころとなる種姓と、苦の依処を超えることに基づいてこのように説くのである。すなわち、欲の染まりを離れる位では、苦根はすでに断たれているが、まだ苦の依処と苦の種姓を超えてはいない。初静慮において染まりを離れることを得た時、苦の依処と苦の種姓を超えるので、苦の滅を説くのである。依処と種姓とは、すなわち諸々の識身のことである。問う、欲の染まりを離れる位では、憂根はすでに断たれているが、まだその対治の依処と種姓を超えてはいない。それなのに、憂は初静慮において滅すると説くべきではないのではないか。答う、憂根の対治の依処と種姓は、すべて意識にある。憂根と同様に意識にあるので、正しく断たれる時、すなわちその滅を説くのである。苦根の依処と苦の種姓は、対治と同じ識にはない。それゆえ、対治の依処と種姓を超えてはじめて苦の滅を説くのである。また、ある者はこう説く。第二静慮において苦根が滅するとは、尋と伺が滅することである。なぜなら、諸々の聖者は尋と伺の中に苦の想を生じるからである。凡夫が地獄の苦を厭うことを超えて、苦の想を生じることができるので、苦根と名づけるのである。また、ある契経には、四静慮は床座のようなものであると説かれている。問う、世尊はどうして四静慮を床座のようであると説かれたのか。答う、これは高勝な性質と摂受する性質によるからである。高勝な性質とは、欲界に対して説かれたものである。四静慮は欲界を超え出るからである。摂受する性質とは、善法に対して説かれたものである。静慮は多くの善法を摂受するからである。また、諸々の聖者は、無始以来の生死の長い旅路において極めて疲れ厭うことを生じるので、静慮において暫時休息するのである。長い道のりに疲れた者が暫時床座に憩うようなものである。それゆえ、静慮に対して床座という言葉を説くのである。

有契經說。四種靜慮譬如涼風。問世尊何故說四靜慮如涼風耶。答此能止業煩惱熱故。謂初靜慮能止欲界種種不善業煩惱熱第二靜慮能止初靜慮尋伺相應業煩惱熱。第三靜慮能止第二靜慮極憙相應業煩惱熱。第四靜慮能止第三靜慮極樂相應業煩惱熱。故說靜慮譬如涼風。

> 経典にこう説かれています。「四つの静慮は、例えるならば涼しい風のようなものである」と。 問う。世尊はなぜ四つの静慮を涼しい風に例えたのか。 答える。これは、業と煩悩の熱を止めるからである。すなわち、初静慮は欲界のさまざまな不善の業と煩悩の熱を止める。第二静慮は、初静慮に伴う尋と伺の業と煩悩の熱を止める。第三静慮は、第二静慮に伴う大いなる喜びの業と煩悩の熱を止める。第四静慮は、第三静慮に伴う大いなる楽の業と煩悩の熱を止める。ゆえに、静慮は涼しい風のようなものであると説かれたのである。

有契經中說。四靜慮如妙飲食。問世尊何故說四靜慮如飲食耶。答有能任持法身義故。如村邑中諸妙飲食。皆送王城長養尊勝。如是種種勝妙善根。皆集靜慮長養法身。故說靜慮如妙飲食。

> 経典の中でこう説かれています。「四つの静慮（禅定）は、まるで素晴らしい食べ物のようである」と。そこで問います。なぜ世尊は、四つの静慮を食べ物に例えたのでしょうか。答えはこうです。静慮には、法身（真理の体）を支え保つ働きがあるからです。ちょうど村や町の様々な美味しい食べ物が、すべて王城に運ばれて、尊い王様を養い育てるように、この世の様々な優れた善い根（善根）も、すべて静慮に集まって、法身を養い育てるのです。それゆえに、静慮は素晴らしい食べ物に例えられているのです。

