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title: "正法念處經 · 3"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm9tojac306hlhj0vm7hg7e7s"
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## 正法念處經卷第五

> 正法念処経 巻第五

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 生死品之三

> 生死品 その三

「又彼比丘如是觀察：云何眾生有種種色、種種形相，有種種道、種種依止？又彼觀察有種種心、種種依止、種種信解、有種種業，此如是等種種諸色、種種形相、種種諸道、種種依止，譬如黠慧善巧畫師、若其弟子觀察善平堅滑好地，得此地已，種種彩色、種種雜雜、若好若醜隨心所作，如彼形相。心業畫師、若其弟子亦復如是，善平堅滑業果報地、生死地界，隨其解作種種形相、種種諸道、種種依止；心業畫師，業作眾生。

> また、かの比丘はこのように観察する。 「いったい、どのようにして衆生に様々な色、様々な形、様々な道、様々なよりどころがあるのか？」 さらに彼は、「様々な心、様々なよりどころ、様々な理解の仕方、様々な業がある」と観察する。 これらの様々な色、様々な形、様々な道、様々なよりどころは、あたかも賢く巧みな絵描き、あるいはその弟子が、平らで堅く滑らかな良い地面を見つけ、そこに様々な絵の具で、良くも悪くも心のままに形を描くようなものである。 心という業の絵描き、あるいはその弟子もまた、これと同じである。平らで堅く滑らかな地とは、業の果報の地、生死の世界である。そこにおいて、その理解に従って様々な形、様々な道、様々なよりどころを描き出すのである。 心という業の絵描きこそが、業によって衆生を造り出すのである。

「又諸彩色取白作白、取赤作赤、取黃作黃，若取鴿色則為鴿色，取黑作黑。心業畫師亦復如是，緣白取白，於天人中則成白色。何義名白？欲等漏垢所不染污，故名白色。又復如是：心業畫師取赤彩色，於天人中能作赤色。何義名赤？所謂愛聲味觸香色，畫觀察衣。又復如是：心業畫師取黃彩色，於畜生道能作黃色。何義名黃？彼此迭互飲血噉肉、貪欲瞋癡、更相殺害，故名黃色。又復如是：心業畫師取鴿彩色，攀緣觀察，於餓鬼道作垢鴿色。何義名鴿？彼身猶如火燒林樹，飢渴所惱種種苦逼；心業畫師嫉心所秉、癡闇所覆。又復如是：心業畫師取黑彩色，於地獄中畫作黑色。何義名黑？以黑業故，生地獄中，有黑鐵壁，被燃被縛得黑色身，作種種病、飢渴苦身、無量苦逼，皆是自業，非他所作。

> また、様々な色を取り、白を取れば白を作り、赤を取れば赤を作り、黄を取れば黄を作り、もし鳩色を取れば鳩色となり、黒を取れば黒を作る。心という絵師もまた同じである。縁に従って白を取れば白となり、天や人の世界において白色となる。何をもって白というのか。欲望などの煩悩の汚れに染まらないことから、白色というのである。 また、心という絵師は赤い色を取れば、天や人の世界において赤色を作り出す。何をもって赤というのか。それは、音声・味・触れられるもの・香り・色などを愛し、観察し、執着する衣のようなものである。 また、心という絵師は黄色を取れば、畜生の世界において黄色を作り出す。何をもって黄というのか。互いに血を飲み肉を食べ合い、貪り・怒り・愚かさによって殺し合うことから、黄色というのである。 また、心という絵師は鳩色を取れば、それに執着し観察して、餓鬼の世界において汚れた鳩色を作り出す。何をもって鳩色というのか。その身はまるで火に焼かれる林や木のようであり、飢えと渇きに悩まされ、様々な苦しみに迫られているからである。心という絵師は嫉妬の心に動かされ、無知の闇に覆われているのである。 また、心という絵師は黒色を取れば、地獄において黒色を描き出す。何をもって黒というのか。黒い行い（悪業）のために、地獄に生まれ、黒い鉄の壁があり、焼かれ、縛られて黒い身となり、様々な病、飢えと渇きの苦しみ、無量の苦しみに迫られる。これらはすべて自らの業によるものであり、他者が作ったものではない。

「又彼比丘觀察如是三界五道五種彩色生死畫衣，於三地住，謂：欲界地，色、無色地。心業畫師習近婬欲、攀緣欲界種種色畫，緣色依止。有二十種離欲四禪以為畫筆，依十六地是所畫處，畫作色界，離緣色界三摩跋提、緣無色界，畫為四處。心業畫師廣畫如是三界大衣。

> さらに、その比丘はこのように観察する──三界（欲界・色界・无色界）と五道（地獄・餓鬼・畜生・人間・天上）は、五つの色彩で描かれた生死の衣のようなものである。この衣は三つの地（三界）に広がっている。すなわち、欲界の地、色界の地、无色界の地である。 心という業の絵師は、婬欲に親しみ近づき、欲界のさまざまな色彩の絵に執着する。そして、その色の対象に寄り添い、依り所とする。 また、二十種の離欲と四つの禅定を絵筆として、十六の地（色界の諸天）を描く場所とし、色界を描き出す。さらに、色界の対象を離れた三摩跋提（禅定）によって、無色界を縁とし、四つの処（無色界の四天）を描く。心という業の絵師は、このように広大に三界

「又彼比丘觀察如是心業畫師，更復異法，畫作眾生。心如畫師、身如彩器、貪欲瞋癡以為堅牢；攀緣之心猶如梯蹬，根如畫筆，外諸境界聲觸味色及諸香等，如種種彩；生死如地、智如光明、勤發精進如手相似、眾生如畫、神通如彼無量形服，有無量種業果報生，如畫成就。

