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title: "正法念處經 · 2"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第三十七

> 正法念処経 第三十七巻

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之十六夜摩天之二

> 観天品 第十六<note>夜摩天 その二</note>

「『「爾時，世尊知彼調伏心淳熟已，即令聲聞以天眼力而調伏之。爾時聲聞告樂見言：『樂見！當知：此佛世尊，并諸天、人、魔及沙門、若婆羅門，一切世間諸天及人、阿修羅師。此佛世尊一切悉知、一切悉見，常為一切世間說法，初中後善，義善語善，獨法具足鮮白清淨，說出世法寂靜，乃至到於涅槃。所謂：「此色，此色集，此色滅，此色滅道。」今者為汝夜摩天眾說法故來，利益安樂饒益故來。』

> その時、世尊はその者の心がすでに純粋になり、よく調えられていると知ると、声聞弟子たちに天眼の力をもってその者を調えさせました。そこで声聞弟子は楽見に告げました。「楽見よ、知るがよい。この仏世尊は、天や人々、魔、沙門、婆羅門、そして一切の世間の天、人、阿修羅の師である。この仏世尊は一切を知り、一切を見通し、常に一切の世間のために法を説かれる。その教えは初めも中も後も善く、義も言葉も善く、独自の法を完全に備え、清らかで白く、世を超えた寂静の法を説き、ついには涅槃に至る。すなわち、『これが色であり、これが色の集まりであり、これが色の消滅であり、これが色の消滅に至る道である』と。今、あなたは夜摩天の衆生のために、利益と安楽と恵みをもたらすために法を説きに来られたのだ。」

「『「時，彼樂見夜摩天王於聲聞所，如是聞已，喚言：『大仙！我今往至佛世尊所，不知云何供養世尊。我於今者，不解儀式，云何供養？』時彼聲聞聞已答言：『樂見天王來近世尊。』樂見聞已，捨冠莊嚴，心善調伏，寂靜諸根，一心正念，整服左肩，右膝著地，頭面敬禮，合掌向佛。一切天眾皆從聲聞如是聞已，捨莊嚴具，一心正念，寂靜諸根，一切皆詣坐蓮花臺。如來世尊諸聲聞眾之所圍遶，如月悉為眾星所遶，又亦如彼須彌山王眾山圍遶，又亦如海為諸大河之所圍遶。如轉輪王八萬四千小王圍遶，又亦如日光明圍遶，諸聲聞眾如是圍遶。如來世尊，第一勝妙不可稱量威德光明，於大蓮花臺上而坐。

> ある時、楽見夜摩天王は、その声聞（弟子）からこのように聞いて言いました。「大仙よ、私は今、仏世尊のもとへ参ろうと思うのですが、どのように世尊を供養すればよいのかわかりません。私は今、儀式に詳しくなく、どのように供養すべきでしょうか。」その声聞はこれを聞いて答えました。「楽見天王よ、世尊のもとへ近づきなさい。」楽見はこれを聞き、冠や飾りを外し、心をよく調え、諸根を静めて、一心に正しく念じ、衣を左肩にかけ、右膝を地につけ、頭を地につけて敬礼し、合掌して仏に向かいました。すべての天の衆もまた、声聞からこのように聞いて、飾りを捨て、一心に正しく念じ、諸根を静めて、皆、蓮華の台座に坐っている如来のもとへ向かいました。世尊は声聞たちに囲まれ、まるで月が多くの星々に囲まれるように、また須弥山王が多くの山々に囲まれるように、また大海が多くの大河に囲まれるように、また転輪聖王が八万四千の小国の王に囲まれるように、また太陽が光に囲まれるように、声聞の衆は世尊を囲みました。如来世尊は、言葉に尽くせぬほど勝れた、はかり知れない威光と功徳を備え、大いなる蓮華の台座の上に座っておられました。

「『「爾時，樂見夜摩天王身著法衣，整服一廂，合掌向佛，正住一面。世尊告言：『令汝今者捨離放逸。』爾時，樂見一處坐已，彼迦那迦牟尼世尊即出勇勝不畏音聲——一切夜摩皆悉遍滿——告言：『樂見！我今說法，初中後善，義善語善，獨法具足鮮白梵行，如是而說。汝今諦聽，正念善思，我於今者，善為汝說。』時，樂見言：『如是，世尊！願樂欲聞。』

> その時、楽見夜摩天王は法衣を身にまとい、衣を整えて片方に寄り、合掌して仏に向かい、静かに一方に立っていました。そこで世尊はお告げになりました。「あなたは今、怠り遊ぶことを捨てなさい。」すると楽見は、あらかじめあった場所に座りました。すると、かの迦那迦牟尼世尊は、勇ましく勝れた恐れのない声—その声は一切の夜摩天に満ち渡りました—を発してお告げになりました。「楽見よ、私は今、法を説く。その説法は、初めも中も後も善く、意味は善く、言葉は善く、他に類を見ない完全で清らかな梵行である。そのように説くのだ。あなたは今、よく聴き、正しく念じ、よく考えなさい。私は今、あなたのために善く説こう。」その時、楽見は申し上げました。「その通りでございます、世尊。どうか喜んでお聞きいたしましょう。」

「『「爾時，世尊為樂見等天眾說言：『有九種因能生放逸，於彼放逸樂行多作，能壞世間愚癡凡夫，身壞命終墮於惡道——地獄、餓鬼、畜生之中。以生因緣，受大苦惱，生死繫縛，不得涅槃安隱之樂，不得利益。何等九因？一者所謂樂於放逸，行於放逸，常行放逸，不近聖人，不能調攝身口意業，不攝根行，不能自正身口意等，而令行於不善境界，常喜樂聞不善之法，而不樂於佛之正法。此是放逸行之初因，能生放逸。若放逸行，愚癡眾生身不善行、口不善行、意不善行，以身口意不善行故，身口意等不善之業和集。癡人放逸所誑，身壞命終墮於惡道，生在地獄、餓鬼、畜生。若捨放逸，是善丈夫，常捨放逸。若求善者，應捨放逸。此是初因能生放逸。

> 「その時、世尊は楽見などの天の衆生に向かってこう説かれました。 『九つの原因が放逸を生み出します。その放逸を喜び、繰り返し行うなら、世の中の愚かな凡夫たちは、身が壊れ命が終わるとき、悪道――地獄、餓鬼、畜生――に堕ちます。その生まれの因縁によって、大きな苦しみを受け、生死に縛られ、涅槃の安らかな楽を得ることも、真の利益を得ることもできません。その九つとは何か。 第一に、放逸を楽しみ、放逸を行い、常に放逸にふけり、聖人に近づかず、身・口・意の業を調えず、感覚の根を制御せず、自らの身・口・意を正しくせず、不善の境地に向かって歩み、不善の法を聞くことを常に喜び、仏の正しい法を喜ばないこと。これが放逸を生む最初の因です。 この放逸の行によって、愚かな衆生は身に不善を行い、口に不善を語り、意に不善を思います。身・口・意の不善の行が集まり、愚かな者は放逸に欺かれ、身が壊れ命が終わるとき、悪道に堕ち、地獄・餓鬼・畜生に生まれます。もし放逸を捨てるならば、それが善き丈夫です。常に放逸を捨てるべきです。善を求めるならば、放逸を捨てるべきです。これが放逸を生む第一の因です。』」

「『「『復次，樂見！復有第二放逸行因，能生放逸，起放逸已，能壞善根，所謂舉動心不審諦。彼眼見已，則生分別，數數如是憶念思惟，樂於彼色，更不異緣。常如是作不善之行，非是善念，心意錯亂。彼放逸者以放逸故，身壞命終墮於惡道，生地獄中。此是第二放逸行因，能生放逸。

> 「さらに、楽見よ。第二の放逸（ほういつ）を生む因（原因）がある。放逸を起こせば善根（善い行いの根）を壊す。それは、行動や心が注意深くないことだ。まず、目で何かを見ると、すぐに好き嫌いの分別（判断）が生じる。そして繰り返しそれに気をとられ、その色（対象）に心を奪われて、他のことに注意を向けなくなる。こうして、いつも善くない行いを積み重ね、善意（善い心）ではなく、心は乱れていく。このように放逸の者は、放逸ゆえに、この世での命が終わるとき、悪い道（地獄など）に落ちる。これが第二の放逸を生む原因である。」

「『「『復有第三放逸行因，能生放逸，所謂不實未見未聞，本未曾有，唯有心念，心生分別，或依止欲或依止癡。彼如是念、如是思惟，心常緣彼、心常念彼，第一之法不善思惟，以自亂心。此是第三放逸行因，能生放逸，縛諸眾生，能誑眾生，令身口意行不善行，身壞命終墮於惡道，生地獄中。

> 第三の放逸の行いの原因があります。それは、まだ見たことも聞いたこともなく、本来は存在しないものを、ただ心の中で思い描き、分別を起こすことです。あるいは欲望に執着し、あるいは無知に執着します。そのように考える者は、常にその虚妄に心を向け、それを思い続けます。この最上の真理（第一義）を正しく考えず、自らの心を乱してしまうのです。これが第三の放逸の行いの原因であり、放逸を生み、衆生を縛り、欺き、身・口・意に不善の行いをさせます。そして、命終わった後には悪道に落ち、地獄に生まれることになります。

