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title: "正法念處經 · 10"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm9tojrro07s1hj0vdfcf7cwg"
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## 正法念處經卷第四十五

> 正法念処経 第四十五巻

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之二十四夜摩天之十

> 観天品 第二十四<note>夜摩天の十</note>

「『云何比丘及比丘尼二種眷屬？彼有幾種？有何功德？有何等行？云何持戒？幾種持戒？如是沙門——世尊弟子——或是比丘或比丘尼，求涅槃行，勤行精進若晝若夜，能令魔眾眷屬怖畏。幾比丘尼，黠慧正行，如法律行，心無所畏，向涅槃城求於實諦。求實諦故，持戒不越，如是則能入涅槃城。修何等行，功德相應？一切女人愛欲、近欲，二是功德：一切善者，最初如是真實觀察男身自身，見彼男身，或與身等或大於身，如是見已，生於兄弟父母等想。如是修心：「此婦女人欲樂為本，若相近者，意常悕望。」若晝若夜、若坐若臥、若睡若寤，若餘所作，若少若老若是中年、若住平處若住惡處、若苦若樂、若病無病、若護不護、若禁不禁、若大姓生若小姓生、若媚若醜、若道邊住若家中住、若聚落中或於空處、若或莊嚴若不莊嚴、若繫在獄若不在獄、若夫愛樂若不愛樂、若近尊長在尊長前、若近卑賤、若近年少若近老年，一切婦女於一切時、於一切處，欲常縛心。欲在心中，譬如火熱，如地之堅，如風輕動，如水濕潤。如四大中所有自相皆不顛倒，於一切時皆不自離。女欲如是常隨繫縛，不曾暫離。如是女人復有二垢，所謂妬、嫉。如是二垢，復有餘垢共生不離，所謂諛諂。彼復有垢隨逐不離，所謂欺誑。彼復有垢隨逐不離，所謂憍慢。彼復有垢隨逐不離，謂衰惱處。衰惱處者，近於富男而共行欲。彼復有垢隨逐不離，所謂躁擾，心常不住。彼復有垢隨逐不離，所謂誣枉親舊知識、兄弟眷屬。彼復有垢隨逐不離，所謂能於大會之中損壞威儀。彼復有垢隨逐不離，所謂兩舌。彼復有垢隨逐不離，所謂私語。彼復有垢隨逐不離，所謂貪食。彼復有垢隨逐不離，所謂能行不應行欲。彼復有垢隨逐不離，所謂叵信。彼復有垢隨逐不離，所謂能說他之婦女壞威儀事。彼復有垢隨逐不離，所謂愛鬪。彼復有垢隨逐不離，所謂辱人。彼復有垢隨逐不離，所謂壞亂，能令村柵聚落壞亂。彼復有垢隨逐不離，所謂近此婦女因緣，墮於地獄。如是婦女，如屎如毒亦如利刀，如墮嶮岸、大火曠野、惡毒蛇等一切相似。婦女之心悉皆如是。

> 『では、比丘と比丘尼の二つの眷属とは、どのようなものか。 それには、どのような種類があるのか。 どのような功徳があるのか。 どのような行いをするのか。 どのように戒律を保つのか。 戒律には、どのような種類があるのか。 この沙門、すなわち世尊の弟子である比丘や比丘尼は、涅槃を求める行いをし、昼夜にわたって熱心に精進し、魔の眷属を恐怖させる。 どのような比丘尼が、賢明で正しい行いをし、教えと戒律に従って行い、心に恐れがなく、涅槃の都を目指して真実の真理を求めるのか。 真実の真理を求めるゆえに、戒律を越えずに保つ。このようにして涅槃の都に入ることができる。 どのような行いを修め、功徳と相応するのか。 すべての女の愛欲と近欲という二つのものは、功徳である。 すべての善いものは、最初に、このように真実に男の身体と自分の身体を観察する。 男の身体を見て、それが自分の身体と等しいか、あるいは大きいことを見て、このように兄弟や父母などの想いを生じる。 このように心を修める。 「この女という者は、欲楽を根本とする。もし近づくならば、常に心は望みを抱く。」 昼夜を問わず、座っていても、横になっていても、眠っていても、目覚めていても、その他の行いをしていても、若くても、老いていても、中年でも、平地にいても、悪い場所にいても、苦しくても、楽しくても、病気でも、病気でなくても、守られていても、守られていなくても、禁じられていても、禁じられていなくても、大きな家に生まれても、小さな家に生まれても、美しくても、醜くても、道端に住んでいても、家の中に住んでいても、集落の中かあるいは空いている場所にいても、装っていても、装っていなくても、牢獄に繋がれていても、牢獄にいなくても、夫に愛されていても、愛されていなくても、尊長の近くにいても、尊長の前にいても、卑しい者に近づいていても、若者に近づいていても、老年に近づいていても、すべての女は、すべての時、すべての場所において、欲が常に心を縛る。 欲は心の中にある。例えば、火が熱いように、地が堅いように、風が軽く動くように、水が湿っているように。 四つの大きなものの中にある、すべての自己の特質は、すべて間違っておらず、すべての時に自ら離れることはない。 女の欲は、このように常に縛りつけて、一時たりとも離れることがない。 このように、女にはさらに二つの汚れがある。 いわゆる妬みと嫉みである。 この二つの汚れには、さらに他の汚れが共生して離れない。 いわゆるお世辞である。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる偽りである。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる驕りと高慢である。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 衰え悩む場所と言われるものである。 衰え悩む場所とは、裕福な男性に近づいて共に欲を行なうことである。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる躁擾で、心が常に止まっていないことである。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる親しい旧知の人や、知識ある者、兄弟、親族を誣い枉げることである。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる、大きな集会の中で、礼儀を損なうことができることである。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる二枚舌である。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる秘密の話し合いである。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる貪欲な食べ方である。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる行うべきでない欲を行なうことができることである。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる信用できないことである。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる、他人の女が礼儀を損なったことを話すことができることである。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる喧嘩好きである。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる人を辱めることである。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆる混乱させることであり、村や集落を混乱させることができることである。 さらにそれに付き従って離れない汚れがある。 いわゆるこの女に近づく因縁によって、地獄に落ちることである。 このように女は、糞のようであり、毒のようであり、また鋭い刀のようであり、危険な崖から落ちるようであり、大火の荒野のようであり、悪い毒蛇などすべてに似ている。 女の心は、すべてこのようなものである。』

「『如是等心婦女之人，既見三寶，讚歎稱說，聽聞佛語，婦女之心則可柔軟。彼復更有希有之法，如是對治如是堅䩕垢惡之心。對治二種，謂自生心或為他教，以信出家。自生心者，善熏心故；為他教者，近善知識。彼如所說，諸過闇聚，從無始來依止心者，能令散失。彼初如是出家悕望比丘尼者，近善知識。何以故？此如所說諸垢對治，知說為說，令其善住，善能為解苦惱結縛，令得解脫，安隱樂住。善知識者，安慰示導，無始來闇能令失滅，示其善道，拔無始來惡欲等刺，於愛惡處則能救免，示常不生不死不老安隱之處。彼如是垢對治之處，我今說之，如次第說，如隨逐垢如彼對治，令得寂靜，一切如是。婦女妬嫉多於男子，如是彼此逆順對治出離生死。

> 『このように心ある婦女たちは、すでに三宝を拝し、讃嘆し称え、仏の教えを聞くことで、その心は柔らかくなります。さらに、これには稀有な法があります。このようにして、堅く汚れた心を対治するのです。対治には二種あり、自ら心を起こすか、他に教えられるかであり、それにより信心をもって出家します。自ら心を起こすとは、善く心を熏じるからです。他に教えられるとは、善知識に近づくからです。彼らは説かれた如く、無始以来心に依ってきた諸々の過ちの暗黒が散失します。彼らが最初にこのように出家を希求して比丘尼となる者も、善知識に近づくのです。なぜなら、これは説かれた如く諸々の汚れを対治し、知り、説き、語り、よく安住させ、苦悩の結縛をよく解き、解脱させ、安穏楽に住まわせるからです。善知識は、安らぎを示し導き、無始以来の闇を消し去り、善道を示し、無始以来の悪欲などの刺を抜き、愛憎の処より救い出し、常に生まれず、死なず、老いない安穏の処を示します。そのような汚れの対治の処を、今、私は説きます。順を追って説き、汚れに随い、その対治により寂静を得るように、すべてこの如くです。婦女の嫉妬は男子より多く、このようにして互いに逆順をもって生死を出離します。』

