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title: "正法念處經 · 24"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第五十九

> 正法念処経 第五十九巻

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之三十八夜摩天之二十四

> 観天品 第三十八<note>夜摩天 第二十四</note>

「爾時，菩薩鵝王名曰善時，攝諸鵝眾，以正念心、利益一切眾生之心，觀諸鵝眾心受快樂，獨在一窟思惟念法。如是善時鵝王愛念法樂，為他說法以為悅樂。復有餘鵝亦思念法。爾時天眾以歡喜心，為求樂故，來向此處，觀此大池周遍可愛，一切時樹花果具足。天眾觀之，及天女眾歡喜歌舞，遊戲受樂，百倍增長，圍遶大池。

> 爾の時、菩薩たる鵞の王、名を善時といい、多くの鵞の群れを統べていた。彼は正しい心と、一切の衆生を利益せんとする心をもって、鵞の群れが心より楽しみを受けているのを見つつ、自らは一つ洞穴に留まり、法を思惟していた。この善時鵞王は、法の楽しみを愛し、他の鵞のために法を説いて喜びとしていた。また、他の鵞たちもまた法を思念していた。その時、天の衆たちは喜びの心をもって、楽しみを求めてこの場所にやって来た。彼らはその広大な池が周囲にわたって愛らしく、常に木々が花と実を備えているのを観た。天の衆と天女たちはそれを見て、喜び歌い舞い、遊び戯れて楽しみ、その喜びは百倍にも増し、大きな池を囲んでいた。

「爾時，菩薩鵝王見天眾已，以成就慧而說頌曰：

> その時、菩薩であるガチョウの王は、天の衆生たちを見て、完成された智慧をもって、次のように詩で説いた。

「『智者不放逸，能斷於放逸，則昇智慧臺，得無上安隱。若斷於放逸，得勝寂滅道，入此廣大道，智慧到涅槃。放逸能障道，令心過相續，以是放逸故，破壞法橋梁。能壞於善念，失於解脫道，以是放逸故，將人至惡道。以放逸亂心，不覺時利益，不知語作法，不覺如死人。雖住於天身，如畜生無異，放逸癡所壞，或舞或歌笑。或生或退沒，當生已復滅，三界諸眾生，放逸故轉行。造作一切過，惡業之所縛；迷惑一切法，放逸怨所轉。以放逸所害，不知於內法，亦不知外法，不覺失其心。智者所輕笑，而天子行之，無羞無人罰，為放逸所害。心樂於遊戲，亦常樂歌舞，於境界無厭，退失於天處。為放逸所誑，於怖處而笑，猶如盲冥人，不知道非道。』

> 「智慧ある者は、怠りなく、弛み（放逸）を断ち切ることで、</row><row>智慧の台座に上り、無上の安らぎを得るのだ。</row><row>もし放逸を断ち切れば、勝れた静かな滅びの道（寂滅道）を得て、</row><row>この広大な道に入り、智慧によって涅槃に至る。</row><row>放逸は道を妨げ、心に過ちを次々と生じさせ、</row><row>そのために、法という橋を壊してしまう。</row><row>善い思いを壊し、解脱の道を失わせ、</row><row>この放逸のために、人を悪道へ導く。</row><row>放逸で心が乱れると、時の利益に気づけず、</row><row>言葉や行為の作法も分からず、まるで死人のようになる。</row><row>たとえ天の身を持っていても、畜生と変わらない。</row><row>放逸という愚かさに壊されて、ある者は踊り、ある者は歌い笑う。</row><row>ある者は生まれ、ある者は衰退し、生まれてはすぐに滅びていく。</row><row>三界のすべての衆生は、放逸ゆえに生死を繰り返す。</row><row>すべての過ちを作り、悪業に縛られ、</row><row>すべての法に惑わされ、怨みの放逸に振り回される。</row><row>放逸に害されると、内なる法を知らず、</row><row>外なる法も知らず、心を見失ってしまう。</row><row>智慧ある者に軽く笑われるにもかかわらず、天の子らはそれを行い、</row><row>恥ずかしさもなく、罰も受けず、放逸に害される。</row><row>心は遊びに夢中になり、常に歌や踊りを好み、</row><row>欲の対象に飽くことがなく、やがて天の境地を失う。</row><row>放逸に欺かれ、恐れるべき場所で笑い、</row><row>まるで暗闇の盲人のように、道と非道の区別がつかない。」</row>

「如是善時菩薩鵝王利益他故，觀天眾已，住於第一可愛說法鳥眾之中，說調伏偈。而諸天眾雖聞其說而不聽受，歌舞戲笑，受五欲樂，遶池而住，樂觀境界。

> このような善い時に、菩薩である鵞王は他の者たちの利益のために、天の衆生たちを観察した後、第一の愛らしい説法鳥の群れの中で、調伏の偈を説きました。しかし、天の衆生たちはその説法を聞いても受け入れようとはせず、歌舞や遊びに興じ、五感の快楽を楽しみながら池の周りに集まり、さまざまな景色を楽しむことに夢中でした。

「夜摩天中有三大士，常為放逸行天夜摩天眾而演說法。何等為三？一者，夜摩天王牟修樓陀；二者，善時鵝王菩薩；三者，種種莊嚴孔雀王菩薩。是三大士常為利他而演說法，或有令得聲聞菩提，或有令得緣覺菩提。如是大士超魔境界。

> 夜摩天には三体の大いなる聖者がおられ、常に放逸な行いを好む夜摩天の天衆のために法を説いておられます。 その三体とは、何でしょうか。 第一は、夜摩天の王である牟修樓陀。 第二は、善き時を知る鵞王の菩薩。 第三は、様々な荘厳を備えた孔雀王の菩薩です。 この三体の大聖者は、常に他者を利益するために法を説き、ある者には声聞の悟りを得させ、ある者には縁覚の悟りを得させます。 このような大聖者は、悪魔の領域を超えておられます。

「時，魔波旬作如是念：『此諸大士，空我境界，欲捨我去。人中沙門，四天王中四大天王，三十三天中憍尸迦，夜摩天中牟修樓陀、善時菩薩、種種莊嚴菩薩，兜率陀天寂靜天王及其眷屬，此等諸人雖住我境而不屬我。六天及人，我使能敗，除化樂天，雖我境界而有大力，我不能亂。我今當遣智慧大臣至夜摩天，往亂其法。』作是念已，即與大臣而共籌量：『汝當往詣夜摩天王牟修樓陀、善時菩薩、種種莊嚴菩薩所，而敗壞之。汝等三人善能言語、善能變化，有大勢力——其三人者：一名歡喜；二名放逸；三名欲迷——汝去當至夜摩天王牟修樓陀、善時菩薩、種種莊嚴菩薩所，說法敗之。』

> その時、悪魔パーピヤス（波旬）はこう考えた。「この偉大なる人々は、わが領域を空しくし、我のもとを去ろうとしている。人間世界の修行者たち、四天王天の四大王たち、三十三天の帝釈天（憍尸迦）、夜摩天の牟修楼陀・善時菩薩・種種荘厳菩薩、兜率天の寂静天王とその眷属――これらの者たちは、我の領域に留まりながらも、我に属してはいない。六欲天と人間は我が力で敗れることができるが、化楽天を除けば、たとえ我の領域にあっても、彼らには大きな力があり、我は乱すことができない。今こそ、智慧ある大臣たちを夜摩天に遣わし、彼らの法を乱させるべきだ。」 こう考えた彼は、大臣たちと共に計画を練り、「汝らは夜摩天の王・牟修楼陀、善時菩薩、種種荘厳菩薩のもとへ行き、彼らを敗れさせよ。汝ら三人はよく語り、よく変化し、大きな勢力を持つ――その三人とは、一人目は歓喜、二人目は放逸、三人目は欲迷である。汝らは行き、夜摩天の王・牟修楼陀、善時菩薩、種種荘厳菩薩のもとで説法し、彼らを敗れさせるのだ」と命じた。

「時，三大臣聞是語已，即下往詣夜摩天眾，至善時鵝王所。到已見此鵝王威德勇健，勝相無畏，其聲調伏，為諸天眾說偈頌曰：

> その時、三人の大臣がこの言葉を聞いて、すぐに夜摩天の天人のもとへと下り、善時鵞王のもとへ向かいました。到着すると、この鵞王の威厳ある姿、勇ましさ、並ぶもののない相、恐れを知らぬ様子、そしてその声が穏やかで調和しているのを見ました。鵞王は天人のために、次のような偈を唱えました。

