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title: "正法念處經 · 1"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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### 生死品第二

> 第二品　生死

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何比丘次第捨漏，初捨不善法，次修行善法，正觀思惟修心正住？彼見聞知或天眼見：彼比丘初如是觀根塵相對、迭相因緣，一切世界無始以來生死輪轉。彼如是觀：此生因緣，境界大海，皆悉無我，唯有內心境界因緣，世間流轉。如是最初修遠離行，離憒閙處，樂空閑處、阿蘭若處、山野林中、稻穰𧂐等，樹下露地、塚間處住，則能繫縛心之猨猴。以修習故，心則寂靜，不樂聚落、歌舞戲笑憒閙之處，亦不樂見長幼婦女，不樂多語。有二犍尼皆壞梵行：一是婬女，二、多言說，皆悉捨離；既捨離已，心一寂靜，彼人之心，能如是住。

> また、修行者は内に心をめぐらせ、正しい教えに従い、教えに沿った実践を観察する—— では、どのように比丘が次第に煩悩を捨て、まず不善の法を捨て、次に善の法を修め、正しく観察し考え、心を修めて正しく安住するのか？ 彼は聞いたり、あるいは天の眼で直接見たりする。 その比丘は、まず次のように観じる——「根と境は互いに対応し、互いに縁として、すべての世界は無始の昔から生死を繰り返してきた」と。 彼はこう観じる。「この生の因縁、広大な境界の海——それらにはすべて我（自我）はない。ただ内心と境界の因縁によって、世間は流転しているのだ」と。 このように、最初は遠離の行を実践し、騒がしい場所を離れて、閑静な場所、森の中、山野や林、わらの山、木の下、露地、墓地などに住む。そうすれば、心という猿を縛ることができる。 修行を積むことで、心は静かになり、村や歌舞・笑い・騒がしい場所に心を寄せなくなる。長幼の男女を見たがることもなく、多弁も好まなくなる。 梵行を壊すものとして、二種の「犍尼」（妨げとなるもの）がある。 一つは淫らな女、もう一つは多弁である。これらをすべて捨て離れる。 それらを離れた後、心は一つに静まる。その人の心は、このように安住することができる。

「云何正觀？初觀何法？彼人初心，如是觀察十八意行，能起善根、起不善根、起無記根。何等十八？所謂比丘正觀察意：眼見色已，若喜意染，得不善報；若起憂意、離染欲意，則得善報；若起捨意，得無記報。又復如是，耳聞聲已，若喜意染，得不善報；若起憂意、離染欲意，則得善報；若起捨意，得無記報。又復如是，鼻聞香已，若喜意染，得不善報；若起憂意、離染欲意，則得善報；若起捨意，得無記報。又復如是，舌知味已，若喜意染，得不善報；若起憂意、離染欲意，則得善報；若起捨意，得無記報。又復如是，身覺觸已，若喜意染，得不善報；若起憂意、離染欲意，則得善報；若起捨意，得無記報。又復如是，意知法已，若喜意染，得不善報；若起憂意、離染欲意，則得善報；若起捨意，得無記報。以如是等十八意行三報因緣，世間生退。

> では、正しい観察とはどのようなものでしょうか。 最初に何を観察すべきでしょうか。 修行を始めた人は、まず次のように十八の心の働きを観察します。それは、善い根（善根）を起こす働き、不善の根を起こす働き、無記の根（善でも不善でもない中性の状態）を起こす働きです。 その十八とは何か。比丘（修行者）が心を正しく観察する際、次のように見極めます。 眼で色を見た時、 もし喜びの心で染まれば、不善の報いを受けます。 もし憂いの心、あるいは欲望から離れた清らかな心が起これば、善の報いを受けます。 もし心が平等でどちらにも傾かない捨の状態なら、無記の報いを受けます。 また同様に、 耳で音を聞いた時も、 鼻で香りをかいた時も、 舌で味わった時も、 身体で感触を得た時も、 そして、心が対象（法）を認識した時も、 それぞれについて同じように、 喜びに染まれば不善の報い、 憂いや欲望を離れた心なら善の報い、 どちらでもない捨の心なら無記の報いを受けると知るのです。 このような十八の心の働きと、それに伴う善・不善・無記の三つの報いの原因によって、世の中の生き物は移り変わり（生死）の中にあるのです。

「若彼比丘如是觀察十八意行，得上初地，彼地夜叉見如是已，轉復歡喜，次第傳聞虛空夜叉。彼地夜叉、虛空夜叉，彼二夜叉向四大王歡喜心說。彼四大王向四天王，歡喜說言：『閻浮提中，某國某村某聚落中某善男子，如是種姓，如是名字，剃除鬚髮被服法衣，正信出家；既出家已，離憒閙處，在寂靜處，今復觀察十八意行，已證彼法。』彼四大王如是說已，四天王聞，轉復增上歡喜心曰：『魔分損減，正法朋長。』彼四天王如是復向三十三天帝釋天王歡喜說言：『閻浮提中，次第乃至某善男子，某甲種姓，名字某甲，剃除鬚髮被服法衣，正信出家，離憒閙處乃至塚間，如法觀察十八意行，已證彼法，如法正住。』彼四天王向帝釋王如是說已，彼憍尸迦三十三天帝釋王聞，心大歡喜。

> もしその比丘がこのように十八の意の働きを観察し、初地に達したなら、その地の夜叉はこれを見て、さらに喜びを増し、次々と虚空夜叉に伝える。その地の夜叉と虚空夜叉、この二夜叉は四大王に喜びをもって伝える。その四大王は四天王に向かって喜んで言う。「閻浮提の某国、某村、某集落に、某善男子がいる。このような姓で、このような名前であり、髪とひげを剃り、法衣をまとい、正しい信仰によって出家した。出家した後は、にぎやかな場所を離れ、静かな場所におり、今また十八の意の働きを観察し、その法をすでに証得した。」と。その四大王がこう語ると、四天王はこれを聞き、さらに喜びの心を増して言う。「魔の勢力は減り、正しい法の仲間は伸びる。」と。その四天王はさらに、三十三天の帝釈天王に向かって喜んで言う。「閻浮提において、順に、某善男子が、某の姓、某の名前であり、髪とひげを剃り、法衣をまとい、正しい信仰によって出家し、にぎやかな場所を離れ、さらには墓場にいたり、法のままに十八の意の働きを観察し、その法をすでに証得し、法のままに正しくとどまっています。」と。その四天王が帝釈王にこう語ると、かの憍尸迦、三十三天の帝釈王はこれを聞き、心より大いに喜んだ。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——如是比丘已如法觀十八意行得初地已，後復更證何者異地？彼見聞知或天眼見：彼復次第觀察四家，四者所謂慧家、諦家、捨家、出家。云何比丘住於慧家？謂：彼比丘如是觀察自身正法，如是如實分分善知，此身中有地界、水界、火界、風界、空界、識界。

> また、修行者は内に心をめぐらせ、正しい法に従って法の実践を観察します。このように比丘が正しく法に従って十八の意行（心の働き）を観察し、初地を得た後、さらにどのような別の境地を証するのでしょうか。彼は聞いたことや天眼によって見るのです。彼はさらに順を追って四つの家を観察します。四つの家とは、慧の家、諦の家、捨の家、出家です。では、比丘がどのように慧の家に住むのでしょうか。それは、その比丘がこのように自身の正しい法を観察し、このようにありのままに一つ一つよく知ることです。この身体の中には地界、水界、火界、風界、空界、識界があると。

「何者地界？地界二種：一、內；二、外。何者為內？身中所有諸分名內，是內有覺。彼何者覺？與皮肉等和合則覺，所謂髮毛、爪齒等根，堅澁所攝，入內名覺。彼復何者？所謂髮毛、爪齒皮肉、筋脈骨髓、脾腎心肺、涕唾等處，生藏、熟藏，小腸大腸、肚胃頭腦，如是身中一切內分，堅澁有覺，名內地界。何者名為外地界耶？所有外地，堅澁不覺，名外地界。若內地界、若外地界，彼一和合，此界唯界。觀此地界：無有作者、無有受者，非無因緣，無常、無樂、無我、無淨。比丘如是觀察慧家則得解脫，一切非我，亦無我所，亦無所我。如是地界如實正知，如實見已，心得離欲。如是比丘則於慧家而得解脫。

> 「地界とは何か？地界には二種類ある。一つは内、もう一つは外である。内とは何か？身体の中にある様々な部分を内と言い、これは内にあって感覚がある。その感覚とは何か？皮や肉などと結びついて生じる感覚である。すなわち、髪の毛、爪、歯などの器官であり、堅くてざらついた性質に分類され、体内にあって感覚があるものを内と言う。ではそれは具体的に何か？髪の毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、血管、骨、髄、脾臓、腎臓、心臓、肺、鼻水、唾などの部分、消化中の食べ物、消化された食べ物、小腸、大腸、腹、胃、頭脳。このように身体の中にあるすべての内部の部分で、堅くてざらつき、感覚があるものを、内地界と呼ぶ。では外地界とは何か？外にあるすべての土地で、堅くてざらつき、感覚がないものを外地界と呼ぶ。この内地界と外地界の両方を一つにまとめると、この界は単なる界（要素）に過ぎない。この地界を観察せよ。そこには作り手もなく、受け手もない。しかし無原因ということもない。無常であり、楽ではなく、我（永遠の自己）はなく、清らかでもない。比丘（修行者）がこのように観察すれば、智慧の家において解脱を得る。すべては我（自己）ではなく、我に属するものもなく、我によってあるものでもない。このように地界をあるがままに正しく知り、あるがままに見たならば、心は欲望を離れる。このように比丘は智慧の家において解脱を得るのである。」

