---
title: "正法念處經 · 9"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm9tojrf107qhhj0vaqjet0g2"
---

## 正法念處經卷第四十四

> 正法念処経 第四十四巻

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之二十三夜摩天之九

> 観天品 第二十三<note>夜摩天の九</note>

「『又復業分，若人生天，不曾布施，唯持於戒得生天中；唯有一種功德具足，五欲功德劣於餘天。是業因緣，人勝天劣。

> さらに、業の区分について。もし人が天界に生まれても、かつて布施を行わず、ただ戒律を守ることだけで天界に生まれたなら、その人の功徳は一種類しか備わっておらず、五感の楽しみ（五欲の功徳）も他の天界の人々より劣っている。このような業の因縁により、人間の方が勝り、天人は劣ることがある。

「『毘婆尸佛當爾之時，而說偈言：

> 毘婆尸仏はその時、この偈を説かれました。

「『「人中布施已，則生於善道，非天能布施，以是果地故。人中是業地，果地則是天，一切果因業，無因則無果。命念念不住，如是轉不迴，業果將欲盡，應當作福德。一切是心力，能令命流轉，是故有智者，不為命作惡。一切皆不畏，未來諸苦惱，如是苦惱人，癡羂所縛故。布施持戒寶，於誑心中有，若天若是人，則到於善道。有為生住滅，皆是無常故；一切有為樂，亦如是無常。雖壞而生貪，念念動不住，樂命皆如是，是故應捨離。」

> 「人はこの世で布施を行えば、善い道に生まれる。 天人は布施をすることはない。それは、彼らがすでに果報を得ている境地にあるからだ。 人の世こそが行為（業）の場であり、果報の場は天である。 全ての果報は行為に起因し、原因なくして結果はない。 命は刹那ごとに留まらず、このように巡って戻ることはない。 果報が尽きようとしているなら、功徳を積むべきである。 全ては心の力によって、命を輪廻させる。 それゆえ賢者は、命のために悪を行わない。 誰もが未来の苦しみを怖れない。 そのような苦しむ人々は、無明の網に縛られているからだ。 布施と戒律という宝は、虚妄の心の中にあっても、 天人であろうと人であろうと、善い道に至ることができる。 この世のものは生じ、留まり、滅する。全ては無常だからである。 すべての世の中の楽しみも、また同様に無常である。 壊れると知りながらも執着し、刹那ごとに動いて止まらない。 楽しみも命も全てそうである。ゆえに、これを捨て去るべきである。」

「『如是此法，一切有為悉皆無常、苦、空、無我。一切世間無量衰惱處處普遍，有五種縛，縛天縛人，愚癡目盲，惡欲壞心，唯生愛樂。一切愚癡毛道凡夫迭相愛縛，如鳥在籠，一切人天於生死中流轉常行。以是義故，若人若天，或命或樂，勿生常想，應於世間一切諸法不生常想，不作無量種種分別。又復具足十二種施，如是布施，天中所無，唯人中有。天唯食果，若食果盡，爛失破壞，退彼天處。何等十二布施具足？一者方處具足；二者時節具足；三者功德具足；四者可愛具足，謂所愛物；五者福田具足；六者施飢渴者；七者信心施與；八者不求而施，功德具足；九者有歡喜心施妻子等；十者簡擇心所敬重勝富伽羅而施與之；十一者施於世間不輕賤者；十二者施不望報。此如是等十二種施。復有持戒功德具足，得生天中，盡己則退，是故天應捨放逸行。如是十二離垢布施，為轉輪王，財寶富足，或生於天或天相似。

> 「この法のとおり、一切の有為（つくられたもの）はすべて無常であり、苦しみであり、空（実体がない）であり、我（永遠不変の自我）ではないのです。一切の世間は数え切れないほどの衰えや悩みに満ち、あまねく広がっています。五つの束縛（五縛）が存在し、天や人を縛り、愚かさによって目は見えず、悪い欲望で心を壊し、ただ愛楽（執着の喜び）を生み出します。愚かな凡夫（普通の人）たちは互いに愛執で縛り合い、まるで鳥が籠の中にいるようです。天人や人間はみな、生死の中を流転し続けています。そのため、人であれ天であれ、命や楽しみに『永遠である』という思いを持ってはいけません。世の中のあらゆるものに『永遠』という考えを抱かず、無数の様々な分別をしないようにしなさい。 また、（人は）十二種類の布施を完全に備えることができます。このような布施は天にはなく、人間の世界だけにあります。天はただ果報を享受するだけで、その果報が尽きると、朽ち、壊れ、天の境遇から落ちてしまいます。十二の完全な布施とは何でしょうか。 第一に、布施する場所が整っていること。 第二に、布施する時が適切であること。 第三に、布施の功徳が備わっていること。 第四に、愛すべき対象があること、すなわち好ましい物を施すこと。 第五に、福田（功徳を積む対象）が整っていること。 第六に、飢えや渇きに苦しむ者に施すこと。 第七に、信心をもって施すこと。 第八に、求められなくても施すことで、功徳が備わること。 第九に、喜びの心で妻や子などを施すこと（執着を手放すこと）。 第十に、心で選び、尊敬する立派な人（勝れた人）を選んで施すこと。 第十一に、世の中で軽んじられていない人（真に尊ばれる人）に施すこと。 第十二に、見返りを求めずに施すこと。 以上が十二種の布施です。 さらに戒律を守る功徳を完全に備えれば、天に生まれることができます。しかし、その報いが尽きれば天から退転します。ですから天人は、放逸（だらしない行い）を捨てるべきなのです。このような十二の汚れのない布施は、転輪聖王（全世界を治める理想的な王）となり、財宝に富み、天に生まれるか、あるいは天と同様の境遇を得るものです。）

「『復有十二雜垢布施。何等名為十二種垢？一者於多人聚和合眾中或於僧中，平等皆有戒智及行功德具足，不平等施。此是垢施，得少果報。二者若男若女以欲因緣，或男施女、或女施男，此是第二垢惡布施。又復第三垢布施者，以怖畏故，捨物施與王家門師，謂是沙門、婆羅門等，有如是心：「若我於王得衰惱者，則能救我。」此非修思因緣故與，名為垢施。又復第四垢布施者，所謂癡心捨物布施，如彼外道婆羅門等，齋會等施。此是第四垢惡布施。又復第五垢布施者，謂見他人所布施者，不知彼人持戒以不？不知彼人有智慧不？有寂靜不？為有禪不？唯見他人如是布施，他因緣故，內自無思，如是捨物而施與之。此是第五垢惡布施。又復第六垢布施者，謂前乞者苦求乃與。此是第六垢惡布施。又復第七垢布施者，知他有物，為令他信，方便欲偷，捨物與之，後欲作惡種種侵損。為覓其便，是故與物，此是第七垢惡布施。又復第八垢布施者，為破壞他和合之事，捨物施之，於他二人共為一友，令使別離，後覓其便，則與衰惱。此是第八垢惡布施。又復第九垢布施者，謂為成親，捨物與他，或男施女、或女施男。此是第九垢惡布施。又復第十垢布施者，所謂治生，多買食具種種諸物粟豆果菜一切雜物，待齋會日，貴賣邀利，得物自用，微少饒之。此是第十垢惡布施。又第十一垢布施者，為名稱故，捨物布施。此第十一垢惡布施。又第十二垢布施者，妻子飢貧，以物與之，內無善思。此第十二垢惡布施。此一切施，離思、無思，以無思故，空無果報，若思增長則能離垢。譬如垢衣，灰汁洗浣則便清淨。如是思熏，布施成就。