「『女欲多故，不淨對治，如身實見。身是病藏、不善之聚，一切不淨糞屎等處。彼於此身，或自或他，如其自相，如是觀察觀其本藏。此身本從何處出生？彼見精血不淨和合集聚如汁，二家惡汁合為一身。如是身者，不淨種子而生此身。

> 女性は欲望が多いため、不浄を対処法として、身体をあるがままに見ます。身体は病の貯蔵庫であり、不善の集まり、あらゆる不浄な糞尿などがある場所です。彼はこの身体について、自分自身のものであれ他人のものであれ、その本来の姿の通りに、このように観察し、その根源の貯蔵庫を観察します。この身体は、もともとどこから生まれたのでしょうか？彼は、精と血の不浄なものが混ざり合い、汁のように集まり、二つの家の汚れた汁が合わさって一つの身体となるのを見ます。このように、この身体は、不浄な種子から生まれたものなのです。

「『又復彼女如是觀身，此身若從不淨種子而得生者，如此身中無少淨法。彼比丘尼復更諦求觀身九種惡瘡不淨從身流出。如婦女身，男身亦爾，婦女、男子九種瘡流。婦女之身三種大過。何等為三？所謂婦女尿門寬大，兩乳汁流，是名三種。

> 「また、その女はこのように身を観察する。『この身は不浄の種から生まれるものであり、この身の中には少しの清らかなものもない。』その比丘尼はさらに詳しく身を観察し、九種の悪い傷から不浄が流れ出るのを見る。女性の身にそうであるように、男性の身もまた同じである。女性と男性の身には九つの傷口があり、そこから流れ出るのである。特に女性の身には三つの大きな過ちがある。どのような三つか。すなわち、女性の陰門は広く開いており、両方の乳房から乳が流れ出る。これを三つの過ちという。」

「『又復男女平等瘡流，鼻兩孔中竝皆流涕，兩目出淚，兩耳孔中或有垢出、或有血出或有膿出，口中氣臭或噉故臭，唾沫流出，於下分中，若屎若尿、血等不淨。如是如實觀察此身諸不淨已，如是憶念：「此身聚中無有淨物，微塵許流，一切皆是不淨之物。」

> 「さらにまた、男も女も平等に、体には傷ができて膿が流れます。両方の鼻の穴からは鼻水が出、両目からは涙がこぼれます。両耳の穴には、垢が出たり、血が出たり、膿が出たりすることもあります。口の中は息が臭く、古い食べ物の匂いがして、よだれが垂れます。下半身からは、大小便や血などの汚れが出ます。このように、この身体をありのままに観察し、これらの様々な不浄を見たならば、こう心に思いなさい：『この身体の集まりの中には、清らかなものは塵一つとして存在せず、すべてが不浄なものである』と。」

「『如此身者，何物住中？何者依止？若有淨物來近此身，身猶不淨。身不淨故，如是淨物亦同不淨。隨何等物，本清淨者若來觸身，則為不淨。所謂彼物本清淨者，若食第一清淨之食，彼食入身則成糞屎。此身如是飲清淨物，入身成尿。外物觸身，由此身故，一切淨物皆為不淨。所謂淨者，一切香衣，若令身著汗出則臭。又復如花，本一切香，與身相著萎蔫氣臭。彼比丘尼復觀察身，如此身者，何處住來？謂本在於母身藏中。母身云何，為淨不淨？彼比丘尼如是觀察：「我母本性亦復如是一種不淨。」

> 「この身体というものは、何が中に宿っているのか。何が依り所となっているのか。もし清らかな物がこの身体に近づいても、身体はすでに不浄である。身体が不浄であるがゆえに、そのような清らかな物も同じく不浄となる。どのようなものであれ、もともと清らかな物でも、もしこの身体に触れるならば、不浄となる。すなわち、もともと清らかな物というのは、最も清らかな食べ物を食べても、その食べ物が体内に入れば糞尿となる。この身体は同じように、清らかな飲み物を飲んでも、体内に入れば尿となる。外の物が身体に触れるとき、この身体によって、すべての清らかな物が不浄となる。いわゆる清らかなものとは、すべての香りの良い衣服も、身体に着ければ汗で臭くなる。また花も、もともとすべて香りがあるが、身体に触れれば萎れて匂いが悪くなる。その比丘尼はさらに身体を観察する。この身体は、どこから来たのか。そもそも母の胎内にあったのだ。母の身体はどうか。清らかなのか、清らかでないのか。その比丘尼はこう観察する。「私の母の本性もまた、この同じように不浄なのだ」と。

「『彼比丘尼又觀察身，如此身者何處而住？於何處行？彼如是處為淨不淨？如是觀已，如實見知。一切所有清淨之處，隨何等處，如此之身若死若活，若在彼處，彼如是處則有虫垢髮毛骨等，能令彼處悉皆大臭。以如是身在彼處故。

> 「その比丘尼はさらに身体を観察しました。『この身体はどこに住んでいるのか。どこを動き回っているのか。その場所は清らかなのか、清らかでないのか。』と。このように観察して、あるがままに見て知りました。あらゆる清らかな場所も、どこであろうと、この身体が生きているにせよ死んでいるにせよ、その場所にあるならば、そこには虫や垢、髪の毛や骨などがあり、その場所全体を大いに臭わせてしまうのです。なぜなら、この身体がそこにあるからです。」

「『彼比丘尼為斷欲故，復觀察身。如是身者，為誰所食？云何觀察？如實見之。所謂羅剎諸惡鬼等諸不淨者之所食噉，非是鵝鴨及鴛鴦等淨潔眾生之所食噉。

「『彼比丘尼復實觀察如是身已，則見此身唯邪所攝，顛倒分別，不正觀察，闇眼現前，男子相近，欲繫縛心，不見不淨。彼以如是決定觀察，此無始來久習堅欲皆得斷滅，或令微少。一切垢中，癡垢最惡。一切婦女，欲為最惡。欲垢因緣，更生餘垢。若以對治除欲垢者，餘一切垢皆滅無餘。如日沒時光明盡沒，如是斷除垢根欲故，餘垢盡滅。

「『彼比丘尼此道滅欲，彼欲滅故，餘共生垢一切皆滅。何者共生？所謂妬嫉。若男若女所有妬嫉，皆因欲故。妬嫉二垢，欲是其根。彼欲斷故或微薄故，彼二則滅。

「『又彼二垢復有餘垢隨逐繫縛。何者餘垢？所謂諛諂從妬嫉生。妬嫉滅故，諛諂亦滅。從諛諂垢復生餘垢隨逐繫縛，所謂欺誑。諛諂滅故，則無欺誑。從欺誑垢復生餘垢隨逐繫縛，所謂憍慢。欺誑滅故，則無憍慢。從憍慢垢復生餘垢隨逐繫縛，謂衰惱處。憍慢滅故，無衰惱處。從衰惱處復生餘垢隨逐繫縛，所謂躁擾。衰惱處滅，則無躁擾。從躁擾垢復生餘垢隨逐繫縛，所謂誣枉。躁擾滅故，則不誣枉。從誣枉垢復生餘垢隨逐繫縛，謂壞威儀。無誣枉故，不壞威儀。從壞威儀復生餘垢隨逐繫縛，所謂兩舌。一切婦女兩舌破壞。不壞威儀，則無兩舌。從兩舌垢復生餘垢隨逐繫縛，所謂私語，屏處說他。兩舌滅故，則不私語。從私語垢復生餘垢隨逐繫縛，所謂貪食。婦女腹內飲食則多，一切婦女常貪飲食，多置腹中，自養其身。不私語故，則不貪食。從貪食垢復生餘垢隨逐繫縛，所謂能行不相應欲。一切婦女貪欲食故，則不相應惡邪欲發。彼貪飲食餐垢滅故，彼不相應邪欲則無。從彼惡邪不相應欲復生餘垢隨逐繫縛，所謂叵信。若有婦女不相應欲，一切諸人於彼婦女皆生疑慮，為一切人之所不愛。彼不相應邪欲垢滅，叵信則滅。從叵信垢復生餘垢隨逐繫縛，所謂能說他之婦女壞威儀事。叵信滅故，則不說他壞威儀事。從說他垢復生餘垢隨逐繫縛，所謂愛鬪。說他滅故，愛鬪則滅。從愛鬪垢復生餘垢隨逐繫縛，所謂辱人。愛鬪滅故，則不辱人。從辱人垢復生餘垢隨逐繫縛，所謂壞亂，能令村舍聚落壞亂。辱人滅故，則不壞亂。此一切垢上上次第相住持者，一切皆滅。如是自體根本繫縛，婦女之心更無有法能令柔軟，唯除佛語。知識口說，從其得聞，彼婦女人如是聞已。如是難捨住處家業，捨而出家。若其不能盡滅諸漏，則能專心持戒修行。初修不殺不盜不婬，不作妄語、不破壞語、不作惡口、不作綺語。一切善修，常數數修，樂修多作。如是婦女身壞命終生於善道，欲界天中。若不厭欲，業心自在，生夜摩天山樹具足地處之中，得丈夫身。善能如是持戒不缺，如是既得彼天身已，則行放逸。放逸行天善業盡故，復墮地獄、餓鬼、畜生，復生如是上上垢惡婦女之身。

