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title: "正法念處經 · 16"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm9tojv0l0829hj0vrqndhjbw"
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## 正法念處經卷第五十一

> 正法念処経 巻第五十一

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之三十夜摩天之十六

> 観天の品 第三十<note>夜摩天の十六</note>

「又彼比丘知業果報，觀夜摩天第七地處，名廣博行，眾生何業生彼地處？彼見聞知或天眼見：若人曾知持戒善心，不殺不盜，如前所說，復捨邪欲。所謂有人或到林中，近妙聲鳥。彼妙聲鳥迭互相於生欲心故，出欲音聲，雌鳥在前，雄鳥在後，相隨共行。彼鳥翅羽有種種色，一切見者心皆歡喜，欲情內發。而彼見已，不生欲念，心不思惟，況復行欲。彼人如是清淨持戒，捨於邪欲，持戒清淨，身壞命終生於善道，天世界中，在廣博行地處而生。彼處生已，一切諸欲功德和集，受諸快樂。有勝園林，銀毘琉璃、青寶之樹，大青寶樹，蓮華色寶種種寶樹莊嚴園林，種種寶池水流盈滿。若人本作善業來者，行此林中，種種受樂，所謂林者，名赤色林，於彼林中有諸天眾、諸天女眾。若入其中，彼樹光明增長轉勝，種種妙寶莊嚴成就種種衣服。若諸天眾入彼林中，彼樹光明普皆赤色。而彼樹林其色皆如赤蓮華寶，或作迦鷄檀那寶色。樹色柔軟，真珠鈴網彌覆其上，隨念生果，隨念酒流，如意念行。隨天意念何處受樂，彼樹枝葉即出種種勝妙樂音，如是行去。多有天女共諸天眾并如是樹，飛虛空中，隨心所向，如鳥無異。彼樹既飛在虛空中，皆如日出，一切虛空普遍嚴好。又復彼樹名赤色樹，水出如雨，在虛空中甚可愛樂。彼鈴之聲、天鳥之聲、天樂之聲，如是種種勝妙之聲遍滿虛空。

> また、その比丘は業とその報いを理解し、夜摩天の第七の地、名を「広博行」と観察した。どのような業によって、衆生はそこに生まれるのか。彼は聞き、あるいは天眼によって見た。 もし人が、かつて戒律を保つ善心を知り、殺さず盗まず、先に述べたように、さらに邪な欲望を捨てたとする。具体的には、ある人が林の中に入り、美しい声の鳥に近づいたとする。その鳥たちは互いに欲情を起こすため、欲を含んだ声を発する。雌鳥が先に、雄鳥が後に続き、連れ立って歩く。その鳥の羽根には様々な色があり、見る者すべてが心から喜び、内に欲情が湧く。しかしその人はそれを見ても、欲の念を起こさず、心で思わない。ましてやその欲を実行することはない。このように清らかに戒律を保ち、邪な欲望を捨て、戒律を清らかに守った人は、命終えて善道に生まれ変わる。天の世界、広博行の地に生まれるのである。 そこに生まれると、一切の欲望の功徳が集まり、様々な楽しみを受ける。素晴らしい庭園がある。銀、琉璃、青宝の樹木、大青宝の樹、蓮華色宝などの様々な宝で飾られた庭園があり、様々な宝でできた池には水が満ち溢れている。もし過去に善業を積んだ人が来れば、この林の中を歩き、様々な楽しみを受ける。その林は赤色林という。その林の中には多くの天の人々や天女たちがいる。もしその中に入れば、木々の光はさらに増して輝き、様々な妙なる宝で飾られ、様々な衣服を完成させる。天の人々がその林に入れば、その木々の光はすべて赤くなる。そしてその林の色はすべて赤蓮華宝のようであり、あるいは迦鷄檀那宝の色となる。木の肌は柔らかく、真珠の鈴の網がその上を覆い、心に思うままの果実が生じ、思うままの酒が流れ、心のままに運行する。天が心に思うままに楽しむ場所へ向かえば、その木の枝葉から様々な勝れた妙なる楽音が聞こえてくる。多くの天女たちは天の人々と共に、そしてそのような木々と共に、虚空を飛び、心の向かうままに鳥のように動く。その木が虚空を飛ぶとき、すべては太陽が昇るかのようであり、虚空全体が美しく飾られる。また、その木は赤色樹と呼ばれ、水を雨のように降らせ、虚空の中で非常に愛らしい。その鈴の音、天の鳥の声、天の楽器の音、このような様々な勝れた音が虚空に満ちるのである。

「時，彼天眾見樹飛行在其面前，天女之眾所圍繞已，同一樂心。多有無量百千天女共詠歌聲，飛虛空中。樹在於前，如示道者，天眾在後，與樹相隨。天眾如是隨心所念，起如是意：『我於今者上彼樹上。』如是念時，彼樹倒迴，諸天即上。有在枝上而遊戲者，彼天如是在彼樹上處處遊戲。如是枝上在枝住天，隨心念時，即彼枝上生蓮華池，天及天女在彼池中遊戲受樂。如是樹上住枝之天，共天女眾在赤林中遊戲受樂，皆隨所念，如是受樂。復有餘天葉中住者，若有所念，即樹葉中出生妙堂。於彼念時，如是堂出種種妙寶，間錯莊嚴，鈴網彌覆。彼一切堂有蓮華池而為莊嚴，有真珠網簾其戶牖。天在其中，共諸天女歌舞遊戲，彼此迭互不相妨礙，共相愛念。如是諸天善業力故，迭相親友，無怨無中。此多親友是善業果，大善業果謂多親友。爾時彼天迭共同心，在赤林中種種遊戲。彼赤林中如是諸天一切欲樂皆悉具足，大勝業故，隨意所念，虛空中行，受無量樂。

> その時、かの天の衆は、樹が虚空を飛びながら自らの前にあり、天女たちに囲まれているのを見て、皆同じ楽しみの心を持つようになった。数えきれないほどの百千の天女たちが共に歌を歌いながら、虚空を飛んでいた。樹は前にあり、道を示す者のように進み、天の衆は後に続き、樹に従って進んだ。 天の衆は、心のままに思いを巡らせ、「今こそ、あの樹の上に登ろう」と願った。そう思った瞬間、かの樹は倒れるように傾き、天の衆はすぐに登った。枝の上で遊戯を楽しむ者もいれば、かの天が樹の上の様々な場所で遊び戯れた。 そのような枝の上の天の住人たちは、心のままに願うと、まさにその枝から蓮華の池が現れ、天と天女はその池の中で遊戯し、楽しみを味わった。こうして樹上の枝に住む天たちは、天女の衆と共に赤い林の中で遊び楽しみ、すべて心のままにその楽しみを受けた。 また別の天で、葉の中に住む者たちがいた。彼らが何かを願うと、すぐに樹の葉の中から見事な殿堂が生まれた。その願いのままに、こうした殿堂が現れ、様々な妙なる宝で飾り立てられ、鈴の網が覆いかぶさっていた。そのすべての殿堂には蓮華の池が荘厳として備わり、真珠の網の簾が戸や窓にかけられていた。天たちはその中で、諸々の天女と共に歌い、舞い、遊び戯れ、互いに妨げ合うことなく、互いに愛しみ合った。 このように、かの天たちは善業の力によって、互いに親しい友となり、恨みもなく、中立的な者もいなかった。この多くの親しい友を持つことは、善業の果報であり、大いなる善業の果報とは、すなわち多くの親しい友を持つことなのである。 その時、かの天たちは互いに心を一つにして、赤い林の中で様々に遊び戯れた。かの赤い林の中では、こうした天たちはあらゆる欲の楽しみをことごとく備えていた。大いに勝れた業の故に、心のままに思いを巡らせ、虚空の中を進み、限りない楽しみを受けたのである。

「又復彼天不行虛空，還向本處。種種流水滿蓮華池，於如是處天女圍遶，遊戲受樂。又復次向名稠樹林。彼稠樹林甚可愛樂，林中有河，河中乳流。如是乳河莊嚴彼林，其乳勢力，若天飲者，憶念往世於何處生，捨命而來；於此處退，生於何處。若放逸行，彼種種苦無量種苦，皆憶念已，心生愁惱；生愁惱故，則離放逸；離放逸已，隨順法行。此大饒益，飲彼乳味勢力所致。既飲如是勢力乳味，而復入彼名稠樹林。林有種種流水河池而為莊嚴，有種種鳥在彼池中。其鳥甚多，樹枝饒華，以華重故，皆悉下垂，而為莊嚴。有七寶蜂，其色平等，飲彼華汁，以自適樂，從蓮華池至蓮華池，從一樹下至一樹下。彼樹一切皆毘琉璃，蓮華寶葉有金色果。如是果者，天中美味蘇陀中勝。如是果者，是隨念果，若須味時，則有如是美味果生。食彼果已，而復歌舞，行向餘處心生歡喜。

