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title: "正法念處經 · 14"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第四十九

> 正法念処経 第四十九巻

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之二十八夜摩天之十四

> 観天品 第二十八<note>夜摩天の十四</note>

「『又惡比丘離於雜色種種畫已，更作餘畫。何者餘畫？所謂餘者，因根境界生死繫縛。彼根境界，或有可愛或不可愛，謂鼻嗅香。彼觀察了，鼻所嗅者若香若臭，於香不樂、不善觀察，不能壞心，如是思惟：「此香無常，念念不住，不堅破壞。如是實香，本無後有，已有還無。」彼如是香，臭不可樂，心亦不轉。彼白業畫、善業畫故，人天中生。而彼畫師惡意沙門，捨如是業而作餘畫，離禪誦業。

> 「また、悪しき比丘は、様々な彩色を施した絵を離れて、さらに別の絵を描く。その別の絵とは何か。それは、感覚器官とその対象、そして生死の束縛に基づくものである。その感覚器官の対象には、好ましいものも好ましくないものもある。例えば、鼻で香りを嗅ぐ場合を考えよう。その比丘が鼻で嗅ぐものは、香ばしいか臭いかのどちらかであるが、香ばしいものに執着せず、正しく観察しないために、心を乱すことができない。彼はこう思惟する。『この香りは無常であり、瞬間瞬間に留まらず、壊れやすく確かなものではない。このような真実の香りは、もともと無かったものが後に生じ、生じた後にはまた消え去るのだ。』このような香りは、臭くて好ましくなく、心もそれに動かされない。彼は白い業（善い行い）の絵、善い業の絵を描くことによって、人間界や天界に生まれる。ところが、その絵師たる悪しき沙門は、このような業を捨てて、別の絵を描き、禅定や読誦の業から離れてしまうのである。」

「『又嗅餘香，於香憙樂，心迷惑故，悕望所迷，不善觀察，心則破壞，是黑色業。常集如是黑業采故，畫於地獄、餓鬼、畜生，受諸苦惱。彼惡沙門捨離如是業彩色畫，不能思惟，而作餘畫，妨廢坐禪、讀誦經律。

> さらに、他の香りを嗅ぎ、その香りに喜び楽しみ、心が惑わされるゆえに、欲望に迷い、正しく観察せず、心が壊れてしまう。これが黒い業（くろいごう）である。常にこのように黒い業の彩りを集めるゆえに、地獄・餓鬼・畜生の世界に描き出され、様々な苦しみを受けるのだ。そのような悪しき修行者は、このような業の彩色を離れているのに、それを考えずに、他の彩色（絵画）を作って、座禅や経典や戒律の読誦を妨げてしまう。

「『又有雜業種種采畫，所謂舌味，或有可愛或不可愛。彼善比丘得可愛味，不喜不瞋、不念不樂，於此美味常善觀察，無不善觀。「如此味者，本無後有，已有還無。手捉彼食，內於口中，以舌觸之，舌得食已，彼食名甜，即生美味。熟爛腦涕，額頞中下、齗中而出。舌頭得味與涎和合，在牙關中咀而嚼之，如是繫縛愚癡凡夫。」彼人如是思惟舌味正觀察者，是白色畫。此白色畫，若於人中、若於天中受第一樂。

> 「さらにまた、様々な業によって描かれる様々な彩りのある絵がある。いわゆる舌の味である。愛すべきものもあり、愛すべきでないものもある。あの善き比丘は、愛すべき味を得ても、喜ばず、怒らず、執着せず、楽しまない。この美味に対して常に善く観察し、善くない観察はない。 『この味というものは、もともと無かったものが後に現れ、現れた後にはまた無くなる』と。 手でその食物を取り、口の中に入れ、舌でそれに触れる。舌が食物を得ると、その食物は『甘い』と呼ばれ、ただちに美味が生じる。熟し、腐り、脳や鼻汁、額や頬の下、歯茎から出る。舌先は味を得て、唾液と混ざり合い、歯の関節の中で噛み砕かれる。このようにして愚かな凡夫は縛られるのである。」 その人がこのように舌の味を正しく観察するならば、それが白い絵である。この白い絵は、もし人の中にあっても、天の中にあっても、第一の楽を受ける。

「『彼惡沙門不能觀察如是業畫，而作餘畫，妨廢坐禪、讀誦經律。彼愚癡人食味在舌，甜舌觸已，乃得其味，作如是念：「此食好味，第一好味、勝味美味，色香具足，第一淨潔。」食慢心故，身口意等行於惡業。此黑業畫，在於地獄、餓鬼、畜生三處明了。彼惡沙門自言沙門，不正觀察之所破壞，以自妨亂，捨業畫已，更作餘畫，以妨禪誦。

> 「あの愚かな修行者たちは、このような業の絵図を観察することができない。そして、別の絵図を描いて、坐禅や経律の読誦を妨げている。あの愚か者たちは、舌の上で味わいを感じ、甘い舌触りに触れてその味を得ると、こう思う。『この食べ物は良い味だ。最も良い味、勝れた味、美味しい味だ。色と香りが備わり、最も清らかだ』と。食べ物に心を奪われるがゆえに、身・口・意によって悪しき業を行う。この黒い業の絵図は、地獄・餓鬼・畜生の三つの世界ではっきりと現れる。あの愚かな修行者たちは、自らを修行者と称しながらも、正しい観察に破られ、自らを妨げ乱している。業の絵図を捨てて、さらに別の絵図を描くことで、坐禅や読誦を妨げているのである。」

「『復有業畫，業畫世間，謂唯有根境界相著，有身觸識。於彼實觸，心善觀察，此所生觸，則有三種，非常不住、非不破壞，唯有薄皮；見之生愛，唯有根處；非是淨潔，非常、非樂、非有我法，唯假和合，故名為身。四大如篋、如箭入體，常妨、常病，一切過處。如是真實觀察身觸，觸則不妨。此觸唯客能為妨礙，非自己物。若能如是善觀察者，白色業畫，天人中生。

> 「また、業によって描かれ、業によって世間が形作られる。すなわち、ただ根・境界・相への執着があり、身と触と識がある。 その触れる実体について、心でよく観察すれば、この触から生じるものには三種があり、常ならず、とどまらず、壊れないものでもない。ただ薄い皮だけがあり、それを見て愛着が生じる。ただ根のあるところだけがあり、清らかでもなく、常でもなく、楽でもなく、我や法の有るものではない。ただ仮に和合して、そのために身と名づける。 四大は箱のようであり、矢が体に刺さるようであり、常に妨げ、常に病であり、すべての過失の集まるところである。 このように、身と触とを真実に観察すれば、触は妨げとならない。この触は、ただ一時の客として妨げとなりうるだけで、自分のものではない。 もしこのように善く観察することができれば、白い業の絵は、天や人の中に生まれる。」

「『彼惡沙門、立沙門者，不作如是思惟觀察。心業畫師，種種異異業畫世間，彼惡比丘捨不觀察，更作餘畫，妨廢坐禪、讀誦經律。

> 「あの悪しき沙門（修行者）や、沙門と自称する者たちは、このような思考や観察を行いません。心という絵描きが、様々に異なる業（行い）という絵でこの世を描いているのに、あの悪しき比丘（僧侶）たちはそれを観察せずに捨て置き、他の絵を描こうとして、坐禅や経典や律の読誦を妨げ、おろそかにしています。

「『又復愚癡凡夫之人不善觀察，而於此觸不正觀察，生如是心：「我此觸者，第一樂觸，身體肥盛，則集樂因。得此樂觸，我則受樂。」如是愚癡凡夫之人，而於此觸不善觀察、不善思惟，此黑業彩畫作地獄、餓鬼、畜生。彼惡沙門、立沙門者，捨彼業畫而不思惟，更作餘畫，妨廢坐禪、讀誦經律。

> 「また、愚かな凡夫は正しく観察することができず、この触れる感覚に対して誤った見方をして、こう思うのです。 『この私の触覚は、この上なく快いものだ。身体がふくよかであれば、快楽の因が集まる。この快い触覚を得れば、私は楽しめるのだ。』 このように、愚かな凡夫はこの触覚を正しく観察せず、正しく思惟しません。この黒い行いの絵筆で、地獄・餓鬼・畜生の世界を描いているのです。 あの悪しき沙門や、沙門と名乗る者たちは、その行いの絵を捨てて思惟せず、さらに別の絵を描き足し、坐禅や経典・律の読誦を妨げているのです。」

「『又惡沙門、立沙門者樂世間法，非出世法，於出世法不思不念。出世法者，謂四聖諦。而於滅道十六種行，阿那波那出息入息及以四禪、四種梵行、四沙門果不修不行。捨此法已，作餘鄙業，心不寂靜，唯為少樂、少彩色畫，妨廢坐禪、讀誦經律，更求異色不寂靜畫。彼因如是不正觀察，身壞命終墮於惡道，生地獄中。