> また、その二つの汚れには、さらに別の汚れがつきまとって束縛します。その別の汚れとは何か？いわゆるこびへつらいは、妬みから生まれます。妬みが滅すれば、こびへつらいも滅します。こびへつらいの汚れから、さらに別の汚れが生じてつきまとって束縛します。いわゆるだましごとです。こびへつらいが滅すれば、だましごとはありません。だましごとの汚れから、さらに別の汚れが生じてつきまとって束縛します。いわゆるおごりです。だましごとが滅すれば、おごりはありません。おごりの汚れから、さらに別の汚れが生じてつきまとって束縛します。いわゆる衰え悩む状態です。おごりが滅すれば、衰え悩む状態はありません。衰え悩む状態から、さらに別の汚れが生じてつきまとって束縛します。いわゆる騒ぎ乱れることです。衰え悩む状態が滅すれば、騒ぎ乱れはありません。騒ぎ乱れの汚れから、さらに別の汚れが生じてつきまとって束縛します。いわゆるぬれぎぬを着せることです。騒ぎ乱れが滅すれば、ぬれぎぬを着せることはありません。ぬれぎぬの汚れから、さらに別の汚れが生じてつきまとって束縛します。いわゆる威儀を損なうことです。ぬれぎぬがなければ、威儀を損なうことはありません。威儀を損なうことから、さらに別の汚れが生じてつきまとって束縛します。いわゆる二枚舌です。すべての女性は二枚舌によって関係を壊します。威儀を損なわなければ、二枚舌はありません。二枚舌の汚れから、さらに別の汚れが生じてつきまとって束縛します。いわゆるひそひそ話、人目を避けて他人のことを言うことです。二枚舌が滅

「『爾時，世尊而說偈言：

「『「欲為妬嫉地，心如電火輪，是貪慢之藏，智者則不信。心體是欲羂，如利刀火等，心如墮嶮岸，難測深於海。心常緣如網，誑惑於他人，如金剛火燒，亦如毒能殺。滿足諸過惡，無量種和集，婦女則無心，少分修持戒。以欲勢力故，婦女不持戒，若離欲勢力，於戒則能持。」』

「牟修樓陀夜摩天王如是為說本生持戒而語之言：『汝等男天，如是人中女身持戒，生此天處。本婦女身持戒善業，汝身男生。如是生已，放逸故盡。汝等天眾如是自欺，從今以後，慎勿如是放逸而行。

> 「ムシュローダ夜摩天王は、このように前世の戒律（持戒）について語り、こう言った。『お前たち天人は、このように人間界で女性として戒律を守り、この天界に生まれたのである。もとは女性の身でありながら、戒律を守った善業によって、お前たちは今、男性として生まれている。このように生まれた後も、放逸によって善業が尽きてしまう。お前たち天人は、このように自らを欺いているのだ。これより後は、決してこのような放逸な行いをしてはならない。』」

「『世尊如是已調伏天為作利益。彼如是等一切正覺、正遍知者四種眷屬。彼眷屬中第二眷屬，婦女姊妹隨順次第，比丘眷屬如彼次第。比丘持戒，第一勝上，善修心意。如是比丘，自他惱亂，見則生畏，於世間中生死之道，則生厭離；其心怖畏一切生死，乃至微少塵許小惡，見則生畏；諦觀察行，無所悕望，第一深心，第一種姓，正行持戒，布施熏心，於四聖諦正念思惟。幾種比丘？幾種法行？比丘不越四種正法。何等為四？所謂一者不獨道行，是初比丘。何以故？獨行比丘行聚落中，則為輕賤。或復自在，以自在故，則破學句。若於村中、若城等中，人眾之處隨意念行，於餘比丘不生忌難，見多婦女則生疑慮，其心躁擾看彼婦女。俗人見之，則生譏嫌。見他譏嫌，則生瞋忿，如是比丘心中生此第二瞋過。如是比丘瞋欲覆故，心則愚癡。如是出家獨行沙門行於人中，三過增長。是故不應獨行人中，此是一種。

> 『世尊はこのように天を調伏し、利益をもたらされました。それら一切の正覚・正遍知者のもとには、四種の眷属がいます。その眷属のうち、第二の眷属は女性の信徒たちであり、順序に従って比丘の眷属もそれに準じます。比丘は戒律を守り、最も優れ、心を善く修めます。そのような比丘は、自分や他者の悩乱を見れば恐れを生じ、世間における生死の道に対して厭離の心を起こします。その心は一切の生死を恐れ、微細な塵ほどの小さな悪であっても、それを見れば恐れを生じます。よく観察し、願望なく、最も深い心と最も優れた生まれを持ち、正しく行い、戒律を守り、布施によって心を熏修し、四聖諦について正しく念じ考えます。 比丘には、どのような種類があり、どのような法の行いがあるのでしょうか。比丘は四種の正しい教えを越えてはなりません。その四種とは何か。第一に、一人で道を行かないこと、これが最初の比丘のあり方です。なぜなら、一人で行く比丘が集落の中を行けば、軽んじられるからです。あるいは勝手気ままになり、その気ままさゆえに学処を破ります。もし村や町などの人々の集まる場所で、心のままに行動し、他の比丘に対して遠慮がなく、多くの女性を見れば疑惑を生じ、心が騒いでその女性たちを見てしまいます。在家の人々はそれを見て非難します。その非難を見れば、比丘は怒りを生じます。このように比丘の心には、第二の怒りの過ちが生じます。このように比丘は怒りに覆われるがゆえに、心は愚かになります。このように出家した独り行く沙門が人の間にあっては、三つの過ちが増長します。ゆえに、一人で人の間を行くべきではありません。これが第一です。

「『又復第二不越比丘。如是比丘念身而行。此比丘行欲在道行，專念自身，謂如是念：「我舉此足，心及心數觀察其足。」如是比丘從足至頭，一切身分皆悉觀察。或舉右足或舉左足，常觀此身脈網繫縛，脂骨皮筋繫縛足踝。業風吹行，心則不斷，若舉若下、若舒若屈，足舉則攝，足下則寬。如是脚者，筋網繫縛，大小五指和合為脚，舊爪、新爪合為足趺。

> 『また第二に、比丘の修行を越えることなく、このように比丘は身を念じつつ行じる。この比丘が道を行く時には、専ら自己の身体に念を集中し、こう考える。「私はこの足を上げる。心と心の働きをもって、その足を観察する。」このように、比丘は足の先から頭の先まで、全ての部分を観察する。あるいは右足を上げ、あるいは左足を上げ、常にこの身体を巡る脈や網目の縛り、脂や骨や皮や筋が足首を縛っているのを観察する。業の風が吹き、心は絶え間なく続き、足を上げれば締まり、下ろせば緩む。このような足は、筋の網目に縛られ、五本の大小の指が合わさって足となり、古い爪と新しい爪が合わさって足の甲となる。』

「『觀足趺已，次觀足脛，猶如合汁甘蔗之莖。肉泥封塗，以筋繫縛，骨中孔長，筋纏其外。前因緣生，有毛覆皮。外有毛聚，皮如蠅翅以覆脛外。彼如是脛，一舉一下，如實觀之，經行處行，令身來去。

