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title: "正法念處經 · 25"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第六十

> 正法念処経 巻第六十

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之三十九夜摩天之二十五

> 観天の章 第三十九<note>夜摩天 第二十五</note>

「復次，夜摩天王——善時鵝王及說法鳥眾現前，為令魔王大臣放逸等得調伏故，說迦葉如來修多羅，從昔天子傳聞而說。『已說六種白法斷除塵垢，我今當說第七垢法，白法能斷。何等垢法？所謂見本生處而生樂心。樂見親里，遠離斷之。知識親里，心常樂見，常念親近，晝夜不離，不樂修禪習業，不近善師、供養三寶，不念未來業。於三業中不為他說，亦不自作，但念親里，欲見親里知識親舊。「云何修理生業？以何自活？」作是念已，憂愁所覆，雖為解脫住林樹間，不隨順行，是為無智，心入憂海。既入憂海，復入無等生老病死大憂海中，欲見親里親舊知識，入魔網中。見親里故，增長愛心，家家請食，便生貪心，隨俗所作。聞在家者有所言說，心則樂著。以心樂故，如其所作，失自利益，愚癡故退，不畏未來惡道之苦，亦不思惟地獄、餓鬼、畜生及餘生處，亦不思惟現在怖畏老病死苦、愛別離苦、怨憎會苦，亦不思惟一切所愛皆當別離。以怖親里知識親戚而行出家，還復習近，樂於親里知識親舊，愛他飲食，數至他門，身壞命終墮於惡道，或生地獄或生餓鬼或生畜生，所為出家，皆悉退失。既墮地獄、餓鬼、畜生，受大苦惱，親里知識莫能救護。是故，一切比丘若畏地獄、餓鬼、畜生，不應樂見生處親里及諸知識。以近此故，得無利益。為念愛盡義故而行出家，斷除愛網；以愚癡故，習近愛網，如人畏火捨之迯走，更入大火。如是畏家，捨家出家，還入畏處，亦復如是。捨離親里，入林樹間，還復習近，是為無眼無知所閉，諸根不調，是名染法。

> さらに、夜摩天王である善時鵞王と、法を説く鳥たちが現れました。これは、魔王やその大臣、放逸な者たちを調伏するためであり、迦葉如来の経典に基づき、かつての天子から伝え聞いた言葉を説いたものです。 「すでに六つの白法（清らかな善い行い）について説き、塵垢を断つことを示しました。今、私は第七の垢（汚れ）を説き、それを断つ白法を示しましょう。どのような垢（汚れ）でしょうか。それは、自分の生まれ故郷や親類を見ると、それに心から喜びを感じることです。親族や知人に会うことを好み、彼らから離れることを断ち切れず、心は常に彼らに会いたいと願い、昼夜にわたって親しみ、修行や善行に励むことを好まず、善き師に近づかず、三宝（仏・法・僧）を供養せず、未来の業（行いの結果）を考えません。また、身・口・意の三つの業について、他の人に教えず、自らも行わず、ただ親族や知人、旧友と会うことだけを考えます。 『どのように生計を立て、どうやって生きていこうか』と、こう考えては憂いに覆われます。たとえ解脱を求めて林の中で暮らしていても、教えに従って修行しなければ、それは智慧がないことであり、心は憂いの海に沈みます。一度憂いの海に入れば、さらに比類なき生・老・病・死という大きな憂いの海へと入っていき、親族や知人に会いたいという思いから、悪魔の網にかかってしまうのです。 親族に会うことで愛着の心が増し、あちこちの家で食事を招かれるようになると、貪りの心が生まれ、世俗の人々のするように振る舞います。在家の人々の話を聞くと、心はそれに執着します。そして、心が楽しむままに行動するため、自らの利益を失い、愚かさゆえに退転し、未来の悪道（地獄・餓鬼・畜生）の苦しみを恐れず、地獄・餓鬼・畜生やその他の生まれ変わりの苦しみを思い巡らしません。また、現在の恐ろしい老・病・死の苦しみ、愛する者との別れの苦しみ、怨み憎む者との出会いの苦しみも考えず、愛するものがすべて別れゆくことも考えません。 ある者は、親族や知人、旧友を恐れて出家しながらも、再び彼らに近づき、親しみ、彼らの食事を好み、しばしば彼らの家を訪れます。その結果、命終わって悪道に堕ち、地獄・餓鬼・畜生のいずれかに生まれ、出家の目的をすべて失ってしまいます。地獄・餓鬼・畜生に堕ちて大きな苦しみを受ける時、親族や知人は誰一人として救うことができません。 ですから、すべての比丘は、もし地獄・餓鬼・畜生を恐れるならば、生まれ故郷の親族や知人に会うことを喜んではなりません。近づくことで利益を得られないからです。愛着を尽くすために出家し、愛着の網を断つべきなのに、愚かさゆえにその網に近づくのです。それは、火を恐れて逃げながら、さらに大きな火の中に飛び込むようなものです。同じように、家を恐れて出家しながら、また恐れるべき場所に戻ってしまうのも同様です。親族を離れて林の中に居ながら、再び彼らに近づくのは、目がなく、無知に閉ざされ、感覚も調えられていないことであり、これを「染まりの法」と呼びます。」

「『云何而斷？若不能以智慧斷除，或不能遮或不能持，應當長久遠避遮之。若無智人不能以餘方便斷愛，當遠避之。一切人愛，以不見故斷。一切愛法，皆當別離。至於死時，無人能救，唯除善業，無量百千生處善法之業最為能救，非諸親里能救於人，亦非兄弟。如是比丘捨離親屬，獨處閑居，能斷垢法。老病死時，非諸親里而能救護。比丘如是思惟，斷一切愛，或得微薄，是名比丘斷親里愛。

> いかにして断つべきか。もし智慧によって煩悩を断つことができず、あるいは防ぐことも、耐え忍ぶこともできないならば、長い間、遠く離れて避けるべきである。智慧の無い者が、他の方便によって愛欲を断つことができないならば、遠く避けるがよい。人は皆、愛するものを見ないことによって、その執着を断つことができる。愛すべきものはすべて、いつかは離れ別れるものなのである。死のときが来れば、誰も救うことはできない。ただ善業のみが、無量百千の生における善法の業として、最もよく救うことができる。親族が人を救えるわけではなく、兄弟もまた同様である。このように比丘は、親族を離れ、閑静な所に独り住み、汚れた法を断つことができるのである。老い、病み、死ぬとき、親族は決して救い守ってはくれない。比丘はこのように考えて、すべての愛着を断つ。あるいは愛着を薄くする。これを、比丘が親族への愛着を断つというのである。

「『復次在家、出家斷於第八染法。何等染法？所謂無義語，以正語斷之。若在家人空無義語，眾人輕賤猶如草芥。有義之言，第一財物，諸餘財物所不能及；無義之言，雖復富樂，猶名貧窮。空無義語，空而無實，人所輕賤，猶如白羊，無言說財，智人視之猶如畜生，第一輕毀。如是等法，云何而斷空無義語？所謂正語。正語有二，何等為二？一者默然；二者四種正語。何等為四？一者不妄語；二者不惡口；三者不兩舌；四者不破壞語。是名正語。在家、出家若能如是，則不輕毀。在家、出家有六因緣，速為人輕。何等為六？謂無義語，突入人家，貪愛他食，坐於尊處，虛說無實。如是六法，人所輕笑，在家、出家應離此法。

> 「また、在家者も出家者も、第八の汚れた性質を断ち切るべきである。どのような汚れた性質か。それは、無意味な言葉である。これを正しい言葉によって断ち切る。 もし在家者が無意味な言葉を語れば、人々から草や芥のように軽蔑される。意味のある言葉こそが第一の財産であり、他のどんな財物もこれに及ばない。無意味な言葉は、たとえ富み栄えていても、なお貧しいと言われる。無意味で実りのない言葉を語る者は、人々から軽蔑され、言葉という財産を持たない白羊のようなものである。賢者はそのような者を畜生のように見なし、最もひどい侮辱となる。 では、このような無意味な言葉をどのようにして断ち切るのか。それは正しい言葉による。正しい言葉には二種類ある。その二つとは何か。第一に沈黙、第二に四種の正しい言葉である。四種とは何か。第一に偽りの言葉を語らないこと、第二に荒々しい言葉を語らないこと、第三に二枚舌を使わないこと、第四に仲違いさせる言葉を語らないことである。これを正しい言葉という。 在家者も出家者も、このように実践すれば、軽蔑されることはない。 在家者や出家者には、すぐに人から軽蔑される六つの因縁がある。どのような六つか。無意味な言葉を語ること、他人の家に無断で入り込むこと、他人の食べ物を欲しがること、高い席に座ること、虚偽で根拠のないことを語ることである。この六つの行いは、人々の笑いものとなる。在家者も出家者も、これらの行いを远离すべきである。」

「『復次，第九垢染，白法能斷。云何白法斷於垢法？謂輕掉法，正住能斷。輕掉法者，障一切法。心性輕掉，以掉動故，不信不覺，不知世間所作，不知言語、不知時節，不近善友。以輕掉放逸故，於世間法不能了達。如是輕掉惡垢，能敗現在及未來世不得利益。在家、出家應以正住白法斷除輕掉。在家、出家若身口意離掉正住，眾人供養，正戒、正智、正意離魔境界，善法滿足，終得涅槃。於世間法，智者讚歎。世間所作皆能成就，眾所供養。所至之處常得安樂，所作成就。如是在家、出家離於輕掉，為一切人之所讚歎。』

