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title: "正法念處經 · 26"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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## 正法念處經卷第六十一

> 正法念処経 巻第六十一

元魏婆羅門瞿曇般若流支譯

> 元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳

### 觀天品之四十夜摩天之二十六

> 観天の章 第四十<note>夜摩天 第二十六</note>

「『復次第五，聞法利益安樂一切人天，謂何等法？所謂說法，說於一切布施之法，說諸善法。一切尊中，聞法最勝，能斷一切憍慢根本。所謂說法，能調憍慢。說法、聞法、尊敬重法，說於信法，說受持法，說修行人不離說法。諸佛如來以法為師，何況聲聞緣覺。說法有十功德，多所利益。何等為十？時處具足，分別易解，與法相應，非為利養，為調伏心，隨順說法，說施有報，說生死法多諸障礙，說天退沒，說有業果。若說法人有此十法，令聞法者得多功德，利益安樂乃至涅槃。是聽法者及說法人隨所作願，各得成就。一切種種布施之中法施最勝，乃至能令一切眾生得涅槃樂。

> 「さらに第五に、法を聞くことの功徳は、全ての天や人々を安楽にする。それはどのような法か。いわゆる説法であり、全ての布施の法を説き、多くの善い行いを説くことである。全ての尊いものの中で、法を聞くことが最も勝れており、あらゆる傲慢の根本を断ち切ることができる。つまり説法によって、傲慢を調えることができる。説法すること、法を聞くこと、法を敬い重んじること、法を信じることを説き、法を受け持ち修行することを説き、修行者は説法から離れない。諸仏如来でさえ法を師とされる。ましてや声聞や縁覚はなおさらである。説法には十の功徳があり、多くの利益をもたらす。その十とは何か。時と場所が整い、わかりやすく説き分け、法に相応しく、金銭や名誉のために説かず、心を調えるために説き、相手に合わせて法を説き、施しには報いがあると説き、迷いの世界には多くの障りがあると説き、天の世界にも衰退があると説き、行いには必ず結果があると説くことである。もし説法者にこの十の法があれば、法を聞く者に多くの功徳をもたらし、利益と安楽を与え、ついには涅槃に至らせる。このように法を聞く者と説法する者は、それぞれの願いに従って成就を得る。あらゆる種類の布施の中で、法の布施が最も勝れている。それは全ての生きとし生けるものを涅槃の安楽に導くことができるからである。」

「『復次，聞法功德：成就深心，信根清淨，一向淨心信於三寶。詣聽法處，為聞正法，隨舉一足，皆生梵福。若人供養說法法師，當知是人即為供養現在世尊。其人如是隨所供養，所願成就，乃至得阿耨多羅三藐三菩提，以能供養說法師故。何以故？以聞法故，心得調伏；以調伏故，能斷無知流轉之闇。若離聞法，無有一法能調伏心。如聞說法，有四種恩甚為難報。何等為四？一者母；二者父；三者如來；四者說法法師。若有供養此四種人，得無量福，現在為人之所讚歎，於未來世能得菩提。何以故？以說法力，令憍慢者得調伏故，令貪著者信布施故，令麁獷者心調柔故，令愚癡者得智慧故。以聞法力，令迷因果者得正信故。以聞法力，令邪見者入正見故。以聞法力，令樂殺生、偷盜、邪婬業者得遠離故。以此說法調伏因緣，終得涅槃。以此因緣，說法法師甚為難報。父母之恩難可得報，以生身故，是故父母不可得報。若令父母住於法中，名少報恩。如來、應、等正覺，三界最勝，度脫生死，無上大師，此恩難報，唯有一法能報佛恩，若於佛法深心得不壞信，是名報恩。以此供養，亦自利益。』

> 「また、法を聞く功徳について述べましょう。教えを聞くことによって、深い心が成就し、信仰の根が清らかになり、ひたむきな心で三宝（仏・法・僧）を信じるようになります。教えを聞くためにその場へ向かい、正しい法を聴こうとして一歩を踏み出すたびに、梵天の福徳が生まれます。もし人が説法する僧侶に供養するならば、その人はまさに生きておられる仏に供養していることとなります。そのように供養する人は、願いが叶い、ついには最高の悟り（阿耨多羅三藐三菩提）に至るのです。説法する僧侶に供養するからです。なぜでしょうか。教えを聞くことで心が調えられ、調えられることで無知による迷いの闇を断ち切ることができるからです。教えを聞くことなしには、心を調える方法は一つもありません。 法の説教を聞くことには、報いることが非常に難しい四つの恩があります。その四つとは何か。第一に母、第二に父、第三に如来、第四に説法する僧侶です。もしこの四人に供養するならば、計り知れない福徳を得、現世では人々に称賛され、未来には悟りを得ることができるでしょう。なぜでしょうか。説法の力によって、高慢な者は調えられ、欲深い者は布施を信じ、粗暴な者は心が柔らかくなり、愚かな者は智慧を得るからです。また、教えを聞く力によって、因果の道理に迷う者は正しい信仰を得、邪見に陥る者は正しい見解に入り、殺生・盗み・邪淫などの悪業を好む者はそこから遠ざかるのです。このように説法によって心が調えられる因縁により、最終的に涅槃に至ります。この因縁によって、説法する僧侶の恩は非常に報い難いのです。 父母の恩もまた報い難いものです。父母は私たちに命を与えてくれたからです。ですから、父母の恩は簡単に報いることはできません。しかし、もし父母を仏法の教えの中に留まらせることができれば、それはわずかながら恩返しと言えるでしょう。 如来、応供、正等覚者は三界において最も優れた存在で、生死の迷いから人々を救い出す、この上ない師です。その恩は報い難く、ただ一つの方法でしか報いることができません。それは、仏の教えに対して深く揺るぎない信心を得ることです。これを恩返しと言います。このような供養は、また自らの利益にもなるのです。」

「爾時，孔雀王菩薩說經偈曰：

> その時、孔雀王菩薩が経典の偈を説かれました。

「『以說法因緣，得安隱涅槃，能斷一切縛，眾生之大師。以說寂靜法，能斷愚癡網，如是勝導師，能示眾生道。若法令眾生，超度諸有海，此法最殊勝，世法莫能及。若人能供養，此四種福田，斯人得善果，導師如是說。既得具諸根，亦得聞佛法，若行於非法，後悔無所及。處處生愛著，常求於欲樂，恒貪愛妻子，不覺死來至。念念多諸惡，種種過所亂，以心縛眾生，將趣三惡道。是惡難調伏，常求天人便，是心不可信，眾生之大怨。以善聞善見，無量種修習，以法調伏心，如馬得銜勒。』

> 「法を説く因縁によって、安らかな涅槃を得て、 あらゆる束縛を断ち切る、衆生の大いなる師。 寂静の法を説いて、愚かさの網を断ち切る、 このような優れた導師は、衆生に道を示す。 もし法が衆生をして、様々な生存の海を超えさせるなら、 この法が最も優れており、世の法は及ばない。 人がこの四種の福田を供養できるなら、 その人は善い果報を得ると、導師は説かれた。 諸々の感覚器官を備え、また仏法を聞くことができても、 もし正しくない行いをすれば、後悔しても追いつかない。 あらゆるところで執着を生じ、常に欲の楽しみを求め、 いつも妻や子を愛しみ、死が来るのに気づかない。 一瞬ごとに多くの悪を為し、様々な過ちに乱され、 心が衆生を縛り、三つの悪道へと向かわせる。 この悪は調伏し難く、常に天や人の都合を求め、 この心は信頼できない、衆生の最大の怨みである。 善によって聞き、善によって見て、無量の修行を積み、 法によって心を調伏する、まるで馬が轡を得たかのように。」

「如是第一深厚福田，具善功德，應修供養。利益天眾，說如是法及說業道，尊重讚歎說法之師，孔雀王菩薩以願力故，生彼天中利益諸天。時，諸天眾既聞法已，心得清淨，皆悉一心聽其所說，作如是言：『此孔雀王所說相應非不相應，與兜率陀寂靜天王所說相應，無異無別。思惟此法，初中後善，第一清淨、第一善法、第一安隱，利益安樂一切天人，令得寂滅。』

> 「かくのごときは、第一の深い福田であり、善き功徳を具えている。よって供養を修すべきである。天の衆生を利益するために、このような法を説き、また業道を説き、説法の師を尊重し讚嘆する。孔雀王菩薩は願力によって、かの天に生まれ、諸天を利益する。時に、諸天の衆は法を聞き終えて、心清らかになり、皆一心にその説くところを聴き、このように言った。『この孔雀王の説くところは相応しており、相応せざるところはない。兜率陀の寂静天王の説くところと相応して、異なるところも別なるところもない。この法を思惟するに、初中後ともに善く、第一に清らかであり、第一の善法、第一の安穏にして、一切の天人の利益安楽となり、寂滅を得せしめる』と。」

「爾時，孔雀王聞兜率陀天說是語已，心淨歡喜，一切悲心安忍利益一切天眾乃至涅槃。

> その時、孔雀王は兜率天がこの言葉を語ったのを聞いて、心が清らかに喜びに満ち、あらゆる悲しみの心も安らかに受け入れ、すべての天の衆生を利益し、ついには涅槃に至った。