> さらに、その比丘はこのように心という絵師が、さらに異なる方法で眾生を描き出すのを観察する。心は絵師のようであり、身体は絵の具や道具のようであり、貪り・怒り・無知はしっかりとした枠組みのようである。取り囲む心は梯子や踏み台のようであり、感覚器官は絵筆のようであり、外部の諸々の対象——音・触れ・味・色・香りなど——は様々な絵の具のようである。生と死は大地のようであり、知恵は光のようであり、精進を励み奮い起こすことは手のようである。眾生は絵のようであり、神通力はあの無量の形や衣服のようであり、無量の種類の業と果報が生じることは、絵が完成するようなものである。

「又彼比丘依禪觀察，心業畫師有異種法。如彼畫師不生疲倦，善治彩色，各各明淨，善識好筆，畫作好色。心業畫師亦復如是不生疲倦，若修禪定，善治禪彩，攀緣明淨，如彩光明修道之師，如善好筆，知禪上下；如善識知，有取有捨，如不疲倦，如是禪定，心業畫師畫彼禪地，如彼好色。又彼如是，心業畫師若有疲倦則畫不善，地獄、餓鬼、畜生道處同業因緣。鐵杵為筆不善彩色，畫非器人，所謂地獄、餓鬼、畜生，如是等色，非好色畫，廣說如前。

> また、その比丘は禅定によって観察し、心という画家には様々な異なる方法があると知る。ちょうど画家が疲れを知らず、よく彩色を整えて、それぞれを清らかに明るくし、良い筆をよく識って美しい絵を描くように、心という画家もまた疲れを知らない。 もし禅定を修めれば、禅定の彩色をよく整え、清らかで明るいものに心を向ける。その彩色が光り輝くように、修行の道を描く師となる。良い筆のように禅定の上下をよく知り、善く識別して取捨選択する。疲れることなく、そのように禅定によって、心という画家は禅定の境地を描く。それはあたかも美しい色のようである。 しかし、もしその心という画家に疲れがあれば、善ならざるものを描く。すなわち地獄・餓鬼・畜生の世界と、同じ業の因縁である。鉄の杵を筆とし、善ならざる彩色で、器ならざる者を描く。それが地獄・餓鬼・畜生と呼ばれるものである。このような色は美しい絵ではなく、その詳細は先に述べた通りである。

「又彼比丘次復觀察心之猿猴，如見猿猴；如彼猿猴躁擾不停，種種樹枝花菓林等，山谷巖窟迴曲之處，行不障礙。心之猿猴亦復如是，五道差別如種種林，地獄、畜生、餓鬼諸道猶如彼樹，眾生無量如種種枝；愛如花葉：分別愛聲諸香味等以為眾果；行三界山，身則如窟，行不障礙是心猿猴。此心猿猴常行地獄、餓鬼、畜生生死之地。

> また、あの比丘は次に心の猿を観察した。まるで実際の猿を見るかのようであった。その猿が騒がしく落ち着かず、様々な木の枝や花や果実の林、谷、岩窟、曲がりくねった場所を、障害なく行き来するように、心の猿もまた同じである。 五つの道（五道）の違いは様々な林のようなものであり、地獄・餓鬼・畜生の諸道はそれらの木のようなものである。無数の衆生は様々な枝のようであり、愛執は花や葉のようである。分別によって生じる声や香り・味わいなどは、様々な果実のようなものである。三界の山を行き、身体は窟のようなものであり、障害なく行動する——これが心の猿である。 この心の猿は、常に地獄・餓鬼・畜生の生死の世界を巡り歩いているのである。

「又彼比丘依禪觀察心之伎兒，如見伎兒。如彼伎兒取諸樂器，於戲場地作種種戲。心之伎兒亦復如是，種種業化以為衣服；戲場地者，謂五道地；種種裝飾、種種因緣、種種樂器，謂自境界。伎兒戲者，生死戲也；心為伎兒，種種戲者，無始無終長生死也。

> さらに、かの比丘は禅定によって心という道化師を観察する。ちょうど道化師が様々な楽器を手に取り、舞台で様々な芸を演じるように、心という道化師もまた同様である。様々な業（カルマ）が衣服となり、その舞台とは五つの迷いの世界（天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道）のことである。様々な飾りや因縁や楽器とは、心それぞれが執着する対象のことを指す。道化師の芸とは、すなわち生まれ変わり死に変わりする輪廻の戯れである。心という道化師が繰り広げる様々な芸とは、始まりなく終わりなく、永遠に続く生死の流れなのである。

「又彼比丘依禪觀察心彌泥魚，如見彌泥。如彌泥魚在於河中，若諸河水急速亂波、深而流疾，難可得行，能漂無量種種樹木，勢力暴疾，不可遮障。山㵎河水迅速急惡，彼彌泥魚能入能出、能行能住。心之彌泥亦復如是，於欲界河急疾波亂，能出能入、能行能住。地獄有河，其河名曰鞞多羅泥，彼河極深，濤波湧迅無時暫停，甚可怖畏，急疾亂流，善不善業以為流水，難可得行，一切世間愚癡凡夫所不能渡。此五道河，無量劫中常漂眾生，境界疾流迅速不斷，勢力暴惡不可遮障，無常相續，力勢所牽不可約截。愛河急惡，心彌泥魚能行此河，若入若出，出者天、人，入者地獄、餓鬼、畜生。心彌泥魚在愛河中，如是入出。

> また、かの比丘は禅定によって心という「ミニウオ」を観察する。あたかもミニウオを実際に見るかのように。ミニウオが川の中にいる時、もし川の水が急速に乱れ、波立ち、深くて流れが速く、進むのが難しく、無数の種類の木々を流し去るほどの勢いで、防ぐことのできないものであれば、山間の川の水は速く激しく流れる。そのミニウオは、そこに入ることもでき、出ることもでき、泳ぐこともでき、留まることもできる。心というミニウオもまた同じである。欲望の世界という川の速く激しい波の中にあって、出たり入ったり、動いたり留まったりする。地獄には川があり、その名を「ビダラニ」という。その川は非常に深く、大波が絶え間なく荒れ狂い、まことに恐ろしい。激しく乱れて流れ、善悪の業がその流れとなり、渡ることは難しく、一切の世の愚かな凡人たちは決して渡ることができない。この五つの世界（天道・人道・地獄・餓鬼・畜生）という川は、無量の劫の間、常に衆生を漂わせ、感覚の対象という激流が絶え間なく続き、その勢いは荒々しく防ぐことができない。無常が相続し、その力に引かれて、せき止めることもできない。愛欲の川は激しく、心というミニウオはこの川を行くことができる。そこに出たり入ったりする。出るのは天道と人道、入るのは地獄・餓鬼・畜生である。心というミニウオは愛欲の川にあって、このように出入りするのである。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何彼比丘修禪念住、知業報法，觀察一切眾生之心常自在行，為心所使、為心所縛？如是觀察，彼見聞知或天眼見：一切眾生心業自在，依心業行，為心所使。

