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title: "正法念處經 · 5"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm9tojq0x07l9hj0v83dlqlr9"
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## 正法念處經卷第四十

> 正法念処経 巻第四十

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之十九夜摩天之五

> 第十九 観天篇<note>夜摩天の五</note>

「牟修樓陀夜摩天王如是呵責，既呵責已，復共無量百千天眾，皆悉從彼赤優鉢羅相隨而出，向餘山峯。其峯名曰一切觀察，五百由旬，七寶莊嚴，流水河池，園林眾華、鳥眾莊嚴，有無量種功德具足。牟修樓陀夜摩天王為欲遊戲受快樂故，上彼山峯。一切觀察妙寶山峯種種可愛，所謂其根有妙水池名為愛見，圍遶山峰。於彼池中，有名角峯，出在水中，七寶為節，節如臂釧。彼七寶節有勝光明，狀如竪臂，五百由旬。又其頭上七節枸欄，周匝而有，所謂七者：一、金枸欄；二、銀枸欄；第三枸欄是毘琉璃；第四枸欄則是青寶；第五枸欄則是車𤦲；第六枸欄，赤蓮花寶；第七枸欄，金剛妙寶。如是諸寶以為間錯，有如是等妙寶枸欄而圍遶之，周匝端嚴甚可愛處。多有天眾、多天女眾第一妙色，可愛音聲，如是莊嚴，如是殊妙。

> 牟修楼陀夜摩天王は、このように戒めてから、無数の百千の天の衆と共に、その赤い優鉢羅花（の場所）から続々と出て、別の山の峰へ向かった。その峰の名は「一切観察」といい、五百由旬の高さがあり、七宝で飾られている。流れる水や池、林や様々な花々、鳥たちで飾られ、無量の功徳を具えている。牟修楼陀夜摩天王は、遊び楽しむために、その峰に登った。一切観察の宝の峰は、様々に愛らしい。その麓には「愛見」という名の素晴らしい池があり、峰をぐるりと取り巻いている。その池の中には「角峰」と呼ばれるものがあり、水中にそびえている。七宝でできた節（ふし）があり、その節は腕輪のように美しい。その七宝の節は、勝れた光明を放ち、腕を立てたように見えて、五百由旬の高さがある。また、その頂上には七種の欄干（手すり）が巡らされている。その七種とは、第一に金の欄干、第二に銀の欄干、第三に毘瑠璃（瑠璃）の欄干、第四に青宝の欄干、第五に車渠（シャコ）の欄干、第六に赤蓮華宝の欄干、第七に金剛の妙宝の欄干である。これらの宝が互いに織り交ぜられて、このような妙宝の欄干がその周りを巡らし、非常に美しく、愛すべき場所となっている。多くの天の衆、多くの天女たちが、第一の妙なる色と愛らしい音声で、このように飾り、このように素晴らしい様子である。

「爾時，天王牟修樓陀共多天眾、多天女眾，乃至無量百千之眾，如是共到一切觀察山峰之所。既往到已，見彼山峰諸天眾已，而說偈言：

> その時、天王マウディルヤは、多くの天の衆や多くの天女の衆、数え切れないほどの百千の衆と共に、すべてを見渡す山の峰に到りました。そこに着くと、その山にいる天の衆を見て、次のように偈を唱えました。

「『夜摩一切處，此高如舉臂，恒於一切時，多饒諸天眾。光明端正山，七寶所莊嚴，有清淨流水，有蓮花池遶。園林甚可愛，多饒諸鳥鹿，此峯池中出，極高穿虛空。此處天常樂，天鬘自莊嚴，歌舞心歡喜，天女極甚多。五樂音可愛，覩者心樂見，此峰甚可樂，周匝光明圍。以所作善業，三種持戒因，天眾依此峯，遊戲受快樂。我久依此峯，遊戲受諸樂，此是欲樂地，善業之所化。此處凡癡天，有已退今生，放逸行眾生，如羊屠者殺。自死不覺知，如羊不怖畏，若天覺知死，不應行放逸。』

> 「夜摩のあらゆる場所、この高みは腕を上げたほどにあり、 常にいつの時も、多くの天の衆が満ちている。 光明に輝く端正な山、七宝で飾られ、 清らかな流水があり、蓮華の池が巡っている。 園林はとても愛らしく、多くの鳥や鹿が満ちている。 この峰は池の中からそそり立ち、非常に高く虚空を貫いている。 この場所では天人が常に楽しみ、天の鬘で自らを飾り、 歌舞に心から喜び、天女は非常に数多い。 五種の楽の音は愛らしく、見る者は心で見ることを楽しむ。 この峰はとても楽しめる場所で、周囲を光明が囲んでいる。 なされた善業によって、三種の戒律を守った因により、 天の衆はこの峰に依り、遊戯して楽しみを受ける。 私は長くこの峰に依り、遊戯して諸々の楽しみを受けた。 これは欲望の楽しみの地であり、善業によって変じたものである。 この場所の凡庸で愚かな天は、すでに退いて今生に至るものもあり、 放逸に行ずる衆生は、羊が屠者に殺されるようである。 自らの死を知ることなく、羊が恐れをなさないように。 もし天が死を知るなら、放逸に行ずべきではない。」

「牟修樓陀夜摩天王如是既見一切觀察妙山峯已，見多無量百千億數那由他天、諸天女眾種種境界，心意受樂。諦見諸天業果報已，復觀諸天行放逸行，為愛所漂，未知厭足，諸欲熾火之所燒然。既見如是愚癡天已，心生憐愍，已為說偈。復更前入一切觀察山峰之中，自業受樂，定業所牽，心搖動故。復與百千諸天女眾，如是相共入彼樂處。彼處舊天既見天王牟修樓陀，即便奉迎，有住空者、有以眾香自塗身者、有在鳥背堂中住者、有共天子而前奉迎牟修樓陀夜摩天王乘空行者、有作五樂音聲迎者，如是種種異異莊嚴，各各奉迎牟修樓陀夜摩天王。爾時，如是一切天等在上空中，以諸花香皆悉下散牟修樓陀夜摩天王，散已前近。復有餘天以金樂器出妙音聲，并復歌讚，亦復前近牟修樓陀夜摩天王。復有餘天手執花鬘，彼花之香，聞者欲發，住在空中，天風所吹，其衣搖動，漸漸前近牟修樓陀夜摩天王。復有餘天住虛空中，妙聲讚歎牟修樓陀夜摩天王，漸漸前近。有如是等無量異天，種種異異殊勝莊嚴，有種種色——以作業時有下中上，色莊嚴等亦復如是有下中上——一切皆向牟修樓陀夜摩天王各各奉迎。爾時，如是一切天眾皆悉讚歎牟修樓陀夜摩天王，迎已俱到一切觀察山峯上已。天王力故，諸欲功德，五境界樂有無量種，一切增長，以善業故。

> 牟修楼陀夜摩天王は、このようにして一切観察妙山峰をすべて見渡した後、無数の百千億那由他もの天や天女たちが、様々な境界において心で楽しみを受けているのを目にした。彼は天の業と果報をはっきりと見極め、さらに、天々が放逸な行いにふけり、愛欲に漂い、満足を知らず、欲望の激しい火に焼かれているのを観察した。このような愚かな天々を見て、彼は哀れみの心を起こし、すでに偈を説いていた。そして再び、一切観察山峰の中に入り、自らの業に従って楽しみを受け、定まった業に導かれ、心が揺れ動くままに、百千の天女たちと共に、その楽しみの場所へと向かった。 その場所にいた以前からの天々は、王の牟修楼陀が来るのを見ると、すぐに出迎えた。中には空中に留まる者、様々な香を体に塗る者、鳥の背にある堂にいる者、天子と共に前に進んで牟修楼陀夜摩天王を迎える者、五種の音楽の音を奏でて迎える者などがいた。このように様々に異なる装いで、各々が牟修楼陀夜摩天王を迎えた。その時、これらすべての天々は上空にあって、様々な花や香で牟修楼陀夜摩天王の上に散りまいた。散り終えると近づいて行った。また別の天々は金の楽器で妙なる音を奏で、歌を称えながら、やはり牟修楼陀夜摩天王の近くに進み寄った。また別の天々は手に花の鬘を持ち、その花の香りは、嗅ぐ者に欲望を起こさせた。彼らは空中に留まり、天の風に吹かれて衣を揺らしながら、徐々に牟修楼陀夜摩天王に近づいた。さらに別の天々は虚空に留まり、美しい声で牟修楼陀夜摩天王を称賛しながら、徐々に近づいた。このように数え切れないほど多くの異なる天々が、様々に異なる素晴らしい装いをし、様々な色をまとっていた。それは、業を行う時に下・中・上の区別があったように、色や装いにも下・中・上の差があったのである。彼らは皆、牟修楼陀夜摩天王の方を向いて、各々出迎えた。その時、これらすべての天々は皆、牟修楼陀夜摩天王を称賛し、出迎えた後、共に一切観察山峰の上に到着した。天王の力によって、様々な欲望の功徳、五つの境界の楽しみは、無数の種類があり、すべてが増大した。これは善業によるものである。