「『復說第六深勝法門能至涅槃，如是之法，第一安隱、第一最勝，眾人所愛，所謂悲心。一切人愛，令人生信，安慰生死怖畏眾生，心不安隱令得安隱，於無救者為作救護。若有悲心，是人則去涅槃不遠。悲心柔濡，無欺誑心、無麁獷心，能斷瞋心，悲潤心故。又悲心者，名大莊嚴。於五道眾生若起悲心，能破瞋惱。云何於地獄眾生而起悲心？此諸眾生云何為於自業所誑？由心怨家之所造作，得不可喻種種大苦。鐵鈎鐵杵、融銅熾然，惡蟲所噉，難度瀑河漂沒眾生，鵰鷲烏鵲之所啄食，入劍樹林及灰河中受種種苦，不可具說。所謂活地獄、黑繩地獄、眾合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄，乃至阿鼻地獄及其隔處大地獄等一百三十六處。眾生墮中，圮裂劈坼、斷截燒煮，自心所誑，業網所縛，愛火所燒，無救無歸，東西馳走，求哀自免以求救護：「我當何時得度如此大苦惱海？」於此眾生而起悲心。若種如是悲心種子，則為天王或作轉輪聖王，一切眾生之所愛重。悲心之人，愛樂善業。是名觀地獄眾生受大苦惱而起悲心，則得增長無量梵福。

> さらに第六の深勝なる法門を説き、涅槃に至ることができる。このような法は、第一に安穏であり、第一に最勝であり、衆人の愛するもの、いわゆる悲心である。一切の人に愛され、人に信を生じさせ、生死に怖れる衆生を慰め、心の安らかでない者を安らかにし、救いのない者のために救護をなす。もし悲心あれば、この人は涅槃より遠くない。悲心は柔らかく、欺きの心なく、荒々しい心なく、瞋りの心を断つことができる。悲心が心を潤すからである。また、悲心ある者は、大いなる荘厳と名づける。五道の衆生に対して悲心を起こせば、瞋りの悩みを破ることができる。どのようにして地獄の衆生に対して悲心を起こすのか。この衆生は、いかにして自らの業に欺かれているのか。心という怨家によって造りなされ、譬えようもない種々の大苦を受ける。鉄の鉤、鉄の杵、溶けた銅の炎、悪虫に食われ、渡り難い暴流に漂い沈む衆生、鵰や鷲、烏や鵲に啄ばまれ、剣の樹林や灰の河に入って種々の苦を受ける。そのすべてを説くことはできない。いわゆる等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、さらに阿鼻地獄とその隔処の大地獄など、百三十六の処がある。衆生はそこに堕ち、裂かれ、断ち切られ、焼かれ、煮られる。自らの心に欺かれ、業の網に縛られ、愛の火に焼かれ、救いも帰る場所もなく、東西に走り回り、哀れみを求めて自らを免れようとし、救護を求めて「私はいつ、この大いなる苦悩の海を渡ることができるのだろうか」と言う。このような衆生に対して悲心を起こす。もしこのような悲心の種を植えれば、天の王となり、あるいは転輪聖王となり、一切の衆生の愛するところとなり、重んじられる。悲心ある人は、善い業を愛好する。これを、地獄の衆生が大いなる苦悩を受けるのを観じて悲心を起こすと言い、無量の梵福を増長する。

「『復次，若沙門、婆羅門及餘善人利益眾生，觀諸餓鬼當起悲心。云何眾生墮餓鬼中？種種飢渴自燒其身，如燒叢林，四面馳走，互相搪突，炎火焚燒，遍體熾然，無救無歸，處處遍走以求救護，無能救者。此諸眾生何時當離種種苦惱？何時當斷飢渴乏苦？是名觀餓鬼苦而起悲心。

> 「さらに、修行者や聖職者、そして他の善人たちが生きとし生けるものを利益しようと願うなら、餓鬼の苦しみを観じて慈悲の心を起こすべきです。どうしてこの世の人々が餓鬼道に堕ちてしまうのでしょうか。彼らはさまざまな飢えと渇きに焼かれ、その身は燃えさかる叢林のようです。四方に逃げ惑い、互いにぶつかり合い、炎に包まれて全身が燃え盛り、助けもなく頼る先もありません。救いを求めてあちこちを走り回るものの、救ってくれる者はいません。これらの人々は、いつになったらあらゆる苦しみから解放されるのでしょうか。いつになったら飢えと渇きの苦しみが絶たれるのでしょうか。これが餓鬼の苦しみを観じて慈悲の心を起こすということなのです。」

「『復次，若沙門、婆羅門及餘善人，觀於畜生而起悲心。畜生之中無量苦惱，互相殺害。畜生三處，所謂空行、水行、陸行，死法無量，互相殘害、互相食噉，此諸眾生何時當脫？是名觀畜生苦而起悲心。若有能生如是之念，則生梵天，以悲心念諸眾生故。

> また、もし沙門（修行者）や婆羅門（バラモン）、あるいは他の善き人々が、動物たちを見て悲しみの心を起こすならば、それは動物たちの中に無量の苦しみがあり、互いに殺し合っているからです。動物たちの世界には三つの場所があります。それは空中を生きるもの、水中を生きるもの、陸上を生きるものですが、彼らには無数の死に方があり、互いに傷つけ合い、食べ合っています。「これらの生きとし生けるものは、いつになったらこの苦しみから逃れられるのだろうか？」——これを、動物たちの苦しみを見て悲しみの心を起こす、と言います。 もしこのような思いを抱くことができるなら、その人は梵天（ブラフマー）の世界に生まれ変わることができます。それは、悲しみの心で全ての生きとし生けるものを思うからです。

「『悲念眾生於三惡道大苦惱處，於最大惡業果之地興悲心已，復於六欲諸天而起悲心。於六欲天，受天之樂不可譬喻，種種山谷山峯園林而受快樂，蓮華林池共諸天女遊戲受於百千種樂。既受樂已，業盡還退，生在苦處，受大苦惱，墮於地獄、餓鬼、畜生。此生死處，戲弄眾生，愛鎖所縛，東西馳走，迷亂無知，受大苦惱。是名觀諸天苦而起悲心。

> 「生きとし生けるものがあの三つの悪道という大きな苦しみの場所にいることを悲しみ、最大の悪業がもたらす結果の地に対して深い悲みの心を起こした後に、さらに六つの欲界の天々に対しても悲みの心を起こします。六欲の天々では、天界の楽しみはたとえようもなく、様々な谷や山の峰々、園林の中で楽しみ、蓮華の池で天女たちと共に戯れ、百千もの楽しみを受けます。しかし、その楽しみを受けた後、業が尽きると再び退き、苦しみの場所に生まれ、大きな苦しみを受け、地獄・餓鬼・畜生に堕ちます。この生死の場所は、生きとし生けるものを弄び、愛の鎖に縛られ、東西に走り回り、迷い乱れて無知であり、大きな苦しみを受けます。これを、天々の苦しみを観じて悲みの心を起こす、と言います。

「『復次若沙門、婆羅門及以餘人，觀於人中而起悲心，以種種業生於人中，受苦樂果。上中下眾生種種作業、種種心性、種種信解，或有貧窮依恃他人，憎愱妨礙，畏他輕賤，追求作業以自存活。如是觀人世間而起悲心，如是悲心，第一白法，能得涅槃。

> さらに、もし修行者や聖職者、あるいはその他の人々が、人間の世界を見つめて悲しみの心を起こすなら、様々な行いによって人が人に生まれ、苦しみや楽しみの結果を受ける様子を見るのです。上・中・下の様々な人々の様々な行い、様々な心の性質、様々な信念や理解があります。中には貧しく、他人に頼り、妬みや妨げを抱え、人に軽んじられるのを恐れながら、生計を立てるために仕事を追い求める者もいます。このように人の世を観察して悲しみの心を起こすこと、この悲しみの心こそが、最も優れた清らかな法であり、涅槃に至ることができるのです。

「『如是觀五道眾生五種苦已而興悲心，如是之人得勝安隱，則得涅槃。』

> このようにして、五つの道に迷う衆生が五種類の苦しみを受けていることを観じ、その後に悲しみの心を起こす人は、最高の安らぎを得ることができ、すなわち涅槃に至ります。

「爾時，孔雀王菩薩說迦迦村陀如來頌曰：

> その時、クジャク王菩薩はカカサンダ仏の賛歌を唱えて言った。

「『若人心柔軟，悲心自莊嚴，為一切所護，眾人所稱歎。如是柔軟心，諸根常悅預，此正見善人，去涅槃不遠。若悲心莊嚴，則為人中天；若人無悲心，是則常貧窮。若人柔軟心，調伏如真金；若悲在心中，此寶無窮盡。若人常精進，恒修行正法，此人心智光，猶如大明燈。若人於晝夜，心常住於法，斯人之悲心，晝夜常不離。其人心清淨，利益諸眾生，既受安樂已，後得於涅槃。悲心清淨施，牟尼所讚歎，能斷一切過，悲財無窮盡。功德勝莊嚴，能斷一切過，牟尼悲潤心，故至不滅處。悲因隨所在，如蜜乳和合，瞋恚及熱惱，不能住其心。既昇悲心栰，哀矜心勇健，能度於有海，三毒大洄澓。功德勝營邑，無勝此莊嚴，善人之所愛，故名為悲心。』

