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title: "正法念處經 · 15"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第五十

> 正法念処経 第五十巻

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之二十九夜摩天之十五

> 天観の品 第二十九<note>夜摩天の十五</note>

「『又彼比丘共己同侶於檀越家，先所相識持戒比丘，以諂誑心說其過惡，或以嫉心說其破戒，或以嫉心說其無聞，或以嫉心說其行相，語檀越言：「汝此門師毀破禁戒。」或說懈怠，無聞無智，愚癡如鳥，少聞少智。彼惡比丘向他檀越如是惡說，恒常習近非法境界，何處得修禪誦等業？彼空無物，不堅不實，身壞命終墮於惡道，生地獄中。』

> 「また、かの悪しき比丘は、自分の仲間と共に檀家の家に行き、以前から知っている戒律を守る比丘に対して、偽りの心でその過ちや悪事を語る。あるいは嫉妬の心で戒律を破ったと言い、あるいは嫉妬の心で学問がないと言い、あるいは嫉妬の心でその振る舞いを非難して、檀家にこう言う。『あなたのこの師匠は、戒律を破り、汚したのです』と。また、怠け者だとか、無知だとか、愚かで鳥のようだ、学びも知恵も乏しいと語る。かの悪しき比丘は、檀家に対してこのように悪口を言い、常に非道な環境に親しむならば、どこで禅定や読誦などの修行を積むことができるだろうか？彼は空っぽで、実体がなく、確かなものもない。やがて命終われば、悪道に落ちて地獄に生まれるのである。」

「爾時，世尊迦葉如來而說偈言：

> その時、世尊である迦葉如来は、次のような偈を説かれました。

「『妄語言說者，惱一切眾生，彼常如黑闇，有命亦同死。語刀自割舌，云何舌不墮？若妄語言說，則失實功德。若人妄語說，口中有毒蛇，刀在口中住，炎火口中燃。口中毒是毒，蛇上毒非毒；口毒壞眾生，命終墮地獄。若人妄語說，自口中出膿，舌則是泥濁，舌亦如熾火。此如是羂縛，地獄之前使，破壞法橋等，皆是妄語過。彼妄語之人，則非有父母，亦不能持戒，墮於惡道中。若人妄語說，彼人速輕賤，為善人捨離，天則不攝護。自不攝言語，速疾多瞋恚，心㦜多語說，常受諸苦惱；常憎嫉他人，與諸眾生惡，方便惱亂他，因是入地獄。』

> 「嘘をつく者は、あらゆる生きとし生けるものを苦しめる。 その者は常に闇の中にあり、命があっても死んでいるのと同じだ。 言葉という刃が自らの舌を切り、どうして舌が落ちないことがあろうか。 もし嘘の言葉を語れば、真実の功徳を失ってしまう。 嘘をつく者の口の中には、毒蛇がいる。 その口には刃が住み、燃えさかる炎が口の中で燃えている。 口の中の毒こそが本当の毒であり、蛇の毒は毒ではない。 口の毒は生きとし生けるものを滅ぼし、命終われば地獄に堕ちる。 もし嘘をつくなら、自分の口から膿が出る。 その舌は泥のように濁り、舌は燃え盛る炎のようでもある。 これこそが束縛の網であり、地獄への先触れである。 教えの橋を壊すなど、全ては嘘の過ちによるものだ。 嘘をつく者には、父母もいない。 また戒律を守ることもできず、悪道に堕ちる。 嘘をつく者は、すぐに軽んじられ、 善人からは見捨てられ、天の守護も受けない。 自らの言葉を制御できず、すぐに激しく怒り、 心は乱れて多弁になり、常に様々な苦しみを受ける。 常に他人を憎み嫉み、生きとし生ける者に悪をなし、 様々に手段を巡らせて他人を悩ませ、そのために地獄に入るのだ。」

「彼佛世尊迦葉如來如是已說妨廢禪誦七種惡法。『彼惡比丘於持戒者作不饒益，是故天捨。口中生刀，為少利故，他實功德而說言無，彼實無過而說有過。如是之人是惡沙門，自謂沙門，妄語言說。彼人如是常有惡意惡行惡法，彼檀越主後時知已，心則輕薄，知其諂曲。此第七法。是故比丘應當捨此第七惡法，所謂悕望飲食供養，皆欲在己。

> 「かの世尊迦葉如来は、このようにして坐禅や読誦を妨げる七つの悪い法を説かれました。『その悪しき比丘は戒律を守る者に利益をもたらさないため、天も彼を見捨てます。その口には刃が生じ、わずかな利得のために、他人の真実の功徳を無いと語り、実際には過ちが無いのに過ちがあると言います。このような人は悪しき沙門であり、自ら沙門と称しながら虚偽の言葉を語る者です。その人は常に悪意、悪行、悪法を抱き、後に施主がそのことを知れば心は軽んじ、そのお世辞の心を知るのです。これが第七の法です。ゆえに比丘はこの第七の悪法、すなわち飲食の供養を望み、全てを我が物にしようとする心を捨てるべきです。』」

「『又復第八障礙惡法，妨廢比丘坐禪讀誦，是故沙門應當捨離。何者第八？所謂採集種種寶性，造作諸寶。如是比丘怖畏生死，剃除鬚髮披服法衣，以信出家。彼生死中多諸苦惱，略而言之，有二種苦。依陰界入，在三界中，廣則五道。又復廣者，八大地獄、餓鬼、畜生；欲界六天，於欲界中復有枝條種種諸苦；於色界中，復有心苦；無色界中，則有退苦，故欲退時，三昧則亂。如是心者，有無量種分別之苦。彼善男子觀苦惱已，心生厭離，怖畏如是無量過惡，剃除鬚髮披服法衣，以信出家。

> さらに、第八の障害となる悪法は、修行中の僧侶が坐禅や読誦をするのを妨げるものです。そのため、修行者はこれを捨て離れるべきです。では、第八とは何か？それは、様々な宝石の性質を収集し、宝玉を造り出すことです。このような比丘は、生死を恐れ、髪やひげを剃り、法衣をまとい、信心をもって出家しました。その生死の世界には多くの苦しみや悩みがあります。簡潔に言えば、二種類の苦しみがあります。五蘊・十八界・十二処に基づき、三界の中にあって、広くは五つの道があります。さらに広く言えば、八つの大地獄、餓鬼、畜生があります。欲界の六天では、欲界の中にさらに様々な枝葉のような苦しみがあります。色界の中では、心の苦しみがあります。無色界では、退く苦しみがあります。退こうとする時、三昧は乱れます。このような心には、無量の種類の分別による苦しみがあります。あの善き人は、苦しみを観じて、心に厭離を生じ、このような無量の過失や悪を畏れ、髪やひげを剃り、法衣をまとい、信心をもって出家したのです。

「『又彼沙門復觀餘苦，心生怖畏，所謂身苦。身苦二處，謂欲、色界，隨有身處皆受苦惱。彼色界中，云何受苦？謂於禪中疲惓故起，起彼禪已，身則疲惓。彼欲退時，身威德劣，風觸其身。如是風者，本來不觸，是故觸身，則受苦惱。唯除眼觸，受樂無苦，則是無記。如是分別受苦不同，依色身有。彼善男子如是聞已，知生死中一切苦惱，陰界入聚，和合皆苦。

> さらに、その修行者は他の苦しみについても観察し、心に怖れを生じる。いわゆる身体の苦しみである。身体の苦しみには二つの領域がある。欲界と色界だ。身体のあるところは、どこであれ苦しみを受ける。 その色界において、どのように苦しみを受けるのか。禅定の中で疲れ果てて立ち上がり、その禅定から起きた時、身体は疲れている。そこから退こうとする時、身体の威徳が劣り、風がその身体に触れる。このような風は、本来触れることがないものである。そのため、身体に触れると苦しみを受ける。ただ、眼の触れるところだけは、楽しみを受け苦しみはなく、それは無記である。このように、苦しみは様々に異なって受け取られるが、身体によるものである。 その善き人は、こう聞いて、生死の中における一切の苦しみ、五陰・十八界・十二入の集まりが、和合してすべて苦しみであると知る。

