---
title: "正法念處經 · 10"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm9tojnqu07cmhj0vie4g2hh0"
---

## 正法念處經卷第三十四

> 正法念処経 巻第三十四

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之十三三十三天之十

> 観天の章 第十三<note>三十三天の十</note>

「時諸天眾心生敬重，復聽帝釋所說法要，合掌頂上，白帝釋言：『我今現見此法勢力，天王說法隨我等心，得信清淨，閻羅使者亦隨漸滅，隨聞如來所說法力即皆消滅，何況修行，若有修行至不滅處。』爾時，帝釋心生歡喜作如是言：『我於今者，所作已辦。我為如是放逸諸天除斷放逸，得不放逸，令其歡喜。我今當為此諸天眾說深妙法，如我往昔於大師所聞正法要解脫城門，念出入息阿那般那。於昔舊天次第所聞，既得聞已，復見世尊為我宣說，是故我今為諸天說雜四聖諦法，於一諦中四種分別。我今當說，利益如是一切天眾，亦自利益，亦利益他生死行眾生，種種方便為之說法，令諸眾生心得淳熟。我已如是說十五法，我今次為諸天眾等，說十六法，阿那般那出入息法，分別四聖諦，方便自因之相。云何名為次第說也？是修行者，觀於自身縛心獼猴。

> 時に、天の神々たちは心に敬いの念を抱き、帝釈天の説く教えの要点を聴聞した。彼らは手を合わせ、頭を頂き、帝釈天にこう申し上げた。「今、私たちはこの教えの力を目に見える形で実感いたしました。天王の説法は、私たちの心に沿ったものであり、清らかな信心を得ることができました。閻魔の使いも次第に消え去り、如来の説かれた教えの力を聞くだけで、それらはことごとく消滅いたします。ましてや、修行を実践する者であればなおさらです。もし修行して、滅びることのない境地に至る者があれば、その人は完全に安らぎを得るでしょう」 その時、帝釈天は心に喜びを生じ、こう言われた。「私は今、なすべきことを成し遂げた。私はこのような放逸な天の神々のために、放逸を断ち切り、放逸ならざる境地を得させ、彼らを喜ばせた。今、私はこれらの天の神々のために、深遠で素晴らしい教えを説こう。それは、私がかつて大師のもとで聞いた正しい教えの要点、すなわち『解脱の城門』であり、『出入息（阿那般那）』を観ずる瞑想法である。かつての天の古き者たちから次第に聞き伝えたものであり、それを聞いた後、さらに世尊が私のために説いてくださった。ゆえに、私が今、天の神々のために『四つの聖なる真理（四聖諦）』を様々な観点から説こう。一つの真理の中に、四つの分別がある。私は今それを説き、これらの天の神々すべてを利益しよう。また、私自身をも利益し、さらに、生死の輪廻の中で苦しむ衆生をも利益しよう。様々な方便を用いて彼らに説法し、彼らの心が成熟し純化されるようにしよう。私はすでにこのように十五の法を説いた。今、続けて天の神々のために、十六番目の法を説こう。それは『出入息（阿那般那）』の呼吸観法であり、四つの聖なる真理を分別し、自らの因と方便の相を明らかにするものである。では、どのようにして順序立てて説くのか？この修行者は、自らの身を観察する。それは、心という猿が縛られているようなものだ。

「『諸天子！云何縛於覺觀心之獼猴？縛何等心？所謂縛識。如是一心，次第觀身相觀：身循身觀，染不染無記觀，受善受循受觀，苦受、樂受、不苦不樂受觀，受自相觀，法循法觀，善、不善、無記如自相，是名四念處。是修行者入如是法，一心觀察一切有為，自相寂滅，觀四念處，是四聖諦相。如是念處遍一切處，所謂次第行相，常無常，合和聚散，空無作者，空無我者，破壞衰惱。如是觀苦無常，見四念處已，觀四聖諦自相。如實觀察，生於暖法，從於暖法，生於智慧。譬如鑽火，先見烟相，後乃見火；如鑽如燧，先生熱氣，後乃生火。以信樂故，於一切煩惱無知法中，未來能生聖法、毘尼亦復如是。以十六種觀四聖諦。

> 「諸天子よ。いわゆる心の猿である覚観に、どのように縛られるのか。何の心が縛られるのか。それは識を縛るのだ。このように一心に、順を追って身体の相を観察する。身体についての身体の観察。染汚・非染汚・無記の観察。感受について、善い感受に従って感受を観察する。苦受・楽受・不苦不楽受の観察。感受の自相の観察。法について法に従った観察。善・不善・無記の自相の観察。これを四念処という。 この修行者は、この法に入り、一心に一切の有為を観察する。自相は寂滅であり、四念処を観察する。これが四聖諦の相である。このような念処は、あらゆる場所に遍く及ぶ。すなわち、順を追った行相、常・無常、集合・分散、空にして作者なく、空にして我なく、破壊し衰え悩ますものである。 このように苦・無常を観察し、四念処を見た後に、四聖諦の自相を観察する。如実に観察して暖法を生じ、暖法から智慧を生じる。例えば火を起こす時、まず煙の相を見て、後に火を見るようなもの。火鑽（ひきり）を擦るように、まず熱気が生じ、後に火が生じる。信楽によって、一切の煩悩や無知の法の中で、未来に聖法や毘尼が生じるのもまた同じである。十六種の観をもって四聖諦を観察するのである。」

「『如是暖法云何生耶？云何觀於四聖諦耶？諸天子！所謂是苦聖諦因緣，有故無常，敗壞故苦，離人故空，不自在故無我。如是四種分別，觀苦聖諦。行者觀苦聖諦已，觀集聖諦四種分別。云何分別？所謂行相續轉故，集相似果流轉諸有故，因一切性流轉有故，勢力不相似相續緣有故。行者復觀苦滅聖諦四種分別。諸天子！云何行者分別修行苦滅聖諦？捨一切衰惱故，滅煩惱火離故，一切法第一寂滅故，清淨法出生死故。行者復觀道聖諦四種分別。諸天子！云何行者分別觀察？所謂得不退處故，道不顛倒故，一切聖人所住法故，以無礙斷除生死衰惱出世間故。是名十六種修行之法，我已說之，汝等天眾勤修精進，觀現煖法，展轉相教，從出入息生於煖法，從於煖法生於頂法，以信係念三寶功德聚等，勝過前觀。

> 「では、この暖法はどのように生じるのか。どのように四つの聖なる真理を観じるのか。 諸天の子らよ、いわゆる苦の聖なる真理とは、因縁によって存在するがゆえに無常であり、壊れゆくがゆえに苦であり、人を離れるがゆえに空であり、自在ではないがゆえに無我である。このように四つの分別をもって、苦の聖なる真理を観じる。 修行者は苦の聖なる真理を観じ終えたなら、次に集の聖なる真理を四つの分別で観じる。どのような分別か。すなわち、行が相続して転ずるがゆえに「集」、相似した果が諸々の生存に流転するがゆえに「因」、すべての性質が生存に流転するがゆえに「性」、勢力が相似せず相続して縁となるがゆえに「縁」である。 修行者はさらに、苦の滅びの聖なる真理を四つの分別で観じる。諸天の子らよ、どのように修行者は苦の滅びの聖なる真理を分別して修行するのか。すべての衰えや悩みを捨てるがゆえに「捨」、煩悩の火を滅し離れるがゆえに「滅」、すべての法において第一に寂滅しているがゆえに「寂」、清らかな法が生死を超え出るがゆえに「出」である。 修行者はさらに、道の聖なる真理を四つの分別で観じる。諸天の子らよ、どのように修行者は分別して観察するのか。すなわち、退かない境地を得るがゆえに「道」、道が顛倒していないがゆえに「順」、すべての聖人が住する法であるがゆえに「住」、障りなく生死の衰えや悩みを断ち除いて世間を超え出るがゆえに「出」である。 これが十六種の修行の法であり、私はすでに説いた。汝ら天の衆は、努め励み精進し、現前の暖法を観じよ。互いに教え伝え合い、出息入息から暖法を生じ、暖法から頂法を生じよ。信をもって三宝の功徳の集まりなどを念じ、前の観を超えよ。」

「『如是行者云何觀察，名頂法道？如山頂上頂法增長，次第得生忍法善根。以得忍故，住第三處，名生現前，非現法忍。以現忍法，故名忍法。忍增長故，名世間第一法。於一念時，心心數法，名得世間第一法。次第得成須陀洹。如是之法，我自證之。若人能證如是之法，不見閻羅可畏使者，亦不怖畏。如是，諸天子！以不放逸故，得如是法。是故，諸天子莫得放逸。』

> 「このように修行する者は、どのように観察して『頂法の道』と名づけるのか。それは山の頂上のように、頂法が成長して、次第に忍法の善根を得るからである。忍を得たことにより、第三の処に住する。これを『生現前』と名づけ、『現法忍』ではない。現に忍の法が現れたから、これを忍法と名づける。忍が成長するから、これを『世間第一法』と名づける。一刹那の心のうちに、心と心の働き（心心数法）が、世間第一法を得る。そうして次第に須陀洹を成就する。このような法を、私は自ら悟った。もし人がこのような法を悟り得るならば、閻魔の恐ろしい使者を見ることもなく、また恐れることもない。このように、天子たちよ！放逸（油断）しないことによって、このような法を得るのである。ゆえに、天子たちよ、放逸であってはならない。」

