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title: "正法念處經 · 13"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第四十八

> 正法念処経 第四十八巻

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之二十七夜摩天之十三

> 観天品 第二十七<note>夜摩天 第十三</note>

「彼諸天眾既見如是業果報已，彼佛塔內復更觀察異處壁中覓希有法。於彼壁中，復見天王牟修樓陀隨順法行，不習近欲，愛樂法行，作諸眾生利益之行，善知一切善惡等業。既知業已，不放逸行，雖作天王而不放逸。彼諸天眾觀見天主牟修樓陀業果報已，心作是念：『此大天王本因何業生此天處，而為天王？』

> 諸天の者たちがこのような業の報いを見た後、さらにその仏塔の内側で、別の壁の部分に希有な法を探し求めました。するとその壁の中に、天王・牟修楼陀が法に従って行じ、欲望に親しまず、法の行を愛好し、一切の衆生に利益をもたらす行いをし、すべての善悪の業をよく知り、業を知った上で放逸（心の緩み）なくありながら、天王であるにもかかわらず放逸ではなかった姿を再び見ました。その諸天の者たちは、天主・牟修楼陀の業と果報を見て、心にこう思いました。「この大いなる天王は、もともとどのような業によってこの天の生を受け、天王となったのだろうか。」

「見其往世於人身時，修行善法，然燈佛所得聞佛法；既聞法已，攝取受持，思惟修行，如所聞法，如是安住。如是聞已，乃至一念心不曾亂，正信出家，剃除鬚髮披服法衣。既出家已，乃至微少塵許等惡，生大怖畏，修行梵行。以彼業因，身壞命終生於善道天世界中，謂在他化自在天處作彼天王，名曰不壞。彼處退已，生於人中，為轉輪王，王四天下。彼業盡已，命終生於四天王天。彼處退已，生於人中，復得為王，所王之土，一千由旬。彼命終已，生弗婆提，於彼為王，大勝身體。彼命終已，次復生於阿修羅中，第一神通，有大勢力。彼處命終，而復更作大富長者，恒常修行，第一大施，次有持戒智等具足，隨所生處何處何處，施、戒、智等三事具足。彼處命盡，修施戒智不斷絕故，身壞命終生於善道，天世界中夜摩天處為夜摩王，名牟修樓陀。

> その者が前世で人間であった時、善い法を修行し、然燈仏のもとで仏法を聴聞したことを見る。その法を聞いた後、受け取り、保持し、思考し修行した。聞いた法のままに、そのように安住した。このように聞いた後は、ほんの一瞬の心も乱れることなく、正しい信によって出家し、髪と鬚を剃り、法衣をまとった。出家した後は、微細な塵ほどのわずかな悪に対しても大きな恐怖を抱き、清らかな行い（梵行）を修行した。その業の因により、身体が壊れ命が終わると、善趣である天の世界に生まれ、他化自在天においてその王となり、名を不壊といった。そこから退いた後、人間に生まれ、転輪聖王となって四天下を統治した。その業が尽きると、命終して四天王天に生まれた。そこから退いた後、再び人間に生まれ、王となり、その国土は一千由旬であった。その命が終わると、弗婆提（東勝身洲）に生まれ、そこで王となり、身体は大いに勝れていた。その命が終わると、次に阿修羅の中に生まれ、最も優れた神通力と大きな勢力を有した。その命が終わると、さらに大いなる富を持つ長者となり、常に修行し、最も優れた布施を行った。次に戒律と智慧も具足し、生まれるところどこにおいても、布施・戒律・智慧の三つが完全に備わっていた。その命が終わる時も、布施・戒律・智慧の修行を絶やさなかったため、身体が壊れ命が終わると、善趣である天の世界の夜摩天に生まれ、夜摩王となり、その名を牟修楼陀（マウドガリヤーヤナ）といった。

「彼如是法，次第相續不斷絕故，彼心善故、善調伏故，不放逸行諸欲境界，不壞其心，自他利益，無量善業隨順行故，多有天眾，欲所不攝。

> 「その法は、次第に途切れることなく続いていく。その心が善く、よく調えられているからである。放逸することなく、欲望の対象に対して行動しても、その心は乱されない。自他を利するために、無量の善行に随順して行じるがゆえに、多くの天の衆も、欲望に捕らわれることはない。」

「爾時，彼處夜摩天眾而說偈言：

> その時、その場所にいた夜摩天の衆が、次のように偈を唱えました。

「『隨順善法行，彼則常得善，無量千億劫，善業不失壞。常增長持戒，於智轉習行，一切時布施，繫念常不斷。修行施等三，除斷三種過，捨離彼過故，勤修行功德。雖天欲具足，境界樂不壞，彼不放逸故，則不墮地獄。法常不斷絕，彼隨順法行；不隨法行者，則是大愚癡。近法戒之人，精勤修智行，能滅諸有苦，如日光除闇。能增長法者，為天人所禮，如是異處生，乃至到涅槃。若如是知法，諦思惟法相，彼則解脫有，當得到彼岸。智忍常愛語，愍一切眾生，或施種種物，此道至涅槃。惡者則近惡，或習近懈怠，堅心增惡法，彼行地獄道。見何人皆喜，見何人皆瞋，處處皆貪著，如是故名癡。惡法所迷惑，捨離於善法，癡故入地獄，受惡法苦惱。行法推求善，常捨離於欲，牟修樓陀處，天中住無垢。』

> 善法に従って行えば、常に善を得る。 無量千億劫の間も、善業は失われず壊れない。 戒律を守ることを常に増し、智慧を転じて習い行い、 常に布施を行い、心をとどめて絶え間なくする。 布施・戒律・忍辱の三つの行を修し、三つの過ちを断ち除く。 それらの過ちを離れるために、精進して功徳を積む。 たとえ天の欲が満ち足りていても、境地の楽しみは壊れない。 彼が放逸（ほういつ）に陥らないから、地獄に堕ちることはない。 法は常に絶えることがない。彼はその法に従って行う。 法に従って行わない者こそ、大いなる愚か者である。 法と戒律に親しむ人に近づき、精進して智慧の行を磨くならば、 あらゆる存在の苦しみを滅ぼすことができる。それは日光が闇を払うようなものだ。 法を増し伸ばす人は、天や人々から敬礼される。 こうして様々な場所に生まれながら、ついには涅槃に至る。 もし、このように法を知り、法の相（すがた）をよく考え抜くならば、 その人は〔三界の〕存在を解脱し、彼岸に至ることができる。 智慧と忍辱、常に愛語（あいご）をもってすべての生きとし生けるものを哀れみ、 あるいは様々なものを施す。この道こそ涅槃に至る道である。 悪しき人は悪しきものに近づき、あるいは怠惰に慣れ親しみ、 心を堅くして悪い法を増やす。その人は地獄の道を歩む。 全ての人を見て喜び、全ての人を見て怒り、 あらゆる所に貪り執着する。これを愚かさという。 悪い法に惑わされ、善い法を捨て去り、 愚かさゆえに地獄に入り、悪い法の苦しみを受ける。 法を行い善を求め、常に欲望を離れ、 牟修楼陀（むしゅるだ）の住まうところ、天の内で汚れなきに留まる。

「彼夜摩中山樹具足地處天眾，彼此如是迭相為說，於愛境界而生怖畏。一切衰惱皆現見已，復共天王牟修樓陀彼佛塔內異處壁中，次第復觀，夜摩天王牟修樓陀及諸天眾此處退已，當生何處？在於何道？時諸天眾於彼壁中皆見自身并其天主牟修樓陀，天處退已，生閻浮提，一切皆於彌勒世尊出世之時，諸根具足，一切皆生大種姓中，共為同侶，共一國土，迭相愛念，生大種姓，皆悉大富、尊重姓生。如是壁中皆見自身。

> 「夜摩天の山上には、木々が茂り、多くの天人が集う場所がある。そこでは互いに語り合い、愛欲の世界に恐怖を抱くようになる。すべての衰えと苦しみを目の当たりにした後、彼らは天王である牟修楼陀と共に、その仏塔の異なる壁の場所を順に観ていく。夜摩天王の牟修楼陀と天人們は、ここを去った後、どこへ生まれるのだろうか？どの道へ進むのだろうか？その時、天人們はその壁の中に、自分たちの姿と、主である牟修楼陀の姿を見る。天界を去った後、彼らは閻浮提に生まれる。そして皆、弥勒世尊が世に現れる時に、すべての感覚器官が完全に備わり、大いなる種族に生まれ、互いに仲間となり、同じ国土に住み、互いに愛し合い、大いなる種族の中で、皆が大いなる富と尊敬を持つ家柄に生まれる。このように、壁の中に自分たちの姿が見えるのである。」