「『彼觀如是無量無邊生死苦已，而便出家。既出家已，近不善人。近彼人故，同其作業，聞寶性方。畏何性故，以信出家？聞餘性故，更生貪心，或聞金性、或聞銀性、或聞寶性，如是聞已，不知厭足，貪火所燒。彼既燒已，共惡知識行於山中，從山至山，從一山峯至一山峯，如是遍行在隱密處。貪火所燒，晝夜常苦，無有樂時。以何因緣如是出家？不念彼性，思惟異性，謂捨身性而不思惟，如向所說。彼人如是心意不正，亂心意故，妨廢禪誦，失於善法。彼非沙門亦非俗人，為求涅槃，是故出家，性鬼所著，則生貪心，貪羂繫縛入於地獄。』

> 「彼はこのように、無限無数の生まれ変わりと死の苦しみを見て、出家した。出家した後、不善な人々に近づいた。彼らに近づいたため、同じ業を共にするようになった。宝の性質について聞いた時、何の性質を畏れて、信心をもって出家したのか。他の性質について聞くと、さらに貪りの心を起こす。例えば、金の性質、銀の性質、宝の性質などを聞けば、聞いた後に満足することを知らず、貪りの火に焼かれる。焼かれた後、悪しき知識と共に山中を歩き、山から山へ、一つの山頂からまた別の山頂へと、隠れた場所をくまなく巡る。貪りの火に焼かれ、昼夜常に苦しみ、楽しい時はない。いかなる因縁によってこのように出家したのか。その本性を思わず、異なる本性を考える。すなわち、身の本性を捨てることを思わず、先に述べたようにする。あの人はこのように心の向きが正しくなく、心が乱れているため、禅定や読誦を妨げられ、善い法を失った。彼は沙門でもなく、俗人でもない。涅槃を求めて出家したのに、鬼に取り憑かれたように貪りの心を生じ、貪りの罠に縛られて地獄へ入るのである。」

「爾時，世尊迦葉如來而說偈言：

> その時、世尊である迦葉如来は、次のような偈を説かれました。

「『觀察身性者，即是一切性，欲得涅槃者，調身性非餘。若捨離身性，貪著於餘性，彼人迷真性，不得脫苦惱。金性則不能，除捨諸苦惱，諦知真性者，得脫苦不疑。一切苦生苦，此苦難得脫，財於王賊火，一切皆怖畏，是故應捨物，如本來無物，捨離則受樂，攝取則受苦。諦知於身性，復諦知性相，喜樂於禪誦，能燒煩惱山。是故黠慧者，觀察身攝性，眾生知自相，則得涅槃樂。

> 「身体の本質を観察する者は、すべての本質を観察している。 涅槃を得たいと願うなら、身体の本質を調べよ。他のものではない。 もし身体の本質を捨てて、他の本質に執着するなら、 その人は真実の本質に迷い、苦しみから逃れられない。 金のようなものは、苦しみを取り除くことはできない。 真実の本質をはっきりと知る者こそ、疑いなく苦しみから解放される。 すべての苦しみは生まれながらの苦しみであり、この苦しみから逃れるのは難しい。 財産は王や賊、火に対してすべて恐れを抱かせる。 だからこそ、もともと物がないように、物を手放すべきだ。 手放せば楽を受け、執着すれば苦を受ける。 身体の本質をはっきりと知り、さらに本質の特徴を知り、 禅定や読誦を喜んで楽しめば、煩悩の山を焼き尽くせる。 それゆえ、賢い者は身体を観察し、その本質をよく捉えよ。 生きとし生ける者が自らの特徴を知れば、涅槃の楽しみを得るのである。」

「『有智之人如是勤心觀此身性，不樂經營金銀等性，此是一切在家之人怖畏根本，況出家人。出家人者，一切捨離；彼財物者，一切怖畏。非賣財物，如是得樂。如是財者，則非財物，非財物性。何者是物？謂觀身性。若捨身性而樂餘性——非於禪誦勤精進也，如是之人身壞命終墮於地獄。故出家人常應修集禪誦財物，不應求於世間凡物，彼因緣故，能增長愛。是故知足——第一財物，餘財物者，能令衰惱。此第八法妨於禪誦，出家沙門應當捨離。

> 「智慧ある人は、このように心を励まして身体の本質を観察し、金銀などの性質に喜んで心を費やしません。これこそが在家の者にとって恐れの根本であり、ましてや出家した者においてはなおさらです。出家した者は、すべてを手放す者です。あの財物は、すべての恐れのもとです。財物を売り払うことなく、このように安らぎを得るのです。このような財物は、実は真の財物ではなく、財物の本質でもありません。では、何が真の物なのでしょうか。それは、身体の本質を観察することです。もし身体の本質を捨てて、他の本質を楽しもうとするならば、それは坐禅や読経に励むことではありません。そのような人は、命終わって地獄に堕ちます。ゆえに、出家した人は常に坐禅と読経という財物を修め集めるべきであり、世間の普通の物を求めるべきではありません。それらの因縁によって、愛執が増すからです。ですから、知足こそが第一の財物であり、他の財物は衰えや悩みをもたらします。この第八の法は坐禅と読経を妨げるものですから、出家の沙門はこれを捨て去るべきです。」

「『又復第九障礙惡法，妨廢比丘坐禪讀誦，是故沙門應當捨離。何者第九？所謂近王。出家之人不應近王。何以故？近王沙門，一切世人嫌不供養。彼親近王惡沙門者，悕望財物，或城或村、或多人處常求財物，不知厭足。若不求者，徒近於王，妨廢禪誦。如是比丘發心欲行解脫之道，而復返入繫縛道中，是故比丘不應近王。

> 「また、第九の障礙となる悪い法があり、比丘の坐禅や読誦を妨げ、廃れさせる。ゆえに、修行者はこれを捨て離れるべきである。その第九とは何か。すなわち、王に近づくことである。出家した人は、王に近づくべきではない。なぜならば、王に近づく修行者は、世間のすべての人々から嫌われ、供養もされなくなるからである。その王に近づく悪い修行者は、財物を欲しがり、城や村や人が多く集まる所で常に財物を求め、満足することを知らない。もし求めることがなければ、ただ無駄に王に近づき、坐禅や読誦を妨げ廃れてしまうのである。このような比丘は、解脱の道を歩もうと心を起こしながら、かえって束縛の道に入り込む。ゆえに、比丘は王に近づくべきではない。」

「『又復比丘不近何者？所謂比丘不近惡人。彼是何人？謂惡知識，或時染著五塵境界，所謂色聲香味觸等不善觀察、懈怠愚癡、住村中等，一切除捨。不近一切懈怠之人，不近一切諂誑之人，不近一切貪食味人，不近一切商賈之人，不近一切屠獵師等惡命活者，不近一切本性妬人，不近一切邪見之人，不近一切不審諦人，不近一切我慢之人，不近一切卒富貴人，不近一切博戲之人，不近一切酤酒之人，不近一切嗜酒之人，不近一切酒肆之處，不近樂見婦女之人，不近一切婬女主人，不近一切儲畜雜貨販賣之人，不近一切廚宰之人，不近一切獄卒等人，不近一切捕鳥之人，不近一切戲論之人，不近一切信外道人，不近一切眾所憎人。比丘不應近如是人，或與同住、或共語言、或同道行，一切不應。何以故？多人疑故。若出家人、若離諸過清淨之人皆不應近，彼生疑者謂彼比丘亦同如是，以彼比丘或近彼人、或同處住。如是比丘，他過所污，是故不應近如是等，何況近王。彼近王者，最為凡鄙。』

> 「また、比丘（びく）は何に近づかないべきか。それは、悪しき人に近づかないことである。その悪しき人とは、悪知識（あくちしき）のことである。あるいは時に、五つの感覚の対象（色・声・香・味・触）に心を奪われ、よく観察せず、怠け心や愚かさに満ち、村に住みつくような人々のことだ。このような人々はすべて遠ざけるべきである。 具体的には、どんな怠け者にも近づかない。すべての偽りやお世辞をいう人にも近づかない。すべての食いしんぼうにも近づかない。すべての商人にも近づかない。すべての猟師や屠殺者など、不正な生業で生きる者にも近づかない。生まれつき嫉み深い人にも近づかない。すべての邪見を持つ人にも近づかない。すべての軽率な人にも近づかない。すべての傲慢な人にも近づかない。すべての成り上がりの金持ちにも近づかない。すべての博打好きにも近づかない。すべての酒を売る人にも近づかない。すべての酒好きにも近づかない。すべての酒場にも近づかない。女性を見るのを好む人にも近づかない。すべての遊郭の主人にも近づかない。雑貨を仕入れて売る商人にも近づかない。すべての料理人にも近づかない。すべての牢番のような人々にも近づかない。すべての鳥を捕る人にも近づかない。すべての無駄話をする人にも近づかない。すべての異教徒にも近づかない。すべての人から嫌われる人にも近づかない。 比丘は、このような人々に近づいてはならない。一緒に住むことも、言葉を交わすことも、道を共に行くことも、一切すべきではない。なぜなら、多くの人に疑われるからである。もし出家者や、過ちを離れた清らかな人が、このような人々に近づいたり、共に住んだりすれば、『あの比丘も同じような者なのか』と疑われる。その比丘は、他人の過ちに汚されてしまう。だからこそ、このような人々に近づくべきではないのである。 ましてや王に近づくことなど、最も下劣な行為である。」