「『此非放逸時，不應生歡喜，此二法生癡，死時有大力。喜煙放逸火，燒無量大眾，境界所迷惑，無目不覺知。能斷於相續，及以眾生行，為境界所迷，不覺知利益。』

> 『これは遊びにふける時ではない。喜んではならない。 この二つの心が生じると、迷いが生じ、死が強力に襲いかかる。 喜びの煙、遊びの火は、数えきれない大勢の人々を焼き尽くす。 心は対象の世界に惑わされ、目がなく、気づくことがない。 連続する苦しみや、迷いの流れを断つことができるのに、 対象に惑わされ、本当の利益に気づかないのだ。』

「時，三大臣聞是語已，而說偈言：

> その時、三人の大臣はこの言葉を聞いて、偈（うた）を詠じました。

「『放逸最歡喜，一切樂緣轉。放逸故生愛，云何如是說？』

> 「放逸は最も喜ばれ、全ての楽しみはこれによって生じる。 放逸によって愛執が生まれるとは、なぜこのように説かれたのか。」

「善時鵝王以偈答曰：

> 時を善くした鵞の王は、次の詩をもって答えました。

「『無放逸歡喜，一切樂緣轉。放逸生苦惱，故說蓮花池。』

> 「よく気をつけて楽しんでいれば、 あらゆる幸せのきっかけが回ってくる。 気をつけを怠ると苦しみが生まれる。 だから（心の）蓮池（をきれいに保て）と言ったのだ。」

「時，魔大臣放逸復說偈言：

> 「その時、悪魔の大臣・放逸が再び偈を唱えて言った。

「『樂及於境界，放逸諸天女，及以諸技術，為第一可愛。』

> 「楽しいことや欲望の世界にふける天女たち、そして様々な技術やわざ――これらは最も愛すべきものとされる。」

「善時鵝王復以偈答：

> また善時鵝王が偈で答えました。

「『若法生放逸，一切皆是苦，能失諸善根，行於三惡道。』

> 「もしも、心が怠け、無頓着になるなら、 その行いはすべて苦しみとなる。 あらゆる善い芽を摘み取り、 悪しき道を歩むことになるのだ。」

「爾時，放逸復說偈言：

> そのとき、放逸が再び偈（うた）を唱えました。

「『或處於園林，若在蓮花池，或於重閣處，放逸故受樂。』

> 「ある人は林の中で、またある人は蓮の池で、あるいは高い楼閣で遊楽をむさぼり、心が乱れて快楽にふける。

「善時鵝王復以偈答：

> また善時鵝王が偈で答えました。

「『於山園林中，曠野寂靜處，無放逸寂靜，能斷於魔縛。放逸入地獄，或墮畜生中，復生於餓鬼，放逸癡心故。』

> 「山や林の中、静かな野原で、 油断なく、静かに過ごすことで、 悪魔の束縛を断ち切ることができる。 油断していると地獄に落ち、 畜生の世界に生まれ落ち、 さらに餓鬼の世界にも生まれてしまう。 それは、心が油断と愚かさに満ちているからだ。」

「如是善時鵝王說是偈頌答放逸時，牟修樓陀於金窟中遠離放逸而修禪定，及餘天子遠離放逸亦修禪定。牟修樓陀既知此事，來向大池。無量百千天女圍遶，遍滿虛空，歌舞作樂出眾妙音，近於天王。不放逸天不歌不舞，於答難時，忽然而至。

> このように善き時に、鵞王がこの偈頌をもって放逸に応答した時、牟修樓陀は金の窟の中で放逸を遠く離れて禅定を修め、他の天子たちもまた放逸を離れて禅定を修めていた。牟修樓陀はこのことを知ると、大いなる池へと向かった。無数の百千の天女たちに囲まれ、虚空に満ち渡り、歌舞や音楽を奏でて様々な妙なる音を響かせ、天王のもとに近づいた。しかし、放逸を離れた天は歌うことも踊ることもなく、その問答の時に、ふと姿を現したのである。

「爾時，牟修樓陀聞鵝王說一切偈頌，憶念知已：『魔王大臣名曰放逸，三人同侶，我於餘天聞其至此。一名放逸，二名歡喜，三名欲迷，於癡人所增長重惑。我當為此放逸大臣說十一法答難法門，破此魔眾。』

> その時、牟修樓陀は鵝王のすべての偈頌を聞き、それを心に刻みました。 「魔王の大臣には放逸という名の者がいる。三人の仲間と共に、ここに来たと聞く。名を放逸、次に歓喜、三番目に欲迷という。彼らは愚か者のもとで、さらに深い迷いを増長させる。私はこの放逸大臣のために、十一の法からなる問答の法門を説き、この魔の集まりを打ち破ろう。」

「爾時，夜摩天王思惟此事，與善時鵝王共籌量已，從空而下，坐蓮花臺，與無量放逸行天而自圍遶，說此十一種勝上答難法門，告諸天眾：『汝今諦聽放逸之過。我從往昔曾見無放逸天子，名曰安隱，為我宣說，令我得聞如此之法，乃是迦葉如來之所演說。汝今諦聽，善思念之。一切天眾、說法鳥眾、善時鵝王及魔王眾、放逸大臣、顛倒說者、為諸世間作無利益、住魔伴黨……一切諦聽。十一問難勝上法門，所謂十一白法斷於十一垢染之法。欲求真實、欲求涅槃、欲離魔界，畏生死縛，住於寂靜阿蘭若處，獨一無侶，欲求實諦，欲滅黑闇，一心諦聽。何等十一勝上法門斷十一法？一者以調伏斷於憍慢；二者正心不亂斷除二種破戒；三者精進能滅懈怠；四者白法能斷垢法；五者白法能斷惡法；六者知足能斷多欲；七者以遠離住斷近親里；八者以正語斷無義語；九者正住斷於輕掉；十者布施斷於貧窮；十一者智慧斷於無知。如是十一垢染之法縛人著於放逸樹枝，欲離魔境，應當斷滅。畏生死者，應斷放逸。夫放逸者，是生死本；不放逸者，是解脫因。爾時，迦葉如來欲令一切諸眾生等離生死故，說如是法。我昔從於先舊天子聞說此法，如是天子亦從迦葉如來聞如此法，為我宣說。次第傳聞，我為汝說。

> そこで、夜摩天王はこのことを思惟し、善時鵞王とよく相談したのち、空中から降りて蓮華台に坐りました。無量の放逸行の天たちに囲まれながら、この十一の勝れた答え難問の法門を説いて、天の衆に告げました。 「あなたがたは今、よく聞きなさい。放逸の過ちについて。私は昔、無放逸天子という名の安隠という者を見ました。彼が私のために説いてくれたのです。この法を聞くことができたのは、迦葉如来が演説されたものだからです。あなたがたは今、よく聞き、よく思惟しなさい。一切の天の衆、説法する鳥の衆、善時鵞王、魔王の衆、放逸大臣、倒錯して説く者、世間に無益をもたらす者、魔の仲間にいる者たちよ……すべてよく聞きなさい。 十一の問難勝上法門、すなわち十一の白法が十一の垢染法を断つということを。真実を求めたい者、涅槃を求めたい者、魔界を離れたい者、生死の縛りを恐れる者、静かな阿蘭若に住みたい者、独りで伴侶なくありたい者、真実の諦を求めたい者、暗闇を滅したい者は、一心によく聞きなさい。 何が十一の勝上法門で、十一の法を断つのか。 一に、調伏によって驕慢を断つ。 二に、正心不乱によって二種の破戒を断つ。 三に、精進によって懈怠を滅する。 四に、白法によって垢法を断つ。 五に、白法によって悪法を断つ。 六に、知足によって多欲を断つ。 七に、遠離に住することによって親しい人のそばにいることを断つ。 八に、正語によって無意味な言葉を断つ。 九に、正住によって軽はずみを断つ。 十に、布施によって貧窮を断つ。 十一に、智慧によって無知を断つ。 この十一の垢染法は、人を縛って放逸の木の枝に留まらせます。魔の境を離れたいなら、これを断ち滅ぼすべきです。生死を恐れる者は、放逸を断つべきです。なぜなら、放逸は生死の根本であり、不放逸こそが解脱の因だからです。 その時、迦葉如来は一切の衆生を生死から離れさせようと、この法を説かれました。私は昔、先旧の天子からこの法を聞きました。その天子もまた、迦葉如来から聞いたこの法を、私のために説いてくれたのです。こうして次々に伝え聞いたことを、今あなたがたに説きます。」

