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title: "正法念處經 · 17"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第五十二

> 正法念処経 第五十二巻

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之三十一夜摩天之十七

> 天についての観想 第三十一<note>夜摩天 第十七</note>

「又復彼天若心有念，欲下虛空，即心念時，共諸天眾從空而下，下已還至自住處住。如是寶珠還復如本，有大光明。彼諸天女為始生天如是說已。爾時，如是始生天子為欲羂縛，復樂境界，向寶珠林。見不遠處，有黃赤白無量百千種種光明滿珠林中，彼寶珠林不遠之處則有鵝林。爾時，如是始生天子於天女邊如是聞已，向寶珠林，共彼天女如是往到。既前到已，見珠光明乃有無量，當爾之時，始生天子如是憶念：『如彼異天入寶珠林虛空中行，遍見天處，我亦如是，入寶珠林如是而行。』即於念時，隨心所念，珠為堂舍，在虛空中。彼始生天空中見已，共天女眾入寶珠堂。如自善業，見彼堂中種種可愛。彼寶珠中有流水河、蓮華水池、園林山峯滿珠堂內，眼見心樂。

> また、かの天人が心に「虚空に降りたい」と念じれば、その思いと共に諸天の衆と共に虚空から降り、降りた後は自らの住処へと帰る。このようにして宝珠は元の通りとなり、大いなる光明を放つ。かの天女たちは生まれたばかりの天人にこのように語り終えた。 その時、生まれたばかりの天子は、まだ欲に縛られ、快楽の境地に執着して宝珠の林へと向かった。遠からぬところに、黄・赤・白の無量無数の百千の種々の光明が珠の林を満たしているのを見る。その宝珠の林の遠からぬところには、鵞鳥の林があった。その時、生まれたばかりの天子は天女のもとでこう聞き、宝珠の林へと、かの天女と共に赴いた。 そこに到ると、珠の光明が無量であるのを見る。その時、生まれたばかりの天子はこう思い起こした。「かの他の天人たちが宝珠の林に入り、虚空中を行きながら天の世界を余すことなく見渡したように、私もまたこの宝珠の林に入り、そのように進もう」と。 その念じた瞬間、心のままに、珠は堂舎となり、虚空の中にあった。生まれたばかりの天子は虚空の中にそれを見て、天女の衆と共に宝珠の堂に入った。自らの善業のままに、その堂の中に種々の愛すべきものを見る。かの宝珠の中には、流れる川、蓮華の池、園林、山の峰が宝珠の堂内を満たし、目に見えて心は楽しい。

「復於諸處見有諸鳥，鳥聲可愛。彼如是處有種種色形相香華。復見異處種種鳥獸，有河平岸、有河峻岸，皆悉可愛，在彼河邊復見異處，多有天子及諸天女歌舞喜笑遊戲受樂。彼如是處諸園林等，一切皆如向來所說，天子始見，共天女眾遊戲受樂放逸而行，愛不知足。又行異處，次復行到蘇陀食處，為食食故。如自善業，相似得食。食彼食已，為境界火之所燒然，復向酒河，共諸天女，愛波所漂，去向彼河飲酒地處。到彼處已，乃以珠器盛酒而飲。彼既飲酒，歡喜之心轉更增長，愛境界火之所燒然，為五境界之所迷惑，復共天女歌舞遊戲。

> また至る所で様々な鳥を見かけ、その声は美しい。そのような場所には、様々な色や形をした香る花々がある。また別の場所では様々な鳥や獣が見られ、川には緩やかな岸や険しい岸があり、どれも愛らしい。その川辺のさらに別の場所には、多くの天子や天女たちがいて、歌い踊り、笑い合い、遊び楽しんでいる。そのような場所にある園林などは、すべて先に述べた通りであり、天子は初めてそれを見て、天女たちと共に遊び楽しみ、放逸に振る舞い、愛欲に溺れて満足することを知らない。 さらに他の場所へと進み、次に蘇陀（美食）のある場所に到着した。食事のためである。自らの善業に従い、それに応じた食べ物を得る。その食べ物を食べた後、欲望の炎に焼かれながら、再び酒の川へと向かう。天女たちと共に、愛欲の波に漂いながら、その酒を飲む場所へと進む。そこに到着すると、宝玉の器で酒を汲んで飲む。彼らは酒を飲み、喜びの心はさらに増し、欲望の炎に焼かれ、五感の対象に惑わされ、再び天女たちと共に歌い踊り遊ぶ。

「彼處如是受天樂已，復向水池蓮華之林。為欲在彼池中遊戲，共天女眾受諸欲樂，是故向彼蓮華池林。到已復更受境界樂，共諸天女水中遊戲，第一勝樂，不可譬喻，受如是樂。又復欲發，悕望欲樂，欲聞音聲，貪著境界，五樂音聲，心念悕望聞天女眾歌詠之聲。五樂音聲聞已心樂，不可稱說，更無異法可以為喻。彼受如是五欲功德種種勝樂，不知厭足。以有愛故，愛不知足，如火得薪，無有足時。如是欲者，欲不可足，常無量種無量分別而受諸樂。於長久時，既受樂已，而復更於鵝林之中珠堂上坐。共諸天女下彼珠堂，在鵝林中而復更見未曾有處。如是如是見彼處已，如是如是心生喜樂，如是如是種種見已，而於境界猶不知足。如是流水、蓮華河池、園林等處，若天、天女見無量種五樂音聲，如是遊戲。又復鵝王住寬廣處，天共天女向彼鵝處。如是彼處見種種天，無量百千歌舞遊戲而受天樂，更無餘物可為譬喻。形世間日，如螢火蟲，唯除光明，更無譬喻。

> 彼らは天上でそのような楽を受けた後、さらに水辺の蓮華の林へと向かいます。その池の中で遊び、天女たちと共に様々な欲の楽しみを受けようとして、蓮華の池林へと赴くのです。到着すると、さらにまた境界の楽を受け、天女たちと共に水中で遊びます。比較することのできない、最も優れた楽を受けます。そのような楽を受けながら、さらに欲が生じ、音声を聞き、境界に執着し、五つの楽の音声に心を惹かれ、天女たちの歌う声を待ち望みます。五つの楽の音声を聞いて心は楽しみ、言葉に表せず、他に喩えるものもありません。彼らはこのように五つの欲の功徳による様々な優れた楽を受けても、飽き足りることを知りません。愛執があるからです。愛執は飽き足りることを知らず、薪を得た火のように、尽きることがありません。このように欲望は、決して満たされることがなく、常に無量の種類、無量の区別をもって楽しみを受け続けます。長い時を経て楽を受けた後、さらに鵞鳥の林の中にある宝の堂に座ります。天女たちと共にその宝の堂から降り、鵞鳥の林の中で、かつて見たことのない場所を再び見ます。このようにしてその場所を見るたびに、心に喜びが生まれ、様々なものを見ても、なお境界に飽き足りることはありません。このような流れる水、蓮華の河や池、林などの場所で、天や天女たちは無量の種類の五つの楽の音声を聞きながら、このように遊び戯れます。また、鵞鳥の王は広々とした場所に留まっており、天は天女たちと共にその鵞鳥のもとへ向かいます。そこで彼らは様々な天の姿を見ます。無量の百千の歌舞や遊戯を楽しみながら天の楽を受け、他に喩えられるものは何もありません。世間の太陽に形を例えれば、蛍の光のようなものであり、光明の点だけは別として、他に喩えはありません。

「彼處如是不可譬喻境界受樂，彼受樂天，譬喻叵得。人世界中第一美味，所謂蜜味合藥之酒、甘蔗肉等，閻浮提中此味第一，一切和合於赤蘇陀，如極苦味、蘗味不異。人中勝味於彼天味，如是劣減。如是味勝，少分譬喻，天中之味不可譬喻。彼天之香亦不可喻，如人世間第一善香，謂栴檀香、若沈水香、末香塗香、瞻波迦華、尼居私帝蘇摩那華，如是乾陀婆離師迦、憂鉢羅華、拘物頭華、尼朱羅等，此一切華皆悉和合，猶亦不如天中之華。於彼天中荏婆色華，十六分中不及其一，如是天中香，亦如是不可譬喻。又彼天中觸，亦如是不可譬喻。人世界中一切國土平等勝觸，謂憍奢耶絹及烏拏、若劫貝等，如是種種彼人中觸一切和合，於彼天中極微劣觸，謂金最堅，猶勝人中所有勝觸。於天下觸，十六分中不及其一，如是天中所有諸觸，不可譬喻。又彼天中，聲亦如是不可譬喻。人世界中第一聲者，所謂琵琶、箏笛箜篌、齊鼓歌等，如是諸聲一切和合，猶亦不如彼天之中莊嚴具聲。於彼天中莊嚴具聲，十六分中不及其一，如是天中所有音聲，不可譬喻。如是譬喻，唯可得與四天王天以為譬喻，若於第二三十三天則非譬喻，於夜摩天亦非譬喻。人中欲樂，唯可得況四天王天所受欲樂。四天王天所受欲樂，唯可得況三十三天所受欲樂。三十三天所受欲樂，唯可得況夜摩天中所受欲樂。如是次第，業力勝故，六欲天中次第轉勝，諸天境界意亦如是，天樂轉勝。意地之樂有無量種，一切和合。