> また、かの天人は虚空を歩むことなく、自らの住処へと戻る。そこには様々な流れが満ちた蓮華の池があり、天女たちに囲まれて遊び楽しむ。そして再び、「稠樹林（じゅうじゅりん、うっそうとした木々の林）」という名の場所へと向かう。その林は実に愛らしく、林の中には乳（ちち）が流れる川がある。その乳の川が林を荘厳しており、その乳の力によって、もし天人がそれを飲めば、前世においてどこに生まれ、どこで命を捨てて来たのか、またこの天界から退いてどこに生まれるのかを思い出す。もし放逸（ほういつ、心のままに遊び楽しむこと）に生きていれば、様々な苦しみ、無量の苦しみを全て思い出し、心に憂いを生じる。憂いを生じれば、放逸から離れる。放逸から離れれば、法（真理）に従って行動するようになる。これは大いなる利益であり、あの乳の味わいの力によるものである。そのような力ある乳の味わいを飲んだ後、再び稠樹林に入る。林には様々な流れや川、池があり荘厳され、様々な鳥がその池にいる。その鳥は非常に多く、木の枝は花で満ち、花の重みで全てが垂れ下がって荘厳となっている。七宝の蜂がおり、色は均一で、その花の蜜を飲み、自ら楽しんでいる。蓮華の池から蓮華の池へ、一本の木の下から別の木の下へと飛び移る。それらの木々は全て毘瑠璃（びるり、青い宝石）でできており、蓮華や宝の葉があり、金色の実をつけている。その果実は、天界の美味なる蘇陀（そだ、甘露のような飲み物）の中でも最も優れている。この果実は「随念果（ずいねんか、思いに従って現れる果実）」であり、もし味を欲するならば、そのような美味なる果実が生じる。その果実を食べた後、また歌い舞い、他の場所へと心楽しげに進んでいく。

「復向飲林，彼林之樹天酒流出，美味香色甚可愛樂，不可具說。離於醉過。如是勝酒，從樹流出，如雲雨墮，彼天飲已，復更轉生勝歡喜心。彼天如是生歡喜已，聞種種音，飲天美酒，受種種樂。復有無量光明莊嚴自身，天女迭共遊戲歌舞喜笑。

> 再び飲林（飲むための林）に向かうと、その林の木々から天の酒が流れ出ていた。その味わいは美しく、香りも色もこの上なく愛らしく楽しいもので、言葉では言い表せないほどである。酔いによる苦しみもない。このような素晴らしい酒が木から流れ、あたかも雲が雨を降らせるように落ちてくる。天の人々はそれを飲むと、さらに一段と素晴らしい喜びの心を新たにした。こうして喜びを味わった天の人々は、様々な音を聞き、天の見事な酒を飲み、さまざまな楽しみを受ける。また、無数の光が自身のからだを飾り、天女たちは互いに遊び、舞い、歌い、笑い合うのである。

「又復次向蓮華龍林。彼林之量五百由旬，五寶蓮華，蓮華甚香以為莊嚴。蓮華龍林更無餘物，唯除蓮花及有諸龍。彼蓮花中，如是龍者迭互相於欲心起發。食彼蓮華，眾龍一心迭共為伴，龍女圍遶，在清水中。水七功德，離水衣過、離泥濁過、離長短過。於彼觸中，自意受樂。如是如是龍自意念，如是如是隨意水生。彼龍在中，共諸龍女戲樂之時，亦如諸天共諸天女受樂不異。

> また、次に蓮華龍林についてお話ししましょう。その林の広さは五百由旬あり、五宝でできた蓮華が咲き乱れ、その蓮華の計り知れない香りが荘厳となっています。この蓮華龍林には、蓮華と龍たち以外には、何もありません。その蓮華の中で、龍たちは互いに欲心を起こし合います。彼らはその蓮華を食べ、心を一つにして仲良く連れ添い、龍女たちに囲まれて清らかな水の中にいます。その水は七つの功徳を備えており、水面の膜のようなものも、泥による濁りも、長さの過不足もありません。その水の感触に、龍たちは思いのままに楽しみを味わいます。このように、龍が心に思うままに、水も心に従って現れます。その中で、龍たちは龍女たちと遊び楽しむ様子は、まるで天人が天女と共に楽しむのと少しも変わりません。

「爾時，天眾見彼蓮華龍林之中諸龍戲樂，從空中下，向蓮華林詠歌音聲，及諸天女莊嚴音聲。龍在池中，出聲如雷，普彼天處，如一歌聲。以彼天處如是歌聲令諸山谷皆有響聲，餘處諸天聞其聲故，一切皆來同向蓮華龍林之所。種種光明莊嚴其身，饒天女眾，如是同向蓮華龍林。

> その時、天の衆は、蓮華龍林の中で竜たちが楽しそうに遊んでいるのを見て、空中から蓮華林へと降り立ち、美しい歌声と、天女たちの優雅な音色を響かせました。池の中の竜たちは雷のような声を発し、その天の場所全体が、まるで一つの歌声のように響き渡りました。この歌声が谷々にこだましたため、他の場所の天の人々もその声を聞きつけ、皆一斉に蓮華龍林へと集まってきました。それぞれが様々な光で身を飾り、大勢の天女たちを従え、同じように蓮華龍林へと向かいました。

「爾時，彼天於先在彼蓮華龍林種種遊戲，復有餘天山谷等處異異處來。彼一切天迭相見已，歡喜之心轉勝增長。如是諸天并天女眾，及彼諸龍并龍女等，共在水中遊戲受樂。彼天、天女、龍、龍女等，如是受樂，至於久時，如是遊戲歌舞喜笑。彼天如是放逸而行，善業盡故、命欲盡故，彼天、天女善業福德欲盡之時，若上蓮華，蓮花不勝；如是蓮華沒於水中，即便破壞。如是諸天、若諸天女福德盡相，如是應知。

> その時、かの天人は、先に蓮華の龍の林で様々に遊び戯れていた。さらに他の天人は、山谷などのあちこちからやって来た。彼ら全ての天人が互いに見合うと、歓喜の心はますます増大した。こうして天や天女の衆、そして龍や龍女らは、共に水中で遊び楽しんだ。彼らは、天も天女も龍も龍女も、長い間このように楽しみ、遊び、舞い、歌い、笑い合った。彼らは放逸な行いをしていたが、善業が尽き、寿命が尽きようとする時、天や天女たちの善業の福徳が尽きようとする時、もし蓮華に上ろうとしても、蓮華はその重みに耐えられず、水中に沈み、たちまち壊れてしまった。このようにして、天や天女たちの福徳が尽きる相は、こうして知られるべきである。

「又復彼天、若彼天女福德盡相，謂彼諸天、若彼天女以遊戲故，上龍背上，龍不能忍，墮彼龍背。此是彼天、若彼天女福德盡相，放逸行天，放逸所壞，如是相出。

> さらに、天人たちについて言えば、天女の福徳が尽きる兆しがある。それは、天女たちが戯れのため竜の背に乗ろうとするとき、竜がそれに耐えられず、天女は竜の背から落ちてしまうことである。これが天女の福徳が尽きる兆候であり、遊びにふける天人たちが放逸によって滅ぼされる時に、そのような相が現れる。

「爾時，彼天若有本來不大放逸，先知彼相，知彼相故而說偈言：

> その時、その天人は、もともとあまり放逸でなければ、まずその相（しるし）を先に知り、その相を知った上で、次の偈（うた）を唱えた——

「『久時已過去，欲到命盡時，死時臨欲到，癡天不覺知。而心不知足，貪著境界樂，根不知足故，增長境界欲。五根樂境界，為欲破壞心，福田業將盡，癡天不覺知。此大運時輪，常割眾生命，轉疾臨欲至，癡天不覺知。此死火甚惡，為業風所吹，命盡時將至，癡天不覺知。生死有為中，無親無非親，死羂甚可畏，無能令免者。諸有死未來，諸有命未盡，皆應捨放逸，而作自利益。死杖不久間，必破眾生命，大力既來至，能令命失壞。境界癡所盲，遠離法燈明，是故不見知，大可畏死羂。癡者不能知，怖畏於死時，以心著境界，為愛所誑故。退退而復生，從道復至道，眾生癡所壞，故受自業果。甚惡而極速，能破諸世間，云何於死時，而不生怖畏？眾生豈無心，為當是無畏，如是癡不知，怖畏於死時。退相極顯現，如現見不異，如是知不久，於天中則退。』