「『「『復有第四放逸行因，能生放逸，能令一切放逸眾生，身壞命終墮於惡道，生地獄中。如是，樂見！何者第四放逸之因？所謂恒常樂見婦女，樂見莊嚴不實之色，於不實色，心生愛樂；見其歌舞，心生分別，彼則心歡。如是分別身口意等，非作善業。彼放逸者，身壞命終墮於惡道，生地獄中。此是第四放逸行因，能生放逸。復有第四放逸行因，能生放逸，所謂憙樂種種園林，樂蓮花池或樂種種諸花樹林，見已心樂，在中戲樂、在中遊行，不念善事、不正心意。彼行放逸，放逸所誑，身壞命終墮於惡道，生地獄中。此是第四放逸行因，能生放逸。

> 次に第四の放逸の原因があります。これは放逸を生み出し、すべての放逸な衆生をして、命終わりの後に悪道、地獄に堕ちさせるものです。楽見よ、第四の放逸の因とは何か。すなわち、常に婦女を見ることを楽しみ、飾り立てた虚ろな色を楽しみ、その虚ろな色に心から愛着し、その歌舞を見て心に分别を起こし、その心は喜びに満ちるのです。このように身・口・意に分别を起こして、善き行いをなしません。その放逸な者は、命終わりの後に悪道、地獄に堕ちます。これが第四の放逸の行いの因であり、放逸を生み出すものです。 さらに、第四の放逸の行いの因があります。すなわち、様々な園林を喜び楽しみ、蓮華の池や種々の花の林を好み、それらを見て心から喜び、その中で遊び戯れ、散策し、善いことを思い起こさず、心を正しく保たないことです。その放逸な行いにより、放逸に欺かれた者は、命終わりの後に悪道、地獄に堕ちます。これが第四の放逸の行いの因であり、放逸を生み出すものです。

「『「『復有第五放逸行因，能生放逸。如是，樂見！近惡知識，與共和合，毀破淨戒，行於惡行，不善思惟，造作惡行。如是眾生近惡知識，行放逸行，身壞命終墮於惡道，生地獄中。此是第五放逸行因，能生放逸。復次，樂見！復有第五放逸行因，能生放逸。所謂眾生無量種行、無量種意，無決定意造作善業。如是眾生無一定業，如是眾生不定作業，一切作業悉皆散失。於世間業、出世間業，彼一切業不究竟作，不能布施、不作福業，非善思惟，以放逸過，是故犯戒。身壞命終墮於惡道，生地獄中。此是第五放逸行因，能生放逸。

> 五つ目の放逸の因について、さらに説明しましょう。楽見よ、悪しき友人に近づき、共に交わり、清らかな戒めを破り、悪しき行いを為し、善ではない思考によって悪行を積むこと。このように衆生が悪しき友人に近づき、放逸の行いを続ければ、この身体が壊れ命が終わった時、悪道に落ちて地獄に生まれます。これが五つ目の放逸を生む因です。 また、楽見よ、もう一つの五つ目の放逸の因があります。それは、衆生が無数の行いや無数の意図を持ちながらも、確固たる意志なく善業を為すことです。このように衆生は定まった業がなく、為すべき業も定まらず、一切の業がすべて散り失われてしまいます。世間の業も、出世間の業も、それらの一切の業を究竟することができず、布施もできず、福業も作らず、善き思惟もない。放逸の過ちによって戒めを破るのです。その結果、身体が壊れ命が終わった時、悪道に落ちて地獄に生まれます。これもまた五つ目の放逸を生む因です。

「『「『復有第六放逸行因，能生放逸。所謂眾生捨離正法、捨離聖諦，乃至捨離八聖道分，有所行作，不善觀察。如是，樂見！如是眾生以放逸行亂其心故，身壞命終墮於惡道，生地獄中。此是第六放逸行因，能生放逸。

> さらに第六の放逸の因があり、放逸を生じさせます。それは、人々が正しい教えを捨て、聖なる真理を捨て、さらには八つの聖なる道の実践（八聖道分）を捨てて、何を行うにもよく観察しないことです。このように、楽見よ（楽な見方をする者よ）！このような人々は、放逸な行いによって心が乱されるため、命終わって悪道に落ち、地獄に生まれます。これが第六の放逸の因であり、放逸を生じさせるのです。

「『「『復有第七放逸行因，能生放逸，所謂貪味。何處何處著彼諸味，彼處彼處心樂常念，隨彼心作。如是眾生更無異念，不作善業、不持正戒，心常樂他請喚與食，常貪味故，為味所誑。不作善業，於苦、無常、空、無我等，此四種中一亦不念，唯念不善顛倒之法，一切所作非自利益。如是眾生身壞命終墮於惡道，生地獄中。此是第七放逸行因，能生放逸。

> 「さらに第七の放逸（放縦な生き方）をもたらす因縁があります。それは、味に対する貪りです。どこであれ、その味に執着するところでは、心は喜び、常にそれを思い浮かべ、心はその思いに従って動きます。このような人は、他の考えを持つことなく、善い行いをせず、正しい戒律を守りません。心は常に、他人から食事に招かれ、与えられることを望みます。味に執着するために、味に惑わされるのです。善い行いをせず、苦しみ、無常、空、自己がないこと、この四つの真理について一つも考えることなく、ただ善くない倒錯した考えだけを抱き、行うことはすべて自分の益にはなりません。こうした人は、命終われば悪道に落ち、地獄に生まれます。これが第七の放逸もたらす因縁であり、放逸を生じさせるのです。」

「『「『如是，樂見！復有第八放逸行因，能生放逸。所謂眾生若得種種無量樂已，於彼樂事喜樂貪著，謂常不動、謂常安隱、謂不破壞。彼常憶念如是之樂，身口意業常行不善，不知應作及不應作，不知是法、不知非法，不覺不知破壞苦惱，不念地獄、餓鬼、畜生無量百千分別苦惱。一切不念，不應念者而便念之。如是不念死滅之法，一切世間生死之中，死能作亂而不知念。如是眾生為樂所誑，如是惡貪著樂眾生，後時死至，爾乃生悔，悔火自燒，身壞命終墮於惡道，生地獄中。此是第八放逸行因，能生放逸。

> 「では、楽見よ、第八の放逸（ほういつ）をもたらす因縁（いんねん）がある。すなわち、生きとし生けるものは、さまざまな限りない楽しみを得ると、その楽しみに心を奪われ、貪り執着し、『これは永遠に変わらない』『これは常に安らかだ』『これは決して壊れない』と思い込む。彼らはそのような楽しみばかりを思い続け、身体・言葉・心の行いを常に善からぬものとし、なすべきこととなすべきでないことの区別もつかず、正しいことと正しくないこともわからず、苦しみや破滅に気づくこともなく、地獄・餓鬼・畜生という無数の苦しみを思い巡らすこともない。すべてを顧みず、思い煩うべきでないことに心を費やし、こうして死が必ず訪れるという真理をも忘れてしまう。すべての世の中の生死の中で、死がすべてをかき乱すものであることを知りながら、それを心に留めない。このような人々は楽しみというものに惑わされ、その楽しみへの汚れた執着のせいで、やがて死が訪れた時に初めて後悔し、その悔いの火が自らを焼き尽くし、命終わって悪道に堕ち、地獄に生まれるのである。これが第八の放逸をもたらす因縁である。」

「『「『如是，樂見！復有第九放逸行因，能生放逸。所謂種種樂樂之心。天人之中為愛所誑，不知歸依佛法眾僧，不持禁戒、不聽佛法、不住聖律；所應作法而不知作，而常憙聞不應作法；不入正法，而心不畏未來世罪，不見後世死後之苦，失自利益，怨心所誑。身壞命終墮於惡道，生地獄中。此是第九放逸行因，能生放逸。

> 「このように、楽見よ。さらに第九の放逸（放逸に陥る行い）の因があり、それが放逸を生み出す。それは、さまざまな楽しみや快楽に心を奪われることである。天や人の世界において、愛欲に惑わされ、仏法や僧団に帰依することを知らず、戒律を守らず、仏法を聞かず、聖なる教えに従わない。なすべき作法を知らずして、なすべきでない作法を好んで聞く。正しい法に入らず、未来世の罪を恐れず、死後の苦しみを見ようとせず、自らの利益を失い、怨みの心に惑わされる。やがて命終わって悪道に堕ち、地獄に生まれる。これが第九の放逸の因であり、放逸を生み出すのである。」

「『「『樂見當知！此之富樂，非常、非恒、非不破壞。如是，樂見！夜摩天王過去無量於此已退，彼何處去？彼自業果成就故爾，彼以善業、不善業羂所繫縛故，輪轉生死。以善業故，生天人中；不善業故，生於地獄、餓鬼、畜生。是故，樂見！若有欲得人身之者，莫行放逸。何以故？身命無常，富樂亦爾，當如是念，勿放逸行。何以故？多有無量百千天眾以放逸行，是故退墮。如是勿行放逸之道。愚癡之者行於此道，非善男子。一切生者，必定歸死，死在現前，老亦如是，病亦如是，愛離亦爾，善不善業、富樂亦爾。如是一切不饒益過，常隨不離一切眾生。』

