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title: "正法念處經 · 2"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第四

> 正法念処経 第四巻

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 生死品之二

> 生死品 第二

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行。彼比丘受陰地分，略如六天之所知見，又復云何得第五地？又彼比丘已諦見受，彼六天眾既作業已，觀想陰相分別思量：『何者地中我共彼想行於白法？』正思惟已，一分中行，觀察彼想行白法相，初如是法，分分善知，云何緣於有見、有對，生不可見、無對之想？彼比丘更廣觀想，彼想攀緣十一種色，所謂長、短、方、圓、三角、團及青、黃、赤、白、紫等。

> また修行者は内に心をめぐらせ、正しい法に従い、法に沿った行いを観察する。その比丘は受陰の領域を、おおよそ六天の知見に従って理解したが、さらに第五の境地をどのようにして得るのか。 また、その比丘はすでに受（感受）を明確に見極めた。その六天の衆はすでに修行を積み、想陰（表象）の様相について次のように観察し思惟する。「どの領域において、私はその想いと共に善い行いを実践するのか」。正しく思惟した後、その一分において修行し、想いが善い行いを示す様相を観察する。最初にこのような法を、一つ一つ細かく理解する。 どのようにして「有るという見解」や「対するものがある」という縁から、「見えず、対するものがない」という想いが生じるのか。 その比丘はさらに広く想いを観察する。その想いは十一種類の色（形態）に執着する。すなわち、長い、短い、四角い、丸い、三角形のもの、塊、そして青、黄、赤、白、紫などである。

「依彼長相則起長想。如是世間，愚癡少智，無邊生死，業果退生，愛離、寒熱、飢渴之患，為他作使，若奴僕等，迭互相食，如是和集，虛妄不實，一切所有不饒益事，如是無量不可堪忍；無量百千億那由他一切所作身口意起作苦惱業，以為莊嚴，虛妄誑詐，愚癡凡夫，恒常如是。人中則有農作等苦，迭相欺誑、斗秤不平、言訟諍鬪、治生求利、參承王等，入海遠行、種種鬪諍、田作放牧；生夷人中，喜生邪見、根不具足、離聞正法，生無佛處無善因緣，雖得無難，心常憙樂飲酒、婬、盜、貪欲、瞋恚、妄語、兩舌、惡口、綺語；如是之人，是長生死，緣彼長相，則起長想。

> 彼の長い姿に執着して、長いという思いを起こすのです。このように、世の人々は愚かで知恵が乏しく、果てしない生死を繰り返し、業の報いによって生まれ変わり、愛別離苦、寒さ、暑さ、飢え、渇きの苦しみを受け、他人にこき使われ、まるで奴隷のように互いに食い合い、このように集まっては虚偽で真実ではなく、すべての不利益なことはこのように無量で耐え難いものがあります。無量百千億那由他もの、身・口・意によって起こされる苦しみの業を、あたかも飾りのようにして、虚偽で欺き惑わす愚かな凡夫は、常にこのような状態です。 人間の世界には、農作業などの苦しみがあり、互いに騙し合い、秤をごまかし、訴訟や諍い、商売で利益を求め、王侯に仕え、海を渡って遠くへ行き、様々な争い、田畑の耕作や牧畜があります。また、野蛮な者の中に生まれ、邪見を好み、身体の器官が不具で、正しい教えを聞く機会がなく、仏陀のいない世界に生まれ、善い因縁に恵まれず、たとえ困難がない状態を得ても、心は常に酒を飲み、淫らな行い、盗み、貪欲、怒り、偽りの言葉、両舌、悪口、綺語を好みます。このような人は、長い生死の中にあり、あの長い姿に縁って長いという思いを起こすのです。

「又復天中長生死相，緣彼相想，如是天中，不得境界，喜樂境界、聲味色香、貪欲瞋癡，種種放逸、習近婦女、歡喜園中種雜莊嚴，寶間宮殿、樹林水池有妙蓮花，遊戲快樂，天諸花香、種種味食、舞食遊行，貪著喜樂，天栴檀末，若散若塗，曼陀羅花、天歌音聲心生憙樂，離於正法，是長生死。若生天中，有如是事，緣彼長相，則生長想。

> さらに、天界においては生死の相が長く続くものであり、その相に執着して思い描くことによって、天界では真の境地を得ることができない。喜びや楽しみの境地、声や味、色や香り、貪りや怒りや愚かさ、様々な放逸、女性との親しみ、喜びの園における様々な荘厳、宝で飾られた宮殿、林や池にある見事な蓮の花、遊びや楽しみ、天界の花々の香り、様々な味の食べ物、舞や遊行、これらに執着し喜び楽しむこと、天界の栴檀の粉末を撒いたり塗ったりすること、曼陀羅の花、天界の歌声に心から喜び楽しむこと、これらは正しい法から離れたものであり、これが長い生死の相である。もし天界に生まれるならば、このようなことがあり、その長い相に執着することによって、長いという思いが生じるのである。

「又復餓鬼長生死相，緣彼相想，惡業行故，飢渴乏瘦、雨火墮身、咽則如針、脇狀山巖、如空破瓮，以妬嫉故，以刀劍等迭相斫割，在黑闇處墮墜嶮岸，疾走往趣河渠陂池，閻魔羅人手執刀杖，若利钁等斫打斲之，受大苦惱；食人唾吐是等惡食，無量百千不可堪忍，受種種苦；眼中淚出、頭髮蓬亂覆身蓋面，有百千虫周遍其體，擔負惡身饒一切病，長行生死；常有鐵烏爪嘴火燃，攫啄其眼；口如燒樹，迭互相食；於三十六百千億數爾許由旬曠野中行，無主無導，飢渴所逼，其身火燃，入黑闇處。如是餓鬼，邪見所誑，離聞正法，是長生死。

> さらにまた、餓鬼の長い生死の相がある。その相に執着する想いと、悪業を積んだ故に、飢えと渇きに痩せ衰え、雨が火となって身に降り注ぎ、のどは針のように細く、脇腹は山の岩のようで、空の壊れた瓮のような姿となる。妬み嫉みの心から、刀や剣などで互いに切り合い、暗闇の中で険しい崖に墜ち、慌てて川や池に向かって走る。閻魔の使いが刀や杖、あるいは鋭い鍬などを持って打ち叩き、大きな苦しみを受ける。人の唾液や吐しゃ物など、このような汚いものを食べて、計り知れないほどの耐え難い苦しみを無量に受ける。目からは涙が流れ、髪は乱れて身体を覆い、百千もの虫が全身に群がり、あらゆる病を抱えた醜い身体を負って、長く生死をさまよう。常に鉄の烏が、嘴と爪に火を燃やしながら飛来し、その目をえぐり取る。口は焼けた木のようで、互いに食べ合う。三十六万億由旬もの広大な荒野を、導き手もなく彷徨い、飢えと渇きに苛まれ、身は火に焼かれ、暗闇の中へと入っていく。このような餓鬼たちは、邪な見解に惑わされて正しい法を聞くことがなく、これこそが長い生死なのである。

「緣彼相想，又復畜生迭互相食，非理婬欲，不知所應；若生水中，水中而行，心燥常飢，常畏他取，黿龜慳獸及水獺等，魚則堤彌、堤彌宜羅，有名瓮魚——金毘羅魚、那迦羅魚，名大口魚——蛤䗍等虫，常一切時大者食小，常畏網等，遮障而取；又陸地行，麞鹿水牛、猪象牛馬驢及犛牛、麋熊犀等，種種苦縛，刀刃所殺，有病老死，迭相惱害，百千苦惱；如空中行，烏鳥獯狐、鵝及孔雀、鸜鵒鷄雉、鳩鴿水鴈、青鳥護澤、百舌鸛雀，命命他養，是等諸鳥如是無量，復有異鳥，殺縛飢渴，迭相食噉、寒熱苦惱之所逼切。如是畜生，水陸空行三處皆畏，是長生死，緣彼相想。

> 「その表象に執着するがゆえに、さらに畜生は互いに食い合い、道理に反した婬欲を行い、節度を知ることがない。 水中に生まれたものは、水中を動き回り、心は荒み常に飢え、常に他に捕らえられるのを恐れる。 鼋亀（すっぽん・かめ）や慳獣（けんじゅう）、水獺（かわうそ）など、魚には堤彌（たいみ）・堤彌宜羅（たいみきら）というものがあり、瓮魚（おうぎょ）という名の魚、金毘羅魚（こんぴらぎょ）、那迦羅魚（なからぎょ）、大口魚（だいくぎょ）という名の魚、蛤や䗍（ほらがい）などの虫がいる。 常に常にすべての時、大きいものは小さいものを食い、常に網などを恐れ、遮られて捕らえられる。 また陸地を行くものには、麞（のろ）・鹿・水牛・猪・象・牛・馬・驢馬（ろば）・犛牛（もうぎゅう）・麋（おおじか）・熊・犀（さい）などがいて、さまざまな苦しみに縛られ、刃物で殺され、病・老・死があり、互いに悩まし苦しめ合い、百千の苦悩がある。 空中を行くものには、烏（からす）・鳥・獯（むじな）・狐、鵞鳥（がちょう）・孔雀・鸜鵒（きょくよく）・鶏・雉（きじ）・鳩・鳩鳩（きゅうきゅう）・水鴈（すいがん）・青鳥（せいちょう）・護沢（ごたく）・百舌（もず）・鶴（つる）・雀（すずめ）・命命（めいみょう）他養（たよう）など、これらの鳥はこのように無量であり、また異なる鳥もいる。 殺され、縛られ、飢え乾き、互いに食い合い、