> 足の甲（足趺）を観じ終えたら、次に足の脛を観じていきましょう。それはまるで、汁を絞った後の甘蔗（さとうきび）の茎のようなものです。肉は泥のようにまとわりつき、筋（すじ）がそれを縛りつけています。骨の内部には空洞が長く続き、その外側を筋が取り巻いています。かつて因縁によって生じたものには、毛が生え、皮が覆っています。外側には毛の集まりがあり、皮は蝿の翅（はね）のように薄く、脛の外側を覆っています。このような脛が、一歩を挙げ、一歩を下ろす——その様子をありのままに観じながら、経行（歩く瞑想）する場所を歩き、身体を動かしてゆくのです。

「『次復觀察此身二髀，筋血脂肉骨等合成。如是觀察，心及心數，業風所吹，是故動行。

> 次に、この身体の両腿もまた、筋、血、脂、肉、骨などが集まってできていると観察する。このように観察すると、心と心の働きは、業の風に吹かれて動いているのだとわかる。

「『又復觀察此身二髀，於脛為麁，多有筋肉迭相纏縛。以肉塗上、以肉傅上，血爛為汁，汁脂內滿，唯見外皮，心生愛染。若舉一脚下踏之時，如實觀察，復舉第二。舉第二脚亦如是觀，足舉則攝，著地則寬，或伸或屈。如是次第，堅處孔處一切觀察，欲行欲動，或餘種種皆是風吹。兩脚已上，如有瓶等，中有熟藏，所謂屎尿不淨惡汁。一切所見，不堅不淨。二脚行故，彼瓶隨去，并其所盛一切諸物皆悉隨行。彼於行時，如是如是隨順繫念。

> また、この身体の両腿（もも）を観察すると、脛よりは太いが、多くの筋肉が互いに絡み合っている。その上に肉を塗り、肉を重ね、血が腐って汁となり、その汁と脂が内側に満ちている。外皮だけが見えて、そこに愛執の心が生まれる。もし一方の足を上げて地面を踏むとき、そのまま如実に観察し、続いてもう一方の足を上げる。第二の足を上げるときも同様に観察する。足を上げるときは収縮し、地に着けると広がり、あるいは伸び、あるいは曲がる。このように順を追って、固い部分や穴のある部分まですべてを観察し、動こうとしたり、歩こうとしたり、その他様々な動きは、すべて風（の力）によって生じる。両足の上には、瓶のようなものがある。その中には熟した臓器、すなわち屎尿の不浄な悪汁がある。見られるものすべて、堅固でも清浄でもない。二本の足が歩くから、その瓶がそれに従って動き、その中に盛られたすべてのものも一緒に従って行く。歩くときには、このようにして、そのまま心を（観察に）繫ぎ止めるのである。

「『又彼比丘於彼上瓶搖動其身，觀察而行，作如是念：「我云何行，上身動行？」觀大小腸。彼見舉脚，氣共腸動，大腸小腸一切動轉，或從左廂去至右廂，或從右廂去至左廂。如是腸中有風黃冷，屎尿虫滿并腸轉動。

> また、その比丘は上の瓶の中で体を揺らしながら、観察しつつ歩んで、こう思いました。「私はどのように歩み、上の身体を動かしながら歩んでいるのだろうか？」と。そして大腸と小腸を観察しました。彼は足を上げると、気とともに腸が動き、大腸も小腸も全てが動き回るのを見ました。あるいは左側から右側へ移り、あるいは右側から左側へ移るのです。このように腸の中には、風や黄、冷え、屎尿、虫が満ちており、腸も一緒に動いているのです。

「『又彼比丘觀察動已，如實觀察彼腸已上。所有生藏筋羂繫縛，下上傍廂脈網纏之，內有爛沫飲食水汁。彼食猶如新吐冷沫，為生藏覆，滿生藏中，第一大臭，上與咽連，筋脈骨持。唯有業風共心心數，相隨持行。

> また、その比丘は観察を終え、さらに如実に観察を進める。腸の上部を見ると、いわゆる「生蔵（未消化の食物を蓄える臓）」があり、それは筋の網で縛られ、上下左右に血管の網が絡みついている。その内部は腐敗した食物や水汁で満ち、ちょうど口から新たに吐き出された冷たい泡のようであり、生蔵に覆われている。実に猛烈な悪臭を放ち、その上部は喉へと繋がり、筋や脈、骨によって支えられている。それらはただ業風によって、心と心の働きと共に、互いに連れ添いながら維持されているのである。

「『比丘如是觀察身已，觀身動行。「我身上面頰骨、齒骨、髑髏骨等，和合為頭。有二眼塊，并集成頭。眼中脂多，常睫不停。我今觀此婦女之身，筋皮羂縛，如繩纏木。」念念生滅，退沒出生。在於聚落城邑等中而行乞食，以養身篋，如養蛇篋。如是養身，不為欲故，非貪飲食、非貪著味。如是比丘如是而行，如是第二精進比丘於法不越。

> 比丘は、このように身体を観察した後、身体の動きを観察します。 「私の身体には、頬骨、歯、頭蓋骨などが集まって頭を構成している。二つの眼の塊があり、それもまた頭に集まっている。眼には脂が多く、まぶたは常に動いて休むことがない。今、私はこの女性の身体を観察すると、筋肉や皮膚が縄で木を巻くように縛りつけている。」（これらの現象は）瞬間ごとに生じては消え、消えてはまた生じるのである。村や町などで托鉢を行い、身体という箱を養う。それは蛇を入れた箱を養うようなものである。このように身体を養うのは、欲望のためではなく、飲食や味わいを貪るためでもない。比丘はこのように行い、このように第二の精進ある比丘は、法を越えることはない。

「『又彼比丘，村城聚落多人住處，入中乞食。既乞食已，如是觀身，如是一切婦女男子普皆觀察。彼能如是善修習行，勤發精進，欲等離心，不入其心。如是比丘善調伏根，勝而不劣。如是比丘悕望利益，不越法行。

> また、その比丘は、村や町や集落の人が多く住む場所に入って托鉢をします。托鉢を終えたなら、このように自らの身体を観察します。そして、あらゆる女性や男性についても、ことごとく観察するのです。彼がこのように善く修行の行いを身につけ、努め励み、精進を起こすならば、欲望などから心が離れ、それらが心に入り込むことはありません。このように比丘は、諸々の感覚（根）をよく調伏し、優れており、劣ることはありません。このような比丘は、利益を望みつつも、法の行いを越えることはないのです。

「『又復第三修行比丘，所謂比丘常修正念。正念比丘心不散亂，是善知識，常有善意、有不亂意。如是比丘，天常隨行，天魔不能與作妨亂。云何正念？謂知欲行。心心數法已生、欲生，如是能知不放逸意，應緣不緣一切皆知。心心數法，若善、不善、無記等法，一切皆知，心如是念：「我諸善法因緣故生，所謂我當利益安樂乃至涅槃。我今破壞餘不善法，以我善法心心數法生因緣故，則破不善。此不善法若不破壞，令我後時當不利益、當不安樂。」如是善法及不善法如實而知，知已思量。如是等法，心意所知，分分觀察。

> また、第三に修行する比丘とは、いわゆる比丘が常に正しい念を修することをいう。正しい念を持つ比丘は心が散乱せず、これこそ善き知識である。常に善い心を持ち、乱れない心を持つ。このような比丘には、天が常に随い行き、天魔であっても妨げ乱すことはできない。 では、正しい念とは何か。それは、欲する行いを知ることをいう。心と心の働き（心々数法）がすでに生じたもの、あるいはまさに生じようとしているものを、このようにして知り、放逸の心がないことをよく知る。縁（条件）に応じるべきか、応じるべきでないか、すべてを知る。 心と心の働きについて、善いもの、善くないもの、あるいは善とも善くないとも記せないもの（無記）など、あらゆるものをすべて知る。心はこのように念じる。「私の善い法々は因縁によって生じる。すなわち、私は利益と安楽、さらには涅槃に至るためのものである。今、私は他の善くない法を打ち破る。私の善い法である心と心の働きが生じる因縁によって、善くないものは打ち破られるからだ。この善くない法を打ち破らなければ、私を後々、利益せず、安楽にしないであろう。」 このように善い法と善くない法をあるがままに知り、知った後によく考える。これらの法を、心と意が知るところ、一つひとつ分けて観察するのである。