「爾時，世尊迦葉如來而說偈言：

> その時、世尊である迦葉如来は、次のような偈を説かれました。

「『比丘林應住，近王最凡鄙，著袈裟近他，如奴依主命。比丘非近他，尚不應近天；鵝不應近狗，以其淨潔故。無我無悕望，心不求一切，怖畏生死者，近王則非善。住園林塚間，若平地若山，則是善比丘；近王則非善。

> 比丘よ、近づくべきではない。 王のもとに近づくのは、最も卑しいことである。 袈裟をまとって王に近づくのは、 奴隷が主人の命令に従うようなものだ。 比丘は、他に近づくべきではない。 たとえ天にさえも、近づくべきではない。 鵞鳥の清らかさゆえに、 犬に近づかないのと同じである。 「我」がなく、何も願わず、 心であらゆるものを追い求めなければ、 生死を恐れる者にとって、 王に近づくことは善いことではない。 林や墓場に住み、 平地や山に住むならば、 それは善き比丘である。 王に近づくことは善くない。

「『如是種種無量方便捨離近王，若近王者，諸梵行人悉皆呵毀。所應近者，其唯智王，如是近者，畢竟寂靜。近智王故，必得涅槃，隨所得處皆悉不退。近彼智王，則有方便，謂於禪誦堅固精進，不作餘業妨廢禪誦，親近尊長修習知足，其心調順常無貪求，以近尊長隨時諮問，受持不忘，於希有物不求見聞，不生奇特。近智王者，有此方便。』

> 「このように、さまざまな無量の巧みな手段を用いて、王に近づくことを避けなさい。もし王に近づくなら、すべての清らかな修行者たちから非難されます。本当に近づくべきなのは、ただ智慧の王だけです。智慧の王に近づくなら、究極の静寂が得られます。智慧の王に近づくゆえに、必ず涅槃を得て、至る所で退転することがありません。智慧の王に近づく者には、巧みな手段があります。すなわち、瞑想と読誦に堅固に精進し、他の行為でそれを妨げないこと。また、尊い師に親しみ、足ることを知る心を修め、心は調和して素直になり、常に貪る心がないこと。尊い師に近づいて、時に応じて質問し、教えを受けて忘れないこと。また、珍しいものに対しては、見たり聞いたり求めたりせず、特別視しないことです。智慧の王に近づく者には、このような巧みな手段があるのです。」

「爾時，世尊迦葉如來而說偈言：

> その時、世尊である迦葉如来は、次のような偈を説かれました。

「『近尊長供養，隨時勤請問，修行施戒智，復親近智王。天人世間中，能示安隱者，非有中苦縛，世間之凡王。若無苦惱者，此乃名為王；若常受苦惱，不得名為王。

> 尊い方に近づき供養し、いつも熱心に教えを請いなさい。 施し、戒律、智慧を修行し、さらに智慧ある王に親しみなさい。 天人の世や人の世の中で、安らぎを示してくれる方は、 苦しみに縛られていない、世の普通の王ではありません。 もし苦しみがないのなら、それが真の王と呼ばれます。 しかし、常に苦しみに悩まされているなら、王とは呼べません。

「『比丘應近如是智王，勿近凡王，近世王故，妨廢禪誦。若不禪誦，復墮地獄、餓鬼、畜生。此是世間凡王境界，是故比丘知此過已，常不近王。住林之人若親近王，則非所宜，故應捨離。此第九法妨禪誦故。

> 比丘は、このような智慧の王に近づくべきであり、凡夫の王に近づいてはなりません。世の王に近づくと、坐禅や読誦の妨げとなります。もし坐禅や読誦をしなければ、再び地獄・餓鬼・畜生の道に堕ちることになります。これが世間の凡夫の王の領域なのです。だからこそ、比丘はこの過ちを理解して、常に王に近づかないようにすべきです。林に住む者は、もし王に親しく近づけば、それはふさわしいことではありません。ですから、それを捨て離れなければなりません。これが第九の法であり、坐禅や読誦を妨げる原因となるからです。

「『又復第十障礙惡法，妨廢比丘坐禪讀誦，是故沙門應當捨離。何者第十？所謂比丘悕望請喚，貪樂食味。既於境界正修行已，乃更後時在人間行，捨棄林野可愛之處，復於人中處處遊行。如是比丘近於放逸，家家村村從城至城，從多人處至多人處，如是遍行，樂多言說，妄行人中，樂世俗語，樂見親舊；親舊知識詳共請喚，得好美食。既得種種美味食已，妄於林中捨離禪誦，放逸而行，悕望飲食。以常貪著種種食故，不覺身盡，如是著味，悕望請喚，心以為樂。

> 第十の障礙となる悪法は、修行中の比丘（僧侶）の坐禅や読誦を妨げるものです。そのため、修行者はこれを捨て離れるべきです。 では、第十の障礙とは何か。それは、比丘が招きを望み、食べ物の味を貪り楽しむことです。 正しく修行の境涯に励んだ後、後にまた人の世に赴き、愛すべき林野を捨てて、人の間をあちこちと渡り歩きます。このような比丘は放逸に近づき、家々や村々を巡り、町から町へ、人の集まる所から人の集まる所へと遍く行き渡り、多く語ることを好み、無駄に人の中に立ち入り、世俗の話を好み、親しい旧友に会うことを好みます。親しい友人や知人たちはこぞって彼を招き、美味しい食べ物をもてなします。こうして様々な美味を得た後、彼は林の中で坐禅や読誦を捨てて、放逸に振る舞い、飲食を望み求めます。常に様々な味を貪り執着するがゆえに、自らの命が尽きることに気づきません。このように味に執着し、招きを望み、それを心の楽しみとするのです。

「『又若比丘於境界中不如法行，眼見好色，心愛樂故，則生染欲，悕望樂見，轉復愛著。於彼彼處，心生憙樂。如是比丘行於人中，失自利益。禪誦之業，如是失已，常悕食味，常到他舍。眼見色故，心生愛樂，如是次第，耳聞於聲，心生愛樂；鼻得香已，心生愛樂。如是樂著一切境界，為一切縛之所繫縛，為一切羂之所繫縛，於一切欲隨逐而行，既非在家，復非出家。如是之人，身壞命終墮於惡道，生地獄中。是故不應樂他請喚，樂他請喚有如是過。

> 『また、ある比丘が境界において法の通りに行動せず、目で美しい色を見て心に愛楽を生じるならば、染まりの欲を生じ、見ることを願い望み、さらに愛着するようになる。あらゆる場所において、心に喜び楽しみを生じる。このような比丘は人の中で歩みながら、自己の利益を失う。瞑想や読誦の業も、そのように失った後は、常に食物の味を願い、常に他家に行く。目で色を見るがゆえに、心に愛楽を生じ、このように次第に、耳で声を聞き、心に愛楽を生じ、鼻で香りを得て、心に愛楽を生じる。このようにしてすべての境界に楽着し、すべての束縛に縛られ、すべての網に縛られ、すべての欲に従って歩み行く。在俗でもなく、出家でもない。このような人は、命終わって身が壊れると、悪道に堕ち、地獄に生まれる。ゆえに、他人からの招待を楽しんではならない。他人からの招待を楽しむことには、このような過失があるからである。』

「『是故比丘應觀此過，不應常在人中遊行。若須行者，有五因緣得行人中：一為病人推求醫藥資用因緣，得行人中。二為饒益尊長因緣，得行人中。三為佛塔、自舍破壞修治因緣，得行人中。四為饒益眾生因緣，得行人中。五為他王破其國土，欲化彼王救命因緣，得行人中。為如是因，得行人中，若無如是五種因緣行人中者，是虛妄行，妨廢禪誦。如是行者，於老病死、悲啼號哭、愁苦懊惱不能得脫，彼惡沙門、立沙門者，徒爾出家。