「爾時，天主牟修樓陀共諸天眾在於園林妙蓮花池，成就無量種種諸欲，漸次更上一切觀察山峰之上其餘地處。既到彼已，善業力故，即便得見惡道門開，見有天女時至欲退。彼欲退故，先九相現，所謂：一者皮緩太軟，以其皺故。二者身動。以身動故，頭上著花，離散墮落。復有第三退相已現，謂：著赤花在頭則黃。復有第四退相已現，謂：有風來吹其衣服，無縷之衣則如縷成，如人衣觸。復有第五退相已現，謂：空中飛則生疲倦，地行亦爾。復有第六退相已現，謂：身汗水本清，今濁。復有第七退相已現，謂：至樹下取花取果，樹枝則舉高不可得，則不能取。復有第八退相已現，謂：天子來共行欲者，則見天女色醜無媚。復有第九退相已現，謂：有風來散其頭髮，令不柔軟，觸則麁澁。此退相現，天數十日，於人中數經二千年，猶故不退。

> 爾時、天主である牟修楼陀は、天の衆生たちと共に、園林の美しい蓮池にいた。無量の様々な欲望を満たしながら、次第に進み、あらゆるものを観察する山の頂上にある別の場所へと向かった。そこに着くと、善業の力によって、悪道への門が開かれているのを見た。そして、天女が、その時が来て退転しようとしているのを見た。彼女が退転しようとする時、まず九つの相が現れる。すなわち、第一に、皮膚が緩んで非常に柔らかくなり、しわが寄る。第二に、身体が震える。身体が震えるため、頭に飾っていた花が離れて落ちる。さらに第三の退転の相が現れる。頭に飾っていた赤い花が黄色に変わる。第四の退転の相が現れる。風が吹いて衣服を乱す。元は縫い目のない衣が、まるで糸で縫われたかのように見え、人の衣服が触れたようになる。第五に、空中を飛ぶと疲れを生じ、地上を歩くのも同様になる。第六に、身体の汗が、もとは清らかだったのに濁る。第七に、木の下に行って花や実を採ろうとすると、枝が高く上がって届かず、取ることができない。第八に、天子が共に欲を楽しもうと来ても、天女の姿は醜く魅力がないと見える。第九に、風が吹いて彼女の髪を乱し、柔らかさがなくなり、触るとざらざらしている。これらの退転の相が現れても、天の数十日間、人間の時間で二千年もの間、なお退転しないのである。

「彼退天女復有二種退相現已，則到退時。所謂一者：欲心則多，不能暫住。所謂二者：在遊行地，地不柔軟，下足不容，舉足不起；獨不能住，喚餘天女言：『我煩悶，共我住此。』彼退天女又復更有退相已現，所謂相者：脣動不住，無語因緣而動不止。彼退天女又復更有退相已現，所謂相者：先來歌舞，音聲皆忘。本始生時歌舞音聲無有教者、不從他學，以善業故自然皆知；如是退時，善業盡故，一切皆忘。彼退天女又復更有退相已現，所謂相者：若前往近蓮花池水、若河流水，則於水中見欲生處，隨於何道欲生之處見彼身像。彼退天女又復更有退相已現，所謂相者：身著莊嚴，若是瓔珞、若是釧等，一切皆重。彼退天女又復更有退相已現，所謂相者：隨何處坐，坐處皆變。若坐金處、若毘琉璃、因陀尼羅如是等處，彼一切寶皆變為木。彼退天女又復更有退相已現，所謂相者：本見地等，今見皆異。彼退天女又復更有退相已現，所謂相者：普身一切皆悉汗出。如此人中又復更有退相已現，所謂相者：眼見天眾，一切旋轉，如見輪轉，不見天身。一切諸根不樂境界，心作是念：『我今無救。』命欲盡故，於欲生處，如生處見、如彼色見。如前所說，彼退天女命盡退時，後念命盡，心生中有。

> 退落の天女には、さらに二つの退相が現れ、やがて退落の時を迎えます。その一つは、欲心が多くなり、一瞬も留まることができなくなること。もう一つは、遊び歩く場所で地が柔らかでなく、足を下ろすと収まらず、挙げようとしても上がらないこと。独りでいることができず、他の天女を呼んで言う。「私は悩み苦しんでいる。ここにいっしょに留まってほしい」と。 また、その退落の天女には、さらに別の退相が現れています。それは、唇が絶えず動き、話す理由もなく動き続けることです。 また、その退落の天女には、さらに別の退相が現れています。それは、かつて持っていた歌舞の音声がすべて忘れられてしまうことです。天女が最初に生まれた時、歌舞の音声は教える者もなく、他から学ぶこともなく、善業の力によって自然にすべてを知っていました。しかし、退落の時には善業が尽きるため、そのすべてを忘れてしまうのです。 また、その退落の天女には、さらに別の退相が現れています。それは、蓮華の池や川の流れる水に近づくと、その水の中に、自分が次に生まれようとする場所を見ることです。どの道に生まれようと、その場所における自分の姿が映し出されるのです。 また、その退落の天女には、さらに別の退相が現れています。それは、身に着けている装飾品――例えば瓔珞や腕飾りなど――がすべて重くなることです。 また、その退落の天女には、さらに別の退相が現れています。それは、どこに座っても、その座る場所が変化することです。金でできた場所、琉璃、因陀尼羅などの宝石でできた場所に座っても、そのすべての宝が木に変わってしまいます。 また、その退落の天女には、さらに別の退相が現れています。それは、以前見ていた地面などが、今はすべて違って見えることです。 また、その退落の天女には、さらに別の退相が現れています。それは、全身に汗が出ることです。これは人間の場合にも同じように現れる退相です。 さらにまた、別の退相が現れています。それは、天の仲間たちを見ると、すべてが回転しているように見え、まるで輪が回るようで、天の姿がはっきり見えないことです。すべての感覚器官が喜びを感じず、心はこう思います。「私は今、救いがない」と。寿命が尽きようとしているからです。そして、次に生まれる場所について、その場所に見られるように、その色の姿が見えます。先に述べたように、その退落の天女は、寿命が尽きて退落する時、最後の瞬間に心に中有が生じます。

「牟修樓陀夜摩天王如是見彼天女退已，生厭離心，既見天女如是退已，而說偈言：

> 「牟修樓陀夜摩天王は、この天女が退いたのを見て、厭離の心を生じた。天女がこうして退くのを見て、偈を説いた。」

「『婦女縛世間，誑令長諍懟，非法能壞法，是一切過處。為女欲所使，此天處被縛，彼死軍來到，破壞而將去。女以種種戲，巧誑惑男子，能令後時退，如自業而去。蓮花園林山，若河若谷中，多種戲樂已，天女然後退。天女必定退，必定愛離別；丈夫如是見，猶行欲不止。能令世間失，能多增長愛，為此婦女縛，不可得解脫。欲染縛最大，能縛此世間，種種異思量，更無如是縛。無量種欲箭，傷天者何去？女欲使令汝；破女已得勝。』

> 「女は世を縛り、惑わして争いを長引かせ、 正しき法を壊す、これらすべての過ちの根源である。 女の欲に駆られて、天の境地も縛られ、 死の軍が来て、打ち壊して連れ去る。 女は様々な戯れで、巧みに男を惑わし、 後には退かせる、自らの業に導かれるように。 蓮の園、林、山、川や谷々、 様々な遊びを楽しんだ後、天女は去る。 天女は必ず去り、愛は必ず別れるもの。 男はこのように見ても、なお欲を止められない。 女は世を失わせ、愛を増し広げる。 この女の縛りからは、解き放たれ得ない。 欲の染めが最も大きく、この世を縛る。 様々に異なる思いがあれど、この縛りに勝るものはない。 無量の欲の矢に傷ついた天よ、どこへ行くのか？ 女の欲があなたを操る。女を打ち破って、勝利を得よ。」

「牟修樓陀夜摩天王如是觀察，於退生畏。欲退天女無有方便可救令脫。觀察普遍無量種門，決定退已，復觀餘天五欲功德，受種種樂，於退不畏，如畜相似，作是思惟：『云何彼天死時臨到而不怖畏？』如是念已，自心生怖，而亦不能為他天說。何以故？非時說法，令法輕故。而彼餘天境界受樂，樂境界故，如是非時，不可為說。

> 「牟修樓陀夜摩天王はこのように観察し、退転することを恐れる。退転しようとする天女を救って逃れさせる方便はない。あらゆる種類の門を普遍に観察し、退転が確実であると知った後、さらに他の天人が五欲の功徳によって様々な楽しみを受け、退転を恐れず、まるで家畜のようであるのを観察する。そしてこう思った。『どうしてあの天人は死ぬ時が迫っているのに、少しも恐れないのだろうか？』こう考えて、自らの心に恐れを生じたが、他の天人のために説くことはできない。なぜなら、時にあらずして法を説けば、法を軽んじることになるからである。そして他の天人は境界の楽しみに耽り、境界を楽しむがゆえに、このような時にあらずしては、説くことはできないのである。」