「牟修樓陀在彼國土生在剎利大種姓中，大富大力，為一切人之所供養，百千億寶滿其舍內，生剎利家以為長子，名曰善戒。

> 牟修樓陀はその国に生まれ、クシャトリヤの大きな家系に生まれた。大いなる富と力を持ち、すべての人々から敬われていた。家の中には百千億もの宝が満ちていた。クシャトリヤの家の長男として生まれ、その名を善戒といった。

「爾時，彼處彌勒世尊說寂靜法向涅槃城，謂四聖諦，功德具足，初中後善、義善語善，獨法具足清淨鮮白，所謂：『此色，此色集，此色滅，此色滅道。』如是次第，受、想、行、識，總相略說。一切眾生安隱離濁，向涅槃城，無有障礙，為諸世間如是說法。

> その時、弥勒世尊は、静寂の境地に至る法を説き、涅槃の境地へと導かれました。それは四つの聖なる真理（四聖諦）であり、功徳を備え、初めも中も後も善く、意味も言葉も善く、完全で清らかで濁りのない独自の法でした。すなわち、『これが色（物質的存在）であり、これが色の生起であり、これが色の消滅であり、これが色の消滅に至る道である』と。同様に、受（感受）、想（表象）、行（意思作用）、識（認識）についても、その要点を簡潔に説かれました。あらゆる衆生が安らかで、穢れから離れて、涅槃の城へと向かうこと、その道に障害がないようにと、世の人々のためにこのように説法されたのです。

「爾時，善戒剎利王子——王之長子，傳聞彌勒世尊說法，如是聞已，如前所說，諸同侶等亦如是聞。前世所修善業因故，彼此籌量，一切皆共向彼善戒剎利子所。有二萬人詣彼善戒剎利王子，如前所說。爾時，善戒聞其語已，本善業故，心生歡喜，生敬重心，面色清淨，一切和合，同時皆起，共詣彌勒佛世尊所。如是眾人旋遶善戒，亦如第二三十三天圍遶帝釋。在路遙見彌勒世尊有三十二大丈夫相，廣說妙法，利益一切天人世間，并諸沙門、波羅門等，如是為說入涅槃法，初中後善。彼法清淨猶如水池，能盡諸苦，能除一切生死繫縛，次第乃至到於涅槃，說如是法。爾時眾會廣大於海，彌勒世尊在中說法。

> その時、善戒という名の刹帝利（クシャトリヤ）の王子——王の長子は、弥勒世尊が説法されていると聞きました。このように聞いて、先に述べたように、彼の仲間たちもまた同じくこれを聞きました。前世で修めた善業の因縁によって、彼らは互いに相談し、皆がそろってその善戒刹帝利の王子のもとへ向かいました。二万人がその善戒刹帝利の王子のもとへ赴いたことは、先に述べた通りです。 その時、善戒はその言葉を聞いて、もともとの善業のゆえに、心に歓喜が生じ、敬いの心が湧き起こり、顔色は清らかになりました。そして皆が一つに和合し、同時に立ち上がり、共に弥勒仏世尊のもとへ向かいました。この人々は善戒の周りを取り囲んで進みました。それはあたかも第二の三十三天（忉利天）の者たちが帝釈天を取り囲むかのようでした。 道すがら、遥か彼方に弥勒世尊がおられるのを見ました。その御姿は三十二の大丈夫相を備え、広く妙なる法を説き、天人の世間や沙門（修行者）、婆羅門（バラモン）など、すべての者に利益をもたらしていました。そのようにして、涅槃に入るための法を説かれました。その教えは、初めも中も終わりも善く、水の池のように清らかであり、あらゆる苦しみを尽くし、生死の束縛をすべて除き、順を追って涅槃に至らせる法を説かれたのです。 その時、集会の衆は海よりも広大で、弥勒世尊はその中にあって説法しておられました。

「爾時，世尊遙見善戒人眾圍遶，告大眾言：『此夜摩天主牟修樓陀并其大眾。此夜摩主牟修樓陀修行梵行，先已曾種善法種子，今者根熟。此夜摩主牟修樓陀繫縛已緩，多不善業一切消滅，捨離於欲，諸苦盡時，於今將至。彼人如是得聞如來口言語已，心生歡喜，心生敬重，一切生死皆得遠離。』

「如來之色甚為希有，不可譬喻。牟修樓陀得見如是希有佛已，頭頂禮足，住在一面，白言：『世尊！我行世間生死流轉，疲倦厭離。』

「爾時，世尊如應說法，有十千人常近於王、常共王行——先同伴者，得盡諸漏。

「彼夜摩主牟修樓陀如迦那迦牟尼世尊壁中所化，一切未來次第而見。一切智人所化種種希有之事有無量種，非餘境界，并天世間、魔等世間，及諸沙門、婆羅門等，無能見者，除近正士、如來住者。近善知識，出生死中最為第一。

> 「かの夜摩天主・牟修樓陀が、迦那迦牟尼世尊の壁の中に示した、すべての未来を順に見通す教化。一切智者のお示しになった、この世に稀なる様々な事柄には、無量の種類がある。それは他の者の及ぶ境地ではなく、天界の世、魔の世、そして全ての修行者やバラモンたちにも、見ることのできないものである。ただ、正しき師に近づき、如来のもとに留まる者を除いては。善き知識に近づくことは、迷いの生涯を超える道として、最も優れたものである。」

「時，彼天眾一切共同生歡喜心，於佛法僧生敬重心。時彼天王并諸天眾復更禮佛，出彼佛塔。

> そのとき、天の者たちは皆こぞって喜びの心を起こし、仏・法・僧に敬いの心を抱きました。そして、その天の王とすべての天の者たちは再び仏を礼拝し、その仏塔を出てまいりました。

「於六經中，彼迦那迦牟尼如來世尊所化，第五已竟。

> この六つの経典のうち、かの迦那迦牟尼如来・世尊による教えの第五番目が終わりました。

「爾時，天主牟修樓陀夜摩天王生歡喜心，見欲過患，復生怖畏。共諸天眾次復觀察山樹具足地處，天眾歡喜而行。彼處多有種種天眾，多有園林，蓮花水池滿彼地處，有無量種蓮花滿池。有可愛聲種種諸鳥，聞彼聲者，則受快樂。山樹具足地處多有無量百千諸天女眾，歌舞喜笑種種遊戲，多有無量功德具足。有七寶樹具足花果，多有山峯皆是妙寶，滿彼地處而為莊嚴。自業果報有下中上，天眾自業唯樂欲樂，滿彼地處，迭共同侶，不相妨礙，彼此相信。多有天子、多天女眾迭相愛念。多有諸河，河中有飲，味甚可愛。復有種種妙寶堂殿，皆悉作行，雜色可愛，五欲功德皆悉具足，眾寶光明迭相莊嚴。彼諸寶殿爭出勝光，如火煉金。珊瑚硨𤦲，多有青寶及山峯等，莊嚴地處。山樹具足地處莊嚴，如是可愛。

> その時、天の主であるムシュローダ夜摩天王は歓喜の心を起こしながらも、欲望の過ちを見て、新たに恐れの念を抱きました。そして天の仲間たちと共に、次に「山樹具足の地」を観察することにしました。天の仲間たちは喜びに満ちて進みました。その場所には実に多くの種類の天の仲間たちがおり、数多くの園林や蓮の花が咲く池があって、その地を満たしていました。池には無数の種類の蓮の花が咲き乱れ、愛らしい声で鳴く様々な鳥たちがいました。その声を聞く者はみな、至福を感じました。 山樹具足の地には、無量の百千もの天女たちが集い、歌舞や笑い声、様々な遊びに興じていました

「牟修樓陀夜摩天王既觀察已，告天眾言：『汝等天眾看彼天眾歡喜心行，從山至山，從一山峯至一山峯歡喜遊戲，五樂音聲歌舞戲樂。汝等皆當看彼天眾。』如是天眾已於佛塔種種見來，答天王言：『我等已見。』

> 牟修楼陀夜摩天王は観察し終えて、天の者たちにこう告げました。「あなたがた天の者たちよ、あの天の者たちの喜びに満ちた心の動きを見なさい。山から山へ、一つの山頂から別の山頂へと、楽しげに遊び、五つの楽器の音色に合わせて歌い、舞い、戯れている。あなたがたも皆、あの天の者たちを見なさい。」こうして、すでに仏塔において様々に見てきた天の者たちは

「爾時，如是夜摩天王告天眾言：『如來已說，如相應說，天中衰惱。放逸行天，命將欲盡，善業欲爛，退時欲至，戒果欲壞，行業如化，癡不覺知。放逸行天不覺不知，墮於地獄、餓鬼、畜生。此無量種諸苦衰惱，生死流轉，皆由本業。何以故？以彼命行念念流動，不可迴故。以業力多，不可離故。如此一切有為三相，生、住、滅等三過患故，多有無量諸衰惱事，無有少味。而諸天眾不知不覺，自謂大樂，念念近死。死時欲至，已入死門而不覺知。如此一切有為之法，念念不停，一切有命，無常破壞，少年速變。彼天退時，覺知苦惱，有無量種恩愛別離。』