> さらに修行者は、心の内を深く観察し——正しい教えに従って、法の実践を明らかにしなさい——では、その比丘はどのように禅定と念処を修め、業と報いの法則を理解するのだろうか。すべての生きとし生けるものの心を観察すると、彼らは常に心のままに行動し、心に使われ、心に縛られている。このように観察するならば、彼は聞いた知識や天の眼によって見る——すべての生きとし生けるものの心と業は自在であり、心と業の行いに依って、心に使われている。

「又復觀察，云何眾生縛在生死，無始無終，無量轉行？彼見聞知或天眼見：以心染故，眾生繫縛；以心淨故，眾生解脫。如是心者，無量種種攀緣壞相、自體壞相、同業壞相。心有五種，謂五道中自在秉執與結使心和合相應，常在生死，離第一依，謂虛空等三無為法。五根壞相有五種心，無量無邊愛心依止種種壞相。以要言之，此是染分。云何方便得離染分三煩惱根？有三對治，過去未來一切諸佛正遍知說如是正道：欲以不淨，瞋以慈心，癡以因緣。

> さらにまた観察せよ。いったいなぜ衆生は生死に縛られ、始まりも終わりもなく、限りなく転生を繰り返すのか。彼は聞くことや天眼によって見る。心が汚れているから、衆生は縛られる。心が清らかだから、衆生は解脱する。この心というものは、無数の様々な執着による壊れの相、自らの本質による壊れの相、同じ業による壊れの相がある。心には五つの種類があり、すなわち五つの道（地獄・餓鬼・畜生・人間・天）において、それぞれ自在に振る舞い、煩悩の心と結びつき調和し、常に生死の中にあり、第一のよりどころ（つまり虚空などの三つの无为法）を離れている。五つの感覚器官の壊れの相には五種類の心があり、限りない愛情がよりどころとなり、様々な壊れの相が存在する。要するに、これが煩悩の部分である。では、どのような方法でこの煩悩の部分、すなわち三つの煩悩の根本から離れることができるのか。それには三つの対治方法がある。これは過去・未来のすべての仏陀が完全な悟りをもって説かれた正しい道である。すなわち、欲望に対しては不浄観をもって、怒りに対しては慈しみの心をもって、無知に対しては因縁の道理をもって対治するのである。

「彼於身中如是觀欲，如是比丘緣身行已，分分觀身，從足爪等乃至於頭，分分觀察：『此麁身分，何者是我？何者我所？』自身分中如是足爪，離身觀察：『爪非是身，足指非身，何者是身？何者是我？何者我所？足掌非身，何處起心，謂是我所？此內踝者，非是我身。此足跟者亦非我身，踹非我身，膝非我身，圓非我身，陰非我身，此髑髏者亦非我身，糞門之處亦非我身；如是背處四十五骨，皆非我身；頭非我身，面中之骨亦非我身，頭中之骨亦非我身。』彼比丘如是觀察，於分分中不見有身，一一分分皆不見身，又復不見如是分分。復觀眼耳鼻舌身意，皆不見身。又復觀察我中無我，彼如是等唯是微塵，如是分分觀察彼身，猶如芥子，乃至微塵。又復分分觀察諸大：『何者是我，何者地界？』如是次第：『何者是我，何者水界？何者是我，何者火界？何者是我，何者風界？』彼如是觀：『界非是我，我非是界；非別有我，非別有界；非異界我，別更有物。』如是皆以第一義諦，譬如無量多樹和合，則見於林，樹非是林，異樹無林，是第一義；離樹之外，無別名林。又復觀樹，離彼根莖枝葉等外，別更無樹；第一義諦無如是樹，依世諦故有林有樹。身亦如是，足等和合，唯有名字，依世諦故，得言有身。彼比丘知身法已，離於身欲；離身分欲，得離一切根受界欲；既離欲已，彼喜欲愛不能繫縛。如是勤觀欲心對治。