> 「はるか昔からすでに過ぎ去っていき、やがて命の尽きる時が来る。 死の時がまさに訪れようとしているのに、愚かな天人はそれに気づかない。 心は満足することを知らず、境界の楽しみに執着し、 五根が満足しないために、境界への欲が増していく。 五根は境界を楽しみ、そのために心を壊そうとする。 善行の福田は尽きようとしているのに、愚かな天人は気づかない。 この大きな運命の時の輪は、常に生きとし生けるものの命を断ち、 急速に迫り来ようとしているのに、愚かな天人は気づかない。 この死の火は非常に恐ろしく、業の風に吹き飛ばされ、 命の尽きる時が来ようとしているのに、愚かな天人は気づかない。 生と死という作られた世界において、親しい者もいなければ、親しくない者もいない。 死の網は非常に恐ろしく、それを免れさせることができる者はいない。 死がまだ来ていない者、命がまだ尽きていない者は皆、 放逸を捨てて、自らの利益を図るべきである。 死の杖は間もなく、必ずや生きとし生けるものの命を打ち砕く。 その強大な力がすでに来れば、命を失わせ壊してしまう。 境界に溺れて愚かになり、法の灯明から遠ざかっているため、 かくして見ることも知ることもできず、非常に恐ろしい死の網に包まれる。 愚かな者は、死の時の恐ろしさを知ることができない。 心が境界に執着し、愛欲に欺かれているからである。 退いてはまた生まれ、道から道へと移り変わり、 生きとし生けるものは愚かさに滅ぼされ、自らの業の報いを受ける。 非常に悪しく、かつ極めて速やかで、あらゆる世の中を壊すもの、 どうして死の時にあたり、怖れを抱かないことがあろうか？ 生きとし生けるものに心がないわけではない。あるいは恐れを知らないのか。 このように愚かで知らなければ、死の時に対する恐れもない。 退く様相が極めて明確に現れ、目の当たりにするのと異ならない。 こうして間もなく、天の中から退くことを知るのである。」

「彼天如是見退相已，諦知退相，心意愁惱，不向其餘未退天說、欲退天說。以未退者，五境界中受諸欲樂，恐其不信後時退故。何以故？於境界中放逸癡故，或意迷故，於彼天眾命欲盡者、若放逸者，不應為說，亦不應示。爾時彼天如是知已，默然不言，捨蓮華池向餘處去。

> 彼の天人は、このように衰えの兆候を見て、それを真実に悟ると、心に憂いと悩みを抱き、まだ衰えていない他の天々や、今まさに衰えようとしている天々には語りかけません。なぜなら、まだ衰えていない天々は五つの境地で様々な欲望の楽しみを受けており、後に自分たちも衰える時が来るということを信じない恐れがあるからです。その理由は何でしょうか？境地において放逸であり、愚かであるため、あるいは心が迷っているためです。そのような天々の中で、寿命が尽きようとしている者や、放逸な者に対しては、説くべきではなく、また示すべきでもありません。そこで、その天人はこのように知って黙って何も言わず、蓮の池を捨てて他の場所へと去っていくのです。

「彼天於後，復樂境界，受境界樂。彼欲退者，大羞相出、大畏相出，癡不覺知，不懼不畏，龍中遊戲，在蓮華中共諸天女，彼處久時受快樂已。復共如是無量百千諸天之眾，更向一山，彼山名為常樂鬘山。到已欲上，有天金銀、天毘琉璃、天蓮華寶，最勝天寶妙門之堂有百千數莊嚴彼山，復有百千勝妙蓮華而為莊嚴。如是山中第一勝樂，一切具足，百千樂音恣耳所聞，多著種種無縷天衣，自身光明。迭相看面，有妙色聲觸味香等，如心所愛而受快樂。自意念行，不可說樂，皆悉成就。天河流水，園林莊嚴，見則生樂。彼天如是次第復上常樂鬘山，既上山已，有在堂中坐於床者，有乘鵝者，有天在於蓮華臺上跏趺坐者。天共天女在鳩婆羅葉中而住，種種嬉戲，若歌舞等，五樂音聲坐受快樂。其心欲在虛空中行，共諸天女處處遍看，於彼天處處處可愛，隨心所樂稱意而去。有處如焰，金銀蓮華妙寶光明，有處多有鳩婆羅葉青色膩影，有處則是天毘琉璃青寶光明，有處是銀頗梨真珠光明可愛。

> その天人たちは、その後再び境界の楽しみに耽り、その快楽を受けます。しかし、彼らの中に欲望が退く者があれば、大きな羞恥の相、大きな畏れの相が現れます。だが、無知ゆえにそれに気づかず、恐れることもなく、龍の中にあって遊戯し、蓮華の中で天女たちと共にあり、そこに長く留まり楽しみを受けます。 やがて彼らは、そのような無量百千の天人の群れと共に、さらに別の山へと向かいます。その山の名は常楽鬘山（じょうらくまんせん）といいます。 そこに到着し、登ろうとすると、金、銀、天毘瑠璃（てんびるり）、天蓮華宝（てんれんげほう）など、最も優れた天宝で作られた門や堂が、百千の数でその山を荘厳しています。さらに、百千の優れた妙なる蓮華が飾り立てています。 このような山は、第一の勝れた楽をすべて備え、百千の楽の音が耳を満たし、天人たちは様々な縫い目のない天衣をまとい、自らが光を放っています。互いに顔を見合わせ、優れた色・声・香り・味わい・触れ合いなど、心のままに楽しみを受けます。 自らの意のままに考え、言葉にできないほどの楽しみをすべて成就します。天の川の水が流れ、林や園が美しく飾られ、見るだけで喜びが生まれます。 天の子らはこのように次々と常楽鬘山に登っていきます。山に登った者たちの中には、堂の中の寝殿に座る者、鵞鳥に乗る者、蓮華の台座の上に結跏趺坐する者もいます。また、天女たちと共に、鳩婆羅葉（くばらよう）の中で住まい、様々な遊戯や歌舞など、五種の楽の音を楽しみながら座して快楽を受けます。 その心が虚空を歩みたいと思えば、天女たちと共にあらゆる場所を見て回ります。あの天の地には愛すべきところが満ちており、心のままに、意のままに赴いていきます。 ある場所は炎のようであり、金銀・蓮華・妙宝の光があります。 ある場所には多くの鳩婆羅葉があり、青く柔らかな陰影を落としています。 ある場所は天毘瑠璃の青宝の光です。 ある場所は銀・玻璃・真珠の光が美しく輝いています。

「次復有河，有真珠沙，出寶山峯，有七功德清冷水流。見彼峯河有水旋流，其狀猶如真珠瓔珞。如是觀察見彼處已，飛於虛空，復見異處，七寶蓮華莊嚴水池，無量蜂眾莊嚴蓮華。如是見已，復觀異處，有園林池甚為可愛。見有鳥獸，獸種種色，有銀色者、有金色者，寶角可愛，蓮華寶眼，真金色背，兩脇白銀，頗梨色甲，背脚均平。復有餘獸，群隊相隨，七寶妙色，皆無所畏，群群遊戲，自受快樂。業所作故，形體殊妙，以其業故，皆食天食。

> また、ある川がある。そこには真珠の砂があり、宝の山の峰から湧き出ている。七つの功徳を備えた清らかで冷たい水が流れている。その峰の川を見ると、水が渦巻きながら流れており、その様子はまるで真珠の瓔珞のようである。このように観察してその場所を見た後、虚空に飛び上がると、さらに別の場所が見える。そこには七宝の蓮華で飾られた荘厳な池があり、無数の蜂の群れが蓮華を美しく飾っている。このように見た後、さらに別の場所を観ると、林や園、池があり、とても愛らしい。そこには鳥や獣がいて、獣たちは様々な色をしている。銀色のもの、金色のもの、宝の角を持ち愛らしく、蓮華のような宝の目、真金色の背中、両わきは白銀、水晶のような色の甲羅を持ち、背中や足は均整が取れている。さらに別の獣もいて、群れをなして連れ添い、七宝の妙なる色をまとい、皆、恐れを知らず、群れで遊び戯れ、自ら楽しみを味わっている。業によって造られたものだから、その姿は殊の外に妙であり、その業によって、皆、天の食物を食べている。

「又園林中餘處復見孔雀命命，名無縷鳥、名戲論鳥、名大眼鳥、名動翅鳥，如是等鳥，群群遊行在山峯中出入園林，園林中見。既到如是常樂鬘山，臨欲上時，見如是鳥。彼山一廂則是青寶，彼第二廂是蓮華寶，彼第三廂則是金寶，彼第四廂則是銀寶。青寶廂處有妙寶堂，名曰雜影，堂中則有毘琉璃樹，其華下垂猶如大蓋，流水河池而為莊嚴，蓮華之林乃有百千，百千種鳥雜色莊嚴，多有天女甚為端正在彼堂中。彼第二廂蓮華寶處有名笑林。彼林銀樹，其葉是金，有赤蜂群，無量百千群鳥音聲。有流水河，河水有香，微風徐動，如是普遍莊嚴笑林。彼第三廂金寶之處有妙寶林，名樂寶林。有頗梨樹而為莊嚴，其樹金枝，枝網普覆，有無量鳥百千音聲，有流水河而為莊嚴。彼處多有歡喜天眾、歡喜天女在中歌舞，一切妙欲功德具足，而為莊嚴。彼第四廂銀寶之處，蓮華寶樹青色寶枝而為莊嚴，多有種種妙音聲鳥，多饒無量天及天女，無量百千蓮華莊嚴。有無量種無量分別，有無量種隨眼所見，見則受樂。彼林彼樹、彼河彼水、彼寶枝等，彼蓮花池、彼鳥彼獸、彼蓮華等，種種色香、種種形相甚為端嚴。常樂鬘山處處皆有如是諸天及天女眾，乘空上彼常樂鬘山，普彼山處。一切皆見此勝念山有雜色光，彼天既見，眼則樂著，普欲上山，共天女眾五樂音聲、五欲功德而受快樂。勤行善業，樂修多作，可愛善業，持戒善寶，聖所愛果。如是受樂，皆欲上彼常樂鬘山。臨欲上時，名實語鳥，為說偈言：