> 「また、悪しき沙門や沙門を名乗る者たちは、世間の法を楽しみ、出世の法を求めません。彼らは出世の法について考えたり、心に留めたりすることもありません。出世の法とは、すなわち四つの聖なる真理（四聖諦）です。そして、滅と道に関する十六の行、安那般那（あなぱんな：呼吸の観察）、出入息、さらには四つの禅定（四禅）、四つの清らかな行（四梵行）、四つの沙門の果報（四沙門果）について、修めることも実践することもありません。これらの法を捨て去って、他の卑しい業を行い、心は静かではありません。ただわずかな快楽や、ほんの少しの色鮮やかな絵のために、坐禅や経律の読誦を妨げ、さらに別の落ち着きのない色の絵を求めます。彼らはこのように正しくない観察をするがゆえに、その身体が壊れ、命が終わるとき、悪道に堕ち、地獄に生まれます。」

「『又彼畫者復有大過，入於惡道地獄因緣，所謂畫作端正婦女種種嚴飾善妙之色。以愚癡故，心生憙樂，令他餘人見已愛樂，欲發亂心，何況作者。如是之人，能令自他二俱欲發，身壞命終墮於惡道，生地獄中。』

> また、その絵師にはさらに大きな過ちがある。それは悪道や地獄に落ちる原因となるもので、いわゆる、美しく飾り立てた端正な女性の絵を描くことである。愚かさゆえに、自分の心は喜び楽しみ、他の人々もそれを見て愛で楽しみ、心を乱す欲望を起こさせる。ましてや、描いた者自身はなおさらである。このような人は、自分自身と他の者たちの両方に欲望を起こさせ、やがて死を迎えれば悪道に堕ち、地獄に生まれるのである。

「爾時，世尊迦葉如來而說偈言：

> その時、世尊である迦葉如来は、次のような偈を説かれました。

「『若不思業畫，而作餘彩畫，為畫火所燒，入於地獄中。不思無漏法，而樂於漏法，彼人染心癡，臨嶮岸欲墮。若人應禪誦，若應依林住，癡故捨所應，則墮於地獄。癡故惡思惟，作大力畫羂，為畫之所誑，將向地獄去。彩色非為雜，心畫乃是雜；彩畫雨則滅，心畫不可失。若人心不畫，彼畫不如心。業畫是大畫，畫於三界處。眾生種種色，流轉五道中，一切是業畫，心畫師所作。此之心畫師，畫作業羅網，縛一切眾生，流轉於三界。雨炙塵烟等，令畫色失滅；彼之心業畫，千億劫不失。一切地失壞，海水亦乾竭，若心畫所作，畢竟不破壞。癡者不觀察，種種自業畫，以命財物故，而作餘畫業。

> 「もし人が業の絵を思わず、他の彩りある絵を描くならば、その絵は火に焼かれて地獄に落ちるだろう。無漏の法を思わず、漏れる法を楽しむ者、その人は心が染まり愚かで、険しい崖のふちに立ち、落ちようとしている。もし禅定や読誦に励むべき人が、森に住むべきなのに、愚かさゆえにその務めを捨てれば、地獄に堕ちる。愚かさゆえに悪しき思考を巡らせ、大きな力ある絵の罠を作る。その絵に欺かれて、地獄へと導かれる。彩りの色は混ざり合うのではない、心の絵こそが混ざり合うのだ。彩りの絵は雨が降れば消え去るが、心の絵は決して失われることがない。もし人の心が描かないなら、その絵は心に勝ることはない。業の絵こそが大いなる絵であり、三界のあらゆる場所に描かれる。衆生は様々な姿で五道を巡り流転するが、そのすべては業の絵であり、心という絵師が描いたものである。この心の絵師は、業という網を描き、すべての衆生を縛り、三界の中を流転させる。雨や日照り、塵や煙などは、彩りの絵の色を消し去る。しかし、その心の業の絵は、千億の劫を経ても失われない。すべての大地が壊れ、海水も干上がっても、心の絵が描いたものは決して壊れることがない。愚か者は観察せず、様々な己の業の絵を知らずに、命や財物のために、他の絵の業を描くのである。」

「『畫師沙門妨廢坐禪、讀誦經律，如是分別，有無量過。樂畫作者，善人不愛，不善者樂，是故比丘不應畫作。畫亂其心，不得涅槃，乃至不能善觀察行，修一善法。是故應當如是正學：若諸比丘欲求涅槃，畏惡業者，乃至自手不執畫筆。我今呵責此三種法，沙門之人所不應作，以知彼法如是過故。

> 「絵を描く沙門は坐禅や経典の読誦をおろそかにし、このように分別することで無量の過ちがあるのです。絵を描くことを楽しむ者は善人からは愛されず、不善な者はこれを好みます。それゆえに比丘は絵を描くべきではありません。絵を描くことで心が乱れ、涅槃に至ることができず、さらには善い観察やすべての善法を修めることもできなくなります。ですから、このように正しく学ぶべきです。比丘たちが涅槃を求め、悪業を恐れるならば、自らの手で絵筆を持つことさえしてはなりません。私は今、この三つの法を呵責します。沙門である者は行うべきではなく、その法にこのような過ちがあると知るべきです。」

「『又第四法，沙門之人所不應作。何者第四？所謂邪聞惡不善法，歌詠讚誦。如是比丘捨離妻子、親舊知識、父母兄弟，欲斷煩惱，坐禪讀誦，是故出家。若不亂心，常一心者，能斷煩惱，無能妨亂。若作歌詠讚誦惡事，種種憶念，心意則亂。彼亂心故，妨礙善法，不能禪誦、不近師長、不聞正法、不樂供養佛法僧寶、不攝威儀、不能善持威儀之戒，常作歌咏，心生愛樂。如是歌咏，依彼所咏，過去種種曾聞之法，非法所攝，唯聞彼法以為耳樂，非善觀察所攝、所集，綺語相應。彼如是法，是惡沙門之所信樂，數數聞已，行彼惡道，行惡道故，復作俗人，自壞正法。樂歌咏故，常作歌咏，則於禪誦懈怠不勤，乃至不應入眾僧中，一切飲食皆不應食。懈怠尚爾，何況破戒。入眾僧中猶尚不應，何況得受床敷臥具、病藥所須，或復受他禮拜恭敬，懈怠之人所不應受。是故比丘常歌咏者，以歌咏故，不樂坐禪、讀誦經律。樂歌咏者，唯常勤心習作歌咏，常一切時樂依歌咏，種種方便，間錯心意，為種種癡之所破壞，讚彼歌咏有種種味。彼人如是自亂心意，命欲漸盡，老死時到，將欲往至未曾知處，獨行無伴，離出世法。若常歌咏，愚癡之人，不覺死至，甚為自誑。人身難得，諸根難具，雖得出家，徒作歌咏，空無所獲，虛妄而死，失自利益。

> 「また、第四の法は、修行者が行うべきではないことです。その第四とは何か？それは、邪悪な聞き方や不善の法、すなわち歌や詩を詠んで称賛することです。 このような修行者は、妻や子、親しい友人、知識、父母や兄弟を捨て、煩悩を断ち切ろうと坐禅し読誦するために出家したのです。心を乱さず、常に一心であれば、煩悩を断ち切り、妨げるものは何もありません。 しかし、もし歌や詩を詠んで褒め称えるような悪事を行い、さまざまなことを思い返せば、心は乱れてしまいます。その心の乱れのために、善い法が妨げられ、禅定や読誦ができず、師や長上に近づかず、正しい法を聞かず、仏法僧の宝を供養することを喜ばず、威儀を整えず、威儀の戒めをよく守ることができません。常に歌を詠み、それを心から愛好するのです。 このような歌詠は、それによって過去に聞いた様々な法に依拠しますが、それらの法は正しい教えに含まれるものではなく、ただ耳の楽しみのために聞くだけであり、善い観察によって集められたものではなく、雑な言葉や戯れの言葉と結びついています。 そのような法は、悪しき修行者が信じ喜ぶものであり、何度も聞いて悪い道を行き、悪い道を行くゆえに、再び俗人に戻り、自ら正しい法を壊してしまいます。 歌を詠むことを好むゆえに常に歌を詠めば、坐禅や読誦に対して怠け者となり勤めず、ついには僧団の集まりに入るべきではなくなり、一切の飲食も受けるべきではなくなります。怠惰でさえそうなのですから、まして戒を破ることはもっと深刻です。僧団の集まりにすら入るべきでないのに、どうして寝具や坐具、病気の際の薬や必要なものを受けたり、他の人から礼拝や尊敬を受けたりできるでしょうか。怠惰な人はそれらを受けるべきではありません。 したがって、常に歌を詠む修行者は、歌を詠むゆえに、坐禅や経典や律の読誦を好まなくなります。歌を詠むことを好む人は、ただ常に心を勤めて歌を詠むことに専念し、常にすべての時において歌を詠むことに喜びを見出し、様々な方便で心を乱し、様々な愚かさによって破壊され、その歌をあらゆる味わいがあると称賛します。このようにして、その人は自ら心を乱し、命は次第に尽き、老いと死の時が近づいています。やがて知らない場所へと向かおうとし、独りで歩み、伴侶はなく、出世間の法から離れてしまいます。 もし常に歌を詠んでいれば、愚かな人は死が訪れることに気づかず、大いに自らを欺くことになります。人身を得ることは難しく、諸根を具えることも難しい。せっかく出家しても、ただ歌を詠むだけで、空しく何も得ることなく、虚偽のまま死に、自らの利益を失ってしまうのです。」