> 楽見よ、よく聞きなさい。 この富や楽しみは、永遠ではなく、不変でもなく、必ず壊れるものである。 そうだ、楽見よ。夜摩天の王も、過去に無量の者がすでにこの境涯から退転した。彼らはどこへ行ったのか？彼らは自らの業の結果によってそうなったのだ。 彼らは善い行いと悪い行いという縄に縛られて、生死を輪廻している。 善い行いのゆえに天や人に生まれ、悪い行いのゆえに地獄・餓鬼・畜生に生まれるのだ。 それゆえ、楽見よ。もし人の身を得たいと願うならば、放逸であってはならない。 なぜか？ からだや命は無常であり、富や楽しみもまた同様であるからだ。このように心にとどめて、放逸な行いをしてはならない。 なぜか？ 数え切れないほど多くの天人が、放逸な行いによって退転したからである。 だから、放逸の道を歩んではならない。 愚かな者はこの道を歩む。善き男子はそうではない。 生まれたものはすべて必ず死ぬ。死は目前にあり、老いもまた同じ、病もまた同じ、愛する者との別れもまた同じである。 善い行いも悪い行いも、富も楽しみも、すべては同じである。 このように、一切の不利益や苦しみは、常にすべての衆生に付き従い、離れることがないのである。

「『「爾時，世尊而說偈言：

> その時、世尊は次のように偈（うた）を詠まれました。

「『「『放逸之毒樹，三枝住在上，謂老病死物，常在其上住。老等不能惱，丈夫善行者，若不放逸行，彼行涅槃道。不放逸大斧，常能斫諸過，彼解脫過故，得無上之樂。若放逸受樂，彼樂常怖畏，若離彼放逸，彼樂常不退。如是百百倒，放逸之所誑，以未覺知故，今猶有不離。四種顛倒見，住在放逸上，捨離放逸故，則失世間怨。此無量分別，無量怖畏逼，生死轉行苦，皆由彼放逸。若離一放逸，則得樂不退，一切無漏法，放逸故能失。天中不放逸，上上而轉行。何放逸癡天，不能得解脫？彼此善思惟，種種分別已，如自利益作，後時則不悔。若天若受樂，若其餘少法，此有為相法，應知皆無常。若法有為數，彼畢竟失滅，後時必破壞，常受諸苦惱。若有憶念樂，放逸所壞者，彼於離散時，則多受苦惱。』

> 『放逸という毒の木、三つの枝がその上にあり、 老い・病・死というもの、常にその上に住む。 老いなどに悩まされない、よく修行する人は、 もし放逸せずに行えば、その人は涅槃の道を行く。 放逸しないという大斧、常に諸々の過ちを断つ、 それは過ちから解脱するゆえに、無上の楽しみを得る。 もし放逸に楽しみを求めるなら、その楽しみには常に恐れがある、 もしその放逸から離れるなら、その楽しみは常に退かない。 かくのごとく多くの誤り、放逸によって欺かれ、 まだ悟っていないゆえに、今なお放逸から離れない。 四つの颠倒した見解、放逸の上にあり、 放逸を捨て離れるゆえに、世間の怨みを失う。 この無数の分別、無数の恐れに迫られ、 生死を巡って苦しむのは、すべてその放逸による。 もし一つの放逸から離れるなら、楽しみを得て退かず、 すべての無漏の法も、放逸によって失われる。 天においても放逸せず、さらに上へと進む。 なぜ放逸な愚かな天人は、解脱を得られないのか？ これをよく考え、様々に分別したならば、 自分の利益のために行えば、後になって悔いることはない。 もし天人が楽しみを受けても、あるいはその他のわずかな法でも、 この有為の相を持つ法は、すべて無常であると知るべきである。 もし法が有為の数に入るなら、それは必ず滅び去り、 後には必ず壊れ、常に諸々の苦しみを受ける。 もし楽しみを思い、放逸によって壊される者があるなら、 その者は離れ散る時に、多くの苦しみを受けるのである。』

「『「彼佛世尊如是如是無量分別種種調御樂見天王。如是因緣，於一切法皆不障礙。一切知見天眾圍遶，種種調御，令彼諸天捨離放逸。若有諸天被放逸縛，不得自在乃至退時。夜摩天王二萬天眾，從佛世尊聞正法已，一切皆得須陀洹果。

> 「その仏世尊は、このようにして無量の分別をもって、さまざまに調御し、楽見天王に示されました。このような因縁によって、一切の法に障りがありません。あらゆる知見を持つ天の衆が囲み、さまざまに調御することで、それらの天々をして放逸を捨て去らせられます。もし放逸の束縛にとらわれて自在を得られず、退く時を迎える天があるならば、夜摩天王の二万の天の衆が、仏世尊から正法を聴聞したのち、みな須陀洹果を得ました。」

「『「爾時，世尊如是思念：『我所應作，如是作已，更何所作而利益他？』爾時，世尊見未來世，如是思量更何所作，如未來世利益安樂苦惱眾生。世尊如是又復於彼大蓮花內——神通所化，更作如是天妙神通與天一種住而不滅，令有飛鳥，復為說偈。以彼如是天神通力調伏天已，作如是言：『如未來世，樂見天王於彼退已，復有天王，其王名曰牟修樓陀夜摩天王，未來當生，行放逸行。當於彼時有善眾生，彼於一時出遊戲處滑高山中。徐上彼山，上彼山已，次復上彼大蓮花已，亦坐如是蓮花臺上。彼大蓮花是我所化。彼天見已，生希有心而入其中，入彼種種甚可愛樂大蓮花中。復從彼出，向他天說。彼時舊天於前次第先曾聞來，亦復向彼牟修樓陀夜摩天王如是而說。當於爾時，牟修樓陀夜摩天王既得聞已，信佛世尊，信彼佛法——善根種子，於是乃至得到涅槃。彼天如是信心生已，不久時聞釋迦牟尼如來出世。如是彼處牟修樓陀夜摩天王及於釋迦牟尼佛所，得聞正法。牟修樓陀夜摩天王次第傳聞，於舊天邊如是傳聞，如是一切如所聞事，如是一切皆悉具有。』如汝今見大蓮花中希有之事，我於今者如是為說。又復釋迦牟尼世尊於今出在閻浮提中，為眾說法，汝今應當到彼聽法。如彼過去名迦那迦牟尼如來世尊所說，汝如是得，必定無疑，必得解脫。」』

> 「その時、世尊はこうお考えになりました。『私がなすべきことは、このようになし終えた。次に、他者を利益するために、さらに何をなすべきだろうか。』 そこで世尊は、未来の世を見渡され、こうお考えになりました。『苦しむ衆生に利益と安楽をもたらすためには、さらに何をなすべきか。』 そして世尊は、またもや、神通力によって化現したあの大蓮華の中で、さらなる天の妙なる神通を施されました。天の衆生がそこに留まり、滅することなく、さらに鳥を飛ばせ、また偈（うた）を説かれました。 その天の神通力によって天の衆生を調伏された後、世尊はこう仰いました。『未来の世に、楽見天王がその位を退いた後、新たに牟修楼陀夜摩天王という者が王となり、放逸な行いをするであろう。その時、善き衆生がいて、あるとき遊びの場である滑らかな高山に登るであろう。ゆっくりとその山に登り、さらにあの大蓮華に上り、この蓮華の台座に坐るであろう。あの大蓮華は私が化現したものである。その天の衆生はそれを見て希有の思いを抱き、その中に入るであろう。その種々の愛すべき大蓮華の中に入り、またそこから出て、他の天の衆生に語るであろう。その時、先にいた古い天の衆生は、以前にすでに聞いていたことを、その牟修楼陀夜摩天王にもまた語るであろう。 その時、牟修楼陀夜摩天王はそれを聞いて、仏世尊を信じ、その仏法を信じるという善根の種子を得て、ついには涅槃に至るであろう。その天の衆生がそのように信心を生じた後、間もなくして、釈迦牟尼如来が世に出現されたことを聞くであろう。こうして、そこにいる牟修楼陀夜摩天王は、釈迦牟尼仏のもとで正法を聞くことができる。 牟修楼陀夜摩天王は、古い天の衆生から次々と伝え聞くことによって、聞いたとおりのことをすべて、このようにして知るのである。』 『あなたが今、この大蓮華の中にある希有な事柄を見たように、私も今、あなたにそのように説いたのである。また、釈迦牟尼世尊は今、閻浮提に現れて、衆生のために法を説いておられる。あなたは、そこに赴いてその法を聞くべきである。かの過去の迦那迦牟尼如来世尊が説かれたように、あなたはそれを得て、決して疑いなく、必ず解脱を得るであろう。』」

「爾時，彼名牟修樓陀夜摩天王從宿舊天如是聞已，心生歡喜，生敬重心。『過去久遠名迦那迦牟尼佛說，次第傳來，我今得聞。以如是故，我心歡喜，心得清淨。以於舊天得傳聞已，故生歡喜心得清淨，何況現見釋迦牟尼如來世尊，從佛聞法。』爾時，彼天如是念已，八萬天子相與共向波羅柰國，見佛世尊無比之色，以三十七菩提分法莊嚴其身，猶如金山，威德焰然。一切眾生皆蒙利益，一切皆見無量百千眷屬圍遶而為說法，四諦相應。

> その時、牟修樓陀夜摩天王は、このように先輩の天人の話を聞いて、心に歓喜を生じ、敬虔な心を起こした。 「遠い昔、迦那迦牟尼仏が説かれ、それが次第に伝えられてきた教えを、今こうして私は聞くことができた。このことにより、私の心は喜び、清らかになった。 先輩の天人の伝聞によってさえ、このように心が歓喜し清らかになるのである。ましてや、今まさにこの世に出現されている釈迦牟尼如来世尊を目前に拝見し、直接その口から法を聞くことができたならば、どれほどの幸いであろうか。」 その時、このように思惟した天人は、八万の天の子たちと共に、波羅奈国の都へと向かった。 そこに、比類なき御姿の仏世尊がおられた。その御身は、三十七の菩提分法をもって荘厳され、あたかも金山の如く、威光と炎を放って輝いておられた。 すべての生きとし生けるものを益し、無量無数の眷属に囲まれ、四つの真理（四諦）に関わる法を説いておられるのを、彼らは皆、目の当たりにしたのである。