「『以何等法調伏憍慢？調伏之人，一切眾生之所愛重，住調伏故，斷此憍慢麁惡之法。憍慢有五，何等為五？所謂若入聚落城邑或行道路，其行速疾，不慎威儀。或行道路或行非道，或抖擻衣或佯跛行，正心之人見之生瞋：「云何此人行不順法？為醉？為狂？」是則名為第一憍慢。如是憍慢，云何而斷？應正直行，不轉不顧，直視一尋，威儀齊整，不抖擻衣、不高舉足——限齊四指，不通肩被衣、袈裟齊等，行不掉臂。此不放逸能斷放逸。復有四種放逸，諸比丘、比丘等應當斷離，所謂說無益語，心不思念、不知多少；至施主家不喚突入，亦不彈指，在上而坐，說於無量無義之言而不覺知；於靜坐處發大音聲；觀眾女人，無緣而瞋；左右顧視，不觀前後；眷屬憍慢；盜入他家。如是比丘，一切世人皆悉不愛，寂靜行者說此比丘名為憍慢，在家、出家皆亦如是。如斯等過，云何斷除？若於施主及以餘人說正法語，前後相應，觀人而說、觀心而說、依時處說、不相違說、軟語而說、令易解說、法相應說，如說而行，不觀女人，彈指而入，知時出入，亦知其相，不抖擻衣，不掉臂行，不作高唾，不大音聲，美語說法，待問而說，不斷他語，少言美說，以法語說。是名毘尼斷於憍慢。

> 驕慢を調伏するには、どのような法を用いるべきでしょうか。調伏された人は、一切の衆生から愛され重んじられます。調伏に住することで、この驕慢という粗悪な法を断ち切るのです。 驕慢には五種類あります。どのような五つかというと、例えば村や町に入る時、あるいは道を歩く時に足取りが速く、威儀を慎まないことです。あるいは道を歩いたり、道でない所を歩いたり、衣をはたいたり、わざと足を引きずって歩いたりします。心正しい人がこれを見て怒ります。「どうしてこの人は法に従わない行いをするのか。酔っているのか、それとも狂っているのか」と。これを第一の驕慢といいます。 このような驕慢は、どのようにして断つべきでしょうか。まっすぐに歩き、振り返らず、きょろきょろせず、正面を一尋ほど見つめ、威儀を整え、衣をはたかず、足を高く上げず（指四本分の高さに限る）、袈裟を肩にかけず、衣を整え、歩く時に腕を振らないことです。この不放逸が放逸を断つのです。 また、四種類の放逸があります。比丘や比丘尼たちはこれを断ち離れるべきです。すなわち、無益な話をすること、心に思念なく、節度を知らず、施主の家に行って声をかけずに押し入り、指を鳴らさず、上座に座り、無量の無意味な言葉を語っても自覚しないこと、静かに坐すべき場所で大声を出すこと、女性を見つめ、理由なく怒ること、左右を見回し前後を顧みないこと、眷属に驕慢であること、盗みのように他家に入ることです。 このような比丘は、一切の世の人々から愛されません。静かに修行する人は、このような比丘を驕慢と言います。在家でも出家でも、同じです。 このような過ちは、どのように断ち除くべきでしょうか。施主やその他の人々に対して正しい法の言葉を語り、前後を対応させ、人の様子を見て語り、心を観察して語り、時と場所に従って語り、矛盾せずに語り、柔らかな言葉で語り、理解しやすく語り、法にかなって語り、語った通りに行い、女性を見つめず、指を鳴らして入り、出入りの時を知り、その様子を知り、衣をはたかず、腕を振って歩かず、大きな唾を吐かず、大声を出さず、美しい言葉で法を説き、問われてから語り、他人の話を遮らず、少ない言葉で美しく説き、法の言葉で語ることです。これを、驕慢を断つ毘尼といいます。

「『復次，第二調伏能斷憍慢。云何調伏？所謂比丘及比丘等，入於他家，若聞歌伎作樂戲笑、遊戲之中，於他言笑不聽不樂、不味不願，不作多語，不說他惡，不自嚴飾而至他家，不數數入，不常乞求。如是比丘入於他家，若本施主、若至異家，以此調伏而斷憍慢。

> さらに、第二の調伏は、高ぶった慢心を断ち切るものです。では、どのように調伏するのでしょうか。それは、比丘や修行仲間が、他人の家を訪れた際に、歌や音楽、笑い声、遊び戯れの声を聞いても、それに耳を傾けず楽しまず、味わおうとせず願わず、むやみに話さず、他人の悪口を言わず、飾り立てることなく他家に入り、頻繁に通わず、常に求め物をしないことです。このように比丘が他家を訪れ、元の施主のもとであれ、別の家であれ、この調伏によって驕りを断ち切るのです。

「『復次第三，比丘至施主家，離說法語，說世俗語、說國土論、說生天論、說於遊戲歌舞之論、說於過去染愛之事，近女人坐，著雜色衣而入他家。若比丘等如是憍慢熾然增長，何等毘尼能斷滅之？所謂若比丘、比丘等，入於他家，說出家法、說布施論、說持戒論、讚智功德、說於無常敗壞之法、說老說病、說愛別離、說自業作、說死離別、說知足法、說調柔法、說苦說集、說滅說道、說地進退、說破戒過、說厭離法、說斷慳法；色憍慢人為說色過、為說食過、無常破壞、說少壯過必歸老壞。觀人深心，相應而說。如是比丘以調伏故，破壞憍慢。

> 続いて第三に、比丘が施主の家に赴くとき、法の話を離れ、世俗の話、国についての議論、天に生まれることの論、遊戯や歌舞の論、過去の愛欲に染まった出来事を語り、女の近くに座り、雑色の衣を着て他家に入る。もし比丘たちがこのようにして驕り高ぶり、熾盛に成長するならば、いかなる律（毘尼）がそれを断ち滅ぼすことができるであろうか。 すなわち、比丘や比丘たちが他家に入るとき、出家の法を説き、施しの論を説き、戒律を保つ論を説き、智慧の功徳を讃え、無常で壊れゆく法を説き、老いを説き、病を説き、愛する者との別れを説き、自らの業によることを説き、死による別離を説き、足ることを知る法を説き、調和のとれた柔らかな法を説き、苦しみを説き、苦しみの集まりを説き、苦しみの滅びを説き、道を説き、地獄での進退を説き、戒律を破る過ちを説き、厭離の法を説き、貪りを断つ法を説く。また、色の驕りある人には色の過ちを説き、食べ物の過ちを説き、無常であり壊れゆくこと、若さの過ちは必ず老いと壊れに帰することを説く。人の深い心を観察し、それに相応して説く。このように比丘は調伏されることによって、驕り高ぶりを打ち破るのである。

「『復次，第四調伏，斷除憍慢，不數受於多諸飲食，若更有人貪著食味不知厭足，喜至他家，亦不親近。隨其所得衣服飲食、臥具醫藥，若多若少，知足受畜，不念他樂亦不味著，不生覺觀，一心而行、調伏而行、正威儀行。調伏比丘及比丘等，調伏之法，如是憍慢以調伏法而斷滅之。一切憍慢，放逸故生，放逸為本，於諸功德皆無利益。是故欲求涅槃，應斷放逸。』

> 「さらに、第四の調伏として、高ぶった心（驕慢）を断ち切ることです。多くの食べ物や飲み物を繰り返し受け取ってはなりません。また、もし食べ物の味に執着して満足することを知らず、しばしば他人の家を訪ねる者は、そのような人にも近づいてはいけません。得た衣服や食べ物、寝具や薬が多くても少なくても、足ることを知って受け持ち、他人の楽しみを羨まず、また味わいに執着せず、心にこだわりの思いを起こさず、一心に行じ、調伏して行じ、正しい威儀を保って行じます。 調伏する比丘や比丘尼たちは、調伏の方法によって、このようにして驕慢を断ち滅ぼすのです。すべての驕慢は放逸（心の緩み）から生じます。放逸が根本となり、あらゆる善い功徳にとって利益をもたらしません。それゆえ、涅槃（悟りの安らぎ）を求めるならば、放逸を断ち切るべきです。」

「如是夜摩天王牟修樓陀、善時鵝王為魔王大臣名放逸等，現前為說往昔天子從迦葉如來三藐三佛陀次第傳聞，為魔眾說。『云何第二問答？所謂於不持戒，正念現前而斷滅之。戒有二種：世間、出世間，略說心為能持。戒有多種，略說二種：一者性重戒；二者離惡戒。若破性重戒，則非迦葉如來弟子。性重戒者，所謂殺生、非梵行、偷盜具滿三鉢梨沙槃，或盜佛物或盜法物，盜已食之，心不悔過亦不還償，覆藏不說。如是比丘則非迦葉如來弟子，腐爛敗壞，不名法器，但以妄語莊嚴衣服。是名破於性重之戒。以放逸故，是故迦葉如來告諸比丘應離放逸。』如是夜摩天王為善時鵝王菩薩說法，鵝眾及魔王眾、放逸臣等坐蓮花臺。牟修樓陀說如是法。