> 「だから比丘たちよ、この過ちをよく観察し、やたらに人里に出歩いてはならない。もし出歩く必要があるなら、五つの理由がある場合のみ許される。第一に、病人のために薬や生活用品を求めるため。第二に、尊敬すべき師や目上の人を助けるため。第三に、仏塔や自分の住まいが壊れた時、それを修理するため。第四に、人々を助け利益を与えるため。第五に、他国の王がその国を侵略した時、その王の命を救うために教化するため。このような理由がある時のみ人里に出てよい。これら五つの理由なく人里に出歩くのは、無駄な行動であり、坐禅や読誦の妨げとなる。そのように行動する者は、老いや病、死、嘆き悲しみ、苦しみ悩みから逃れることができない。そのような悪しき沙門、沙門と名ばかりの者は、出家した甲斐がないのだ。」

「『是故比丘若心悕望欲斷愛者，心應正觀，寂靜諸根，依憑尊長，附近三寶，攝心而行。攝三寶故，拔斷一切煩惱使根。』

> 「だからこそ、比丘たちよ、もし愛着を断ち切ろうと願うならば、心を正しく観察し、静かに諸感覚を整え、尊い師に頼り、三宝に近づき、心を一つにして行動しなさい。三宝に心を寄せることによって、すべての悩みや煩悩の根を断ち切ることができるのだ。」

「爾時，世尊迦葉如來而說偈言：

> その時、世尊である迦葉如来は、次のような偈を説かれました。

「『捨離禪誦業，唯貪著食味，是則非比丘，其心如餓鬼。除禪更無樂，智者如是說；離於禪定樂，更無樂可得。愚人捨上樂，唯貪著諸味，如是癡惡人，則得衰惱事。若人樂境界，常依境界樂，增長不善法，命終墮惡道。若人離禪誦，捨持戒布施，剛獷不調伏，有命亦如死。若順法行已，在世間不死；離法常愚癡，有命亦如死。雖有人皮覆，愚癡同畜生，以智燈光明，不照其心故。若受持戒者，可得名為人；一切破戒者，則如狗不異。若貪不布施，惡行不調伏，則不名為人，攝在餓鬼數。若人無戒智，復無布施寶，彼人雖有命，則與死不異。若行戒施禪，受持念三昧，是人亦名人，應為天所禮。有功德是人，無功德如羊，功德知功德，彼人則名天。

> 禅の修行を捨て、ただ食べ物に執着する者は、真の修行者とは言えず、その心は餓鬼のようである。 禅定を離れては、真の楽しみはない。賢者はそう説く。禅定の楽しみを離れて、得られる楽しみなど何もない。 愚か者は、この最高の楽しみを捨てて、ただ様々な味覚に執着する。そのような愚かな悪人は、衰えや悩みの種を招くのだ。 もし人が外界の対象を楽しみ、それに依存して生きるなら、悪い行いを増やし、命終われば悪い世界に落ちる。 また、人が禅や読誦を離れ、戒律や布施さえも捨て、心が荒れ果てて自分を制御できないなら、生きていても死んでいるのと同じである。 善き教えに従って生きるなら、この世にあっても死なない。しかし、教えを離れて常に愚かでいる者は、生きていても死んでいるのと同じだ。 たとえ人間の皮をかぶっていても、愚かさは畜生と同じである。智慧という灯りの光が、その心を照らさないからだ。 戒律を守り保つ者こそ、人間と呼ぶことができる。戒律を破る者はすべて、犬と何ら変わらない。 もし貪欲で施しをせず、悪行をなして自分を制御できないなら、その者は人間とは呼べず、餓鬼の仲間に入れられる。 もし戒律も智慧もなく、施しという宝も持たないなら、その者は命があっても死んでいるのと変わらない。 もし戒律・施し・禅を行い、教えを保ち、心を集中する修行を続けるなら、その者は真の人間であり、天の尊敬を受けるべきである。 功徳のある者は尊ばれ、功徳のない者は羊のようなものだ。功徳を知る者こそ、天と呼ばれるのである。

「『如是功德，功德者知。功德人者，一切處樂；若無功德，彼常受苦。是故比丘既聞如是勝功德已，不應貪味。此第十法妨廢禪誦，沙門之人畏生死者，應當怖畏。

> 「このような功徳については、次のように知るべきです。功徳ある人は、あらゆる場所で安楽を得ます。もし功徳がなければ、その人は常に苦しみを受けます。それゆえ、比丘たちよ、このような優れた功徳を聞いたならば、味わいに執着してはなりません。この第十番目の法は、禅定や読誦を妨げるものです。生死を恐れる沙門の人は、これを畏れ敬うべきです。

「『又第十一障礙惡法，妨廢比丘坐禪讀誦，是故沙門應當捨離。第十一者，謂癡比丘我慢心故，不請問他，內智不開，外向他說言一切智：「有一切智，故我能說，我能解義，我能讀誦。一切法聚，是我所持。百千法義，我教弟子。更無有人與我等者。」自心攝受，復為他人作如是說。

> 「また、第十一の障りとなる悪い行いがあり、これは比丘が坐禅や読誦をする妨げとなります。そのため、修行者はこれを捨て離れるべきです。第十一とは、愚かな比丘が慢心のゆえに他人に質問せず、内なる智慧が開かれないにもかかわらず、外に向かって『私には一切智（あらゆる智慧）がある』と言い、『一切智があるゆえに、私は説法でき、経典の意味を解き、読誦できる。あらゆる教えの集まりを私は保持している。百千もの法の意味を、私は弟子たちに教えている。私と肩を並べる者は誰もいない』と語ることです。自らの心でそのように思い込み、さらに他人にも同様に語るのです。

「『彼唯智慢而實無智，彼人常為一切眾生說自功德，是故世間一切聞者皆生貴重，一切世人皆作是言：「此善比丘具一切智，如是比丘更無與等。」一切世人皆如是說，而彼比丘最無所解，內實空虛無所知曉，心中無物猶如空器，亦如秋雲，離於禪誦，諸少智人之所供養。

> 「その人はただ知恵があるように見せかけているだけで、実は何もわかっていません。その人はいつも、あらゆる人々に対して自分の手柄話ばかりしています。そのため、世間でそれを聞く人はみな、その人を立派だと思い込んでしまいます。『この立派な僧侶は、すべてを知っている。この僧侶に並ぶ者はいない』と、皆が言うのです。しかし実際には、その僧侶は何も理解しておらず、内面は虚ろで、何の見識もありません。心の中には何もなく、まるで空っぽの器のようなものです。また、秋の雲のように、瞑想も読経もせず、ただ頭の足らない人たちから尊敬されているにすぎないのです。」

「『唯修禪誦、持戒、布施，勤修精進，攀緣善法，智慧毘尼，調伏莊嚴，安住佛法，勤不休息，大悲熏心，此是沙門所應行法。

> 「ただ坐禅し、読経し、戒律を守り、施しを行い、熱心に修行を積み、善い教えに縁を取り、智慧と戒律により心を整え、装い、仏の教えに安住し、休むことなく努め、大いなる慈悲の心で満たされること──これこそが、沙門の行うべき道なのです。」

「『彼惡比丘內空無智，如是意念：「若我今者見彼比丘，則示我法。如是比丘輕賤於我，彼檀越家常供養我，若就彼學，則彼檀越不供養我，輕賤於我。是故我今隨自所知所解多少，為他宣說，隨彼聞者解與不解，我終不能就彼而學。」如是內空，畏他輕賤，以慢心故，既自不解，不請問他，畏人輕賤。

> 「あの悪い比丘は内に空しい智慧もなく、このように考える。『もし私が今あの比丘を見たら、あの者は私に法を示すだろう。そうすれば、この比丘は私を軽んじて見下す。また、あの在家の家はいつも私を供養してくれるのに、もしあの者に学べば、その在家の家は私を供養せず、軽んじて見下すだろう。だから私は今、自分が知っていることや理解していることを、ただ自分の知識や理解の範囲内で他人に説く。たとえ聞く者が理解しようとしまいと、私は決してあの者について学びはしない。』このように心が空っぽで、他人に軽んじられるのを恐れ、慢心があるため、自分が理解していないのに他人に尋ねようとせず、軽んじられるのを恐れるのである。」