「『又復比丘作歌咏者，癡破壞故，垢心垢行，作歌咏業。一切癡中，婦女癡大。彼婦女癡，比丘不應。婦女癡者，少而能燒，如火雖少，能多焚燒。彼婦女癡，如是能燒愚癡軍眾，彼於生中百千萬處，皆悉能燒。彼歌咏中，初讚婦女。婦女在初。彼婦女癡破壞比丘，種種無量不正觀察，愚癡壞心，讚婦女身以為供養，持在心中，說為淨潔。彼惡比丘一切自身失正觀察，復令他人不正觀察，自他失故，身壞命終墮於惡道，生地獄中。彼於所聞惡不善法，歌咏讚頌，繫縛過故。

> また、比丘が歌をうたって婦女を称えるならば、それは無知によって心を曇らせ、汚れた行いを積むこととなる。あらゆる無知の中でも、婦女への執着は特に大きい。この婦女への執着を比丘は持つべきではない。婦女への執着は、たとえわずかであっても大火のように燃え上がり、多くのものを焼き尽くす。まさにそのように、婦女への執着は愚かな者たちの集団を焼き、生涯を通じて幾百幾千もの場面で、すべてを焼き尽くしてしまう。 あの歌の中で、まず婦女が称賛され、婦女が先に置かれている。その婦女への執着が比丘を破滅させ、様々な無数の誤った見方へと導く。愚かさによって心が損なわれ、婦女の身体を称えて供養し、それを心に留めて「清らかで汚れがない」と言う。そのような悪しき比丘は、自らのすべての正しい観察を失い、さらに他人をも誤った観察へと導く。自らも他人も正しさを失った結果、身体が壊れて命が終われば、悪道に落ち、地獄に生まれる。彼は聞いた悪しき正しくない教えを、歌に乗せて称賛し、それに縛られたからである。

「『又聞邪法歌咏讚頌，復有大過，謂惡沙門聞邪惡法，歌咏讚頌，令意愚闇。若復彼人未曾聞來、未曾見來，不從他人先見聞來，直自貪心故作歌咏，復教他人種種歌咏，言我曾見、言我曾聞，故被繫縛。以彼他人知如是人先不見來、先不聞來，則言如是不善之人。如是妄語，自心思量而作歌咏。彼人如是妄語業故，身壞命終墮於惡道，生地獄中。歌咏過故。

> さらに、邪な教えを歌い賛美することには、さらに大きな過ちがある。すなわち、悪しき僧侶が邪悪な教えを聞いて、それを歌い賛美することで、心が愚かで暗くなるのである。もしその人が、かつて聞いたこともなく、見たこともなく、他人から聞いて知ったのでもないのに、ただ自分の欲心によって歌を作り、さらに他人にも様々な歌を教え、「私はこれを見た」「私はこれを聞いた」と言うので、それによって縛られるのである。そして、他の人々は、このような人が実際には何も見たことがなく、聞いたこともないことを知っているので、「この人は善くない人だ」と言う。このような虚偽の言葉は、自分の心の中で考えて作られた歌に過ぎない。この人がそのような虚偽の言葉を行う業（ごう）によって、命終わった後には悪道に堕ち、地獄に生まれるのである。これが、歌うことの過ちである。

「『又聞邪法歌咏讚頌，復有大過，所謂邪聞樂於歌咏，於所從聞先舊之人則生惡心，憎嫉之言：「我歌咏勝。」毀呰先舊久時論師；彼實大能，言其不善。彼惡沙門如是捨離坐禪讀誦，增長瞋恚，具足增長不善垢業。白淨善業於未來世能與安樂，此善業滅。梵行之人輕賤如是聞邪惡法而歌咏者，以如是人心不正故。

> さらに、邪な法を歌い詠じ、称え讃えることには、大きな過ちがある。いわゆる、邪な聞法を楽しんで歌い詠じ、自ら教えを聞いた先輩や師に対して悪い心を起こし、憎しみ嫉む言葉を発する。「私の歌の方が勝れている」と。そうして、昔からある長年の論師を謗り毀つ。その人は本当は大いなる能力があるのに、その不善を言い立てる。そのような悪い沙門（僧）は、坐禅や読誦を捨て離れ、怒りの心を増長させ、不善の汚れた業をさらに積み重ねていく。清らかな善い業は、未来の世に安楽をもたらすものであるのに、この善業を消し滅ぼしてしまう。清らかな修行をしている人々は、このように邪な法を聞いて歌い詠じる者を軽く見る。そのような人の心は正しくないからである。

「『又聞邪法歌咏讚頌，復有大過。如是邪聞而歌咏者，若晝若夜心意不正，不念佛法而樂歌咏，恒常讚頌，不思正法、不能坐禪又不精勤除滅煩惱。如是之人非實沙門，無沙門意。正法難得，於百千劫難得正法，彼惡沙門、立沙門者得如是法，而不正行，而不攝取。

> 「また、まことならざる教えを聞いて、それを歌やほめことばにすることにも、大きな過ちがあります。そのようなまちがった教えを聞いて歌う人は、昼夜を問わず心が正しくなく、仏の教えを心に留めずに歌うことを楽しみ、常にほめ称え、正しい教えを思い起こさず、座禅もせず、煩悩を除き滅ぼすことに励みません。このような人は、真実の修行者ではなく、修行者としての心がありません。正しい教えを得ることは難しく、百千劫もの長い時を経てようやく得られるものです。それなのに、その悪しき修行者や、修行者の名を語る者は、このような教えを得ても、正しく修行せず、それを身に付けることもないのです。」

「『又聞邪法歌咏讚頌，復有大過，謂彼惡人貪作歌咏，未曾聞來而便讚頌，或時妄語。彼人常近不正行者，猶如狂人，心㦜動故，於一切處皆悉往到，讚咏歌頌，繫縛邪語、讚妄語者。種種所說，所有口業皆悉妄語，不曾一實。如是之人歌咏覆心，復近其餘富貴惡人，依止彼故，作不善業。如是之人近惡人故，得酒供養，以飲酒故，不作一善。其心動亂，失自利益，由飲酒故，惡道門開。彼人醉故，能作一切不善惡業，見婦女故，不正觀察，故失正心。彼惡沙門作非梵行，彼燒福德，爛臭惡物，如毘頭羅有花無果，猶如晝燈，無光明照，又如晝月，無涼冷觸。如是如是，彼惡比丘唯以袈裟覆身而已，唯有沙門形色而已，身壞命終墮於惡道，生地獄中。

> また、「邪法の歌や賛美を聞くこと」には大きな過ちがある。すなわち、その悪人は歌を作ることに貪り、聞いたこともないのに賛美し、時には嘘をつく。その人は常に正しくない行いをする者に近づき、あたかも狂人のように心が揺れ動くため、あらゆる場所にまで赴いては、歌や賛美を繰り返し、偽りの言葉に縛られ、嘘をつく者を称える。様々に語られる言葉は、すべて虚偽であり、一つとして真実はない。このような人は歌や賛美に心を覆われ、さらに他の裕福な悪人に近づき、彼らに依り頼むことで不善の業を為す。このように悪人に近づくため、酒の供養を得て、酒を飲むゆえに、一つとして善い行いをしない。その心は乱れ、自らの利益を失い、酒を飲むことによって悪道への門が開かれる。その人は酔うことによって、あらゆる不善の悪業を為し、女性を見ても正しく観察せず、正しい心を失う。その悪い沙門は清らかな行いをせず、福徳を焼き尽くし、腐って臭う悪しきものとなる。あたかもビトラ（毘頭羅）の花が実を結ばないように、昼間の灯が光を照らさないように、昼の月が冷たい光をもたらさないように。このように、その悪い比丘はただ袈裟で身を覆っているだけであり、ただ沙門という姿形があるだけである。やがて身が壊れ命が終われば、悪道に堕ちて地獄に生まれるのである。

「『彼聞惡法歌咏過故，讚頌過故。是故沙門聞不善法，不應歌咏、不應讚頌。若作正法，讚歎頌咏，正法增長。若有讚咏，不損正法，若稱歎佛、若讚三寶，增長正法，令法光明。如是讚者，如是福德，次第乃至到於涅槃。彼口業果勤修習者，若人所讚，身壞命終生於善道，天世界中。彼人如是實讚歎故，增長正法，如是歎咏，是則應作，不如是作則入地獄。