> 「夜摩天の王である牟修楼陀は、善き時を知る鵞鳥の王として、魔王の大臣である放逸らに対し、眼前でこう説いた。『昔、天子が迦葉如来・正等覚者から次々と伝え聞いたことを、魔の者たちのために語ろう。「第二の問答とは何か。それは戒を保たない者に対して、正しい念を現前にして、これを断ち滅ぼすことである。戒には二種ある。世間の戒と出世間の戒である。略して言えば、心が戒を保つのである。戒には多くの種類があるが、略して二種を説く。一つは性重戒（性質上重い戒）であり、二つ目は離悪戒（悪を離れる戒）である。もし性重戒を破るならば、その者は迦葉如来の弟子ではない。性重戒とは、すなわち殺生、非梵行（不浄行）、そして盗みが三つの波羅夷（根本罪）として満たされることである。また、仏の物を盗むか、法の物を盗み、それを食べても心に悔いず、返し償うこともなく、隠して語らないことである。このような比丘は迦葉如来の弟子ではなく、腐敗し壊れており、法器（仏道を成就させる器）とは呼べない。ただ虚妄の言葉によって衣を飾るのみである。これが性重の戒を破るということである。放逸の故に、迦葉如来は諸比丘に告げられた——『放逸を離れよ』と。」』このように、夜摩天の王は、善き時を知る鵞鳥の王の菩薩として、鵞鳥の衆や魔王の衆、放逸の臣たちが蓮華の台座に座する中で、法を説かれたのである。」

「『復次，第二離惡，略說九種。何等為九？一者淨修一行；二者常速悔過；三者順行；四者半行；五者多行；六者輕犯即悔；七者說道盡行；八者破壞行；九者一切行。是名九種離戒。一切愚癡凡夫或沙門、沙門等，以放逸故，名不學者、名無智者，惡不淨行。云何一行？云何離惡？輕慢惡見，以放逸故，毀破輕戒，破已復悔，所謂掘地斷草，是名一行。

> 「さらに第二に、悪から離れることを九種類に分けて略説します。その九種類とは何でしょうか。第一に、一つの行いを清らかにすること。第二に、常に速やかに過ちを悔いること。第三に、教えに従って行うこと。第四に、半分を行ずること。第五に、多くを行ずること。第六に、軽い犯しでも直ちに悔いること。第七に、道を示して完全に行ずること。第八に、行いを破壊すること。第九に、全ての行いを行うこと。これらを九種類の戒から離れることといいます。 全ての愚かな凡夫や修行者、あるいは修行者を名乗る者たちは、放逸であるがゆえに、学ばざる者と呼ばれ、無知な者と呼ばれ、悪く清らかでない行いをします。 では、一つの行いとは何でしょうか。悪から離れるとは何でしょうか。善悪の見解を軽んじ侮り、放逸であるがゆえに、軽い戒を破り壊し、破った後にまた悔いること、いわゆる地面を掘ったり草を断ち切ったりすること、これを一つの行いといいます。」

「『若沙門、沙門等，若放逸行，毀破輕戒，還復悔過。如是沙門破一行戒，或一或二或三，破輕戒已，我還悔過。如是數作數悔，是名捨離惡戒，非敬重法、非離放逸，心常散亂，是名破戒悔過行。

> もし修行者やその仲間たちが、だらしない生活を送り、軽い戒律を破って後で悔い改めるならば、「このように戒律の一部を破った。一度、二度、三度と軽い戒を破ったので、私は悔い改めよう」と考える。このように何度も戒を破り、何度も悔い改める者は、悪しき習慣を捨てたことにはならず、教えを敬う心もなく、怠惰からも離れず、心は常に散乱している。これを「戒を破って悔い改める行い」という。

「『云何順行？放逸增長，輕心輕戒，不勇猛學戒，能說能知破戒因緣，知實不實，於戒法中知破重戒得大重罪，堅持不犯。若有難緣，破於輕戒，不持不敬，不重正法。是名破戒悔過比丘。

> それでは、どのようなことを「順行」と言うのか。 それは、放逸が増長し、心や戒めを軽んじ、戒律の学びに励まず、破戒の原因について語り知りながらも、実際には正しく理解していないことである。戒律において、重い戒を破れば大きな罪を得ると知りながらも、それを堅く守らず、犯さないようにしないことである。 また、もし困難な状況があれば、軽い戒を破り、それを持たず敬わず、正しい法を重んじないことである。 このような者が、戒を破りながらも悔い改める比丘なのである。

「『若沙門、沙門等，云何半行？唯學戒法，知重知輕或持不持，其心思念護餘戒眾。如是攝心行於半戒，餘戒不行，是名半行。比丘行放逸行，放逸所使，住放逸境，不能速得涅槃。

> 『もし修行者や、修行者たちよ、「半分の修行とは何か？」というならば、ただ戒律のみを学び、重い戒めと軽い戒めを知り、時に守り時に守らず、心を残りの戒めの集まりを守ることに向ける。このように心を集中して半分の戒めを行い、残りの戒めを行わないこと。これを「半分の修行」と呼ぶ。比丘が放逸な行いをし、放逸に駆られ、放逸な境地に留まるならば、速やかに涅槃を得ることはできない。

「『云何多行？若比丘、比丘尼或沙彌、沙彌尼、優婆塞、優婆夷具足持戒，如是順法多行，多持離戒，不缺不穿不空，雖堅固持，不能盡護，是名多行。

> 「どのようなことが多く修行するということなのか。比丘（僧侶）、比丘尼（尼僧）、沙彌（見習い僧）、沙彌尼（見習い尼僧）、優婆塞（在家の男性信者）、優婆夷（在家の女性信者）が戒律を完全に保ち、教えに従って多く実践し、戒を堅く守って欠けることなく、破ることなく、空しくなく、固く守り続けるけれども、完全に護ることができない場合、これを『多く修行する』という。

「『若沙門、沙門等，云何輕犯速悔？如是比丘，或放逸故，或近惡友，於戒慢緩，速悔令淨。或畏地獄惡道之苦，尋即悔過，令心清淨，於僧前說：「我作不善。」心不覆藏，悔已不作，是名比丘犯已隨悔。

> 「もし修行者や修行者らが、どのようにして軽い戒律の違反を犯してすぐに悔い改めるのかというと、例えば比丘が怠惰であるか、悪友に近づいたために戒律を軽んじて緩め、すぐに悔いて心を清める。あるいは地獄や悪い道の苦しみを恐れて、すぐに過ちを悔やみ心を清め、僧団の前で『私は不善を行いました』と告白し、心に隠し立てせず、悔いた後は再び犯さない。これが比丘が罪を犯して悔い改めるということです。」

「『云何比丘說道盡行？若比丘、比丘等，或於重戒中或破或緩，或以放逸或近惡友，速向師悔，或布薩時向眾僧說，心不覆藏。眾僧示導，得聞道故，不復更作，畏三惡道，不破不緩。是則名為善時鵝王說道盡行。

> 比丘がどのようにして「道を尽くす行い」（道盡行）を説くのか。 ある比丘や比丘たちが、重い戒律の中であっても、あるいはそれを破ったり怠ったり、あるいは放逸にふけったり悪友に近づいたりしても、すぐに師匠のもとへ悔い改めに向かう。または布薩（布薩、正しい行いの日）の際に、僧侶の集まりに対して心に隠し立てせずに告白する。僧侶たちが導き示すことで、その道を聞き知るから、再び同じ過ちを犯さなくなる。そして三つの悪道（地獄・餓鬼・畜生）を恐れて、戒律を破らず、怠ることもない。これをこそ「善き時の王、鵞鳥が道を尽くす行いを説く」と呼ぶのである。

「『云何破壞行？盡形慢緩、離於禪誦、心不愛樂，遊天廟中，為求衣服飲食，處處遊行施主之家，親近俗人，為其騁使，以求安樂。是名破壞行。如是比丘身壞命終，墮於地獄。

> いわゆる「破戒の行い」とは何か。それは、生涯にわたって怠け心を持ち、坐禅や読誦から遠ざかり、それらを心から喜ばず、神殿に遊び歩き、衣服や食物を求めて施主の家々を渡り歩き、在家の人々に親しみ、彼らの指名で働き、安楽を求めることである。これを破戒の行いと名づける。このような比丘は、命終わってのち、地獄に堕ちる。

「『善時！云何一切行？信一切法毘尼，為他人說，於輕戒中或不能持一戒二戒，或以性故或無習故不能具持，非不敬重，作已悔過。善時！是名一切行，其惡薄少。若比丘、比丘等，少惡破戒，一切皆由放逸過故。』如是夜摩天王住蓮花臺，為善時鵝王、說法鳥眾、魔王大臣名放逸等說如是法。