「『如是慢心、妄語之人，失五學句。何等為五？所謂妄語。彼未知故，是以為他妄語而說，此是彼人破初學句。

> このように、慢心を持ち虚偽の言葉を語る人は、五つの学ぶべき教え（学句）を失います。その五つとは何か？第一に、虚偽の語り（妄語）です。彼は真理を知らないために、他人に対して偽りの言葉を語るのです。これがその人の、初めの学句を破る行為となります。

「『又復次破第二學句，所謂偷盜。彼不應受他人供養，彼檀越主為智慧故，與物供養，而彼愚人少於智慧而取其物。如是癡人則是偷盜，如是名破第二學句。

> また、第二の学処（戒め）を破ることについて説明します。それは盗み（偷盗）のことです。修行者は、他人からの供養をむやみに受けてはなりません。布施をする施主が智慧のために供養の品を差し出すのに、その愚かな人は智慧が足りずに、その品物を取ってしまうのです。このような愚か者は、まさに盗みを働いていることになります。これが第二の学処を破ることと名づけられます。

「『又復次破第三學句，所謂比丘初出家時，所受學句，依持戒住，緣於持戒，起如是心：「我今出家。」而彼比丘若不學問何有持戒，為他說言：「我則多知。」如是名破第三學句。

> さらに、第三の学びの句を破ることについて説きましょう。比丘が最初に出家した時に受ける学びの句、すなわち戒律をよりどころとし、戒律に基づいて「私は今、出家したのだ」と心に誓うことです。しかし、その比丘が学問をしなければ、どうして真の持戒があり得るでしょうか。それにもかかわらず、他人に対して「私は多くのことを知っている」と誇るならば、これが第三の学びの句を破ることとなるのです。

「『又復次破第四學句，所謂難問。畏他輕賤，是故謗法，而說非法言此是法，此是第一毀破學句。如是名破第四學句。

> さらに第四の学ぶべき句を破ることについて。 問い詰めること、他者から軽んじられることを恐れて、教えを誹謗し、教えでないものを「これが教えだ」と語ること。これが第一の学ぶべき句を破るものである。 これを第四の学ぶべき句を破る、という。

「『又復次破第五學句，所謂彼人不知法故，於同梵行所說正法，言非正法，作如是言：「汝等一切不知深法，汝所說者非佛所說。」彼人如是謗他眾僧作如是言：「唯我能知，汝等眾僧一切不知。」如是謗僧，畏他輕故，語眾僧言：「汝說非法。」而僧說者其實是法。

> さらに、第五の学びの句について説明します。ある人が法を知らないがゆえに、同じ修行仲間が説く正しい教えを「それは正しい教えではない」と言い、次のように述べます。「あなたがたは皆、深い教えを一切理解していない。あなたがたの説くことは仏の教えではない」と。その人はこのように他の僧団を誹謗し、「私だけが知っている。あなたがた僧団は一切何も知らない」と言います。このように僧団を誹謗するのは、他人から軽く見られるのを恐れるからです。そして僧団に向かって「あなたがたは間違った教えを説いている」と言いますが、実際に僧団が説いていることは正しい教えなのです。

「『彼惡比丘如是則失正法功德，最大妄語，身壞命終墮於惡道，生地獄中。不請問他，惡業因故。不請問他復有大過，謂我慢心。我慢心故，不入林中，畏他輕賤，於示道者而不請問：「何者為道？云何心緣？何所攀緣？云何忘失，復攝在心？」如是於他不請不問，慢心過故，彼不能得如是道故，心生疲惓，結加趺坐，即爾復起，作如是念：「此法虛妄，彼諸比丘唐為此業。此非是道，實無有禪、無三摩提，亦無禪果、無三昧果。」以我慢心，畏他輕賤，如是誹謗。彼邪見者，身壞命終墮於惡道，生地獄中。』

> 「あの悪しき比丘は、このようにして正法の功徳を失い、最大の妄語を犯す。その身が壊れ命終われば、悪道に堕ち、地獄に生まれる。他者に問い質すことなく、悪業の因があるからだ。さらに、他者に問い質さないことには大きな過失がある。すなわち、我慢の心である。我慢の心があるゆえに、林の中に入ろうとせず、他人に軽んじられることを恐れ、道を示す者に『何が道か。心は何に縁るのか。何に攀じ縁るのか。どのように忘失して、再び心に攝するのか』と問わないのである。 このように他者に請い問わず、慢心の過失があるゆえに、彼はその道を得ることができない。そのため心に疲れ倦き、結跏趺坐したかと思えば、すぐにまた起き上がり、『この法は虚妄である。あの比丘たちは、ただむなしくこの業を行っている。これは道ではない。実に禅もなく、三摩提もなく、禅の果報も三昧の果報もない』と考える。慢心ゆえに他人に軽んじられるのを恐れて、このように誹謗するのである。その邪見の者は、身が壊れ命終われば、悪道に堕ち、地獄に生まれる。」

「爾時，世尊迦葉如來而說偈言：

> その時、世尊である迦葉如来は、次のような偈を説かれました。

「『知時離我慢，請問於尊長，比丘勤精進，速得於涅槃。諸從他所聞，皆為他人說，自知離我慢，彼比丘諦知。離慢離大慢，知道知非道，如是知自他，是知足比丘。我慢心甚堅，心㦜而愚鈍，悕財利供養，則不得寂靜。

> 「時を知り、我慢を離れて、尊き師に問い求めよ。 比丘は精進に励み、速やかに涅槃に達する。 他から聞いたことは、すべて他人にも説け。 自ら我慢を離れることを知る、その比丘は真実を悟る。 我慢を離れ、大きな慢心を離れ、道を知り、道ならざるを知る。 このように自他を知る、それが足ることを知る比丘である。 我慢の心は非常に堅く、心はおののき愚鈍である。 財や利養を求めるならば、寂静を得ることはできない。」

「『彼以如是不請問他，慢故心堅，不能禪誦。如是比丘常食他食，以存性命。彼人唯有比丘形服，名字比丘，身壞命終墮於惡道，生地獄中。或以心慢，不請問他。是故學者乃至有命未盡以來，常請問他。如是比丘心常安樂，身壞命終生於善道，天世界中。生彼處已，次第乃至到於涅槃，以離慢故。

> 『その人は、このように他人に問わないのは、慢心のゆえに心が固くなり、禅定や読誦ができないからである。このような比丘は、常に他人の布施の食を受けて、ただ命をつないでいる。その人は単に比丘の形や服装を持ち、名前だけの比丘であり、命を終えて身が壊れると悪道に落ち、地獄に生まれる。あるいは心の慢心によって、他人に問わないのである。ゆえに学ぶ者は、命のある限り、常に他人に問うべきである。このような比丘は心が常に安楽であり、命を終えて身が壊れると善道、天の世界に生まれる。彼の処に生まれたなら、次第に涅槃に至る。慢心を離れたからである。』

「『又第十二障礙惡法，妨廢比丘坐禪讀誦。第十二者，樂多知識。多知識名，作不饒益，如是比丘唯增長愛。若有比丘多知識者，則多妨亂，多所作故，妨亂心意；心意亂故，不得禪誦。出家之人怨親平等，猶尚不應近一知識，何況復有多知識耶？若懈怠者，唯名比丘。到他舍故，即眼見時，心則動亂。眼見色故，眼識異本，心不攀緣寂靜之法，不念觀察，心不正直，多有言說。見知識已，次第聞聲，心則亂緣，有異觀察，心不寂靜；不寂靜故，不寂靜觀，有所攀緣。若見知識一念亦妨，況見知識乃至久時。是故沙門乃至不用有一知識，況多知識。若有比丘近知識者，饒人處行，從饒人處至饒人處，如是遊行，念念命盡而不覺知，則失善分。若失善分，最是自誑，乃至不能於一念間修禪讀誦。是故，比丘如是學者增長染愛，不應親近俗人知識。