> 彼は身体の内側において、このように欲望を観察する。このように比丘は身体の営みに沿って、一つ一つの部分を観察し、足の爪から頭に至るまで、一つ一つを観察する。「この粗い身体の部分のうち、どれが私なのか？どれが私のものなのか？」自分の身体の部分の中にある足の爪を、身体から離れて観察する。「爪は身体ではない。足指は身体ではない。何が身体なのか？何が私なのか？何が私のものなのか？足の裏は身体ではない。どこから心が生じて、それを私のものと思うのか？この内くるぶしは、私の身体ではない。このかかとも私の身体ではない。ふくらはぎは私の身体ではない。ひざは私の身体ではない。太ももは私の身体ではない。陰部は私の身体ではない。この頭蓋骨も私の身体ではない。肛門の場所も私の身体ではない。このように背中の四十五の骨も、すべて私の身体ではない。頭は私の身体ではない。顔の骨も私の身体ではない。頭の中の骨も私の身体ではない。」この比丘はこのように観察して、一つ一つの部分に身体を見いださない。一つ一つの部分に身体はなく、またそのような部分そのものも見いだされない。さらに眼・耳・鼻・舌・身・意を観察しても、すべてに身体は見いだされない。また、「私」の中に私がないことを観察する。これらはただ微塵にすぎない。このように一つ一つの部分を観察して、その身体をからし種の粒のように、さらには微塵のように見る。さらにまた、一つ一つの部分で四大を観察する。「どれが私なのか？どれが地の要素なのか？」このように順に、「どれが私なのか？どれが水の要素なのか？どれが私なのか？どれが火の要素なのか？どれが私なのか？どれが風の要素なのか？」このように観察する。「要素は私ではない。私は要素ではない。私とは別に別の私があるのでもなく、要素とは別に別の要素があるのでもない。要素と私とが別のもので、さらに別の何かがあるのでもない。」これらはすべて第一義の真理に基づく。たとえば、無数の多くの木が集まって「林」と見なされるが、木が林なのではない。木々を離れて林はなく、これが第一義である。木々を離れて他に「林」という名があるのではない。さらに木を観察しても、根や茎や枝や葉などを離れて、別に木はない。第一義の真理にはそのような木はなく、世俗の真理に基づいて林があり木があると言えるのだ。身体も同じで、足などが集まってただ名前があるだけであり、世俗の真理に基づいて身体があると言える。この比丘は身体の真理を知って、身体への欲望を離れる。身体の部分への欲望を離れ、あらゆる感覚器官・対象・要素への欲望から離れる。欲望を離れたならば、その喜びや欲望への愛執は彼を縛ることができない。このようにして、欲望の心を対治するために精励して観察する。

「又彼比丘云何勤觀瞋心對治？彼住慈心，常勤觀察：惡行眾生，所謂五道生死退生，常有怖畏，如死無異。比丘觀之，如母悲子：『彼諸眾生如是苦惱，云何可瞋？我若瞋之，則是瘡上復更與瘡。如是眾生本性苦惱，不應瞋之。』瞋是第二最大煩惱，如是勤觀瞋心對治。

> さらに、かの比丘はどのようにして怒りの心を対治するために熱心に観察するのか。彼は慈しみの心に留まり、常に熱心に観察する。悪行を積む衆生は、いわゆる五道（地獄・餓鬼・畜生・人間・天）の生死を輪廻し、退転して生まれ変わる。常に恐れを抱き、死と変わらない苦しみの中にある。比丘はこれを観察して、あたかも母が子を慈しむかのように思う。「これらの衆生はこのように苦しんでいる。どうして怒ることができようか。もし私が彼らに怒れば、それは傷口にさらに傷を与えるようなものだ。このような衆生は本来苦しみの中にあるのだから、怒るべきではない。」怒りは第二の最大の煩悩である。このようにして、熱心に怒りの心を対治するのである。

「又彼比丘，云何次第勤觀第三最大煩惱？癡覆眾生，身不善行、口不善行、意不善行，身壞命終墮於惡道，生地獄中。彼若離癡，修行正見，身行善行、口行善行、意行善行，諦知善法及不善法。如是諦知法、非法心，則滅第三最大煩惱，如是勤觀癡心對治。

> また、その比丘はどのようにして順を追って、第三の最大の煩悩を熱心に観察するのでしょうか。無明が衆生を覆い、身体で不善を行い、言葉で不善を行い、心で不善を行います。その結果、命終わって悪道に堕ち、地獄に生まれます。もし無明を離れ、正見を修行すれば、身体で善行を行い、言葉で善行を行い、心で善行を行い、善法と不善法を真実に知ることができます。このように善と不善の法を真実に知れば、心は第三の最大の煩悩を滅ぼすことができます。このように、無明の心を対治することを熱心に観察するのです。

「又彼比丘如是勤觀三種煩惱、三種對治，彼三種滅已，一切煩惱結使皆滅，如斷樹根，皮莖枝葉、花菓緣等，一切悉乾。如是能斷此三煩惱，一切煩惱皆悉斷滅。

> また、その比丘はこのようにして、三種の煩悩と三種の対治法を熱心に観察します。それらの三つが滅びると、すべての煩悩や束縛が消え去ります。それはまるで、木の根を断ち切れば、皮や茎、枝や葉、花や実など、すべてが枯れ果てるのと同じです。このように、この三つの煩悩を断ち切ることができれば、一切の煩悩はことごとく断ち滅ぼされるのです。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何彼比丘第七地中修第八地，得第八地？彼見聞知或天眼見：彼比丘最初如是如實觀眼，云何世間愚癡凡夫眼見色已，或貪、或瞋、或生於癡？彼諸凡夫，若見知識、若見婦女，心則生貪；若復異見則生於瞋；見他具足貪、瞋所覆，以眼於色不如實見，癡蔽於心。愚癡凡夫唯有分別，眼見於色，若貪、若瞋、若癡所覆；愛誑之人，自意分別此我、我所，如是染著；譬如狗齩離肉之骨，涎汁和合，望得其髓。如是貪狗，齒間血出得其味已，謂是骨汁，不知自血有如是味。以貪味故，不覺次第自食其舌，復貪其味，以貪覆故，謂骨汁味。愚癡凡夫亦復如是虛妄分別，眼識見色，貪著喜樂，思量分別以色枯骨著眼口中，境界如齒，如是齩之，染意如涎，愛血流出貪愛血味，謂色為美，於色得味，猶如彼狗。凡夫愚癡，眼識見彼如骨之色，虛妄分別，如狗齩骨。如是觀察：眼見於色，猶如枯骨。如是一切愚癡凡夫，虛妄分別之所誑惑。