有契經中佛為梵志。說第四靜慮名究竟迹。問世尊何故為婆羅門捨前三靜慮。說第四靜慮名究竟迹。答有婆羅門聞佛具有一切智見。復聞諸佛無不皆依第四靜慮證得無上正等菩提。一切施設第四靜慮為究竟迹。彼作是念若佛施設第四靜慮是究竟迹。決定具有一切智見。作是念已來問世尊。佛知彼意故但為說第四靜慮是究竟迹。彼聞決定信佛具有一切智見。佛又告彼婆羅門言。第四靜慮是如來迹。是佛所行佛所習近。如野龍象夏日中時。從稠林出見地方所。其地沃潤花果茂盛。流泉浴池其水清美。雜花映發甚可愛樂。見已歡喜以牙掘地而安其足。世尊亦爾。第四靜慮行捨現前掘爾焰地而安智足。應知此中如來迹者。說第四靜慮究竟奢摩他。佛所行者。說第四靜慮究竟毘鉢舍那。佛所習近者。總說第四靜慮究竟止觀。

> ある経典の中で、仏は梵志（バラモン）のために、第四静慮を「究竟の迹（きわまりのあと）」と説かれました。 問う：なぜ世尊はバラモンたちのために、前三つの静慮を捨てて、第四静慮だけを「究竟の迹」と説かれたのでしょうか。 答える：あるバラモンが、仏が一切智見を具えておられることを聞き、また、諸仏はみな第四静慮に依って無上正等菩提を証得されることを聞きました。そして、すべての教えにおいて第四静慮を「究竟の迹」と説かれていることを知りました。彼はこう考えました。「もし仏が第四静慮を究竟の迹と説かれるならば、きっと一切智見を具えておられるに違いない」と。こう考えて、仏のもとを訪ねて質問しました。仏は彼の心の内を見抜いて、ただ第四静慮が究竟の迹であるとだけ説かれました。彼はそれを聞いて、仏が一切智見を具えておられることを確信しました。 仏はさらにそのバラモンにこう告げられました。「第四静慮は如来の迹であり、仏が歩まれる道であり、仏が親しく修習される道である。ちょうど野生の龍象が、夏の盛りに、深い林から出てきて、潤った土地を見つける。その地は肥沃で花や果実が豊かに茂り、泉や浴池の水は清らかで美しく、色とりどりの花が咲き乱れて、とても愛らしい。それを見て喜び、牙で地面を掘って、そこに足を安んじる。世尊もまた同じである。第四静慮において、行捨が現前し、爾焰の地を掘って、智慧の足を安んじられるのである。」 ここで、「如来の迹」とは、第四静慮が究極の奢摩他（止）であることを説いたものである。「仏が歩まれる道」とは、第四静慮が究極の毘鉢舍那（観）であることを説いたものである。「仏が親しく修習される道」とは、第四静慮が究極の止観を総合して説いたものである。

有契經中說。四靜慮皆是樂住。問世尊何故說四靜慮是樂住耶。答根本靜慮易現在前。故名樂住非如近分。及無色定難現在前。所以者何。諸有情類為欲界業煩惱繫縛。引未至定令現在前極為艱難。如被反縛甚難自解。有情亦爾。既為欲界業煩惱縛為解自縛。引未至定極為艱難。修不淨觀或持息念。經於十年或十二年。有能引起未至定者。有不能引故極艱難。若離欲染起初靜慮不由功用故易現前。從初靜慮復欲引起靜慮中間。多用功力。異心所滅異心所生。麁心所滅細心所生。尋俱者滅。伺俱者生。故定中間亦難現起。譬如有人以木破木多用功力然後乃破。以初靜慮自地心所有滅有生亦復如是。後三靜慮近分難起。根本易起如初應知。問已離下染起無色定。亦不艱難寧非樂住。答雖離下染以無色定極微細故起亦艱難。起靜慮時易於彼故。又無色界既無諸色非皆信有。故修行者欲起彼定亦甚艱難。如爪長者來白具壽阿難陀言。我等在家長夜貪著色等五境。聞無色界極生驚恐如臨深坑。云何有情而都無色故難信有以難信故起極艱難。復次依四靜慮易可離染。非近分等故名樂住。譬如二人俱往一處。一從陸路一則乘船。雖俱到彼而乘船者不為艱難非陸路者。如是有情有依靜慮而離染者。有依近分或依無色而離染者。雖俱離染而依靜慮不為艱難非近分等。故唯靜慮得樂住名。復次唯靜慮中具二種樂故名樂住。一樂受樂二輕安樂。前三靜慮皆具二樂。第四靜慮雖無受樂。而輕安樂勢用廣大勝前二樂。近分無色雖有輕安。而不廣大故不名樂。復次樂有二種。一者主樂。二者客樂。主樂者。謂依靜慮起靜慮。客樂者。謂依靜慮起無色住。住靜慮地具起二樂故名樂住。住無色地不具二樂故非樂住。近分非勝故不得名。復次四靜慮中無惱害樂勢用廣大。非近分等故名樂住。