「何者水界？水界二種：一、內；二、外。何者為內？所有水數，皆水界相，所謂爛相；體中津潤、涕淚涎唾、腦血脂汁、凝脂髓膽、小便汗等，如是身中，有內水數，覺分所攝，名內水界。何者名為外水界耶？諸外水數濕潤所攝，所謂不覺；不覺所攝，以不覺故，名外水界。若外水界、若內水界，彼一和合，此界唯界。觀此水界，一切非我，亦非我所，亦非所我。如是水界，如實正知，如實見已，心得離欲。如是比丘住於慧家。

> 「水界とは何か。水界には二種類ある。第一に内、第二に外である。内とは何か。すべての水に属するもの、すなわち水界の相である、いわゆる潤う相のこと。体内の潤い、涙、鼻水、唾液、脳、脂、血液、髄、胆汁、小便、汗など、このように身体の中にある、水に数えられるもの、識別作用によって捉えられるものを、内水界という。では、外水界とは何か。あらゆる外の水であって、潤いに属するもの、いわゆる認識されないもののこと。認識されないものに属するため、認識されないという理由で、外水界という。もし外水界であれ、内水界であれ、それらが一つに和合したもの、この界は単なる界に過ぎない。この水界を観じて、すべては我ならず、我が所有でもなく、我によって所有されるものでもないと知る。このように水界を、あるがままに正しく知り、あるがままに見たならば、心は欲望を離れる。このように比丘は智慧の家に住む。」

「何者火界？火界二種：一、內；二、外。何者為內？身內所有種種分分。若火火攝，是內有覺，所謂身煖而不燒燃；所謂能消。何者能消？謂噉飲食，得味正樂，迴轉消化。如是身中，內及內分，若火火攝，是內有覺，名內火界。何者名為外火界耶？所有一切外火火數，若煖煖攝，不覺所攝，以不覺故，名外火界。若內火界、若外火界，彼一和合，此界唯界。觀此火界，一切非我，亦非我所，亦非所我。如是火界，如實正知，如實見已，心得離欲。如是火界，非有作者、非有受者。

> 「火界とは何か。火界には二種類ある。一に内、二に外である。内とは何か。身体の中にある様々な部位、火に分類されるもの、身体内部で感知される温かさで、燃え焼くものではなく、消化を促すものを言う。消化を促すものとは何か。飲食したものを味わい、適切に楽しみ、巡らせて消化することである。このように身体の中の、内部及びその構成要素で、火の性質を持つもの、内部で感じ取られるものを、内火界という。外火界とは何か。外にある全ての火の要素、温かさとして認識されるもの、しかし感知されることのないものを、感知されないゆえに外火界という。内火界であれ、外火界であれ、それらを合わせて一つのものと見るとき、この界は単なる界に過ぎない。この火界を観察し、すべては「私」ではなく、「私のもの」でもなく、「私が所有するもの」でもないと見極める。このように火界をあるがままに正しく知り、あるがままに見たならば、心は欲望から離れる。この火界には、作り手もなく、受け手もないのである。」

「何者風界？風界二種：一、內；二、外。何者為內？身中所有，若內內分，風數所攝，若輕輕動，覺分所攝。彼復何者？謂：上行風、若下行風、若傍行風、若產等風，若如針刺、如刀所斫，邪分別風、有旋轉風，如是等風有八十種，動如虫行。如是等風，如是八十，於八十處分分行風；如是身內分分處處，風數所攝，輕動成熟，有覺所攝，名內風界。何者名為外風界耶？所有外風輕動數攝，和合無覺，名外風界。若內風界、若外風界，彼一和合，此界唯界。觀此風界，一切非我，亦非我所，亦非所我。如是風界，無有作者、無有受者。如是如是，如實正知，如實見已，心得離欲。如是比丘證於慧家。

> 「風界とは何か。風界には二種類ある。第一に内風界、第二に外風界である。 では、内風界とは何か。身体の内側にあって、内部の区分に属し、風の性質に含まれる、軽やかに動き、感知されるもののことである。具体的には何か。上昇する風、下降する風、横に流れる風、排泄などの風、針で刺すような風、刀で切られるような風、誤った分別による風、旋回する風など、このような風には八十種類があり、虫が這うように動く。これらの風、すなわち八十種の風が、それぞれ八十の部位に分かれて流れている。このように身体の各部分にあって、風の性質に含まれ、軽やかに動き、成長させ、知覚されるものを、内風界という。 では、外風界とは何か。身体の外側にある、すべての、軽やかに動き、風の性質に含まれ、集まっても知覚がないもの（\*要素\*）を、外風界という。 内風界も外風界も、それらは一つにまとめれば、単なる（風という）元素（\*要素\*）に過ぎない。この風界を観察して、すべては『私』ではなく、『私のもの』でもなく、『私に属するもの』でもないと知る。このように風界には、作り主もなく、受け取る者もない。このようにありのままに正しく知り、ありのままに見たならば、心は欲望から離れることができる。このように修行者は智慧の境地を証するのである。」

「何者名為虛空界耶？虛空界者，亦有二種：一、內；二、外。何者為內？謂此身中所有內分，內分虛空，虛空所攝，有覺知處，不普、不遍，色動轉處，飲食眾味轉下消化，開張之處；又咽喉中、耳中、眼中、鼻中虛空、舌處虛空、口內等空，口中舌動行處虛空，此等名為內虛空界。何者名為外虛空界？所有虛空覺處不攝，不一切滿、不一切遍，所謂樹枝條葉間空，一切窟中諸所有空，山谷河㵎，如是等中所有虛空，若外孔穴，如是名為外虛空界。若內色中攝虛空界、若外色中攝虛空界，彼一和合，此界唯界。觀此空界，一切非我，亦非我所，亦非所我、如是如是觀虛空界，如實正知，如實見已，心得離欲。如是觀已，則不放逸，此虛空界一切非我，亦非我所，亦非所我，無有作者、無有受者。如是知已，心得離欲。

> 「虚空界とは何か。虚空界にも二種ある。一に内、二に外である。内とは何か。この身の中にある内の部分、内の虚空であり、虚空に含まれ、認識がある場所で、遍くなく、隅々まで及ばず、色が動く場所、飲食の味が下り消化される、開かれた場所である。また、喉の中、耳の中、眼中、鼻の中の虚空、舌の場所の虚空、口内などの虚空、口の中で舌が動く場所の虚空、これらを内の虚空界という。外の虚空界とは何か。あらゆる虚空で認識の対象とならないもの、全て満たさず、全てに遍くないもの、すなわち樹の枝葉の間の空、全ての洞穴の中のさまざまな空、山谷や川の谷間、そのような中にある虚空、また外の穴や孔、これらを外の虚空界という。内の色に含まれる虚空界、外の色に含まれる虚空界、それらが一つに和合したもの、この界がただの界である。この空界を観じて、一切は我ならず、我がものならず、我に属するものでもないと、このように虚空界を観じて、如実に正しく知り、如実に見たのちに、心は欲望を離れる。このように観じたならば、放逸にならない。この虚空界は一切が我ならず、我がものならず、我に属するものでもなく、作り手もなく、受け手もない。このように知ったならば、心は欲望を離れるのである。」

「何者識界？謂：十二入內外和合，眼識見物，意識了別；如是耳、鼻、舌、身、意識，如是識界，意是根本，皆意識知。」

> 「識とは何でしょうか。眼、耳、鼻、舌、身、意という十二の領域が内と外に作用し合い、眼識は物を見、意識は物を認識します。このように耳識、鼻識、舌識、身識、意識がはたらきます。これらが識の世界です。意識（心）が根本であり、すべての認識は意識によって知られるのです。」

爾時，世尊而說偈言：

> その時、世尊は偈を説かれました。

「行法意在前，意有力速疾，先意動轉已，則能說能行。抖擻諸惡業，則能知退生；諦知業果報，則得不死處。能制一切根，樂利益眾生，諸根調寂靜，是安隱比丘。乘駕六根輦，能殺欲心怨，勇智行蘭若，能到寂靜處。阿蘭若知足，臥地心安隱，能抖擻惡法，如風散重雲。身業口業善，喜樂行善行，諦見行恭敬，能破壞魔軍。欲等不能縛，心善而不貪，多有慈悲意，出道住比丘。境界是縛因，若不愛色等，彼至勝寂靜，到不苦惱處。