> 「さらに、十二の汚れを伴う布施がある。どのような十二の汚れか。第一に、多くの人が集まる場所や僧団において、全員が戒律・智慧・行いの功徳を等しく備えているにもかかわらず、不平等に施すこと。これは汚れた布施であり、得られる報いは少ない。第二に、男女が欲情に基づいて、男が女に、または女が男に施すこと。これは第二の汚れた悪しき布施である。第三に、恐れの気持ちから、王家やその門下、あるいは沙門やバラモンなどに物を施し、『もし王から災いを受けても、彼らが私を救ってくれるだろう』と考えること。これは修行や善思惟（よい思い）に基づいて施すのではなく、汚れた布施という。第四に、愚かな心で物を施すこと。例えば、外道のバラモンなどが行う斎会（祭礼）の施しがこれにあたる。これが第四の汚れた悪しき布施である。第五に、他人が施すのを見て、その人が戒律を保っているかどうか、智慧があるかどうか、静かさを備えているかどうか、禅定があるかどうかを知らず、ただ他人がそうするからという理由で、自ら善き思いを抱かずに物を施すこと。これが第五の汚れた悪しき布施である。第六に、来た乞食に苦労して与えること。これが第六の汚れた悪しき布施である。第七に、他人の物を欲し、その信頼を得て盗もうと企み、方便として物を与え、後で様々な悪事を企て、機会を伺って害を加えるために物を与えること。これが第七の汚れた悪しき布施である。第八に、他人の和合を破壊するために物を施すこと。二人の友人の仲を裂き、その後機会を狙って衰えや悩みを与えようとすること。これが第八の汚れた悪しき布施である。第九に、結婚の成立のために物を施すこと。男が女に、女が男に施す類である。これが第九の汚れた悪しき布施である。第十に、商売として、多くの食べ物や穀物・豆・果物・野菜など様々な品物を買い込み、斎会の日を待って高値で売り利益を得て、その物を自分で使い、ごくわずかしか施さないこと。これが第十の汚れた悪しき布施である。第十一に、名声のために物を施すこと。これが第十一の汚れた悪しき布施である。第十二に、妻子が飢えや貧しさの中で苦しんでいるのに、物を与えても心に善い思いがないこと。これが第十二の汚れた悪しき布施である。 これらの全ての施しは、「思（善き意志や清らかな思い）」を欠き、無思である。無思であるがゆえに、空しく果報がない。しかし、もし「思」が育まれれば、汚れを離れることができる。例えば、汚れた衣も灰汁で洗えば清らかになるように、このように「思」が熏習（習慣的に涵養）されれば、布施は成就するのである。」

「『毘婆尸佛當爾之時，而說偈言：

> 毘婆尸仏はその時、この偈を説かれました。

「『「十二功德具，離十二種垢，成就清淨施，相違則垢濁。或天或男子，布施得大力；離施墮惡趣，布施生善道。貪心嫉妬垢，唯親愛妻子，此人墮餓鬼，唯悕望飲食。若解貪心縛，斫伐慢心樹，除滅闇聚者，此人布施故。布施在前行，施主隨其後，布施能示道，行到他世去。施水澡浴人，以持戒香塗，智慧廣無垢，得度苦彼岸。丈夫有三燈，為利益故然，所謂施戒智，此等能除過。愛極為深廣，疑波極動亂，持戒修智故，過如是苦海。心不調而速，一切處皆著，布施持戒法，則能縛此心。此等三藥師，能除煩惱病，布施持戒智，恒常與安樂。心有放逸過，分別曲而輕；布施持戒智，此三能縛心。三種過熾火，燒一切世間，智水滅火已，得寂滅涅槃。」

> 「十二の功徳をそなえ、十二種の汚れを離れた、 清らかな布施を成就せよ。それに背くならば汚濁となる。 天のものであれ、人間であれ、布施によって大きな力を得る。 施しを離れれば悪しき境涯に堕ち、布施すれば善い道に生まれる。 貪りの心と嫉妬の汚れ、ただ妻と子のみを愛し、 そうした人は餓鬼に堕ち、ただ食べ物と飲み物を求める。 もし貪りの束縛を解き、慢心の木を伐り倒し、 闇の集まりを除き滅ぼすならば、それはこの人が布施をしたからである。 布施は先に立ち、施主はその後に従う。 布施は道を示すことができ、行きて他世へと至る。 水を施して人を沐浴させ、戒めの香りを塗り、 智慧は広く、汚れなく、苦しみの彼の岸に至る。 丈夫には三つの灯明がある。利益のために燃やされるもの、 それはすなわち布施と戒めと智慧、これらが過ちを除くことができる。 愛着は極めて深く広く、疑いの波は極めて動き乱れる。 戒めを保ち智慧を修めることによって、このような苦しみの海を渡る。 心は調わず速やかであり、全てのところに執着する。 布施と戒めの法、これによってこの心を縛ることができる。 これら三つの医者が、煩悩の病を除くことができる。 布施と戒めと智慧は、常に安楽を与える。 心には放逸という過ちがあり、分別は曲がり軽々しい。 布施と戒めと智慧、この三つが心を縛ることができる。 三種の過ちの燃え盛る火が、全ての世間を焼く。 智慧の水がその火を消し滅ぼせば、静かな涅槃に至る。」

「『彼毘婆尸如來世尊，如是書經在彼塔中。

「『此布施行，唯人能行，天則不能。以此因緣，人勝天劣。汝等既知如是布施，於諸境界，心莫放逸，當善持心。善持心已，故令煩惱大惡過患心中不生。若其生者，智火能燒；智火燒已，則到第一不退之處，不生不老、不死不盡如是之處。應當捨離，如怨放逸。又復天眾更有餘事，意則劣減，損辱羞恥。所謂食時，現見故羞。以業勢力有下中上，果亦如是有下中上。彼天不能乃至少物以施他天，叵以自業迴轉與他。所謂人中食時捨施，或時持戒，如是得食。天見他食勝色勝香，勝味具足，如是見已，心則羞恥。若在園林、蓮花池水遊戲之時，一切受樂如業相似，成就樂事。見餘天面，受快樂已，內心羞慚，自身低減。

「『天中則有五種羞恥。何等為五？一、謂食時有見他天白須陀色，自食則垢，或時色赤。相近食食，見則極羞，此是初羞。第二羞者，謂見他天端正好色、形服莊嚴，有多天女妙色殊絕供養餘天，見已則羞。第三羞者，謂見他天在蓮花中、空中飛行，園林山峯、蓮花池水、金毘琉璃戲樂處行。以業勝故，飛行則疾。若少業天，行則不速，不能共彼同處遊行，常在他後，羞天女眾。第四羞者，謂天入在蓮花池者，以天本有如是業故，則有如是蓮花池生色香觸量。劣天見已，於眷屬中則生羞恥。第五羞者，如天之業，如是得報，如業坐處。若於本時作大善業，則有妙好毘琉璃座或青寶座，或時復有赤蓮花色勝坐處坐。若餘劣天在彼處坐，以業少故，如是妙座或變為金或變為銀，或為頗梨，彼天既見，坐處變已種種雜業——輕重等業。既見知已，則生羞恥。既生羞故，威德劣減。彼天如是面色減劣，餘天威德面色增上。自天女眾如是見之，則捨而去，捨離如是少業天子，依止其餘大業天去，遊戲受樂。天女同心，一切皆共詣餘天子。彼少業天極生羞恥。此是天中於眷屬所，第五羞恥。

「『如是不樂有為之法，彼有為法能為誑惑，令生貪心。如練樹葉，其味甚苦，和餘甜味，天樂亦爾，雜苦、雜樂，何況復在異道眾生地獄、餓鬼、畜生中者，或定業生、不定業生，常苦不止，有無量種大力苦生。譬如海中種種雜水，異異河入，種種水入。眾生之心亦復如是，相續河流，種種諸業，依業河起，成就大力，諸苦惱生。汝等天眾此量如是，說一切種異苦應知。總一切苦有三種因，和合相應，諸苦滿足。此三種苦有三對治，則能除之。何等為三？謂智、戒、施。

> 「このように、天の衆よ、有為の法を楽しんではならない。その有為の法は、人を惑わし欺き、貪りの心を生じさせる。例えば、練りの葉はその味が非常に苦いが、他の甘い味を混ぜ合わせるようなものである。天の楽しみもまたこれと同じで、苦しみと楽しみが混ざり合っている。ましてや、異なる道にいる衆生や地獄・餓鬼・畜生の世界にいる者はなおさらである。ある者は定まった業によって生まれ、ある者は不定の業によって生まれ、常に苦しみが止むことなく、無量の種類の大きな苦しみが生じる。 たとえば海の中には、様々な種類の水があり、異なる川々が流れ込み、様々な水が入り込むようなものである。衆生の心もまたこれと同じで、相続する川の流れのように、様々な業があり、その業の川に依って