「如活地獄、黑繩地獄、合地獄、叫喚地獄、大呌喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄，第一苦惱，不可思議，無量百千畏火刀等，墮諸惡池、身分血洋、入刀葉林、入大火中、墮在灰河、行火燃地、受火燒苦，堅䩕相似無量種惡苦惱所逼，不可忍耐。如是地獄，是長生死，緣彼相想。

> 生き地獄、黒縄地獄、合わされ地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄があります。そこでの苦しみは、筆舌に尽くしがたく、想像を絶するものです。数え切れないほどの恐ろしい炎や刃などが存在し、様々な悪の池に落ち、身体は血で満たされ、刀の葉の林に入り、大火の中に落ち、灰の川に沈み、燃え盛る地を歩き、焼かれる苦しみを受けます。まさにこのような、耐え難い無数の悪の苦しみに苛まれています。このような地獄の世界は、長い生死の輪廻であり、そのような境地への執着から生じるものです。

「彼比丘慧聚觀察：彼見有對，緣彼長色業果因緣，緣於四諦；觀察眾生種種諸行，百千由旬，如是道行，分分思量，觀察因緣，厭離生死。

> その比丘は智慧を集めて観察する。彼は「対するものがある」と見て、その長い色という業の果報の因縁を、四つの真理に基づいて観察する。そして、生きとし生けるもののさまざまな行いを、百千由旬にわたる道のりのように、一つひとつ思量し、因縁を観察して、生死を厭い離れるのである。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何彼比丘，分分思量觀彼短相？彼見聞知或天眼見：彼比丘欲動魔軍，云何分分思量觀察短生死相？受戒頭陀，精勤布施、持戒智行、恭敬尊長、直心歡喜；如是正見敬重父母、見佛聞法、恭敬供養、不諂曲行、不慢不誑、近善知識、守信正行、直心起業、嚴身口意。如是之人，生死則短。

> また修行者は内に心をめぐらせ、正しい教えに従い、法の行いを観察する。では、その比丘（僧）はどのようにして、一つ一つを思い量り、その「短い相（様相）」を観るのだろうか。彼は聞いて知り、あるいは天の眼で見る。その比丘は魔の軍を動かそうとする。どのようにして、一つ一つを思い量り、短い生死の相（輪廻の短い様相）を観察するのか。 戒を受け、頭陀（厳しい修行）を行い、精進して布施し、戒を保ち智慧を行じ、尊長を敬い、直心で喜ぶ。このように正しい見解を持ち父母を敬い重んじ、仏を見て法を聞き、恭敬し供養し、へつらったり曲がった行いをせず、慢心せず欺かず、善知識に親しみ、信心を守り正しい行いをし、直心で業を起こし、身・口・意を慎む。このような人の生死（輪廻）は短い。

「緣彼相想，若生天中則有放逸：歡喜園中、間錯寶輦，種種樹林、水池蓮花，有好栴檀、勝妙瓔珞莊嚴端正，有劫波樹、河流泉林、遊食快樂。捨如是樂，受持禁戒、飲食遊行，如是種種禪思讀誦，樂見善人，教他讀誦，捨施調順，正行梵行，寂靜諸根，少語樂法，如法飲食。若天如是，生死則短。」

> 「そのような相（概念）に執着するため、もし天界に生まれたならば、安逸に流されてしまうのです。喜びの園、宝石を散りばめた輿、さまざまな林、水辺の蓮の花、優れた栴檀、見事な瓔珞（装飾品）で整えられた姿、劫波樹（満願樹）、小川や泉の林、遊びと食事の楽しみ。そのような楽しみを捨てて、戒律を受け守り、食事や行動にも注意し、様々な禅定や読誦に励み、善人に会うことを喜び、他人にも読誦を教え、布施をして心を穏やかにし、正しく清らかな行いを実践し、感覚を静め、言葉少なく真理を楽しみ、教えにかなった食事をする。天人がそのように生きれば、生死の期間は短くなるのです。」

爾時，世尊而說偈言：

> その時、世尊は偈を説かれました。

「種種諸苦惱，飢渴口焦乾，火炎燒其身，如被燒枯樹；彼苦不可數，若一念靜根，暫依佛法僧，彼人生死短。

> 様々な苦しみや悩み、飢えや渇きで口は乾ききり、 炎がその身を焼き尽くす、まるで燃える枯れ木のようだ。 その苦しみは数えきれないけれど、もし一瞬でも心を静め、 ほんの一時でも仏法僧に依るなら、その人の生死の苦しみは短くなる。

「比丘如是緣於相想。

> 比丘はそのように、表象や想念に執着します。

「常怖畏撾打，若雨及寒熱，迭互相食噉，如是等眾苦；彼苦不可數，若一念靜心，暫依佛法僧，畜生生死短。

> 常に打擲（ちょうちゃく）を恐れ、雨や寒さ暑さにさらされ、 互いに食べ合うという、数えきれないほどの苦しみがあります。 そうした苦しみは数えきれませんが、もし一瞬でも心を静め、 わずかでも仏法僧（ぶっぽうそう）に依（よ）り頼めば、 畜生の生まれ変わり（生死）は短いものとなります。

「比丘如是緣於相想。

> 比丘はそのように、表象や想念に執着します。

「在活黑繩合、叫喚大叫喚、阿鼻等地獄，種種極苦逼；彼苦不可數，能於一念中，寂靜心取戒，地獄生死短。

> 生きているうちに黒縄地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、阿鼻地獄などに落ちると、さまざまな極めて苦しい責め苦に遭います。その苦しみは数えきれませんが、ある一念のうちに静かな心で戒めを受ければ、地獄の生と死は短いものとなります。

「比丘如是緣於相想。彼比丘如是思惟生死短相。何者四楞？彼正觀察：欝單越人，於一切物無我所心，決定上行；彼人如是四楞生死。比丘如是緣於相想。

> 比丘は、このように「相」と「想」に縁って考える。その比丘は、生と死の「短い相」について、このように観じる。「四つの角」とは何か。彼は正しく観察する。鬱単越（うたんえつ）の人々は、すべてのものに対して「我がもの」という心がなく、確かに向上の道を歩む。彼らの生死は、このように四つの角を持つ。比丘は、このように「相」と「想」に縁って考える。

「何者是圓？地獄、畜生、餓鬼等中無智輪轉，非自心行，是圓生死。比丘如是緣於相想。

> 「円とは何か？地獄・畜生・餓鬼などの世界で智慧なく輪廻し、自分の心のままに行動できないこと、これが『円の生死』である。比丘はこのように相（形）や想いにとらわれる。」

「何者三角？若人行善、不善、無記種種雜業，地獄、天、人諸處雜生。彼不善業，生地獄中；善業，天中；雜業，人中。若行三業，於三處生，如是名為三角生死。比丘如是緣於相想。

> 三角とは何か。人が善・不善・無記という様々に混ざった業を行い、地獄・天・人間の様々な場所に混ざって生まれることをいう。その不善の業は地獄に生まれ、善の業は天に生まれ、雑（まじ）った業は人の中に生まれる。この三つの業を行うことで、三つの場所に生まれる。これを三角の生死という。比丘はこのように相（すがた）と想（おもい）に縁っているのである。

「何者是團？四大天王、三十三天、夜摩、化樂、他化自在，業相似生，於天中退，復生天中；於人中退，復生人中；非難處地，是團生死。比丘如是緣於相想。

> （問：）「集まり」とは何か？ 四天王天、三十三天、夜摩天、化楽天、他化自在天のように、同じ業の結果として生まれ、天界から退いて再び天界に生まれ、人間界から退いて再び人間界に生まれること。これが「苦しみの集まり」という生死の世界である。 比丘は、このように「想い」を縁として、ありのままに観察するのである。

「何者是青？不善業攝地獄之人，入闇地獄，是青生死。比丘如是緣於相想。

> 青とは何か？ それは、不善の業によって地獄に落ち、暗黒の地獄に入った人のことである。このような人が経験する生死の状態を「青」と言う。比丘はこのように、形や想いに基づいて観察するのである。

「何者是黃？黃色業攝生餓鬼中，互相加惡，迭共破壞，如是餓鬼是黃生死。比丘如是緣於相想。

> 「黄色とは何か？黄色の業によって餓鬼の世界に生まれ、互いに悪意を抱き、互いに傷つけ合う。これが餓鬼の生死における黄色である。比丘よ、このようにして、概念の思いに執着するのである。」

「何者是赤？赤業所攝生畜生中，迭相食血，於血生愛，是赤生死。比丘如是緣於相想。

> 「赤とは何か？それは、赤い業に捕らわれて畜生の世界に生まれ、互いに血を食らい合い、血に執着することである。これが赤の生死である。比丘よ、このようにして表象に執着するのである。」