> その時、夜摩天の王は天の衆に告げて言いました。「如来はすでに説き、それに応じて説かれました。天には衰えや悩みがあります。放逸にふける天々は、命が尽きようとし、善業は朽ちようとし、退く時が来ようとし、戒の果報は壊れようとしています。業（行い）は幻のようであるのに、愚かさゆえに気づきません。放逸にふける天々は気づかず、知らずに地獄・餓鬼・畜生に堕ちます。この無数の苦しみや衰え、悩み、生死の流転は、すべて自らの業によるものです。なぜかと言えば、その命の行いは瞬間瞬間に流れ動き、引き戻すことができないからです。業の力が多く、離れることができないからです。このように、すべての現象（有為）には三つの相——生・住・滅という三つの過患があり、それゆえに無量の衰えや悩みの事柄があり、少しの味わいもありません。ところが天々は知らず、気づかず、自らを大いなる楽しみと思い、刹那ごとに死に近づいています。死の時が来ようとし、すでに死の門に入っているのに気づきません。このように、すべての現象は刹那もとどまらず、命あるものはすべて無常に破壊され、若さはたちまち変わります。彼らが天から退く時、苦しみや悩みを覚え、無

「時，彼天眾既見天王，心生歡喜，速疾速疾莊嚴其身，天衣垂祧，寶冠瓔珞、天妙鬘等以嚴其身。自身光明，多有種種莊嚴天女，百千之眾圍遶天子，種種樂音歌舞戲笑，受第一樂。自善業故，如是莊嚴具足無量百千種色，往向天主牟修樓陀。爾時，天王如是見已，隨順瞻觀，即前稍近，見其遊戲受諸快樂。

「爾時天王順其心故，暫入眾中遊戲受樂，非自喜樂。在他天中，於須臾間喜笑遊戲。彼天心動，於欲生樂，遊戲樂已，到餘山峯。種種珊瑚、金銀等樹，無量百種妙色莊嚴，有無量種眾鳥音聲、有無量種光明照曜、有無量種分別異念、有無量種天妙寶性，莊嚴山峯。彼天往到如是山峯，到山峯已，心愛受樂。彼夜摩主與本曾見佛塔諸天一處同行，共彼天眾無量境界喜樂者行。

「時，夜摩天主告天眾言：『我共汝等相隨而去。自身利益，捨境界故，則得利益；不捨境界則不利益。我等決定隨順法行，乃至畢竟到於涅槃。』向彼天眾如是說已，共彼天眾以寂靜心，一切皆向山樹具足地處而行。到彼處已，於中一處種種流水妙蓮花池，有蓮花林，多有眾鳥莊嚴彼池。復有種種寶蜂莊嚴，普皆如炎。彼如是處可愛地處，則有第六迦葉佛塔，天主見已，生希有心。一切諸寶光明之中，佛塔光勝，穿空而出，種種妙寶而為莊嚴，所有光明勝百千日。光明寂靜，在寬博處見彼佛塔。爾時，天眾如是見已，白其天主牟修樓陀而作是言：『此是何等妙寶光明？如前所見。』「爾時，天主夜摩天王聞其語已，而告之言：『天眾皆聽！如今所見，此種種寶勝妙光明，如前所見。此是大仙第六如來——應、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、佛、世尊、天中之天——迦葉佛塔。此佛塔者，諸天本業所修梵行，本曾修心利益饒益。此佛塔內寶壁之上，化現明了。如餘如來所應利益，此佛塔內亦復如是。我共汝等諸天大眾，於佛正法生敬重心，作自利益。』夜摩天主如是說已，共諸天眾往向佛塔，到已則見具足種種妙寶光明，如前所說。

> 時に、夜摩天主は天の衆に向かって告げた。「私はあなたがたと共に赴こう。自らの利益のためには、執着する境を捨てることこそが利益となる。境を捨てなければ、真の利益は得られない。我々は迷いなく法に従い、ついには涅槃に至ろう。」こう天の衆に語り終えると、共に静かな心で、皆が山や木々の茂る地へと向かった。 そこに着くと、様々な水流と美しい蓮の池があり、蓮の林と多くの鳥たちがその池を飾っていた。また、様々な宝の蜂が飾り、すべてが炎のように輝いていた。その愛らしい地には、第六の迦葉仏の塔があった。天主はこれを見て、稀有の思いを抱いた。あらゆる宝の光の中でも、仏塔の光はひときわ勝れ、虚空を貫き、様々な妙宝で荘厳されていた。その光明は百千の太陽にも勝り、静かに広々とした場所にその仏塔が立っていた。天の衆はこれを見て、天主ムシュロンダに申し上げた。「これはどのような妙なる宝の光明なのでしょうか。以前見たものと同じように。」 そこで天主は答えた。「天の衆よ、聞きなさい。今見えるこの様々な宝の勝れた光明は、以前見たものと同じだ。これは大仙である第六の如来——応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊、天中の天——迦葉仏の塔である。この仏塔は、天の衆が過去に修めた梵行と心の鍛錬が利益をもたらしたものだ。この仏塔の内壁には、如来の利益が明らかに現れている。他の如来の塔と同じく、この塔にもまた利益がある。私はあなたがた天の大衆と共に、仏の正法に敬虔な心を起こし、自らの利益を成し遂げよう。」夜摩天主はこう語り、天の衆と共に仏塔へ向かい、先に述べたような様々な妙宝の光明を具えた塔を目の当たりにした。

「爾時如是，夜摩天主共其天眾入彼佛塔，即見大仙迦葉佛像。閻浮那陀真金之像，妙寶衣服無量光明，毘琉璃寶為師子座，佛像坐上如現在時說法之相，等無有異。彼像則有不可喻色，如是色者形彼天色。如螢火虫於日不異，佛威德色如是勝妙。爾時，天王并彼天眾見佛像已，勝歡喜心，敬重深信，頭面敬禮，去冠瓔珞鬘莊嚴具，遠離色慢，止於色樂，離光明慢，一切憍慢皆悉捨離，心離欲垢，以頭頂禮彼世尊足，轉轉離慢，重復更禮。如是禮已，一切天起一心不動。

> その時、夜摩天の天主は天の眷属たちを連れて、その仏塔に入った。すると、そこには大仙カッサパ仏の像があった。閻浮那陀の真金で作られたその像は、妙なる宝衣を身にまとい、無量の光明を放っていた。碧琉璃の宝で作られた獅子座の上に坐し、今まさに説法しているかのような姿であり、少しも異なるところはなかった。その仏像の色は譬えようもなく美しく、天人の色と比べれば、まるで蛍火の光が太陽の前にあって、全く及ばないのと同じであった。仏の威徳の色とは、このように勝れて素晴らしいものであった。 その時、天王は天の眷属たちとともに、その仏像を拝した。すると、限りない歓喜の心が湧き起こり、深く敬い、真実の信心を起こした。頂を地につけて敬礼し、冠や瓔珞、鬘などの装飾具を外した。色への慢心を離れ、色の楽しみに執着することをやめ、光明への慢心も離れ、あらゆる驕りや高ぶりをすべて捨て去った。心は欲望の汚れから離れ、頭をもってかの世尊の足に礼拝した。繰り返し慢心を離れ、重ねてさらに礼拝した。このように礼拝を終えると、すべての天人は一心に動くことなく、その場にいた。

「以業因故，彼佛塔中寶壁之上佛像傍廂見有文字。此修多羅是佛神力之所化現，利益天人，一切世間皆悉利益，正字正句，善義善味，次第乃至示於涅槃，乃是一切諸出家人之大和上，如律教學，此謂：

> 業の因によって、その仏塔の中の宝の壁の上にある仏像の傍らに文字が見える。この経典は仏の神通力によって化現されたものであり、天や人々を利益し、すべての世間をことごとく利益する。正しい字、正しい句、善い義、善い味を持ち、順を追ってついには涅槃を示す。これはすべての出家者たちの大いなる師であり、律に従って学ぶべきものである。これをいう。

「『比丘有十三法以為妨礙，不得坐禪、讀誦經律，障自利益，不得涅槃。若諸比丘不捨如是十三法者，於病老死悲啼號哭，愁苦懊惱，則不得脫，人中凡下，非實出家，身口意等常不正行，不勤精進。如是比丘若於一日受他臥具病藥所須，則不能消。彼如是物，於己為妨，所謂妨者，能令身瘦、懈怠、怖畏、無所知曉。如是之人則於大力速力勇猛甚深大河不能得渡。如是之人自體羸瘦，不能翹勤，心不調伏而常懈怠，不知坐禪、讀誦經律，怖畏、無智，自體無明之所覆蔽。是故不能渡於五河，依止境界故不能渡。境界所漂在愛河中，愛河漂已，入生死海，流轉常行無有休已。