> 第十二の障碍、悪法は、坐禅や読誦する比丘を妨げます。その第十二とは、多くの知識を好むことです。「多くの知識」とは、利益にならない行いをすることです。そのような比丘は、ただ愛着を増すだけです。もし多くの知識を持つ比丘がいれば、多くの妨害や混乱が生じます。多くのことをするゆえに心が乱れ、心が乱れるゆえに坐禅や読誦ができなくなります。 出家した人は、怨みも親しみも平等に見るべきであり、一人の知識に近づくことさえ避けるべきです。ましてや多くの知識を持つことがあってよいでしょうか。もし怠惰な者がいれば、名ばかりの比丘となります。彼が他人の家に行くと、目で見た瞬間に心が動揺します。色を見ることで、眼の認識は本来とは異なり、心は静寂の法に執着せず、観察を忘れ、心は正直でなくなり、多くおしゃべりをします。 知識に会った後、次々に声を聞くと、心は乱れて執着し、異なる観察が生じ、心は静かではありません。静かでないゆえに静かな観察ができず、何かに執着します。たとえ一瞬でも知識に会うことは妨げとなります。ましてや長い間会うことはなおさらです。それゆえ修行者は、一人の知識すら持つべきではないのに、まして多くの知識を持つことはありません。 もし比丘で知識に近づく者がいれば、人の多い場所に行き、そこからまた人の多い場所へと遊び歩きます。このようにして、一瞬一瞬に命が尽きていくのに気づかず、善い部分を失ってしまいます。善い部分を失うことは、最も自分を欺くことであり、一瞬の間も坐禅や読誦を修することができなくなります。 それゆえ、比丘はこのように学んで染まれる愛着を増し、俗人の知識に近づくべきではありません。

「『又若能令未來安隱示涅槃道——導師知識、坐禪同行，則應親近。何者同行？所謂除滅一切煩惱，至涅槃城，此是第一勝善知識。餘知識者，則是怨家，非真知識。以非真故，則非知識，若見共語、共行、共業，同有所作，妨廢善業。若未來世得其力者，乃名知識。若示梵行、若令修行，或教怖畏，未來之世示令怖畏——生於地獄、餓鬼、畜生，名善知識。令身口意造作惡業，到惡道者，一切勿近。』

> 「また、もし将来の安らぎを得させ、涅槃への道を示す者——すなわち導師、善知識、坐禅の修行仲間——であれば、そうした人に親しく近づくべきである。では、どのような人が修行の同行者かというと、あらゆる煩悩を滅ぼし、涅槃の境地へと導いてくれる人である。これこそが最も優れた善知識である。それ以外の知識は、むしろ怨みの相手であり、真の知識ではない。真実の知識ではないから、本来の知識とは言えない。もしそのような人と顔を合わせて言葉を交わし、共に行動し、同じ仕事をし、同じことを行えば、善い修行の妨げとなる。もし未来においてその人の力が得られるならば、その人をこそ知識と呼ぶ。また、清らかな行い（梵行）を示し、修行させ、あるいは未来において地獄・餓鬼・畜生に生まれるという怖れを示して教え導く者こそ、善知識である。身・口・意によって悪業を造らせ、悪道へと導くような者には、一切近づいてはならない。」

「爾時，世尊迦葉如來而說偈言：

> その時、世尊である迦葉如来は、次のような偈を説かれました。

「『若示未來世，彼是善知識，若能遮惡處，復能救災禍。常說利益法，利益未來世，彼是善知識，作知識利益。

> 「もし未来世を示す者があれば、それが善知識である。 悪しき場所を防ぐことができ、さらに災いや禍を救うことができる。 常に利益となる教えを説き、未来世に利益をもたらす。 それが善知識であり、知識としての利益をなすのである。」

「『此勝知識有無量種無量分別，種種說法。非多飲食、禮拜入舍，非示愛聲觸味香色，得名知識，如是知識非善知識。善比丘者，應當捨離，尚不應近此一知識，況復近多如是知識，生無量過。若有知識於未來世作不利益，雖名知識，實是怨家。若有比丘近彼知識，則妨自業坐禪讀誦。

> 「この善き師には、数えきれないほどの種類があり、それぞれに異なる教えを説く。ただたくさん食事を供えたり、礼拝のために家に入ったり、好みの声・感触・香り・味・形を見せかけるだけで、師と呼ぶことはできない。そのような師は善き師ではない。善き修行者は、むしろそのような師から離れるべきであり、一人の師であっても近づくべきではない。ましてや、多くのそのような師に近づけば、数えきれない過ちを生むことになる。もし未来において利益をもたらさない師がいたなら、師と呼ばれてはいても、実は敵である。もし修行者がそのような師に近づけば、自分の修行である坐禅や読誦を妨げられることになる。」

「『又第十三障礙惡法，妨廢比丘坐禪讀誦，是故沙門應當捨離。第十三者，所謂比丘與惡同處。一切比丘與惡同處，妨廢禪誦。與惡同處，凡有五種，何等為五？所謂比丘善持淨戒第一善法，有正直心，而與第一破戒惡人同處止住，不得自在。此是第一與惡同處。

> さらに第十三の妨げとなる悪い行いは、修行僧（比丘）の坐禅や読経を妨げるものです。そのため、修行者はこれを捨て去るべきです。第十三とは、修行者が悪い仲間と共にいることです。すべての修行者が悪い仲間と共にいると、坐禅や読経が妨げられます。悪い仲間と共にいることには、全部で五つの種類があります。その五つとは何でしょうか。すなわち、修行者が清らかな戒律をよく保ち、第一の善い行いを持ち、正直な心があるにもかかわらず、第一の戒律を破る悪人と共に住み、自由を得られないこと。これが第一の悪い仲間と共にいることです。

「『又復第二與惡同處，所謂比丘不自在過或自在過，與邪見人而共相隨，若村若城、若多人處同行同住。此是第二與惡同處。

> さらに第二に、「悪しき者と共にいる」ということについて。すなわち、修行者（比丘）が自らの過ちを制御できない、あるいは制御できるにもかかわらず、邪な見解を持つ者と共に行動し、村でも町でも、大勢の人の集まる場所でも、同行し同居すること。これが第二の「悪しき者と共にいる」ことである。

「『又復第三與惡同處，所謂比丘常自樂數親舊知識，欲往欲近，與共相隨，至在俗時先住之家。此是第三與惡同處。

> さらに第三に、悪しき者と共にいることについて述べます。それは比丘が常に自ら親しい旧知の仲間を好み、彼らのもとへ行き、近づき、共に過ごそうとし、在家の頃に住んでいた家を訪れることです。これが第三の悪しき者と共にいることです。

「『又復第四與惡同處，所謂比丘畏他輕賤，求知見故到惡處住論師之所，共相習近。此是第四與惡同處。

> また、第四の「悪しき者と共にいること」とは、比丘が他人からの軽蔑を恐れ、知識や見識を得たいがために、悪しき場所にいる論師のもとへ行き、親しく交わることである。これが第四の「悪しき者と共にいること」である。

「『又復第五與惡同處，所謂比丘心意動亂不能正行，於先飲食或臥具等，或先食來、或先飲來、或先臥來、近婦人來，或於先時所受用色聲香味觸，如是種種，憶念思惟，念境界處，境界處念之所破壞。餘一切處皆悉可避，此境界處則不可避，以是第一最惡處故。以於一切禪誦等業，最為妨故。自餘惡處皆悉可避，唯此一處最不可避境界之樂。從自心起分別惡處，最為難避，唯除坐禪三摩提樂正觀察念，如是能避。』

> 「また第五に、悪しき仲間と共にいることについて。すなわち、比丘が心を動揺させて正しく修行できない状態を指します。まず、飲食や寝具など、あるいは以前に食べたもの、飲んだもの、横になったもの、婦人に近づいたことなど、先に受けた色・声・香・味・触を、このようにさまざまに思い起こし、それらの境地を念じることで、その境地の思いに心を乱されます。その他の場所はすべて避けることができますが、この境地の場所だけは避けることができません。なぜなら、それが最も悪しきものであるからです。あらゆる修行や読誦などの行いの中で、最も妨げとなるからです。他の悪しき場所はすべて避けられますが、ただこの一つの境地の楽だけは避けられません。それは自己の心から起こる分別という悪しき場所であり、最も避けがたいものです。ただし、坐禅による三昧の楽と正しい観察の念によってのみ、このように避けることができるのです。」

「爾時，世尊迦葉如來而說偈言：

> その時、世尊である迦葉如来は、次のような偈を説かれました。

「『不善觀察風，所吹熾然火，彼正觀察雨，能令滅無餘。眾生先所起，久時無明暗，如起智慧燈，能令滅無餘。欲癡火能燒，地獄愚癡人；智者則不爾，是故得涅槃。如是十三法，智光明能除，是故畏過者，常應勤持戒。拔出自身中，三種過根本，以智慧大火，燒多煩惱薪。

