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title: "正法念處經 · 1"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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### 十善業道品第一

> 十善業道品第一

歸命一切諸佛菩薩

> 一切の仏と菩薩に帰依いたします。

如是我聞：

> 私はこのように聞きました。

一時，婆伽婆在王舍城遊那羅陀婆羅門村。爾時，慧命舍利弗於晨朝時，共眾多比丘入王舍城，各各行乞。爾時，眾多比丘離慧命舍利弗而行乞食，遂爾往到遮羅迦波離婆闍迦外道所已，共相問訊，彼此歡喜說法語論，迭互相問。

> ある時、世尊は王舎城の那羅陀婆羅門村に滞在されていた。その時、舎利弗尊者は朝早く、多くの比丘たちと共に王舎城へ托鉢に入られた。やがて、多くの比丘たちは舎利弗尊者から離れて托鉢をし、そのまま遮羅迦波離婆闍迦という外道のところへと行き着いた。彼らは互いに挨拶を交わし、喜び合いながら法について語り合い、問いを交わし合った。

彼遮羅迦波離婆闍迦外道問諸比丘言：「汝之釋迦沙門瞿曇說如是法：『欲為不善，是不可愛，非是可樂，非是可意，於他欲者，亦不隨喜。』我亦如是說：『彼身業是不可愛，非是可樂，非是可意，於他欲者，亦不隨喜。』汝之釋迦沙門瞿曇說：『彼口業是不可愛，非是可樂，非是可意，不隨喜他。』我亦如是說：『彼口業是不可愛，非是可樂，非是可意，不隨喜他。』汝之釋迦沙門瞿曇說：『彼意業是不可愛，非是可樂，非是可意，不隨喜他。』我亦如是說：『彼意業是不可愛，非是可樂，非是可意，不隨喜他。』汝之釋迦沙門瞿曇如是法律，為有何異？何意？何勝？若汝釋迦沙門瞿曇如是法律，與我何異，而汝釋迦沙門瞿曇自說：『我是一切智人。』」彼遮羅迦波離婆闍迦外道如是問已，彼諸比丘新出家故，於比丘法未能善解，心不隨喜，是故不答。爾時，眾多比丘既乞食已，離慧命舍利弗，各各皆到那羅陀村，食訖已住。爾時，慧命舍利弗亦乞食已，同共往到那羅陀村。爾時，眾多比丘往到慧命舍利弗所，具說如上。

> そのチャーラカ・ヴァリヤ・ヴァージャカという外道が、比丘たちに尋ねました。 「あなた方の釈迦族の沙門ゴータマは、こう説いていると聞く。『欲は不善であり、好ましいものではなく、楽しいものでもなく、望ましいものでもなく、他人の欲についても喜びを感じるべきではない』と。私も同じく言う。『その身の行いは好ましいものではなく、楽しいものでもなく、望ましいものでもなく、他人のそれについても喜びを感じるべきではない』と。 あなた方の釈迦族の沙門ゴータマは、『その口の行いは好ましいものではなく、楽しいものでもなく、望ましいものでもなく、他人のそれについて喜びを感じるべきではない』と説く。私も同じく言う。『その口の行いは好ましいものではなく、楽しいものでもなく、望ましいものでもなく、他人のそれについて喜びを感じるべきではない』と。 あなた方の釈迦族の沙門ゴータマは、『その心の行いは好ましいものではなく、楽しいものでもなく、望ましいものでもなく、他人のそれについて喜びを感じるべきではない』と説く。私も同じく言う。『その心の行いは好ましいものではなく、楽しいものでもなく、望ましいものでもなく、他人のそれについて喜びを感じるべきではない』と。 では、あなた方の釈迦族の沙門ゴータマのこの教えと戒律は、私のものと一体どこが違うのか？ 何が特別な意味があり、何が優れているというのか？ もしあなた方の釈迦族の沙門ゴータマの教えと戒律が、私のものと何も変わらないのであれば、どうしてあなた方の釈迦族の沙門ゴータマは自ら『私は一切智人である』などと言うのか？」 そのチャーラカ・ヴァリヤ・ヴァージャカという外道がこのように問うた後、それらの比丘たちは新たに出家したばかりで、比丘としての法をまだよく理解しておらず、心に納得がいかず、それゆえに答えませんでした。 その時、多くの比丘たちは托鉢を終え、慧命舎利弗から離れて、それぞれナラダ村へと向かい、食事を済ませて留まっていました。その時、慧命舎利弗もまた托鉢を終え、彼らと共にナラダ村へとやって来ました。その時、多くの比丘たちは慧命舎利弗のもとへと赴き、上記のことを詳しく話しました。

爾時，慧命舍利弗語眾多比丘言：「若我，慧命！共汝相隨王舍城內，同四出巷、同三角巷，即共汝等到遮羅迦波離婆闍迦外道所者，我則能以正法破之。然我在於異四出巷、異三角巷而行乞食，故我如是不聞彼難。彼遮羅迦波離婆闍迦外道前所問難，世尊普眼——諸業果報一切現知，今在此處最為尊勝，一切外道見則降伏，為諸聲聞、諸優婆塞、諸天人等，善說一切業果報法——去此不遠，汝可往問。彼當為汝善說一切業果報法，若天、魔、梵，世間、沙門、婆羅門等所不能說，唯有如來能為汝說。我於彼法未善通達，唯有世尊第一善解業果報法能為汝說。」爾時，眾多比丘向世尊所。

> その時、慧命舎利弗は多くの比丘たちに語った。「もし私が、慧命として、あなた方と共に王舎城の内を歩き、同じ四つ辻や同じ三角路を共にし、あなた方と一緒に遮羅迦波離婆闍迦外道の所へ行くならば、私は正法をもって彼らを論破することができましょう。しかし私は別の四つ辻や別の三角路を托鉢して歩いていたので、そのような難問を耳にすることはありませんでした。あの遮羅迦波離婆闍迦外道が前に問いかけた難問については、世尊は普眼をもって一切の業とその果報を現知され、今ここにおられて最も尊勝であり、すべての外道はお会いすれば降伏し、諸声聞や諸優婆塞、諸天・人たちのために、一切の業果報の法を善く説かれます――ここから遠くないところにおられますから、あなた方は尋ねに行くがよい。世尊はあなた方のために一切の業果報の法を善く説いてくださるでしょう。それは天・魔・梵天、世間の沙門・婆羅門などが説くことのできないもので、ただ如来のみがあなた方のために説くことができるのです。私はその法についてまだ善く通達しておりません。ただ世尊こそが第一に業果報の法を善く理解され、あなた方のために説くことができるお方です。」その時、多くの比丘たちは世尊のおられる所に向かった。

爾時，世尊依晝時法，如須彌山，自光網焰如晝日明；如夜中月，如月清涼；如陂池清，甚深如海，安住不動如須彌山，心無所畏如師子王，一切眾生之所歸依。猶如父母，大悲熏心，一切眾生唯一上親。慈、悲、喜、捨為依止處，以三十七大菩提分勝妙之法莊嚴其身，一切眾生清淨眼觀無有厭足，勝日月光。釋迦王子偈言：

> その時、世尊は昼の法に依り、須弥山のごとく、自らの光の網は炎のごとく昼の日の明るさのようであり、夜中の月のごとく、月のように清らかで涼やかであり、池の水のように澄み、海のように甚深であり、須弥山のように安らかに動かず、心に畏れるところなく獅子王のようであり、一切の衆生が帰依するところである。父母のように、大悲が心を薫じ、一切の衆生にとって唯一の尊き親である。慈・悲・喜・捨を依りどころとし、三十七の大菩提分という勝れた妙なる法をもってその身を荘厳し、一切の衆生が清浄な眼で観ても飽き足りることがなく、日月の光よりも勝れている。釈迦王子は偈を述べて言った。

「世尊廣普眼，無三垢淨眼，能巧說二諦，善知三種苦。如是佛世尊，已修二種修，現證於道果，滅諦智具足。遠離三界眼，而說異三界，知十八界諦，觀知解脫諦。十八功德眾，自功德相應，解脫九繫縛，具足十種力。成就四無畏，亦成就大悲，大悲心深潤，成就三念處。」