「何者是白？白色業攝生於天中，彼人白業，善道寶價，買天人生；天欲退時，餘天語言：『汝善道去人世界中。』人中欲死，親友知識、妻子啼哭，淚出覆面而作是言：『甚可愛愍，今捨我去，當好處生，生於人中。』如是天人是白生死。比丘如是緣於相想。

> 「何が白か。白業とは、天界に生まれることをいう。その人は白い業によって、善い道の宝の値打ちで天人の生を得る。天界から退く時には、他の天人が言う。『あなたは善い道へ行き、人間の世界へ行きなさい。』人が死のうとする時、親しい友人や知識、妻や子は泣き叫び、涙が顔を覆うほどに流れ、こう言う。『本当に愛おしい、今、私を捨てて行ってしまう。どうか良いところに生まれ、人の世に生まれますように。』このように天人にも人にも白い生死がある。比丘は、このように相や想いによって縁を観察するのである。

「彼比丘如是思惟：既得人身，若不行善、修施戒智，彼人自誑，流轉地獄、畜生、餓鬼曠野中行；如是愚癡凡夫之人，具足聚集如是業道。彼比丘諦觀察受，觀察想陰攀緣而行，諦見諦求，因眼緣色而生眼識，三和合觸，修多作想。歷別觀察，見色好惡，若近若遠、若長若短、若方若圓，若白、三角，是色形相；歷別觀察，彼諸相想，觀想因緣、觀陰界入，因緣相想；歷別觀察，若惡業報，分分正證，因相應緣，覺因相應，然後捨離。若有利益、若不利益，各各異相，知過去想：『我於此業，已得善報，已得惡報，如前所說。』如是知想，若有想者，猶須憶念；彼憶念者，緣彼想生，如燈光明，因燈緣燈，因緣於燈故有光明。如是如是，因想緣想，以想勢力，故有憶念，彼比丘得第五地。

> 「その比丘は、こう考えます。『人間の身を得ていながら、善を行わず、施しや戒律や智慧を修めなければ、その人は自らを欺き、地獄・畜生・餓鬼という荒野をさまようことになる。このような愚かな凡夫は、まさにそのような業の道を積み重ねているのだ。』と。 比丘は、感受作用（受）をよく観察し、表象作用（想）の集まり（想陰）が縁にしたがって展開する様子を観察します。正しく見、正しく求めます。眼と色とが縁となって眼の認識が生じ、この三つの和合によって触（接触）が生じ、そこから様々な想いが生じるのを、くり返し観察します。 一つ一つの違いを識別して、色の善し悪し、近いか遠いか、長いか短いか、四角か丸か、白か三角かを観察します。これら色の形相を詳細に観察し、諸々の相や想い、想いが生じる因縁、五蘊・十二処・十八界の因縁と相や想いを観察します。さらに、悪い業の報いであれば、その一つ一つを正しく証し、因と縁が対応していること、因と縁が対応していると覚知した上で、それを手放します。 利益になるものも、ならないものも、それぞれ異なる相があります。過去の想いについて、「私はこの業によって、すでに善い報いを得た。あるいは悪い報いを得た。それは先に述べた通りである。」と知ります。 このように想いを知るのです。もし想いがあれば、まだ記憶の対象となるものがあります。その記憶は、その想いを縁として生じます。ちょうど灯りの光が、灯りを因とし、灯りを縁として、灯りによって光があるように。全く同じように、想いを因とし、想いを縁として、想いの力によって記憶があるのです。このようにして、比丘は第五の境地を得ます。

「比丘如是知想觸已，於彼天樂，不生貪樂；於地獄苦，不生怖畏；彼平等見，想如真金。彼想比丘，破如是想，異法觀想，解脫彼想，復觀餘人虛妄不實：『我今觀察，何因何緣，何因緣想？』彼觀察想，因緣和合，生如是想；若因緣滅，彼想則滅，如彼月珠。譬如月珠，緣月緣珠，則清水生，想亦如是因緣而生。如是想者，非無因緣，非有作者、非有受者，非自然生。比丘如是諦觀想陰。彼既如是諦觀想已，諦知生滅，復微細觀：如河激流，想亦如是，善想生已，餘因緣力轉為不善；不善想生，餘因緣力轉為善想；彼心猿猴，初始破壞，無記為記。彼觀樂想，不生貪樂，無漏樂中生於樂想；樂中苦想，如是知樂。云何而見？善陰界入若生若滅，不喜樂受、不樂想滅、不取想滅，然後行生，非住非滅，心不悕望，識生住滅。比丘如是諦知此陰，是故不住魔之境界，貪欲瞋癡所不能縛，無有常、樂、淨、我等見，無明不能於生死中以色聲香味觸愛羂之所繫縛，不失憶念，彼憶念生能盡諸漏、能到涅槃。」

> 比丘はこのように、「想」と「触」について知ると、天上の楽に執着せず、地獄の苦しみにも恐れを抱かない。平等の見解をもって、想を真金のごとく観じる。想を観じる比丘は、その想を打ち破り、別の法によって想を観察し、その想から解脱する。さらに他者を見て、虚偽であり真実ではないと気づく。そして「今、私は何を因とし、何を縁とし、何の因縁によって想が生じるのか」と観察する。彼が想を観察すると、因縁が和合して想が生じているのがわかる。もし因縁が滅すれば、その想も滅する。それは月や如意宝珠のようなものである。例えば月と珠によって清らかな水が生じるように、想もまた因縁によって生じる。この想は、因縁なくして生じるのではなく、作り手もなく、受け手もなく、自然に生じるものでもない。 比丘はこのようにして想蘊を正しく観察する。こうして正しく観想した後、生滅を正しく知り、さらに微細に観察する。まるで激しい川の流れのように、想もまたそうである。善い想が生じても、別の因縁の力によって不善に変わる。不善の想が生じても、別の因縁の力によって善い想に変わる。その心は猿のように落ち着かず、初めに悪ければ後に良くなることもなく、無記のままにとどまることもない。 楽の想を観じても、楽に執着せず、無漏の楽の中にあっても楽の想を起こす。楽の中に苦があることを知る。このように楽を知る。どのように見るのか。善なる五蘊・十八界・十二処の生じたり滅したりを観察し、楽受に喜ばず、想の滅を楽しまず、想の滅を取らない。そうして、行が生じる。とどまることも滅することもなく、心は期待しない。識の生・住・滅を知る。 比丘はこのようにしてこの蘊を正しく知る。ゆえに悪魔の領域に留まらず、貪欲・瞋恚・無明に縛られることもない。常住・楽・浄・我といった見解もなく、無明によって生死の中で色・声・香・味・触・法の網に縛られることもない。また憶念を失わず、その憶念が生じることによって、すべての煩悩を尽くし、涅槃に至ることができる。

爾時，世尊而說偈言：

> その時、世尊は偈を説かれました。

「若何等比丘，親近懈怠人，不常勤精進，如是非比丘。若不樂床敷，佛說是比丘，若意樂懈怠，彼不應善法。煩惱根唯一，所謂懈怠是，若有一懈怠，彼人不得法。非唯有法服，而得名比丘，若無讀誦心、無禪無漏盡，唯有比丘形，如是非比丘。但憙林中遊，不樂道境界，貪意樂酒色，如是非比丘。若能絕魔縛，復能斷惡業，佛說彼比丘，不妄食僧食。寧食蛇毒菵，及以洋銅等，終不破禁戒，而食僧飲食。如是則不應，食所不應食，若食煩惱者，則是地獄人。若人捨煩惱，如蛇窟中出，彼比丘應食，非樂見婦女。以自身為質，而心憙樂惡，此人污僧寶，云何是比丘？若貪愛利養，喜樂於境界，見婦女生染，非道非俗人。若能燒煩惱，如火焚樹林，名善婆羅門，不貪著飲食。常樂行聚落，憙數數洗浴，愚癡誑自他，悉沒於道法。靜心空閑處，常行禪不捨，得名婆羅門，入善道境界。好處阿蘭若，非其人不住，離欲人能止，悲憙樂欲者。若憙多言語，愛樂於境界，不向涅槃城，不生不死處。近王極美食，常飲酒憙瞋，唯名字比丘，妄語誑檀越。若詐設方便，數到王門所，衰惱他俗人，損敗空閑者。若人捨妻子，而依寂靜林，猶有係戀意，如吐已還食。