> 「よく観察しない風に吹かれて燃え盛る火でも、 正しく観察する雨が注げば、跡形もなく消し去ることができる。 人々がかつて抱えていた長い間の無知の闇も、 智慧の灯をともせば、完全に消し去ることができる。 欲望と無知の火は、地獄に落ちた愚かな者を焼き尽くす。 しかし賢者はそうではない。ゆえに涅槃に至ることができるのだ。 このような十三の法（煩悩）を、智慧の光は取り除くことができる。 だから過ちを恐れる者は、常に戒律を守ることに励むべきである。 自らの内から、三つの過ちの根本（貪・瞋・癡）を引き出し、 智慧という大きな火で、多くの煩悩という薪を焼き尽くすのだ。」

「『如向所說，與惡同處，應設方便，一切遠離。出家沙門寧當獨行，勿多憶念，亦莫懈怠。本村本城、本多人處過去樂事，勿憶勿樂，勿念本時節會之日饒人之處，本曾遊行，亦勿憶念悕望欲見，亦勿攝受。諸惡弟子、諸惡知識亦勿親近，勿樂愛聲觸味香色，勿生染心，勿不正行，心莫驚動，亦勿悕望飲食敷具、病藥所須。勿著種種雜色袈裟，亦勿方便推搗令平；若洗浴時，不以脚足揩踏身體；勿作種種間雜言語。如是燒滅無始闇聚。

> 『すでに説かれたように、不善の人と共にいるならば、巧みな方法を用いて、すべてから離れなさい。出家した修行者は、たとえ独りで歩むとも、多くのことを思い悩まず、怠けてはならない。かつての村や町、多くの人が集う場所での楽しかったことを追憶し、喜び、執着してはならない。かつて遊行した折の、人の集まる楽しい時節を思い出し、再び見たいと願ってはならない。また、受け入れてはならない。悪しき弟子や悪しき知識にも親しんではならず、声・触・味・香・色に耽ってはならず、心を汚してはならず、正しくない行いをしてはならず、心を動揺させてはならない。また、飲食や寝具、薬などの必需品を過度に望んではならない。種々の雑色の袈裟に執着せず、袈裟をわざと平たく整えようとしてもならない。洗浴の際には、足で身体をこすってはならない。様々な雑多な言葉を発してはならない。このようにして、無始の闇の集まりを焼き滅ぼしなさい。』

「『極惡生死，五道是門，六塵境界分別焰起地獄、餓鬼、畜生之中，常燒常炙。一切世間愚癡凡夫處處流轉，燒炙失壞，入苦海中，生死轉行猶不厭離。捨行持戒，若人生天，第一放逸，後退彼天，與先同侶勝者離別，生在地獄、餓鬼、畜生，受第一苦。悔火所燒，無有救者。放逸所壞，悔火所燒，生在地獄、餓鬼、畜生。

> 『極めて悪しき生死の世界、五つの道は迷いの門である。六つの感覚の対象という境界が、地獄、餓鬼、畜生の世界で炎のように燃え上がり、絶えず焼き焦がし、苦しめる。すべての世の中の愚かな凡夫たちは、あちこちを流転し、焼かれ、苦しめられ、壊れ、苦しみの海に落ち込んでいる。それでも生死の流転を続けながら、嫌悪し、離れようとはしない。行いを捨て、戒めを守り、もし人が天に生まれても、まず第一に放逸にふける。その後、その天から退き、かつての仲間であり、優れた者たちと別れ、地獄、餓鬼、畜生に生まれ、最も厳しい苦しみを受ける。後悔の火に焼かれても、救う者はいない。放逸によって壊され、後悔の火に焼かれ、地獄、餓鬼、畜生に生まれるのである。』

「『以是等故，諸有怖畏未來退者，一切皆應修行正法，常不斷絕。如是法律，一切如來、應、正遍知，為放逸天斷除放逸。若人生天，一切皆是持戒力故。若有善修、善調伏心，如是之人不得言死，身壞命終生於善道，天世界中。

> このような理由から、未来に退転することを恐れる者たちは、みな正しい法を修行し、決して絶やすことなく続けるべきである。 この教えは、すべての如来、応供、正遍知が、放逸な天人のために放逸を断ち切らせるために説かれたものである。 人が天に生まれるのは、すべて戒を守った力によるものである。 もし人がよく修行し、よく心を調伏するならば、そのような人は「死んだ」と言ってはならない。その身が壊れ命が終われば、善き生まれ、すなわち天の世界に生まれるのである。

「『汝等天眾，一切未知生此天因，戒之輕重。我為饒益，示汝彼業，是故說此十三法門。人天世間，迭互為因。人世界中則能持戒，天世界中則不能持。人死生天，若不放逸，退生人中。以是因緣，故說此經。』

> 「天の皆さん、あなたがたは、この天に生まれる原因や戒めの重さを全く知りません。私はあなたがたの利益のために、その業（行い）を示そうと、この十三の教えを説きます。人間と天の世界は、互いに因果で結ばれています。人間の世界では戒めを守ることができますが、天の世界ではそれができません。人が死んで天に生まれても、もし油断しなければ、再び人間として生まれ変わることができます。このような因縁によって、この経典を説くのです。」

「彼佛世尊迦葉如來利益天人，饒益安樂乃至涅槃，如是利益一切世間。

> かの仏世尊迦葉如来は、天や人々を利益し、安楽をもたらし、ついには涅槃に至るまで、このように一切の世間を利益されました。

「爾時，彼處牟修樓陀夜摩天王并天眾等，深生厭離，雖處於欲，而於欲中不行放逸，皆悉成就不放逸行。頂禮世尊迦葉佛塔，其心清淨。彼一切天，如本來時還如是去。

> そのとき、牟修樓陀夜摩天王と天の衆たちは深く厭離の心を生じました。欲望の世界にありながらも、その欲に耽ることなく、皆が放逸ではない行いを成就しました。そして、世尊である迦葉仏の塔に頂礼し、その心は清らかとなりました。彼ら全ての天は、来たときのように、そのまま還って行きました。

「迦葉世尊第六經竟。

> 迦葉世尊の第六経、ここに終わる。

「此法名為六修多羅，山樹具足地處流行。

> この教えを「六つの経典」と呼び、山々や木々がそろった地を巡って伝えられている。

「爾時，天眾一切皆出迦葉佛塔，問於天主牟修樓陀而作是言：『天王云何知此佛塔？』

> その時、すべての天の者たちが迦葉仏の塔のそばに現れて、天主（てんしゅ）牟修樓陀（むしゅるだ）に問いました。 「天王よ、あなたはどうしてこの仏塔をご存じなのでしょうか。」

「爾時天眾如是問已，牟修樓陀天主告言：『汝等天眾，一切皆聽。我有因緣，先見此塔。我於先時始生此天，放逸而行，憙樂境界，五羂所縛，周遍行此夜摩地處，五欲功德遊戲受樂，處處而行。從一園林至一園林，從山至山，從巖至巖，從崖至崖，從一花池至一花池，從一峯處至一峯處，多有無量百千天子為天女眾之所圍繞。彼天女眾無量百千服飾莊嚴，在天子前歌舞憙笑遊戲圍繞。我於爾時如是遍觀此天世間，樂著境界五欲功德，心生歡喜，愛心所牽。我三處行皆不妨礙，所謂水中在鵝背上，從一鵝背至一鵝背。次復在於鴛鴦背上，從一鴛鴦至一鴛鴦。次復乘鴨在鴨背上，從一鴨背至一鴨背。次復在於蓮花之中，從一蓮花至一蓮花；在水波中，從波至波。處處遊戲，隨意而行，無有障礙，一切嬉戲歌舞歡笑，心極受樂，如是遊行。

> その時、天の神々がこのように問いかけたので、主である牟修楼陀天は言いました。 「天の神々よ、皆、よく聞きなさい。私には因縁があって、かつてこの塔を見たのです。私が初めてこの天に生まれた時、私は放逸に行動し、快楽の境界を喜び、五つの羂に縛られていました。そして、この夜摩天の地をくまなく巡り、五欲の功徳で遊び、楽しみながら、あちこちを歩き回りました。ある園林から別の園林へ、山から山へ、岩から岩へ、崖から崖へ、ある花の池から別の花の池へ、ある峰から別の峰へと。そこには、無数にいる多くの百千の天子たちが、天女の群れに囲まれていました。その天女たちは、無数にいる百千の者たちが、美しい服装で飾り立て、天子たちの前で歌い、踊り、笑い、楽しみながら、彼らの周りを巡っていました。私はその時、このようにこの天界をくまなく見渡し、境界の境地や五欲の功徳に執着し、心に歓喜を生じ、愛の心に引かれていました。私の三つの場所での行き来は、全て妨げられることがありませんでした。すなわち、水中では鵝の背に乗り、ある鵝の背から別の鵝の背へ。次に、鴛鴦の背に乗り、ある鴛鴦から別の鴛鴦へ。さらに、鴨に乗り、鴨の背に乗って、ある鴨の背から別の鴨の背へ。次に、蓮の花の中にいて、ある蓮の花から別の蓮の花へ。水面の波の中では、波から波へと。あちこちで遊戯し、心のままに行き来し、何の障害もなく、全ての遊びや戯れ、歌舞、笑い声の中で、心はこの上なく楽しみ、そのように遊び回っていたのです。