> 経典の中でこう説かれています。「四つの静慮（禅定）はすべて楽住である」と。では、なぜ世尊は四静慮を楽住と説かれたのでしょうか。 答え：根本静慮は現前しやすいからであり、楽住と名付けられたのです。近分定や無色定のように現前しにくいのとは違います。なぜなら、有情たちは欲界の業や煩悩に縛られており、未至定を引き起こして現前させることは非常に難しいからです。まるで後ろ手に縛られた人が、自分で自分の縛めを解くのが難しいのと同じです。有情もまた同様で、欲界の業や煩悩に縛られているため、自らの束縛を解こうとして未至定を引き起こすのは極めて困難です。不浄観を修したり、持息念を行ったりして、十年や十二年経っても、未至定を引き起こせる者もいれば、引き起こせない者もいるのです。だから非常に難しいのです。 欲界の煩悩を離れて初静慮を得る場合は、特別な努力を要さずに現前しやすいのです。しかし初静慮からさらに静慮中間を引き起こそうとするなら、多くの努力と工夫が必要です。というのも、異なる心所が滅し、異なる心所が生じるからです。粗い心所が滅し、細かい心所が生じます。尋（粗い観察）を伴うものは滅し、伺（細かい観察）を伴うものが生じます。ですから中間定も現れにくいのです。たとえば、木で木を割ろうとする人が、多くの力を費やしてようやく割れるのと同じです。初静慮の自地の心所にも滅びるものと生じるものがあるのも、これと同じです。 後の三つの静慮も、その近分定は起こしにくく、根本定は起こしやすいという点では、初静慮と同じだと知るべきです。 問い：すでに下の煩悩を離れた者が無色定を起こすのは、それほど難しくないのではないですか。なぜ楽住と言わないのですか。 答え：下の煩悩を離れていても、無色定は極めて微細であるため、起こすのは難しいのです。静慮を起こす方がそれよりも易しいのです。また、無色界には色がないため、誰もがその存在を信じられるわけではありません。ですから修行者がその定を起こそうとするのは非常に難しいのです。たとえば、ある爪の長い在家人が具寿阿難陀のもとに来てこう言いました。「私たち在家者は長い間、色などの五つの境に執着してきました。無色界のことを聞くと、深い穴を覗き込むかのように極めて恐れおののきます。どうして有情に色がないことがあり得るのでしょうか」と。無色の存在を信じることが難しいからこそ、その定を起こすのも極めて難しいのです。 さらに、四静慮に依れば煩悩を離れることが易しいのですが、近分定や無色定に依る場合はそうではありません。だから楽住と名付けられるのです。たとえば、二人が同じ場所へ行こうとして、一人は陸路を、もう一人は船で行くとします。二人とも到着はしますが、船で行く者はそれほど困難ではありません。陸路の者は困難です。これと同じように、有情には静慮に依って煩悩を離れる者もいれば、近分定や無色定に依って煩悩を離れる者もいます。どちらも煩悩を離れることはできますが、静慮に依る者はそれほど困難ではなく、近分定などに依る者は困難なのです。ですから、ただ静慮だけが楽住という名を得るのです。 さらに、ただ静慮の中だけに二種類の楽が備わっているから、楽住と名付けられるのです。一つは楽受の楽、もう一つは軽安の楽です。前三静慮にはこの二つの楽がともに備わっています。第四静慮には楽受の楽はありませんが、軽安の楽の働きは広大で、前の二つの楽よりも勝れています。近分定や無色定には軽安はあっても、それは広大ではありません。だから楽とは呼ばれないのです。 さらに、楽には二種類あります。一つは主楽、もう一つは客楽です。主楽とは、静慮に依って静慮を起こすことです。客楽とは、静慮に依って無色定を起こして安住することです。静慮の地に安住する者は、この二つの楽をともに具えています。だから楽住と名付けられるのです。無色の地に安住する者は、二つの楽をともに具えていないので、楽住とは呼ばれません。近分定は勝れたものではないので、その名を得られないのです。 さらに、四静慮の中には、悩みや害のない楽の働きが広大にあります。近分定などにはそれがありません。だから楽住と名付けられるのです。