> 世尊の眼は広く遍く照らし、三つの煩悩の垢に染まらない清らかな眼。 巧みに二つの真理を説き、三種の苦をよく知っておられる。 このような仏世尊は、二種類の修行を修められ、 道とその果を現に証し、滅の真理を知る智慧を具えておられる。 三界を遠く離れた眼を持ちながら、三界とは異なる境地を説き、 十八界の真理を知り、解脱の真理を観て知っておられる。 十八の功徳の衆と、自らの功徳が相応じ、 九つの束縛から解き放たれ、十種の力を具えておられる。 四つの恐れなきことを成就し、また大いなる慈悲を成就され、 大悲の心は深く潤い、三つの念処を成就しておられる。

爾時，眾多比丘既見世尊，整服一肩，如法叉跪，右膝著地禮世尊足，退在一面，正威儀住，低頭斂容。爾時，眾多比丘推一比丘往近世尊，復更頂禮世尊足已，白言：「世尊！我於晨朝著衣持鉢，入王舍城而行乞食。如上所說，次第乃至共彼外道遮羅迦波離婆闍迦問難語說，彼問身業、口業、意業，皆如上說。」

> その時、多くの比丘たちは世尊を見るや、衣を整え、片方の肩を出し、法にかなって跪き、右膝を地につけて世尊の足を礼拝し、一歩退いて側に立ち、威儀を正し、頭を垂れて姿を整えた。 その時、多くの比丘たちは一人の比丘を推して世尊の近くに進ませ、再び世尊の足を礼拝して言った。 「世尊よ、私は朝早く衣を着て鉢を持ち、王舎城に入り、托鉢をして歩きました。先ほど申し上げた通り、順を追って、あの外道の遮羅迦波離婆闍迦と問答を交わしました。彼は身の行い、口の行い、心の行いについて尋ね、すべて先ほど申し上げた通りです。」

爾時，世尊先觀察已，然後為說。爾時，世尊為彼比丘、那羅陀村諸婆羅門而說法言：「汝諸比丘！我所說法，初、中、後善，義善、語善，法應具足清淨鮮白，梵行開顯，所謂正法念處法門。諦聽，諦聽！善思念之，我為汝說。」

> その時、世尊はまずよく観察し、それから説法を始められました。世尊はその比丘と、那羅陀村のバラモンたちに向かって、こう説かれました。 「比丘たちよ、私が説く教えは、初めも、中も、終わりも善く、その意味も言葉も善く、法は完全に清らかで純白であり、清らかな行いを明らかに開示するものです。それが『正法念処法門』と呼ばれるものです。よく聞きなさい、よく聞きなさい。善く心に留めて考えなさい。今からあなたがたのために説きましょう。」

諸比丘言：「如是。世尊！」彼諸比丘於世尊所，至心諦聽。

> 諸比丘たちは言いました。「かしこまりました。世尊よ！」彼ら諸比丘は世尊のもとで、心を込めて真剣に聞き入りました。

爾時，世尊為諸比丘，如是說言：「諸比丘！何者正法念處法門？所謂法見法、非法見非法，常念彼處心不生疑，憙樂聞法，供養長宿。彼知身業、口業、意業，業果生滅，不顛倒見，不行異法。諸比丘！身業三種，所謂殺生、偷盜、邪婬。云何殺生？於他眾生，生眾生想，起殺害心，斷其命根，得成殺生。彼有三種，謂上、中、下。所言上者，殺羅漢等，墮阿鼻獄；所言中者，殺住道人；所言下者，殺不善人及殺畜生。又復三種，所謂過去、未來、現在。又復三種，所謂貪作、瞋作、癡作。彼貪作者，所謂獵等；彼瞋作者，所謂下性；彼癡作者，外道齋等。又復三種，所謂自作、他教、二作。有五因緣，雖是殺生，無殺罪業，所謂道行無心傷殺蠕、蟻等命；若擲鐵等，無心殺生而斷物命；醫師治病為利益故，與病者藥，因藥命斷，醫無惡心；父母慈心為治故打，因打命終；燃火虫入，無心殺虫，虫入火死。如是五種，雖斷生命，不得殺罪。又復更有三種殺生，所謂教他、自作、二作。

> その時、世尊は比丘たちに、このように説かれました。 「比丘たちよ、正しい法を観察する方法とは何か。それは、法を見て法と知り、非法を見て非法と知ることである。常にその境地を念じ、心に疑いを生じさせず、法を聞くことを喜び、長老を敬い供養することである。彼は身の行い、口の行い、意の行いを知り、業の果報が生じ滅することを理解し、誤った見解を持たず、邪な行いをしない。 比丘たちよ、身の行いには三種類ある。すなわち、殺生、盗み、邪淫である。 殺生とは何か。他の生き物に対して、それが生き物であると認識し、殺害する心を起こし、その命の根を断つことである。これによって殺生が成立する。 殺生には三種類あり、上・中・下とされる。 上とは、阿羅漢などを殺すことであり、阿鼻地獄に堕ちる。 中とは、修行者を殺すことである。 下とは、不善な人や畜生を殺すことである。 また、三種類として、過去・未来・現在によるものがある。 さらに、貪りによってなされるもの、怒りによってなされるもの、愚かさによってなされるものがある。 貪りによるものとは、狩猟などである。 怒りによるものとは、下劣な性質によるものである。 愚かさによるものとは、外道の斎戒などである。 また、三種類として、自分で行うもの、他人に教えて行わせるもの、その両方によるものがある。 五つの因縁によって、たとえ殺生であっても殺生の罪業にはならない場合がある。 一、 道を歩いていて、無心に蠕虫や蟻などの命を傷つけ殺してしまうこと。 二、 鉄などを投げ、殺すつもりはなかったが、結果として生き物の命を断ってしまうこと。 三、 医師が治療のため、病人に利益になると考えて薬を与え、その薬によって命が絶たれた場合で、医師に悪意がないこと。 四、 親が慈愛の心から、子供を懲らしめるために打ち、その打撃によって命が終わること。 五、 火を燃やしているところに虫が入り、虫を殺すつもりはなかったが、虫が火に入って死んでしまうこと。 この五つの場合は、たとえ生命を断っても、殺生の罪にはならない。 さらにまた、殺生には三種類ある。すなわち、他人に教えるもの、自分で行うもの、その両方によるものである。」

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何偷盜成就滿足？云何偷盜得果報少？彼見聞知或天眼見：他物他攝、自意盜取，如是偷盜成就滿足。若是王法，為饒益尊父母、病人、緣覺、羅漢、阿那含人、斯陀含人、須陀洹等，若為病急，若為飢急；彼為饒益，如是偷盜，得果報少，盜業不具。又復偷盜得果報少，謂偷盜已，專心懺悔；既懺悔已，後更不作；遮他偷盜，教不盜戒，示其善道，令住善法遠離偷盜。如是盜業不具足滿。何業具足？若人偷盜，彼偷盜人若誑惑他，屏處思量作欺誑事，斗秤治物作惡業行，如是種種，此業具足。云何成業？若他攝物，知已盜取，如是成業。何業具足？作已隨喜，樂行多作，向他讚說，又復教他善戒者盜，此業具足。如是三業具足不減，餘偷盜業，得果報少而不決定。