> 『比丘には十三の妨げとなる法があり、坐禅や経律の読誦ができず、自己の利益を妨げ、涅槃に至ることができません。 もし比丘たちがこれらの十三の法を捨てないならば、病・老・死における悲しみや嘆き、苦しみや悩みから逃れられず、人の中でも凡庸な下位の者となり、本当の出家者ではなく、身・口・意が常に正しくなく、努め励むこともありません。 そのような比丘が、もし一日でも他人の寝具や薬などの必需品を受け取れば、それを消化することができません。それらの物がその者にとって妨げとなるのです。妨げとは、身体を痩せ衰えさせ、怠惰にさせ、怖れさせ、無知にさせるものです。 そのような人は、大きな力・迅速な力・勇猛な力を持つ深い大河を渡ることができません。その人は自らが痩せ細り、努め励むことができず、心が調えられず常に怠惰で、坐禅や経律の読誦を知らず、怖れ、無知であり、自らの無明に覆われているのです。 それゆえに五つの川を渡ることができず、境地に執着するために渡れないのです。境地に流され、愛の河の中にあり、愛の河に流された後は生死の海に入り、流転して常に歩み続け、休むことがありません。』

「『何等十三？所謂喜樂多語言說；治病；工畫；聞邪惡事，歌詠讚頌；數星思惟；思惟占相；唯貪飲食；求諸寶性；親近王等；悕望請呼；不請問他；樂多知識；與惡同處。此十三法，沙門之人坐禪讀誦則為妨礙。如是妨故，失自利益，利益則少。失利益故，生於地獄、餓鬼、畜生，虛妄出家。如是之人既非出家，亦非在家，捨離善法，為同梵行之所輕賤；唯有虛名，貝聲相似；不聞不知涅槃之行；有所憶念，悉不隨意；護身之天，放離而去。

> 「その十三とは何か。すなわち、むやみに話すこと、病気の治癒を求めること、絵を描くこと、不善な事柄を聞いて歌い称えること、星の運行を思量すること、占いや相を観察すること、ただ食べ物や飲み物だけを欲すること、財宝の本質を求めること、王族などに近づくこと、招待を待ち望むこと、他者に質問しないこと、多くの知識を好むこと、悪しき者と共にいること。これら十三の法は、沙門が坐禅や読誦を行う妨げとなる。このように妨げられるゆえに、自らの利益を失い、利益は少なくなる。利益を失うゆえに、地獄・餓鬼・畜生に生まれ、虚しく出家した者となる。このような人は出家でもなく、在家でもなく、善法を捨て去り、同じく梵行を修める者たちから軽蔑される。ただ虚名があるのみで、貝の音に似た響きを持ち、涅槃の行いを知らず聞かず、思い念じることすべてが意のままにならず、身を守る天も離れ去ってしまう。」

「『彼初妨者，妨於坐禪能為大亂。彼初喜樂多言語者，初則可愛，後則悔熱。一切出家應捨此法，所謂喜樂多語言說。樂多語故，心不調伏，不能正行、不能持戒，心常動亂，心動亂故，則多疑網。如是之人憙近惡人，彼惡人者，所謂亂心。彼常樂見伎兒歌舞，從方至方、從處至處遊行不止，若城若村、諸聚落等，常行不住，看其戲樂。常於節會遊戲之日處處觀看，諸聚會處恒常往看，近如是人以為伴侶，自稱己心。意常動亂，常樂言語，晝夜恒爾，無有休息。彼人亂意，不聞不知，餘同梵行，常所輕賤。知他賤已，於彼他人持戒行者，心生瞋忿。彼人以是業因緣故，身壞命終墮於惡道——地獄、餓鬼、畜生之中。

> 「最初これを妨げる者は、坐禅を妨げて大いに乱し、混乱を生じさせる。最初に多くの言葉を好む者は、初めは愛されるが、後には後悔と熱悩を生じる。すべての出家はこの法を捨てるべきである。すなわち、多くの言葉を好み、語ることを喜ぶことである。言葉を好んで多く語るがゆえに、心は調伏されず、正しく行うことができず、戒を保つこともできない。心は常に動揺し乱れ、心が動揺し乱れるがゆえに、多くの疑いの網に絡め取られる。このような人は悪しき人に近づくことを好む。その悪しき人とは、すなわち心を乱す者である。彼は常に芸人や歌舞を見ることを好み、場所から場所へ、ところからところへと遊び歩いてやまず、城や村、さまざまな集落などを常に行き巡って止まらず、その戯れや楽しみを見て回る。常に節会や遊戯の日にあちこちを観て回り、さまざまな集会の場所を絶えず訪れて見物する。このような人を近づけて仲間とし、みずからの心を称える。心は常に動揺し乱れ、常に言葉を好み、昼も夜もそのようにして休むことがない。その人は心が乱れているため、聞くことも知ることもなく、他の共に修行する仲間から常に軽んじられ、蔑まれる。自分が蔑まれることを知って、他の戒を持ち行う人々に対して、心に怒りを生じる。その人はこの業の因縁によって、身が壊れ命が終わるとき、悪道（地獄・餓鬼・畜生）に堕ちるのである。

「『又彼憙樂多言語者，復有大過。彼惡比丘未曾多聞，毀破禁戒，樂多言語，自高輕動，雖見佛已，心無慚愧，無慚愧故，不恭敬佛。檀越見之，不生恭敬。以他輕賤，捨戒還俗。

> また、おしゃべりを好む者には、さらに大きな過ちがある。その悪しき比丘は、かつて多くを聞くこともなく、戒律を破り、多弁を好み、高ぶって軽率である。たとえ仏を見ても、心に慚愧がなく、慚愧がないゆえに仏を敬うこともない。施主たちはその姿を見て、敬いの心を起こさない。そして、他人から軽んじられることで、戒律を捨てて俗人に戻ってしまうのである。

「『又彼憙樂多言語者，復有大過。有何者過？所謂自樂多言語故，而復教他餘出家者，令退正法。彼自破壞，復能壞他。彼人如是自他壞故，有惡名聲，彰出四遠，僧眾知故，驅遣捨棄。此善持戒諸比丘等，畏彼惡者，令其有失，一切皆言捨此比丘，言此比丘是惡知識。同梵行者，如是惡賤。

> 「また、言葉数が多いことを好む者には、大きな過失がある。どのような過失か？ 自ら多くの言葉を好むがゆえに、他の出家者にも教えて、正しい教えから退かせてしまう。その人は自らを壊し、他者も壊す。こうして自他ともに壊すため、悪い評判が四方に広がり、僧団に知られることで追放されてしまう。善く戒律を守る比丘たちは、その悪しき者を畏れて、損害を被るのを避けるため、皆が『この比丘を捨てよ』と言う。『この比丘は悪い知識だ』と。同じく清らかな修行をする者たちから、このように軽蔑されるのである。」

「『又彼憙樂多言語者，復有大過。種種言語，先已聞來，心樂謂樂，彼惡沙門既得聞已，心生大樂。彼心樂故，信於非法，信非法義；法為非法，非法為法，亦信其餘非法行人。此人憙樂多語人故，則入邪見，以彼邪見之因緣故，妄語言說。彼人以是惡業因緣，身壞命終墮於惡道，生在地獄、餓鬼、畜生。因此樂多言語過故，復有多過。』

> 「また、おしゃべりを好む人には、さらに大きな過ちがあります。様々な話を以前から聞いてきて、心はそれを楽しみ、良いものだと思い込みます。そのような悪しき修行者の話を聞いた後、心は大きな喜びを感じます。その心の喜びのために、正しくない教えを信じ、正しくない教えの意味を信じます。正しい教えを正しくないと見なし、正しくない教えを正しいと見なし、さらに他の間違った修行者たちまでも信じるようになります。」 「このようにおしゃべりを好む人は、誤った見解に陥ります。その誤った見解が原因で、でたらめな言葉を語るようになります。そのような人は、この悪い行いの果報によって、命を終えた後、悪い世界に落ち、地獄、餓鬼、畜生の世界に生まれ変わります。このおしゃべりを好む過ちによって、さらに多くの過ちが生じるのです。」

「爾時，世尊迦葉如來而說偈言：

> その時、世尊である迦葉如来は、次のような偈を説かれました。

「『多集綺語句，能令心意亂，破壞於梵行，妨礙涅槃道。常憙樂多語，凡鄙不持戒，其人常捨離，坐禪知諦者。不調為根本，能失於善念，亦能失梵行，令涅槃道暗。能妨於天道，復能示惡道，令向餓鬼道，令生畜生道。謂名樂多語，此為生死母，坐禪誦比丘，欲安隱則捨。』