「牟修樓陀夜摩天王念死畏已，隨順彼天猶共戲樂，復無量種遊戲受樂。在於如是一切觀察山峯之中，多有種種妙好園林及蓮花池，共諸天眾遊戲受樂。六種愛身喜樂境界，於彼園林蓮花池等無量種處，迭互歌舞共飲共食，若觸香味。如是受樂聞歌音聲甚為可愛。如是受樂，到彼山峯枸欄之所遊戲而行。彼枸欄者是毘琉璃，諸天入中，其身光明一切皆失。彼寶莊嚴，彼毘琉璃寶光明故，皆同一色，所謂青色。諸天既見皆同青色，生希有心，迭互各各如是說言：『如我先見多種殿來、百千殿來，初未曾見如此山峯毘琉璃寶如是光明。』

> 牟修樓陀夜摩天の王は、死を恐れてからも、その天の者たちと共に遊び楽しみ、なおも無数の種類の遊戯や楽しみを味わった。その全観察山の峰の中にあって、多くの様々な美しい園林や蓮の池があり、多くの天の者たちと共に遊び戯れて楽しんだ。六種の愛欲の身体に伴う喜びの境地を、その園林や蓮池など無数の場所で、互いに歌い踊り、共に飲み共に食べ、触れたり香りを嗅いだりした。こうして楽しみ、歌声の音はとても愛らしかった。そのように楽しみながら、その山の峰の欄干のある場所に至り、遊びながら歩いた。その欄干は琉璃でできており、天の者たちがその中に入ると、彼らの身体の光はすべて消え去った。その宝の装飾と、その琉璃の宝の光のために、すべてが同じ色、すなわち青色に見えた。天の者たちは皆が青色に見えるのを見て、珍しい思いを抱き、互いにこう言い合った。「我々はこれまで多くの種類の殿舎、百千の殿舎を見てきたが、この山の峰の琉璃の宝のような光は、かつて一度も見たことがない。」

「爾時，此天如是說已，即諸天中有一舊天，向餘一切後生諸天如是說言：『如我次第傳所聞來，今為汝說，以何因緣，如是光明？曾於過去久遠世時，兜率天王下閻浮提，誠心供養正遍正知。供養佛已，來過此處一切觀察山峯之中，以心憐愍夜摩天故，故留一珠。此夜摩天見珠光明，諸夜摩天知業果報有輕有重，則離慢心。若夜摩天行於非法，見此珠已，知夜摩天與兜率天有勝有負，心如是知：「我於今者成就何樂？我樂光明色量形相於兜率陀則為微劣，壽命亦劣，地處亦劣，業果亦劣。」彼諸天等見彼寶珠勝光明已，則生第一勝歡喜心。若放逸行，則離慢心；若隨法行，增長彼法。以此因緣，兜率天王留珠在此。』

> 時に、この天人がそう言い終えると、その諸天の中に一人の古参の天人がいて、他の全ての後輩の天人たちに向かって、こう語りました。 「私がかつて順を追って伝え聞いたことを、今、あなたがたに話そう。どのような因縁で、このように光が輝いているのか。遥か昔の遠い過去世に、兜率天王が閻浮提に降り立ち、心を込めて正遍正知（完全なる悟りを開いた仏）を供養した。その仏を供養した後、ここ『一切観察山』の峰々に立ち寄り、夜摩天を哀れむ心から、一つの宝珠を置き残したのだ。 この夜摩天が宝珠の光を見れば、諸々の夜摩天は、業の果報には軽重があることを知り、驕りの心を離れる。もし夜摩天が非道な行いをしているなら、この宝珠を見ることにより、夜摩天と兜率天には勝劣があると知る。心の中でこう思うのだ。『今の私は、どのような楽しみを得ているのだろうか。私の楽しみの光の色や量、形や相は、兜率天に比べれば劣っている。寿命も劣り、住む場所も劣り、業の果報も劣っている』と。 彼ら天人は、その宝珠の勝れた光を見て、第一の勝れた歓喜の心を生じる。もし放逸の行いをしているなら、驕りの心を離れる。もし法に従って生きるなら、その法を増長させる。このような因縁によって、兜率天王はここに宝珠を留めたのだ。」

「爾時，諸天從宿舊天聞是語已，則生第一勝歡喜心，於彼寶珠生希有心，意樂欲見。彼一切天相共在彼一切觀察山峯之中，求覓彼珠。以求覓故，一處見之，有一百倍勝光明出，能覆餘珠，令使不現。被覆未開，猶尚如是，何況不覆。所謂覆者：夜摩天珠覆蓋如是大光明珠。彼夜摩天却餘寶珠，出此一珠，時夜摩天見此一珠所有光明，心則離慢。又夜摩天自身所有一切光明皆悉不現。復觀彼珠，其中則有金書文字，字有偈言：

> 爾時、諸天は古くからの天よりこの言葉を聞きて、この上ない第一の歓喜の心を生じ、かの宝珠に希有の心を起こし、見ることを願い望めり。かの一切の天は共に、かの一切を観察する山の峯の中にて、かの珠を求め探せり。求め探すがゆえに、一つの場所にてこれを見るに、百倍の勝れた光明を出だし、他の珠を覆いて現れざらしむることを得たり。覆われて開かれずとも、すでにこのように輝くなり。ましてや覆われざる時はなおさらなり。ここにいう覆いとは、すなわち夜摩天の珠が、かくのごとき大光明の珠を覆うことなり。かの夜摩天は他の宝珠を退けて、この一つの珠を出だせり。その時、夜摩天はこの一つの珠の所有する光明を見て、心に慢心を離れたり。また、夜摩天自身の所有する一切の光明も、みな現れず。さらにかの珠を観ずるに、その中に金の文字にて書かれたる文あり。その文字には偈ありて言わく、

「『清淨無垢濁，常隨順法行，彼不放逸故，恒常受快樂。若樂若苦惱、若老若少年、若大姓小姓，死王皆能殺。若端正若醜、若大力小力、若獨若有主、死王皆能殺。若王若僮僕、若俗若出家、若堅若軟者，死王皆能殺。若富若貧窮、若功德若無、若男若女等，死王皆能殺。若行若在家、若水中若陸、若在山峯住，死王皆能殺。若睡若󰣫寤、若食若不食，能歷亂世間，死王皆能殺。若在下在上、若在傍廂住，時輪無障礙，死王皆能殺。若吉若不吉、若法非法行、若病若不病，死王皆能殺。若惡者善者、若慳若不慳、若放逸若不，死王皆能殺。若地獄餓鬼、若畜生若人，大力不休息，死王皆能殺。若欲界諸天、若色界天等，彼天悉大力，死王皆能殺。若無色界天，三摩跋提生，彼天悉大力，死王皆能殺。有生皆無常，一切必破壞，一切有為法，破壞則不疑。見死力如是，若見欲過患；見愛染語已，則離生死海。初時有味堅，貪著欲境界，由之入地獄，猶如蛇舌舐。見此處退已，知死王大力，心則善調伏，知心有此過。園林山等中，若在堂中住，一切天皆退，為時火所燒。若為境界覆，癡故放逸行，愛羂縛此天，將入惡道去。』

> 清らかで汚れがなく、常に教えに従って生きる人は、怠ることなく努めるので、常に安らかな楽しみを受けるのです。 楽しみであれ苦しみであれ、老いであれ若さであれ、家柄が良かろうと悪かろうと、死の王はすべてを絶ちます。 美しくあれ醜くあれ、力が強かろうと弱かろうと、独りであれ誰かに属していようと、死の王はすべてを絶ちます。 王であれ召使であれ、俗人であれ出家者であれ、頑丈であれ柔らかであれ、死の王はすべてを絶ちます。 富んでいようと貧しくいようと、功徳があろうとなかろうと、男であれ女であれ、死の王はすべてを絶ちます。 歩いていようと家にいようと、水中にいようと陸にいようと、山の頂上に住んでいようと、死の王はすべてを絶ちます。 眠っていようと起きていようと、食べていようと食べていまいと、世の中を巡り歩いても、死の王はすべてを絶ちます。 下にいようと上にいようと、わきに立っていようと、時の輪は妨げられることなく、死の王はすべてを絶ちます。 吉であれ不吉であれ、正しい行いであれ間違った行いであれ、病んでいようと病んでいまいと、死の王はすべてを絶ちます。 悪人であれ善人であれ、物惜しみをしようとしまいと、怠けていようとそうでなかろうと、死の王はすべてを絶ちます。 地獄の者、餓鬼、畜生、人間、力強く休むことなく、死の王はすべてを絶ちます。 欲界の天たち、色界の天たちも、彼ら天は皆大いなる力を持つが、死の王はすべてを絶ちます。 無色界の天も、禅定から生まれた者たちも、彼ら天は皆大いなる力を持つが、死の王はすべてを絶ちます。 生あるものはすべて無常であり、必ず壊れます。すべての造られたものは、疑いなく壊れます。 死の力をこのように見て、欲望の過ちを見れば、愛執の言葉を見て、生死の海を離れます。 最初は味わいがあり固く、欲望の対象に執着しますが、それにより地獄に落ちます。蛇が舌を舐めるように。 この場所から退くのを見て、死の王の大いなる力を知れば、心はよく調えられ、心にこの過ちがあると知ります。 庭園や林や山の中、あるいは堂に住んでいても、すべての天は退き、時の火によって焼かれます。 もし境界に覆われ、愚かさゆえに放逸に行い、愛の羂がこの天を縛り、悪道へと導いていきます。