「爾時，釋迦天王而說頌曰：

> その時、忉利天の王・帝釈天が、次のように詩句（偈）を唱えました。

「『若於出入息，善知十六斷，暖法及頂相，忍法逆順觀。知世第一法，次第知真諦，知次第正法，不失於善道。解脫於三結，破壞八種有，勇猛斷惡道，故名須陀洹。有漏不善法，決定行惡道；流趣於涅槃，故名須陀洹。』

> 「もし出入の息について、十六の断じ方をよく知り、 暖法や頂相、忍法や順逆の観察を知り、 世第一法を知り、 次第に真諦を悟り、 正しい法を順に知れば、 善道を失うことはない。 三つの結び目から解き放たれ、 八種の有を打ち破り、 勇んで悪道を断つゆえに、 これを須陀洹（すだおん）と名づける。 煩悩を伴う不善の法は、 必ず悪道へと導くものであり、 涅槃へと流れゆくその道を、 須陀洹と名づけるのである。」

「爾時，天帝釋說此偈已，告諸天眾：『如是十六種念阿那般那，我已具說，汝當思惟。此道寂滅，入涅槃城，無所怖畏，一切聖人之所愛念，是故汝等應當決定修行此道。若汝畏於閻羅使者，應當次第憶念如是阿那般那十六之行。

> その時、天帝のシャクラがこの偈を説き終えて、天の衆に告げました。「このように十六種類のアーナーパーナ（出入息念）について、私はすでに詳しく説きました。あなたがたはこれをよく思惟しなさい。この道は静かであり、涅槃の都に入る道であって、何の恐れもなく、すべての聖者が愛し喜ぶところです。ですからあなたがたは、この道を必ず修行しなさい。もしあなたがたが閻魔の使いを恐れるなら、この十六のアーナーパーナの行法を順に心に念じなさい。」

「『復次，諸天子！有十七種中陰有法，汝當係念行寂滅道。若天、若人念此道者，終不畏於閻羅使者之所加害。何等十七中陰有耶？所謂死時見於色相。若人中死，生於天上，則見樂相。見中陰有猶如白㲲，垂垂欲墮，細軟白淨，見已歡喜，顏色怡悅。臨命終時，復見園林，甚可愛樂，蓮花池水亦皆可愛，河亦可愛，林亦可愛，次第聞諸歌舞戲笑，次聞諸香，一切愛樂無量種物和合細觸。如是次第，即生天上，以善業故，現得天樂。得此樂已，含笑怡悅，顏色清淨，親族兄弟悲啼號泣，以善相故不聞不見，心亦不念。以善業故，臨命終時，於中陰有，大樂成就。初生樂處，天身相似，天眾相似，如是之相生處相似，如印所印，亦如一切天眾色相，亦如欲界六天受樂，亦如遊行境界相似，觸亦相似，天色相似。又住中陰，見諸天中生處勝故，即生心取，愛境界故，即受天身，是則名曰初中陰有。

> 「また、諸天の皆さまよ。十七種の中陰（中有）の法というものがあります。皆さまはこれを心に留めて、静寂の境地に入る道を実践されなさい。天の人も、人の身でも、この道を念ずる者は、決して閻魔の使いに害されることを恐れることはありません。 その十七の中陰とは何でしょうか。すなわち、死ぬ際に様々な色や形を目にすることです。例えば、人がこの世で死んで天に生まれ変わる場合、楽しい相（すがた）を見ます。中陰の姿は、まるで白い布が垂れ下がり、今にも落ちそうで、しかも柔らかく白く清らかなもののように見えます。それを見て、心は喜びに満ち、顔色は晴れやかになります。命の終わりに近づくと、さらに美しい庭園、愛らしい蓮の池や川、林を次々と目にし、歌や舞、笑い声を聞き、様々な香りを嗅ぎます。そして、無数の心地よい触れ合いを感じます。 こうした順を追って、善い行いの果報により、すぐに天に生まれ変わります。天の楽しみを味わい、微笑み、顔は清らかで穏やかです。たとえ、家族や兄弟が悲しみ泣き叫んでいても、その善い相のために、その声は聞こえず、心にも留めません。 つまり、善業の力により、命終の時、中陰において大きな喜びが実現するのです。初めて楽しみの場所に生まれる時、その体は天人の体と同じになり、仲間も天の衆のように変わります。こうした相は、まるで印鑑で押したように、すべての天人の姿や、欲界の六つの天での楽しみ、遊び歩く世界、触れ合い、天の色…すべてが同じになるのです。 また、中陰に留まりながら、天に生まれる場所が殊勝であるのを見て、心がそれを欲し、その境地を愛するがゆえに、天の身を受けます。これを、最初の中陰のあり方と名付けます。

「『復次，諸天子！云何第二中陰有耶？若閻浮提人中命終生欝單越，則見細軟赤㲲可愛之色。見之愛樂，即生貪心，以手捉持，舉手攬之如攬虛空，親族謂之兩手摸空。復有風吹：若此病人冬寒之時，暖風來吹，若暑熱時，涼風來吹，除其欝蒸，令心喜樂。以心緣故，不聞哀泣悲啼之聲。若其業動，其心亦動，聞其悲啼哭泣之聲，業風吹令生於異處。是故親族兄弟，臨命終時，悲泣啼哭甚為障礙。若不妨礙，生欝單越。中間次第有善相出：見青蓮花池，鵝鴨鴛鴦充滿池中，周遍具足，其人見之，即走往趣。如是中間生於善心，命終即見青蓮花池，入中遊戲。若於欝單越欲入母胎，從花池出，行於陸地，見於父母染欲和合。因於不淨，以顛倒見，見其父身乃是雄鵝，母為雌鵝。若男子生，自見其身作雄鵝身；若女人生，自見其身作雌鵝身。若男子生，於父生礙，於母愛染。生欝單越，是名第二中陰有也。

> 「さらに、天子たちよ。第二の中陰有とはどのようなものか。閻浮提（私たちの住む世界）で人が命を終え、欝単越（北の理想郷）に生まれ変わる場合、まず柔らかな赤い絹の、愛らしい色を目にする。それを見て愛で楽しみ、貪りの心が生じ、手を伸ばして掴もうとする。まるで虚空を掴むように手を動かすので、親族は両手で空を撫でているように見る。また風が吹く。この病人が冬の寒い時には暖かい風が、夏の暑い時には涼しい風が吹き、暑さやむせ返るような空気を除き、心を喜ばせる。この心の働きによって、哀しみ泣く声や嘆き悲しむ声は聞こえない。 もし業が動けば、その心も動き、悲しみ泣き叫ぶ声を聞く。業の風が吹き、別の場所に生まれさせる。それゆえ、親族や兄弟が臨終の時に、悲しみ嘆き叫ぶのは、大きな妨げとなるのである。 もし妨げがなければ、欝単越に生まれる。その間には、順を追って良い相が現れる。青い蓮の花の池、そこに満ち溢れる鵝、鴨、鴛鴦（おしどり）を見る。その人はそれを見て、走ってそこに向かう。このようにして、善い心が生じたまま命終し、すぐに青い蓮の池を見て、その中に入り遊戯する。 欝単越で母胎に入ろうとする時、その花の池から出て、陸地を歩き、父母が愛欲に和合しているのを見る。不浄なものを見るが、顛倒した見方によって、父の姿を雄の鵝（がちょう）と見、母を雌の鵝と見る。もし男子として生まれるなら、自らの身を雄の鵝の身と見る。もし女子として生まれるなら、自らの身を雌の鵝の身と見る。男子として生まれるなら、父に対して障害（嫌悪）の心を起こし、母に対して愛着の心を起こす。こうして欝単越に生まれる。これを第二の中陰有という。」

「『復次，諸天子！云何第三中陰有耶？若閻浮提中死，生瞿陀尼，則有相現。若臨終時，見有屋宅盡作黃色猶如金色，遍覆如雲。見虛空中有黃㲲相，舉手攬之，親族兄弟說言病人兩手攬空。是人爾時善有將盡，見身如牛，見諸牛群如夢所見。若男子受生，見其父母染愛和合而行不淨。自見人身，多有宅舍，見其父相猶如特牛，除去其父與母和合。瞿陀尼人男子生者，有如是相。若女人生瞿陀尼界，自見其身猶若乳牛，作如是念：「何故特牛與彼和合，不與我對？」如是念已，受女人身，是名瞿陀尼國女人受生。是名第三中陰有也。

> 「また、諸天の皆さん、第三の中陰とはどのようなものでしょうか。もし閻浮提で死んで瞿陀尼に生まれる場合、その兆候が現れます。臨終の際、家々がすべて黄金のように黄色く輝き、雲のように覆い尽くしているのが見えます。虚空に黄色の布のようなものが現れ、手を伸ばしてそれを掴もうとします。親族や兄弟は『病人が両手で虚空を掴んでいる』と言うでしょう。この時、その人の善なる縁は尽きようとしており、自分の体が牛のように見え、牛の群れが夢の中で見えるように現れます。もし男子として生まれる場合、父母が愛欲に染まって交合しているのを見ます。自分の体は多くの家屋に囲まれ、父の姿は雄牛のようであり、父を除けて母と交わります。瞿陀尼の男子が生まれる時には、このような兆候があります。もし女子として瞿陀尼の世界に生まれる場合、自分の体を乳牛のように見なし、『どうして雄牛は彼女と交わり、私と交わらないのか』と考えます。そう思った後に女人の身を受けます。これを瞿陀尼の国の女人の受生と言います。これが第三の中陰というものです。」