「『有五種念不味不著，心不分別，先所作者不念不樂。何者五念？謂念眼色。若前境界可愛者來，眼境界色，若近若遠、善色惡色，本曾見來或他用來，種種諸色。如是比丘見已不味，心不思惟何因緣來。捨彼因緣，如人畏燒，避火不異。如是比丘畏欲火燒，初染之時歡喜愛多，後時苦多。本所味色，心則不念，心不分別，不住於心。自本愛色，今不復念亦不分別，亦於他身憎愛之色，心則不念，不念於他。他所念色，心亦不求。如是自身或弟子等，自他俱遮，令不味著，不生隨喜，令住正道。如是比丘名為清淨，正念不貪，於不染法，相應正行。如是比丘眼不著色。

> 「五つの念（おもい）があり、それに味わいを感じず、執着せず、心で分別せず、以前に行ったことにも執着せず、喜ばない。その五つの念とは何か。すなわち、眼と色についての念である。もし、目の前に愛らしい境界（対象）が現れても、眼の境界である色は、遠くにあろうと近くにあろうと、美しい色であろうと醜い色であろうと、以前に見たことがあるものや、他人が使っていたものなど、様々な色がある。このように比丘（修行者）は、それを見ても味わいに浸らず、『何の因縁で来たのか』と心で思惟しない。その因縁を捨て去ることは、人が火を怖れて焼けるのを避けるのと同じである。このように比丘は欲の火に焼かれるのを怖れ、最初に染まった時は喜びや愛着が多くても、後には苦しみが多いと知る。かつて味わった色に対して、心は執着せず、心で分別せず、心に留めない。自分自身がかつて愛した色についても、今はもう執着せず、分別もしない。また、他人の身体に対する愛憎の色についても、心は執着せず、他人についても執着しない。他人が執着する色についても、心で求めることはない。このように、自分自身や弟子など、自他の執着を共に防ぎ止め、味わいや執着を生じさせず、それに随喜することもなく、正しい道に安住させる。このような比丘は『清らか』と呼ばれ、正しい念（おもい）を持ち、貪らず、汚れのない法（教え）に相応した正しい行いをする。このように比丘の眼は色に執着しない。」

「『又復比丘第二念者，謂念耳聲。如是比丘正念觀察，若耳所聞極可愛聲，若歌若舞、打鼓拍手戲樂等聲。曾所聞者，不念不味，心不樂著亦不分別何因緣聞。捨彼因緣，如畏燒者捨火不異。如是比丘捨離彼聲，或遮他人或自兄弟所聞之聲，一切皆遮令住善道，心不隨喜。如是比丘，自他利益，不貪音聲。以勝念故，於聲不著。是名比丘第二正念，如是比丘耳不著聲。

> また、比丘（びく）における第二の念（おも）いは、耳と音声についてである。このように比丘は正しく念い、観察する。もし耳に極めて愛しい音声、すなわち歌や舞、太鼓や手拍子、遊戯や音楽などの音が聞こえても、かつて聞いたことのあるものに対して執着せず、味わおうとせず、心で楽しんだり執着したりしない。また、どのような因縁で聞こえたのかと分別することもない。その因縁を捨て去ることは、火に焼かれることを恐れて火そのものを捨てるのと同じである。このように比丘はその音声を離れる。あるいは他人を、あるいは自分や兄弟の聞く音声を、すべて遮（さえぎ）って善道に留まらせ、心で喜びを感じることはない。このように比丘は、自他の利益のため、音声に貪らない。優れた念いによって、音声に執着しないのである。これを比丘の第二の正念と名づける。このように比丘は耳で音声に執着しない。

「『又復比丘第三念者，謂發精進。正意寂靜，梵行持戒，如是比丘不念不味，意不生念。若本用香、若復熏香，若香若臭、若淨不淨、若遠若近，一切不念，於香無心何因緣來，捨彼因緣。若是他人、若自弟子，若鼻嗅香生味著者，如是比丘則便遮之，心不隨喜。自行善業亦令他人住於善法，心常善念，正行不貪，鼻不貪香。如是比丘得名除垢，善修持戒，心生善念。

> 『また、比丘よ、第三の思念とは、すなわち精進を発起することである。心を正しく寂静に保ち、清らかな行いを修め戒律を守る。このような比丘は、さまざまなことを思いに浮かべることもなく、味わい求めもしない。もし以前に香を用いたことがあっても、あるいは香を焚くことがあっても、香ばしい香りも、臭い匂いも、清らかなものも、清らかでないものも、遠くのものも、近くのものも、すべてに心をとどめない。香に対して心を動かすことはなく、「何の因縁によって来たのか」と問うことなく、その因縁を手放すのである。もし他人であれ、自分の弟子であれ、鼻で香を嗅いで執着する者がいるならば、そのような比丘は直ちにそれを制止し、心から喜ぶことはない。自ら善い業を行い、また他の人々をも善い法にとどまらせる。心は常に善い思いを抱き、行いは正しく、貪りがない。鼻は香に貪らない。このような比丘は、「汚れを除いた者」と名づけられ、戒律をよく保ち、心に善い思いを生じるのである。』

「『又復比丘第四念者，先曾所得可愛諸味，若愛不愛、若久時味、若近時味，不念彼味，不味彼味，心不分別何因緣來。捨彼因緣，如畏燒者捨火不異。若於他人或自弟子，若貪著味，如是比丘則便遮之，心不隨喜。此名比丘不貪著味，善念正行，捨離諸惡，修行善戒，自他利益。

> 「また、比丘よ、第四の念とは、以前に得た愛しい様々な味わいについて、好ましいものであれ好ましくないものであれ、長く続く味わいであれ一時の味わいであれ、その味わいに心を向けず、その味わいに執着せず、心で「何の理由で来たのか」と分別しないことだ。その執着の因縁を捨てること、それは火を怖がる者が火を捨てるのと同じである。もし他人や自分の弟子が味わいに執着するならば、そのような比丘はそれを即座に防ぎ、心から喜ばないことだ。これを、比丘が味わいに執着せず、善く念い正しく行い、諸々の悪を捨て離れ、善い戒を修め、自他の利益を為す、というのである。」

「『又復比丘第五念者。曾所得觸，先已觸來，彼觸染樂軟滑生垢。於彼欲法，不染不味，心不分別何因緣來。捨彼因緣，如畏燒者捨火不異。若他人身貪觸染著，不生隨喜，善觀觸法。此名比丘離觸清淨，名善持戒，修行善法，得名善住，次第乃至到於涅槃。

> 「また、比丘たちよ、第五の思念というものがあります。かつて得た触れ合い、すでに触れたものがあります。その触れ合いには、染まり、楽しみ、滑らかさ、汚れが生じます。そのような欲望の法に対しては、染まらず、味わわず、心で「何の因縁から来たのか」と分別しません。その因縁を捨て去ることは、まるで火傷を恐れる者が火を捨てるのと異なりません。他の人の身体が貪りの触れ合いに染まっていても、それに随喜せず、触れ合いの法をよく観察します。これを比丘の、触れ合いから離れた清浄と名づけます。よく戒律を保ち、善法を修行し、よく安住する者と名づけられ、順を追って涅槃に至るのです。」

「『又彼比丘復有五念應當修行。何等為五？一、念時節；二、念少年；三、念生死；四、念具足亡失散壞；五、念涅槃，欲到涅槃。如是比丘，云何念時？謂彼比丘常一切時繫念修行，不迷境界，不為境界之所破壞，不失不散。比丘不念此晝此夜，如是時節不念不知。於覺悟時，出息入息與意相應，常不離意。如出入息，乃至一念皆決定知：「出入二息在我腹內，是故我腹若起若減。以二息故，我陰入界而得存立。」諸有為法一念不住，陰界入等出於暖氣。此共氣生，共氣俱滅，破壞爛盡，復於後時因緣異生，氣共生滅，一念不住。彼念比丘如是念時，繫念相應。比丘如是自觀此身界陰入等和合聚集，一念不住，唯有苦惱。一切身分，非有作者、非有受者，迭相因緣，平等共生。如是身者，念念流轉，於念念中，生死老退諸行聚集。如是比丘修行不空。如是修行念時比丘，以念時故，決定必得四種清淨，一心清淨。心清淨故，面色清淨，善業清淨，未來利益，次第乃至到於涅槃。或復他人見其持戒，彼檀越主第一歡喜，生清淨心。