> また修行者が心の中で思惟し――正法に従い、法の行いを観察する――どのようにして盗みが成就し満たされるのか？どのようにして盗みの果報が少なくなるのか？彼は見聞して知るか、あるいは天眼で見る：他人の物、他人の所有するものを、自らの意思で盗み取る、これが盗みの成就と充足である。もし国王の法のため、あるいは父母、病人、縁覚、羅漢、阿那含、斯陀含、須陀洹などのために利益を与えるため、あるいは病気の緊急時、飢えの緊急時のため、それらの利益のために行う盗みは、果報が少なく、盗みの業は完備しない。また、盗みの果報が少なくなるのは、盗みを行った後、心を込めて懺悔し、懺悔した後、二度と行わず、他人の盗みを止めさせ、盗まない戒めを教え、善き道を示し、善法に住まわせて盗みから遠ざけることである。このように盗みの業は完備せず満たされない。どのような業が完備するのか？もし人が盗みを行い、その盗み人が他人を欺き惑わし、人目を避けて欺きの事を考え、升や秤で物を量る際に悪業を行い、このような種々の行いをするならば、この業は完備する。どのようにして業となるのか？他人の所有物であると知りながら盗み取る、これが業となるのである。どのような業が完備するのか？行った後に随喜し、喜んで多く行い、他人に褒め称え、また他人に善い戒めを教えながら盗ませる、この業は完備する。この三つの業が完備して減ることがなければ、他の盗みの業は果報が少なく、しかも定まらない。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何邪婬？此邪婬人，若於自妻，非道而行，或於他妻，道非道行；若於他作，心生隨喜；若設方便，強教他作。是名邪婬。云何邪婬得果報少？若邪婬已，專心懺悔，不隨喜他，遮他邪婬，示其善道，彼邪婬業不具足滿。離邪婬意，修行善戒，如是邪婬得果報少，不決定受。

> また修行者は、内なる心で深く思惟する――正法に随順し、法の行いを観察する――邪淫とは何か？この邪淫を行う者は、自分の妻に対して、不適切な方法で行い、あるいは他人の妻に対し、適切・不適切を問わず行う。他人が行うのを見て、心に随喜し、もし手段を設けて、無理に他人に行わせる。これを邪淫という。どうして邪淫の果報が少なくなるのか？もし邪淫を行った後、一心に懺悔し、他人の行いに随喜せず、他人の邪淫を遮り、善き道を示せば、その邪淫の業は完全には満たされない。邪淫の心を離れ、善き戒めを修行すれば、このような邪淫は果報が少なく、必ずしも受けるとは限らない。

「如是三種身不善業，得果報少，果報輕軟。如是外道遮羅迦波離婆闍迦所不能知，非其境界；并天、世間，若魔、若梵、沙門、婆羅門，一切世間、諸天人等所不能知，除我聲聞，從我聞故，知業果報，更無教者。

> この三つの身体による不善の行いは、その果報が少なく、軽やかで柔らかいものです。このことは、外道の遮羅迦波離婆闍迦たちには知り得ず、彼らの理解の及ぶ範囲ではありません。天界やこの世の者たち、魔や梵天、沙門や婆羅門、すべての世間の神々や人々も、これを知ることはできません。ただ、私の声聞弟子たちだけが、私から聞いたことによって業とその果報を知ることができるのです。他に教える者はありません。

「又修行者知業果報，云何口業惡不善行？口業四種，所謂妄語、兩舌、惡口、綺語，如是四種。何者妄語？自思惟已，然後於他作不實語，若作呪誓，若在王前，若王等前，妄語言說，令他衰惱，或打、或縛、或令輸物；彼成妄語如是滿足，成妄語業地獄中受。

> また修行者は業の因果を知る。口による悪い行いとは何か。口の業には四つの種類がある。すなわち、嘘をつくこと、二枚舌を使うこと、悪口を言うこと、無駄なおしゃべりをすること。これが四つである。 何が嘘をつくことか。自分で考えたうえで、他人に真実でないことを言うこと。もし誓いを立てたり、王の前や、王に準ずる人の前で、虚偽の言葉を語り、他人を苦しめたり、打たせたり、縛らせたり、物を奪わせたりすること。それが嘘をつくことの完成であり、嘘の業が満たされた状態である。その報いは地獄で受けることになる。

「復有口業名為兩舌，於和合者、共作業者，破壞語說；如是語者，成就兩舌。云何此語得果報少？破壞語已，心中生悔：『我愚癡故作如是說。』專心懺悔，亦遮他人作破壞語，示其善道，業不具足，此業不重。云何此業不具足滿？此破壞語，或以煩惱、或以酒醉，心異分別，向他異說，此業不足。云何名為業道相應成破壞語？若以惡心破壞於他，隨喜讚嘆，如是名為業道相應成破壞語。云何此業決定成就破壞語說？作已隨喜，復教他作，隨喜讚說；喜樂貪著，不離於心；常懷惡心，他人所避；不可往返，為他毀呰；不生羞恥，無慚、無愧，不能自知。如是名為破壞語業。

> また、口による行いとして「両舌」と呼ばれるものがあります。これは、仲の良い者同士や、共に働く者たちの間を、言葉で引き裂くことです。そのような言葉を発するならば、両舌の行いを成したことになります。 では、どうしてこのような行いが、得る果報が少ない場合があるのでしょうか？それは、引き裂くような言葉を発した後、心に後悔が生じるからです。「私は愚かだったから、そんなことを言ってしまった」と、一心に懺悔し、また他人が引き裂く言葉を使うのを止めさせ、善い道を示すならば、その行いは完全ではなく、重くはありません。 では、どうしてこの行いが完全で満たされていないと言えるのでしょうか？この引き裂く言葉は、煩悩によって、あるいは酒に酔って、心が乱れ、相手によって異なることを言うからです。このような行いは不完全なのです。 では、どのような場合に、業道に相応する完全な両舌の行いと言えるのでしょうか？もし悪意をもって他者を引き裂き、それを喜び、褒め称えるならば、それは業道に相応する完全な両舌の行いと言えます。 では、どのような場合に、この行いは確実に両舌の行いとして成り立つのでしょうか？行った後にそれを喜び、さらに他人にも行うように教え、それを褒め称えること。喜び楽しみ、貪り執着し、心から離れないこと。常に悪意を抱き、他人から避けられ、行き来できず、他者から非難されても、恥を知らず、慚愧の心もなく、自分自身を顧みないこと。このような行いを、完全な両舌の業と言います。

「又修行者觀察業集，云何名為惡口業行？彼見聞知或天眼見：如是惡口能生熱惱，聞不悅耳，不忍他惡，令異人信，若重、若輕，戲笑、瞋心，得無量報、無量種報。彼重惡口，墮於地獄；彼輕惡口，不決定受。如是名為第三口業，彼業具足相應之義，如前所說。

> また修行者は業の集まりを観察する。どうして悪口の業行と呼ばれるのか。彼は見聞知し、あるいは天眼で見る。このような悪口は熱い悩みを生み、耳に快くなく、他人の悪を耐えられず、他の人を信じさせ、重くても軽くても、冗談でも怒りの心でも、無量の報い、無量の種の報いを得る。その重い悪口は地獄に堕ちる。その軽い悪口は必ずしも受けるとは限らない。これが第三の口業と呼ばれる。その業は具足した相応の意味を持ち、前に述べた通りである。

「又修行者知業報法，云何名為第四口業無義綺語？前後相違，不相應說。不決定受，決定如餘，如是名為第四口業。

> また修行者は業とその報いを知る法について、第四の口業である無意味なおしゃべりとは何か。それは前後の言葉が矛盾し、筋道が通らない話し方です。確かな根拠もなく、他の事柄を決めつけるように話すこと。これが第四の口業と呼ばれるものです。

「又修行者觀業報法，云何意業？意業幾種？彼見聞知，意業三種：貪、瞋、邪見。何者為貪？若見他人富者財物，心生希望欲得彼物，是意貪業。復次，意業：若見他人富者財物，心生惡嫉，是意嫉業；若生邪見、生顛倒見，是邪見業。彼有二種，謂失、不信。云何不信？彼人心謂：『無施、無祀，無齋、無會，無有善業、無不善業，無業果報。』廣則無量。云何為失？彼人心謂一切苦樂皆是天作，非業果報。如是二種，名為邪見。

> また修行者は業報の法を観察する。意業とは何か。意業には幾つかの種類があるのか。彼は見聞し知る、意業には三種ある：貪り、瞋り、邪見である。何が貪りか。もし他人の富む財物を見て、心に希望を生じ、その物を得ようと欲する、これが意の貪りの業である。さらに意業には：もし他人の富む財物を見て、心に悪しき嫉みを生ずる、これが意の嫉みの業である。もし邪見を生じ、倒錯した見解を生ずる、これが邪見の業である。それには二種あり、すなわち誤りと不信である。不信とは何か。その人は心に思う：『布施もなく、祭祀もなく、斎戒もなく、法会もなく、善業もなく、不善業もなく、業の果報もない。』広く言えば無量である。誤りとは何か。その人は心に思う、一切の苦楽はすべて天のなすところであり、業の果報ではない。このような二種を、邪見と名づける。