> 「彼の者が悪しき法の歌詠を過ごし、讃頌を過ごすからである。それゆえ、修行者は不善な法を聞いても、歌詠すべきではなく、讃頌すべきではない。もし正しい法を作し、讚歎や頌詠を行えば、正しい法は成長する。もし讚詠しても、正しい法を損なわず、もし仏を称歎し、もし三宝を讃えれば、正しい法を成長させ、法を光明ならしめる。このように讚える者は、このような福徳を積み、順次に涅槃に至る。その口の業の果報を勤めて修習する者は、もし人に讚えられれば、身が壊れ命が終わった後、善き道、天の世界に生まれる。その人はこのように真実に讚歎するがゆえに、正しい法を成長させる。このような歎詠は、まさに行うべきであり、このように行わなければ地獄に落ちる。」

「『又第五法妨廢坐禪、讀誦經律。何者第五？所謂比丘數星思惟，實非沙門，自謂沙門。數星思惟則不應作，如是比丘毀沙門法，妨廢坐禪讀誦等故。彼思惟已，福德命行不覺損失。何為出家？不得彼法，彼命終盡，所作不辦，不得免離衰老病死、悲啼號哭、愁苦懊惱，彼人常在生死道中流轉而行。彼於數星不得利益，數星思惟，不能自救，亦不救他。何以故？唯數業星，能救自他。何以故？一星生人，有苦有樂、有醜有媚，有大種姓、有小種姓，有依法行、不依法行，有貧、有富，有王、有民，有貴、有賤，有盜不盜，有聰、有蒙，有愚、有智，有男、有女，或有持戒、有不持戒，有勤精進、有不精進，有為人愛、不為人愛，一切皆愛、一切不愛。唯一種星而有異種人生不同。若星因緣，彼一星生，何故一切不皆一種？如向所說，前功德過，一切不知。不數業星，數空中星，愚癡之人，功德與過，不知、不數。善不善業二果不數，數空中星。又復彼人數星思惟，而實不善亦不寂靜。所謂一星，或生於人、或生畜生、或生餓鬼，差別不等，非星勢力，業勢力故，異異而生。此星思惟，如是不善亦不寂靜；思惟業星是善、寂靜，次第乃至到於涅槃。

> 「さらに第五に、坐禅や経律の読誦を妨げるものがある。その第五とは何か。比丘が星を数えて考えること、これは実に沙門にあらずして、自らを沙門と称すものである。星を数えて考えることは、為すべきではない。かくの如き比丘は、沙門の法を毀ち、坐禅や読誦などを妨げるのである。そのように考えることによって、果報や寿命の行為は自ら損なわれていることに気づかない。何のために出家したのか。その法を得ることができず、命が尽きる時、為すべきことを成し遂げられず、老・病・死や、悲しみの叫び、泣き声、苦悩、後悔から免れることができない。その人は常に生死の道の中を流転しながら行くのである。彼は星を数えることによって利益を得ることはなく、星を数えて考えることは、自らを救うことも、他を救うこともできない。なぜか。ただ業という星を数えることのみが、自他を救うことができるのである。なぜなら、一つの星から生まれた人々にも、苦楽があり、醜い者と美しい者があり、大いなる家柄と小さな家柄があり、法に従って行う者と従わない者があり、貧しい者と富める者があり、王と民があり、貴い者と賤しい者があり、盗む者と盗まない者があり、聡明な者と愚かな者があり、男と女があり、あるいは戒を保つ者と保たない者があり、勤め精進する者としない者があり、人に愛される者と愛されない者があり、一切が愛される者、一切が愛されない者もいるからである。ただ一つの種類の星であるのに、異なる種類の人生が生じるのである。もし星が因縁であるならば、その一つの星から生まれた者は、どうして皆が一つの種類にならないのか。先に述べたように、過去の果報や過ちは一切知られない。業という星を数えずに、虚空の星を数える愚かな人は、功徳と過ちを知らず、数えないのである。善と不善の二つの果報を数えずに、虚空の星を数えるのである。また、その人は星を数えて考えるが、それは実に善でもなく寂静でもない。いわゆる一つの星は、ある時は人間に生まれ、ある時は畜生に生まれ、ある時は餓鬼に生まれるなど、その違いは一様ではない。星の力によるのではなく、業の力によって異なって異なって生まれるのである。この星を考えることは、このように不善であり寂静ではないが、業という星を考えることは善であり寂静であり、順を追ってついには涅槃に至るのである。」

「『又復彼人數星思惟，而實不善亦不寂靜。所謂彼星力不常定，更有妨故、有勝劣故。此星復為勝星所覆，彼星異時而復更為異星所覆。是故當知：數星思惟，義不相應。若其有人數星思惟，謂星因緣有苦有樂，非是自身有苦有樂。彼星更有餘星所覆，云何而能與他苦樂？故知由業而得。如是善不善果，非星能與。若由曜者，更有曜瞋。如是初曜則得苦惱，如日與月，羅睺蝕之，則得苦惱。若此日月自不能救，何能救他？是故沙門、立沙門者數星思惟，不應如是數星思惟。

> また、その者は星の動きを考え巡らせるが、それは実に善ではなく、寂静でもない。なぜなら、星の力は常に定まっているわけではなく、他に妨げるものがあるからであり、優れたものと劣ったものがあるからである。この星はさらに優れた星によって覆われ、別の時にはまた別の星によって覆われる。それゆえ、知るべきである。星の動きを考え巡らせても、道理にかなわないと。 もし人が星の動きを考え巡らせ、星の因縁によって苦しみや楽しみがあると考え、自身に苦しみや楽しみがあるのではないとするならば、その星はさらに他の星に覆われるのだから、どうして他人に苦しみや楽しみを与えることができようか？それゆえ、業によって得られるのであると知るべきである。このように、善悪の果報は星が与えるものではない。もし星が与えるとするならば、より強い星があれば、その星は怒りに遭う。このように、初めの星は苦しみを得る。例えば、太陽と月が羅睺に蝕まれれば、苦しみを得る。この太陽と月が自分自身すら救えないのに、どうして他人を救えようか？それゆえ、沙門や沙門を立てる者は、星の動きを考え巡らせるべきではない。このように考え巡らせてはならない。

「『有三大曜，謂病、老、死，此為最大，常住世間。彼惡沙門不思惟此，而更思惟餘世間曜。彼人愚癡，無有聞慧，思惟世間二十八宿。如是思惟，則有罪過。而不思惟彼出世間二十八宿，若能思惟，實觀察者，入涅槃城。二十八者，所謂五陰及五取陰、十八界等。思惟此者，到於涅槃。以如實觀離欲持戒，故得涅槃，數星思惟則不能得。

> 「三つの大きな星がある。それは病と老いと死だ。これらこそが最大であり、常に世の中に存在する。あの悪しき修行者はこれを省みず、それ以外の世間の星々について考える。その人は愚かで、真の教えを聞く智慧がなく、世の中の二十八宿などについて考える。そのように考えることには罪過がある。しかし、彼らは世間を超えた二十八宿について考えない。もしそれを考え、真実に観察するならば、涅槃の城に入ることができる。その二十八とは、すなわち五陰と五取陰、十八界などである。これらを思惟する者は、涅槃に至る。あるがままに観察し、欲望を離れ戒を保つことによって涅槃を得るのであり、星の数を数えて考えることによっては決して得られないのである。」

「『又惡沙門、立沙門者，復有異法——數十二月。如是數已，不得利益，亦復不能斷除煩惱，猶故在於有中而行，而不能知數十二入。若能思惟數十二入，知實義已，於欲生厭，以寂靜故，則得涅槃。彼惡沙門、立沙門者，以不能數、不思惟故，思惟他染而數他事。

「『又惡沙門、立沙門者，復有異種惡思惟染——思惟六時。既思惟已，於病老死不得解脫，為無常染之所擾亂，不思惟身三十六種。若思惟者，彼實觀察則能捨離，而得涅槃。

「『又惡沙門、立沙門者念世間時，思惟彼時，作如是言：「此時則善，某念不善；某時當得，某時不得。」如是惡念、惡思惟者，非是寂靜，則非得樂，非近涅槃，非得涅槃。應念心時，心相攀緣有善不善、有記無記。念世時者，心不思惟此三種時。若能思惟善不善心有所攀緣，如是思惟：「我生某心善攀緣者，我未來世當生善道，若我未來當得涅槃。我生某心不善攀緣、不善染心，彼當非樂、當非寂靜、當非涅槃，不得涅槃。我生某心無記攀緣，得無記報。」

「『又惡沙門，沙門相似，念世間道，思惟世時，唯一念時，無侯離多，若一日時、半月、月時善不善果，思惟人中命行盡時，而不思惟：「我之命行，念念中盡、彈指頃盡，無侯離多，若一日時、半月、月時，我之命行，念念盡滅而不可避，無有方便可避死時。」