「『毘婆尸佛當爾之時，而說偈言：

> 毘婆尸仏はその時、この偈を説かれました。

「『「若心不依止，智戒施等三，彼眾生常苦，樂則不可得。如種種因緣，何等業幾種，眾生所作業，如是成就果。一切皆因緣，無不因緣者，有為不破壞，因緣不可見。為心所誑故，布施面羞慚，如是布施者，則不得樂果。和合布施勝，捨離慳嫉垢，天常受樂故，則無如是心。飢渴為大火，能燒諸餓鬼，一切慳嫉果，實智者所說。若常行布施，彼必定得樂，以施得樂果，是故布施勝。世間作光明，恒常自隨逐，布施則到天，天供養如僕。施是不誑處，如來如是說，以其是實故，常應行布施。捨慳嫉怨已，而善修於心，若能行布施，得渡生死海。施三寶福田，三種皆清淨，決定於三時，三眼見彼果。初常行布施，次精勤護戒，智則能割愛，此為大樂道。若不除斷愛，世間不饒益，彼則不能到，不生死勝處。常離不施心，恒樂行布施，無施故飢渴，餓鬼中燒身。布施得大富，天乾闥婆中，因施得為王，善法轉輪王。依止布施地，智者能持戒，持戒者知時，因智得解脫。出苦之要道，一切佛所讚，勇健者知已，則常行布施。不布施生天，天中受樂少，施故生人中，從生受富樂。若生在畜生，亦常受樂果，一切布施樂，是智者所說。若在餓鬼中，彼亦有飲食，以本少施故，則得如是果。若生地獄中，飢渴不能燒，一切以施故，如是皆得果。生泥道中者，是眾生自業，布施得安樂，如見於父母。如是住施地，常行於布施，恒樂施持戒，得脫諸惡處。」』

> 「もし心がよりどころとしないなら、智・戒・施の三つもまた、 その衆生は常に苦しみ、楽は得られません。 様々な因縁のように、どのような業が何種類あり、 衆生がなす業は、そのまま果報を成就します。 すべては因縁によるものであり、因縁でないものはありません。 有為のものは壊れることがなく、因縁は見えません。 心に欺かれるゆえに、施しをしても恥じらいの顔をし、 そのように施す者は、楽しい果報を得られません。 和合した施しが勝れており、慳吝と嫉妬の垢を捨て離れます。 天は常に楽を受けるゆえ、そのような心はありません。 飢えと渇きは大きな火であり、すべての餓鬼を焼きます。 すべては慳吝と嫉妬の果報であると、真実の智者は説きます。

「牟修樓陀夜摩天王如是已示放逸天眾，天眾知已，一切現見住戒果報，攝取持戒。

「『又彼天眾復有羞慚，所謂業故，現前羞恥，見食故羞。園林蓮花處處遊行，多天女眾而為圍遶，種種樂音，在於天中、地上而行，心樂境界五欲之樂，第一勝樂不可譬喻，成就樂事。

「『如是轉行飲食地處，次第往到種種莊嚴端正天女。如是天女之所圍繞，彼天歌舞五樂音聲遊戲受樂。彼天耳識不知厭足，境界可愛，是故受樂不可厭足。又復彼天見種種色皆悉可愛，端嚴殊妙，如意念色，見則生樂。種種光明、種種異色、種種形相，或在遠住或在近住、或中間住，彼天見已，有如是念：「彼遠住色，可前近來。」隨心念時，彼可愛色即來在近。或中住色，如意念來。若念近者，近者則來；若念中者，中者則來；若念遠者，遠者則來。業果勝故，如是隨意。以彼業因有下中上，天報如是有下中上。如是彼天愛毒所齧，不知厭足，如火得薪，無有足時。愛心之者，則於境界不可厭足，如是天中無量種樂皆不可足。

「『又復天眾鼻識嗅香有無量種，謂園林中天妙花香。又復彼花樹枝中生，枝垂至地，有種種色、種種形相，種種分分雜雜異異，一切時花同時開敷。彼如是花，天女取之，送與天子令得嗅之，或為風吹香至天子，天子嗅之，嗅已欲發，則受欲樂。

> また、天の衆生は鼻の識によって香りを嗅ぎます。そこには無量の種類があります。例えば、林の中の天の妙なる花の香りです。また、その花は木の枝から生じ、枝は垂れて地にまで届きます。そこには種々の色、種々の形、種々の様々な入り混じった異なる花々があり、常にすべての花が同時に咲き誇ります。そのような花を天女たちが取り、天子に与えて嗅がせます。あるいは、風が香りを運び、天子のもとへ届けることもあります。天子はそれを嗅ぎ、嗅いだ後に欲の心が生じ、愛欲の楽しみを受けます。

「『又復天身，如是天中莊嚴殊妙，與天相應。頭上莊嚴寶瓔珞等，隨天意念，一切出生。種種衣服有種種香，無縷天衣其量相應。彼天如是生愛心故，不知厭足。

> また、天人の身体は、このように天界において荘厳でこの上なく美しく、天界にふさわしいものです。頭に飾る宝の瓔珞などは、天人の思いのままに、すべてが生じ現れます。さまざまな衣服にはさまざまな香りがあり、縁のない天の衣は、その量がふさわしいものです。その天人たちは、このように愛執の心を生じるがゆえに、満足することを知りません。

「『又復彼天若心意念，以自業故，一切所須具足皆得，則有第一可愛飲食。天上地中有須陀食。以本施時有下中上，須陀亦爾有下中上。又復具有種種天飲有下中上。業如是故，自業如印。猶如人中，人身長短隨日所在，影亦如是長短似身。如是如是，彼天本於人中之時，作如是業，如是食生。彼食食時，天女現前，則生羞恥。如是天中見勝天女，大生苦惱。如是有中，一切無常，無有一樂不破壞者，現見一切有為皆爾，如是應知。又復彼天本善業盡，退時生苦。若放逸天樂天欲樂，退時，愛離膩潤盡時，欲向餘道，則有相現。以欲退故，身心大苦，若大苦生。彼苦如是不可譬喻。

> また、その天人が心に思いを巡らせると、自らの業によって必要なものがすべて完全に得られ、まず第一に愛すべき食べ物が現れる。天上にも地上にも「須陀」という食べ物がある。かつて布施を行った時に下・中・上の違いがあったように、須陀もまた下・中・上がある。さらに、様々な天の飲み物にも下・中・上がある。業がそうさせるのであり、自らの業は印のようなものである。例えば、人間の世界では、人の背丈の長さが太陽の位置によって影もその長さを変えるように、身に似た影ができる。まったく同じように、その天人がかつて人間であった時に、このような業を作り、その業に応じて食べ物が生じるのである。 その食べ物を食べる時、天女が現前すると、その天人は恥ずかしさを感じる。このように天において、より勝れた天女を見ると、大きな苦悩が生じる。このように、あるものはすべて無常であり、壊れない楽しみは一つもない。現に見る通り、すべての作為的なものはそのようであると、こうして知るべきである。 また、その天人はかつての善業が尽きると、退堕落する時に苦しみが生じる。もし放逸な天人が天の欲の楽しみに耽っているなら、退堕落する時、愛着が離れ、潤いが尽きる時、他の道へ向かおうとする時には、その兆候が現れる。退堕落しようとするがゆえに、身も心も大きな苦しみがあり、もし大きな苦しみが生じるなら、その苦しみは譬えようもないほどである。