> さらに修行者は、心の中で深く考え、正しい教えに従って法の実践を観察します。では、その比丘はどのようにして第七の境地で修行し、第八の境地に達するのでしょうか。彼は見聞や天眼によって知るのです。その比丘は、まず最初にこのようにして眼をあるがままに観察します。 世の中の愚かな凡夫は、眼で色を見ると、貪欲を起こしたり、怒りを起こしたり、無知を起こしたりします。彼ら凡夫は、知人や女性を見ると心に貪欲が生じ、別のものを見ると怒りが生じます。また、他者が欲望や怒りに満ちているのを見ると、自らもそれに覆われ、眼で色をありのままに見ることができず、無知が心を覆ってしまうのです。 愚かな凡夫は、ただ分別するだけで、眼で色を見ては貪欲、怒り、無知に覆われます。愛に惑わされた人は、自分の心で「これは私のもの、これは私の所有だ」と分別し、執着します。まるで、肉のついていない骨を噛む犬のようなものです。唾液を交えて、その骨髄を得ようとします。 この貪欲な犬は、歯の間から血が出てその味を感じると、それを骨の汁だと思い込みます。自分の血にそんな味があるとは知らないのです。その味に貪るあまり、次第に自分の舌まで噛みながらも、味を貪る心に覆われて、骨の汁の味だと思い込みます。 愚かな凡夫もこれと同じです。虚妄に分別して、眼識で色を見ては、喜びや楽しみに執着します。そして、色という枯れた骨を眼という口に入れ、状況は歯のようなもので、それを噛みます。染まった心は唾液のようであり、愛の血が流れ出て、その血の味に貪り、色を美しいと思い込み、色の味を得るのです。それはまさにあの犬と同じです。 凡夫の愚かさは、眼識で骨のような色を見て、虚妄に分別すること、まるで犬が骨を噛むようなものです。このように観察しなさい：眼で見る色は、枯れた骨のようなものだと。このように、すべての愚かな凡夫は、虚妄の分別に惑わされているのです。

「又彼比丘如是思惟：云何比丘於愛生畏、厭離生死、捨一切欲？譬如龍象至年六十，其力盛壯，善調象人革鬪捉取，縛其五處，置牢檻中，然後乃多與歡喜摶，及以甘蔗、甘蔗酒等種種美味，以諸樂器、歌聲樂之，望使不愁、不憶林樂。若忘林樂，得與凡象同共止住，極令調善，繫屬他人。彼象雖復如是將息，如是供養，不能令其心離憂悶，然其不忘林間之樂，自在遊行，不忘山曲樹林花菓、眾鳥音聲、河傍處樂；思惟念已，絕縛而去，憶彼樂故，於調象人不生忌難，壞其牢檻，去向林中，心不顧念——多多蹇荼、美歡喜摶及以甘蔗、甘蔗酒飲、琴樂歌聲，心不可調、心不可誑，不忘林樂，不樂凡象共行共住，還向林中。修行比丘亦復如是，無始以來流轉世間，五縛所縛。何等為五？所謂愛聲、觸、味、香、色。誰為善調？所謂眼、耳、鼻、舌、身、意，如是六識。何者牢檻？所謂喜樂妻子眷屬、止住之處、僕使富樂，染著煩惱之所遮障，多歡喜摶及甘蔗酒、種種美味諸飲食者。分別之心為歡喜摶，婬欲為飲食，心愛網以為作樂歌笑等聲。邪見凡夫猶如凡象，共同住者謂有身見、戒取、疑網，口中甜者所謂喜樂邪見言說，繫屬他者屬欲瞋癡；善調之象謂修行者，一切染癡以為供養，憶念出離則名為山，禪三摩提以為山窟，生正道心此名為花，涅槃為果，眾鳥聲者所謂法師，智慧為河，河濟口者所謂一心，言地分者謂四梵行——慈、悲、喜、捨。彼修行者猶如壯象，隨順思量禪定之樂，趣僧伽藍為還林去。比丘如是修行道者，猶如壯象；若不爾者，如狗無異。

> また、その比丘は次のように考えた。「いったい、どうすれば比丘は愛欲に恐れを抱き、生死の迷いから厭い離れ、一切の欲望を捨てることができるのだろうか。」 例えば、六十歳になった力強い象がいる。その象の調教役は、革の綱で象を捕らえ、五箇所を縛って頑丈な柵の中に閉じ込める。そして、喜ばせるための食べ物や、サトウキビ、サトウキビ酒など様々な美味を与え、楽器や歌声で楽しませて、心配や森での自由な生活を思い出させないようにする。もし森の楽しみを忘れ、普通の象と一緒にいることに慣れ、完全に飼いならされて他人に従属するようになれば、それでよいのだ。 しかし、その象はどれほど世話され、供養されても、心の憂いや苦しみから逃れることはできない。むしろ、森の中での自由な遊び、山のふもとや木々の間、花や果実、様々な鳥の声、川辺の楽しみを決して忘れない。 その楽しい思い出を胸に、象は束縛を断ち切って去っていく。調教役への恐れも迷いもなく、頑丈な柵を壊して森へと向かう。心は決して振り返らない。どんなに多くの美味しい食べ物やサトウキビ酒、琴の音や歌声があろうとも、その心は調教できず、欺くこともできない。森の楽しみを忘れず、普通の象と共にいることを望まず、森へと帰っていくのだ。 修行する比丘もまた、全く同じである。無始の昔から生死を繰り返し、五つの束縛に縛られてきた。その五つとは何か？ それは、声・触・味・香・色への執着である。 では、調教役とは誰か？ それは、眼・耳・鼻・舌・身・意、この六つの認識作用である。 堅固な檻とは何か？ それは、妻や子供、眷属への愛着、住む場所や召使い、富や快楽への執着、そして煩悩に覆われてしまうことである。 多くの喜ばせる食べ物やサトウキビ酒、様々な美味しい飲食とは、分別する心が喜ばせる食べ物であり、淫欲が飲食であり、愛執の網が楽しげな歌や笑い声である。 邪見の凡夫は、普通の象のようなものである。彼らと共にいるとは、身見（自我への執着）や戒取（誤った修行への執着）、疑いの網にとらわれていることをいう。彼らの口に甘いものとは、邪見の言葉を喜ぶことである。他人に従属するとは、欲望・怒り・無知に支配されることである。 調教された象とは、修行者である。一切の染まりや無知が供養となる。そして、解脱への願いを「山」と呼び、禅定を「山の洞窟」と呼び、正しい道を求める心を「花」と呼び、涅槃を「果実」と呼ぶ。多くの鳥の声とは、説法する僧侶である。智慧を「川」とし、その川の渡し場を「一心」と呼ぶ。そして、土地の区画とは、四つの梵行（慈・悲・喜・捨）である。 修行者は、まさに力強い象のように、禅定の楽しさを思慕し、僧院へと向かう。それが、森へと帰っていくことにあたる。比丘がこのように道を修行するならば、力強い象のようなものである。そうでなければ、犬と少しも変わらない。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何彼比丘於八地處修第九地，得第九地？彼見聞知或天眼見：一切三界皆是無常、苦、空、無我、不淨等器，觀一切欲亦復如是。譬如林中極大山崖嶮峻之處，有大高樹名佉殊梨，有無量刺，於彼樹頭少有果實而復難得，若取彼果，多有諸過，恐此樹果墮在嶮處，復畏失命；樹腹有孔，孔坎脆爛，欲上彼樹，復畏孔壞危人之命，彼樹極高，墮樹尚死，況墜高崖嶮惡之處。愚癡凡人盲無智目，貪著眾味，望見彼果，不看峻崖樹腹爛孔。彼愚癡人貪其果味而上彼樹，未到果所，即便墜墮，即爾命終。更有餘人，少知方便或有命業，則不墮墜，少得果味，多受苦惱。如是如是，彼修行比丘觀五道林，中間有孔、極大嶮崖謂一切病，佉殊梨樹所謂欲心，無量刺者所謂無量百千煩惱，求彼苦果所謂苦也，樹頭果者一切欲意，諸愛聲觸味色香等難可得者，是欲果也。所謂入海、若有刀畏、親近於王、作賊治生如是等苦，乃得所欲；如彼得苦、多諸過者貪欲瞋癡，墮高崖者謂墮地獄、畜生、餓鬼，即命終者法命盡也，樹爛孔者皆空無物、一切不堅，癡人往者所謂愚癡邪見人也；有如是等無量諸過，復有多過，如是欲果，味少過多。彼比丘如是觀於一切欲心，不生分別。「又彼比丘觀察欲心猶如火焰、猶如燈焰，明色可愛，其觸甚熱，飛虫癡故，見彼明焰，貪著愛樂，入中即死。愚癡凡夫亦復如是，欲瞋癡覆，於一切欲，心生愛著，如彼飛虫，見燈明色，若入欲燈則墮地獄、畜生、餓鬼，如彼飛虫入燈而死。彼比丘如是觀察，心得離欲。