「爾時，彼名牟修樓陀夜摩天王、八萬天眾共至佛所。到佛所已，頭頂禮足，爾時佛告牟修樓陀夜摩天王喚言：『善來！牟修樓陀！汝已曾聞名迦那迦牟尼佛法修多羅說，如是聞已，來到此處。』

> そのとき、牟修樓陀夜摩天王は、八萬の天人の群れと共に仏のもとへ参りました。仏のもとに到着し、頭を地につけて仏の足に礼拝しました。すると仏は牟修樓陀夜摩天王に呼びかけて言われました。「よく来たね、牟修樓陀よ。あなたはすでに、かの迦那迦牟尼仏の教えに説かれた経典の話を聞き、このようにして、ここへやって来たのだね。」

「爾時，彼名牟修樓陀夜摩天王如是念曰：『佛一切智、極微細智、無障礙智，如我過去天中之事盡皆解知。』牟修樓陀念已心喜，八萬天眾一切皆共更禮世尊。禮世尊已，住在一面。

> その時、牟修楼陀夜摩天王はこう思った。 「仏は一切を知る智慧、極めて微細な智慧、何ものにも妨げられない智慧をそなえておられる。この私が天界で過去に行ったことでさえ、すべてを尽くしてご存知なのだ。」 牟修楼陀がこう思って心が喜びに満ちると、八万の天々がみな共に、再び世尊を礼拝した。世尊を礼拝した後、彼らは一方に立った。

「爾時世尊如是告言：『牟修樓陀！我於今者，為汝說法，初中後善，義善語善，獨法具足鮮白清淨。此法門者，名天乘樂，汝當諦聽，善思念之，我為汝說。』牟修樓陀夜摩天王受教而言：『如是，世尊！我今樂聞。』

> その時、世尊はこうおっしゃいました。 「ムシュローダよ、私は今、あなたのために法を説こう。この教えは、初めも中も終わりも善く、意味も言葉も善く、比類なく清らかで、完全に純粋である。 この教えの扉は『天乗の楽』と名づけられる。よく聞き、よく考え、心に留めなさい。あなたのために説こう。」 夜摩天の王であるムシュローダは、教えを受け、「はい、世尊よ。私は今、喜んでお聞きします」と申し上げました。

「爾時，世尊如是說言：『何者法門名天乘樂？此有十二。牟修樓陀！何等名為十二天道？若善男子住彼道者，彼正丈夫能上天道，猶如世間著官道者，則得入城，離於怖畏、離於疑慮。如是不壞身口意等，行十二道，則得至天，如是丈夫入於天中。何等十二？一名實道。若著彼道，得到天上。牟修樓陀！彼實道者有五功德。何等為五？一者實語，實說丈夫一切人信。二者不壞，常一切時無人能壞。三者清淨，常一切時名色清淨。四者可重，常一切時天所貴重。五者上生，身壞命終生於天上。此有偈言：

> 「その時、世尊はこう説かれた。『どのような法門を“天の乗り物の楽”と呼ぶのか。これには十二の種類がある。 牟修楼陀よ！十二の天道とは何か。 もし善男子がその道に留まるなら、その正しい丈夫は天の道に上ることができる。ちょうど世間で役人の道を歩む者が、怖れなく、疑いなく町に入れるように。 そのように、身・口・意を壊さず、十二の道を行ずるならば、天に至ることができる。そのような丈夫は天の中に入るのである。 十二の道とは何か。 第一に実道と呼ばれる。もしその道に従えば、天に至ることができる。 牟修楼陀よ！その実道には五つの功徳がある。五つとは何か。 第一に、真実の言葉を語る。真実を語る丈夫は、すべての人から信頼される。 第二に、壊されない。常にあらゆる時に、誰にも壊されることがない。 第三に、清らかである。常にあらゆる時に、名色が清らかである。 第四に、重んじられる。常にあらゆる時に、天から貴ばれる。 第五に、上に生まれる。身体が壊れ命が終わるとき、天に生まれる。 このことについて、偈がある。』

「『「實語常調御，恒為天供養，一切世間愛，後時得生天。」

> 「真実の言葉は常に人を調え導き、 常に天の供養を受け、 すべての世の人々に愛され、 やがて天に生まれることができるのです。」

「『牟修樓陀！此初天道。牟修樓陀！何者復為第二天道，而著彼道得到天上？所謂布施清淨無垢，不破、不壞、不悕果報。如是熏思，此則名為第二天道，此善業人得至天中。此第二道有三功德。所謂三者：一切人愛；常自熏思，心生歡喜；身壞命終生於天上。此第二道至天世間。此有偈言：

> 「マリシェーヴァラよ、これが第一の天道である。マリシェーヴァラよ、では第二の天道とは何か。その道に従って天に至るとは、すなわち布施が清らかで汚れがなく、破れず、壊れず、報いを期待しないことである。このように心を清めるならば、これを第二の天道と名付ける。この善業をなす人は天界に至ることができる。この第二の道には三つの功徳がある。その三つとは、すなわち、全ての人から愛されること、常に自らの行いを清め心に喜びを生じさせること、そして命終えて身体が壊れた後に天に生まれることである。この第二の道は天の世界に至る。この偈がある：」

「『「布施人所愛，亦復增長恩，後時生天富，布施果如是。」

> 「施しは人に愛され、恩もまた増えていきます。 やがて天の富が生まれます。施しの報いとは、このようなものです。」

「『牟修樓陀！何者復是第三天道，而著彼道得到天上？所謂忍辱。能忍之人有五功德，所謂五者：不諍、不懟，此初功德；一切無能偷盜其物，此二功德；一切人愛，此三功德；多有悲心，此四功德；身壞命終得生善道天世界中，此五功德。此有偈言：

> 「牟修樓陀よ、第三の天道とは何か。その道によって天に至ることができるもの、それは『忍辱』（にんにく）である。耐え忍ぶことのできる人には、五つの功徳がある。その五つとは——争わず、恨まないこと、これが第一の功徳。誰もその人の物を盗むことができないこと、これが第二の功徳。すべての人から愛されること、これが第三の功徳。深い慈悲の心を持つこと、これが第四の功徳。そして、この世を去り命が終わった後、善い世界である天界に生まれること、これが第五の功徳である。これについての偈がある——

「『「忍辱相應行，悲心亦不怖，一切人所愛，身壞得生天。」

> 忍耐の心を持つ者は、 苦しみや恐怖にとらわれず、 慈しみの心を失わない。 そのような人はすべてに愛され、 命を終えた後には、天に生まれ変わる。

「『牟修樓陀！何者復是第四天道，而著彼道得到天上？所謂美語。牟修樓陀！如是美語有六功德：一者一切人愛；二者無怖畏處；三者面常清淨；四者得善名稱；五者行則不慮；六者身壞命終生於天上。牟修樓陀！此是美語六種功德。此有偈言：

> 「ムシュローダよ。第四の天の道とは何か。その道によって天に至ることができるもの。すなわち、美しい言葉である。 ムシュローダよ。この美しい言葉には六つの功徳がある。第一に、全ての人に愛されること。第二に、恐れのない境地を得ること。第三に、顔つきが常に清らかであること。第四に、良い評判を得ること。第五に、行動に迷いがないこと。第六に、身が壊れ命が終わるとき、天に生まれること。 ムシュローダよ。これが美しい言葉の六つの功徳である。ここに偈がある。

「『「一切人所愛，增長善名稱，普面甚端嚴，身壞則生天。」

> 「すべての人に愛され、善い名声も高まり、 顔立ちはとても端麗で、その身が滅びれば天に生まれる。」

「『牟修樓陀！何者復是第五天道，而著彼道得到天上？所謂憐愍一切眾生。此善男子乃至終得到於涅槃，我說彼人無等功德。此有偈言：

> 「ムシュローダよ、第五の天道とは何か。その道によって天に至るとは、すなわち一切の衆生をあわれむ心である。この善き人は、ついに涅槃に至る。私はその人に比類なき功徳があると説く。これについて偈がある：

「『「於一切眾生，悲心如父母，彼人憐愍寶，常在心中住。」

> 「すべての生きとし生けるものに対して、悲しみの心を父母のように持つ人には、その憐れみの宝が、いつも心の中に宿っているのです。」

「『牟修樓陀！何者復是第六天道，而著彼道得到天上？所謂正心。正心之者，能作善業；善思惟者，善語言說。總略說此正心功德。此有偈言：

> 「牟修樓陀よ、第六の天道とは何か。それに従って天に至る道、それが「正心」である。正しい心を持つ者は、善い行いを為すことができる。善く思惟し、善く言葉を語る。かいつまんで言えば、これが正しい心の功徳である。ここに偈がある。

「『「若善正心者，常順法觀察，不為過所使，如日光除闇。」

> 「よく心を正して、いつも真理（法）に沿って観察する人は、 過ちに使われることがありません。それは、日光が暗闇を除くようなものです。」

「『牟修樓陀！凡為一切法之根本，謂善正心。牟修樓陀！何者復是第七天道，而著彼道得到天上？所謂正見。正見丈夫能到涅槃，何況於天。彼若少有身口意業，一切如是利益眾生，得生天中乃至涅槃。此有偈言：