如契經說。若於是處無諸惱害說名為樂。復次根本靜慮現在前時。長養大種遍身中生令身充悅故名樂住。近分定等現在前時。長養大種唯心邊生。非極充悅故非樂住。有作是說。近分定等現在前時。長養大種雖遍身生。而長養用不及靜慮現在前時長養大種故非樂住。譬如二人同一池浴。一身入水。一用手澆。雖俱洗浴而入水者潤益為勝非手澆者。復次四靜慮中止觀力等故名樂住。近分定中觀強止劣。無色定中止強觀劣俱非樂住。復次四靜慮中精進與止平等而轉故名樂住。雖一切地精進力強。而靜慮中為止所制故平等轉。餘地不爾故非樂住。復次四靜慮中增上捨斷離染可得故名樂住。謂離染時有二種斷。一增上捨斷。二有功用斷。依近分無色離諸染時。名有功用斷極艱難故。依根本靜慮離諸染時。名增上捨斷任運轉故。譬如二人俱詣一方。一乘良馬。一乘惡馬。乘良馬者甚不艱難至所詣處。乘惡馬者甚為艱難方得至彼。復次四靜慮中無功用道離染可得故名樂住。近分無色有功用道。而得離染故非樂住。如多人眾俱渡大河。有依草束。有依浮瓠。有依棑筏。有依船舫。依船舫者任運安樂得至彼岸。依餘物者怖畏艱難而到彼岸。有情亦爾度煩惱河。有依靜慮。有依餘地。雖俱從生死此岸度至涅槃彼岸。而依靜慮者安樂易到故名樂住非依近分無色者。由如是等種種因緣。唯四靜慮名為樂住。如名樂住如是亦名觸住。俱住。

> また、経典に説かれるところによれば、「もしある場所に諸々の悩みや害がなければ、それを楽と名付ける」とあります。 さらに、根本静慮（しんじょうりょ）が現前する時、長養大種（ちょうようだいしゅ）が全身に生じ、身体を充実させ悦びをもたらすので、「楽住」と名付けます。近分定（ごんぶんじょう）などが現前する時は、長養大種がただ心の辺りにのみ生じ、十分に充実しないので、「楽住」とは言えません。 ある説では、「近分定などが現前する時、長養大種は全身に生じるけれども、その長養の働きは静慮が現前する時の長養大種には及ばないので、楽住ではない」と説かれています。例えば、二人が同じ池で沐浴する場合、一人は全身を水に入れ、もう一人は手で水を掛けるだけであるとすれば、どちらも沐浴ではあるけれども、全身を水に入れる者の方が潤いの効能は勝っており、手で水を掛ける者には及ばないようなものです。 さらに、四静慮（しじょうりょ）においては、止（し）と観（かん）の力が等しいので、「楽住」と名付けます。近分定においては観が強く止が弱く、無色定（むしきじょう）においては止が強く観が弱いので、どちらも楽住ではありません。 また、四静慮においては、精進と止が平等に働くので、「楽住」と名付けます。すべての境地において精進の力は強いけれども、静慮においては止によって制御されるので、平等に働くのです。他の境地ではそうではないので、楽住ではありません。 さらに、四静慮においては、増上捨（ぞうじょうしゃ）によって煩悩を断ち離れることができるので、「楽住」と名付けます。すなわち、煩悩を離れる時には二種類の断ち方があります。一つは増上捨による断ち、もう一つは功を要する断ちです。近分定や無色定によって煩悩を離れる時は、功を要する断ちと呼ばれ、非常に困難です。根本静慮によって煩悩を離れる時は、増上捨による断ちと呼ばれ、自然に働くからです。例えば、二人が同じ目的地に向かう時、一人は良い馬に乗り、もう一人は悪い馬に乗るとします。良い馬に乗る者はほとんど困難なく目的地に到達し、悪い馬に乗る者は非常に困難を経てようやくそこに到達するようなものです。 また、四静慮においては、功を要しない道によって煩悩を離れることができるので、「楽住」と名付けます。近分定や無色定は功を要する道によって煩悩を離れるので、楽住ではありません。例えば、多くの人々が一緒に大河を渡る時、ある者は草の束に頼り、ある者は浮き瓢（ひさご）に頼り、ある者は筏（いかだ）に頼り、ある者は大きな船に頼ります。大きな船に頼る者は、自然に安楽に彼岸に到達できます。他のものに頼る者は、恐れや困難を抱えながら彼岸に到達します。有情（うじょう）もまた同じで、煩悩の大河を渡る時、ある者は静慮に依り、ある者は他の境地に依ります。どちらも生死の此岸から涅槃の彼岸に渡るけれども、静慮に依る者は安楽で到達しやすいので「楽住」と名付けられ、近分定や無色定に依る者はそうではありません。 このように様々な因縁によって、ただ四静慮だけが「楽住」と名付けられます。「楽住」と名付けられるように、「触住」「倶住」とも名付けられます。