> ある比丘が怠ける人に親しみ、 常に努力しないなら、それは比丘ではない。 寝床や座を好まず、仏はこれを比丘と言う。 もし怠け心に耽るなら、その人は善い法に適わない。 煩悩の根はただ一つ、それは懈怠である。 もしひとたび懈怠があれば、その人は法を得られない。 ただ袈裟を身につけるだけで、比丘と呼ばれるのではない。 読誦する心もなく、禅定もなく、煩悩を滅尽することもないなら、 ただ比丘の形をしているに過ぎず、それは比丘ではない。 ただ林の中で遊ぶことを喜び、道の境地を好まず、 貪りの心で酒や色を楽しむなら、それは比丘ではない。 もし悪魔の束縛を断ち、さらに悪業を断つことができるなら、 仏はその人を比丘と呼び、僧の食事を無駄に食べないと言う。 毒蛇の毒や、溶かした銅などを食べる方がまだましである。 決して戒を破って、僧の飲み物や食べ物を食べるべきではない。 そのようにすべきでないものを食べるならば、 もし煩悩を食べるなら、それは地獄の者である。 もし人が煩悩を捨てるなら、蛇が穴から出るように、 その比丘は食べるべきである。婦女を見て喜ぶのではない。 自分の身を質として、心で悪を喜ぶなら、 この人は僧宝を汚すものであり、どうして比丘と言えようか？ もし利養に貪り、境地に喜び楽しみ、 婦女を見て染愛を生じるなら、それは道の人でも俗人でもない。 もし煩悩を焼くこと、火が林を焼くようにするなら、 それを善きバラモンと呼び、食べ物や飲み物に貪らない。 常に村々を歩き回り、何度も沐浴することを喜び、 愚かにも自分と他者を欺き、すべて道法に沈んでしまう。 心を静かに閑かな場所に置き、常に禅定を修してやめないなら、 それをバラモンと呼び、善き道の境地に入る。 善き阿蘭若（あらんにゃ）の地、その人にふさわしくなければ住まない。 欲を離れた人が留まるべき場所であり、欲を楽しむ人もまた喜ぶ。 もし多弁を好み、境地に愛楽するなら、 涅槃の都に向かわず、生まれも死にもない場所に向かわない。 王に近づき、極上の美食を好み、常に酒を飲み、怒りを好むなら、 ただ名前だけの比丘であり、嘘をついて檀越を欺く。 もし偽って方便を設け、しばしば王の門に訪れ、 他人の在家者を悩ませ苦しめ、閑居者を損なうなら。 もし人が妻子を捨てて、静かな林に依ろうとしても、 なお執着の思いがあるなら、吐いたものをまた食べるようなものである。

「彼比丘，此過寂靜，諦觀諸陰，如實諦見，勤修解脫，諮問尊長：『若道、非道？』諦知見故，八分聖道，求解脫城，常勤行道，平等正見，心無垢染，其心寂靜，於所行道樂修多作。彼比丘，如是善法無漏業道和合修行，減損魔眾，長正法朋。彼地夜叉如是知已，轉復上聞虛空夜叉；虛空夜叉次第復向四大王說；彼四大王乃至炎摩、兜率陀天彌勒世尊，如前所說。兜率陀處有一菩薩極大歡喜，向化應天如是說言：『閻浮提中某善男子，剃除鬚髮被服法衣，如前所說。』彼化應天，轉復歡喜，如前所說。

> その比丘は、この過ちを静め、諸々の陰（五蘊）をあるがままに観察し、真理を如実に見て、精進して解脱を修行し、尊敬すべき師に問う。「道とは何か、非道とは何か」と。真理を知り見るがゆえに、八正道を実践し、解脱の城を求め、常に努力して道を歩み、平等なる正見をもって心に汚れなく、その心は静かに、修行する道を喜んで多く実践する。その比丘は、このように善法と無漏の業道を和合して修行し、魔の軍勢を減らし、正法の仲間を増やす。 その地の夜叉はこれを知り、さらに虚空夜叉に報告する。虚空夜叉は次々と四大王に伝える。その四大王から焔摩天、兜率陀天の弥勒世尊に至るまで、先に述べたのと同じである。 兜率陀天には一人の菩薩がいて、大いに喜び、化応天に向かってこう言う。「閻浮提の中の、ある善男子が、剃髪して袈裟をまとい、先に述べたように修行しております。」その化応天もまた喜び、先に述べたようである。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何彼比丘得第五地？彼見聞知或天眼見：觀十色入。十者所謂眼入、色入、耳入、聲入、鼻入、香入、舌入、味入、身入、觸入。云何觀察此十色入？眼入因緣、色入因緣，我此想生。彼如是觀：以眼因緣、色因緣故而生眼識，三和合觸，觸共受想思等俱生。彼比丘若受知受、若思知思、若想知想，如此色長、如此色短，此色可愛、此不可愛，此色可見、此不可見，此色有對、此色無對，如是乃至此意名色，有十一種。

> また、修行者は心の内で深く考え、正しい教えに従って法の行いを観察します。では、その比丘はいかにして第五の境地に達するのでしょうか。 彼は聞いたことや、あるいは天眼で見たことによって、十の色の入（認識の門）を観察します。その十とは、すなわち眼の入、色の入、耳の入、声の入、鼻の入、香の入、舌の入、味の入、身の入、触の入です。 では、どのようにこの十の色の入を観察するのでしょうか。 「眼の入という因縁、色の入という因縁によって、私のこの認識が生じるのだ」 彼はこのように観察します。眼という因縁と色という因縁によって眼の識が生じ、この三つの和合によって触が生まれ、触と共に受、想、思などが同時に生じます。 その比丘は、受を知るならば受を知り、思を知るならば思を知り、想を知るならば想を知ります。このように、色が長いとか、色が短いとか、この色は愛すべきもの、この色は愛すべきでないもの、この色は見えるもの、この色は見えないもの、この色には対（障り）がある、この色には対がない、といったように観察します。さらにこの意（心）もまた色と呼ばれ、十一種類あるのです。

「如是分別，三和合觸，觸共受想思等俱生，知彼眼觸，生受想思。彼義云何？覺知名受，受知時節，是名想義、是名意轉，此等法生，有異異相、有異異體；異義則如十大地法，如是異相，是思異相。念慧解脫，受想思觸，欲進三昧，此一攀緣，有異異相。如是受想、如是想相，有異非一，譬如日光，一緣異體。如是如是，異自體受，異自體思，諦知眼觸，生受想思。彼正觀察，眼如是空，無物不堅。比丘如是實見彼眼，諦知於道，遠離邪見，正見現前；彼捨如是共癡濁行，不淨眼想、不真實想，諦觀此眼，唯是肉摶，脂膿血淚不淨物合，如是知已，則能斷欲。彼於此眼知無常已，則見無常；彼知此眼唯有肉摶在骨匡已，心得離欲；復知此眼筋纏縛已，知此眼入，自他迭互，各不相應，此物不堅，一切無我。

> 「このように分別すると、三つの和合による触（触）が生じ、触は受・想・思などと共に生じる。眼の触から受・想・思が生じることを知る。その意味は何か。気づいて知ることを『受』という。受が時節を知ることを『想』の意味といい、心がはたらくことをいう。これらの法が生じるとき、それぞれ異なる相があり、異なる体がある。異なる意味は十大地法のようであり、このような異なる相を思の異なる相という。念・慧・解脱、受・想・思・触、欲・進・三昧、これらは同じ一つの対象（攀縁）に依りながら、異なる相がある。このように受と想、その想の相は異なり同一ではない。例えば日光のように、一つの縁によって異なる体が現れる。このように、受の自体は異なり、思の自体も異なる。眼の触から受・想・思が生じることを如実に知る。彼は正しく観察する。眼はこのように空であり、実体がなく、堅固ではない。比丘はこのように眼を如実に見て、道を如実に知り、邪見を遠ざけて正見を現前させる。彼はこのような無明に濁った行い、不浄な眼の想い、虚偽の想いを捨てる。この眼をただ肉の塊であり、脂・膿・血・涙などの不浄物が集まったものと如実に観察する。このように知ると、欲望を断つことができる。彼はこの眼が無常であると知ると、無常を見る。彼はこの眼がただ骨の枠の中の肉の塊にすぎないと知ると、心は離欲を得る。さらにこの眼が筋に縛られていると知ると、この眼の処（眼入）は、自分と他者が互いに交代しても、それぞれ対応せず、このものは堅固ではなく、一切は無我であると知る。

「以要言之，如是眼者，唯是苦物。既觀知已，離眼入欲。既觀眼入，如是知已，次復觀色：如是色者，有愛不愛，是無記法，不實分別，此有何堅、何淨、何常、何我、何樂？如是觀色，思惟知已，知一切色皆悉無堅，唯有分別；此色如是，有愛不愛，此愛不愛，體不可得，此唯世間若愛若憎分別攝取，若愛若憎，如是憶念。

> 簡潔に言えば、この眼というものは、ただ苦しみをもたらすものに過ぎません。そうであると知ったなら、眼への執着を離れるのです。眼の領域を観察し、そうであると理解したなら、次に色（物質的な対象）を観察します。この色には、好ましいものと好ましくないものがあり、それは善悪も定まらない性質であり、実体のない分別に過ぎません。これに何の堅固さ、清らかさ、永遠性、自己、楽しさがあるでしょうか？このように色を観察し、よく考えて知ったなら、全ての色は堅固なものではなく、ただ分別のみであると理解します。この色は、好ましいものと好ましくないものがあるとしても、その好ましい・好ましくないという実体は得られません。これは単に世間における好き・嫌いの分別によって捉えられたものに過ぎず、好き・嫌いというのは、そのように思い描くことに過ぎないのです。