> 「もし人の心が柔らかく、悲しみの心（慈悲）で自らを飾るならば、 すべての者に守られ、人々から称賛される。 かくのごとき柔らかな心を持つ者は、諸々の感覚が常に喜びに満ち、 これこそが正しい見解を持つ善き人であり、涅槃（悟り）から遠くない。 もし悲しみの心で自らを飾るならば、その人は人の中の天（尊い存在）となる。 もし人に悲しみの心がなければ、その人は常に貧しい者である。 もし人の心が柔らかく、調えられて純金のようであるならば、 もし悲しみの心がその内にあれば、この宝は尽きることがない。 もし人が常に精進し、常に正しい教えを修行するならば、 この人の心の智慧の光は、大きな明るい灯明のようである。 もし人が昼夜、心を常に教えに留めるならば、 この人の悲しみの心は、昼夜にわたって常に離れない。 その人の心は清らかで、すべての生きとし生けるものを利益し、 すでに安らぎを受けた後には、ついに涅槃を得る。 悲しみの心で清らかに施すことは、牟尼（仏陀）が称賛するところであり、 すべての過ちを断ち切ることができ、悲しみという財は尽きることがない。 功徳は飾りに勝り、すべての過ちを断ち切ることができ、 牟尼の悲しみの心が潤すので、滅びない境地に至る。 悲しみの因縁が在るところには、蜜と乳が混ざり合うように、 怒りや熱苦しみは、その心に留まることができない。 すでに悲しみの心という筏に乗り、哀れみの心は勇ましく、 存在の大海や、三毒（貪欲・怒り・無知）の大渦を渡ることができる。 功徳は城や集落に勝り、この飾りに勝るものはなく、 善き人々の愛するところ、ゆえにこれを悲しみの心（慈悲）と名付ける。」

「如是孔雀王菩薩為天說法，初中後善，相應寂滅，一切天眾樂集聽受。

> このように孔雀王菩薩は天の人々のために法を説かれました。その教えは始めも中も終わりも善く、真理にかなって静けさへ導くものであり、天の衆生はみな喜んで集まり、聴き受けたのでした。

「『復次，彼佛世尊說第七法，謂何等法與之相應而得解脫，斷於放逸。以何等業？謂柔軟心，斷輕躁過，攝諸功德。若有人能柔軟深心，離一切垢，涅槃解脫猶如在手。軟心之人，心如白鑞，修行善業，眾人所信。麁獷之心如金剛石，恒常不忘怨結之心，行不調伏，眾人所憎，不愛不信；若起惡心，堅執不捨，心不安樂，不樂禪誦，不近善人，不生善法。如沙鹵地不生種子，又如沙中不出麻油，麁獷心人亦復如是不生善法，如搆角乳，如月中暖，如石女兒，如空中花。麁獷惡業，誑詐無智，自誑誑他，五有所沒，近不善人，捨離三寶。此生盲人不覩正法明慧之日，甚可哀愍，生老病死、憂悲苦惱眾苦之聚，入大曠野受無量苦，遠離柔軟甘露之味。如是惡人沒於苦海，去涅槃遠。何以故？不行涅槃道因行故。以是義故，常不得樂。若有人能柔軟其心，其人一切定得涅槃，譬如麻性出油，日性光明，月光性冷，火熱地堅風動水濕，四大各各自相不倒。軟心之人調伏其心，信心精進不顛倒見，信於因果，則於涅槃如在現前。』

> 「さらに、かの世尊は第七の法を説かれた。それは、どのような法と相応して解脱を得、放逸を断つのか。どのような行いによるのか。すなわち柔和な心によって、軽躁な過ちを断ち、諸々の功徳を収めることである。もし人が柔和な深い心をもつことができ、一切の汚れを離れるならば、涅槃への解脱は手の中にあるかのごとくになる。柔和な心の人は、その心が白い錫のようであり、善い行いを積むゆえに、多くの人々から信頼される。荒々しい心は金剛石のようであり、怨みの結びを常に忘れず、行いが調わず、人々に嫌われ、愛されず信じられない。もし悪心を起こせば、固く執着して捨てず、心は安らかでなく、瞑想や読誦を好まず、善き人に近づかず、善い法を生じない。まるで塩分の多い土地には種が生えず、砂の中からごま油が出ないように、荒々しい心の人もまた、善い法を生じない。それは、角から乳を搾るようなもの、月の中に暖かさを求めるようなもの、石の娘（子のないことのたとえ）のようなもの、空中の花のようなものである。荒々しい悪業は、偽りと愚かさに満ち、自らを欺き他を欺き、五つの生存（五有）に沈み、悪しき人に近づき、三宝を捨て去る。この生まれながらの盲人は、正法という明慧の日を見ることができず、まことに哀れむべきである。生・老・病・死、憂い悲しみ苦しみ悩みの苦しみの集まり、大きな荒野に入って無量の苦しみを受け、柔和なる甘露の味から遠く離れる。このような悪人は苦海に沈み、涅槃から遠い。なぜなら、涅槃の道の因となる行いを行わないからである。このような理由から、常に楽を得ることがない。もし人がその心を柔和にすることができるならば、その人は必ず涅槃を得る。例えば、麻は油を生ずる性質を持ち、日は光明を持つ性質、月は冷たさを持つ性質、火は熱く、地は堅く、風は動き、水は湿り、四つの大きな要素（四大）がそれぞれその性質を誤ることなく持つように、柔和な心の人はその心を調え、信心と精進によって倒錯した見解を持たず、因果を信じるならば、涅槃は目前にあるかのごときである。」

「爾時，孔雀王菩薩以佛經偈，而說頌曰：

> その時、孔雀王菩薩は仏の教えの偈をもって、次のように説かれた。

「『若人心柔軟，猶如成鍊金，斯人內外善，速得脫眾苦。若人心器調，一切皆柔軟，斯人生善種，猶如良稻田。一切諸眾生，不能盡斯藏，能破於貧窮，及以多誑詐。利根寂靜人，常修行禪定，不著放逸境，永離諸苦惱。』

> 『もし人の心が柔らかく、鍛えられた金のようであるならば、 その人は内外ともに善く、速やかにあらゆる苦しみから脱する。 もし人の心が整えられ、すべてが柔らかくなるならば、 その人は善い種を生じ、ちょうど良い田んぼのようである。 すべての生きとし生けるものは、この宝を尽くすことができず、 それは貧しさや、さまざまな偽りを打ち破ることができる。 鋭い智慧を持つ静かな人は、常に坐禅に励み、 放逸な境に執着せず、永遠にすべての悩み苦しみから離れるのである。』

「如是孔雀王菩薩說是偈時，夜摩天眾、兜率天眾樂聞無厭，復欲聞法，合掌恭敬白言：『大聖！願為我等具說二十二法。我等為欲利益他故，當至心聽。』

> このように孔雀王菩薩が偈を説かれた時、夜摩天の衆や兜率天の衆は喜んで聞くことに飽きることなく、さらに法を聞きたいと願い、合掌して敬意を表して申し上げました。 「大聖よ。どうか私たちのために、二十二の法を詳しくお説きください。私たちは他の者たちの利益のため、心を込めて聴聞いたします。」

「爾時，孔雀王菩薩為諸天眾說二十二最勝法門，已說七法，今當次第說第八法。『若有沙門、婆羅門及餘善人，心生思惟有何等法？謂調伏法，能與一切作莊嚴法，一切調伏毘尼相應。若沙門、婆羅門，若復餘人，在家、出家，若老若少，調伏相應，以此莊嚴能令端正。若離調伏，猶如野干、烏鵄鵰鷲。出家之人云何調伏？出家之人初以袈裟而自調伏，當行七事。何等為七？一者如其國法，受糞掃衣，隨所住國在家之人所棄之衣。若在塚間有死人衣，死屍所壓，則不應取；若於塚間得破壞衣，則應受用。是名袈裟調伏之法。

> 「その時、孔雀王菩薩は天の大衆のために二十二の最も勝れた法門を説き、既に七つの法を説き終えました。ここで順に第八の法を説きましょう。『あるいは沙門、婆羅門、あるいはその他の善い人々が、心に思惟して「どのような法があるのか」と問うならば、それは調伏の法です。これは一切を荘厳する法であり、すべての調伏は毘尼（戒律）と相応しています。沙門や婆羅門、あるいはその他の人々、在家であれ出家であれ、老いも若きも、調伏と相応すれば、この荘厳によって正しく整えられます。もし調伏を離れるならば、野干（やかん：ジャッカル）や烏・鵄・鵰・鷲のようです。では、出家の人はどのように調伏するのでしょうか。出家の人は、まず袈裟によって自らを調伏し、七つのことを行うべきです。その七つとは何でしょうか。第一に、その国の習慣に従って、糞掃衣（ふんぞうえ）を受け、住む国に応じて在家の人々が捨てた衣を用います。もし塚の間に死人に着せられた衣があれば、死体に押さえられているので、それを取ってはなりません。もし塚の間で破れた衣を得たならば、それを受け用いるべきです。これを袈裟の調伏の法といいます。』」

「『復次，第二調伏。若入聚落，觀地而行，前視一尋，念佛影像，一心正念，諸根不亂，數出入息，係心身念。入於聚落，不觀一切所須之具，不觀種種器物，亦不觀他莊嚴幃帳，不與女人言論語說，不抱小兒，不數動足，亦不動臂及其床座，不手摩頭，不數整衣，不抖擻袈裟，不按摩手亦不彈指。是名第二調伏之法。

> 「次に、第二の調伏について説きます。 もし僧が村や町に入る時は、地面をよく見て歩き、前方は約一尋（約1.8メートル）だけを見つめます。心には仏陀の姿を思い浮かべ、心を一つに正しく保ち、感覚の働きを乱さないようにします。何度も息を吸ったり吐いたりを意識し、心を身体の感覚に留め置きます。 村や町の中では、必要品や様々な道具、器物などに目を向けません。また、他の人の華やかな飾りや帳も見ません。女性とむやみに言葉を交わさず、幼い子を抱きません。足を頻繁に動かしたり、腕や座っている席を揺らしたりしません。手で頭を撫でたり、服を何度も整えたり、袈裟をばさばさとはたいたりしません。手をもんだり、指を鳴らしたりもしません。 これが第二の調伏の方法です。」