「『又惡比丘復有思惟異法數時，妨廢坐禪、讀誦經律，所謂思惟世間染法——思惟星時。彼人思惟樂行多作，念在心中，如是記說：「如是某星某曜來覆，能與為妨，能與其惡，此世間中能好能惡。」思惟彼事，則不能離衰老病死、悲啼號哭、愁苦懊惱，不斷生死，是故不應如是思惟。如星曜覆，復有異法，異法所覆，所謂生星、死曜所覆。無病之星，病曜所覆。少年之星，老曜所覆。愛和合星，愛離曜覆。生天之星，退曜所覆。人中生星，為作曜覆。樂受之星，苦受曜覆。善心生星，不善心生曜之所覆。不淨之星，欲曜所覆。慈心之星，瞋曜所覆。觀智之星，癡曜所覆。彼惡沙門、立沙門者，於自思惟不能思惟，出世思惟而不思惟。此是思惟出世間星，如向所說，如實觀察實法之星，實曜所覆。如向所說，既思惟已，如實觀察八聖道分如是曜星，思惟得果，寂靜快樂乃至涅槃。

> また、悪しき比丘の中には、異なる法を思惟する時に、坐禅や経律の読誦を妨げる者もいる。すなわち、世間の染まる法——星の巡りを思惟することである。その人は、そのような思惟を好んで多く行い、心に留めて、次のように語る。「あの星や、あの曜が覆いかぶさり、妨げとなり、悪をもたらす。この世の中では、よいことも悪いことも起こる」と。そのようなことを思惟すれば、老いや病、死、悲しみ、泣き叫び、苦しみ、悩みから離れることができず、生死の輪廻を断つこともできない。ゆえに、そのように思惟すべきではない。 星や曜に覆われるように、別の法によって覆われるものもある。すなわち、生まれる星は死の曜に覆われ、病のない星は病の曜に覆われ、若い星は老いの曜に覆われ、愛の和合する星は愛の別れの曜に覆われ、天に生まれる星は退転の曜に覆われ、人に生まれる星は障害の曜に覆われ、楽受の星は苦受の曜に覆われ、善心の生じる星は不善心の生じる曜に覆われ、不浄の星は欲望の曜に覆われ、慈心の星は怒りの曜に覆われ、観智の星は愚かさの曜に覆われる。 それらの悪しき沙門、沙門と称する者たちは、自らの思惟において正しく思惟できず、出世間の思惟をしない。これこそが、出世間の星についての思惟である。先に述べたように、実の法を如実に観察する星は、実の曜に覆われている。先に述べたように、それを思惟したならば、八聖道の分を如実に観察する——これこそが曜や星の思惟であり、思惟によって果報を得、寂静の楽しみ、さらには涅槃に至るのである。

「『若凡愚人思惟如是世間星曜，或思惟曜或思惟星，乃令無量多百千人入於惡道，生在地獄、餓鬼、畜生。此是世間生死因緣，生貪瞋癡。若有思惟出世間道時節星曜，若思惟時、思惟曜星，思惟此已，如實觀察而修行者，則令無量多百千人於老病死、悲號啼哭、愁苦懊惱，而得解脫，到不退處，不老不病、不死不盡、最勝涅槃不退之處。若如是學，比丘沙門、立沙門者，欲得苦盡、生死苦盡，修星思惟、修時思惟，如向所說，為鄙為染。如是知已，知非畢竟、知非寂靜，非得涅槃，唯妨比丘坐禪讀誦。比丘不應數星思惟，數星思惟則不相應。

> 「凡夫がこのように世の中の星や曜を考え、あるいは曜を思い、あるいは星を思うことで、無数の人々を悪道に導き、地獄・餓鬼・畜生に生まれさせる。これが世の中の生死の因縁であり、貪り・怒り・愚かさを生む。もし世を超えた道の時節や星曜を考え、あるいは考え、あるいは星や曜を思って、それを如実に観察し修行するならば、その修行によって無数の人々が、老い・病・死、悲しみの叫び、愁い苦しみの懊悩から解脱し、退くことのない境地、老いることなく病まず、死せず尽きることない、最勝の涅槃の退くことのない場所に至るであろう。このように学ぶならば、比丘や沙門、沙門を志す者は、苦を尽くし、生死の苦を尽くそうとして、星の思惟や時の思惟を修めるが、先に述べたように、それは卑しく汚れたものである。このように知って、それが究極ではなく、静寂ではなく、涅槃に至るものではなく、ただ比丘の坐禅や読誦の妨げとなることを知るべきである。比丘は星の数を思惟すべきではない。星の数を思惟することは、道に相応しくないからである。」

「『又第六法不應思惟，所謂沙門、立沙門者，妨廢坐禪、讀誦經律。何者第六不應思惟？謂思惟占相。沙門之人不應思惟世間染法，增欲瞋癡。思惟彼相，妨廢善法。若諸沙門、立沙門者，知地動相——世間染相，或晝或夜，如是思惟：「地當欲動，今見有相，所謂地水平等定住，風吹則動，雖動不濁，地欲動故，風吹則濁。或雨欲墮，蟻子運卵。月當欲蝕，油脂沈水，鳥在空中近地下飛。日當欲蝕，諸方則赤。若欲安隱，膩潤風起，諸方無垢。右旋行相，見如是相，則知安隱。若欲有惡，諸方赤黃、乾無膩色，有乾風起，赤黃青色日暈輪起，在虛空中。日將欲蝕，諸方則赤。當有善者，彼方則有潤膩風吹，清淨無垢、無塵霧等，復見善相，右旋行相，相應之相。當有不善，則見諸方有赤黃色、乾無膩色，或見彼方無膩風吹，見赤黃青暈輪日出，在虛空中。」彼惡沙門、立沙門者如是占相，如是見故，妨廢坐禪、讀誦經律，思量記說，悕望財利種種供養，思惟二王為勝不勝。彼以如是求勝不勝，是故心中生欲、瞋、癡，如是三種，彼為根本。如是比丘得三種過，既非沙門，復非俗人。若善沙門、立沙門者，不用占相，以見此相增染欲故。

> また、第六に思惟すべきでないことがある。すなわち、沙門あるいは沙門を志す者が坐禅や経律の読誦を妨げるものだ。その第六の思惟すべきでないこととは何か。それは占いや相を見ることである。沙門である人は、世間の汚れた事柄を思惟し、欲望や怒り、無知を増すべきではない。それらの相を思惟すれば、善い修行を妨げてしまう。もし沙門や沙門を志す者が、地動の相——すなわち世間の汚れた相——を昼も夜も次のように思惟するとする。「大地が動こうとしている。今、その兆しが見える。すなわち、地面と水が平らに定まっているのに、風が吹けば動く。動いても濁らないが、大地が動こうとすれば、風が吹くと濁る。あるいは、雨が降ろうとすれば、蟻が卵を運ぶ。月が蝕まれようとすれば、油が水に沈む。鳥が空中で地面近くを飛ぶ。日が蝕まれようとすれば、方角が赤くなる。もし平安であろうとすれば、潤いのある風が起こり、方角に汚れがない。右に回るような相が見えれば、平安だと知る。もし悪いことが起ころうとすれば、方角が赤や黄色になり、乾いて潤いのない色になり、乾いた風が起こり、赤や黄、青の暈（かさ）が輪のように虚空に現れる。日が蝕まれようとすれば、方角が赤くなる。善いことがあろうとするなら、その方角には潤いのある風が吹き、清らかで汚れや塵や霧などがなく、さらに善い相、右に回るような相、それにふさわしい相が見える。不善なことがあろうとすれば、方角に赤や黄色、乾いて潤いのない色が見え、あるいはその方角に潤いのない風が吹き、赤や黄、青の暈が輪のように日から出て虚空にあるのを見る。」そのような悪い沙門や沙門を志す者は、このように占い、このように見ることで、坐禅や経律の読誦を妨げ、あれこれ考えて記録し、財物や様々な供養を欲しがり、二人の王のどちらが勝ちどちらが負けるかを考える。彼らはこのように勝ち負けを求めるため、心に欲望、怒り、無知を生じる。これら三つのものは、彼らの根本となる。このような比丘は三つの過ちを得ることになり、沙門でもなく、俗人でもない。もし善い沙門や沙門を志す者なら、占いや相を用いない。なぜなら、これらの相を見れば欲望の汚れが増すからである。

「『又復更有惡相思惟，有占相師，王欲鬪行，問其時節，彼決定記：「某日時中共彼鬪戰，一切人破。若一切人欲戰鬪者，於彼何處多殺無量百千眾生，皆悉散壞或捉繫縛。」如是城村或國土中，或多人處，於彼王所迭共鬪諍，迭互相破，能令失壞，無量百千眾生受苦。彼惡沙門為王看日、為王占時，言：「某日好、某時最好，王必得勝，能破餘王。」見相已說，彼惡沙門如是思惟：「此王若勝，我則於王多得財物、多得供養，當於王所得如是事。」