> 「また、あの修行者は五つの念を修めるべきである。何が五つか？第一に、時の節目を念じること。第二に、若さを念じること。第三に、生と死を念じること。第四に、すべてが失われ壊れていくことを念じること。第五に、涅槃を目指し、涅槃に至ろうと念じること。このような修行者、どのように時を念じるのか？すなわち、その修行者は常に、いつの時も心を一つに集中して修行し、外界の様子に惑わされず、外界の事物に心を乱されることなく、心を散らさず、失うことがない。修行者は「これは昼だ」「これは夜だ」といった時節を念じず、知ろうともしない。目覚めている時に、息を吸うことと吐くことが心と調和し、常に心から離れることがない。息の出入りのように、一つの瞬間の念に至るまで、すべてを確かに知る。「出入りの二つの息は私の腹の中にある。それゆえに私の腹は膨らみ、またへこむ。この二つの息によって、私の五蘊・十二処・十八界は成り立っている」と。すべての因縁によって生じたものは、一瞬たりとも留まることがない。五蘊・十二処・十八界などは、熱気を生じ出す。これらは息と共に生じ、息と共に滅し、壊れ、朽ち、尽きる。そしてまた後の時に、縁によって異なって生じる。息と共に生じ、息と共に滅し、一瞬たりとも留まることがない。あの念を修める修行者は、このように念じるとき、心を集中して調和させる。修行者はこのようにして、この身体という十八界・五蘊・十二処などの集まりが、一瞬たりとも留まらず、ただ苦しみだけがあるのを自ら観察する。身体のすべての部分には、作り出すものもなければ、受け取るものもない。互いが縁となって、平等に共に生じている。このような身体は、瞬間瞬間に流れ変わり、その一瞬一瞬の中で、生まれ、老い、死に、諸々の行いが集まってくる。このように修行する者は、その修行が無駄になることはない。このように時を念じて修行する者は、時を念じるゆえに、必ず四つの清らかさを得ることが決まる。第一に、心が清らかになる。心が清らかになるゆえに、顔色が清らかになり、善い行いが清らかになり、未来の利益が、順を追ってついには涅槃に至る。あるいはまた、他の人がその戒めを保つ姿を見て、その施し主は最も喜び、清らかな心を生じるのである。」

「『如是四種持戒比丘，如是實義，思惟清淨，如是一切普清淨故，則得安眠，臥見善夢，隨順於法。彼常如是不放逸行，不放逸故得七種法。何等為七？一法無礙，思惟善法，彼善業者，心則歡喜，歡喜增長。歡喜因緣，身則肥盛。身肥盛故，名色二法迭互因緣；此因緣故，身則肥盛，身無病患。身之與心迭互相依，則善聰明。言聰明者，念本作業，如是念故，聰明增長。念善法故，如是增長。既思惟已，樂亦增長；樂增長故，力亦增長。如是增長七種法故，夜則安眠；夜安眠故，修身修心。比丘如是念於夜時。

> 『このように四種の戒律を守る比丘は、このような真実の意味を思い、心の清らかさを保つ。すべてが清らかであるからには、安らかに眠り、良い夢を見て、真理に従うのである。彼は常にこのように怠ることなく修行する。怠らないがゆえに、七つの法を得る。その七つとは何か。 第一に、心にわずらわしさがなく、善き法を思惟する。その善い行いによって、心は喜び、喜びは増大する。喜びを縁として、身体は豊かになる。身体が豊かになるゆえに、名前と形という二つの法は互いに因縁となる。この因縁により、身体は豊かになり、病むことがない。身体と心は互いに支え合い、善き知恵が生まれる。知恵とは、かつて行った善き行いを心に留めることである。そのように心に留めるゆえに、知恵は増大する。善き法を心に留めるゆえに、このように増大する。思惟すれば楽も増大し、楽が増大すれば力も増大する。このように七つの法が増大するゆえに、夜は安らかに眠り、安らかな眠りゆえに身も心も修められる。 比丘はこのように夜の時を思うのである。』

「『云何比丘念於晝時？如是比丘念眼開合：「我念眼合，時節已過，則念已過。如是時節共心心數，相與俱滅，皆悉散壞。如是時節次第失滅，或滅或生，於出息頃，命已盡滅。我今老時次第欲到，我少已盡。欲到餘有，漸次決定欲到死時。我一切命當失不久，一切方便不可得離。一切眾生無因緣怨，欲來壞命。譬如燃燈，火食蘇油，念念盡滅。如是如是，老死之火，燒命蘇油，念念盡滅。」如是繫念，知無常已，勤修善法。此之內法如是速疾，念念無常，念念盡滅，誑生貪者，念念盡壞。如此內法，外亦如是，一切世間有為之法，速疾無常，念念盡滅。如是山河城邑聚落、藥草園林、一切人中、一切天中，必當失壞。

> 『どのように比丘は昼の時を観じるのか。次のように比丘は眼の開閉を観じる。「私は眼を閉じた、その時節はすでに過ぎ去り、その観じも過ぎ去った。このように時節と心・心所は共に、相共に滅し、全て散り壊れる。このように時節は次々と失われ滅し、あるいは滅し、あるいは生じる。一息の間に、命はすでに尽き滅びる。私は今、老いの時が次第に訪れようとしている。私の若さはすでに尽きた。残りの時がやって来ようとしており、次第に確実に死の時が訪れようとしている。私の全ての命は失われて間もなく、あらゆる方便をもってしても逃れられない。全ての衆生には因縁のない怨みがなく、命を壊そうとやって来る。例えば灯明のように、火が酥油を食い尽くすように、一瞬ごとに尽き滅びる。このように、老い死の火が、命という酥油を焼き尽くし、一瞬ごとに尽き滅びる」と。このように観じ続け、無常を悟った後、善法に勤め励む。この内の法はこのように速やかで、一瞬ごとに無常であり、一瞬ごとに尽き滅び、貪る者を欺き、一瞬ごとに壊れ尽きる。このような内の法も、外の法もまた同じである。全ての世の中の有為の法は、速やかに無常であり、一瞬ごとに尽き滅びる。このように山河、城、村落、薬草、園林、全ての人々の中、全ての天の中において、必ず失われ壊れるのである。

「『如是園林蓮花河池，以一切天放逸而行，先已曾失，今失當失。彼為放逸之所壞故，墮於地獄、餓鬼、畜生，自業成熟。

> 「このような美しい庭園や蓮の池で、天人は遊びにふけりながら過ごしてきましたが、それはすでに失われ、いま失われつつあり、やがて失われるでしょう。遊びにふける心に損なわれたために、地獄・餓鬼・畜生の世界に堕ち、自らの行いの報いを受けるのです。」

「『如是，比丘！此如是等一切世間無量動轉，破壞無常。不亂其意，乃至一念意常不亂，堅固憶念，正念不亂，一心諦觀正意不亂。又彼比丘正念彼時：「我如是威儀、如是正行：『此時應起。』『此時行禪。』『如是時中親近尊者。』『此時我食。』『此時著衣。』『此時我去到檀越家，為其說法。』『我於此時離檀越家，如是行去。』」如是比丘念知行時。

> 『比丘よ、このように、世の中のあらゆるものは絶えず移り変わり、壊れ、無常である。 しかしながら、そのような中でも心を乱さず、一瞬たりとも惑わないことが大切である。しっかりと記憶し、正しく念じ、心を一点に集中させ、真理を観察し、正しい心の状態を保ちなさい。 さらに、その比丘はこうした正しい心で次のように考えるべきである。 「私は今、このような振る舞いをし、このような正しい行いをしている。」 「今こそ起きる時である。」 「今こそ坐禅を修行する時である。」 「この時間にこそ、尊い方に親しく近づくべきである。」 「今が食事の時である。」 「今が衣を着る時である。」 「今、私は在家の信者の家を訪れ、説法をする時である。」 「今、私は在家の信者の家を離れ、このように歩み去る時である。」 このように、比丘は自分の行動を知りつつ、絶えず正しい心を持って歩むのである。』

「『云何比丘念於少年？謂此比丘念於自身，乃至在胞胎中之時，念如是少。次第相續，如是少身念念不停，謂歌羅邏，次安浮陀，次肉團時，次身分時，次嬰孩時，次童子時，次中年時，次老年時。如是法體念念不停，少身次第。此念念時，愚癡凡夫不覺不知，放逸破壞，疑水所漂在愛河中。如是漂已，復墮餘處同業眾中，業鎖繫縛，相續流轉，復生餘處。又自業行，於自身心，隨順繫縛，母精血中作安浮陀。次肉團時，次第開張，身分具足。人道中生，嬰孩童子、少年中年及老年時，次第至死。如是一人如是展轉，一切欲界、一切道中各各差別，皆以業風吹彼眾生，從少年等，次第而得。如是自業如是差別。如是比丘念於少年。