「『毘婆尸佛當爾之時，而說偈言：

> 毘婆尸仏はその時、この偈を説かれました。

「『「種種放逸樂，為境界所誑，食欲盡退時，無與同伴者。天前放逸行，不行布施等，於後死退時，悔熱自燒心。初中後等時，心常作利益，利益常調者，死時不怯怖。有生必有死，亦有愛別離，愚者不思惟，為境界所誑。死次第念念，境界破壞天，來至天不覺，以欲著意故。若天能知此，生愛別離苦，乃至須臾間，於欲心不住。欲無常可畏，常作不利益，如是愚癡者，而猶近於欲。癡天常如是，為欲火所燒，既被欲燒已，習欲不休息。若思念真諦，不喜樂境界；若喜樂欲者，是則常啼哭。此一切三界，轉行猶如輪，一切業羂縛，天不見其實。於種種道中，處處數生死，眾生為愛迷，常受諸苦惱。欲如電火輪，暫住不可得，如夢乾闥婆，眾生虛妄取。欲如如是等，畏欲復勝是，無常苦空中，勿生我所心。此之老死輪，極惡叵調伏，譬無救眾生，無眼不覺知。牟尼說五根，空而無自體，多有無常苦，自體是病處。如是見知已，則應捨離欲；彼寂靜智慧，則近涅槃住。彼欲退天者，根心皆動亂，爾時苦受生，不可得譬喻。如是受大樂，如是愛憎心，彼天欲退時，如是受大苦。諸有死未來，諸有離八難，皆應作利益，此道能得樂。天中地處退，人地中死亡，何人如是知，不厭離生死。」

> 「さまざまな放逸の楽しみにふけり、境界の対象に惑わされて、 食欲が尽きて退く時には、共にする仲間は一人もいない。 天人は以前、放逸な行いをして、布施などをせず、 後に死に退く時には、後悔の熱が自ら心を焼く。 初めも中も後の時も、常に心を善く保ち、 善く調えられた利益を常に為す人は、死ぬ時に怯えることがない。 生あるものは必ず死に、また愛する者との別れもある。 愚かな者はこれを考えず、境界の対象に惑わされる。 死は次第に瞬きの間にも訪れ、境界は天人を壊し、 やって来ても天人は気づかない。欲望に心を奪われているからである。 もし天人がこの、愛する者との別れの苦しみを知るならば、 一瞬たりとも欲望に心を留めないだろう。 欲望は無常で畏れるべきものであり、常に不利益をもたらす。 そのような愚かな者でさえ、なお欲望に近づく。 愚かな天人は常にこうして、欲望の火に焼かれる。 既に欲望に焼かれているのに、欲望に親しむことをやめない。 もし真実の理を思惟するならば、境界の対象を喜ばない。 もし欲望を喜ぶならば、それは常に泣き叫ぶことになる。 この一切の三界は、輪のように転じて行く。 一切の業の羂索に縛られて、天人たちはその真実を見ない。 様々な道の中で、生と死を幾度も繰り返し、 衆生は愛欲に迷わされて、常に様々な苦しみを受ける。 欲望は電光や火の輪のようで、一時も留まることができない。 夢や幻のようであり、衆生は虚妄にこれを取る。 欲望はこのようなものであり、欲望の畏るべきことはさらにこれに勝る。 無常であり、苦であり、空であるのに、我がものと思う心を起こしてはならない。 この老いと死の輪は、極めて悪しく、調伏し難い。 譬えば、救いのない衆生を、眼がなくて気づかないようなものである。 牟尼は説く、五根は空にして自ら体がないと。 多くは無常と苦を有し、自らの体は病の住みかである。 このように見て知ったならば、まさに欲望を捨て去るべきである。 その寂静の智慧は、涅槃に近く住する。 その欲を退けた天人は、根も心も静まり、 その時、苦の感受は生じない。譬えようもない。 このように大いなる楽を受け、このように愛と憎しみの心があるが、 その天人が欲を退ける時には、このように大いなる苦を受けない。 全ての死がまだ来ない者、全ての八つの難を離れた者は、 皆、善い行いを為すべきである。この道は楽を得ることができる。 天の世界から退き、人の世界で死ぬ。 誰がこのように知り、生死を厭わないことがあろうか。」

「『如是天中業盡退時，業繩繫縛，牽令使退，將向餘處，生大怖畏。是故有天同如畜生。若天心樂境界樂行，非自利益。是故天眾勿放逸行，莫於後時，心生悔熱。』

> 「天界の楽しみを享受していた天人が、その果報を使い果たして退かねばならなくなると、業の縄に縛られ、無理やり引きずられて別の場所へ連れて行かれ、大きな恐怖を味わうことになる。ですから、天人の身でありながら、まるで畜生のような境遇に陥るのです。もし天人が、心の赴くままに目に見える快楽を追い求め、自らの真の利益となる行いをしないならば、後に必ず後悔して心を焦がすことになります。ですから、天人の皆さんは、決して放逸な行いをしてはなりません。後になってから『あの時こうすればよかった』と熱く悔やむことのないように。」

「夜摩天王牟修樓陀如是為彼山樹具足地處行天，毘婆尸佛所作佛塔。見彼塔已，調伏天眾，為作利益，示欲過患。為顛倒天四顛倒者說於正法，死未來間，則示其死與其怖畏。彼死畏處，無量苦處，示平等道，以寂靜心作他利益，調伏天眾。於六經中毘婆尸佛所作經文，第二已竟。

> 夜摩天王・牟修樓陀は、かくのごとく山樹具足地處に住む天たちのために、毘婆尸佛が建てられた佛塔を示した。彼らにその塔を見せて、天の衆を調伏し、彼らの利益となるよう、欲望の過ちを示したのである。また、四つの顛倒に陥った天たちには正法を説き、死が訪れる前に、死とその恐怖を知らせた。その死の畏れの場所、無数の苦しみのある場所から、平等の道を示し、寂静の心をもって他者の利益をなし、天の衆を調伏した。六つの経典の中の、毘婆尸佛が作られた経文の、第二の章はここに終わる。

「又彼天主牟修樓陀夜摩天王共彼天眾山樹具足地處來者，有修心者、不修心者，皆攝取之。精勤修習利益他行，除其放逸，諦見業果，令心柔軟；心柔軟故，生大信心；信心生已，示其欲過；示欲過已，說命無常；說無常已，說生死苦。

> また、夜摩天の王である牟修樓陀（ムシュクダ）は、天の衆と共に山樹具足地處（さんじゅぐぞくじしょ）に来た者たちを、心を修める者も修めない者も、皆、受け入れて導いた。 彼は精進して修行を積み、他者の利益となる行いを説き、放逸を除かせ、業（ごう）とその報いを正しく見るように促した。そして、心を柔らかくさせた。心が柔らかくなると、大きな信心が生まれた。信心が生まれると、欲望の過ちを示した。欲望の過ちを示した後、命の無常を説いた。無常を説いた後、生死（しょうじ）の苦しみを説いた。

「彼天聞已，心則柔軟，心柔軟故，天王告言：『汝等天眾一切皆看此大佛塔迦迦村陀如來之塔，應、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、佛、世尊，妙寶佛塔光明遍滿，金珠拘欄如穿虛空，高出於上，一切皆見甚可愛樂，第一清淨，一切天眾見者心樂。此諸天中，高出如幢，堅牢不動，猶如禪住，種種善寶光明勝妙，如正法說，第一可愛。』天如是見。『汝等天眾共我相隨，往彼塔所供養禮拜，或以香塗散花供養。此大仙塔有何希有？今共往看。若我利益，乃至涅槃，或身或命皆得安樂。何以故？如來世尊雖少說法，則能利益安樂眾生。一切眾生必得利益，則無有疑。我等今者為自利益，皆共往去。』

> これを聞いた天人の心は柔和になった。心が柔和になったので、天の王は語った。「あなたがた天人たちよ、皆でこの大仏塔、カカーサンダ如来の塔を見よ。応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊であるその塔は、妙なる宝の仏塔で、光明が遍く満ちている。金や珠の欄干は虚空を貫くように高くそびえ立ち、全ての者が見て非常に愛しむべきものであり、第一に清らかで、天人たちが見れば心が喜ぶ。この天人の群れの中で、幢のように高く聳え、堅固で動かず、まるで禅定に住するかのようだ。種々の善い宝の光明は勝れて妙であり、正しい法の説示のようで、第一に愛しむべきものである。」天の王はこのように見て言った。「あなたがた天人たちよ、私と共に従い、かの塔の場所に行き、供養し礼拝しよう。あるいは香を塗り、花を散らして供養しよう。この大仙の塔に、どのような希有なことがあるのか。今、共に行って見よう。もし私に利益があれば、涅槃に至るまで、あるいは身も命も安楽を得るであろう。なぜなら、如来世尊はたとえわずかに説法されても、それで衆生を利益し安楽にするからである。一切の衆生は必ず利益を得るであろうことに、疑いはない。私たちは今、自らの利益のために、皆で共に行こう。」