> 修行の要点は心にある。心は素早く強力だ。 心がまず動き変われば、言葉や行動に現れる。 悪い行いをすべて振り払えば、迷いの世界への生まれ変わりを知ることができる。 因果の道理を確かに知れば、死を超えた境地に至る。 すべての感覚を制御し、生きとし生けるものを慈しみ、 すべての感覚が静かに調えば、それが安らかな修行者である。 六つの感覚を乗りこなす車に乗り、欲望という心の敵を打ち倒し、 勇気と智慧を持って静かな場所で修行すれば、平安の境地に到れる。 静かな林に住み、足ることを知り、地に臥しても心は安らかで、 悪い性質をすべて振り払うことは、風が厚い雲を散らすようなものだ。 身体と言葉の行いが善く、善行を喜び行い、 真理を見て敬いの心で行動すれば、悪魔の軍を打ち破ることができる。 欲望などに縛られず、心は善く、執着せず、 慈しみと哀れみの心を多く持てば、迷いを超え、真の修行者となる。 外界の対象は束縛の原因である。色などに執着しなければ、 その人は最高の平安に至り、苦しみのない境地に到る。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行，如是思惟：比丘觀察十八意行，成就初地，諦知六界，得第二地；復念何法得第三地？彼見聞知或天眼見：如實諦知五受根故，得第三地。云何諦知樂受欲生？彼如實知如是次第知苦受生、知喜受生、知憂受生、知捨受生，有樂皆知，知觸因緣而生樂受。知樂受已，彼如實知：『我知樂受。』若彼比丘知觸因緣而生樂受，於樂受觸，不生貪樂。知樂受觸，生樂受已，則樂受滅；彼樂受滅，則如實知：『我樂受滅。』彼如是念：『我苦受生，因緣而生。』彼知苦受如樂受生，彼如是知，如說樂受觸緣生等，此苦受中。如是廣說：云何比丘知於喜受？共觸因緣生於喜受。云何比丘知於憂受？共觸因緣生於憂受。若隨順觀彼喜受已，喜受則滅；見其滅已，離喜受欲：『若我喜受初生則滅，見其滅已，如實知受，心得離欲。』如是憂受，如是廣說，捨亦如是。

> また修行者は、心の中で正しい教えに沿って法の実践を観察しながら、次のように考える。「比丘が十八の心の動き（意行）を観察することで、初めての境地（初地）を成就する。さらに六つの要素（六界）を真実に理解することで、第二の境地を得る。では、どのような法を修めることで第三の境地を得るのか？」 彼は聞いたり、あるいは天の目で見ることで、次のように知る。五つの感受の根（五受根）をありのままに正しく知ることで、第三の境地を得るのである。 では、どのようにして楽の感受（楽受）が起きようとしているかを正しく知るのか。彼はそのようにして、順を追って、苦の感受（苦受）が生じること、喜の感受（喜受）が生じること、憂の感受（憂受）が生じること、そして平等な感受（捨受）が生じることを、すべての楽の感受を知り、また、接触（触）という原因と条件によって楽の感受が生じることを知る。 楽の感受を知った彼は、次のようにありのままに知る。「私は楽の感受を知っている。」もしその比丘が、接触という原因と条件によって楽の感受が生じることを知り、その楽の感受や接触に対して執着して楽しむことがなければ、楽の感受は起こっても、やがて消え去る。その楽の感受が消えたならば、彼は次のようにありのままに知る。「私の楽の感受は消えた。」彼はまた、次のように考える。「私の苦の感受は、原因と条件によって生じたのだ。」彼は苦の感受を、楽の感受が生じるのと同じようにして知る。すなわち、楽の感受が接触などの条件によって生じるという、先に述べた理屈と同様に、この苦の感受についても広く説明されるのである。 では、比丘はどのようにして喜の感受（喜受）を知るのか。それは、接触という条件と共に喜の感受が生じることによって知られる。また、比丘はどのようにして憂の感受（憂受）を知るのか。それも、接触という条件と共に憂の感受が生じることによって知られる。もし彼がその喜の感受を順に観察すれば、喜の感受はやがて消える。その消えるのを見たならば、彼は喜の感受への執着を離れる。「もし私の喜の感受が最初に生じても、それは消えるのだ。」とその消えるのを見て、彼はありのままに感受を知り、心は執着から離れる。憂の感受についても、同じように広く説明され、平等な感受（捨受）についてもまた同様である。

「彼如是知，得第三地。彼地夜叉知已歡喜，次第上聞虛空夜叉，虛空夜叉聞四大王，彼四大王聞四天王，彼四天王向憍尸迦帝釋王說：『閻浮提中，某國某村某聚落中某善男子，如是種姓，如是名字，剃除鬚髮被服法衣，正信出家，得第三地。欲共魔戰，減損魔分，長正法朋。』彼既聞已，轉復歡喜。彼憍尸迦帝釋天王，即乘大象，其象名曰堙羅槃那，從大神通第一天眾，到炎摩天歡喜說言：『閻浮提中，次第乃至某善男子，廣說乃至得第三地。欲共魔戰，損減魔分，長正法朋。』彼炎摩天從帝釋王如是聞已，轉復歡喜。

> そのように知って、彼は第三の地を得る。その地の夜叉はそれを知って喜び、次々と上の虚空夜叉に報告する。虚空夜叉はそれを四大王に伝え、四大王は四天王に伝える。四天王は、帝釈天である僑尸迦に向かってこう語る。「閻浮提の、某国・某村・某集落にいる某善男子が、かくかくの姓、かくかくの名で、髪や鬚を剃り、法衣を身にまとい、正しい信仰によって出家して、第三の地を得ました。魔と戦おうとしており、魔の勢力を減らし、正しい法の仲間を増やそうとしています。」 それを聞いて、帝釈天はますます喜んだ。僑尸迦帝釈天王は、大いなる神通力を持つ第一の天の衆を従え、堙羅槃那という名の象に乗って、炎摩天のもとへ赴き、喜んでこう語った。「閻浮提において、先ほどの某善男子が、詳しく言えば第三の地を得ました。魔と戦おうとしており、魔の勢力を減らし、正しい法の仲間を増やそうとしています。」 炎摩天は帝釈王からこのように聞いて、ますます喜んだ。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何比丘得第三地，次第更修得第四地？彼見聞知或天眼見：比丘欲得第四地者，如是觀察：『以觸因緣，我樂受生；若彼樂因、樂因緣滅，寂靜失沒，則無樂受。以觸因緣，我苦受生。』如是捨離苦觸、苦受、苦集、苦等諸苦因緣。

> さらに修行者は、内なる心で思索を巡らせ——正しい法に従い、法の実践を観察する——どのようにして比丘が第三地を得て、順に修行を重ねて第四地に至るのか。彼は見聞し、あるいは天眼で見る。比丘が第四地を得ようと願うなら、こう観察する。「触（接触）を因縁として、私に楽受（快い感覚）が生じる。もしその楽の因、楽の因縁が滅し、静寂となり失われ消え去るなら、楽受は存在しない。触を因縁として、私に苦受（苦しい感覚）が生じる。」このようにして、苦しい触、苦受、苦の集まり、苦など、あらゆる苦の因縁から離れるのである。

「彼如是知觸因緣受：『我受念念，共觸而生，因觸而生。』彼於樂受心不生喜、不生喜樂、不讚彼受，亦不多作、不生味著，如是苦受不能逼迮，不惱不亂，如是行捨，憶念正知。如是三受，自餘諸心皆悉無染，一切捨離。如是捨者，清淨鮮白。

> 触（接触）の因縁によって感覚（受）が生まれること、つまり「私の感覚は一瞬ごとに触と共に生じ、触によって生まれる」ということを彼はそのように知っています。 そのため、楽しい感覚に対して心は喜ばず、楽しみも持たず、それを称賛せず、多く執着せず、味わい執着することもありません。 苦しい感覚であっても、彼を押し潰したり悩ませたり乱したりすることはできません。 このようにして、彼は苦でも楽でもない感覚に対しては、心を平静に保ち、気づきと正しい知恵を保ちながら生きています。 こうして三種の感覚（楽・苦・不苦不楽）において、残りのあらゆる心も染まることなく、すべてを手放しています。 このような手放しは、清らかで真っ白なものです

「彼比丘如是心念：『我今此捨，如是清淨，如是鮮白，我今云何得虛空處？』彼人如是悕望欲得虛空處行：『如彼處心我云何得？我已證捨，究竟堅固。我今此捨畢竟喜樂，常攝不離，我以此捨取虛空處。又我此捨，如是清淨，如是鮮白，用取識處、無所有處，用取非想非非想處，我悕彼處，如是正行。』彼人如是正行非想非非想處，作如是念：『我今此捨，依於彼處，如彼處法，令我得之。我以此捨，憙樂彼處，用取彼處，正行非想非非想處。』

> その比丘はこう心に念じた。 「今、この捨（しゃ）は、このように清らかであり、このように純白である。 では、私はどのようにして空無辺処（くうむへんじょ）を得るのだろうか。」 彼はこのように、虚ろなる空の境地に達することを願い、求めた。 「あの境地の心を、私はどうすれば得られるのか。 私はすでに捨を証得し、それは究極において堅固である。 この捨には、今まさに究極の喜びと楽しみがあり、常にそれを保ち、離れることがない。 私はこの捨をもって、空無辺処（くうむへんじょ）に至ろう。 さらにまた、この捨は、このように清らかであり、このように純白である。 この捨を用いて、識無辺処（しきむへんじょ）や、無所有処（むしょうじょ）を得よう。 また、この捨を用いて、非想非非想処（ひそうひひんそうじょ）を得よう。 私はその境地を願い、このように正しく実践するのだ。」 彼はこのように、正しく非想非非想処を実践し、こう思った。 「今や私のこの捨は、あの境地に依り、あの境地の法のままに、私がそれを得る。 私はこの捨によって、あの境地を喜び楽しみ、それをもってその境地に至る。 私は正しく非想非非想処を実践している。」