> あの場所は、たとえで表すことのできない境涯であり、そこで受ける楽もまた、たとえようがありません。その楽を受ける天人は、比喩を用いることさえできないのです。 人間界で最も美味とされるもの、例えば蜜や薬酒、サトウキビや肉など、閻浮提において第一の味わいをすべて混ぜ合わせて作った赤蘇陀でさえも、天における味わいの前では、極めて苦い味やキハダの味と少しも変わりません。人間の優れた味も、天の味に比べれば、これほどまでに劣っているのです。それほど天の味は勝れており、少しの比喩すらもできません。天の香りもまた、比喩できません。人間界で第一の良い香り、すなわち栴檀香や沈水香、抹香や塗香、瞻波迦華、尼居私帝、蘇摩那華、さらに乾陀婆離師迦、憂鉢羅華、拘物頭華、尼朱羅など、これらのすべての花の香りを合わせても、天の花には及びもつきません。天の荏婆色華の香りの、十六分の一にも満たないのです。このように、天の香りもまた、まったく比喩できないのです。 さらに、天における触感もまた、比喩できません。人間界のあらゆる国で最上とされる触感、すなわち高級な絹やウンナ（極細の羊毛）、木綿などを、あらゆる種類をすべて合わせても、天における極めて劣った触感にも及びません。天において最も堅いとされる金でさえ、人間の最も優れた触感を凌駕しています。人間の触感は、天の触感の十六分の一にも満たず、このように天のあらゆる触感は、比喩できないのです。 また、天における音声もまた、比喩できません。人間界で第一の音声とされるもの、すなわち琵琶、筝、笛、箜篌、斉鼓、歌などのあらゆる音声をすべて合わせても、天における装飾具の音には及びもつきません。天の装飾具の音の、十六分の一にも満たないのです。このように、天におけるあらゆる音声は、比喩できないのです。 このような比喩は、ただ四天王天と比較するためにのみ用いることができるのです。もし第二の三十三天と比べようとすれば、もはや比喩とはなりません。夜摩天と比べようとすれば、なおさら比喩にはなりません。 人間界の欲楽は、ただ四天王天の受ける欲楽と比べることができるのみです。四天王天の受ける欲楽は、ただ三十三天の受ける欲楽と比べることができるのみです。三十三天の受ける欲楽は、ただ夜摩天の受ける欲楽と比べることができるのみです。このように順を追って、業の力が勝れているため、六欲天の中でも順に勝れていき、諸天の境涯もまた同様に、天の楽はさらに勝れていきます。意の領域の楽には無量の種類があり、それらすべてが和合しているのです。

「如是天子，彼鵝林中遊戲受樂，次第漸前，遂近鵝王。見彼鵝王在廣池中種種遊戲，共彼雌鳥住蓮華林，天眾圍遶彼大鵝王。有一蓮華，一由旬量，七寶蓮華，金剛為鬚，其觸極軟，及香色等不可譬喻，無量光明從華而出，有百千葉。彼大鵝王在彼如是蓮華中住。於節會時。節會之時，夜摩天王牟修樓陀并天眾等，鵝為說法。彼鵝王者，以願力故，生夜摩中。如是利益，生夜摩天，為夜摩天如是說法，令離放逸。

> かくのごとく、天子よ。その鵞の林にて、楽しみ戯れながら、次第に進み、ついに鵞王に近づいた。その鵞王が広大な池の中で、さまざまに遊び戯れ、雌鳥と共に蓮華の林に住み、天の衆に囲まれているのを見た。その大鵞王には、一由旬の大きさの蓮華があり、七宝でできており、金剛を蘂としていた。その触れ心地は非常に柔らかく、香りや色などは喩えようもなく、無量の光明がその花から現れ、百千の花びらがあった。かの大鵞王は、このような蓮華の中に住んでいた。節会の時には、夜摩天王の牟修楼陀が天衆と共に集い、鵞が彼らのために法を説いた。かの鵞王は、願力によって夜摩天に生まれたのである。このようにして、夜摩天に生まれ、利益をもたらし、夜摩天のために法を説き、放逸から離れさせたのである。

「爾時，如是始生天子次第漸前往到廣池。善時鵝王既見如是始生天子，為說偈言：

> そのとき、この新たに生まれた天子は順に進んで大きな池に到った。善時鵞王はその新たに生まれた天子を見て、こう偈を説いた。

「『以有渴愛故，於欲不知足，由心動諸根，不覺時已過。所愛著欲樂，無常法所攝，以樂見婦女，不覺時已過。為愛所迷故，繫屬於生死，如是愚癡者，不覺時已過。為欲牽心故，沒在癡闇中，瞋所繫縛者，不覺時已過。繫縛在地獄，不生厭離心，放逸毒所迷，不覺時已過。不調不知羞，恃姓生憍慢，心貪不知足，不覺時已過。五繩羂所縛，六法之所迷，三時中常癡，不覺時已過。不知惡趣道，惡羂所破壞，若有如是心，不覺時已過。初得欲則樂，後則不利益，以心著欲故，不覺時已過。不知前世苦，而樂著天樂，未知愛別離，不覺時已過。為業網所縛，如魚在網中，是故失善道，不覺時已過。愚癡者無心，不知有過患，沒在於癡闇，不覺時已過。眾生業羂縛，獨而無伴侶，見天女故迷，不覺時已過。乘騎諸根馬，迷失於善道，貪著三界味，不覺時已過。不知戒非戒，或復多瞋恚，失意亦失道，不覺時已過。不知利益不，迷於作不作，如小兒戲弄，不覺時已過。如河水速流，在園林池處，常受欲樂故，不覺時已過。在山頂堂中，若在蓮花林，常受欲樂故，不覺時已過。於業業報中，未曾有知解，唯貪著食味，不覺時已過。業風之所吹，常在此三界，流轉猶如輪，癡故不覺知。常在於惡處，上高梁繩上，如是愚癡者，不勤捨離過。若能捨離欲，是第一精進，離一切希望，則無諸煩惱。彼初中後時，若得佛法已，寂靜修行故，是無煩惱者。若得於欲樂，彼樂必破壞，因欲得苦報，知欲非勝法。是故有智者，心不樂於欲，彼則能斷除，生死苦因緣。』

> 「渇愛があるがゆえに、欲望に満足することを知らず、 心が感覚を動かすままに、時が過ぎ去っても気づかない。 愛著する欲の楽しみは、無常の法則に支配されている。 女性を見て喜んでも、時が過ぎ去っても気づかない。 愛に惑わされるゆえに、生死に縛られている。 このような愚か者たちは、時が過ぎ去っても気づかない。 欲に心を引き寄せられ、愚かさの闇に沈み、 怒りに縛られた者は、時が過ぎ去っても気づかない。 地獄に縛られていながら、嫌い離れようとしない。 放逸という毒に惑わされ、時が過ぎ去っても気づかない。 調伏せず、恥を知らず、家柄に驕り高ぶり、 心は貪り足りることを知らず、時が過ぎ去っても気づかない。 五つの縄に縛られ、六つの法に惑わされ、 三つの時の中で常に愚かで、時が過ぎ去っても気づかない。 悪い道筋を知らず、悪い網に破壊される。 もしこのような心を持つなら、時が過ぎ去っても気づかない。 初めに欲を得れば楽しいが、後には利益とならない。 心が欲に執着するゆえに、時が過ぎ去っても気づかない。 前世の苦しみを知らず、天の楽しみに喜んで執着する。 愛する者との別れを知らず、時が過ぎ去っても気づかない。 業の網に縛られ、魚が網の中にいるようだ。 それゆえ善い道を失い、時が過ぎ去っても気づかない。 愚か者には心がなく、過ちのあることを知らない。 愚かさの闇に沈み、時が過ぎ去っても気づかない。 生きとし生ける者は業の網に縛られ、独りで仲間はいない。 天女を見て惑わされ、時が過ぎ去っても気づかない。 感覚という馬に乗り、善い道を見失う。 三界の味に貪り執着し、時が過ぎ去っても気づかない。 戒律とそうでないものを知らず、あるいはまた激しく怒る。 心を失い、道も失い、時が過ぎ去っても気づかない。 利益になるかならないかを知らず、為すことと為さないことに迷う。 まるで子供が遊びに興じるように、時が過ぎ去っても気づかない。 川の水が速やかに流れるように、園林や池のある場所で、 常に欲の楽しみを受けるゆえに、時が過ぎ去っても気づかない。 山の頂上の堂の中や、蓮の林の中にいても、 常に欲の楽しみを受けるゆえに、時が過ぎ去っても気づかない。 業とその報いについて、かつて理解したことがなく、 ただ食べ物の味に貪り執着し、時が過ぎ去っても気づかない。 業の風に吹かれ、常にこの三界にあり、 輪のように流れ転じても、愚かなゆえに気づかない。 常に悪い場所にあり、高い梁や縄の上にいる。 このような愚か者たちは、努めて過ちを捨て去ろうとしない。 もし欲を捨て去ることができれば、それが第一の精進である。 すべての願望を離れれば、様々な煩悩は存在しない。 その最初・中間・後の時において、もし仏の教えを得たなら、 静かに修行するゆえに、煩悩のない者となる。 もし欲の楽しみを得ても、その楽しみは必ず壊れる。 欲によって苦しい報いを受けるゆえに、欲は優れた法ではないと知る。 それゆえ賢い者には、心は欲を楽しまない。 彼は断ち切ることができる、生死の苦しみの因縁を。」