四無量者。一慈二悲三喜四捨。問何故靜慮無間說無量耶。答靜慮引起四無量故。復次靜慮無量更相引故。復次以四無量是靜慮中勝功德故。問此四無量自性是何。答慈悲俱以無瞋善根。為自性對治瞋故。若兼取相應隨轉。則四蘊五蘊為自性。欲界者四蘊。色界者五蘊。問若慈悲俱以無瞋善根。為自性對治瞋者。慈對治何等瞋。悲對治何等瞋耶。答慈對治斷命瞋。悲對治捶打瞋。復次慈對治應瞋處瞋。悲對治不應瞋處瞋。有作是說。慈無量以無瞋善根。為自性對治瞋故。悲無量以不害為自性對治害故。喜以喜根為自性。若兼取相應隨轉。則欲界者四蘊為自性。色界者五蘊為自性。問若喜無量以喜根為自性者。品類足說當云何通。如說。云何喜無量。謂喜及喜相應受想行識。若彼所起身語二業。若彼所起心不相應行皆名為喜。豈有喜受與受相應。答彼文應說。謂喜及喜相應想行識。不應言受而言受者是誦者謬。復次彼論總說五蘊為喜無量自性。雖喜受與受不相應。而餘心心所法與受相應。故作是說亦不違理。有餘師說。此喜無量欣為自性。欣體非受別有心所與心相應。有說。欣在喜根相應聚中可得。有作是說。喜根後生欣由喜力所引起故。若作是說此喜無量與受相應亦不違理。捨以無貪善根為自性對治貪故。若兼取相應隨轉。則欲界者四蘊為自性。色界者五蘊為自性。如是名為無量自性。問此四無量其相云何。答自性即是相。相即是自性。自性與相不相離故。尊者世友作如是說。授與饒益是慈相。除去衰損是悲相。慶慰得捨是喜相。忘懷平等是捨相。

> 四無量とは、第一に慈、第二に悲、第三に喜、第四に捨である。問う、なぜ静慮の後に無量を説くのか。答う、静慮が四無量を引き起こすからである。また、静慮と無量は互いに引き合うからである。また、四無量は静慮の中の優れた功徳であるからである。問う、この四無量の自性は何か。答う、慈と悲はともに無瞋の善根を自性とし、瞋を対治するからである。もし対応する心所や随転するものを兼ね取るならば、四蘊または五蘊を自性とする。欲界では四蘊、色界では五蘊である。問う、もし慈と悲がともに無瞋の善根を自性とし、瞋を対治するならば、慈はどのような瞋を対治し、悲はどのような瞋を対治するのか。答う、慈は命を断つ瞋を対治し、悲は殴打する瞋を対治する。また、慈は瞋るべき所での瞋を対治し、悲は瞋るべきでない所での瞋を対治する。ある説では、慈無量は無瞋の善根を自性とし、瞋を対治する。悲無量は不害を自性とし、害を対治する。喜は喜根を自性とする。もし対応する心所や随転するものを兼ね取るならば、欲界では四蘊を自性とし、色界では五蘊を自性とする。問う、もし喜無量が喜根を自性とするならば、『品類足論』の説はどう通すべきか。そこにはこうある。「何を喜無量というか。喜び、および喜びと相応する受・想・行・識をいう。もしそれによって生じる身と語の二業、もしそれによって生じる心不相応行もすべて喜と名づける」と。どうして喜の受が受と相応することがあろうか。答う、その文は「喜び、および喜びと相応する想・行・識」と説くべきである。「受」と言うべきでないのに「受」と言うのは、誦する者の誤りである。また、その論は総じて五蘊を喜無量の自性と説く。喜の受は受と相応しないが、他の心・心所法は受と相応するので、このように説いても理に反しない。他の師は説く、この喜無量は欣を自性とする。欣の体は受ではなく、別の心所があって心と相応する。ある説では、欣は喜根と相応する聚の中に得られる。ある説では、喜根の後に欣が生じ、喜の力によって引き起こされる。もしこのように説くならば、この喜無量は受と相応しても理に反しない。捨は無貪の善根を自性とし、貪を対治するからである。もし対応する心所や随転するものを兼ね取るならば、欲界では四蘊を自性とし、色界では五蘊を自性とする。これを無量の自性と名づける。問う、この四無量の相はどのようなものか。答う、自性がすなわち相である。相がすなわち自性である。自性と相は離れないからである。尊者世友はこのように説く。饒益を施すことは慈の相である。衰損を取り除くことは悲の相である。捨を得たことを慶び慰めることは喜の相である。平等に心を忘れ執着しないことは捨の相である。