「『復次，第三調伏。入施主家，於飯食時齊腕澡手。若受食時，不大舒手，當前一肘，不滿口食亦不太少。若於食時，不輕弄、不調戲，謂不知足，失他淨信，令他輕慢，當觀他心。若所揣飯，不大不小，不大張口，不令有聲，不大出氣。所應之食，但食二分，食知止足，不觀他鉢而生貪心。所受飲食，不壞他心，自觀其鉢，不左右顧視。食已離鉢，澡漱清淨，守攝諸根，正心說法，心念審諦，不遲不速、不曲不直，不非時說，不多不少，護施主心，不壞其信。是名第三調伏之法。

> 「次に、第三の調伏についてお話しします。 施主の家に入ったなら、食事の際には手首までしっかりと洗いなさい。食べ物を受け取るときは、手を大きく伸ばさず、肘を前に出して受け取りなさい。口をいっぱいに広げず、また少なすぎることもありません。食事の際には、食べ物をもてあそんだり、ふざけたりしてはいけません。それは満足を知らず、施主の清らかな信頼を失わせ、軽く見られる原因となります。常に相手の心を観察しなさい。 口に入れる食べ物は、大きすぎず小さすぎず、大きく口を開けず、音を立てず、息を荒くしないようにしなさい。食べるべき量のうち、三分の二だけを食べ、満足することを知りなさい。他人の鉢を見て貪りの心を起こしてはいけません。いただく食べ物によって、他人の心を乱さず、自分の鉢だけを見て、あちこちを見回してはいけません。 食事を終えたら鉢を置き、口をすすぎ清め、諸々の感覚をしっかりと守り、正しい心で説法をしなさい。心を込めて丁寧に、遅すぎず早すぎず、曲がらず歪まず、時機を外さず、多すぎず少なすぎず話しなさい。施主の心を大切に守り、その信仰を損なわないようにしなさい。 これが第三の調伏の方法です。」

「『復次，第四調伏。若於食時，若於聚落或於城邑先所見食，不生心念，不數言說，亦不悕望所受敷具，如法受畜，不求上勝。是名第四調伏之法。

> 「さらに、第四の調伏について。食事の時間に、村や町で以前に見た食べ物に対して、心に思いをめぐらせず、しばしば言葉に出して言わず、また望みを抱かないようにします。与えられた寝具・座具についても、正しく受け取り、持つようにして、より上等なものを求めません。これが第四の調伏の法です。」

「『復次，第五調伏。一切所作不倚不著，不惜身命，於所用具不多聚積，不行邊方危怖之處，不異服飾，不樂請喚，不偏樂於一家往返。是名第五調伏之法。

> 第五に、調伏の方法があります。あらゆる行いにおいて執着せず、身にまとうものや命にこだわらず、道具や必需品を多くため込まず、危険な辺境の地には赴かず、衣服を異様に飾らず、招かれて出かけることを好まず、特定の家だけに出入りしません。これを第五の調伏の方法と説きます。

「『復次，第六調伏。不斷草木及掘生地，不著雜色革屣、雜色衣服。若他破戒，不謗不說。心不悕望王者之饍，不親近於憙鬪比丘。是名第六調伏之法。

> 「次に、第六の調伏についてお話しします。 草木を断ち切ったり、地面を掘ったりしてはいけません。色のついた革靴や色のついた衣服を身につけてはいけません。他の人が戒律を破っていても、それを非難したり、取りざたしたりしてはいけません。また、王様からのごちそうを望んだり、争いを好む比丘に近づいたりしてはいけません。これが第六の調伏の方法です。」

「『復次，第七調伏。若有比丘同意同法，應當親近利益，令有常度，欲棄魔境，寂滅調伏，守攝諸根，如此比丘應當親近。若於山窟、若於山㵎、樹下露地，常修行空、無相、無願。是名第七調伏之法。若有比丘能如是行，則能捨離一切諸縛而得解脫。』

> 「次に、第七の調伏について説明します。もし比丘（修行者）の中に、同じ志と教えを共有する者がいたなら、その者と親しく交わり、互いに利益を与え合い、常に節度ある生活を保ち、悪魔の境地を捨て去ろうと願い、静かに心を調え、すべての感覚をしっかりと制御するように努めるべきです。このような比丘こそ、親しく付き合うべきです。 山中の洞窟でも、渓谷でも、木の下や露地でも、常に「空」・「無相」・「無願」の三つの境地を修行しなさい。これを第七の調伏の方法といいます。 もし比丘がこのように修行すれば、すべての束縛を捨て去り、解脱を得ることができるのです。」

「爾時，孔雀王菩薩為諸天眾，以偈頌曰：

> その時、孔雀王菩薩は天の衆に向けて、偈（げ）をもって次のように語りました。

「『調伏法相應，修行智境界，怖畏生死過，則不空出家。學處不毀缺，不念於本樂，常觀於諸陰，應住靜林中。軟語寂滅人，現趣於涅槃，持戒莊嚴身，與出家相應。於自他法中，若能不迷惑，業報非業報，道非道亦然。離於惡業行，苦樂不怖畏，於家得解脫，眾苦不能縛。』

> 調伏の法に相応し、修行は智慧の境、 生死の過ちを畏れれば、出家は空しからず。 学処を毀ち欠くことなく、本来の楽しみに念を置かず、 常に諸の陰（五蘊）を観じて、静かな林の中に住すべし。 柔和な語り手で、寂滅の人、現に涅槃に向かい、 戒を持ちて身を荘厳し、出家の道に相応す。 自他の法において、もし惑うことなく、 業報と非業報、道と非道もまた然り。 悪業の行を離れ、苦楽に怖れることなく、 家より解脱を得て、衆苦に縛られることなし。

「如是孔雀王說於調伏無量功德，令諸天眾皆得信解，一切天眾一心諦聽。爾時，孔雀王菩薩為夜摩天眾、兜率陀天眾說法，心不休息，知諸天眾敬重法故，復說第九無垢淨法。『云何名為無垢淨法？若沙門、婆羅門及餘世間信於業報，信業報故則得大法。若沙門、婆羅門及餘世間信業果報，此人則能知身惡業，於身惡業不習增長，不愛不樂，以其得果在於地獄、餓鬼、畜生惡境界故。如是於口惡業不習增長，不愛不樂，以其當受地獄、餓鬼、畜生惡果報故。如是於意惡業不習增廣，不愛不樂，以其當受地獄、餓鬼、畜生苦故。若沙門、若婆羅門先作惡業，念已生悔，止不更作，親近師長從其聞法，云何得脫惡業果報？如是師長有智調伏，為說因緣，以方便說，令悔所作，過去惡業則為盡滅。以其如是念善業故，不作惡業。觀業因緣從何所起，如是觀之，不作惡業，能令一切不善之業漸得消滅，或令輕薄現在所作身口意惡不善之業，以心輕故，作已速悔，不復更作，如是悔心，若業成就，一切惡業皆悉消滅。若沙門、婆羅門及餘世間如是知業，作是思惟：「我以習惡，當作身口意惡不善之業，報熟之時，墮於地獄、餓鬼、畜生。」彼於未生惡不善業，以正方便，令其不生。沙門、婆羅門若能如是信業果報，設有地獄惡業成就，應久在地獄受大苦惱，或得薄少或皆消滅。復次，勤精進故，若有惡業應墮餓鬼，久在餓鬼飢渴大苦，或少時受或皆消滅。如是沙門、婆羅門及餘眾生若有應墮畜生惡業，久在畜生互相食噉，或少時受或一切滅。唯除作習決定成就隨於何道，若於地獄、餓鬼、畜生境界之中，定受果報。

> このようにして孔雀王は、すべての煩悩を調え鎮める無量の功徳について説き、天界の者たちに信解を得させました。天界の者たちは皆、一心に聴き入りました。 その時、孔雀王菩薩は夜摩天の者たちや兜率陀天の者たちのために、心を休めることなく法を説かれました。天の者たちが法を敬い重んじることを知られたからです。そして、第九の「無垢浄法（くもりなき清らかな教え）」を説かれました。 「では、無垢浄法とは何でしょうか。もし沙門（修行者）や婆羅門（バラモン）、その他世の人々が、業（行い）とその報いを信じるならば、その信じるがゆえに偉大な教えを得ることができます。もし沙門、婆羅門、その他世の人々が業（行い）の報いを信じるならば、その人は自らの身体の悪い行いを知ることができます。身体の悪い行いを習い積み重ねず、それを好み楽しむこともありません。なぜなら、その報いとして地獄・餓鬼・畜生という悪い境涯に落ちるからです。 同様に、言葉の悪い行いについても習い積み重ねず、好み楽しみません。その報いとして地獄・餓鬼・畜生の悪い果報を受けるからです。 心の悪い行いについても、習い積み重ねず、好み楽しみません。その報いとして地獄・餓鬼・畜生の苦しみを受けるからです。 もし沙門や婆羅門が、かつて悪い行いをしたことを思い出し、悔いて再び行わず、師や尊い方に近づいて教えを聞き、『どのようにすれば悪い行いの報いから逃れられるのか』と問うならば、その師は智慧があり、人をうまく導く者です。因縁を説き、適切な方法で教え、悔い改めさせます。そうすれば、過去の悪い行いは全て消え去ります。このように善い行いを思い起こすゆえに、悪い行いをしなくなります。 行いの因縁（原因と条件）がどこから起こるのかを観察し、このように観察すれば、悪い行いをすることなく、あらゆる不善の行いを徐々に消滅させることができます。あるいは、現在行っている身体・言葉・心の悪不善の行いを軽くします。心が軽くなったゆえに、行いを終えるとすぐに悔い、再び行わなくなります。このような悔いの心があれば、もし業が成就しても、全ての悪い行いは消え去ります。 沙門、婆羅門、その他世の人々が、このように業（行い）を知り、次のように考えます。『私は悪い習慣によって、身体・言葉・心の悪不善の行いをしてしまうであろう。その報いが熟する時には、地獄・餓鬼・畜生に堕ちるであろう』と。彼は、まだ生じていない悪不善の行いに対して、正しい方法によって、それを生じさせないようにします。 沙門や婆羅門がこのように業の報いを信じることができるならば、たとえ地獄に落ちる悪い業が成就していて、長く地獄にいて大きな苦しみを受けるべき運命にあっても、それを軽くするか、あるいはすべて消滅させることができます。 また、精進に励むことによって、もし餓鬼に堕ちるべき悪い業があっても、長く餓鬼の世界で飢えと渇きの大きな苦しみを受けるべきところを、短い期間で済ませるか、あるいはすべて消滅させることができます。 このように、沙門、婆羅門、その他の生きとし生けるものも、もし畜生に堕ちるべき悪い業があっても、長く畜生の世界で互いに食い合う苦しみを受けるべきところを、短い期間で済ませるか、あるいはすべて消滅させることができます。 ただし、すでに業として決定し、成就し、どの道（地獄・餓鬼・畜生の境涯）において確実にその報いを受けると定まったものは除きます。」