「爾時，天眾既聞天王如是語已，心皆清淨，信天王語，白天王言：『我等皆去供養禮拜，為自利益，為自安樂。』

> そこで、天々の者たちは、天王からこのように聞いて、皆、心が清らかになり、天王の言葉を信じ、こう申し上げました。 「私たちは皆、お参りし、礼拝して、自らの利益と自らの安楽のために参ります。」

「爾時，如是山樹具足地處諸天，天王在前，天眾在後，向世尊塔，皆共往到。到已則見迦迦村陀如來之塔，生敬重心禮拜供養，周匝旋遶。

> そのとき、このように山や木々が豊かに茂る場所にいた天部たちは、天主を先頭に、天の衆たちを従えて、世尊の塔に向かって皆で参りました。到着すると、カカサンダ如来の塔を前にして、敬虔な心を起こし、礼拝し供養し、塔の周りを巡りました。

「爾時塔中眾寶光明，形日光明如螢火虫。彼寶光明勝妙如是。彼佛塔中見垂寶板，第一光明，板有經字，是天神通之所為作，是故不失、不破不壞、不可拭滅。何故不失？迦迦村陀牟尼如來以為利益諸天人故，說此經典，於天人中如是說法。何以故？天中乃是人之善道，人中乃是天之善道。天退之時，悕人善道；人死之時，悕天善道。如是天、人迭為善道，天之與人迭相愛樂。『持戒不壞則生天中。持五戒者，則有二種。彼持戒者，以愚癡故，生而不熟。唯癡者作，雖癡而信，以心信故，信於佛等，修行身善、口善、意善，非是邪見。乃至命盡，信業果報，依法得物以自存活，不惱他人，敬重父母、供養父母，親近沙門、若婆羅門，恒聞正法。如是癡人，唯信相應。彼雖癡鈍，具足修行身口意等相應善業，自性如是，不受禁戒。如是之人身壞命終生於善道天世界處，終心善故，得生天中。若得生於夜摩天處，劣於餘天身色形服及莊嚴具，諸天女眾、若行、若食一切皆劣，則生羞慚。光明亦少，一切欲事具足皆劣。彼無智故，不知取戒，於有戒天有智慧者、知取戒者，則為減劣。

> そのとき、塔の中にある無数の宝の光は、太陽の光を蝿の火のように見せてしまうほどでした。その宝の光は、このように素晴らしく優れていたのです。 その仏の塔の中には、垂れ下がった宝の板が見え、その板には最も優れた光が輝いていました。板には経典の文字が刻まれており、これは天の神々の神通力によって作られたものです。それゆえ、失われることがなく、破れず、壊れず、拭い消すこともできません。 なぜ失われないのでしょうか。迦迦村陀牟尼如来が、天と人のために利益をもたらそうと、この経典を説き、天と人の間でこのように法を説かれたからです。 なぜかといえば、天の世界は人の善い道であり、人の世界は天の善い道だからです。天の世界から退くとき、人は善い道を願い、人が死ぬとき、天の善い道を願います。 このように、天と人は互いに善い道となり、互いに愛し楽しみ合うのです。 「戒律を守り、それを破らなければ天の世界に生まれます。五戒を守る者には、二種類の者がいます。 その戒律を守る者でも、愚かさゆえに生まれても熟さないことがあります。ただ愚かな者が行うのです。愚かでありながらも信仰を持ち、心から信じるがゆえに、仏などを信じ、身の善、言葉の善、心の善を修行し、邪見を持つことはありません。 命が尽きるまで、業の報いを信じ、法に従って得たもので自ら生き、他人を悩ませず、父母を敬い、父母に供養し、沙門や婆羅門に近づき、常に正しい法を聞きます。 このような愚かな人は、ただ信仰と相応するだけです。彼は愚かで鈍いながらも、身・口・意の相応する善業を完全に修行します。その性質は本来このようであり、戒律を受けていません。 このような人は、身が壊れ命が終わると、善い道である天の世界に生まれます。臨終の心が善いからです。天に生まれることができても、もし夜摩天に生まれた場合、他の天の者に比べて、身体の色や形、衣服や装飾品、また天女たち、行動、食事など、すべてが劣っています。そうすると、恥ずかしさを感じます。光も少なく、すべての欲望の事柄も完全に劣っています。 彼には智慧がないため、戒律を受けることを知りません。戒律を持つ天で智慧ある者、戒律を受けることを知っている者と比べると、劣っているのです。」

「『又彼癡故，不知取戒而修戒行，於佛等中生清淨信，乃至不能取一日戒，身行善行、口行善行、意行善行，身口意中不能具足一切修行。身善行者，謂不殺生及不邪行，不行偷盜，此是不能一切修行。口行善行，唯不妄語，口之餘垢，一切不避。如是唯行一分善行，不能具足一切善行。若意善行，唯信命盡或有餘業，或時唯信。生夜摩天於次前者，轉更劣減，於餘修行受戒、持戒具足之天，形量身色、勝莊嚴具、若食若行、若天女眾、壽命長短、聲觸色香一切皆劣。自見劣故，極生羞恥，慚於餘天受持戒者。

> また、その愚かさゆえに、戒めを受けて修行することの意味がわからず、仏などに対して清らかな信心を起こしても、一日の戒めさえ守ることができません。身体での善い行い、言葉での善い行い、心での善い行いのすべてを完全に実践することはできません。身体の善い行いとは、殺さないこと、不貞をしないこと、盗まないことですが、これらすべてを実践できないのです。言葉の善い行いについては、単に嘘をつかないことだけを守り、その他の言葉の汚れはすべて避けようとしません。このように、ほんの一部分の善い行いだけを行い、すべての善い行いを完全に身につけることはできないのです。心の善い行いについても、ただ「命が尽きれば終わり」とか「残された業がある」と信じたり、あるときだけ「夜摩天に生まれる」と信じるだけです。そうした者は、先に述べた者よりもさらに劣っています。他の修行や戒めを完全に守る天人の姿、形、身長、色、立派な装飾品、食べ物、行動、天女の数、寿命の長短、声や触感、色、香りなど、すべてにおいて劣っています。自分が劣っているのを見て、大いに恥ずかしく思い、戒めを守る他の天人の前で恥じ入るのです。

「『復有愚癡不知取戒、持戒相應。唯心正見，得聞佛法，敬信三寶佛、法、眾僧，乃至不取一日之戒。聞持戒來或於知識教示聞來，或於所畏生忌難故，不作偷盜。次第聞來，若聞佛說：「以餘業故，貧窮而生。」如是之人畏現在世、畏未來世，故不偷盜。口中不說破壞之語，不迭相破，於破壞者令使和合，愛善業故。或時傳聞佛所說語：「彼破壞語餘業緣故，親舊知識、妻子奴婢一切破壞。以是業因，身壞命終墮於惡道，生地獄中。」如是之人二種因緣故不兩舌。彼人以是業因緣故，身壞命終，心有信故、或餘業故或生業故、信福田故，生夜摩天。量色形相一切劣減，天女眾劣，若處處行、飲食等劣，聲觸亦劣，味色香命一切皆劣，光明亦劣。於他天所，則生羞恥。如是放逸，不取戒故，如是三種，各生天中而有優劣。唯信佛故，或如是思——功德勝故，或時本性如是勝故，或以心體柔軟勝故，或正見勝、深心信勝，不諂不曲、不熱惱他如是勝故；供養父母，生敬重心如是勝故，或願勝故。彼人如是如業之心，恒常相續，於福田中深心勢力，意思功德有下中上。如是勝業，上生天中，業相似果決定受得，終不虛妄。不疑不得，如是定得。何況取戒，乃至涅槃，決定必得，終無虛妄。