「『彼惡沙門、立沙門者，善法則滅，所謂坐禪、讀誦經律；或時增長不善之法，以其分別勝、非勝故。彼以思惟如是法故，身壞命終墮於惡道，生地獄中。以此因緣，若善沙門、立沙門者，則不思惟世間之相，以此思惟生三種過，妨善法故。若不思惟此世間相，思惟餘法，離三種過，出世間攝正念思惟。此法云何？所謂如彼地動相知，或晝或夜，如是思惟地將欲動。如是之人或夜或晝，何不思惟：「心地當動，如地動時，一切世間或山或河、園林樹木、若村城等，皆悉普動。如是如是，心地動故，自餘一切大地善法及餘法等，皆悉普動。」

> 「あの悪しき沙門、沙門として立つ者には、善い法は滅してしまう。いわゆる坐禅や経律の読誦であり、あるいは時に不善の法を増長させ、勝れたものと勝れないものとの分別があるからである。その者はこのように法を思惟するがゆえに、身壊れ命終わりて悪道に堕ち、地獄に生まれる。この因縁により、もし善き沙門、沙門として立つ者ならば、世間の相を思惟しない。この思惟により三種の過ちを生じ、善法を妨げるからである。もしこの世間の相を思惟せず、他の法を思惟すれば、三種の過ちを離れ、出世間に摂せられた正念の思惟となる。この法とは何か。いわゆる、あの地が動く相を知るが如く、あるいは昼、あるいは夜に、このように地が動こうとしているのを思惟する。このような人は、夜であれ昼であれ、どうして次のように思惟しないのか。『心の地は動くべきであり、地が動く時、一切の世間、あるいは山や河、園林や樹木、あるいは村や城などは、すべてことごとく動く。このように、心の地が動くがゆえに、その他の一切の大地の善法やその他の法なども、すべてことごとく動くのだ』と。」

「『是故沙門、立沙門者，應先觀察如是心地，當必欲動。心地轉動，如地震動。如是心地，三法所動，謂欲、瞋、癡，令心地動。如地當動必先有相，謂水本清，風吹則濁。如是如是，凡夫之人，或欲或瞋或癡將生，其人面色或黑或赤，如是先濁。是故沙門、立沙門者，應觀此相，攝涅槃相。觀此相者，不得苦惱。此心地相——出世間相。

> よって、修行者（沙門）たる者は、まずこの心のありようをよく観察し、それが必ず動こうとするのを見極めるべきである。 心が動くことは、大地が震えるようなものである。この心は、三つのものによって動かされる。すなわち、欲望（欲）、怒り（瞋）、無知（癡）である。これらの三つが心を動かすのだ。 大地が動く前に必ず前兆があるように、水がもともと澄んでいても、風が吹けば濁る。全く同じように、凡夫の心も、欲望や怒りや無知が生じようとするとき、その人の顔色は黒くなったり赤くなったりする。このように、まず心が濁るのである。 よって、修行者たる者は、この兆しを観察し、そこに涅槃の相（しるし）を見取るべきである。この兆しを観る者は、悩み苦しむことはない。この心のありようこそが、世を超えた智慧の相なのである。

「『又復次觀世間法相，雨欲墮故，蟻子運卵。如是沙門、立沙門者如是觀察出世間相。如村城內多饒人處，見有檀越、若諸沙門、諸婆羅門、諸長者等，以信佛故、為聽法故，往到佛所。如是實相，彼善沙門、立沙門者見如是相，即便記說：「今於彼處有佛世尊，欲說正法，如此檀越及諸沙門、諸婆羅門、諸長者等，皆到佛所。彼佛決定欲說正法，今見此相非下劣相，今知此相是法雨相。」

> また、世の中の現象の様子を観察すると、雨が降りそうになると、蟻が卵を運びます。このように、修行者や修行を志す者は、世を超えた現象の様子を観察します。村や町の中の人の多く集まる所で、施主や修行者、バラモン、長者たちが、仏を信じ、法を聞くために、仏のところへ向かうのを見かけます。このような実際の様子を、その善い修行者や修行を志す者が見て、すぐにこう言います。「今、あの場所に世尊であられる仏がおられ、正しい教えを説こうとしておられる。この施主や修行者、バラモン、長者たちは皆、仏のところへ向かっている。あの仏は必ずや正しい教えを説こうとしておられる。今、この様子を見ると、それは劣った様子ではなく、これは法の雨が降る兆しであると知るべきだ。」

「『又惡沙門、立沙門者見月耀相，決定知月必當欲蝕，置油水中下沈沒故。此如是相，非善、非吉亦非寂靜。此如是相，非沙門相、非寂靜相，彼沙門相則不相應出世間相。觀察相應，占世間月，終時則惡，知正法月，當必欲蝕，以正法油沈沒邪見人心水中。此相非善亦非清涼，此第一相，非是世間月蝕之相。

> 「また、悪しき沙門や沙門と呼ばれる者たちが、月の輝きに陰りを見たなら、それは月が必ず蝕まれようとしていると確かに知るべきである。油を水の中に置けば、それは沈んでしまうからだ。このような兆しは、善くなく、吉でもなく、また静寂でもない。このような兆しは、沙門の相ではなく、静寂の相でもない。その沙門の相は、出世間の相と相応しない。観察して相応に、世間の月を占えば、終わりには悪しきものとなる。正しい法の月が、まさに蝕まれようとしていることを知るべきである。なぜなら、正法の油は、邪見という人の心の水の中に沈んでしまうからだ。この相は善くもなく、また清涼でもない。この第一の相は、世間の月蝕の相ではないのだ。

「『又惡沙門、立沙門者更觀世間月蝕異相，如月當蝕，鳥在空中近地下飛。此於沙門、立沙門者不相應相。復有好相出世間相，所謂觀察正法月蝕，此是沙門正法道行，謂彼沙門於下知識、下檀越等下人邊行，如鳥下飛，在彼白衣不正行人、邪見之人門下行等，近下語說，如在空行近地下飛，時過失故。一切沙門、立沙門者觀察此相第一勝相，不應觀察，彼月蝕相則非好相。

> 「また、悪しき修行者や修行者を名乗る者たちは、世間の月食という異常な相を観察する。例えば、月が蝕する時、鳥は空中から低く飛ぶようになる。これは、真の修行者や修行者を名乗る者にとって、ふさわしくない相である。さらに、世間を超えた良い相がある。それは、正しい教えとしての月食を観察することである。これこそが、修行者の正しい道の実践である。すなわち、その修行者が、低い知識や低い檀越など、地位の低い人々のもとに行き、あたかも鳥が低く飛ぶように、在家の正しくない行いをする人々や邪見を持つ人々のもとで振る舞い、低い言葉で語る様子である。それは、空中を飛びながら低い所を飛ぶ鳥のように、時に過ちを犯すからである。全ての修行者や修行者を名乗る者は、この相を第一の優れた相と見なすべきではなく、あの月食の相は決して良い相ではないのである。」

「『又復有相，若惡沙門、立沙門者，以日蝕相觀世間相：日將欲蝕，諸方則赤；當有善者，彼方則有膩風所吹，清淨無垢、無塵霧等，見彼善相，右旋行相，相應之相。彼善沙門、立沙門者不相應見，以妨坐禪讀誦業故。此世間相則非寂靜，則非安樂。如是如是，若善沙門、立沙門者欲得寂靜，應當觀察出世間相，觀菩薩日為一切智菩提當攝，或於一劫、或於二劫、或於三劫決定當攝。如是沙門見出世間菩薩之相，所謂精進、布施、聞智，赤色方相，慈心憐愍一切眾生。菩薩身赤，當安隱者，謂此菩薩第一功德皆悉具足，一切智相當必圓滿、當必說法，諸方無垢、無塵霧者，離惡時過，當有善者如來名稱，膩風所吹。如彼世間相師所見，此出世間如是相師，見未來相——聲聞、緣覺、阿羅漢相；右旋相者，謂正觀察。

> 「さらにまた、このような相がある。悪しき沙門や沙門を名乗る者が、日蝕の相によって世の中の相を見る時、日がまさに蝕されようとすると、諸方の空は赤くなる。そこに善いことがあるなら、その方角には油の風が吹き、清らかで汚れも塵も霧もない。その善い相、右に旋回する相、相応する相を見る。しかし、善き沙門や沙門を名乗る者は、座禅や読誦の妨げとなるため、これらの相を見ることができない。この世の中の相は、静かではなく、安らかでもない。 このように、もし善き沙門や沙門を名乗る者が静けさを得たいと望むなら、世を超えた相を観察すべきである。すなわち、菩薩の日を、すべての智慧である菩提に必ず導かれるものと観察し、あるいは一劫、あるいは二劫、あるいは三劫のうちに、必ずそれに導かれると定めるのである。 このように沙門は、世を超えた菩薩の相を見る。すなわち、精進・布施・智慧という赤い方角の相であり、慈しみの心で一切の生きとし生けるものを憐れむ相である。菩薩の身体が赤く、安らかであるというのは、この菩薩が第一の功徳をすべて備え、すべての智慧の相が必ず円満し、必ず説法することを意味する。諸方に汚れも塵も霧もないというのは、悪い時代の過ぎ去りを離れ、善きこと、すなわち如来の名声が油の風に吹かれて来ることを示す。世の相を観る者が見るように、この世を超えた相を観る者もまた、未来の相――声聞・縁覚・阿羅漢の相を見るのである。右に旋回する相とは、正しく観察することをいう。