已說無量自性及相。所以今當說。問何故名無量。無量是何義。答普緣有情對治無量戲論煩惱故名無量。問戲論有二種。一愛戲論。二見戲論。何無量。對治何戲論耶答無量不能斷諸煩惱。但能制伏。或令轉遠。有時四種皆對治愛。有時四種皆對治見。若依四種近對治說。應言慈悲近對治見戲論。以見行者多瞋恚故。喜捨近對治愛戲論。以愛行者多親附故。有作是說。慈悲近對治愛戲論。喜捨近對治見戲論。復次普緣有情對治無量放逸煩惱故名無量。謂四無量能近對治欲界放逸諸煩惱故。復次如是四種是諸賢聖。廣遊戲處故名無量。如富貴人有無量種廣遊戲處。謂諸園苑宮殿臺閣遊獵等處。復次如是四種能緣無量有情為境。生無量福引無量果故名無量。

> すでに無量の自性（本質）と相（特徴）について説きました。それでは次に、なぜ「無量」という名前なのかを説きましょう。問う、「何をもって無量と名づけるのか。無量とはどういう意味か」。答えていわく、「あまねく有情（いきとし生けるもの）を縁（よりどころ）とし、無量の戲論（けろん、余計な分別や言葉遊び）による煩悩を対治するから、無量と名づける」。 問う、「戲論には二種類ある。一つは愛による戲論、二つは見（誤った見解）による戲論である。無量は、どの戲論を対治するのか」。答えていわく、「無量はすべての煩悩を断ち切ることはできない。ただ抑え込んだり、遠ざけたりするだけである。時にはこの四つがすべて愛を対治し、時にはこの四つがすべて見を対治することもある。もし四つそれぞれに最も近い対治を説くならば、こう言うべきである。『慈悲は見による戲論に最も近く対治する。見に執着する人は、とかく怒りが多いからである。喜と捨は愛による戲論に最も近く対治する。愛に執着する人は、とかく執着しやすいからである』と。また、こう説く人もいる。『慈悲は愛による戲論に最も近く対治し、喜と捨は見による戲論に最も近く対治する』と。 また、あまねく有情を縁とし、無量の放逸（だらしなさ）による煩悩を対治するから、無量と名づける。すなわち、この四無量は、欲望の世界における放逸による諸々の煩悩に、最も近く対治するからである。 また、この四つは、聖者たちが広く遊び戯れるところであるから、無量と名づける。たとえば、富裕な人には数え切れないほど多くの遊び戯れる場所があるようなものである。すなわち、園や苑、宮殿、楼閣、狩猟の場などである。 また、この四つは、無量の有情を縁として対象とし、無量の福徳を生み、無量の果報を引き寄せるから、無量と名づけるのである。