「譬如世間善巧金師若其弟子，以生色金置於火中，以筒吹之，以手執鉗並㧌並吹，極令善調。彼生色金，調柔真淨、光色明好，隨所須用，一切造作皆可讚歎，一切方土隨所至處，無說過者；磨之無垢，不雜、不澁，第一柔軟，所作皆妙，光明淨勝映蔽餘寶。然此巧師若其弟子，知彼真金善巧能治，知是真寶；如是知已，隨所憶念：『欲作何等，令見之者皆生歡喜？』即以作鈴，若莊嚴身，若不見處、若眼見處；若作耳鐺用莊嚴耳；若作瓔珞用莊嚴咽；若以莊嚴供養經論；若作指環，環有印文用莊嚴指；若作金鬘、若作髻冠以莊嚴髻。何處何處用以莊嚴，彼彼如是相應善成。

> たとえば、世の巧みな金細工師あるいはその弟子が、生の金を火の中に置き、筒で吹き、鉗でつまみながら打ち鍛え、よく調え整える。その生の金は、柔らかく調えられ、清らかで、光沢が美しく明るくなり、必要な用途に応じて、どんな細工も称賛に値し、どの国に行っても非難されることはない。磨けば埃が出ず、不純物が混じらず、ざらつかず、この上なく柔らかく、作るものはすべて素晴らしく、その輝きと清らかさは他の宝を凌ぐ。 さて、この巧みな師匠あるいはその弟子は、その真の金を巧みに調える術を知り、それが真の宝であると知る。そう知った上で、思いのままに、「これを見る者たち皆が喜ぶような、どのようなものを作ろうか」と考え、それをもって鈴を作り、あるいは身を飾るものとし、あるいは見えない場所や、あるいは見える場所に用いる。あるいは耳飾りを作って耳を飾り、あるいは瓔珞を作って首を飾り、あるいは経典や論書に供養の飾りとし、あるいは指輪を作り、それに印の模様を刻んで指を飾り、あるいは金の鬘を作り、あるいは髻冠を作って髪を飾る。どこでどのように飾りに用いるにも、その場その場で見事に調い、出来上がるのである。

「如是有智善戒比丘生如是心：『我今此捨，如是清淨，如是鮮白，如是正行，取虛空處，我則相應。我依此捨，繫念彼處，憙樂彼處，用取彼處。我以此捨，行虛空處，如是識處、無所有處，如是非想非非想處。』如是憶念：『我今此捨，云何得常不動不壞、不念念滅？』彼思惟已，次復攀緣四無色處。彼捨非常，非是無常，非動不動，非常無常。彼如是知：『彼虛空處，如是識處、無所有處，如是非想非非想處，緣於彼處，非常無常。』則於彼處心不憙樂，知不寂靜無常動轉。

> このように智慧ある戒を守る比丘は、次のような心を起します。 「今、私のこの捨（執着を離れた心）は、かくも清らかであり、かくも清らかで純白であり、かくも正しい行いである。空無辺処（虚空の領域）を取れば、私はそれに相応する。私はこの捨に依って、その処に心を留め、その処を喜び楽しみ、その処を取って用いる。私はこの捨によって、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処へと進む。」 このように憶念する。「今のこの捨は、どのようにして常に動かず、壊れず、瞬間ごとに消え去らないものであり得るのだろうか」 そう思惟した後、次に四つの無色処に攀縁（よりどころを求めて）する。 彼のその捨は、常なるものではなく、無常なるものでもなく、動くものでもなく、動かないものでもなく、常と無常を超えたものである。彼はこのように知る。 「あの空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処は、それらに執着すれば、常ではなく無常である」 すると、その処に対して心は喜び楽しむことなく、無常であり、動き変わるものであり、寂静ではないと知るのである。

「彼復觀受，知受欲生；知受生已，知受欲滅；知受滅已，知眼觸生，如是次第知耳觸生，知鼻觸生，知舌、身、意觸受之生。彼既如是證知受已，復於此受更深觀察：『眼觸生受、欲生、已生，及此受住，我悉知之，知我受滅、欲滅、已滅。又復知我耳觸生受，我眼觸受已滅、已沒、已厭、已棄，更不復來，此受滅已，次第復觀耳觸生受：緣苦、緣樂、不苦不樂。』耳觸生受，如是如是隨順觀察，如是知已，則於耳受不生喜樂，知彼受已，離欲解脫。

> さらに彼は感受（受）を観察する。生じようとする感受を知り、生じた感受を知り、滅しようとする感受を知る。滅した感受を知ったならば、眼の接触から感受が生じることを知る。このように順に、耳の接触、鼻の接触、舌・身体・意の接触による感受の生起を知る。 彼がこのように感受を証知したならば、さらにこの感受について深く観察する。 「眼の接触から生じる感受が、生じようとし、生じ、そしてこの感受が持続することを、私はすべて知る。私の感受が滅し、滅しようとし、滅したことも知る。さらにまた、私の耳の接触から生じる感受、私の眼の接触による感受がすでに滅し、消え去り、厭い離れ、放棄され、再び来ることがないことをも知る。この感受が滅したならば、次に順に耳の接触からの感受を観察する。それは苦を縁とするか、楽を縁とするか、あるいは不苦不楽であるかを。」 耳の接触から生じる感受を、このように随順して観察する。このように知ったならば、耳の感受に対して喜び楽しまなくなり、その感受を知って、欲望を離れ解脱する。

「耳觸生受，如是滅已，觀鼻生受，知鼻生受，鼻觸因緣：『我此受生，樂緣生樂，苦緣生苦，不苦不樂因緣故生不苦不樂。』如是如是隨順觀察，鼻觸生受，如實正知，受則滅沒，知受滅沒。彼既滅已，知鼻緣生苦受、樂受、不苦不樂受：『我若後時，鼻緣生受，如是觀察亦如是生，生已復滅。』

> 耳の触れ合いから感受が生まれます。それが消え去った後、鼻から生じる感受を観察し、鼻の触れ合いが原因であることを知ります。「私のこの感受は、楽しい縁から楽しく生じ、苦しい縁から苦しく生じ、苦でも楽でもない縁から苦でも楽でもないものとして生じるのです」。このように順を追って観察すると、鼻の触れ合いから感受が生まれ、それをあるがままに正しく知れば、感受は消え去り、消え去ったことを知ります。それが消え去った後、鼻の縁から生じる苦しい感受、楽しい感受、苦でも楽でもない感受を知ります。「もし後々、鼻の縁から感受が生じても、このように観察すれば同じように生じ、生じてはまた消え去るのです」。

「彼既滅已，觀舌生受，後時生受，亦有三種，如前所說；次第乃至觀意生受，亦有三種。彼既如是如實知受，得第四地，勤發精進，欲脫魔縛。彼地夜叉知已歡喜，如是復向虛空夜叉歡喜心說，虛空夜叉向四大王亦如是說，彼四大王向四天王亦如是說，彼四天王向帝釋王亦如是說。彼帝釋王向炎摩天，如是說言：『閻浮提中，某國某村某聚落中某善男子，如是種姓，如是名字，剃除鬚髮被服法衣，正信出家，持戒精勤，如是次第如實知受，得第四地。如我今者向天所說，魔分損減，正法朋長。』彼炎摩天見帝釋王乘彼白象堙羅槃那，彼炎摩天如是見已，心生歡喜，向帝釋王如是說言：『汝今，帝釋！閻浮提人，隨順法行，能生愛念，是汝所應。』

> 彼はその感覚（受）が消滅した後、舌から生じる感覚を観察し、さらに後から生じる感覚にも三種類があることを、先に述べたのと同じように理解します。このようにして、意から生じる感覚に至るまで、同様に三種類あることを観察します。このように彼が感覚をありのままに知るとき、第四の境地（第四地）に達します。そして、怠ることなく努力を続け、悪魔の束縛から逃れようと精進します。 これを知った地の夜叉（夜叉）は喜び、虚空の夜叉に喜びの心を伝えます。虚空の夜叉はさらに四大王（四大天王）に同様に伝え、四大王は四天王に、四天王は帝釈天（帝釋王）に伝えます。帝釈天はさらに焔摩天（炎摩天）にこう語ります。「閻浮提（人間界）の、某国、某村、某集落に住むある善男子が、かくかくの姓、かくかくの名前で、髪やひげを剃り、法衣をまとい、正しい信仰を持って出家し、戒律を守り、怠ることなく修行しています。そしてこのように次第に感覚をありのままに知り、第四の境地を得ました。今、私が天のあなた方に語る通り、これによって悪魔の勢力は減退し、正しい法の仲間は増大するのです。」 焔摩天は帝釈天が白い象・堙羅槃那（エーラーヴァナ）に乗っているのを見て、大いに喜び、帝釈天にこう語りました。「帝釈天よ、あなた様！ 閻浮提の人々が法に従って行動し、あなたへの敬愛の念を生じさせるのは、まさに当然のことです。」

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何彼比丘捨魔縛已，觀察捨受？彼見聞知或天眼見：彼比丘如是諦觀察受，眼識因緣，生不善受；彼受欲起第二善緣，不善受滅，善受得生；彼記緣滅，記受則滅，無記受生；如是次第耳觸生受、鼻觸生受、舌觸生受、身觸生受、意觸生受，如是知受，善法滿足，煩惱微薄。