「時彼諸天大毘琉璃寶珠之中，見彼金書偈句字已，讀已、聞已。若天心有善種子者，見聞是偈，暫生厭離。若迷境界愚癡之天，雖亦見聞，猶著境界嬉戲遊行，受五欲樂，心不生厭。「時彼諸天既見寶珠如是光明，珠內偈說一切世間多諸過患，既見聞已，生希有心。『此勝寶珠如是光明，甚為希有。』而彼諸天自性放逸，種種遊戲種種受樂，無量分別，多受無量境界之樂。彼樂深勝，不可譬喻。

> その時、天の者たちは大なる毘瑠璃宝珠の中で、金で記された偈の句や文字を見て、それを読み、聞いたのです。もしも心に善い種を持つ天の者であれば、この偈を見聞きして、一時的にでも厭離の心を起こしました。しかし、境界に迷い愚かである天の者は、これを見聞きしてもなお、境界に執着して戯れ遊び、五欲の楽を受けて、心に厭離を生じませんでした。 その時、天の者たちは宝珠がこのような光明を放ち、その珠の中の偈が「一切の世間には多くの過患がある」と説いているのを見聞きして、「この勝れた宝珠はこのような光明を放ち、極めて希有である」と、めったにないものとして心に感じました。しかし、彼ら天の者たちは、自らの性質として放逸であり、様々な遊戯や様々な楽しみを受け、無量の分別によって、限りない境界の楽しみを多く受けていました。その楽しみは深く勝れており、譬えることもできません。

「爾時，彼天復放逸行，多擊種種歌樂音聲，向一水河，河名速流，堅著放逸。見諸境界，其心堅著，無始集來，愛羂所繫牽向彼河，種種樂聲繫縛其心，彼此迭共遊戲受樂。彼速流河多有樹林，蓮花所覆，種種鳥聲甚可愛樂，蓮花之香以熏其水。彼河兩岸饒歡喜天，若歌若舞，彼天迭共勝歡喜心，在彼河岸受諸快樂，五樂音聲平等美妙，有無量種五欲功德而受快樂。彼河水速，故名速流。其河兩岸樹枝間間，鳥在中住，彼鳥即名樹奇間住。鳥善業故，彼此迭共勝歡喜心，利益天故而說偈言：

> かつてある天人が、なおも放逸な行いを続け、様々な歌や楽器の音を奏でながら、「速流」という名の川へと向かいました。そして、その川に固く執着し、放逸な状態に陥っていました。あらゆる境界（対象）を見ると、その心は固く執着し、無始以来、愛欲の網に縛られて、その川へと導かれました。様々な楽の音がその心を縛り、互いに遊び楽しみながら快楽を受けました。 その速流という川のほとりには多くの林があり、蓮の花が覆い、様々な鳥の声がたいそう愛らしく、蓮の花の香りが水を熏していました。その川の両岸には喜びに満ちた天人が多く、歌ったり舞ったりしていました。彼ら天人は互いに並み優れた歓喜の心をもって、その川岸で様々な楽しみを受け、五種の楽音が等しく美妙で、無量の五欲の功徳による楽しみを受けていました。その川の流れが速いことから、「速流」と名付けられました。その川の両岸の木々の枝の間々には鳥が住んでおり、その鳥を「樹奇間住」といいます。その鳥は善業によって、互いに並み優れた歓喜の心をもって、利益ある天人のために、次のような偈を説きました。

「『山河如是速，天如是失樂，癡故不覺知，如是放逸行。一切諸眾生，命樂速不停，癡者不覺知，如生盲於道。寧盲無眼目，不著欲愚癡，為樂隨欲行，趣向地獄去。非盲故地獄，以不知法故，是故寧自盲，不為欲所使。欲行不利益，常誑惑癡者，以自心癡故，而不厭離欲。若行於欲者，無智亦無知，不數欲生苦，而常樂於欲。見欲怨如友，如今波迦果，能將向死處，數數至惡道。如一切諸河，水流無迴者，天樂亦如是，已去不復還。』

> 山河の流れが速く、天界の楽しみもまた速やかに過ぎ去る。 愚かさゆえに気づかず、心が乱れて道を誤る。 全ての命も喜びも、速やかに過ぎ去り留まらない。 愚か者はそれに気づかず、道の上の生まれつきの盲人のようだ。 目が見えないほうがまだましであり、欲に執着する愚かさよりは良い。 楽しみのために欲に従い、地獄へと向かって進む。 盲目だから地獄に行くのではなく、正しい道を知らないからだ。 だから、目が見えないほうがましであり、欲に振り回されないほうがよい。 欲は無益な行いをもたらし、常に愚か者を惑わす。 自分の心が愚かだから、欲を嫌い離れようとしない。 欲に従う者は、知恵も知識もない。 欲が生む苦しみを数えず、常に欲を楽しむ。 欲という敵を友のように見なす。それはポーカの果実のようなものである。 これを食べれば死へと導かれ、繰り返し悪い道へと落ちてゆく。 すべての川の流れが戻らないように、 天界の楽しみもまた、去ったら二度と戻らないのである。

「彼鳥如是住在樹中，如業之實，已說此偈。時彼諸天善業修心，聞說偈已，心極厭離，如是思惟：『我今乃於畜生之所，如是聞法，是故得知我放逸行，定入惡道。』

> その鳥は木の中でこう唱えた。業（行い）という果実について、この偈が説かれたのである。 その時の天部（天の住人）たちは、善い行いによって心を修めていた。この偈を聞くと、心に深い厭離（あきらめ）の想いが生じ、こう考えた。 「私は今、畜生の身の生き物からも、このように法を聞くことができた。それによって、自分がこれまで放逸に生きてきたこと、その結果必ず悪道に堕ちることがよく分かった。」

「爾時，彼天既生是心，思惟念已。其中有天離彼河岸，在一處住，而說偈言：

> その時、その天人はそのような心を起こし、そう考え、思惟した。すると、その川岸を離れた別の場所にいたある天人が、次の詩句を唱えた——

「『一切眾生命，如水沫不異，如河流波動，少年亦如是。一切諸眾生，盡皆屬老死，汝等無心意，不念不知慮。諸有身未壞，諸有世間淨，若心皆作法，則不入惡道。』

> 「すべての命あるもののいのちは、水面の泡と変わらない。 川の流れが波立つように、若さもまた同じだ。 すべての生きとし生けるものは、老いと死の支配下にある。 あなたたちは心を傾けず、これらを想いもせず、知ろうともせず、省みもしない。 からだがまだ壊れていない者、世の中がまだ清らかであるうちに、 もし心ですべてを善い行いに向けるなら、悪い道に落ちることはないのだ。」

「彼天如是迭互各各心隨順法，如是說偈，如是念法。未經久時，根羸無力，復不思惟，見無量種可愛可樂五欲境界，隨心樂已，為受樂故，行向餘天。彼天如是迷於境界，五境界因常增天欲，在於彼處受天快樂，第一可愛五欲境界，相應受樂。乃至此愛善業盡已，復為業使，生於地獄、餓鬼、畜生。若餘天退，若生人中，第一樂處無諸衰惱，第一富樂，生於第一大種姓中，一切敬愛、一切供養，不怖不病，第一聰明，若他餘人、若奴若婢、若諸作人一切皆愛，常於其人有供養心，得生第一善國土中，不在邊地，生在知法知非法處，五根具足，智慧自在。以彼善業作而復集，聖人所愛，三功德業決定生天。以餘業故。

> 彼らの天は、互いにそのような方法で、心を法に従わせ、偈を唱え、法を念じる。しかし、長く経たないうちに、根は弱まり力が無くなり、再び思惟することもなく、無量の種類の愛しく楽しい五欲の境を目の当たりにする。心のままに楽しんだ後、楽を受けるために、他の天へと向かう。彼らの天は、このように境に迷い、五つの境の因によって常に天の欲を増し、その場所で天の楽を受ける。最も愛しい五欲の境と相応して楽を受ける。そして、この愛の善業が尽きるまで、そのようにする。その後、再び業の力によって、地獄・餓鬼・畜生に生まれる。あるいは、他の天から退き、あるいは人間に生まれる場合には、第一の楽所で衰えや悩みがなく、第一の富と楽を得て、第一の大きな種姓のもとに生まれ、一切の者から敬愛され、一切の者から供養され、怖れず、病まず、第一の聰明さを持つ。また、他の人々や奴婢、下人たちからも全て愛され、常にその人に対して供養の心を持つ。また、第一の善い国に生まれ、辺地にはなく、法を知り非法を知る場所に生まれ、五根が具わり、智慧は自在である。その善業を積み重ねたことにより、聖人の愛する三つの功徳の業は、必ず天に生まれることを決定する。これは、その余りの業によるものである。