> 「むだな言葉をたくさん集めれば、心を乱し、清らかな行いを壊し、悟りへの道を妨げる。おしゃべりを好む者は、粗野で戒めを守らず、坐禅し真理を知る者からは遠ざけられる。心の落ち着きのなさが根源となり、善い思いを失い、清らかな行いを失わせ、悟りへの道を暗くする。天界への道を妨げ、悪道へと導き、餓鬼道へ向かわせ、畜生道へと生まれさせる。『おしゃべり好き』というものこそ、輪廻の迷いの母である。坐禅や読誦をする修行者は、平安を得たいなら、それを捨てなさい。」

「彼佛世尊迦葉大仙如是已說，樂多言語有大過失。

> あの仏陀であり、世尊であり、大仙人である迦葉は、次のように説かれました。「多弁には大きな過失がある。」

「又復次說不樂多語所有功德，所謂：『比丘善正心意，唯樂正法、唯知正法，如是正說，唯念正法、思惟正法、唯行正法，恒常禮佛。彼如是等諸比丘輩，未曾見處而能見之，以能捨離多語有故。唯一正行，怖畏生死。彼語有果，所謂若人說四聖諦之言語也；彼身有果，所謂禮拜佛法眾僧，翹勤精進；彼身精勤，意則有果，意常精勤，自相、同相等思惟相，彼則是果。三種精勤，去涅槃近。若其有人一切方便、一切精勤，捨多言語，遠惡知識，常不親近。正心、直心、不動亂心，如是三種則到涅槃。三種道者，何等為三？所謂心念阿那波那，觀不淨界，無常破壞。此一切道，正心能得，非不正心。樂多言語，非心正念，妨此三道，乃是惡趣——地獄、餓鬼、畜生之行。此羂縛人將入地獄、餓鬼、畜生三惡道去，如是眾生為多言語之所誑惑。是故憙樂多語言說，如毒如刀、如火如蛇、如墮嶮岸，黠慧比丘坐禪讀誦，常應捨離。

> さらに、また多弁を好まないことの功徳を説こう。 すなわち、 「比丘よ、心を正しく善く保ち、ただ正しい法を喜び、ただ正しい法を知り、そのように正しく説き、ただ正しい法を念じ、正しい法を思惟し、ただ正しい法を行じ、常に仏を礼拝せよ。」 そのような比丘たちは、未だ見たことのない境地をも見ることができる。なぜなら、多弁を捨て離れたからである。 ただ一つの正しい行いを持ち、生死を畏れ怖れる。その言葉には果報がある。すなわち、人が四聖諦を説く言葉である。その身には果報がある。すなわち、仏・法・僧を礼拝し、怠ることなく精進することである。その身が精励すれば、意にも果報がある。意が常に精励し、自相や同相などを思惟すれば、それが果報である。この三種の精励は、涅槃に近づく。 もし人が、あらゆる方便と精進を用いて、多弁を捨て、悪知識を遠ざけ、常に親しまず、心を正しく真っ直ぐにし、乱れることのない心を持つならば、この三つの道によって涅槃に至る。 その三つの道とは何か。 すなわち、心に安般念（あんぱんねん／呼吸の観察）を思い、不浄の世界を観じ、無常であり壊れゆくものであると観ることである。 これらすべての道は、正しい心によって得られるのであって、正しくない心によってではない。多弁を好むことは、心の正念を妨げ、この三つの道を阻む。それは悪しき境地──地獄・餓鬼・畜生の行いである。これは人を縛る羂索（けんさく／わな）であり、地獄・餓鬼・畜生の三悪道へと引きずり込む。このように、衆生は多弁によって惑わされるのである。 ゆえに、多弁を好むことは、毒のようなもの、刃のようなもの、火のようなもの、蛇のようなもの、険しい崖に落ちるようなものとして、智慧ある比丘は坐禅や読誦に励み、常にこれを捨て離れるべきである。

「『彼多言語能誑多人，令墮地獄、畜生、餓鬼。彼若餘業生於人中，則為伎兒常戲之人，趬行擲絕、力士舞戲、種種歌等；在他門傍處處行乞；或復治生，商賈求利；或復目盲，常在巷中多人之處市肆貿易，以自濟命。樂多言語，惡蛇所齧；樂多言語，大火所燒，墮在如是樂多言語臨嶮之處，為多言語惡毒所螫。如是癡人樂多言語，所有枝條之所迷惑。一切迷惑，由多言語。樂多言語是大闇聚，畏惡道者一切皆應如是捨離，捨已次第精勤修行，則得見諦。

> 『多弁な言葉は多くの人を惑わし、地獄や畜生、餓鬼の道に堕とす。もしその者の残した業によって人間に生まれ変わっても、芸人や道化師、常に遊び戯れる者となり、軽業師や力士の舞、様々な歌や芸などに身をやつす。人の門口に立ち、あちこちで物乞いをするだろう。あるいは商売に精を出し、利益を求めてあくせくする。または目が見えなくなり、街角や人混みの中、市場で物を売り買いして、細々と命を繋ぐことになる。 多弁を好む者は、蛇に噛まれる。多弁を好む者は、大火に焼かれる。このように多弁を好む者は、危険な崖っぷちに立ち、多弁という毒蛇に噛まれるのだ。 愚かな人は多弁を好み、その枝葉に惑わされてしまう。あらゆる惑いは、多弁から生じる。多弁を好むことは、大きな暗闇の集まりである。悪い道を恐れる者は皆、このようにして多弁を捨て去るべきである。捨て去ったならば、次第に誠実に修行を積み、ついには真理を見極めることができるのだ。』

「『是故應當作如是學：空閑曠野寂靜之處，無諸妨聲、無唱喚聲、歌聲鼓聲修智日處、山谷巖窟、樹根等處，福德之處、無聲妨處，獨無餘人，在一處坐，一心正念，壞煩惱魔。如是善作，以調伏心令心寂靜，離於一切多語言說。一切親舊知識兄弟來去相見，語言皆離，心不悕望，唯樂獨處，以為安樂，常行禪誦，離四顛倒。彼十六種阿那波那皆悉念知，無夜無晝，勤發精進，生死縛中能脫能走。能如是者，則得勝處。若本未見常安隱處，彼人則應離多言語。有智慧人、善心意者堅固修行，沙門之人離於懈怠，捨此一法，所謂憙樂多語言說。

> 「ですから、こう学ぶべきです。静かな山野や人里離れた場所には、騒がしい音や叫び声、歌声、太鼓の音などがなく、智慧を磨くのに適した場所です。山谷や岩窟、樹の根元など、功徳に満ちた場所で、音の妨げもなく、ただ独り、他の者を伴わずに座り、心を一つに正しく保ち、煩悩という魔を打ち破りなさい。このように善く行じ、心を調伏させて静め、あらゆる無駄話から離れなさい。全ての親類や旧友、知人、兄弟が訪ねて来て会うことも、その言葉もすべて離れ、心に望まず、ただ独りの境を楽しみ、それを安楽として、常に坐禅と読誦を行い、四つの顛倒した見解から離れなさい。そうすれば、あの十六種の安那般那（呼吸の観察）をすべて念じ知り、昼夜を問わず、精進を励み、生死の束縛から脱して走り去ることができるでしょう。このようにできる者は、優れた境地を得るのです。もし、まだ常に安らかな場所を見ていない者は、多く語ることを離れるべきです。智慧ある人、善く心を保つ人は、堅固に修行し、沙門（修行者）は怠りを離れ、この一つの法、すなわち多言を喜ぶことを捨てるのです。」

「『又斷第二妨礙之法所不應行，殺生攝故。何者第二？所謂治病醫師比丘，不能坐禪、不能讀誦。如是行藥醫師比丘，異道異作，常覓病人、常求治病，作如是業，大增長貪。彼貪心故，如是思惟：「悕望眾生多有諸病、無量種病。彼病眾生多供養我，多與我物。是故我於多人處行，恒常受樂，從村至村、從城至城、從邊地處至邊地處。」彼惡比丘既作如是思惟念已，貪則增長。如是比丘貪增長已，心中生垢，不能坐禪、不能讀誦，非是善行。

> 『次に、修行の妨げとなる第二の行為を断つべきです。なぜなら、それは殺生を含むからです。その第二の行為とは何か。それは、医師のようにふるまう比丘（僧侶）のことです。彼らは坐禅も読経もせず、ただ病人を探し、常に治療に専念します。こうした行為は、貪りの心を大きく増大させます。貪りの心から、彼らはこう考えます。「多くの人々が様々な病に苦しみ、無数の病気にかかってくれればよい。そうすれば彼らは私に多くの供養をし、多くの品物を与えてくれるだろう。だから私は、多くの人々の間を巡り、村から村へ、町から町へ、辺地から辺地へと渡り歩いて、常に楽しみを得よう。」このような悪しき比丘は、そのような考え方をすると貪りの心が増大します。貪りの心が増すと、心に穢れが生じ、坐禅も読経もできなくなり、善い行いではなくなってしまうのです。』