> 修行者が心の内を深く見つめ、正しい教えに従って法の実践を観察する時、その比丘（修行者）はいかにして悪魔の束縛を脱し、「受」{ここでは「感受」の意} の捨離を観察するのであろうか。彼は聞いた知識や天眼によって、次のように明らかに知る。 比丘はこのように「受」を詳しく観察する。眼の認識を因縁として、善くない感受が生じる。その感受がまさに生じようとする時、第二の善い縁（心の持ち方）が生じれば、善くない感受は消え、善い感受が生まれる。その善い感受の縁が消えれば、善い感受もまた消え、善でも不善でもない「無記」の感受が生じる。 このように順を追って、耳の接触による感受、鼻の接触による感受、舌の接触による感受、身体の接触による感受、意の接触による感受もまた同様に知られる。このように「受」を正しく知ることで、善い法が満ち足り、煩悩は薄らいでいくのである。

「彼如是修，復細觀受。彼觀法受，法受共障，如燈光明，日光能障；如是二受，障亦如是，善受既生，障不善受，應如是知。譬如燈明，第二燈明不能相障。又思量受：『若以何受共何等受，畢竟相障？』彼見善受，共不善受畢竟相障，譬如燈明、星宿光明，二不相障。

> 彼はそのように修行を進め、さらに微細に「受」を観察します。 「法受」と「法受」が共に障害となる様を、灯明の光が日光によって遮られるように観察します。 このように二つの受もまた、同様に障害となるのです。 善い受が生じれば、不善の受を障害します。このように知るべきです。 たとえば、一つの灯明に別の灯明があっても互いに障害とはならないように。 また、「受」について次のように考えます。 「いったい、どの受がどの受と、最終的に互いに障害となるのか？」 彼は、善い受と不善の受とは、最終的に互いに障害となることを見ます。 しかし、灯明の光と星々の光とは、互いに障害とはなりません。

「又彼比丘思量觀察：何受何受，何者何者，如是能壞？彼如是觀無漏緣受、壞漏緣受，譬如火光能障雪光。又何者受？何者受勝？如是復起如是觀察：彼不善受障於善受，後時復起。譬如晝日覆月光明，彼月光明於夜闇中無能障覆。

> さらに、あの比丘はよく考えて観察した。 「どのような感受が、どのような感受を打ち砕くのか。どのようなものが、何を打ち砕くのか。」 彼はそのように観察する。 無漏（煩悩のない）の感受が、有漏（煩悩のある）の感受を打ち砕く。 それは、ちょうど火の光が雪の光を覆い隠すようなものである。 また、どのような感受が、どのような感受に勝るのか。 こうして、再び次のように観察する。 不善（よくない）の感受は、善の感受を妨げ、後に再び現れる。 それは、ちょうど昼の太陽が月の光を覆い隠すようなものである。 しかし、月の光は夜の闇の中では、決して覆い隠されることがない。

「又彼比丘正思量受：『多受和合，一受能障，勝彼多受。』觀彼多受，是世間受；彼一受者，是出世間無漏心受，此受為勝能障漏受。譬如夜中眾多星宿，一月光明能障眾星。

> 「また、あの比丘は受（感受）について正しく観察します。『多くの受が集まっても、たった一つの受がそれら多くの受を超えて妨げとなる』と。彼が観ずる多くの受とは、世間の受です。その一つの受とは、世間を超えた無漏の心による受であり、この受が勝れており、煩悩に基づく受を妨げる力があります。たとえば、夜の空に多くの星が輝いていても、一つの月の光がそれら星々を凌ぐようなものです。」

「又彼比丘隨順觀察彼微細受：何者多受？謂眼耳鼻舌身所起，此是漏受。何者善發？彼觀世間有漏受多，復非無漏，世間無力，如夜闇中星宿光明，於有月時不能善照。又彼比丘觀察彼受：『我此受者幾許時住？』彼觀我受生滅相住，譬如電光。

> さらに、その比丘は微細な感受を観察する。 「どのような感受が多いのか？」 それは、眼・耳・鼻・舌・身体から生じる感受であり、これらは煩悩の漏れ出る受である。 「何が善く発するのか？」 彼は世間に漏れの出る受が多いのを見て、また無漏の受は少ないと知る。 世間には力がなく、あたかも夜の闇の中にある星の光が、月の出ている時には善く照らせないようなものである。 また、その比丘はその受を観察して言う。 「この私の受は、どれほどの間とどまるのか？」 彼は自分の受が生じ、滅し、とどまる相を観察するが、それはちょうど稲妻の光のようなものだと知る。

「又彼比丘如是觀察：此義云何？眼受因緣生鼻受不？彼正觀察意根攀緣，其受則壞一切根受；譬如牛馬駝驢水牛各各壞相，非一因緣。如是如是，五根所起，無始以來憙樂攀緣，非一境界，壞相境界境界根壞，譬如牛馬駝驢猪等。彼比丘如是觀受，得微細智。彼比丘能於彼智，樂修多作，觀樂受已，隨順觀受；隨順觀盡，如是憶念：『我此受者，眼耳鼻舌身意所起，生從何來，滅何所至？』彼比丘隨順觀察，見受盡滅，思惟道理；如是觀已，則知眼受生無處來，滅無所至：『我此眼受，本無今有，已有還無。我此眼者，無有來處，如海中水；滅無所至，如河下行到於大海。我此眼受，本無今有，已有還無，因緣而生，耳鼻舌身意受皆爾。』

> また、その比丘はこのように観察する。「この意味は何か。眼の受（感受）が因縁となって鼻の受を生じるのだろうか？」彼は正しく観察する。意根が攀縁（対象に執着）すれば、その受は一切の根の受を壊してしまう。例えば、牛・馬・駱駝・驢馬・水牛は、それぞれに異なる壊れ方の特徴があり、一つの因縁ではない。このように、五根から生じる感受は、無始の昔から攀縁を喜び楽しみ、一つの境界（対象）ではなく、境界を壊す様相であり、境界と根は互いに壊れ合う。例えば、牛・馬・駱駝・驢馬・豚などのように。 その比丘は、このように感受を観察して、微細な智慧を得る。その比丘はその智慧において、修行を喜び、多く繰り返し行う。楽受を観察した後、さらに随順して感受を観察する。随順して尽きるまで観察し、このように憶念する。「私のこの感受は、眼・耳・鼻・舌・身・意から起こる。生じる時はどこから来て、滅する時はどこへ行くのか？」と。 その比丘は随順して観察し、感受が尽き滅するのを見て、その道理を思惟する。このように観察した後、眼の受は生じる時も来る所がなく、滅する時も行く所がないと知る。「私のこの眼の受は、元は無かったものが今あり、あるものがまた無くなる。私のこの眼は、来る所がなく、海の中の水のようなものである。滅する時は行く所がなく、川が下って海に至るのと同じである。私のこの眼の受は、元は無かったものが今あり、あるものがまた無くなる。因縁によって生じる。耳・鼻・舌・身・意の受も皆、このようである。」

「譬如陶師若其弟子，因輪泥團、人功勢力，緣水、緣杖而生於瓶。如是瓶者，非有處來，滅無所至，而此瓶者因緣而生。如是如是，因眼緣色，緣明緣空，緣於憶念而生眼受，所謂苦、樂、不苦不樂，猶如彼瓶，若好因緣則生好瓶，若惡因緣則生惡瓶。如是如是，若緣善緣，生善眼受，耳、鼻、舌、身、意等皆爾；若合善受，次第順行則到涅槃；若不善因緣，不善眼受生緣欲、瞋、癡，於生死中墮於地獄、畜生、餓鬼惡道境界。

> 例えて言うなら、陶芸家やその弟子が、ろくろと粘土の塊、人の力と技術、水と棒といった様々な条件によって瓶を作り出すようなものです。この瓶は、どこからかやって来たわけでもなく、壊れればどこかへ消えて行くわけでもありません。瓶は、ただ様々な条件が集まって生じるのです。 これと同じように、眼という器官と色という対象、光、空間、そして記憶が縁となって、眼の感覚が生まれます。それが、苦しい感覚、楽しい感覚、あるいは苦しくも楽しくもない感覚です。ちょうど瓶が、良い条件が揃えば良い瓶ができ、悪い条件が揃えば悪い瓶ができるのと同じです。 全く同様に、善い縁が集まれば善い眼の感覚が生まれます。耳、鼻、舌、身、意の感覚もすべて同じです。 もし善い感覚に調和して、次第に正しく修行を積み重ねれば、涅槃に至ることができます。 しかし、もし善くない条件が原因となれば、不善の眼の感覚が生まれ、そこから欲望、怒り、無知が生じます。そして、生死の世界を巡り、地獄、餓鬼、畜生といった悪い世界に落ちてしまうのです。

「彼比丘一切所有善行善果，隨順縛思觀察彼受無所依止，非有作者、非有因起、非無因起亦非聚集，非常、非色、非不念念、非顛倒法。比丘如是見此受陰則滅有愛，共憙樂生，垢惡之愛一切生死皆見無常，則於出道樂修多作。