> 「次に、第九の汚れについて。清らかな行いがこれを断ち切る。では、清らかな行いはどのようにして汚れた行いを断つのか。それは、『心の浮つき』という汚れを、『心の落ち着き』という清らかな行いが断つのだ。心の浮つきは、あらゆる善いことを妨げる。心が浮ついていると、落ち着きがないために、真理を信じず、気づかず、世の中のなすべきことを知らず、言葉の使い方も、時節もわからず、善い友人にも近づかない。心の浮つきと放縦のために、世の中の道理を正しく理解することができない。このような心の浮つきという厄介な汚れは、現在と未来の両方において利益を損ない、幸せを奪う。 在家の者も出家の者も、心の落ち着きという清らかな行いによって、この心の浮つきを断ち切るべきである。在家・出家を問わず、身体と言葉と心が浮つきから離れて、落ち着いているならば、人々から尊敬と供養を受け、正しい戒律、正しい智慧、正しい意を持ち、悪魔の領域を離れ、善い行いが満ち足りて、ついには悟りの境地（涅槃）に至る。また、世の中の行いにおいても、賢者たちから称賛される。世の中のなすべきことも皆うまく成し遂げ、多くの人々から敬い支えられる。行く先々で常に安楽を得て、行いが成就する。このように、在家・出家を問わず、心の浮つきから離れた人は、全ての人々から称賛されるのである。」

「復次，夜摩天王牟修樓陀為說法鳥眾、善時鵝王及以魔王放逸大臣等，以本曾從舊天子所次第傳聞迦葉佛經為天眾說。

> また、夜摩天の王である牟修樓陀は、法を説く鳥たち、善時の鵞王、そして魔王の放逸大臣たちのために、かつて先代の天子から順々に伝え聞いた迦葉仏の経典を、天の衆に説いた。

「『復次，第十垢法，可輕可毀，智人所捨。何等垢法？所謂貧窮。貧有二種：一者貧戒；二者貧智。復有二種：一者貧施；二者貧慧。復有二種：一、貧種姓；二者貧見。復有二種：一、貧寶物；二、貧師尊。復有二種：一、貧親族；二、貧親舊。一切貧窮皆可輕毀——若男、若女。云何而斷？所謂布施。一切貧窮，布施能斷，譬如燈明能滅諸闇。一切愚癡，智能滅之。一切異見，正見能斷。如是非法，法能斷之。第一最勝，一切智者之所愛攝，斷眾惡道，現在、未來二世安隱。云何布施？施有多種，所謂智施、戒施、法施、安慰施、示正道施，失道路者示道路施，於道行者示以水施，命施、資具施、無畏施、實語施、斷疑施、五戒施、出家戒施、具足戒施、病醫藥施、眼目等施。如是等種種布施能利現在及未來世，猶如父母，常思修已，斷諸貧窮，斷於惡道，於天人中而受安樂。既受樂已，終得涅槃。如是布施能斷貧窮，是故智者應行布施。

> さらに、第十の汚れた法（穢れ）は、軽んじられ、非難されるべきものであり、賢者たちが捨て去るものです。では、その汚れた法とは何でしょうか。それは貧しさのことです。 貧しさには二種類あります。一つは戒律を守る徳に欠ける貧しさ、二つ目は智慧が足りない貧しさです。さらに別の二種類として、一つは施しを行う心が乏しい貧しさ、もう一つは智慧による洞察が足りない貧しさがあります。また別の二種類として、一つは家柄が低い貧しさ、もう一つは間違った見解に囚われる貧しさです。さらに別の二種類として、一つは宝や財物を持たない貧しさ、もう一つは尊敬すべき師や尊者に恵まれない貧しさです。さらに別の二種類として、一つは親族に恵まれない貧しさ、もう一つは旧い友人がいない貧しさです。 あらゆる貧しさは、男女を問わず、軽んじられ、非難されるべきものです。では、どのようにしてそれを断ち切るのでしょうか。それは布施によってです。あらゆる貧しさは、布施によって断ち切ることができます。例えるなら、灯りの明かりがすべての闇を消し去るようなものです。 すべての愚かさは、智慧によって滅ぼせます。すべての異なる間違った見解は、正しい見解によって断ち切れます。このように、正しくない行いは、正しい法（教え）によって断つことができるのです。 最も優れた布施は、すべての知者たちが愛し、受け入れるものであり、様々な悪い道を断ち、現在と未来の二世（この世とあの世）に安らぎをもたらします。 では、どのように布施を行うのでしょうか。布施には多くの種類があります。すなわち、智慧の布施、戒律の布施、法（教え）の布施、心を安らかにする布施、正しい道を示す布施、道に迷った人に道を示す布施、道を歩む人に水を施す布施、命を施す布施、生活に必要な道具を施す布施、恐怖から守る布施、真実の言葉を施す布施、疑いを断ち切る布施、五戒を施す布施、出家の戒律を施す布施、完全な戒律を施す布施、病気の人のための薬を施す布施、目など感覚器官を施す布施などです。 このような様々な布施は、現在と未来の世に利益をもたらします。まるで父母が常に子供のことを思い、善い行いを積むように、あらゆる貧しさを断ち、悪い道を断ち、天や人の世界で安楽を受けます。安楽を受けた後は、ついには涅槃に至ります。 このように布施は貧しさを断つことができるのです。ですから、賢い人は布施を行うべきなのです。

「『復次，第十一闇法能縛生死，闇障諸法。何等闇法？所謂無智。無量無知乃至無明闇，縛一切生。一切闇聚以縛其頸，無知如刀如火如毒。無知亦如一切無明，一切無明因緣而起，能令流轉一切地獄、餓鬼、畜生，能縛眾生，令其流轉。如是怨垢云何斷除？謂無漏智。猶如明燈，為救為歸，於諸眾生如父如母。猶如醫師亦如良藥，斷無知縛，更不復生，如斷樹根，樹則不生。如火燒薪，不復更生，亦如流水，不復更返，以無漏智燒於無知亦復如是，不復更生。是故應當於一切時勤修精進，以無漏智斷除無知。

> 「さらに、第十一の闇の法は生死に縛りつけ、あらゆる法を闇で覆い隠します。では、どのような法が闇の法なのでしょうか。それは無知のことです。数えきれないほどの無知、さらには無明の闇までが、あらゆる生を縛りつけます。あらゆる闇の塊がその首を縛り、無知は刃のようであり火のようであり毒のようです。無知はまた、あらゆる無明と同じです。あらゆる無明は原因と条件から生じ、すべての地獄・餓鬼・畜生の世界へと輪廻させ、生きとし生けるものを縛りつけて輪廻させ続けます。このような怨みの汚れを、どのように断ち除くのでしょうか。それは煩悩のない智慧（無漏智）によります。それは明るい灯明のようなものであり、救いであり帰るべき場所であり、すべての生きとし生けるものにとって父のようであり母のようです。また医師のようであり良薬のようでもあり、無知の束縛を断ち切って、再び生じることはありません。ちょうど木の根を断てば木が生えないのと同じです。火が薪を焼き尽くせば再び燃えないのと同じであり、流れ去った水が再び戻らないのと同じです。煩悩のない智慧で無知を焼き尽くすこともまた同じであり、再び生じることはありません。ですから、常に精進に励み、煩悩のない智慧によって無知を断ち除くべきなのです。」

「『如此所說十一種法，放逸根本。隨逐放逸，放逸故生，是故應斷一切放逸。一切放逸根本皆無利益，能成放逸。譬如依大地故，有一切藥草、樹木叢林、流水河池、隄防城邑、聚落園林及須彌山王皆依大地。一切地獄、餓鬼、畜生亦復如是，皆依放逸。是故智者應當捨離。』

> 「ここで説かれた十一種の法は、すべて放逸の根本である。放逸に従い、放逸によって生じる。それゆえ、あらゆる放逸を断ち切るべきである。一切の放逸の根本は、いずれも利益をもたらさず、放逸を成し遂げるものである。たとえば、大地に依って、あらゆる薬草や樹木、林、流水や池、堤防や城邑、集落や園林、そして須弥山の王が存在するように、一切の地獄・餓鬼・畜生もまた、同じく放逸に依っている。それゆえ、賢者は放逸を捨て去るべきである。」

「爾時，夜摩天王以偈頌曰：

> そのとき、夜摩（ヤマ）の天の王が、詩をもってこう語った。

「『老人身皮皺，無力拄杖行，老而不知法，皆由放逸故。以病破壞身，偃臥於床席，而不生厭離，皆由愚癡故。若遇於飢渴，若入嶮惡道，而不生厭離，皆由放逸故。若得愛別離，而生於苦惱，一切放逸故，如來如是說。若於五道中，具受種種苦，眾生常苦惱，以其愚癡故。嗚呼不厭離，生死諸世間，諸業大輪轉，循環不暫停。三界皆無樂，亦無有少常，如是愚癡人，不知生厭離。境界皆虛空，三界猶如夢，一切皆悉苦，無目不見知。如是愚癡人，為放逸所害，死畏欲至時，無有能遮救。為於不善觀，惱亂其心意，死王欲將至，而人不覺知。死王將欲至，奪人保命心，三種無利益，惱害諸眾生。老病死等苦，以放逸故生，追求惱人中，放逸害諸天；飢渴惱餓鬼，地獄苦所惱，畜生多愚癡，迭互相殘害；如是眾苦惱，惱害諸眾生，以順非法行，放逸愚癡故。猶如依大地，生諸藥草等，放逸亦如是，增長諸煩惱。此魔王軍眾，第一大臣等，摧以智金剛，如日光除闇。於此所說中，知功德及過，放逸果受苦，無放逸果樂。』「如是夜摩王，無量分別說，放逸之過惡，不放逸功德。『老病死諸苦，愛別怨憎會，無量諸衰惱，遍滿生死中。若人知方便，遮於未來苦，惡業是苦因，不作惡業樂。滅煩惱最樂，智者如是說，此是涅槃道，真智所演說。調伏不放逸，住於閑靜處，勇猛離貪心，去涅槃不遠。離怨及親友，滅除於有欲，境界不放逸，去涅槃不遠。若人捨離惡，修行慈悲心，怖畏生死者，去涅槃不遠。以智斷煩惱，智慧心清涼，度於懈怠垢，去涅槃不遠。與四諦相應，斷於三種過，於諸根自在，去涅槃不遠。知阿那般那，修行二種相，解了智所知，去涅槃不遠。若脫於過畏，若樂不縛心，以能度彼岸，是故名牟尼。』