「『又復治病則得垢過。彼惡比丘自謂比丘，若諸眾生有病患者，彼惡比丘示其藥言：「速將油來，若無油者則壓胡麻。」壓胡麻故，多有虫死，如是名為治病之過。妄作沙門，唯口自言：「我是沙門。」實非沙門。又見病者，勅瞻病人令其與肉，作如是言：「須新殺者，不用多脂、不用自死、不用病死、不用毒死、不用蛇殺、不用乾者、不用瘦者。」如是約勅。以約勅故，彼則殺生；以殺生故，得殺生罪。若教殺生、若殺生者，彼二種人同一殺業，墮活地獄。是故不應作治病業，以貪心故。

> また、病気を治すことには汚れた過ちがある。 あの悪い比丘は、自らを比丘だと言いながら、もし病気の衆生がいれば、その悪い比丘は薬を示して言う。「すぐに油を持って来い。油がなければ、ごまを絞れ。」ごまを絞ることで多くの虫が死ぬ。これが病気を治すことの過ちである。 沙門を装いながら、口先だけで「私は沙門だ」と言うが、実際は沙門ではない。 さらに、病人を見ると、看病する人に肉を与えるよう命じて、こう言う。「新しく殺したものが必要だ。脂が多いものは使うな。自然死したもの、病死したもの、毒死したもの、蛇に殺されたもの、乾燥したもの、痩せたものは使うな。」とこのように命じる。 その命じることで、彼は殺生を行う。殺生を行うゆえに、殺生の罪を得る。 もし殺生を教えたり、殺生を行う者があれば、その二人は同じ殺生の業によって、生き地獄に堕ちる。 ゆえに、病気を治す業を行うべきではない。貪りの心によるからである。

「『又復更有治病之過，唯可口言：「我是沙門。」實是大賊，是大惡人。為彼眾生多病痛故，處處採拾種種藥草，若樹、樹枝、若樹果等，為財物故，皆悉採取。彼諸藥草一切攝虫，為虫所依，虫在其中處處皆滿。彼以貪心欲得物故，地中拔取或有割取。以拔取故，殺地處虫，或破彼虫所依止處。若割取者，則殺內虫，彼處虫死。此治病過，彼心如是樂不淨命，何處得有修禪、讀誦？彼心恒常憙樂治病。

> 「さらにまた、病気を治すことによる過ちもある。ただ口先だけで『私は沙門である』と言いながら、実は大いなる盗賊、大いなる悪人である。かの者は、多くの生き物が病気の苦しみにあるゆえに、あちこちで様々な薬草や、木の枝、木の実などを採取する。財物を得たいがために、それらをことごとく取るのである。それらの薬草にはあらゆる虫が住みつき、虫たちのよりどころとなり、至る所に虫が満ちている。しかるに彼は貪りの心で物を得たいと願い、地面から薬草を抜き取り、あるいは切り取る。抜き取ることによって、地面の虫を殺し、あるいは虫たちの住む場所を壊す。もし切り取れば、内部にいる虫を殺し、その場所の虫は死ぬ。このように病気を治すことによる過ちがあり、彼の心は汚れた生計を楽しんでいる。どこに禅を修めたり、教えを読誦したりする心があろうか。彼の心は常に、病気を治すことを喜びとしているのである。」

「『又復如是治病比丘惡心思惟，有大勝過。如是比丘思惟惡法，有如是心欲令多人皆有病患：「病者若多，我則多得財物供養、飲食臥具，如是多利。」彼欲壞心，不念善法、不樂禪誦、不近尊長、不近善友亦不禮佛，作不善行。身壞命終墮於惡道，生地獄中。彼處得出，以餘業故，如彼善業生於人中，則常病痛，貧窮短命。彼惡不善治病業故。

> また、このように病人を治す比丘が悪しき心をもって思惟すれば、大きな過ちがある。このような比丘が悪しき法を思惟し、多くの人々が皆病にかかることを望む心を持つ。「病者が多ければ、私は多くの財物や供養、飲食や寝具を得られる。このように多くの利益を得られるのだ」と。彼は壊れた心を持ち、善き法を念じず、禅定や読誦を楽しまず、尊い師に近づかず、善き友にも近づかず、仏に礼拝することもなく、不善の行いをする。身体が壊れ命が終われば、悪道に堕ち、地獄に生まれる。そこから出ても、余業によって、かつての善業が人として生まれる結果をもたらしても、常に病の苦しみがあり、貧しく短命である。これが、悪しき不善の治病の業の報いである。

「『又治病過，依法治病亦復有過。無始以來皆有三種，謂風、熱、冷，此三調停，身則安樂，不墮惡道。是身分故，以身滅故，彼三亦失。而彼愚癡凡夫之人未曾聞來，未有智慧，實非沙門而自說言：「我是沙門。」治彼三種。何義何因剃除鬚髮，披服法衣而便出家？何故捨此？無始以來欲、瞋、癡等，非身所攝，若燒身者，彼三不燒、不失、不滅，於五道中隨逐繫縛，處處共行。何故於此欲、瞋、癡等三種大過不先療治，而先治彼風、熱、冷等？此妄出家，愚癡無智凡鄙之人，自心所誑。

> 「また、病気を治すことにも過ちがある。教えに従って病気を治そうとしても、そこにもまた過ちがあるのだ。始まりのない昔から、人間の体には三つの要素がある。すなわち、風、熱、冷である。この三つのバランスが取れていれば、体は安らかで楽になり、悪い道に落ちることもない。しかし、この体の要素であるからこそ、体が滅びれば、この三つもまた失われるのだ。 ところが、愚かで無知な凡夫たちは、これを聞いたことがなく、智慧もない。実は修行者でもないのに、自ら「私は修行者だ」と言いながら、この三つの要素を治そうとする。いったい何の意味があって、髪やひげを剃り、法衣をまとって出家したのだろうか。なぜ世俗を捨てたのだろうか。 始まりのない昔からある欲望、怒り、無知といった煩悩は、この体に属するものではない。たとえ体を焼いても、それらの煩悩は焼かれず、失われず、滅びることもない。五つの迷いの世界の中で、それらに縛られて引かれ続け、あらゆる場所に一緒に付きまとうのだ。 それなのに、なぜ欲望、怒り、無知という三つの大きな過ちを先に治療せずに、風や熱や冷などというものを先に治そうとするのか。これは間違った出家であり、愚かで無知な凡庸な人々が、自分の心に惑わされているにすぎないのだ。」

「『如有癡人，無主無伴，貧窮無物，彼人乃有大勢力怨，日日惱亂。彼愚癡者若以財物與大力怨，不可遮障，若以勢力亦不能防。以如是怨，大勢力故，恒常伺求，欲來殺害。此愚癡人不恐彼怨，知他餘人有微小怨，如是彼人於微小怨則生怖畏，共愚癡人以為同侶。而愚癡者語同侶言：「我今相為除却彼怨。」彼愚癡者，大勢力怨知其愚癡，知其懈怠放逸而行，如是知已，即往殺之。何以故？以彼癡人作他事故。如是如是，彼沙門人自謂沙門、立沙門者，捨離自身大勢力怨而作他事。彼欲瞋癡於無量世隨逐不離，示生死道，有大力勢而無處所，不可尋求，唯智所知，與癡同行。為除如是大怨因緣，捨離自身親舊知識、妻子兄弟，剃髮出家。既出家已，而於如是大勢力怨不能觀察，為財物故而語他言：「汝之怨家——風、熱、冷等，我為除滅。」如是亂心愚癡之人，死王來至，三種怨家隨逐不離。彼力大怨，謂欲、瞋、癡。彼人乃為欲繩所繫，極放逸行，將向他世，樂作他事，大貪亂意。是故若人知此過已，不用治病。若人治病，應殺欲等，則常無病。』

> 「例えば愚かな人がいて、頼る者もなく、仲間もなく、貧しくて何も持っていなかったとします。その人には非常に強大な力を持つ怨みがあり、日々その怨みに悩まされていました。その愚かな人は、もし財産をその強大な怨みに与えても、それを防ぐことはできず、力によっても防ぐことはできません。その怨みは非常に力が強いため、常に隙をうかがい、殺そうと狙っています。それにもかかわらず、この愚かな人はその怨みを恐れず、他の人々が小さな怨みを持っているのを知ると、その小さな怨みに対しては逆に恐れ、その愚かな人々と仲間になるのです。 そして愚かな人は仲間に言います。『私は今、あなたのためにその怨みを除いてやろう。』と。その愚かな人の強大な怨みは、彼が愚かで、怠け心に陥り、放逸な行いをしていることを知ると、すぐに彼を殺してしまいます。なぜなら、愚かな人が他の人のために余計なことをしたからです。 まさにそのように、修行者であると自称し、修行者の立場に立つ人が、自分自身の強大な怨みを捨てて、他人のために余計なことをするのです。彼の貪り・怒り・無知は、無数の世にわたって彼に付きまとい、生死の道を示し、非常に大きな力を持ちながら、決まった場所はなく、探し求めることもできません。ただ智慧によってのみ知ることができ、無知と共に行動します。このような大きな怨みの原因を取り除くために、人は自分の親しい知人や妻子、兄弟を捨て、髪を剃って出家するのです。 出家した後に、そのような強大な力を持つ怨みを観察せず、財物のためだけに他人に言います。『あなたの怨みである風病・熱病・冷えなどの病気を、私が取り除いてあげよう。』と。このような心の乱れた愚かな人がいると、死の王が訪れ、三種類の怨みが彼に付きまといます。その強大な怨みとは、貪り・怒り・無知のことです。その人は欲望の縄に縛られ、非常に放逸な行いをして、来世へと連れて行かれ、他人のために余計なことを好み、大きな貪りによって心を乱されます。 ですから、もし人がこの過ちを知ったなら、病気を治そうとはしません。もし人が本当に病気を治そうとするなら、貪り・怒り・無知を滅ぼすべきです。そうすれば、常に病気のない状態でいられるのです。」