> 「修行者は内的に観想し、正しい教えに従って法の実践を観察する。では、その比丘はどのようにして八つの境地において修行し、第九の境地を体得するのか。彼は見聞によって、あるいは天眼によって、一切の三界が無常・苦・空・無我・不浄などの器であることを知る。また、一切の欲望もまた同様であると観じる。 例えば、林の中に非常に険しい山崖のある場所があり、そこに佉殊梨という大木が生えている。無数の棘があり、その木の先にはわずかな果実があるが、得がたく、もしその果を取ろうとすれば多くの過失がある。その果実が険しい場所に落ちることを恐れ、さらに命を失うことを畏れる。木の幹には穴があり、その穴は脆く朽ちている。その木に登ろうとすれば、穴が崩れて命を危険にさらすことを恐れる。その木は非常に高く、木から落ちるだけでも死に至るのに、ましてや高い崖の険しい場所に落ちることはなおさらである。 愚かで無知な凡人は、智慧の目を持たず、味わいを貪り求めてその果実を見るが、険しい崖や木の幹の朽ちた穴に気づかない。その愚か者は果実の味に貪り、木に登るが、果実に届く前に墜落し、そのまま命を終える。また別の者は、わずかに方便を知っているか、あるいは命の業によって墜落せず、わずかに果実の味を得るが、多くの苦しみを受ける。 このように、修行する比丘は五道の林を観じる。その中には、すべての病という極めて険しい崖と穴がある。佉殊梨の木は欲望の心を意味し、無数の棘は無数の百千の煩悩を意味する。苦の果実を求めることは、すなわち苦しみである。木の先端の果実は、すべての欲望の心、愛着のある声・触・味・色・香など、得難いものを意味する。これが欲望の果実である。すなわち、海に入ること、刀の畏れ、王に近づくこと、盗みや生業など、これらの苦しみを経て欲望を得る。このように苦しみを得ることに多くの過失がある。貪欲・瞋恚・愚痴によって高い崖から落ちるとは、地獄・畜生・餓鬼に堕ちることである。即座に命を終えるとは、法の命が尽きることである。木の朽ちた穴は、すべてが空であり、物はなく、すべてが堅固ではないことを意味する。愚か者がそこに行くとは、愚痴と邪見の人である。このように無量の過失があり、さらに多くの過失がある。欲望の果実は味わいが少なく、過失が多いのである。 その比丘はこのようにして、すべての欲望の心を観じ、分別を生じない。 「また、その比丘は欲望の心を観じて、ちょうど火焰の如く、灯火の焰の如くであると知る。その明るい色は愛らしいが、触れると非常に熱い。飛ぶ虫は愚かにも、その明るい焰を見て、貪り愛着し、その中に入って死んでしまう。愚かな凡夫もまた同じである。欲望・瞋恚・愚痴に覆われて、すべての欲望に対して愛着の心を生じる。あたかもその飛虫が灯明の明るい色を見て、欲望の灯明に入れば、地獄・畜生・餓鬼に堕ちる。あたかもその飛虫が灯明に入って死ぬように。その比丘はこのように観察して、心が欲望を離れることを得る。」