「又彼比丘知業果報，觀夜摩天所有地處。彼見聞知：彼夜摩天復有地處，彼處名為山樹具足。眾生何業生彼地處？彼見聞知，謂：若有人修行善業，直心正心隨順法行，不壞威儀、不缺威儀，遠惡知識，常生善心；微塵等惡，見則深畏；正見不邪，常正見行，常一切時信業果報，心意正直；身行善業，口意善業，護三種戒，所謂不殺、不盜、不淫。不殺、不盜如前所說。不邪行者：若於晝中見婦女像，心不生念。白日見已，夜不生念。心生知足，於晝行時善攝其心，以知足繩繫縛諸根，念身而行，善護其心，常樂觀察諸界入陰，不樂多語，不於非時入他舍內，不行惡肆，於一切處非時不行，不近惡狗，不常入村、不常入城、若四出巷；不樂常見親舊知識，心不常念；常勤修行智之境界，常正觀察，恒常正念，敬重尊長，常近奉侍。彼善行人如是持戒，身壞命終生於善道，夜摩天中山樹具足地處之中。於彼生已，受無量樂，如印相似，無量種樂皆悉具得。

> また、あの比丘は、業の果報を知り、夜摩天にあるすべての地処を観察した。彼は見聞して知った。あの夜摩天にはさらに地処があり、その地処の名を山樹具足という。どのような業によって、衆生はその地処に生まれるのか。彼は見聞して知った。すなわち、もしある人が善業を修行し、直心・正心をもって教えに従い、威儀を壊さず、威儀を欠かず、悪知識を遠ざけ、常に善心を生じ、微塵ほどの悪をも見れば深く恐れ、正見で邪ならず、常に正見をもって行い、常にすべての時において業の果報を信じ、心意は正直であり、身で善業を行い、口と意で善業を行い、三種の戒めを護る。すなわち、殺さず、盗まず、淫せず、である。殺さず、盗まずは、前に述べた通りである。邪行しないとは、もし昼間に女の姿を見ても、心に念いを起こさず、昼に見ても夜に念いを起こさず、心に知足を生じ、昼間に歩く時にはよくその心を摂め、知足の縄でもって諸根を繋ぎ、念いをもって身を保ちつつ歩み、よくその心を護り、常に諸界・諸入・諸陰を観察することを楽しみ、多く語ることを好まず、時にあらずして他家に入らず、悪い店に行かず、全ての場所で時にあらずして歩かず、悪い犬に近づかず、常に村に入らず、常に町に入らず、四つ辻にも入らず、旧知の知識によく会うことを好まず、心に常にそれらのことを念わず、常に勤めて智慧の境界を修行し、常に正しく観察し、常に正念を保ち、尊長を敬い重んじ、常に近づいて仕える。あの善行の人は、このように戒めを保ち、身が壊れ命が終われば、善道に生まれ、夜摩天の山樹具足の地処の中に生まれる。そこに生まれてから、無量の楽を受け、まるで印を押したかのように、無量の種類の楽をことごとく得るのである。

「有二妙山圍遶彼地，於彼山中有四樹林：一名膩青影；二名無量負；三名一切上；四名清淨負。膩青影林，青色妙寶、青色之樹，金銀為葉皆悉具足，端嚴勝妙不可譬喻。林中殿舍出青光影，遠去遍滿五百由旬，色如青雲。彼後三林——無量負林、一切上林、清淨負林，一一皆有無量種樹、無量種色、無量種形、無量種相、無量種葉，無量種鳥近於彼林。於彼林中有如是等無量種樹，復有其餘種種諸樹，所謂多有金樹銀葉，復有銀樹毘琉璃葉；有珊瑚樹，白銀為葉；有雜寶樹，雜寶為葉。以樹雜故，其影亦雜，其枝普覆地分處處皆悉有水。彼彼地處極為嚴好，蜂眾莊嚴，有妙音聲，多有天鳥莊嚴地處。彼第二林嚴好如是。又第三林多有無量流水河池，其河多有無量諸鳥，種種音聲，所謂孔雀、俱耆羅等，音聲可愛，住可愛處。又第四林多有種種雜色寶樹，園林池水種種蓮花，林影光明。彼諸樹林一切皆如雲母琉璃，若天入中，皆見自身猶如雲母琉璃之色。

> 「二つの優れた山がその地を囲んでいます。その山の中には四つの林があります。第一を「膩青影」（青き影）、第二を「無量負」（限りなき恵み）、第三を「一切上」（全ての上）、第四を「清淨負」（清らかな恵み）といいます。 膩青影林には、青色の妙なる宝と青色の木々があり、金や銀の葉がすべて整い、見事で勝れた美しさは譬えようがありません。その林の中にある殿舎からは青い光が放たれ、遠く五百由旬にまで満ち渡り、その色は青い雲のようです。 後の三つの林――無量負林、一切上林、清淨負林にも、それぞれ無数の種類の木々、無数の色、形、姿、葉があり、また無数の鳥たちがその林の近くに集まっています。これらの林の中には、そのような無数の木々の他にも様々な樹木があります。例えば、金の木に銀の葉がついているもの、銀の木に瑠璃の葉がついているもの、珊瑚の木に白銀の葉がついているもの、様々な宝の木に様々な宝の葉がついているものなどです。木々が様々であるため、その陰もまた様々で、枝はあまねく広がり、地面のところどころには水があります。その場所々々はたいそう見事で、蜂たちが集い美しい音を響かせ、多くの天の鳥たちがその地を飾っています。第二の林もこのように見事です。 さらに第三の林には、数えきれないほどの流水や川や池があり、その川には多くの鳥たちがいて、様々な声で鳴いています。例えば孔雀や鸚鵡などで、その声は愛らしく、愛らしい場所に住んでいます。 また第四の林には、様々な色の宝の木々が多く、園林や池水には様々な蓮の花があり、林の影は光り輝いています。これらの林はすべて、雲母や瑠璃のようです。もし天人が中に入れば、自分の姿がちょうど雲母や瑠璃の色のように見えるのです。」

「又彼處山有異勢力，若天欲退，死時將至，隨業去處，一切皆見。彼既見已，厭離於有，不放逸行，以見自身異生處故。彼福天子於彼如是功德地生，以無量種善業力故。爾時，得生彼處天子，生在山中，山名伽那。如是天子初生之時，行放逸行，既見退已，生惡處故，始生天子不放逸行。如是攝心，未經久時，更著境界五欲之樂。在於園林蓮花池中，極可愛處，五欲功德皆悉具足，五樂音聲，多有無量諸天女眾之所圍遶，有無量種無量分別，無量諸念。彼山林中，如前所說，以彼天子前善業故，如是種種受五欲樂。

> また、その山には特別な力がある。天人が衰退しようとする時、死の時が近づくと、その者の業に従って行く先々がすべて見えるようになる。それを見た天人は、存在に執着するのを厭い、放逸な行いをせず、自分の身が異なる世界に生まれ変わるのを見るのである。その福徳ある天人は、このような功徳ある地に生まれ、無数の善業の力によってそこに至る。 その時、そこに生まれた天人は、伽那（がな）という山の中で生まれる。生まれたばかりの天人は放逸な行いをするが、衰退して悪い場所に生まれるのを見るので、初めて生まれた天人は放逸な行いをしない。このように心を収めても、久しく経たないうちに、再び境界の五欲の楽しみに執着する。園林や蓮華の池の中、この上なく愛らしい場所で、五欲の功徳をすべて備え、五つの楽しい音

「彼既如是受欲樂已，善業力故，於彼山中則見五種希有色相。何等為五？謂：何生處而來生此，見彼來處；乘何業因而來生此，見彼業因；於何時退，見彼退時；見其退已，於何處生；見彼處生，生彼處已，成就苦樂。見彼苦樂，於他身事亦如是見。彼天眾生復見異時，或見百劫或見億劫自身之事，作如是知：『我曾於此天中而生，雖知生數，不知時數。何以故？以智少故，不能思量彼山勢力。善業勢力故如是見。』

> 彼がそのように欲望の楽しみを受けた後、善業の力によって、その山の中で五つの珍しい色の相を見ることができました。その五つとは何でしょうか？すなわち、どのような生まれの場所からここに来て生まれたのか、その来た場所を見ること。どのような業の因によってここに来て生まれたのか、その業の因を見ること。いつ退くのか、その退く時

「然彼天子見無量種希有事已，畏生死過，厭離善業，況非福業而不厭離，亦離雜業。以其皆有苦惱過故，以彼雜有多過惡故。如是見已，見彼山中希有事已，於有生死過惡之處，怖畏厭離。於一切時增長無量種種衰惱，見梁繩已，則於餘樂心離不樂。所謂樂者：天中欲愛觸味色香。如是既見觸味色香如見毒飯，不以為樂。彼既如是見無量種天境界樂，憎惡不樂。彼既如是厭離欲已，向餘天說，令作利益安樂之事。彼天如是則善修行身口意等，而行善業。

> その天子は、無数の稀有な出来事を目の当たりにした後、生死の過ちを怖れ、善い行いさえも厭うようになりました。ましてや、善でない行いや、善悪が混ざった行いについては、なおさら厭わずにはいられませんでした。なぜなら、それらすべてが苦しみや悩みをもたらすからであり、特に混ざった行いには多くの過ちや悪が含まれているからです。このように見極めた後、彼は山中の稀有な出来事を観察し、生死の過ちや苦しみの场所に対して恐怖と厭離の心を抱きました。そして、常に増え続ける無数の様々な衰えや悩みを認識し、梁