「爾時，世尊迦葉如來而說偈言：

> その時、世尊である迦葉如来は、次のような偈を説かれました。

「『風等無多過，欲等過則多，風等不惡道，欲等墮地獄。心過是大過，常令行惡道，是故除則樂，除風等非樂。若捨自作業，憙樂他所作，彼人速失壞，為智者所笑。風等失壞故，眾生則失身，欲等不曾失，生死無量倒。彼欲等滅樂，風等滅非樂；以欲等滅故，畢竟得勝樂。治心名治病，治身非治病；治心病難知，治風等易解。』

> 「風などの過ちは多くないが、欲望などの過ちは多い。 風などは悪道に導かないが、欲望などは地獄へ堕とす。 心の過ちこそが最大の過ちであり、常に悪道を行かせる。 ゆえにこれを除けば楽しいが、風などを除いても楽しくはない。 もし自らのなすべき業（わざ）を捨てて、他人のなすことに喜び楽しむなら、 その人はたちまちに滅び失せ、賢者たちの笑いものとなる。 風などが失われ壊れれば、衆生は身体を失うが、 欲望などは決して失われず、生死において無量の倒錯が起こる。 あの欲望などを滅ぼすことが本当の楽しみであり、風などを滅ぼすことは楽しみではない。 欲望などを滅ぼすゆえに、最終的に最高の喜びを得る。 心を治めることを病気を治すといい、身体を治すことを病気を治すとは言わない。 心の病を治すことは難しいが、風などの病を治すのは容易にわかる。」

「彼佛世尊迦葉如來以此因緣，如是遮障出家之人不聽治病。『又出家人醫方治病，有無量過，謂生貪心。見餘醫師，心則生慢，以不善語毀餘醫師。妨廢作業，心生嫉姤，攝餓鬼業，如是造作餓鬼道因。彼人如是姤心動心，生大貪心，以生貪故，見婦女時不善觀察，以自妨亂。彼人癡心，見他婦女，欲發壞心。彼治他人風、冷、熱等，而自增長身中諸病——欲、瞋、癡病。增欲等故，是等因緣，增長地獄、餓鬼、畜生種種苦惱，彼為欲等之所破壞。不善醫師則有惡見，大過所縛，將入地獄。是故一切出家之人常應精勤除欲等病，勿治風等。此第二法，沙門之人欲求涅槃，不應如是醫藥治病，妨廢坐禪、讀誦經律。

> 「かの世尊迦葉如来は、このような理由から、出家者が病気を治療することをこのように禁じました。『また、出家者が医術（医方）をもって病気を治すことには、無数の過失があります。すなわち、貪りの心を生じさせるのです。他の医師を見れば心に慢心を起こし、不善の言葉をもって他の医師を非難します。修行の業を妨げ廃し、心に嫉妬を生じ、餓鬼の業を積み、このようにして餓鬼道に至る因を作ります。その人はこのように嫉妬の心で動かされ、大きな貪りの心を生じます。貪りの心を生じたがゆえに、女性を見たときによく観察することができず、自らを妨げ乱します。その人は愚かな心で、他の女性を見ると、壊れた心（邪な心）を起こそうと欲します。その人は他人の風病・冷病・熱病などを治療しますが、自らは身の中の諸々の病——欲望・怒り・無知の病——を増長させます。欲望などを増すがゆえに、これらの因縁によって、地獄・餓鬼・畜生のさまざまな苦しみを増長させ、その人は欲望などによって破壊されてしまいます。不善の医師は悪しき見解を持ち、大きな過失に縛られて、地獄に導かれます。それゆえ、すべての出家の人は、常に精進して欲望などの病を除くことに努めるべきであり、風病などを治療してはなりません。これが第二の法です。沙門（修行者）の人は涅槃を求めるならば、このように医薬で病気を治すべきではなく、坐禅や経律の読誦を妨げ廃してはならないのです。』」

「『又捨第三妨礙之法所不應行。何者第三？所謂畫師。出家業畫，則非所應。云何如是？為除欲故，捨家出家，更生餘欲。既知世間心業畫已，而作其餘種種采畫。若有不知心業畫者，可作種種諸色采畫。彼出家人常應如是諦知采畫：五大采色畫作五道，心種雜故。何等為五？謂大采色畫作五道。心之畫師以大白業勝淨采色畫作天道。以信心故，樂行大施，離慳嫉妬。第一白法，施戒山起，畫作諸天，心之畫師，畫作天道。

> 『また第三の妨げとなる法、すなわち行うべきでないことを捨てなさい。その第三とは何か。すなわち、絵師のことである。出家して絵を業とすることは、行うべきことではない。なぜそうなのか？欲望を除くために家を捨てて出家したのに、さらに別の欲望を生じさせるからである。すでに世間における心の業が絵を描くようなものであると知りながら、さらにさまざまな彩色の絵を描くのである。もし心の業が絵を描くようなものであることを知らない者であれば、さまざまな色の絵を描くことも許される。しかし、出家者は常に、この彩色について次のように如実に知るべきである。すなわち、五大の彩色で五つの道を描き、心の種が雑多であるからである。その五つとは何か。大きな彩色で五つの道を描くのである。心という絵師は、大いなる白業（清らかな行い）と勝れた清浄な彩色で天道を描く。信心があるゆえに、大きく施しを行うことを喜び、吝嗇や嫉妬を離れる。第一の白法（清らかな法）、施しと戒という山が起こり、諸天を描き、心という絵師は天道を描くのである。』

「『又出家人復應觀知業之采畫，多種業采畫作人道。人則差別，有下中上。若是富人能持戒者，彼人則是第一白業采色所畫。若人大富不能持戒，彼人則是黑白之業采色所畫。若人貧窮而能持戒，彼人則是赤白之業采色所畫。若人貧窮不能持戒，彼人則是垢黑之業采色所畫。若人懈怠而復多欲，彼人則是黑黃之業采色所畫。若人端正大種姓生，彼人則是白淨之業采色所畫。若人在於中種姓生，彼人則是紅赤之業采色所畫。若人在於下種姓生，彼人則是垢黑之業采色所畫。心之畫師以善業采畫作人道。

> また、出家者は知るべきである。業という絵具によって、さまざまな絵が描かれることを。多くの業という絵具によって人間の世界が描かれる。 人間には差別があり、下・中・上の区別がある。 もし富める人で戒律を守れるなら、その人は第一の白い業という絵具で描かれた者である。 もし富める人で戒律を守れないなら、その人は白黒の業という絵具で描かれた者である。 もし貧しい人で戒律を守れるなら、その人は赤白の業という絵具で描かれた者である。 もし貧しい人で戒律を守れないなら、その人は汚れた黒い業という絵具で描かれた者である。 もし怠け者で欲望が多いなら、その人は黒黄色の業という絵具で描かれた者である。 もし端正で高貴な家柄に生まれたなら、その人は白く清らかな業という絵具で描かれた者である。 もし中くらいの家柄に生まれたなら、その人は紅赤の業という絵具で描かれた者である。 もし低い家柄に生まれたなら、その人は汚れた黒い業という絵具で描かれた者である。 心という絵師が、善い業という絵具によって人間の世界を描くのである。

「『生於人中，若為國王、若為大臣而復造作不善業者，如是之人白業采滅，黑業采色增長出生。又復若人生卑賤家，若極貧窮常行布施，受持禁戒，如是之人黑業采滅，白業采色增長出生。又復若人生中種姓，有善妙色，或作中業，彼心畫師赤白之業采色所畫。如是無量雜業采色業畫之師，此人世間種種異業雜色采畫差別不同。

> 「人間に生まれて、王や大臣になりながら、不善の業を行う者もいる。そのような者は、白い業の色彩が消え去り、黒い業の色彩が増大し生じる。 また、賤しい家に生まれ、極めて貧しくとも、常に布施を行い、戒律を守り保つ者は、黒い業の色彩が消え去り、白い業の色彩が増大し生じる。 また、中ぐらいの家柄に生まれ、善く美しい容色を持ち、中ぐらいの業を行う者もいる。あたかも心という絵描きが、赤や白の業の色彩で絵を描くように。 このように無量の様々な業の色彩によって彩られた、業という絵描きが存在する。この世には、様々な異なる業の色彩によって彩られた、差別の異なる絵が存在するのである。」