「又彼比丘既如是觀眼色入已，觀耳聲入，彼觀察聲云何而生？根塵相對而生此聲。彼如是觀：以耳因緣、念因緣故，而生耳識，三和合觸，觸共受想思等俱生，知觸共彼受想思生，若以知觸共思而生，覺知思想，所謂長相、遠等因緣，得聞其聲厚麁細業，若愛不愛。彼比丘知如是聲，思知想知，分分思量，以意識知、思知受知，憶念思量。彼耳聲入，思量簡擇，然後覺知如是聲者非有自體，無愛不愛，唯有分別此聲如是有愛不愛。如是聲者，非有自體、非常非物，破壞不堅，無樂、無我亦無我所，唯貪瞋癡愛不愛聲。如是正觀聲耳入已，若聞聲時則不迷惑，不生憙樂，不取不著，不謂有堅；如是觀察耳聲入已，不樂耳識，離耳識欲：耳識非我，我非耳識，觸、受、想、思皆亦如是。

> さらに、その比丘はこのように眼と色の入（接触）を観察した後、次に耳と声の入を観察する。彼は「声はどのようにして生じるのか」と観察する。「根と塵が相対することで、この声が生じる」と。彼はこのように観察する：「耳という因縁と、心の働きという因縁によって、耳の認識が生じる。三つの要素（根・塵・識）が和合して触れ合い、その接触と共に感受・概念・意志などが同時に生じる。」彼は「接触が、それらの感受・概念・意志と共にあることを知る。もし接触が意志と共に生じることを知れば、対象の長さや遠さなどの因縁によって声を聞き、粗い・微細な業や、好ましい・好ましくないものがあることを覚知する。」と知る。 その比丘は、このような声を思考によって知り、概念によって知り、細かく分別して考察する。意識によって知り、思考によって知り、感受によって知り、記憶し思考する。彼は耳と声の入を考察し分別した後、このように覚知する：「この声には自らの本質はなく、好ましい・好ましくないという性質もない。ただ分別によって、この声には好ましい・好ましくないという違いがあるように見えるだけである。このような声は、自らの本質がなく、常ではなく、実体ではなく、壊れやすく堅固ではなく、楽もなく、我もなく、我が所有もない。ただ貪り・怒り・無知によって、好ましい・好ましくない声があるように感じられるだけである。」 このように声と耳の入を正しく観察する時、もし声を聞いても惑わされることなく、喜びに執着せず、受け取らず、固着せず、「これには堅固な実体がある」とは考えない。このように耳と声の入を観察した後、耳の認識に楽しみを感じず、耳の認識への欲求を離れる。「耳の認識は我ではなく、我は耳の認識ではない。」接触・感受・概念・意志も、すべて同様である。

「又彼比丘觀鼻香入：以鼻因緣、以香因緣、念因緣故而生鼻識。若近若遠，若愛不愛，若香若臭，風和合來，因風而聞，鼻為內入，香為外入，三和合觸，觸共受想思等俱生。知彼相已，如是觀察鼻香入相，知內觸相，則知觸相、思相平等，於如是法，一相攀緣，異因緣用。異者所謂有異異相、有異異體，異相則如十大地法，如前所說。此一切法，如是異相，非是一相、一因緣作。彼比丘如是諦知彼鼻香入，如是諦求：此如是物有何物堅？有何物常？何物不壞？此入無常，苦空無我。彼人如是知鼻香入，一切非我，非是我所，如是正知，唯有分別。此鼻香入，如是唯縛愚癡凡夫非黠慧者。比丘如是一種觀察。

> また、かの比丘は鼻と香りの入り口について観察する。鼻という因縁、香りという因縁、そして念という因縁によって鼻の認識が生じる。近くにあっても遠くにあっても、好ましくても好ましくなくても、香ばしくても臭くても、風が和合して来て風によって嗅ぐのである。鼻は内なる入り口であり、香りは外なる入り口であり、これら三つの和合による触れ合いが起こる。触れ合いは、感受、想念、意図などの心のはたらきと共に生じる。 その様相を知ったならば、このように鼻と香りの入り口の相を観察し、内なる触れ合いの相を知れば、触れ合いの相、想念の相、平等の相を理解する。これらの法について、一つの相に攀縁しても、異なる因縁によるはたらきがある。異なるとは、異なる相があり、異なる本体があるということである。異なる相とは、たとえば十の大地法（心のはたらきの基本要素）のことで、先に述べた通りである。これらのすべての法は、このように異なる相を持つのであり、一つの相や一つの因縁によって作られるものではない。 かの比丘は、このように鼻と香りの入り口を真実に知り、このように真実に探求する。「この物には、何が堅固なのか。何が常住なのか。何が壊れないのか。」この入り口は無常であり、苦であり、空であり、我ではないのである。その人は、このように鼻と香りの入り口を知り、すべては我ではなく、我のものではないと、このように正しく知る。ただ分別があるのみである。この鼻と香りの入り口は、このように愚かな凡夫だけを束縛するものであり、賢明な人を束縛するものではない。比丘はこのように一つの観察を行う。

「又彼比丘觀舌味入：彼念等緣而生舌識，三和合觸，觸共受想思等俱生。彼隨順覺，名為受相，知是想相，對是觸相，想是思相，想緣於相。彼如是法，各各自相，復平等相，異因緣生。如是一切共成一事，譬如因筒、因鉗、因糠、因水、因瓫，金師因緣作一指環，若作手釧，如是法者非一相成；此舌味入，亦復如是。又彼比丘諦觀舌入及以味入，如是觀已，彼舌味入無有少法常、樂、我、淨，一切種種深細思惟，不得一法。如是如是，一相相應。彼於舌入味、入、離、染，一切眾生沈沒此海，憙樂味海，迭相障礙，是故復於人、天、地獄、畜生、餓鬼五道大海，如是繫縛。比丘如是於舌味入，雖欲解脫：『舌入非我，我非舌入，非常、非物亦非不動、非不破壞、非舌味入。』比丘如是得離染欲。

> また、その比丘は舌と味の入（認識の入口）について観察する。彼には、記憶（念）などの縁によって舌の認識が生じ、その三つの和合（根・境・識）によって接触があり、接触と共に感受・概念・意志などが同時に生じる。その中で、感受に従って覚知されるものを「受の相」と呼び、それを知るものを「想の相」とし、対象に向かうものを「触の相」とし、想いが概念を生むことを「思の相」とする。これらの法は、それぞれに固有の相を持ち、さらには平等の相も持つが、異なる因縁によって生じる。たとえば、筒や箸（金具を挟む道具）、糠や水、容器などの縁によって、金細工師が一つの指環や腕輪を作るように、これらの法は一つの相だけで成立するわけではない。この舌と味の入もまた同様である。 さらにその比丘は、舌の入と味の入を詳しく観察し、そのように観察した後、舌と味の入には、常・楽・我・浄といった性質が少しも存在しないと知る。あらゆる種類の深遠な思考を巡らせても、一つの実体として捉えられる法は見いだせない。そのように、一つの相が相互に対応しているに過ぎない。彼は、舌と味の入から離れ、執着を離れる。すべての衆生は、この味の大海（欲望の海）に沈み、そこに喜び楽しみ、互いに妨げ合っている。そのため、人間・天・地獄・畜生・餓鬼の五つの道の大海に縛られているのである。比丘はこのように舌と味の入について、たとえ解脱を望んでも、「舌の入は私ではなく、私は舌の入ではない。常ではなく、実体でもなく、不変でもなく、不壊でもなく、舌や味の入ではない」と観察する。比丘はこのようにして、執着と欲望を離れるのである。

「又彼比丘觀身觸入，身觸因緣而生身識，三和合觸，觸共受想思等俱生，如前所說眼根入等，此身觸入，應如是知。

> また、その比丘は身体の触覚「身触」を観察する。身体の接触を因縁として身体の認識が生じる。この三つの和合によって触が生じ、その触と共に感受・想念・意志などの心作用が同時に生じる。先に述べた眼根などの場合と同様に、この身体の触覚の領域「身触入」についても、そのように理解すべきである。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何比丘如是觀察十色入已，觀察法入？彼見聞知或天眼見：彼法入中攝三種法，謂數緣滅、非數緣滅，及以虛空所有無法，皆法入攝。如是觀已，彼虛空者亦是法入。數緣滅者，此法名智，無量種種證已，順行數緣，作已證斷煩惱，令彼煩惱盡滅失壞，一切無漏。非數緣者，彼非數緣名智非受，非知非覺又亦非疑。餘人之識有百千生，一切皆失。眼耳鼻舌身意等識，彼已破壞，不復更生，如是名為非數緣滅。此非數緣，第三虛空，知此三法，不生是常，非三世攝，此非今生亦非已生，又非當生。