> その比丘は、あらゆる善行や善い結果に対して、あるがままに縁起を観察する。そして、その「受」にはよるべきもの（依止）がなく、作り手もなく、原因があって生じるのでもなく、原因なくして生じるのでもなく、また集まったものでもないと観じる。それは常住ではなく、形あるものでもなく、瞬間瞬間に移り変わるものでもなく、誤った見解に基づくものではない。 比丘はこのように「受」という「蘊」を観察すると、存在への執着（有愛）は消え去り、喜びや楽しみと共に生じる、汚れた愛着（垢悪の愛）も、あらゆる生死もすべて無常であると見る。そして、迷いを離れる道（出道）において、楽しんで修行し

「彼比丘如是修已，一切結斷，遠離諸使。何者為結？所謂愛結、障礙結、無明結、見結、生結、慢結，斷此諸結。何者為使？謂：欲染使及有染使、見使、障礙使、慢使、無明使、思量結疑結妬結嫉結疑使。以此因緣，三有流轉，行於三地，輪轉三惡，三時隨行，於三品中隨三受熏，隨三生轉生死因緣。「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何彼比丘覺知如是眼之因緣？彼如是觀：眼者何因、何緣而生？彼見聞知或天眼見：業為眼因，眼因業生，如是轉行。譬如世間尼居陀子，從子出生尼居陀樹，樹復生子，因緣繫縛。如是如是，知因業生，業復轉生，若生則有老死憂悲啼哭苦惱。如是業因，愛羂所縛，一切愚癡凡夫之人生死海中，如是輪轉。以此因緣，一切愛想，若不作業，以無業故則無有愛；以無愛故則無有受。彼因緣者，譬如炷爐，油火因緣則有燈焰念念出生。比丘如是觀察受因，諦觀業因、業法業力，生一切受；爐者喻身，油者喻根，炷者喻受，欲瞋癡火念念生焰喻念念智，明喻智慧。

> その比丘はこのように修行を終え、一切の結縛を断ち、すべての煩悩の種（使）から遠く離れた。 「結」とは何か？ すなわち、愛結、障礙結、無明結、見結、生結、慢結である。これらの諸々の結を断つのである。 「使」とは何か？ すなわち、欲染の使、有染の使、見の使、障礙の使、慢の使、無明の使、そして思量の結、疑の結、妬の結、嫉の結、疑の使である。 これらの因縁により、三有（欲界・色界・無色界）の中を流転し、三つの境地を行き来し、三つの悪道に輪廻し、三つの時（過去・現在・未来）に従って行動し、三つの品（上中下）の中で三つの感受に従って熏習され、三つの生（三界の生）に従って生死の因縁の中を巡り続けるのである。 また、修行者は内心において思惟し、正法に随順して法のあり方を観察する。 「いかにしてその比丘は、眼というこの因縁を覚知するのか？」 彼はこのように観察する：「眼は、いかなる因、いかなる縁によって生じるのか？」 彼は聞いたことや見たことにより、あるいは天眼によって見て、次のように知る。 「業が眼の因であり、眼は業の因から生じ、このように転じて行く。たとえば、世間の尼居陀（ニグローダ）の種子のように、種子から尼居陀樹が生じ、その樹はさらに種子を生む。このような因縁の繋がりがある。 まさにこのように、因によって業が生じ、業がさらに転じて生まれを起こす。もし生まれがあれば、老いや死、憂い、悲しみ、泣き叫び、苦しみ、悩みがあることを知るべきである。 このように、業の因は愛の罠に縛られている。すべての愚かな凡夫は、生死の海の中でこのように輪廻し続けるのである。 この因縁により、一切の愛の想いが生じる。もし業を作らなければ、業がないゆえに愛もなく、愛がないゆえに感受もない。」 その因縁とは、たとえば灯明の芯と炉と油の因縁によって、灯の炎が瞬間瞬間に生じるようなものである。 比丘はこのようにして感受の因を観察し、業の因、業の法、業の力をありのままに観察し、一切の感受が生じることを知る。 炉は身体に譬え、油は感官の根に譬え、芯は感受に譬え、欲望・怒り・無知の火が瞬間瞬間に炎を生じるのは、瞬間瞬間の智慧に譬えられ、その明るさは智慧に譬えられるのである。

「彼修行者，如是見知一切三界皆有此受，譬如金師若其弟子，得好真金則能造成妙莊嚴具。如是如是，彼巧作師喻修行者，彼真金者喻善攀緣。若善攀緣則有善業，得涅槃道；不善攀緣得不善業。」

> 修行者は、このようにして三界（欲界・色界・無色界）のすべてに、この「受」（感受）が存在することを見極め、理解します。それはちょうど、優れた金細工師かその弟子が、良質な純金を手にすれば、そこから見事な装飾品を作り出せるのと同じです。この喩えで、巧みな細工師は修行者を、純金は善い縁（善攀縁）をそれぞれ表しています。善い縁に従えば善い行いが生まれ、そこから悟りへの道（涅槃道）が得られます。反対に、善くない縁に従えば、善くない行いが生じるのです。

爾時，世尊而說偈言：

> その時、世尊は偈を説かれました。

「諦知因與緣，決定微細義，喜樂解脫流，愛所不能使。眾生隨業流，一切業中生，業果繫縛已，有中隘處行。若離不善業，常憙樂善業，如是修行者，如無垢月光。彼能燒惡業，如火焚乾草，三界之光明，解脫諸惡法。若人悕解脫，心不樂生死，生死不能縛，如鳥飛虛空。諦知受所從，善知受果報，則得於解脫。彼諦知三界，苦樂不能動，善惡不經心，見世間如焰。彼修者普愛，意常不錯謬，恒樂於法行，心樂比丘法，如是名比丘。不樂數見親，樂見於善人，出家離舍垢，如是名比丘。寂靜於諸根，不貪著境界，行視一尋地，如是名比丘。不行他罵家，一向不販賣，不樂四出巷，如是名比丘。不樂觀歌舞，不樂饒人處，樂住於塚間，如是名比丘。唯取當日食，不取明日食，食二分便罷，如是名比丘。捨離妙好服，憙樂塵土衣，食行俱相應，如是名比丘。若不作世業，不望世業果，不苦求所須，如是名比丘。解脫於欲瞋，捨離癡心泥，惡法不能污，如是名比丘。已過一切結，捨離一切使，解脫一切縛，如是名比丘。遊八分聖道，趣向涅槃城，離惡意煩惱，如是名比丘。堅意寂靜根，捨離欲淤泥，常一意正住，如是名比丘。若已得地智，寂靜心諦見，知諸地善惡，如是名比丘。漏法無漏法，皆因緣而生，一切種種知，如是名比丘。正直修梵行，寂靜離懈怠，早起淨恭敬，如是名比丘。樂修於定慧，復樂於四禪，亦樂阿蘭若，如是名比丘。如鳥飛虛空，影則常相隨，若意順正法，如是名比丘。能殺諸煩惱，平等善意觀，善知出入息，如是名比丘。若能次第知，諦見所修法，善知道非道，如是名比丘。得樂心不喜，遇苦則不憂，憂喜心平等，如是名比丘。若諦知老死，天修羅禮敬，知眾生善惡，如是名比丘。衣鉢常知足，不聚積財寶，少欲而梵行，如是名比丘。一食而離垢，不貪著諸味，能捨於利養，如是名比丘。行捨心悲心，捨離妬嫉惡，已燒一切過，如是名比丘。