「『復次，諸天子！云何第四中陰有耶？若閻浮提人命終生於弗婆提界，則有相現。見青㲲相，一切皆青遍覆虛空。見其屋宅悉如虛空，恐青㲲墮，以手遮之，親族兄弟說言遮空。命終生於弗婆提國，見中陰身猶如馬形，自見其父猶如父馬，母如草馬，父母交會愛染和合。若男子受生，作如是念：「我當與此草馬和合。」若女人受生，自見己身如草馬形，作如是念：「如是父馬何故不與我共和合？」作是念已，即受女身。是名第四中陰有也。

> 「また、諸天の皆さま。第四の中陰についてどのように説かれているでしょうか。閻浮提の人が命を終えて弗婆提の世界に生まれる場合、次のような相が現れます。青い織物の相を見て、すべてが青く虚空を覆うのを目にします。自分の家や住まいがすべて虚空のように見え、青い織物が降ってくるのを怖れて手で遮ろうとします。親族や兄弟たちは『虚空を遮っている』と言うのです。命を終えて弗婆提の国に生まれる人は、中陰の身がまるで馬の形であるのを見ます。自分には父が雄馬のように、母が雌馬のように見えます。父母が交わり、愛欲が和合するのを目の当たりにします。もし男子として生を受けるなら、『私はこの雌馬と和合しよう』という思いを抱きます。もし女子として生を受けるなら、自分の身が雌馬の形であると見て、『この雄馬はどうして私と和合してくれないのだろうか』と考えます。こう思った時、すぐに女の身を受けます。これを第四の中陰がある状態といいます。」

「『復次，諸天子！云何第五中陰有耶？若欝單越人臨命終時，見上行相。諸天子！若大業大心，心業自在，生於天上。臨命終時，以手攬空，如一夢心，夢中所見種種好花，見之歡喜，又聞第一上妙之香，第一妙色皆悉具足第一莊嚴青黃赤白，第一香氣在其手中。是人見花，生於貪心，作如是念：「今見此樹，我當昇之。」作是念已，臨終生於中陰有中，見蓮花樹青黃赤白有無量種。復作是念：「我當昇樹。」作是念已，即上大樹，乃是昇於須彌寶山。昇此山已，見天世界花果莊嚴，作如是念：「我當遊行如是之處，我今至此，花果之林處處具足。」是名欝單越人下品受生。是名第五中陰有也。

> 「さらに、天の子らよ。第五の中陰有とは何か。それは、ウッタラクル人の臨終に際して、上方に向かう相を見ることである。天の子らよ。もし大きな業と大きな心を持ち、心の業が自在である者は、天上に生まれる。臨終の時、手で空をかき集めるように、夢のような心で、夢の中に見る様々な美しい花を見て喜び、また最上の妙なる香りを嗅ぐ。第一の美しい色、青・黄・赤・白の全てを備え、第一の香りがその手にある。この人は花を見て貪りの心を起こし、『今、この木を見る、私は登ろう』と考える。こう考えて、臨終に中陰有の中に生まれ、蓮華の木が青・黄・赤・白、無量の種類あるのを見る。また考えて、『私は木に登ろう』と思うと、すぐに大木に登り、それが須弥宝山に登ることとなる。この山に登ると、天の世界と花果の荘厳を見て、『私はこのような所を遊行しよう、今ここに来て、花果の林が至る所に満ちている』と考える。これをウッタラクル人の下品の受生という。これが第五の中陰有である。」

「『復次，諸天子！云何第六中陰有耶？若欝單越人，以中業故，臨命終時欲生天上，則有相現。臨命終時，見蓮花池甚可愛樂，眾峯莊嚴，一切皆香。昇此蓮花，昇已須臾，乘空而飛，猶如夢中。生於天上見妙蓮花，可愛勝妙最為第一，作如是念：「我今當至勝蓮花池，攝此蓮花。」是名欝單越人中品受生。是名第六中陰有也。

> 「さらに、天の皆さまよ。『第六の中陰有』とは何か。例えば、欝単越（うたんえつ）の人で、中くらいの善行によって、命終わろうとする時、天に生まれたいと思うなら、その兆しが現れる。命終わろうとする時、とても美しく楽しい蓮の池が見える。その池は多くの峰々に囲まれ、すべてが香り高い。その蓮の花に乗り、乗ったかと思うと、しばらくして空を飛ぶ。それはまるで夢の中のようである。天に生まれて、美しく、素晴らしく、この上なく優れた蓮の花を見て、こう思う『私は今、この素晴らしい蓮の池に至り、この蓮の花を手に入れよう』と。これを、欝単越の人の中くらいのものの受生と言う。これが第六の中陰有である。」

「『復次，諸天子！云何第七中陰有耶？欝單越人以勝業故，生三十三天、善法堂等三十三處。從欝單越臨命終時，見勝妙堂，莊嚴殊妙，其人爾時即昇勝殿。實非昇殿，乃昇虛空，至天世界。見其宮殿，心念即往，生此殿中以為天子。是名欝單越人命終之後生於天上，受上品生。是名第七中陰有也。

> 「また、諸天の皆さまよ。第七の中陰有とはどのようなものでしょうか。欝単越（鬱単越）の人は、その優れた業によって、三十三天の善法堂など三十三の場所に生まれます。欝単越で命終わろうとする時、その人は非常に美しく荘厳された勝れた御殿を見ます。その時、その人はその勝れた殿に上るように感じますが、実際には殿に上るのではなく、虚空に上り、天の世界に至ります。そして、自分の宮殿を見ると、心でそこに行きたいと念じ、その瞬間にその殿の中に天子として生まれます。これが、欝単越の人が命終わった後に天上に生まれ、上等の生まれを受ける姿です。これが第七の中陰有と呼ばれるものです。

「『復次，諸天子！云何名曰第八中陰有道相續？若欝單越人臨命終時，則有相現。諸天子！其人見於園林行列遊戲之處，香潔可愛，聞之悅樂，不多苦惱。無苦惱故，其心不濁，以清淨心捨其壽命，受中陰身。見天宮殿，作如是念：「我當昇此宮殿遊戲。」作是念已，即昇宮殿，見諸天眾遊空而行，或走或住山峯之中，或身相觸，處處遊戲。住於中陰，自見其身，昇於天上猶如夢中。三十三天勝妙可愛，一切五欲皆悉具足，作如是念：「我今當至如是之處。」作是念已，即生天上，取因緣有，如是有分，有上中下。生天上已，見於種種殊勝園林，悕望欲得，從欝單越死，生此天中。如是一切欝單越人生此天已，餘業意生，樂於欲樂，貪五欲境，歌舞遊戲受愛欲樂，憙遊山峯多受欲樂，愛一切欲。何以故？由前習故，愛習增長。如是，諸天子！是名欝單越人命終生天，生此天處熏習遊戲及死時相。是名第八中陰有也。

> 「さらに、諸天の皆さま。第八の中陰（中有）が道によって相続するとはどのようなものか。もしも欝単越（北倶廬州）の人が命終の時に臨むと、ある相が現れます。諸天の皆さま。その人は、林や園が整然と並び、遊戯の場所があるのを見ます。そこは香り清らかで愛らしく、聞くと楽しさが涌き、あまり苦しみはありません。苦しみがないため、その心は濁らず、清らかな心で寿命を捨て、中陰の身を受けます。そして天の宮殿を見て、『私はこの宮殿に昇って遊戯しよう』と念じます。この念を起こしたならば、すぐに宮殿に昇り、大勢の天人が虚空を行き交い、あるいは走り、あるいは山の峰に留まり、あるいは身を触れ合い、様々な場所で遊戯するのを見ます。中陰に留まりながら、自らの身が天上に昇る様を、まるで夢の中のように見ます。三十三天は勝れて妙で愛らしく、あらゆる五欲がすべて具わっています。『私は今、まさにこのような場所に行くべきだ』と念じます。この念を起こしたならば、すぐに天上に生まれます。因縁を取って有となること、このように有の部分があり、上・中・下があります。天上に生まれた後、様々な勝れた園林を見て、それを望み求め、欝単越から死してこの天に生まれます。このように、すべての欝単越の人がこの天に生まれた後、残りの業によって意（心）が生じ、欲の楽を楽しみ、五欲の境に貪り、歌舞遊戯によって愛欲の楽を受け、山の峰に遊ぶことを好み、多くの欲の楽を受け、すべての欲を愛します。なぜか。過去の習慣によるからです。愛する習慣が増長するのです。このように、諸天の皆さま。これを欝単越の人が命終して天に生まれ、この天処に生まれて遊戯に熏習し、及び死時の相と言います。これが第八の中陰の有です。」

「『復次，諸天子！云何第九中陰有耶？若瞿陀尼人命終生天，有二種業。何等為二？一者餘業；二者生業。生於天上，其人云何中陰受生？臨命終時，則有相生。現報將盡，或中陰有，則有相生，動亂如夢。諸天子！瞿陀尼人臨命終時，以善業故，垂捨命時，氣不咽濁，脈不斷壞，諸根清淨。于時次第見大池水如毘琉璃，入池欲渡，其水調適不冷不熱，洋洋而流浮至彼岸，如是如是近受生處。既至彼岸，見諸天女第一端正，種種莊嚴，戲笑歌舞。其人見已，欲心親近，前抱女人，即時生天，受天快樂。如夢中陰即時滅壞，無量亂心，生已即覺，見眾妙色，受勝妙身。是名第九中陰有也。瞿陀尼人生有三品——上、中、下業，同一光明、等一中陰、等同一見、同一生行，一切相似，不如欝單越人三種受生差別相也。