> さらに修行者は、心をもって内省し、正しい教えに従って法の実践を観察します。では、比丘はこのように十の色の入を観察した後、どのように法入を観察するのでしょうか。 彼は見聞きしたこと、あるいは天眼によって知ります。この法入の中には、三つの法が含まれています。すなわち、択滅（たくめつ）、非択滅（ひたくめつ）、そして虚空（こくう）です。存在しない法はすべて法入に含まれます。このように観察して、虚空もまた法入であると知ります。 択滅とは、智慧と呼ばれるものです。無量の様々な形でそれを体得し、教えに従って修行し、煩悩を断つことを学習し、実際に煩悩を滅ぼし尽くして壊し、すべての無漏（むろ）の状態を得ることです。 非択滅とは、智慧と呼ばれるものではありますが、感覚でもなく、認識でもなく、知覚でもなく、また疑いでもありません。他の人の識は百千の生を経て、すべて失われます。眼・耳・鼻・舌・身・意の識は、壊れてしまい、再び生じることはありません。これを非択滅と言います。 この非択滅と、第三の虚空、この三つの法は、生じることなく常住であり、三世（過去・現在・未来）に含まれるものではありません。これらは今生じるものでもなく、すでに生じたものでもなく、また将来生じるものでもないのです。

「又彼比丘，法入二種，各各分別，謂色、無色。所言色者，謂十色入。云何眼識非見非對，見對見色？如是耳識非見非對，云何取聲？如是鼻識非見非對，云何取香？如是舌識非見非對，云何取味？如是身識非見非對，云何取觸？云何如是彼外五入、此內五入，非見非對，與彼見對？云何相得？彼比丘如是觀察：眼識生時，二種攀緣，乃至意識皆有二種，如是識生，如印印物，彼不似印，印軟物堅，則不能印；印堅物軟，印則文生。如是如是，識非見對，緣取見對，一切法中，第三印生，不相似物，不相似生；如是諸法，不相似物，不相似生，是初居致。第二居致，二法相似，還相似生，所謂白縷，生成白衣。第三居致，二不相應，不相應生，如燧火生，木之與火，不相應見。第四居致，見從稀物而生稠物，如乳生酪，乳稀酪稠，彼法如是，則不相應。如是如是不相似法，謂眼識等，異因異緣，眼識等生。」

> また、かの比丘は、法の入るところには二種の区別があると、それぞれに明らかにする。すなわち、「色」と「無色」である。ここで言う「色」とは、十種の色の入るものを指す。では、なぜ眼の認識は「見るもの」でもなく「対するもの」でもないのに、見るものや対するものとして色を見るのか？ 同様に、耳の認識は「見るもの」でもなく「対するもの」でもないのに、どうして音を取るのか？ 鼻の認識は「見るもの」でもなく「対するもの」でもないのに、どうして香りを取るのか？ 舌の認識は「見るもの」でもなく「対するもの」でもないのに、どうして味を取るのか？ 身の認識は「見るもの」でもなく「対するもの」でもないのに、どうして触れられるものを取るのか？ このように、外の五つの入るものと内の五つの入るものは、いずれも「見るもの」でも「対するもの」でもないのに、どうしてそれらの「見るもの」「対するもの」と関係するのか？ どのようにして互いに作用し合うのか？ かの比丘は、このように観察する。眼の認識が生じる時、二つの拠り所（依縁）がある。そして、意識に至るまでも、すべてに二つの拠り所がある。このように認識が生じるのは、ちょうど印（印章）が物に印を押すようなものである。しかし、その認識は印そのものとは同じではない。印が柔らかく押される物が堅ければ、印を押すことはできない。押される物が柔らかく印が堅ければ、印の形が浮かび上がる。これと同じように、認識は「見るもの」でも「対するもの」でもないのに、「見るもの」「対するもの」を縁として取る。すべての法において、第三の印が生じる。すなわち、似ていない物からは、似ていないものが生じる。これが第一の句（居致）である。 第二の句は、二つの法が似ていて、また似たものが生じること。例えば、白い糸から白い衣ができるようなものである。 第三の句は、二つの法が対応せず、対応しないものから生じること。例えば、火鑽（ひきり）から火が生じるようなもので、木と火は対応しているようには見えない。 第四の句は、薄い物から濃い物が生じること。例えば、乳から酪（らく、ヨーグルトのようなもの）ができるようなもので、乳は薄く酪は濃い。これら二つの法は対応していない。 このように、互いに似ていない法とは、すなわち眼の認識などである。異なる原因と異なる縁によって、眼の認識などが生じるのである。

爾時，世尊而說偈言：

> その時、世尊は偈を説かれました。

「若樂覺知法，在林而行禪，正覺知諦相，則得無上處。常樂行慈心，勤於法境界，諦知於身相，則名真比丘。若人正觀察，欲恚不能壞，彼得言比丘；異此非比丘。愍一切眾生，捨一切貪戀，解脫一切縛，則名真比丘。若人調御心，境界不能壞，無垢如真金，名知足比丘。若人愛不愛，不垢污心意，當知彼行善，捨離一切過；威儀不可嫌，法行調諸根，勇猛清淨意，如是名比丘。若人常喜樂，知諸論中義，不貪著飲食，名寂意比丘。林行阿蘭若，塚間草為敷，若以此為樂，如是名比丘。諦知罪業過，善達諸業果，深識因與緣，是離惡比丘。破生死曠野，壞惡調諸根，復能善知友，名寂意比丘。於譽心不喜，毀訾心不憂，如大海之深，是修行比丘。堅意隱他惡，不餐軟滑語，時語善恭敬，名寂靜比丘。知欲界業因，亦知色界因，無色亦諦知，是知論比丘。不喜世俗語，常樂斷諸過，於境界如毒，佛說是比丘。若人欲如泥，意常如是行，黠慧開心意，解脫生死縛。若人禪誦業，遠離於懈怠，利益諸眾生，名蘭若比丘。若能答問難，辯才調諸根，當知是法師，不爾如草等。若身行意行，一切不疲倦，僧所有事業，一切皆能作，而不求財物，不為富樂名，唯利益僧意，解脫一切縛。持戒不悕天，亦不求名利，持戒為涅槃，是寂靜比丘。常捨離眾惡，但樂行善行，不近惡知識，是佛法比丘。常以慈修心，恭敬質直意，學句不缺者，去涅槃不遠。常畏老病死，不悕樂世間，修禪不放逸，去涅槃不遠。若人以無常，自他空無我，修禪上上智，去涅槃不遠。

> 法を喜びながら林に坐禅し、 真理の相を正しく知れば、最高の境地を得る。 常に慈しみの心を行じ、法の世界に勤め、 身体の相を真実に知る者こそ、真の比丘と呼ばれる。 人が正しく観察し、欲望と怒りに破られなければ、 その人を比丘と言う。これに反する者は比丘ではない。 すべての生きとし生けるものを憐れみ、すべての執着を捨て、 すべての束縛から解脱した者こそ、真の比丘である。 人が心を調御し、外界の境に破られず、 黄金の如く汚れなき者、これを知足の比丘と呼ぶ。 人が愛するものも愛さないものも、心を汚さず、 その人はよく修行し、すべての過ちを捨てたと知るべし。 威儀は非難されず、法に従って諸根を調え、 勇ましく清らかな心をもつ者、これを比丘と名づける。 人が常に喜んで、諸々の論の意味を知り、 飲食に貪らない者、これを寂静の比丘と呼ぶ。 林に住み、塚の間に草を敷き、 これを楽しみとするならば、その人を比丘と名づける。 罪の過ちを真実に知り、諸々の業の果報をよく達し、 因と縁を深く識る者、これが悪を離れた比丘である。 生死の広野を破り、悪を滅し諸根を調え、 さらに善き友をよく知る者、これを寂静の比丘と呼ぶ。 誉められても心喜ばず、謗られても心憂えず、 大海の如く深い者、これが修行する比丘である。 堅固な心で他人の悪を隠し、甘い言葉に惑わされず、 時宜にかなった語りをし善く敬う者、これを寂静の比丘と呼ぶ。 欲界の業の因を知り、また色界の因を知り、 無色界も真実に知る者、これが論を知る比丘である。 世俗の語りを喜ばず、常に諸々の過ちを断つことを楽しみ、 境に対して毒の如く思う者、仏はこれを比丘と説かれた。 人が欲望を泥の如く思い、心を常にそのように行じ、 聡明に心を開いて、生死の束縛から解脱する。 人が坐禅と読誦の業に励み、懈怠を遠く離れ、 多くの生きとし生けるものを利益する者、これを阿蘭若の比丘と名づける。 もし問答の難問に答え、弁才をもって諸根を調えるならば、 その人を法師と知るべし。そうでなければ草の如し。 身の行いも心の行いも、一切疲れることなく、 僧のあらゆる事業をすべてよく行い、 しかも財物を求めず、富や名声を願わず、 ただ僧の利益を思い、あらゆる束縛から解脱する。 戒を守っても天を願わず、また名利を求めず、 涅槃のために戒を守る者、これが寂静の比丘である。 常にすべての悪を捨てて、ただ善行を行うことを楽しみ、 悪い知識に近づかない者、これが仏法の比丘である。 常に慈しみをもって心を修め、恭しく素直な心で、 学句に欠けるところのない者は、涅槃から遠くない。 常に老病死を畏れ、世間の楽しみを願わず、 坐禅を修め放逸ならざる者は、涅槃から遠くない。 人が無常をもって、自他を空と無我と見て、 坐禅を修め最上の智慧を得る者は、涅槃から遠くない。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何彼比丘得五地已，得第六地？彼見聞知或天眼見：彼比丘解四居致，此法云何？有相似因得相似果；不相似因不相似果；因不相似果不相似；有半相似半不相似。云何名為有相似因得相似果？譬如稻因還生於稻；如是如是，內相似者善業相似，如是得果，謂天人中；是初居致。云何名為不相似因不相似果？譬如甜乳而生酢酪，不可愛樂；如是如是，內不相似謂於此世愛染聲觸味色香等，而得地獄不可愛果、不可樂果，猶如酢酪；第二居致。云何名為因不相似果不相似？譬如青等，合生異色，色不相似；如是如是，內不相似謂業果報皆不相似，非其業果，所謂邪見：外道齋法，殺羊悕天，而墮地獄；第三居致。云何名為有半相似半不相似？譬如白縷以成白衣，縷細衣麁，是不相似；如是如是，內半相似、半不相似，細不善業得大地獄不善麁報；第四居致。