> 「また、愚かで戒律を知らず、戒律を守ることにも適っていない者であっても、心に正しい見解を持ち、仏法を聞き、仏・法・僧の三宝を敬い信じるならば、一日の戒律さえも受けずとも良い。戒律を守るということを、知人からの教えで聞いたり、恐れや忌避の念から盗みを働かなかったり、あるいは順に聞いてきた教えに従い、仏が『他の行いのゆえに貧窮に生まれる』と説くのを聞いて、現在世と未来世を畏れて盗みをしないのである。また、口で破壊の言葉を言わず、互いを離間させず、すでに離間した者たちを和合させる。善行を愛するがゆえである。あるいは、仏の説かれた『離間の言葉の余業によって、親族や知人、妻子や奴婢はすべて離散する。この業因により、身が壊れ命が終われば悪道に堕ち、地獄に生まれる』という言葉を伝え聞いて、二つの因縁によって両舌（離間語）をしないのである。このような人は、その業因により、身が壊れ命が終わるとき、心に信仰があるゆえ、あるいは他の業ゆえ、あるいは生まれるべき業ゆえ、福田を信じるゆえに、夜摩天に生まれる。しかし、その量や形、色はすべて劣り、天女の集いも劣り、行く先々での飲食なども劣り、声や感触も劣り、味や色や香りや寿命もすべて劣り、光明も劣る。他の天の者たちの前では、恥ずかしさを覚えるのである。このように放逸で戒律を受けなかったがゆえに、以上三つの種類がそれぞれ天に生まれながらも優劣があるのは、ただ仏を信じたゆえである。あるいは、このように思惟する——功徳が勝れているゆえ、あるいは生来の性質が勝れているゆえ、あるいは心身が柔らかく勝れているゆえ、あるいは正見が勝れ、深く心から信じ、へつらわず曲がらず、他者を悩ませないことが勝れているゆえ。父母を供養し、敬いの心を深く持つことが勝れているゆえ、あるいは願いが勝れているゆえである。その人は、このような業の心を恒常的に相続し、福田の中に深い心の力を持ち、功徳を思うことに下・中・上がある。そのような勝れた業によって、上の天に生まれ、業に似た果報を必ず受け、決して虚偽ではない。疑わなければ得られないことはなく、必ず得られるのである。ましてや戒律を受け、涅槃に至ることは、必ず決定して得られ、決して虚偽はない。」

「『幾種取戒？略而言之，四眾眷屬，四種受戒，彼皆攝果。何等為四？所謂比丘、諸比丘尼、諸優婆塞、諸優婆夷，四眾受戒。彼如是人，可有幾種別別受戒？

> 「戒を受け取る人には、いくつかの種類があるのでしょうか。簡単に言えば、四つの集まりの信者たちが、四つの方法で戒を受け、それらはすべて悟りの結果へと導かれます。その四つとは何でしょうか。比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、この四つの集まりが戒を受けるのです。そのような人々には、それぞれ異なる戒の受け方が、いくつあるのでしょうか。」

「『彼優婆塞略有四種，何等四種？一、一分行；二、半分行；三、數數行；四、一切行。一分行者，唯持一戒。半分行者，謂取三戒，行於三戒。數數行者，不常受戒。一切行者，受持五戒。

> 在家の信者には、大きく分けて四つの種類があります。どのような四種類かというと、第一に「一部分を行う者」、第二に「半分を行う者」、第三に「時々行う者」、第四に「全てを行う者」です。 「一部分を行う者」とは、一つの戒めだけを守る人です。 「半分を行う者」とは、三つの戒めを選んで、それを実践する人です。 「時々行う者」とは、常に戒めを受けているわけではない人です。 「全てを行う者」とは、五つの戒めを全て受け持ち、守る人です。

「『又復更有四種持戒，何等為四？一、希持戒；二、半持戒；三、悔持戒；四、合持戒。彼優婆塞於學句海次第漸取，初取三歸作優婆塞。彼人修心，復於久時善觀察已，取一學句，於彼學句堅持不缺、不穿、不孔。

> 「さらに、四つの種類の戒め（持戒）がある。どのような四つか？第一に、部分的に戒めを守ること。第二に、半分の戒めを守ること。第三に、悔い改めて戒めを守ること。第四に、完全に戒めを守ること。 その在家信者（優婆塞）は、教えの海の教訓を、順を追って少しずつ受け取っていく。まず最初に三つの帰依（三帰）を受け、在家信者となる。その人は心を修行し、さらに長い間よく観察した後に、一つの教訓を受け取り、その教訓を堅く守り、欠けることなく、漏れることなく、穴のないように守るのだ。

「『何者不缺？何者不穿？何者不孔？彼不缺者，乃至命盡，受持不捨，不起一念破戒之心，於他作者，心不隨喜，遮他人作或令他人安住法中，故名不缺。彼不穿者，如彼所受一學句戒，乃於後時捨彼學句，次於後時復更攝取，數捨數取，如是名穿。彼人如是學句不穿，離如是持。

> 「何が欠けないのか？ 何が破れないのか？ 何が穴のないのか？ 欠けないとは、命の終わるまで戒めを受け持ち、捨てることなく、一瞬たりとも戒を破ろうという心を起こさず、他人が戒を破るのを見ても心から喜ばず、そのような行為を妨げるか、あるいは他人を戒めの道に留まらせること。これが『欠けない』という意味である。 破れないとは、人が受けた学びの教えを、後に捨て、また後に再び受け取り、繰り返し捨てては受け取ること。これを『破れ』という。 その人は、学びの教えに破れがなく、そのような捨て取りをせずに保つのである。」

「『何者不孔？云何為孔？於此學句，初清淨心，知識邊取。取已後時，其心則悔，不能護持，心生疑惑。彼疑牽心，心濁而行，非多思行。彼人後時悔火所燒，如是燒已，則捨學句；如是捨已，更不復取，此名為孔。若人不作如是住者，則名不孔。

> 「何が『孔』であり、何が『孔ではない』のか。ここでいう学びの教えについて、初めは清らかな心で知識を得ようと努める。しかし得た後になると、心は後悔し、その教えを守り続けることができず、心に疑惑が生じる。その疑惑が心を引っ張り、心は濁って実践も伴わず、深く考えることもない。後に、その人は悔いの炎に焼かれる。こうして焼かれた後、学びの教えを捨ててしまう。捨てた後は、再びそれを取り戻そうとはしない。これを『孔』という。もし人が、このような状態にならないでいるならば、それを『孔ではない』という。」

「『又彼希行優婆塞者，住於缺、穿、孔學句戒。云何為缺？此心不滅、不破不壞，善心生已，則取學句，如芭蕉葉、如電相似。如是動心歡喜取戒，信心敬重，後時復聞外道法已，心則生悔，癡垢濁心，是故捨戒。復於後時，聞正法已，還復攝取，此名為缺。又復缺者，此優婆塞疑於學句，如是持戒，有供養天，憶念正法，作如是心：「我於今者，為於佛語而得清淨，為於天所而得恩力？」如是心故，二皆供養。如是疑心，依法持戒，此名為穿。又復孔者，內心有孔，外則善行，為他見故、為供養故，受持學句，此名為孔。智者如是，一切皆捨。

> 「また、かの希行優婆塞（在家の男性信者）は、欠け、穴、孔ある学処の戒めに住していた。では、『欠け』とは何か。この心は滅することなく、破れず壊れず、善い心が生じれば、すぐに学処を受け取る。芭蕉の葉や電光のように、動きやすく、喜び勇んで戒を受け、信心をもって敬い重んじる。しかし後日、外道の教えを再び聞くと、心に悔いが生じ、無知の垢に心が濁り、そのために戒を捨てる。さらに後日、正しい教えを聞くと、また再び戒を受け取る。これを『欠け』という。また、『欠け』とは、この優婆塞が学処について疑いを持つことである。このように戒を持ちつつ、天を供養し、正法を念じながら、『私は今、仏の言葉によって清まるのか、それとも天の恩恵によって力を得るのか』と、このような心を持つ。そのために両方を供養する。このような疑いの心を持ちながら、法に従って戒を保つ。これを『穴』という。また、『孔』とは、内心に孔があり、外見は善行を装い、他人に見られるため、また供養を得るために学処を受け持つことである。これを『孔』という。賢者はこのように、そのすべてを捨てるのである。」