> 「老いて肌は皺だらけ、力なく杖を頼りに歩く。 老いても真理を知らぬのは、すべて怠り（放逸）のゆえ。 病は身を壊し、床に伏せって横たわる。 それでも厭い離れようとしないのは、すべて愚かさのゆえ。 飢えや渇きに出会い、険しい悪道に踏み入っても、 厭い離れようとしないのは、すべて怠りのゆえ。 愛する者と別れ、苦しみ悩みが生じても、 すべては怠りからだと、如来はこう説かれた。 五つの迷いの道（五道）の中で、さまざまな苦しみを受け、 生きとし生けるものは常に悩み苦しむ。その愚かさのゆえに。 ああ、厭い離れることのない、迷いの世の中。 様々な業の大きな輪が、休むことなく巡り続ける。 三界（欲界・色界・無色界）には楽しみはなく、少しの永遠もない。 それなのに愚かな人は、厭い離れることを知らない。 境界はすべて空しく、三界は夢のよう。 すべては苦しみであり、目のない者はそれを知ることができない。 このように愚かな人は、怠りに害される。 死への恐れが迫ろうとも、それを防ぎ救う者はいない。 善くない観察によって、心は乱され悩まされる。 死の王が近づこうとしているのに、人はそれに気づかない。 死の王が近づき、人の命を守る心を奪おうとする。 三つの無益なものが、あらゆる生きとし生けるものを悩ませ苦しめる。 老い・病・死などの苦しみは、怠りから生じる。 苦しみを追い求める人々のうち、怠りは天人の命を損なう。 飢えと渇きは餓鬼を苦しめ、地獄の苦しみは地獄の者を悩ませ、 畜生は非常に愚かで、互いに傷つけ合う。 このように無数の苦しみが、あらゆる生きとし生けるものを悩ませ苦しめる。 それは、法（真理）に逆らう行い、怠りと愚かさのゆえである。 あたかも大地に依って様々な薬草などが生えるように、 怠りもまた、様々な煩悩を増大させる。 この魔王の軍勢、その第一の大臣たちを、 智慧の金剛（ダイヤモンド）で打ち砕く。太陽の光が暗闇を除くように。 ここで説かれたことの中に、功徳と過ちを知りなさい。 怠りは苦しみの結果をもたらし、怠りなきことは楽の結果をもたらすのだ。」 このように夜摩王は、数多く詳細に説いた。 怠りの過ちと悪しきこと、怠りなきことの功徳を。 「老い・病・死の苦しみ、愛する者との別れ、 憎む者との会合、 無数の様々な衰えや悩みが、迷いの生（生死）の中に満ちている。 もし人が方便（善巧な方法）を知って、未来の苦しみを防ぐならば、 悪しき業は苦しみの原因である。悪しき業をなさなければ楽である。 煩悩を滅することが最も楽である。賢者はこう説く。 これが涅槃への道であり、真の智慧によって説かれたものである。 心を調え怠りなく、静かな所に住み、 勇猛に貪りの心を離れる者は、涅槃に遠くない。 怨みや親しい友を離れ、生存への執着を滅ぼし、 対象（境界）に対して怠りなければ、涅槃に遠くない。 もし人が悪を捨て、慈悲の心を修行し、 生死を畏れる者であるならば、涅槃に遠くない。 智慧によって煩悩を断ち、智慧の心は清らかで、 怠惰の汚れを超えるならば、涅槃に遠くない。 四つの真理（四諦）と相応し、三つの過ち（貪・瞋・癡）を断ち、 諸々の感覚器官（根）において自在であるならば、涅槃に遠くない。 安那般那（呼吸の観察）を知り、二つの相（出息・入息）を修行し、 智慧の知るべきところを解了するならば、涅槃に遠くない。 もし過ちへの恐れから解脱し、楽に心を縛られることなく、 彼岸に渡り得たならば、それを牟尼（聖者）というのだ。」

「如是夜摩天王為說法鳥眾、善時鵝王說迦葉如來正法經典。離放逸故，如是無量正法調伏妙音勇勝說法。

> このようにして、夜摩天の王は説法の鳥たちのために、善き時を知るガチョウの王が語った迦葉如来の正法の経典を説いた。放逸を離れるために、このような無量の正法によって心を調え導く、妙なる声による勇ましく勝れた説法があった。

「爾時，魔王軍眾、放逸大臣聞正法已，作如是念：『我今不能轉動夜摩天王如此之法。難知深法，不可迴轉。』作是念已，具告同伴：『今此牟修樓陀此法道中，不可轉動，乃至一句。』如是魔臣共思惟已，勢力劣弱，本念破壞，失大威德，飛昇虛空，於須臾頃還至他化自在天宮魔波旬所。到已，時一切魔問使臣言：『汝所作事如憶念不？事究竟不？』時三大臣聞是語已，白魔王言：『天王！我失勢力，夜摩天王牟修樓陀有大智慧，於正法中乃至一句，不可動轉。及其天眾，亦復如是，我不能亂。』

> こうして魔王の軍勢と放逸な大臣たちは正法を聞いて、こう考えた。「今や我々は夜摩天の王である牟修楼陀を、このような法から動かすことはできない。これは難解で深遠な法であり、覆すことはできない。」そう考えた後、互いに仲間に告げた。「今この牟修楼陀の法の道は、一文一句たりとも動かすことはできない。」魔の臣たちは共にこのように考えた後、その勢力は弱まり、本来の目的も打ち砕かれ、大いなる威徳を失った。彼らは虚空に飛び上がり、しばらくして他化自在天宮の魔王波旬のもとへと還った。到着すると、その時すべての魔が使いの臣に尋ねた。「そなたが成すべきことは、思いのままに行えたか。事は成就したのか。」時に三人の大臣はこの言葉を聞き、魔王に申し上げた。「天王よ、我々は勢力を失いました。夜摩天の王である牟修楼陀は大いなる智慧を持ち、正法においては一文一句たりとも動かすことができません。その天の衆もまた同じく、我々には乱すことができませんでした。」

「時，魔波旬聞此語已，作如是念：『放逸行天，我能令其住於欲中。雖有大力，以放逸故，住我境界。』作是念已，告魔眾言：『却後我能破夜摩天，汝勿急速。我有大力悉能壞亂一切天眾，後當破之。』時，魔波旬說是語已，復受無等六欲之樂，於放逸地轉增無量成就大樂。

> さて、悪魔ポーピヤ（波旬）はこの言葉を聞いて、こう考えました。「放逸にふける天々を、私は欲望にとどまらせることができる。たとえ大きな力を持っていても、放逸ゆえに、彼らは私の支配下にある。」そう考えた後、悪魔の軍勢に告げました。「もうすぐ私は夜摩天を打ち破る。お前たちは急ぐな。私はすべての天々を混乱させ打ち壊す力を持っている。後に必ず彼らを打ち破るだろう。」その時、悪魔ポーピヤはこの言葉を言い終えると、また比類なき六欲の快楽を受け、放逸の境地でさらに計り知れない大きな楽しみを満たしました。

「夜摩天王共善時鵝王及說法鳥眾說無量種法，魔軍放逸既已退還，時諸天眾所作已辦。

> 夜摩天王は、善時鵞王や法を説く鳥たちとともに、無数の教えを説かれました。魔王の軍勢はすでに退散し、そのとき天の衆生たちはなすべきことを成し遂げました。

「爾時，新生天眾遊戲歡娛，於園林中來向天王說法之處，及善時鵝王、說法鳥眾。爾時，夜摩天王見此天眾，告善時言：『汝觀如是放逸行天，今來向此。我今當遊寂靜園林。』說是語已，飛昇虛空入寂靜林。

> その時、新たに生まれた天の者たちは、園林の中で遊び楽しみながら、天王が説法する場所へと向かっていました。また、善時鵞王や説法の鳥たちもそこにいました。すると、夜摩天王はこれらの天の者たちを見て、善時に告げました。「これらの放逸な天の者たちが、今こちらに向かって来ているのを見なさい。私は今、静寂の園林へと赴こう。」そう言うと、虚空に飛び上がって静寂の林の中へと入っていきました。

「此諸天眾放逸遊行，五欲具足，園林池中娛樂，乃至愛業所集業盡，隨業流轉，墮於地獄、餓鬼、畜生。若有餘業生於人中，財富具足，為世大人，或為大王或為大臣，大樂之處，眾人所愛。以餘業故。

> 天界の者たちは、欲望のままに遊び楽しみ、五つの欲望を満たし、庭園や林、池で享楽にふける。そして、愛着という業が積もり積もったものが尽きると、その業に従って流転し、地獄・餓鬼・畜生の世界に堕ちていく。 もし余った業によって人間界に生まれることがあれば、財産に恵まれ、世の中の偉人となり、あるいは王となり、あるいは大臣となる。大きな楽しみを得る場所であり、多くの人々に愛される。それは、余った業によるのである。

「復次，比丘知業果報，彼以聞慧見：夜摩天所住地處，名一向樂。眾生何業生彼地處？彼以聞慧見：有善人持戒，不殺不盜，如前所說，復捨邪婬。不犯邪行，第一難持，能捨不作。若見禽獸牝牡和合，不生心念，捨不欲見，亦不思惟。於邪行報，生怖畏心，是故捨離見邪行者，勸令不作，說邪行報，令住善道。以此因緣，說如是法言：『是邪婬得不愛報，畢定墮於地獄之報。』既自不作，教他不作。如是之人自利利他，身壞命終生於善道夜摩天中一向樂地。以善業故，樂常不斷，無量諸樂皆悉增長。