「彼大鵝王為始生天如是說偈，毀呰欲法，如是說故。彼始生天漸漸前進，近於鵝王。彼始生天雖聞勝法而心不受，境界迷故，漸近鵝王而不攝法，猶著境界，受諸欲樂。現見鵝王在水中戲，入蓮華林，割取蓮華，共天女眾擲而弄之。善時鵝王而語之言：『此安隱語而不肯受，汝於後時，為何所得？』

> あるガチョウの王は、天界に生まれたばかりの者に向けて、このように偈を説き、欲望の法を非難しました。そのように説いたのです。 その新たに生まれた天人は、徐々に前に進み、ガチョウの王に近づきました。新生の天人は、すぐれた教えを聞いたものの、心に受け入れようとしません。境界（対象の世界）に迷わされているからです。次第にガチョウの王に近づくものの、教えを心に収めず、なおも対象に執着し、さまざまな欲望の楽しみを受け続けました。 その天人は、目の前でガチョウの王が水の中で遊び、蓮の林に入り、蓮の花を摘み取り、天女たちと共にそれを投げ合って戯れるのを見ました。すると、優れたガチョウの王がその天人にこう言いました。 「この安らかな言葉を、あなたは受け入れようとしない。後に、あなたは何を得るというのだろうか？」

「爾時，鳥處始生天子復聞遠處有勝妙聲，勝於天聲。聞彼聲已，心生愛樂，其聲普遍琵琶箜篌、齊鼓笛等如是種種可愛音聲。爾時彼天在廣池邊種種遊戲，既聞聲已，一切迴面向彼聲聽。爾時，遠見有百千堂周匝圍遶，天歌音聲甚為可愛，聞者欲發。端嚴殊妙如星遶月，如是如是堂行圍遶或身光明周匝輪行，一切天眾見之心樂，百千天女詠歌音聲。夜摩天主在百千葉七寶蓮華臺上而坐，無量天女之所圍遶，為聽法故，向彼善時菩薩鵝王所住之處。

> その時、鳥の住処に生まれた最初の天人は、さらに遠くから、天の音声よりも勝れた、素晴らしい音を聞きました。その音を聞いて、心に愛着と喜びを生じました。その音声は、琵琶、箜篌（くご）、斉鼓（せいこ）、笛など、このような様々な愛らしい音色に遍く満ちていました。その時、その天人は広い池のほとりで様々な遊びをしていましたが、その音を聞くと、皆、体の向きをその音の方へと変え、耳を傾けました。 遠くには、百千もの堂が周りを囲んで見え、天の歌う声は非常に愛らしく、聞く者に欲心を起こさせるほどでした。それは、星々が月を巡るように端正で殊勝であり、このように堂が列をなして周り、あるいは身の光明が巡り輪をなしているさまは、すべての天人の心を喜ばせました。百千の天女が歌う音声が響き渡る中、夜摩天主は、百千の葉を持つ七宝の蓮華の台座に座り、無量の天女に囲まれ、法を聞くために、あの善時菩薩の鵞鳥王が住んでいる場所へと向かいました。

「爾時，鵝王善時菩薩見已速迎，共餘雌鵝并餘雄鵝，無量百千勝妙七寶間錯其身，一切同時皆在虛空飛向天主牟修樓陀，復有餘鵝詠歌音聲。如是二王，一是鵝王，二是天王，迭相敬重出美妙語，迭相問訊。鵝王善時以本願故，為夜摩天除放逸故，生夜摩天。

> 時に、鵞王善時菩薩はこれを見て速やかに迎え、他の雌鵞や雄鵞たち、無数の百千もの勝れた七宝でその身を飾り、すべてが同時に虚空にあって天主牟修樓陀に向かって飛んでいった。また、他の鵞たちは歌を詠う声をあげていた。このようにして、二つの王、すなわち鵞王と天王とは互いに敬い重んじ合い、美しい言葉を交わし、互いに安否を問い合った。鵞王善時は、過去の願いのはたらきにより、夜摩天の者たちを放逸から救うために、夜摩天に生まれたのである。

「善時王言：『天王久時不來在此廣池之所，我於餘天聞如是言：「牟修樓陀夜摩天王不放逸行，共諸天眾在彼山樹具足地處看六佛塔——禮拜供養——化力書經，在彼佛塔讀說彼經，示諸天眾。」此因緣故，我今來迎。汝於彼處說法之時，我亦在此廣池之側，為遊戲天如應說法，謂第一義寂靜安隱，能除放逸，畢竟利益。以此因緣，我今如是來迎天王。我以愛法離於慢心，敬重故來。』

> 善時王が言いました。「天王が長い間、この広大な池のほとりに来られなかったため、私は他の天人の方々からこう聞きました。『牟修楼陀夜摩天王は、放逸ならざる行を為し、天人の衆と共にあの山の木々のそろった場所におられ、六つの仏塔を拝観し、礼拝供養をされた。そして、教化の力で経典を書き写され、あの仏塔の内でそれを読誦し、説示し、天人の衆に示された。』そのような因縁によって、私は今、あなたを迎えに参ったのです。あなたがそこで説法された時、私もまたこの広大な池のほとりで、遊戯の天人のために、その根機に応じて説法をしておりました。すなわち、第一義の寂靜、安穏、放逸を除き、究極の利益をもたらす法を説きました。この因縁によって、私は今このように来て天王をお迎えしているのです。私は法を愛するがゆえに、驕りの心を離れ、敬い重んじる気持ちから参上したのでございます。」

「彼時如是，牟修樓陀夜摩天王聞是語已，作如是言：『鵝王普為饒益一切夜摩諸天，利益一切夜摩諸天故在此處，今共迴還到廣池所。』說是語已，牟修樓陀夜摩天王無量天眾、諸天女眾之所圍遶，善時鵝王無量百千鵝眾圍遶，如是二王各并其眾，彼此和合，於虛空中種種音聲，心皆無垢猶如寶珠，於放逸地不放逸行，有大威德，共向廣池。到廣池已，彼廣池所一切天眾，既見天王暫止放逸，不作音聲、不相娛樂，不於水中種種遊戲，生敬重心。

> その時、ムシュクンド・ヤマ天王はこれらの言葉を聞いてこう言った。「鵞鳥の王は、すべてのヤマ天の者たちを益しようと、すべてのヤマ天の者たちを利益するためにここにおられる。今、共に戻って広い池へと向かおう」。そう言うと、ムシュクンド・ヤマ天王は無量の天の群衆や天女たちに囲まれ、善時の鵞鳥の王は無量の百千の鵞鳥の群れに囲まれ、この二王はそれぞれの従者を連れ、互いに和合して、虚空の中で様々な音を響かせた。その心は宝玉のようになんの曇りもなく、放逸の地にあっても放逸な行いをせず、大いなる威徳を備えて、共に広い池へと向かった。広い池に到着すると、その池にいたすべての天の者たちは、天王を見て一時的に放逸を止め、音を立てず、楽しみ合うこともせず、水中での様々な遊びも行わず、敬いの心を起こした。

「夜摩天王知彼天眾心調順故，語鵝王言：『善時鵝王！此時最善，今可說法。天眾見我，心皆離慢，并天女眾一切無慢，可為說法。』

> 夜摩天王は、天の衆生たちの心が穏やかになったのを知って、鵞王にこう言いました。「善き鵞王よ、まさに今が最良の時です。どうか法を説いてください。天の衆生たちは私を見て、心から慢心を離れています。天女たちも皆、一切の慢心がありません。どうか法をお説きください。」

「爾時，鵝王自念本生，曾於往世有佛，名為迦迦村陀，於彼佛所聞諸法門，所聞法中唯以一法為天眾說。語天王言：『天王善聽，我今為說。有五種法，若天若人放逸行者，是根本過。何等為五？謂放逸者其心則亂，意念異法，口宣異言。若有所說，不實無義，前後相違，動轉不定，他則不受。何以故？以其放逸心動亂故。自不能知——為何所說、為誰而說，彼則輕毀，彼則不受。以如是故，則於一切便為自輕，是放逸過。放逸過故，墮於惡道，於三惡趣隨相應生。此是初過。