> 「また、諸天の王子たちよ。第九の中陰有とは何か。それは、西方の瞿陀尼洲（西牛貨洲）の者が命終えて天に生まれる場合である。この者には二種の業がある。何が二つか。第一に余業、第二に生業である。天に生まれる時、その者はどのように中陰で受生するのか。命終の際に、相が現れる。現世の報いが尽きようとする時、あるいは中陰有において、相が生じ、夢のように心は乱れ動くのだ。諸天の王子たちよ。瞿陀尼洲の者は、命終の際に、善業のゆえに、命が尽きようとする時、息が濁らず、脈は絶えず、諸根は清らかである。その時、次第に大きな池の水が瑠璃のように見え、その池に入って渡ろうとする。その水は程よく冷たくも熱くもなく、ゆったりと流れて彼岸に浮かんで行く。こうして次第に受生の場所に近づく。彼岸に至ると、第一に端正で、様々な荘厳を身にまとい、戯れ笑い歌い踊る天女たちを見る。その者、見て欲心を起こし親しもうとして、女人に抱きつく。すると即座に天に生まれ、天の楽しみを受ける。夢のような中陰はその時に滅し壊れ、無量の乱心は生じてすぐに覚める。この者は、多くの妙なる色を見、勝れた妙なる身を受ける。これを第九中陰有という。瞿陀尼洲の者には上・中・下の三品の業があるが、同じ光明、同じ中陰、同じ見、同じ生行であり、すべて相似ていて、北の欝単越洲（北倶盧洲）の者が三種に受生の差別があるようではない。」

「『復次，諸天子！云何名曰第十中陰有也？若弗婆提人臨命終時，見於死相。見自業相或見他業，或見殿堂殊勝幢幡，欄楯莊嚴，於中陰有心生歡喜，周遍遊戲，欲近受生。於殿堂外，見業相似，見眾婇女與諸丈夫歌頌娛樂，第一莊嚴，歌舞戲笑。於中陰有作如是念：「我當出殿見諸婇女及諸丈夫，共其遊戲歌舞戲笑。何以故？以諸婇女與諸丈夫第一遊戲歌舞戲笑。」念已即出，入遊戲眾。爾時其人自知我入，猶如睡覺，即生天上。是名第十中陰有也。

> 「また、天子たちよ。第十の中陰のあり方とは、どのようなものか。東勝身洲（ふばだいく）の人が命終わろうとする時、死の相を見る。自らの業の相を見、あるいは他者の業の相を見る。あるいは、見事な殿堂や勝利の旗、飾り立てられた欄干を見る。中陰において心に歓喜が生じ、あちこちで遊び楽しみ、生まれ変わることに近づこうとする。殿堂の外では、似たような業の相を見、多くの天女たちと男性たちが歌い舞い楽しみ、最も優れた荘厳さで歌舞音曲に興じているのを目にする。 中陰の身でありながら、こう思う――『私は殿堂を出て、あの天女たちや男性たちのもとへ行き、共に遊び戯れ、歌舞音曲に興じよう。なぜなら、あの天女たちと男性たちと共に、最高の遊戯と歌舞音曲を楽しみたいからだ』と。そう思って外へ出ると、遊び興じる群れの中に入る。その時、その人は自ら入ったことを自覚する。それはまるで眠りから覚めたかのようであり、そのまま天上に生まれる。これが第十の中陰のあり方である。」

「『是名四天下中陰有也。如是光明中陰有生，我微細知，餘不能了。諸餘外道莫能知者，雖世間法，無人能見。

> これが「四天下の中陰有」というものです。このように光明の中陰有が生じることを、私は微細に知ることができるが、他の者には了知できません。他の外道たちは知ることもできず、世間の法であっても、だれも見ることができないのです。

「『復次，諸天子！云何名曰第十一中陰有耶？諸餓鬼等，以不善業生餓鬼中，惡業既盡，受餘善業，本於餘道所作善業、可愛之業猶如父母，欲生天中，則有相現。云何盡有而心相現？諸天子！若餓鬼中死，欲生天上，於餓鬼中，飢渴燒身、嫉妬破壞，常貪飲食、常念漿水，但念飲食，餘無所知。命欲終時，不復起念，本念皆滅，其身無熱，柔軟清涼，身有長毛，遍身惡蟲皆悉墮落，面色清淨，涼風觸身。臨至命終，悉無飢渴，諸根淨潔。鵰鷲烏鵄諸惡禽獸常啄其眼，至臨終時，皆悉不近。見飲食河盈溢充滿，入中陰有，以前習故，雖見飲食，不飲不食，唯以目視，如人夢中見食，不飲不食；或如夢食，雖食不飽。如是雖見而未飽滿，唯生歡喜。見天可愛，如覺見色，心即生念，走往趣之，悕望欲往至於彼處，念已即趣，生於天上。是名十一中陰有也。

> 「さらに、天子たちよ。では第十一種の中陰有とは何か。諸々の餓鬼は、不善の業により餓鬼道に生まれる。その悪業が尽きると、残余の善業を受ける。元々別の道で行った善業、愛すべき業は、あたかも父母の如くである。彼らは天に生まれようとする時、その兆しが現れる。では、どのようにして有が尽き、心に兆しが現れるのか。天子たちよ。もし餓鬼道で死に、天に生まれようとするならば、餓鬼道においては、飢えと渇きに身を焼かれ、嫉妬に心を破壊され、常に飲食を貪り、常に水を思い浮かべ、ただ飲食のことだけを思い、他のことは何も知らない。寿命が終わろうとする時、もはや思いを起こさず、元の思いは全て消え去る。その身は熱さがなくなり、柔らかく清らかに冷える。身には長い毛が生え、全身の嫌な虫は全て落ちる。顔色は清らかになり、涼しい風が身に触れる。命終わりに臨んでも、飢えや渇きは全くなく、諸々の感覚器官は清らかになる。禿鷹や烏、鳶などの悪い鳥獣が常にその目をついばんでいたが、命終わりに臨む時は、全て近づかなくなる。飲食の川が溢れ満ちているのを見て、中陰有に入る。以前の習慣の故に、飲食を見ても、飲まず食わず、ただ目で見るのみである。まるで人が夢の中で食べ物を見て、飲まず食わずであるかのようであり、あるいは夢で食べても、食べても満たされないかのようである。このように見ても満たされず、ただ喜びを生じるのみである。天の愛すべきものを、目覚めて色を見るかのように見て、心にすぐに思いを生じ、走ってそこへ向かい、その場所へ行こうと望み願う。そう思うとすぐに向かい、天に生まれる。これを第十一種の中陰有という。」

「『復次，諸天子！云何名曰第十二中陰有耶？希有之業，以愚癡故受畜生身，無量種類多癡因緣。業成熟故，餘業受於無量百千億生死之身。業成就故，墮於地獄、餓鬼、畜生，於無量劫所作之業輪轉世間，不可窮盡、不可思量。無始邪曲，不作利益，惱害眾生，輪轉無窮。於畜生中，無量種類、無量種食、無量諸道、無量種身、無量種地，有無量種諸心種子造無量業，或教他不信，作諸惡業。受報既盡，猶如渧於大海之水，令海枯竭。業海生渧，畜生業盡，以餘善業，畜生中死，生二天處——或生四天王天或生三十三天。於畜生惡道苦報欲盡，將得脫身，則有相現，其相所緣有無量種，不可具說。畜生中死，生於天上，甚為希有，非謂餓鬼、地獄中也。何以故？以癡心故，多作惡業墮畜生中，於一世中所作惡業，百千億生受之不盡，或於一劫至百千劫生死流轉，從生至生，業鎖所繫，流轉世間，受畜生身。是故寧墮地獄、餓鬼，不受愚癡畜生之身。以是因緣，畜生之中，命終生天，甚為難有，非地獄也。如是畜生苦處臨終見光明現，以餘善業，癡心薄少，本智少增，智心漸利。臨命終時，見光明相，若見山谷、見諸樹林、種種流水、種種河池及見飲食。若憶念見世間智故，見有樂處，或在山中或在林間、或憶飲食或見樂處，即走往趣，如夢所見，走往趣之，如是如是近受生處。即受天身，如從夢覺，見眾色相，於百千億受生之處，悉皆未曾見如是色，見已歡喜發希有心。此何等物？云何有此？何因有此？以不習故、諸識鈍故，是故生於希有之心：「我當至此盡攝此物。」餘善業故，起如是心，以此因緣生如是意，生此念時，即生天上。是名十二中陰有也，第一難有、第一希有、第一難知。戲弄之中，業最第一。種種業處，心大幻師遊戲諸道生死之處，戲弄眾生。』「爾時，諸天聞天帝釋說此語已，心生深信而說頌曰：