> さらに、比丘は業の因果を観察する智慧によって、次のことを知る。夜摩天に「一向楽」という地がある。どのような業によって、衆生はそこに生まれるのか。彼は聞く智慧によって、次のように見る。 ある善良な人が戒律を守り、殺さず、盗まず、先に述べた通りに生きる。さらに邪な性行為を捨てる。清らかな行いを汚さず、最も守りがたい戒を自ら選んで、それを行わない。もし動物がつがいになっているのを見ても、心に欲の念を起こさず、見ることを避け、思いを巡らせない。邪な行いの報いを恐れ、そのために離れるのである。邪な行いをする人を見れば、それをやめるよう勧め、行いの報いを説いて、善い道に留まるように導く。このような因縁によって、こう説く。 「邪な性行為は、愛されない報いをもたらす。必ず地獄に堕ちる報いである。」 自らそれを行わず、他人にも行わせない。このような人は、自らを利益し、他者をも利益する。命終えた後、善い道である夜摩天の一向楽の地に生まれる。善い業のゆえに、楽しみは絶えることなく続き、無量の楽しみがすべて増え広がるのである。

「於此地中有諸園林，見之愛樂。如意之林，一切欲樂隨念皆得，於園林中愛樂受樂。新生天子有諸園林：一名光明樂；二名流水樂；三名山聚樂。有蓮花池名曰雜池、有名香流，復有園林山池，復有異山，天之功德無數具足，林池可愛。新生天子遊戲受樂，千倍功德，所謂摩尼欄楯池，次名眾鳥音樂池，次名天歡喜池，次名常遊戲池，次名受樂池，次名無濁池，次名實有池，次名見當有池，此池周遍有諸天鳥出妙音聲，色量具足充滿池中，如意之樹遍於池側，無量功德皆悉具足。以善業故，與無量天女受五欲樂。諸天之色，隨念順行，樂觀不離，次第觀之，受五欲樂。以其持戒集善業故，得如是報。於花池中遊戲歌舞，受五欲樂。如是五欲，渴愛刺林，復以天女而自圍遶，於摩尼莊嚴間錯之池。復往詣於餘蓮花池、莊嚴之山遊戲受樂，天鬘天衣，五境界樂，目視可愛。昇此山上，欲受快樂，所上山峯名曰山谷，甚可愛樂。於彼山上復有餘天，天鬘天衣以自莊嚴，從金山下，天眾圍遶遊戲而來，百百千千相隨而下。新生天子見諸天眾，問天女言：『如彼天眾共諸天女遊戲受樂，我亦如是遊戲受樂？』諸天女言：『願隨其意。』時，初生天子知天女心，共諸天女圍遶遊戲，第一歡喜，五樂音聲以為歌頌。二眾共集，遊戲受樂不知厭足。

> ここには、様々な園林がある。見れば愛しく楽しくなる。如意の林では、望むままにあらゆる楽しみが叶い、園林の中で愛しみ楽しみ、喜びを受ける。 新しく生まれた天子たちには、次のような園林がある。一つは光明楽、二つは流水楽、三つは山聚楽と名付けられている。また、雑池と呼ばれる蓮の池や、名香流という池がある。さらに、園林や山や池、そして異なる山々もある。天の功徳は数えきれないほど備わっており、林や池は愛しい。 新しく生まれた天子たちは、遊び戯れて楽しみを受ける。その功徳は千倍にもなる。すなわち、摩尼の欄楯（らんじゅん）がある池、次に衆鳥音楽の池、次に天歓喜の池、次に常に遊戯する池、次に楽しみを受ける池、次に濁りのない池、次に実在の池、次にやがてあるべき池である。これらの池の周りには、様々な天の鳥が美しい声を奏で、その姿と大きさは完全で、池はその鳥たちで満ちている。如意の樹は池のほとりに広がり、無量の功徳がすべて備わっている。 善い行いの力によって、無数の天女たちと共に五つの欲の楽しみを受ける。天の色は思いのままに現れ、見つめていても飽きることがない。順を追って眺めながら、五つの欲の楽しみを受ける。戒めを守り、善い行いを積んだ報いとして、このような果報を得るのである。 花の池の中で遊び戯れ、歌舞を楽しみ、五つの欲の楽しみを受ける。このような五つの欲は、渇愛という棘（とげ）の林である。さらに、天女たちに囲まれながら、摩尼で飾られた美しい池へと向かう。また、他の蓮の池や荘厳な山へと赴き、遊び戯れて楽しみを受ける。天の花飾りや天の衣をまとい、五つの境界の楽しみを味わい、目に映るものすべてが愛しい。 この山に上り、楽しみを受けようとする。昇る山の峰は、山谷と名付けられ、とても愛しいものである。その山の上には、また別の天の者たちがいる。彼らは天の花飾りと天の衣で自らを飾り、金の山から降りてくる。大勢の天の衆に囲まれ、遊び戯れながらやって来る。百、百、千、千と連なって降りてくる。 新しく生まれた天子は、この天の衆を見て、天女に尋ねる。「あの天の衆が、天女たちと共に遊び戯れて楽しみを受けているように、私もまた、このように遊び戯れて楽しみを受けることができるのだろうか？」 天女たちは答える。「どうぞ、お心のままに。」 この時、新しく生まれた天子は天女たちの心を理解し、天女たちに囲まれながら遊び戯れる。この上ない喜びの中、五つの楽器の音に合わせて歌を歌う。二つの集まりが共に集い、遊び戯れて楽しみを受け、決して満ち足りることはない。

「山上有鳥，名曰山冠孔雀王，為諸天眾以偈頌曰：

> 山の上に鳥がいて、その名を山冠孔雀王といいます。天の衆生たちにむけて、次のように偈をうたいました。

「『世間業莊嚴，天亦業莊嚴，天處無常故，業盡還破壞。世間愛和合，不愛於別離，和合必有離，世間法如是。心愛樂諸樂，為境界所誑，諸天命速盡，如心之生滅。老病死破壞，離別一切人，常有此死法，愚者不覺知。老使次第來，死時垂欲至，為病軍能破，愚者不覺知。六種失人身，五根能破壞，如人失正道，處處皆障礙。若人念因果，常念而不失，是人見實果，於後不生悔。若人於境界，實見不貪著，此人於愛境，則能速得脫。若脫於愛網，則度惡曠野，能遠放逸火，是人大智慧。五種大怖畏，壞一切世間，以其自業故，老病死離別。』

> 「世には業の荘厳あり、天にもまた業の荘厳あり。 天の処も無常なるがゆえに、業尽きれば還って壊れ破られる。 世間は愛によって和合するも、別離を愛さず。 されど和合には必ず離れがある。これ世間の法である。 心は様々な楽しみを愛し慕い、境界に欺かれる。 諸天の命もすみやかに尽きる。それは心の生滅のようなものだ。 老・病・死はすべての人を壊し、離別させる。 常にこの死の法があるのに、愚者はそれに気づかない。 老いは次第にやって来て、死の時は間近に迫る。 病の軍によって破られるのに、愚者はそれに気づかない。 六つの原因で人の身を失い、五根は壊れ破られる。 人が正道を失えば、至る所が障害となるようなものだ。 もし人が因果を思い、常に念じて忘れなければ、 その人は真実の果報を見て、後に後悔しない。 もし人が境界について、実相を見て貪り執着しなければ、 その人は愛着の境から、速やかに解脱できる。 もし愛の網から解脱すれば、悪しき荒野を渡り、 放逸の火から遠く離れることができる。これが大いなる智慧の人である。 五つの大きな怖れが、一切の世間を壊す。 自らの業によって、老・病・死・別離が生じるのである。」

「如是山冠鳥種種莊嚴孔雀王菩提薩埵，以願力故，受孔雀身，利益他人及利孔雀，為天說法，斷除放逸。

> このように、山の頂きのような頭飾りをまとった、さまざまな荘厳な姿を持つ孔雀王菩薩（くじゃくおうぼさつ）は、その願いの力によって孔雀の姿を取り、自ら他者を利し、また孔雀たちをも利するために、天の人々に教えを説き、放逸（ほういつ）を断ち切らせました。

「爾時，天眾見新生天子心生歡喜，以放逸故，於善法語心不信受，或歌或舞遊戲受樂，五樂音聲。於山峯園林，有無量種不可譬喻金光明窟、如意之林莊嚴此山，無量眾鳥、百千山河、花林莊嚴。共諸天女，具一切欲，天樂具足，無量遊戲。如是天眾遊戲次第，昇雜摩尼間錯之山。於此山上有七寶樹如意之林莊嚴其山，縱廣五由旬。於其林中有孔雀王，名種種莊嚴，住在此林，為天說法。為令天子、諸天女等離放逸故，愛說法故，遊園林中、蓮花林中，種種雜林、河泉流水、山峯之中，寶莊嚴處、百千眾鳥妙音之處、一切天眾莊嚴之處、諸天女眾莊嚴之處，多有天子天女和合受樂，此孔雀王則至其所。以善業故，受種種樂，一切遊戲，如是遊戲無量差別，不可譬喻，隨念皆得。

> その時、天の衆生たちは、新たに生まれた天子を見て心から喜びましたが、放逸に溺れて、善い教えを心から信じ受け入れようとはしませんでした。ある者は歌い、ある者は踊り、遊び楽しみ、五つの楽器の音に興じていました。 山々の峰や園林には、比べるもののない無数の金色の光明の洞窟や、願いを叶える林があり、この山を荘厳していました。そこには数え切れないほどの鳥たち、多くの山河、花々の林が飾り立てていました。天女たちと共に、あらゆる欲を満たし、天の楽器が備わり、限りない遊戯が行われていました。 こうした天の衆生たちは、遊戯を次々と楽しみながら、様々な宝石が織り交ぜられた山へと昇って行きました。この山の上には、七宝の樹木と願いを叶える林が山を荘厳しており、その広さは五由旬に及びました。その林の中には「種種荘厳」という名の孔雀王が住んでいて、天の者たちのために法を説いていました。 天子や天女たちを放逸から離れさせ、法を語ることを愛させるために、彼は園林や蓮華の林、様々な雑木林、河川や泉の流れる場所、山の峰々、宝石で飾られた場所、百千の鳥たちが美しい声で鳴く場所、すべての天の衆生が荘厳する場所、天女たちが集う場所へと赴きました。そこでは多くの天子と天女が和合して楽しんでいましたが、孔雀王は彼らのもとへとやって来たのです。 善い業の果報によって、彼らは様々な楽しみを受け、あらゆる遊戯を味わいました。こうした遊戯は無数の種類があり、比喩することもできず、思うがままにすべてを得ることができたのです。