> その時、鵞王は自らの過去世を思い起こしました。かつて、迦迦村陀という名の仏が在世しておられた時、その仏のもとで様々な教えを聴聞し、その中でも特に一つの教えを天の衆生のために説いたのです。鵞王は天王にこう語りました。「天王よ、よくお聞きください。今、あなたに説きましょう。五つの法があります。天の者であれ、人の者であれ、これらに放逸に身を任せるならば、それは根本的な過ちとなります。その五つとは何か。まず、放逸なる者は心が乱れ、思いは別のことに向かい、口からは異なる言葉を発します。もし何かを語っても、それは真実ではなく、意味もなく、前後矛盾し、定まらず、他人はそれを受け入れません。なぜなら、放逸ゆえに心が動揺し乱れているからです。自分自身でも、何を言っているのか、誰のために言っているのかが分からず、そのような言葉は軽んじられ、受け入れられないのです。このようにして、あらゆることにおいて自らを軽んじることになります。これが放逸の過ちです。この放逸の過ちによって、悪道に堕ち、三つの悪趣（地獄・餓鬼・畜生）にそれぞれ相応しく生まれ変わります。これが第一の過ちです。」

「『又彼放逸有第二過。何者第二？所謂不知應作不作。放逸意故，不知何者是所應作，不知何者所不應作。不知何業，不知何果，以不知業故不知果。彼愚癡者迷業果故，身壞命終墮於惡道，生地獄中。以放逸故得如是過，此第二過。

> 「また、その放逸には第二の過失がある。第二とは何か？すなわち、何をすべきか、何をすべきでないかを知らないことである。放逸な心のゆえに、何をなすべきことか、何をなすべきでないのかを知らない。どのような行いが、どのような結果をもたらすのかを知らない。行いを知らなければ、結果もまた知らない。その愚かな者は、行いと結果の道理に暗いがゆえに、体が壊れ命が終わるとき、悪い道に落ち、地獄に生まれる。放逸であるがゆえに、このような過失を受ける。これが第二の過失である。

「『又彼放逸有第三過。何者第三？若人若天以放逸故，近惡知識，不敬三寶、不求於智、不敬尊長；於過功德，不覺不知；於生死苦，不生厭離；不知雜業，謂種種業；不能翹勤，常喜睡眠，不能持戒。身壞命終墮於惡道，生地獄中。以放逸故得如是過，此第三過。

> また、その放逸（ほういつ）には第三の過失がある。では、その第三とは何か。もし人や天が放逸のゆえに、悪しき友人に親しみ、三宝を敬わず、智慧を求めず、尊い師や目上の者を敬わない。 善い行いの功徳にも、悪い行いの過ちにも気づかず、悟ろうともしない。 生と死の苦しみから逃れようと厭い離れることもなく、 様々な行為によって異なる結果が生じるという道理（業）を知らず、 精進して努力することもなく、いつも眠りを好み、戒めを守ることができない。 そうして身体が壊れ、寿命が尽きれば、悪い道に落ち、地獄に生まれる。 放逸ゆえに、このような過ちを受けるのである。これが第三の過失である。

「『又彼放逸有第四過。何者第四？謂於天中、若於人中，即初生時，命行不住，即生即滅，善業亦爾；生已即盡，死王欲至，共誰放逸？彼必別離。此有四法必定離別，何等為四？一者少年；二者安隱；三者壽命；四者具足。如是四種必定離別，智者常觀如是四種，若放逸者則不能知。若天若人放逸行者，一切不知，以不知故，墮於惡道。以放逸故得如是過，此第四過。

> 「さらに、この放逸には第四の過失がある。その第四とは何か。それは、天界にいても、人間界にいても、生まれたその瞬間から、寿命は留まらず、生じては滅する。善業もまた同じであり、生じてはすぐに尽きる。死王が近づくとき、誰と共に放逸に過ごせるだろうか。必ず別れが来るのだ。 この世には、必ず離別する四つの法がある。その四つとは何か。 第一に、若さ。第二に、安穏。第三に、寿命。第四に、満ち足りていること。 この四つは、必ず離別するものである。賢者は、常にこの四つを観察する。もし放逸に過ごす者ならば、これを知ることができない。天や人が放逸にふるまうならば、すべてを知ることなく、そのために悪道に堕ちる。放逸ゆえにこのような過失を得る。これが第四の過失である。」

「『又彼放逸有第五過。何者第五？謂於第一不可信處，而便信之。不可信中最叵信者，所謂婦女，而愚癡者信於婦女。彼愚癡者雖信婦女，然彼婦女於其不信，乃至命盡，心不離誑。一切婦女皆多諂誑，皆多幻偽，多垢破壞，其心多慢，破戒心濁。如是等過，一切婦女心皆不離，如火之熱，一切婦女不離此法。若愚癡者信彼婦女，唯有語言，然無一實。以愛貪故，為欲所牽，是故近之。如是略說放逸之行五種過患，如是五過不離放逸，是故天人應捨放逸。此放逸行障涅槃門，放逸行者身壞命終墮於惡道，生在地獄、餓鬼、畜生。以放逸故得如是過，此第五過。

> 「また、この放逸には第五の過失がある。その第五の過失とは何か。すなわち、第一に信頼してはならない相手を、あろうことか信じてしまうことである。信頼できない者の中でも最も信用ならないのが、いわゆる女であり、愚かな者は女を信じてしまう。しかし、その愚かな者が女を信じたとしても、その女は彼に対して誠実ではなく、命が尽きるまで心から偽りを離れることがない。全ての女は多くがへつらい偽り、多くがごまかし、汚れにまみれて壊れやすく、その心は驕りが多く、戒を破り心が濁っている。このような過失を、全ての女の心は必ず備えており、火が熱いという性質を離れられないように、女たちはこのような性質を離れない。もし愚かな者が女を信じたとしても、彼女たちの言葉には、たった一つも真実はない。愛欲と貪りのために、欲望に引きずられて、それゆえに近づくのである。このように、放逸の行いの五つの過患を大まかに説いた。これら五つの過失は放逸から離れない。それゆえに、天も人も放逸を捨てるべきである。この放逸の行いは涅槃への門を妨げる。放逸の行いをする者は、命終わって悪道に堕ち、地獄・餓鬼・畜生に生まれる。放逸であるためにこのような過失を受ける。これが第五の過失である。」

「『是故智者應離放逸，若捨放逸，有五功德。何等為五？所謂正行，心意正信，作所應作，不應作者則便不作，恒常用意，於一切時皆作利益。捨離放逸如毒不異，善知三世。此不放逸最初功德，不放逸故得此功德。

> 「それゆえ、賢い人は放逸（気ままな生活）を離れるべきです。もし放逸を捨てれば、五つの功徳があります。その五つとは何か。正しい行い、心の正しい信仰、なすべきことをなし、なすべきでないことは行わず、常に注意を怠らず、すべての時に利益となる行いをすることです。放逸を毒のように避け、過去・現在・未来を正しく知ること。これが不放逸（気ままにしないこと）の第一の功徳です。不放逸であることによって、この功徳を得るのです。」

「『又不放逸第二功德。何者第二？謂知輕重。近善知識，常行善業；遠惡知識，不作惡業，以彼惡業，善人嫌毀。若見惡人則皆捨離，見功德人則便親近。如是修行善意行故，不入惡道。此不放逸第二功德，不放逸故得此功德。

> また、不放逸の第二の功徳とは何か。 それは「ものごとの軽重を知る」ということである。 善き師に近づき、常に善い行いを実践し、 悪しき仲間から遠ざかり、悪い行いをしないことである。 なぜなら悪い行いは、善人たちから嫌われ、非難されるからである。 悪しき人を見ればすべてを離れ、 功徳ある人を見れば親しく近づく。 このように善い意志をもって修行するゆえに、 悪い道に入ることはない。 これが不放逸の第二の功徳であり、 不放逸ゆえにこの功徳を得るのである。

「『又不放逸第三功德。何者第三？所謂謹慎。乃至捨命，不屬婦女，不信其言。常一切時形相可見，一切婦女有二種縛，繫縛世間。唯見其色，不信其語，彼有智者如是如實觀察婦女。如是如實正觀察已，雖見歌舞喜笑遊戲莊嚴具等，心不貪著。一切放逸皆因婦女，一切婦女，是半放逸。若有能離婦女放逸，則能渡於生死大海。人世界中，人皆說言：「不放逸者得名好人。」此不放逸第三功德，不放逸故得此功德。

> また、不放逸（気をつけること）の三番目の功徳とは何でしょうか。それは「慎重であること」です。（戒めを守る人は）命を落とすようなことがあっても、女性に従属せず、その言葉を信じません。常に、あらゆる場面でその姿形を見ても、あらゆる女性には二つの束縛があり、それで世の中を縛っていると知っています。ただその色香を見て、その言葉は信じません。智慧ある人は、このように如実に女性を観察します。このように正しく観察したなら、たとえ歌や踊り、喜び笑う姿、遊び戯れる様子や身を飾る道具などを見ても、心に貪り執着することがありません。あらゆる放逸（だらしないこと）はみな女性に原因があり、全ての女性は「半分の放逸」です。もし、女性による放逸から離れることができるならば、生と死の大きな海を渡ることができるでしょう。人の世の中では、人は皆こう言います。「気をつける者を善い人と呼ぶ」と。これが不放逸の第三の功徳です。気をつけることによって、この功徳を得るのです。