「『又彼相師唯見如是世間法中生死之相，當有不善，則見諸方有赤黃色、乾無膩色，或見彼方無膩風吹，有赤黃青暈輪日出，在虛空中。彼惡沙門觀如是相，妨廢禪誦。若善沙門出世相師，為諸信人如是記說：「當有不善。何者不善？謂障正法。」見如此相，如見彼方有赤黃色。如是相者，正法欲滅有如是相，謂諸方人憙樂惡口、妄語、兩舌、殺生、偷盜。當有彼人乾風吹者，所謂惡名。若有眾生非正法行，惡名風吹，聞於八方、四方、四維，皆悉普遍。以諸眾生不行正行，作不善業，惡名風吹，如是遍聞。

> 「また、その占い師は、世の中の生き死にの兆しとして、悪いことが起きそうだと見る時、方角によって赤や黄色の、潤いのない色が見えたり、あるいは、その方角から乾いた風が吹き、空には赤や黄、青のかすんだ太陽が浮かんでいるように見える。そのような悪しき修行者（沙門）は、こうした兆しを見て、禅定や読誦の妨げとしてしまう。 しかし、善き修行者が世に出た時の占い師は、信者たちにこう語る。「悪いことが起ころうとしている。その悪いこととは何か？それは正しい教えが妨げられることだ。」こうした兆しは、あたかもその方角に赤や黄色が見えるかのようである。このような兆しは、正しい教えが滅びようとしている時に現れる。すなわち、人々が悪口、嘘、二枚舌、殺生、盗みを好むようになる。彼らに乾いた風が吹くとは、悪い評判のことである。正しい行いをしない者たちには、悪い評判の風が吹き、八方・四方・四隅にまで、あまねく広がる。人々が正しい行いをせず、善くない行いをするゆえに、悪い評判の風が吹き、こうして至るところで聞かれるようになるのである。」

「『世間相師見赤黃青暈輪日出，在虛空中。如是師者，世間相師。出世相師見赤黃青暈輪日者，謂惡沙門、惡婆羅門。如是眾會，非一切智，起智慢故，自言：「我是一切智人。」此邪見人非是實日，非一切智立一切智，非好種姓、凡姓中出。彼如是人邪見日出，一切藥草、園林樹葉悉皆乾枯，如是所謂，一切善人正見藥草、園林盡乾。如是如是，此出世間正法日出，增長禪誦、第一義諦、光明勝智。如是觀察出世間相，先觀察已，然後記說，所謂為彼有信沙門、諸婆羅門、諸長者等，如是記說，作如是言：「諸有值遇正法日出，皆應精勤作諸善業，莫於後時一切正法皆悉滅沒，邪見日出，非是沙門自言沙門；非婆羅門言婆羅門；非一切智言一切智。諸惡沙門、惡婆羅門暈輪日出，汝得衰惱。」如是記說一切智法，彼則相應，是真相師，有大勝意。有能思惟如是相者，不妨坐禪、讀誦經律。更異思惟世間相者，則妨禪誦。此世間道、出世間道如是勝劣。世間法者，則攝生死；出世間法，次第乃至到於涅槃。』

> 『世間の相を観る師は、赤・黄・青の暈や輪、あるいは空中に太陽が昇るのを見ます。このような者が世間の相を観る師です。これに対し、世を超えた相を観る師が、赤・黄・青の暈や輪、太陽を見るとは、悪しき沙門（出家者）や悪しき婆羅門（バラモン）のことです。このような人々の集まりは、一切智（すべてを知る智慧）を持つ者ではありません。智慧への慢心から、「私は一切智者である」と自称するのです。この邪見の人々は実の太陽ではなく、一切智でないのに一切智を標榜し、良い種姓から出たのではなく、凡夫の家系から出た者です。 そのような人の邪見という太陽が昇ると、すべての薬草や園林の木々の葉はことごとく枯れ果ててしまいます。これはすなわち、すべての善人の正見という薬草や園林が尽く枯れることを意味します。 このように、この世を超えた正法という太陽が昇れば、禅定（瞑想）や読誦（経典の朗読）、そして第一義諦（究極の真理）という光明に満ちた勝れた智慧が増長します。 このようにして世を超えた相を観察したならば、まずそれを観察した上で、後に説き明かすのです。すなわち、信仰ある沙門や婆羅門、長者たちに対して、次のように記説します。 「あなたがたは、正法の太陽が昇る機会に遭遇したならば、皆、精進して努め、善い行いをなさい。後の時に、すべての正法が滅び尽き、邪見の太陽が昇り、沙門でないのに沙門と自称し、婆羅門でないのに婆羅門と自称し、一切智でないのに一切智と自称する者が出てきてはなりません。悪しき沙門や悪しき婆羅門の暈や輪の太陽が昇れば、あなたがたは衰えと悩みを得ることになるでしょう。」 このように一切智の法を記説するならば、その人は真理にかなっており、真の相を観る師であり、大きな勝れた意を持っています。 このような相をよく考えられる人は、坐禅や経律の読誦を妨げることはありません。それとは別に、世間の相を思い考えるならば、かえって禅定や読誦を妨げることになります。 この世間の道と世を超えた道には、このような勝れと劣りの差があるのです。世間の法は生死の迷いの世界に留まり、世を超えた法は、順を追って涅槃（悟りの境地）に至るのです。』

「爾時，世尊迦葉如來而說偈言：

> その時、世尊である迦葉如来は、次のような偈を説かれました。

「『離坐禪讀誦，常憙樂占相，彼捨離善法，不可得涅槃。若捨離自法，而樂他法者，彼二法失壞，到於惡道處。若人捨自家，而喜樂他舍，人中輕被笑，速爾致貧窮。如是癡惡意，智慢自言勝，捨離自法已，而修行他法。出家而邪命，失法失名稱，人中輕如草，未來入惡趣。捨離寂靜法，而行於惡業，彼人不久聞，因此失佛法。心悕望離欲，無有餘悕望，勤精進知足，如是名行禪。若心憙樂欲，常貪於飲食，是著袈裟賊，不名為比丘。若比丘說相，常思惟星曜，近王放逸行，非比丘相應。醫師畫師業、聞惡法讚咏，與惡者同處，則失比丘法。憎嫉禪讀誦，愛樂多語說，貪供養財利，則失比丘法。推求諸寶性，愛樂多知識，復貪餘財物，退失比丘法。唯貪諸飲食，我慢不問他，悕望人讚歎，退失比丘法。若不近一切，捨離於惡眾，水草食知足，是名真比丘。得諸境界已，棄之如捨火，除斷我慢過，是名真比丘。內外俱寂靜，智光明莊嚴，持戒衣覆身，是名真比丘。遠離世間法，不動如須彌，一切世間愛，是名真比丘。三宿住城內，饒人處皆爾，止住山谷中，名解脫比丘。畏惡不近他，正行心不動，智審諦寂靜，是獨行比丘。不悕常愛語，捨離惡知識，不樂多所作，名解脫比丘。彼如是比丘，得脫於有過，知世間涅槃，等心不悕望，心常憙樂智，及以善寂靜，於生老病死，怖畏中得脫。

> 坐禅や読誦を離れて、 占いや相を好む者、 善い法を捨てるゆえに、 涅槃を得ることはできない。 自らの法を捨てて、 他人の法を楽しむならば、 その両方を失って、 悪道の境地に落ちる。 自分の家を捨てて、 他人の家を喜ぶ人は、 人々に笑われ、 すぐに貧しくなる。 そのように、愚かで悪意ある者、 知識と慢心で「自分が勝る」と言い、 自らの法を捨てて、 他人の法を修行する。 出家しながら邪な生き方をし、 法を失い、名声も失い、 人々に草のように軽んじられ、 未来に悪趣へ落ちる。 静かな法を捨てて、 悪い行いをするなら、 その人はすぐに、 仏法を失うこととなる。 心は離欲を願い、 他の願いは持たず、 精進し、足るを知る―― これを「行禅」という。 心が欲を好み、 常に飲食に貪るなら、 それは袈裟を着た賊であり、 比丘とは呼べない。 もし比丘が相を説き、 星を占うことを常とし、 王に近づき、放逸に生きるなら、 それは比丘にふさわしくない。 医者や絵師の業、 悪い法を聞き、それをほめたたえ、 悪者と共にいるなら、 比丘の法を失う。 禅や読誦を憎み、 多弁を好み、 供養や財利を貪るなら、 比丘の法を失う。 宝の性質を探し求め、 多くの知り合いを好み、 さらに財物を貪るなら、 比丘の法を退失する。 ただ飲食だけを貪り、 慢心して他人に問いかけず、 人にほめられることを願うなら、 比丘の法を退失する。 もしすべてに近づかず、 悪い仲間を離れ、 水や草のような食物で足るを知るなら、 それを真の比丘と呼ぶ。 さまざまな境界を得ても、 それを火のように捨て去り、 我慢の過ちを断ち切るなら、 それを真の比丘と呼ぶ。 内外ともに静かで、 智の光明で飾られ、 戒律を衣として身にまとうなら、 それを真の比丘と呼ぶ。 世間の法を遠く離れ、 須弥山のように動かず、 すべての世間の愛着を超えたなら、 それを真の比丘と呼ぶ。 三晩、町の中に留まり、 人が多い場所でも同じようにし、 山谷に住むなら、 それを解脱した比丘と呼ぶ。 悪を恐れて他人に近づかず、 正しい行いで心は動かず、 智慧をもって静かに確かめるなら、 それを独行の比丘と呼ぶ。 愛ある言葉を常に願わず、 悪い知識を離れ、 多くのことを好まないなら、 それを解脱した比丘と呼ぶ。 そのような比丘は、 あらゆる過ちからの解脱を得る。 世間と涅槃を知り、 心を等しくして願望を持たず、 常に智慧と静けさを喜び、 生・老・病・死の恐怖から 解脱するのである。