> 「ムシューローダよ。あらゆる法の根本となるもの、それは善く正しい心である。ムシューローダよ。では第七の天の道とは何か。その道によって天に至るもの、それは正しい見解である。 正しい見解を持つ人は、涅槃にさえ至ることができる。ましてや天に生まれることなど容易いことだ。 もしその人がわずかでも身・口・意の行いをなせば、それらすべての善行は、ただちに人々を利益し、天に生まれ、さらには涅槃へと導く。このことを示す偈（うた）がある。

「『「唯正見為勝，隨何人有心，俗人亦如是，得脫生死縛。」

> 「ただ正しい見解こそが最も大切である。 たとえどんな人であっても、心を向けるならば、 在家であっても、その通りに実践すれば、 生死の束縛から解き放たれるのである。」

「『牟修樓陀！何者復是第八天道，而著彼道得到天上？所謂遠離不善知識，無三種過，善人不捨，為同戒故。諸惡因緣一切不生，餘勝大過亦更不得。此有偈言：

> 「牟修樓陀よ、さらに第八の天道とは何か。その道に従って天に至る者について語ろう。すなわち、不善の知識から遠ざかり、三つの過ちを持たず、善き人々を捨てず、同じ戒めを共にするためである。これにより、すべての悪しき因縁は生じず、他のより大きな過ちも起こらない。ここに偈がある。

「『「近惡知識者，彼則不得樂；近惡知識已，廣得不饒益。」

> 「悪い友に近づく人は、幸せを得られません。悪い友に近づけば近づくほど、多くの不利益を招くのです。」

「『牟修樓陀！何者復是第九天道，而著彼道得到天上？謂聞正法。略說聞法攝七功德：一者得聞未聞異法；二者所聞堅固不失；三者捨離一切惡業；四者諸聖之所樂見；五者深心信敬如來；六者則得增長壽命；七者身壞命終生天。此有偈言：

> 「牟修樓陀よ、第九の天道とは何か。そして、その道によって天に至るとはどういうことか。それは正しい教えを聞くことである。簡潔に言えば、教えを聞くことには七つの功徳がある。一つには、これまで聞いたことのない（貴い）教えを聞くことができる。二つには、聞いた教えをしっかりと心に留めて忘れない。三つには、あらゆる悪い行いを捨て去る。四つには、聖者たちに喜ばれて遇される。五つには、深く心から如来を敬い信じるようになる。六つには、寿命が延びる。七つには、この世の命終えた後、天に生まれる。このことには、次のような偈がある。

「『「未聞者得聞，已聞者堅固，捨離諸惡業，身壞得生天。」

> 「いまだ聞かざる者は聞くを得、 すでに聞ける者は堅固となり、 もろもろの悪業を捨て離れて、 身壊れなば天に生まれる」

「『牟修樓陀！何者復是第十天道，而著彼道得到天上？謂柔軟心。牟修樓陀！彼柔軟心有四功德：一者於他不生怨嫌；二者雖作而不堅固；三者不為瞋恚所惱；四者身壞命終生天。此有偈言：

> 「牟修樓陀よ、第十の天道とは何か。その道に従って天に至るとは、柔和な心のことである。 牟修樓陀よ、その柔和な心には四つの功徳がある。第一に、他者に対して怨みや嫌悪を生じないこと。第二に、たとえ何かをしても、それが執着に固まらないこと。第三に、怒りの心に悩まされないこと。第四に、身体が壊れ命が終わった後に天に生まれることである。これを偈で示そう。

「『「若善淨無垢，諸過不著心，瞋垢不能污，死後得生天。」

> 「もし心が清らかで汚れがなく、あらゆる過ちに心がとらわれず、怒りや汚れに心を染められることがなければ、死後には天に生まれ変わるでしょう。」

「『牟修樓陀！何者復是十一天道，而著彼道得到天上？謂信業果。信業果者，一切惡業皆悉捨離，乃至不起微塵等惡，唯於惡業見則怖畏。彼人善業、不善業果，一切皆知。彼人知已，造作善業，捨不善業。彼人恒常習作善業，身壞命終得生天上。此有偈言：

> 「牟修楼陀よ。さらに第十一天の道とは何か。その道によって天に生まれるとは、すなわち業の結果を信じることである。業の結果を信じる者は、あらゆる悪い行いをすべて捨て去り、塵ほどの小さな悪さえも起こさない。ただ悪い行いを見れば恐れを抱く。その人は善い行いと不善な行いの結果を、すべて知っている。それを知った上で、善い行いを行い、不善な行いを捨てる。その人は常に善い行いを習慣とし、身が壊れて命が終われば天に生まれる。これについて偈がある。」

「『「若知業果者，常見微細義，彼惡所不染，如空泥不污。」

> もし業（カルマ）の果報を知るならば、 微細な真理を常に見るだろう。 その人は悪に染まることがない、 まるで虚空に泥がつかないように。

「『牟修樓陀！何者復是十二天道，而著彼道得到天上？謂於三寶深心信敬，不顛倒信。彼於三寶深心信敬，不顛倒故，無量功德。多有無量百百功德，此一功德，則勝一切諸餘功德。謂此丈夫先受人樂，終到涅槃；謂天、天女不放逸行，若放逸天，非世間樂、非出世樂。以是義故，牟修樓陀！如彼大仙名迦那迦牟尼世尊，如是為彼夜摩天王樂見說法。彼如是法，一切如來法皆如是，更不異法，如汝於前舊天所聞。此有偈言：

> 「ムシュローダよ。さらに、十二の天道とは何か。それに従って天に至る道とは、すなわち三宝（仏・法・僧）に対して深く心から信仰し、敬い、誤りのない信心を持つことである。このように三宝を深く心から信じ敬い、誤りがないがゆえに、無量の功徳が生まれる。数え切れないほどの多くの百の功徳があるが、この一つの功徳だけで、他のすべての功徳に勝る。すなわち、この人はまず人の世の楽しみを受け、ついには涅槃に至るのである。これは天や天女が放逸（なまけ怠ること）なく修行するような者たちのことである。もし放逸な天であるならば、世間の楽しみにも、出世間の楽しみにも至らない。そのような理由から、ムシュローダよ。かの大仙人迦那迦牟尼世尊が、夜摩天王の楽見のためにこのように説法されたように、この法はすべての如来の法もまた同様であり、別の法ではない。それはあなたが以前に古い天の者たちから聞いたことと変わらない。ここに偈がある。

「『「深心信三寶，無量數勤修，於先得生天，終得涅槃果。」

> 深く心から三宝を信じ、限りなく努力して修行すれば、 まずは天に生まれ、最後には涅槃の果てを得る。

「『此等則是十二天道，恒常修行，如是必定得果不疑。』爾時，天王牟修樓陀并八萬天，從佛世尊聞此法門，聞已皆得須陀洹果。

> 「これらこそが十二の天道であり、常にこのように修行すれば、必ずや結果を得られることは疑いありません。」 その時、天の王である牟修楼陀は八万の天たちと共に、仏世尊からこの教えを聞き、それを聞いて皆、須陀洹果を得ました。

「爾時，天王牟修樓陀禮世尊足，而說偈言：

> その時、天の王である牟修樓陀は、世尊の足を敬って礼拝し、次のように詩句を唱えた。

「『我得脫惡道，依於佛世尊，一切天孤獨，如來法救度。我朝日得果，入於佛法中，共天如是入，過生死畏處。』

> 「私は悪道から脱することができました。世尊（仏陀）のおかげです。 すべての天人は孤独であり、如来の法が救いとなります。 私は今まさに成果を得て、仏の教えに入りました。 天とともにこのようにして、生死の恐れを超える場所に入るのです。」

「牟修樓陀如是說已，飛昇虛空，并諸天眾向夜摩天所居地處。彼天一切如是皆到，既到天中，猶故受樂，遊行嬉戲。一生命業盡已則退，惡道閉塞。生於人中，第一富樂、第一端正，有勝大心，一切國土於中皆勝。若有非是須陀洹者，彼天退已，如其業行，或生地獄、餓鬼、畜生。若餘業故，得生人中，彼亦如是得大富樂，種種莊嚴。以餘業故。

> 牟修樓陀はこう語り、空に飛び上がった。天の衆も皆、従って夜摩天の住む地へと向かった。彼の天に全てが到着すると、なおも楽を受けて遊び戯れた。一生の業が尽きれば退き、悪道は塞がれる。人間に生まれれば、第一の富と楽、第一の端正な姿を持ち、勝れた大いなる心を備え、あらゆる国々の中でも優れている。もし須陀洹（預流果）でない者は、その天から退いた後、その業行に従い、地獄・餓鬼・畜生に生まれる。あるいは余りの業によって、人間に生を得ることもある。その者もまた、同様に大いなる富と楽を得て、様々な荘厳を備える。それは余りの業によるのである。

「又彼比丘知業果報，次復觀察夜摩天中所有地處。彼見聞知：夜摩天中復有地處，彼處名為乘處遊行。眾生何業生彼地處？彼見聞知：若人善心，善深直心，不殺盜婬。彼人善業，身壞命終生彼地處。始生彼時，即見天中種種樹林、清流水河、蓮花池等，勝妙殊異甚可愛樂。眾鳥音聲，聞香知味觸等皆勝，可愛可樂。