「又修行者觀業報法，云何三種身、口、意業，如是十種，樂行多作，彼決定受？此義云何？何者業果於現世受？何者業果於生世受？何者業果於餘世受？復於世間何處何生？彼見聞知或天眼見：身業殺生樂行多作，墮於地獄、畜生、餓鬼。若生人中，命則短促。若因貪心獵等殺生，彼人則生猪鹿、雉雞、迦賓闍羅如是等中，獵師圍兵之所殺害，乃至作魚，鈎釣所殺。彼前作業，相似因緣，常在生死；若生人中，命則短促；設得生天，不得好處，多有鐵畏，速為他殺。殺生之報，有下、中、上。偈言：

> また修行者は業報の法を観ずる。いかにして三種の身・口・意の業があり、このような十種の業を喜んで行い多く作れば、その人は決定して報いを受けるのか。この意味はどういうことか。どのような業の果報が現世で受けるのか。どのような業の果報が来世で受けるのか。どのような業の果報がその他の世で受けるのか。さらに世間のどこで、どのような生を受けるのか。 彼は見聞によって知り、あるいは天眼によって見る。身業である殺生を喜んで行い多く作れば、地獄・畜生・餓鬼に堕ちる。もし人間に生まれるならば、寿命は短い。もし貪りの心によって狩りなどで殺生をしたならば、その人は猪や鹿、雉や鶏、迦賓闍羅などのようなものに生まれ、狩人や兵士に囲まれて殺害される。魚に生まれるに至っては、釣り針で釣られて殺される。以前に作った業と似た因縁によって、常に生死を繰り返す。もし人間に生まれるならば、寿命は短い。たとえ天に生まれたとしても、良いところには生まれず、多くの恐怖に満ち、速やかに他者に殺される。殺生の報いには、下・中・上がある。偈に言う。

「『有於藏中死，有生已命終，有能行則亡，有能走便卒。』

> 蔵の中で死ぬ者もあり、生まれてすぐに命を終える者もあり、 歩けるようになっても死ぬ者もあり、走れるようになっても亡くなる者もいる。

「彼殺生者，此業成就勢力果報，謂地獄受，若現在受，若餘殘受。

> 殺生を行う者は、その行為の力によって、地獄で果報を受けるか、現世で受けるか、あるいは残りの生で受けることになる。

「又修行者觀業果報，云何偷盜樂行多作，報有三種，謂地獄受、若現在受、若餘殘受？彼偷盜業樂行多作，墮於地獄、畜生、餓鬼。若生人中則常貧窮；若得財物畏王、水、火、劫賊因緣，具足失奪，不曾得樂。彼偷盜業，得如是等三種果報。

> また修行者は、業とその果報を観察する。盗みを喜び行い多く作るならば、その報いには三種ある。すなわち地獄で受けるか、あるいは現世で受けるか、あるいは残りの報いとして受けるかである。その盗みの業を喜び行い多く作れば、地獄・畜生・餓鬼に堕ちる。もし人間に生まれれば、常に貧窮し、たとえ財物を得ても、王・水・火・盗賊などの因縁によって必ず失い奪われ、楽しみを得たことがない。その盗みの業は、このような三種の果報をもたらすのである。

「又修行者觀業果報，云何邪婬樂行多作，得三種果？彼見聞知或天眼見：若彼邪婬樂行多作，墮於地獄、畜生、餓鬼。若生人中，餘殘果報，妻不隨順；若得二根，世間所惡。

> また修行者が業の果報を観察するに、なぜ邪淫を好んで多く行うと、三種の果報を得るのか。彼は見聞によって知るか、あるいは天眼によって見る：もし邪淫を好んで多く行うならば、地獄・畜生・餓鬼に堕ちる。もし人間に生まれたとしても、残りの果報として、妻が従順でなくなる。あるいは二根を得て、世間に嫌われることになる。

「彼如是等三種身業、三種果報，非彼外道遮羅迦波離婆闍迦之所能解。廣說身業，則有無量，皆不能解。何以故？彼以癡法熏其心故，唯我能解。我實不見餘人能解，更無有人能見如是業果報法，如我見者。若我弟子修行法者，以從我聞，是故能解。

> 彼がこのような三種の身業と三種の果報を理解することは、外道の遮羅迦や波離婆闍迦らには到底できない。身業について詳しく説けば無量の相があるが、彼らは一つとして理解できない。なぜか。彼らは愚痴の法で心が染まっているからだ。ただ私だけがこれを理解できる。私はほかにこれを理解できる者を見たことがない。私が見るように、このような業と果報の法を見ることのできる人は、ほかにはいない。もし私の弟子が修行するならば、私から聞くゆえに、理解することができるのだ。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何口業？口業幾種？彼見聞知或天眼見：口業四種，所謂妄語、兩舌、惡口、綺語。若彼妄語樂行多作，墮於地獄、畜生、餓鬼。若生人中，一切眾生不信其語，諸善眾會、善長者眾、剎利等眾及妻子等，不信其語；口常爛臭，齒亦不好，面皮無色；一切世人妄語枉謗；常生怖畏；親友、兄弟、知識不固；一切所作不得果利，於一切人不得饒益。如是妄語是不可愛，非是可樂，非是可意，成就如是不善業果。

> また修行者は心の中で思惟する――正法に随順して法の行いを観察する――口業とは何か？口業には幾つの種類があるのか？彼は見聞知によって、あるいは天眼によって見る：口業には四種類がある。すなわち、妄語、両舌、悪口、綺語である。 もしその妄語を好んで行い、多く作るならば、地獄・畜生・餓鬼に堕ちる。もし人間に生まれるならば、一切の衆生はその言葉を信じず、諸々の善き衆会、善き長者たち、刹利などの衆、および妻子なども、その言葉を信じない。口は常に爛れて臭く、歯も良くなく、顔の皮には色がない。一切の世の人々は妄語を以て枉げて誹謗し、常に怖畏を生じる。親友・兄弟・知人も固くなく、一切のなすところは果報の利益を得ず、一切の人に対して饒益を得ることができない。 かくの如き妄語は愛すべきものではなく、楽むべきものでもなく、意に適うものでもない。このような不善の業果を成就するのである。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何名為第二口業樂行多作，成就果報？彼見聞知或天眼見：如是兩舌樂行多作，墮於地獄、畜生、餓鬼。若生人中，若聾、若瘂；口常爛臭；無人信語，眾人所笑；面色不好；不住一處，心動不定；常行惡行。如是名為兩舌業報。

> また修行者が心の中で思惟する――正法に随順して法の行いを観察する――第二の口による業で、楽しんで多く行い、果報を成就するものとは何か？彼は見聞し知る、あるいは天眼で見る：このように両舌（二枚舌）を楽しんで多く行う者は、地獄・畜生・餓鬼に堕ちる。もし人中に生まれるならば、耳が聞こえず、あるいは口が利けず；口は常に爛れて臭く；誰もその言葉を信じず、人々に笑われ；顔色は良くなく；一か所に留まらず、心は動揺して定まらず；常に悪行を行なう。このように名付けて両舌の業報という。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何名為第三口業樂行多作，成就業果？彼見聞知或天眼見：如是惡口樂行多作，墮於地獄、畜生、餓鬼。若生人中，處處皆畏，一切人所皆得衰惱；無人安慰，於自妻子不得愛語，猶如野鹿畏一切人；遠善知識、近惡知識。是名惡口三種果報。

> また修行者は心の中で思惟する――正法に随順し、法の行いを観察する――第三の口による業で、楽しく行い多く作り、業果を成就するとは何か？彼は見聞し知る、あるいは天眼で見る：このような悪口を楽しんで多く行う者は、地獄・畜生・餓鬼に堕ちる。もし人間に生まれるならば、どこでも皆に恐れられ、すべての人から衰えと悩みを得る；誰にも慰められず、自分の妻や子に対しても愛ある言葉を得られず、まるで野鹿がすべての人を恐れるようである；善き知識から遠ざかり、悪しき知識に近づく。これが悪口の三種の果報である。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何綺語樂行多作？彼見聞知或天眼見：若彼綺語樂行多作，墮於地獄、畜生、餓鬼。若生人中，一切不愛，王舍、怨家、兄弟、親家輕弄嫌賤。此是綺語口業果報。