> 「善時よ。『すべての行い』とは何か。すべての教えと戒律を信じ、それを他の人に説きながらも、軽い戒律の中では一つや二つを守れなかったり、性格や習慣のためにすべてを完全に保てなかったりする場合でも、敬重の気持ちが欠けているわけではなく、過ちを犯した後は悔い改める。善時よ。これが『すべての行い』であり、その悪は軽微である。もし比丘や比丘尼などが、わずかな悪や戒律を破ることがあっても、それはすべて怠り（放逸）による過ちである。」このように、夜摩天王は蓮の台座に立ち、善時の鵞王、説法の鳥たち、魔王の大臣である放逸などのために、この教えを説いたのである。

「爾時，夜摩天王牟修樓陀以偈頌曰：

> その時、夜摩天の王である牟修楼陀が、偈を唱えてこう言いました。

「『為放逸所盲，飲於放逸毒，放逸之所縛，將入於地獄。若人放逸行，世間所輕賤，現得不利益，命終入地獄。癡人於晝夜，或住或道行，一切放逸者，不得一念樂。以其放逸故，流行於欲界，輪轉五道中，或從禪中退。若得世間定，生於無色處，輪轉於諸有，皆由放逸故。一切三界中，為於愛網羂，放逸之所縛，癡人不覺知。』

> 「怠け心に惑わされ、怠惰という毒を飲み、 怠惰の縛りにつながれ、地獄へと堕ちていく。 もし人が怠惰な生き方をすれば、世間から軽んじられ、 現在では利益を得られず、命終われば地獄に入る。 愚かな者は昼夜を問わず、止まるときも歩くときも、 すべてにおいて怠惰な者には、一瞬の安らぎもない。 その怠惰ゆえに、欲望の世界を流転し、 五つの道（地獄・餓鬼・畜生・人間・天）を輪廻し、あるいは禅定から退いてしまう。 もし世間の定（俗世の瞑想状態）を得ても、無色の処に生まれ、 様々な生存の状態を輪廻するのは、すべて怠惰のゆえである。 すべての三界（欲界・色界・無色界）において、愛の網に絡め取られ、 怠惰に縛られていることを、愚かな者は気づかないのだ。」

「如是夜摩天王於往昔時，從舊天子次第得聞迦葉佛經，為善時鵝王、說法鳥眾及魔大臣放逸等，說於十一法中，已說三法。何等為三？一者調伏，斷於憍慢。二者正心不亂，斷除二種破戒：一者性戒，二者離戒。若種善根，親近善友，破性重戒。近善友故，得脫生死，何況離戒。是故智者應當勤求近善知識。三者捨離一法。云何一法？所謂懈怠。捨離懈怠，勤行精進，若能精進，則能滅於一切懈怠，猶如放逸於一切法能作無益，一切善法、親近善友以為根本。

> かつて、夜摩天王が前の天王から迦葉仏の経典を次第に聞き、善時の鵞王、説法鳥の衆、そして魔の大臣である放逸らに語った十一の法のうち、すでに三つの法が説かれた。 その三つとは何か。 第一は「調伏」、すなわち慢心を断ち切ることである。 第二は「正心不亂」、すなわち心を正しく乱さず、二種の破戒を断ち切ることである。二種とは、「性戒」と「離戒」である。もし善根を植え、善き友に親しめば、性戒という重い戒を破っても、なお生死を脱することができる。ましてや離戒においてはなおさらである。ゆえに智者は、善知識に親しむことを熱心に求めるべきである。 第三は「一法を捨て離れること」である。その一法とは何か、すなわち「懈怠」である。懈怠を捨て離れ、精進に励みなさい。もし精進することができれば、一切の懈怠を滅することができる。あたかも放逸が一切の法において無益をもたらすように、一切の善法は善き友に親しむことを根本とするのである。

「『復次，第四白法能斷垢法。何等白法？以勤精進，斷於懈怠。譬如光明滅一切闇，以勤精進斷除懈怠亦復如是。夫懈怠者，害一切法。隨生懈怠轉轉增長，能壞世間、出世間法、現在未來不可稱說無量諸法。懈怠之人勢力薄少，人所輕賤，亦復不能修理家業，貧窮下賤，不能營作治生貿易、耕田種殖，及以餘事悉不能作，不能親近善友知識。以懈怠故，人所輕賤，皆共指笑，不學智慧，癡無所知，不知時處、不知自力、不知他力。若依時節應有所作，現在、未來一切應作，皆不成就。

> 「さらに、第四の清らかな行いによって汚れた行いを断ち切ることができます。その清らかな行いとは何か。努力することによって怠惰を断ち切ることです。例えば、光がすべての闇を消し去るように、努力することによって怠惰を断ち切るのもまた同じです。怠惰というものは、すべての善い行いを害します。怠惰が生まれると、次第に増え広がり、世の中のことも、世の中を超えたことも、現在や未来の無数の善い行いを壊してしまい、言葉に尽くせないほど多くの害をもたらします。怠惰な人は力が弱く、人から軽く見られ、また家業をうまく営むこともできません。貧しくて身分が低く、商いや農業、その他の仕事も何一つできず、善い友や知識にも近づくことができません。怠惰のために人から軽んじられ、みんなに指さされて笑われ、智慧を学ばず、愚かで何も知らず、時や場所、自分の力、他人の力を知ることもありません。時に応じてなすべきこと、現在と未来にわたってなすべきことのすべてを、成就することができないのです。」

「『若人精進，則能斷除如是懈怠，眾人所愛，眾所敬重，初夜後夜心不疲惓，雖睡易覺，知時而起、知時而臥、知時相應，思惟而作。堅固精進，精進為伴，以精進水澡懈怠垢。一切所作，離垢成就。有所作業，或得衰惱，精進不退，不怯不惓、不間不息。若作大事，精進伴故，則能成就而不毀壞。凡所造作，不假他人，識好惡人，知自他力。善人所讚，眾人供養，或王大臣之所供養。大富大力，一切鬪諍，無敢為敵，諸大力人不能破壞。善友為伴，知識增長，多善友故有大勢力，多受安樂。隨所行處，若至異方，常得安隱。若遊餘方，善人親近，隨所有人親近其人，致敬供養，以禮待之。離懈怠故，得如是等無量功德，被大堅固精進之鎧，離懈怠垢，能破魔軍、能出生死，一切善人之所愛敬。發勤精進為同伴故，復得出世間無漏無垢，得涅槃道。初堅牢惡塵垢之處，緩而難脫，以此家宅縛諸世間，妻子眷屬、姊妹兄弟、奴婢田宅、財物倉庫，大愛瀑河。精進為伴，則能離於生死怖畏，捨家出家，服三法衣。精進為伴，於家縛中勤精進故，而得出離，得無住道，勤修禪定，習誦正法，欲入涅槃而得解脫。知時所應，發勤精進，如實知於身口出沒，諦知自相，如實知於陰界諸入生滅等相。晝夜不息，精進不懈，親近善師。以智方便，發勤精進，習道盡過，斷無始流轉生死之縛。如是懈怠一切無利猶如闇冥，一切眾生不利益事，是堅固惡，以精進故則能滅之。其人如是隨所得道，隨其所得，發勤精進，則能散滅一切和合，不樂煩惱染縛境界。誑惑一切愚癡凡夫，愛詐親善，是色香味觸境界之中，猶如惡賊，劫善法財物，破壞善法，能作一切無利益事，不愛果報，非愛財物，惱亂一切愚癡凡夫，能令迷亂。是故應當捨離境界，不應味著，修解脫道，令心清淨，隨心清淨則能精進，正念無疑。以正修行破壞怨家，復以精進為伴侶故，能斷貪欲、瞋恚、愚癡。正觀察斷，不受諸有，殺怨家已，如閻浮提中觀於虛空淨無雲瞖，日月清淨，光明顯耀，其人清淨亦復如是。如病得差，如貧得財，猶如盲人行大曠野，失於正路，得道得眼。其人如是以持禁戒正修行故，修行現證：「我生已盡，梵行已立，所作已辦，不受後有。」如是離於塵垢，於一切縛而得解脫，度於彼岸。智慧勇猛離於塵垢，一切皆由精進伴故。是故發大精進能斷懈怠及以放逸生死諸縛。』