「『希持戒行優婆塞者，云何名為希持戒行優婆塞耶？此優婆塞取一學句，於多時中爾乃復取餘之學句，如是次第，非是一時，不生一心、不從一師，如是久時希取學句。此則名為希行學句優婆塞也。

> 「戒律をまばらに守る在家の者は、どのような者を『戒律をまばらに守る在家の者』と呼ぶのでしょうか。この在家の者は、一つの学ぶべき戒めを受け、長い時間を経てから、さらに別の戒めを受けます。このように順を追って、一時にすべてを受けず、一つの心で一度に集中することもなく、また一人の師からまとめて受けることもありません。このように長い時間をかけて、少しずつ戒めを受け取る者を、『戒律をまばらに学ぶ在家の者』と呼びます。」

「『又復第二半優婆塞。半半取行或取二已，然後取三；或取三已，然後取二；或於後時爾乃取三；或於久時方乃取二。此名半行。於半半中，下增而行，增下而行。何以故？半半學句并合而取。如是合行而受持者，此名第二半半合行優婆塞也。

> また、第二の半優婆塞について説きます。半分ずつ受け取り実践し、あるいは二つの教えを受けてから三つ目の教えを受け、あるいは三つ受けてから二つ目を受け、あるいは後に三つを受け、あるいは長い時を経て二つを受け取る。これを半行といいます。半行の中では、低いものから高いものへ進み、高いものから低いものへ行きます。なぜなら、半々に学び句を合わせて受け取るからです。このように合わせて行い、受け持つ者を、第二の半半合行優婆塞といいます。

「『云何第三悔優婆塞？前不取戒，唯癡心故，但於佛等生深信心。彼優婆塞，或比丘所聞持戒果，功德無量，乃至涅槃。既得聞已，悔火燒心，方生敬重，乃至命盡持戒不捨。此名第三悔優婆塞。

> 第三の「悔優婆塞（くやうばそく）」とは何か。 以前は戒を受けなかった者である。ただ無知な心のゆえに、仏などの教えに対して深い信心を抱いていただけだった。 その優婆塞が、あるいは比丘のもとで戒を守る果報について聞く。戒の功徳は限りなく、ついには涅槃に至るという。 そう聞いた後、後悔の炎が心を焼き、ようやく敬い重んじる心が生まれる。そして命が終わるまで戒を守り続け、捨てることがない。 これを第三の「悔優婆塞」という。

「『又復第四合優婆塞。彼持戒行一切具足。云何名為合持戒行優婆塞耶？此優婆塞聞正法已，則得正法。句句處處於經經中十二因緣，十二因緣以知如是十二因法，心中生念，如是信已，唯以舌根一切持戒，攝取滿足。於一時中攝取五戒，堅持不缺、不穿、不孔，乃至命盡，常如是持，四優婆塞，如前所說。

> 「また第四に、戒を完璧に保つ在家信者がいます。なぜ戒を完璧に保つ在家信者というのでしょうか。この在家信者は正しい教えを聞いて、その教えを正しく理解します。教えの一句一句、経典の中のあらゆる箇所で、十二因縁の教えを説く箇所を理解します。十二因縁の教えを知ると、心にこう思います。『この道理を信じて、私はただ舌根をもってすべての戒を守り、それを完全に身につけよう』と。そして、ある時に五戒を受け、それを欠かさず、破らず、穴を開けずにしっかりと守り、命が終わるまでそのように保ち続けます。以上が、先に述べた四種類の在家信者のうちの一人です。」

「『又下、中、上如是次第一切中勝，具持五戒，於一切中最下劣者，謂希持戒。最下持戒優婆塞者，唯一念中攝取持戒，天則不及，天魔王等悉皆不及。何以故？涅槃城法能攝取故。此一切天於涅槃城不悕不求。

> さらに、下・中・上の順で、一切の中で最も優れたものがあり、五戒を完全に守ることは、一切の中で最も下等な者であっても、戒めを保つことを望む者である。最も下等な戒めを守る優婆塞（在家信者）であっても、一瞬のうちに戒めを保つことを身につければ、天人の力も及ばず、天魔王などもすべて及ばない。なぜなら、涅槃の境地に至る法が、その行いを導くからである。これらの天人は、涅槃の境地を望み求めようとはしない。」

「『彼地夜叉見持戒者，供養禮拜。虛空夜叉如是見已，供養禮拜。以如是人隨順法行，能報恩故、能調順故。如是夜叉或向天說，如是之人得現世果，若王大臣或土田主而供養之，或施財物，隨後行天，神通增長，有大勢力。諸非法行惡夜叉等不能惱亂、不能破壞。隨心所須，種種意念皆得具足，稱情受樂，諸所作業皆悉成就，不多病患，面色清淨，睡眠安隱，覺時喜樂。妻子奴婢及餘客等，攝取不離。身壞命終生於善道，在彼天中量色形相一切皆勝。持戒勝故，如是勝生。如是業力，以持戒故，得是大果。本人中時所集善業，夜摩天中放逸行故，一切皆盡。眾生之心業網縛故。復於後時，墮於地獄、餓鬼、畜生。是故皆應勤行精進，乃至未得聖印以來，如是精進。若心自在放逸而行，彼天退時心則生悔，墮於地獄、餓鬼、畜生，善業盡故。是以應當捨離放逸。如是第四善優婆塞得現生樂，若能次第不斷精進，則到涅槃。如是一種，是優婆塞，佛之眷屬。

> その地の夜叉は、戒律を守る者を見て供養し礼拝する。虚空の夜叉もまたこれを見て、供養し礼拝する。なぜなら、そのような人は法に従って行動し、恩に報いることができ、よく調和しているからである。この夜叉は、あるいは天に告げて言う。『このような人は現世で良い結果を得るであろう。王や大臣、あるいは土地の主が彼を供養し、あるいは財物を施す。後に天に従い、神通力が増大し、大きな力を持つようになる。様々な非道を行う悪い夜叉たちは、彼を悩ませることもできず、打ち破ることもできない。心のままに望むあらゆる思いはすべて満たされ、望み通りに楽しみを得る。なすべき業はすべて成就し、病気に悩まされることも少なく、顔色は清らかで、眠りは安らかで、目覚めた時には喜びがある。妻や子供、召使いやその他の客人たちも、よく統率されて離れることがない。身体が壊れ命が終われば善い道に生まれ、その天においては、大きさや色や形や相、すべてにおいて優れている。戒律を守ることに勝れているからこそ、このような優れた生を受けるのである。このような業の力により、戒律を守ったことによってこの大きな果報を得る。元々人間であった時に積んだ善い業は、夜摩天において放逸に過ごしたために、すべて尽きてしまう。衆生の心は業の網に縛られているからである。そして後に、地獄・餓鬼・畜生に堕ちてしまう。ゆえに、皆、努めて精進すべきである。聖なる印（悟りの証）を得るまでは、このように精進せよ。もし心が自分のままに放逸に行動するならば、その天から退く時に心は悔いを生じ、地獄・餓鬼・畜生に堕ちるであろう。善い業が尽きているからである。それゆえ、放逸を捨て去るべきである。このようにして、第四の善き優婆塞（在家の信者）は現生の楽しみを得る。もし次第に絶えず精進を続ければ、涅槃に至る。このような者が、まさに優婆塞、仏の眷属である。

「『次復云何是優婆夷，佛之眷屬？凡有幾種佛優婆夷？優婆夷者則有四種：一是有信；二是種姓隨順次第；三、調伏行；四、近住行。言有信者，彼優婆夷種姓熏心，其心柔軟，善修其心。彼優婆夷少聞佛語，聞已能知，知已得味，味已則入，謂入法律。彼優婆夷住善心已，然後受戒。婦女之心不能拘執，聞外道語，心則不受，不捨佛法，乃至不與外道共語。唯於佛等生清淨心，具受五戒。此名有信優婆夷也。