> また修行者は、心の内を思惟し、正しい法に随順して法の行いを観察する。いわゆる綺語（虚飾に満ちた言葉）を好み、多く行うとはどういうことか。彼は見聞し知る、あるいは天眼をもって見る。もしその綺語を好み多く行うならば、地獄・畜生・餓鬼に堕ちる。もし人間に生まれるならば、すべての人から愛されず、王の宮殿でも、怨みを抱く者からも、兄弟からも、親族からも、軽んじられ、嫌われ、卑しめられる。これが綺語という口の業の果報である。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何意業三種不善，樂行多作意不善業？彼見聞知或天眼見：若彼貪心，樂行多作意不善業，墮於地獄、畜生、餓鬼。若生人中，雖有財物，則為王、賊及水、火等無理橫失，恒常貧窮。

> また修行者が心の中で思惟する――正法に随順して法の行いを観察する――意の業における三種の不善とは何か、喜んで行い多く為す意の不善業とは何か。彼は見聞し知る、あるいは天眼をもって見る：もし貪りの心をもって、喜んで行い多く為す意の不善業に堕ちるならば、地獄・畜生・餓鬼に堕ちる。もし人中に生まれても、財物があっても、王や賊、あるいは水や火などによって理不尽に横取りされ、常に貧窮に陥る。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何瞋心樂行多作意不善業？彼見聞知或天眼見：瞋心意業樂行多作意不善業，墮於地獄、畜生、餓鬼。若生人中，則生邊地夷人之中，常畏鐵處，常怖魄處，墮嶮岸處；彼人之心不曾安隱，常被誹謗，常得如是多種眾惡。

> また修行者は、心の中で思惟する――正しい教えに従い、法の行いを観察する――どうして怒りの心は、不善な業を喜んで行い、多く思い巡らすのか？彼は見聞し知る、あるいは天眼で見る：怒りの心の意業は、不善な業を喜んで行い、多く思い巡らし、地獄・畜生・餓鬼に堕ちる。もし人間に生まれれば、辺境の地の異民族の中に生まれ、常に鉄の処を恐れ、常に魄の処を怖れ、険しい岸に堕ちる。その人の心はかつて安らかでなく、常に誹謗され、常にこのような多くの衆悪を得るのである。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何邪見樂行多作意不善業？彼見聞知或天眼見：邪見意業樂行多作，墮於阿鼻地獄等中受一切苦；若墮畜生，於無量世百千萬億億數轉生；餓鬼境界亦復如是。若生人中，如法所說自種性業善業道行，不依法行，於上世來父、祖種性千倍下劣。

> また、修行者が心の中で深く思惟し、正しい教えに従って法の行いを観察するとき、次のように考えます。いったいどのような邪見が、多くの不善業を生み出し、それを喜んで行うのでしょうか。彼は見聞によって、あるいは天眼によって知ります。邪見に基づく意業を喜んで多く行う者は、阿鼻地獄などに堕ち、あらゆる苦しみを受けることになります。もし畜生道に堕ちれば、無量の世を百千万億億数も転生し続けます。餓鬼の世界でも同じことが起こります。もし人間に生まれたとしても、正しい法に従って行われるべき自らの種性の業や善業の道を歩まず、先祖代々の父祖の種性よりも千倍も劣った状態に陥るのです。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行，更復思法深細觀察——云何如是十不善法，流轉生死，世間、地獄、餓鬼、畜生？彼見聞知或天眼見：云何殺生？云何樂行？云何多作？謂殺生者，此殺生人，近惡知識。若惡知識近住之人，與彼相隨，喜樂彼人相隨遊戲，共行、共宿，於彼生信，謂有功德，隨彼所作亦與同行。彼人如是近惡知識，彼殺生人、近殺生者，則以種種殺生因緣教令殺生：或外道齋、或屠獵等，如貪味者說殺生事；如怨家者說殺生事；如賊貪物說殺生事；如鬪戰者說殺生事；如貪名者說殺生利。彼人聞已，心則生信，亦隨順行，憙樂殺生。如是喜樂，既殺生已，墮於地獄、餓鬼、畜生，不可愛著，心不樂處，一切善人訾毀之處。以此因故，若生人中，命則短促。如是殺生，近惡知識以為種子。

> また修行者は、心の中で深く思惟し、正しい教えに従って法の行いを観察し、さらに法について深く細かく観察します――どうしてこのような十の不善の法が、生死を流転し、世間や地獄、餓鬼、畜生の世界を生み出すのでしょうか？ 彼は見聞によって知り、あるいは天眼によって見ます：殺生とは何か？ どうしてそれを喜んで行うのか？ どうして多く行ってしまうのか？ 殺生を行う者、この殺生をする人は、悪い知識（悪友）に近づきます。もし悪い知識と近くに住む人々がいれば、その人たちと付き従い、その人たちと共に遊び、共に行き、共に宿り、彼らを信じて功徳があると思い込み、彼らのすることを見習い、同じことを行います。その人はこのように悪い知識に近づき、殺生をする人、殺生をする者に近づくと、様々な殺生の因縁によって殺生を教えられます：あるいは外道の祭り、あるいは屠殺や狩猟など、味を貪る者のように殺生のことを語り、怨みを持つ者のように殺生のことを語り、盗賊が物を貪るように殺生のことを語り、戦いを好む者のように殺生のことを語り、名声を貪る者のように殺生の利益を語ります。その人はそれを聞くと、心に信じる気持ちが生まれ、それに従って行動し、殺生を喜び楽しむようになります。 このように喜び楽しんで殺生を行ったならば、地獄、餓鬼、畜生の世界に堕ちます。そこは愛着すべきではなく、心が喜ばない場所であり、すべての善人が非難する場所です。この因縁によって、もし人間に生まれたとしても、寿命は短くなります。このように殺生は、悪い知識に近づくことを種として生じるのです。

「云何樂行？彼不善人既殺生已，憙樂歡喜，心意分別，見殺功德。如是分別則有多種：斷他命已，不生懊悔，讚說言善；心不放捨，轉復更作，教他人作；既教他已，說彼殺生種種功德，異異因緣，如前所說。如是名為樂行殺生。

> どのような行為が楽行にあたるのでしょうか。不善なる者が生き物を殺した後、喜び楽しみ、心の中で様々に思いめぐらし、殺生に功徳があると見なすことです。このような思いめぐらしには、いくつかの種類があります。他者の命を絶った後、後悔することなく、それが善いことだと称賛する。心を改めず、さらに繰り返し行い、他人にも行わせる。他人に行わせた後、その殺生について様々な功徳や、前に述べたような種々の理由を説く。このような行為を、楽行としての殺生と呼びます。

「云何多作？此殺生已，如前行說，近惡知識，習作殺生，多造殺具，作危嶮處，作圍、毒箭，集養狗等，養殺生鳥，近旃陀羅，造鬪戰具——鎧鉀、刀杖及以𥎞鉾、鬪戰之輪種種器仗——諸殺生具，如是一切皆悉攝取。如是惡人多作殺生，以是因緣，墮於地獄、畜生、餓鬼，受極苦惱殺生之業，有下、中、上；受苦報時，亦下、中、上。

> どのようなことを「多く行う」というのか。この殺生を行った後、先に述べたように、悪しき仲間に近づき、殺生を行うことを習い、多くの殺生の道具を作り、危険な場所を設け、囲いや毒矢を作り、犬などを集めて飼い、殺生を行う鳥を飼い、チャンダーラ（屠殺者）に近づき、戦いの道具――鎧・刀・杖、槍や矛、戦いの車輪など、さまざまな武器――あらゆる殺生の道具を、このようにすべて集めて用いる。このような悪人は多く殺生を行い、この因縁によって地獄・畜生・餓鬼に堕ち、極めて苦しい殺生の業の報いを受ける。殺生の業には下・中・上があり、苦しみの報いを受ける時も、下・中・上がある。