> 因と縁をあるがままに知り、 その微細な意味をはっきりと見極め、 解脱の流れを喜び楽しむ者は、 愛欲に操られることがない。 すべての生きとし生けるものは、 自らの業にしたがって流れていく。 あらゆる業の中に生まれ、 その結果にしっかりと縛られ、 様々な生存の狭い世界をめぐる。 もし悪しい業を離れ、 常に善い業を喜び楽しみ、 そのように修行する者は、 まるで曇りのない月の光のようだ。 その者は悪い業を焼き尽くす。 まるで火が乾いた草を焼くように。 彼は三界（この世のすべて）の光であり、 あらゆる悪い性質から解き放たれている。 もし人が解脱を願い、 心が生まれ変わり（生死）を好まなければ、 生まれ変わりはその人を縛れない。 まるで鳥が大空を自由に飛ぶように。 受（感覚）がどこから来るのかをあるがままに知り、 受（感覚）の結果を正しく知れば、 解脱を得ることができる。 その者は三界をありのままに知り、 苦楽に動かされることなく、 善悪にも心をとらわれない。 世の中を陽炎のように見る。 その修行者はすべてを広く愛し、 その心は決して間違うことなく、 常に法（真理）の実践を喜び、 修行者の生き方を心から楽しむ。 これこそが、真の修行者（比丘）と呼ばれる。 多くの知人に会うことを好まず、 善い人と会うことを喜び、 家を出て汚れを離れる。 これこそが、真の修行者である。 感覚の門（根）は静まり、 外界の対象に執着せず、 歩くときには目の前の一尋（約１．８メートル）の地面だけを見る。 これこそが、真の修行者である。 他人を罵る家には行かず、 一切の商売をせず、 四つ辻の賑わいを好まない。 これこそが、真の修行者である。 歌や舞を観ることを好まず、 人が多く集まる場所を好まず、 墓場（塚間）にいることを楽しむ。 これこそが、真の修行者である。 その日の食物だけを受け、 明日の食物を蓄えようとせず、 腹八分目で食べ終える。 これこそが、真の修行者である。 見事な衣服を捨て、 粗末な衣を喜んでまとい、 食べることと行いが共に調和している。 これこそが、真の修行者である。 もし世間の仕事をせず、 その結果も望まず、 必要なものを無理に求めなければ、 これこそが、真の修行者である。 欲望や怒りから解き放たれ、 無知という心の泥を捨て去り、 悪い性質に汚されることがない。 これこそが、真の修行者である。 すでにあらゆる結びつきを超え、 すべての囚われを捨て去り、 すべての束縛から解き放たれている。 これこそが、真の修行者である。 八つの正しい道（八正道）を歩み、 涅槃（安らぎの世界）の都へと向かい、 悪意や煩悩を離れている。 これこそが、真の修行者である。 意志は固く、感覚は静まり、 欲望という泥を捨て去り、 常に一つのことだけに心を落ち着けている。 これこそが、真の修行者である。 もしすでに様々な境地（地）についての智慧を得て、 心が静まり、あるがままを見る智慧を持ち、 その境地の善悪を知っているならば、 これこそが、真の修行者である。 煩悩を伴う性質も、伴わない性質も、 すべては原因と条件によって生じるものであり、 その一切を様々な形で知っている。 これこそが、真の修行者である。 まっすぐに清らかな行い（梵行）を修行し、 静かで怠けることなく、 早起きして心を清らかに敬う。 これこそが、真の修行者である。 心を静める修行（定）と、 物事を見通す智慧（慧）を楽しみ、 また四つの禅定（四禅）を楽しみ、 さらに静かな森（阿蘭若）での修行を楽しむ。 これこそが、真の修行者である。 鳥が大空を飛べば、影が常に付き従うように、 もし心が正しい法（真理）に従うならば、 これこそが、真の修行者である。 様々な煩悩を打ち砕き、 すべてに対して平等な善意で見つめ、 息の出入りを正しく知っている。 これこそが、真の修行者である。 もし一歩一歩、順序正しく知り、 あるがままの智慧によって修行すべき法（真理）を見て、 道か道でないかを正しく知っているならば、 これこそが、真の修行者である。 楽しいことに出会っても心は喜ばず、 苦しいことに直面しても心は憂えず、 喜びも憂いも心は等しい。 これこそが、真の修行者である。 もし老いと死をありのままに知り、 天の神々や修羅（闘いの神々）からも敬われ、 生きとし生けるものの善悪を知っているならば、 これこそが、真の修行者である。 衣と鉢に常に足ることを知り、 財宝を蓄えず、 少しの欲求で清らかに生きる（梵行）。 これこそが、真の修行者である。 一日一食で清らかに暮らし、 様々な味に執着せず、 供養や利得を手放すことができる。 これこそが、真の修行者である。 心を施すことと、慈しみの心を持ち、 嫉妬や悪意を捨て去り、 すでに一切の過ちを焼き尽くしている。 これこそが、真の修行者である。

「彼比丘內心思惟——隨順正法，如是觀受；既觀受已，得微細智，更深觀察，眼觸生受，攀緣順行，如是觀眼第二攀緣，相與共滅：『我眼觸受，攀緣已滅，聲共攀緣，我生愛受，若不愛受生，心莫共滅。』彼比丘以不愁繩繫縛彼心在攀緣柱，彼受滅已，彼聲攀緣共耳受滅。

> その比丘は心の中で深く考え、正しい法に従い、このように感受を観察しました。感受を観察すると微細な智慧が生まれ、さらに深く観察しました。すると、「眼の触れ合いから感受が生じ、執着が伴って進む」と気づきました。このように眼の第二の執着を観察し、それらが共に消えていく様を見ました。「私の眼の触れ合いによる感受と、その執着はすでに消えた。音と共に執着が生じ、私は愛着の感受を生む。もし愛着しない感受が生じても、心は共に消え去ってはならない」と。その比丘は悲しみの縄で心を執着の柱に縛りつけず、その感受が消えると、音の執着も耳の感受と共に消え去りました。

「鼻緣於香而生鼻受，彼比丘復觀鼻受，如是思惟：『我鼻共香而生鼻受，若善不善，若記無記；我此鼻受，心莫共滅。』彼比丘若觀心壞，如是攀緣，數數習行，修取調心，善法熏心，無漏善法爾時不動。

> 鼻は香りに縁って鼻の感受（鼻受）が生じます。その比丘はさらに鼻の感受を観察し、次のように思惟します。「私の鼻は香りと共に鼻の感受を生じる。それが善であれ不善であれ、あるいは無記であれ、この鼻の感受によって私の心が共に消え去ってしまわないように。」その比丘が心の壊れゆく様子を観察し、このように縁に従って繰り返し修行し、心を調え取ることに習熟し、善法によって心を熏じると、無漏の善法はそのときに動じなくなります。

「舌攀緣味，此之攀緣，若善不善，若記無記。彼比丘證攀緣已，次觀察受若苦、若樂、不苦不樂。如是觀已，思惟憶念：『我此心者，為壞不壞？』又復觀察彼味攀緣所生之受，能破壞心。如是觀已，以不愁繩繫縛彼心在攀緣柱，如行修取，心若如是，舌受味愛所不能劫。

> 舌は味を攀緣します。この攀緣には善・不善・無記（善悪どちらでもない）の三種類があります。その比丘（修行者）は攀緣を確かめた後、次に受（感覚）が苦・楽・不苦不楽（どちらでもない）のいずれであるかを観察します。こうして観察した後、思惟し憶念します。「私のこの心は、壊れるでしょうか、壊れないでしょうか」と。さらに、その味の攀緣から生じる受が、心を壊す力を持つかどうかを観察します。こうして観察した後、愁いの縄を用いて、その心を攀緣の柱にしっかりと結びつけます。行を修し取るように、心がこのようであれば、舌が味の愛着に苦しめられることは決してありません。

「又彼比丘觀彼身觸，如是身觸，共彼觸受縛攀緣柱，若善不善，若記無記。觀彼觸受：若心動壞復以縛於攀緣柱已，而調伏之，不復破壞。

> また、その比丘は身体の触覚を観察する。このように身体の触覚は、その触覚の感受と共に縛られ、攀縁（よりどころ）という柱に結びついている。それが善であれ不善であれ、無記（善悪いずれにも分類できないもの）であれ、その触覚による感受を観察する。心が動き、壊れるならば、再び攀縁の柱に縛りつけた上で、それを調伏させ、再び壊れることがないようにする。

「又彼比丘次觀察意：意縛法受，若善不善，若記無記，見受意壞。彼比丘以不愁繩繫縛彼心在攀緣柱而調伏之，則不破壞。

> また、その比丘は次に意（心）を観察する。心はさまざまな対象（法）に縛られて受け取り、善や不善、または記別（無記）として受け取るが、それらの受け取りは壊れていくのを見る。その比丘は、憂いの縄で心を縛って、対象への執着という柱に結びつけて調伏するならば、心は壊れることはない。

「彼比丘觀六境界身入受已，諦知五受，得不盡處；彼以智燈，觀眼觸受，覺何者受？彼觀意識：緣生此受，意縛心取，一切世間愚癡凡夫，以分別火而自燒燃。此無受者，唯行聚生、唯行聚滅，因緣所縛。眼觸生受隨順觀已，隨順而行，彼不能取，心不動轉，不死不亂。

> その比丘は、六つの境界（六境）が身体に入り、感覚（受）が生じるのを観察したのち、五つの執着（五受）を的確に理解し、消尽のない境地に至る。 彼は智慧の灯明をもって、眼の接触から生じる感覚を観察し、「何が感じているのか？」と問い詰める。 彼は意識を観察する。「この感覚は縁によって生じ、心はそれに縛られ、執着する。一切の世間の愚かな凡夫は、分別の火によって自らを燃やしている。この感覚には、『感じる者』など存在しない。ただ、諸々の現象（行）の集まりが生じ、諸々の現象の集まりが滅するのみであり、それらは因縁に縛られているのだ。」と。 眼の接触から生じる感覚を、順に従って観察し、そのままに従って行動するならば、彼はそれに執着することがない。

「又彼比丘觀察耳受。何者耳受？誰覺此受？彼見意識隨順繫縛：如此耳受，意共繫縛，依止彼意，此無作者亦無受者，因緣而生。如是耳受，非有作者、非有受者，唯有行聚因緣勢力，若生若滅。

> また、その比丘は耳の受（感受）について観察する。では、耳の受とは何か。誰がこの受を感じ取るのか。彼は、意識がそれに従い縛られているのを見る。すなわち、この耳の受は、意と共に縛られている。その意に依って生じるが、そこには作り手もなければ、受け手もなく、ただ因縁によって生じるのである。このように、耳の受には作り手も受け手もなく、ただ因縁の力によって生じたり滅したりする行（形成作用）の集まりがあるのみである。

「又彼比丘觀察鼻受，誰覺此受？彼觀察受：意識共縛，攀緣彼意，依止彼意，因彼因緣，隨順而生，唯有行聚，非有作者、非有受者，相續轉縛。觀鼻受已，離於受者。

> さらに、その比丘は鼻の感覚を観察する。「誰がこの感覚を感じ取っているのか？」と。彼は感覚を観察する。意識が結びつき、その意識に依存し、その意識をよりどころとし、その因縁によって従い生じる。そこには単なる行為の集まりがあるだけで、作り手はおらず、受け手もおらず、連続して縛られているだけだと。鼻の感覚を観察した後、「受け手」という概念から離れるのである。