「又彼比丘內心思惟——隨順正法觀察法行——又此世間一切眾生何縛所縛，輪轉生死？彼見聞知或天眼見：二縛所縛，繫在世間。何等為二？一者食縛，二者觸縛。食縛有四：一者摶食；二者思食；三者禪食；四者觸食。何者摶食？謂四：人處、欲界六天、八大地獄、鬼中一分。二、思食者，所謂魚中。三、禪食者，所謂行禪色界天等。四、觸食者，所謂諸鳥。何者為觸？觸者謂欲，有執手者或有笑者、有眼見者，如是皆為欲觸所誑。如是一切愚癡凡夫，謂欲界中，人及餓鬼、畜生、地獄，此等習欲，故名欲界；又無色界三摩跋提，攀緣為食；以此二縛，常在世間，不得離欲，常為一切結使所縛。

> そして、その比丘は心の中でこのように思考する——「正しい法に従い、法の実践を観察しよう。また、この世のすべての衆生は、何という束縛に縛られて生死を輪廻しているのか？」彼は見聞きしたこと、あるいは天眼で見たことにより、次のように知る。「二つの束縛に縛られて、この世に繋がれている。その二つとは何か？第一は食物の束縛、第二は接触の束縛である。 食物の束縛には四つある。第一は「搏食」、第二は「思食」、第三は「禅食」、第四は「触食」である。 搏食とは何か？それは、人間の世界、欲界の六つの天、八つの大地獄、そして餓鬼の一部のことである。 第二の思食とは、魚類のことである。 第三の禅食とは、禅定を修行する色界の天などのことである。 第四の触食とは、鳥類のことである。 接触とは何か？接触とは、欲望のことである。手を握る行為があったり、笑い合うことがあったり、目で見ることがあったりする。これらはすべて、欲望の接触に欺かれているのである。 このように、すべての愚かな凡夫は、欲界において、人間や餓鬼、畜生、地獄の中で、これらの欲望に慣れ親しんでいる。ゆえに「欲界」と呼ばれるのである。また、無色界における三昧の境地では、心のよりどころを食物としている。この二つの束縛によって、常に世間にあって、欲望から離れることができず、常に一切の煩悩に縛られているのである。

「又彼比丘如實觀眼：眼識見色，若生樂觸則攀緣樂，非樂報業。又如實觀，如是如是眼識見色，是惡意處，若眼觸生，攀緣於苦，是樂報業。彼如實知：何者名為眼識見色，攀緣於樂，非樂報業？於此法中隨順觀察眼見色已，不善思惟、觀察攀緣，憶念味著而生樂心，現在雖樂，後得苦報，成就地獄、餓鬼、畜生。何業現在得不樂報，後得樂報？眼識見色而生眼觸，心善思惟、觀察攀緣，於現在世心不樂著，現在不樂，非苦報業，轉生人天受勝妙樂，終到涅槃。如是耳、鼻、舌、身、意識皆亦如是。

> さて、あの修行僧は、そのとおりに眼を観察する。すなわち、眼の認識が色を見る時、もし快い接触が生じれば、その快さに執着する。それは楽しい報いをもたらす業（カルマ）ではない。また、そのとおりに観察する。すなわち、眼の認識が色を見るこのありさまは、悪しき認識の拠り所である。もし眼の接触から苦しみが生じれば、それに執着する。それは楽しい報いをもたらす業である。彼はそのとおりに知る。すなわち、「眼の認識が色を見て、快さに執着しながら、それが楽しい報いをもたらす業ではないとは、どういうことか？」と。この教えの中で、よくよく観察を進める。すなわち、眼で色を見た後、善くない考え方や観察で執着し、その味わいを覚えて楽しむ心が生じる。これは今は楽しくとも、後に苦しい報いをもたらし、地獄・餓鬼・畜生の境遇をもたらす。では、どんな業が、今は楽しくない報いでありながら、後に楽しい報いをもたらすのか。すなわち、眼の認識が色を見て眼の接触を生じ、心が善く考え、観察し執着するが、現在の世では心に執着せず、今は楽しくなくとも苦しい報いの業とはならず、人間や天界に生まれ変わって優れた楽しみを受け、ついには涅槃に至るのである。耳、鼻、舌、身、意識についても、まったくこれと同じである。

「又修行者內心思惟——隨順正法觀察法行——云何彼比丘眼識見色心行於捨？謂：彼比丘眼見色已，心不喜樂、非不喜樂、不貪不惡，心不悕望、非不悕望，亦不憶念、非不憶念，亦非不善觀察覆障，如是行捨，是名捨處，非苦樂處。又彼比丘得第十地六地處行，謂阿那含初禪地中乃至四禪，得登彼地。彼觀諸法出沒生滅，常勤修行八分聖道，欲覺欲到解脫之門。彼比丘如是精勤，魔宮隱蔽，彼地夜叉見已歡喜，即以上聞虛空夜叉，虛空夜叉聞四大王，彼四大王聞四天王，彼四天王如是復聞三十三天，三十三天聞焰摩天，彼焰摩天聞兜率天，彼兜率天聞化樂天，彼化樂天復向他化自在天說，彼自在天復向梵天如是說言：『閻浮提中某善男子，廣說如前，乃至八地攝於六地。』彼既聞已，甚大歡喜。梵迦夷天，出禪樂行，既實聞已，轉復歡喜。」爾時，世尊而說偈言：

> 「また、修行者は心の中で深く考えます——正しい教えに従い、真理の実践を観察します——では、なぜその比丘は、眼識で色を見たとき、心から「捨」を行うのでしょうか？それはこうです：その比丘は、眼で色を見た後、心が喜ぶこともなく、喜ばないこともなく、執着せず、嫌悪もせず、心に望みを持つこともなく、望まないこともなく、また記憶に留めることもなく、記憶しないこともなく、さらに悪く観察したり覆い隠したりもしません。このようにして「捨」を行うこと、これを「捨の境地」と呼び、苦でも楽でもない境地です。また、その比丘は第十の地と六つの地の境地に達します。すなわち、阿那含の初禅の地から第四禅に至るまで、その地に登るのです。彼は諸々の法が現れ消え、生じ滅する様子を観察し、常に精進して八つの聖なる道を修行し、解脱の門に至ろうと欲し、到達しようとします。比丘がこのように精進すると、魔王の宮殿は隠れ、その地の夜叉はそれを見て喜び、すぐに虚空夜叉に告げます。虚空夜叉はそれを四大王に聞かせ、四大王は四天王に聞かせ、四天王はさらに三十三天に聞かせます。三十三天は焔摩天に聞かせ、焔摩天は兜率天に聞かせ、兜率天は化楽天に聞かせ、化楽天はさらに他化自在天に伝えます。その自在天はさらに梵天にこう伝えます：『閻浮提のある善き男子が、前述のように広く修行し、八つの地に至り六つの地を収めるに至った。』これを聞いた梵天は大いに喜びました。梵迦夷天は禅の楽を超えて行動しますが、それを実際に聞いて、さらに喜びました。」 その時、世尊は偈を説かれました：