「所謂法師若能為他說正法者，於彼放逸諸眾生等，具足佛語而為說法，畏放逸行。放逸眾生入於無量境界惡處，為彼眾生說五種畏，所謂五者：生畏、老畏、病畏、死畏、自業畏等。此諸眾生如是作業故，如是得愛樂境界，怖畏離別。此等諸畏若能示他，非為貪物、非諂曲心，亦非悕望供養因緣，而能為他正說佛法。

> \*\*現代日本語訳（やさしい言葉）\*\* 「『法師』と呼ばれる人とは、もし自分で正しい教えを人に説くことができるなら、心が怠けている人々に対して、ブッダの言葉そのままを伝えて法を説き、その怠け心を恐れるように教える人のことです。 なぜなら、放逸な生き方は、計り知れない苦しみの世界へと導くからです。そこで、そうした人々には五つの怖れについて説くべきです。つまり、生まれ変わる怖れ、老いる怖れ、病の怖れ、死の怖れ、そして自分の行い（業）がもたらす怖れです。 これらの人々は、自分の行為によって、一時的な快楽に執着し、それが失われることを恐れます。このような様々な怖れを、他人に教え示す人は、物欲やお世辞、見返りを求める心からではなく、ただただ正しい仏法を説くのです。」

「復有為他雜說佛法：如己所聞，譬喻相應。畏自少聞、少讀佛語，推時在後，異因譬喻。從他聞來，自思量說，內心貪多種種雜語，推時在後，如是說法。如是因緣，作生死畏。彼於山中見有諸業。

> さらに、他人のためにいい加減に仏法を説く者もいる。彼らは自分が聞いたわずかな教えに基づき、たとえ話を用いて説く。自分の聞いたことや読んだことが少ないことを恥じ、時代が後の方であると主張し、異なる理由でたとえ話をでっち上げる。他人から聞いた話を基に、自分で考えて説き、心の中では様々な雑多な言葉を貪り求め、時代が後であると主張してそのように説法する。このような因縁によって、生死の恐れを引き起こす。そのような者は、山中で様々な業（カルマ）を見ることになる。

「於如是等一切法中，復有勝者，謂：為父母、尊者說法。復有為於病者說法。為邪見者，令生正見而為說法。為欲死者而說佛法。若見生死無因、無緣，自然有者，是則為之說因緣法。若於生來未聞法者，為之說法。若行曠野、若於海中大船行者、放逸行者、若諸國王、若王大臣、若諸年少行欲放逸種種慢等，令得離故，而為說法。若勇健者能多殺害、若多殺生、放逸行者，為說罪過，遮彼殺生。若樂諍鬪——望生天故，欲取鬪死顛倒見者，為之說法，遮令不作。若常獵者，為之說法，令得捨離。若諸婦女妬嫉之者，為之說法，遮其妬嫉。

> これらのあらゆる事柄の中にあっても、さらにすぐれた行いがあります。それは、父母や尊者に対して法を説くことです。また、病人のために法を説くこと。邪見を持つ者に正しい見解を生じさせるために法を説くこと。死にゆく者に仏法を説くこと。もし生死に原因も縁もなく、自然に生じるものだと見なす者には、そのために因縁の法を説きます。また、生まれてから一度も法を聞いたことのない者には、そのために法を説きます。荒野を行く者、海の中で大船に乗っている者、放逸な行いをする者、諸々の国王、王の大臣、若くして欲にふけり様々な慢心を持つ者たちに対して、それらから離れさせるために法を説きます。また、勇猛で多くの殺生をする者、多く殺生をする放逸な行者に対しては、罪過を説いてその殺生を防ぎます。争いを好み、天に生まれようとして争いに倒れることを望むような顛倒した見解を持つ者に対しては、法を説いてそれをさせないように防ぎます。常に狩猟をする者に対しては、法を説いてその行いを捨てさせます。嫉妬深い婦女たちに対しては、法を説いてその嫉妬を防ぎます。

「此如是等十二種人，若有能為說法之者，彼人如是真實說法，身壞命終生夜摩天山樹具足地處之中。既生彼已，則於彼處山壁等中見生死業，見已則於一切生死生厭離心。若不為他如是說法而生彼者，一切作業皆悉不見，則於後時，受諸欲樂，遊行嬉戲，五欲功德種種具足。在彼地處聞歌音聲、眾鳥聲音，種種異異色香具足蓮華池中，有無量蜂百千音聲、諸雜音聲。

> このような十二種類の人々のために、もし法を説く者がいれば、その人はこのように真実の法を説いた者となり、身体が壊れ命が終わった後、夜摩天の山樹具足地処に生まれます。そこに生まれたならば、その場所の山壁などにおいて生死の業を見ることができ、それを見た後には一切の生死に対して厭離の心を生じます。もし他のためにこのように法を説かずにそこに生まれたならば、一切の業行を全く見ることができず、その後には様々な欲望の楽しみを受け、遊び戯れ、五欲の功徳が種々に具わります。その地処では歌声や様々な鳥の声を聞き、様々に異なる色と香りを備えた蓮華の池には、無数の蜂の百千の音声や様々な雑音があります。

「既於彼處受諸樂已，復向山中，山上平處在中受樂，第一端正種種功德具足，天女詠天歌音甚可愛樂，色味香等皆悉具足，生大歡喜。復飲天酒，既飲酒已，轉復增長放逸之樂。久行放逸受諸樂已，復向彼山，名遊戲林。普毘琉璃以為枸欄，莊嚴堂舍如火洋金而為莊嚴，種種七寶莊嚴之處。到彼處已，普於其處多饒眾鳥第一端嚴。既到彼處，五欲功德遊戲受樂，未知厭足，心常悕望，不可厭足。如火得薪，為風所吹，染愛凡夫未知厭足亦復如是。何以故？愚癡凡夫於無始來如是流轉，為愛所誑，自境界中根不知足，從本已來，未曾知足。彼堂第一可愛枸欄功德具足，天於其中五欲功德而共受樂，有若干種無量分別，有無量種憶念成就。

> その場所で楽しさを味わい終えると、再び山中へと向かう。山の頂上の平らな場所にとどまり、そこで楽しみを享受する。とりわけ端正な姿で、様々な功徳を具えている。天女たちが美しい歌の声を詠う。その色・味・香りなどがすべて満ち足りており、大きな歓喜が生じる。さらに天の酒を飲み、酒を飲んだ後には、ますます放逸な楽しみが増す。長い間放逸にふけり様々な楽しみを味わった後、今度は「遊戯林」という名のその山へと向かう。 そこは、水晶で手すりが造られ、殿堂の飾りは溶かした金のようであり、様々な七宝で飾り立てられている。その場所に到着すると、そこら中に多くの鳥たちがいて、とりわけ美しく優れている。その場所に着くと、五つの欲望の功徳を遊戯し楽しみながらも、満足することを知らず、心は常に憧れ求め、決して飽き足りることがない。 火が薪を得て風に吹かれるようなものである。愛欲に染まった凡夫は、満足することを知らない。これもまた同じである。なぜなら、愚かな凡夫は、始まりのない遠い昔からこのように生死を繰り返し、愛欲に惑わされて、自分の領域の中で心の根が満足を知らず、本来からずっと満足したことがないからである。 その殿堂は、まず見事な手すりや功徳を具えている。天人たちはその中で五つの欲望の功徳を共に楽しみ、様々な無量の分別があり、無量の種類の記憶を成就している。

「爾時，彼天不放逸行謹慎行者，既見如是放逸行者，心生憐愍而說偈言：

> その時、彼の天人は、放逸をせずに慎み深く行動する者であり、すでにこのように放逸に行動する者を見ると、心に憐れみを抱いて、次のような偈を唱えた。

「『如心之所作，還如是受得，善念斷愛欲，不善令增長。若寂靜欲者，見欲如刀毒；癡者不靜意，見欲生愛染。若根若根塵，此因緣於心，煩惱熏心故，相似流轉行。於如是染淨，勇健者不染，畢竟常見色，云何有別異？一切皆如是，境界心自緣，調心為第一，雜過甚為鄙。譬如稻一種，色相各差別，和合種雜生，心亦如是轉。如機關水輪，轉故有所作，心因緣故語，此世間流轉。放逸壞眾生，心貪著欲味，亦常喜樂色，不覺相續轉。影中山林色，業故亦見身；天云何見已，貪著欲境界？若恒常有欲，終則愛別離，如是之欲愛，智者則不樂。何況無常空，自身如是空，於彼苦報中，癡者云何樂？天既退天已，為惡業將去，境界之所誑，寂靜不可得。』