「『復次，信業果報，思惟難解微細業果。於三種惡業作已懺悔，不復更作。以不定業生畜生中。如是思惟：「若地獄業、若餓鬼業、受畜生身，悔心清淨能破重業。」以心力故，或一切滅或斷少分。若有應受畜生惡業，心悔能滅，自業能滅，不受長命畜生之身，不受大苦，或以勝心能斷惡業。以此因緣，當信業果。若沙門、婆羅門及以餘人信業果報，則能到於生死彼岸。何以故？一切生死五道之中，以善不善業果報故有，是故應信實業果報。一切眾生，一切業果因緣故與。是故，若男若女應勤精進，晝夜思惟，業之果報於生死中第一堅牢。

> 「また、業の因果を信じ、理解し難い微細な業の果報について深く考えるべきである。三種の悪業を行ったならば懺悔し、再び行わないこと。不定の業によって畜生の身に生まれることがある。このように考えるべきである。『もし地獄に堕ちる業、あるいは餓鬼となる業によって畜生の身を受けるとしても、悔いる心が清らかであれば、重い業を滅することができる』と。心の力によって、すべての業が滅するか、あるいはその一部が断たれる。もし畜生の悪業を受けるべきであっても、心から悔いればそれを滅することができ、自らの業によって長く畜生の身を受けず、大きな苦しみを被ることもない。また、勝れた心によって悪業を断ち切ることもできる。このような理由から、業の果報を信じるべきである。もし沙門、婆羅門、あるいはその他の人々が業の果報を信じるならば、生と死の彼岸に達することができる。なぜなら、一切の生死は五道の中にあって、善・不善の業の果報によって存在するからである。ゆえに、確かな業の果報を信じるべきである。一切の衆生は、すべての業の果報が因縁によって与えられるのである。それゆえ、男性も女性も、精進に励み、昼夜にわたり業の果報について考えよ。生死の中にあって、これに勝る確かなものはないのだから。」

「『復次，第十。若沙門、婆羅門及以餘人應當思惟，思何等法？所謂住處所害。若沙門、婆羅門及以餘人，少智慧者，住處所害，其心樂著，情戀不捨，或僧伽藍或僧住處、或在聚落、或住國土或住城邑及以異處，常樂懈怠，樂於非處，不至寂靜阿蘭若處，不行異處，不名在家，不名出家，於非法處乃至命終。如是之人為何因緣而行出家？不至一切所應山林阿蘭若處，乃於非處而盡身命。為修禪故而行出家，不入山林寂靜之處而住非處。若沙門、婆羅門住於非處，為諸施主之所輕毀，不樂親近，不修供養，亦不樂見。若住非處，過失彰顯，為諸凡俗之所輕笑，互共論說言：「某沙門、某婆羅門及以餘人，樂住非處。」不名在家，不名出家，不樂山林阿蘭若處，貯畜財物，樂見俗人，親近在家，猶如奴僕，為諸白衣之所輕賤。是故此人不名在家，不名出家，住非處故。設令無過，為他所謗。無有一人住於非處，不為施主之所輕賤。數見白衣或近在家，雖不輕慢，或生異過。若沙門、婆羅門住非法處，以住非處，得無利益。是故沙門、婆羅門不應住於破壞之處，常樂住處，常樂獨處，樂住樹下、樂住塚間、樂住靜處，以修禪默，或在山谷獨一而行，乃至盡命。應避非處，捨離一切非法之處能得解脫；住非處者，不得解脫。』

> 「さらに、第十に示す。もし沙門（修行者）や婆羅門（聖職者）、あるいはその他の人々が、よく考えるべきことがある。何を考えるべきかというと、いわゆる『住む場所による害』である。もし沙門や婆羅門、あるいはその他の人々で、智慧の乏しい者が、住む場所の害にとらわれ、心がそれに執着し、未練を断ち切れず、僧伽藍（寺院）や僧の住居、あるいは村々、国土、城下町、その他さまざまな場所を好んでしまい、常に怠け心を楽しみ、本来修行すべき場所以外の場所を好み、静寂な阿蘭若（あらにゃ：山林の閑静な修行地）に至らず、他の修行の適地にも赴かず、在家とも言えず、出家とも言えないまま、正しくない場所でついに命を終える。 このような人々は、いったい何の因縁で出家したのだろうか。本来すべての者が赴くべき山中の阿蘭若処に行かず、正しくない場所で身と命を終えてしまう。修行（禅）を修めるために出家したのに、山林の静寂な場所に入らず、適切でない場所に住むのである。もし沙門や婆羅門がこのような正しくない場所に住むならば、施主たちからも軽んじられ、近づかれず、供養もされず、会いたがられもしない。正しくない場所に住めばその過ちは明らかになり、世俗の人々からも笑いものにされ、互いに語り合って『あの沙門、あの婆羅門、あるいはあの他の者は、正しくない場所に住むことを好む』と言われるようになる。 このような者は、在家とも言えず、出家とも言えず、山林の阿蘭若処を好まず、財物をため込み、俗人と会うことを好み、在家に親しみまるで奴僕のようになり、在家の信徒たちから軽んじられてしまう。ゆえにこの人は、在家とも出家とも言えず、正しくない場所に住むからである。たとえ実際に過ちがなくとも、他人から誹謗される。正しくない場所に住んで、施主から軽んじられない者はいない。在家の者と何度も会ったり、近づいたりするならば、たとえ軽んじる心がなくとも、別の過ちを生じることがある。もし沙門や婆羅門が正しくない場所に住むならば、そのために無利益を受ける。ゆえに沙門や婆羅門は、修行を壊すような場所に住むべきではない。常に心から住むべき場所（静かな修行地）を好み、常に独り居ることを好み、樹の下に住むこと、塚間に住むこと、静かな場所に住むことを楽しみ、静かに禅定・黙想を修め、あるいは谷間で独り歩き、命終えるまでそうすべきである。正しくない場所を避け、すべての正しくない場所を捨て離れることで、解脱を得られるのである。正しくない場所に住む者は、解脱を得られない。」

「爾時，孔雀王菩薩而說頌曰：

> その時、孔雀王菩薩は讃歌を唱えられました。

「『比丘住非處，人視如僮僕，輕之如草芥，亦失自利益。比丘住非處，非在家出家，於禪誦法中，其心不憙樂。比丘住非處，貯積稸財物，貪心著財寶，不覺死時至。身命念念盡，而不能覺知，不知所作業，能受未來報。比丘住非處，常樂見俗人，常行於非處，死則入惡道。心無所樂著，一切不悕望，能脫一切貪，是名為沙門。若在山樹下，常修習禪觀，則得清淨智，遠離一切過。遠離一切貪，不為境界惑，則能滅煩惱，如火焚乾薪。獨修行比丘，攝持於五根，如實知身相，則得涅槃道。常念勤精進，遠離一切過，是人到涅槃，如至遊戲處。常求於涅槃，常怖畏生死，如是清淨心，則不樂非處。』

> \`\`\` 「修行者がふさわしくない場所にいれば、 人々は彼を使用人のように見なし、 草やゴミのように軽んじ、 自らの利益をも失ってしまう。 修行者がふさわしくない場所にいれば、 在家(ざいけ)でも出家でもなくなり、 瞑想や経典の読誦(どくじゅ)にも 心から喜びを感じることがない。 修行者がふさわしくない場所にいれば、 財産をため込み、 欲深く財宝に執着し、 死の時が来ることにも気づかない。 命は刻一刻と尽きていくのに、 それに気づくことなく、 自らの行いが未来にどんな報いをもたらすかを 知ろうとしない。 修行者がふさわしくない場所にいれば、 世俗の人々との交わりを楽しみ、 常にふさわしくない行いをし、 死ねば悪い世界に落ちる。 心に執着するところなく、 一切の願望を持たず、 すべての貪りから解脱した者こそ、 真の修行者と呼ばれる。 もし山の樹下(じゅげ)にあって 常に瞑想を修めるならば、 清らかな智慧(ちえ)を得て、 すべての過ちから遠く離れるだろう。 すべての貪りから遠く離れ、 外界の状況に惑わされなければ、 煩悩(ぼんのう)を滅ぼすことができ、 それは乾いた薪(たきぎ)が火に焼かれるようなものだ。 独り修行する比丘は、 五根(ごこん)をよく保ち、 身体の本質をありのままに知って、 涅槃(ねはん)の道を得る。 常に怠らず精進(しょうじん)し、 すべての過ちから遠く離れた人は、 まるで遊び場に行くかのように、 涅槃に到達する。 常に涅槃を求め、 常に生死を恐れ、 このような清らかな心を持つ者は、 ふさわしくない場所を喜ばない。」 \`\`\`