> 「もし人が精進すれば、このような怠惰を断ち切ることができる。その人は皆から愛され、敬われる。初夜も後夜も心は疲れず、眠っても目覚めやすく、時を知って起き、時を知って臥し、時に応じた思惟をして行動する。堅固な精進をし、精進を友とする。精進という水で怠惰の垢を洗い流す。為すことすべて、汚れを離れて成就する。何か業を行い、あるいは衰えや悩みに遭っても、精進は退かず、臆せず、怠らず、間断なく続ける。もし大事を成そうとするなら、精進を友とするゆえに、それを成就し、壊されることがない。為すことすべて、他人に頼らず、善人・悪人を見分け、自他の力を知る。善人に褒められ、人々から供養され、あるいは王や大臣から供養される。大いなる富と力を持ち、いかなる争いにも敵する者なく、大力の者たちも打ち破ることができない。善き友を伴とし、知識は増え、多くの善き友があるゆえに大いなる勢力を持ち、多くの安楽を受ける。行くところ全て、たとえ他郷に至っても、常に安穏を得る。もし他の地に遊んでも、善人が親しくし、近づく人々は皆、その人を敬い、供養し、礼をもって遇する。怠惰を離れたゆえに、このような無量の功徳を得る。大いなる堅固な精進の鎧をまとい、怠惰の垢を離れて、魔軍を破り、生死を出で、すべての善人の愛するところとなり敬われる。勤め励む精進を友とするゆえに、さらに世間を出で、無漏・無垢の涅槃の道を得る。初めから堅く、悪い塵垢の場所にあり、緩くて脱し難いこの家の如きものは、諸々の世間を縛る。妻や子や眷属、姉妹兄弟、奴婢や田宅、財物や倉庫、大きな愛の暴流。精進を友とすれば、生死の怖れを離れ、家を捨てて出家し、三つの法衣をまとうことができる。精進を友として、家の束縛の中にあっても勤め励むゆえに、そこを出離し、住する無い道を得る。勤めて禅定を修し、正法を習誦し、涅槃に入らんと欲して解脱を得る。時に応じて勤め励む精進を発し、身と口の出没を如実に知り、自らの相を諦かに知り、五陰・十八界・十二入の生滅等の相を如実に知る。昼夜休まず、精進して怠らず、善き師に親しくする。智慧の方便をもって勤め励む精進を発し、道を習って過ちを尽くし、無始より流転する生死の束縛を断つ。このように懈怠は一切無益で、暗闇のようなものであり、一切衆生に不利益をもたらす。これは堅固な悪であるが、精進をもってすればこれを滅することができる。その人は、このようにして得た道に従い、その得るところに従って勤め励む精進を発すれば、一切の和合を散滅し、煩悩の汚れや束縛の境界に楽しまない。一切の愚癡な凡夫を誑惑し、愛と偽りの親切をもって近づく、この色・声・香・味・触の境界は、ちょうど悪賊の如く、善法の財物を奪い、善法を破壊し、一切の無利益な事をなし、果報を好まず、財物を愛せず、一切の愚癡な凡夫を悩乱し、迷乱させる。ゆえに、境界を捨て去るべきであり、味わい執着すべきではない。解脱の道を修して心を清らかにし、心の清らかさに従えば、精進し、正念にして疑いがない。正しく修行して怨敵を打ち破り、さらに精進を伴侶とするゆえに、貪欲・瞋恚・愚痴を断つことができる。正しく観察して断じ、諸々の生存を受けず、怨敵を殺した後は、あたかも閻浮提において、雲も翳りもない虚空を観るが如く、月日は清らかで、光明が顕かに輝く。その人の清らかさもまた、このようである。あたかも病が癒えた如く、貧者が財を得た如く、あたかも盲人が大いなる荒野を行きて正しい道を失い、道を得て眼を得た如くである。その人は、このようにして戒律を保ち正しく修行したゆえに、修行して現に証する。「我が生は尽き、梵行は立ち、為すべきことは成し遂げ、後有を受けることはない」と。このように塵垢を離れ、一切の束縛から解脱し、彼岸に渡る。智慧は勇猛にして塵垢を離れる。これら全ては、精進を友とするゆえである。故に、大いなる精進を発して、懈怠と放逸、生死の諸々の束縛を断つことができるのである。」

「爾時，夜摩天王牟修樓陀以迦葉佛偈而說頌曰：

> その時、夜摩天の王ムチュリンダは、カッサパ仏の偈をもって賛歌を唱えた。

「『發於精進念，常樂獨靜處，得脫於惡業，智慧得涅槃。發精進為伴，離於懈怠垢，得脫曠野怖，是人得常樂。懈怠及放逸，能障一切法，以此大過故，令眾生苦惱。若求現未樂，應離於懈怠，放逸懈怠人，如狗等無異。』

> 「努力に目覚め、常に独り静かな場所を楽しみ、 悪しき行いから離れて、智慧によって涅槃に至る。 努力を友とし、怠けの汚れから離れ、 荒野の恐怖を逃れた者は、真の安らぎを得る。 怠けや油断は、あらゆる善いものを妨げる。 この大きな欠点のゆえに、人々は苦しむ。 今の幸せと未来の幸せを願うなら、怠けから離れよ。 怠けや油断に生きる人は、犬などと変わらない。」

「如是夜摩天王為善時鵝王、說法鳥眾，魔王大臣放逸、欲迷等，說彼迦葉如來經典，從昔天子傳聞而說。

> かくて、夜摩天の王は、善時鵝王や説法鳥の衆、魔王の大臣、放逸や欲の迷いなどに対して、過去の天子から伝え聞いたかを如來の経典を説き明かした。

「『復次，第五白法能斷惡法。何等惡法？所謂樂入城邑聚落，常習憒閙，不樂住於阿蘭若處，壞沙門法。云何壞法？如是比丘離於修禪及以讀誦，或入聚落或入城邑，處處樂住白衣之家，或共男子或共女人多有言說。若共女人言語談說，能繫縛人，失一切利益或生欲心。何以故？女人如火，近之轉近，若近女人漸令心亂。以是義故，比丘不應入於聚落城邑之中。若共丈夫言語談說，失於一切自利之事，於無漏法心不清淨，如是比丘自壞其法。復次，若有比丘樂入聚落及以城邑，得多過咎。得何等過？以入他家令心惱亂，見白衣舍富樂飲食、床褥臥具，心生貪著。猶如食吐。離阿蘭若，遊於人間，捨道入俗，捨閑靜樂，為家所縛，行貪瞋癡。以是過故，復墮地獄、餓鬼、畜生。以何因緣得如是苦？由其樂入城邑聚落。是故比丘若欲得地，應離此過。

> 次に、第五の白き法（善行）が悪しき法を断ちます。どんな悪法か。すなわち、町や村に入ることを好み、常に騒がしい場所に親しみ、静かな修行の場（阿蘭若）に留まることを好まず、沙門（修行者）の道を壊します。どのように道を壊すのか。このような比丘は、坐禅や読誦から離れ、村や町に入り、在家の家々に好んで滞在し、男性や女性と多く語り合います。女性と言葉を交わせば、それが人を縛り、すべての善きことを失わせ、あるいは欲心を生じさせます。なぜなら、女は火のようなもので、近づけばさらに近づきたくなり、心を乱すからです。この理由により、比丘は村や町の中に入るべきではありません。もし男性と語り合えば、自分にとっての善き利益をすべて失い、煩悩を離れた清らかな法（無漏法）に対して心が清らかでなくなります。こうして比丘は自らの法を壊すのです。 さらに、町や村に入ることを好む比丘は、多くの過ちを招きます。どのような過ちか。他家に入ることで心が乱れ、在家の家々の豊かな食事や寝具・布団を見て、貪りの心を生じます。それはまるで吐いた物を再び食べるようなものです。阿蘭若を離れ、人の世を遊行し、道を捨てて俗に入り、静けさの楽しみを捨て、家に縛られ、貪り・怒り・愚かさを行います。これらの過ちにより、地獄・餓鬼・畜生の道に落ちます。どんな因縁でこのような苦しみを得るのか。それは町や村に入ることを好むからです。ゆえに比丘はもし安らかな境地を得たいと思うなら、この過ちを離れるべきです。

「『云何捨離？以住阿蘭若故，能攝一切無住功德。無住所攝，第一安隱。若有比丘獨住在於阿蘭若處，諸根寂靜，其心清淨，意如鍊金，第一寂靜善護諸根，離於怖畏、離於垢污，第一安隱，得無漏樂。六欲天中一切欲樂，作善業故。一天之樂可愛無等，況復六天一切諸樂。若得盡漏，一念之樂，無分譬喻，一切思量、算數不能譬喻。是故若求第一義樂，應離憒閙，不入聚落，以求禪定三昧正受。常獨行於山谷巖窟阿蘭若處、若草聚邊，獨一而行，求無漏樂。遠離知識親里眷屬，當觀知識親里之樂無常無住，是別離法，非無住處，濁垢惱亂，無有自在，多懷怖畏。是故若有愚人智慧薄少，捨第一義，樂求有漏樂——名相似樂，其人則為遠離光明而求黑闇。癡人退沒，以其不知功德過相。是故應當捨離聚落城邑之樂，常獨住於阿蘭若處。如是離於聚落城邑，住林樹間，得無住樂，是名第五以白淨法斷於垢業。若欲求樂，欲離魔境，以白淨法斷除垢法。』