> 心が行うこと、そのままの業(ごう)を受ける。 善き思いは愛欲を断ち切り、悪しき思いはこれを増長させる。 もし欲望を静める者であれば、欲望を刃や毒のように見る。 愚か者は心を静めず、欲望を見て愛着を生じる。 もし感覚の器官とその対象があれば、それが心の因縁となる。 煩悩が心を熏(くん)じるがゆえに、似たような流れとして心は巡り続ける。 このような汚れと清らかさに対し、勇猛な者は染まらない。 あらゆる時に色(しき)を見ても、どうして違いがあるだろうか？ すべてはそのように、心が自ら境界を縁(え)とする。 心を調えることが第一であり、雑多な過ちは非常に卑しい。 例えば稲という一種類であっても、色や形にはそれぞれ違いがある。 混ざり合って様々に生じるように、心もまたこのように転じる。 まるで水車からくり仕掛けのように、回転することで何かを生み出す。 心の因縁によって言葉があり、この世は巡り続ける。 放逸(ほういつ)が衆生を壊し、心は欲望の味に貪る。 また常に色を喜び楽しみ、連続して転じることに気づかない。 影に映る山や林の色のように、業によって身体もまた見える。 天人は、どうしてそれを見て、欲望の境界に貪着するのか？ もし常に欲望があれば、最後には愛する者との別れがある。 このような欲望や愛着を、賢者は喜ばない。 ましてや無常であり空(くう)である、この身体自体がすでに空である。 その苦しみの報いの中で、愚か者がどうして楽しめようか？ 天人(てんにん)は天の境地から退いてしまい、悪業に連れ去られる。 境界に惑わされ、静けさを得ることはできないのである。

「若天如是不行放逸，不放逸行。不放逸天為放逸天如是說竟，以自業故，見實色已，於業生畏，復憐愍故，如是已說。如是住彼山樹具足地處之天，有無量種受諸快樂，毘琉璃處，於影像中自見身色。

> もし天人がこのようにして放逸（なまけ）を行わず、不放逸（おこたらないこと）の行を実践するならば、不放逸の天人は放逸の天人のためにこのように説き終えた。自らの業（行い）ゆえに、真実の姿を見て、業に対して畏れを抱き、さらに憐れみの心をもって、このように説いたのである。このようにして、山や木々の備わった地に住む天人は、無量の種類のさまざまな楽しみを受ける。毘琉璃（ビルリ）の場所では、映像の中に自らの身の姿を見るのである。

「又復於彼山樹具足地處住天，更有其餘毘琉璃林或有銀林。彼林有名，有名常影、有名無影。彼常影林是毘琉璃，如是林中，地分柔軟，眾鳥音聲，百蓮華池以為莊嚴，有流水池莊嚴其處，天於彼處遊行嬉戲受種種樂。彼常影林有五大池，池有蓮華、鵝鴨鴛鴦，多有種種跋求之音，迭共出聲，聲甚可愛，受種種樂。於彼水中有風來吹，有種種波令彼鳥身相觸相離。其水清淨離於塵濁。如是眾鳥，蓮花葉中迭共遊行，受種種樂。五華池者：一名樂見；二名水足；三名鳥樂；四者常喜；五名天樂。彼華池中多有眾蜂，無量形色，有無量種百千雜色，飲蓮華汁，無量美味。眾蜂飲已，則出第一勝妙音聲，山樹具足地處之天，聞其聲已，走向蜂所。蓮華池中，彼華池水第一清淨、第一色香。彼諸天眾共天女眾見彼水已，入彼池中遊戲受樂。既入池已，共諸天女在水遊戲，五欲功德種種具足，復行欲樂。彼處如是種種戲樂。又復更有第一勝聲，種種雜聲，所謂歌聲，復有樂聲，復有水聲。種種諸鳥種種音聲，此種種聲迭互相離、迭互相順，不相壞句，合為一音，如是可愛，如是天眾共天女眾如是受樂。如是雜雜音聲既出，異山中天遊戲受樂則不如此。餘處鹿鳥臨飲食時，若聞此聲，即便止食，住耳不動，聽此雜聲；飲時亦爾，停住不飲，聽聞彼聲。餘異地處所有天眾聞是聲已，生希有心，況餘畜生。如是五處種種受樂。爾時，如是山樹具足地處住天，於長久時五蓮華池成就樂已，為飲酒故、受欲樂故，向餘園林。園林名飲，多有天酒滿彼園林，以如是義名飲園林。彼諸天眾善業力故，到飲園林，諸有水池清淨滿者一切皆失，第一香色味等具足，天酒出生滿彼河中，彼酒之香乃至遍滿五由旬內，逆順來去，如天憶念，如是酒生此世間中。

> また、かの山々や木々が豊かに茂る地に住む天女たちには、さらに別に、琉璃（るり）の林や銀の林がある。それらの林には名があり、常影（じょうえい）という名の林や、無影（むえい）という名の林もある。 常影の林は琉璃でできている。この林の中は地面が柔らかく、さまざまな鳥の声が響き、百もの蓮華の池が飾りとなり、流れる水の池がその地を美しく彩っている。天女たちはそこで遊び戯れ、さまざまな楽しみを味わう。 常影の林には五つの大きな池がある。池には蓮華が咲き、ガチョウや鴨、鴛鴦（おしどり）が多く、さまざまな美しい鳴き声を響かせ合っている。その声はとても愛らしく、彼らはさまざまな楽しみを味わう。水面には風が吹き寄せ、さまざまな波が立ち、鳥たちのからだを触れ合わせたり離したりする。水は清らかで濁りがない。 こうして鳥たちは蓮華の葉の間を遊び歩き、さまざまな楽しみを楽しむ。 五つの華の池とは、第一に「楽見（らっけん）池」、第二に「水足（すいそく）池」、第三に「鳥楽（ちょうらく）池」、第四に「常喜（じょうき）池」、第五に「天楽（てんらく）池」という。 それらの華の池には多くの蜂がいて、無数の色とりどりの姿をしている。無数の百千の雑多な色を持ち、蓮華の汁を飲み、無数の美味を味わう。蜂たちがそれを飲むと、第一の素晴らしい音色を奏でる。 山々や木々の豊かな地に住む天女たちはその声を聞くと、蜂のいる場所へと向かう。 蓮華の池の水は第一に清らかで、第一に色と香りを備えている。 天女たちとその女官たちはその水を見て、池の中に入り、遊び楽しむ。池に入ると、女官たちと共に水中で遊び、五つの欲望の功徳をさまざまに満たし、さらに愛欲の楽しみを味わう。 そこではこのようにさまざまな遊びや楽しみがある。さらにまた、第一の素晴らしい音色や、さまざまな雑多な声がある。例えば歌声、楽器の音、水の音、さまざまな鳥たちのさまざまな鳴き声。これらの声は互いに離れ、互いに調和し、互いに句を損なうことなく一つに合わさり、このように愛らしい。 こうして天女たちとその女官たちは楽しみを味わう。 このように雑多な音色が鳴り響くとき、他山の天女たちが遊び楽しむ様子は、これには及ばない。他の場所の鹿や鳥たちは、食事の時、この声を聞けば、すぐに食べるのをやめ、耳を動かさずにこの雑多な声を聴く。飲む時も同じで、飲むのをやめて耳を傾け、その声を聞く。他の地にいる天女たちもこの声を聞けば、珍しい心を生じる。ましてや獣たちはなおさらである。このように五つの場所で、さまざまな楽しみを味わう。 その時、山や木々の豊かな地に住む天女たちは、長い間、五つの蓮華の池において楽しみを味わい尽くした後、酒を飲み、愛欲の楽しみを味わうために、別の園林（おんりん）へ向かう。その園林は「飲園林（いんおんりん）」と呼ばれる。多くの天酒がその園林に満ちているからである。 天女たちの善業の力によって、「飲園林」に到着すると、そこでは清らかに満ちた他のすべての池が一つ残らず消え去り、第一の香り・色・味などを備えた天酒が、川の中に満ちて生じる。その酒の香りは五由旬もの範囲にまで広がり、風の向きに関わらず行き渡る。天女たちの思いのままに、この世のように酒が生じるのである。

「第一樂者，謂隨念樂，如心憶念得自在者是為最樂；唯此為樂，更無有樂。此隨心念是第一樂，何況復有五欲功德具足之樂，五樂音聲，共天女眾而受快樂。復有隨意自在之樂，種種遊戲受種種樂。彼如是酒，離於酒過，飲已極適，不可得說。彼天如是種種受樂，放逸而行，共天女眾同飲天酒，於長久時愛覆其心。無始集來，如是復集，不能捨離，為愛所誑。彼天如是不知厭足，如火獲薪。如是彼中，山樹具足地處之天，如是思惟：『我於今者上此山頂。』彼天如是迭相憶念，同一心生。如是同心，一切皆共，和合喜心，去向彼山，到已即上。自善業故，第一光焰，向彼山頂，飛昇虛空而上彼山。第一神通上彼山已，五樂音聲皆悉相應，一切所有歌樂之聲普遍山上，復有勝香普熏山上，滿虛空中有妙光明。在虛空中勝耀等光，上彼山上。以天神通上彼山已，見彼山頂有無量種流水河池，蓮華滿中，園林眾華種種具足。彼處多有眾鳥音聲，第一天香。彼山頂上普皆平等，光明遍照天眾上已，共天女眾第一受樂。山上之天，有百天女、有二百者，復有餘天三百天女。自業作故，有少、中、多。復有餘天有少、中、多，有一千者，有二千者，有三千者，如是乃至有二萬者，種種歌舞遊戲受樂，一一園林處處遊行，嬉戲受樂。如是蓮華勝妙林中，眾蜂莊嚴，在彼林中五樂音聲遊戲受樂。彼山多有種種妙寶而為莊嚴，於彼山中處處遊戲受樂而行。彼山之石，一切是寶，殊妙間錯，光明勝日。其地柔軟如閻浮提、瞿耶尼中第一柔軟劫貝敷具綿等之軟，若兜羅綿、若復餘綿如是等綿；又復如餘柔軟之綿，下足則容，舉足則平。彼山頂上如是柔軟。若寶若地、若樹若林、若山之峯，彼一切處第一柔軟。極樂之觸，隨眼所見皆可愛樂。如是山上甚可愛樂，天眾天女在上遊戲，彼此迭共受種種樂，諸欲功德一切具足，受天快樂。彼處如是久時受樂，彼天和合第一音聲，歌舞遊戲種種受樂。