「『比丘如是住於非處，得眾多過，是故比丘應當捨離非法之處。若有比丘住於非處，凡俗無異，若有俗人住於非處，得無量惡，何況沙門，近在家故，則與一切善法相違，是故應當遠離非處。』

> 比丘がこのように不適切な場所に住めば、多くの過ちを得ることになります。それゆえ、比丘は非なる場所（適切でない場所）を捨て去るべきです。もし比丘が不適切な場所に住めば、凡俗の人と何ら変わりがありません。一般の人が不適切な場所に住めば無量の悪を得るのに、ましてや沙門である比丘が在家の人に近づくならば、すべての善法に背くことになります。ですから、不適切な場所から遠く離れるべきなのです。

「時，孔雀王菩薩復為夜摩天眾及兜率天，說迦迦村陀如來第十一法。『如是善法，甚可愛樂，能至涅槃。何等善法？所謂住心。若比丘有住心者，能持善法，人所讚歎。住心之法，離一切惡，無始流轉。心過羅網結使周遍繫縛堅固，非是少時少精進、少定能斷。如是大惡羅網，若有比丘薄少住心，則不能斷心地過網。無有異法能斷生死如住心法。唯修行者有住心法，若不善法起，攝心令伏，不樂惡業，精勤斷除，勇猛精進，斷不善法。若貪欲心起，修不淨觀，是名相應。是惡欲心，不淨能斷，不樂不著。若起瞋恚，攝心修慈。若起癡心，攝心觀於十二因緣。』

> 時、孔雀王菩薩は再び夜摩天（やまてん）の衆（しゅ）と兜率天（とそつてん）のために、迦迦村陀（かかそんだ）如来の第十一の法を説かれました。 「この善い法は、まことに愛しく楽しむべきものであり、涅槃（ねはん）に至ることができます。では、その善い法とは何か。それは、心をとどめること（住心）です。 もし比丘（びく）に心をとどめる力があれば、善い法を保ち、人々から称賛されます。心をとどめるという方法は、すべての悪から離れ、無始（むし）の昔からの輪廻（りんね）を断ち切ります。 心の過ちは羅網（らもう）のようであり、煩悩（ぼんのう）の束縛はあまねく張り巡らされ、しっかりと絡みついています。それゆえ、少しの時間やわずかな精進、わずかな禅定（ぜんじょう）では断ち切ることはできません。 このような大きな悪の網を、もし比丘がほんのわずかしか心をとどめる力を持たなければ、心の地にある過ちの網を断つことはできません。生死（しょうじ）の輪廻を断つには、この心をとどめる法以外に他の方法はありません。 ただ修行する者だけが、この心をとどめる法を持っています。もし不善（ふぜん）の法が起これば、心をとどめてそれを抑え、悪い行いを楽しまず、精進して断ち切り、勇猛（ゆうみょう）に努力して不善の法を断つのです。 もし貪欲（とんよく）の心が起こったなら、心をとどめて不浄観（ふじょうかん）を修めます。これを相応（そうおう）といいます。この悪い欲の心は、不浄観によって断たれ、それに楽（らく）することなく、執着（しゅうじゃく）しなくなります。 もし怒りの心が起こったなら、心をとどめて慈（じ）を修めます。もし無知（むち）の心が起こったなら、心をとどめて十二因縁（じゅうにいんねん）を観じます。」

「爾時，孔雀王菩薩以偈頌曰：

> そこで、孔雀王菩薩は詩句をもって讃えました。

「『若不樂住心，隨樂起諸愛，若為愛所縛，失於二世利。』

> 「もし心に安住することを喜ばず、好き勝手に様々な執着を生み出すならば、その執着に縛られて、この世と来世の両方の利益を失ってしまう。」

「如是孔雀王菩薩為夜摩天、兜率陀天，說不住心無量過惡。爾時，天眾聞二世利，樂聽無厭，作如是言：『孔雀王未曾有也。乃能為我演說深法，初中後善，能至涅槃。於種種生死，能生厭離，第一安隱。唯願為我次第宣說，我等當共一心聽受，自利利他。』

> そのようにして孔雀王菩薩は、夜摩天や兜率陀天のために、「心をとどめないこと」の計り知れない過ちについて説かれました。 その時、天の人々は、この世とあの世の両方に利益がある法を聞いて、飽きることなく喜んで聴き、こう言いました。 「孔雀王よ、まことに未曾有のことです。あなたは私たちに深遠な法を説いてくださいました。その教えは、初めも中も終わりも善く、涅槃へと導くものです。様々な生死の輪廻に対して厭離の心を生じさせ、最も安らかなるものをもたらします。どうか、私たちのために順を追って詳しく説いてください。私たちは皆、心を一つにして聴き受け、自らを利し他をも利したいと願います。」

「時，孔雀王聞是語已，知諸天眾一心樂聞，踊躍歡喜，其心怡悅，第一利他美妙音聲告諸天眾：『若沙門、婆羅門及以餘眾，心念於法，既念法已，勤修怖畏。修何等法？所謂畏惡名稱。若有比丘畏於惡名，則離諸過。所謂不入女人戲笑之處，不入酒肆，不近沽酒，不與共語，不近嗜酒人亦不與語，不近賊人，不近先作大惡之人，不近好鬪人，不近陰惡懷毒人，不近無恒數捨道人，不近博戲人，不近伎樂人，不近小兒，不近繫縛女色人，不近輕躁人，不近不護口人，不近貪人，不近販賣欺誑人，不近巧偽市道世所惡賤人，不近決掘河池人，不近黃門女人同路一步，不近調象人，不近魁膾人，不近調馬人，不近斷見人，不近無戒人。如是惡人，比丘一切不應親近。何以故？近如是人，失比丘法。世間之人作如是念：「如是比丘近如是人，必與同行，與如是人習近共行。」生一切人如是之念。是故比丘當畏惡名，不應與此不淨業人同路行於一足之地。』

> 時に、孔雀王はこの言葉を聞くと、天の衆が一心に聞こうとしていることを知り、喜び踊り、心は楽しみに満ち、最も優れた利他の美しい声で天の衆に告げました。 「もし沙門や婆羅門、その他の人々が、心に法を思い、法を思ったならば、熱心に修行し、恐れを抱くべきです。どのような法を修行するのか。それは悪い評判を恐れることです。もし比丘が悪い評判を恐れるならば、様々な過ちから離れます。すなわち、女の遊び戯れる場所に入らず、酒屋に入らず、酒を売る人に近づかず、言葉を交わさず、酒好きな人にも近づかず、言葉を交わさず、盗賊に近づかず、先に大悪を犯した人に近づかず、争い好きな人に近づかず、陰で悪意を抱く人に近づかず、常なく屡々道を捨てる人に近づかず、博打をする人に近づかず、芸能人に近づかず、子供に近づかず、女色に縛られている人に近づかず、軽率な人に近づかず、口を慎まない人に近づかず、貪欲な人に近づかず、売買で欺く人に近づかず、巧みに偽り、市場で世に嫌われる人に近づかず、池や川を掘る人に近づかず、宦官や女と同じ道を一歩も歩かず、象使いに近づかず、屠殺人に近づかず、馬使いに近づかず、断見の人に近づかず、戒めのない人に近づかないのです。このような悪人には、比丘はすべて親しんではなりません。なぜなら、このような人に近づけば、比丘の法を失うからです。世の人々はこう思うでしょう。『この比丘はこのような人に近づいている。きっと共に行い、このような人と親しく交わり、共に歩んでいるのだ。』と。すべての人がそのように思うのです。それゆえ、比丘は悪い評判を恐れ、このような不浄の業をする人とは、一足の地でも同じ道を歩んではなりません。」

「爾時，孔雀王菩薩以如來偈，而說頌曰上顯文中少第十二摽文，或合或闕本同未詳：

> 「そのとき、孔雀王菩薩は如来の偈（うた）によって、次のような詩を唱えました<note>前述の文章には第十二の標題の部分が少し欠けており、あるいはまとめられているか、欠落しているかは、原典が同じかどうかも詳らかではない</note>：

「『若人近不善，則為不善人，是故應離惡，莫行不善業。隨近何等人，數數相親近，近故同其行，或善或不善。一切人求善，當近於善人，如是能得樂，善則非苦因。近善增功德，近惡增尤苦，功德及惡相，今如是略說。常近於善人，則得善名稱；若近不善人，令人速輕賤。常應親善人，遠離於惡友，以近善人故，能捨諸惡業。』

> もし悪しき者に近づけば、その人もまた悪しき者となる。 ゆえに、悪しき者から離れ、悪しき行いをしてはならない。 どんな人に近づくか、くり返し親しく交わるかによって、 その人の行いも、善にも悪にもなる。 すべての人は善を求めるならば、善き人に近づくべきである。 そうすれば、幸せを得られる。善は苦しみの原因とはならないのだから。 善き人に近づけば功徳が増し、悪しき人に近づけば苦しみが増す。 功徳と悪しき相について、今、このように簡潔に説いた。 常に善き人に近づくならば、善い評判を得られる。 もし悪しき人に近づくならば、たちまち軽んじられ、侮られる。 常に善き人と親しみ、悪しき友から遠ざかるべきである。 善き人に近づくゆえに、あらゆる悪しき業を捨てられるのである。