> 「では、どのようにして執着を手放すのか──それは、阿蘭若（あらにゃ）に住むことで、すべての執われない功徳を身につけることができるのです。この執われなさこそが、最も穏やかな安らぎをもたらします。もし一人の比丘が、ただ独り阿蘭若に住み、諸根（感覚器官）が静まり、心が清らかで、鍛えられた金のように落ち着いているなら、第一の静けさの中で諸根をよく守り、恐れを離れ、汚れを離れ、最も穏やかな安らぎを得て、煩悩のない至福を味わうでしょう。 六つの欲天におけるすべての欲楽は、善い行いの報いです。その中の一つの天の楽しみでさえ、比べるものがないほど愛らしいものです。ましてや六つの天のすべての楽しみはなおさらです。しかし、もし煩悩を尽くしたなら、その一瞬の楽しみは、言葉で例えることすらできません。あらゆる思考や計算をもってしても、たとえようがないのです。それゆえ、もし最も優れた真理の楽しみを求めるなら、にぎやかな場所を離れ、村に入らず、禅定（ぜんじょう）と三昧（さんまい）の正しい悟りを求めるべきです。 常に独りで山の谷や岩窟、阿蘭若、あるいは草むらのそばを歩み、独りで行動して、煩悩のない至福を求めなさい。知人や親族、家族からは離れなさい。知人や親族との楽しみは、無常であり、とどまることがなく、必ず別れの時に訪れるものだと観ずるべきです。それは永遠の安らぎではなく、濁りや悩みに満ち、自由がなく、多くの恐れを抱えるものなのです。 それゆえ、もし愚かで智慧の乏しい人が、最も優れた真理を捨てて、煩悩にまみれた楽しみを求めるなら──それは似せた楽しみに過ぎません──その人は、光明を遠ざけて暗闇を求めるようなものです。愚か者は、功徳と過ちの違いを知らないために、退き沈んでしまうのです。だからこそ、村や町での楽しみを捨て、常に独りで阿蘭若に住むべきです。このように村や町を離れ、林の間に住めば、とどまらない楽しみを得られます。これを第五に、白く清らかな行い（善行）によって汚れた行いを断つ、といいます。 もし楽しみを求め、悪魔の境地を離れたいなら、白く清らかな行いによって、汚れた行いを断ち切りなさい。」

「如是牟修樓陀知說法鳥眾其心調善，善時菩薩利益他心，為說迦葉佛經，從昔天子次第傳聞，為魔王大臣放逸等說：『十一法中，已說五法，餘有六法，今當次說。汝集一心，今正是時。汝今已得離難具足，若不說法、若不聽法，是大欺誑。是故已得離難具足、諸根具足，當為說法。三種惡道——地獄、餓鬼、畜生之中，云何說法？云何聽法？畜生之中互相殘害，餓鬼飢渴，地獄苦逼，云何聞法？若人、天中不放逸行，則能聞法。我離放逸，汝善信心。汝今諦聽，當為汝說。法難得聞，離難具足亦復甚難。

> 「さて、牟修樓陀は知っていた。説法の鳥たちの心が調えられ、善くなっていることを。そして、善時の菩薩は、他を利益せんという心から、かの迦葉仏の経を説いた。これは昔の天子から次々と伝え聞かれたものである。魔王の大臣ら放逸の者たちのために説いて言うには、『十一の法のうち、すでに五つの法を説いた。残りの六つの法を、これから次に説こう。汝らは心を一つに集めよ。今こそその時である。汝らは今、すでに八つの困難を離れた具足を得ている。もし法を説かず、もし法を聞かなければ、これは大きな欺きであり、偽りである。ゆえに、すでに八つの困難を離れた具足と、諸々の根の具足を得たならば、法を説くべきである。三つの悪道、すなわち地獄・餓鬼・畜生のうちにあっては、いかにして法を説き、いかにして法を聞くのか。畜生の間では互いに害し合い、餓鬼は飢えと渇きに苦しみ、地獄は苦しみに責められる。そのような中で、どうして法を聞くことができようか。もし人天において放逸な行いをせずにいれば、よく法を聞くことができる。私は放逸を離れた。汝らも善い信心を持て。汝らは今、よく聞け。まさに汝らのために説こう。法を聞くことは難く、八つの困難を離れた具足を得ることもまた、非常に難しいのである。』」

「『復次，第六垢濁欺誑。云何垢法？所謂多欲。夫多欲者，第一垢染，惡貪住處。云何而滅？當以知足則能滅之。若多欲者在家、出家，不得安樂。若在家、出家其心多欲，常於晝夜不得安樂。若得物已，心不寂靜，所得財物不知厭足。在家多欲，未足為妨；如出家人，若出家多欲，不名在家，不名出家。云何名為出家人也？斷除憍慢、嫉妬、多欲。以要言之，若多欲者一切輕毀。若有比丘意多所欲，常悕財物，如是比丘於善法中心不清淨。心不淨故，諸根不淨，行亦不淨。若以憍慢經行僧地，乃至一步，則入地獄，何況臥具、病瘦醫藥而無罪過，純地獄行。若破戒多欲而行惡法，實非沙門，自稱沙門。猶如野干著師子皮，如虛偽寶，聲如䗍聲，內空無物。若多欲比丘自稱：「我是迦葉如來聲聞弟子。」迦葉如來法中出家，多欲所燒，過於大火。多欲迷悶，過毒入身。多欲傷人，過於衰老。多欲利刀，伐於善樹，過於刀害。多欲之患，過於惡病。多欲之心，常求人便，欲斷人命，過於怨家求便害人。是故當知：此多欲過破壞二世，應當捨此多欲垢穢。晝夜思惟，終不得樂。』「爾時，夜摩天王牟修樓陀說迦葉如來所說偈言：

> 「さらに、第六の汚れ、濁り、欺瞞について説こう。何が汚れた法か。それは、多欲である。多欲こそが第一の汚れた染まりであり、悪しき貪りの住処である。どうすればこれを滅せるか。足るを知ることによって滅することができる。多欲な者は、在家であれ出家であれ、安楽を得られない。在家も出家も、心に多欲があれば、昼夜を問わず安楽を得られない。物を得ても心は静まらず、得た財物に満足することを知らない。在家の多欲はまだ妨げとはならない。しかし出家者においては、もし多欲であれば、在家とも呼ばれず、出家とも呼ばれない。何をもって出家者というのか。それは、驕り高ぶり、嫉妬、多欲を断ち切ることである。要するに、多欲な者はすべての人から軽く見られ、非難される。もし比丘が心に多くの欲を抱き、常に財物を求めるならば、そのような比丘は善法に対して心が清らかでない。心が清らかでないゆえに、諸々の根も清らかでなく、行いも清らかでない。もし驕りをもって僧の地を歩くならば、その一歩一歩も地獄に堕ちる因となる。ましてや寝具や病の薬などに罪過がないわけはなく、それは純粋な地獄行きの行為である。もし戒を破り多欲で悪法を行いながら、実は沙門でないのに沙門と自称するならば、それはまるで野干が獅子の皮をかぶり、偽りの宝のようであり、声は法螺貝のように響くが中は空っぽで何もないようなものである。多欲な比丘が『私は迦葉如来の声聞弟子である』と自称しても、迦葉如来の教えのもとで出家しても、多欲の火に焼かれて大火よりもなお激しい。多欲は迷いをもたらし、毒が身に入るよりひどい。多欲は人を傷つけ、老いよりもなお害がある。多欲は鋭い刀であり、善の木を切り倒すこと、刀の害よりもまさる。多欲の患いは悪病よりもなおひどい。多欲の心は常に人の隙を狙い、命を絶とうとすること、怨家が人の隙を狙って害を加えようとするよりもなおひどい。それゆえに知るべきである。この多欲の過ちは現世と来世の二つを破壊する。この多欲という汚れを捨てるべきである。昼夜思い悩んでも、ついに安楽を得ることはない。」 「その時、夜摩天の王・牟修楼陀は、迦葉如来の説かれた偈を説いた。」

「『多欲如利刀，斬害愚癡人，捨之如刀劍，殺害盲冥人。多欲大惡瘡，若生於心中，其人貪欲故，晝夜不得樂。欲火憶念薪，愛風之所吹，猛火大熾然，焚燒眾生心。以貪覆心故，令人心輕動，愛著財物故，而喪其身命。若人於世間，造作諸惡業，皆由貪慢故，智者如是說。若人心勇決，能入大火中，皆由貪心故，自作無利益。若刀惱亂苦，若種種鬪諍，皆由心因緣，親近愚人故。當知此衰惱，皆由貪過故，不應親近貪，智者如是說。』