此四無量界者在欲色界。地者慈悲捨三在七地。謂欲界四靜慮。及未至定靜慮中間。有說。在十地。謂四靜慮四近分。靜慮中間及欲界。喜無量在三地。謂欲界初二靜慮有餘師說。初二靜慮無悲無量。所以者何。初二靜慮有勝喜受歡行相轉。悲無量慼行相轉。初二靜慮若有悲者。則一心中有歡有慼便違正理。問若爾初二靜慮如何有無漏厭。答無漏厭與真實作意相應不違於喜。如如於境覺真實相。如是如是深生喜慰如如於境深生喜慰。如是如是復欣彼覺。如人求寶而掘於地。如如掘地如是如是得諸寶物。如如得寶如是如是復欣掘地。悲無量與勝解作意相應故違於喜。評曰。應作是說。初二靜慮有悲無量。云何知然。有至教故。如定蘊說。初二靜慮攝初二靜慮四無量等故知有悲。此四無量所依者。唯依欲界身而得現起。行相者。慈有與樂行相。悲有拔苦行相。喜有喜慰行相。捨有捨置行相。所緣者。唯緣欲界。唯緣聚集。唯緣和合。唯緣有情。謂緣欲界五蘊二蘊有情為境。若諸有情住自地心者則緣彼五蘊。若諸有情住他地心。或無心者則緣彼二蘊。有作是說。初靜慮無量緣欲界有情。第二靜慮無量。緣欲界及初靜慮有情。第三靜慮無量。緣欲界及初二靜慮有情。第四靜慮無量緣欲界及下三靜慮有情。復有說者。初靜慮無量。緣欲界及初靜慮有情。第二靜慮無量。緣欲界及初二靜慮有情。第三靜慮無量。緣欲界及下三靜慮有情。第四靜慮無量。緣欲界及四靜慮有情。有餘師說。慈無量緣欲界及下三靜慮。所以者何。慈無量與樂行相轉。唯四地中有樂受故。悲無量唯緣欲界。所以者何。悲無量拔苦行相轉。唯欲界中有苦受故。喜無量緣欲界及初二靜慮。所以者何。喜無量喜慰行相轉。唯三地中有喜受故。捨無量緣欲界四靜慮。所以者何。捨無量捨置行相轉。一切地中有捨受故。評曰。此諸說中初說為善。謂四但緣欲界為境。念住者。此四唯與法念住俱。智者此四唯與世俗智俱。三摩地者。此四不與三摩地俱。唯有漏故。根相應者。慈悲捨三與喜樂捨三根相應。喜全不與受根相應。若兼說彼相應隨轉。則喜亦與喜根相應。過去未來現在者。此四無量皆通三世。過去緣過去。現在緣現在。未來可生法緣未來不可生法。緣三世善不善無記者。此四無量唯是善緣三種。欲界色界無色界繫者。此四無量欲色界繫唯緣欲界繫。學無學非學非無學者。此四無量唯非學非無學唯緣非學非無學。見所斷修所斷非所斷者。此四無量唯修所斷。緣見修所斷。緣名緣義者。此四無量通緣二種。緣自相續緣他相續者。此四無量唯緣他相續加行得離染得者。此四無量皆通二種。應知此中離染得者。謂初靜慮無量離欲界染故得。第二靜慮無量。離初靜慮染故得。第三靜慮無量。離第二靜慮染故得。第四靜慮無量。離第三靜慮染故得。或離自地上地染時。修得無量加行得者。謂四無量多由加行而現在前。佛不由加行而現在前。獨覺由下加行而現在前。聲聞由中上加行而現在前。異生不定種姓多故。曾得未曾得者此。四無量皆通二種。一切聖者及住後有異生皆通二種。諸餘異生唯是曾得。有作是說。一切聖者及住內法異生皆通二種。外法異生唯是曾得。