> さらに、園林の他の場所で、孔雀や命命鳥（めいみょうちょう）、無縷鳥（むるちょう）、戯論鳥（けろんちょう）、大眼鳥（だいげんちょう）、動翅鳥（どうしちょう）という名の鳥たちを見かけました。これらの鳥たちは群れを成して山々を遊行し、園林に出入りしていました。このような常楽鬘山（じょうらくまんざん）に到り、まさに登ろうとする時、これらの鳥を目にしたのです。 その山の一面は青宝（しょうほう）、第二の面は蓮華宝（れんげほう）、第三の面は金宝（きんほう）、第四の面は銀宝（ぎんほう）でできていました。青宝の面には、雑影（ざつえい）という名の美しい宝の堂があり、その堂内には毘瑠璃樹（びるりじゅ）が立っていて、その花は大きな傘のように垂れ下がり、流れる川や池が飾りとなっていました。百千もの蓮華の林があり、百千種類の鳥がさまざまな色彩で飾り、多くの天女がたいそう美しくその堂に住まっていました。 第二の面、蓮華宝のところには、笑林（しょうりん）という名の林があります。そこには銀の木が立ち、その葉は金でできており、赤い蜂の群れが無量百千もいて、鳥たちのさまざまな鳴き声が響いています。香りのある川の水が流れ、微風がゆるやかに吹き、このようにして笑林を美しく飾り立てています。 第三の面、金宝のところには、楽宝林（らくほうりん）という名の美しい宝の林があります。頗梨樹（はりじゅ）が立ち並び、その木々の金の枝は網のようにつながって覆いかぶさり、無数の鳥たちが百千の美しい声で鳴き、流れる川や池が飾りとなっています。そこには多くの歓喜天（かんぎてん）と歓喜天女がいて、歌い踊り、あらゆる素晴らしい徳を備え、美しく飾られています。 第四の面、銀宝のところには、蓮華宝樹（れんげほうじゅ）の青い宝の枝が飾りとなり、多くのさまざまな美しい声の鳥がいて、無数の天や天女がたくさん集い、無量百千の蓮華が飾りとなっています。数限りない種類があり、さまざまな見た目のものがあり、見る者はその都度楽しみを得ます。それらの林や木々、川や水、宝の枝々、蓮華の池、鳥や獣、蓮華などは、さまざまな色や香り、さまざまな形をして、たいそう美しく整っています。 常楽鬘山の至る所に、このような天や天女の群れがおり、空中に乗ってその常楽鬘山に登ろうとしています。山のあらゆる場所で、この素晴らしい念山（ねんざん）が雑多な色の光を放っているのを、彼ら天は目にし、その目は楽しみに執着し、皆が山に登りたがりました。そして天女たちと共に、五つの楽器の音と五つの欲望の功徳による楽しみを享受しました。善い行いを熱心に励み、愛すべき善い行いを楽しんで多く修め、戒めを宝とする善い行いが聖者の愛する果報をもたらすことを知っていました。そのようにして楽しみを味わいながら、皆がその常楽鬘山に登ろうとしていました。 まさに登ろうとする時、実語鳥（じつごちょう）という名の鳥が、次のような偈（げ）を説きました。

「『此河水速流，善業樂亦爾，癡者不覺知，境界貪所誑。如是時來時，死亦如是來，樂迷放逸故，天癡不覺知。癡者無智故，不覺命已過，亦迷於善業，而愛不可盡。眾生不離愛，有中隨順行，彼癡愛眾生，不覺善不善。善果甚可愛，若天受快樂，如是見不善，在惡道苦處。若捨善不善，復能離諸過，則至不退處，不生不死處。彼樂得解脫，欲樂非得脫，夜摩及餘天，業盡故得脫。無常則不住，常則為第一，悕望有中樂，退墮不可樂。』

> 川の流れは速やかに過ぎる。 善き行いの果報もまた、同じく速やかに過ぎ去る。 愚かな者はこのことを知らず、欲望の対象に惑わされている。 時に過ぎ去るように、死もまた訪れる。 天の楽しみに酔い、遊びにふける心は、天人の愚かさに気づかない。 愚かで知恵の無い者は、命が過ぎ去ったことすら悟らない。 善い行いの果報にも迷い、愛執は尽きることがない。 生きとし生けるものは、愛から離れられず、輪廻の世界に従って歩む。 そのような愚かで愛に染まった者たちは、善悪を見極めることができない。 善い果報は実に愛しいものである。 もし天人がその楽しみを受けるなら、同時に、悪い果報が苦しみの場所（地獄など）に現れるのも見るだろう。 もし善悪の行いを共に超え、様々な過ちを離れるなら、退くことのない境地（涅槃）に至り、生まれず、死ぬことのない場所に至る。 その境地を得た者は解放を楽しむ。 しかし欲望の楽しみによっては、決して解放は得られない。 夜摩天やその他の天の楽しみも、善い行いの果報が尽きれば、そこから解脱しなければならない（つまり、一時的なものに過ぎない）。 すべてが移り変わる「無常」は永く留まらない。 「常住」こそが最上のものである。 輪廻の世界の楽しみに期待をかけることは、結局は堕落をもたらすのであって、真に楽しむべきものではないのだ。

「彼實語鳥為彼天眾欲上山者，如是說已。彼天聞已，於天眾中，若其有天不大放逸，彼天則聞；若放逸者，以放逸過，是故不聞，猶著境界。彼放逸天一切不取天鳥所說，如是鳥語真實利益。

> 實語の鳥は、天の衆徒が山に登ろうとする時に、このように語りました。天の人々はこれを聞いて、天の仲間の中で、もし放逸にふけっていない者がいれば、その天は聞き取ります。しかし放逸な者は、放逸の過ちによって聞くことができず、なおも境界の世界に執着しています。その放逸な天は、この天の鳥の言葉を一切受け入れません。この鳥の言葉は、まことに真実の利益をもたらすものです。

「時，彼天眾復歡喜心向第一山上，彼山頂峯上有堂，在堂而坐。如前所說。彼一山峯，名普見山。彼普見山，一千山中最高最上，是故彼山名曰普見。共天女眾上彼山頂，種種樂音歌舞受樂，多有天眾及天女眾上彼山峯，見無量色善業所化光明水池。彼光明池有可愛水，其水清淨，中有金魚，見者眼樂。水波亂動，有鵝鴛鴦鴨等鳥群，此種種鳥可愛音聲，水中甚多。又彼水中多有蓮花、拘婆羅耶、拘物頭華、尼那陀花、迦吒摩羅，如是等花遍覆池水，有種種蜂出種種音。又復多有曼陀羅華，多有金珠而為間錯，其水清淨。又彼如是可愛池中復有蓮華，名曰沐鬘，有百千葉，一一葉中出無量葉。有蓮華葉青寶色者，有蓮華葉頗梨色者，有蓮華葉黃金色者，有蓮花葉白銀色者，有蓮華葉是車𤦲者，有蓮花葉迦雞檀那，有金剛華，第一善香。彼如是等異色葉中各各有臺，其色光明如初出日。彼種種臺有無量色，無量色葉遍彼池中，所謂青黃赤白黑色，臺白而赤，其香可愛滿一大臺。爾時天眾從虛空下向光明池，下已入池。池有金鳥，天既入池，在鳥背上，有天在於蓮花臺上，共多天女遊戲受樂。有天在於拘婆羅耶蓮花之上，復有餘天在水中者，有在鵝背入於水中而遊戲者，有在陸地共天女眾而遊戲者，五欲功德皆悉具足，迭共喜笑遊戲受樂。有在堂中共諸天女異處遊戲，同飲天酒離於醉過，現樂功德，味觸色香皆悉具足。其中諸天有以珠器而飲酒者，所謂青寶、銀寶金寶、毘琉璃寶、蓮華色寶及頗梨等種種珠器。有共天女，金蓮華葉而飲酒者。有以開葉，不穿不破拘婆羅耶而飲天酒，詠歌音聲生歡喜者有天受用蘇陀之食，色觸香味皆具足者。各各別別，共自眷屬種種受樂。有於異處共諸天女，五樂音聲種種歌舞，遶光明池而遊戲者。有共天女在於水中而遊戲者。彼水之味，隨天念轉，若天心念欲令此水色香味觸若冷若煖，善業力故，應念而有。善不善業果報如是，非有作者。又復彼天若如是念：『此水為酒，令我得飲。』即於念時皆是天酒，觸味香色皆悉具足，離於醉過。天既飲之，增長勝樂，善業力故，心生歡喜。然彼諸天自業力故，如是受樂，自業所化，一切所作善業不失業羂之師，人身機關，於三界中種種戲弄，愚癡凡夫不覺不知。如是諸天五欲功德皆悉具足，而受快樂。