> 「また、諸天の皆さんよ。第十二の中陰有とは何か。稀有なる業であり、愚かさゆえに畜生の身を受け、無数の種類が多くの愚かさの因縁を持つ。業が成熟した結果、他の業によって無量百千億の生死の身を受ける。業が成就したゆえに、地獄・餓鬼・畜生に堕ち、無量の劫の間になした業は世間を輪廻し、尽きることなく、測り知ることもない。無始の昔より邪曲で、利益をなさず、衆生を悩ませ、輪廻は限りない。畜生の中には、無量の種類、無量の食べ物、無量の道、無量の身、無量の地があり、無量の種々の心の種子が無量の業を造る。あるいは他人を教えて信じさせず、諸々の悪業をなす。報いを受け終わることは、大海の水を一滴ずつ汲み干して海を涸れさせるようなもの。業の海から一滴ずつ取り除かれ、畜生の業が尽きると、残りの善業によって、畜生のうちに死して、二つの天処に生まれる――あるいは四天王天に、あるいは三十三天に生まれる。畜生の悪道の苦報が尽きようとし、やがて身を離れようとする時、相が現れる。その相が縁となるところには無量の種類があり、すべてを説き尽くすことはできない。畜生の中で死して天に生まれることは、極めて稀有である。餓鬼や地獄の場合はそうではない。なぜか。愚かな心ゆえに多くの悪業をなして畜生に堕ちれば、一世になした悪業は、百千億の生を受けても尽きることがなく、あるいは一劫から百千劫にわたって生死流転し、生から生へと業の鎖に縛られ、世間を流転して畜生の身を受けるからである。それゆえ、むしろ地獄や餓鬼に堕ちる方がましであり、愚かな畜生の身を受けるべきではない。この因縁により、畜生の中で命終して天に生まれることは、極めて難しく、稀有であり、地獄の場合とは異なる。このように畜生の苦しみの場所で、臨終に光明の相が現れる。残りの善業により、愚かな心は薄くなり、本来の智慧が少し増し、智慧の心が次第に鋭くなる。命終わらんとする時、光明の相を見る。あるいは山谷、林々、種々の流水、種々の河や池、そして飲食を見る。もし世間の智慧を憶念して見るゆえに、楽しい場所を見る。あるいは山中で、あるいは林間で、あるいは飲食を憶え、あるいは楽しい場所を見て、そこへ走り寄る。夢の中で見るように、走り寄っていく。このようにして受生の場所に近づく。すなわち天の身を受ける。夢から覚めたように、多くの色の相を見る。百千億の受生の場所において、このような色を見たことはかつてない。それを見て歓喜し、稀有の心を起こす。「これは何というものか。なぜここにあるのか。何の因縁でここにあるのか」。慣れ親しんでいないため、諸々の識が鈍いため、それゆえ稀有の心を生じる。「私はここに行って、このすべてのものを我が物にしよう」と。残余の善業により、このような心を起こし、この因縁によりこのような思いを生じ、この念を生じる時、すなわち天に生まれる。これを十二の中陰有という。第一に難有、第一に稀有、第一に難知である。戯れの中でも、業が最も第一である。種々の業の場所で、心という大いなる幻師が、諸々の道の生死の場所で戯れ、衆生を弄ぶのである。」 その時、諸天は天帝釈がこの言葉を説くのを聞いて、深い信心を生じ、偈を唱えて言った。

「『天王如父母，利益天世間，天王利我等，此世及未來。為我等說法，斷於放逸心，我等必當得，盡苦涅槃道。以現業果報，為我等宣說，以生死之法，示世令解知。天王見實諦，饒益於我等，以我愚癡故，示之以智慧。貪心愛婇女，常求於欲樂，天王示我等，生死之因緣，王如盲者導，病者大良藥，演說正法道，利益諸天眾。天王既如是，說法以利益，令閻羅獄卒，悉滅不復現。』

> 「天王は父母のように、天の世の中を利益する。 天王は我らを利益する、この世と未来において。 我らのために法を説き、放逸の心を断たせる。 我らは必ずや得るであろう、苦を尽くす涅槃の道。 現在の業の果報をもって、我らのために宣説し、 生死の法をもって、世に示して理解させる。 天王は真実の諦を見て、我らを利益する。 我らは愚かであるがゆえに、智慧を示される。 貪りの心で愛欲の女に魅かれ、常に欲の楽しみを求める。 天王は我らに示す、生死の因縁を。 王は盲者の導き手、病者にとっての大いなる良薬。 正しい法の道を演説し、諸々の天の衆を利益する。 天王がこのように法を説いて利益し、 閻羅の獄卒をことごとく滅ぼし、再び現れなくする。」

「爾時諸天眾說此偈已，爾時天帝釋復告諸天子：『云何名曰第十三中陰有？道地獄眾生希有難得生於天上。餘業因緣、善因緣故。如業成熟，第一清涼、第一利益。先墮地獄，善為出緣，從於無量苦惱之中既得脫已，生受無量快樂之地。地獄眾生者，所謂活地獄、黑繩地獄、眾合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱大地獄等，及眾隔處、受大苦處、第一可怖毛竪之處，焰火熾然周匝圍遶。是地獄人以業盡故，將欲得脫，從此地獄臨命終時，則有相現。云何中陰有生於天上？業因緣故，捨於大苦，受第一樂。諸天子！地獄之人惡業盡故，命欲終時，若諸獄卒擲置鑊中猶如水沫，滅已不生。若以棒打，隨打即死，不復更生。若置鐵函，置已即死，不復更生。若置灰河，入已消融，不復更生。若鐵棒打，隨打即死，滅已不生。若鐵嘴鳥、鐵烏食噉，食已不生。若師子虎狼種種惡獸取之食噉，食已不生。是地獄人惡業既盡，命終之後，不復見於閻羅獄卒。何以故？以彼非是眾生數故，如油炷盡則無有燈，業盡亦爾，不復見於閻羅獄卒。如閻浮提日光既現，則無闇冥。惡業盡時，閻羅獄卒亦復如是。惡口惡眼如眾生相，可畏之色皆悉磨滅，如破畫壁，畫亦隨滅，惡業畫壁亦復如是，不復見於閻羅獄卒可畏之色。以如來說：「閻羅獄卒非眾生數故，是名地獄。」眾生得脫地獄，生於天上。』

> そのとき、天の神々がこの偈を唱え終えると、天帝釈が再び天の神々に告げました。「第十三の中陰有とはどのようなものか。地獄の生きとし生けるものの中で、天に生まれることは稀であり、実に難しい。過去の行いの縁、善い因縁によって、その行いが熟した時、最上の清涼、最上の益を得る。まず地獄に堕ちたものが、善なる縁によって抜け出し、無量の苦しみから脱して、今度は無量の楽しみの場所に生まれるのだ。地獄の生きとし生けるものとは、すなわち活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱大地獄などであり、また様々に隔てられた場所、大いなる苦しみを受ける場所、最も恐ろしく毛の逆立つ場所、炎が燃え盛り周囲を囲む場所である。この地獄の者は、業が尽きようとする時、そこから脱しようとして、この地獄で臨終の時に、ある相が現れる。どのようにして中陰有が天に生まれるのか。業の因縁によって、大いなる苦しみを捨て、最上の楽しみを受けるのだ。天の神々よ！地獄の者は、悪い業が尽きて、命が終わろうとする時、もしも獄卒たちがその者を釜の中に投げ入れても、それは水の泡のように消え、二度と生まれない。もし棒で打たれても、打たれたとたんに死に、再び生まれることはない。もし鉄の箱に入れられても、入れられたとたんに死に、再び生まれることはない。もし灰の河に入れられても、その中で溶け去り、再び生まれない。もし鉄の棒で打たれても、打たれたとたんに死に、消えて生まれない。もし鉄の嘴の鳥や鉄の烏に食べられても、食べられた後は生まれない。もし獅子や虎、狼などの様々な猛獣に捕らえられ食べられても、食べられた後は生まれない。この地獄の者は、悪い業がすでに尽き、命が終わった後には、もはや閻魔の獄卒を見ることはない。なぜか。彼らは生きとし生けるものの数ではないからだ。油の芯が尽きれば灯りがなくなるように、業が尽きるのも同じで、もはや閻魔の獄卒を見ることはない。例えば、閻浮提に日光が現れれば、闇がなくなるように、悪い業が尽きる時、閻魔の獄卒もまた同じである。悪口や恐ろしい目つきなど、生きとし生けるものの相として恐ろしい姿は、すべて消え去る。それは例えれば、描かれた壁が破れれば、絵もまた消えるように、悪い業の描かれた壁もまた同じで、もはや閻魔の獄卒の恐ろしい姿を見ることはない。如来が説かれた通り、『閻魔の獄卒は生きとし生けるものの数ではないから、これを地獄という』と。このようにして、地獄の者は解脱し、天に生まれるのである。」

「爾時，天帝釋以偈頌曰：

> その時、天帝釈が詩句（偈）でこう語りました。

「『如人值怨家，得脫無眾難，如得多知識，一切方便利。既得脫惡業，大力獄卒處，今已得善業，生於天世間。其人生天上，無量諸莊嚴，常受於天樂，乃至善業盡。其人不自在，業盡還退沒，如燈油炷盡，光明亦隨滅。業風之所吹，從上而退下，風力之所轉，流轉於世間。若人有智慧，不為業所縛，諸業不能縛，不流轉生死。如以藕根絲，欲繫須彌山，其人渡曠野，無憂及衰惱；智者不流轉，猶如須彌山。』

> 「あたかも怨みを持つ者に遭遇しても、そこから逃れて苦しみのない状態を得るように、また多くの良き知識を得て、あらゆる面で助けられるように。 悪業と力強い獄卒の場所から解脱したなら、今や善業を得て、天の世界に生まれる。 その人は天に生まれ、無数の荘厳を備え、常に天の楽しみを受け、善業が尽きるまでそれを味わう。 しかしその人は自由ではなく、業が尽きれば退き落ちてしまう。あたかも灯明の油と芯が尽きれば、光もまた消え去るように。 業風に吹かれて、天上から退き下り、風の力に転じられて、世の中を流転する。 もし人が智慧を備えているなら、業に縛られることはない。諸々の業は彼を縛れず、生死流転することがない。 例えば蓮根の糸で須弥山を縛ろうとするようなものである。 その人は荒野を渡り、憂いや衰えの悩みがない。 智者は流転しない、まるで須弥山のように。」