「若善若不善，業果皆決定，自作業自食，皆為業所縛。如是煩惱地，初甜而後苦，捨境界如毒，以不饒益故。智不屬煩惱，屬於智境界，此世若後世，一切時受樂。智常燒煩惱，如火能焚草，煩惱覆智梵，故佛說三寶。若樂智境界，寂靜如牟尼；若煩惱蛇齧，彼人一切失。若人知二諦，勇猛諦知見，彼行第一道，捨離生死處。若人樂生死，喜樂煩惱怨，彼人常被縛，流轉有隘處。若人有出意，常行寂靜行，死生天眾中，到梵世界處。若不愛欲等，供養佛法僧，彼人捨生死，如風吹乾草。若不為心使，而能使於心，則能除煩惱，如日出無闇。心怨最第一，更無如是怨，心常燒眾生，如放燒時樹。若心自在行，愚癡不調根，彼苦不寂靜，去涅槃太遠。知苦及苦報，復能知苦因，則脫一切縛，普離諸煩惱。智為第一明，癡為第一闇，取如是光明，是名黠慧人。癡為第一惡，黠慧人能捨，若令癡自在，寂靜難可得。若欲自安隱，寧觸入大火，毒蛇同處住，終不近煩惱。智第一甘露，第一安隱藏，智為第一親，智為第一寶。如是之智火，常燒煩惱山，燒煩惱山者，則到安樂處。若人無智慧，如盲入闇處，則不厭生死，非法諍鬪籠。若人常念法，善得於人身，不為心所誑，應受善人供。

> 善い行いも悪い行いも、その報いは必ずやってくる。 自分で蒔いた種は、自分で刈り取らねばならず、人は皆、行為（カルマ）の縛りを受けるのだ。 この煩悩という世界は、初めは甘くても、後には苦しみをもたらす。 毒のあるもののように、その状態にとどまることをやめよ。なぜなら、それは決して益とならないからである。 智慧ある者は、煩悩の世界ではなく、智慧の境地を目指す。 そうすれば、この世でも来世でも、常に安らぎを得ることができる。 智慧は常に煩悩を焼き尽くす。あたかも火が草を焼き払うように。 煩悩が智慧という聖なる行いを覆い隠してしまうからこそ、仏陀は「仏・法・僧」という三つの宝を説かれたのだ。 もし人が智慧の境地を楽しみ、聖者のように静かでいられるなら、 もし煩悩という蛇に噛まれてしまえば、その人は全てを失ってしまう。 もし人が、真実の二つの側面（世俗と勝義）を知り、勇敢にその真理を見極めるなら、 その人は最高の道を歩み、生と死の迷いの世界から解放される。 もし人が輪廻の生に執着し、煩悩という敵を喜びとするなら、 その人は常に縛られ、狭く苦しい世界をさまよい続ける。 もし人が迷いの世界を離れようと願い、常に静かな修行を実践するなら、 その人は死後、天の世界に生まれ、梵天の世界に至ることもできる。 もし人が欲望などに執着せず、仏・法・僧に捧げるなら、 その人は、風が枯れ草を吹き飛ばすように、迷いの世界を捨て去ることができる。 もし人が心に振り回されず、逆に心を使いこなすなら、 太陽が昇って闇が消えるように、煩悩を除くことができる。 心という敵は最も恐ろしい。これ以上の敵は他にない。 心は常に人を燃やし続ける。まるで火が木を焼き尽くすかのように。 もし心が好き勝手に動き、愚かで、感覚の制御ができないなら、 その人は苦しみから逃れられず、悟りの世界（涅槃）からはあまりにも遠い。 苦しみの正体とその報いを知り、さらに苦しみの原因を理解するなら、 あらゆる束縛から解き放たれ、全ての煩悩を離れることができる。 智慧とは最高の光であり、無知とは最も暗い闇である。 この智慧という光を手にする人こそ、賢い人と呼ばれる。 無知は最も悪いもの。賢い人はそれを捨て去ることができる。 もし無知に支配されてしまえば、静かな安らぎを得ることは難しい。 もし自らの安らぎを望むなら、たとえ大火の中や毒蛇と共にいることを選んでも、 決して煩悩に近づいてはならない。 智慧こそが最高の甘露であり、最高の安らぎの宝である。 智慧は最も親しい味方であり、智慧は第一の宝である。 この智慧という火は、常に煩悩という山を焼き尽くす。 煩悩の山を焼き尽くす人は、安らぎの境地に至る。 もし人に智慧がなければ、それは盲人が暗闇の中を歩くようなもの。 そうした人は、迷いの世界を厭うこともなく、間違った争いの檻の中にいる。 もし人が常に教え（ダルマ）を心に留め、人間として生まれた恵みを正しく活かすなら、 心に惑わされることなく、善い人々からの尊敬を受けるに値する。

「彼比丘如是知法、非法，依法正行，如是淨心，則能破壞無量百千高大生山，無有餘氣，更不復生，離煩惱刀，近於涅槃。

> その比丘は、法と非法とをこのように知り、法に従って正しく行じ、心を清らかにすることによって、数えきれないほど多くの高大な生死の山を打ち砕き、その残り気を残すことなく、再び生み出すこともない。煩悩の刃から離れ、涅槃に近づくのである。