> その時、天の衆は喜びの心で第一の山へと向かい、その山頂にある堂に座した。先に述べた通りである。その山の名は普見山という。この普見山は、千の山の中で最も高く最も優れているため、普見と名付けられた。天の衆は天女の群れと共に山頂に登り、様々な楽器の音と歌舞を楽しみ多くの天と天女が山頂に集い、無量の色を持つ、善業によって生み出された光明の池を見た。その池には愛らしい水があり、水は清らかで中には金色の魚がいて、見る者の目を楽しませる。水の波は揺れ動き、鵝や鴛鴦、鴨などの鳥の群れがいて、これらの鳥たちの愛らしい鳴き声は水中に満ちている。また、その池には蓮華、拘婆羅耶、拘物頭華、尼那陀花、迦吒摩羅などの花が多く、水面を覆い尽くし、様々な蜂が様々な音を立てている。さらに曼陀羅華が多く、金の珠が散りばめられ、水は清らかである。また、その愛らしい池の中には沐鬘（もくまん）という名の蓮華があり、百千の葉を持ち、その一つ一つの葉から無量の葉が生じている。青宝の色の蓮華の葉、頗梨（はり）の色の葉、黄金の色の葉、白銀の色の葉、車𤦲（しゃくや）の葉、迦雞檀那（かけいだんな）の葉、金剛の華などがあり、第一の善い香りを放つ。これらの異なる色の葉にはそれぞれ台があり、その色の光明は初めて昇る日のようである。それらの様々な台は無量の色を持ち、無量の色の葉が池中に広がっている。青・黄・赤・白・黒などの色があり、台は白くて赤く、その香りは愛らしく、大きな一つの台を満たしている。 その時、天の衆は虚空から光明の池へと下り、池に入った。池には金の鳥がいて、天が池に入ると鳥の背に乗った。ある天は蓮華の台の上で多くの天女と共に遊び楽しみ、ある天は拘婆羅耶蓮華の上にいた。また、別の天は水中にいる者もいれば、鵝の背に乗って水中に入り遊ぶ者もいた。陸地で天女の群れと共に遊ぶ者もあり、五欲の功徳はすべて具わっており、互いに笑い合い、遊び楽しんだ。堂の中で天女たちと共に別の場所で遊ぶ者もあり、共に天の酒を飲み、酔う過ちから離れ、楽の功徳を示し、味・触れ・香り・色がすべて具わっていた。その中の天々は、青宝・銀宝・金宝・毘瑠璃宝・蓮華色宝・頗梨などの様々な珠器で酒を飲む者もいれば、天女と共に金の蓮華の葉で酒を飲む者もいた。また、葉を開き、穿たれず破れていない拘婆羅耶で天の酒を飲み、歌の音声に喜びを生じる者もいた。ある天は蘇陀（そだ）の食べ物を受け、色・触れ・香り・味がすべて具わっているものを享受した。それぞれ別々に、自分の眷属と共に様々な楽しみを受けた。別の場所で、天女たちと共に五つの楽の音声と様々な歌舞で光明の池を巡り遊ぶ者もいた。天女と共に水中で遊ぶ者もいた。その水の味は、天の心の念に従って変わる。もし天が「この水の色・香り・味・触れを冷たくしたり温かくしたりしたい」と心に念じれば、善業の力によって念の通りになる。善・不善の業の報いはこのようであり、作り手（作者）はいない。また、もしその天が「この水を酒とし、私に飲ませよ」と念じれば、念じたその時、すべて天の酒となり、触れ・味・香り・色がすべて具わり、酔う過ちから離れる。天がそれを飲めば、勝れた楽が増し、善業の力によって心に喜びが生じる。しかし、それらの天は自らの業の力によってこのように楽を受け、自らの業によって変化（け）される。すべての作られた善業は失われず、業という縄の師匠が、人の身体という仕掛けを使って三界の中で様々に戯れるが、愚かな凡夫は気づかず知らない。このように、諸々の天は五欲の功徳をすべて具えて、楽しみを受けているのである。

「於彼天中，名實語鳥，為說偈言：

> 彼の天において、実語鳥という名の者がいて、次の偈を説いた。

「『如油盡燈滅，身命亦如是，以本業盡故，天中必定退。如壁破壞時，依壁畫亦滅；如是業盡故，天樂則無有。天於彼天處，福業盡則退，一切法無常，眾生悉破壞。皆無常不定，命速不久住，死力勢甚大，而天不覺知。』

> 「たとえば油が尽きれば灯が消えるように、この身と命もまた、そうしたもの。 前世の善行の果報が尽きるから、天人は必ずその境涯から退転する。 壁が崩れ落ちるとき、その壁に描かれた絵もともに滅びるように、 同様に、善行の果報が尽きれば、天人の楽しみもまた消え失せる。 天人は、その天界において、福徳の業が尽きれば退転する。 すべての現象は無常であり、生きとし生けるものはみな壊れゆく。 すべては無常で定まりがなく、命は速やかに過ぎ去り、長くは留まらない。 死の力は非常に大きく、それでも天人はそのことに気づかないのだ。」

「彼實語鳥利益天眾，以彼諸天善業力故，如是已說。若彼諸天未於多時放逸行者，既聞鳥語，於少時間正心思惟；若放逸者，亦如不聞，以亂心故，雖聞不受。

> その実語の鳥は天の衆生たちに利益をもたらす。それは天の衆生たちの善業の力によるものであり、以上のように説かれた。 もし天の衆生たちが長い間、放逸に過ごしているならば、その鳥の声を聞いても、ほんのわずかの間だけ正しく心を巡らせる。 しかし、もし放逸な者であれば、聞かなかったのと同じである。心が乱れているために、聞いても受け入れないからである。

「於彼池處如是久受境界樂已，各如所乘，向彼山頂，共諸天女飛空而往。復見餘處有無量山，種種形相。一切山中，常樂鬘山最為高出，復有一山名平等聚，復有一山名曰普見，此三山量，於夜摩處一切山中最為高大。天眾如是觀察彼山，其山光明遍彼天處。天眾既見，即得上彼常樂鬘山，上已則見種種間雜諸妙寶樹，金樹銀樹、毘琉璃樹莊嚴彼山。彼樹根根莖莖、節節枝枝葉葉，皆是七寶莊嚴殊妙。彼樹根莖七寶莊嚴，諸節次第寶別不同。一節則是毘琉璃寶，一節則是蓮華色寶，次節銀寶，次節金寶，次節則是頗梨之寶，次節則是車𤦲之寶，次節則是迦鷄檀那，彼樹如是節節各各莊嚴不同。自從根莖乃至於葉，一切皆是七寶莊嚴。

> その池の辺りで、このように長い間、境の楽しみを受けた後、彼らはそれぞれ自分の乗るものに従って、天女たちと共に空を飛んで、その山の頂上へと向かった。また別の場所には、無数の山々があり、様々な形をしていた。すべての山々の中で、常楽鬘山が最も高くそびえていた。さらに、平等聚という名の山と、普見という名の山があった。この三つの山の大きさは、夜摩天のあらゆる山々の中で最も大きく高かった。天の衆はそのようにして、それらの山々を観察した。その山々の光は、あの天の境一帯に遍く照り渡っていた。天の衆はそれを見ると、すぐにその常楽鬘山に登ることができた。登ってみると、そこには様々に織り交ざった、多くの見事な宝の木々があった。金の木、銀の木、琉璃の木が、その山を荘厳していた。それらの木々は、根もとから茎、節、枝、葉に至るまで、すべて七宝（しちほう）で飾られ、見事この上なかった。それらの木々の根や茎は七宝で飾られ、様々な節々では、宝の種類が一つ一つ異なっていた。ある節は琉璃の宝、ある節は蓮華色の宝、次の節は銀の宝、次の節は金の宝、次の節は玻璃の宝、次の節は車渠の宝、次の節は迦雞檀那（赤白瑪瑙）の宝であった。それらの木々は、このように節ごとに異なる荘厳が施されていた。根もとから茎を経て葉に至るまで、そのすべてが七宝で飾られていた。