「爾時，孔雀王於摩尼間錯山峯之中，見諸天眾受放逸樂，為令天眾離放逸故，以偈頌曰：

> その時、孔雀王は瑠璃と黄金が美しく混ざり合った山の頂で、天の民たちが気ままな楽しみにふけっているのを見ました。彼は彼らをその放埒な生き方から目覚めさせようと、次のような詩を唱えました。

「『現在若未來，色境無厭足，憶念火所燒，數數求境界。雖得生天上，生已還歸滅，為業網所縛，復墮於地獄，出受鬼畜生，受無量苦惱。眾生行五道，以業因緣故。眾生種種業，甚多不可量，故得種種果。天中無量樂，業盡故還退，有生則有滅，見於真諦者，能見天退滅。此死時欲至，其命則破壞，一切能惱亂，愚者不覺知。以種種調伏，種種說利益，天眾樂所迷，而不生厭離。善語法相應，二世得安樂，愚者不攝受，後則生大悔。以多法調伏，語真義亦明，而天著放逸，不知真利益。死怨害天命，大力無能救，大力速馳奔，死時欲來至。諸天龍夜叉、乾闥毘舍闍，一切無能敵，是故死力大。若知力無力，是人真知業，不為惡業污，不行於惡道。常修行諸善，離不善境界，如是作業人，則無眾苦惱。隨順於法行，增長信精進，三昧力相應，如母利益子。善法於五道，一切能救護，非父非母力，能行於彼處。信順於正法，能救惡道苦，隨其所至處，信常有大力。如燈能除闇，如病得良藥，如盲者得眼，如貧人得財，如水漂溺人，信為大船栰，若人放逸行，信為能除滅。死時得信故，能除生有海，則得寂滅處，古世牟尼說。以得信力故，名正智修行，信及不放逸，精進知止足，集智近善友，此六解脫因。施戒善寂滅，慈心利眾生，及行悲喜捨，此法得因緣。輕躁近惡友，麁獷喜妄語，邪見放逸行，此法地獄因。慳嫉苦惡語，放逸行離善，心常貪他物，聖說餓鬼因。近癡離智慧，愛欲遠正法，貪食樂睡眠，佛說畜生因。若人身口意，作三種不善，如是無智人，則墮於地獄。若作如是因，受果則不差，如種穀得穀，善惡業如是。見此眾多人，作生死苦因，如是愚天眾，而猶不覺知。放逸初雖樂，後則大苦惱，若法後時苦，智者應捨離。乃至未解脫，終無有少樂；若得解脫者，常樂得成就。無常放逸樂，智者所不說，若得常樂者，智者說為樂。上上次相續，諸業皆如是，其果亦如是，上上而不斷。既知業果已，應捨離放逸，當起智慧心，此樂為無上。』

> 「現在であれ未来であれ、色の対象に満足することがなく、 執着の火に焼かれながら、繰り返し対象を求める。 たとえ天界に生まれても、生まれてはまた滅び、 業の網に縛られて、再び地獄に落ちる。 さらに餓鬼や畜生の世界に生まれ、計り知れない苦しみを受ける。 衆生は五つの道を巡るが、それは業の因縁による。 衆生の業は様々で、非常に多く計り知れない。 それゆえ様々な結果を得る。天界には限りない楽しみがあるが、 業が尽きれば退転する。生あるものには滅びがある。 真実を見極めた者は、天の退転と滅びを見ることができる。 死ぬ時が近づけば、その命は壊れる。 すべてを悩ませるが、愚か者はそれに気づかない。 様々に調伏し、様々に利益を説いても、 天の衆生は楽しみに迷い、厭離の心を起こさない。 善い言葉と法が相応すれば、現世と来世に安楽をもたらすが、 愚か者はそれを受け入れず、後に大きな後悔をする。 多くの教えで調伏し、言葉は真実で意味も明らかだが、 天の衆生は放逸に執着し、真の利益を知らない。 死は命を害し、その力は大きく、救うことはできない。 その力は速やかに迫り、死の時はやって来る。 諸々の天や竜、夜叉、乾闥婆、毘舎闍も、 すべて敵うものはない。それゆえ死の力は大きい。 力あるものと力なきものを知る者は、真に業を知る者であり、 悪業に染まらず、悪道を歩まない。 常に善行を修行し、不善の境界を離れる。 そのように業を行う人は、様々な苦しみがない。 法の行いに随順し、信仰と精進を増し、 禅定の力と相応すれば、母が子を慈しむようである。 善い法は五つの道において、すべてを救い守る。 父や母の力ではなく、それがその境地に至らせる。 正しい法を信じ従うことは、悪道の苦しみを救う。 その人がどこに行こうとも、信仰には常に大きな力がある。 灯火が闇を除くように、病に良薬があるように、 盲人が眼を得るように、貧しい人が財を得るように、 水に溺れる人にとって、信仰は大きな船や筏である。 もし人が放逸に歩むなら、信仰はそれを除き滅ぼすことができる。 死ぬ時に信仰を得ることで、生と有の海を超え、 寂滅の境地に至る。これは古の聖者が説いたことである。 信仰の力を得ることで、正しい智慧と修行と呼ばれる。 信仰と不放逸、精進と知足、 智慧を集め善き友に近づく。この六つが解脱の因である。 布施、戒、善き寂滅、慈心で衆生を利益し、 そして悲、喜、捨を行ずる。この法が因縁を得る。 軽はずみで悪友に近づき、粗野で嘘をつき、 邪見で放逸に行う。この法は地獄の因である。 吝嗇と嫉妬、苦しい言葉、放逸で善を離れ、 心は常に他人の物を貪る。聖者はこれを餓鬼の因と説く。 愚かさに近づき智慧を離れ、愛欲は正法から遠ざかり、 食べ物を貪り睡眠を好む。仏はこれを畜生の因と説く。 もし人が身・口・意で、三種の不善をなすなら、 そのような無知な人は、地獄に堕ちる。 もしそのような因を作れば、受ける結果は違わない。 種を蒔けば穀物が得られるように、善悪の業もそうである。 この多くの人々が、生死の苦しみの因を作っているのを見る。 そのような愚かな天の衆生は、まだ気づかない。 放逸は最初は楽しみでも、後には大きな苦しみとなる。 もし法が後に苦しみをもたらすなら、賢者はそれを捨てるべきである。 解脱に至るまで、少しの楽しみもない。 もし解脱を得れば、常住の楽を成就する。 無常な放逸の楽しみは、賢者が説くところではない。 もし常住の楽を得るなら、賢者はそれを楽と説く。 上々のものが次々と続くように、諸々の業もそうである。 その結果もまた上々であり、途切れることがない。 業とその結果を知ったなら、放逸を捨てるべきである。 智慧の心を起こすべきである。この楽しみこそ無上である。」

「如是孔雀王菩薩種種方便為天說法，斷除放逸，種種無畏美妙音聲，悉蔽諸天歌詠之音。以善業故，其聲遍滿二萬由旬，聞者悅樂，法樂相應。

> このようにして、孔雀王菩薩は様々な巧みな方法で天人のために説法し、 放逸な心を取り除かせました。 その美しく、何の恐れもない素晴らしい音声は、 天人の歌声をすべて覆い隠すほどでした。 善い行いの果報により、その声は二万由旬にわたって響き渡り、 聞く者すべてが喜びに満たされ、法の楽しみと調和したのでした。

「爾時，諸天眾為求樂故，空中旋轉，如四天王、行使天等或去或來，此諸天眾亦復如是。

> そのとき、天の民たちは楽を求めて、空中を旋回した。それはまるで、四天王やその配下の天人が行き来するかのようであり、この天の民たちもまた同じようであった。

「爾時，兜率陀諸天眾聞此聲已，七萬天眾從上而下，敬重正法，放逸薄故，向夜摩天種種莊嚴孔雀王所。

> その時、兜率天の天人の群れはこの声を聞き、七万の天人が天上から降り立ちました。彼らは正しい教えを敬い重んじ、心の遊びを軽くしていたため、夜摩天へと向かい、様々に飾られた孔雀王のもとへと赴きました。

「時，種種莊嚴孔雀王菩薩知兜率陀天以心歡喜，告諸天子：『善來真天！少放逸故，能來至此求未來果。若欲得聞種種法要，汝當速下，如我所聞寂靜之法，當為汝說。我已修集，能至涅槃。我於往昔所聞之法，一切師等本所不聞。我於迦迦村陀佛所，得聞此法。生生之處，以願力故，常不忘失，為他人說。』

> その時、種種に荘厳された孔雀王菩薩は、兜率陀天の人々が心から喜んでいるのを見て、諸々の天子たちに告げました。 「よく来た、まことの天よ。少しの放逸を離れたがゆえに、あなたがたは来世の果報を求めてここに至ることができたのです。もし様々な法の要を聞きたいと望むなら、あなたがたは速やかに降りてきなさい。私が聞いた寂静の法を、あなたがたのために説きましょう。私はすでにこれを修行し、完成させており、涅槃に至ることができます。 私が過去に聞いた法は、あらゆる師たちでさえ、もともと聞いたことのないものです。私は迦迦村陀仏のもとで、この法を得ました。そして生まれるたびごとに、誓いの力によって、決して忘れることなく、他の人々のために説いてきました。」