> 「また修行者は内に思いを定め、正しい教えに従い、法の行いを観察する。あの比丘はどのようにして五つの境地を得た後、第六の境地を得るのか。彼は見聞きしたことにより、あるいは天の眼によって見る。あの比丘は四つの「居致（因果の理法）」を理解する。これらはどのような法か。 似た因には似た果がある。 似ていない因には似ていない果がある。 因が似ていないなら果も似ていない。 半分だけ似ていて、半分は似ていないものがある。 「似た因には似た果がある」とはどういうことか。例えば、稲の種からは稲が生まれる。このように、内においても善い行いには善い果が生じ、天界や人間界の報いを得る。これが第一の居致である。 「似ていない因には似ていない果がある」とはどういうことか。例えば、甘い乳からは酸っぱい酪ができ、好ましくない。このように、内においても、この世の愛しい声・触れ合い・香り・味・形などに執着すると、地獄での好ましくない、楽しくない果報を受ける。まるで酸っぱい酪のようなものである。これが第二の居致である。 「因が似ていないなら果も似ていない」とはどういうことか。例えば、青色など異なる色を混ぜ合わせると、元の色とは似ていない新しい色が生まれる。このように、内においても、業とその果報がまったく似ていない場合がある。つまり、邪見に基づく外道の修行法として、羊を殺して天に生まれようと願いながら、かえって地獄に落ちるようなものである。これが第三の居致である。 「半分だけ似ていて、半分は似ていない」とはどういうことか。例えば、白い糸で白い衣を作ると、糸は細くても衣は粗く、似ていないところがある。このように、内においても、細かな不善の業が、地獄という大きな不善の粗い果報をもたらす。これが第四の居致である。」

「又彼比丘思惟觀已，不取業果，更復思惟，觀異業果，於有中行，猶如輪轉，有四居致。有業未到，眾人共作而能逼惱；此初居致。有業已到，方能逼惱；第二居致。有業若到、若其未到，皆能逼惱；第三居致。有業非到亦非未到，第四居致。有業未到，眾人共作，能逼惱者，如世間法，星雖未到，國土得殃；若出世間，眼識未到，業海能逼，所謂欲心憂悲等逼；此初居致。有業已到，方能逼者，如世間法，火到乃燒，刀至方割；若出世間，不善業到，地獄、畜生、餓鬼逼惱；第二居致。有業若到、若其未到能逼惱者，如世間法，呪毒勢力，若到、未到悉能逼惱；若出世間，人欲死時，有悕望相未到地獄；第三居致。有業非到、非未到者，譬如世間種種藥子，非到生力，非未到生；若出世間，亦復如是，羅漢比丘決定受業，量如須彌，彼阿羅漢，若入涅槃、若未涅槃，此業不能逼阿羅漢；第四居致。

> また、その比丘は観察し思考した後も、業の結果に執着せず、さらに様々な業の結果を観察した。生存の領域を巡ることは、まるで輪が回るように、四つの住処がある。 第一の住処とは、業がまだ現れていないのに、多くの人々が共に行ったことで苦しみを招くことである。 第二の住処とは、業がすでに現れてから初めて苦しみを招くことである。 第三の住処とは、業が現れても現れていなくても、共に苦しみを招くことである。 第四の住処とは、業が現れたのでもなく、現れていないのでもないことである。 業がまだ現れていないのに、多くの人々が共に行ったことで苦しみを招くとは、例えば世間の法則では、星がまだ到来しなくても国に災いが及ぶように、出世間の法則では、眼識がまだ届かなくても、業の海が苦しみを迫る。すなわち欲望の心や憂い、悲しみなどが迫るのであり、これが第一の住処である。 業がすでに現れて初めて苦しみを招くとは、例えば世間の法則では、火が及んで初めて焼け、刃が届いて初めて切れるように、出世間の法則では、不善の業が現れて、地獄・畜生・餓鬼の苦しみが迫ることであり、これが第二の住処である。 業が現れても現れていなくても苦しみを招くとは、例えば世間の法則では、呪いや毒の力が、届いても届かなくても共に苦しみを及ぼすように、出世間の法則では、人が死のうとする時、まだ地獄に至っていないのに望みの相があることであり、これが第三の住処である。 業が現れたのでもなく、現れていないのでもないとは、例えば世間にある様々な薬の種子が、届いても力が生じず、届かなくても力が生じないように、出世間もまた同じで、阿羅漢の比丘が定められた業を受ける時、その量は須弥山のようであるが、その阿羅漢が涅槃に入ろうとも、まだ涅槃に入らなくとも、この業は阿羅漢を苦しめることができない。これが第四の住処である。

「有業現受而非生受；此初居致。有業生受而非現受：第二居致。有業生受亦現世受；第三居致。有非現受亦非生受；第四居致。

> ある業は現世で報いを受けるが、来世で受けることはない。これが第一の区別である。 ある業は来世で報いを受けるが、現世で受けることはない。これが第二の区別である。 ある業は現世でも来世でも報いを受ける。これが第三の区別である。 ある業は現世でも来世でも報いを受けない。これが第四の区別である。

「何業現受而非生受？若世間者，如犯王法，王法與罰，此業現受而非生受；出世間者，修行布施善人所讚，此業現受非他世受；此初居致。何業生受而非現受？若世間者入火得火；出世間者此世行善、若行不善，異世得果，此可現見；第二居致。何業生受亦現世受？若世間者，所謂現受，生世亦受；出世間者亦復如是；第三居致。何業非現亦非生受？若世間者，如不語戒、不語布施；出世間者，謂無記業，非現世受、非生世受；第四居致。

> 【第一】どのような業が現世で報いを受け、来世では受けないのか？ 世間的なこととしては、例えば国の法律に触れた場合、王法が罰を与える。これが現世で報いを受け、来世では受けない業である。 出世間的なこととしては、修行し布施を行うことで善人から称賛される。この業も現世で報いを受け、次の世では受けない。これが第一の区分である。 【第二】どのような業が来世で報いを受け、現世では受けないのか？ 世間的なこととしては、火に入れば火傷するようなものである。 出世間的なこととしては、この世で善を行ったり不善を行ったりした場合、次の世でその結果を受ける。これは現に見えることである。これが第二の区分である。 【第三】どのような業が来世でも現世でも報いを受けるのか？ 世間的なこととしては、現世で受けるものもあれば、来世でも受けるものがある。 出世間的なこともまた同じである。これが第三の区分である。 【第四】どのような業が現世でも来世でも報いを受けないのか？ 世間的なこととしては、例えば言葉を発しない戒律や、言葉を発しない布施のようなものである。 出世間的なこととしては、それが無記の業である。現世でも来世でも報いを受けることはない。これが第四の区分である。

「彼比丘如是一廂處坐，如是觀察無量種枝業果報羅網，遍滿地獄、餓鬼、畜生、人、天之中，如是見已，隨順法行。

> その比丘は、このように静かな場所に座り、無数の業と因果応報の網（因果の網）が、地獄・餓鬼・畜生・人・天の世界に満ちているのを観察しました。そして、その真理を深く見極めた後、教えに従って実践したのです。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何比丘知業果報？謂知此業，知此業果，知善不善，知此眾生成就身惡行、成就口惡行、成就意惡行，毀謗賢聖、邪見所攝，彼人以是業因緣故，身壞命終，或墮地獄、或墮畜生、或墮餓鬼；若有眾生成就身善行、成就口善行、成就意善行，讚歎賢聖、正見所攝，彼人以是業因緣故，身壞命終則生善道天世界中。「彼比丘如是觀察自業報法，彼比丘如是觀已，魔界眾生不與共行，終到涅槃；如是法行，修厭離行，勤行善道，終盡生死；攝取他人，令度生死如自度已，及諸檀越。彼比丘知業報法，觀察地獄、餓鬼、畜生、人、天諸趣業報法數，譬如清淨毘琉璃珠，為莊嚴故，以繩穿之。隨彼繩色若青、若黃、赤白紫等，如彼色見。如是業珠，報繩穿之。彼比丘於是業中皆見聞知或天眼見，清淨明了。