「彼樹不遠復有寶堂行而不亂，皆同一色，如人世間日之光明。彼諸天眾為戲樂故，次向彼堂。彼堂之數有十百千，如心意量，如意念行，如意念作。彼天之中有如是堂，近彼堂處有蓮華池，其數多少亦如彼堂，如是蓮華節節次第七寶莊嚴。又於彼處復有眾鳥三功德行，何等為三？一是水行；二是陸行；三是樹行。言水行者，謂名鴛鴦、泥盧槃、大胡盧、鵝鴨、摩鳩羅等，是水行鳥。言陸行者，彼山頂處出妙音聲，謂名二技、名歡喜聲、名一切忍，有鳥名為一切鳥聲、名一切時恒常受樂，如是等鳥是陸行鳥。天音聲中，此鳥音聲最為美妙。言樹行者，謂俱翅羅，名命命鳥、名孔雀鳥、名鸚鵡鳥、名普眼鳥、不眴眼鳥、名普行鳥、名實語鳥、名知時鳥，如是等鳥是樹行鳥。人中有半，彼天皆有。於彼天中有如是等無量眾鳥，種種音聲，如是天中三種行鳥出妙音聲。

> あの樹から遠くないところに、宝の殿堂が幾つもあり、その並びは乱れることなく、すべて同じ色をしており、それは人間の世界の太陽の光のようであった。天の人々は遊び楽しむために、次々とその殿堂へ向かう。その殿堂の数は百、千、万とあり、それは心の思いのままに、念じるままに、願うままに作られたものである。天にはこのような殿堂があり、その殿堂のそばには蓮華の池がある。その数もまた殿堂と同じように多く、これらの蓮華は節ごとに順序良く並び、七宝で飾られていた。 また、その場所には、三種類の功徳を持つ多くの鳥たちがいた。その三種とは何か。第一は「水に住むもの」、第二は「陸に住むもの」、第三は「樹に住むもの」である。 「水に住むもの」とは、名を鴛鴦（えんおう）、泥盧槃（にるはん）、大胡盧（だいころ）、鵝（が）、鴨（おう）、摩鳩羅（まくら）などといい、これらは水に住む鳥である。 「陸に住むもの」とは、あの山の頂上で美しい音声を発する鳥たちで、その名は「二技（にぎ）」、「歓喜声（かんきしょう）」、「一切忍（いっさいにん）」といい、「一切鳥声（いっさいちょうしょう）」、「一切時恒常受楽（いっさいじごうじょうじゅらく）」という名の鳥がいる。これらの鳥が陸に住む鳥である。天の音楽の中でも、これらの鳥の鳴き声が最も美しく素晴らしい。 「樹に住むもの」とは、俱翅羅（ぐしら）といい、「命命鳥（みょうみょうちょう）」、「孔雀鳥（くじゃくちょう）」、「鸚鵡鳥（おうむちょう）」、「普眼鳥（ふげんちょう）」、「不眴眼鳥（ふじゅんげんちょう）」、「普行鳥（ふぎょうちょう）」、「実語鳥（じつごちょう）」、「知時鳥（ちじちょう）」と名付けられた鳥たちである。これらの鳥が樹に住む鳥である。 人間の世界に半分存在する鳥は、あの天にもすべて存在する。あの天には、このように限りなく多くの鳥たちがいて、様々な鳴き声を発している。このように、あの天には三種の鳥たちが美しい音声を響かせているのである。

「又常樂鬘大山頂上，更復有鳥行虛空中，身是七寶。若彼諸天行放逸行，放逸壞時，彼鳥說偈呵責之言：

> また、常楽鬘という大きな山の頂上には、空を飛ぶ鳥がいて、その身体は七宝でできています。もし天人が放逸な行いをし、その放逸のために堕落するとき、その鳥は戒めの詩を詠んで厳しく責めます。

「『放逸所壞天，為境界所誑，愛心所迷亂，死王臨欲到。染著欲樂故，不知善不善，一切眾生癡，境界欲所誑。行於種種道，造作種種業，為種種心使，流轉於五道。』

> 「心の緩みに ほろぼされる天、 境遇に たぶらかされ、 愛欲に 心まどわされ、 死の王が 今にも近づく。 快楽に 執着するゆえに、 善も悪も わきまえず、 すべての 生きとし生けるものは 愚かで、 境遇の欲望に 惑わされる。 様々な道を 歩み、 様々な業（行い）を 積み、 様々な心に 駆り立てられ、 五つの迷いの世界（五道）を さまよう。」

「如是彼鳥見放逸天放逸行故，已說此偈而呵責之，猶如父母調伏諸子。而彼諸天雖如是聞，不受不取，猶故受樂，遊戲歌舞，乃至一切善業皆盡，則於後時退彼天處。退天處已，如自業行，墮於地獄、餓鬼、畜生。若餘業故，生於人中同業處者，則生第一富樂之處，有勝上意，心常歡喜，在好國土迦那那洲、若師子國富樂處生，生長者家。以餘業故。

> そのように、かの天人は放逸天が放逸の行いをしているのを見て、すでにこの偈を説いて彼らを叱りました。それはちょうど父母が子どもたちを調教し導くかのようでした。しかしながら、かの天人たちはこのように聞いても、それを受け入れず、理解もせず、依然として快楽に耽り、遊びや歌舞に興じ、ついにはすべての善業が尽きてしまいました。そして後に、その天の境涯から退転しました。天の境涯から退転した後は、自らの業行に従って、地獄・餓鬼・畜生の境涯に堕ちました。もし別の余りの業があったならば、人間として同じ境涯に生まれる者もいました。そのような者は、最も優れた富楽のある場所に生まれ、勝れた意志を持ち、心は常に喜びに満ち、良い国土であるカナナ州や獅子国などの富楽のある場所に生まれ、長者の家に生まれました。これらは余りの業によるものでした。

「廣博行地第七已竟。

> 広大な行いの地（修行の段階）第七を終えました。

「又彼比丘知業果報，觀夜摩天所有地處。彼見聞知：夜摩天中復有地處，名曰成就。眾生何業生彼地處？彼見：有人信佛世尊，善心持戒，不殺不盜，如前所說，復捨邪婬，於先所行共婬婦女，心不憶念。彼善男子如是持戒，善意熏心，身壞命終生於善道，夜摩天中成就處地。生彼處已，自業相似而得果報。所謂園林蓮華池水，池有種種鳥美妙音聲，種種莊嚴，妙身天女而為圍遶，生如是等天樂之處，五樂音聲種種遊戲，不可譬喻勝妙聲觸味色香等，而受快樂。譬如水池有五水瀆，皆悉是水，在水池畔，水入池中不遮不礙。如是如是，五根愛著，五愛之身常隨五處，不知厭足。譬如五處皆悉置火，一切焰然，風吹普熾。若以乾薪，如是如是著五火中，彼火如是熾然增長。如是如是，此根愛然如火增長，憶念風吹，不正觀焰，境界乾薪，五根火焰。如是如是，此五根火得境界薪，如是如是，根火熾然。如世間火，飛蛾入中則被燒然，如是如是，若有入於愛境界火，則為所燒。一切愛著皆如飛虫，不覺不知。一切諸天如彼飛虫，為火所燒，墮五境界。共天女眾園林中行，從蓮花池至蓮華池，從蘇陀處至蘇陀處，從飲酒處至飲酒處，從美音處至美音處。從香花林嗅花香已，次復往到勝香花林。從一林處至一林處，見林眼樂，復向其餘，眼見樂林，如是遍入諸境界火。

> また、あの比丘は、業とその報いの道理を知り、夜摩天のすべての境地を観察した。彼は見聞したところによると、夜摩天の中にまた「成就」という境地がある。いかなる業によって、衆生はその境地に生まれるのか。彼は見た。ある人が仏世尊を信じ、善心をもって戒を保ち、殺さず、盗まず、先に述べたようにし、さらに邪な淫行を捨て、以前に関係した淫婦に対して心に思いを馳せない。その善男子はこのように戒を保ち、善意が心を熏じ、身が壊れ命が終わった後、善道に生まれ、夜摩天の成就の境地に至る。そこに生まれた後、自らの業に似た果報を得る。すなわち、園林や蓮華の池水があり、池には様々な鳥が美しい音声を奏で、種々の荘厳があり、妙なる身の天女たちが周りを囲み、このような天の楽しい場所に生まれる。五つの楽の音声や様々な遊戯があり、比べるものがないほど勝れた声・触・味・色・香などによって、楽しみを受ける。たとえば、水池に五つの水路があり、すべてが水であり、水池のほとりで水が池の中に入るのを妨げず遮らないようなものである。このように、五つの根は愛に執着し、五つの愛の身は常に五つの場所に従い、満足することを知らない。たとえば、五つの場所にすべて火を置き、すべてが燃え盛り、風が吹いて広く燃え上がるようなものである。もし乾いた薪があれば、このように五つの火の中に置かれる。その火はこのように燃え上がり増大する。このように、これらの根の愛は火のように燃え上がり、憶念という風が吹き、正しい観察という炎はなく、境界という乾いた薪、五つの根という火焰がある。このように、この五つの根の火は境界という薪を得て、このように根の火は燃え上がる。世間の火のように、飛び込む蛾はその中で焼かれる。このように、もし愛の境界の火の中に入るならば、焼かれてしまう。すべての愛着は飛ぶ虫のようであり、気づかず知らない。すべての天人はその飛ぶ虫のようであり、火に焼かれて五つの境界に堕ちる。天女の群れと共に園林中を歩き、蓮華の池から蓮華の池へ、蘇陀の場所から蘇陀の場所へ、飲酒の場所から飲酒の場所へ、美しい音の場所から美しい音の場所へ。香りの花林からその香りを嗅いだ後、次にはさらに勝れた香りの花林へ向かう。一つの林の場所から一つの林の場所へ、林を見て眼が楽しいと、さらに他の場所へ向かい、眼に見て楽しい林を見る。このようにして、すべての境界の火の中に入り込むのである。