「爾時，天帝釋為諸天眾說是偈已，復說地獄中陰有相。『本所不見，忽於虛空中見有第一歌舞戲笑，香風觸身，受第一樂。眾妙音聲謂樂器音種種音聲，聞如是等風吹樂音。聞可愛香。見妙色相——園林花池，聞眾妙音。自見身相忽生妙色，威德第一。見身香潔花鬘莊嚴，一切無礙。見諸虛空清淨無垢，星宿滿空。聞河流聲，鵝鴨鴛鴦出種種音，皆悉聞知。如是中陰聞當生處有諸音樂，琴瑟箜篌種種樂音，先於無量百千億歲未曾得生。如是歡喜，遍生善相，如自見身在於兄弟親族知識，念念之中生大歡喜。欲近生有，或生三十三天或生四天王天。至此天已，見眾園林及聞香氣，七寶蓮花，天子端正，作如是念：「我今當至如是之處。」念已即生，如是有分，取因緣有。如是眾生惡業既盡，從地獄出，於不可說大苦惱處命終，生於大樂之處，是名十三中陰有也。

> その時、天帝釈は天の者たちにこの偈を説き終えた後、さらに地獄における中有の相について語った。 「これまで見たことのない、虚空中に突如として、最高の舞踊や遊び戯れがあり、香風が身に触れ、この上ない喜びを味わう。様々な楽器の音や、風に運ばれてくる美しい音楽が聞こえる。愛らしい香りを嗅ぎ、素晴らしい色形――園林や花の池を目にし、様々な美しい音を聞く。自らの姿が忽ち妙なる色に変じ、威徳が最高となるのを見る。身は香り清らかで花の飾りに彩られ、すべてに障りがない。虚空中に清らかで汚れのない、星々が満ちた夜空を見渡す。川のせせらぎ、鵝や鴨、鴛鴦（おしどり）が様々な声をあげる音が、すべて聞こえてくる。 このように、中有の者は、生まれるべき場所に音楽――琴、瑟、箜篌などの様々な楽の音があるのを聞く。それは無量百千億年の間、一度も聞いたことのないものである。こうして歓喜が涌き、あまねく良い相が現れる。それは、ちょうど自らが兄弟や親族や知人の中にいるのを見るかのようであり、刹那ごとに大いなる喜びが生まれる。 生まれ出でんと欲し、あるいは三十三天に生まれ、あるいは四天王天に生まれる。その天に至れば、様々な園林や香りを目にし、七宝の蓮華や端正な天子たちを見て、こう思う『私は、今まさにこのような場所に行くべきなのだ』と。そう思った刹那に生まれ、そのような分け前として、因縁によって存在を得る。 このように、衆生は悪業が尽きると、地獄から出て、言葉にできないほどの大いなる苦しみの場所での命を終え、大いなる楽の場所に生まれる。これを十三番目の中有のあり方というのである。」

「『復次，諸天子！云何名曰第十四中陰有道相續？云何知耶？若人中死，還生人中，有何等相？云何悕望？其人死時，若生人中，則有相現，云何悕望？若生人中，於臨終時，見如是相。見大石山猶如影相在其身上，爾時其人作如是念：「此山或當墮我身上。」是故動手欲遮此山，兄弟親里見之，謂為觸於虛空。既見此已，又見此山猶如白㲲，即昇此㲲乃見赤㲲，次第臨終，復見光明，以少習故，臨終迷亂，見一切色如夢所見。以心迷故，見其父母愛欲和合，見之生念而起顛倒。若男子生，自見其身與母交會，謂父妨礙；若女人生，自見其身與父交會，謂母妨礙。當於爾時中陰則壞，生陰識起，次第緣生，如印所印，印壞文成。是名人中命終還生人中，是名十四中陰有也。

> 「さらに、諸天の皆さん、第十四の中陰（中有）において、道が相続するとはどのようなものを言うのでしょうか。また、それをどのようにして知るのでしょうか。 もし人が人間として死に、再び人間として生まれる場合、どのような相があるのでしょうか。また、どのような願望を持つのでしょうか。その人が死ぬ時、もし人間として生まれるならば、次のような相が現れます。 臨終の際、大きな石の山がまるで影のように自分の体の上にあるのを見ます。その時、その人は「この山が私の体に落ちてくるかもしれない」と考え、手を動かしてこの山を防ごうとします。親戚や兄弟はそれを見て、彼が虚空を触っているように見えます。この様子を見た後、さらにその山が白い毛氈のように見え、その毛氈に登ると赤い毛氈が見えます。そのまま次第に臨終を迎え、さらに光明を見ますが、わずかな習慣の力によって臨終の時に混乱し、あらゆる色を夢の中で見るかのように見ます。 心が迷っているため、父母が愛欲にふける姿を見て、それを見て心に執着が生じ、顛倒した見方をします。もし男性として生まれるなら、自分自身が母と交合しているのを見て、父が妨げになっていると考えます。もし女性として生まれるなら、自分自身が父と交合しているのを見て、母が妨げになっていると考えます。 その時、中陰（中有）は消滅し、生まれる時の識（認識）が生じます。次第に縁が生じることは、印鑑で印を押すようなもので、印が壊れると文字が現れるようなものです。これがすなわち、人間として命終し、再び人間として生まれることを示しています。これが第十四の中陰（中有）のあり方なのです。」

「『復次，諸天子！云何名第十五中陰有道相續？天中命終，還生天上，則無苦惱。如餘天子命終之時，愛別離苦，墮於地獄、餓鬼、畜生。如此天子不失己身莊嚴之具，亦無餘天坐其本處，不見種種苦惱之相，所坐之處無餘天生，此天命終生於勝天。若四天處，命終之後生三十三天。可愛勝相，聞眾歌音先所未聞，見五欲境皆悉勝妙。次第命終。見中陰有，第一天女種種音聲，手執蓮花，色相殊勝，河池流水園林勝妙，昔所未覩如夢所見。是中陰有見如是事。若近生有，如從眠覺，見於正色。見五欲功德境界具足，本所未見，嗚呼歎言：「如是希有，昔所未見！我當往至如是之處。」念已即往生於天中。是名第十五中陰有相續道也。

> 「さらに、諸々の天子たちよ。どのようにして第十五の中陰（中有）の道が継続するのか。天において命を終え、再び天に生まれる場合には、苦しみはありません。他の天子たちが命終の時に、愛する者との別離の苦しみを味わい、地獄・餓鬼・畜生に堕ちるのとは異なります。そのような天子は、自分の身体を飾る道具を失うこともなく、他の天人がその座に坐ることもありません。また、様々な苦しみの相を見ることもなく、自分の坐していた場所に他の天人が生まれることもありません。この天人は命を終えた後、より勝れた天に生まれます。例えば、四天王天で命を終えた後、三十三天に生まれる場合です。愛らしく勝れた相を現し、これまで聞いたことのない天女たちの歌声を聞き、見たことのない五欲の境地をすべて、勝れ妙なるものとして体験します。次第に命終の時を迎えると、中陰の有における最初の天女が、様々な音声を奏で、手に蓮華を持ち、色相が殊勝で、河や池の流れる水、林や園林が勝れ妙なる、昔見たことのない夢に見るような情景を目にします。この中陰の有において、このような事を観るのです。そして、生まれようとする時が近づくと、眠りから覚めたように、はっきりとした姿を認めます。五欲の功徳の境界が完全に備わり、今まで見たことのないものを見て、歎じて言います。「ああ、このような希有なことは、昔は見たことがなかった！私はこのような場所に行こう」と。こう念じて、すぐに天の中に生まれます。これが第十五の中陰の有が相続する道と呼ばれるものです。」

「『復次，諸天子！云何名曰第十六中陰有道相續？云何有耶？若從上天退生下天，見眾蓮花園林流池皆亦不如，既見此已，飢渴苦惱，渴仰欲得，即往彼生。如是雖同生天，二種陰有，二種相生。是名第十六中陰有相續道也。

> 「さらに、諸々の天子よ。第十六の中陰が、どのようにして道(次の生へ向かう道)を継続していくのでしょうか。どのような道があるのでしょうか。もし、上の天から退転して下の天に生まれる場合、そこにある多くの蓮華、園林、流れる池などが、自分がいた所よりもすべて優れていないのを見ます。それを見て、飢えや渇きの苦しみを感じ、強い憧れを抱いて、その下の天へと生まれていくのです。このように、同じ天に生まれながら、二種の中陰のあり方、二種の生まれ方があるのです。これを第十六の中陰の道の継続というのです。」

「『復次，諸天子！云何名曰第十七中陰有道相續？若弗婆提人生瞿陀尼有何等相？瞿陀尼人生弗婆提復有何相？諸天子！如是二天下人彼此互生，皆以一相。臨命終時，見黑闇窟，於此窟中有赤電光，下垂如幡，或赤或白。其人見之，以手攬捉，是人爾時現陰即滅，以手接幡，次第緣幡入此窟中，受中陰身。近於生陰，見受生法，亦如前說。或見二牛或見二馬愛染交會，即生欲心，既生欲心，即受生陰。如是，諸天子！是名第十七中陰有也。