> 『どのように比丘が年少について念じるのか。それは、この比丘が自身のことを、母胎の中にいた時までさかのぼって念じる。その短い時間を思い、それが途切れることなく続く、この短い存在の瞬間を次々と観る。すなわち、羯羅藍（かろら）の時期、安浮陀（あぶだ）の時期、肉塊の時期、肢体ができる時期、乳児の時期、幼児の時期、中年の時期、老年の時期へと続く。このように、存在の本質は一瞬一瞬で止まることなく、短い身体の段階が次々と移り変わる。この瞬間、瞬間において、愚かな凡夫は気づかず、知らず、怠け心に破られ、疑いの水に漂い、愛欲の河に身を浸している。こうして漂った後、また別の場所、同じ業を有する仲間の中に落ち、業の鎖に縛られ、引き続き流転し、再び別の場所に生まれる。さらに自分の業の行いによって、自身の心身に応じて縛られ、母の精血の中で安浮陀となり、次に肉塊となり、次第に広がって肢体が備わる。人間の世界に生まれ、乳児、幼子、少年、中年、老年の時期を経て、ついに死に至る。このように一人の人間が、次々と移り変わる。すべての欲界、すべての道の中で、それぞれに違いがあり、すべて業の風がその衆生を吹き動かし、少年などの段階を次々に経させてゆく。このように、自らの業がこのように差別をもたらすのである。このように比丘は年少について念じるのである。』

「『又復比丘第三念者，精勤修行必定當得。念於何法？所謂生死。若晝若夜恒常修行，一切眾生乃至終盡，有命皆死。三界眾生，一切無常生死之法，有為衰惱，恩愛別離。天中退已，墮於地獄。地獄中出，生於天上。若人中死，生於地獄、餓鬼、畜生及天人中。餓鬼中死，生於地獄、餓鬼、畜生、人、天之中。如是下上傍廂生死業風所吹，旋轉而行，自業成就，流轉在於生死海中。如是比丘若晝若夜修生死念，如是修已，彼若念慢，常令人迷，樂於虛妄。以正念故，此慢或薄或皆盡滅。第一勝念，謂念生退，是故欲入涅槃城者，修行此念。何以故？以我慢故，心常虛妄，顛倒求常，在生死中流轉常行。愛羂縛故，於彼常處，則不可得。

> また比丘よ、第三の念とは、精進修行すれば必ず得られるものである。何を法として念じるのか。いわゆる生死である。昼も夜も常に修行し、すべての衆生はついには尽き、命あるものは皆死ぬ。三界の衆生は、すべて無常であり、生死の法であり、有為で衰え悩み、愛する者と別れる。天から堕ちて地獄に落ち、地獄から出て天に生まれる。あるいは人中で死んで、地獄・餓鬼・畜生・天・人に生まれる。餓鬼で死んで、地獄・餓鬼・畜生・人・天に生まれる。このように上下・傍らへと、生死という業風に吹かれ、旋回して行き、自らの業によって成就し、生死の海の中を流転する。このように比丘は、昼も夜も生死の念を修行する。そう修行すれば、もし慢の念があっても、それは常に人を迷わせ、虚妄を楽しませるものであるが、正念によってこの慢は薄まり、あるいはすべて消え去る。第一の勝れた念とは、生まれ変わりを観じることである。ゆえに涅槃の城に入ろうとする者は、この念を修行すべきである。なぜなら、我慢によって心は常に虚妄であり、常を求めると顛倒し、生死の中を流転して常に動くからである。愛の網に縛られているため、常住の境地は得られないのである。

「『爾時，世尊而說偈言：

> その時、世尊は次のように偈（うた）を説かれました。

「『「得脫於愛畏，無有諸悕望，勇健離疑者，則能得常處。若沒於有水，心常喜樂欲，彼人心虛妄，何能得常處？若人虛妄心，境界中喜樂，彼人迷法道，則生地獄中。放逸妨亂心，不能真實見，放逸猶如火，是故應捨離。放逸故能失，一切善法藏，盡一切方便，不見八分道。十法皆失壞，樂於放逸毒，亦以放逸故，四禪盡皆失。放逸縛眾生，能縛而非色，常處則是樂，離放逸則得。若人意不迷，常畏於生死，彼則脫惡道，得安隱寂靜。」

> 愛欲への怖れから解脱し、執着する望みもなく、 心猛り疑いを離れた者こそ、永遠の安らぎを得る。 水に浸かれば、心は常に快楽に執着する。 その人の心は虚ろであり、どうして永遠の安らぎを得られようか。 人が虚妄の心で、外界の快楽に喜びを見出すなら、 その人は真理の道に迷い、地獄に落ちるのだ。 怠りは心を乱し、真実を見ることができない。 怠りは火のようなものだ。だからこそ、捨て去るべきである。 怠りによって、あらゆる善の宝が失われる。 あらゆる手段を尽くしても、八正道（聖なる八つの道）を見失う。 十の善法もすべて壊れ、人は怠りの毒を楽しむ。 また怠りゆえに、四つの禅定もすべて失う。 怠りは生きとし生けるものを縛る。それは目に見える縄ではない。 永遠の安らぎこそが至福であり、怠りを離れて初めて得られる。 もし人の心が迷わず、常に生死を畏れるなら、 その人は悪道を脱して、安らかな静けさを得るのである。

「『如是修行，念生退念。如是修行生死念已，則常不迷。彼觀世間一切有為生退法已，厭離生死，種種觀已，觀生死苦有無量種。此無量種世間眾生一切放逸，隨何等時捨離放逸，能一切時觀察無常、觀察盡滅，見盡滅已，觀察佛念。如是之人則能盡苦。

> このように修行し、退く心が生じたら、生死を観じる修行を終えて、迷うことがなくなる。彼は世間のすべての有為なものは退き滅びるものであると観じ、生死を厭い離れる。様々に観察した後、生死の苦しみには無量の種類があることを観じる。この無量の種類の世間の衆生は、みな放逸に陥っている。しかし、いつであれ放逸を捨て、常に無常を観察し、尽き滅びることを観察する者がある。尽き滅びることを見たなら、仏の念を観察する。このような人は、苦しみを尽くすことができるのである。

「『又復比丘第四念者，所謂修行一切具足悉皆失壞，念彼具足一切失壞。此念比丘不樂利養，不貪檀越往返來去，亦不樂見王、若大臣。若見王者，不生樂心，愛不能妨。又於晝夜不生分別，於他具足若臥具等，心不分別，不生悕求以為己物。

> 「また、比丘よ、第四の念とは、いわゆる修行の一切が具足していても、ことごとく失われ壊れてしまうということを観じ、その具足したものがすべて失われることを念じることです。このように念じる比丘は、利養を喜ばず、施主の行き来を執着せず、王や大臣に会うことも好みません。たとえ王に会っても喜びの心を起こさず、愛執が妨げとなることもありません。また昼夜の区別なく、他人の持つ寝具などの具足したものに対して心を奪われることなく、それを自分のものにしようと願い求めることもありません。

「『如是見已，不生嫉妬，心如是念：「如是眾生決定死亡，一切具足必定失壞。如是如是具足增長，如是如是愛亦增長。又復如是具足失故，悕望更得，有無量種無量分別，心生苦惱。彼苦惱者不可譬喻。」「『如是比丘如是觀見具足失壞，既觀見已，則於後時不悕天王，況復人王、若轉輪王。何以故？見無量種失壞苦故。若王大臣或大長者、剎利大姓種種具足，更有大力能破壞之，種種具足一切皆失，妻子奴婢、客等捨離。失財物故，得大衰惱；他強勝故，則為劣減。四出巷中處處而行，手足壞裂，脣乾衣破，飢渴羸瘦，身體枯燥，從城至城、從村至村、從山至山、從邊地處至邊地處，受如是等無量種苦；比丘如是既觀察已，復更思惟，墮於無量嶮岸惡處，於生死處生厭離心。