> また、あの比丘は、業とその報いの道理を知り、次に夜摩天にあるすべての地処を観察した。彼は見聞きして知ったことには、夜摩天の中にまた地処があり、その地処の名は「乗処遊行」という。どのような業によって、衆生はその地処に生まれるのか？彼は見聞きして知ったことには、もしある人が善心を持ち、深く真っ直ぐな心で、殺生・盗み・邪淫を犯さなければ、その人の善業により、身が壊れ命が終わった後、その地処に生まれる。初めてそこに生まれた時、すぐに天界にある様々な樹林、清らかに流れる川の水、蓮の池などを見る。それらは非常に素晴らしく特別で、とても愛しく楽しめるものだ。様々な鳥の鳴き声があり、香りを嗅ぎ、味を知り、触れるものすべてが優れており、愛しく楽しい。

「見彼妙色、聞妙聲等，作如是言：『今此所見種種樹林，種種可愛清流水河、蓮花池等，種種妙色昔所未有，甚為可愛、甚為可樂，有無量種，更無相似，心叵厭足。今此所聞種種歌聲、眾鳥音等，悉皆勝妙昔所未有，甚為可愛、甚為可樂，有無量種，更無相似，心叵厭足。今所聞香昔所未有亦甚可愛，亦甚可樂，有無量種，更無相似，心叵厭足。此味亦爾，昔所未有，亦甚可愛，亦甚可樂，有無量種，更無相似，心叵厭足。此觸亦爾，昔未曾有，亦甚可愛，亦甚可樂，有無量種，更無相似，心叵厭足。』彼天如是內心思惟五欲境界，念欲常得。如是勝妙五境界樂，嬉戲遊行，心不厭足。

> 彼はその美しい姿を見、素晴らしい音を聞いて、こう言いました。 「今ここに見える、様々な林、美しく流れる清らかな川や蓮の池、そしてかつて見たことのない彩り。それらは何とも愛おしく、楽しいものだ。無数の種類があり、比べるものもなく、心は決して満たされることがない。 今ここに聞こえる、様々な歌声や鳥の声も、すべてかつてないほど素晴らしく、愛おしく、楽しい。無数の種類があり、比べるものもなく、心は決して満たされることがない。 今、香る香りもかつてなく、とても愛おしく、楽しい。無数の種類があり、比べるものもなく、心は決して満たされることがない。 この味わいもまた同じだ。かつてなく、とても愛おしく、楽しい。無数の種類があり、比べるものもなく、心は決して満たされることがない。 この触れ心地もまた同じだ。かつてなく、とても愛おしく、楽しい。無数の種類があり、比べるものもなく、心は決して満たされることがない。」 その天人は、心の中で五つの感覚の世界についてこう思い、いつでもそのような素晴らしい五つの感覚の楽しみを得たいと願い、遊び戯れて歩き回り、心は決して満たされることがありません。

「彼處所有一切天女聞已語言：『此天世間，法常如是，一切境界一切常爾，無不樂處、無不樂時。如此勝相，處處普遍，具足皆有五欲功德，有無量種隨念皆得，常受天樂，更無與等。天見此林已，生如是希有之心，何況入中。牟修樓陀天王之前，復過於是。彼處九億那由他千種種莊嚴少色天女，歌舞具足，歡喜心面，五欲功德而為供養。牟修樓陀夜摩天王如是受樂，夜摩天王牟修樓陀天子必見。何以故？此處境界，牟修樓陀夜摩天王則是其主，此一切天皆屬彼王，我等依之猶如父母，在此一切夜摩天中所有地處。』

> 「そこにいるすべての天女たちは、これを聞いて言いました。『この天の世界では、自然の摂理は常にこのようである。すべての境遇は常にそのようであり、楽しくない場所も、楽しくない時もない。このような素晴らしい状態が、あらゆる場所に満ち溢れ、五感の快楽が完全に備わっている。無数の望みは常に叶えられ、絶えず天の悦びを享受し、比べるものもない。天がこの林を見るだけで、これほど稀有な心を起こすのだから、ましてやそこに入ればなおさらだ。さらに、ムシュクンダ天王の前では、それはなおさら素晴らしい。そこには九十六万種の様々な飾りをまとった美しい天女たちがいて、舞い歌い、喜びに満ちた表情で、五感の快楽をもって供養している。ムシュクンダ夜摩天王はこのようにして楽しんでいる。夜摩天王ムシュクンダ天子は必ずやここを訪れるであろう。なぜなら、この境地の主はムシュクンダ夜摩天王であり、これらの天はすべて彼の領民であり、私たちは彼を父母のように頼っている。この夜摩天の地すべてにおいて、彼こそが支配者だからである』」

「彼始生天，既聞此已，諸天女等而為圍遶，入彼林中。既入林已，見下中色種種形服莊嚴諸天，一切皆受五欲功德。行食俱樂，一切皆有五功德食。見彼遊戲，多有無量諸天女眾共餘諸天美聲語說，無量百千種種功德而為莊嚴。復有七寶妙樹莊嚴，復有種種行樹莊嚴。彼處多有隨憶念樹，天有所念，從彼樹得，如是具足功德寶樹。彼始生天，有無量種勝妙功德皆悉具足，五境界樂亦皆具足。彼天見已，眼著甚樂，生勝愛樂，處處遍見。如是見已，共諸天女入彼大林，入大林已，豐飲食河百千莊嚴，種種色鳥、種種音聲。彼諸天女歌聲普遍，耳聞其樂，與鳥合聲。

> 彼の天人は、新たに天界に生まれましたが、この話を聞いてすぐ、天女たちに囲まれて、その林の中へと入っていきました。 林の中に入ると、さまざまな身分や姿、衣服や装飾を身につけた天々が、皆、五感の楽しみを満喫しているのが見えました。皆、食事を楽しみ、遊び楽しみ、五種の功徳を備えた食べ物を共にしていました。 また、天女たちが大勢集まり、他の天々と美しい声で語り合い、数えきれないほどのさまざまな功徳で飾り立てられていました。 さらには、七宝でできた素晴らしい木々や、様々に植えられた並木が、林を美しく飾っていました。その場所には、思いのままに叶う樹木が多くあり、天人が何かを望めば、その樹から叶えられました――まさに、功徳と宝を備えた木々でした。 新たに生まれたその天人は、無数の優れた功徳をことごとく具え、五感の楽しみもすべて手に入れていました。彼はそれを見るたびに、目を奪われ、深い喜びを感じ、どこを見渡しても惚れ惚れとするばかりでした。 こうして見終えると、彼は天女たちと共に、その大いなる林へと入っていきました。林の中に入ると、飲食物に溢れた川が幾重にも連なり、色とりどりの鳥たちがさまざまな声で鳴いていました。天女たちの歌声は林じゅうに響き渡り、その音を聴けば心から楽しくなり、鳥たちの声と見事に調和していました。

「彼始生天，復於異處見蓮華林，希有殊妙，長三由旬，廣二由旬。見彼大林有金蓮花，無量形相，有無量色以為莊嚴。譬如秋時，虛空之中諸曜莊嚴，如是如是。百千天女多饒具足，歌舞遊戲，五樂音聲，受諸快樂，迭相心念，迭相附近，一念不離，恒常一心，迭相愛樂。見園林中處處多有歡喜天眾，亦見多有種種鳥群，迭共戲樂，迭相愛念，迭相附近，一念不離，恒常一心，迭相愛樂。如是天等遊戲受樂，鳥亦如是。鵝鴨鴛鴦如是等鳥有無量種，無量群眾在蓮華林清淨水中，處處遊戲於彼河岸。其處有天摘取金葉用飲天酒，共天女眾歌舞遊戲，受種種樂。復摘銀葉用飲赤酒，酒色猶如蓮花寶色，香味清冷一切具足，共諸天女歌戲受樂。自善業力之所感致。復有異天亦在彼處蓮花林中極可愛處，如是諸天五欲境界受諸快樂，摘青寶色蓮花之葉，共諸天女用飲天酒。復有異天入彼樹下，天華所覆，既飲天酒，怡然快樂，於園林中共諸天女遊行放逸，飲色香味天果美汁，歡喜歌笑。復有異天金銀玻瓈、青寶樹枝覆蔭為舍，共諸天女歌笑嬉戲，受天快樂。復有異天依止河岸鳥音聲處，在柔軟地、妙觸之地其處生華，摘取彼華。其華五色，有別、有合。共諸天女取已嗅之，彼諸天女近於天子歌舞戲笑。復有異天在種種寶石地之上，所謂青寶、玻瓈金銀，如是地處嬉戲遊行受諸快樂。乃至集作愛善業盡，善業盡已，於彼處退。彼處退已，墮於惡道，生在地獄、餓鬼、畜生。若有餘業，得生人中，常生樂處，則有第一端正之色，大心大富，得為國主。以餘業故。