「爾時，兜率陀天聞孔雀王說是語已，從空中下，敬重正法。於山峯中、大眾共會山峯之中無量蓮花池、無量流泉、無量寶性，無量眾鳥出妙音聲。於摩尼間錯山峯之中圍遶孔雀王，四面而住。威德殊勝，色相具足，一切光明勝夜摩天。如夜摩天比閻浮提人，兜率陀天勝夜摩天亦復如是。時，夜摩天見兜率天破壞色慢及自在樂，往詣孔雀王菩薩所。有樂遊戲入於林中，未曾見於兜率天故，瞻仰而住，或上山頂欲求遊戲。復有諸天圍遶孔雀王四面而住。

> その時、兜率天の者たちは孔雀王がこの言葉を語るのを聞いて、空中から降り立ち、正法を敬い重んじました。山頂において、大勢の衆が集まったその山中には、無数の蓮華の池、無数の清らかな泉、無数の宝の性質があり、無数の鳥たちが美しい声を奏でていました。摩尼宝で彩られた山々の間で、孔雀王を囲んで四方に留まりました。その威徳は並外れて勝れ、姿かたちはすべてを備え、その光明は夜摩天よりも勝っていました。例えて言えば、夜摩天が閻浮提の人々よりも優れているように、兜率天は夜摩天よりもさらに勝れていたのです。その時、夜摩天は兜率天が色の慢心と自在の楽しみを打ち破ったのを見て、孔雀王の菩薩のもとへ訪れました。遊戯を楽しむ者たちは林の中に入り、まだ兜率天を見たことがなかったので、仰ぎ見て立ち止まり、あるいは山頂に上って遊びを求めました。また、多くの天の者たちが孔雀王を囲んで四方に留まりました。

「爾時，孔雀王菩薩告諸天眾：『有二十二法，我今當說。我所敬習，利益天人，第一安樂，一切眾生令得正行。此二十二法利益安樂天人愛法。現在、未來天人愛法，能斷放逸，滅令不生。若諸天人能離放逸，常得安樂，乃至涅槃。此法利益，父母利益所不能及。何等二十二？一者悔心；二者畏惡道；三者忍；四者精進；五者說法；六者悲心；七者軟心；八者調伏；九者信業；十者不住壞處；十一者住心；十二者畏惡名；十三者不樂著；十四者獨行；十五者心不散亂；十六者念死；十七者離色富財種姓憍慢；十八者軟語；十九者於一切眾生起平等心；二十者知足；二十一者畏於境界；二十二者捨不信心。此二十二法，若天、若人如實修行，不墮惡道，速得涅槃。

> 「その時、孔雀王菩薩は天の衆に告げられた。『二十二の法がある。私は今、それを説こう。私が敬い学んできたものであり、天と人々を利益し、第一の安楽をもたらし、一切の衆生を正しい行いへと導く。この二十二の法は、天と人々にとって愛すべき利益と安楽の法である。現在と未来の天と人々にとって愛すべき法であり、放逸を断ち、生じさせない。もし天や人々が放逸を離れれば、常に安楽を得て、ついには涅槃に至る。この法の利益は、父母の利益さえも及ばない。その二十二とは何か。一に、悔いる心。二に、悪道を恐れること。三に、忍ぶこと。四に、精進すること。五に、説法すること。六に、悲しみの心。七に、柔和な心。八に、調伏すること。九に、業を信じること。十に、悪しき場所に留まらないこと。十一に、心をとどめること。十二に、悪名を畏れること。十三に、執着しないこと。十四に、独り歩むこと。十五に、心を散乱させないこと。十六に、死を念じること。十七に、色・富・財・種姓の慢を離れること。十八に、柔和な言葉。十九に、一切の衆生に対して平等の心を起こすこと。二十に、足ることを知ること。二十一に、境界を畏れること。二十二に、不信心を捨てること。この二十二の法を、天も人も、真実のままに修行すれば、悪道に堕ちることなく、速やかに涅槃を得るだろう。』」

「『云何名悔？云何悔已而得安隱？既生悔已，斷不善法。云何生悔？若見他人造作不善身口意業，他作身業而呵毀之，應生悔心，不共同住。若有因緣，自起不善覺觀之心，隨生即捨，不生憶念，不味不著，內心生慚愧於他人，勤修精進令其不生，不受覺觀，心呵惡覺觀。譬如大坑，滿中糞屎死狗不淨，有清淨人入中求淨，既入坑中不淨沒咽，爾時其人心生厭惡。若有起於不善覺觀，其心生悔亦復如是。譬如異人常求淨行，以不知故，誤食糞穢。或有強力怨家強令食糞，食已惡賤，心生悔恨，後更不食。若有行於善業之人慚愧、呵毀不善覺觀亦復如是。勤修精進，斷除覺觀，是名初法。不生放逸，斷除放逸，破壞放逸，是故天人應當修學。若有善人欲求真諦，怖畏生死，若生微少不善覺觀，應生悔心，不生願心，不生放逸。不放逸人能起悔心，放逸之人則不能悔。如是一法，是諸善業之根本也。所謂斷除不善覺觀而生悔心，是名初法。

> 「悔とは何か。悔いると、どうして安らぎを得るのか。悔いを生じたなら、不善の法を断つ。では、どのように悔いるのか。もし他の人が身・口・意の不善の業を為すのを見た時、その人が身の業を為すのを叱り非難して、悔いる心を起こし、共に同じ場所に住まないことである。また、何らかの因縁があって、自ら不善の覚りや観察の心が起きたならば、それが生じると同時に捨て去り、心に思い出さず、味わわず、執着せず、心の内で他人に対して慚愧の念を起こし、精進に努めてそれを生じさせず、その覚りや観察を受け入れず、心で悪しき覚りや観察を憎むのである。 例えば、大きな穴があり、その中が糞や尿、死んだ犬などの不浄な物で満ちているとする。そこに清らかな人が入って清らかなものを探そうとし、穴に入ると不浄な物が喉まで浸かった。その時、その人は心に厭うべき気持ちを起こす。もし不善の覚りや観察が起きたならば、その心に悔いが生じるのも全く同じである。 また例えば、ある人が常に清らかな行いを求めていたが、知らなかったために誤って糞や汚物を食べてしまった。あるいは、力の強い怨家が無理やり糞を食べさせたとする。食べた後、それをひどく嫌い、心に悔いと恨みを生じ、その後は二度と食べない。善い行いを実践する人が、不善の覚りや観察に対して慚愧し、それを叱り非難するのも全く同じである。精進に努め、覚りや観察を断ち切ること、これを第一の法というのである。 放逸を生じさせず、放逸を断ち、放逸を破壊する。ゆえに天人はこれを学び修めるべきである。もし善い人が真理を求めようとし、生死を恐れるならば、もし少しでも不善の覚りや観察が生じたならば、悔いる心を起こすべきであり、願う心を起こさず、放逸を生じさせない。放逸でない人は悔いる心を起こすことができるが、放逸な人は悔いることができない。この一つの法こそが、あらゆる善い業の根本である。すなわち、不善の覚りや観察を断ち切って悔いる心を生じること、これを第一の法というのである。」

「『復次，第二善法增長善法，所謂畏於惡道，名大出法，滅於放逸，能斷放逸。一切人天畏惡道行。若有沙門、若婆羅門、若復餘人，若畏惡道，不作惡業，若見他作亦不隨喜，知不善業墮於地獄、餓鬼、畜生，是故不作惡不善業。惡業之因，墮於惡道。何以故？於少惡業習近喜樂，令惡增長，墮於地獄、餓鬼、畜生。是故沙門、若婆羅門及餘畏惡道者應如是學，常應怖畏，不善果報甚為大惡，成就地獄、餓鬼、畜生。放逸行人、少智之人若能如是畏惡道者，不作放逸，不作身口意三種惡業，如是之人常修善業，捨不善業，是名畏惡道。譬如有人知自他力，畏於毒蛇及以刀火能斷人命；畏惡道者，怖畏惡業亦復如是。如是之人於微細業捨而不作，不行放逸。捨放逸故，生天人中，受大富樂。受富樂已，後入涅槃。以勝樂故，無死無變、無退無盡，是故常應怖畏惡道。若有沙門、若婆羅門及餘行者能如是行，得無上處。

> 「次に、善なる法を増大させる第二の法について述べます。それは『悪道を恐れること』です。これは偉大な解脱の法であり、怠りを滅ぼし、怠りを断ち切ります。すべての天や人間は、悪道への行き先を恐れています。もし出家者、バラモン、あるいはその他の人々で、悪道を恐れて不善の業を行わず、他の人が行うのを見ても喜ばず、不善の業が地獄・餓鬼・畜生へ堕ちる原因となると知っているなら、その故に不善の業を行いません。悪業の因は、悪道へ堕ちる原因です。なぜなら、わずかな悪業であっても、それに親しみ喜ぶことで悪が増大し、地獄・餓鬼・畜生へ堕ちるからです。ゆえに、出家者、バラモン、そして悪道を恐れる他の人々は、このように学ぶべきです。常に恐れを持つべきです。不善の報いが非常に大きな悪であり、地獄・餓鬼・畜生をもたらすものだと知るべきです。怠りに流される人、智慧の少ない人でも、このように悪道を恐れるならば、怠りを行わず、身・口・意の三種の悪業を作りません。このような人は常に善業を修め、不善の業を捨てるのです。これを『悪道を恐れる』といいます。たとえば、自分の力と他人の力を知っている人が、命を断ち切る毒蛇や刀火を恐れるように、悪道を恐れる人は、悪業をも恐れるのです。それと同じです。このような人は、微細な業であっても捨てて行わず、怠りに流されません。怠りを捨てることで、天や人の世界に生まれ、大きな富と楽を受けます。その富と楽を受けた後、さらに涅槃へと至ります。この勝れた楽には、死もなく、変化もなく、退転もなく、尽きることもありません。ゆえに、常に悪道を恐れるべきなのです。もし出家者、バラモン、あるいは他の修行者がこのように行じるならば、最高の境地を得ることができるでしょう。」