「又彼比丘次觀舌受，誰覺舌受？觀察此受，意識繫縛：如是舌受，依止彼意，彼縛攀緣，彼因緣生，非有作者、非有受者，更無別物，唯有行聚因緣力生。

> さらに、その比丘は次に舌の感覚を観察する。 「誰が舌の感覚を感じ取るのか？」 この感覚を観察すると、意識がそれに縛られていることがわかる。 つまり、舌の感覚はその意識に依存し、その意識は執着の対象に縛られ、その因縁から生じる。 そこには作り手もなく、受け手もなく、他に何か別のものがあるわけでもない。 ただ、様々な心の働きが集まり、因縁の力によって生じているだけなのである。

「又彼比丘觀身觸受，誰覺此受？此何誰受？如是觀察意識繫縛：如此身受，非有作者、非有受者，更無別物，唯有行聚因緣力轉。

> さらに、その比丘は身体の触れ合いから生じる感受（受）を観察する。「だれがこの感受を感じ取るのか？　これは何であり、だれが受け取るのか？」と、このように意識の結びつき（繫縛）を観察する。すなわち、この身体と感受には、作り手もなければ、受け取り手も存在しない。別に何か実体があるわけでもなく、ただ因と縁が集まったもの（行聚）が、そのはたらきによって変化し続けているだけなのである。

「又彼比丘觀察意受，誰覺意受？觀察意受：意緣於法而生意識，三和合觸，觸共受生。譬如種種無量香物，眾多和合則生善香，此善香生，非是一因。此亦如是因緣和合，生一切受，非有作者、非有受者。譬如莖葉鬚馞等緣，蓮華名生，彼非一因。如是依眼，緣色、緣空、緣念、緣明，生眼觸受，依眼而生。如是受者，不從一生，非一物生，非一合生，非一相生，非聚集生，非應化生。彼比丘如是如是諦求此受，如是如是生白淨法，如甘蔗汁，器中火煎，彼初離垢，名頗尼多；次第二煎則漸微重，名曰巨呂；更第三煎，其色則白，名白石蜜。此甘蔗汁，如是如是煎復更煎，離垢漸重，乃至色白。比丘如是緣器智火，以煎相續心甘蔗汁，初始禪觀，如頗尼多；次復第二，則如巨呂；次復第三，如白石蜜。如是比丘心相續法，以智火煎，則成無漏鮮白之法，離垢不雜，出世法生，出於生死，鮮白離垢，猶如洗衣。

> さらに、その比丘は心の感覚（意受）を観察する。「いったい何が心の感覚を感じ取っているのか？」と。 心の感覚を観察すると、心が対象（法）に触れて意識が生まれ、これら三つの要素（心・対象・意識）の接触によって感覚が生まれる。あたかも、さまざまな無数の香りの材料が集まって良い香りが生まれるように、この香りは一つの原因だけで生まれるわけではない。これと同じように、様々な原因と条件が和合して、すべての感覚が生まれるのだ。そこには作り出す者も、受け取る者も存在しない。 例えば、茎や葉や花びらなどの条件がそろって蓮華という名前の花が生まれるように、それも一つの原因だけではない。これと同じように、眼に対し、色、空間、記憶、明かりを条件として、眼の触覚による感覚が生まれ、眼に基づいて生じる。こうした感覚は、一つの原因から生まれるのではなく、一つの物から生まれるのでもなく、一つの結合から生まれるのでもなく、一つの形から生まれるのでもなく、集まりから生まれるのでもなく、変化によって生まれるのでもない。 その比丘は、このように感覚を正しく追究する。そうしていくと、清らかな善の法が生まれてくる。それはちょうど、サトウキビの汁を器で火にかけて煎るようなものだ。最初の精製で不純物が取り除かれたものを「フェニート」と呼ぶ。次に二度目に煎ると、それはやや重くなり、「キューリュ」と呼ばれる。さらに三度目に煎ると、その色は白くなり、「白砂糖」となる。このサトウキビの汁は、このように何度も何度も煎ることで、不純物が取り除かれ、次第に重くなり、ついには白くなるのだ。 比丘もまた、器のような智慧の火を使って、連続する心というサトウキビの汁を煎るのである。最初の瞑想観察は、フェニートのようなもの。次に二度目は、キューリュのようなもの。さらに三度目は、白砂糖のようなものである。このようにして比丘は、心の連続という法を、智慧の火で煎ることにより、煩悩のない清らかで白い法を生み出すのである。それは不純物がなく、混じりけがなく、世を超えた法が生まれ、生死を超え、洗った衣服のように、清らかで白く、汚れを離れているのだ。

「又彼比丘更以異法，微細觀受：眼觸生受，有麁有細，垢重不輕，與癡相隨，某眾生受，彼某甲受，勝故能壞，餘殘少在，彼不依止。如是耳受、鼻受、舌受、身受、意受，彼比丘如是修已，受觀成就，魔軍欲壞。彼地夜叉轉復歡喜，如是上聞虛空夜叉；彼地夜叉、虛空夜叉聞四大王；彼地夜叉、虛空夜叉、彼四大王聞四天王；彼地夜叉、虛空夜叉及四大王，并四天王向帝釋說。時，帝釋王即乘白象堙羅槃那，向炎摩天歡喜心說，具足如前。彼炎摩天聞帝釋說，心生歡喜，以種種色天寶妙鬘莊嚴之具香莊嚴身，乘種種乘，可愛聲觸味色香等，種種可愛不可說樂，心大歡喜。「炎摩天眾向兜率天四萬由旬，七寶殿舍勝妙光明種種宮室，意分別城一萬由旬，名無漏樂菩薩坊巷，彌勒世尊住在彼處，有諸菩薩五百人俱。彼炎摩天到世尊所，心大歡喜，正天衣服在於一肩，右膝著地合掌禮已，合掌於額而作是言：『天今當知：閻浮提中業地之處，依閻浮提某國某村某聚落中某善男子，如是種姓，如是名字，剃除鬚髮被服法衣，正信出家，持戒修行，恭敬尊長，獲得第四求無漏善，諦見受地，破壞魔眾，堅牢善作正法橋梁，開顯白法，令彼魔分無有威力，天朋增長，有大勢力。如我今者向天所說。』

> さらにその比丘は、別の方法を用いて微細に「受」を観察しました。 「眼の接触から生じる感受（眼触生受）には、粗いものと細かいものがあり、煩悩の垢が重くて軽くなく、無明（痴）と共にあります。ある衆生の感受、また別の衆生の感受は、優れているがゆえに他を打ち負かし、その残りはわずかに留まりますが、それに執着することはありません。耳の感受、鼻の感受、舌の感受、身体の感受、心の感受も同様です。」 その比丘はこのように修め終え、受の観察を成就させました。すると、魔の軍勢は打ち破られようとしました。地の夜叉たちはますます喜び、このことを虚空の夜叉に告げました。地の夜叉と虚空の夜叉は、四大王に告げました。地の夜叉、虚空の夜叉、そして四大王は、四天王に告げました。地の夜叉、虚空の夜叉、四大王、そして四天王は、帝釈天にその旨を伝えました。 その時、帝釈天は白象・堙羅槃那に乗り、炎摩天のもとへ向かい、喜びを持って語りました。その内容は先ほどと全く同じです。炎摩天は帝釈天の言葉を聞き、心に喜びを生じました。様々な色の天の宝の鬘や荘厳具、香りで身を飾り、様々な乗り物に乗りました。愛しい声・感触・味・色・香りなど、様々な愛すべき言葉に尽くせない楽しみがあり、心は大いに喜びました。 炎摩天の眷属は、兜率天へ向かいました。そこは四万由旬の広がりを持つ、七宝の殿舎があり、勝れた妙なる光明と様々な宮殿、さらに一万由旬に及ぶ「意分別城」という場所がありました。そこは「無漏楽」の菩薩の街並みで、弥勒世尊が五百人の菩薩と共に住んでおられます。炎摩天の者たちは、世尊のもとに到着し、心から大いに喜びました。天の衣を片方の肩にかけ、右膝を地につけて合掌し、額の辺りに手を合わせて礼をしてから、こう言いました。 「天よ、今知るべきです。閻浮提（南閻浮提）という業の地において、またその閻浮提の中のある国、ある村、ある集落において、ある善き男子が、これこれの姓、これこれの名で、髪と髭を剃り、法衣をまとい、正しい信仰をもって出家し、戒律を保ち修行に励み、尊敬すべき長者を敬い、第四の無漏の善を獲得しました。受（感受）の領域を如実に観察し、悪魔の群れを打ち破り、堅固に善をなして正法の橋を架け、白法（善法）を顕かにしました。それにより悪魔の分には力がなくなり、天の味方が増え、大いなる勢力を得ました。これを私が今、天に申し上げる次第です。」

「彌勒世尊如是聞已，向炎摩天如是說言：『天朋有力，魔分劣弱，正法朋長，煩惱縛緩，魔軍戰動，我聞歡喜。』

> 弥勒世尊はこれを聞いて、焔摩天にこう仰いました。 「天の仲間は力があり、悪魔の勢力は弱まっています。正しい教えの仲間は伸び、煩悩の束縛は緩み、悪魔の軍は打ち震えています。これを聞いて、私は大いに喜びました。」

## 正法念處經卷第三

> 『正法念処経』 第三巻