> その天人は、初めて天に生まれてから、また別の場所に蓮華の林を見た。それは希有で殊妙、長さ三由旬、広さ二由旬であった。その大いなる林には金の蓮華があり、無量の形相、無量の色をもって荘厳されていた。例えば秋の時、虚空の中の諸々の星々が荘厳するように、そのようであった。百千の天女が豊かに具わり、歌舞遊戯し、五つの楽の音声で様々な楽しみを受け、互いに思い合い、互いに近づき合い、一念の間も離れず、常に一心で、互いに愛し楽しんだ。 園林の中には至る所に喜び楽しむ天の衆が多くおり、また多くの種々の鳥の群れがいて、互いに遊戯し楽しみ、互いに愛し思い、互いに近づき合い、一念の間も離れず、常に一心で、互いに愛し楽しんでいた。このように天の人々は遊戯して楽しみ、鳥たちもまた同じであった。鴨や鴛鴦などの鳥たちは無量の種類、無量の群れをなし、蓮華の林の清らかな水の中で、至る所で遊戯し、その川岸で過ごしていた。 その場所には、天人が金の葉を摘み取って天の酒を飲み、天女の衆と共に歌舞遊戯し、種々の楽しみを受けている者がいた。また、銀の葉を摘み取って赤い酒を飲む者もいた。その酒の色は蓮華の宝の色のようであり、香りも味も清らかで冷たく、すべてが具わっていた。彼らは天女の衆と共に歌い戯れ楽しみ、自らの善業の力によってこのようなことがもたらされていた。 さらに別の天人がその場所、蓮華の林の中の極めて愛すべき場所にいた。これらの天人は五欲の境界で諸々の楽しみを受け、青い宝の色の蓮華の葉を摘み取り、天女の衆と共に天の酒を飲んでいた。また別の天人はその木の下に入り、天の華に覆われ、天の酒を飲み終えて、穏やかに楽しみ、園林の中で天女の衆と共に遊び歩き、色と香りの良い天の果実の汁を飲み、喜び歌い笑っていた。 さらに別の天人は、金、銀、玻璃、青宝の木の枝が覆い陰を作る住まいの中で、天女の衆と共に歌い笑い戯れ、天の楽しみを受けていた。また別の天人は、川岸の鳥の鳴き声のある場所に寄り添い、柔らかく妙なる触りの地に生えた花を摘み取っていた。その花は五色であり、別々のものもあれば、混ざり合ったものもあった。彼らは天女の衆と共に花を摘んでは嗅ぎ、その天女たちは天子に近づいて歌舞し戯れ笑っていた。 また別の天人は、種々の宝石の地、すなわち青宝、玻璃、金、銀などの上で、戯れ遊び歩き、諸々の楽しみを受けていた。このようにして、善業が尽きるまで集め行われた。善業が尽きた時、その場所から退転した。その場所から退転した後、悪道に堕ち、地獄・餓鬼・畜生に生まれた。もし余った業があれば、人中に生まれて常に楽しい場所に生まれ、最も第一の端正な色かたちを持ち、大いなる心と大いなる富を持ち、国王となる。これが余った業によるのである。

「又彼比丘知業果報，次復觀察夜摩天中所有地處。彼見聞知：復有地處，彼處名為雲處遊行。眾生何業生彼地處？彼見聞知：若人直心，本性正直，信於三寶，不殺不盜，不行一切不善邪行——不樂、不行亦不多作。見諸婦女，乃至不生欲意之心，不念婬欲，捨婬欲心，亦不分別，猶如捨毒。此善男子身壞命終生夜摩天，在彼雲處遊行之處。生彼處已，身之光明與日不異，受善業樂、受無比樂，無量境界受諸快樂。即初生時，甚大歡喜，心生思惟：『我今云何獨在此處？』即生念時，見諸天女在樹林中。樹種種枝，具足寶鈴，鈴有妙聲。地色猶如火洋真金，地處有如銀玻瓈色，多有百千妙蓮花池以為莊嚴。彼地分處林樹柔軟，有百千鳥出美妙聲。彼諸天女如是林中遊戲受樂，即彼天子心生念時，林間速出妙莊嚴具而自莊嚴。以蓮花鬘莊嚴其頭，其身皆著種種色衣，到天子所。既到近已，種種莊嚴而圍遶之，詠種種歌，微妙音聲心極愛染，娛樂天子。無量樂具，具足而有，彼諸天女如是種種娛樂天子。如是天子於彼天女本未曾見，既得見已，如是思惟：『此是何人？從何處來？繫屬於誰？為誰而來？』

> また、かの比丘は業と果報について知り、次に夜摩天の中にある全ての地処を観察した。彼は見聞きしたところによると、さらに地処があり、その場所は「雲処遊行」と呼ばれている。衆生はどのような業によってその地処に生まれるのか。 彼は見聞きしたところによると、もし人が直心であり、本性が正直で、三宝を信じ、殺さず、盗まず、一切の不善な邪行を行わず——それを好まず、行わず、多くも作さず、婦女を見ても、欲心を起こすことさえなく、婬欲を念じず、婬欲の心を捨て、また分別もせず、あたかも毒を捨てるかのようである。この善男子は、身が壊れ命が終わると夜摩天に生まれ、その雲処遊行の場所に至る。 その場所に生まれると、その身の光明は日と異ならず、善業の楽を受け、比類なき楽を受け、無量の境界において諸々の快楽を受ける。すなわち、生まれたばかりの時、非常に大きな歓喜があり、心に思惟を生じる——「私は今、どうして独りでこの場所にいるのだろうか？」と。そう思ったその時、天女たちが林の中にいるのを見る。林には種々の枝があり、宝の鈴が具足しており、鈴は妙なる声を出す。地面の色は、火で熔かした真金のようであり、地処には銀や玻璃の色のようなものもある。多くの百千の妙なる蓮華の池があり、荘厳としている。その地処の林樹は柔らかく、百千の鳥が美妙な声を出す。かの天女たちは、このような林の中で遊戯し楽を受ける。 その天子が心に念を起こした時、林の中から速やかに妙なる荘厳具が出てきて、自らを荘厳する。蓮華の鬘でその頭を荘厳し、その身は皆、種々の色の衣を著けて、天子の所に到る。既に近づくと、種々に荘厳してこれを囲繞し、種々の歌を詠じ、微妙な音声で心を極めて愛染させ、天子を娯楽させる。無量の楽具が具足してあり、かの天女たちはこのように種々に天子を娯楽させる。このような天子は、かの天女たちをかつて見たことがなかった。既に見るを得て、このように思惟する——「これは誰なのか。どこから来たのか。誰に属するのか。誰のために来たのか。」と。

「既來見已，見其具有種種色衣，有種種寶莊嚴其身，其手執持無量樂器，且少分喻。何處何處三十三天所有天女歌樂之聲，不得為比，何況三種功德具足，無量善業所得之果。夜摩天女於彼三十三天天女歌詠音聲甚為殊勝，色少勢力、身之形量、歌聲樂受、園林諸樹、流水河池、須陀之食、勝妙堂舍、戲樂之處一切皆勝。上上次第乃至他化自在天中，色少勢力、身之形量、歌聲受樂如是等事，一切皆勝。何以故？業果重故。心戒清淨，無垢染故。此夜摩天如是天女不可比類，一切具足。

> すでに彼らを見て、様々な色の衣をまとい、様々な宝で身を飾り、手には無数の楽器を持っているのを見ました。これはほんの一部のたとえに過ぎません。どこであろうと、三十三天（トリヤストリムシャ）にある天女たちの歌や楽器の音は、比べ物になりません。ましてや、三つの功徳を備え、無量の善業の果報はいわずもがなです。夜摩天（ヤマ天）の天女たちは、三十三天の天女たちの歌う声よりもはるかに優れています。色の輝き、からだの大きさ、歌声の楽しさ、庭園の木々、流れる水や池、甘露（スター）の食べ物、見事な堂舎、遊び戯れる場所、すべてにおいて勝っています。上から下へと順に、他化自在天（パラニルミタ・ヴァシャヴァルティン）に至るまで、色の輝き、からだの大きさ、歌声の楽しみなど、これらのことがすべて優れています。なぜでしょうか？業の果報が重いからです。心の戒めが清らかで、汚れがないからです。この夜摩天の天女たちは比較することもできず、すべてを備えています。

「彼如是處有二種過，謂無常、欲，唯有少分微樂可說。若愚癡人受持禁戒，悕望於有，作如是心：『願我持戒得生天中。』為迴彼心，我說：無常、退及愛離，如是等過。何以故？若起少心悕望於有，一切善法皆悉散失。一切有中，無處常者。下上傍廂，若常不動、不破壞者，無有是處。一切分別無不分別，以此因緣，說彼天報非可愛處。

> 彼には二つの過失がある。それは無常と欲望であり、ほんのわずかな楽があるにすぎない。愚かな人が戒律を守りながら、『この戒律を守って天に生まれよう』と存在を願う心を起こすなら、その心を翻すために、私は無常、衰退、愛別離などの過失を説く。なぜなら、存在に対してほんのわずかでも願う心を起こせば、すべての善法は失われてしまうからだ。あらゆる存在のうちに、常住のものはない。上下左右のどこにも、常に動かず、壊れないものがあるはずはない。あらゆる分別には、分別しないというものはない。このような理由により、天の報いは愛すべきところではないと説くのである。

「爾時，彼處諸天女等圍遶如是始生天子，歌舞遊戲種種娛樂。爾時，天子本未曾見，心自思惟：『此屬於誰，而來近我？』隨彼天子心之所念，即心念時，以善業故，彼天女言：『天為我主，何以不共我等語說？天是我夫，隨天所須，我為給使，令天受樂。』時，彼天子既得聞已，作如是言：『汝若屬我，今可來近在此林中，何以故？此之天處是受樂地。生此天者，此處受樂。』時，彼天女即抱天子，無量種種受快樂已。天女復起作如是言：『我共天子在園林中處處遊行。此園林中多饒無量種種天眾，隨眼所見種種可愛種種諸鳥音聲可樂，多有種種流水河池、蓮花莊嚴，多有百千種種山峯。其峯高峻，種種七寶，多有光明莊嚴山峯。種種山谷處處嚴好，多有種種諸鳥音聲。在地處處有池莊嚴，如是功德悉皆具足。我共天子俱行遊戲，受諸欲樂。』爾時，如是始生天子從彼天女聞是語已，語天女言：『我隨汝意，皆如是作。』如是說已，起彼坐處，為受樂故。一切天女共彼天子園林中行，種種音聲天寶樂器在手執持，共彼天子遊行放逸。