「彼山如活，彼天見之如見命物。彼諸天眾如是見山，如是如是處處普見，如火得酥，其焰熾然。如是彼處，始生天子見如是處七寶莊嚴，見無量種，心則生樂。見彼山處無量百千諸天女眾。如是天女甚多甚饒，彼一切處多有天女種種莊嚴，遍滿彼處，天眾亦爾，遍滿彼處，歌舞遊戲迭共受樂，五樂音聲遊戲受樂。若下劣天，如是種種莊嚴天女可有一萬，如是次第三萬二千，如是次第，有四萬者、有五萬者，如是次第乃至百千諸天女者。爾時，如是諸天女眾於彼天子迭共相愛，不生厭心。一切天女一一各各作如是知：『天子愛我。』彼天如是愛於欲樂，不知厭足，如火得酥，焰起熾然。彼放逸行諸天子等，園林樹木、蓮花池中、於河水中可愛天女共受快樂。如是次第，復於後時，共彼天女入鵝林中。如是林者，於彼天中猶尚希有，況於餘處。謂彼林中有鵝莊嚴，如是鵝者在彼林住。彼鵝銀翅，有金翅者，蓮花寶足。復有餘鵝，蓮花寶嘴，金寶間腹。有金身鵝，背則是銀、迦鷄檀那，勝寶之足，其嘴亦是迦鷄檀那。復有餘鵝頗梨為背，脇是車𤦲，腹是青寶，足則是金。復有餘鵝，七寶雜身，有鵝純色謂如銀色。有頗梨色、有純金色、有車𤦲色、有青寶色。復有餘鵝，大青寶色。復有餘鵝，迦鷄檀那勝寶之色。如業心盡，如是受樂。如是鵝者，復共勝妙端正雌鵝處處遊戲，或在池中如是遊戲。如是次在蓮華林中、山河等中，或於陸地蓮華林中柔軟地處有種種華，共彼雌鵝如是受樂。爾時，諸天入彼鵝林，多饒種種莊嚴天女，共彼天女遊戲受樂。彼天既見如是鵝已，生希有心，轉勝歡喜，迴眼普看如是勝林。

> その山は生きているかのようであり、彼方の天人は、それを見て命あるものと見なしました。かの天人の群れは山をこのように見て、実に様々な場所で遍く見ます。それは火が酥油を得て炎が盛んに燃え上がるかのようです。このようにして、かの地において、新たに生まれた天子は、七宝で荘厳された場所を見て、無量の種類を見、心に喜びを生じます。彼はその山の場所に、無量百千の天女たちの群れを見ます。これらの天女は非常に多く、豊かであり、あらゆる場所に多くの天女が様々に飾られ、その場所を満たしています。天人の群れもまた同様に、その場所を満たして、歌や舞、遊戯を共に楽しみ、五楽の音声に合わせて遊戯し楽しみます。もし劣った天人であれば、このような様々に飾られた天女は一万ほどであり、次第に三万二千となり、次第に四万、五万となり、さらに次第に乃至百千の天女に至ります。その時、これらの天女たちはその天子に対して互いに愛着し、飽きる心を生じません。全ての天女は、それぞれが「天子は私を愛している」と知るのです。かの天人はこのようにして欲の楽しみを愛し、満足することを知らず、それは火が酥油を得て炎が盛んに燃え上がるかのようです。その放逸な行いをする天子たちは、園林の樹木や蓮花の池の中、川の水の中で愛らしい天女と共に楽しみを享受します。こうして次第に、その後、彼らはその天女と共に鵞鳥の林に入ります。このような林は、かの天においてさえも稀であり、ましてや他の場所ではなおさらです。その林の中には、鵞鳥が飾りとなっており、このような鵞鳥がその林に住んでいます。その鵞鳥は銀の翼を持ち、金の翼を持つものもおり、蓮華の宝の足をしています。また他の鵞鳥は、蓮華の宝の嘴を持ち、金の宝で腹を飾られています。金の体を持つ鵞鳥もおり、背中は銀で、迦鷄檀那の勝れた宝の足を持ち、その嘴も迦鷄檀那です。また他の鵞鳥は、玻璃を背中とし、脇は車𤦲、腹は青宝、足は金です。また他の鵞鳥は、七宝が雑じった体をしており、純色の鵞鳥、例えば銀色のもの、玻璃色のもの、純金色のもの、車𤦲色のもの、青宝色のものがあります。また他の鵞鳥は、大青宝色です。また他の鵞鳥は、迦鷄檀那の勝れた宝の色をしています。彼らは業の心が尽きるまで、このように楽しみを受けます。これらの鵞鳥はさらに、勝れ麗しい雌の鵞鳥と共に、様々な場所で遊戯し、あるいは池の中でこのように遊戯します。こうして次第に、蓮華の林や山河の中、あるいは陸地の蓮華の林の柔らかい地面の、様々な花がある場所で、その雌の鵞鳥と共にこのように楽しみを受けます。その時、諸天はその鵞鳥の林に入り、多くの様々に飾られた天女たちと共に、その天女たちと遊戯し楽しみます。彼らはそのような鵞鳥を見ると、希有の心を生じ、さらに勝れて歓喜し、目を巡らせてこのような勝れた林を遍く見渡します。

「彼諸天女隨順天心，既知天子心歡喜已，語天子言：『天今當知！此名鵝林。如是鵝林甚可愛樂，種種寶樹光明殊妙，有種種寶莊嚴此林，希有功德皆悉具足。種種蓮花而為莊嚴，無量百千山峯莊嚴，有種種華莊嚴彼林，如是種種，名尚叵說。有蓮華池莊嚴彼林，於彼林中有鵝王住，名曰善時。鵝如天主牟修樓陀住此天中，彼善時鵝乃是一切鵝中之王住此林中，在名廣池遊戲受樂。牟修樓陀夜摩天王恒常來至此鵝王所，共此鵝王種種遊戲，勝共一切天眾戲時所受之樂。共餘一切諸天遊戲，皆悉不如共鵝遊戲。』

> 「かの天女たちは天の思いに従い、天子が喜んでいるのを知ると、こう語りかけた。『天よ、今知るがよい。ここを鵞林という。この鵞林は実に愛すべきもので、種々の宝樹が光明を放ち殊妙であり、種々の宝によってこの林は荘厳され、希有の功徳がすべて具わっている。種々の蓮華をもって荘厳し、無量の百千の山々の峰々をもって荘厳し、種々の花がその林を飾っている。このように種々あり、その名を説くことさえ難しい。蓮華の池がその林を飾り、その林の中に鵞王が住んでいる。その名を善時という。鵞は、天主・牟修楼陀がこの天に住むように、その善時なる鵞は一切の鵞の中の王としてこの林に住み、広池と名づけられた場所で遊戯し楽しんでいる。牟修楼陀夜摩天王は、常にこの鵞王のもとに訪れ、共に種々の遊戯をする。その楽しみは、すべての天衆と共に遊戯するときの楽しみよりも勝れている。他のすべての天と遊戯する楽しみは、ことごとく鵞と共に遊戯する楽しみには及ばない。』」

「彼天子言：『以何因緣，夜摩天王恒常共彼善時鵝王而遊戲耶？』天女答言：『如是因緣，一切天眾皆悉不知。天子今者如是心念，我今共去向彼善時鵝王之所，入彼林中，乃至到池。盡見林已，見彼天王牟修樓陀，及見鵝王。』彼始生天於天女眾如是聞已，作如是言：『我今共去，到彼鵝王、牟修樓陀天王之所。』