「『我既如是種種戲已，復念餘戲，謂處陸地乘於殿堂，百千天女圍遶相隨，從山至山，從一山峯至一山峯，從一山谷至一山谷，從一園林至一園林，從一山窟至一山窟。我於爾時，在如是處行不障礙。

> 私はそのように様々な戯れを終えた後、さらに別の戯れを思いました。それは、陸地において殿堂に乗り、百千の天女たちに囲まれ従われながら、山から山へ、一つの山頂から別の山頂へ、一つの谷から別の谷へ、一つの林から別の林へ、一つの洞窟から別の洞窟へと巡るというものでした。その時、私はそのような場所を何の妨げもなく行き巡りました。

「『如是次第在虛空中，復乘堂殿，百千天眾而為圍遶，作諸天樂出妙音聲，歌舞喜笑遊戲而行，遍此一切天之世間。見不可說種種異處，多有七寶光明照曜勝妙之處，如是山峯處處遍見。有百千樹七寶莊嚴，如是次第，復見有河，百千蓮華集在其岸，處處皆有微妙蓮華。我共天眾皆如是見，在虛空中如是下觀，一切諸欲功德具足。

> 『そのようにして、虚空の上で、さらに堂殿に乗り、百千の天の衆が周りを取り囲み、天の楽器を奏でて妙なる音声を響かせ、歌い、舞い、喜び笑い、遊戯しながら進み、この天の世界全体に行き渡った。見ることのできないほど多くの様々な場所、多くの七宝の光が輝き照らす、素晴らしい場所があるのを見る。そのような山々の頂が至る所に見える。百千の樹々が七宝で飾られ、そのようにして、さらに川が見え、百千の蓮華がその岸辺に集まり、至る所に微妙な蓮華がある。私は天の衆と共に、皆このように見た。虚空の上からこのように下界を見渡すと、一切の欲望の功徳が満ち足りている。』

「『此天世間百千種殿處處皆饒，我常於中行無障礙，謂在三處——水、陸、虛空，如是遊戲種種受樂。

> 「この天界には、数えきれないほど多くの素晴らしい御殿がそこここにあり、私はそれらの中を常に自由に行き来し、何の障りもありません。それは三つの場所——水の中、陸の上、虚空において——であり、このように様々に遊び楽しんでいます。」

「『我復有時，遂見六山有六光明穿空而出，焰色分明，不知何物。我時見已，生希有心，專念思惟：「此所見者，昔未曾有，為是何物？」如是念已，即并行殿，一切天眾速疾前去，詣六光明。我既到彼六光明所，并殿俱墮，我先所有光明威德一切損減。我於爾時心自思惟：「此是何物？是何勢力令我自身并此天眾一切皆墮，威德光明一切損減？」

> 「また、私はあるとき、六つの山から六筋の光が空を貫いて、はっきりとした色鮮やかな光を放っているのを見ました。それが何なのか、私はわかりませんでした。その時、私は珍しいことだと思い、心を集中して考えました。『今見ているこの光は、かつて見たことのないものだ。一体これは何なのだろうか？』と。 そう思っていると、私の乗る殿堂もろとも、すべての天人は急いで前に進み、六つの光のもとへ向かいました。私がその六つの光のもとに着くと、殿堂もろとも落下し、私が元々持っていた光の威力や威光はすべて減ってしまいました。 その時、私は心の中で考えました。『これは何なのだろうか？ どのような力が働いて、私自身とこの天人のすべてを落下させ、威力や光をすべて減退させてしまったのだろうか？』」

「『我於爾時既思惟已，於天眾中有一舊天，名無垢廣。彼天先見如是六山六種光明，而語我言：「天王今者莫有所畏，王則無過。此於天王無有不吉，願王今聽。以何因緣，天王今者并此天眾空中而墮？過去曾有無量天王曾於此處虛空中行不能得過，皆如是墮。天王先來未曾得聞，以不知故，欲如是過，即便下墮，威德光明一切欲滅。此之因緣，我今為說。此處常有六佛如來、應、正遍知、明行滿足、天中之天，一切世間真實知見，於此山樹具足地中作六佛塔，利益天人。此佛塔者，是所應禮，所應供養。禮拜供養，無不得力。何以故？更無勝故，如是佛塔不可得遇。以此因緣，天王今者如是下墮。」

> 「私はその時、そのことをよく考えた後、天人の集まりの中に一人の古い天人がいて、その名を無垢広といいました。その天人は、先にこの六つの山と六種の光明を見て、私にこう言いました。『天王よ、今、何も恐れることはありません。王には過ちはありません。これは天王にとって決して不吉なことではありません。どうか王よ、お聞きください。どのような因縁で、天王とこの天の衆が空中から落ちてくるのでしょうか？過去に無数の天王が、かつてこの場所で虚空の中で進もうとしても通り越せず、皆、同じように落下しました。天王はこれまでこのことを聞いたことがなく、知らなかったために、越えようとしてすぐに落下し、その威徳の光明はすべて消えようとしています。この因縁について、今、私は語りましょう。この場所には常に六佛の如来、応供、正遍知、明行足、天中の天、一切世間の真実の知見がおられます。この山と木々が完全に具わった地に、六つの佛塔を作り、天と人を利益されました。この佛塔こそ、礼拝すべきものであり、供養すべきものです。礼拝し供養すれば、力を得られないことはありません。なぜなら、これに勝るものはないからです。このような佛塔に出会うことはできません。この因縁により、天王は今、このように落下しているのです。』」

「『我時告彼無垢廣言：「佛在何處？」彼無垢廣即答我言：「今者悉無，世間之中一切皆無。彼一切知，一切悉見，知欲過惡，知生死中諸苦惱已，精勤修行六波羅蜜，劫數滿足三阿僧祇，得一切智，入於涅槃。此是略說，欲得廣聞，見此佛塔更為廣說。此六佛塔，今者在於山樹具足地處中住。」

> 私はその時、無垢広に問いました。「仏はどこにおられるのですか？」すると無垢広は私に答えました。「今はもうどこにもおられません。この世の中には、すべてが無くなってしまいました。あの一切を知り、一切を見通し、欲望の過ちを知り、生と死の中にあるすべての苦しみを知った後、精進して六波羅蜜を修行し、三阿僧祇の劫の期間を満たして、一切智を得て、涅槃に入られました。これは簡潔に述べたものです。もっと詳しく聞きたいのであれば、この仏塔をご覧になれば、更に詳しく語ってくれるでしょう。この六つの仏塔は、今、山と木々が整った地にあります。」

「『我於爾時聞彼舊天無垢廣言，生希有心，見勢力已，共彼宿舊無垢廣天并諸天眾到六塔所，到已思惟為欲聞法度生死故，入佛塔中。入佛塔已，聞如是法，彼佛世尊之所宣說。』「時彼天眾得聞天主牟修樓陀如是語已，各辭天王，向自地去，牟修樓陀夜摩天王亦向先來自住之處。說佛塔竟。

> 『私はその時、昔から知っている無垢広天の言葉を聞き、未曾有の心を起こし、その力を目の当たりにしました。そして、昔からの知己である無垢広天や多くの天の衆と共に六つの塔のところへ赴きました。到着した後、生死を超える教えを聞き、悟りを得るために、仏塔の中に入りました。仏塔に入ると、そのようにして、かの仏世尊が説かれた法を聞きました。』 その時、天の衆は天主ムシュクンダのこの言葉を聞き終えると、それぞれの天王に別れを告げて、それぞれの地へと帰っていきました。ムシュクンダ夜摩天王もまた、自らが元々いた場所へと戻っていきました。仏塔の話はここで終わります。

## 正法念處經卷第五十

> 正法念処経 第五十巻