> 「また、天の諸子よ。第十七の中陰のあり方が、どのように次の生へと続いていくのかを説こう。 もし弗婆提（東勝身洲）の人が瞿陀尼（西牛貨洲）に生まれ変わろうとする時、あるいは瞿陀尼の人が弗婆提に生まれ変わろうとする時、それぞれどのような様相があるのか。 天の諸子よ。これら二つの洲の人が互いに生まれ変わる場合、その様相は共通している。すなわち、命終わりの時に、暗い穴の中に赤い電光が垂れ下がり、まるで旗のようであるのを見る。その光は赤かったり白かったりする。その人はそれを見て、手でそれを掴もうとする。その瞬間、現世の陰は消え去り、その手で旗に触れ、旗を頼りにその穴の中に入り、中陰の身を受ける。やがて生まれるべき陰に近づくと、受胎の様相を見る。これも先に説いた通りである。すなわち、二頭の牛や二頭の馬が、愛欲に染まって交わるのを見て、欲心が生じる。欲心が生じると、すぐに受胎する。これが、天の諸子よ。第十七の中陰のあり方である。」

「『汝等當知！既知此法，勿得放逸。何以故？放逸之人不得脫於生老病死，於世間法不得利益。如是放逸，永無安樂；若欲脫苦，當自勉力，捨於放逸。若天、若人有智慧者，應捨放逸。天子當知！是名十七種中陰有道相續不斷，汝等應當捨諸放逸。諸天子！如是十七中陰有道相續，汝等應當思惟觀察。既觀察已，則如實知，如實知已，勤修精進。

> 「あなたがたは知るべきです。この法を知ったならば、放逸であってはなりません。なぜならば、放逸な人は生・老・病・死から逃れられず、世間の法においても利益を得ることができないからです。このように放逸であれば、永遠に安楽はありません。もし苦しみから脱したいと望むなら、自ら努力して放逸を捨てなさい。天であれ人であれ、智慧ある者は放逸を捨てるべきです。天子たちよ、これを十七種の中陰の道が絶えず続く相というのです。あなたがたはあらゆる放逸を捨てなさい。諸天子よ、このように十七の中陰の道には絶え間ない相続があります。あなたがたはこれについてよく考え、観察しなさい。観察したならば、あるがままに知り、あるがままに知ったならば、熱心に精進しなさい。

「『復次，諸天子！於二十法中從一漸增，已為汝等次第宣說十七中陰有道相續。今為汝等，說十八界。何等十八？眾生無量，信解不同，無量種性，怖畏三過。三聚眾生，三種自在，微細信解。種種所作、種種性、種種業、種種道、種種苦樂、種種色、種種增上。一切眾生心界之性，心界廣多，身體各異，如是無量眾生心界，總略麁數有十八惡。心過所使，以廣心界，故有地獄、餓鬼、畜生、天、人輪轉。總說諸法，十八所攝。初界性中，欲為增上，天之與人，欲心增上。一切鬼女及畜生女、能變化者，慢心增上、瞋恚增上。以瞋心故，欲心薄少，是則名曰畜生，非人初界性也。於畜生中，復有多欲，欲心增上，謂孔雀鳥、俱翅羅鳥、鳩鴿鷄雀、鵝鴨鴛鴦、眾蜂魚等、迦陵頻伽鳥。其性多欲，是名上欲。

> 「また、諸天の皆さんよ。二十の法を、一から順に増やしながら、あなたがたに次第に説き明かし、十七の中陰には道の連続があることを示してきました。今、あなたがたのために、十八の領域（十八界）について説きましょう。その十八とは何か。 衆生は無数であり、その信じ理解することも同じではなく、無数の性質があり、三つの過ち（三過）を恐れています。三つの集まりの衆生（三聚）、三つの自在、微細な信解、様々な行い、様々な性質、様々な業、様々な道、様々な苦楽、様々な姿、様々な増上があります。 すべての衆生の心の世界の性質は、心の世界が広く多く、身体もそれぞれ異なります。このような無数の衆生の心の世界を、大まかにまとめて数えれば、十八の悪があります。心の過ちに動かされ、広大な心の世界があるがゆえに、地獄・餓鬼・畜生・天・人と輪廻するのです。 すべての法を総合して言えば、これら十八の領域に収められます。最初の領域の性質においては、欲望が強く働きます。天と人は、欲望の心が強いのです。 すべての鬼女や畜生女、姿を変えることのできる者たちは、慢心が強く、また怒りの心も強いのです。怒りの心ゆえに、欲望の心は薄くなります。これを畜生といい、人間の最初の領域の性質ではありません。 しかし畜生の中にも、多くの欲望を持つもの、欲望の心が強いものがいます。それは孔雀、倶翅羅鳥、鳩、鳩、鳩、鶏、雀、鵞鳥、鴨、鴛鴦、多くの蜂や魚、迦陵頻伽鳥などです。その性質は多くの欲望を持つことから、これを上等の欲といいます。」

「『復次，諸天子！云何第二心性界也？於畜生中，何等畜生名為中欲？所謂猫狗猪牛、水牛駱駝、象馬騾驢、烏鵄雕鷲、鸜鵒鳥等，是名中欲。是名第二心性界也。

> 「さらに、諸天子よ。第二の心のあり方とは何か。畜生の中で、どのような生き物が中欲を持つと呼ばれるか。いわゆる猫、犬、豚、牛、水牛、らくだ、象、馬、らば、ろば、からす、とび、はげたか、鸚鵡などの鳥類である。これらを中欲と呼ぶ。これが第二の心のあり方である。」

「『復次，諸天子！云何第三心性界耶？於畜生中，何等畜生名下欲心？所謂師子虎兕、狼狗熊羆、豺豹狐狸、摩伽羅魚、俱賒耶魚、吉利斯摩羅魚、摩伽羅魚、屯頭摩羅魚。如是等類，時節行欲，非時不行，是名下欲。是名第三心性界也。

> 「さらに、天の皆さんよ。では第三の心の性質についてお話ししましょう。畜生の中でも、どのような生き物が『下欲』（欲の薄いもの）と呼ばれるのでしょうか。それは、獅子、虎、犀、狼、犬、熊、羆、豺（やまいぬ）、豹、狐、その他にマカラ魚、クシャ魚、キリスマラ魚、マカラ魚、トンマラ魚などの種類です。これらの生き物は、時節に応じて欲を行い、時節でなければ行いません。これが『下欲』と呼ばれるものです。これが第三の心の性質の世界なのです。」

「『諸天子！於畜生中有無量種、無量生處、無量名字，不可具說、不可數知。

> 諸天の皆さまよ、畜生道の中には無数の種類、無数の生まれる場所、無数の名前が存在します。それらを全て詳しく語ることや、数え上げることはできません。

「『復次，諸天子！云何第四心性界耶？於畜生中，何等畜生瞋心偏多，非欲心多？此第四界，所謂師子虎狼、狗蛇黃狖、兕豹熊羆、角鵄烏雕、失收摩羅及野猪等。如是眾生瞋心偏多，是名第四心性界也。

> 「さらに、諸天の皆さんよ。では第四の心性の境涯とは何か。畜生の中で、どのような生き物が怒りの心が特に多く、欲望の心が多くないのか。この第四の境涯とは、すなわち獅子や虎、狼、犬、蛇、黄狖（きちゅう）、犀（さい）、豹、熊、羆（ひぐま）、角鵄（つのとび）、烏（からす）、雕（わし）、鰐（わに）、そして猪（いのしし）などのことである。このような生き物たちは怒りの心が特に多い。これを第四の心性の境涯というのである。」

「『復次，諸天子！云何第五心性界耶？於畜生中，何等畜生名為中瞋？所謂牛馬水牛、迦陵頻伽鳥、娑林陀鳥、迦盧陀鳥、孔雀鷄雉及猫鼠等，中瞋恚性。是名第五心性界也。

> 「また、諸天の皆さま。第五の心のあり方とは、どのようなものでしょうか。 畜生き物の中で、中程度の怒りを持つ生き物とは何か。それは、牛、馬、水牛、カラス、サギのような鳥、孔雀、鶏、キジ、そして猫や鼠などです。これらは中程度の怒りの性質を持つものです。これを第五の心のあり方といいます。」

「『復次，諸天子！云何第六心性界耶？謂下瞋性。所謂下瞋者，鵝鴨鴛鴦、食魚白鳥、俱翅羅鳥、雀娑羅鳥、驢鹿龜鼈、兔蝟山烏、鴈鳥蝦蟇。如是等比，名為下瞋。是名第六心性界也。

> また、天子たちよ。第六の心の性質の領域とは何か。それは低次の怒りの性質である。低次の怒りとは何かというと、ガチョウ、アヒル、オシドリ、魚を食べる白い鳥、鳩、雀、ロバ、鹿、亀、スッポン、ウサギ、ハリネズミ、カラス、ガン、ヒキガエルのような生き物たちである。このように類するものを低次の怒りというのである。これが第六の心の性質の領域である。

「『復次，諸天子！云何第七心性界耶？於鬼神中，若有神通，行於欲心。阿修羅神——畜生之數，欲性增多，名為上欲。是名第七心性界也。

> 「さらに、諸天の皆さまよ。第七の心の性質とは何でしょうか。鬼神の中には、神通力を持つ者があり、欲の心をもって行動します。阿修羅の神々——畜生の類い——は、欲望の性質がさらに増し加わり、これを上の欲と呼びます。これが第七の心の性質の世界なのです。」

「『復次，諸天子！云何第八心性界耶？若食香餓鬼，名曰中欲。是名第八心性界也。

> 「また、諸々の天子よ。第八の心の性質の世界とは何か。香を食う餓鬼のことを、中程度の欲望と名づける。これが第八の心の性質の世界である。」

「『復次，諸天子！云何第九心性界耶？若悕望鬼、食棄食鬼，是名下欲。是名第九心性界也。

> 「また、天子たちよ。では第九の心の本性の世界とは何か。飢えた亡者や、捨てられた食べ物を食べる亡者を願う心、これを下劣な欲望という。これが第九の心の本性の世界である。」