「『彼時，世尊說此偈言：

> その時、世尊はこの偈を説かれました。

「『「若人畏惡道，應捨放逸垢，修善求功德，則到涅槃城。若人畏惡道，其人心正直，以其正心故，從樂得樂處。若不畏惡道，則多造惡業，為惡火所燒，將入於地獄。譬如微少火，雖小亦能燒，惡道亦如是，經劫猶得報。若人欲得樂，應畏於惡道，怖畏救惡道，則能得安樂。」

> 「もし人が悪道を畏れるならば、放逸という汚れを捨て、 善を修めて功徳を求めるならば、涅槃の城に至るのだ。 もし人が悪道を畏れるならば、その人の心は直く、 その正しき心によって、楽から楽の境へと至るのだ。 もし人が悪道を畏れなければ、多くの悪業を積み、 悪の火に焼かれて、やがて地獄に入るだろう。 たとえば小さな火であっても、小さくとも燃えることができるように、 悪道もまた同じで、劫を経てもなお報いを受ける。 もし人が楽を得たいと望むならば、悪道を畏れるべきである。 悪道を恐れ慎むならば、安楽を得ることができるのだ。」

「『如是法中，若天、若人、若沙門、婆羅門及餘善人，若畏惡道，於少不善，尋即悔過，心不隨喜亦不思惟，心念地獄、餓鬼、畜生，怖畏苦果。念已畏於三不善道，捨十惡業，止而不作，不教他作亦不隨喜，不近如是惡業之人，修行善業，捨一切惡，行淨無垢，捨離放逸，止一切惡，於不善法流轉有中而得解脫。於一切法得解脫已，解脫諸過則能安隱，度有彼岸。是故應當常畏惡道，當如是學，一切天人若愛此法，能至涅槃。

> このような法（真理）において、天・人・沙門（修行者）・バラモン（聖職者）やその他の善き人々は、もし悪道（苦しみの世界）を恐れるならば、わずかな不善（悪い行い）に対しても、すぐに悔い改める。心から喜ばず、それについて思い悩むこともない。そして、地獄・餓鬼・畜生の世界を心に念じ、苦しみの結果を怖れる。これを念じた後、三つの不善の道を畏れ、十の悪業を捨て、それを行わず、他人にも行わせず、それに心から喜ぶこともない。そのような悪業を為す人々に近づかず、善業を修行し、一切の悪を捨てる。清らかで汚れのない行いをし、放逸（怠けや無頓着）を捨て離れ、一切の悪を止める。不善の法によって生死（迷い）の流れの中にありながら、そこから解き放たれる。すべての法から解き放たれたならば、諸々の過ちからも解脱し、安らかで穏やかになり、苦しみのこの岸を超えて、あちらの岸（涅槃）に至ることができる。それゆえ、常に悪道を畏れるべきであり、このように学ぶべきである。すべての天や人がこの法を愛するならば、涅槃に至ることができるのである。

「『復次，彼佛世尊說離放逸能至涅槃，利益安樂一切天人。我於先世人中得聞，憶念不忘，我今當為諸天眾說。云何名為第三忍法？如是忍者，第一善法、第一清淨，佛所讚歎。忍有二種：一者法忍；二者生忍。云何法忍？緣法道行，思惟白法——忍堅固法，思惟善道勝故能忍，故名為忍。譬如大地忍諸世間山河、園林無量種類，忍之不疲，一切法忍亦復如是。能到涅槃，一切法忍堅固最勝，白淨善法，涅槃道攝，故名法忍。如是之人堅固世間忍故，能至涅槃。

> 「また、かの世尊は『放逸を離れることによって涅槃に至り、一切の天人の利益と安楽をもたらす』と説かれました。私は過去世においてこれを人々から聞き、記憶して忘れることなく、今、天の衆のために説きましょう。では、第三の忍法とは何か。この忍とは、第一の善法であり、第一の清浄なるもの、仏が讃嘆されたものです。忍には二種あります。一つは法忍、もう一つは生忍です。法忍とは何か。法に基づく道を行じ、白き善法を思惟します。すなわち、堅固な法を忍び、善道の勝れたところを思惟するからこそ忍ぶことができ、それを忍と名づけます。たとえば大地が、世間の山河や園林、無量の種類を疲れることなく忍ぶように、一切の法忍もまた同じです。涅槃に至ることができ、一切の法忍は堅固にして最も勝れ、白く清らかな善法であり、涅槃の道に摂せられる。ゆえに法忍と名づけられます。このような人は、世間における忍が堅固であるがゆえに、涅槃に至ることができるのです。

「『復次，第二忍。所謂若沙門、婆羅門、若復餘人欲起瞋恚，忍令不起，知瞋過故，作是思惟：「若起瞋恚，自燒其身，其心噤毒顏色變異，他人所棄，皆悉驚避，眾人不愛，輕毀鄙賤，身壞命終墮於地獄。以瞋恚故，無惡不作，是故智者捨瞋如火。」知瞋過故，能自利益，為欲自利、利益他人，應當行忍。譬如大火焚燒屋宅，有勇健者以水滅之，智慧之人忍滅瞋恚亦復如是。能忍之人第一善心，能捨瞋恚，眾人所愛，眾人樂見，人所信受，顏色清淨，其心寂靜，心不躁動，善淨深心，離身口過、離心熱惱、離惡道畏、離於怨憎、離惡名稱、離於憂惱、離怨家畏、離於惡人惡口罵詈、離於悔畏、離惡聲畏、離無利畏、離於苦畏、離於慢畏。若人能離如是之畏，一切功德皆悉具足，名稱普聞，得現在未來二世之樂，眾人視之猶如父母。是忍辱人，眾人親近。是故瞋怒猶如毒蛇、如刀如火，以忍滅之，能令皆盡。能忍瞋恚，是名為忍。若有善人欲修行善，應作是念：「忍者如寶，應善護之。」如是忍者，能破瞋恚。正法忍光猶如炬火，能滅瞋闇。如盲者眼貧。正法者之財賄除邪見之貧窮，猶如父母利益其子。瞋恚沒溺，忍為大船。墮惡道者，忍為救拔。忍如大水滅地獄火，忍力能斷餓鬼慳嫉飢渴之惱。若墮畜生互相殘害，忍力則能施其身命。應樂行忍，常習不捨，若畏惡道，當勤精進思惟忍力。』

> 「次に、第二の忍について説く。もし沙門（修行者）やバラモン（司祭者）、あるいはその他の人が怒りを起こそうとしても、忍ぶことで怒りを起こさせないようにせよ。なぜなら、怒りの過ちを知っているからである。次のように考えるのだ。『もし怒りを起こせば、その身を自ら焼き、心は塞がり、顔色は変わり、他人から捨てられ、皆が驚いて避け、人々から愛されず、軽く見られ、卑しめられ、身が滅び命が終われば地獄に落ちる。怒りの故に、悪を為さざるはなく、ゆえに智者は怒りを火のように捨てる。』 怒りの過ちを知れば、自らを利益することができる。自らの利益と他人の利益のために、忍を行うべきである。例えば大きな火が家屋を焼く時、勇敢で健やかな者が水でそれを消すように、智慧ある人が忍びによって怒りを消すのもまた同じである。 忍ぶことができる人は、最も優れた善心を持つ者であり、怒りを捨てることができる。人々に愛され、人々に見られ喜ばれ、人々に信頼され、顔色は清らかで、その心は静かであり、心は躁がず、善く清らかで深い心を持ち、身体と口の過ちを離れ、心の熱悩を離れ、悪道への恐れを離れ、怨み憎しみを離れ、悪い評判を離れ、憂い悩みを離れ、怨みの家（敵）への恐れを離れ、悪人からの悪口罵詈を離れ、後悔への恐れを離れ、悪い声への恐れを離れ、無利益への恐れを離れ、苦しみへの恐れを離れ、慢心への恐れを離れる。 もし人がこのような恐れを離れることができれば、一切の功徳が全て具わり、名声は広く聞こえ、現在と未来の二世の楽を得る。人々は彼を見ること、父母の如くする。この忍辱の人は、人々が親しみ寄る。ゆえに、怒りは毒蛇や刀や火のようなものであるが、忍びによってそれを滅ぼせば、全てを尽くすことができる。 怒りに耐え忍ぶこと、これを忍という。もし善人が善行を修めようと思うなら、次のように考えるべきである。『忍ぶことは宝の如し。よくこれを護るべきである。』このように忍ぶ者は、怒りを破ることができる。正法の忍びの光は炬火の如く、怒りの闇を滅ぼすことができる。それは盲人の目、貧者の財産のようなものである。正法は邪見の貧しさを除き、父母がその子を利益するようである。怒りに溺れる者には、忍は大きな船である。悪道に堕ちた者には、忍は救い上げてくれる。忍は大水の如く地獄の火を消し、忍の力は餓鬼の慳吝・嫉妬・飢渇の悩みを断つことができる。もし畜生に堕ちて互いに残し合う場合でも、忍の力はその身命を施すことができる。 喜んで忍びを行い、常に習い、捨てることなく、もし悪道を恐れるならば、精進して忍の力をよく思惟すべきである。」

「爾時，孔雀王菩薩以偈頌曰：

> そこで、孔雀王菩薩は詩句をもって讃えました。

「『若人忍莊嚴，諸莊嚴中勝，財物可劫盜，忍則不可失。若人修行忍，一切眾所愛，後時得安隱，忍為第一戒。若人修行忍，捨一切瞋恚，現在及未來，常得安隱處。忍辱戒智慧，如是三種財，此財最第一，非珍寶能譬。若人修行忍，一切應供養，善人所讚歎，是故應行忍。忍藥為第一，能除於瞋毒，忍能滅瞋恚，令其不復生。闇覆愚癡人，忍為勝光明，如燈能除闇，忍示於正道。若離正法財，流轉於五道，若有忍財物，於世最豪富。瞋恚大曠野，黑闇甚難度，忍資糧具足，能過無留難。若迷正法路，忍能為正導，怖畏惡道者，忍力為救護。常令眾生樂，能滅於苦惱，常得安隱樂，永離諸怖畏，善人之所愛，能生信功德，和集善吉祥，捨離不善法，示人正解脫，能滅生死畏，昇天之階陛，滅除地獄火，餓鬼畜生界，忍為能救護。忍能滿功德，令眾生寂滅，欲得吉祥樂，當修行忍辱。』