「『又不放逸第四功德。何者第四？所謂謹慎不放逸者，謂於富樂欲等不信，觀知無常，作如是知：「此欲無常，轉動不定，則不可信，不久破壞，不久失滅。」如是不信安隱之事，故不放逸。一切安隱為病所壞，如是於少亦不生信，一切少年為老所壞，是故於少不生慢心。如是於命亦不生信，不生慢心，不作惡業。何以故？必為死王所劫奪故。是故不信一切有為生死之法，以不信故，不放逸行。此不放逸第四功德，不放逸故得此功德。

> また、「放逸（ふういつ）しないこと」の第四の功徳についてお話しします。第四の功徳とは何でしょうか。それは、よく気をつけて慎み深くあるとは、たとえ富や楽しみ、欲望などに対しても「これは永遠ではない」と信じないことです。無常であることを観察し、次のように知ります。「この欲望は無常であり、移り変わり定まりがなく、信頼できず、やがて壊れ、消え去ってしまう」と。このようにして、安らかな事柄を信じないため、放逸になりません。すべての安らぎは病に壊されてしまいます。そのため、たとえわずかな安らぎも信じず、すべての若さも老いに壊されてしまうため、若さを誇りに思う心を起こしません。同じく、命そのものも信じず、思い上がることなく、悪い行いをしません。なぜなら、必ず死の王に奪われてしまうからです。このように、すべての「生まれては滅びる」という有為の世界（生死の法）を信じません。信じないからこそ、放逸な行いをしないのです。これが、放逸しないことの第四の功徳であり、放逸を離れることでこの功徳を得ることができるのです。

「『又不放逸第五功德。何者第五？所謂恒常親近聖人愛樂智故，歸依三寶，聞法思義，彼臨死時，不生怖畏。以知死相、知退相故，不生怖畏。聞義天子則知退相，人欲死時則知死相，如是知故，知生惡道、知生善道，作如是知：「我生善道。」「我生惡道。」若臨死時，惡道相出，則能方便令心清淨，心清淨故，惡道相滅，善道相現。此不放逸第一勝果，甚為難得，諸親善中，此亦最勝。此不放逸第五功德，不放逸故得此功德。』

> 「さらに、不放逸の第五の功徳とは何でしょうか。第五とは、常に聖者に親しく近づき、智慧を愛好するがゆえに、三宝に帰依し、法を聞き、その意味を思惟することです。その人は、死に臨むとき、恐れを生じません。死の相（しにそう）と退失の相（たいしつのそう）を知っているからです。天人は退失の相を知り、人は死にゆくときに死の相を知ります。このように知ることで、悪道に生まれることや善道に生まれることを知り、『私は善道に生まれる』『私は悪道に生まれる』と知るのです。もし死に臨むとき、悪道の相が現れても、そのとき方便を用いて心を清らかにすることができます。心が清らかになるゆえに、悪道の相は消え、善道の相が現れます。これが不放逸の第一の優れた果報であり、極めて得難く、すべての善き親しいものの中でも、これが最も優れています。これが不放逸の第五の功徳であり、不放逸であるがゆえにこの功徳を得るのです。」

「爾時，彼處善時鵝王頌彼如來迦迦村陀佛所說偈言：

> その時、その地にいた善時鵞王は、かの如来である迦迦村陀仏が説かれた偈をこう唱えた。

「『已離欲如來，讚歎不放逸，毀呰放逸行，所至生死處。不放逸解脫，放逸故受苦，此放逸繫縛，愚者不能斷。不放逸善人，則生於天中，於天中放逸，故退時心悔。一切放逸者，生死不得脫，放逸第一羂，能縛令流轉。作所不應作，不作所應作，一切放逸者，所作皆顛倒。尚不作世法，何況出世法，是故諸智者，不讚放逸行。以是故不應，行放逸之行，如是放逸行，是惡道初使。若有能捨離，苦惱之藏處，如是勇健者，能渡有大海。』

> 「すでに欲望を離れた如来は、怠惰をしないことを称賛し、 怠惰な行いを非難される。怠惰がもたらすのは、生まれ変わる苦しみの世界。 怠惰を捨てれば解脱を得、怠惰によって苦しみを受ける。 この怠惰という束縛は、愚か者には断ち切れない。 怠惰をしない善き人は、天界に生まれる。 しかし天界で怠惰になれば、堕落するときに心は後悔する。 すべての怠惰な者は、生死の輪廻から逃れられない。 怠惰こそが最上の罠であり、人を縛って流転させる。 なすべきでないことをなし、なすべきことをなさない。 すべての怠惰な者の行いは、すべて逆さまである。 世俗の正しい行いすらもせず、ましてや出世間の行いなどできない。 それゆえ智者たちは、怠惰な行いを称賛しない。 だからこそ、怠惰な行いをしてはならない。 このような怠惰の行いは、悪道への最初の使いである。 もし苦しみの宝庫である怠惰を捨て去ることができるなら、 そのような勇猛な者は、迷いの大海を渡りきることができるのだ。」

「善時鵝王為彼天主牟修樓陀并諸天眾，如是已說過去舊法，利益天人。又彼鵝王現為天主牟修樓陀復更說法，作如是言：『有五種法對治沙門放逸之行。何等為五？所謂一切放逸行者皆受苦惱。如是之人隨何放逸，能致苦惱。捨彼放逸，知彼過已，修行功德，捨離彼故，無不饒益；不受苦惱，不善惡業則不增長，修行正行。此是沙門初對治法，放逸對治。

> 「昔、その鵞王は天主である牟修楼陀と天の衆生たちのために、過去からの古い教えを説き、天と人を利益しました。さらにその鵞王は、今度は天主である牟修楼陀に対して、次のように法を説きました。『修行者（沙門）の放逸な行いに対治する五つの法がある。その五つとは何か。すなわち、あらゆる放逸な行いは全て苦しみをもたらす。どんな放逸であっても、人はそれによって苦しみを招く。その放逸を捨て、その過ちを知り、功徳を積む行いを修行し、そこから離れることによって、利益がないことは何もなく、苦しみを受けることもない。不善の悪業は増長せず、正しい行いを修行する。これが第一の修行者の対治法であり、放逸への対治法である。』」

「『又復沙門第二對治，對治放逸。何者第二？謂見實義。實見之人，一切心意皆悉決定，如實而見。如實見故，不行放逸，以如實見放逸過故。此是第二放逸對治。

> 第二の対治法について。在家者は放逸への対処として、何をなすべきか。それは「真理を観ること」である。真理を観た人は、その心がすべてにおいて確固として定まり、あるがままに見る。あるがままに見るからこそ、放逸な行いをせず、放逸の過ちをあるがままに知るからである。これが第二の放逸への対治法である。

「『又復沙門第三對治，對治放逸。何者第三？所謂親近不放逸者，受戒持戒。如彼所行如是而行，如彼所作亦如是作。於持戒者常與同處，於破戒者捨而不近。是故放逸，一切皆無。此是第三放逸對治。

> さらに、修行者に対する第三の対治法は、放逸を断つためのものです。では、第三とは何か。それは、決して怠らない者と親しくし、戒律を受け、それを守ることです。その人の行いに従って自らも行い、その人のなすことに自らも従います。戒律を守る者と常に共にあり、戒律を破る者からは離れて近づきません。ゆえに、あらゆる放逸は生じることがありません。これが第三の、放逸に対する対治法です。

「『又復沙門第四對治，對治放逸。何者第四？謂求智故，常近智者、常樂智者，捨離放逸。近不放逸如是謹慎不放逸者，樂近苦遠，彼善男子恒常如是不放逸行。此是第四放逸對治。

> また、修行者に対する第四の対治法は、放逸（気ままな生活）への対処です。第四とは何か。智慧を求めるがゆえに、常に智者に近づき、常に智者を喜び、放逸から離れることです。放逸ならざることに近づき、このように慎重に放逸しない者は、楽しく善きことに近づき、苦しみから遠ざかります。その善き人は、常にこのように放逸しない行いをします。これが第四の放逸への対治法です。

「『又復沙門第五對治，對治放逸。何者第五？所謂有王、若王大臣執放逸者，與其罪罰或斷其命，或時盡奪一切財物，或時與杖，或截其手。如是種種與放逸者異異刑罰，彼既見已，心生怖畏。以怖畏故，捨離放逸，不放逸行。如是對治捨離放逸，以見他人受如是罰，生怖畏故。隨順法行，畏行放逸墮於地獄，是故不作一切惡行。此是第五放逸對治。如是放逸，於天於人則非安隱。』