「既作業已，如是不得不受果報。如是如是，自作惡業、自得惡報。若黠慧人，捨惡行善彼世間中。如是殺生，樂行、多作。

> 悪い行いをなせば、必ずその報いを受けることになる。このように、自ら悪業を造れば、自ら悪い報いを得るのである。もし賢い人ならば、悪を捨てて善を行い、この世にあっては、殺生を好み、多く行うことを慎むのである。

「云何偷盜樂行多作？云何樂行多作盜已，墮於地獄？此惡戒人，性自偷盜近惡知識。若惡知識近住之人，與彼相隨，則行偷盜，有下、中、上。何者為下？謂王法等，如前所說。何者為中？非福田所，偷盜彼物，此盜為中。何者為上？佛、法、僧物，微少偷盜，是則為上。彼佛、法、僧，若盜僧物，佛、法能淨；盜佛、法物，僧不能淨。若盜眾僧現食用物，墮大地獄，頭面在下；若取屬僧所常食物，則墮無間阿鼻地獄，寬廣闇等，以重福田，微少偷盜。以有心念，樂行多作，彼少偷盜，墮於地獄、畜生、餓鬼。若復懺悔，不生隨喜，心中生悔，彼不定受。若偷盜人，無量方便而行偷盜，以如是故名為偷盜。

> どのような盗みを喜んで行い、繰り返すのか。どのように盗みを喜んで行い、繰り返した結果、地獄に堕ちるのか。この悪しき戒を持つ者は、生まれつき盗みを好み、悪い仲間に近づく。もし悪い仲間やその周囲の人々と交われば、盗みを行うようになり、その盗みには下・中・上の三種がある。 下とは何か。先に述べたように、王法に定められた盗みなどがこれにあたる。 中とは何か。福田ではない者から物を盗むこと、これが中である。 上とは何か。仏・法・僧の物を、たとえわずかでも盗むこと、これが上である。 仏・法・僧の物について言えば、僧の物を盗んだ場合は、仏と法の力によって清められる。しかし、仏や法の物を盗んだ場合は、僧の力では清めることができない。 もし僧侶たちの現に飲食する物を盗めば、大地獄に堕ち、頭を下にして逆さに落ちる。 もし僧侶に常に属する食物を取れば、無間阿鼻地獄に堕ちる。そこは広く暗く平等で、重い福田に対してわずかな盗みを犯したからである。 心に思い、喜んで行い、繰り返せば、たとえわずかな盗みでも、地獄・畜生・餓鬼の世界に堕ちる。 しかし、もし後悔し、喜びを伴わず、心に悔いが生じれば、必ずしもその報いを受けるとは限らない。 盗みを行う者は、無量の手段を用いて盗みを働く。このようなゆえに、これを盗みというのである。

「云何樂行偷盜他物？得已歡喜，與賊相隨，心以為樂；既得財物，作衣食已，心生歡喜讚其功德，教他偷盜；教已，讚說。如是名為樂行偷盜。

> どのような行為が、他人の物を盗むことを楽しみとするのでしょうか？盗んだ物を手に入れて喜び、盗賊と行動を共にし、心からそれを楽しむことです。財物を得て衣食に使った後、心から喜びその功徳を称え、他人に盗みを教え、教えた後もそれを褒め称える。このような行為を、盗みを楽しむ行いと言います。

「云何多作？既偷盜已，多作床敷臥具氈被，食噉餅肉，衣服莊嚴，婬女娛樂，樗蒲博戲，心生喜悅：『我今快樂，一切樂中偷盜為最，以此因緣，我豐床敷、臥具、飲食、衣服莊嚴、婬女、樗蒲，第一勝樂。我今常當作偷盜行，令我後時增長富樂。』如前所說，如是如是，多行偷盜，決定於彼地獄中受。

> 何が「多く行う」ことか。盗みをした後、多くの寝具や敷物、毛布を作り、餅や肉を食べ、衣服を飾り立て、遊女と楽しみ、賭け事にふけり、心に喜びを抱くことである。「私は今、楽しんでいる。あらゆる楽しみの中で、盗みが最も優れている。この因縁によって、私は豊かな寝具、敷物、飲食、衣服の装飾、遊女、賭け事、第一の勝れた楽しみを得た。私は今、常に盗みの行いをし、後の世で富と楽しみを増やそう」と。前に述べたように、このようにして多く盗みを行えば、必ずあの地獄で苦しみを受けることになる。

「云何邪婬樂行多作？此邪婬人，心不觀察婬欲覆蔽。若人先世婬欲處來，所謂鴛鴦、迦賓闍羅、孔雀、鸚鵡、魚雉、鷃鳥、阿修羅等，如是處來於此中生，常與多欲不善知識相隨共行。如是二分喜樂婬欲，心不觀察，心不厭足；不離欲心、不觀察行，隨有欲處往到其所，以欲處來此欲處生，喜行婬欲，故不觀察婬欲所覆。如是邪婬不善之人，觸染勢力，彼彼憙樂；如是邪婬，復更如是，心喜樂行，樂行如是邪婬惡觸。

> いかにして邪淫を喜び行い、多く行うのか？この邪淫を行う人は、心で淫欲に覆い隠されることを観察しない。もし人が前世から淫欲の世界から来たならば、つまり鴛鴦、迦賓闍羅、孔雀、鸚鵡、魚雉、鷃鳥、阿修羅など、そうした世界から来て、ここに生まれ、常に多くの欲を持つ不善な仲間と共に行動を共にする。このように二つの面で淫欲を喜び楽しみ、心で観察せず、心で飽き足りることを知らない。欲の心を離れず、行いを観察せず、欲のあるところに従ってその場所へ赴き、欲の世界から来てこの欲の世界に生まれ、淫欲を行うことを喜び、ゆえに淫欲に覆われることを観察しない。このように邪淫を行う不善な人は、触れる力に染まり、あれこれと喜び楽しむ。このように邪淫は、さらにまたこのように、心で喜び楽しんで行い、このような邪淫の悪しき触れ合いを喜んで行う。

「云何樂行？如是邪婬雖不常行而常憙樂，心意分別，更於餘處心不憙樂如婬欲者。如是樂行邪婬境界。

> 楽行とは何か。このような邪淫は常に行うわけではないが、常に喜んで楽しみ、心の中で思いをめぐらし、他のことには淫欲のようには心から喜ばない。このように、邪淫の境地を楽しみ行うことである。

「云何多作？愚癡凡夫，心不觀察，邪婬覆蔽，他復為說邪婬功德第一勝樂，所謂婬欲，言：『為此事非是不善。』復教多人憙樂婬欲。如是邪婬，愚癡凡夫憙樂多作。如是三種身不善業。「口業四種：妄語、兩舌、惡口、綺語。何者妄語？所謂自心先自作誑，然後誑他。如是妄語，自、他成誑。又彼妄語，五因緣發，所謂瞋、貪、邪法所攝、欲心、怖畏。

> どのようなことを多く行うのか。愚かな凡夫は、心でよく観察せず、邪な性行為に覆われており、さらに他の者が邪な性行為の功徳が第一の勝れた楽しみであると説く。いわゆる性欲について、『このことは不善ではない』と言い、さらに多くの人々に性欲を喜び楽しむよう教える。このように邪な性行為を、愚かな凡夫は喜んで多く行う。これが三種類の不善な身体の行いである。 口の行いは四種類ある。嘘をつくこと、二枚舌を使うこと、悪口を言うこと、無駄話をすること。どのようなことを嘘をつくことというのか。いわゆる、まず自らの心で自分を欺き、それから他者を欺くことである。このように嘘をつくことで、自分も他者も欺かれることになる。また、その嘘は五つの原因によって起こる。すなわち、怒り、貪り、邪な法に含まれること、欲望の心、恐れである。