「『如是比丘得阿羅漢，若不爾者，唯名比丘，為自妨礙，墮於嶮岸。此第六法如是妨礙，若善沙門，不應為作。

> 「このように修行する比丘は阿羅漢となる。もしそうでなければ、ただの比丘という名ばかりであり、自らを妨げて険しい岸に落ちる。この第六の法はこのように妨げとなるものであるから、善き沙門はこれを行ってはならない。」

「『又復沙門、立沙門者於第七法不應為作。何者第七？所謂唯集飲食滿藏。此多貪瞋，捨離一切禪誦等業，唯在大床空坐而已；眾僧所攝床臥敷具、病藥所須，虛妄受用。本在家時，懈怠嬾墮，畏諸作業，是故出家，唯貪食味，常伺他會，求望飲食，或樂境界。如是比丘是死比丘，所謂比丘不能坐禪、讀誦經律，毀破淨戒，自餘死者，唯棄其身。毀戒比丘，一切善法皆悉破壞，唯能坐床，心生憍慢，自謂為好，唯有比丘形服而已，其實無戒，離於正戒。

> 「また、修行者よ、修行者と呼ばれる者が、第七の事項を行ってはならない。その第七とは何か。それは、ただ食べ物を集めて蓄え、満たそうとすることである。このような者は貪りと怒りが多く、瞑想や読誦などの修行をすべて捨て去り、ただ大きな寝台に座って無駄に過ごすのみである。僧団に属する寝具や敷物、病気の際の薬などを、偽って受け取り使用する。もともと在家にいた時から、怠け者で、修行の務めを恐れて出家したに過ぎず、ただ食べ物の味に執着し、常に他人の施しを待ち望み、食事を求め、あるいは快楽に耽ることを楽しむ。このような比丘は、死んだ比丘である。すなわち、瞑想もできず、経典や戒律を読誦することもなく、清らかな戒を破り、ただ身体を捨てるだけの他の死んだ者たちと変わらない。戒を破った比丘は、すべての善い法を壊し尽くしている。ただ床に座り、心に驕りを起こし、自分は優れていると思い込んでいるが、実際には比丘の外見をまとっているだけであり、戒を持たず、正しい戒から離れているのである。」

「『所言戒者，謂之心戒，彼不能持，彼不能作。彼戒七種，何等為七？所謂口戒。比丘如是，或於比丘或於俗人，口不共語，唯除法事。或婦女人，持戒比丘除乞食行，口不共語，或為呪願作如是言：「令汝得樂，得涅槃等。」若見母時、見姊妹時，唯看其足，不看其面，不看其服及莊嚴等。』

> 「戒というのは、心の戒めを言います。それを守ることもできなければ、実践することもできません。戒めには七つの種類があります。その七つとは何でしょうか。いわゆる口の戒めです。比丘はこのように、他の比丘や在家の人々に対して、法に関することを除いては口をききません。あるいは女性たちに対しても、戒を守る比丘は托食の行の時を除いては言葉を交わさず、ただ祈願のために『あなたに幸せがありますように、涅槃が得られますように』などと言うだけです。母や姉妹を見る時には、ただその足だけを見て、顔を見ず、衣服や装飾品なども見ないのです。」

「爾時，世尊迦葉如來而說偈言：

> その時、世尊である迦葉如来は、次のような偈を説かれました。

「『手觸若風吹，此火久乃燒，見婦女火起，速燒不待久。

> 「手で触れたり、風が吹いたりすると、 その火は長く燃え続ける。 しかし、女性を見て燃え上がる火は、 すぐに燃え広がり、長くは待たない。」

「『是故比丘怖畏欲燒，不共一切婦女語言。此是一戒。

> 「ですから、修行者（比丘）は欲望の炎を恐れて、すべての女性と語り合ってはなりません。これが第一の戒めです。」

「『又第二戒，所謂不近不善知識；不於一處久時住止；不取多利；捨多供養，不捨病人；不見妻子；隨於何處有多利養，則捨而去，畏生貪故；離破戒者，不與同住。如是七種比丘不攝。唯貪飲食，於他財利、於他供養若見若聞，則生憂惱，如是思惟：「我今當設何等方便得彼利養？」如是思惟，心生貪著，如是心濁，增長貪心。彼惡沙門，一切善法皆悉破壞，晝夜常愁，心不安隱。而彼比丘見餘持戒善行比丘為他供養，生嫉生貪，而便往到彼檀越家。諂曲形服，少語徐行，心不寂靜，外現威儀寂靜之相，身披納衣，復與多人不持戒者以為朋侶，唯有貝聲而行惡法，同伴相隨，造彼檀越，現持戒相。如是如是，隨心所行。如是比丘，彼檀越主謂其持戒，如是念言：「此等比丘第一持戒。」彼惡比丘現持戒相，令彼檀越心信敬已，共諸朋侶數數往到彼檀越家。如是比丘隨已所聞，少知佛法，共其同侶為彼檀越說所知法，如是方便，欲令檀越迴彼比丘所得利養，而施與之。如是比丘形相，沙門第一大賊。到檀越家，方便劫奪他人財利及以供養。如是比丘見他財利、見他供養生貪嫉者，不曾少時眼開合頃，暫作善法。彼惡比丘破戒沙門，捨離坐禪讀誦等業，無一念間不攝地獄、餓鬼、畜生。

> 「第二の戒について説こう。すなわち、不善の知識に近づかないこと。一箇所に長く留まらないこと。多くの利益を得ようとしないこと。多くの布施を断つこと。病人を見捨てないこと。妻や子に会わないこと。利益の多い場所があれば、貪りの心が生じるのを恐れて去ること。戒を破る者から離れ、共に住まないこと。この七つのことを守らない比丘は、ただ飲食に執着し、他人の財産や布施を見聞きすると、心に悩みを生じる。こう思う——『どうすれば、あの利益を得られるだろうか』と。そう考えて貪りの心が増し、心は濁り、貪欲はさらに強くなる。そのような悪しき沙門は、あらゆる善い法を壊し、昼夜憂いに沈み、心は安らかでない。 しかし、その比丘は、戒を守り善く修行する他の比丘が供養を受けているのを見ると、嫉妬と貪りを生じ、その施主の家へと向かう。へつらうような態度で、着衣は整え、口数は少なく、歩みは遅く、心は穏やかでないのに、外には静かで威厳のある様子を見せ、粗末な衣をまとい、多くの戒を守らない者たちと仲間となる。ただ貝の音のような虚飾だけがあり、悪い行いをする。仲間と連れ立って施主の家に行き、戒を守る者の姿を装う。このように、心のままに振る舞う。 そうした比丘に対し、施主は『この比丘は戒を守っている』と思い、『これらの比丘こそ、第一の持戒者である』と考える。悪しき比丘は、戒を守る姿を見せて施主の心に敬信を起こさせる。そして、仲間と共に何度もその施主の家を訪れる。その比丘は、聞き覚えのわずかな仏法を、仲間と共に施主に説き、そうして自分たちが施主から、他の比丘に与えられたはずの利益や布施を奪い取ろうと図るのである。 このような比丘の姿こそ、沙門の中で最大の盗人である。施主の家に至り、他人の財産や布施を奪い取るのだ。他人の財産や布施を見て貪り嫉むこのような比丘は、まばたきの一瞬たりとも善行を積むことはない。その悪しき比丘、戒を破る沙門は、坐禅や読誦などの修行を捨て去り、刹那の間も地獄・餓鬼・畜生という三悪道から逃れることがないのである。」

## 正法念處經卷第四十九

> 正法念処経 第四十九巻