> さらに修行者は、心の中で深く考え、正しい教えに従って、法の実践を観察します。では、どのように比丘（僧侶）は業の報いを知るのでしょうか？それは、ある行為を知り、その行為の結果を知り、善悪を知ることです。また、ある人の集団が、身体で悪い行いをし、言葉で悪い行いをし、心で悪い行いをし、聖なる人々を誹謗し、誤った見解に捕らわれていると知ります。その人々は、そうした業の因縁によって、命を終えた後、地獄に落ちたり、畜生に生まれたり、餓鬼になるのです。 一方、ある人の集団が、身体で善い行いをし、言葉で善い行いをし、心で善い行いをし、聖なる人々を称賛し、正しい見解を持っていると知ります。その人々は、そうした業の因縁によって、命を終えた後、善い世界である天界に生まれます。 このように比丘は、自らの業とその報いの法則を観察します。このように観察した比丘は、魔王の領域に属する者たちと共に行わず、ついに涅槃に到達します。このように法に従って実践し、厭離の修行をし、善い道に勤め、ついに生死を終わらせます。そして、自らを救い済ましたように、他の人々や施主たちをも、生死を超えさせようと導きます。 その比丘は、業と報いの法を知り、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人の諸々の世界における業と報いの法則を観察します。それはちょうど、清らかな毘瑠璃（ビルリ、琉璃）の珠を、飾りのために紐で通すようなものです。その紐の色が青であれ、黄、赤、白、紫であれ、珠はその色に見えます。同じように、この業という珠は、報いという紐によって通されています。比丘は、これらの業のすべてを、聞いたり見たり、あるいは天眼で見ることによって、清らかに明らかに知るのです。

「又彼比丘若見、若聞知業報法，猶如彼珠。譬如有珠，其色極白，普清無瑕、清淨任穿、已善修治，普門殊勝，一切世人之所讚歎，任王、王等所應畜用；如是功德相應淨珠，唯王、王等知此功德清淨珠價，取此珠已，著莊嚴上。如是如是，彼比丘十善業道淨分寶珠，普白善淨、離過無瑕、清淨任穿、對治法分、有大勢力、是答難法，乃是法師法鑽所穿，善巧修治，如是如是，願施戒智；如是如是，修治十善業道珠已，隨願所取轉輪聖王、若取天王、若取魔王、若取梵王，修無漏禪，三昧自在；如是如是，彼正法珠善修治已，名為普門，此普門者謂天人門。彼正法珠，名為普門，世間城中既得出已，入涅槃門，一切世人所讚歎者，謂正見人學人所讚，任王、王等所應用者，入正法道心王所應。若人信彼毘琉璃珠，一切功德皆悉具足，如是寶珠與正法珠相似相對。

> また、その比丘が業報の法を見聞きすることは、あたかもその珠のようなものである。譬えば、ある珠があり、その色は極めて白く、清らかで瑕がなく、清浄であれば穿つことができ、よく修治され、あらゆる門に優れ、すべての世の人々から讚嘆され、王や王に等しい者が用いるべきものである。そのような功徳を備えた清浄の珠を、王や王に等しい者だけがその功徳と清浄の価値を知り、その珠を取って荘厳に飾りつける。このように、その比丘にとって十善業道の清らかな分の宝珠は、白く善く清らかで、過ち離れ瑕なく、清浄であれば穿つことができ、対治法の分があり、大いなる勢力を持ち、答難の法であり、法師の法の鑚によって穿たれ、善巧に修治される。かくのごとく、願い、施し、戒、知恵によって修治された十善業道の珠を用いて、願いに従って転輪聖王、天王、魔王、梵王を取ることもでき、無漏の禅を修し、三昧に自在となる。このように、その正法の珠が善く修治された後、普門と名付けられる。この普門とは、天と人の門である。その正法の珠は普門と名付けられ、世間の城から出た後、涅槃の門に入る。すべての世の人々から讚嘆されるとは、正見の人や学ぶ人に讚嘆されることであり、王や王に等しい者が用いるべきとは、正法の道に入る心の王が用いるべきことである。もし人がその毘瑠璃珠を信じれば、すべての功徳を具足する。このような宝珠は、正法の珠と相似して対照されるのである。

「又彼比丘觀業報法，猶如彼珠。譬如有珠，其珠有瑕，不普清淨，非一切門而不鮮白，不任鑽穿、不任修治，一切人見則不讚歎，非王、王等所應畜用。如是如是，彼外道法，是相似法，如有瑕珠，所言瑕者謂：身見瑕、戒取疑瑕，非一切門，唯是地獄、餓鬼、畜生三趣之門，非是好法；又亦不與無漏相應，不任鑽穿、非答難法，非是法師法鑽所穿，非王、王等所應畜用。八富伽羅正法道行是心之王，彼外道珠，非其所應。如是等法相似相對，非法瑕珠若繫人咽，如是之人彼相似珠用繫咽已，在於地獄、餓鬼、畜生無始以來生死流轉。彼比丘如是觀察珠、相似珠，譬如世間有琉璃珠似毘琉璃，有人見之謂毘琉璃，愚癡凡夫亦復如是。

> また、あの比丘は業報の法を観察する。それはちょうどその珠のようなものである。譬えば、ある珠がある。その珠には傷（きず）があり、完全に清らかではなく、すべての門において清らかで白くなく、穴を穿（うが）つにも適さず、磨いて整えるにも適さず、すべての人がそれを見ても称賛せず、王や王に準ずる者が用いるべきものではない。 全く同じように、あの外道の法は、似て非なる法である。ちょうど傷のある珠のようである。言うところの傷とは、すなわち身見（しんけん）という傷、戒取（かいしゅ）と疑（ぎ）という傷である。すべての門ではなく、ただ地獄・餓鬼・畜生の三つの悪趣に通じる門に過ぎず、決して善い法ではない。また、無漏（むろ）と相応せず、穴を穿つのに適さず、問い難ずる法にも適していない。まさに説法者の法という鑢（やすり）によって穿たれるべきものではなく、王や王に準ずる者が用いるべきものでもない。 八種の富伽羅（ぶがら、補特伽羅＝人）こそが、正法の道を行くこの心の王である。あの外道の珠は、それにふさわしくない。このような法は、それに似て非なるものであり、法ならざる傷のある珠である。もしそのような珠を人の首に掛ければ、その人はその似て非なる珠を首に掛けたがゆえに、地獄・餓鬼・畜生において、無始（むし）の昔より生死の流転を続けるのである。 あの比丘は、このように珠と似て非なる珠とを観察する。譬えば世間には、毘瑠璃（びるり）に似た瑠璃（るり）の珠がある。それを見て毘瑠璃だと思う人もいる。愚かな凡夫もまた、全くこれと同じである。

「彼比丘如是諦知法、非法已，得第七地。彼地夜叉見彼比丘清淨持戒得第七地，轉復歡喜，如是傳聞虛空夜叉，虛空夜叉聞四大王，彼四大王聞四天王，彼四天王如是傳聞三十三天，三十三天如是復向帝釋王說，彼帝釋王次第復向炎摩天說，彼炎摩天展轉復聞兜率陀天，兜率陀天如是具白彌勒世尊，彌勒世尊告化應天，彼化應天復向他化自在天說，作如是言：『閻浮提中某善男子，如是次第，如前所說。』

> その比丘は、法（真実の教え）と非法（誤った教え）とをこのように明確に理解して、第七の境地に達しました。その地の夜叉は、その比丘が清らかな戒律を保ち第七の境地に至ったのを見て、さらに喜びました。このことを虚空夜叉に伝え、虚空夜叉は四大王に聞かせました。四大王は四天王に知らせ、四天王は三十三天に伝えました。三十三天はこれを帝釈王に報告し、帝釈王は次に炎摩天に伝えました。炎摩天はさらに兜率陀天に伝え、兜率陀天はこれを詳しく弥勒世尊に申し上げました。弥勒世尊は化応天に告げ、化応天はさらに他化自在天に伝えて、こう言いました。「閻浮提（人間界）のある善き男子が、このように順を追って、先に述べた通り修行を積んでいます。」

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何比丘觀業報法，第十一者名為無作，是色所攝？一切法中與色相應，若人受戒，一發戒已，若睡若悶、失心癲狂，如是善法相續轉行，譬如河流流常不斷。如是之人，若睡若悶、失心癲狂，如是無作，常流不斷。無作名色，不可見對。彼復云何色業所攝？此無作色乃是一切善法之柱。此如是等十一種色。

> また、修行者は心の中でよく考え、正しい教えに従って真理の実践を観察する。では、比丘はいかにして業の報いの法則を観察するのか。その第十一は「無作」と名づけられ、これは物質的な要素に含まれるものである。すべての存在のうち、物質と結びついているものについて、もし人が戒律を受けるなら、いったん戒を得た後、眠っていようが、意識がもうろうとしていようが、心を失っていようが、狂っていようが、このような善い性質は途切れることなく続いていく。それはちょうど川の流れが絶えず流れ続けるようなものである。このような人は、眠っていても、意識がもうろうとしていても、心を失っていても、狂っていても、この無作は常に途切れることなく流れ続ける。無作は物質に数えられるが、目に見えず、対になるものもない。では、それはどのようにして物質的な行為に含まれるのだろうか。この無作という物質こそ、すべての善い性質の支えなのである。これらが以上のような十一種類の物質である。

## 正法念處經卷第四

> 正法念処経 第四巻