> 此四無量心，存在於欲界與色界之中。就其依地而言，慈、悲、捨三者，位於七地，即：欲界、四靜慮、未至定與靜慮中間。另有一說，認為它們位於十地，即：四靜慮、四近分、靜慮中間及欲界。喜無量則位於三地，即：欲界與初、二靜慮。 有論師認為，初、二靜慮沒有悲無量。為什麼呢？因為初、二靜慮有殊勝的喜受，其行相是歡悅的。而悲無量的行相是憂慼的。如果在初、二靜慮中有悲，那麼一心中同時有歡悅與憂慼，這就違背了正理。 問：如果是這樣，初、二靜慮怎麼會有無漏的厭離呢？答：無漏的厭離與真實作意相應，不違背喜受。就像這樣，越是如實地觀察境界的真實相，就越能深生喜慰；越是深生喜慰，就越能歡喜那種覺察。這好比有人為了找寶物而挖地，挖得越深，得到的寶物就越多；得到的寶物越多，就越發歡喜挖地這件事。而悲無量與勝解作意相應，因此與喜受相違。 評曰：應當這樣說，初、二靜慮是有悲無量的。怎麼知道是這樣呢？因為有聖教的根據。如《定蘊》中說：「初、二靜慮包含初、二靜慮的四無量等。」因此知道有悲。 這四無量的所依，是依於欲界的身體才能生起。 行相方面：慈以給予快樂為行相，悲以拔除痛苦為行相，喜以欣慰喜悅為行相，捨以平等捨置為行相。 所緣方面：只緣欲界，只緣聚集，只緣和合，只緣有情。也就是以欲界的五蘊、二蘊及有情為所緣對象。如果有情安住於自地之心，則緣其五蘊；如果有情安住於他地之心，或是無心，則緣其（色、行）二蘊。 有人說：初靜慮的無量緣欲界有情。第二靜慮的無量緣欲界及初靜慮的有情。第三靜慮的無量緣欲界及初、二靜慮的有情。第四靜慮的無量緣欲界及下三靜慮的有情。 又有說法：初靜慮的無量緣欲界及初靜慮的有情。第二靜慮的無量緣欲界及初、二靜慮的有情。第三靜慮的無量緣欲界及下三靜慮的有情。第四靜慮的無量緣欲界及四靜慮的有情。 還有論師說：慈無量緣欲界及下三靜慮。為什麼呢？因為慈無量是以給予快樂為行相而運轉的，而只有這四個地方有樂受。悲無量只緣欲界。為什麼呢？因為悲無量是以拔除痛苦為行相而運轉的，而只有欲界有苦受。喜無量緣欲界及初、二靜慮。為什麼呢？因為喜無量是以欣慰喜悅為行相而運轉的，而只有這三個地方有喜受。捨無量緣欲界及四靜慮。為什麼呢？因為捨無量是以平等捨置為行相而運轉的，而一切地方都有捨受。 評曰：在這些說法中，最初的說法為善，即四無量只緣欲界為境。 念住方面：這四者只與法念住相應。 智方面：這四者只與世俗智相應。 三摩地方面：這四者不與三摩地相應，因為它們只屬於有漏法。 根相應方面：慈、悲、捨三者與喜、樂、捨三根相應。喜則完全不與受根相應。如果兼說與之相應的隨轉法，那麼喜也與喜根相應。 過去、未來、現在方面：這四無量都貫通三世。過去緣過去，現在緣現在，未來中可生之法緣未來，不可生之法緣三世。 善、不善、無記方面：這四無量唯是善法，但能緣三種（善、不善、無記）。 欲界、色界、無色界繫方面：這四無量屬於欲界、色界所繫，唯緣欲界所繫。 學、無學、非學非無學方面：這四無量唯是非學非無學，也唯緣非學非無學。 見所斷、修所斷、非所斷方面：這四無量唯是修所斷，緣見所斷與修所斷。 緣名、緣義方面：這四無量通緣兩種。 緣自相續、緣他相續方面：這四無量唯緣他相續。 加行得、離染得方面：這四無量都通兩種。應知這裡所說的離染得是指：初靜慮無量是遠離欲界煩惱時所得；第二靜慮無量是遠離初靜慮煩惱時所得；第三靜慮無量是遠離第二靜慮煩惱時所得；第四靜慮無量是遠離第三靜慮煩惱時所得。或者說，在遠離自地或上地煩惱時，修得無量。 加行得是指：四無量大多由加行力而現前。佛不由加行而自然現前；獨覺由下等加行而現前；聲聞由中等或上等加行而現前；凡夫則不定，因為種姓眾多的緣故。 曾得、未曾得方面：這四無量都通兩種。一切聖者以及住於後有（輪迴最後一生）的凡夫，都通兩種。其餘凡夫則唯是曾得。另有一說：一切聖者以及住於內法（佛教內部）的凡夫都通兩種，而外法（佛教外部）的凡夫唯是曾得。

## 說一切有部發智大毘婆沙論卷第八十一

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