「云何瞋心而發妄語？若於王前或大眾中、長者眾中，若善知識、怨家諍鬪，饒益知識，衰惱怨家，是故妄語。云何貪心而發妄語？見他財物，方便欲取，是故妄語。云何邪法所攝妄語？如婆羅門法中所說：『饒益尊故、饒益牛故、畏自死故、為取婦故，如是妄語，皆不得罪。』如是之人，邪法攝語。如是妄語，是愚癡人邪見攝語，此語堅重，於地獄受。是故乃至失命因緣，不應妄語。此妄語者，能為地獄第一種子。言：『為取婦，妄語無罪，是欲心發。』亦是邪法。云何怖畏而發妄語？何處怖畏？為彼饒益，是故妄語，起如是心：『若不妄語，彼則於我多不饒益。』彼人畏死，是故妄語。彼五因緣愚癡之人，作妄語說。如是一切皆住癡法。」

> どのようにして瞋りの心から妄語を発するのでしょうか。王の前や大衆の中、あるいは長老たちの集まりの中で、善き知識と怨みある者が争っているとき、善き知識を助け、怨みある者を苦しめようとして、そのために妄語を発するのです。 どのようにして貪りの心から妄語を発するのでしょうか。他人の財物を見て、巧みに奪おうと欲し、そのために妄語を発するのです。 どのようにして邪法に取り込まれた妄語があるのでしょうか。バラモンの教えの中で説かれているように、「尊い者を助けるため、牛を助けるため、自分の死を恐れるため、妻を娶るため、このような妄語は罪にならない」と。このような人は、邪法に取り込まれた言葉を発しています。このような妄語は、愚かな人が邪見に取り込まれて発する言葉であり、この言葉は重く固く、地獄で受けるべきものです。ですから、命を失うような理由があっても、妄語を発してはなりません。この妄語は、地獄への第一の種となるからです。「妻を娶るためなら、妄語も罪にならない」と言うのは、欲の心から発せられたものであり、これもまた邪法なのです。 どのようにして恐怖から妄語を発するのでしょうか。どこで恐怖を感じるのでしょうか。相手を助けるために、そのために妄語を発し、このような心を起こすのです。「もし妄語を発しなければ、彼は私に多くの害を与えるだろう」と。その人は死を恐れて、そのために妄語を発するのです。これら五つの因縁によって、愚かな人は妄語を語るのです。このすべては、愚かさの法にとどまっているのです。

爾時，世尊而說偈言：

> その時、世尊は偈を説かれました。

「若有何等人，起一妄語法，則不畏他世，無惡不造作。若人生世間，口中有大斧，若以斫自他，口中惡語出。如是應實語，不應斫他人，雖無乞求者，應當多少與。此三種行者，捨身則生天。

> もし人が、偽りの言葉を一つでも口にすれば、 来世を恐れず、悪いことなら何でもしてしまう。 もし人が世に生まれ、口に大きな斧を持ち、 自分や他人を斬ろうとするなら、それは口から出る悪い言葉である。 だからこそ真実を語り、他人を傷つけてはならない。 求められなくても、少しずつ与えるべきだ。 この三つの行いを実践する者は、この身を捨てて天に生まれる。

「若如是者，一切因緣，一切所作，莫妄語說。於他妄語心莫隨喜，亦不隨逐妄語者行，莫共同坐。若妄語人共行坐者，他人見之亦謂妄語。如是若與垢業之人共相隨者，則樂垢業。若與彼人共行坐等，雖無垢業，他謂垢業。若如是者，應觀察法：惡知識者，勿與相隨。此惡知識於生死中，最堅繫縛，則墮地獄、畜生、餓鬼，所謂隨逐惡知識行；若善知識相隨行者，則得解脫。廣則無量，此中如是略說妄語。

> もしそうであるならば、一切の因縁、一切の所作について、妄語を語ってはならない。他人の妄語に対して心から喜びを感じず、妄語を語る者に従って歩まず、共に座してはならない。もし妄語を語る者と共に歩み座するならば、他人はそれを見て、あなたも妄語を語る者だと思うであろう。このように、垢にまみれた業を行なう者と共に付き従うならば、垢にまみれた業を楽しむようになる。もしそのような人と共に歩み座するならば、たとえ自ら垢にまみれた業がなくとも、他人はあなたも垢にまみれた業を行なう者だと思うであろう。もしそうであるならば、法を観察すべきである。悪しき知識とは、共に付き従ってはならない。この悪しき知識は、生死の輪廻の中で最も堅く縛りつけ、地獄・畜生・餓鬼の道に堕ちるのである。すなわち、悪しき知識に従って歩むことである。もし善き知識に従って歩むならば、解脱を得ることができる。広く説けば無量であるが、ここではこのように妄語について略説する。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何兩舌？兩舌幾種？彼見聞知或天眼見：兩舌者，多於和合人起破壞意，口中語說。兩舌二種：自作、教他。教他者，怨家、若似怨家所遣破壞。汝破彼人，是他因緣。有他不遣，自作破壞，令他衰惱。又復云何瞋因緣故，於他不愛？與他人惡口說惡語，聞者不愛。

> また修行者は、内なる心で思惟を深める——正法に随順し、法の行いを観察する——両舌とは何か？両舌にはいくつかの種類があるのか？彼は見聞によって知り、あるいは天眼によって見る：両舌とは、多くは和合している人々に対して破壊の意を起こし、口で語ることである。両舌には二種ある：自ら行うものと、他に教えて行わせるものと。他に教えて行わせるものとは、怨みを持つ者、あるいは怨みを持つ者のような者が、破壊を命じて遣わすことである。「汝はあの人を破れ」と、それは他者の因縁による。他者に命じられず、自ら破壊を行い、他者を衰えさせ悩ませることもある。また、どのようにして瞋りの因縁によって、他者を愛さず、他者に悪口を浴びせ、悪い言葉を語り、聞く者が愛さないようになるのか？

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何惡口？彼見聞知或天眼見：彼惡口者，貪、瞋、癡發，一切愚癡凡夫之人常行不離。如是惡口有無量種，無量攀緣，無量因緣，無量心發，無量果報。此語能破無量善行；此語能與一切人惡。世間如怨，善人不近，人所不信，此語如毒。如是惡口，惡道因緣，是垢言語，正梵行人捨離不行。」

> また修行者は、心の中で深く思惟する――正しい法に従い、行いを観察する――悪口とは何か？彼は見聞し、あるいは天眼で見る：悪口を吐く者は、貪り、怒り、愚かさから発し、すべての愚かな凡夫が常に行って離れないものである。このような悪口には無量の種類があり、無量の縁によって起こり、無量の原因があり、無量の心から生じ、無量の果報をもたらす。この言葉は無量の善行を破ることができ、この言葉はすべての人に悪をもたらす。世間では怨みのように見られ、善人は近づかず、人は信じない。この言葉は毒のようである。このような悪口は、悪しき道への因縁であり、穢れた言葉である。正しく清らかな行いを求める者は、これを捨て離れて行わない。

爾時，世尊而說偈言：

> その時、世尊は偈を説かれた。

「黠慧離惡口，正語憙樂行，如是美語人，則近涅槃住。常說善妙語，捨離垢惡語，垢惡語污人，能令到地獄。垢語所污人，彼人則無善，惡如師子蛇，彼不得生天。一切善語人，能善安慰他，諸世間所愛，後世則生天。若人不惡語，捨離於諂曲，雖人行如天，彼人善應禮。實語常行忍，直心不諂曲，不惱於他人，彼建立法幢。人命不久住，猶如拍手聲，人身不如法，愚癡空過世。何人不自愛？何人不樂樂？若人作惡業，不行自愛因。妻子及財物，知識兄弟等，皆悉不相隨，唯有善惡業。善業不善業，常與相隨行，如鳥行空中，影隨常不離。如人乏資糧，道行則受苦，不作善業者，彼眾生亦然；如具資糧者，道行則安樂，眾生亦如是，作福善處行。久時遠行人，平安得還歸，諸親友知識，見之皆歡喜；作福者亦爾，此死他處生，所作諸福德，如親等見喜。如是作福德，和集資未來，福德於他世，則得善住處。福德天所讚，若人平等行，此身不可毀，未來則生天。觀如是處已，黠慧者學戒，得聖見具足，善行得寂靜。