「時，孔雀王菩薩復為諸天說如是言：『若有比丘有七功德，則離惡名。何等為七？一者離眾人；二者不樂供養之利；三者知足，能令施主得清淨心；四者樂住山谷靜處，攝諸善業；五者離於多語；六者若入聚落，不至酒家；七者不作販賣貿易。比丘若有如是功德正行相應，則無惡名，眾人所敬。是故畏惡名者，為最第一。若有比丘不畏惡名，所得過惡，過於白衣，隨意而作、隨意而說，於所破戒，心無慚愧，是破戒人身壞命終，墮於地獄。畏惡名者，樂空閑處，不樂近於聚落城邑，以知足故，不壞他信，遠離一切憒閙之處，於微小過，心常怖畏。如是怖畏惡名比丘，得世間善。』

> 時に、孔雀王菩薩は再び天人のためにこう説きました。 「もし比丘（修行者）に七つの功徳があれば、悪い評判から遠ざかることができる。その七つとは何か。第一に、人々の集まりから離れること。第二に、供養や利益を喜ばないこと。第三に、足ることを知り、施主に清らかな心をもたらすこと。第四に、山や谷の静かな場所に住むことを好み、様々な善い行いを積むこと。第五に、無駄話をしないこと。第六に、村に入っても酒屋に行かないこと。第七に、売買や商売をしないこと。比丘がこのような功徳と正しい行いを備えていれば、悪い評判は立たず、人々から敬われる。だから、悪い評判を恐れることが最も大切である。 もし比丘が悪い評判を恐れなければ、その犯す過ちは在家の者よりも大きくなる。思うままに行動し、思うままに語り、戒めを破っても恥じることがない。このような戒めを破る者は、命終わった後に地獄に堕ちる。 悪い評判を恐れる比丘は、静かなところを好み、村や町の近くにいることを好まない。足ることを知っているので、他人の信仰を損なわず、あらゆる騒がしい場所を遠ざけ、小さな過ちでも常に恐れる。このように悪い評判を恐れる比丘は、世間における善い行いを得るのである。」

「『復次，第十三法能多利益，何等善法？所謂不樂著法——此法可愛。若有比丘離著清淨，意純無著，樂於閑靜，安住淨命，離於憂惱，第一安隱，攝心一處。若遭苦厄，心不怯怖；若他罵辱，不起瞋恚。逢喜不喜，於畏不畏。不親宗族，自失利益。隨所作事皆悉究竟。於先所作諸惡之業，不生喜樂，不樂觀看遊戲歌舞。從一聚落至一聚落、從城至城、從邑至邑、從家至家，心不樂著睡安覺安。不樂著故，清淨正行，猶如耆老，魔不得便。不著於色聲香味觸，亦不樂著供養之利；得已，捨於不善覺觀，精勤斷除令其不生。若生惡覺，尋即除滅，令不惱心。如是比丘尚能精勤滅不善覺，況復麁過而不斷除。有三種法應當修行，何等為三？所謂已生不善法妨於悲心，為斷除故，勤行精進。未生不善法，為不生故，勤行精進。已生善法，念當精勤修習增廣。若有比丘心不樂著正意清淨，欲求愛盡、欲求厭離、欲求安樂，無得樂著。若有比丘心不樂著，則得第一最勝之樂。』

> 「さらに、第十三の法は大きな利益をもたらします。では、どのような善い法でしょうか。それは『執着を喜ばない法』というものです。この法は実に尊いものです。 もし比丘が、執着から離れ清らかで、心が純粋で執着がなく、静けさを楽しみ、清らかな生活に安住し、憂いや悩みから離れ、この上なく安らかで、心を一つのところに集中させているならば、たとえ苦難に遭っても心は臆せず恐れません。また、他人に罵られても怒りを起こしません。喜びに遭遇しても喜び過ぎず、恐れるべきものに対しても恐れません。一族に親しんで自らの利益を失うようなこともありません。なすべきことはすべて成し遂げます。過去に犯した悪行に対しては喜び楽しむことをせず、遊びや歌舞を見ることも喜びません。一つの村から別の村へ、町から町へ、邑から邑へ、家から家へと渡り歩いても、心は執着せず、眠りも覚醒も安らかです。執着を喜ばないがゆえに、清らかな正しい行いがあり、あたかも徳の高い長老のように、悪魔もつけ入ることができません。色や声、香り、味、触感に執着せず、また供養の利益にも執着しません。それらを得ても、不善の思考（覚観）を捨て、精進して断ち切り、生じさせないようにします。もし悪い思考が生じたら、すぐに消し去り、心を悩ませないようにします。このように比丘は、細かな不善の思考さえも精進して消し去るのですから、ましてや粗い過ちを断ち切らないはずがありません。三つの法を修行すべきです。どのような三つかというと、すでに生じた不善の法で慈悲の心を妨げるものについては、それを断ち切るために精進して修行すること。まだ生じていない不善の法については、生じさせないために精進して修行すること。すでに生じた善の法については、精進して修行し、増大させることを心がけることです。もし比丘が心に執着を喜ばず、正しく清らかな意志を持ち、愛欲の消滅を求め、厭離を求め、安楽を求めるならば、執着してはなりません。比丘が心に執着を喜ばなければ、この上なく優れた最上の安楽を得るのです。」

「爾時，孔雀王菩薩以偈頌曰：

> そこで、孔雀王菩薩は詩句をもって讃えました。

「『常修於禪定，心無所樂著，心常清淨故，意正不錯亂。若人正憶念，諸惡不能染，以能離諸過，是名得安隱。一心正憶念，覺觀莫能亂，以離惡覺觀，是名善安住。若人意寂靜，常樂於涅槃，其人諸根中，遠離諸不善。若有修行者，得禪三昧樂，皆由一心念，修行之所得。若樂獨比丘，樂從內心生，此樂於諸樂，第一無等倫。一心係念者，其心則清淨，得脫諸過網，心意常寂滅。常一心係念，攝持於五根，斯人智慧水，能滅愛毒火。解脫愛縛人，常得清淨樂，現前得勝處，無盡亦無壞。覺觀亂其心，處處受生死，一念緣相應，三昧力能持。是故此勝道，能到涅槃城，以一心念故，能破魔王軍。堅固智光明，繫縛心逸馬，到第一彼岸，無垢清淨處。第一勇健者，修行到彼岸，以一心係念，能至不壞處。』

> 「常に禅定を修め、心に楽しみ慕うことなく、 心が常に清らかなれば、意識は正しく乱れず。 もし人が正しく心を留めれば、諸々の悪は心を染めず、 すべての過ちを離れ得るを、安穏を得ると名づく。 一心に正しく心を留めれば、思慮分別も乱すことなく、 悪しき思慮分別を離れ得るを、よく安住すと名づく。 もし人の意識が静かで、常に涅槃を楽しめば、 その人の諸々の感覚器官は、諸々の不善を遠ざくる。 修行する者ありて、禅定と三昧の楽を得るは、 すべて一心に念ずる、修行の得るところなり。 もし独りを楽しむ比丘、楽は内なる心より生じ、 この楽は諸々の楽のうち、第一にして比類なし。 一心に念をかける者、その心は清らかにして、 諸々の過ちの網を脱れ、意識は常に静寂なり。 常に一心に念をかけ、五根を保ち統べれば、 この人の智慧の水は、愛欲の毒火を消し去る。 愛の束縛を解かれたる人、常に清らかな楽を得て、 目の前に勝れた境地を得、尽きることなく壊るることなし。 思慮分別は心を乱し、ところせましと生死を受け、 一念の縁に相応すれば、三昧の力が保ち持つ。 さればこの勝れた道は、涅槃の城に至ることを得、 一心に念ずるがゆえに、魔王の軍を破ることを得。 堅固なる智慧の光明、心の逸馬をつなぎ、 第一の彼岸に至り、汚れなき清らかなるところへ。 第一の勇猛なる者、修行して彼岸に至り、 一心に念をかけるによりて、壊るることなきところに至る。」

「如是孔雀王菩薩為諸天眾無量說法，利益安樂。復為兜率陀天、夜摩天眾不斷說法，能至涅槃，告諸天眾：『一切善法中第一真法，所謂第十四，獨行比丘，好行善業，行林樹間，善寂滅行。所謂獨行比丘，寂靜調伏，心無所畏，一切處樂。若在山谷、若在山窟、若草𧂐邊，心無偏著，其心正直。獨行比丘有七法利益，何等為七？一者知足，心常歡喜；二者心常清淨；三者世間所敬，諸天所護；四者離惡塵垢；五者善法增長；六者一心正念，淨身口意，解脫現前；七者離於垢法，成就白法。以獨行故，能破無量無始流轉煩惱怨家。獨行比丘一心正行，怖畏煩惱，於微少惡，心生怖畏，常勤精進，威儀寂靜。』

> 「このように、孔雀王菩薩は天の多くの者たちに限りなく法を説き、彼らを利益し安楽にした。また兜率陀天や夜摩天の者たちにも絶え間なく法を説き、彼らを涅槃に至らせた。そして天の者たちに告げた。『すべての善い行いの中で最も真実の法、それが第十四の教えである。一人で修行する比丘は、善い行いを好み、林の中で歩み、よく静まり滅する行いをする。すなわち、一人で修行する比丘は静かに心を調え、恐れるところがなく、全ての場所で安らかである。山の谷にいても、岩窟にいても、草むらのそばにいても、心に偏り執着がなく、その心は真っ直ぐである。一人で修行する比丘には七つの利益がある。何が七つか。第一に、足ることを知り、心は常に喜びに満ちる。第二に、心は常に清らかである。第三に、世の人々から敬われ、天の守護を受ける。第四に、悪や塵垢を離れる。第五に、善い行いが増えていく。第六に、心を一つに正しく保ち、身・口・意を清め、解脱が目前に現れる。第七に、汚れた行いを離れ、清らかな行いを成就する。独りで修行するゆえに、始まりのない輪廻の煩悩という敵を打ち破ることができるのだ。一人で修行する比丘は心を一つに正しく行い、煩悩を怖れ、わずかな悪であっても心に恐れを抱き、常に努め励み、その振る舞いは静かである。』」