> ある天子が問うた。「どのような縁（えん）によって、夜摩天王（やまてんのう）はいつも共に、あの善時鵝王（ぜんじがおう）と遊んでおられるのか？」 天女（てんにょ）は答えた。「そのような因縁（いんねん）は、天人の衆（しゅう）は皆、知らないのです。天子様が今、そのように心に思われましたなら、私も共に、かの善時鵝王のもとへ参りましょう。その林の中に入り、池に至るまで、林を全て見終えたなら、かの天王・牟修楼陀（むしゅるだ）と、鵝王を拝見できます。」 その新しく生まれた天子は、天女たちからこのように聞いて、こう言った。「私は今、共に参ろう。かの鵝王と、牟修楼陀天王のもとへ。」

「爾時，如是諸天女眾共始生天，向彼林間水池之中鵝王之所。未至鵝王，已見種種天妙樹林，多饒種種鳥獸群眾，有種種色，種種鳥獸。鳥共雌鳥，獸共牝獸，如所應食，種種不同。食天根果，皆七寶身，莊嚴勝妙。中間平地於樹林中、窟穴之中、若平地處，或於河岸、蓮華池岸，或在池中、或山谷中，群群遊戲或出音聲。彼始生天見已心喜，又生希有未曾有心，眼則眴動，諸天女眾而圍遶之，詠歌音聲，如是遊戲，入彼鵝林。

> その時、この天女たちは新たに生まれた天の子と共に、林の中の池へと向かい、そこにいる白鳥の王のもとへ向かいました。白鳥の王に至る前に、彼らは既に様々な美しい天の林々を目にしていました。そこには多くの種類の鳥や獣の群れがいて、色とりどりの姿をしており、鳥は雄と雌が寄り添い、獣もまた雄と雌が寄り添っていました。それぞれが食べるにふさわしいものも異なり、天の根のような果実を食べていました。それらはすべて七宝でできた体を持ち、荘厳で素晴らしく、中間の平らな場所や、林の中の洞窟、また平らな場所、あるいは河岸や蓮の池の岸辺、池の中や谷の中などで、群れをなして遊び、ときには声を出していました。 新たに生まれた天の子はそれを見て心から喜び、また未曾有の驚くべき心を生じ、目をぱちぱちと動かしました。天女たちの群れに囲まれ、歌うような美しい音声とともに、このように遊びながら、彼らは白鳥の林へと入っていきました。

「復於一處見孔雀群在園林中，彼諸孔雀有咽起者，有以咽項相揩摩者，如是露處種種遊戲。復有孔雀七寶之身，在闇林中屏處遊戲。有共樹心而遊戲者。種種孔雀，如天所應，始生天子共諸天女如是見已，欲入鵝林。見多無量百千億數諸天女眾在鵝林中，復見餘林甚可愛樂，所謂有河第一清水，普河兩岸多有諸天及天女眾，七功德水盈滿彼河。所謂河者，名欲水河、寂靜水河、歡喜流河，名酒流河，有河名為葡萄酒流，有名隨稱一切念水，名鳥音聲可愛樂河。彼大林中如是河流，彼岸行鳥飲冷水已，而說偈言：

> また、ある場所で園林の中に孔雀の群れを見る。それらの孔雀には、鳴くものあり、首や頸を擦り合わせるものあり、このように露わな場所で様々に遊ぶ。また、七宝の身体を持つ孔雀が、闇の林の中で隠れて遊ぶ。木の心と共に遊ぶものもある。様々な孔雀が、天にふさわしい姿で、生まれたばかりの天子たちが天女たちと共にいるように見える。これを見て、鵞鳥の林に入ろうとする。そこには、無量の百千億の天女の群れが鵞鳥の林にいるのを見る。また、他の林が非常に愛らしいのを見る。すなわち、第一の清水を持つ川があり、その川の両岸には多くの天や天女の群れがいて、七種の功徳の水がその川に満ちている。その川とは、渇愛の川、寂静の川、歓喜の流れの川、酒の流れの川と呼ばれるもの、葡萄酒の流れの川と呼ばれるもの、全ての望みに応じて水を満たす川、鳥の鳴き声が愛らしい川である。その大きな林の中では、このような川が流れ、対岸の島の鳥は冷たい水を飲んでから、偈を唱える。

「『故業勿令盡，數數造新業，以本業盡故，則於天中退。若人造新業，三種三時生，故未盡造新，則不墮惡道。若畏未來世，不貪著現在，不樂過去者，不久間得脫。若心不動轉，苦樂不經心，彼智者捨身，餘處則得樂。若受故業樂，而不造新業，故業受盡已，癡者死時知。若彼癡心天，受行境界樂，若勤佛功德，不為欲所使。若有得如是，大過患之身，能不著現樂，則是智慧者。若不為欲使，畏過不貪著，復畏於惡道，則是勇健者。若心貪著樂，而不畏惡道，此癡愛樂行，由愛故退失。貪著於諸欲，得已心歡喜，修欲不得力，後時墮惡道。如電如陽焰，如乾闥婆城，如是說欲惡，能誑惑一切。』

> 「過去の業（カルマ）を使い果たしてはならない。 新たな業を繰り返し積みなさい。 もし過去の業が尽きれば、天界から堕ちてしまうからだ。 人が新たな業を積めば、三つの種類が三つの時に生じる。 だから、過去の業が尽きる前に新たな業を積めば、悪い道に堕ちることはない。 もし未来の世を恐れ、現在に執着せず、 過去を楽しむことがなければ、遠くないうちに解脱を得るだろう。 心が揺れ動かず、苦楽にも心を煩わされなければ、 その智慧ある者は身を捨てた後、他の場所で安らぎを得る。 もし過去の業による楽しみを受けながら、新たな業を積まなければ、 過去の業が尽きた時、愚かな者は死の間際に初めて気づく。 もし愚かな心を持つ天人が、境界の楽しみを受け入れて歩むなら、 仏の功徳に励めば、欲望に操られることはない。 もしこのような大きな過ちを抱える身を得ても、 現在の楽しみに執着しない者は、智慧ある者である。 もし欲望に操られず、過ちを恐れて執着せず、 さらに悪い道を恐れるならば、その者は勇ましい者である。 もし心が楽しみに執着し、悪い道を恐れなければ、 この愚か者は愛欲の楽しみに流され、愛ゆえに（天界から）退転する。 様々な欲望に執着し、それを得て心を喜ばせても、 欲望を修めても力が得られず、後に悪い道に堕ちる。 稲妻や陽炎、乾闥婆の城（蜃気楼の城）のように、 このように欲望の悪しさを説く。すべてを惑わし欺くものだからだ。」

「彼岸行鳥見始生天放逸行故，如是說偈。彼始生天新著欲故，雖聞不受。爾時彼天聞彼鳥語既不受已，復入鵝林，更受無量境界之樂。始著欲故、鵝林勝故，雖聞不取。如是鵝林枝網覆故，實與不實，一切不知。

> 「あの世へと旅立つ鳥たちは、新たに天に生まれた者たちが放逸な行いをするのを見て、このような偈（うた）を唱える。しかし、その新たに生まれた天人は、まだ欲望に染まっているため、その言葉を聞いても受け入れない。その時、その天人は鳥の言葉を受け入れず、さらに鵞（がちょう）の林へと入り、限りない欲望の快楽を味わう。まだ欲望に執着していることと、鵞の林が勝れているために、聞いても理解しようとしない。このように、鵞の林の枝葉が覆いかぶさっているために、真実も虚偽も、すべてを知ることができないのだ。」

「彼鵝林中見寶珠林，遠處遙見第一光明，復有百千光明羅網其處。諸天尚不能看，況下地天——三十三天、四天王天——而能看耶？彼天珠林如是光明，若天欲發，如是寶珠為作堂舍，行虛空中。珠內有孔，天坐其中，飛行虛空遊戲受樂。以善業故，珠為堂舍行於虛空。如是珠中有天園林蓮華水池，種種樹林，分分地處多有山峯，饒鳥音聲。如是彼天在虛空中，音聲娛樂、六欲功德一切成就，遊戲受樂。

> 彼の鵞の林の中で、宝珠の林が見える。遠くからは、第一の光明が輝くのが見え、さらに百千の光明が網の目のようにその場所を照らしている。天々でさえそれを見ることができず、ましてや下界の天々――三十三天や四天王天――がどうして見ることができようか。かの天の珠林は、このような光明を放っている。もし天人が発（おこ）そうと思えば、この宝珠が堂舎となって虚空を飛行する。珠の中には孔があって、天人はその中に座り、虚空を飛びながら遊戯し楽しみを受ける。善業のゆえに、珠が堂舎となって虚空を行くのである。このように、その珠の中には、天の園林や蓮華の水池、さまざまな樹林があり、ところどころに多くの山の峰があり、鳥の声が満ちている。かくしてかの天人は虚空の中で、音声の娯楽や六欲の功徳をことごとく成就し、遊戯して楽しみを受けるのである。

## 正法念處經卷第五十一

> 正法念処経 巻第五十一