> 賢明な人は悪口を離れ、正しい言葉を喜んで行い、 このような美しい言葉を使う人は、涅槃に近く住む。 常に善く妙なる言葉を語り、汚れた悪い言葉を捨てよ、 汚れた悪い言葉は人を汚し、地獄へと導く。 汚れた言葉で汚された人には、善きものは何もない。 それは獅子や蛇のように悪く、その人は天に生まれることはない。 すべて善き言葉を使う人は、他者を善く慰めることができ、 世の人々に愛され、後世には天に生まれる。 もし人が悪口を言わず、へつらいや曲がった心を捨てるなら、 その人の行いは天のようであり、その人は礼拝されるべき善き人である。 真実の言葉を語り、常に忍耐を行い、心は素直で曲がらず、 他者を悩ませることなく、その人は法の旗を立てる。 人の命は長くは続かず、まるで手を打つ音のようだ。 人の身でありながら法に従わなければ、愚かにも空しく世を過ごす。 誰が自分を愛さないだろうか？誰が楽しみを喜ばないだろうか？ もし人が悪い行いをすれば、自分を愛する因を行っていないのだ。 妻や子、財物、友人、兄弟など、 すべては付き従わない、ただ善悪の業だけが付き従う。 善い業と悪い業は、常に共に行き、 鳥が空を飛ぶように、影は常に離れない。 食糧が乏しい人が道を行けば苦しむように、 善い業を作らない衆生もまた同じである。 食糧を十分に持つ人が道を行けば安楽であるように、 衆生もまた同じく、福を積み善き処へと行く。 長い間遠くへ行った人が、無事に帰ってくれば、 親族や友人知人は、それを見て皆喜ぶ。 福を積む者もまた同じで、この死から他処に生まれ、 積んだすべての福徳は、親族らが見て喜ぶように。 このように福徳を積み、未来の資糧を集めよ。 福徳は他世において、善き住処を得る。 福徳は天に称賛され、もし人が平等に行えば、 この身は毀れず、未来には天に生まれる。 このような処を観じたなら、賢明な人は戒を学び、 聖なる見解を具え、善き行いによって寂静を得る。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行，觀察第四不善業道綺語口業——云何綺語？綺語幾種？前後語言不相應說，故名綺語；心輕速轉，前後語言相應而說，亦名綺語。從慢心起，自輕因緣，令人不信，即於現身是惡道生，一切世間輕毀之因，無所饒益。垢語綺語，如是第四垢語口業，非善業道，勿作綺語亦莫隨喜，不應受行。若綺語者，則非善人。

> また修行者は、心の中で深く思惟する――正しい教えに従い、行いを観察する。第四の不善なる業道である「綺語」という口の行いを観察する――綺語とは何か？綺語にはどのような種類があるのか？前後の言葉が相応しないまま語ることを、綺語という。心が軽く速やかに転じ、前後の言葉が相応しているように見えても、それもまた綺語と呼ばれる。慢心から起こり、自らを軽んじる因縁となり、人々の信頼を失わせる。それは現世において悪しき道を生み出し、すべての世間から軽蔑され、毀られる原因となる。何の益ももたらさないのである。穢れた言葉、飾り立てた言葉――これが第四の穢れた口の行いであり、善き業道ではない。綺語を口にすることなく、またそれに随喜することなく、行ってはならない。もし綺語を語るならば、その人は善き人とは言えない。

「意不善者：貪、瞋、邪見。云何為貪？他所攝物，自心分別，欲得彼物，非正觀察。彼人如是愛樂他物，於他所有，無因、無分而自擾惱，望得彼物，故名意貪不善業道，非是可愛，非是可樂；所得果報，非意相應，非寂靜意，非是安樂。愚癡之人，虛妄生貪，他物叵得，虛妄分別生貪味著，心意動轉常生悕望，心樂欲取，見他財物，自得苦惱，故名為貪。如是意地第一貪心不善業道。

> 意の不善とは、貪り、怒り、邪見である。何が貪りか。他人の所有物を、自らの心で分別し、その物を得たいと欲し、正しく観察しないこと。その人はこのように他人の物を愛し楽しみ、他人の所有に対して理由も分け前もなく自らを悩ませ、その物を得ようと望む。これを意の貪りという不善の業道といい、愛すべきものではなく、楽しむべきものではない。得られる果報は、意に相応せず、静かな意ではなく、安楽ではない。愚かな人は、虚妄に貪りを生じ、他人の物は得難いのに、虚妄の分別から貪りの味に執着し、心は動揺し常に希望を生じ、心は取ることを欲し楽しむ。他人の財物を見て、自ら苦悩を得る。これを貪りという。これが意の地における第一の貪りの心、不善の業道である。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何名瞋意地第二不善業道？彼見聞知或天眼見：於他前人無有因緣，起瞋惡意；又復於他若貧、若富，無有因緣而見他已，意地起發重惡瞋心。以瞋因緣，於地獄受。善法穀等，既成熟已，瞋心如雹，壞善穀等；唯正智眼，對治彼闇。瞋心如火，燒一切戒。瞋則色變，是惡色因。瞋如大斧，能斫法橋，住在心中，如怨入舍；此世、他世，心一正行，瞋能壞破。捨彼瞋心，慈是對治及四聖諦：苦、集、滅、道。行地獄行，瞋為上使，唯有善人、聖聲聞人、聞法義人乃能捨離。

> また修行者は、心の内を思惟し、正しい教えに従い、法の行いを観察します。どうしてこれを「瞋（怒り）の意地、第二の不善なる業道」というのでしょうか。彼は見聞し、あるいは天眼をもって見ます。他人に対して何の理由もなく、怒りと悪意を起こすこと。また、貧しい者も富める者も、何の理由もなく彼らを見て、心の奥底から重い怒りの心が湧き起こること。この怒りの因縁によって、地獄の苦しみを受けるのです。善の法という穀物が熟したとしても、怒りの心は雹のようにそれを打ち壊してしまいます。ただ正しい智慧の眼だけが、その闇を対治することができます。怒りの心は火のごとく、すべての戒めを焼き尽くします。怒りは顔色を変えさせ、悪しき外見の原因となります。怒りは大きな斧のように、法の橋を切り落とし、心の中に住みついて、まるで怨敵が家に入り込んだかのよう。この世でもあの世でも、心を一つにして正しく行うことを、怒りは破壊してしまいます。その怒りの心を捨て去るには、慈しみが対治となり、また四つの聖なる真理――苦、集、滅、道――があります。地獄の行いをなすとき、怒りは第一の使者です。ただ善き人、聖なる声聞の人、法の義を聞いた人だけが、これを捨て離れることができるのです。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何邪見正法障礙，一切惡見，心之黑闇？彼見聞知或天眼見：無始以來行邪見因，墮於地獄、餓鬼、畜生，故名黑闇。樂邪見者，正道障礙，如刀、火、毒、嶮岸惡處，唯有一切愚癡之人，貪著樂行，以顛倒見，故名邪見。彼有二種：一、信邪因；二、心不信業果報法。信邪因者，作如是知：身等樂、苦皆是天作，非業果報。於業果報心不信者，謂無施等。是名邪見。如是十種不善業道、不饒益業，一切皆以邪見為本。

> また修行者が心の内で思惟し、正法に随順して法の行いを観察する。いかなる邪見が正法を妨げ、すべての悪い見解が心の闇となるのか。彼は見聞によって知り、あるいは天眼によって見る。無始の時より邪見の因を行じ、地獄・餓鬼・畜生に堕ちるゆえに、これを黒闇と名づける。邪見を喜ぶ者は、正しい道を妨げる。それは刃や火、毒、険しい岸の悪しき場所のようであり、ただ一切の愚かな人々だけが貪りに執着し、楽しんで行い、逆さまの見解を持つゆえに、これを邪見と名づける。それには二種がある。一つは邪な因を信じること、二つは業と果報の法を心から信じないことである。邪な因を信じる者は、このように知る。身体などの楽や苦はすべて天のなすところであり、業の果報ではないと。業と果報を心から信じない者は、布施などの功徳がないと考える。これを邪見と名づける。このように十種の不善なる業道、益なき業は、すべて邪見を根本とするのである。

## 正法念處經卷第一

> 正法念処経　巻第一