「爾時，孔雀王菩薩為利諸天，以偈頌曰：

> その時、孔雀王菩薩は諸天の利益のため、偈を説いて言いました。

「『輕擾堅牢惡，大力難調伏，勇健調伏心，則得第一樂。如是三種過，破壞諸世間，智水能除滅，則得第一樂。若人不愛法，雖人而非人，不住於真道，不至涅槃城。既得此人身，功德所依處，云何不昇栰，度諸有流海？一切眾生命，如電旋火輪，如乾闥婆城，速過不暫停。是身念念壞，常畏於老死，速滅無堅住，如何起身慢？此身為病城，是大憂悲處，善不善之地，是故名為身。若人施戒智，而自莊嚴身，於人中最勝，成就善果報。若人有七真，其人與佛等，施戒智精進、悲忍善調伏。若人於無量，不可數時劫，修六波羅蜜，斯人名為佛。若人捨離欲，三界最第一，以捨諸欲故，常得大安樂。若人貪著欲，眾苦常現前，欲為眾苦因，是故應捨離。』

> 「心は軽く騒ぎ、頑なで悪に傾き、力強くて調伏しがたいものです。 しかし、勇ましく心を調えれば、最高の安らぎを得られます。 この三つの過ちが世の中を乱し、 智慧の水によってそれを除く時、人は第一の安らぎを得るのです。 もし人が真理を愛さなければ、人間の形をしていても人にあらず、 正しい道に留まらず、涅槃の城に至ることはありません。 この人間としての命、功徳のよりどころを得たのに、 なぜ筏に乗って一切の迷いの海を渡ろうとしないのでしょうか。 すべてのいのちは、稲妻や回る火の輪のように儚く、 蜃気楼の城のように、速やかに過ぎ去り、一瞬も止まりません。 この身体は一瞬ごとに壊れ、常に老いと死を恐れており、 すぐに滅びて堅く留まらないのに、どうして身体に慢心を起こせるのでしょう。 この身体は病の城であり、大きな憂い悲しみの宿るところ、 善悪の行いが生まれる場所です。ゆえに「身」と呼ばれます。 もし人が施し、戒め、智慧で自らを飾れば、 人の中で最も優れ、善い果報を成就するでしょう。 もし人が七つの真実を備えていれば、その人は仏と等しいのです。 その七つとは、施し、戒め、智慧、精進、慈しみ、忍耐、善く調えた心です。 もし人が計り知れない時間にわたって、 六つの波羅蜜（布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧）を修行すれば、 その人は仏と呼ばれます。 もし人が欲望を離れれば、三界の中で最も優れ、 あらゆる欲望を捨てたがゆえに、常に大きな安らぎを得ます。 しかし、もし人が欲望に執着すれば、無数の苦しみが常に現れ、 欲望は苦しみの原因です。ゆえに、それを捨て去るべきです。」

「如是孔雀王菩薩為兜率陀天、夜摩天眾，說如是法。爾時，孔雀王復為天眾說第十五利益之法。『若沙門、婆羅門及餘世間，心不散亂，則得利益。若散亂心，善攝心意，令心正住，常樂親近同梵行者，常勤精進以求安隱，離諸惡道。若比丘心不散亂，折伏六根，不著境界，怖畏生死，捨離一切不善之法；捨離一切不善法故，常得安樂。若有比丘於色聲香味觸法中，心不散亂，是名比丘心意正念；心正念故，善法增長。正念之人不樂生死，常勤精進，樂修三昧。以正念故，則能得道；既得道已，勤修眾行。以勤修道，發起眾行，正憶念故，而得道果。心常正念修習道故，斷除眾結，滅於諸使。斷何等結？所謂愛結、恚結、無明結、慢結、姤結、慳結，皆斷此結。滅何等使？所謂欲染使、恚使、有染使、無明使、慢使、見使、疑使，此使皆滅。以此結使大力因緣，流轉諸道，三界所攝。若心不散，一心念於見道修道，皆悉能滅。若沙門、婆羅門、若復餘人，欲得安隱，一切善不善法，心為根本。是故宜應精進修道，怖畏有過，攝心正念，能滅煩惱，無有餘法能滅如是無始流轉煩惱稠林如正念心。』

> 「このようにして、孔雀王菩薩は兜率陀天や夜摩天の天人のために、このような法を説かれました。その時、孔雀王はさらに天人のために、第十五番目の利益となる法を説かれました。 『もしも沙門（修行者）や婆羅門（バラモン）、そして世の人々が、心を散乱させなければ、利益を得ることができます。もし心が散乱しているならば、よく心を摂めて、心を正しく落ち着かせ、常に同じく清らかな行いをする仲間と親しみ、常に努力して安らぎを求め、悪道を離れなさい。 比丘（修行僧）が心を散乱させなければ、六根（六つの感覚器官）を制御し、境界（対象）に執着せず、生と死の苦しみを恐れ、すべての善からざる法を捨て去ります。すべての善からざる法を捨て去るからこそ、常に安楽を得ることができるのです。 もし比丘が、色・声・香・味・触（五つの感覚対象）の中にあっても、心を散乱させなければ、これを比丘の心と意が正しく念じていると言います。心が正しく念じているからこそ、善い法が増大します。正しく念じている人は、生死の世界に執着せず、常に努力し、三昧（深い瞑想）を修行することを喜びます。 正しい念があるからこそ、道を得ることができます。道を得たならば、努力して様々な行いを修行します。努力して道を修行することによって、様々な行いが生じ、正しい記憶と念があるからこそ、道の果報を得ることができるのです。 心が常に正しく念じて道を修習するからこそ、あらゆる束縛を断ち切り、煩悩の使者を滅ぼします。どのような束縛を断つのかと言えば、愛の束縛、怒りの束縛、無知の束縛、慢心の束縛、嫉妬の束縛、物惜しみの束縛、これらすべての束縛を断ち切ります。また、どのような使者を滅ぼすのかと言えば、欲望に染まる使者、怒りの使者、存在に染まる使者、無知の使者、慢心の使者、間違った見解の使者、疑いの使者、これらの使者をすべて滅ぼします。 これらの束縛と使者という強大な因縁によって、人々は様々な生存の道を流転し、三界（欲界・色界・無色界）に捉われています。しかし、もし心が散乱せず、一つの心で見道（真理を見る道）と修道（真理を修める道）を念じるならば、これらすべてを滅ぼすことができます。 沙門、婆羅門、あるいはその他の人々であっても、安らぎを得たいと望むならば、すべての善い法も善からざる法も、心が根本であることを知りなさい。それゆえ、努力して道を修行し、過ちのあることを恐れ、心を摂めて正しく念じるならば、煩悩を滅ぼすことができます。無始の昔から流転してきた煩悩の密林を滅ぼすには、正しい念の心に勝る法は他にありません。』」

「爾時，孔雀王菩薩以一切智偈而說頌曰：

> その時、孔雀王の菩薩は一切智の偈によって、次のように詠った。

「『一心念現前，怖畏於諸惡，能生無漏法，猶如畦種稻。一心念現前，精勤修習道，斷除不善法，如日除闇冥。若一心現前，常正念寂滅，則不畏眾過，如金翅鳥毒。如是散亂心，如風有大力，智者能調伏，猶如調象師。戒三昧智慧，猶如大猛火，與風共和合，焚燒諸惡林。是故應修智，斷除於愚癡，離於老死患，得無上勝處。若能勤攝心，修行於精進，以其攝心故，能斷一切惡。心常緣境界，勇猛能攝持，諸欲不能壞，如毒藥在手。如是勤精進，能調伏其心，三道大愛河，速度勿停住。』

> 「心を一つに集中し、目の前のことに念を留めれば、あらゆる悪を恐れるようになる。 そこから煩わしさのない清らかな智慧が生まれる。それはまるで、畦道で稲を育てるようなものだ。 心を集中して目の前のことに念を留め、熱心に修行の道を実践すれば、 不善な行いを断ち切ることができる。それはまるで太陽が闇を晴らすようなものだ。 もし心を集中し、常に正しい念を持って静けさにとどまれば、 多くの過ちを恐れることはない。それは金翅鳥（こんじちょう）が毒を何とも思わないのと同じだ。 このように、心が散り乱れているのは、強風が吹き荒れるようなもの。 しかし賢い人は、まるで象使いが巨象を調教するように、その心をうまく制御できる。 戒律、心の統一（三昧）、智慧は、まるで大きな猛火のようなものだ。 これに風（努力）が合わされば、あらゆる悪の林を焼き尽くす。 だからこそ、智慧を磨き、愚かさを断ち切るべきである。 そうすれば老いや死の苦しみから離れ、この上ない素晴らしい境地に至ることができる。 もし熱心に心を集中し、努力を続けて修行すれば、 その心をしっかりと保つことで、あらゆる悪を断ち切ることができる。 心を常に一つの対象に向けて、勇猛に保ち続ければ、 様々な欲望に心を乱されることはない。それはまるで猛毒の薬を手にしても平気でいられるようなものだ。 このように熱心に努力し、心を静め、調えるならば、 三つの大きな愛の激流（三界の苦しみ）を、速やかに渡りきることができるのだ。」

「如是孔雀王為利夜摩天眾、兜率天眾，說於善行。時，諸天眾聞是法已，怖畏生死，捨離一切境界之樂。

> かくして孔雀王は、夜摩天の天衆と兜率天の天衆のために、善い行いについて説かれた。その時、天衆たちはこの教えを聞いて、生死の苦しみを恐れ、あらゆる境地の楽しみを捨て去ったのである。

## 正法念處經卷第六十一

> 正法念処経 巻第六十一