> 「このように観じて、嫉妬の心を起こさず、心にこう思う。『この衆生は必ず死を免れず、すべての持ち物も必ず失われる。まさにこのように所有が増えれば増えるほど、そのぶん執着も増大する。また、所有を失えばさらに得たいと願い、無数の分別によって心に苦悩が生じる。その苦しみは譬えようもない。』 「『このように比丘は、所有が失われる様子を観じて、それから後には天の王位さえ望まなくなる。ましてや人間の王や転輪王などなおさらである。なぜか。無数の失われる苦しみを見るからである。たとえ王や大臣、大長者、刹帝利の大族が様々な富を得ても、さらに大きな力がこれを打ち壊し、あらゆる所有はすべて失われる。妻子や奴婢、客人たちも離れ去る。財産を失って大きな衰えと苦しみに遭い、他者が勝るゆえに劣った身となる。巷々を歩き回り、手足は傷つき、唇は乾き、衣服は破れ、飢えと渇きで痩せ衰え、身体は枯れ果てる。街から街へ、村から村へ、山から山へ、辺境から辺境へと渡り歩き、このような無数の苦しみを受ける。比丘はこのように観察した後、さらに深く思いを巡らせて、無数の険しい崖や悪い場所に堕ちる生死の世界に対して厭離の心を起こす。」

「『如是比丘復見人中種種具足一切失壞，如是見故，如是比知思惟天處，若此人中如是無量多種怖畏，不得自在，刀賊水火王種衰惱，財寶具足富樂失壞，何況復於離肉骨污天樂處生。有天花鬘在頭莊嚴，無量百千天眾圍繞，多有無量諸天女眾遊戲歌舞，喜笑受樂，在天園林蓮花水池、山峯則有七寶光明，聚集樂行五樂音聲，種種天歌，七寶間雜堂殿光明，常一切時，身無量種勝勝妙事，不可譬喻。天境界中受樂成就，迭互相愛，無有鬪諍，隨所須念一切皆得，五樂音聲心受快樂。若如是樂具足失壞，則得苦惱。以業盡故，復墮地獄、餓鬼、畜生。臨欲墮時，如是生處次第無隔，已於久來無量種作，皆得苦惱，復生異處，種種苦惱。如是彼天若生地獄，彼地獄中大力熾火周匝燒身，甚為飢渴，不可譬喻受大苦惱。作地獄業，作業道已，見於自身墮活、黑繩、合、喚、大喚、熱、大熱等如是七種大地獄中，唯除阿鼻最大地獄。資生離別，生大苦惱，見苦惱事，彼苦惱事不可得說。如是比丘常一切時，晝夜修行，如是正念。

> ある修行者が、また次のように観察しました。「人間界では、あらゆるものが完全に揃っていても、すべて失われてしまうのだ」と。 このように観察し、このように理解して、修行者は天界についても考えを巡らせます。「人間界でさえ、このような計り知れない多くの恐怖があり、思いのままにならず、刀、盗賊、水、火、王による迫害といった衰えの苦しみがあり、財宝や富の楽しみも失われてしまう。ましてや、肉体や骨、汚れから離れた天界の楽しみはどれほどであろうか。 天界では、頭には花の冠を飾り、無数の天人が周りを取り囲み、数え切れない天女たちが遊び、歌い、舞い、笑い、楽しんでいる。天の園林や蓮華の池、山の頂には七宝の光が輝き、集まって五つの音楽を奏で、様々な天の歌声が響く。七宝で飾られた殿堂は光り輝き、常に、身には計り知れない素晴らしい出来事が次々と起こり、たとえることもできない。天の世界で楽しみを享受し、互いに愛し合い、争いもなく、思いのままにすべてが得られ、五つの音楽の音色に心は喜びに満たされる。 しかし、もしこのような楽しみがすべて失われれば、苦しみを受けることになる。その業が尽きれば、再び地獄・餓鬼・畜生に堕ちる。まさに堕ちようとする時、その生まれる場所は次々と間を置かずに現れる。長い間にわたって作り続けた無数の業によって、苦しみを受け、さらにまた別の場所に生まれては、様々な苦しみを受ける。 このような天人が地獄に生まれるならば、その地獄では、大きな力を持つ燃え盛る火が全身を焼き、非常に飢えと渇きに苦しみ、たとえようもない大きな苦しみを受ける。地獄の業を作り、その業の道を歩んだ者は、自らの身が、等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄という七つの大地獄に堕ちるのを見る。ただ阿鼻地獄という最大の地獄だけは別である。生きるための資材を失い、大きな苦しみを生じ、苦しみの様子を見る。その苦しみの様子は言葉にすることもできない。」 このように、修行者は常に、昼夜を問わず、このような正しい心づかいを修行するのです。

「『又復比丘念彼如是財物具足資生失壞，修行此念，念天人中有如是事，自餘三道則無財物資生之具，何得有失？所謂地獄、餓鬼、畜生，人中少有相似樂受，非是自在。

> さらにまた、修行者は次のように観じるべきである。すなわち、これらの財物や生活を支えるものは、いつかは失われてしまうものであると。天や人の世界にはこのような事柄があるが、それ以外の三つの世界（地獄・餓鬼・畜生）には最初から財物や生活を支えるものが存在しない。したがって、それを失うこともありえないのである。人間の世界には、かすかに楽を受けることがあるが、それは自由自在なものではない。

「『於彼人處，則有五種具足失壞。何等為五？謂眼於色，若愛若樂，見則悕求，悕求味著，為樂攝取。如此顛倒不利益者，則不愛樂，見不淨色，彼於色中心則惡之，是故無樂。如是具足與彼失壞，同一根本。

> ある人の場合、五つの完全な損ないが生じます。どの五つかと言えば、眼と色において、愛着や楽しみがあれば、見るときに求め、求めるときに味わい執着し、楽しみとして捉えます。このような倒錯した有益でない行いをすれば、楽しみを好まず、清らかでない色を見て、その色に対して心が嫌悪するため、楽しみがありません。このように、完全な状態とその損ないは、同一の根本を持つのです。

「『又彼比丘隨順繫念具足失壞，何者具足？云何失壞？謂耳聞聲，耳聞聲已，隨順彼聲，愛樂相應，心生歡喜，如是具足。又所聞聲有異因緣，所謂四大。於四大聲，心不愛樂，不生歡喜，與心相違，不利益心，是名失壞。

「『又彼比丘聞好花香、和合末香、種種雜香，聞嗅香等種種諸香，順心受樂。彼香因緣，則生樂心，能令欲發。又彼比丘繫念思惟彼念香者，思惟彼人鼻嗅諸香。彼一一香有無量種，所謂爛臭與心違逆，聞糞屎等無量臭氣，心不喜樂。彼人如是，此物失壞。

「『又彼比丘專心繫念，復有異種，世間之中具足失壞。云何繫念？於人世間舌味愛樂，順心喜樂，食味易消，消已則適，得命色力、樂、辯才等，心生喜樂。若復餘味不可愛樂，違心不樂，食之難消，心則不適，於命色力、安樂、辯才資用則微，唯生苦惱。彼人如是，此物失壞。

> 「また、あの修行僧は一心に考えを巡らせて、さらに別の種類の、世の中における完全な損なわれ方について考える。どのように考えを巡らせるのか？人間の世界では、舌の味覚に喜びを感じ、心に従って楽しみ、食べ物の味が消化されやすく、消化されれば体が快適になる。それによって寿命、体力、楽しみ、弁才などを得て、心に喜びが生まれる。もし別の味で、好まれず心に従わず、食べても消化しにくく、心が不快であれば、寿命、体力、安楽、弁才などの用途は乏しくなり、ただ苦しみだけが生まれる。その人は、このようにして、この物事は損なわれるのである。」

「『又彼比丘復念身觸可愛可樂，寒時得溫，熱時得涼，順心生樂。人世間中如是具足。若異因緣，復令身觸不愛不樂，心不生樂，熱時不涼，寒時不溫，違心受苦，不喜不樂，唯生苦惱。世間人中，如是五種具足失壞。比丘如是若晝若夜繫念修行。

> 「また、その比丘は、身の触れることの愛おしく楽しめるものについて、さらに深く考える。寒い時に温かさを得、暑い時に涼しさを得て、心に沿って楽が生まれる。人間の世の中では、このように五つの感覚が満たされている。しかし、別の因縁によって、身の触れることが愛おしくなく楽しめなくなり、心に楽が生まれず、暑い時に涼しさを得られず、寒い時に温かさを得られず、心に逆らって苦を受ける。喜びや楽しみはなく、ただ苦しみ悩みだけが生まれる。人間の世の中では、このように五つの感覚が完全に失われ壊れてしまう。比丘はこのように、昼夜を問わず心を一つにして修行に励むのである。

## 正法念處經卷第四十五

> 正法念処経 第四十五巻