> 「多くの欲望は鋭い刃のようなもので、愚かな人を傷つけ滅ぼします。 それを手放すことは、剣を捨てることであり、暗く迷った人を害するものです。 多くの欲望は大きな悪い傷のようなもので、もし心の中に生じれば、 その人は貪欲のために、昼も夜も安らぎを得ることができません。 欲望の炎は、記憶という薪を糧とし、愛着という風に吹かれて、 激しい大火となって燃え上がり、衆生の心を焼き尽くします。 貪りが心を覆うからこそ、人の心は落ち着かず、 財産に執着するからこそ、その命を失うのです。 もし人がこの世で、様々な悪い行いを為すなら、 それはすべて貪りと傲慢によるものだと、賢者はこのように説きます。 もし人の心が勇んで決断して、大火の中に入ろうとも、 それはすべて貪りの心によるものであり、自ら益のないことをするのです。 刀による苦しみや様々な争いも、 すべて心が因となり、愚かな人に親しむからです。 この衰えと悩みは、すべて貪りの過ちによるものだと知るべきであり、 貪りに親しむべきではないと、賢者はこのように説きます。」

「如是牟修樓陀為善時鵝王、說法鳥眾、魔王大臣名放逸等說：『此大過云何斷除？當以白法。云何白法？所謂少欲。夫少欲者，名曰一切安樂之法。若人少欲，常得安樂，其人不畏王賊水火。多欲之人愛財物故，親近他家以求財物，近於小人以求財物。若人少欲，則不至於惡人門下，不作妄語，不作虛誑歌舞戲笑，不作綺語，不作惡業，不為貪財欲火所燒，見他得樂不生憂惱，不為貪財近惡知識，不生疑慮。若行道路，不畏盜賊，離於怨家。人不求便，不畏罰戮。在家之人若能如是，則無所畏，離諸怖畏，一切安隱。何況出家，遠離過畏，離在家法，住林樹間。若復來至在家人所，多有所求，當知是人食吐無異。於沙門中第一供養，所謂少欲。少欲比丘知足清淨，名稱普聞，唯受一食，唯著糞掃衣，唯獨無侶，遊於山谷巖窟草聚，唯處塚間，於食三分，唯食其二。若乞食時，遠避知識，不近親里，唯畜一鉢，執持錫杖，隨得供養，以智思惟，捨之而去。若行道路，前視一尋，不左右顧䀎，捨離美味，不食宿飯。於聚落中限至三宿，於城邑中乃至七宿。不坐寶飾莊校之座，於本親里眷屬知識捨之不往，不念王者甘味美饍、床褥臥具，不說勝姓。親近善友，性行同類，與同戒者言談語論。如是比丘離惡離濁，少欲知足，能斷魔縛。若有多欲破戒比丘而著袈裟，天及世間無間大惡，如病如賊。知足比丘諸根不行色聲香味觸境界之中，住於露地，則能利益一切眾生。攝持心意，修於身法，受心念處，攝持心意，於生死中守護諸根。以知足故，名為比丘。若有比丘欲行少欲，不放逸故，則能少欲。以放逸故，則生多欲，在家、出家皆亦如是。』

> 「そこで、牟修楼陀（むしゅるだ）は善き時の王であった鵞鳥（がちょう）として、説法の鳥たちや、魔王の大臣である放逸（ほういつ）たちにこう語りました。 『この大きな過ちは、どのようにして断ち切るのか。それは清らかな行い（白法）によってである。では、清らかな行いとは何か。それは“欲の少なさ”（少欲）である。欲の少ないことこそ、あらゆる安楽の方法であると言われる。もし人が欲が少なければ、常に安楽を得る。その人は王や賊、水や火の災いを恐れない。欲の多い人は財産を愛するゆえに、他人の家に近づいて財を求め、つまらない者に近づいて財を求める。もし人が欲が少なければ、悪人の門に至ることもなく、偽りの言葉を語らず、虚偽の歌や踊りや笑いもせず、飾り言葉を語らず、悪業をなさず、財への貪りの火に焼かれることもない。他人が楽しむのを見て憂い悩むこともなく、財への貪りゆえに悪友に近づくこともなく、疑いや恐れも抱かない。もし道を歩むなら、盗賊を恐れず、恨みのある者からも遠ざかる。人は彼を陥れようとせず、罰や殺害を恐れない。在家の者がこのようにできれば、恐れるものは何もなく、あらゆる恐怖から離れて、すべてが安らかである。ましてや出家した者ならなおさらである。彼は過ちの恐怖から遠く離れ、在家の生活を離れ、林や木々の間で暮らす。もし出家者が再び在家の者のもとに来て、多くのものを求めるなら、その人は吐いたものを再び食べるのと同じである。沙門（修行者）の世界における第一の供養とは、少欲なのである。欲の少ない比丘は、足ることを知り清らかで、その名は広く聞こえる。彼はただ一度の食事を受け、ただ糞掃衣（ふんぞうえ：ぼろ布を繋ぎ合わせた衣）をまとい、独りで仲間を持たずに、山や谷、岩穴や草むらを巡り、ただ墓場に住む。食を三分して、そのうちの二分だけを食べる。もし托鉢（たくはつ）する時は、知り合いから遠く離れ、親族に近づかない。ただ一つの鉢（はち）だけを持ち、錫杖（しゃくじょう）を携え、得られた供養に従い、智慧をもって考え、それを離れて去る。もし道を歩むなら、前方一尋（ひとひろ：約1.8メートル）だけを見て、左右を見回さない。美味を捨て去り、一夜を越した飯は食べない。集落では三宿（みつく）まで、城下町では七宿（ななく）までに限る。宝で飾られた座には座らず、本来の親族や縁者、知り合いの者たちからは離れて、彼らのもとには行かない。王の素晴らしい食べ物や、美味しい料理、寝床や寝具を思い浮かべず、優れた家柄を語らない。善き友と親しみ、性格や行いの同じ者、同じ戒律の者と語り合う。このような修行僧は、悪を離れ濁りを離れ、欲が少なく足ることを知り、魔王の束縛を断ち切ることができる。もし欲の多い破戒の比丘が袈裟（けさ）をまとっていても、天や世間において、これよりひどい大悪はない。それは病人のようであり、盗賊のようである。足ることを知る比丘は、諸々の感覚器官を色・声・香・味・触という対象の中に働かせず、露の下に住み、それによって一切の生きとし生けるものを利益する。心をしっかりと捉え、身に関する修行をなし、受・心の念処（おもいの場）を受け入れ、心をしっかりと捉え、生死の間で諸根を守る。足ることを知ることによって、比丘と名付けられる。もし比丘が少欲を行おうと思うなら、放逸（ほういつ：心の緩み）がなければ、少欲を得ることができる。放逸によって、多欲が生まれる。在家も出家も、また同じである。』」

「爾時，夜摩天王以偈頌曰：

> そのとき、夜摩（ヤマ）の天の王が、詩をもってこう語った。

「『若不放逸者，則得解脫果；若其放逸者，則墮於地獄。放逸不放逸，此說其勝果，若月若闇冥，若解脫若縛，放逸不放逸，其義亦如是。少欲則安樂，多欲則苦惱，如斯苦樂相，智者之所說。若多欲眾生，其心常如火；少欲如涼池，澡浴離貪人。如火得乾薪，燒之無厭足，多欲人貪財，無厭亦如是。貪人於晝夜，常無有安樂，以其多樂欲，愛箭射其心。過去無量王，貪財無厭足，未來亦如是，一切皆磨滅，是故智者說，少欲最為樂。』

> 「もしも放逸（心の緩み）をせずにいるならば、解脱の果報を得る。 もし心を緩める者ならば、地獄に堕ちる。 放逸と不放逸の、その優れた果報について説けば、 月と闇、解脱と束縛のようなものであり、 放逸と不放逸の意味もまた同様である。 欲が少なければ安楽であり、欲が多ければ苦しみが生じる。 このような苦楽の形を、賢者は説いている。 もし欲の多い者ならば、その心は常に燃え盛る火のようであり、 欲の少ない者は涼しい池のようなもので、そこに貪りのない人が沐浴する。 火が乾いた薪を得て、燃え尽きることなく飽きないように、 欲の多い人が財を貪るのも、飽くことを知らない。 貪りのある人は昼夜を問わず、常に安楽がない。 なぜなら欲望を多く楽しむため、愛の矢がその心を射抜くからだ。 過去の無数の王たちも、財を貪って飽くことを知らず、 未来もまた同様であり、すべては滅び去る。 それゆえ賢者は、少欲こそが最も楽しいと説くのである。」

「如是夜摩天王住蓮花臺為善時鵝王、說法鳥眾、魔王大臣名放逸等說迦葉如來第六經法。

> ここで、夜摩の天主が蓮華の台座にとどまり、善き時を告げる鵞鳥の王や、説法する鳥たち、そして魔王の大臣・放逸たちに向かって、ガヤ仏の第六の経典の教えを説いたのである。

## 正法念處經卷第五十九

> 正法念処経 第五十九巻