「『又出家人更觀餘道，所謂復觀地獄眾生，心之畫師二種業采之所畫作，所謂黃、黑。黃者謂火，黑謂嫉妬，生在下中，地獄中生，如是二種采色所畫。

> さらに、出家者は他の道についても観察する。いわゆる地獄の衆生を観察する。心という絵師が、二種の業という絵の具で描き出すのである。すなわち、黄と黒である。黄とは火を意味し、黒とは嫉妬を意味する。下劣な境界に生まれ、地獄の中に生まれる。このように二種の彩色によって描かれるのである。

「『彼比丘觀如是地獄采畫色已，復觀飢渴燒身餓鬼黑業采色。彼一切鬼，一一各各業色所畫。

> その比丘は、先に見た地獄の業の絵模様を観察した後、さらに飢えと渇きに身を焼かれる餓鬼たちの黒い業の彩りを観察します。その一つ一つの餓鬼は、それぞれが自らの業という彩りによって描き出されているのです。

「『又復觀察何業采色畫作畜生？謂黑赤色。彼若受於第一苦惱、第一怖畏，是黑色畫；若相殺害是赤色畫。如是色者，是心畫師畫如是色。

> さらに、どのような業によって畜生の姿が描かれるのか観察せよ。すなわち、黒色と赤色である。もしも極めて苦しく、極めて恐ろしい状態にあるなら、それは黒色の絵である。互いに傷つけ合うなら、それは赤色の絵である。このような色は、心という絵師が描くものである。

「『又復略說畜生三處，迭相怖畏——畏殺、畏縛、被他食肉。虛空行者，所謂孔雀、雉鵝等鳥；陸地行者，謂牛水牛、猪馬等畜；水中行者，所謂魚等。彼黑色畫，若不畏殺；彼赤色畫，謂天中象。

> さらに簡潔に説こう。畜生には三つの生存領域があり、互いに恐怖し合っている。すなわち、殺されることへの恐れ、捕らえられることへの恐れ、そして肉を食われることへの恐れである。 空を飛ぶものは、孔雀、雉、ガチョウなどの鳥類である。陸を歩くものは、牛、水牛、豚、馬などの家畜である。水中に生きるものは、魚などである。黒い模様のものは、殺される恐れを持たない存在である。赤い模様のものは、天界の象である。

「『如是五道五種采色，彼人不能如是思惟。一切世間種種苦惱，天中五相，人中為作，畜生相殺，餓鬼飢渴，地獄之中受大苦惱，如是種種雜業采色之所畫作。愚癡少智，不忌不慮，是故懈怠，不能坐禪、不能持戒、不能讀誦而不能知心之畫師而作餘畫。第一畫者，謂世間中生老病死、怨憎集會、恩愛別離、寒熱飢渴，迭相破壞，毀呰供養，僮僕人主苦惱安樂，地獄、餓鬼、畜生、人、天業色，雜畫生死。種雜不能修行、不能思惟，心念知已，不生厭離。而彼比丘捨離坐禪、讀誦之業，餘心畫作沙門之法，禪誦為本。

> 「このように五つの道（五趣）には五種の色があるが、あの人はそのように正しく考えようとしない。一切の世間には様々な苦しみがあり、天界には五つの衰えの相があり、人間界では様々な苦しみのために行動し、畜生は互いに殺し合い、餓鬼は飢えと渇きに苦しみ、地獄では大きな苦しみを受ける。このような様々な業の色によって描かれたものなのだ。愚かで智慧が乏しく、慎みもなく顧みることもないため、怠け者となり、坐禅もできず、戒律も守れず、読経もできない。そして心という画家が他の絵を描いていることを知らない。 第一の絵とは、世間における生・老・病・死、怨み親しき者との集まり、愛する者との別れ、寒さ・暑さ・飢え・渇き、互いに傷つけ合い、批判と供養、召使と主人の苦しみと安楽、地獄・餓鬼・畜生・人・天という業の色、様々に織り交ざった生死の絵である。このように様々なものがあるにもかかわらず、修行もせず、よく考えようともせず、心がそれを知っていながら、厭い離れる心を起こさない。 しかしあの比丘は、坐禅や読経の修行を捨てて、別の心で沙門の道を描こうとしている。本来、坐禅と読経が沙門の根本であるのに。」

「『復有異法生死處畫不能思惟，而便思惟更作異畫，所謂種種根緣境界。若有眾生樂境界者，於長久時流轉地獄、餓鬼、畜生。此法云何？謂眼見色，愛樂境界而生欲心，於彼色中堅固染著。彼人則攝黑業采色，地獄、餓鬼、畜生等處，如是色畫。

「『若彼眾生眼見色已，如是思惟：「此色無常，動轉變異。」彼人如是不憙不樂、不貪不著，如是則為攝白色業，天人中生，乃至涅槃。如是有人眼見色已，不樂不緣、不悕不念，無心受用，不生欲心，彼人則以第一白業采色工畫，於天人中而受快樂。

> 「もしも人が、目で色（形あるもの）を見たときに、『この色は常ならず、移り変わるものだ』と考えるならば、その人はそれに喜びもせず、楽しみもせず、貪りも執着もしません。これは、清らかな善行（白業）を積むことになり、天や人の世界に生まれ、やがて涅槃に至ります。また、ある人は目で色を見ても、それに心を寄せず、縁を求めず、望みも念じもせず、心から受け入れず、欲の心を起こしません。その人は、最も優れた清らかな善行という色を巧みに描いて、天や人の世界で楽しみを得るのです。」

「『彼惡比丘如是癡心，不思不念、不禪不誦，若眼見色，於境界中憙樂染著，如是縛者則是黑業采色工畫。黠慧之人則能捨彼黑業采色惡意業畫，唯應坐禪、讀誦經律。

> 「あの悪しき比丘は、このように愚かな心で、思い巡らすこともなく、心を落ち着けて読経することもしない。もし目で色を見れば、その状況に喜び執着する。このように縛られることは、まさに黒い業の絵具で描かれた絵のようなものである。賢い人は、そのような黒い業の絵具で描かれた悪意の絵を捨て去ることができる。ただ坐禅をし、経や律を読誦すべきなのである。」

「『又復觀察畫師沙門思惟畫時，畫作何像？謂耳聞聲，若愛不愛，彼如實觀：「如是聲者，無常不住，不堅破壞。」如是知已，心不憙樂，不生歡喜，不念不樂、不聽不觀，如是白業采色工畫。彼白色畫，天人中生，天中生已，如是第一種種畫勝。而彼畫師惡意沙門，自言沙門，不曾起心思惟聲畫，然作餘畫，而不思惟坐禪讀誦，捨離禪誦，不修白業。

> また、その絵師である沙門が絵を描くときに、何を思って描くのかを観察せよ。すなわち、耳が音を聞くとき、それが好ましいものであれ好ましくないものであれ、彼はそれをあるがままに観じる。「このような音は、常住ではなく、とどまることなく、堅固ではなく壊れゆくものである」と。このように知れば、心は喜ばず、楽しみを生じず、執着せず、耳を傾けず、観ずることなく、このように白い業（清らかな行い）という彩色を描くのである。その白い絵は、天人の世界に生まれ、天人として生まれた後、このように第一のさまざまな絵に優れている。しかしながら、その絵師である悪しき沙門は、自らを沙門と称しながら、心を起こして声という絵を思惟することがない。それでいながら別の絵を描き、坐禅や読誦を思惟せず、禅定や誦経を捨て離れ、白い業（清らかな行い）を修めないのである。

「『又彼聞聲癡意沙門，不曾聞來，愚癡無智，如是思惟：「此聲可愛，能令心喜，能令我樂。」彼惡沙門不善觀察，故觀彼聲，心生悕望，因之生欲，於彼聲中心生喜樂。此黑采色心之畫師，畫作地獄、餓鬼、畜生。彼惡沙門知業畫已，而作餘畫，捨離坐禪、讀誦等業。

> 「また、かの音を聞いて愚かな沙門は、かつて教えを聞いたことがなく、愚かで智慧もないまま、このように考える——『この音は愛らしく、心を喜ばせ、我を楽しませる』と。その悪しき沙門は、正しく観察せず、その音に心を奪われ、期待を抱き、そこに欲望を生じ、音に喜び楽しむ。この黒く染まった心という絵師は、地獄・餓鬼・畜生を描き出す。かの悪しき沙門は、業が描くこの絵を知りながら、別の絵を描き、坐禅や読誦などの修行を捨て去るのである。」

## 正法念處經卷第四十八

> 正法念処経 第四十八巻