> その時、その場にいた天女たちは、生まれたばかりの天子を取り囲み、歌や舞、遊びで様々に楽しんでいました。ところが、天子はこれまでそのようなものを見たことがなかったので、心の中で考えました。「これは誰のもので、私に近づいてくるのか？」と。天子が心でそう思うと、善業の力によって、天女たちは言いました。「天よ、あなたが私たちの主です。どうして私たちと話してくださらないのですか？天は私たちの夫です。あなたの望みのままに、私たちは仕え、あなたに楽しみを与えましょう。」その言葉を聞いた天子は言いました。「もしあなたたちが私のものであるなら、さあこの林の中で私のそばに来なさい。なぜなら、この天の場所は楽しみを受ける場所であり、ここに生まれた者はここで楽しむのだから。」すると天女たちは天子を抱きしめ、計り知れないほどの多くの楽しみを与えました。そして天女たちは立ち上がって言いました。「私たちは天子と共に、園林の中をあちこち巡りましょう。この園林には無数の天の衆生がいて、目に入るものはすべて愛らしく、様々な鳥の声は心地よく、多くの流れる水や池があり、蓮華で飾られています。また、百千もの様々な山の峰々があり、その峰は高くそびえ、様々な七宝で輝き、光明に飾られています。様々な谷は至る所美しく、様々な鳥の声が響き、地面には至る所に池が飾られています。このような功徳が全て備わっています。私たちは天子と共に歩き、遊び、様々な欲望の楽しみを受けましょう。」その時、生まれたばかりの天子は、この天女の言葉を聞いて、天女に言いました。「私はあなたの思いのままに、全てそうしよう。」そう言って、楽しみを受けるために、彼は座っていた場所から立ち上がりました。全ての天女たちは、手に天の宝の楽器を持ち、様々な音声を奏でながら、その天子と共に園林の中を遊び、放逸のままに歩きました。

「爾時，天子共彼天女遊行放逸，復有其餘天子、天女共行遊戲合會相逢。時二天子見則相愛迭共語說，彼此天女亦復如是，心迭相愛，一切和合，復向異林。如是林者，名戲樂林，彼林之量三千由旬，彼林無量有百千億那由他數。諸天子眾滿彼林中，如歡喜林曠野無異，如是具足種種功德，名戲樂林。天遊行處種種具足。彼兩朋天，共見彼處皆悉本來未如是見亦未曾聞，不可譬喻。見彼林已，生歡喜心，面眼目等皆有喜狀。時始生天及其天女即語彼天，作如是言：『此如是等，昔來未見。』如是說已，兩朋天子、兩朋天女頭著天鬘，身塗栴檀坐天堂殿，上昇虛空，歌舞喜笑迭共遊戲，相與共詣牟修樓陀夜摩天王。如是上去，復有餘天并其天女，手執蓮花坐天之處，上昇虛空，歌舞喜笑迭共戲樂，相與共詣牟修樓陀夜摩天王。亦爾上去，復有餘天能微細行，手執箜篌，能穿無量百千山過，行不障礙。共諸天女歌舞嬉戲，亦復向彼牟修樓陀夜摩天王所住殿舍，心生歡喜。亦爾上去，復有餘天於虛空中雨諸天花，共諸天女歌舞嬉戲，亦復向彼牟修樓陀夜摩天王所住殿舍。亦爾上去，彼始生天如是無量種種差別，無量遊戲皆悉具見，亦共同行，在天女前如是而行。彼無量天皆以美語共其言說。

> その時、一人の天子が天女と共に遊び戯れ、また別の天子と天女たちも互いに出会い、共に楽しんでいた。その二人の天子は互いに見るや愛し合い、語り合い、彼らの天女たちもまた同じように心から愛し合い、全てが和合して、また別の林へと向かった。その林は名を戯楽林といい、その広さは三千由旬もある。その林には無量の百千億那由他もの多くの天子たちが満ちていた。それは歓喜林の広野と変わらず、様々な功徳を備えた、戯楽林と呼ばれるものであった。天の遊び処は、様々に整っていた。 その二組の天は、その場所を見て、皆が本来、これまでこんなものを見たことも聞いたこともなく、譬えることもできないと感じた。その林を見て、歓喜の心を生じ、顔や目にも喜びの様子が現れた。その時、新しく生まれた天子とその天女は、別の天にこう言った。「このようなものは、昔から見たことがない」と。そう言い終えると、二組の天子と二組の天女は、天の花冠を頭に戴き、栴檀を身に塗り、天の殿堂に座って虚空に昇った。歌い踊り、笑い合い、互いに遊び戯れながら、ともに牟修楼陀夜摩天王のもとへ向かった。 また上ってゆく先には、別の天とその天女が、手に蓮華を持ち、天の場所に座って虚空に昇り、歌い踊り、笑い合い、互いに戯れながら、ともに牟修楼陀夜摩天王のもとへ向かった。また別の天は、微細に行くことができ、手に箜篌を持ち、無量の百千の山を貫き通り、行くことに障りがなかった。天女たちと共に歌い踊り戯れながら、その牟修楼陀夜摩天王の住む殿舎へ向かい、心に歓喜を生じていた。 また別の天は、虚空中で多くの天の花を降らせ、天女たちと共に歌い踊り戯れながら、その牟修楼陀夜摩天王の住む殿舎へと向かった。その新しく生まれた天は、このように無量の様々な違い、無量の遊戯を全て見て、共に行き、天女たちの前をこのように進んだ。その無量の天たちは皆、美しい言葉で互いに語り合った。

「爾時，如是始生天子遙見遠處有勝光明，過百千日，自餘凡夫眼不能觀。復聞彼處無量音聲，聲有四種：一者相應；二者真正；三者和合；四者平等。如是音聲彼天聞已，心生歡喜問天女言：『今見彼處勝妙可愛，有大光明在於彼處，如是遙見。彼處如是勝上音聲，美妙平等和合歌聲，復有舞戲，云何如是？』爾時，天女即便語彼始生天子作如是言：『夜摩天王彼處受樂，多有無量百千天眾，復有無量諸天女眾，一切天眾之所讚歎。猶如兜率寂靜天王，受天之樂。』

> そのとき、新しく生まれた天子が遠くの場所に、百千の太陽を超える勝れた光明があるのを遠くに見ました。通常の凡夫の目には見えません。さらに、その場所から無数の音声が聞こえてきます。その声には四種類があります。第一に相応、第二に真正、第三に和合、第四に平等です。このような音声を聞いて、その天子は心に喜びを生じ、天女に問いました。「今、あの場所に勝れて美しく愛らしいものがあり、大きな光明があそこにあると遠くに見える。あそこではこのように勝れた音声があり、美しく平等に調和した歌声や舞戯があるが、なぜこのようなのか？」そのとき、天女はその新たに生まれた天子にこう語りました。「夜摩の天王はあの場所で楽しみを受けています。無数の百千の天の衆や、無量の天女の衆が共にあり、すべての天の衆から讚歎されています。あたかも兜率の寂静の天王が天の楽しみを受けているかのようです。」

「爾時，如是始生天子既聞是語，則生第一希有之心，如是念言：『除寂靜王，如是受樂，更有何處如是受樂？』時，彼如是始生天子既思念已，語天女言：『誰名寂靜？於何處住？我見此已，當往見之。』時，彼天女聞其語已，心則思惟作如是念：『此始生故，不知更有大勢力，故作如是言：「我見寂靜。」』時，彼天女復語之言：『兜率陀天在我之上，於我為勝，過百千倍。我之所有受用之樂，一切業果皆悉殊勝。彼於此處夜摩天王威德勢力及餘一切，種種皆勝，在我上住。一切凡天皆不能往，非其境界。彼天一切於我皆勝，若天具有福德之力、大神通力則能往到，非一切天皆能到彼。』

> その時、この新しく生まれた天子はその言葉を聞いて、この上ない稀有の心を生じ、こう思った。『寂静王を除いて、このような楽しみを受ける者がいるだろうか？いったいどこにこのような楽しみがあるのだろうか？』そう考えて、天子は天女に尋ねた。『寂静とは誰のことか？どこにおられるのか？私はそれを見て、お目にかかりたい。』 天女はその言葉を聞いて、こう考えた。『この天子は新しく生まれたばかりで、さらに大きな勢力がいることを知らないのだ。だから「寂静に会いたい」と言うのだな。』そこで天女は答えた。『私たちの上には兜率天という天があり、私たちより百千倍も勝れています。私たちの持つ楽しみや因果の報いも、すべてがずっと勝れています。あの天は、ここ夜摩天の王の威徳や勢力など、あらゆる面で勝っており、私たちの上にあります。普通の天人は誰も行けず、その領域ではありません。あの天はすべてにおいて私たちより優れており、福徳の力や大きな神通力を持つ天人のみが行けるのであって、すべての天人が行けるわけではありません。』

## 正法念處經卷第三十七

> 正法念処経 第三十七巻