> 「次に、この優婆夷（うばい）とは何であり、仏の眷属とはどういうことか？ 一体、何種類の仏の優婆夷がいるのか？ 優婆夷には四つの種類がある。第一に「信ある者」、第二に「家柄に従い順序を重んじる者」、第三に「修行を調える者」、第四に「近くに住む行をする者」である。 「信ある者」とは、その優婆夷が生まれつきの素質によって心が清められ、心が柔らかく、よく心を修めている。その優婆夷は仏の教えをほんの少し聞いただけで、聞いてすぐに理解し、理解してその味わいを得、味わいを得てからその教えに入る。すなわち、教えと戒律に入るのである。 その優婆夷は善い心に落ち着いてから、戒を受ける。女性の心は捉えどころがないものだが、外道の言葉を聞いても心に受け入れず、仏法を捨てることもなく、さらには外道と共に言葉を交わすことさえしない。ただ仏などに対して清らかな心を起こし、五戒を完全に受けるのである。これを「信ある優婆夷」と言う。」

「『云何種姓隨順次第優婆夷耶？種姓賢善隨順法行，入法信法——法救法歸、法性法堅，不行惡業，他道論師不能破壞。常優婆塞種姓中生，於佛等中極生信心。彼種姓中若生於女，彼女則能隨順次第，自從生來常聞佛語，供養沙門。此優婆夷恒常聞義。此優婆夷常一切時相續熏心，受戒持戒。此是種姓隨順次第優婆夷也。

> 」 「では、どのような人が生まれながらの善い性質を持ち、順を追って優婆夷（在家の女性信者）の道を歩むのでしょうか。その人は生まれながらに優れた性質を持ち、教えに従って行動し、教えに入り、教えを信じます。教えをよりどころとし、教えに帰依し、教えをその性質とし、教えにしっかりと立ちます。悪い行いをせず、他の教えを説く論師たちに破られることもありません。常に良き優婆塞（在家の男性信者）の家系に生まれ、仏などに対して強い信心を起こします。もしその家系に女子が生まれたなら、その女性は順を追って、生まれながらに常に仏の言葉を聞き、沙門（修行者）に供養します。この優婆夷は常に教えの意味を聞きます。この優婆夷は常に、あらゆる時に絶え間なく心に善い習慣を積み重ね、戒めを受け、戒めを守ります。これが、生まれながらの優れた性質を持ち、順を追って歩む優婆夷なのです。」

「『彼調伏行優婆夷者，謂本不信佛法僧等，彼若得近善知識故信於佛等。近他因緣，他令使信，見他功德持戒具足，數數取戒。彼優婆夷則名調伏。

> 「この調伏行の優婆夷（うばい）とは、もともと仏法や僧侶を信じていなかった人が、善知識に近づくことによって仏などを信じるようになることをいいます。他者との縁によって、その人に信仰が生まれ、他者の戒律を守る姿や功徳を間近に見て、何度も戒めを受け取るようになります。このような優婆夷こそを『調伏された者』と呼ぶのです。」

「『彼近住行優婆夷者。若有女人常近外道，知外道法，見其威儀。知威儀已，爾乃後時近佛弟子沙門之所，見其威儀，從其聞法，形相行食舉動進止，身著袈裟，去來寂靜。如是見已，然後次第棄捨外道，信於佛等。以相近故，是以調順，從其受戒，名近住行優婆夷也。

> 「近住行優婆夷（うばさい）」とは、ある女性が、はじめはよく外道（仏教以外の教え）に近づき、その教えや立ち居振る舞いを知っていたとします。そして後に、仏の弟子である修行僧のもとへ行き、その威儀（おごそかな振る舞い）を見、教えを聞き、僧の食事のとり方や動作、袈裟をまとった静かな様子を目の当たりにします。そのようにして、次第に外道を捨て、仏や教え、僧団を信じるようになります。このように、近しく接することで心が柔らかくなり、教えを受け、戒めを授かるようになる女性を、「近住行優婆夷」と呼ぶのです。

「『如是四種優婆夷眾，如是四種優婆塞眾，略說如是。有信解故、心相續故、他因緣故、次第近故，如前所說優婆塞眾所有因緣，優婆夷眾亦皆如是入於法律。如優婆夷所有因緣，優婆塞眾亦如是入。心相續故，優婆塞眾、優婆夷眾雜行不別一切善攝，正見正行。彼心皆有下中上故，身壞命終皆悉生於善道天中。彼有生於夜摩天者，如所集戒，正行不同，如是生於餘天之中。以善持戒，和集相應，得生天已，放逸而行，不勤精進。諸未得聖皆福業盡，復生地獄、餓鬼、畜生。福德盡故，放逸過故。若其有天不放逸行，彼則到於樂中樂處，彼以持戒善修行故。是故不應起放逸心，此放逸者，如毒不異。一切世間愚癡凡夫為貪所誑，而行一切不饒益行，一切生死繫縛不離。是故天人應捨放逸。若天、若人如是持戒，故得生於第一好處。放逸過故，福德則盡。彼如是人自誑太甚，或墮惡道，或長久時流轉生死。』

> 「以上のように、四種の優婆夷（うばい：在家の女性信者）と四種の優婆塞（うばそく：在家の男性信者）について、簡潔に説きました。信心と理解があるからであり、心が絶え間なく続くからであり、他の因縁によるからであり、次第に近づくからです。先に述べた優婆塞の因縁と同じく、優婆夷もまた、このように教えと戒律に入ります。優婆夷の因縁と同じく、優婆塞もまた、このように入るのです。 心が絶え間なく続くことにより、優婆塞と優婆夷は、区別なく混ざり合い、全ての善をよく摂めとり、正しい見解と正しい行いを持ちます。彼らの心には、下・中・上の違いがあるため、身体が壊れ命が終われば、みな善い道、天界に生まれます。 彼らの中には、夜摩天に生まれる者もいます。集めた戒や正しい行いが異なるため、様々に、他の天に生まれるのです。善く戒を持ち、調和よく集まり対応することで、天に生まれた後も、放逸な行いをし、精進に励みません。まだ聖者になっていない者たちは皆、福徳の業が尽きれば、再び地獄・餓鬼・畜生に生まれます。福徳が尽きたからであり、放逸という過ちがあるからです。 もし、放逸な行いをしない天があるなら、その天は楽の中の楽の境地に至ります。それは、戒を持ち、善く修行したからです。ですから、放逸の心を起こすべきではありません。この放逸は、毒と異ならないのです。一切の世間の愚かな凡夫は、貪りに欺かれ、一切の利益にならない行いをし、一切の生死の束縛から離れることができません。故に、天や人は放逸を捨てるべきなのです。 もし天も、もし人も、このように戒を持てば、第一の良い境地に生まれます。放逸という過ちがあれば、福徳は尽きます。そのような人は、自分自身を大いに欺き、悪道に堕ちるか、あるいは長い間、生死を流転するのです。」

「牟修樓陀夜摩天王如是善心，示其天眾，彼佛塔中板上經字，作如是言：『彼佛世尊憐愍眾生，利益天故，神通所化。』彼天聞已，第一勝心，厭離生死，捨放逸行，如毒不異。此優婆塞及優婆夷眷屬已說。

> 「ムシルダの夜摩天王は、このような善なる心をもって、その天の衆生に、あの仏塔の中の板に記された経典の文字を示し、こう言いました。『かの仏世尊は、衆生を哀れみ、天の者たちを利益するために、神通力をもってこれを顕されたのだ。』それを聞いた天の人々は、最も優れた心をもって生死の世界を厭い離れ、現世の楽しみにふける行いを毒のように避けました。 さて、この優婆塞（在家の男性信者）と優婆夷（在家の女性信者）の眷属についての話は、これで述べ終えました。」

## 正法念處經卷第四十四

> 正法念処経 第四十四巻