> 「また、出家者は第五の対治法として、放逸への対処を行う。その第五とは何か。すなわち、もしも王や王の大臣が、放逸な者を捕らえて罰を与え、あるいはその命を断ち、あるいは全ての財産を奪い、あるいは杖で打ち、あるいはその手を切り落とす。このように様々な刑罰を放逸な者に与えるのを、その人は見て心に恐れを抱く。その恐れによって放逸を離れ、放逸でない行いをする。これが放逸を離れるための対治法である。他人がこのような罰を受けるのを見て、恐れを生じるからである。そして教えに従って行い、放逸な行いをすれば地獄に堕ちると恐れて、あらゆる悪行を行わない。これが第五の放逸に対する対治法である。このように放逸とは、天においても人においても、安らかなものではないのである。」

「彼多天眾聞是經已，捨離放逸。牟修樓陀夜摩天王既聞鵝王所說經已，起隨喜心，復共天眾飛昇虛空，如其本來，還如是去。自餘諸天，有在廣池更受樂者，有向林中而受樂者。既入園林種種受樂，如是乃至愛善業盡。善業盡故，於彼處退。彼處退已，如自業行，或墮地獄、或墮餓鬼、或墮畜生。若以餘業生於人中，則生第一富樂之處，黠慧利根，多所知見，有智慧命，以有智慧是故大富，為王所愛。以餘業故。

> 多くの天人はこの経を聞いて、放逸を捨てました。牟修楼陀夜摩天王は、鵞王が説いた経を聞いて、随喜の心を起こし、再び天人たちと共に虚空に飛び上がり、元の場所へと帰っていきました。残りの天人のうち、広い池でさらに楽しむ者もいれば、林の中に向かって楽しむ者もいました。園林に入って様々な楽しみを得ましたが、善業が尽きると、そこから退去することになりました。その退去後は、自らの業の行いに応じて、地獄に堕ちる者、餓鬼に堕ちる者、畜生に堕ちる者がありました。もし余りの業によって人間に生まれるならば、最も富み楽しさのある場所に生まれ、賢く利根で、多くの知識と見解を持ち、智慧ある命を生き、智慧があるがゆえに大変裕福となり、王から愛されることになります。これは余りの業によるものです。

「成就地竟。

> 地の位を成就し終えたならば。

「又彼比丘知業果報，觀夜摩天所有地處。彼見聞知：復有地處名光明圍。眾生何業生於彼處？彼見聞知或天眼見：若善男子曾聞法義，受戒持戒，正見不邪，不惱亂他，心意正直，不殺不盜，如前所說，復捨邪婬，畏邪行故，乃至不觀畫婦女像，常行善業，善修淨命。如是之人身壞命終生於善道，天世界中，光明圍處。生彼處已，善業力故，天妙境界五欲功德種種受樂，六根所使，樂見園林。如是如是見種種法，如是如是六根增上。以增上故，則能驅使地處平正，第一柔軟，七寶間雜，甚可愛樂。彼地之中若有樹生，觸極軟滑，金果銀葉，勝觸香味皆悉具足。如是天果，如意出香，如意生味。

> また、かの比丘は業とその報いを知り、夜摩天にある全ての土地を観察する。彼は見聞して知る。さらに「光明囲」という土地がある。いかなる業によって衆生はその地に生まれるのか？彼は見聞し、あるいは天眼で見る。 もし善男子が、かつて法の意味を聞き、戒を受け戒を保ち、正見を持ち邪見でなく、他者を悩ませず、心がまっすぐで正しく、殺生・盗みをせず（前述の通り）、さらに邪な淫行を捨て、邪行を畏れるゆえに、絵に描かれた女の姿でさえも見ず、常に善行を修め、清らかな生活をよく保つならば、そのような人は命終の後、善き道、天の世界の「光明囲」の地に生まれる。 その地に生まれた後、善業の力によって、天の妙なる境涯と五欲の功徳による様々な楽しみを受け、六根に導かれて園林を見ることを喜ぶ。このようにして様々な法を見ると、このように六根はさらに増上する。増上するがゆえに、その土地の地勢は平らで正しく、何よりも柔らかく、七宝が織り交ざり、非常に愛でたいものとなる。その地に生える木々は、触れると極上の滑らかさがあり、金の果実と銀の葉を持ち、優れた触覚と香りと味わいをすべて備えている。このように天の果実は、心のままに香りを放ち、心のままに味わいを生じる。

「彼處諸天若有是心，欲令彼果如意出酒，即有觸香色味具足天之美酒，從果流出在於樹下。時彼諸天共天女眾執珠寶器，承而飲之。如是天酒有下中上，香味觸等。業無量故，如彼業因，如是得酒，有下中上。又復餘天有無量種受五欲樂，為放逸燒，樂見園林歌舞喜笑，處處遊戲相隨而行，向彼園林。如是如是，隨所行道，見異異種微妙之色。彼所得味，有無量種無量分別種種勝味。彼所嗅香，有無量種無量分別種種妙香。與心相應。彼憶念觸，有無量種無量分別受樂相應天妙之觸。彼天所聞天妙音聲，有無量種無量分別心樂相應，聞已歡喜，第一持戒勝善業故。五欲功德皆悉具足而受樂行，彼天如是受樂行故，乃經久時，如是受樂，不知厭足。

> そこの天人は、もし「あの果実から思い通りに酒を出させよう」という心を起こせば、たちまち香り・色・味を備えた天界の美酒が果実から流れ出し、樹の下に現れます。その時、天人たちは天女の群れと共に宝珠の器を手に取り、それを受け飲みます。こうした天の酒には下・中・上の区別があり、香り・味・触感に差異があります。業に限度がないように、彼らの業因に従って、このように酒を得て、下・中・上の差があります。また別の天人は、無数の種類の五欲の楽を受け、放逸の火に焼かれ、園林を見て歌舞・喜笑を楽しみ、あちこちで遊戯しながら連れ立って、その園林へ向かいます。このように、歩む道に従って、様々に異なる微妙な色を見ます。彼らが味わう味には、無数の種類・無数の区別・様々な勝れた味があります。彼らが嗅ぐ香りには、無数の種類・無数の区別・様々な妙なる香りがあり、心と相応します。彼らが念じる触感には、無数の種類・無数の区別があり、楽を受ける心と相応した天の妙なる触れがあります。彼らが聞く天の妙なる音声には、無数の種類・無数の区別があり、心の楽と相応し、聞いて歓喜します。これは最上の戒を保つ勝れた善業の故です。五欲の功徳をことごとく具えて楽を受けながら過ごし、彼ら天人はそのように楽を受けて過ごすため、長い時間を経ても、こうした楽を受けても飽き足りることを知りません。

「復更遠見，名心樂林，無量百千寶樹莊嚴。彼心樂林如是可愛，枝葉根莖各各別別。一廂銀林，其白如雪，名銀樹林，其光猶如閻浮提中月之光明。彼一一樹端嚴殊妙，天若見者，心則受樂。又復一廂，赤色猶如迦鷄檀那，甚赤無比，有赤光明，其葉亦赤。如是葉等，和合成林，如是赤林極為可愛。彼林赤故，遍照虛空一切皆赤。又復一廂名常樂林，其林一廂有青園林，其林普青，青影光明。彼林一廂如是光明，端嚴殊妙，如閻浮提虛空不異，是毘琉璃寶之光明。如是彼處名常樂林。復次一廂是頗梨林，光明清淨根莖枝葉，多有無量流水河池皆悉具足。又彼大林次復一廂，青寶樹林，根莖枝葉青色光明。於樹枝中有種種鳥，鳥種種聲，多有種種妙蓮花池而為莊嚴。彼天園林如是光明，端嚴勝妙。

> さらに遠くに見えるのは、「心楽林（しんぎょうりん）」という園林です。そこには無数の宝の木々が飾り立てられています。その心楽林はなんと愛らしいことでしょう。枝、葉、根、茎がそれぞれ異なり、区画ごとに別々の姿を見せています。 一つの区画は銀の林。雪のように白く、「銀樹林」と呼ばれ、その光はあたかも閻浮提（えんぶだい）の月の明かりのようです。一本一本の木がたいへん美しく、天人が見れば心から楽しみを受けます。 また別の区画は、迦雞檀那（かけいだんな）のように鮮やかな赤色で、この上なく赤く、赤い光を放ち、その葉もまた赤いです。こうした葉が寄り集まって林を成し、その赤い林はとても愛らしいものです。 林が赤いため、その光は虚空いっぱいに照り映え、すべてが赤く染まります。 さらにまた別の区画は「常楽林（じょうらくりん）」と呼ばれます。その林の一区画には青い園林があり、林全体が青く、青い影の光を放っています。その林の一区画の光は、とても美しく、閻浮提の虚空が毘瑠璃宝（びるりほう）の光を放つのと異なりません。このような場所が常楽林です。 さらに別の区画は頗梨林（はりりん）で、根や茎、枝や葉は清らかな光を放ち、たくさんの流水や河、池が完全に備わっています。 また、その大きな林の次の区画は、青宝樹林（しょうほうじゅりん）。根、茎、枝、葉すべてが青色の光を放っています。その枝々にはさまざまな鳥がいて、様々な声で鳴き、さまざまな美しい蓮の池が飾りとなっています。 この天の園林は、このように輝かしく、この上なく美しいのです。