> 「もし人が忍耐の装いをまとえば、その装いはすべての装いの中で最も優れている。 財物は奪われることもあるが、忍耐は失われることがない。 もし人が忍耐を修行すれば、すべての人々に愛される。 のちに安らぎを得るだろう。忍耐こそ第一の戒めである。 もし人が忍耐を修行すれば、すべての怒りを捨てる。 現在も未来も、常に安らかな境地を得る。 忍辱、戒、智慧、これら三つの財は、 この財が最も第一であり、どんな珍宝も比べることはできない。 もし人が忍耐を修行すれば、すべての人から供養されるべき存在となる。 善人たちも称賛する。ゆえに忍耐を修行すべきである。 忍耐という薬は最も優れ、怒りの毒を取り除くことができる。 忍耐は怒りを滅ぼし、再び生じさせない。 暗闇に覆われた愚かな人々にとって、忍耐は勝れた光明である。 灯りが暗闇を除くように、忍耐は正しい道を示す。 正しい法の財を離れれば、五つの道を流転する。 しかし忍耐という財を持つ者は、世の中で最も富める者である。 怒りは広大な荒野であり、暗闇で非常に越えがたい。 しかし忍耐という旅路の糧を十分に備えていれば、障害なく越えられる。 もし正しい法の道に迷っても、忍耐が正しい導き手となる。 悪道を恐れる者にとって、忍耐の力は救いである。 常に衆生を楽しませ、苦しみを滅ぼす。 常に安らかな楽しみを得て、すべての怖れから永遠に離れる。 善人の愛するところであり、信仰の功徳を生む。 善きものや吉祥を集め、善からざる法を捨てる。 人に正しい解脱を示し、生死の怖れを滅ぼす。 天界への階段であり、地獄の火を消し、 餓鬼や畜生の世界においても、忍耐は救いとなる。 忍耐は功徳を満たし、衆生を静寂へ導く。 吉祥の楽しみを得たいと望むなら、忍耐を修行すべきである。」

「『如是忍者，名第一法，以修行故，現在未來常得安樂，身壞命終生於天上，後得涅槃。是故為不放逸生天人中，當修行忍。

> 「この忍び（忍辱）とは、第一の法である。修行することにより、現在も未来も常に安らぎを得られ、身体が壊れ命が終われば天上に生まれ、その後、涅槃に至る。ゆえに、放逸せずに天や人の世界に生まれるために、忍びを修行すべきである。」

「『復次，第四善業能離放逸。若沙門、婆羅門及餘善人作何等善業？所謂精進勤求善法。與善相應，道法精進，正時相應，時處寂靜，修習世間、出世間法相應寂靜，非不相應。若沙門、婆羅門於世間、出世間法，初夜後夜知時止息，知時知處及知方便，如是則得安隱而住精進，能破一切懈怠。若沙門、婆羅門為破煩惱，勤修精進，既生精進，於色聲香味觸境界不起著心。若得因緣，持心令住，正心精進，二法為伴。攝心令離一切境界。若不善力起，精進遮之，正念斷除。一切法中，精進第一。以此二法為同伴故，令諸善法堅固不壞而得果報。正心精進功德力故，終得涅槃。若沙門、婆羅門及餘善人知此功德，當勤精進。於世間中，精進最勝。若世間業，以勤修故，而得堅固。以勤修故，而得果報。久住於世，他不能壞。若人精進，於命終時，其心清淨亦不怯弱，心不散亂、不恐不怖。雖得衰惱，不休不息，常勤修習，諸善增長，怨不能壞，無有人能說其過惡。隨所作業，具足成就。如是世間善業精進，智者所讚，何況出世正智精進而不勝妙。是故一切法、一切時、一切智，有智和合現前精進，知時知處，正見勤修。發精進故，得一切樂。若行顛倒，則得無利衰惱憂患。若無智慧，雖復勤苦，不名精進。』

> 「さらに、第四の善き行いは、放逸から離れることです。沙門（修行者）やバラモン（司祭）、その他の善人たちは、どのような善き行いをなすのでしょうか。それは、努力して善い教えを求め求めることです。善と結びつき、道に適った努力をし、正しい時期に応じて、静かな場所や時に身を置き、世俗の教えと出世間（世を超えた）の教えの両方を静かに修め、調和の取れた状態にすることです。調和が取れていない状態であってはなりません。 もし沙門やバラモンが、世俗と出世間の教えにおいて、初夜と後夜（夜の早い時間と遅い時間）に適切な休息を知り、時と場所、そして手段を知るならば、このようにして安らかに、努力を続けて住むことができ、一切の怠惰を打ち破ることができます。 もし沙門やバラモンが、煩悩を打ち破ろうと努め励むならば、努力が生じた後は、色・声・香・味・触（五感の対象）という境界に対して心を執着させません。もし因縁（条件）が生じても、心をしっかりと保ち、正しい心で努力し、この二つの法を伴侶とします。心を制して、あらゆる境界（対象）から離れさせます。 もし不善の力が生じたら、努力によってそれを防ぎ、正しい念によって断ち除きます。すべての法（現象）の中で、努力は最も優れています。この二つの法（正心と精進）を伴侶とするからこそ、あらゆる善い法はしっかりと壊れることなく、その結果を得ることができます。正しい心と努力の功徳の力によって、ついには涅槃（悟りの境地）に至るのです。 沙門やバラモン、その他の善人は、この功徳を知ったならば、努め励むべきです。世の中において、努力は最も優れています。たとえ世俗の行いでも、努力して修めることによって、堅固なものとなります。努力して修めることによって、結果を得ることができます。長くこの世に留まり、他のものに壊されることがありません。 もし人が努力していれば、命が終わる時、その心は清らかで、臆することもなく、心が乱れたり、恐れたり、怖れたりすることもありません。たとえ衰えや悩みに遭っても、休まず怠らず、常に努め修めれば、諸々の善は増え、怨みにも壊されず、その過ちや悪事を語る者はいません。なした行いは全て、完全に成就します。 このように、世の中の善い行いとしての努力は、賢者が称賛するものです。ましてや、出世間の正しい智慧による努力が、優れないはずがありましょうか。 ゆえに、すべてのもの、すべての時、すべての智慧において、智慧と共に目の前の努力を現し、時と場所を知り、正しい見解をもって努め励むべきです。努力を起こすことによって、すべての安楽を得ることができます。もし間違った見方（顛倒）に従えば、利益はなく、衰えや悩み、憂いや苦しみを得るだけです。もし智慧がなければ、たとえ苦労しても、それを努力とは呼べません。」

「爾時，孔雀王菩薩以偈頌曰：

> そこで、孔雀王菩薩は詩句をもって讃えました。

「『時處相應故，令作業增長，如法勤精進，則得善果報。雖法處作業，捨離於正法，作業不成就，以離精進故。如法勤精進，智慧得涅槃，如空中投戟，即生於天上。若人勤作業，而修行精進，所作皆和合，得廣大成就。若於世間義，若出世間義，皆由精進力，一切得成就。若離精進力，及離於正法，彼人無富樂，如求月中垢。賢聖八分道，念為能守護，精進大力人，能到第一道。精進得菩提，精進故生天，一切諸道果，無非精進得。既知此功德，精進調諸根，意發勤精進，無與精進等。』

> 「時と場合に応じて、行いが成長するのだ。 正しい方法で精進すれば、善い結果が得られる。 たとえ教えに沿って行動しても、正しい道を離れてしまえば、 行いは成就しない。なぜなら、精進を欠くからである。 正しい方法で精進し、智慧によって涅槃を得る。 それは、まるで空中に槍を投げるように、そのまま天界に生まれるのである。 人が努めて精進すれば、 行いはすべて調和し、大きな成就を得る。 世の中の目的であれ、世を超えた目的であれ、 すべては精進の力によって、完全に達成される。 もし精進の力を欠き、正しい法から離れるならば、 その人に富みや楽しみはない。それは、月の中の汚れを求めるようなものだ。 聖なる八つの道は、気づきによって守られる。 精進に力強い人は、最高の道に至ることができる。 精進によって悟りを得る。精進によって天界に生まれる。 あらゆる道や果報も、精進なしには得られない。 この功徳を知ったなら、精進によって感覚を調え、 心を奮い立たせて精進せよ。精進に勝るものはないのだ。」

「如是孔雀王菩薩為兜率陀天眾、夜摩天眾，說於本生所持經法。時，諸天眾皆悉聽受，離於放逸，諸根調伏，一心諦聽。時孔雀王知諸天心生大歡喜，發勤精進，以清淨心為之說法，令集安隱，寂滅涅槃，利益安樂一切諸天。一切菩薩法利眾生。

> このようにして、孔雀王菩薩は兜率天（とそつてん）や夜摩天（やまてん）の天の人々のために、過去世に学び、守ってきた経典の教えを説きました。 その時、天の人々は皆、この教えを聞き受け、心の逸脱（いつだつ）を離れ、感覚を整え、一心に耳を傾けました。孔雀王は、天の人々の心に大きな喜びが生まれ、精進する意欲が湧いているのを知り、清らかな心で彼らに法を説きました。それは、天の人々に安らぎをもたらし、煩悩（ぼんのう）を静め、涅槃（ねはん）へと導き、すべての天の人々に利益と安楽（あんらく）を与えるためのものでした。これこそが、すべての菩薩が人々を利益する法のあり方なのです。

## 正法念處經卷第六十

> 正法念処経 巻第六十