「『復次，諸天子！云何第十心性界耶？迦樓足天等，名曰下欲，瞋心則多，好愛鬪諍，常欲與諸阿修羅鬪。以其瞋故，欲心則薄。是名第十心性界也。

> 「さらに、諸天子よ。では第十の心の性質の領域とは何か。ガルーダの足を持つ天の者たちは、下の欲望を持つ者と名づけられ、怒りの心が多く、争いを好み、常に阿修羅たちと戦おうとする。その怒りのゆえに、欲望の心は薄い。これを第十の心の性質の領域という。」

「『復次，諸天子！云何第十一心性界耶？謂鬘持天，中欲、中瞋、中性，是名第十一心性界也。

> さらに、諸天の皆さま。第十一の心性界とは何でしょうか。それは、花鬘天のように、欲も淡く、瞋りも淡く、本性も中程度である状態を指します。これが第十一の心性界と呼ばれるものです。

「『復次，諸天子！云何第十二心性界耶？所謂常恣意天，欲性則多，瞋恚性少，不善鬪諍。行使諸天，多瞋少欲。是名十二心性界也。

> 「また、天子たちよ。では、第十二の心の性質の世界とは何か。それは、常に我がままな天人は、欲の性質が多く、怒りの性質が少なく、争いを好まない。行動する天人は、怒りが多く、欲が少ない。これを第十二の心の性質の世界と名付ける。」

「『復次，諸天子！云何第十三心性界耶？所謂一切三十三天，欲性則多，瞋恚薄少，是名第十三心性界也。

> 「さらに、諸天の者たちよ。第十三の心性の世界とは何か。それは、三十三天（という天界）では、欲望の性質は多いが、怒りの心は薄い、ということを指す。これが第十三の心性の世界である。」

「『復次，諸天子！云何第十四心性界耶？謂欝單越人，瞋恚心薄，欲性界多，是名第十四心性界也。

> 「また、天人の皆さん。第十四の心の性質とはどのようなものでしょうか。それは、鬱単越（うたんえつ）の人々は、怒りの心が薄く、欲望の性質が多いことです。これを第十四の心の性質といいます。」

「『復次，諸天子！云何第十五心性界耶？謂瞿陀尼人，一切瞋恚心多，欲心亦多，二性同等，是名第十五心性界也。

> 「また、諸天の者たちよ。第十五の心性界とは何かというと、瞿陀尼の人間は、すべての怒りの心が多く、欲の心も多く、この二つの性質が等しく存在する。これを第十五の心性界という。

「『復次，諸天子！云何第十六心性界耶？弗婆提人，欲心、瞋心二俱雜有，是名第十六心性界也。

> では、第十六の心の性質の世界とは何でしょうか。弗婆提（東勝身洲）の人々は、欲の心と怒りの心が混ざり合って存在しています。これを第十六の心の性質の世界と言います。

「『復次，諸天子！云何第十七心性界耶？謂閻浮提人，種種性、種種行、種種信解，是名十七心性界也。

> さらに、諸天の皆さんよ。第十七の心の性質の領域とは何か。それは、閻浮提の人々が、様々な性質、様々な行い、様々な信念と理解を持っていることである。これを第十七の心の性質の領域と名付ける。

「『復次，諸天子！云何第十八心性界耶？一切餘天及地獄人，雖受苦惱，見業幻女人，猶生欲心。以業作故，如是地獄欲心亦多四天王天。眾生心性，如是界，如是依止，如是信解，是名總說一切十八界性。如是一切有欲、有瞋則有癡心，以癡因緣而有貪、瞋。若離癡心則無貪、瞋。以癡心故，或貪、或瞋。如是，諸天子！是名分別三種之過，以依過故，無量分別。

> 「また、諸天子よ。第十八の心の領域とは何か。あらゆる天界や地獄の者たちも、苦しみを味わいながら、業によって幻と知りつつも、女を見てなお欲心を起こすことがある。業によってそうなるのである。このように地獄においても欲心は多く、四天王天の天人たちもまた同様である。衆生の心の性質、その領域、そのよりどころ、その理解のしかた――これを総じて、すべての十八の領域の性質と説くのである。 このように、欲があるところには怒りがあり、怒りがあるところには無知の心がある。無知の因縁によって、貪りと怒りが生じる。もし無知の心を離れれば、貪りも怒りもない。無知の心があるからこそ、貪りが生じたり怒りが生じたりするのである。 このように、諸天子よ。これを三つの過ちの区別と説く。この過ちに基づいて、無数の区別が生じるのである。」

「『復次，諸天子！復有十八界，所謂眼界、色界、眼識界，耳界、聲界、耳識界，鼻界、香界、鼻識界，舌界、味界、舌識界，身界、觸界、身識界，意界、法界、意識界。如是，諸天子！是名十八界。若天、若人思惟如是十八界者，能於境界護放逸行，此是一切愚癡凡夫癡因緣也。

> 「さらに、諸々の天の衆よ、十八界というものがある。すなわち、眼界・色界・眼識界、耳界・声界・耳識界、鼻界・香界・鼻識界、舌界・味界・舌識界、身界・触界・身識界、意界・法界・意識界である。これらが、天の衆よ、十八界と呼ばれるものである。もし天や人が、この十八界について深く考えるならば、感覚の対象に対して心の逸脱を防ぐことができる。しかし、これはまた、すべての無知な凡夫が迷いの原因とするものでもある。」

「『復次，諸天子！放逸之人有十九處，二種所攝，所謂四禪處除淨居天有十六處，欲界三處——地獄、畜生、餓鬼。人受苦多者，地獄所攝，是為十九。

> 天子たちよ、放逸の者には十九の住処があり、二つの種類に含まれる。すなわち、四禅の住処のうち、浄居天を除いた十六の住処と、欲界の三つの住処——地獄、畜生、餓鬼である。人間の中で苦しみの多い者は地獄に含まれる。これが十九の住処である。

「『復次，諸天子！如前所說，四禪、十六處人，及地獄、餓鬼、畜生，是為二十。如是生死不調伏故，各各差別。或說十種掉悔。』

> 「さらに、諸天子よ。先に述べたように、四つの禅定の境地、十六の天界の人々、そして地獄・餓鬼・畜生を合わせて二十の領域がある。このようにして、生死が調和されていないために、それぞれに違いが生じる。あるいは十種類の心の揺れ動きや後悔があるとも説かれる。」

「爾時，諸天眾聞天帝釋說是法已，即以偈頌讚帝釋曰：

> その時、天の衆たちは天帝釈がこの法を説くのを聞いて、即座に偈をもって帝釈を讚えた。

「『天王說此法，寂靜最第一，我今受此法，怖畏故修行。若人能說法，利益於他人，其人如父母，示以涅槃城。若為他人說，一句之善法，則為善導師，為眾生所尊。天王之所說，善法價無量，此法得寂靜，非為餘寶物。寶物歸無常，善法增智慧；世間物破壞，善法常堅固。若有順法行，隨人百千世，雖種種寶物，不能至後世。種種財寶物，則可強劫奪，王賊及水火，不能劫法財。』

> 「天王が説いたこの法、静けさこそ最上なり。 我、今この法を受け、恐れゆえに修行する。 もし人が法を説き、他者を利益するならば、 その人は父母の如く、涅槃の城を示す。 もし他人のために、一句の善き法を説くならば、 それは善き導師となり、衆生に尊ばれる。 天王が説いた善き法に、価は計り知れず、 この法は静けさを得るものであり、他の宝物ではない。 宝物は無常へと帰し、善き法は智慧を増す。 世のものは壊れゆくが、善き法は常に堅固である。 もし法に従って行うならば、その人は百千世にわたり従い、 様々な宝物も、後世には至らない。 様々な財宝は、強いて奪われることもあるが、 王、賊、水、火も、法の財を奪うことはできない。」

「爾時，諸天子讚歎供養天帝釋已，於帝釋前恭敬而住。爾時帝釋調伏諸天，為諸天子示一切天樂皆悉無常，變壞無我，除滅所化。時諸天眾皆生厭心，還歸本宮，受天之樂，乃至愛集樂業既盡，命終還退，不墮惡道，生於人中，第一順法以自修行，樂遊林野，畏未來世。得聞法已，出家學道，或得須陀洹、或得斯陀含、或得阿那含、或得阿羅漢。以前聞法因緣力故。

> その時、諸々の天子たちは、帝釈天への賛嘆と供養を終え、帝釈天の前に敬って留まりました。そこで帝釈天は諸天を調伏し、すべての天の楽しみは全て無常であり、変化し壊れ、我がないことを示し、教え導きました。すると天の衆たちは皆、厭離の心を生じ、自らの宮殿に帰り、天の楽しみを受けました。そして愛着や楽しみの業が尽きると、命終わって退転し、悪道に堕ちることなく、人間に生まれました。彼らは第一の正しい法に従い自ら修行し、林野に遊ぶことを楽しみ、未来の世を畏れました。法を聞いてから、出家して道を学び、ある者は須陀洹を得、ある者は斯陀含を得、ある者は阿那含を得、ある者は阿羅漢を得ました。これは以前に法を聞いた因縁の力によるものです。

## 正法念處經卷第三十四

> 正法念処経 巻第三十四