「爾時，彼處光明圍地一切諸天自身光明，為欲遊戲受諸樂故，向心樂林。於彼林中遊戲受樂，愛林所繫，五欲功德，受天快樂，不知厭足。又復遊戲種種受樂，入心樂林。彼林之內有種種色、有種種味、有種種香，花果具足，多有妙蜂莊嚴其林，處處普遍。又復多有可愛鳥眾，種種可愛妙蓮花池，種種可愛樹枝屋舍，散華遍地，地觸柔軟，甚可愛樂。多有無量百千天眾，是故彼處如是端嚴。樹枝屋舍，多有蓮華、流水池河，種種山谷多有諸樹。歌舞喜笑，種種遊戲莊嚴具聲，猶如歌音；微風動林，枝花垂挑。是故彼林如是嚴好。爾時，彼天入彼林中，轉勝歡喜，復更歌舞遊戲喜笑，迭共受樂。於一切時心樂境界，其心恒常念行放逸。

> その時、あの光明に包まれた地にいた天々は、自らの身の光を放ちながら、遊び楽しむために心楽林へと向かった。 そこで彼らは林の中で遊び楽しみ、愛欲に縛られ、五つの欲の功德にふけり、天の楽しみを受けて満足することを知らなかった。また、様々に遊び楽しみながら心楽林へと入った。 その林の中には、様々な色、様々な味、様々な香りを持つ花や果実が満ちていた。見事な蜂たちが林を飾り、あらゆる場所に広がっていた。また、愛らしい鳥たちが多く集い、様々な魅力的な蓮の池があり、美しい枝でできた巣があり、散った花が地面を覆い、手触りは柔らかく、実に愛でるべきものであった。 無数の百千の天々が集い、その場所はこのようにして荘厳であった。枝の巣には多くの蓮があり、水の流れる池や川があり、様々な谷や多くの木々があった。歌や舞、笑い、様々な遊びの道具の音が、あたかも歌声のようであった。微風が林を揺らし、枝や花が垂れ下がった。そのため、その林はこのように美しかった。 その時、天々はその林に入り、ますます喜び、さらに歌い、舞い、遊び、笑い合い、共に楽しんだ。常に心の楽しみの境地にあり、その心は常に放逸に思いを馳せていた。

「彼諸天眾如是受樂，乃至久時，復入七寶曼陀羅林。彼林可愛，林中最勝，猶如山王。所有光明勝百千日，遶蓮華池以為莊嚴。曼陀羅林有孔雀王，名曰雜色，種種七寶間錯斑雜，所出音聲普遍彼林。實是菩薩以願力故，生彼天中，為放逸天除放逸故。見彼諸天五境界火之所燒故，住樹枝中，勇猛無畏，生憐愍心告彼天言：『此諸天等多放逸行，不慮後退。此樂欲盡，無常不住。一切天樂速疾已過，如山中河其流迅速而不覺知。心常著樂，以惡愛故。』

> 「その天の衆生たちはこのように楽しみを受け、長い時を経て、再び七宝でできた曼陀羅の林へと入る。その林は愛らしく、林の中でも最も優れており、まるで山の王のようである。すべての光は百千の太陽よりも勝り、蓮華の池を巡らせて荘厳としている。曼陀羅の林には雑色と名づけられた孔雀の王がおり、種々の七宝が入り交じって斑模様をなし、その発する音声は林全体に広がる。実にこれは菩薩が願力によって、その天に生まれ、放逸な天たちの放逸を取り除くためなのである。彼は、その天たちが五つの境界の火に焼かれているのを見て、樹の枝の中に住みながら、勇猛で恐れることなく、憐れみの心を起こして、その天たちに告げた。 『これらの天々は多くが放逸の行に浸り、後に退転することを顧みない。この楽しみは尽きようとしており、無常であってとどまることはない。すべての天の楽しみは速やかに過ぎ去る。それは山の中の川が速やかに流れるようなものであるが、彼らはそれに気づかない。心は常に楽しみに執着し、悪しき愛着のゆえにである。』」

「爾時，雜色孔雀鳥王而說偈言：

> その時、雑色の孔雀の鳥王が、次のように詩句を唱えました。

「『所作如夢見，住處如見焰，城如乾闥婆，天如是著欲。天為愛所生，終竟必破壞，謂樂不可盡，天如是著欲。樂不久則失，如河流速過，為欲城所誑，天如是著欲。如風吹動水，彼水中見月，猶如旋火輪，天如是著欲。如電之流動，如鹿愛之焰，如水沫不堅，天如是著欲。如芭蕉葉動，又亦如象耳，不善人所愛，天如是著欲。如金波迦果，如有食鐵鉤，如幻之無常，天如是著欲。皆虛誑無物，暫時不停住，初時味則甜，天如是著欲。唯放逸一味，是有縛之因，速使入惡道，天如是著欲。愛惡物謂好，常可畏常妨，如毒如刀等，天如是著欲。』

> 「行為は夢のようであり、住まいは陽炎のように見える。 城は乾闥婆（幻の神々）のようなもの、天の者たちはこのように欲望に執着する。 天の者たちは愛から生まれ、結局は壊れてしまう。 楽は尽きることがないというが、天の者たちはこのように欲望に執着する。 楽は長く続かずすぐに失われる、まるで川の流れが速やかに過ぎ去るようだ。 欲望の城に欺かれ、天の者たちはこのように欲望に執着する。 風が水面を動かすように、そこに映る月を見る。 それは回る火の輪のようなもの、天の者たちはこのように欲望に執着する。 稲妻のように流れ、鹿が愛する陽炎のように。 水の泡のように頼りなく、天の者たちはこのように欲望に執着する。 芭蕉の葉が揺れるように、また象の耳のように。 善からぬ人々に愛されるもの、天の者たちはこのように欲望に執着する。 金波迦果のように、あるいは鉄の鉤を食べるかのように。 幻のように無常であり、天の者たちはこのように欲望に執着する。 すべては虚偽であり実体がなく、一時も留まることはない。 最初は味わいが甘いが、天の者たちはこのように欲望に執着する。 ただ放逸という一味だけがあり、それは束縛の原因である。 速やかに悪道へ導く、天の者たちはこのように欲望に執着する。 愛すべきでないものを良いと思い、常に恐れ、常に妨げとなる。 毒や刀のようなもの、天の者たちはこのように欲望に執着する。」

「彼心樂林如是孔雀名雜色王，為調伏天如是說偈。善意願故，於天中生。彼孔雀王用人中物，以為譬喻，為天眾說。何以故？令天聞已，憶本生故；以憶本生，知業果故，修行無常；修無常故，不放逸行。是故雜色孔雀鳥王，以人中喻，為天說法。說何等法？謂無常法。為說欲過，說欲無常。

> 「その心は林を楽しみ、その孔雀は雑色王と名付けられ、天を調伏するために、このように偈を説いた。善意の願いによって、天の世界に生まれたのである。その孔雀王は人間の世界の物事を用いて譬えとし、天の衆のために説いた。なぜか。天がそれを聞いて、自らの前世を憶い起こすためである。前世を憶い起こすことにより、業とその果報を知り、無常を修するからである。無常を修するゆえに、放逸ならざる行いをする。それゆえに、雑色の孔雀鳥王は、人間の譬えをもって、天のために法を説く。いかなる法を説くのか。すなわち、無常の法である。欲望の過ちを説き、欲望の無常を説くのである。」

「爾時，有天聞所說法，憶本前生。以憶本生，知業報故，於少時中不放逸行，生於善意。彼天少時生於善意不放逸行，少時利益、少時安隱，種未來世無量百千安隱生處善業種子，是故菩薩雜色鳥王說如是法。爾時天眾猶故著樂，入彼林中，以蓮華鬘莊嚴身首，自身光明莊嚴其身，五樂音聲種種受樂。於彼林中，無量河池水流盈滿具足莊嚴，天眾見已，放逸而行，於生老死不生怖畏，歌舞遊戲不知厭足。更入餘林，彼林名鬘。鬘林之樹無量百千，其樹枝華種種異色間雜不同，有無量種形相色香種種妙花，枝枝具足。如是妙華大小均等，希奇得所。於彼林中有七寶蜂，其音可愛，在彼華中共天遊戲。彼諸天等，取彼華鬘，共天女眾相擲嬉戲。天及天女本自端正，以著如是妙花鬘故，十倍勝本。迭互一心，於彼林中遊戲受樂，折取花枝。其花香氣遍五由旬，有十由旬、二十由旬、三十由旬。如是彼林天香具足，無量種花和集而有。