> 第一の楽しみとは、心に従って思い描く楽しみのことです。心で思うままに自在になれること、これこそが最も優れた楽しみなのです。この楽しみこそが真実の楽しみであり、これ以上に勝る楽しみはありません。この心のままにある楽しみが第一であり、ましてや五つの欲望の対象を完全に備えた楽しみ、五つの楽器の音色に天女たちと共に包まれて味わう楽しみは言うまでもありません。さらに、思いのままに自在に振る舞う楽しみ、様々な遊戯をして多様な楽しみを味わうこともあります。彼らが飲む天の酒は、酒の害から解放されており、飲めばこの上なく心地よく、言葉で表すことすらできません。天人はこのように様々な楽しみを受け、放縦に振る舞い、天女たちと共に天の酒を酌み交わし、長い間、愛執の心に覆われています。無始の昔から積み重ねてきた煩悩を、さらにまた積み重ね、捨て去ることができず、愛執に欺かれているのです。天人はこのようにして、まるで薪を燃やし続ける火のように、満足することを知りません。 そのような中、山々や木々に満ち足りた天人の住む地では、次のように思案しました。「今こそ、この山の頂上に登ろう。」と。彼ら天人は互いにそう思い合い、同じ心が生じます。このように心を一つにし、皆が共に和合し喜び合いながら、その山へと向かい、到着するとすぐに登り始めました。自らの善業の力により、第一の光の炎を放ちながら、虚空を飛び上がり、山頂へと向かいます。神通力によって山頂に到着すると、五つの楽器の音色が調和し、あらゆる歌や音楽の声が山全体に響き渡りました。さらに、比類なき香りが山全体を薫りで満たし、虚空には見事な光明が満ち溢れました。虚空には太陽よりも勝る輝きを放つ光があり、山頂に及びました。天の神通力をもってその山に登りつめると、山頂には無数の流れる川や池があり、蓮華が咲き乱れ、園林には様々な花々が豊かに備わっているのが見えました。その場所には多くの鳥の声があり、この上なく天界の香りが漂っています。山頂は一面に平らで、光明が天人の衆を照らし渡すと、彼らは天女たちと共に第一の楽しみを受けました。 山の天人には、百人の天女を持つ者、二百人を持つ者、また三百人の天女を持つ者もいます。自らの業によって、少ない者、中の者、多い者がいるのです。さらに他の天人は、千人、二千人、三千人、あるいは二万人の天女を持つ者までいて、様々な歌や舞、遊戯をして楽しみ、一つ一つの園林をあちこち巡り、戯れ楽しみます。このような蓮華の見事な林の中は、多くの蜂によって飾られ、その林の中で五つの楽器の音に合わせて遊戯し楽しみました。その山は様々な見事な宝によって飾られ、山中の至る所で遊戯し楽しみながら歩き回ります。その山の石は全てが宝であり、殊の外素晴らしく飾り合わされ、その輝きは太陽よりも勝っています。地は柔らかく、あたかも閻浮提や瞿耶尼における第一の柔らかな綿の寝具のようであり、兜羅綿や他の綿など、あるいはその他の柔らかな綿のように、足を下ろせば沈み込み、足を上げれば元のように平らになります。この山頂はそのように柔らかです。宝であれ、地であれ、木であれ、林であれ、山の峰であれ、それら全ての場所が第一に柔らかく、極上の触感です。目に映るもの全てが愛しく楽しいものです。この山はこの上なく愛しく楽しく、天人の衆と天女たちがその上で遊戯し、互いに様々な楽しみを受け合い、五つの欲望の対象を全て完全に備え、天界の楽しみを受けています。彼らはその場所で久しく楽しみ、天人は調和のとれた第一の音声の中で、歌や舞、遊戯の様々な楽しみを受けました。

「於虛空中有大光明，猶如天狗，彼一切天皆悉同見。彼勝天者，見大光明，未曾見聞，生希有心。中天見之，不能眼看，以手掩眼，入於樹下。下天見之，不能忍耐，生怖畏故，共諸天女入自寶窟。又復更有大威德天，眼既見已，則能忍耐，諦觀察之，生希有心如是意念：『此是何光？誰有如是勝妙光明？此山如是妙寶光明，如是山中光明具足，此異光照，令不復現，在空如焰。我於昔來，初未曾見。』

> 虚空の中に大きな光が現れ、それは天狗のように輝いていた。すべての天人は皆、同じようにそれを見た。優れた天人はその大いなる光を見て、これまでに見聞きしたことのないものに、希有の心を生じた。中位の天人はそれを見ても、目で見続けることができず、手で目を覆い、木の下に入った。下位の天人はそれに耐えられず、恐れの心から、天女たちと共に自分の宝の窟に入った。さらにまた、大いなる威徳を持つ天人は、その光を目で見ると耐えることができ、注意深く観察して、希有の心を生じ、このように思った。「これは何の光だろうか。誰がこのような勝れて妙なる光明を持つのか。この山はこのように妙なる宝の光に満ちているが、この異なる光が照らすことで、その光は現れなくなり、虚空の中にあって燃え上がる焔のようだ。私はこれまで、かつてこのようなものを見たことがない。」

「彼更審看見大天狗如是向下，有大光明遍虛空中，如火焰熾，如是下墮。彼天上觀，如大天狗從天而墮，其量長短大小如是如是思量，然後說言：『彼天狗量五千由旬。一切虛空皆悉焰然，不可譬喻。』

> さらに彼がよくよく見つめると、あの大きな天狗がこうして下へ向かって、虚空いっぱいに大きな光明が広がり、まるで炎が燃え盛るように、そのまま堕ちていくのがわかった。天から見下ろすと、大きな天狗が天から堕ちていくように見え、その大きさや長さをあれこれと思い巡らせた後、彼は言った。「あの天狗の大きさは五千由旬だ。あらゆる虚空がすっかり燃え上がっている。たとえようもない。」

「如是如是，次第下來，漸漸近下。彼大勇天亦不能看。何以故？以非彼天眼境界故，不能看彼勝大光明，亦復以手自掩其眼。不久之間，生希有心，還復却手開眼看之，上觀虛空，見彼天狗漸更近下，一切天眾皆生疑慮，彼此迭互相向說言：『上虛空中，為是何物？甚為希有，在空而墮。』時彼天眾不能決斷，而作是言：『此是何物？』

> 「そのようにして、次第に降りてきて、徐々に近づいてまいります。かの大勇天でさえも見ることができません。なぜかといえば、彼の天の眼の届く範囲ではないからです。その勝れた大いなる光明を見ることができず、また手で自らの眼を覆いました。しばらくして、希有の心を生じ、再び手を退けて眼を開けてこれを見ると、上なる虚空を観て、かの天狗が次第にさらに近づいてくるのを見ました。一切の天の衆はみな疑いと恐れを生じ、互いに交代して語り合って言いました。『上の虚空の中に、これはいったい何ものか。非常に希有である。虚空にありながら堕ちてくる。』その時、かの天の衆は決断することができず、こう言いました。『これは何ものであろうか。』」

「爾時，如是未久之間，如是天狗空中滅沒，不知所在。爾時怯天知彼滅已，從窟而出，共諸天女離於怖畏，彼此迭互相向說言：『此希有物為是何物？我心甚疑，令我見之心生怖畏。』如是說已，彼此迭互皆不能決。如是久時，彼此迭互相向說言：『彼是何物？生希有心而生怖畏。』如是山上遊戲受樂復心動已，猶更受樂，受境界樂，種種受樂有無量種無量分別，五樂音聲。於園林中多有天眾共天女眾，無量百千天眾受樂。

> しばらくすると、あの天狗は空中で姿を消し、どこにいるのかもわからなくなった。そのとき、恐れをなした天人は、天狗が消えたのを知って岩窟から出てきて、天女たちと共に恐怖から解放された。彼らは互いに言い合った。「あの不思議なものは一体何だったのか。私は非常に疑わしく思い、それを見て心に恐怖を生じた。」このように言い合っても、互いに答えを出せなかった。長い間、互いに言い合った。「あれは何ものだったのか。稀有な心を起こさせ、恐怖を生じさせた。」このように山上で戯れ楽しみ、心は揺れ動いてもなお楽しみ、様々な境の楽しみを受け、無量無数の五楽の音声を楽しんだ。園林の中には多くの天人が天女たちと共に、無量百千の天人が楽しんでいた。

## 正法念處經卷第四十

> 正法念処経 巻第四十