> ある時、ある天人が説法を聞き、自らの前世を思い出しました。その前世を思い出したことで、因果応報の道理を知り、しばらくの間、放逸な行いをせずに善い心を持ち続けました。その天人は、ほんの一時でも善心を持ち、放逸を離れて、わずかな利益と安らぎを得て、未来における無数の安らぎの生まれ変わりに結びつく善業の種を植えました。これが、菩薩である雑色鳥王が法を説いた理由です。 その時、天の衆はまだ楽しみに執着し、その林の中へ入って行きました。蓮華の花輪で身や頭を飾り、自らの光明で身を輝かせ、五種の音楽の音声に合わせて様々な楽しみを享受しました。その林には、無数の池や川が水を満たして荘厳に飾られていました。天の衆はそれを見て、放逸な振る舞いをし、生・老・病・死を恐れず、歌い踊って楽しむことに飽きることを知りません。そしてさらに別の林へと赴きました。その林の名は「鬘林」といいます。 鬘林には無数の木々があり、その枝には様々な色の花が入り混じって咲き、多種多様な形、色、香りの美しい花が、一枝一枝にたっぷりとついていました。その美しい花々は、大きさも均等で、不思議なほど調和が取れていました。その林の中には七宝でできた蜂がおり、愛らしい音を立てて、花々の中で天の衆と共に遊んでいました。天の衆はその花輪を手に取り、天女たちと互いに投げ合って遊興しました。彼ら天と天女たちはもともと端正な姿をしていましたが、そのような美しい花輪を身につけたことで、以前にも増して十陪も美しくなりました。一心に互いに遊び、その林の中で楽しみ、花の枝を折り取りました。 その花の香りは五由旬、あるいは十由旬、二十由旬、三十由旬にも広がりました。このように、鬘林の香りは充満し、無数の花が集まってそこにあったのです。

「爾時，彼天如是遊戲受諸樂已，復向酒河，河名歡喜。其河甚大，彼酒音聲，觸味香色皆悉具足，在河而流。彼天見已，坐河岸上，取而飲之。彼復有鳥，名為常樂，見彼諸天在歡喜河而飲酒故，為說偈言：

> その時、かの天人は、このように遊び楽しみ、様々な快楽を味わった後、さらに「歓喜」という名の酒の川へと向かいました。その川は非常に大きく、酒の音、味、香り、色のすべてが完璧に備わって流れていました。天人はそれを見て、川岸に座り、その酒を汲んで飲みました。そこに「常楽」という名の鳥がいて、かの天人が歓喜の川で酒を飲んでいるのを見て、次のような偈を唱えました。

「『沒入放逸海，貪著諸境界，此酒能迷心，何用復飲酒？為境界火燒，不知作不作，園林生貪心，何用復飲酒？』

> 「放逸の海に沈み、さまざまな欲望の対象に執着する。 この酒は心を迷わせるものだ。どうしてまた酒を飲むことがあろうか。 欲望の炎に焼かれ、何をすべきか、すべきでないのかもわからなくなる。 園林にさえも貪りの心が生じる。どうしてまた酒を飲むことがあろうか。」

「彼常樂鳥見樂酒天在河飲酒，為調伏故，如是說偈。彼天聞已，猶故飲酒，不休不止，心生歡喜。自身光明周圍如鬘，復以花鬘莊嚴身體，飲酒遊戲不知厭足。五欲功德，五樂音聲，歌舞遊戲，次第復向華枝舍林，希望欲樂，故到彼林，共天女眾歌舞喜笑。

> 彼の常楽鳥は、楽酒天が川で酒を飲んでいるのを見て、調伏のためにこう偈を唱えた。天はそれを聞いてもなお酒を飲み続け、やめることも止まることもせず、心に歓喜を生じさせた。自身の光明は周囲に花の鬘のように輝き、さらに花の鬘で身体を飾り、酒を飲み遊戯して飽きることを知らない。五欲の功徳、五楽の音声や歌舞遊戯を楽しみながら、次第に華枝舎林へと向かい、欲望の楽しみを望んでその林に至り、天女たちと共に歌舞し喜び笑った。

「爾時，彼天見彼樹林眾花具足，心生歡喜。以先聞故，見則歡喜。如是勝妙可愛園林，有七寶蜂而為莊嚴，天眾見已，生希有心，迴眼普看，不生厭足。彼天女眾皆亦如是，見五千種百千分別華舍具足，彼諸天女見則入中，歌舞遊戲而受快樂。彼樹枝葉甚可愛樂，密覆如屋。彼眾樹枝是種種寶，所謂枝者，毘琉璃枝，金葉所覆，若金枝屋，毘琉璃葉之所覆蔽，迦鷄檀那妙好色果具足而有。迦鷄檀那青寶樹枝，銀色葉覆。若頗梨樹，金果具足。若彼有樹迦鷄檀那以為枝者，青寶葉覆，金果具足。若頗梨樹，頗梨枝屋，金葉密覆，大青寶果具足而有。隨念莊嚴，皆悉可愛，蜂眾圍遶，音聲美妙遶華枝屋。彼枝舍內，如是嚴好，天欲受樂則入其中，以善業故。又，枝舍外種種具足，有蓮華池，蓮花金葉，皆毘琉璃，青寶為鬚，白銀為臺，周遍林外，無量蜂眾而為莊嚴。鵝鴨鴛鴦、迦曇婆羅出妙音聲，聞者心樂。是故彼林甚為微妙。彼蓮花林其外華池，如鬘不異，寶花枝舍周圍彼林，處處普遍。

> その時、かの天人は、その林に様々な花が満ち溢れているのを見て、心に歓喜を生じました。以前に（その素晴らしさを）聞いていたから、見てもまた喜んだのです。このように素晴らしく愛らしい園林は、七宝の蜂によって飾り立てられていました。天の衆はそれを見て、希有の思いを起こし、目を回らせてあまねく見渡しても、飽き足りることがありませんでした。かの天女たちも皆、同じように、五千種、百千種に分別された華の精舎が完備しているのを見ると、それらの中に入って、歌舞遊戯をして楽しみました。かの木々の枝葉は大変愛らしく、密に覆いかさなって、ちょうど家屋のようでした。かの多くの木の枝は、種々の宝から成っていて、言わば、その枝は毘瑠璃の枝で、金の葉が覆っており、あるいは金の枝の家屋には、毘瑠璃の葉が覆いかぶさっていました。迦雞檀那（かきだんな）という素晴らしい色の果実が十分に備わっていました。迦雞檀那の青宝の木の枝には、銀色の葉が覆っていました。もし頗梨（はり）の木ならば、金の果実が十分に具わっていました。ある木は、迦雞檀那を枝として、青宝の葉で覆われ、金の果実が十分にありました。もし頗梨の木ならば、頗梨の枝の家屋に、金の葉が密に覆いかぶさり、大きな青宝の果実が十分に備わっていました。思いのままに荘厳されて、すべて愛らしく、蜂の群れが周囲を取り巻き、その音声は美妙で、花の枝の家の周りを巡っていました。その枝の家の内は、このように荘厳で、天人が快楽を受けようと思うと、その中に入るのでした。善意の業によるものです。また、枝の家の外には、種々のものが備わっていて、蓮華の池がありました。蓮の花の金の葉は、みな毘瑠璃で、青宝を蘂（しべ）とし、白銀を台としていました。林の周りを巡って、無量の蜂の群れが荘厳していました。鵞鳥や鴨、鴛鴦、迦曇婆羅（かどんばら）が妙なる音声を発し、聞く者の心を楽しませました。それゆえに、かの林は非常に微妙でした。その蓮華の林の外側にある華の池は、まるで花鬘（けまん）が途切れないようでした。宝の花と枝の家は、かの林の周囲を取り巻いて、あまねく至る所にありました。

「蓮華輪外復有樹林，如是林者有鳥獸住，心皆歡喜。有在樹下依樹坐者，有遊行者，有在林中食天美果華根等者。果花根等，有第一色香味觸等和合具足。如是鳥獸，雄雌、牝牡皆各相隨。又彼鳥獸聞天歌已，開眼張耳，羽毛皆竪，歡喜心樂。又彼鳥獸，雄雌、牝牡各各相隨，在於樹下柔軟觸地，迭相看面而受快樂，或共遊戲。諸獸嚼咽，牝牡同處，迭相看面，共受快樂。其身皆是七寶間雜，在於林中如是受樂。

> 蓮華の輪の外側には、さらに林がありました。その林には鳥や獣が住んでいて、皆、心から喜んでいました。木の下に寄りかかって座っているもの、歩き回っているもの、林の中で天の美しい果実や花、根などを食べているものがいました。果実や花、根などは、第一級の色・香り・味・感触などを備え、調和と喜びに満ちていました。 そうした鳥や獣たちは、雄と雌がそれぞれ連れ添っていました。また、彼らは天の歌声を聞くと、目を見開き、耳をそば立て、羽毛や毛を逆立てて、喜びと楽しさに満ちました。鳥や獣たちは、雄と雌がそれぞれ寄り添いながら、柔らかい感触の地面のある木の下で、互いの顔を見合い、喜びを味わい、共に遊びました。 またある獣たちは、噛み砕き飲み込みながら、雄と雌が同じ場所にいて、互いを見合い、共に楽しみました。彼らの身体はすべて七宝で彩られていて、林の中でこのように楽しんでいたのです。

## 正法念處經卷第五十二

> 正法念処経 第五十二巻